黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版コロサイ書

コロサイ書第3章

分類
4 実践の部 3:1 - 4:6
4-1 上にあるものを求めよ 3:1 - 3:4

3章1節 (されば)(なんぢ)()もしキリストと(とも)(よみが)へらせられしならば、(うへ)にあるものを(もと)めよ、キリスト彼處(かしこ)()りて(かみ)(みぎ)()(たま)ふなり。[引照]

口語訳このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
塚本訳だからもし君達が(洗礼によって)キリストと共に(死に、共に)甦ったのであるならば、キリストいまして“神の右に坐し給う”(天)上のものを求めよ。
前田訳それで、あなた方はキリストとともによみがえらされた以上、上のものをお求めなさい。そこにはキリストが神の右におすわりです。
新共同さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
NIVSince, then, you have been raised with Christ, set your hearts on things above, where Christ is seated at the right hand of God.
註解: 「もし・・・・・ならば」の原文は不確実な仮定ではなく、確定せる事実である故「・・・・・せる以上は」と訳すべし。コロ2:20にはキリストと共に死ねる方面のことを示し、本節には彼と共に甦えり、彼と共に生きる方面のことを示す。共にコロ2:12の思想の展開である。その節註参照。すなわちキリスト者は信仰によりバプテスマを受けし時、十字架のキリストと共に死にまた彼の復活と共に新生命に復活したものである。(▲ロマ6:3−14参照。)それ故にその死により肉とこの世とは彼と共に十字架につけられて滅びたのである(ガラ5:24ガラ6:14)。そしてこの新生命は、天につける生命である故、もはや地につけるもの、肉の眼に映ずる正義、聖潔(コロ2:16−23)等を求むべきでなく、「上のもの」すなわち神の国と神の義(マタ6:33)およびこれに伴って与えられる天における報償(マタ5:12等)、天の国籍(ピリ3:20)、天の嗣業(コロ3:24Tペテ1:4)、天の栄光(Tテサ2:12)を求むべきである。そしてキリストはそこに神の右に坐し給う。キリストと共に生きる者は当然彼の居給うところに己もいるべきである。
辞解
[神の右] 神に()ぐ最高の地位。摂政のごとく神の実権を把握す(ロマ8:34マコ14:62ヘブ1:3註参照)。

3章2節 (なんぢ)(うへ)にあるものを(おも)ひ、()()るものを(おも)ふな、[引照]

口語訳あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
塚本訳(常にただ天)上のものを思え。地上のものに気を取られるな。
前田訳地上のものをでなくて上のものをお考えなさい。
新共同上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
NIVSet your minds on things above, not on earthly things.
註解: 上にあるものを「求める」だけでは足らず、さらにこれを「(おも)ふ」 phroneô ことが必要である。「(おも)ふ」とはこれを念頭に置き、その方に心が向けられていることである(ロマ8:5マタ16:23)。この場合天の使いも「地にあるもの」と見るべきである。「上」または「天」といい、「下」または「地」というのは、空間または場所的に見たる区別にあらず、霊的の区別なり、故に我らは「地上」にありて「天上」の生活を送ることができる。キリストと共に甦えれる者はかくして上にあるもののみを求むべきである。コロサイの偽教師らの求むる処のものは、すべて地にあるものである。

3章3節 (なんぢ)らは()にたる(もの)にして、()生命(いのち)はキリストとともに(かみ)(うち)(かく)()ればなり。[引照]

口語訳あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
塚本訳君達は(既にこの世に)死んで、その生命はキリストと共に神の中に隠されているのだから。
前田訳あなた方は死んだもので、あなた方のいのちはキリストとともに神のうちに隠されています。
新共同あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
NIVFor you died, and your life is now hidden with Christ in God.
註解: 我らの旧き生命はすでにキリストと共に十字架に()けられて死んだものである(ガラ2:20Uコリ5:14)。しかし我らはキリストと共に新たなる生命に甦った。ただしこの新生命は未だその本来の姿においては顕われていない(Tヨハ3:2)。今は唯このすでに死にたる者なる旧き肉の体の幕屋に宿っているに過ぎず(Uコリ5:2)、生命の実体はキリストと共に神の中に隠れ、そこに我らの新生命そのものが存在し、神の守護の下に時至るまで保たれているのである。それ故に世は新生につきては何も知らず(ヨハ14:17−19。Tコリ2:8Tコリ2:14)、新生命はまたこの世のことにつき何をも(おも)ってはならない。

3章4節 (われ)らの生命(いのち)なるキリストの(あらは)(たま)ふとき、(なんぢ)らも(これ)とともに榮光(えいくわう)のうちに(あらは)れん。[引照]

口語訳わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。
塚本訳(しかし今でこそ隠されているが、)私達の生命であるキリストが顯れ給う時には、君達もまた彼と共に栄光の裡に顯れるであろう。
前田訳われらのいのちにいますキリストがお現われのときには、あなた方も彼とともに栄光のうちに現われるでしょう。
新共同あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
NIVWhen Christ, who is your life, appears, then you also will appear with him in glory.
註解: 我らの生命がキリストと共に神のうちに隠れているのは、永遠に隠れんがためではなく、キリストの再臨の時(マタ24:3Tテサ2:19Tテサ3:13Uペテ1:16Uペテ3:4Tヨハ2:28)至れば、キリストにありて新たに生れしその新生命がキリストと偕に神の中に隠れていた者もまた、キリストと共に新天新地の栄光の中に現れ、而してキリストの栄光に等しき栄光を持つに至るのである。コロサイの偽教師らも、その奥義は隠されていることを主張しているけれども、その我らの生命たるキリストの奥義に比すべくもない。
要義1 [我らの生命なるキリスト]パウロの信仰においては一方キリストの生命との神秘的一致が強く表われていた。而してこれを(a)我らが天にあるキリストと一体であること(3:3ロマ6:3−5。ガラ2:20エペ2:5)を意味する場合と(b)キリストが地上にある我らの中に宿り給う場合(無数の実例あり)とに分つことができるけれども、パウロに在りてはこの二者は二つにして一つであり、唯その観点を異にしているにすぎなかった。而して他方キリストの再臨を待ち望み、その時に完全にキリストと共になること(Tテサ4:17)を終末的に望んでいた。共に在る者が(神秘的)さらに共ならんと欲すること(終末的)は一見矛盾のごとくであるけれども、本質において同一なる生命が、その現れ方において異なるにすぎない。すなわちキリストにある新生命は、現世においては神秘的一致の生命であり、来るべき世においては顕れ出づべき生命である(ロマ8:17)。
要義2 [上に在るものと地にあるもの]キリスト者は唯上にあるものを求むることによりて、世の小学と虚しき哲学より解放(ときはな)たれ、禁慾主義、厳格主義、潔斎主義、敬虔主義より自由にされる。しかしながらこれがために快楽主義、放縦主義に陥りまたは汚穢と不敬虔に堕落することはない。何となれば彼らは霊をもって肉の念を殺し、人間の自然の慾望をして聖霊の欲する処に(したが)わしめ、また戒律の厳守ではなくキリストの愛の律法を守るようになり、心はキリストによりて潔められ、キリストを通じて神を拝する真の敬虔を得るからである。世の小学はその求むる処を得ずしてかえって反対の結果を生じ、キリストの福音はその棄つる処を失わずして世の小学の求めて到達せざりし処のものを得る。

4-2 新しき人とその諸徳 3:5 - 3:17
4-2-イ 消極的諸徳 3:5 - 3:11  

3章5節 されば()にある肢體(したい)、すなはち淫行(いんかう)汚穢(けがれ)(じゃう)(よく)(あく)(よく)、また慳貪(むさぼり)(ころ)せ、慳貪(むさぼり)偶像(ぐうざう)崇拜(すうはい)なり。[引照]

口語訳だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
塚本訳だから、地上のものである(体の)肢の様々の慾、すなわち淫行、汚穢、情慾、邪慾、また偶像礼拝なる貪慾を(悉く)殺せ。
前田訳それで、地上の肢体、すなわち不身持ち、汚れ、欲情、悪欲、貧欲をお殺しなさい。貧欲は偶像崇拝です。
新共同だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
NIVPut to death, therefore, whatever belongs to your earthly nature: sexual immorality, impurity, lust, evil desires and greed, which is idolatry.
註解: 我らはすでにキリストと共に死んだものであるけれども、回心の後といえども我らの肢体に宿っている肉の力は未だ生きている。これを殺してしまわないならば、我らの新生命は発育することができずにかえって殺されてしまう(ロマ8:13)。パウロは「肉」なる語の中に神の御旨に反する原理を含めていると同様、「肢体」なる語も単に四肢五体を指すのではなく、その中に働く肉の原理、すなわち神に反して働く念を指す。ゆえに肢体を殺すとは手足を切断したり、去勢を行ったりすることではなく、また慾望そのものを殺す禁慾主義でもない。肢体を通じて現われる神に反する働きを殺すことである。それ故にパウロは肢体の同格名詞のごとき関係において淫行以下の諸悪を列挙している。これらの中、最初の三つは性慾に関するものと解する説もあるけれども、淫行以外は性慾に関するもののみならず他のあらゆる汚穢(心の不純さ)および激情(忿怒、嫉妬のごとき)をも含むと解す。慳貪(むさぼり)のみを他の四者と対立せしめているのは、淫行、汚穢のごとき性的不道徳と並立して人間の心の最も普遍的なる慾望は慳貪(むさぼり)であるからである。淫慾と貪慾とはある意味において人間の凡ての悪の根源であるとも言い得るのである。殊に慳貪(むさぼり)は神に依り頼まずして金銭や物質に依り頼む心であるから、神を神とせず金銀を神とする偶像崇拝である。
辞解
「淫行、汚穢、情慾」等の文字につきてはマコ7:21、22。ロマ1:24ロマ1:26、27。Tコリ6:9、10、Tコリ6:18参照。

3章6節 (かみ)(いかり)は、これらの(こと)によりて[()從順(じゅうじゅん)()らに](きた)るなり。[引照]

口語訳これらのことのために、神の怒りが下るのである。
塚本訳神の怒りはこれらのことのために臨むのである。
前田訳これらのために神の怒りが臨むのです。
新共同これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。
NIVBecause of these, the wrath of God is coming.
註解: 「不従順の子らに」はエペ5:6よりの混入として良き写本に基き除かるべきことを主張する学者が多い。5節のごとき悪徳の上には最後の審判の日において神の怒りが必ず来るのである。キリスト者たると然らざるとにおいて異なる処がない。否キリスト者において神の怒りは一層激しい。

3章7節 (なんぢ)らもかかる(ひと)(なか)()(おく)りし(とき)は、これらの()しき(こと)(あゆ)めり。[引照]

口語訳あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。
塚本訳君達もかつて(他の異教人と同様)これらの(罪の)中に生きていた時には、その中を歩いたのであった。
前田訳かつてあなた方がこれらのうちに生活なさったときは、これらを行なってお歩みでした。
新共同あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。
NIVYou used to walk in these ways, in the life you once lived.
註解: この訳は前節に「不従順の子ら」を挿入せる場合の訳である。然らざる場合は「汝らもかつてこれらの〔諸悪の〕中に生きし時は、その〔諸悪の〕中に歩みしなり」と訳す。悪の中に生きるとはそれを生活の原理とすること、悪の中に歩むとはその原理に従って行動すること(ガラ5:25)を意味す。
辞解
[日を送る] 原語「生きる」
「かかる人」も「悪しき事」も何れも代名詞で男性とも中性とも取り得る形故、自然問題を生ず。なお「不従順の子らに」を挿入する場合は現行訳のごとくに訳することが最も良く意味が通ずるけれども、文法的にやや困難なる点があるために多くの学者は、「汝らもこれらの悪しきことの中に生きる時はこれらの人々の中に歩めり(すなわちこれと行動を共にせりの意)」(M0)と訳す。ただし「人々の中に歩む」なる用例は聖書になし。

3章8節 されど(いま)は((なんじ)らも(また))(すべ)(これ)()のこと[(およ)び](いかり)憤恚(いきどほり)惡意(あくい)[を()て]、(そしり)[と]()づべき(ことば)[と]を(なんぢ)らの(くち)より()てよ。[引照]

口語訳しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。
塚本訳しかし今や君達もまた(キリストと共に死にまた甦ったのであるから、)凡てのものを棄てよ──(いま言った様々の慾はもちろん、なお)怒り、憤怒、悪意を、また君達の口から誹謗と悪口を!
前田訳しかし今は怒りも憤りも悪意も、あなた方の口から出るそしりも毒舌も、すべてお捨てなさい。
新共同今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
NIVBut now you must rid yourselves of all such things as these: anger, rage, malice, slander, and filthy language from your lips.
註解: 「凡て此等のこと及び」は原語「及び」を欠く。パウロはかく言いて5節の諸悪を脳中に描いたのであったと思われるのであるが、なおそれらのみにては足らないことを感じて、「怒云々」を附加したのであろう。今はキリスト者となりてこの世に対して死ねる以上、これらの諸悪を棄ててしまわなければならない。
辞解
「怒、憤恚(いきどおり)、惡意、(そしり)」等の語の意義および差別につきてはエペ4:31辞解参照。
[恥づべき言] 主として猥褻なる談義につき用いられているけれども、ここではそれに限らず広義に解すべきである。無礼な言、軽薄な言、乱暴な言等も含むと見て差支えない。

3章9節 (たがひ)虚言(いつはり)をいふな、(なんぢ)らは(すで)(ふる)(ひと)とその行爲(おこなひ)とを()ぎて、[引照]

口語訳互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
塚本訳互いに嘘をつくな。行為もろとも旧い人間を脱ぎ棄て、
前田訳互いに偽らないでください。あなた方は古い人をその行ないとともに脱ぎ捨て、
新共同互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
NIVDo not lie to each other, since you have taken off your old self with its practices

3章10節 (あたら)しき(ひと)()たればなり。[引照]

口語訳造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
塚本訳新しい人間を着よ。この新しい人間はいよいよ新しくされて、彼を創造り給うた御方の“像に肖って”(遂に完全なる)知識に達するのである。
前田訳新しい人を着たのです。この人はその造り主にかたどって彼を知るようにと、つねに新しくされています。
新共同造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
NIVand have put on the new self, which is being renewed in knowledge in the image of its Creator.
註解: (▲「新しき人を着たればなり」であって、「着ん為なり」でないことに注意すべし。ここに道徳と福音の差別がある。)前節までの諸悪にさらに虚言を加えている。「旧き人」は回心してキリストを信ずるに至る前の人で、その人の中に、またその行為の中に多くの虚偽が有った。旧き人は神を知らず、従って人を欺くことができても神を欺くことができないことを知らない。それ故に彼らは常に互に虚言を言う。キリスト者はこの旧き人を旧き衣のごとくに脱ぎ棄て、そしてキリストを着た者である故(ロマ13:14エペ4:24)、当然新しき人のごとくに歩み、虚言を避くべきである。
辞解
[脱ぎて・・・・・著たればなり] 「脱げ而して・・・・・を著よ」と訳すべしとする節あり(L3)、1節および5節の関係より見てこの説を採らない。
[新しき人] この場合 neos を用いている。性質の新しきよりむしろ年代の新しさを示す。新鮮溌剌たる人のこと、ただし性質の新しさは次に来る「いよいよ新たになり」によりて補足されている。

[この(あたら)しき(ひと)は、]これを(つく)(たま)ひしものの(かたち)(したが)ひ、いよいよ(あらた)になりて知識(ちしき)(いた)るなり。

註解: 新しき人の性質を説明する同格句である。すなわちこの新しき人はその性質も従来存在しなかった新しきものに新たにせられて発育して行く処の人であって決して固定せる死物ではない。そしてその発育更新の原則は益々神の像に似て来ることであり、その目的は「知識に至る」ことである。すなわち上に在るもの、神の御意に関する知識である。
辞解
[これを造り給ひしもの] 「キリスト」と解する説あれども神を見るを可とす。ただしキリストも神の像でるある故結局キリスト者はキリストの像に似るものなること勿論である。
[いよいよ新になる] anakainoômai日々新たになることを意味す。Uコリ4:16

3章11節 かくてギリシヤ(びと)とユダヤ(びと)割禮(かつれい)()割禮(かつれい)、あるひは夷狄(えびす)、スクテヤ(びと)奴隷(どれい)自主(じしゅ)(わかれ)ある(こと)なし、[引照]

口語訳そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。
塚本訳そして其処──(この新しい人間の住む世界)──には(最早)ギリシヤ人とユダヤ人、割礼(の者)と無割礼(の者、また)野蛮人、スキテン人、奴隷、自由人(の別)がなく、ただ凡てがキリスト、凡てにキリストである。
前田訳そこにはギリシア人もユダヤ人もなく、割礼も無割礼も、異人もスキュテア人も、奴隷も自由人もなく、キリストがすべてであり、すべてのうちにいますのです。
新共同そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
NIVHere there is no Greek or Jew, circumcised or uncircumcised, barbarian, Scythian, slave or free, but Christ is all, and is in all.
註解: いやしくもキリストに在りて新たにせられし者は、旧き人と全く異なっており、何れもみなキリストに似たものとなっている以上、ギリシャ人とユダヤ人のごとき人種的差別、割礼と無割礼のごとき宗教的区別、またギリシャ人ユダヤ人のごとき文明人と夷狄(えびす)、スクテヤ人のごとき野蛮人との区別、主人と奴隷のごとき身分の差別等は、新しき人たる点においては全く存在しない。
辞解
[夷狄(えびす)] ロマ1:14辞解参照。ギリシャ、ローマ人より見ればユダヤ人も夷狄(えびす)の中に数えられていた。
[スクテヤ人] 北方の獰猛(どうもう)な野蛮人、パレスチナに侵入したこともある。

それキリストは(よろづ)(もの)なり、(よろづ)のものの(うち)にあり。

註解: パウロの平等観の基礎をなしている思想である。キリストが萬物でありまた萬物の中にある以上、すべての人々の中にもキリスト在し給う、その結果、人間的に見たる諸種の差別は消滅する。勿論彼を信じない人々の中にキリストがあるというのではないが、パウロはここにキリスト絶対観を吐露して、パウロの祈念するごときキリストの支配し給う神の国がやがて実現する(あかつき)を想像したのである。キリストに叛ける人々および萬物は、この場合のパウロの眼中には無かった。

4-2-ロ 積極的諸徳 3:12 - 3:17  

註解: 5−11節は主として旧き人を脱ぎ棄てる意味においてキリスト者道徳の消極的方面を示し、12−17節は反対に新しき人としてのその積極的方面を示す。

3章12節 この(ゆゑ)(なんぢ)らは(かみ)選民(せんみん)にして(せい)なる(もの)また(あい)される(もの)なれば、慈悲(じひ)(こころ)仁慈(なさけ)謙遜(けんそん)柔和(にうわ)寛容(くわんよう)()よ。[引照]

口語訳だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。
塚本訳(斯く君達は新しい人間に創造られたの)だから、神に選ばれた者、聖い者、また(神に)愛される者として、心からなる同情、親切、謙遜、柔和、寛容を着よ。
前田訳それで、神に選ばれ、愛される聖徒らしく装いなさい。あわれみの心、親切、謙遜、柔和、寛容がそれです。
新共同あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
NIVTherefore, as God's chosen people, holy and dearly loved, clothe yourselves with compassion, kindness, humility, gentleness and patience.
註解: 「この故に」は、キリストが萬の物にして萬の物の中にあり、我らの生命の完全充足であることの原理を知った以上はの意。我らこのキリストに属することにより新しき人たることの自覚がいよいよ明瞭となる。そしてこの新しき人たるキリスト者は神が特に世の創めの前より選び給える者であり、またこれを潔めて聖別し、特にこれを愛し給う処の者である。かかる者であることの自覚だけでも、キリスト者をして他人に対して慈悲、仁慈(なさけ)、その他の諸徳を持たせるに充分であるのに殊にこれを着よと命ずることによりて、パウロは彼らをして自己の新生命に相応しき生活をさせようすると同時に、彼らの信仰の真偽を反省させているのである。
辞解
[慈悲の心] splanchna oiktirmou なさけ深きこと(ピリ1:8)。
[仁慈(なさけ)] chrêstotês は親切さ。キリスト者は苦しむ者、悩む者、弱き者、圧迫される者、(ひく)き者に対してこの心を持つべきである。
[謙遜] 自ら高しとする者は神の前に(ひく)しとされる。
[柔和] 乱暴粗野無恥厚顔の反対で、殊に弱き人々に対する場合に必要なる徳である。
[寛容] makrothumia コロ1:11辞解参照。
[耐え] makrothumeô 自己に敵対しまたは害を加えまたは侮辱する者に対して寛容大度を示すこと。

3章13節 また(たがひ)(しの)びあひ、()(ひと)()むべき(こと)あらば(たがひ)(ゆる)せ、(しゅ)(なんぢ)らを(ゆる)(たま)へる(ごと)(なんぢ)らも(しか)すべし。[引照]

口語訳互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。
塚本訳互いに我慢して、たとい誰かに対して不平があっても、互いに赦し合え。主が君達を赦し給うたように、君達も赦せ。
前田訳互いに忍び、だれかに苦情があればゆるしあいなさい。主があなた方をおゆるしのようにあなた方もそうなさい。
新共同互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
NIVBear with each other and forgive whatever grievances you may have against one another. Forgive as the Lord forgave you.
註解: 前節の柔和と寛容とをさらに強めたものは忍耐と宥恕(ゆうじょ)とである。「互に忍び合ふ」ことはキリスト者の共同生活の要諦である。同様に互に(ゆる)し合うこともまた必要である。キリスト者の生活といえども、そのまま神の国の生活ではない。肉に伴える多くの欠点を具備している。それ故に互に忍び合い(ゆる)し合うことが必要である。かくして始めてそこに不完全さを(おお)うて余りある美しき社会を造り出すことができる。そしてこの徳を実行することはなかなか容易なことではないが、キリストが我らのごときものをも(ゆる)し給えることを思うならば、如何なる場合でも(ゆる)し得ないことはないはずである(エペ4:32)。
辞解
「互に忍び」の「互に」と「互いに(ゆる)せ」の「互に」とは異なる語で前者は「互に忍べ」後者は「みなで(ゆる)し合え」という意味。
[忍ぶ] anechomaiは相手に対して確固不動の態勢を取ること、如何なることがあってもそのために自己の態度を乱さぬこと、コロ1:11の辞解 hupomenô 参照。
[(ゆる)す] charizomai なさけ深き態度を取ること。
[責むべき事] 文句を言うべき事の意、コロ1:22の「責むべき所なく」とは別の語。

3章14節 (すべ)(これ)()のものの(うへ)(あい)を[(くは)へよ、](あい)(とく)(まった)うする(おび)なり。[引照]

口語訳これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。
塚本訳しかしこれら一切のものに愛を加えよ。愛は(凡ての徳をしめくくり、これを)完成する帯である。
前田訳これらすべてに愛を加えてください。愛はすべてを結んで全うするものです。
新共同これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
NIVAnd over all these virtues put on love, which binds them all together in perfect unity.
註解: パウロは12、13節に七つの徳を掲げ、これを衣服のごとく着るべきことを命じたのであるが、本節においてさらにその上に愛を帯のごとくに締めることを命じている。「愛は完全の帯なり」(私訳)とは完全を来たらしむる帯であるとの意味であって、愛なくば以上の諸徳も不完全であり、愛によりて結合されなければ以上の諸徳も一体としての存在とならないことを示す。すなわち慈悲の心、仁慈(なさけ)、謙遜、柔和、寛容、忍耐、宥恕(ゆうじょ)など凡て唯一つの愛の動機より行わるべきであって、愛なしにはこれらは一つ一つ独立の徳目となり、これを実行する場合に自然愛なき形式的道徳と化してしまい、また相互に連絡なく一つの精神によりて支配されないこととなる。然るに愛をもってその共通の動機となし、愛をもってこれを一つに結合する場合には、これらの諸徳がここに一つの完全なる一体となるのである。
辞解
本節は文法上種々に訳される可能性あり、「加へよ」は原文になし、12節の「()よ」を略したものと解すべきである。
[完全の帯(私訳)] (1)完全を来たらしむる帯、(2)完全なる帯、(3)完全を一つにまとめる帯、(4)完全が結ぶ帯、(5)帯すなわち完全さ、(6)完全の総計等種々に訳される。現行訳は(1)による。
[徳を全うする] teleiotês は「完全」を意味する。以上をもってパウロが掲げし衣服の喩えは終りとなる。

3章15節 キリストの平和(へいわ)をして(なんぢ)らの(こころ)(つかさ)どらしめよ、(なんぢ)らの()されて一體(いったい)となりたるはこれが(ため)なり、[引照]

口語訳キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。
塚本訳またキリストの平和に君達の心を心配せよ。君達もまた一体としてこの平和に召されたのである(から)。また(神に対し)感謝深くあれ。
前田訳キリストの平和があなた方の心を支配しますように。このためにあなた方はひとつ体として召されたのです。そして感謝するものにおなりなさい。
新共同また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
NIVLet the peace of Christ rule in your hearts, since as members of one body you were called to peace. And be thankful.
註解: 本節は幾分12−14節の思想を受継いでいるものと解すべきであって(L3)、愛をもって互に忍び合い、(ゆる)し合い、柔和、寛容その他の諸徳を全うするためには先ず第一に自己の心がキリストによりて与えられる平和(平安)によりて支配されなければならない。キリストが我らの罪を赦し給うたために我らの心に平和が臨んだのであった。この心が我らの行動を指揮監督する場合、我らの間に不平不満があってもそれが争い事となることがなく、凡てが円満に解決される。キリスト者は神に召された者であり、キリストを首とせる体であって、一体の関係にあるのはかかる平和を実現せんがためであった。
辞解
[キリストの平和] 「キリストの賜う平和」の意味(ヨハ14:27)。
[(つかさ)どる] brabeuô は競技等において指揮監督することより転じて一般的の意味にも用う。brabeus は競技の審判官で賞品(brabeion Tコリ9:24ピリ3:14)を授与する役目を有す。本節の場合当事者間の争いを背景としているのでこの語が特に適切である。

(なんぢ)感謝(かんしゃ)(こころ)(いだ)け。

註解: 感謝深き者となれとの意味で、キリストの平和が心に宿る時、また同時に彼より来る恩恵に対し感謝の心に満されるに至ることが当然である。

3章16節 キリストの(ことば)をして(ゆたか)(なんぢ)らの(うち)()ましめ、(すべ)ての知慧(ちゑ)によりて、()讃美(さんび)(れい)(うた)とをもて、(たがひ)(をし)(たがひ)訓戒(くんかい)し、恩惠(めぐみ)(かん)じて(こころ)のうちに(かみ)讃美(さんび)せよ。[引照]

口語訳キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
塚本訳キリストの言をして豊かに君達の間に住ませよ。あらゆる知恵をもって互いに教えまた諭せ。感謝の心に溢れて、聖歌と讃美歌と霊の歌を神にうたえ。
前田訳キリストのことばがあなた方のうちに豊かに宿りますように。知恵をつくして互いに教えいましめてください。詩と讃美と霊の歌で感謝のうちに心から神をおたたえなさい。
新共同キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
NIVLet the word of Christ dwell in you richly as you teach and admonish one another with all wisdom, and as you sing psalms, hymns and spiritual songs with gratitude in your hearts to God.
註解: 感謝の次に来るものは讃美であるが、パウロは先ず内容の空虚なる讃美の無意味なることをさとらしめんがために、コロサイの信徒の(うち)にキリストの言が豊かに宿り、それが讃美の言となることの必要を示している。神の言を有たない教会は如何に多くの讃美歌が(うた)われてもそれは空なる音に過ぎない。そしてパウロは凡ての智慧により詩と讃美と霊の歌とをもって、互に教え、かつ訓戒し合うべしというのである。すなわちこれらの歌は、単に音楽的の美しさを享楽せんがためではなく、信仰上の教訓たらしめんがために用いられなければならない。それ故に殊に必要なことは、神の恩恵に感じて心の中に神を讃美することであって、心中に讃美の心なしに如何に多くの讃美歌を(うた)っても、それは無意味である。パウロはここに讃美歌の最も根本的意義を示しているということができる。なおエペ5:19参照。
辞解
[キリストの言] この表顕は他になし、「神の言」という場合多し。キリストの語り給える言に限らず、一般に福音の言を指すと見て可なり(M0)。
[汝らの(うち)] (1)心の中(L3、B1)(2)教会の中(M0、Z0)等と解せらる。(1)を可とす。
[凡ての智慧によりて] 前文と関連せしむる説あり(L3)現行訳を採る。
[詩、讃美、霊の歌] これらの区別につきては、エペ5:19辞解を見よ。
「恩恵に感じて」を前文に関連せしむる説あり(L3)また「感謝して」と読む説あり(M0)。現行訳を採る。当時のユダヤ教の集会においては讃美歌は多く用いられた。その習慣がキリスト教会に伝わったのである。パウロはこの習慣をも利用しつつこれを教会の教訓に役立てんとしたのであった。

3章17節 また()(ところ)(すべ)ての(こと)、あるひは(ことば)あるひは行爲(おこなひ)、みな(しゅ)イエスの()()りて()し、(かれ)によりて(ちち)なる(かみ)感謝(かんしゃ)せよ。[引照]

口語訳そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。
塚本訳凡て言うこと為ることは、皆主イエスの名において為よ。彼によって父なる神に感謝せよ。
前田訳ことばにせよ行ないにせよ、あなた方のなさることはすべて主イエスの名によってし、彼によって父なる神に感謝なさい。
新共同そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
NIVAnd whatever you do, whether in word or deed, do it all in the name of the Lord Jesus, giving thanks to God the Father through him.
註解: 教訓と讃美に次いで最も重大なること、すなわち行為に関する注意を与えている。すなわちキリスト者の言行はキリストの名に()りて為さなければならない。「名に()りて」または「名において」とは祈祷の終結の場合などにほとんど習慣的に用いられるに至っているけれども、これを形式化することは大なる堕落である。キリストの名において行うとは、自己をイエス・キリストの前に置きて、彼に対して責任を負うて行動することである。キリストとの霊的一致の生命に生きるものは当然かく有るべきである。そしてまたキリストの名により(名を通して)すなわち彼を神との間の仲保として神に感謝をささげなければならぬ。
要義1 [キリストにある新人の生活]第三章においてはキリストに在る新生命に甦りし者の道徳的生活の様相を概論的(1−4節)消極的(5−11節)および積極的(12−17節)方面より論じている。これによりて明らかなるごとく、キリスト者には旧き人すなわち世の人の生活と全然異なる世界があることを知らなければならない。旧き人は自己が主であるのに大し、新しき人はキリストがその主となり、旧き人は自己の情慾に支配されるに対して新しき人はキリストにある愛を基とし、キリストによりて支配せられ、旧き人は多くの罪によりて暗黒と滅亡と悲哀の中に没して行くのに対し、新しき人は感謝と歓喜とをもって神を讃美しつついよいよ新たになって行くのである。「外なる人は壊るれども内なる人は日々に新たなり」(Uコリ4:16)。かかるものたらしめられしことに対して我らは深き感謝をささげなければならぬ。
要義2 [新生命とその戦]すでにキリストと共に死に、旧き人とその行為とを脱ぎて新しき人を着たる者(9、10節)に対し、パウロは「淫行、汚穢、情慾・・・・・を殺せ」と言い、またすでにキリストと共に新生命に甦えれる者に対し、「慈悲の心、仁慈(なさけ)、謙遜・・・・・を着よ」云々ということは、一見無用の注意のごとくであるけれども実は然らず、この旧生命はすでに死んだけれども、その生命の下に支配せられこれに(したが)っていた肉とその肢体はなおその余力を存しており、新生命は今まさにこの肉の中に宿ったのである。それ故にこの新生命はこれらの旧き肉の力を征服してしまわなければならず、そこに新生命の戦いがある。あたかも占領せられし区域内においても匪賊(ひぞく)の討伐が必要であるのと同様である。そしてこの戦闘は、キリストに在りて為されなければならぬ。かくしてついに完全なる勝利に帰するのである。新生命を獲得したる上は最早この戦いの必要なしと思うのは誤りであり、また新生命はこの戦いに勝つことによりて始めて得られると思うのも誤りである。

4-3 家庭の諸関係 3:18 - 4:1

註解: 18−4:1は家族関係におけるキリスト者としての態度を教えている。この点につきてはエペ5:22−6:9。Tペテ2:18−3:7。テト2:1−10参照。

3章18節 (つま)たる(もの)よ、その(をっと)(したが)へ、これ(しゅ)にある(もの)のなすべき(こと)なり。[引照]

口語訳妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。
塚本訳妻達よ、主にある者らしく夫に従え。
前田訳妻たちよ、夫に従いなさい。それは主にあってふさわしいことです。
新共同妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。
NIVWives, submit to your husbands, as is fitting in the Lord.
註解: (▲「(したが)へ」の口語訳「仕えなさい」についてはエペ5:22脚注参照)エペ5:22参照。何故にパウロは獄中書簡に特に家族関係の道徳を教えているかにつき確定的の理由は発見されないけれども、おそらく2節に示されるごとき平等観が、この世における社会関係、家族関係の秩序をも無視すべきもののごとくに誤解され、従来の家族関係、社会関係が破壊される憂いが有ったからであろう。常に第一に服従すべき者を訓戒しているのも、この秩序の維持を主としたからであろう。夫婦の間は第一に妻の従順であることが主に在る者に最も相応しき状態である。神によりて新生せる新しき人として神の前に立つ場合に、男女、夫婦の間に価値の差別は存しないけれども、地上において家族生活を送る場合においてそこに差別が生ずる。
辞解
[主にある者の] 原語「主にありて」で「(したが)へ」に懸けることも可能であるが、20節と比較して現行訳のように訳すべきであろう(M0、L3、B1その他)。

3章19節 (をっと)たる(もの)よ、その(つま)(あい)せよ、(にがき)をもて(これ)(あしら)ふな。[引照]

口語訳夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない。
塚本訳夫達よ、妻を愛し、辛くあたるな。
前田訳夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たらないでください。
新共同夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。
NIVHusbands, love your wives and do not be harsh with them.
註解: エペ5:25以下にこの関係をキリストと教会との関係に当てはめて美しく録している故参照すべし。妻は夫の愛をその生命とする。かつ夫より外に頼るべきものなき故「苦きをもて」意地悪く残酷にこれを扱ってはならぬ。

3章20節 ()たる(もの)よ、(すべ)ての(こと)みな兩親(ふたおや)(したが)へ、これ(しゅ)(よろこ)びたまふ(ところ)なり。[引照]

口語訳子たる者よ、何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。
塚本訳子達よ、何事によらず親の言うことを聴け。これは主において喜ばれることであるから。
前田訳子たちよ、何につけても両親に従いなさい。それは主によろこばれることです。
新共同子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。
NIVChildren, obey your parents in everything, for this pleases the Lord.
註解: エペ6:1−3註参照。「凡ての事みな」といいて絶対的服従を命じている所以は、この服従の態度そのものが子たる者の両親に対する本来の関係だからである。両親に対する従順は神の目に最も喜ばしき態度である。神の喜び給うことを為すより以上の善はない。従って主の喜び給わざることは、両親の命令でもこれに(したが)うことができない。
辞解
多くの信頼すべき写本は「主の喜びたまふ所なり」の代わりに「主にある者に喜ばれる所なり」とあり、信者の眼に美しく見えることを示す。多くの学者はこの読み方による。なお妻の場合の「(したが)ふ」と子の場合の「(したが)ふ」とは異なる文字を用う。エペ6:1辞解参照。

3章21節 (ちち)たる(もの)よ、(なんぢ)らの子供(こども)(いか)らすな、(あるひ)落膽(きおち)することあらん。[引照]

口語訳父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。
塚本訳父達よ、子を怒らせて、いじけさせるな。
前田訳父たちよ、子どもをいらだてないでください。彼らがいじけないためです。
新共同父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。
NIVFathers, do not embitter your children, or they will become discouraged.
註解: エペ6:4参照。愛なき叱責、過度の要求、青年の心理を理解せざる厳格さは子供をいら立たせる。その結果悲観的になり憂鬱となる。
辞解
エペ6:4の「怒らすな」と本節のとは原語を異にす、前者は怒りの心を起させること、後者はいら立たしき心を起させること。

3章22節 (しもべ)たる(もの)よ、(すべ)ての(こと)みな(にく)につける主人(あるじ)にしたがへ、(ひと)(よろこ)ばする(もの)(ごと)く、ただ()(まへ)(こと)のみを(つと)めず、(しゅ)(おそ)れ、眞心(まごころ)をもて(したが)へ。[引照]

口語訳僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。
塚本訳奴隷達よ、何事によらずこの世の主人の言うことを聴け。御機嫌取りのように(主人の)眼の前だけでなく、主を畏れて真心で為よ。
前田訳僕たちよ、この世での主人に何につけても従ってください。人の気に入るようにと、うわべの奉仕をせず、主をおそれて、ひたすらな心でなさい。
新共同奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。
NIVSlaves, obey your earthly masters in everything; and do it, not only when their eye is on you and to win their favor, but with sincerity of heart and reverence for the Lord.
註解: (▲「したがへ」は hupakouô、「聞いて従う」こと。)エペ6:5、6とやや前後せる部分があるだけで、一字一句ほとんど同一なり。詳細の註はその部分を参照すべし。キリストを主と仰ぐことが、肉につける主人を無視することであると思うのは誤りである。主イエスに仕うるごとき態度をもって主人に仕うべきである。単に主人の眼前においてのみ主人の卑しき要求を充たしてこれを喜ばすごときは主イエスに仕うる所以ではない。

3章23節 (なんぢ)何事(なにごと)をなすにも(ひと)(つか)ふる(ごと)くせず、(しゅ)(つか)ふる(ごと)(こころ)より(おこな)へ。[引照]

口語訳何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。
塚本訳何をするにも心から(これを)行え、人間でなく主を相手にして。
前田訳あなた方のすることは、人にでなく主にするように魂を打ち込んでなさい。
新共同何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
NIVWhatever you do, work at it with all your heart, as working for the Lord, not for men,

3章24節 (なんぢ)らは(しゅ)より(むくい)として嗣業(しげふ)()くることを()ればなり。(なんぢ)らは(しゅ)キリストに(つか)ふる(もの)なり。[引照]

口語訳あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。
塚本訳その報いとして主から「相続分」を戴くことを知っているではないか。君達は主キリストに仕えているのである。
前田訳ご存じのとおり主から世継ぎという報いをお受けになるでしょう。あなた方は主キリストに仕えておいでです。
新共同あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
NIVsince you know that you will receive an inheritance from the Lord as a reward. It is the Lord Christ you are serving.
註解: エペ6:7、8および註参照。僕はその主人を主イエス・キリストと思って(つか)うべきである。肉の主人に(つか)うる道としてこれにまされる道はない。そして嗣業は子の受くべきものであって、僕の受くべきものではないけれども、僕もキリストに(つか)うる場合、神の子として嗣業を受くる以上、大なる希望を持ちつつその置かれし地位におり、その与えられし職務を尽くすことができる。なおパウロと奴隷解放問題につきてはTコリ7:21、22。エペ6:5註参照。「汝らは主に(つか)ふる者なり」は一面において主の僕たる身分を自覚せしめ、自重せしめんがためであり、一面において次節の主の報につきて畏れ(おのの)くべきためである。
辞解
[(むくい)] antapodosis 新約聖書に唯一回用いらる。

3章25節 不義(ふぎ)(おこな)(もの)はその不義(ふぎ)(むくい)()けん、(しゅ)(かたよ)()(たま)ふことなし。[引照]

口語訳不正を行う者は、自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない。
塚本訳何故なら、(善い事をする者はその善い事に対して報いを受け、)悪い事をする者はその為た悪い事の報いを受けるのであって、主には決して依怙が無いのだから。
前田訳不正をなすものは、なした不正を報われます。それに不公平はありません。
新共同不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。
NIVAnyone who does wrong will be repaid for his wrong, and there is no favoritism.
註解: 本節の不義を行う者を主人と見る説(M0、A1)と僕と見る説(B1)、双方または不明と見る説(L3、L2)とあり、22−24節は僕につきての教訓である関係上本節を僕に対して言えるものと見るを可とす(E0)。たしかにパウロが夫婦、親子、主人に対する教訓に比して僕に対するものを特に詳細に述べし所以はオネシモのことが眼中に浮んで来たからであって、オネシモのごとくたとい僕であるからとて、主は不義を見逃し給わないことを教え。主に(つか)うるもののごとく畏敬をもって主人に(つか)うべきことを教えたものであると解すべきである。
辞解
[偏り見たまふ] prosôpolêmpsia につきてはロマ2:11を見よ。

コロサイ書第4章

4章1節 主人(あるじ)たる(もの)よ、(なんぢ)らも(てん)(しゅ)あるを()れば、()公平(こうへい)とをもて()(しもべ)をあしらへ。[引照]

口語訳主人たる者よ、僕を正しく公平に扱いなさい。あなたがたにも主が天にいますことが、わかっているのだから。
塚本訳主人達よ、正義と公平をもって奴隷に対せよ、君達にも(一人の)主人が天にあることを知って。
前田訳主人たちよ、僕を正しく公平に扱いなさい。あなた方も天に主を持つことをご承知です。
新共同主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。
NIVMasters, provide your slaves with what is right and fair, because you know that you also have a Master in heaven.
註解: エペ6:9註参照。「正義と公平」とは主人がその僕に対して取るべき根本的態度である。殊に主人たる者は専横なるべからず、天の主に仕うる心より推して僕の心持を考え、天の主が己を扱い給うごとくに僕を扱うべきである。

4-4 祈れ、我がためにも 4:2 - 4:6

4章2節 (なんぢ)感謝(かんしゃ)しつつ()(さま)して(いのり)(つね)にせよ。[引照]

口語訳目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。
塚本訳 撓まず祈れ、感謝をもって祈りつつ目を覚まし居れ。
前田訳祈りをつねにし、目覚めて感謝のうちに祈ってください。
新共同目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。
NIVDevote yourselves to prayer, being watchful and thankful.
註解: (▲「常にす」 proskartereô はある事に対して強く執着すること。)信仰生活の衰弱の原因は祈りが足りないからである場合が最も多い。祈祷に固執し、しかも「その中に在りて目を覚ましつつ」(直訳)、明瞭なる意識をもって祈ることが必要である。殊に祈祷は単に祈願や要求のみであってはならず、必ず感謝に溢れた祈りでなければならぬ。祈りは信者の霊の呼吸である。これなしには信仰の生命は死滅する。

4章3節 また(われ)らの(ため)にも(いの)りて、(かみ)(われ)らに御言(みことば)(つた)ふる(もん)をひらき、我等(われら)をしてキリストの奧義(おくぎ)(かた)らしめ、[引照]

口語訳同時にわたしたちのためにも、神が御言のために門を開いて下さって、わたしたちがキリストの奥義を語れるように(わたしは、実は、そのために獄につながれているのである)、
塚本訳同時に私達のためにも祈って、神が御言の門を私達に開いてキリストの奥義を語らせ給うよう──(実に)そのために私も(今)縄目についているのであるが──
前田訳同時にわれらのためにも、神がわれらにことばの門を開いて、キリストの奥義を語れるよう祈ってください。このためにわたしは捕えられているのです。
新共同同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。
NIVAnd pray for us, too, that God may open a door for our message, so that we may proclaim the mystery of Christ, for which I am in chains.

4章4節 (これ)()(かた)るべき(ごと)(あらは)させ(たま)はんことを(ねが)へ、(われ)はこの奧義(おくぎ)のために(つな)がれたり。[引照]

口語訳また、わたしが語るべきことをはっきりと語れるように、祈ってほしい。
塚本訳また私が命ぜられるままにその奥義を顕し得るようにしてもらいたい。
前田訳そしてわたしが語るべきとおりに奥義を示せるよう祈ってください。
新共同わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。
NIVPray that I may proclaim it clearly, as I should.
註解: エペ6:19参照。パウロは切に信仰の同志の加祷を要求した。人を教うるものは教えられる者の想像以上に祈りの援助を必要とするものである。パウロがコロサイの信者の祈りを要求せる諸点は、その一はキリストの奥義を語らんために言の門を神が開き給うこと、すなわち伝道の機会が与えられることである。パウロは当時幽囚の中にいたけれどもなおローマにおいても多くの伝道の手蔓(てづる)が与えられんことを欲したに相異なく、さらにでき得べくば釈放せられて自由に福音を伝える機会が与えられんことを欲したのであった。その二は第一に附随したことであるが、人の面を恐れず、世の迫害を恐れずして語るべきことを曲げず、語るべきままに語ることを得んことであった。伝道者にとりて必要なのは、この大胆さである。エペ6:20註参照。そしてパウロの伝道の内容は「キリストの奥義」であって、この奥義なる語の中には種々の意味が包含されているけれども、この場合異邦人の使徒として異邦人もキリストによりて救われることの真理を指したと見るべきであろう。パウロがユダヤ人に憎まれて獄に投ぜられたのはそのためであった。
辞解
[門を開く] Tコリ16:9Uコリ2:12参照

4章5節 なんぢら(をり)をうかがひ(て)、(そと)(ひと)(たい)知慧(ちゑ)をもて(おこな)へ。[引照]

口語訳今の時を生かして用い、そとの人に対して賢く行動しなさい。
塚本訳(信者ならぬ)外部の人に対しては知恵をもって接し、(福音のためにあらゆる)機会を利用せよ。(時は迫っている。)
前田訳今の時を利用して、外の人々に対して知恵をもってふるまいなさい。
新共同時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。
NIVBe wise in the way you act toward outsiders; make the most of every opportunity.
註解: 「機をうかがひ」は「時を買占め」で凡ての時を充分に自分のものとして利用すること。すなわち「あらゆる機会において」というごとき意味。なおエペ5:16註を見よ。「外の人」は未信者を指す。Tコリ5:12、13。Tテサ4:12。未信者に対する愚なる態度は、福音の伝播に大なる妨害となる。

4章6節 (なんぢ)らの(ことば)(つね)(めぐみ)(もち)ひ、(しほ)にて(あぢ)つけよ。(しか)らば如何(いか)にして各人(おのおの)(こた)ふべきかを()らん。[引照]

口語訳いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。
塚本訳(また彼らに対する)君達の言は何時も気持よく、且つ塩で味をつけよ。そうすれば一人一人に如何に答うべきかを知るであろう。
前田訳あなた方のことばがつねに親切で、塩で味をつけられていて、おのおのにどう答えるべきかをわきまえてください。
新共同いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。
NIVLet your conversation be always full of grace, seasoned with salt, so that you may know how to answer everyone.
註解: 前節の「外の人」に対する態度の継続である。「外の人」に対する言葉は常に「気持ちよい言を用うること」が必要である。辞解参照。ただし唯気持ちがよいだけではいけない。塩にて味付け、心を引きしめる力があり、効き目のある言をもってしなければならぬ。人の心に響かないような当らず障らずの言は用いるべきではない。これが各人に対する適当の答である。不愉快な言を用い、または味のない言を用いることは、外の人に対して答える所以を知らない者である。
辞解
(めぐみ)を用ひ」(B1)は適訳ではない、むしろ「(こころよ)からしめ」(M0、L3、Z0、A1、E0、L2)と訳すべきである。上記註はこれによった。
[(しほ)] 腐敗を止める作用と食物に味をつける作用とがあり、本節の場合はこの双方の意味を含むと解し得ないことはないが、むしろ味の方面のみを取る方が適当であろう。

分類
5 結尾の挨拶 4:7 - 4:17
5-1-イ テキコとオネシモ 4:7 - 4:9  

4章7節 (あい)する兄弟(きゃうだい)忠實(ちゅうじつ)なる役者(えきしゃ)(しゅ)にありて(われ)とともに(しもべ)たるテキコ、()がことを(つぶさ)(なんぢ)らに()らせん。[引照]

口語訳わたしの様子については、主にあって共に僕であり、また忠実に仕えている愛する兄弟テキコが、あなたがたにいっさいのことを報告するであろう。
塚本訳私自身のことは、愛する兄弟であり、主に在る忠実な世話役また奴隷仲間であるテキコが、皆君達に知らせるであろう。
前田訳わたしについては主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕人で同労者テキコがすべてをお知らせしましょう。
新共同わたしの様子については、ティキコがすべてを話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。
NIVTychicus will tell you all the news about me. He is a dear brother, a faithful minister and fellow servant in the Lord.
註解: テキコは本書の持参人でアジヤ人である。緒論およびエペ6:21註参照。パウロは彼を呼ぶに個人的には愛する同信の兄弟であり、職務としてはパウロの忠実なる役者として伝道の仕事を助け、キリストに対してはパウロと共に僕であることをもってして彼を高く評価している。これによって彼の如何なる人であるかがコロサイの人に明らかにされた訳である。パウロの身辺の事柄は、各地の信徒とも心配していたことは、本節およびエペ6:21よりもこれを推察することができる。
辞解
「主にありて」を「忠実なる役者」にも懸ける読み方(L3)あり、「(つぶさ)に」は「凡て」。「テキコ」につきてはエペ6:21辞解参照。

4章8節 われ(こと)(かれ)(なんぢ)らに(つかは)すは、(われ)らの(こと)()らしめ、(また)なんぢらの(こころ)(なぐさ)めしめん(ため)なり。[引照]

口語訳わたしが彼をあなたがたのもとに送るのは、わたしたちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためなのである。
塚本訳(今この手紙を持たせて)彼を君達に遺るのは、私達のことを知らせて(少しでも)君達の心を慰めるために外ならない。
前田訳わたしが彼をつかわすのは、われらのことをお知らせしてあなた方の心を慰めるためです。
新共同彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。
NIVI am sending him to you for the express purpose that you may know about our circumstances and that he may encourage your hearts.
註解: エペ6:22と同文、その註を参照すべし。
辞解
「我らの事を知らしめ」は「汝らをして」が略され、「なんぢらの心を慰めしめん為」には「彼をして」が略されたこととなり日本文として不精確なり。原文を直訳すれば「汝らが我らの事を知り、彼が汝らを慰めん為、このことの為に我は彼を汝らに遣す」となる。

4章9節 (なんぢ)らの(うち)一人(ひとり)忠實(ちゅうじつ)なる(あい)する兄弟(きゃうだい)オネシモを(かれ)(とも)につかはす、(かれ)()この(ところ)(こと)(つぶさ)(なんぢ)らに()らせん。[引照]

口語訳あなたがたのひとり、忠実な愛する兄弟オネシモをも、彼と共に送る。彼らはあなたがたに、こちらのいっさいの事情を知らせるであろう。
塚本訳なお忠実な愛する兄弟であり、君達の所の者であるオネシモも一緒に遺る。二人が何くれとなく此処のことを君達に知らせるであろう。
前田訳忠実な愛する兄弟オネシモも同行します。彼はあなた方のひとりです。彼らはこちらのことのすべてをお知らせしましょう。
新共同また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう。
NIVHe is coming with Onesimus, our faithful and dear brother, who is one of you. They will tell you everything that is happening here.
註解: オネシモにつきてはピレモン書を見よ。彼はコロサイ人で、ピレモンの僕であったのが、主人に対して罪があり、逃れてローマに行き、パウロの下に改心して立派なキリスト者になった。この度テキコに伴われてピレモンの許に送られて来たのであるが、パウロは彼をコロサイの教会にも紹介しておく必要を認めたのがパウロの愛心の結果であった。前科者として取り扱わず、主に在る兄弟として取扱えとのことである。ローマの幽囚生活およびパウロの周囲の事情は彼らより聞くべしとのことである。

5-1-ロ 兄弟たちよりの挨拶 4:10 - 4:17  

4章10節 (われ)(とも)囚人(めしうど)となれるアリスタルコ(およ)びバルナバの從弟(いとこ)なるマルコ、(なんぢ)らに安否(あんぴ)()ふ。()のマルコに()きては(なんぢ)(すで)(めい)()けたり、(かれ)もし(なんぢ)らに(いた)らば(これ)()けよ。[引照]

口語訳わたしと一緒に捕われの身となっているアリスタルコと、バルナバのいとこマルコとが、あなたがたによろしくと言っている。このマルコについては、もし彼があなたがたのもとに行くなら、迎えてやるようにとのさしずを、あなたがたはすでに受けているはずである。
塚本訳私と同じ因われの身であるアリスタルコと、バルナバの従兄弟マルコから君達によろしく。【マルコのことについては(既に私からの)指図を受け取ったに違いない。彼が君達の所に行ったら歓迎してもらいたい。】
前田訳わが同囚のアリスタルコとバルナバのいとこのマルコとからあなた方によろしく。マルコについては、彼がそちらへ行ったらお迎えくださいとの指図をお受けのはずです。
新共同わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。
NIVMy fellow prisoner Aristarchus sends you his greetings, as does Mark, the cousin of Barnabas. (You have received instructions about him; if he comes to you, welcome him.)
註解: 「共に囚人となれる」 synaichmalôtos は本来戦争において共に捕虜とせられし者の意、同時に(したた)められしピレ1:23、24にはアリスタルコは「同労者」として記され、反対にエパフラスが「共に囚人となれる者」として記さる。そのために、この語の意味が問題となり、あるいは福音の戦線に共に戦い共に捕虜となった者の意味に解し、「同労者」と同じ意味に取る説もあり(L2)、あるいはパウロの幽囚に伴い短期に交替して彼と共に幽囚生活を別つ意味と解し(E0、M0)ている。この後者が事実であろう。すなわち短期に交替してパウロと幽囚生活を別っている人々をパウロはかく呼んだので、本書を(したた)める時とピレモン書を(したた)める時との間に若干日の差があり、この間にアリスタルコとエパフラスとが交替したのであろう。アリスタルコはテサロニケ人で(使20:4)パウロの最後のエルサレム行に伴い、それよりパウロのローマ行まで行動を共にしていたと思われる(使19:29使27:2)。「バルナバ」につきては使徒行伝に録される処を参照すべし(使4:36)。「マルコ」はマルコ伝の記者で、この時パウロと共にローマにいた。註解マルコ伝緒言参照。「汝ら命を受けたり」は察する処、以前に何らかの機会に何らかの便で、パウロより命を受けたものであろう。その命の内容は次に記されるごとく、マルコがコロサイを訪問することあるべきこととその場合の種々の注意であったろう。

4章11節 またユストと()へるイエス(なんぢ)らに安否(あんぴ)()ふ。割禮(かつれい)(もの)(うち)ただ()三人(さんにん)のみ、(かみ)(くに)のために(はたら)()同勞者(どうらうしゃ)にして()慰安(なぐさめ)となりたる(もの)なり。[引照]

口語訳また、ユストと呼ばれているイエスからもよろしく。割礼の者の中で、この三人だけが神の国のために働く同労者であって、わたしの慰めとなった者である。
塚本訳またユストというイエスからよろしく。割礼ある者の中でこの人達だけが神の王国のために一緒に働いてくれて、私の慰めとなった者である。
前田訳ユストと呼ばれるイエスからもよろしく。割礼あるものの中で彼らだけが神の国への同労者で、わが慰めになりました。
新共同ユストと呼ばれるイエスも、よろしくと言っています。割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。
NIVJesus, who is called Justus, also sends greetings. These are the only Jews among my fellow workers for the kingdom of God, and they have proved a comfort to me.
註解: 「ユスト」はラテン語の「正義」の意味で律法に忠実なるユダヤ人の好んで用いた名称であった(新約聖書にこの名の人三人あり。使1:23使18:7)。このイエス・ユストにつきては他に何も知られていない。ユダヤ人のキリスト者は他にもあったけれども、この三人だけが神の国のため、福音のためのパウロの同労者であった。この事実がユダヤ人の不信のために歎き苦しんでいるパウロにとりてのせめてもの心の慰安であった。
辞解
[慰安(なぐさめ)] parhêgoria 「話しかける」意味で医術上「軽減」の意味に用う。この意味より来れる慰めを意味す。
[割禮の者] ユダヤ人。

4章12節 (なんぢ)らの(うち)一人(ひとり)にてキリスト・イエスの(しもべ)なるエパフラス(なんぢ)らに安否(あんぴ)()ふ。(かれ)(つね)(なんぢ)らの(ため)(ちから)(つく)して(いのり)をなし、(なんぢ)らが(まった)くなり、(すべ)(かみ)御意(みこころ)確信(かくしん)して()たんことを(ねが)ふ。[引照]

口語訳あなたがたのうちのひとり、キリスト・イエスの僕エパフラスから、よろしく。彼はいつも、祈のうちであなたがたを覚え、あなたがたが全き人となり、神の御旨をことごとく確信して立つようにと、熱心に祈っている。
塚本訳君達の所のエパフラからよろしく。彼はキリスト・イエスの奴隷であるが、君達が完成され、如何なる神の御意にも確信に満ちて立ち得るよう、何時も君達のために祈りにおいて戦っている。
前田訳あなた方のひとりでキリスト・イエスの僕エパフラスからよろしく。彼はあなた方が全きものとなり、神のみ心をすべて確信して立つようにと、つねにあなた方のために祈って苦闘しています。
新共同あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。
NIVEpaphras, who is one of you and a servant of Christ Jesus, sends greetings. He is always wrestling in prayer for you, that you may stand firm in all the will of God, mature and fully assured.
註解: エパフラスはコロサイ人でコロサイに伝道した人である(コロ1:7)。彼はその同郷の信徒たち、殊に、彼の伝道によりて入信した人々のことは始終念頭を去らなかったに相違ない。かかることは自分からは言いにくいことなので、パウロはこれをコロサイの人々に告げた。すなわちエパフラスは、コロサイの信徒がその信仰においても行為においても何時までも幼稚の域に止まらず「全くなりかつ神の凡ての御意に確信して立つ」ことを祈っていること、しかもその祈りの中に彼らのために苦闘していたことを告げた。
辞解
[力を盡す] agônizomai はコロ1:29辞解参照。
[確信し] また「満されて」とも訳す(L3)、但し現行訳のままにて可なり。

4章13節 (われ)かれが(なんぢ)らとラオデキヤ(およ)びヒエラポリスに()(もの)との(ため)(いた)(こころ)(らう)することを(あかし)す。[引照]

口語訳わたしは、彼があなたがたのため、またラオデキヤとヒエラポリスの人々のために、ひじょうに心労していることを、証言する。
塚本訳彼が君達と、ラオデキヤ及びヒエラポリスの人達とのために非常に苦労していることは、私が証明する。
前田訳わたしは彼のために証言しますが、彼はあなた方とラオデキアとヒエラポリスの人々のために多くの労苦をしています。
新共同わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスの人々のために、非常に労苦しています。
NIVI vouch for him that he is working hard for you and for those at Laodicea and Hierapolis.
註解: パウロはここに自ら証人としてエパフラスの心労を彼らに告げた。また(ただ)に彼らのみならずコロサイに近きラオデキヤおよびヒエラポリスの人々についても彼は苦心していることを告げた。彼らはこれを聴いて如何に喜ぶことであろう。パウロが人情の機微に触れている点を見逃してはならない。

4章14節 (あい)する醫者(いしゃ)ルカ(およ)びデマス(なんぢ)らに安否(あんぴ)()ふ。[引照]

口語訳愛する医者ルカとデマスとが、あなたがたによろしく。
塚本訳愛する医者ルカとデマからよろしく。
前田訳愛する医者ルカとデマスとからよろしく。
新共同愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。
NIVOur dear friend Luke, the doctor, and Demas send greetings.
註解: ルカは疑いなくルカ伝の記者のルカである。彼につきてはルカ伝緒言参照。パウロの善き助手として彼の最後のエルサレム行に伴い(使20:1以下)この時も彼と共に在り、またパウロの第二ローマ幽囚の際も彼と共にあった(Uテモ4:11)。「デマス」後にこの世を愛してパウロを棄て去った(Uテモ4:10)。パウロがデマスに関してのみここに何らの推奨的説明を与えていないのは、あるいはこの頃よりすでに彼の信仰に幾分の不安さがあったことをパウロは認識したのであるかも知れない。

4章15節 (なんぢ)らラオデキヤにある兄弟(きゃうだい)とヌンパ(およ)びその(いへ)にある教會(けうくわい)とに安否(あんぴ)()へ。[引照]

口語訳ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会とに、よろしく。
塚本訳ラオデキヤの兄弟達、ニンフアとその家の教会に宜しく伝えてくれ。
前田訳ラオデキアの兄弟とヌソパとその家の集まりとによろしく。
新共同ラオディキアの兄弟たち、および、ニンファと彼女の家にある教会の人々によろしく伝えてください。
NIVGive my greetings to the brothers at Laodicea, and to Nympha and the church in her house.
註解: これはコロサイ書をラオデキヤに送る時(次節)の序に宜しくとの伝言を依頼する意味であろう。ヌンパはラオデキヤにいる信者でその家に集会を持っていた人であったらしい。その他のことは知られていない。なお「家の教会」についてはロマ16:5辞解参照。
辞解
[その家] 「その」は種々の異本あり、「かれの」「かの女の」「かれらの」である。「かれらの」の場合解釈上困難を来たすのであるが、おそらくヌンパ一族の家の意味であろう。「その」はこの中の何れを採用したか不明である。

4章16節 この(ふみ)(なんぢ)らの(うち)にて()みたらば、(これ)をラオデキヤ(ひと)教會(けうくわい)にも()ませ、(なんぢ)()はまたラオデキヤより(きた)(ふみ)()め。[引照]

口語訳この手紙があなたがたの所で朗読されたら、ラオデキヤの教会でも朗読されるように、取り計らってほしい。またラオデキヤからまわって来る手紙を、あなたがたも朗読してほしい。
塚本訳この手紙を君達の所で読んだら、ラオデキヤ人の教会にも読ませてくれ。また君達もラオデキヤから廻って来る手紙を読むように。
前田訳この手紙があなた方のところで読まれたら、ラオデキアの集まりでも読まれるようにしてください。そしてあなた方もラオデキアからの手紙を読んでください。
新共同この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。
NIVAfter this letter has been read to you, see that it is also read in the church of the Laodiceans and that you in turn read the letter from Laodicea.
註解: 「ラオデキヤより来る書」はパウロの書簡たることは自然に了解される処であるがこの書簡が紛失したのであるか、あるいは所謂エペソ書がそれに当っているかが問題とされている。おそらくエペソ書が一つの回章でそれがラオデキヤを経てコロサイに回さるべきものであったとの想像が最も事実に近いであろう。エペソ書緒言参照。

4章17節 アルキポに()へ『(しゅ)にありて()けし(つとめ)(つつし)みて(つく)せ』と。[引照]

口語訳アルキポに、「主にあって受けた務をよく果すように」と伝えてほしい。
塚本訳アルキッポに、「主に在って受けた職責に注意し、これを果たせ」と言ってもらいたい。
前田訳そしてアルキポにいってください、「主にあって受けた務めは、心してそれを果たすように」と。
新共同アルキポに、「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」と伝えてください。
NIVTell Archippus: "See to it that you complete the work you have received in the Lord."
註解: アルキポにつきてはピレ1:2にあるのみで他に記されていない。何故パウロが直接に彼に言わずに、間接にコロサイの教会をして言わしめたのであるかにつきては(1)彼をラオデキヤに住していたと見る説(L3)、(2)教会をして言わしむる方が有効であるとする説(L3、B1)、(3)老年または病気のために教会に出席し得ないためとする説(B1)等があるが、推察する処彼はコロサイの一般教会の一員であったのがピレモンの家の教会(ピレ1:2)において福音を伝える職を神より受けて、ピレモンの家の集会に関係していたのであろう。それ故にパウロはコロサイの信徒たちをしてこの激励をアルキポに送らせたのであろう。かく解すれば「主にありて受けし職」はピレモンの家の教会の伝道の職であることとなる。
辞解
[職] diakonia であるがここでは執事の職であると解する必要はない。
[愼みて盡せ] 「全うするように注意せよ」と直訳し得る語。

分類
6 附言と頌栄 4:18

4章18節 (われ)パウロ()づから安否(あんぴ)()ふ。[引照]

口語訳パウロ自身が、手ずからこのあいさつを書く。わたしが獄につながれていることを、覚えていてほしい。恵みが、あなたがたと共にあるように。
塚本訳これが私パウロの手による挨拶である。どうか私の縄目を記憶してもらいたい。恩恵君達と共にあらんことを!
前田訳パウロが自筆でごあいさつします。わたしが捕われていることをお忘れなく。お恵みがあなた方とともにありますように。
新共同わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。恵みがあなたがたと共にあるように。
NIVI, Paul, write this greeting in my own hand. Remember my chains. Grace be with you.
註解: パウロは彼の習慣に従いこの書簡を代筆せしめ、最後に自らの署名のごとき意味においてこの最後の一節を附加した。手づから録せることを殊更に明らかにしてある箇所はTコリ16:21ガラ6:11Uテサ3:17ピレ1:19。またこれをもって真正のパウロの書簡たる証拠としていた(Uテサ3:17b)。

わが縲絏(なはめ)記憶(きおく)せよ。

註解: パウロのために祈らんがため、また福音のためにかかる苦難を()むるパウロのことを思いて信仰に励まんがためである。

(ねが)はくは御惠(みめぐみ)なんぢらと(とも)()らんことを。

註解: 御恵(みめぐみ)」は父なる神および主イエス・キリストより来る恩恵である。この恩恵の下に在りて人はみな平安を得ることができる。