ピリピ書第2章
分類
3 教訓 2:1 - 4:9
3-1 謙遜によりて 2:1 - 2:11
2章1節 この
口語訳 | そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、 |
塚本訳 | (斯く君達は心を一つにして敵と戦うの)だから、もしキリストにおける勧めなるものが(あって君達にそれを受ける心が)あるのなら、もし(神の)愛による励ましなるものが(あって何かの役に立つもので)あるのなら、もし霊の交わりなるものがあ(って私たちが一つに結ばれてい)るのなら、もし同情と憐れみなるものがあるのなら、 |
前田訳 | さて、いやしくもキリストにあるなぐさめがあり、愛のいたわり、霊の連帯、同情と思いやりがあるならば、 |
新共同 | そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 |
NIV | If you have any encouragement from being united with Christ, if any comfort from his love, if any fellowship with the Spirit, if any tenderness and compassion, |
註解: 1−11節は教会の一致と、そのために最も必要なる謙遜の徳を教えている。本節にはキリストの体たる教会一致の生活の四原則ともいうべきものを掲げる。すなわち教会の中に過誤に陥らんとする者がある場合、または信仰が衰えんとする者のある時はキリストに在る「勧 」を与え、悩める者がある場合には「愛をもってこれに慰安激励」を与え、互に孤立せずして「霊の交際」を保ち、互に私利私慾に陥らず冷淡無関心に堕せずして「憐憫と慈悲」とを有することが、キリスト者の団体生活の根本的要請である。
辞解
[・・・・・・とあらば] 「・・・・・・とが何らかの喜悦を与うるものならば」(B1)とか、「・・・・・・とが何らかの結果を来すものならば」(E0)等と読む説もある。
2章2節 なんぢら
口語訳 | どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。 |
塚本訳 | どうか私を心一杯喜ばせてもらいたいのである──すなわち思いを同じうし、同じ愛をもち、心を共にし、思いを一つにし、 |
前田訳 | ひとつ思いで同じ愛を持ち、心を合わせ、同じことを考えてわたしのよろこびを満たしてください。 |
新共同 | 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 |
NIV | then make my joy complete by being like-minded, having the same love, being one in spirit and purpose. |
註解: ピリピのキリスト者の意見も、愛心も、感情もみな一つになっていることを聴くほどパウロにとりて大なる喜悦はない。
辞解
四ヶ条の一致を息つく暇もなしに列挙せるはパウロの心の燃えていたことを示す。ただしこの四つは原文並列的ではなく或は第二以下第四を第一の詳説と見(L3)または第二、第三を第一の説明とし、第四を第三の詳説と見(M0)または第二は第一、第四は第三を説明し、第一と第三は並列すと見る(B1 、Z0)等種々あり。最後の訳が最も適当なるがごとし。「念を同うする」ことは徒党や自己に関する誇りの正反対であり、「同じ愛を持つ」ことはキリストと神とに向けられたる愛を持つことであって、その他のものに心を奪われざること。「心を合せ」は「同じ情をもつこと」であって、喜怒哀楽を共にすること。「念を同うし」と、「思うことを一つにし」とは同じ語であり意味も異ならない。
2章3節
口語訳 | 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。 |
塚本訳 | 何事も(決して)利己心や虚栄心からせず、謙遜をもって互いに(他人を)自分よりも勝れていると考え、 |
前田訳 | 利己や虚栄によらず、謙遜に互いを自らに勝ると思い、 |
新共同 | 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 |
NIV | Do nothing out of selfish ambition or vain conceit, but in humility consider others better than yourselves. |
註解: 徒党心は排他的となりて分立を生ぜしめ、虚栄または自己に誇ることは他を賤しめることとなりて不和を来す。徒党は前節の一致の反対であって自己の益を主とし、虚栄は愛の反対であって自己の誉れを求める。この二つの弊害を防ぐ根本的の道徳は謙遜である。互に他を己より勝れりとする処に徒党や不和は存し得ない。己の益を考えず、己の価値を考えずして他人の益、他人の価値を考える者には徒党と虚栄との入るべき場所がない。
2章4節 おのおの
口語訳 | おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。 |
塚本訳 | 各々自分のことだけでなく、各々他人のことをも顧みよ。 |
前田訳 | おのおのが自らのことだけでなく、他人のことをも求めなさい。 |
新共同 | めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 |
NIV | Each of you should look not only to your own interests, but also to the interests of others. |
註解: 前節は自己および自党に対する内心の誇りより生ずる弊害を訓戒し、本節は自己の利益のみに対する関心を訓戒し、他人のことをも顧み、関心を有つべきことを教えている。前節は積極的の徒党分離を警戒し、本節は他人に対する冷淡なる無関心を戒 む。我らは他人が如何に我らにつきて考うかにつきては無関心であってよいのであるが、他人の喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しみ、他人の苦難につき関心を有つべきである。なおピリピの信徒の間に3、4節のごとき弊害が実在せりや否やは不確かであるが、ピリ1:27。ピリ4:2等より幾分かかる傾向の存在を憂慮したのであろう。
辞解
「己の事のみ」の「のみ」は原文になし。ただし「人の事をも」の「をも」がある故かく訳することも止むを得ないが原文は前半殊に意味強し。(▲1−5節の教訓を一々自己に当てはめて自己反省、自己批判することは必要である。少しも新奇な点がない当然の教訓でありながら実行はなかなか困難である。)
口語訳 | キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 |
塚本訳 | キリスト・イエスに在る思いで互いを思え。 |
前田訳 | このことをあなた方の間で心がけなさい。それはまたキリスト・イエスにあってのことです。 |
新共同 | 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。 |
NIV | Your attitude should be the same as that of Christ Jesus: |
註解: キリストは我らの救い主たると同時にまた我らの模範である。
2章6節
口語訳 | キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 |
塚本訳 | 彼は(先には)神の姿であり給うたが、神と等しくあることを棄て難いことと思わず、 |
前田訳 | 彼は神の形にいましつつも、神とならぶことに捕われず、 |
新共同 | キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 |
NIV | Who, being in very nature God, did not consider equality with God something to be grasped, |
註解: (▲6−11節は1−5節の正反対である。イエスの心を心として1−5節の問題は解決する。)パウロはキリストの受肉の謙遜につきて考えた。すなわちキリストは受肉以前にも神でありロゴス(言)であって(ヨハ1:1。ヨハ17:5。コロ1:15−17)人の目には見えないけれども、神の栄光を有ち神の貌 にてい給うた(この貌 morphê の如何なるものなりやにつきてはパウロは詳細の穿鑿 をなさず、また明確なる観念もなかったものと思われる)。然るに彼はこの状態を継続することをば固執せず、狩猟の際の獲物のごとく固く保って決して手放してはならないものと考え給わなかった。すなわちこの栄光を所有することに対して執着を持ち給わなかった。これキリストは、己の栄光を誇らず、また己がことを顧みなかったからである。
辞解
難解の一節にして異解、異訳多し。困難の理由は「神の貌に居る」ことは何を意味するや、これと「神と等しくある事」との異同または関係、殊に「固く保たんと思はず」と訳されし原語「harpagmos と思わず」の意味如何が難解なるが故である。多数の異説異訳を列挙することをばこれを略して、唯「固く保たんと思わず」の代わりに「掠奪と思わず」「奪い取るべきものと思わず」と訳さんとする説(E0、M0、B1)が有力であることに注意すべし。ただし現行訳の方が適当と思わる(L3)。なお harpagmos (正確に言えば harpagma )は猛獣の餌食、戦争の分捕り物、盗人の強奪物等に用いる語。▲▲すなわちしっかり掴まえて手放し難いもの。
2章7節
口語訳 | かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 |
塚本訳 | かえって自分を空しうして人と同じ形になり、奴隷の姿を取り給うたのである。そして人の様で現れた彼は、 |
前田訳 | おのれをむなしゅうして僕の形をとり、人の姿になり、様子は人のようでした。 |
新共同 | かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 |
NIV | but made himself nothing, taking the very nature of a servant, being made in human likeness. |
註解: 神に等しくある場合は、神の権力、神の栄光、神の永遠性がキリストに充ちていた(コロ1:15−19)のに、彼はこれを凡て棄て去り己を空虚ならしめ給うた。その方法としては「僕の貌 を取り」完全に僕たる者すなわち神のごとく天にありて世界を支配する者ではなく、地上にありて人に仕うる者たる僕の貌 を取り、「人間のごときものとなりて」生れ給うた。勿論キリストは完全に人間であったけれども、同時に神たる点において人間と異なり給うた。ゆえに「人の如きもの」であった。人たる点においては他の人間と同一であった。
辞解
[貌 ] morphê は本質実体が形を為して表われること。
[如く] homoiôma は「類似形」の意味、次節の「状 」 schêma は表面的の変遷流行する外形。
[僕] 誰の僕なりや(M0)を問うを要しない(E0)。
2章8節
口語訳 | おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 |
塚本訳 | 自ら謙り、死に至るまで、(然り、)十字架の死に至るまで(父なる神に)従順であり給うた。 |
前田訳 | 彼はおのれを低くして死に至るまで、然り十字架の死に至るまで従順でした。 |
新共同 | へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 |
NIV | And being found in appearance as a man, he humbled himself and became obedient to death-- even death on a cross! |
註解: かくしてキリストは人間の風采をして人々に現れ(見出され)給えるのみならず、己を卑 うし、謙遜のかぎりを尽くし、神に対して全く従順なる者になり給うた。その従順の頂点は死であり、死をも辞せずしてその従順を全うし給うた。しかも(de)その死は最も悲惨にして最も恥辱とされる奴隷の刑罰なる十字架の死であった。
辞解
[既に人の状 にて現れ] 「人の状 にて見出され」で他人が見れば人間の風采と少しも変っていなかったこと、これを前節に附属せしむる読み方もあれど(M0)その必要なし、6節の神の貌 より僕の貌 にまで己を卑 うし、ついに死に至り給える下降の事実を見よ。
2章9節 この
口語訳 | それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 |
塚本訳 | それ故に神も彼を至高く上げ、凡ての名に優る(「主」なる)名を与え給うた。 |
前田訳 | このゆえに神も彼を高めてすべての名にまさる名をお与えでした。 |
新共同 | このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 |
NIV | Therefore God exalted him to the highest place and gave him the name that is above every name, |
註解: 「この故に」はイエスが己を卑 くし給える故にとの意(ルカ14:11。ルカ18:14)。「己を卑 うする者は高うされるなり」はキリストの場合は全く事実であった。かくして神はキリストを復活昇天せしめて神の右に坐せしめ、万物を支配する最高の位置につかしめ、彼に萬 の被造物にまされる名、すなわち資格、稜威、地位を与え給うた。
辞解
[高く上げ] hyperhypsoô は「非常に高く上ぐる」意。
[名] 何であるかにつき「主」「神」「神の子」「イエス・キリスト」等種々の説が主張されているが、パウロはかかる名称を考えたのではなくヘブル人の間において「名」はその実体を指す故(例えば「神の御名を崇む」は神を崇むること)、この場合も「キリストを万物の支配者たらしめた」ことを意味すと見るべきである。
[賜い] charizomai は恩恵として与えること、キリストを僕の地位に置きて考えたのである。
2章10節 これ
口語訳 | それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 |
塚本訳 | これはイエスの(この尊い)名の前に、天の上、地の上、地の下にある“万物が膝を屈め、 |
前田訳 | それはイエスの名によって天と地と地下のすべての膝がかがみ、 |
新共同 | こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 |
NIV | that at the name of Jesus every knee should bow, in heaven and on earth and under the earth, |
2章11節
口語訳 | また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。 |
塚本訳 | 凡ての舌が”「イエス・キリストは主なり」と“告白して”父なる“神に”、栄光を帰せんためである。 |
前田訳 | すべての舌が「イエス・キリストこそ主」と告白して栄光を父なる神に帰するためです。 |
新共同 | すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。 |
NIV | and every tongue confess that Jesus Christ is Lord, to the glory of God the Father. |
註解: イザ45:23を少し改変したもの。神がイエスを万物の上に坐させ給える目的は一は万物をしてイエスを主として崇めさせるためであり、その二はその結果として栄光を父なる神に帰させるためであった。
辞解
[天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの] 宇宙間の凡ての被造物を指す意味であって、一々これに「天使、人間、死人」とか、「天使、人間、悪魔」とか、「死人の霊、生ける人、煉獄における霊」等を当てはめることはかえって文意を狭くするに過ぎない。
[イエスの名によりて] イエスを崇めてというごとき意味(T列8:44。T列18:24−26の七十人訳)。
[膝を屈 め] 礼拝、讃美、驚嘆の貌 。
[主なり] 「神なり」というに同じ。
要義1 [徒党と虚栄]この二者は何れも自己中心の思想の結ぶ果実である。自己の勢力を増大しようとしたり、自己の名声を維持拡張しようとすれば自己一人にては不足を感じて徒党を結ぶ結果となり、自己をその実際以上に認めさせようとすれば虚栄を得ることに汲々となるに至る。何れも己を空しくして隣人に仕えようとする心の正反対である。キリスト者の間の一致と平和を害するものにしてこの徒党と虚栄のごとくに甚だしきはない。我らは謙遜をもってこれらに打勝たなければならない。
要義2 [キリストの謙遜]九天の上より九地の下に降り給えるキリストの謙遜に比すべき偉大なる謙遜はない。謙遜とは自己の価値または能力を自己の虚栄または利益のために用いようとせず、他人に仕えるためにこれを用いることを意味す、いたずらに謙卑 を装いて他人の好評を博そうとするがごときは謙遜の正反対である。また自己に与えられし能力や価値を他人のためにも用うることに躊躇するがごときは謙遜のごとくにして然らず、かえって自己のために謙遜の栄誉を贏 ち得んとする虚栄心に過ぎない。隣人のために自己の凡ての能力や価値をささげ尽くして自己のためには何ものも得ずとも毫 も悔いない心持が真の謙遜である。キリストの謙遜はかかる謙遜であった。
要義3 [キリストの従順]神に対する従順は徹底的絶対的でなければならない。自己の慾求に左右せられ、または自己の判断に動かされて神の御旨を曲げてはならない。神の御旨であったために十字架の死まで従い給いしイエスを見よ。神の子イエスですらかくのごとくであるのに、全く価値なき我らにとりては、凡てにおいて唯神に従うより外に他意あるべきではない。また我らとしてはこれより外に神を喜ばしめ奉るべき途がない。そして神は必ずこの従順を喜びこれに報い給うであろう。
要義4 [イエス・キリストは主なり]我らはキリストを直接に主として礼拝し讃美すべきである。そしてこの礼拝讃美は直ちに神に通ずるのである。その故は神は我らをしてかくせしめんがためにキリストを立て、彼を万物の首として万物を支配せしめ(エペ1:20−22)、彼によりて万物を己と和らがしめ給いしが故である(コロ1:19、20)。我らは彼を神とし主として拝することにより、神はその御子を我らに賜える御旨が達成せられ、キリストはこの礼拝讃美をうけてこれを神に献ぐることによって凡てが神の栄光に帰されるに至るのである。
2章12節 されば
口語訳 | わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。 |
塚本訳 | だから、愛する者達よ、(今まで)何時も従順であったように、(従順であってもらいたい。)私が(一緒に)居る時ばかりでなく、居ない今こそ却つてなお一層、畏れと戦きをもって、自分の救いを得よ。 |
前田訳 | それゆえ、わが愛する人々よ、あなた方がつねに従順であったように−−それはわたしがいたときばかりでなく、いない今も、ますますそうですが−−おのが救いを全うするにおそれとおののきをもってなさい。 |
新共同 | だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 |
NIV | Therefore, my dear friends, as you have always obeyed--not only in my presence, but now much more in my absence--continue to work out your salvation with fear and trembling, |
註解: 「汝らは常に神に従順であり、従ってまたパウロの福音の教えに従順であった。そのように我が汝らと共に居りし時のみならず、共に居らぬ今は一層戦々競々として熱心に努力し注意して己が救いをその終局まで完成しなければならぬ」。
辞解
[されば] キリストすらかくも従順なる以上はとの意。
[常に服 ひし] 誰に服 える意味なりやにつきパウロに(M0)、神に(L3、E0)、双方に(B1)等種々の見方あり、最後の解釈による。
[ますます] 「全うせよ」を修飾すと見るを可とす。従って「服 ひ」は除くべきである。パウロがピリピにいた時も彼らピリピの信徒は従順であり、戦々競々としてその救いのために努力していた故、その不在の時はなおさらその必要がある訳である。
[畏れ戦 きて] 神に対して畏れ戦 く意味と見るよりも、自己の内心に強き反省と恐惶 と慎みとを持ち、救いの完成の容易ならざることを考えて畏れ戦 くこと。
[全うせよ] katergazesthe は救いに必要なるあらゆる事柄を欠くることなく具備すること、すなわち信者の信仰のみならずその道徳的生活、教会一致の生活、謙遜、従順等において完備せるものとなれとの意。「己が」は強調されている。
2章13節 (そは)
口語訳 | あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。 |
塚本訳 | (しかしもちろんこれは君達の力では出来ない。)何故なら、(救いに関わる)御旨を成し遂ぐるため、君達のうちに働いて、(救いの)願望を起こさせ、これを成就せしめ給う者は、神であるからである。 |
前田訳 | あなた方のうちに働いて、み心のままに意志し活動なさるのは神だからです。 |
新共同 | あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。 |
NIV | for it is God who works in you to will and to act according to his good purpose. |
註解: 前節にパウロは畏れ戦 きて己が救いを全うすべきことを命じた。その理由は救いが我らの中に行われるは神御自身の御業だからである。すなわち神は我らを救うことを喜び給いてその御意を成さんために、我らの心の中に働きかけ、我らをして意思せしめ行動せしめ給うのである。すなわち我らの心の中に救われんとの意識を起し給うのも神であり、またこの要求に従って我らを行動せしめ給うのも神の働きである。救いは凡て神の働きであり、我らはこの神の働きかけを拒まずこれに従い、その神の力をもって敵と戦う時(エペ6:10以下、ガラ5:17以下)我らは「己が救いを全うする」ことができる。ここにパウロにおいては自力による救いと他力による救いとが渾然として一つに帰しているのを見る。
辞解
[御意を成さんため] 「喜び給うことのために」で神は人の救いを喜び給うことを意味す。
[志望をたて] 「意思を起す」こと。
[業を行う] 「活動する」ことである。人間の心の働きは、まず意思が決定し、次にこれによりて行動する。救いの問題につきては(G1)神は我らの中に働きかけてその御意を成就し給う。救いは神の賜物である所以はここにある。
2章14節 なんぢら
口語訳 | すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。 |
塚本訳 | 何事をするにも呟くな、躊躇うな。 |
前田訳 | すべてを不平と口論なしでなさい、 |
新共同 | 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 |
NIV | Do everything without complaining or arguing, |
註解: 「疑はず」はむしろ「ためらはず」と訳すべし。神が我らの中に救いの御業を始めこれを成就し給う以上、我らは畏れ戦 いてこれに対すべきであって、たとい如何なる困難や反対が起ろうとも、神に向って呟かず、また躊躇 せずに神の御旨を行わなければならぬ。然らざれば困難に襲われる時、躊躇 し呟 くに至るものである。
辞解
[呟 く、躊躇 う(疑う)] 人間同士の間の関係と解する説があるけれども(E0、B1)むしろ神に対するものと解すべきである。
2章15節
口語訳 | それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。 |
塚本訳 | これは君達が非難すべき所でなく、純真であって、“曲ったねじくれた(この)時代”の真中にあって“瑕なき神の子”とならんためである。(まことに)君達はこの時代にあって、生命の言を堅く守りながら、この(暗い)世に星のように輝いているのである。 |
前田訳 | それはあなた方が傷なく、しみなく、曲がってゆがんだ世代の真ん中で、申し分のない神の子らとなるためです。この世で星のように輝いて、 |
新共同 | そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 |
NIV | so that you may become blameless and pure, children of God without fault in a crooked and depraved generation, in which you shine like stars in the universe |
註解: パウロは申32:5(七十人訳)を思い浮べつつ滅ぼされぬように注意を与えているものと思われる。この時代は曲がってかつ邪悪である。正義と純潔とは存在しない。その中にありて、これに感化せらずこれに妥協せずして、責むべき所なく、素直にして単純誠実であることは、容易のことではない。しかしかくしてのみ神の瑕 なき子となることができるのであって、このために前節のごとくに行動しなければならない。
辞解
[素直] akeraios 純粋にして混合物なきこと、素誠 の語が相当す。
註解: 時代は邪曲にして暗黒であるが汝らは生命の言たるキリストの福音を高く掲げて世の光のごとくに輝いている。これはまことに喜ぶべき事実であり我が誇りである。
辞解
[世の光のごとく・・・・・・] 本文前節の一部をなしている。
[生命の言を保ちて] キリストは生命でありまた言である。ここではキリストの福音を指すと見て可なり。「保ちて」はまた「捧げて」とも訳す。
[輝く] 「見る」「あらわる」と訳すべしとする説が多いけれども(M0、L3)必ずしもその必要は絶対的ではない。殊にこの場合は「光のごとく」とある故輝くと訳して可ならん(B1、E0)。
2章16節 かくて
口語訳 | このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。 |
塚本訳 | かくて私の走ったことが無駄にならず、”苦労したことが無駄に”ならずに、キリストの日に名誉が私に帰するであろう。 |
前田訳 | いのちのことばを確保なさい。それはキリストの日へのわが誇りになります。わたしが走ったのもむだでなく、わたしが労したのもむだにならないからです。 |
新共同 | 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。 |
NIV | as you hold out the word of life--in order that I may boast on the day of Christ that I did not run or labor for nothing. |
註解: 「われ誇ることを得ん」は「わが誇りとならん」と訳する方が原文に近い。「もし汝らが神の瑕 なき子となり生命の言を掲げ持ちて光のごとくに輝くならば、我が伝道の労苦が凡て果を結んだこととなる故キリストの再臨の日に、その台前に立つ時、汝らは我が誇りとなるに至るであろう(Uコリ1:14)。パウロはその伝道の結果につきキリストの前に誇ることを楽しみとしていた。
2章17節 さらば
口語訳 | そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。 |
塚本訳 | 否、(ただに苦労だけでなく、)たとい私が君達の信仰を供え物として(神に)献ぐる時(潅奠としてそれに)血をも注がねばならぬとしても、私は喜ぶ。君達皆と共に喜ぶ。 |
前田訳 | さらに、たとえあなた方の信仰のいけにえと礼拝にわたしが血を流しても、わたしはよろこび、皆さんとよろこびを共にします。 |
新共同 | 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 |
NIV | But even if I am being poured out like a drink offering on the sacrifice and service coming from your faith, I am glad and rejoice with all of you. |
辞解
[さらば] alla は「反対に」の意、下掲註のごとき意味ならん。
[信仰の祭] パウロが祭司として為すごとくに解することは不可なり。万人を祭司と見、ピリピの信徒が自ら祭司として神に仕うること意味す。
[共に喜ばん] 「祝賀せん」と訳する説あり(L3、M0)。
口語訳 | 同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。 |
塚本訳 | 同じように君達も喜んでくれ。私と共に喜んでくれ。 |
前田訳 | 同じくあなた方もよろこび、わたしとよろこびを共にしてください。 |
新共同 | 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。 |
NIV | So you too should be glad and rejoice with me. |
註解: 走りしところ労せしところ空しからざる場合は勿論であるが、反対に、よし自分が殉教の死を遂げて汝らの信仰と共に神の前に供えらることとなるとも、自分には少しも遺憾なきのみならずかえって大に喜ぶであろう。汝らと共に喜ぶであろう。信仰の供物はロマ12:1のごとく信者がその身を神の悦び給う潔き活ける供物として神にささげることであり、信仰の祭はかくして神に奉仕することである。またユダヤ人の行う灌祭において肉と共に濃き酒を祭壇の下に灌ぐ例であるがパウロはここに自己のの血を流すことを指しているのである。すなわち殉教の死は一つの祭である(民28:7。Uテモ4:6)。
要義 [他力教と自力教]真宗のごとき絶対他力教は救いは絶対に弥陀の本願によることを主張するが故に、人間は何ら善行を要せず、罪業如何に深甚なりとも、否罪が深ければ益々弥陀の本願によりて救われることを信じ、従って救いに対する大なる歓喜がある反面に道徳的に堕落し易く、修養努力を欠くの結果となる。反対に禅宗のごとき自力教は徹頭徹尾努力修養によりて悟りを開くことを主眼とする故に、修養に対する勇猛心は非常に強い半面に救われしものの感謝と歓喜とがない。聖書の福音は自力とか他力とかの一方の範疇に閉じ込め得ざる性質を有っている。すなわち律法の行為によりて義とせられず信仰のみによる点(ロマ3:28)、また信仰は神の賜物にして己によるにあらざる点(エペ2:8)においては完全に絶対他力であり、また他方畏れ戦 きて己が救いを全うせざるべからざる点においては(ピリ2:12)自力主義に等しい。しかしながら聖書の福音は、この矛盾を矛盾としないのであって、完全に神にささげられし自己は、神の所属なるが故に自己にして自己にあらず、神のものとして益々大切なる自己であり、戦々競々としてこれを神の御心に叶うものと為すの義務を有し、しかも自力によらず神の力に導かれてこれを完成するのである。ゆえにキリスト者にあっては自力は神によりて動かされる自己の力であり、他力は我らの中にまた我らによりて働く神の力である。キリスト教の神は超越神にして同時に内在神である。従って自力、他力の問題はここに存在しない。
2章19節 (されど)われ
口語訳 | さて、わたしは、まもなくテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって願っている。それは、あなたがたの様子を知って、わたしも力づけられたいからである。 |
塚本訳 | (ところで)私は早くテモテを君達の所に遺りたいと主イエスにあって望んでいる。君達の(元気な)ことを知って私も元気になりたいためである。 |
前田訳 | 主イエスにあって望んでいることですが、テモテを間もなくそちらに送りましょう。それはわたしもあなた方のことを知って励まされるためです。 |
新共同 | さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。 |
NIV | I hope in the Lord Jesus to send Timothy to you soon, that I also may be cheered when I receive news about you. |
註解: パウロはローマの獄中にあってもおそらく放免されることの確信を有し、その時期が解らないので躊躇していたが、大体の目安がつき次第テモテを遣すことの希望を持っていた。その目的はピリピの教会の状態につき知りたいためであった。
辞解
[されど] 原文にあり、12節にパウロの不在中のことにつき教訓を与えたのであるが「されど」との意、他に種々の解あれど適切ではない。
[慰安 ] eupsychô は、元気付けられ、良い気持ちになること。
[汝らに] 「汝らのために」。
2章20節 そは[
口語訳 | テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない。 |
塚本訳 | (そして特に彼を選んだのは、)彼と同じ心で、真実に君達のことを心配してくれそうな者が(私の周囲に)誰一人いないからである。 |
前田訳 | 彼ほどあなた方のことをまちがいなく心がける人は、わたしのところにいません。 |
新共同 | テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。 |
NIV | I have no one else like him, who takes a genuine interest in your welfare. |
註解: ピリピの信者のことをパウロと同じ心持で親身になって心配してくれる者はテモテ以外になかった。パウロの周囲の弟子の間にすらすでに人物の払底 することかくのごとくであったことは驚くべき事実であるといわなければならない。コロ4:10−14にある多くの錚々 たる弟子たちは、この頃如何にしていたのであろう。或はパウロと共にいたとしてもルカ以外はピリピのことにあまり関心を持たなかったのかもしれない。
辞解
[彼のほかに] 意義を補充するもの、「我と」も同様なり。従って「同じ心」をテモテと同じ心と解する学者(L3)もあるが適当ではない。
[真実に] 「親身になって」の意。
[慮 ぱかる] 「思い煩う」と同一の語、深く心配すること。
2章21節
口語訳 | 人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。 |
塚本訳 | 何故というのか。(他の者は)皆自分のこと(だけ)を求めて、(誰も)キリスト・イエスのことを求めないのだ! |
前田訳 | 人々は皆キリスト・イエスのことをでなく、おのがことを求めています。 |
新共同 | 他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。 |
NIV | For everyone looks out for his own interests, not those of Jesus Christ. |
註解: 勿論テモテその他若干の例外はあったのであろうが、ピリピに遣わすべき可能性のある人々を見渡した処一人もイエス・キリストのことを求める人がなく、唯おのれのことのみを求めていた。パウロの弟子たちにつき、このような記事が残されたことは彼らにとって大なる恥辱であり、また後代の信者にとっての警戒である。反省しなければならない。
辞解
[皆] 上記のごとくに解すべきで他に種々の附加的条件が試みられているけれども適切ではない。ルカはおそらくこの時ローマにいなかったのであろう。
2章22節 されどテモテの
口語訳 | しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。 |
塚本訳 | しかしテモテは、君達も知っているように、親と子のようにして私と一緒に福音のために尽くし、(既に)試験ずみ(の男)である。 |
前田訳 | しかし彼(テモテ)の練達はご承知のとおりで、子が父につくすようにして、わたしとともに福音に奉仕しました。 |
新共同 | テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。 |
NIV | But you know that Timothy has proved himself, because as a son with his father he has served with me in the work of the gospel. |
註解: テモテはパウロを父のごとくに思い、父のごとくに彼に仕えた。そしてこのことはパウロの個人のためではなく、福音のために奉仕しつつあるパウロに仕えることより、結局パウロと共に福音に奉仕したことになるのである。直接に口をもって福音を宣伝えることのみが福音への奉仕ではない。
辞解
[錬達] 試験を経て合格すること、検査に合格すること、鉱物の精錬により金属が吹き分けられること等の意。
[子の父に於ける如く] 次に「我に仕うることにより」を附加すれば意味が明瞭となる。
[勤め] 僕として仕えること。
2章23節 この
口語訳 | そこで、この人を、わたしの成行きがわかりしだい、すぐにでも、そちらへ送りたいと願っている。 |
塚本訳 | それで彼を、私の身の成り行きを見極めた上で、(前に言ったように)早速(君達の所に)遺りたいと望んでいる。 |
前田訳 | そこで彼を、わたしのことがわかり次第すぐに送りたく思います。 |
新共同 | そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。 |
NIV | I hope, therefore, to send him as soon as I see how things go with me. |
註解: パウロの幽囚が如何になるかの見当がつけば直ちにテモテを遣わすことがパウロの希望であった。
2章24節
口語訳 | わたし自身もまもなく行けるものと、主にあって確信している。 |
塚本訳 | しかし(彼ばかりでなく)わたし自身も早く行けることと、主にあって確信している。 |
前田訳 | わたし自身も間もなく行けることを主にあって確信しています。 |
新共同 | わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。 |
NIV | And I am confident in the Lord that I myself will come soon. |
註解: パウロはやがて幽囚より放免されるであろうことの確信を持っていた。パウロはこの確信をピリピの信徒に伝えて彼らにも希望を持たせんとしているのである。
2章25節 されど
口語訳 | しかし、さしあたり、わたしの同労者で戦友である兄弟、また、あなたがたの使者としてわたしの窮乏を補ってくれたエパフロデトを、あなたがたのもとに送り返すことが必要だと思っている。 |
塚本訳 | しかし、(とりあえず今は)私と共に働き、共に戦い、また君達の使いとして私の窮乏を助けてくれた兄弟エパフロデトを君達の所に遺ることが必要だと考えた。 |
前田訳 | わが兄弟、同労者、戦友であるエパフロデトをそちらへ送る必要を感じます。彼はあなた方の使者としてわが窮乏に際して奉仕しました。 |
新共同 | ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、 |
NIV | But I think it is necessary to send back to you Epaphroditus, my brother, fellow worker and fellow soldier, who is also your messenger, whom you sent to take care of my needs. |
註解: 間もなくテモテとパウロとがピリピを訪問するとしても、それまで待っていられない切なる感情に動かされたのであった。その理由は26、27節にあり。
辞解
[われと共に働き、共に戦ひし兄弟] 原文「わが兄弟、また同労者、また戦友」で次第に共力の程度において高まっている。
[すなわち汝らの使として我が窮乏を補ひし] 「されど汝らの使者にして我が必要なる奉仕者なる」と訳すことができ、前の「我が」と対応して「汝らの」を強調し、エパフロデトがパウロにもピリピの信徒にも重大なる意義あることを示す。エパフロデトは新約聖書中他に録されず、コロ1:7。コロ4:12。ピレ1:23のエパフラスとは別人なり、「窮乏を補ひし」は「必要の奉仕者」でパウロに対する献金をエパフロデトをして持参させたことを指す。「奉仕者」 leitourgos は祭司の職を行う者を指す語であって、ピリピの信徒はパウロの必要を満たすことによりて神に仕えているのである。Uコリ9:12にはこの語を「施済 」と訳し、ロマ15:27はこの語と同源の動詞を「事 う(仕える)」と訳す。
2章26節
口語訳 | 彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているからである。その上、自分の病気のことがあなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている。 |
塚本訳 | 彼は君達を皆慕って居り、自分が病気をしたことが君達の耳に入ったのを気に病んでいるのだから。 |
前田訳 | 彼は皆さんに会いたがっていまして、あなた方が彼が病んだとお聞きのことを苦にしていました。 |
新共同 | しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。 |
NIV | For he longs for all of you and is distressed because you heard he was ill. |
註解: エパフロデトの心中を叙述し、これをもって彼を遣わす必要がある理由とする。その一はピリピの兄弟たちを恋い慕っていること、その二はピリピの兄弟たちが、エパフロデトの病めるを知って心配していることを聞いてエパフロデトの心が憂慮困惑していたからであった。
辞解
彼の疾病が如何にしてピリピに聞えたかは不明であるが、交通の便の多かった当時としては、かかる事実は少なくなかったであろう。またピリピ人の心配につきてはピリ4:10にあるごとく、この度またまたパウロのために金銭を送りし故、その使者よりこれを聴いたのであろう。
2章27節
口語訳 | 彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。 |
塚本訳 | (実際)彼は病気で死にそうであったが、神は彼を憐れみ給うたのである。否、彼ばかりでなく私をも憐れんで、悲しみに悲しみを重ねさせ給わなかった。 |
前田訳 | 実際、彼は死にそうなほど病みました。しかし神は彼を、否、彼ばかりでなくわたしをもおあわれみでした。それはわたしが悲しみに悲しみを重ねないためにでした。 |
新共同 | 実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。 |
NIV | Indeed he was ill, and almost died. But God had mercy on him, and not on him only but also on me, to spare me sorrow upon sorrow. |
註解: ピリピ人の憂慮の杞憂にあらざりしことを叙ぶ、そして神はその憐みによりて彼を癒し給えることを感謝している。かつこの憐みは同時にパウロにとっても憐みであって、エパフロデトの回復によってパウロはその幽囚の憂にさらに彼の憂を重ねるの不幸を免れたのであった。
2章28節 この
口語訳 | そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、心配を和らげることができよう。 |
塚本訳 | それで君達が彼に会って再び喜ぶよう、私も(それによって少し)気が楽になるように、特に大急ぎで彼を(君達に)返す(ことにした)。 |
前田訳 | それでますます切に彼を送りたいのです。あなた方は彼と再会してよろこび、わたしの悲しみもやわらぐことでしょう。 |
新共同 | そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。 |
NIV | Therefore I am all the more eager to send him, so that when you see him again you may be glad and I may have less anxiety. |
註解: エパフロデトの活動は福音のために非常に重要であった(30節)。されどパウロはピリピ人をも喜ばせんとの人情より彼を帰らせた。福音のためには人情を犠牲にしなければならぬことは当然であるが、これは後者を重視することによって前者が危殆 に瀕する場合を言うのであって、然らざる場合、自然の人情にも充分の同情を持つことは必要である。この自然の人情もまた神の造り給うたものだからである。
辞解
[急ぎて] 速力よりも気持ちに関係す。
[再び] 「見る」に懸るとみるよりも「喜ぶ」に関連す。
[憂を少 うす] 憂を全部除くことができるわけではない故かく言う。
2章29節 されば
口語訳 | こういうわけだから、大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊重せねばならない。 |
塚本訳 | だからどうか主に在って大いに彼を歓迎してくれ。且つこのような人達を尊敬せよ。 |
前田訳 | それで、主にあって全きよろこびをもって彼を迎えてください。そして彼のような人々を尊敬してください。 |
新共同 | だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。 |
NIV | Welcome him in the Lord with great joy, and honor men like him, |
註解: エパフロデトが汝らに至れば彼を大いに歓迎すべし。ただし「主に在りて」であって、信仰的にすなわち信仰を基調とすべし。キリストを離れし喜びは一時的でかつ肉的である。かつこの歓迎は単に彼に対する個人的の心持からであってはならず、福音のために献身せる兄弟たちに対しても同様の尊敬を払うべきである。
2章30節
口語訳 | 彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである。 |
塚本訳 | 彼は生命賭けで、君達に私の世話の出来ない所を補おうとして、キリストの仕事のためにほとんど死のうとしたのである。 |
前田訳 | 彼はキリストのための働きのために、死の一歩前でした。わたしへの奉仕についてあなた方ができなかったことを彼はいのちをかけて全うしてくれたのです。 |
新共同 | わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。 |
NIV | because he almost died for the work of Christ, risking his life to make up for the help you could not give me. |
註解: 私訳「そは彼は我への奉仕につきての汝らの欠陥を補わんとてキリストの事業のためにその生命を賭けし死ぬるばかりになりたればなり。」前節末尾、すなわち「かかる人々を尊ぶ」べき理由を掲ぐ、すなわちエパフロデトはキリストの事業 ─ 福音伝播の事業 ─ のためにパウロの助手となり、その過労のために病にかかるをも辞せずついに死を眼前に見るまでに至った。これパウロに対する奉仕(25節の「補ひ」と同じく leitourgia、その節辞解を見よ)におけるピリピ人の不足(不在による欠陥のこと)を補充せんがためであった。要するにエパフロデトは主キリストに対する熱愛より、主の使徒たるパウロに仕え、かつピリピ人の代理としてパウロに全心、全力を尽くして仕え、これによりてピリピ人の不足分をも充たさんとしたのであった。この熱心のために彼は瀕死の病にかかったのである。
要義1 [人情と信仰]パウロがエパフロデトの快癒を喜び、また彼のピリピ人を恋慕う心に同情し、彼をピリピに送って彼および彼らを喜ばそうとしたことは、パウロが如何に人情に篤かったかを示している。福音のためには父母、妻子、己が生命をも捨てなければならない場合がある。しかしながら平日父母に孝に、妻子を愛し、己の生命を大切に保つことは、福音に反する事柄ではない。人情は自然のままに働く場合、それ自身善でも悪でもない。そしてそれが神の御旨の中に在りて働く場合、その喜びは感謝をもって受くべき神の賜物である。しかしながら場合によりこの二者が両立し得ない立場に立つことがある。かかる際には我らは喜んで福音のために人情を犠牲にしなければならぬ(マタ10:34−37)。あたかも出征軍人が戦時においては家族の死に際しても帰還しないごときこれである。福音のためと称してエパフロデトをピリピに帰らしめないというごときことはパウロの態度ではなく、またその重病よりの恢復につき少しも喜ばないごときことはストイック的であるかもしれないけれども福音的ではない。福音は人情を聖化し、神に従いてこれを正しく働かせるものである。
要義2 [奉仕即礼拝]leitourgia leitourgeô は祭司が神の御前に立ちて礼拝の務め、すなわち祭りを為す意味に用いられる語であって、神に奉仕 service することである(使13:2。ヘブ10:11。ルカ1:23。ロマ13:6。ヘブ8:2、ヘブ8:6)。そしてこの語が同時に「施済 」(Uコリ9:12)または「贈与」「寄附」(ロマ15:27。ピリ2:25)の意に用いられることは注意すべき点であって、この種の善行を為すことは結局において神の最も悦び給う処であり、神に対する最善の礼拝であることを示す。形式的礼拝が真の礼拝なるがごとくに考えるのは誤りである。
ピリピ書第3章
3章1節
口語訳 | 最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。さきに書いたのと同じことをここで繰り返すが、それは、わたしには煩わしいことではなく、あなたがたには安全なことになる。 |
塚本訳 | 最後に、(愛する)わが兄弟達よ、主に在って喜べ──(こう喜べ喜べと言ってはうるさいかも知れないが、)このことを書くのは私には(少しも)うるさいことではなく、また君達には(苦難を喜ぶことが信仰を保つに最も)安全(な道)である(と思う。) |
前田訳 | 最後に、兄弟よ、主にあってよろこんでください。同じことをお書きするのは、わたしにはおやすい御用、あなた方にはより確かになります。 |
新共同 | では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。 |
NIV | Finally, my brothers, rejoice in the Lord! It is no trouble for me to write the same things to you again, and it is a safeguard for you. |
註解: パウロは前章の終りをもってこの書簡を終らんとしたものと思われる。ただし「終に言はん」 loipon は殊に後代においては「なお」のごとき意味に用いられる故、単に書簡の中の主題の変換に伴う連結の鎖のごとくに用いられたものと見ることを得。パウロは繰り返してピリピの信徒に歓喜の生活をすすめている。大なる歓喜なき生涯は、真の信仰の生涯ではない。
なんぢらに
註解: 「同じこと」は「喜べ」とのすすめを指す(ピリ2:18。ピリ4:4)。本書簡の基調をなす処は、パウロの苦難の中にある歓喜であり、またこの歓喜をピリピの信徒にすすめていることである。これは幾度奨 めても飽く処を知らず、またピリピの信徒のためには当然なるすすめである。
辞解
[同じこと] 上記のごとく解すべきであるが(L2、B1)これを3:2以下の内容を示すと解する説(M0)あり、これによれば或は以前に他の書簡が認 められたものではないかと考えられている(ポリカルプの書簡による)。上掲の説を採る。
口語訳 | あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。 |
塚本訳 | あの犬どもに気をつけよ、あの悪い「労働人」どもに気をつけよ、あの「切り取り」どもに気をつけよ!(あの連中は割礼割礼と言うが、ただ肉を取っただけのことだ。) |
前田訳 | 犬どもにご注意を。悪いやり手にご注意を。えせ割礼にご注意を。 |
新共同 | あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。 |
NIV | Watch out for those dogs, those men who do evil, those mutilators of the flesh. |
註解: 犬は不潔なる存在、すなわち真の神を信ぜざる異教徒等を指して軽蔑を示す語として用いられる。本節の場合、パウロを非難するユダヤ的キリスト者(ガラ2:4。使15:1、使15:24)を指す(L1、M0、B1)。ピリピにかかる偽使徒、偽教師が事実いたかどうかは不明だけれども、おそらくその影響の及ぶ危険を感じたのであろう。なおこの「犬」および次の二つの注意人物を単にユダヤ人中の扇動者と解する説もあり(L3)。
註解:労働人 は伝道的活動を為す人、Uコリ11:13のごときも悪しき労働人である。ユダヤ的キリスト者のごときその最悪の者である。
註解: 「肉の割礼ある者」は原語「カタトメー」katatomê で「切断」または「身に傷つける」ことを意味し、モーセの律法において禁ぜられている処である(レビ21:5。T列18:28)。ここでは「教会を損傷する者」の意味に用い、偽使徒らを指す。次節の「割礼ある者」原語「ペリトメー」peritomê と語呂を対比して巧みに表顕している。「心せよ」と三回繰り返して、彼らに深き注意を促す。「犬」「悪しき労働人」「肉の割礼ある者」の何れにも定冠詞を附し、読者が直ちにそれと悟り得ることを示す。
口語訳 | 神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。 |
塚本訳 | (割礼は無いが、)私達こそ本当の割礼者である。(その証拠には、)私達は神の霊によって神に仕え、(ただ)キリスト・イエスを誇りとし、(決して)肉に、(人間の特権に)頼らないからだ── |
前田訳 | われらこそ真の割礼のものです。われらは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスによって誇り、肉に頼りません。 |
新共同 | 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。 |
NIV | For it is we who are the circumcision, we who worship by the Spirit of God, who glory in Christ Jesus, and who put no confidence in the flesh-- |
註解: 外部的形式により、律法の規定に遵 い、礼拝するものとは正反対に、「霊と真とをもって」(ヨハ4:23)すなわち心の中に宿る神の霊によって神に向って真実なる心にて礼拝すること、これはキリスト者の礼拝である。
キリスト・イエスによりて
註解: パウロが4−6節にあるごとき誇りではなく、また一般のユダヤ人がその血統、その選民たること、その律法等に誇る誇りでもなく、信仰によってキリスト・イエスにあることの誇りである(Tコリ1:31)。
註解: 肉を恃 むとは肉的方面(血統、律法の行為等)にその確信の基礎を置くことをいい、ユダヤ人の態度を指す。キリスト者はかかる態度を取らず、キリスト・イエスによって新たに生れる霊の生命に恃 む者である。かかる者こそ割礼ある者すなわち肉の穢れを取り除いた者であり、前節のユダヤ的キリスト者とは正反対である。ユダヤ的キリスト者は肉体に割礼を受けても実は汚れしものであり、キリスト者は肉に割礼を受けるも受けなくとも、真の割礼ある者である。
辞解
「我らは割礼ある者なり」が本節の初頭にあり意味を強調する。「真の」は原文になし。
口語訳 | もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。 |
塚本訳 | 私(個人)としては肉に頼ることも出来るのであるが!(しかし)もし誰か他の人が肉に頼れると思うなら、私はなおさらそうである。 |
前田訳 | もっとも、わたし自身肉にも頼れます。もし他のだれかが肉に頼れると思うなら、わたしはそれ以上です。 |
新共同 | とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 |
NIV | though I myself have reasons for such confidence. If anyone else thinks he has reasons to put confidence in the flesh, I have more: |
註解: 前節の「肉に恃 まぬ」は恃 むべき所がないからではなく、恃 むべき数多くの点があるにもかかわらず恃 まないのであった。恃 み得ずして恃 まないのならば当然のことである。然るに恃 むべき充分な理由を持ってこれを恃 まないとすれば、これには充分な理由があるはずである。Uコリ11:18参照。
もし
註解: パウロがキリスト・イエスを信ずるに至ったのは、自己に肉に恃 むべき材料がなかったからではなく、この点においては他の人々以上恃 むべき所があることを強調する。
口語訳 | わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、 |
塚本訳 | 私は(モーセ律法に拠って)八日目に割礼された者で、イスラエルの血族、(殊に名誉ある)ベニヤミン族の出、ベブライ人中のヘブライ人、律法の点では(最も厳格な)パリサイ人、 |
前田訳 | 八日目に割礼され、イスラエルの民、ベニアミンの族(やから)の出で、ヘブライ人ちゅうのヘブライ人、律法についてはパリサイ人、 |
新共同 | わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 |
NIV | circumcised on the eighth day, of the people of Israel, of the tribe of Benjamin, a Hebrew of Hebrews; in regard to the law, a Pharisee; |
註解: 純粋のイスラエルの子孫たることを示す。アブラハムの庶子 、イシマエルの子孫は十三歳の時に割礼を受け、異邦人の改宗者は、改宗の際に割礼を受ける。パウロはかかる種類の者ではない。
イスラエルの
註解: アブラハムの嫡孫 ヤコブの血統たり(ロマ11:1、Uコリ11:22)。
ベニヤミンの
註解: ベニヤミン族はイスラエルの最初の王サウルを産し、ユダ族と親しく、多くの軍将を出し、また十二支族中約束の地において生れしべニヤミンの子孫たる等の点において誇りを持てる支族であった(ロマ11:1)。
ヘブル
註解: ユダヤ人の中ギリシャ語のユダヤ人(使6:1)と区別して、ヘブル語を保持している生粋のユダヤ人をヘブル人と称した。以上の三つはパウロの生れながらの身分の誇りである。以下の三つは彼の生活態度に関する誇りである。
註解: 律法を最も厳格に守ることを主義とするパリサイ派に属していた。ユダヤ人の中の最も宗教的な人々である。
辞解
[律法] この場合冠詞を欠く、一般的に律法を指す、モーセの律法に限らず。
口語訳 | 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。 |
塚本訳 | (ユダヤ教に対する)熱心の点では、(キリストの)教会の迫害者、律法による義の点では非難の打ち処ない者であった。 |
前田訳 | 熱心については集まりの迫害者、律法に関する義については落ち度なしです。 |
新共同 | 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 |
NIV | as for zeal, persecuting the church; as for legalistic righteousness, faultless. |
註解: パウロがキリスト教徒を迫害したのは(使8:1−3。使9:1、2)そのユダヤ教に対する熱心のためであった。パウロは迫害の行為については後悔していたけれども(Tコリ15:9)その熱心については誇りを感じていた。
註解: 律法の規定を行うだけで義と考える考え方を「律法によれる義」と呼んでいる。この見方をすればパウロは俯仰 天地に恥じず、何人も彼を非難し得ないほど完全に律法を守った。それでも彼は「これによりて義とせられず」(Tコリ4:4)と感じたのが彼の回心の基礎である。
3章7節 されど
口語訳 | しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。 |
塚本訳 | しかし(前には)自分に得であ(ると思っ)たこれらの特権も、キリストのために(かえって)損と思うようになってしまった。 |
前田訳 | しかしわたしに益であったこんなものを、キリストのゆえに損と思いました。 |
新共同 | しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 |
NIV | But whatever was to my profit I now consider loss for the sake of Christ. |
註解: 「キリストのために」は「キリストの故に」の意味、すなわちキリストを信ずるに至った時、パウロにとりては価値の転倒が起った。価値の観念は信仰に入ることによりて一変する。世人が価値ありと思惟する処のものは無価値であり、価値なしとして無視する処に真の価値を発見する。パウロが誇っており恃 んでいたものは、彼の益であったが今は損となってしまった。
3章8節
口語訳 | わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、 |
塚本訳 | 否、ただにそれ(らの特権)ばかりでなく、わが主キリスト・イエス(を知る)の知識が(余りにも尊く)優れているために、本当は(今は)一切合切のものを損だと思っている。(実際)彼のために何もかも損してしまったのだが、(そんなものは皆)塵芥と思っている。これはキリスト・イエスを自分の有とし、 |
前田訳 | そして今も、わが主キリスト・イエスを知ることのすばらしさのゆえに、すべてを損と思っています。彼のゆえにすべてを損しましたが、キリストを得、 |
新共同 | そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 |
NIV | What is more, I consider everything a loss compared to the surpassing greatness of knowing Christ Jesus my Lord, for whose sake I have lost all things. I consider them rubbish, that I may gain Christ |
註解: 単に4−6節に掲げし誇りのみならず、その他の凡てのものを無価値と考えた。否、無価値以上これを損と考え、塵芥 、糞尿のごときものと考えた。これキリスト・イエスを知ること、すなわち彼との霊的一致の生涯を送ることが非常に優れた価値あるが故である。無限大の価値の前には、他の如何なる価値も零に等しい、かつ人はこれを損とすら感ずるに至る。パウロはその誇り得べき凡てのものを棄てて、嫌忌されるキリスト信徒、しかもその使徒となった。もし彼にしてユダヤ人として留まったならば、立派な成功者としてこの世に時めいたであろう。
辞解
[然れど] 「否、然のみならず」。
[知る] 単なる知識ではなく、その教えに与り、イエスと偕なる生活に入ることを体験すること。
[塵芥 ] skybalon は食物の残滓 すなわち糞、食卓の食い残り、すなわち残飯、生活物資の排除物すなわち塵埃 等を指す。
3章9節 これキリストを
口語訳 | 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。 |
塚本訳 | 彼に在ることが出来──(もちろん)これは律法(を守ること)から来る私自身の義によるのでなく、キリストの信仰による(義、)すなわち信仰に基づいて神から与えられる義によるのであるが── |
前田訳 | 彼に属すると認められるために、それらをごみと思っています。律法から来るわが義を持たず、キリストのまことによる義、まことに応えて神から来る義をもつのです。 |
新共同 | キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 |
NIV | and be found in him, not having a righteousness of my own that comes from the law, but that which is through faith in Christ--the righteousness that comes from God and is by faith. |
註解: パウロが凡ての物を損しても顧みなかった目的を本節および次節に述べている。本節においては(1)キリストを獲 ること、(2)キリストにあるを認められること(直訳 ─ 「キリストの中に見出されること」でその意味は事実キリストの中に在ることである)がその目的である。この二者はキリスト我らの中に住み、我らキリストの中に生きることの二方面を示す(ガラ2:20。ロマ6:11)。この二者は二つにして一つである。そしてこれは神によりて義とせられし状態であってその義は「律法より出づる己が義」ではない。すなわち律法を行ったことを己の功績と考え、これを神の前に持ち出し神より義と認められんとする心、換言すれば「律法の行為による義」ではなく、「キリストを信ずる信仰による義」である。そしてこの信仰による義とは、「神より出でて信仰の上に置かれる義」(直訳)であり、神が我らの信仰を見てこれを義と認め、この信仰の上に神の義認の印を押し給うことである。「律法による」は「信仰による」に対し、「己が」は「神の」に対する。そしてこの二種の義は全然性質を異にす(ロマ3:21、22)。
口語訳 | すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、 |
塚本訳 | かくて(ますます深く)キリストを知り、その復活の力を受け、その苦難に与り、彼と同じような死様をして、 |
前田訳 | それはキリストを、すなわち彼の復活の力と彼の苦しみを共にすることを知るためであり、彼の死と同じ形にされて、 |
新共同 | わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 |
NIV | I want to know Christ and the power of his resurrection and the fellowship of sharing in his sufferings, becoming like him in his death, |
註解: 前節と同じく8節の目的を示す。すなわちキリストとその復活の力とを自分のものとし、自分の体験に持つことがその一つである。「復活の力」とはキリストの復活なる事実が我らの信仰の上に及ぼす力を指す(Tコリ15:54−58)。▲「復活の力」はまた「復活そのものの力」すなわち神の力によって死ぬべき身体を復活させる力の意味にも取ることができる。
註解: 「效 いて」は「同化して」「同型となりて」の意。キリストと一体の関係に入ることは、その死と苦難とを共にすることである。Uコリ1:5。コロ1:24。Tペテ4:13。神の愛をもって人類を罪より救わんとする者は死の苦を苦しむ(ロマ6:5。Uコリ4:10)。
3章11節
口語訳 | なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。 |
塚本訳 | あわよくば私も(最後に)死人の復活に達したいためである。 |
前田訳 | いかにもして死人たちからの復活に達したいのです。 |
新共同 | 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。 |
NIV | and so, somehow, to attain to the resurrection from the dead. |
註解: パウロの希望である。未来の希望あるが故に現在の凡ての特権も凡ての快楽もこれを放棄することができる。「死人の中より甦る」とは永遠の生命を受けるための復活を指す。パウロはこれを望んで凡てを棄てることができた。
辞解
[如何にもして] 「もし何とかしてできるなら」というごとき意味。
3章12節 われ
口語訳 | わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。 |
塚本訳 | しかしこれは(何も)既に(それを)捉えたとか、既に完成されているとか言うのでは(もちろん)ない。ただもしや私も(それを)捉えることが出来はしないかと、走っているまでである。私もキリスト・イエスに捉えられたのだから。 |
前田訳 | わたしがすでにこれを得たとかすでに全うされたわけではなく、キリストによってわたしが捕えられたがゆえにますます捕えようと努めるのです。 |
新共同 | わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。 |
NIV | Not that I have already obtained all this, or have already been made perfect, but I press on to take hold of that for which Christ Jesus took hold of me. |
註解: 8−11節はキリスト者の現在における生活態度とその約束せられし将来の栄光とを示したものであるが、パウロはすでにこれらをことごとく獲得し、また完全に所有して完成せられし者となってしまっているというのではないとの意。キリスト者を獲 ること、キリストの中に見出されること、神によって義とされ、栄光を与えられることはキリスト者の信仰である。信仰としては確実にこれを所有しつつ、現実においてなお多くの不完全さを伴う。すなわち信仰における完全なる平安と現実における戦々競々たる努力とを持つべきである。
辞解
「取れり」の目的語を(1)キリスト、(2)復活、(3)道徳的完全、(4)褒美等と解する諸説あれども上記のごとくに解す(E0)。
註解: 捉えようとして熱心に追求するのがパウロの態度であった(Tコリ9:24−27)。神の約束の誠実さを確信しつつ(Tテサ5:24)、自己の弱さにつき懼れ戦 くのが真のキリスト者の態度である。2節の人々のごとく自己の肉の誇りによりて、すでに神の救を完全に保持せりと考えるごときは誤りである。
キリストは[
註解: 私訳「かかる事情の下に我はキリストに確 く捉えられたり。」キリストは己を捉えんとする者を捉え給う。パウロはキリストに捉えられたる者となった。
辞解
「かかる事情の下に」と私訳せし eph’hô についてはロマ5:12辞解参照。難解の関係代名詞句なり。
[捉えたまへり] 単にダマスコにおける回心の事実を指すとする(M0)は適当でない。
3章13節
口語訳 | 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 |
塚本訳 | 兄弟達よ、私はまだ自分で(それを)捉えたなどとは考えていない。しかし(ただ)一つの事──後ろのものを忘れ、前のものを追い求めながら、 |
前田訳 | 兄弟よ、わたし自身まだ捕えられきったと思ってはいません。ことはただひとつです。すなわち、後のものを忘れ、前のものへと手を差し伸べ、 |
新共同 | 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 |
NIV | Brothers, I do not consider myself yet to have taken hold of it. But one thing I do: Forgetting what is behind and straining toward what is ahead, |
註解: 前節の「追求む」をさらに詳述し、パウロがしばしば用いしオリムピヤの競技の例をもって説明する。すなわち競争者がその走り了 った過去のことを忘却して前方に向って身を伸ばして突進するがごとく、パウロは過去に属する肉の誇り、自己の過失、罪、キリスト者の迫害等を凡て顧みることをせずに前方に突進しているのである。或は過去に属する肉の誇りに恋々たること、エジプトの肉の鍋を慕うこと、また自己の過去の罪を思うて意気消沈することは、キリスト者の取るべき態度ではない。
辞解
[唯この一事を務む、即ち] 「唯一つ」と直訳すれば原文のままとなり、意味も通じる。唯一つを「思う」「云う」「為す」「知る」等を補充する要なし。
[励み] 原語「・・・・・・の方に手を(または身体を)伸す」の意、取ろうとして努力する貌。
3章14節
口語訳 | 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 |
塚本訳 | (或る)目標に向かって、すなわち神がキリスト・イエスにおいて天上に招き給う褒美に向かって(ひた走りに)走っているのである。 |
前田訳 | 目標を指して走っています。キリスト・イエスによる上への神のお召しという賞品を目ざしています。 |
新共同 | 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。 |
NIV | I press on toward the goal to win the prize for which God has called me heavenward in Christ Jesus. |
註解: 私訳「キリスト・イエスにある、神の、上なる召しにかかる褒美を得んとて標準 に向って追及す」。「神の上なる召し」とはキリスト者は天国の民たるべく神に召された者であることを意味す。その褒美とは、その召命に伴い多くの褒美が与えられること、復活、栄化、神の国の栄光、永遠の生命のごとし。これは「キリストに在る」者にのみ与えられる処のものである。この褒美は競技における賞品を指す語であり、凡ての競技者はこれを得んとして追求める。
3章15節 されば
口語訳 | だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。 |
塚本訳 | だから(兄弟達よ、既に)完成した者は皆(──君達も私も──)このことを心がけようではないか。そしてもし君達に何か考え違いがあれば、それも神が示し給うに違いない。 |
前田訳 | それで、成熟したものとしてわれらは皆このことを考えましょう。もしあなた方が何か別の考えならば、神はこのことをもあなた方にお示しになりましょう。 |
新共同 | だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。 |
NIV | All of us who are mature should take such a view of things. And if on some point you think differently, that too God will make clear to you. |
註解: 「成人したる者」はまた「全き者」とも訳される teleios である(マタ5:48。エペ4:13。コロ1:28。コロ4:12。ヘブ5:14)。すなわち信仰は、人がその不完全のまま完全に向って努力しつつある貌そのままをもって完全である。換言すれば神の完全さに対して(すなわちその完全さによる救いに対して)完全に信頼すると同時に、自己の不完全なる肉を殺してこれを撲 ちたたきつつ完全を目あてに猛進する処に信仰の完 き人が成立する。神の救いに対して徹底的に信頼し得ざる者は不信仰であり神に義と認められない。またこれを信ずるの故をもって自己がすでにこれを獲得したもののごとく思って凡ての努力を棄てる者は、救われて神の僕たるべき者がかえって神を僕として己を救わせようとする者であって真の信仰ではない。この不信仰と誤れる信仰とは何時の時代においても多く存する。「斯くのごとき思」は、完全に向って努力しなければならぬこと。なお要義二参照。
註解: この一句は括弧に入れる心持にて解するを可とす。パウロはピリピの信徒中にも種々の具体的問題において、パウロの上述せる処とは異なる思いをいだく者もあることを知っていたけれども、パウロは他人の信仰を自分の信仰をもって強圧的に統一せんとせず、その誤謬の矯正を神に任せ、神がこのことすなわち完 き者の立つべき立場を示し給うであろうことを教えている。
3章16節 ただ
口語訳 | ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。 |
塚本訳 | ただ私達は(その時その時に)自分が達した(完成の)程度に応じて歩こうではないか。 |
前田訳 | ただ、われらが達したところに応じてふるまいましょう。 |
新共同 | いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。 |
NIV | Only let us live up to what we have already attained. |
註解: 解釈上問題多き箇所である。現行訳のままに解すれば、各人はその信仰上の理解において等差があり、その到達点はみな異なるのであるが、その到達せる処の如何により自己の歩を運ぶべきで、その点から完全に向って進み行くべきであるとの意味となる。もし本節を「ただ(またはしかしながら)我らの至れる所と同様に歩むべし」と訳すれば、各人異なる思いを持つとしても、パウロらの到達せる処すなわち15節前半のごとき思いと同じように歩むべきであるとの意に解す。現行訳のごとき意味に解するを可とす。
辞解
「至れる所」とは何を指すかにつき(イ)キリスト者としての知識、(ロ)道徳的行為の規則、(ハ)行為と対立する意味の信仰、(ニ)心の状態等種々の解あれど、特にかく限定するよりも、完全に到達するまでの途中の状態と見るべきである。▲15節は信仰の到達点と、これに達しない人の態度とを教えている。ただし凡ての信者がみな同一水準に到達したと考えることはできない。その場合、信仰箇条等によって偽の信仰を装うべきではなく、各自その与えられたところに随って信実をもって行動すべきである。
要義1 [己が義と信仰の義]9節にパウロは「己が義」と「信仰の義」、なお詳述すれば「律法による己が義」と「信仰による義、すなわち信仰の上に置かれる神の義」とを対立せしめている。この対立は到る処に述べられるパウロの信仰の基調であるがここには極めて明瞭にこれを説明している点に注意を要す。すなわち信仰によって義とされるとは神が我らの信仰(神に対する絶対的信頼)を嘉 し給い、この信仰の上に神の義を置き給うこと、すなわち信仰そのものの故にその人を義とし給うことであり、律法の行為によって義とせられんとすることは自己の行為そのものが義であることを神の前に主張せんとする心である。前者は与えられたる義であり後者は自ら所有すと信ずる義である。前者は恩恵であり後者は功績である。前者は神より出で後者は自己より出でたものである。この二者の根本的差異を知ることにより始めて信仰によりて義とされることの秘儀を把握することができる。
要義2 [不完全なる完全]キリスト者の中に三種の誤った信仰の型がある。その一は、自分は何時までも不完全であり何時までも救われず、常に完全を求め救われんことを求めて不安の日々を送ることが信仰であると考える型であり、その二は、救いは凡て神にあるが故に我らの救いは絶対に安全であり、如何なることがあっても救いより漏れることがなしと信じて絶対に安心しきっており、その結果、救いのために精進すること、または畏れ戦 くこと等を不信仰と考える型である。その三は、救いは神より来ると見る点は第二の型に類するけれども、全く潔められるまでは救われずと見る点において第一に類する。それ故に潔められるまで努力し、祈り求め、ついに全く潔められるに至ってその救いは完 うせられたりと信ずる型である。これらの何れもがパウロのここに12−15節に述ぶる処の信仰とは異なっている。パウロの信仰は、完 き者が不完全なる者であるとの信仰である。すなわち神の救いの御業の完全さに絶対に信頼するものは、その点において毫 も不安を有せず、神の救いの完全さには些 の不安をも欠陥をも認めない。しかもかかる人は同時に一層自己の不完全さを感じ、神の完全なる救いを自己の中に完全に実現せんと努力するのである。現在において完全に潔められるというのではなく、また何時までも救われるや否や不明であるというのでもなく、またすでに救われてもはや精進の必要がないというのでもない。「キリスト者的完全はキリスト者的不完全より成る」なる逆説が成立する。「キリスト者は出来上がった者ではなく出来つつある者である。それ故にキリスト者である と言うものはキリスト者ではない 」(ルーテル)。
要義3 [信仰より出でざるは罪なり]信仰の理解および進歩には各人につき各種の度合いがある。しかもこれらがみな同一の目的に向って進んでいることにおいて変りがない。それ故に種々の問題につき理解の程度の差異があり、時には誤謬もあり得ることは争われない事実である(例えばロマ14:2−12の場合のごとき、その他Tコリ全体に亘 る論点のごとし)。それ故に同一の目的に向って精進しなければならないことは如何なる程度のキリスト者についても同様であるが、唯、各キリスト者は形式的に他人の真似をなし、または無意味に行動してはならない。各々自己の到達せる信仰により自ら判断してその歩みを定めなければならない。カトリック教会と異なる点はこれである。信仰の一つであることと、信仰の歩みに種々の程度があることとは双方ともこれを認めなければならない。
3章17節
口語訳 | 兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。 |
塚本訳 | 兄弟達よ、皆で私を真似る者になれ。また君達と同様私達を手本にして歩いている人達に目を留め(、その人達をも手本にせ)よ。 |
前田訳 | 兄弟よ、共にわたしにならってください。あなた方はわれらを模範としますが、事実そのように歩むものに注目してください。 |
新共同 | 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。 |
NIV | Join with others in following my example, brothers, and take note of those who live according to the pattern we gave you. |
註解: 直訳「我が共同模倣者となれ」で或は「我と共にキリストに效 う者となれ」(B1)と解し、または「共同して我に效 う者となれ」と解する説があるけれども現行訳のごとく解して可なり。自己を模範として提供し得ることはパウロの大なる確信の結果である。彼は生来 の彼を模範とすべしとの意味ではなく、十字架の贖いによりて新たにせられし彼を效 うべしとの意味である。
註解: 「汝らは我らを模範として有するが故に、かく歩む者共を注視せよ」(私訳)。「かく」は「我に效 いて」の意。すなわちパウロに效 うためには同時にパウロに效 いて歩む人々を注意して観察することが必要である。ピリピの信徒もパウロやその他の人々を模範として有っているから。かく言いてパウロは彼の信仰とは異なる信仰に移り行く者またはこれを主張する者に対する警戒を与えんとするのである。
3章18節 そは
口語訳 | わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。 |
塚本訳 | 何故なら、度々君達に言ったように、今また涙を流して言うように、キリストの十字架の敵として歩いている者が多いのだから!── |
前田訳 | それは、たびたびわたしがいったし、今は泣いていいますが、キリストの十字架の敵として歩むものが多いからです。 |
新共同 | 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。 |
NIV | For, as I have often told you before and now say again even with tears, many live as enemies of the cross of Christ. |
註解: 「キリストの十字架に敵して歩む者」とはユダヤ的キリスト者、律法主義的キリスト者と見るべきである。すなわちキリストの十字架の贖いによりて救われることを否定し、律法による己が義によりて救われることを主張する人々である。かかる思想は結局キリストを否定するものであり、キリストの十字架に敵する者である。この種の者はユダヤ人にとりて信仰的に見えるので、十字架の救いに対して最も危険な敵である。ゆえにこのことにつきパウロはしばしばこれをピリピの信者に告げ、今またこれを思いつつ悲しみをもって涙に暮れつつこの書簡を認 めたのであった。
辞解
本節は構造上問題多し、なお次節の解釈の関係上「十字架の敵」を快楽主義者、享楽主義者、無律法主義者と解する説あれども取らず。次節註および辞解を見よ。
3章19節
口語訳 | 彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。 |
塚本訳 | あの人達の最後は破滅、その神は自分の腹、その光栄(と考えているもの)は(実は)恥であって、あの人達は(ただ)地のこと(ばかり)に気を取られているのだ! |
前田訳 | 彼らの終わりは滅びです。彼らの神は腹で、彼らの恥を誇り、地上のことで頭がいっぱいです。 |
新共同 | 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 |
NIV | Their destiny is destruction, their god is their stomach, and their glory is in their shame. Their mind is on earthly things. |
註解: 前節「キリストの十字架の敵」の説明である。我らの救いはただ十字架にあり、十字架に敵するものはたとい如何にキリスト者であると自任自称しても結局は滅亡より外にない。そして彼らの神はイエス・キリストを賜える父なる神ではなく「己が腹」であり、己自身の内的状態の如何である。すなわち彼らは己の力により自己の内面を潔むることが救いであると考えるのである。また彼らの光栄は栄光の体に甦えらされることではなく、自己の有する血統、能力、律法、歴史等(4−6節参照)取るに足らざるものであり、塵芥 のごときものであり、極言すれば一つの恥辱に過ぎない。かくして彼らは唯地的の事柄、この世の事柄のみに没頭している。要するに彼らは人本主義であり、人間の能力に頼り、これに誇り、これを重んじて滅亡に向って進んで行くのである。
辞解
「腹」を飲食の慾と解し、「恥」を道徳的汚穢と解することにより、「十字架の敵」を快楽主義的無律法主義者と解する説が一般に行われている(M0、E0、L3、L2)けれどもロマ16:18の場合と同じく上記の如くに解した。人間中心主義と神中心主義、天の国と地の国との対立である。「恥」はまた「恥処」とも訳される言葉故これを割礼の問題に関連せしめ割礼を誇りとする者に対する非難を意味すると解する説あり。
口語訳 | しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。 |
塚本訳 | しかし(私達はそうであってはならない。)私達の故国は天にある。私達は主イエス・キリストが救い主として其処から来給うのを待っているのである。 |
前田訳 | われらの国籍は天にあり、そこから救い主としての主イエス・キリストを待ちうけています。 |
新共同 | しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 |
NIV | But our citizenship is in heaven. And we eagerly await a Savior from there, the Lord Jesus Christ, |
註解: 十字架の贖いによりて救われ、義とせられし我らは、天の国に属するものであり、地上のことにつきては何らの欲求もなく、人間的価値につきては何らの誇りを有たず、また有つ必要もない。天において大なる富を持ち大なる誇りを有するが故である。
辞解
[されど] 原文「何となれば」とあり、文章の飛躍がある。すなわち「されど我らは天のことを思う、何となれば」というべき場合である。
[国籍] 「国籍」と訳されし politeuma は politeia と異なり、むしろ単に「国」と訳すべきである。ただし統治権の方面より見たる「国」basileia ではなく人民の集団として見たる「国」である。
註解: キリスト者の霊の国は天にあり、従って我らの霊は地上の何物にも捉えられず、何物にも望みを置かず、唯キリストの再臨を待望するの生活を送るものである。救い主イエス・キリストは天より来りて我らを救い給う。
辞解
[待つ] apekdechomai は「手を差伸べて遠方より来るものを受くる」ごとき貌で切なる待望を表す(ロマ8:23辞解参照)。
3章21節
口語訳 | 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。 |
塚本訳 | (その時)彼は私達の(この)卑しい体を御自分の栄光の体と同じ貌に変え給うであろう──万物を己に従わせ得給う御力によって! |
前田訳 | 彼はわれらのいやしい体を変えて、彼の栄光の体と同じ形になさるでしょう。それは彼が万物を彼に従わせえたもうという、その力によってです。 |
新共同 | キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。 |
NIV | who, by the power that enables him to bring everything under his control, will transform our lowly bodies so that they will be like his glorious body. |
註解: イエスの再臨の時、彼はその無限の能力によりて死ぬる者を朽ちざる体に甦らせ、生き残れる我らを同じ栄光の体に化せしめ給う(Tテサ4:16、17。Tコリ15:52)。それ故に我らは地のことを思わず天のことを思い、栄光の国を望み、キリストの救いを待つ。
辞解
[萬物を己に服 はせ得る力] キリストは萬の物をその足の下に服 わせて後、国を父なる神に付し給う。これが終りである(Tコリ15:23−28)。
要義1 [十字架の敵]パウロにとりてイエスの十字架の贖いが、神の恩恵の顕現として唯一の救いの途であった。これ以外に救いの途を見出さんとする者は、キリストの死を空 しからしめ、神の恩恵より離れた者である(ガラ5:4)。それ故にその途がたとい肉の眼に立派に見え、また社会的に有益無害であっても、それは十字架に敵するものであり、パウロにとりては正面の敵であった。それ故に彼の弟子または同国人にしてこの方向に進む者をば彼は非常なる悲しみをもって眺めざるを得なかった。パウロの心が如何に徹底的にキリストとその十字架とに依り頼んでいたかを見ることができる(Tコリ2:2)。
要義2 [神の国とこの世の国]「我らの国は天にあり」といい、「我が国はこの世のものならず」(ヨハ18:36)という場合、地上の国において一定の国籍を有する者は二重国籍を有する者のごとき態度を取らざるを得ざるにあらずやとの疑問を有つ者があるけれども、然らず。天の国、神の国は霊の国であって、我らが信仰により新たに生れた際に上より我らに与えられし霊の生命の属する所であり、地上の国は生来 の我ら、肉の我らの属する所である。前者は神によりて支配される全世界に亘 れる見えざる霊の国であり、後者は主権者によりて支配される地上の国家である。前者は神に従う霊の秩序を目的とし、後者は主権者に服 う地上の秩序を目的とする。前者は甦りの完全なる体をもって成立ち、後者はアダムの子孫たる罪の体もって成立つ。そしてこの二者は同一の原理すなわち神の愛と神の義とによりて支配される点において同一であるけれども、神の国においてはそれを妨げる何らの妨害がなく、この世の国においては肉の念がこれを妨げる故にその実状と効果とを異にする。