黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版第1ヨハネ書

第1ヨハネ書第1章
1-1 序言 1:1 - 1:4

註解: 1−4節は全書簡の序言でありあたかもヨハ1:1−18のごとき地位を占めている。然のみならずこの両者の間に著しき類似があり、何れも肉体となりて来り給えるキリスト・イエスに関する宣言である。唯ヨハネ伝においては客観的に神の経綸の立場より肉体となり給える言(ロゴス)なるイエスを記述し、本書においてはヨハネの経験を中心とし、證人(あかしびと)の立場において生命の言なるイエスを記述しているの差異がある。この数節の構造はやや難解であるが、第3節の「告ぐ」が全体の述語で第1節はその客語、第2節は挿入節である。

1章1節 太初(はじめ)より()りし(ところ)のもの、[引照]

口語訳初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について—
塚本訳(世の)始めから(すでに)おられたもの、(それは)わたし達が(この耳で)聞いたもの、自分の目で見たもの、直観しまた自分の手でさわったもの、(すなわち)命の言葉について、──
前田訳はじめからあったもの、われらが聞き、親しく目にし、よく見て手で触れたもの、すなわち、いのちのことばについて(お書きします)。
新共同初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――
NIVThat which was from the beginning, which we have heard, which we have seen with our eyes, which we have looked at and our hands have touched--this we proclaim concerning the Word of life.
註解: ヨハ1:1の「太初に言ありき」に相対応し、「言」なるキリストは被造物の存在する以前より実在し給うた所のものであることを示す。ヨハネはまず第一に先在のイエス・キリストについて述べているのである。
辞解
[太初] archê は被造物の世界の初めという意味ではなく、被造物の造られる以前、すなわち「永遠の昔より」というごとき意味。
[所のもの] ho は中性関係代名詞で、本節に四回繰返され、さらに第3節に一回用いられている。何れも第3節の「告ぐ」の目的語である。この語は男性にあらざるため種々に解されているけれども、生命の言なるキリストを指すと見るべきである。中性の関係代名詞を用いし所以についても種々に説明されているけれども、この場合その代表する名詞の文法上の性等を眼中に置かず、生命の言なるキリストに関する万事を総括せる観念として示したのである(Tコリ15:10ヨハ6:37等)。

我等(われら)()きしところ、()にて()(ところ)

註解: この世に来り給えるキリスト・イエスの御声および御姿はヨハネおよびその他の弟子たちが、直接その肉体の五官をもって見聞きし得る処のものであった。ヨハネの告知せんとする生命の言は、抽象的概念にあらず、イエスにおいて具体化せる現実の事実であることを示す。この二句によりてヨハネは地上に生活し給えるイエスを表顕している。
辞解
[我ら] 複数の主格を用いることにより、ヨハネの証せんとする事実は彼一人の経験にあらず、凡ての弟子たちの共通の経験であることを示す。
[聞きし、見し] 現在完了形であって、かつて見聞しその記憶が今も残存することの意味である。「我らの目にて」を殊更(ことさら)に書き加えている所以は心にて見ることを唱える異説に対する警戒のためであり、キリスト・イエスの肉体的実在性を強調するためである。イエスの肉体は決して空なる存在(仮現説)ではなく、またキリストは決して見ることができない存在ではなかった。「見る」 horaô につきては次節を見よ。

つらつら()手觸(てさは)りし(ところ)のもの、

註解: この二つの動作はルカ24:39ヨハ20:27等の復活のキリストに対する弟子たちの態度をいったものであろう。かく解するを可とする所以は(1)これによりて第1節が先在のキリスト、成肉身のキリスト、および復活のキリストの三方面を示すことと(2)動詞の時法が現在完了形より急に不定過去形に変化することとである。なおかく解せずして単にイエスの肉体的存在を証明せんがための詳述にすぎずと解し、動詞の時法の差異を無視する見方もある。
辞解
[つらつら見る] theaomai は前文「目にて見し」の horaô と異なる。horaô は見えることであり、theaomai は意思を用いて熟視することである。
[觸る] 手さぐりをするごとき貌(創27:12)。

[(すなは)ち]生命(いのち)(ことば)につきて、

註解: 上述せる四つの「所のもの」を言い換えるならば、それは「生命の言」である。この「生命の言」は第2節の説明およびヨハ1:4ヨハ1:9によりて明らかなるごとく、イエス・キリストのことである。本書全体はこの生命の言彼自身を伝えることをその使命としているのである。
辞解
[生命の言] 「生命を与える言(ロゴス)」の意味ではなく「生命を内容とする言」すなわち「生命即言」(B1)「言即生命」としてのイエスの意味である。すなわちヨハネはイエスを「生命の言」と呼んでいることとなる。この観念が本書全体の枢軸である。

1章2節 ――この生命(いのち)すでに(あらは)れ、[引照]

口語訳このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである—
塚本訳この命が自分を現わし、(それを)わたし達は見て、証明し、またこの永遠の命をあなた達に告げる。これは(始めには)父と共におられたが、(今)わたし達に自分を現わしたのである──
前田訳いのちは現われました。われらはこの永遠(とこしえ)のいのちを見、証し、あなた方にお知らせします。これは父のもとにいましたもので、今われらのところにお見えになりました。
新共同この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――
NIVThe life appeared; we have seen it and testify to it, and we proclaim to you the eternal life, which was with the Father and has appeared to us.
註解: 本節は第1節と第3節との中間の挿入句である。前節末尾「生命の言」を受けて単に「生命」と称しているけれども、意味においては同一であり、キリスト・イエスを指す。「顕れ」は啓示的宗教なるキリスト教には重要なる地位を占める語であってヨハネ特愛の文字である。太初に神と共に在し給える言なる生命がイエスの肉体を取りてこの世に来り給えることがすなわちこの生命の顕現である。それまでは真の生命はこの世に存在しなかった。
辞解
[すでに顕れ] 不定過去形の動詞なる故にこの意味あり過去における一時の出来事を指す、イエスの降世の事実を伝えるもの。

われら[(これ)を]()(あかし)をなし、

註解: ヨハネとその弟子たちは、顕れし生命なるキリストを目撃してこれを心に留め、他に向ってこれを証しつつあるのであって、福音は飽くまでも神の子の受肉と顕現の実証である。単なる思索の所産なる宗教とはこの点において根本的に差異がある。
辞解
[之を] 原文になし、ゆえに本節後半の「・・・・・・永遠の生命を見、また証し、また汝らに告ぐ」と訳する説あり、文法的には何れにても差支えなく意味も差異がない。

その(かつ)(ちち)(とも)(いま)して、(いま)われらに(あらは)(たま)へる永遠(とこしへ)生命(いのち)(なんぢ)らに()ぐ――

註解: ヨハ1:1に「言は神と偕にありき」とあり、ここには「永遠の生命は神と偕にありき」といっていることより「言」と「永遠の生命」とは同一物を示していることがわかる。この「生命の言」なるキリストは今イエスとして我らに顕れ給うた。ヨハネはこの生命を一般に向って宣伝えているのである。
辞解
[(とも)に] pros は相対して霊の交わりを持つこと(ヨハ1:1b註解参照)。
[(かつ)て、今] これらの語は動詞の変化の中に含まれる意味を表わしたもの。

1章3節 (われ)らの()しところ()きし(ところ)(なんぢ)らに()ぐ、[引照]

口語訳すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。
塚本訳わたし達が見たもの、また聞いたものを、あなた達にも告げる。あなた達もわたし達と(霊の)交わりを持つためである。しかしわたし達のこの交わりは、(他方においては)父(なる神)とその子イエス・キリストとの交わりである。
前田訳われらが見聞きしたものをお知らせするのは、あなた方もわれらと交わりを共になさるためです。われらの交わりとは父とみ子イエス・キリストとともにあることです。
新共同わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
NIVWe proclaim to you what we have seen and heard, so that you also may have fellowship with us. And our fellowship is with the Father and with his Son, Jesus Christ.
註解: 第1節を繰返してその告げることの内容を明らかにす、そしてそれがヨハネらの具体的見聞に基く事実であることは、極めて重要なる点であって、本書の中心はここに存するが故にヨハネは繰返してこの点を強調したのである。
辞解
本節に「太初より有りし所のもの」と「つらつら視て手觸りし所のもの」とを繰返さないのは、当然これを包含していることは勿論、ヨハネの殊に強調せんとする点が肉体となりて来り給えるイエスにあったからである。▲それ故に単にイエスの教えのみが重要なのではなく、イエス彼自身が重要なのである。それは生命の言の顕現であり神自身の化身であるがためである。

これ(なんぢ)()をも(われ)ら(と)の交際(まじはり)(あづか)らしめん(ため)なり。

註解: この書簡を(したた)むる目的、さらに一般的に言えばイエス・キリストを宣伝える目的は、これを聞く者をしてヨハネたちと同一の信仰により一体とならしめんがためであった。
辞解
[交際(まじはり)] koinônia は「霊交」の意味で、同一の生命を共通に所有すること。

(われ)らは(ちち)および()()イエス・キリストの交際(まじはり)(あづか)るなり。

註解: 私訳「然り而して我らの交わりは父及びその子イエス・キリストとの交わりなり」。前半により「我らとの交わり」に入る場合、我らの状態が重要なる問題となる。それ故にヨハネはこれを説明して「我らの交わり」の本質は神およびキリストとの霊交なることを明らかにし、かかる霊交を有つ「我ら」との間に彼らとの「交わり」が生ずる場合は結局において彼らと神およびイエス・キリストとの間にも交わりが成立つことを示したのである。逆に言えばイエス・キリストおよび父なる神との交わりが成立たない処には、相互の霊交も成立ち得ない。
辞解
この部分もこれを目的句のごとくに読み、「また我らの交わりも父およびその子イエス・キリストとの交わりたらんためなり」と読む説あれど(A2、L1)前文との関係上この解釈は不適当である。

1章4節 (これ)()のことを()(おく)るは、(われ)らの喜悦(よろこび)滿()ちん(ため)なり。[引照]

口語訳これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。
塚本訳わたし達が(この手紙を)書くのは、(あなた達がわたし達との交わりに入り、)わたし達(が父と子と)の(交わりにおいてもっている)喜びが、完全なものとなるためである。
前田訳これをお書きするのはわれらのよろこびが全うされるためです。
新共同わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
NIVWe write this to make our joy complete.
註解: イエスを神の子と信じること(Tヨハ5:5)、真の生命が肉体を取りて来り給えることを信じること(Tヨハ4:2)、生命の言なる主イエス・キリストと霊の交わりに入ること、これに優りて大なる喜悦はない。この信仰によって人間の生活は一変する。ヨハネの伝道の目的もこの喜悦を人にも与えることであった。
辞解
[我らの] ヨハネおよび他の使徒は勿論この書簡の読者をも包括して「我ら」と称したものと見ること得。または読者の喜悦なしにヨハネらの喜悦もなき故、「我らの喜悦」の中に当然に読者の信仰的状態をも含むと見ることができる。異本に「汝ら」とありこの方が解し易きがごときもかえってヨハネらしさを欠いている。
要義1 [生命の言なるキリスト]本書の(したた)められし目的が読者をして「自ら永遠の生命を有つことを知らしめんが為」(Tヨハ5:13)であり、そしてキリスト・イエスが「真の神にして永遠の生命であり」(Tヨハ5:20)その結果「御子をもつ者は生命をもち神の子をもたぬ者は生命をもたざる」故(Tヨハ5:11)、本書の目的は読者をしてイエス・キリストを持たさせるに在るということができる。それ故にこのキリストが生命であり給うことが本書の中心真理である。
キリスト者にとっては生命はもはや一つの観念ではなく、肉体を取りて顕われ給えるキリスト御自身であり、目にて見、手にて触れ得る処のものである。この事実により、(1)神はもはや我らを遠く離れて在し給う超越神ではなく、近く我らと共に在す具体的の神であり、(2)肉はもはや卑しむべきものではなくそのまま神であり永遠の生命であることとなり、(3)霊肉が渾然として一つに帰せるものとして考えられているのである。これがヨハネの信仰の頂点であり、その中心であり、またその要約でもある。このキリストを有たせることが本書の根本目的である。
要義2 [ヨハネの見たるイエス・キリスト]1−4節はヨハ1:1−18と極めて相類似し、ヨハネのキリスト観の要約と見ることを得。その要点は(1)キリストの永遠性(1節a。ヨハ1:1)。(2)永遠のキリストが生命の言なること(1節末尾。ヨハ1:1ヨハ1:4ヨハ1:14)。(3)この生命の言は肉体を取り給えること、従って五官をもって感得し得ること(1節3節a。ヨハ1:14)。(4)このキリストが神の顕現なること(2節)。(5)このキリストとの霊交がキリスト者の本質なること(3節b。ヨハ1:12、13)。これらの諸点を把握することによりてヨハネ書簡の真意義を理解することができる。

1-2 光に歩め 1:5 - 1:10

1章5節 (われ)らが(かれ)より()きて、また(なんぢ)らに()ぐる音信(おとづれ)(これ)なり、(すなは)(かみ)(ひかり)にして(すこ)しの(くら)(ところ)なし。[引照]

口語訳わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
塚本訳さて、わたし達が彼(キリスト)から聞いて、(いま)あなた達に告げしらせるおとずれ(というの)は、これである。──神は光であって、彼にはすこしも暗闇がないということである。
前田訳彼から聞いてお伝えするおとずれはこうです−−神は光にいまし、彼には少しも闇がありません。
新共同わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。
NIVThis is the message we have heard from him and declare to you: God is light; in him there is no darkness at all.
註解: 「神は光なり」との命題は神の性質を最も根本的に最も適切に言い表わしているのであって、七色が合して白色となるごとく、神の諸属性が合して一大光輝となるのである。この多くの属性の中、最も主要なるもの「神は愛なり」Tヨハ4:8、「神は義なり」Tヨハ3:7であり、ヨハ1:14に、キリストの栄光(光)は恩恵(愛)と真理(義)とであることを述べているのもこの意味である。従って神は光なりとは(1)愛、正義、智慧、公平等のあらゆる耀かしき性質に充ち給うこと。(2)その光によりて凡ての不義、邪悪、虚偽、汚穢が露わにされること。(3)光と暗とは相交わることを得ざるごとく光にある者は暗黒と交わらないことを示す。
辞解
[彼より] キリストより。
[少しの暗き所なし] 直訳「暗黒は全然彼の中に存在せず」、強き否定である。

1章6節 もし(かみ)交際(まじはり)ありと()ひて(くら)きうちを(あゆ)まば、(われ)(いつは)りて眞理(まこと)(おこな)はざるなり。[引照]

口語訳神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
塚本訳もし神と交わりがあると言いながら、暗闇を歩いているならば、わたし達は嘘をつくのであって、真理を行ってはいない。
前田訳神と交わりを持つといいながら闇に歩むならば、われらは偽っているのでして、真理を行なってはいません。
新共同わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。
NIVIf we claim to have fellowship with him yet walk in the darkness, we lie and do not live by the truth.
註解: 「我はキリスト者である」と言う者は神と交際ありと言うに等し、かかる人がもし罪の中を歩むならば、その言うところは虚偽であり、その行う処は誠実を欠いている。
辞解
[もし] 本節より2:3に至るまでこの語法の連続である。ある仮定の条件を掲げ、この条件に適合する者は結論のごとき状態にあるものなることを示す。
[神と交際(まじはり)ありと言ひて] 自称キリスト者はこの種類の人である。グノシス派の人々もその直感によりて神と交わり得ることを唱えつつ無律法的または反律法的に行動していた。
[真理を行ふ] イエスは真理である。イエスの御旨を行う者は真理を行う者である。

1章7節 もし(かみ)(ひかり)のうちに(いま)すごとく(ひかり)のうちを(あゆ)まば、(われ)(たがひ)交際(まじはり)()、また()()イエスの()、すべての(つみ)より(われ)らを(きよ)む。[引照]

口語訳しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
塚本訳しかしもし神が光の中にあるように、わたし達も光の中を歩いているならば、(神と交わりを持ち、従って)互に(まことの)交わりを持つ(ことができる)のである。そして(たとい罪を犯すことがあっても)、その子イエスの血があらゆる罪から清めてくださる。(かくてわたし達は光の子となるのである。)
前田訳彼が光にいますようにわれらが光に歩むならば、われらは互いに交わりを持ち、み子イエスの血がわれらをすべての罪から清めます。
新共同しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
NIVBut if we walk in the light, as he is in the light, we have fellowship with one another, and the blood of Jesus, his Son, purifies us from all sin.
註解: 前節とは反対に光のうちを歩む者にとりては二つの結果を生ずる。その一は光のうちを歩む者同志の間にキリストに在る霊の交わりが成立つことである。キリスト者が一体を為す所以はこの交わりに存する。その二は十字架上に流し給える主イエスの贖罪の血が我らの個々の罪の凡てより我らを潔め続けることである。すなわち光の中に歩むの生活は凡てのキリスト者と共に一つの生命(キリスト)に(あずか)りつつ次第に聖化の作用を続けて行く生活である。
辞解
[神の光のうちに在すごとく] 5節の「神は光なり」と矛盾するがごときも、この種の形容は厳格に論理的に解すべきではない。
[光のうちに歩む] 要義一参照。
[互いに交際(まじはり)を得] 神との交際(まじはり)を含むと解する学者があるけれども、この字句の中にはその意味がない。ただし事実としてはキリスト者の交わりは神との交わりなしに有り得ない。ここにヨハネは光の中に歩む者の有する一つの共通の生命につき叙述しているのである。
[其の子] イエスの神の子たることを明示するため。
[イエスの血] 贖罪の死の効果。「萬のもの血をもって潔められる、もし血を流すことなくば赦されることなし」ヘブ9:22。イエスの生命に(あずか)る者にとってはイエスの血は自己の血である(ガラ2:20)。
[すべての罪] 個々の罪の全体という意味。
[潔む] 現在動詞で継続的の状態を表わす。

1章8節 もし(つみ)なしと()はば、(これ)みづから(あざむ)けるにて眞理(まこと)われらの(うち)になし。[引照]

口語訳もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
塚本訳もしわたし達が自分に罪はない、と言うならば、自分をごまかしているのであって、真理はわたし達の中にない。
前田訳もしわれらが罪がないというならば、自らを欺いているのでして、真理はわれらのうちにありません。
新共同自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
NIVIf we claim to be without sin, we deceive ourselves and the truth is not in us.
註解: ヨハネは勿論始めよりキリスト者に向って語っていることに注意すべし。そして如何なるキリスト者も「罪なし」と言うことができない。もし罪なしと言う者があるならば、その者は必ず自己を欺いて自己の罪を無視しているものであり、またその心中に真理が存在しない。真理すなわち生命の言が心中に宿っている者は自らを欺くことができない、従って罪なしと言うことができない。
辞解
6節と相対応する。6節は一般的にして本節は具体的なり。
[罪なし] 原罪か個々の罪か慾望か行為かについては前節の「すべての罪」を受けていると解すべきである(前節辞解参照)。グノシス派の人々が神を知ると称し神を知る者には罪なしと称える説に対する反対説とも見ることができる。
[みづから欺く、真理われらの中になし] 6節の「偽る」「真理を行はず」よりも意味が強い。キリスト者の罪についきては要義二およびTヨハ3:6参照。

1章9節 もし(おのれ)(つみ)()ひあらはさば、(かみ)眞實(まこと)にして(ただ)しければ、(われ)らの(つみ)(ゆる)し、(すべ)ての不義(ふぎ)より(われ)らを(きよ)(たま)はん。[引照]

口語訳もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
塚本訳もし罪を正直に言うならば、神は真実で、正しいお方であるから、わたし達の罪を赦し、あらゆる不義から清めてくださるのである。
前田訳もしわれらが罪を告白するならば、真実で義にいます神は罪をゆるして、われらをすべての不義からお清めです。
新共同自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
NIVIf we confess our sins, he is faithful and just and will forgive us our sins and purify us from all unrighteousness.
註解: 7節と相類し、7節よりも一層具体的である。罪は単にこれを認識しただけでは足りない。神の前に(また必要に応じて人の前に)これを告白しなければならない。そして光のうちに歩む者(6節)は、直ちにその罪を見出すが故にこれを告白せざるを得ざるに至る。光のうちに在る者の罪の告白は真実なる心より生ずる。この告白に対して神の取扱う態度は(1)「真実」 pistos にしてその約束し給える罪の赦しを必ず実行し給い、また(2)「正しく」 dikaios 義であって我らの罪をキリストの十字架上に(さば)き(ロマ3:21以下)そして我らを不義より潔めて義ならしめ給う。
辞解
本節と7節との関係は、あたかも8節6節との関係のごとく、同一の事実を次第に進展せる形において述べ、抽象的概論より具体的各論に進んでいることを見る。
[己の罪] 複数形を用いて個々の罪を表わす。
[神は] 原文にはなけれど前後の関係よりかく解するを可とす。
[神は真実なり] Tコリ1:9Tコリ10:13Uコリ1:18Tテサ5:24Uテサ3:3ヘブ10:23ヘブ11:11。主として神が約束を実行し給う点よりかくいう。
[神は正し] 「正し」は義なりともいうことができる。(ただ)しき審判を行い、(ただ)しき報償を与え給うことを意味す。神の義を恐れかしこむ者にとりては神の自由の恩恵による罪の赦しがあっても罪に()れる様なることがない。

1章10節 もし(つみ)(をか)したる(こと)なしといはば、これ(かみ)(にせ)(もの)とするなり、(かみ)(ことば)われらの(うち)になし。[引照]

口語訳もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
塚本訳もし自分は罪を犯したことはない、と言うならば、(それは)神を嘘つきとするのであって、(約束の)御言葉はわたし達の中にないのである。(聖書は、わたし達が一人のこらず罪人であるとするからである。)
前田訳もしわれらが罪を犯さなかったというならば、彼を偽りものにするのでして、彼のことばはわれらのうちにありません。
新共同罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。
NIVIf we claim we have not sinned, we make him out to be a liar and his word has no place in our lives.
註解: 8節のさらに具体的なる場合。これまでにかつて罪を犯したることなしと言う者があるならば、聖書において神は凡ての人を罪ある者と見給うことが誤りとなり、神を偽者とすることとなる。また神の言が活きてその中に働いていない。
辞解
[罪を犯したる事なし] 現在完了形でヨハネの場合上述のごとき意味に用いられる。
[神の言] 8節の「真理」がさらに具体的に言として表わされたものを指す、聖書によりまたは聖霊によりて語られし言をいう。
[われらの中になし] 我らの中に活きて働かないことを意味す。
要義1 [光に歩むこと]キリスト者の生活は一言をもってこれを要約すれば光に歩むことであるということができる。光の中を歩むとは(第一)に暗闇の中を歩まないことである。すなわち罪の中に止まり、罪の中に安住し、自己の罪に気付かずにいることは、光の中に歩むことの反対である。(第二)に常に自己の罪のみを眺め、その罪の赦しを確信することができずに苦悶することは、光の中に歩む者の態度ではない。キリスト者はすでにキリストの十字架によりて罪を赦されている故、これを信じて主を仰ぎつつ堂々として光の中を闊歩すべきである。(第三)に光の中を歩む者は如何に小なる罪にてもその光に照らされてこれを知るが故に、直ちにこれを告白して罪の赦しとその潔めとを得るの生活である。公明正大、全く虚偽なき生活である。(第四)に以上のごとくなるが故に光に歩む生活とは全く罪なきまた罪を犯さざる生活ではない。罪の根が根絶せられ全く罪を犯さざるに至ったと唱える者は自己欺瞞に陥り、神に関する誤れる認識を持つことを示す。
かくのごとく光に歩む生活の特徴は、それが正々堂々たること、公明正大なること、真実にして虚偽なきことであり、そして常に神の聖前より隠れることなき生活である。パウロのいわゆる信仰の生活はすなわちこれであり、この生活のみが神の喜び給う処となる。
要義2 [キリスト者の罪]「おほよそ主に居る者は罪を犯さず、おほよそ罪を犯す者は未だ主を見ず、主を知らぬなり」(Tヨハ3:6)によれば罪を犯す者はキリスト者ではない。それにもかかわらずキリスト者には罪があり罪を犯す(7、8、9、10節)。ゆえにキリスト者の罪は当然有るべきものが有ったのではなく、全く有り得べからざるものが有ったのである。そしてこの有り得べからざるものが必ず有る処にキリスト者の矛盾と悲哀とがあると同時にそこに生命の生命たる所以がある。そして幸福なるかな、この罪が赦され、不義が潔められる途がキリストによりて完全に備えられているのであって、このキリストの生命に与ることによりて、罪ある者が罪なきものと認められ、罪なきものとされる。健全なる生命は自ら自己に不要なるものを排泄する、我らの肉の生命に不要なる、または有害なるものが我らの中に存在することは大なる矛盾であるけれども、これに対する戦いにおいて生命がその力を示すことは、キリスト者の中に罪が存することと類似しているということができる。
要義3 [神は光なり]「光」は神の凡ての属性を包括的に表顕するに最も相応しき語である。我らの目は大なる光の前に眩惑し、我らの汚穢は光の中において凡て暴露される。凡ての善美なる行為は光の中に光輝を発し、凡ての虚偽と邪悪とは光の中に立つことができない。そして神の恩恵と真理、愛と義とは「光」の表裏のごとくにその内容を形成する。実に「光」の一字の中に、あらゆる真理の満盈(まんえい)を見出すことができる。

第1ヨハネ書第2章
1-3 助主とその誡命(いましめ) 2:1 - 2:6

2章1節 わが若子(わくご)よ、これらの(こと)()(おく)るは、(なんぢ)らが(つみ)(をか)さざらん(ため)なり。[引照]

口語訳わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。
塚本訳わたしの子供たちよ、わたしがこのことを書くのは、あなた達に罪を犯させないためである。万一罪を犯す者があっても、わたし達には父の所に弁護者、すなわち義なるイエス・キリストがある。
前田訳皆さん、このことをお書きするのは、あなた方が罪を犯さないためです。しかし、もしだれかが罪を犯すならば、われらには父に対しての助け主、すなわち義なるイエス・キリストがあります。
新共同わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
NIVMy dear children, I write this to you so that you will not sin. But if anybody does sin, we have one who speaks to the Father in our defense--Jesus Christ, the Righteous One.
註解: ヨハネが以上のごとくに書ける目的は(書簡全体の目的についてはTヨハ1:3、4を見よ)罪を犯した場合に如何にすべきかとか、または罪を犯すことは当然である故憂慮するには及ばないとかいう意味ではなく(Tヨハ1:5−10はかく解される(おそれ)なしと言えない。C1)、反対に罪を犯すことなからんがためである。これは福音の中心的目的であり、また光の中に歩むことの目的である。
辞解
[若子(わくご)よ] teknia は愛称でヨハネと読者とは信仰の点において父子の関係にある(引照1参照)。
[これらの事] 従前に録せる部分を指す(M0、A1、その他)。以後に録す部分(B1)にもあらず、またこの双方でもない。
[罪を犯す] 不定過去法で罪の中に留まる意味ではなく個々の罪をいう。

(ひと)もし(つみ)(をか)さば、我等(われら)のために(ちち)(まへ)助主(たすけぬし)あり、(すなは)()なるイエス・キリストなり。

註解: 万一罪に陥った場合は、我らにはその不義を赦されその罪を負わせられない途がある(詩32:1、2)。それは父の前に我らを執成し給う助け主(弁護人)、すなわち神の前に義にして全く在し給うイエス・キリストを我らのものとしているからである。彼は神の完全な祭司として(ヘブ7:25ヘブ9:24ヘブ10:19−25)神の前に立ち我らの罪を執成(とりな)し、我らをして再び罪なきものとして神の前に立たしめ光の中を歩ましめ給う。
辞解
[もし罪を犯さば] 個々の罪をいう、現在形動詞の場合(Tヨハ3:6Tヨハ3:8Tヨハ5:18)と異なる。罪を犯さないのがキリスト者の本体である。
[我らのために助主あり] 原語「我ら助主を有す」。「我ら」と言いて「彼」と言わなかった所以はヨハネがこの問題については自己をもその中に包含しないことができなかったからであろう。
[助主] paraklêtos は「側に呼ばれる者」の意で代言人、弁護人等を意味する。ヨハ14:16参照。転じて「慰める者」の意味もある。
[義なるイエス・キリスト] 助主は十字架上に血を流し給えるイエスでありまた復活して神の右に在し給うキリストであることが必要である。「義なる」をここに加えし所以は罪人は神の前に立つことができないけれどもキリストのみは完全に義に在し大祭司として神の前に罪人を執成(とりな)すことを得給うことの意味である。単に「正義の」「人を義とする処の」「正しき審判を行う処の」「真実の」等の意味ではない。

2章2節 (かれ)(われ)らの(つみ)のために(なだめ)供物(そなへもの)たり、(ただ)(われ)らの(ため)のみならず、また全世界(ぜんせかい)(ため)なり。[引照]

口語訳彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。
塚本訳そして彼こそわたし達の罪のための宥め(の供物)である。しかしただわたし達の罪のためだけでなく、この世全体のためでもある。
前田訳彼はわれらの罪のあがないです。われらの罪ばかりでなく全世界の罪のです。
新共同この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。
NIVHe is the atoning sacrifice for our sins, and not only for ours but also for the sins of the whole world.
註解: イエスが十字架に()き給いしは、我らのみならず全世界の罪の(なだめ)の供物すなわち犠牲(いけにえ)となりて神と人との間の疎隔せる関係を(なだめ)るためである。本節は前節の理由の説明と見るべきであるけれどもヨハネは gar 「その故は」を用いること極めて稀で、ここでも kai 「而して」を用いる。
辞解
[(なだめ)の供物] hilasmos でキリストは単に神と人との間を和らがしむるのみならず、彼自身和らがしむる供物に在し給う。祭司にして同時に犠牲である。これによりて人の罪に対する神の怒りは(なだめ)られ、神に対する人の不和は取去られる。▲口語訳で「あがないの供物」と訳してあるが、文語訳(「(なだめ)の供物」)が原語の字義に近い。
[全世界の為] キリストの贖罪の死は全人類の罪のためである。「罪の広さ程(なだめ)は広い」(B1)。カルヴィンはその予定説の立場より「全世界」を「その中に予定せられしもの」に限り、「亡ぶべきもの」と除外しているけれども誤っている(ロマ9:33附記参照)。

2章3節 (われ)らその誡命(いましめ)(まも)らば、(これ)によりて(かれ)()ることを(みづか)(さと)る。[引照]

口語訳もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。
塚本訳したがって、もし彼の掟を守るならば、そのことによって、わたし達は彼を知っていることがわかるのである。
前田訳われらが彼を知ることは、彼のいましめを守ることでわかります。
新共同わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。
NIVWe know that we have come to know him if we obey his commands.
註解: 本節よりキリストの誡命を守ることの新たなる問題に入っているけれども前2節の罪を犯さざることと思想は連絡を保っている。キリストを真に知っている者は彼を愛する者である。愛なしに真の知識はない。そしてキリストを愛する者は当然その誡めを守りこれを実行するはずである。彼の誡命(いましめ)を実行するまでは自分が真に彼を知っていると言うことはできない。単なる思想または単なる聖書の知識はこの実行に導くの力がない。
辞解
3−6節の「彼」は近来は「神」と解する説が通説であるけれども2節よりの思想の連絡によりこれをキリストと解す(A2、B1、L1)。

2章4節 『われ(かれ)()る』と()ひて()誡命(いましめ)(まも)らぬ(もの)(にせ)(もの)にして眞理(まこと)その(うち)になし。[引照]

口語訳「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。
塚本訳(これに反して)「彼を知っている」と言いながら、しかもその掟を守らない者は、嘘つきで、その人に真理はない。
前田訳彼を知るといって彼のいましめを守らないものは、偽りものであって、真理はその人のうちにありません。
新共同「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。
NIVThe man who says, "I know him," but does not do what he commands is a liar, and the truth is not in him.
註解: 信仰ありと称して行為これに伴わざる者は偽者である。自分はキリスト者であり、キリストを知っていると称していながら彼の誡命(いましめ)を守らない者は、自己を反省して見るならばそこに自己の心中に彼に対する虚偽があることを発見するであろう。
辞解
[知る] 「知っている」の意、現在完了形。グノシス派の人々は神を知ると称していながら神の誡命(いましめ)を無視していた(緒言参照)。本節はTヨハ1:6に類似せる構造を有す。

2章5節 その御言(みことば)(まも)(もの)(まこと)(かみ)(あい)、その(うち)(まった)うせらる。(これ)によりて(われ)(かれ)()ることを(さと)る。[引照]

口語訳しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。
塚本訳しかし御言葉を守る者は、その人において本当に神を愛する愛が完全にされる。そのことによって、わたし達は神(との交わり)の中におることがわかるのである。
前田訳彼のことばを守るもの−−実にその人においてこそ神の愛が全うされます。われらが彼のうちにあることは、次のことでわかります。
新共同しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。
NIVBut if anyone obeys his word, God's love is truly made complete in him. This is how we know we are in him:
註解: 神に対する愛は、キリストの言すなわち誡命(いましめ)を守ることによって(まっと)うされ、これによってキリストとの交わりが実現する。キリストの言を守らざるは神を愛せざる証拠であり、神に対する愛なきものはキリストとの霊の交わりに入ることができない。
辞解
本節は前節と対立し、第3節の思想を敷衍している。すなわち「彼を知る」(3節)ことは「彼を愛し」「彼に在る」ことである。然らずして真に彼を知ることはできない。
[全うせらる] 神に対する愛は、それが実行となって始めて(まった)きを得、それまでは不完全であり中途半端である。
[神の愛] この場合神に対する愛のこと(M0、H0)。これを神が人を愛する愛と解する説もある(B1、E0)。これによれば「神が人を愛する愛は人がその言を守ることによりてその目的を達した」という意味となる。

2章6節 (かれ)()ると()(もの)は、(かれ)(あゆ)(たま)ひしごとく(みづか)(あゆ)むべきなり。[引照]

口語訳「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。
塚本訳神(との交わり)に留っていると言う者は、キリストが歩かれたように、その人も(神に従順に)歩く義務がある。
前田訳彼のうちにとどまるというものは、彼が歩まれたように歩まねばなりません。
新共同神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。
NIVWhoever claims to live in him must walk as Jesus did.
註解: 「居る」とは生命の共通なる状態を示す。従ってその生命の発露たる行動もまた同一であるべきである。キリストに「居る」者はキリストのごとくに生活する。
辞解
「彼を知る」(3、4節)、「彼に在る」(5節)、「彼に居る ─ 彼の中に留る」(6節)は同一事実ではあるがその程度において次第に高さを増している。
▲「居る」はmenôでヨハネ特愛の語である。本書簡の中に24回用いられている(中には「とどまる」「ある」等と訳されている場合もあり)。霊交の密なることを意味する。
要義1 [キリストに在る歩み]光に在りて歩むこと(Tヨハ1:5−10)はまた同時にキリストに在りて歩むことである。キリストに在りて歩む者は彼の御言を守る者であり、また彼を愛し彼を真に知る者である。かかる者の歩みはキリストの歩みのごとく高く潔き歩みをなす。もし万一罪に陥る場合、このキリストは助け主「パラクレートス」として父の前に我らを執成(とりなし)し給う。徹頭徹尾キリストに在るの生活、これすなわち真のキリスト者の生活である。
要義2 [我らのパラクレートス]キリストは我らの生命であり、能力であり、そして助け主である。内より我らを動かし、外より我らを導き、そして神の前に我らを執成(とりな)し給う。彼を離れて我らは生命なく、能力なく、我らの罪は神の前に執成(とりな)しを受けることができない。イエス・キリストこそまことに我らの福音である。

1-4 旧くして新しき誡命 2:7 - 2:11

2章7節 (あい)する(もの)よ、わが(なんぢ)らに()(おく)るは、(あたら)しき誡命(いましめ)にあらず、(なんぢ)らが(はじめ)より()てる(ふる)誡命(いましめ)なり。この(ふる)誡命(いましめ)(なんぢ)らが()きし(ところ)(ことば)なり。[引照]

口語訳愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。
塚本訳愛する者たちよ、わたしは(何も今までになかった)新しい掟をあなた達に書いているのではない。むしろ(イエスが来られた)始めからあなた達が持っていた古い掟である。古い掟というのは、あなた達が(かつて)聞いた御言葉である。
前田訳親愛な方々よ、お書きしているのは新しいいましめではなく、はじめからお持ちの古いおきてです。古いおきてとはお聞きになったことばです。
新共同愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。
NIVDear friends, I am not writing you a new command but an old one, which you have had since the beginning. This old command is the message you have heard.
註解: 7−11節は1−6節の「誡命(いましめ)を守る」ことより説き及ぼして、その誡命(いましめ)とは如何なるものなるかを叙述している。ヨハネが書き贈らんとする誡命(いましめ)は決して新奇なるものではない(新奇なるものはやがて間もなく滅亡するのが常である)。「汝ら互に相愛すべし」(9−11Tヨハ3:11Tヨハ3:23Uヨハ1:5ヨハ13:34)なる誡命(いましめ)は人類殊に神の選民たるイスラエルには始めより律法として与えられていた処であり、従って汝らもキリスト者となってからは勿論のことその前から有っていたところであり(eichete)またキリスト者となってからは我ら使徒たちから聞いたところの(êkousate)言である。
辞解
7、8節は種々の点に難解である。「初より」を多くの学者(A1、B1、C1、H0、M0、E0)はキリスト者となりし始めよりの意に解す、予は少数の古代学者と共に上述のごとくに解した。次節後半との対照上かくあるべしと思うからである。「誡命(いましめ)」の何たるかにつきてヨハネは明示しない。これは読者に明らかであるからに相違なく、かかる誡命(いましめ)は、誡命(いましめ)中の誡命(いましめ)すなわち「互に相愛すること」に相違ない。この教訓は古今東西の多くの聖賢により凡ての人間に与えられた所でありまた凡ての誡命(いましめ)の基本、その総合である(ロマ13:8−10)。これをキリスト者のみの専有のごとくに考えるが故に「初より」を「キリスト者となりし始めより」と解するような誤りに陥る。古代教父の解が正しい所以はここにある。殊に「有てる」は未完了過去形、「聞きし」は不定過去形を用いていることに注意すべし。また「誡命(いましめ)」を6節の「イエスのごとく歩むべし」の誡命(いましめ)と解する説あり、結果は同じことになるけれども、「初より」を以上のごとくに解する以上この説は不適当である。なおパウロは「律法」と言い、ヨハネは「誡命(いましめ)」なる文字を用いている。「愛する者よ」は新たなる注意を喚起せんとする時に用いられる(引照1参照)。

2章8節 ()れど()(なんぢ)らに()(おく)るところは、また(あたら)しき誡命(いましめ)にして、(しゅ)にも(なんぢ)らにも(まこと)なり、その(ゆゑ)(まこと)(ひかり)すでに()りて、暗黒(くらき)はややに()()ればなり。[引照]

口語訳しかも、新しい戒めを、あなたがたに書きおくるのである。そして、それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。
塚本訳(しかし他方から言うと、)新しい掟をわたしは(いま)あなた達に書いているのである。これが(新しいということは、)キリストにおいても、あなた達においても(知り得る)まことの事実である。なぜなら、(この愛の掟はキリストによってはじめてこの世に現われ、あなた達は彼を知ることによって、はじめてこれを知ることが出来たからである。その証拠には、キリストによって)暗闇は(徐々に)消え去り、まことの光が(おぼろげながら)すでに輝いている。
前田訳しかも新しいいましめをお書きしています。それは彼ご自身にあって、またあなた方にあって真理です。闇は去り、まことの光がすでに輝いているからです。
新共同しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。
NIVYet I am writing you a new command; its truth is seen in him and you, because the darkness is passing and the true light is already shining.
註解: ヨハネの書き贈る処は、前述のごとく旧き誡命(いましめ)ではあるが、さらに言い換えてみれば(palin)それは新しき誡命(いましめ)であり、その新しいということは(ho)キリストにおいてもキリスト者たる汝らにおいても事実であり、全く新しき誡命(いましめ)としての意義を顕わしている。この旧き誡命(いましめ)が今やかく新しきものとなった所以は(hoti)真の光なるキリスト(ヨハ1:9)来り給いて、その完全(まった)き徳光の輝きが現に今照り渡り、「愛」がその完全なる姿において顕わされており、そしてその反対に暗黒の世界、罪の世界は過ぎ去りつつあるからである。かくして旧き誡命(いましめ)はさらに常に新しき誡命(いましめ)として生気溌剌として進むのである。
辞解
[然れと・・・・・・また] 原語は palin(再び)なる文字であり、従って前に口にて伝えし処を「再び」筆にする意味(M0)に解する説あれども、上記のごとく対立的意味に解するを可とす。
[主にも汝らにも真なり] 主語 ho は「新しき誡命(いましめ)の実体」と見るよりも(M0)、旧き誡命(いましめ)が新しき誡命(いましめ)であることの事実(H0)と解するを可とす。
[真なり] 実際その通りであること。
[その故は] 前文全体を説明する。

2章9節 (ひかり)()りと()ひて()兄弟(きゃうだい)(にく)むものは、(いま)もなほ暗黒(くらき)にあるなり。[引照]

口語訳「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。
塚本訳(暗闇は憎み、光は愛である。だから)光におると言いながら、兄弟を憎む者は、いまも(なお)暗闇におるのである。
前田訳光の中にいるといいながら兄弟を憎むものは、今なお闇の中にいます。
新共同「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。
NIVAnyone who claims to be in the light but hates his brother is still in the darkness.
註解: 前節の「暗黒」より連絡を取り、愛の実行が愛の有無の証拠である所以を示す。愛なきもの、すなわちその兄弟を憎むものはたとい我はキリスト者で「光の中にいる」と口で言っていても、実は暗黒の中にいるのである。光と暗黒とは同時に同処に存在し得ざる故(Uコリ6:14)その人は真のキリスト者ではない。
辞解
[兄弟] 多くの学者は(H0、B1、M0)信仰の兄弟すなわちキリスト者同志のことを指すと解しており、かつ使徒時代以来キリスト者同志相互の間を兄弟と呼び合っていた事実はあるけれども、本書簡において兄弟愛を教える場合はイエスの教訓におけるごとくに一般の人または隣人の意味に解すべきである(マタ5:22以下。マタ7:3以下。マタ18:35ルカ6:41以下。ヤコ4:11、12。A1、E0参照)。
「憎む」 「愛なき所には憎みあり、心は空虚ではない」(B1)

2章10節 その兄弟(きゃうだい)(あい)する(もの)は、(ひかり)()りて顛躓(つまづき)その(うち)になし。[引照]

口語訳兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。
塚本訳兄弟を愛する者は光に留まっている。そして彼につまずきはない。
前田訳兄弟を愛するものは光の中にとどまり、彼にはつまずきがありません。
新共同兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。
NIVWhoever loves his brother lives in the light, and there is nothing in him to make him stumble.
註解: 兄弟を愛する者は光の中に留まる者である。すなわち愛はキリスト者たることの実証である。かかる者の中に彼を躓かせるもの、彼を罪に(おと)し入れるものはない。その眼は明らかであり、その行先は明瞭である。
辞解
[居り] menô で「留る」の意。
[顛躓(つまづき)] (1)自ら躓く原因と解すべきか。(2)人を躓かせる原因(マタ13:41マタ18:7ロマ14:13)と解すべきかにつき説が分れる。次節との対照上(1)を採る。
[その衷に] (1)彼の場合においては、(2)彼の生活の周囲には、(3)光の中には、(4)彼の中には等種々の解がある。(4)を採る。

2章11節 その兄弟(きゃうだい)(にく)(もの)暗黒(くらき)にあり、(くら)きうちを(あゆ)みて(おの)()くところを()らず、これ暗黒(くらき)はその()(くらま)したればなり。[引照]

口語訳兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。
塚本訳これに反して、その兄弟を憎む者は暗闇におり、かつ暗闇を歩く。そしてどこへ行くのかわからない。暗闇がその目を見えなくしたからである。
前田訳兄弟を憎む者は闇の中にあって闇の中に歩み、どこへ行くか知りません。闇が彼を目しいにしているのです。
新共同しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。
NIVBut whoever hates his brother is in the darkness and walks around in the darkness; he does not know where he is going, because the darkness has blinded him.
註解: 愛あるものは眼明らかであって躓きなきに反し、兄弟を憎む者は暗黒の中にいる盲目者であり、その行く処を知らざる迷える者である。ここに憎悪の心の醜悪さを最も適切に記載しているのみならず、また光と暗、愛と憎、明と盲とが明瞭なる対立を示している。
辞解
「暗黒にあること」と「暗きうちに歩むこと」とは二つの異なる程度または階級を言うのではなく、同一事実をその状態と活動との二方面より示す。
[眼を(くらま)ます] 盲目にすること。
要義1 [旧くして新しき誡命(いましめ)]旧くして時代と共にその意義を失う誡命(いましめ)はその時代以外には価値なきものである。新しくして一時その新奇なるの故をもって受入れられても時の経過と共にその新鮮さを失うものもまた無価値なる存在である。真に価値あるものは、それが永遠に旧くあると同時に常に新しきものでなければならない。「互に相愛すべし」との誡命(いましめ)のごときはそれである。殊にイエス・キリストによりて愛の真の姿が示されてよりこの誡命(いましめ)はさらに一層新たなるものとなった。
要義2 [愛と憎]愛にもあらず憎にもあらざる無関心の中間状態があることは普通に認められる事実である(W2)。しかしながら愛なき状態は憎の状態であると見るヨハネの見方は愛の本質を示す上において非常に適切である。真の愛の何たるかを知る者は、愛なき状態と憎の状態との間に何ら本質的の差別なきことを知るのである。生命なき処には死あるのみ、生命も死もなき状態は実は存在しない。同様に光のなき処には暗黒が存するのみである。光にもあらず闇にもあらざる状態はない。信仰も愛もそれが純真であるならば如何に小さくともそれ自身絶対の価値があり、罪は如何に小さくとも絶大の罪であることを知る者はヨハネのこの心持を覚ることができる。

1-5 本書を(したた)める動機 2:12 - 2:14

2章12節 若子(わくご)よ、(われ)[この(ふみ)を](なんぢ)らに(()き)(おく)るは、なんぢら(しゅ)御名(みな)[によりて](の(ゆゑ)に)(つみ)(ゆる)されたるに()る。[引照]

口語訳子たちよ。あなたがたにこれを書きおくるのは、御名のゆえに、あなたがたの多くの罪がゆるされたからである。
塚本訳子供たちよ、わたしが(この手紙を)あなた達に書くのは、キリストの御名のために、あなた達の罪は赦されているからである。
前田訳お子さん方にお書きするのは、彼のみ名のゆえにあなた方の罪がゆるされているからです。
新共同子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/イエスの名によって/あなたがたの罪が赦されているからである。
NIVI write to you, dear children, because your sins have been forgiven on account of his name.
註解: 「若子よ」 teknia は全信徒に対する愛に充てる呼びかけである、次節の「父」および「若き者」はその内訳である(なお14節附記参照)。ヨハネは前節までにキリスト者の信仰の根本を述べ、さらに12−14節において、進んで彼らに対する薦奨を記している。すなわち本書簡を(したた)める所以およびかつて他の書簡や福音書を書き贈れる所以(「書き贈る」と「書き贈りたり」については附記参照)はその読者が未信者ではなく、すでに充分に信仰を得ている者であり、従ってこの書簡はその信仰を維持し、これを強め、これを高めんがためであることを読者に知らしめんがためである。ゆえにこの書簡の内容は決して初歩入門者のための乳ではなく、信仰の成人の固き食物であり、信仰の最高峰である。本書の難解なる所以はそこにある。第一にヨハネはこの書簡の読者が主イエスの御名の故にすなわち神の子にして、贖い主なるキリストを信ずるが故に罪を赦されているキリスト者であることを明らかにし、その故にこの書簡を(したた)めるのであることを述べている。未信者を信仰に導かんがためにあらず、既信者の信仰を高めんとしているのである。
辞解
[主の名によりて] 文法上、使10:43の場合と異なり罪を赦す働きを為す当事者を意味するのではなく罪を赦される理由を意味するのである。従って「主の御名の故に」と解するを可とす。
[主] この場合神ではなくキリストを指す。
[赦されたる] 現在完了形で、過去においてすでに赦され今もその状態にあること。

2章13節 (ちち)たちよ、(われ)[この(ふみ)を](なんぢ)らに(()き)(おく)るは、(なんぢ)太初(はじめ)より(いま)(もの)()りたるに()る。[引照]

口語訳父たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである。若者たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、悪しき者にうち勝ったからである。
塚本訳父たちよ、わたしがあなた達に書くのは、あなた達は世の始めからおられる方を知っているからである。若者たちよ、わたしがあなた達に書くのは、あなた達は悪者[悪魔]に勝っているからである。
前田訳お父さん方にお書きするのは、はじめからいますものをご存じだからです。若い方にお書きするのは、あなた方が悪者にお勝ちだからです。
新共同父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
NIVI write to you, fathers, because you have known him who is from the beginning. I write to you, young men, because you have overcome the evil one. I write to you, dear children, because you have known the Father.
註解: 信徒中の老年組が初めより在する者(Tヨハ1:1)なるキリストを知っていること(Tヨハ2:3)、すなわち信仰の中心を(つか)んで離さないこと egnôkate をヨハネはこの書を(したた)める理由として掲げている。
辞解
[父たち] 前節の「若子ら」が二分され本節の「父たち」 pateres および「若き者ら」 neaniskoi となる。

(わか)(もの)よ、(われ)[この(ふみ)を](なんぢ)らに(()き)(おく)るは、なんぢら()しき(もの)()ちたるに()る。

註解: 青年信徒の陥る弱点は悪しき者なるサタンの誘惑に()けることである。それ故にこれに勝っている信徒はヨハネにとりて至宝であった。かかる人に本書が宛てられるとすれば本書が信仰の最高の奥義を語るものであることは明らかである。

子供(こども)よ、(われ)[この(ふみ)を](なんぢ)らに(()き)(おく)りたるは、(なんぢ)御父(みちち)()りたるに()る。

註解: これより以下の三つは「贈りたる」 egrapsa なる不定過去形となる(附記参照)。「子供らよ」 paidia は「若子よ」(12節)と異なる文字を用いているけれども、意味は同じく全信徒を指す。ヨハネは本書簡以前に福音書やその他の書簡(失われたものと解す、かく解する場合「この書を」と訳すことは不適当となる。この文字は12−14節に原文になし)を書き贈ったことがあるのであろうが、その理由もこの度の書簡と同じく彼らの信仰が進んでいる故にさらにこれを全うせんがためであった。「御父を知る」ことは12節と共に信仰の中心である。

2章14節 (ちち)たちよ、(われ)[この(ふみ)を](なんぢ)らに(()き)(おく)りたるは、(なんぢ)太初(はじめ)より(いま)(もの)()りたるに()る。[引照]

口語訳子供たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが父を知ったからである。父たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである。若者たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが強い者であり、神の言があなたがたに宿り、そして、あなたがたが悪しき者にうち勝ったからである。
塚本訳小さい人たちよ、私があなた達に書いたのは、あなた達は父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなた達に書いたのは、あなた達は始めからおられる方を知っているからである。若者たちよ、わたしがあなた達に書いたのは、あなた達は強くあり、神の御言葉があなた達に留っており、悪者に勝っているからである。
前田訳お子さん方にお書きしたのは、父(なる神)をご存じだからです。お父さん方にお書きしたのは、はじめからいますものをご存じだからです。若い方にお書きしたのは、あなた方が強く、神のことばがあなた方のうちにとどまり、あなた方が悪者にお勝ちだからです。
新共同子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが、初めから存在なさる方を/知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、/あなたがたが強く、/神の言葉があなたがたの内にいつもあり、/あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
NIVI write to you, fathers, because you have known him who is from the beginning. I write to you, young men, because you are strong, and the word of God lives in you, and you have overcome the evil one.
註解: 「子供」は「父たち」と「若き者ども」とに分れる。前節後半は神、本節はキリストについていう。

(わか)(もの)よ、(われ)[この(ふみ)を](なんぢ)らに(()き)(おく)りたるは、(なんぢ)(つよ)くかつ(かみ)(ことば)その(うち)(とどま)り、また()しき(もの)()ちたるに()る。

註解: 13節の「若き者」に対する言と同一であるけれども一層これを敷衍し、その「強き」ことと「神の言が(うち)に留り」て彼らを離れざることとを加え、暗にこれらが因となりてサタンに打ち勝てることを述べて青年たちの優れた信仰を賞揚している。かくヨハネに賞揚せられたならば、如何なる信者も自ら奮励せざるを得ざるに至るであろう。
附記 [12−14節について]12−14節は二つに分れ、初めに「書き贈る」 graphô なる現在動詞三回、次に「書き贈れり」 egrapsa なる不定過去動詞が三回用いられ、前者には「若子ら」 teknia 「父たち」 pateres 「若き者ら」 neaniskoi の三種の読者あり、後者には「子供ら」 paidia 「父たち」「若き者ら」の三種がある。
動詞の時法の別につきて現在と不定過去の二種を用いし理由は或は(1)同一事の反復なりとし、または(2)書簡文体の無意味の修飾なりとし、または(3)この書簡の初めの部分を不定過去、後の部分を現在をもって表わすと解し(M0)、または(4)単に強き奨励を意味すとなし(B1)、または(5)現在形はヨハネの立場より言い、過去形は読者より見て言えるものと解し、または(6)過去形は第四福音書を指すとなし(H0)、または(7)これをヨハネが以前に書き贈りし、そして今は失われし書簡なりと解す。予は(6)(7)双方を含むものと解す。また読者の三階級つきての区分は、これを三つの別々の種類と解する(A2)よりも「若子」と「子供」とは一般のキリスト者と見、「父たち」と「若き者たち」をその中の内訳と見るを可とす(C1、M0、H0、A1その他)。

1-6 世を愛する勿れ 2:15 - 2:17

2章15節 なんぢら()をも()にある(もの)をも(あい)すな。(ひと)もし()(あい)せば、御父(みちち)(あい)する(あい)その(うち)になし。[引照]

口語訳世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。
塚本訳あなた達は(神を知らぬ罪の)世をも、世にあるものをも、愛してはならない。もし世を愛する者があったら、その人には父(なる神)を愛する愛はない。
前田訳世も世にあるものもお愛しなく。世を愛するものには父の愛がありません。
新共同世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。
NIVDo not love the world or anything in the world. If anyone loves the world, the love of the Father is not in him.
註解: この場合、世とは神の敵すなわちサタンの支配下にあると考えられる世界である。世にある物とは神を離れし世界の人間ならびに諸事物すなわち次節に列挙されるごとき諸々の慾や誇りである。神を愛することとかかる世を愛することとは全く両立し得ない。愛は集注的である。神と財とに兼仕えること能わず、御父と世とを兼愛することができない。
辞解
[世にある物] 複数形を用う。
[愛す] agapaô を用う、世を愛する愛は聖愛ではないのにこの文字を用いるのは神に対する愛の地位に代る意味であろう。
[世] (1)単にこの世界またはその中の人間を意味する場合があり(ヨハ3:16)、また(2)単にこの世の亡ぶべき事物を意味する場合があるけれども、聖書においては主としてこれを神を離れし姿において観察するようになった結果、人間その他の被造物の神を離れしままの姿を意味す。

2章16節 おほよそ()にあるもの、(すなは)(にく)(よく)()(よく)所有(もちもの)(ほこり)などは、御父(みちち)より()づるにあらず、()より()づるなり。[引照]

口語訳すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
塚本訳というのは、世にあるものはすべて、(すなわち)肉の欲も、目(から入ってくるさまざま)の欲も、また財産の自慢も、父のものでなく、世のものだからである。
前田訳すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、財産の誇りは父からでなく、世からのものです。
新共同なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。
NIVFor everything in the world--the cravings of sinful man, the lust of his eyes and the boasting of what he has and does--comes not from the Father but from the world.
註解: ここにヨハネは御父すなわち神と世とを対立せしめ、世より出づるものすなわちその源を世に発して「世」の中にあるすべてのものは神に源を発するものと正反対であることを示している。「世」とは前節のごとく神を離れし世界である。そして「肉の慾」「眼の慾」および「所有の誇」の三者をもってほぼ「世にあるもの」を代表せしめることができる。すなわち「肉の慾」は人間の内部の欲求に駆られて神に従わざる慾望を追求すること。「眼の慾」は外に見える事物に心を動かし、これに対して慾念を燃やすこと、かくして内外の刺激によりて心が神に叛ける世界において慾望の奴隷となる。そしてこれらの慾望を満足しつつ生活しているものは、その生活に対して誇る心を起す、求むべからざるものを求め、誇るべからざるものを誇るのが世より出でし生活の実状である。
辞解
[おおよそ世にあるもの] 前節の「世にあるもの」は複数形であって、個別的に言い、本節の「世にあるもの」は単数で全体を統括している。「肉の慾」以下は、その内訳であるか例示であるかにつき諸説あれど、ヨハネは直観をもってこれを例示することによりその凡てを網羅することができたのであろう。また「慾」は心の中の主観的の事実であり、「世にあるもの」は客観的の事物であってこの二者相一致しないように思われるけれども、ヨハネの見たる「世にあるもの」とは、倫理観を離れたる単なる被造物そのものではなく、これらが神を離れし人間の慾求の対象となり、この慾求とその目的物とを一括して観察して言ったのである。「肉の慾」「眼の慾」等にも種々の異なった解釈があるけれども一々列挙しない(M0参照)。
[所有] bios は「生命」を意味するけれども、また生活の必要品等を指すこともある。
[より出づ] ek は起源を示す。

2章17節 ()()(よく)とは()()く、されど(かみ)御意(みこころ)をおこなふ(もの)永遠(とこしへ)()るなり。[引照]

口語訳世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。
塚本訳(この)世と、その欲とは消え去る。ただ神の御心を行う者が、永遠に生きながらえるのである。
前田訳世は過ぎゆきます。欲もそうです。しかし神のみ心を行なうものはとこしえに残ります。
新共同世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。
NIVThe world and its desires pass away, but the man who does the will of God lives forever.
註解: キリストの再臨により神に叛ける世とその慾とは滅亡に帰せしめられ、反対に神を信じその御意(みこころ)を行うものすなわち真のキリスト者は永遠の生命に甦り永遠に神と共に生きる。この天地の滅亡と復興とを眼中に置きて言えるもの(M0)。この希望を確実に握る者は世の慾に囚われることがない。
辞解
[過ぎ行く] Tコリ7:31ヘブ12:27ヤコ1:10Tペテ1:24
要義 [神と世の対立]神の造り給える被造物(人間をも含めて)は本来神のものであり、神に従っていた。然るに人類の始祖アダムの反逆によりて人類は神を離れて詛われるものとなり、地もこれと共に詛われるに至った。かくして人類も神の他の被造物と共にサタンの僕となったのである。ヨハネはこれを世またはこの世と称して神および神の国と厳然たる対立においてこれを観察しているのである。ゆえに「世」が進歩発展して神の国になるにあらず。「世」は神の審判の下に滅ぼされて過ぎ行き、神の国は永遠に保つのである。今日の世界を観察する場合も我らはこれをこの対立において見ることを要する。

1-7 非キリストについて 2:18 - 2:26

2章18節 子供(こども)よ、(いま)(すゑ)(とき)なり、[引照]

口語訳子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る。
塚本訳小さい人たちよ、(いまや)最後の時である。反キリストが現われるとかつてあなた達が聞いたように、今や沢山の反キリストが出ている。このことから、(いまが)最後の時であることをわたし達は知るのである。
前田訳皆さん、今は終わりの時です。反キリストが来るとお聞きのように、今や多くの反キリストが現われました。それでわれらに終わりの時とわかるのです。
新共同子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。
NIVDear children, this is the last hour; and as you have heard that the antichrist is coming, even now many antichrists have come. This is how we know it is the last hour.
註解: 今は末の時であることは当時の使徒たち信徒たちの共通の信仰であった(引照1参照)。しかしこれは当時の信徒が誤算をしたのではない。「神の国の永遠ということを思うならば、如何に長き時日でも我らには一瞬間のごとくに見えるであろう」(C1)。
辞解
[末の時] キリストの初臨より再臨に至るまでの期間を指すことがあり、またキリストの再臨直前の期間を言う、本節の場合この後者である。

(なんぢ)らが()キリスト(きた)らんと()きしごとく、(いま)()キリスト(おほ)(おこ)れり、(これ)によりて我等(われら)その(すゑ)(とき)なるを()る。

註解: 非キリスト(▲口語訳は「反キリスト」と訳す)が多く生じたことが澆季(ぎょうき)の世、終末の時であることの証拠である。キリスト再び来り給う前に「非キリスト来るならん」ということは当時のキリスト者が使徒たちから聞いて知っているところであった。今やその時が来たのである。
辞解
[非キリスト来るならん] 世の終りにキリスト来る前に非キリストが来ることはユダヤ教以来の思想であり(ダニ7:25ダニ8:25)キリストもほぼこれに類することを語り給い(マタ24:5マタ24:24)パウロもユダヤ思想を継承して新約的思想を加味せるがごとき態度をもって「不法の人」「滅亡の子」のあらわるべきことを預言し(Uテサ2:3)、黙示録においても(黙12章−13章)キリストに敵するものとしてサタンの姿が描かれている。これらとヨハネのいわゆる非キリストとは同一物であって、何れもサタンをその主とする一つの精神の具体化せるものである。従って時には「多く」の非キリストとなりて顕われることあり、時には一人の人格において顕われることがある(Uテサ2:3)。ただしTヨハ2:22Tヨハ4:3Uヨハ1:7に非キリストが単数形にて用いられているのは、全種属を表示する意味であろう(B1、H0)。なお「非キリスト」Antichristos とは「キリストに対立するキリスト」の意でキリスト者に似ていながらこれと正反対なるものを指す。

2章19節 (かれ)らは我等(われら)より()でゆきたれど、[(もと)より]我等(われら)のものに(あら)ざりき。[引照]

口語訳彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。
塚本訳彼らはわたし達の中から出ていった。しかし(もともと)わたし達のものではなかった。もしもわたし達のものであったら、(いつまでも)わたし達と一しょにいるはずだからである。ただすべてがわたし達のものではないことが知られるため(、彼らは出ていったの)である。
前田訳彼らはわれらから出てゆきましたが、われらの仲間ではありませんでした。もし仲間であったら、われらのところにとどまったでしょう。彼らが去ったのは皆が皆、われらの仲間ではないことが明らかになるためです。
新共同彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。
NIVThey went out from us, but they did not really belong to us. For if they had belonged to us, they would have remained with us; but their going showed that none of them belonged to us.
註解: 「我らのもの」も「我らより出でしもの」とも訳することができ、ここに「より出でし」 ek が二つの意味に用いられている。第一は我らの仲間を離れて行ったこと、第二は我らに属するものにあらざることまたは我らにその源を発するにあらざることを意味す(16節)。すなわち非キリストが起ったのはヨハネを中心とする真の信徒団に属せしある人々が分離してキリストに背くにいたった結果であった。しかし彼らは本当の意味においてその教会に属したのではない。
辞解
[出でゆく、我等のもの] 共に ek なる前置詞(またはこれとの合成動詞)を用いているけれども前者は単に場所の関係を示し、後者は原因または所属を示す。

(われ)らの(もの)ならば、(われ)らと(とも)(とどま)りしならん。されど[その()でゆきしは、](みな)われらの(もの)ならぬことの(あらは)れん(ため)なり。

註解: ここに二つの重要なる真理を掲げている。その一は本当の信者同志であるならば分離することなきこと、その二は分離せる者が起りし所以は真の信仰と然らざるものとの区別が明らかにせられんためであったことである。ゆえに信徒らの分離は悲しむべきことであるけれどもこれによりて神の御旨があらわれる場合が多いことを思わねばならぬ(要義参照)。
辞解
[皆我らの(もの)ならぬこと] 我らの教会もみな(ことごと)くは真の信者だとはいえないとの意。

2章20節 (なんぢ)らは(せい)なる(もの)より(あぶら)(そそ)がれたれば、(すべ)ての(こと)()る。[引照]

口語訳しかし、あなたがたは聖なる者に油を注がれているので、あなたがたすべてが、そのことを知っている。
塚本訳そしてあなた達は聖者(キリスト)から油を注がれ(て聖者となっ)たのであるから、皆、(何が真理で、何が嘘であるかを)知っている。
前田訳あなた方も聖なる方からの油をお受けです。それで皆さんは知識をお持ちです。
新共同しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。
NIVBut you have an anointing from the Holy One, and all of you know the truth.
註解: 真のキリスト者と非キリストとの区別は聖霊の油の有無による。聖なる者すなわちキリストより聖霊を注がれし者は凡てのことを知っており、従って過誤に陥ることがない。非キリスト的過誤に陥る者は聖霊を受けていない証拠である。
辞解
[聖なる者] キリストを指す(27、28節Tヨハ3:3マコ1:24ヨハ6:69使3:14。その他B1、H0、A1)。聖霊は神より来ると見るべき場合あり(ヨハ14:16ヨハ15:26Tコリ6:19)、従ってこの「聖なるもの」を神と解する説あれど(E0)、ここではキリストよりと見るを適当とす。
[油を注がれたれば] 直訳「油 chrisma を持つ、されば」で、油は旧約時代より国王、祭司、預言者等を任命する場合にその上に注がれその栄誉、職分、使命、権威等を表示する習慣が行われた。油は聖霊を意味し(Tサム10:1Tサム16:13詩45:7イザ61:1)、「油注がれしもの」はキリスト christos で「非キリスト」はantichristos と対応する。
[凡ての事を知る] グノシス派が真の知識なきにかかわらず、自ら知ると称して他を無知と為すことに対する反駁(はんばく)である。「凡て」はキリストについて知るべき凡てのこと。

2章21節 (われ)[この(ふみ)を](なんぢ)らに(()き)(おく)るは、(なんぢ)眞理(まこと)()らぬ(ゆゑ)にあらず、眞理(まこと)()り、かつ(すべ)ての虚僞(いつはり)眞理(まこと)より()でぬことを()るに()る。[引照]

口語訳わたしが書きおくったのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、それを知っているからであり、また、すべての偽りは真理から出るものでないことを、知っているからである。
塚本訳わたしが(このことを)あなた達に書いたのは、あなた達が真理を知らないからではない、むしろそれを知っているからである。そして(また)、あらゆる嘘は真理から(出るの)ではないからである。
前田訳お書きしたのは、あなた方が真理をご存じでないからではなくて、ご存じだからです。そしてあらゆる偽りが真理から離れているからです。
新共同わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。
NIVI do not write to you because you do not know the truth, but because you do know it and because no lie comes from the truth.
註解: 前節のごとく「凡ての事を知る」ならば本節にヨハネが非キリストに関して書き贈る必要なきがごとくであるけれども、ヨハネがこれを書き贈る所以は、その読者に新しき知識を与えるためではなく、すでに知悉(しりつく)していることをなお一層明らかにせんがためであることをここに明示しているのである。12−14節も同様である。
辞解
[この書を汝らに贈るは] 「我汝らに書き贈れり(または贈る)」で何を書いたかは他の場合と同じく明示されていない。この場合はこの書簡全体を指すと見るよりもこの部分を指すと見るべきであろう(次節との関係を見よ)。
最後の部分を「かつ凡ての虚偽は真理より出でぬに因る」と訳する説あり(A1)。少数学者の説であるけれども文法上この方が自然でありかつ意味も適切である。すなわち非キリストに関して書き贈る所以は読者が真理を知るが故であり、また非キリストのごとき虚偽は読者の知っている真理より出づるはずなき故である。

2章22節 (いつはり)(もの)(たれ)なるか、イエスのキリストなるを(いな)(もの)にあらずや。[引照]

口語訳偽り者とは、だれであるか。イエスのキリストであることを否定する者ではないか。父と御子とを否定する者は、反キリストである。
塚本訳(それならば)だれが嘘つきか。イエスは救世主ではないと否認する者(、すなわち彼を単なる人間と見る者でなくして、だれであろう)。こんな者こそ反キリストであって、父と(その)子とを否認する者である。
前田訳イエスがキリストであることを否定する人が偽りものでなくて、だれが偽りものでしょう。その人は反キリストで、父と子とを否定しています。
新共同偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。
NIVWho is the liar? It is the man who denies that Jesus is the Christ. Such a man is the antichrist--he denies the Father and the Son.
註解: 「偽者」に定冠詞あり「非キリスト」を指す、非キリストとはイエスとキリストとの同一なることを否定するものである。ヨハネ書の中心思想はイエスなる肉体を有てる人間がそのまま神の子キリストであり太初(はじめ)より有りしところのものであるというのであって、この点を否定しまたは歪曲するものは非キリストである。すなわち(1)イエスをメシヤと信ぜざるユダヤ人は勿論のこと、その他(2)イエスを神と称しつつその永遠性を否定するもの、または(3)イエスなる人間の中に一時の間神が宿り給えりとするもの、または(4)人間イエスは実は神であり人間のごとく見えるのは一つの幻影であるとするもの、または(5)イエスをキリスト神の子と信ずと称しつつ事実上はあたかも然らざるごとくに取扱い人間は自己の功によりて救わると考えるごときものはみな非キリストであり今日も多く存する。

御父(みちち)御子(みこ)とを(いな)(もの)()キリストなり。

註解: 私訳「これ非キリストにして御父と御子とを否む者なり」(A1、M0)。「これ」は「偽者」を受く、「御父と御子を否む者」は「非キリスト」の同格的説明句である。すなわちイエスのキリストなることを否む偽者は前に言える非キリストであり、結局において御父と御子との双方を否む者であるというのである。その理由は次節にこれを説明する。

2章23節 (おほよ)御子(みこ)(いな)(もの)御父(みちち)をも()たず、御子(みこ)()ひあらはす(もの)御父(みちち)をも()つなり。[引照]

口語訳御子を否定する者は父を持たず、御子を告白する者は、また父をも持つのである。
塚本訳子を否認する者は皆、父をも持たず、子を公然告白する者は父をも持っている(からである)。
前田訳子を否定するものは父をも持ちません。子を告白するものは父をも持ちます。
新共同御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。
NIVNo one who denies the Son has the Father; whoever acknowledges the Son has the Father also.
註解: 「御子を否む」「御子を言ひあらはす」の「御子を」は共に「イエスが神の御子キリストに在し給うことを」という意味である。「御父を有つ」は父との間の完全なる霊の交わりにおいて存在すること。肉体を有ち給うイエスをそのまま神の御子キリストと信ずる時に我らは始めて真に神を知り、神が父に在し給うことがわかる。この信仰に入るまでの神は我らに遠き神であり、思想上の神である。ゆえに御子を否むことは御父をも共に否むこととなる。
辞解
[言ひあらはす] 告白するで、単に口舌上の告白ではなく心と行いをもって告白することでなければならない。

2章24節 (はじめ)より()きし(ところ)(なんぢ)らの(うち)()らしめよ。(はじめ)より()きしところ(なんぢ)らの(うち)()らば、(なんぢ)らも御子(みこ)御父(みちち)とに()らん。[引照]

口語訳初めから聞いたことが、あなたがたのうちに、とどまるようにしなさい。初めから聞いたことが、あなたがたのうちにとどまっておれば、あなたがたも御子と父とのうちに、とどまることになる。
塚本訳あなた達は始めから聞いたことを(いつまでも)留めておかねばならない。もし始めから聞いたことがあなた達に留まっているならば、あなた達は(永遠に)子と父とに留っているであろう。
前田訳はじめからお聞きのことがあなた方のうちにとどまりますように。はじめからお聞きのことがあなた方のうちにとどまるならば、あなた方も子と父とのうちにおとどまりです。
新共同初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。
NIVSee that what you have heard from the beginning remains in you. If it does, you also will remain in the Son and in the Father.
註解: 「初めより聞きし所」はイエス・キリストに関する言で、上述せるごとき中心点である。これが心の中に留まっているならば、その人はすなわち御子と御父との間に霊の交わりを有ち、その中に永遠に留まっているのである。神の言は我らの(うち)に働いて、我らをしてキリストの交わりに入らしめ、従って神との霊の交わりに入らしめるのである。
辞解
[居る] ヨハネ特愛の文字 menô で三回ここに用いている。永く留まって離れないこと。キリスト者とキリストおよび神との関係を表顕するに最も適当なる文字。

2章25節 ((かれ)が)(われ)らに(やく)(たま)ひし約束(やくそく)(これ)なり、(すなは)永遠(とこしへ)生命(いのち)なり。[引照]

口語訳これが、彼自らわたしたちに約束された約束であって、すなわち、永遠のいのちである。
塚本訳そして彼(キリスト)がわたし達に約束された約束のものこそ、この永遠の命である。
前田訳彼ご自身がわれらにお伝えの約束、すなわち永遠のいのちはこれです。
新共同これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
NIVAnd this is what he promised us--even eternal life.
註解: 「居る」「留る」等の思想は自ら未来に向って我らの心を動かす。それ故にヨハネはキリスト(彼)が我らに約束し給いし約束の何たるかを示して我らの心に希望を与える。この約束は永遠の生命が与えられることである。そしてTヨハ5:11、12の示すごとく、この永遠の生命は御子彼自身であり、永遠の生命をもつことは御子をもつことである。ゆえにキリストの約束は彼自身を与え給うことである。

2章26節 (なんぢ)らを(まどは)(もの)どもに()きて(われ)これらの(こと)()(おく)る。[引照]

口語訳わたしは、あなたがたを惑わす者たちについて、これらのことを書きおくった。
塚本訳わたしはあなた達を迷わす者たちについて、これらのことを書いたのである。
前田訳以上あなた方を迷わすものどもについてお書きしました。
新共同以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。
NIVI am writing these things to you about those who are trying to lead you astray.
註解: これらのことは18節以下の非キリストのことで、彼らは事実信徒を惑わしてその信仰を乱さんとしている徒輩であった。ヨハネの静かなる文章も実は彼らに対する実戦であった。
辞解
[つきて] 非キリストといい偽者というはみな彼らのことである。

1-8 油注がれし者の知識 2:27 - 2:29

2章27節 なんぢらの(うち)には、(しゅ)より(そそ)がれたる(あぶら)とどまる(ゆゑ)に、(ひと)(なんぢ)らに(もの)(をし)ふる(えう)なし。[引照]

口語訳あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。
塚本訳しかしあなた達は、キリストから戴いた油(すなわち聖霊)が留っているのだから、だれからも教えてもらう必要はない。彼の油が万事についてあなた達に教えるように、またそれはまことであって、嘘ではない。そしてその油があなた達に教えたとおり、(つねに)キリストに留っておれ。
前田訳あなた方については、お受けの油がとどまっていますから、だれもあなた方をお教えする必要がなく、彼の油がすべてについてあなた方を教えます。それはまことで偽りがありません。彼がお教えのように彼のうちにとどまってください。
新共同しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。
NIVAs for you, the anointing you received from him remains in you, and you do not need anyone to teach you. But as his anointing teaches you about all things and as that anointing is real, not counterfeit--just as it has taught you, remain in him.
註解: キリスト者は真に聖霊に充たされ聖霊に導かれるならば、凡ての真理を悟り得るはずであって、グノシス説を唱え自ら知識ありとする偽教師は勿論のこと如何なる人間といえども彼らを教える必要がない(ヨハ16:13)。
辞解
[注がれたる] 「受けたる」。

()(あぶら)(なんぢ)らに(すべ)ての(こと)(をし)へ、かつ(まこと)にして虚僞(いつはり)なし、(なんぢ)()はその(をし)へしごとく(しゅ)()るなり。

註解: (▲「居るなり」 menete は命令形ともなる(口語訳、RSV)。ただし次節を命令形に取る必要ある故重複となり適当でない。)原文は二様に訳し得る可能性あり、(1)「されどかれの油万事につきて汝らに教えるごとく、そは真正にして虚偽なくまたその教えしごとく汝らは主に居るなり」、(2)「されどかれの油万事につきて汝らに教えるごとく ─ そしてそは真正にして虚偽なし ─ またその教えしごとく汝らは主に在るなり」。日本改訳はこの何れとも一致しないけれども何れかというと(1)に近い。予は(1)を採る(M0、C1、L1)。(2)による学者もある(A1、E0、H0)。聖霊は凡てのことを教え、そして聖霊に教えられし者のみな経験するごとくそれには誤りもなくまた虚偽がない。そして汝らは聖霊の教えしごとくキリストの中に留まっているのであれば、もはや何人よりも教えられる必要がない。いわんや偽教師らにおいておや。「居るなり」は異本に「居るならん」とあり、この方不可なり。「この油」は異本「かれの油」とありこの方可なり。
辞解
[真にして虚偽なし] 主語は「油」であって「油の教える教え」(M0)ではない。

2章28節 されば若子(わくご)よ、(しゅ)()れ。これ(しゅ)(あらは)(たま)ふときに(おく)することなく、()(きた)(たま)ふときに()づることなからん(ため)なり。[引照]

口語訳そこで、子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、彼が現れる時に、確信を持ち、その来臨に際して、みまえに恥じいることがないためである。
塚本訳さあ、子供たちよ、キリストに留っておれ。彼が自分を現わされるときに、(わたし達が喜びの)信頼を持ち、その来臨に際し彼に恥じないためである。
前田訳今こそ、皆さん、彼のうちにおとどまりなさい。それは彼がお見えのときわれらが確信を持ち、来臨に際して彼から恥を受けないためです。
新共同さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。
NIVAnd now, dear children, continue in him, so that when he appears we may be confident and unashamed before him at his coming.
註解: 非キリストの多く現われている今の時に、何よりも重要なことは主の中に留まることである。主との交わりの状態を持続してこれより離れないものは主の再臨の時には確信と歓喜とをもって大胆に主を迎えることができ、恥じて彼の前を離れるようなことはない。12−14節においてこの書簡の読者は罪を赦され、キリストを知り、悪しき者に勝っている状態にあるけれども、永続的に主の中に留まる状態に達していない故これをヨハネはここに命じているのである。
辞解
[主の現れ給ふとき] 再臨の時をいう(コロ3:4)。「来り給ふとき」 parousia もこれに同じ。
[恥づること] 原語では「恥じて彼の面前を避くる」ごとき意味あり。

2章29節 なんぢら(しゅ)(ただ)しと()らば、(すべ)正義(ただしき)をおこなふ(もの)(しゅ)より(うま)れたることを()らん。[引照]

口語訳彼の義なるかたであることがわかれば、義を行う者はみな彼から生れたものであることを、知るであろう。
塚本訳もしあなた達がキリストの義であることを知っているならば、義を行う者は皆、神から生まれたのであることを知れ。
前田訳彼が義にいますことをご存じならば、だれでも義を行なうものは彼から生まれたこともおわかりのはずです。
新共同あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。
NIVIf you know that he is righteous, you know that everyone who does what is right has been born of him.
註解: 「主に居る」「主の中に留る」ということは義なる主と同じ生命に生きることであり、従ってかかる人は自ら義を行うようになる(Tヨハ3:7Tヨハ3:10)。「主に居れ」と言いしヨハネは主にある者と義を行う者とが同一であることをここに示しているのである。
辞解
本節が一見前節との連絡が不明であり、かえって次章と内容を同じくする結果本節を次章の内容に加える分類の見方が多い(A1、M0、H0)。しかしながら緒言に示せるごとく、本書は明瞭に分類し難く、思想の連絡がリレー式なるより見れば、本節は2:18−28と3:1以下との連絡となっているものと見るべきである。
[主を正しと知らば] 「主」は原文になき故、主語が神なりやキリストなりやにつき論争あり、本節を前節と関連せしむる場合はこれをキリストと解すべく、次節に関連せしむる場合は神と見るべきがごとくであってやや不正確であるが予は第一説によった。聖書に「神より生れる」とあるけれども(Tヨハ3:1Tヨハ3:9Tヨハ4:7Tヨハ5:1Tヨハ5:4Tヨハ5:18等)「キリストより生れる」なる思想がないことはその解釈の欠点であるけれども、本書簡においては神とキリストとが著しく接近している故(Tヨハ5:20)かかる特別の場合があり得ると解することができる。
要義1 [真のキリスト者と然らざるもの]「彼らは我等より出てゆきたれど、(もと)より我等のものに非らざりき。我らの(もの)ならば、我らと共に留りしならん。」(2:19)。ヨハネはこの一節によって、ヨハネおよびその教団と共に留まる者は真のキリスト者であり、それより分離する者は非キリストであることを断言している。これを形式的に解する場合は既成教会より分離する分離派 Separatists、独立派 Independents らはみな非キリストであることとなり、ルーテルもカルヴィンもウェスレーもバンヤンもみな非キリストであることとなる。しかしこれを内容的に解する場合には、聖霊のある処、キリストの中に留まる処に真の教会があり、これより分離する者が非キリストであることとなる。凡てのキリスト者は真に謙遜なる心をもって自分がキリストの中に留まっているか、またキリストが自分の(うち)に在し給うかを顧みなければならない(Uコリ13:6)。
要義2 [分離は時に必要なり]分離争闘は常に望ましくはない。しかしながら時には義しきものと然らざるものとの区別のために分離が必要な場合がある(19節後半。Tコリ11:19)。相反するものが共に居ることは虚偽である。キリストにある者と然らざる者とは一体であり得ない。かかる場合には苟合(こうごう)的平和よりも明瞭なる分離がかえって神のものとサタンのものとの区別を示すに効果がある。
要義3 [御子を否む者は御父をも有たず]神の存在を信じるけれどもキリストが神の子に在すことはこれを信じることはできないという人がある。かかる人の神に対する信仰は一つの観念であって生命ではない、キリストを神の子と信ずる者が真に神を父と信じ神との交わりに入ることができる。何となればキリストに顕われし神の愛を見るまでは人は愛の何たるかを知らず、従って真の父を知らないからである。
要義4 [イエスのキリストなるを拒む者]註の中に示せるごとくこの中には種々の場合を考えることができる。イエスはキリストなりとは肉体を有ち給うイエスが永遠の太初(はじめ)より在し給いし神の子であると信ずる信仰である。これを理知的に説明するには種々の困難があり、そのために古来「キリスト論」は激しい論争の歴史を有っている。元来肉体を有ちて来り給えるナザレのイエスが永遠の神の子に在し給うことの信仰は不合理そのものであってこれを合理的ならしめんとする試みは必ず失敗する。従って多くの学説は理性の判断よりすれば何れも不完全である。しかしながらこのヨハネ書の態度のごとく、この不合理を超越してイエスをキリストと信ずる信仰の態度こそ信仰の根本であって、この信仰を枢軸として人生は一転し宇宙も一転する、この新しき人生観世界観の下において始めて不合理が合理化されるに至るのである。