黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ピリピ書

ピリピ書第3章

分類
3 教訓 2:1 - 4:9

3章1節 (をはり)()はん、()兄弟(きゃうだい)よ、なんぢら(しゅ)()りて(よろこ)べ。[引照]

口語訳最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。さきに書いたのと同じことをここで繰り返すが、それは、わたしには煩わしいことではなく、あなたがたには安全なことになる。
塚本訳最後に、(愛する)わが兄弟達よ、主に在って喜べ──(こう喜べ喜べと言ってはうるさいかも知れないが、)このことを書くのは私には(少しも)うるさいことではなく、また君達には(苦難を喜ぶことが信仰を保つに最も)安全(な道)である(と思う。)
前田訳最後に、兄弟よ、主にあってよろこんでください。同じことをお書きするのは、わたしにはおやすい御用、あなた方にはより確かになります。
新共同では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
NIVFinally, my brothers, rejoice in the Lord! It is no trouble for me to write the same things to you again, and it is a safeguard for you.
註解: パウロは前章の終りをもってこの書簡を終らんとしたものと思われる。ただし「終に言はん」 loipon は殊に後代においては「なお」のごとき意味に用いられる故、単に書簡の中の主題の変換に伴う連結の鎖のごとくに用いられたものと見ることを得。パウロは繰り返してピリピの信徒に歓喜の生活をすすめている。大なる歓喜なき生涯は、真の信仰の生涯ではない。

なんぢらに(おな)じことを()きおくるは、(われ)(わづら)はしきことなく、(なんぢ)()には安然(やすらか)なり。

註解: 「同じこと」は「喜べ」とのすすめを指す(ピリ2:18ピリ4:4)。本書簡の基調をなす処は、パウロの苦難の中にある歓喜であり、またこの歓喜をピリピの信徒にすすめていることである。これは幾度(すす)めても飽く処を知らず、またピリピの信徒のためには当然なるすすめである。
辞解
[同じこと] 上記のごとく解すべきであるが(L2、B1)これを3:2以下の内容を示すと解する説(M0)あり、これによれば或は以前に他の書簡が(したた)められたものではないかと考えられている(ポリカルプの書簡による)。上掲の説を採る。

3-4 対異端の注意 3:2 - 4:1
3-4-イ キリストの救いと肉の虚しさ 3:2 - 3:16  

3章2節 なんぢら(いぬ)(こころ)せよ、[引照]

口語訳あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。
塚本訳あの犬どもに気をつけよ、あの悪い「労働人」どもに気をつけよ、あの「切り取り」どもに気をつけよ!(あの連中は割礼割礼と言うが、ただ肉を取っただけのことだ。)
前田訳犬どもにご注意を。悪いやり手にご注意を。えせ割礼にご注意を。
新共同あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
NIVWatch out for those dogs, those men who do evil, those mutilators of the flesh.
註解: 犬は不潔なる存在、すなわち真の神を信ぜざる異教徒等を指して軽蔑を示す語として用いられる。本節の場合、パウロを非難するユダヤ的キリスト者(ガラ2:4使15:1使15:24)を指す(L1、M0、B1)。ピリピにかかる偽使徒、偽教師が事実いたかどうかは不明だけれども、おそらくその影響の及ぶ危険を感じたのであろう。なおこの「犬」および次の二つの注意人物を単にユダヤ人中の扇動者と解する説もあり(L3)。

()しき勞動人(はたらきびと)(こころ)せよ、

註解: 労働人(はたらきびと)は伝道的活動を為す人、Uコリ11:13のごときも悪しき労働人である。ユダヤ的キリスト者のごときその最悪の者である。

(にく)割禮(かつれい)ある(もの)(こころ)せよ。

註解: 「肉の割礼ある者」は原語「カタトメー」katatomê で「切断」または「身に傷つける」ことを意味し、モーセの律法において禁ぜられている処である(レビ21:5T列18:28)。ここでは「教会を損傷する者」の意味に用い、偽使徒らを指す。次節の「割礼ある者」原語「ペリトメー」peritomê と語呂を対比して巧みに表顕している。「心せよ」と三回繰り返して、彼らに深き注意を促す。「犬」「悪しき労働人」「肉の割礼ある者」の何れにも定冠詞を附し、読者が直ちにそれと悟り得ることを示す。

3章3節 (かみ)御靈(みたま)によりて禮拜(れいはい)をなし、[引照]

口語訳神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。
塚本訳(割礼は無いが、)私達こそ本当の割礼者である。(その証拠には、)私達は神の霊によって神に仕え、(ただ)キリスト・イエスを誇りとし、(決して)肉に、(人間の特権に)頼らないからだ──
前田訳われらこそ真の割礼のものです。われらは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスによって誇り、肉に頼りません。
新共同彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
NIVFor it is we who are the circumcision, we who worship by the Spirit of God, who glory in Christ Jesus, and who put no confidence in the flesh--
註解: 外部的形式により、律法の規定に(したが)い、礼拝するものとは正反対に、「霊と真とをもって」(ヨハ4:23)すなわち心の中に宿る神の霊によって神に向って真実なる心にて礼拝すること、これはキリスト者の礼拝である。

キリスト・イエスによりて(ほこ)り、

註解: パウロが4−6節にあるごとき誇りではなく、また一般のユダヤ人がその血統、その選民たること、その律法等に誇る誇りでもなく、信仰によってキリスト・イエスにあることの誇りである(Tコリ1:31)。

(にく)(たの)まぬ(われ)らは[(まこと)の]割禮(かつれい)ある(もの)なり。

註解: 肉を(たの)むとは肉的方面(血統、律法の行為等)にその確信の基礎を置くことをいい、ユダヤ人の態度を指す。キリスト者はかかる態度を取らず、キリスト・イエスによって新たに生れる霊の生命に(たの)む者である。かかる者こそ割礼ある者すなわち肉の穢れを取り除いた者であり、前節のユダヤ的キリスト者とは正反対である。ユダヤ的キリスト者は肉体に割礼を受けても実は汚れしものであり、キリスト者は肉に割礼を受けるも受けなくとも、真の割礼ある者である。
辞解
「我らは割礼ある者なり」が本節の初頭にあり意味を強調する。「真の」は原文になし。

3章4節 されど(われ)(にく)にも(たの)むことを()るなり。[引照]

口語訳もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。
塚本訳私(個人)としては肉に頼ることも出来るのであるが!(しかし)もし誰か他の人が肉に頼れると思うなら、私はなおさらそうである。
前田訳もっとも、わたし自身肉にも頼れます。もし他のだれかが肉に頼れると思うなら、わたしはそれ以上です。
新共同とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。
NIVthough I myself have reasons for such confidence. If anyone else thinks he has reasons to put confidence in the flesh, I have more:
註解: 前節の「肉に(たの)まぬ」は(たの)むべき所がないからではなく、(たの)むべき数多くの点があるにもかかわらず(たの)まないのであった。(たの)み得ずして(たの)まないのならば当然のことである。然るに(たの)むべき充分な理由を持ってこれを(たの)まないとすれば、これには充分な理由があるはずである。Uコリ11:18参照。

もし(ほか)(ひと)(にく)(たのみ)むところありと(おも)はば、(われ)(さら)に[(たのみ)(ところ)あり。]

註解: パウロがキリスト・イエスを信ずるに至ったのは、自己に肉に(たの)むべき材料がなかったからではなく、この点においては他の人々以上(たの)むべき所があることを強調する。

3章5節 (われ)八日(やうか)めに割禮(かつれい)()けたる(もの)にして、[引照]

口語訳わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、
塚本訳私は(モーセ律法に拠って)八日目に割礼された者で、イスラエルの血族、(殊に名誉ある)ベニヤミン族の出、ベブライ人中のヘブライ人、律法の点では(最も厳格な)パリサイ人、
前田訳八日目に割礼され、イスラエルの民、ベニアミンの族(やから)の出で、ヘブライ人ちゅうのヘブライ人、律法についてはパリサイ人、
新共同わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、
NIVcircumcised on the eighth day, of the people of Israel, of the tribe of Benjamin, a Hebrew of Hebrews; in regard to the law, a Pharisee;
註解: 純粋のイスラエルの子孫たることを示す。アブラハムの庶子(しょし)、イシマエルの子孫は十三歳の時に割礼を受け、異邦人の改宗者は、改宗の際に割礼を受ける。パウロはかかる種類の者ではない。

イスラエルの血統(ちすぢ)

註解: アブラハムの嫡孫(ちゃくそん)ヤコブの血統たり(ロマ11:1Uコリ11:22)。

ベニヤミンの(やから)

註解: ベニヤミン族はイスラエルの最初の王サウルを産し、ユダ族と親しく、多くの軍将を出し、また十二支族中約束の地において生れしべニヤミンの子孫たる等の点において誇りを持てる支族であった(ロマ11:1)。

ヘブル(びと)より()でたるヘブル(びと)なり。

註解: ユダヤ人の中ギリシャ語のユダヤ人(使6:1)と区別して、ヘブル語を保持している生粋のユダヤ人をヘブル人と称した。以上の三つはパウロの生れながらの身分の誇りである。以下の三つは彼の生活態度に関する誇りである。

律法(おきて)()きてはパリサイ(びと)

註解: 律法を最も厳格に守ることを主義とするパリサイ派に属していた。ユダヤ人の中の最も宗教的な人々である。
辞解
[律法] この場合冠詞を欠く、一般的に律法を指す、モーセの律法に限らず。

3章6節 熱心(ねっしん)につきては教會(けうくわい)迫害(はくがい)したるもの、[引照]

口語訳熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。
塚本訳(ユダヤ教に対する)熱心の点では、(キリストの)教会の迫害者、律法による義の点では非難の打ち処ない者であった。
前田訳熱心については集まりの迫害者、律法に関する義については落ち度なしです。
新共同熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
NIVas for zeal, persecuting the church; as for legalistic righteousness, faultless.
註解: パウロがキリスト教徒を迫害したのは(使8:1−3。使9:1、2)そのユダヤ教に対する熱心のためであった。パウロは迫害の行為については後悔していたけれども(Tコリ15:9)その熱心については誇りを感じていた。

律法(おきて)によれる()()きては()むべき(ところ)なかりし(もの)なり。

註解: 律法の規定を行うだけで義と考える考え方を「律法によれる義」と呼んでいる。この見方をすればパウロは俯仰(ふぎょう)天地に恥じず、何人も彼を非難し得ないほど完全に律法を守った。それでも彼は「これによりて義とせられず」(Tコリ4:4)と感じたのが彼の回心の基礎である。

3章7節 されど(さき)()(えき)たりし(こと)はキリストのために(そん)(おも)ふに(いた)れり。[引照]

口語訳しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
塚本訳しかし(前には)自分に得であ(ると思っ)たこれらの特権も、キリストのために(かえって)損と思うようになってしまった。
前田訳しかしわたしに益であったこんなものを、キリストのゆえに損と思いました。
新共同しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
NIVBut whatever was to my profit I now consider loss for the sake of Christ.
註解: 「キリストのために」は「キリストの故に」の意味、すなわちキリストを信ずるに至った時、パウロにとりては価値の転倒が起った。価値の観念は信仰に入ることによりて一変する。世人が価値ありと思惟する処のものは無価値であり、価値なしとして無視する処に真の価値を発見する。パウロが誇っており(たの)んでいたものは、彼の益であったが今は損となってしまった。

3章8節 (しか)り、(われ)はわが(しゅ)キリスト・イエスを()ることの(すぐ)れたるために、(すべ)ての(もの)(そん)なりと(おも)ひ、(かれ)のために(すで)(すべ)ての(もの)(そん)せしが、(これ)塵芥(あくた)のごとく(おも)ふ。[引照]

口語訳わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
塚本訳否、ただにそれ(らの特権)ばかりでなく、わが主キリスト・イエス(を知る)の知識が(余りにも尊く)優れているために、本当は(今は)一切合切のものを損だと思っている。(実際)彼のために何もかも損してしまったのだが、(そんなものは皆)塵芥と思っている。これはキリスト・イエスを自分の有とし、
前田訳そして今も、わが主キリスト・イエスを知ることのすばらしさのゆえに、すべてを損と思っています。彼のゆえにすべてを損しましたが、キリストを得、
新共同そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
NIVWhat is more, I consider everything a loss compared to the surpassing greatness of knowing Christ Jesus my Lord, for whose sake I have lost all things. I consider them rubbish, that I may gain Christ
註解: 単に4−6節に掲げし誇りのみならず、その他の凡てのものを無価値と考えた。否、無価値以上これを損と考え、塵芥(ちりあくた)、糞尿のごときものと考えた。これキリスト・イエスを知ること、すなわち彼との霊的一致の生涯を送ることが非常に優れた価値あるが故である。無限大の価値の前には、他の如何なる価値も零に等しい、かつ人はこれを損とすら感ずるに至る。パウロはその誇り得べき凡てのものを棄てて、嫌忌されるキリスト信徒、しかもその使徒となった。もし彼にしてユダヤ人として留まったならば、立派な成功者としてこの世に時めいたであろう。
辞解
[然れど] 「否、然のみならず」。
[知る] 単なる知識ではなく、その教えに与り、イエスと偕なる生活に入ることを体験すること。
[塵芥(あくた)] skybalon は食物の残滓(ざんし)すなわち糞、食卓の食い残り、すなわち残飯、生活物資の排除物すなわち塵埃(ほこり)等を指す。

3章9節 これキリストを()、かつ律法(おきて)による(おの)()ならで、(ただ)キリストを(しん)ずる信仰(しんかう)による()、すなはち信仰(しんかう)(もとづ)きて(かみ)より(たま)はる()(たも)ち、キリストに()るを(みと)められ、[引照]

口語訳律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
塚本訳彼に在ることが出来──(もちろん)これは律法(を守ること)から来る私自身の義によるのでなく、キリストの信仰による(義、)すなわち信仰に基づいて神から与えられる義によるのであるが──
前田訳彼に属すると認められるために、それらをごみと思っています。律法から来るわが義を持たず、キリストのまことによる義、まことに応えて神から来る義をもつのです。
新共同キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
NIVand be found in him, not having a righteousness of my own that comes from the law, but that which is through faith in Christ--the righteousness that comes from God and is by faith.
註解: パウロが凡ての物を損しても顧みなかった目的を本節および次節に述べている。本節においては(1)キリストを()ること、(2)キリストにあるを認められること(直訳 ─ 「キリストの中に見出されること」でその意味は事実キリストの中に在ることである)がその目的である。この二者はキリスト我らの中に住み、我らキリストの中に生きることの二方面を示す(ガラ2:20ロマ6:11)。この二者は二つにして一つである。そしてこれは神によりて義とせられし状態であってその義は「律法より出づる己が義」ではない。すなわち律法を行ったことを己の功績と考え、これを神の前に持ち出し神より義と認められんとする心、換言すれば「律法の行為による義」ではなく、「キリストを信ずる信仰による義」である。そしてこの信仰による義とは、「神より出でて信仰の上に置かれる義」(直訳)であり、神が我らの信仰を見てこれを義と認め、この信仰の上に神の義認の印を押し給うことである。「律法による」は「信仰による」に対し、「己が」は「神の」に対する。そしてこの二種の義は全然性質を異にす(ロマ3:21、22)。

3章10節 キリストとその復活(よみがへり)(ちから)とを()り、[引照]

口語訳すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
塚本訳かくて(ますます深く)キリストを知り、その復活の力を受け、その苦難に与り、彼と同じような死様をして、
前田訳それはキリストを、すなわち彼の復活の力と彼の苦しみを共にすることを知るためであり、彼の死と同じ形にされて、
新共同わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、
NIVI want to know Christ and the power of his resurrection and the fellowship of sharing in his sufferings, becoming like him in his death,
註解: 前節と同じく8節の目的を示す。すなわちキリストとその復活の力とを自分のものとし、自分の体験に持つことがその一つである。「復活の力」とはキリストの復活なる事実が我らの信仰の上に及ぼす力を指す(Tコリ15:54−58)。▲「復活の力」はまた「復活そのものの力」すなわち神の力によって死ぬべき身体を復活させる力の意味にも取ることができる。

(また)その()(なら)ひて(かれ)苦難(くるしみ)にあづか(る(こと)())り、

註解: (なら)いて」は「同化して」「同型となりて」の意。キリストと一体の関係に入ることは、その死と苦難とを共にすることである。Uコリ1:5コロ1:24Tペテ4:13。神の愛をもって人類を罪より救わんとする者は死の苦を苦しむ(ロマ6:5Uコリ4:10)。

3章11節 如何(いか)にもして死人(しにん)(うち)より(よみが)へることを()んが(ため)なり。[引照]

口語訳なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
塚本訳あわよくば私も(最後に)死人の復活に達したいためである。
前田訳いかにもして死人たちからの復活に達したいのです。
新共同何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
NIVand so, somehow, to attain to the resurrection from the dead.
註解: パウロの希望である。未来の希望あるが故に現在の凡ての特権も凡ての快楽もこれを放棄することができる。「死人の中より甦る」とは永遠の生命を受けるための復活を指す。パウロはこれを望んで凡てを棄てることができた。
辞解
[如何にもして] 「もし何とかしてできるなら」というごとき意味。

3章12節 われ(すで)()れり、(すで)(まった)うせられたりと()ふにあらず、[引照]

口語訳わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
塚本訳しかしこれは(何も)既に(それを)捉えたとか、既に完成されているとか言うのでは(もちろん)ない。ただもしや私も(それを)捉えることが出来はしないかと、走っているまでである。私もキリスト・イエスに捉えられたのだから。
前田訳わたしがすでにこれを得たとかすでに全うされたわけではなく、キリストによってわたしが捕えられたがゆえにますます捕えようと努めるのです。
新共同わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
NIVNot that I have already obtained all this, or have already been made perfect, but I press on to take hold of that for which Christ Jesus took hold of me.
註解: 8−11節はキリスト者の現在における生活態度とその約束せられし将来の栄光とを示したものであるが、パウロはすでにこれらをことごとく獲得し、また完全に所有して完成せられし者となってしまっているというのではないとの意。キリスト者を()ること、キリストの中に見出されること、神によって義とされ、栄光を与えられることはキリスト者の信仰である。信仰としては確実にこれを所有しつつ、現実においてなお多くの不完全さを伴う。すなわち信仰における完全なる平安と現実における戦々競々たる努力とを持つべきである。
辞解
「取れり」の目的語を(1)キリスト、(2)復活、(3)道徳的完全、(4)褒美等と解する諸説あれども上記のごとくに解す(E0)。

(ただ)これを(とら)へ(もやせ)んとて()(もと)む。

註解: 捉えようとして熱心に追求するのがパウロの態度であった(Tコリ9:24−27)。神の約束の誠実さを確信しつつ(Tテサ5:24)、自己の弱さにつき懼れ(おのの)くのが真のキリスト者の態度である。2節の人々のごとく自己の肉の誇りによりて、すでに神の救を完全に保持せりと考えるごときは誤りである。

キリストは[(これ)()させんとて](われ)(とら)へたまへり。

註解: 私訳「かかる事情の下に我はキリストに(かた)く捉えられたり。」キリストは己を捉えんとする者を捉え給う。パウロはキリストに捉えられたる者となった。
辞解
「かかる事情の下に」と私訳せし eph’hô についてはロマ5:12辞解参照。難解の関係代名詞句なり。
[捉えたまへり] 単にダマスコにおける回心の事実を指すとする(M0)は適当でない。

3章13節 兄弟(きゃうだい)よ、われは(すで)(とら)へたりと(おも)はず、(ただ)この一事(いちじ)(つと)む、(すなは)(しりへ)のものを(わす)れ、(まへ)のものに(むか)ひて(はげ)み、[引照]

口語訳兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
塚本訳兄弟達よ、私はまだ自分で(それを)捉えたなどとは考えていない。しかし(ただ)一つの事──後ろのものを忘れ、前のものを追い求めながら、
前田訳兄弟よ、わたし自身まだ捕えられきったと思ってはいません。ことはただひとつです。すなわち、後のものを忘れ、前のものへと手を差し伸べ、
新共同兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
NIVBrothers, I do not consider myself yet to have taken hold of it. But one thing I do: Forgetting what is behind and straining toward what is ahead,
註解: 前節の「追求む」をさらに詳述し、パウロがしばしば用いしオリムピヤの競技の例をもって説明する。すなわち競争者がその走り(おわ)った過去のことを忘却して前方に向って身を伸ばして突進するがごとく、パウロは過去に属する肉の誇り、自己の過失、罪、キリスト者の迫害等を凡て顧みることをせずに前方に突進しているのである。或は過去に属する肉の誇りに恋々たること、エジプトの肉の鍋を慕うこと、また自己の過去の罪を思うて意気消沈することは、キリスト者の取るべき態度ではない。
辞解
[唯この一事を務む、即ち] 「唯一つ」と直訳すれば原文のままとなり、意味も通じる。唯一つを「思う」「云う」「為す」「知る」等を補充する要なし。
[励み] 原語「・・・・・・の方に手を(または身体を)伸す」の意、取ろうとして努力する貌。

3章14節 標準(めあて)()して(すす)み、(かみ)のキリスト・イエスに()りて(うへ)()したまふ(めし)にかかはる褒美(はうび)()んとて(これ)()(もと)む。[引照]

口語訳目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
塚本訳(或る)目標に向かって、すなわち神がキリスト・イエスにおいて天上に招き給う褒美に向かって(ひた走りに)走っているのである。
前田訳目標を指して走っています。キリスト・イエスによる上への神のお召しという賞品を目ざしています。
新共同神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
NIVI press on toward the goal to win the prize for which God has called me heavenward in Christ Jesus.
註解: 私訳「キリスト・イエスにある、神の、上なる召しにかかる褒美を得んとて標準(めあて)に向って追及す」。「神の上なる召し」とはキリスト者は天国の民たるべく神に召された者であることを意味す。その褒美とは、その召命に伴い多くの褒美が与えられること、復活、栄化、神の国の栄光、永遠の生命のごとし。これは「キリストに在る」者にのみ与えられる処のものである。この褒美は競技における賞品を指す語であり、凡ての競技者はこれを得んとして追求める。

3章15節 されば我等(われら)のうち成人(せいじん)したる(もの)は、みな()くのごとき(おもひ)(いだ)くべし、[引照]

口語訳だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。
塚本訳だから(兄弟達よ、既に)完成した者は皆(──君達も私も──)このことを心がけようではないか。そしてもし君達に何か考え違いがあれば、それも神が示し給うに違いない。
前田訳それで、成熟したものとしてわれらは皆このことを考えましょう。もしあなた方が何か別の考えならば、神はこのことをもあなた方にお示しになりましょう。
新共同だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
NIVAll of us who are mature should take such a view of things. And if on some point you think differently, that too God will make clear to you.
註解: 「成人したる者」はまた「全き者」とも訳される teleios である(マタ5:48エペ4:13コロ1:28コロ4:12ヘブ5:14)。すなわち信仰は、人がその不完全のまま完全に向って努力しつつある貌そのままをもって完全である。換言すれば神の完全さに対して(すなわちその完全さによる救いに対して)完全に信頼すると同時に、自己の不完全なる肉を殺してこれを()ちたたきつつ完全を目あてに猛進する処に信仰の(まった)き人が成立する。神の救いに対して徹底的に信頼し得ざる者は不信仰であり神に義と認められない。またこれを信ずるの故をもって自己がすでにこれを獲得したもののごとく思って凡ての努力を棄てる者は、救われて神の僕たるべき者がかえって神を僕として己を救わせようとする者であって真の信仰ではない。この不信仰と誤れる信仰とは何時の時代においても多く存する。「斯くのごとき思」は、完全に向って努力しなければならぬこと。なお要義二参照。

(なんぢ)()もし何事(なにごと)にても(こと)なる(おもひ)(いだ)()らば、(かみ)これをも(しめ)(たま)はん。

註解: この一句は括弧に入れる心持にて解するを可とす。パウロはピリピの信徒中にも種々の具体的問題において、パウロの上述せる処とは異なる思いをいだく者もあることを知っていたけれども、パウロは他人の信仰を自分の信仰をもって強圧的に統一せんとせず、その誤謬の矯正を神に任せ、神がこのことすなわち(まった)き者の立つべき立場を示し給うであろうことを教えている。

3章16節 ただ我等(われら)はその(いた)れる(ところ)(したが)ひて(あゆ)むべし。[引照]

口語訳ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。
塚本訳ただ私達は(その時その時に)自分が達した(完成の)程度に応じて歩こうではないか。
前田訳ただ、われらが達したところに応じてふるまいましょう。
新共同いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。
NIVOnly let us live up to what we have already attained.
註解: 解釈上問題多き箇所である。現行訳のままに解すれば、各人はその信仰上の理解において等差があり、その到達点はみな異なるのであるが、その到達せる処の如何により自己の歩を運ぶべきで、その点から完全に向って進み行くべきであるとの意味となる。もし本節を「ただ(またはしかしながら)我らの至れる所と同様に歩むべし」と訳すれば、各人異なる思いを持つとしても、パウロらの到達せる処すなわち15節前半のごとき思いと同じように歩むべきであるとの意に解す。現行訳のごとき意味に解するを可とす。
辞解
「至れる所」とは何を指すかにつき(イ)キリスト者としての知識、(ロ)道徳的行為の規則、(ハ)行為と対立する意味の信仰、(ニ)心の状態等種々の解あれど、特にかく限定するよりも、完全に到達するまでの途中の状態と見るべきである。▲15節は信仰の到達点と、これに達しない人の態度とを教えている。ただし凡ての信者がみな同一水準に到達したと考えることはできない。その場合、信仰箇条等によって偽の信仰を装うべきではなく、各自その与えられたところに随って信実をもって行動すべきである。
要義1 [己が義と信仰の義]9節にパウロは「己が義」と「信仰の義」、なお詳述すれば「律法による己が義」と「信仰による義、すなわち信仰の上に置かれる神の義」とを対立せしめている。この対立は到る処に述べられるパウロの信仰の基調であるがここには極めて明瞭にこれを説明している点に注意を要す。すなわち信仰によって義とされるとは神が我らの信仰(神に対する絶対的信頼)を(よみ)し給い、この信仰の上に神の義を置き給うこと、すなわち信仰そのものの故にその人を義とし給うことであり、律法の行為によって義とせられんとすることは自己の行為そのものが義であることを神の前に主張せんとする心である。前者は与えられたる義であり後者は自ら所有すと信ずる義である。前者は恩恵であり後者は功績である。前者は神より出で後者は自己より出でたものである。この二者の根本的差異を知ることにより始めて信仰によりて義とされることの秘儀を把握することができる。
要義2 [不完全なる完全]キリスト者の中に三種の誤った信仰の型がある。その一は、自分は何時までも不完全であり何時までも救われず、常に完全を求め救われんことを求めて不安の日々を送ることが信仰であると考える型であり、その二は、救いは凡て神にあるが故に我らの救いは絶対に安全であり、如何なることがあっても救いより漏れることがなしと信じて絶対に安心しきっており、その結果、救いのために精進すること、または畏れ(おのの)くこと等を不信仰と考える型である。その三は、救いは神より来ると見る点は第二の型に類するけれども、全く潔められるまでは救われずと見る点において第一に類する。それ故に潔められるまで努力し、祈り求め、ついに全く潔められるに至ってその救いは(まっと)うせられたりと信ずる型である。これらの何れもがパウロのここに12−15節に述ぶる処の信仰とは異なっている。パウロの信仰は、(まった)き者が不完全なる者であるとの信仰である。すなわち神の救いの御業の完全さに絶対に信頼するものは、その点において(すこし)も不安を有せず、神の救いの完全さには(いささか)の不安をも欠陥をも認めない。しかもかかる人は同時に一層自己の不完全さを感じ、神の完全なる救いを自己の中に完全に実現せんと努力するのである。現在において完全に潔められるというのではなく、また何時までも救われるや否や不明であるというのでもなく、またすでに救われてもはや精進の必要がないというのでもない。「キリスト者的完全はキリスト者的不完全より成る」なる逆説が成立する。「キリスト者は出来上がった者ではなく出来つつある者である。それ故にキリスト者である(〇〇)と言うものはキリスト者ではない(〇〇)」(ルーテル)。
要義3 [信仰より出でざるは罪なり]信仰の理解および進歩には各人につき各種の度合いがある。しかもこれらがみな同一の目的に向って進んでいることにおいて変りがない。それ故に種々の問題につき理解の程度の差異があり、時には誤謬もあり得ることは争われない事実である(例えばロマ14:2−12の場合のごとき、その他Tコリ全体に(わた)る論点のごとし)。それ故に同一の目的に向って精進しなければならないことは如何なる程度のキリスト者についても同様であるが、唯、各キリスト者は形式的に他人の真似をなし、または無意味に行動してはならない。各々自己の到達せる信仰により自ら判断してその歩みを定めなければならない。カトリック教会と異なる点はこれである。信仰の一つであることと、信仰の歩みに種々の程度があることとは双方ともこれを認めなければならない。

3-4-ロ 十字架の敵 3:17 - 4:1  

3章17節 兄弟(きゃうだい)よ、なんぢら諸共(もろとも)(われ)(なら)ふものとなれ、[引照]

口語訳兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。
塚本訳兄弟達よ、皆で私を真似る者になれ。また君達と同様私達を手本にして歩いている人達に目を留め(、その人達をも手本にせ)よ。
前田訳兄弟よ、共にわたしにならってください。あなた方はわれらを模範としますが、事実そのように歩むものに注目してください。
新共同兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
NIVJoin with others in following my example, brothers, and take note of those who live according to the pattern we gave you.
註解: 直訳「我が共同模倣者となれ」で或は「我と共にキリストに(なら)う者となれ」(B1)と解し、または「共同して我に(なら)う者となれ」と解する説があるけれども現行訳のごとく解して可なり。自己を模範として提供し得ることはパウロの大なる確信の結果である。彼は生来(うまれつき)の彼を模範とすべしとの意味ではなく、十字架の贖いによりて新たにせられし彼を(なら)うべしとの意味である。

(かつ)なんぢらの模範(もはん)となる(われ)らに(したが)ひて(あゆ)むものを()よ。

註解: 「汝らは我らを模範として有するが故に、かく歩む者共を注視せよ」(私訳)。「かく」は「我に(なら)いて」の意。すなわちパウロに(なら)うためには同時にパウロに(なら)いて歩む人々を注意して観察することが必要である。ピリピの信徒もパウロやその他の人々を模範として有っているから。かく言いてパウロは彼の信仰とは異なる信仰に移り行く者またはこれを主張する者に対する警戒を与えんとするのである。

3章18節 そは(われ)しばしば(なんぢ)らに()げ、(いま)また(なみだ)(なが)して()ぐる(ごと)く、キリストの十字架(じふじか)(てき)して(あゆ)(もの)おほければなり。[引照]

口語訳わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。
塚本訳何故なら、度々君達に言ったように、今また涙を流して言うように、キリストの十字架の敵として歩いている者が多いのだから!──
前田訳それは、たびたびわたしがいったし、今は泣いていいますが、キリストの十字架の敵として歩むものが多いからです。
新共同何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。
NIVFor, as I have often told you before and now say again even with tears, many live as enemies of the cross of Christ.
註解: 「キリストの十字架に敵して歩む者」とはユダヤ的キリスト者、律法主義的キリスト者と見るべきである。すなわちキリストの十字架の贖いによりて救われることを否定し、律法による己が義によりて救われることを主張する人々である。かかる思想は結局キリストを否定するものであり、キリストの十字架に敵する者である。この種の者はユダヤ人にとりて信仰的に見えるので、十字架の救いに対して最も危険な敵である。ゆえにこのことにつきパウロはしばしばこれをピリピの信者に告げ、今またこれを思いつつ悲しみをもって涙に暮れつつこの書簡を(したた)めたのであった。
辞解
本節は構造上問題多し、なお次節の解釈の関係上「十字架の敵」を快楽主義者、享楽主義者、無律法主義者と解する説あれども取らず。次節註および辞解を見よ。

3章19節 (かれ)らの(をはり)滅亡(ほろび)なり。おのが(はら)(かみ)となし、(おの)(はぢ)光榮(くわうえい)となし、ただ()(こと)のみを(おも)ふ。[引照]

口語訳彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。
塚本訳あの人達の最後は破滅、その神は自分の腹、その光栄(と考えているもの)は(実は)恥であって、あの人達は(ただ)地のこと(ばかり)に気を取られているのだ!
前田訳彼らの終わりは滅びです。彼らの神は腹で、彼らの恥を誇り、地上のことで頭がいっぱいです。
新共同彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
NIVTheir destiny is destruction, their god is their stomach, and their glory is in their shame. Their mind is on earthly things.
註解: 前節「キリストの十字架の敵」の説明である。我らの救いはただ十字架にあり、十字架に敵するものはたとい如何にキリスト者であると自任自称しても結局は滅亡より外にない。そして彼らの神はイエス・キリストを賜える父なる神ではなく「己が腹」であり、己自身の内的状態の如何である。すなわち彼らは己の力により自己の内面を潔むることが救いであると考えるのである。また彼らの光栄は栄光の体に甦えらされることではなく、自己の有する血統、能力、律法、歴史等(4−6節参照)取るに足らざるものであり、塵芥(ちりあくた)のごときものであり、極言すれば一つの恥辱に過ぎない。かくして彼らは唯地的の事柄、この世の事柄のみに没頭している。要するに彼らは人本主義であり、人間の能力に頼り、これに誇り、これを重んじて滅亡に向って進んで行くのである。
辞解
「腹」を飲食の慾と解し、「恥」を道徳的汚穢と解することにより、「十字架の敵」を快楽主義的無律法主義者と解する説が一般に行われている(M0、E0、L3、L2)けれどもロマ16:18の場合と同じく上記の如くに解した。人間中心主義と神中心主義、天の国と地の国との対立である。「恥」はまた「恥処」とも訳される言葉故これを割礼の問題に関連せしめ割礼を誇りとする者に対する非難を意味すると解する説あり。

3章20節 されど(われ)らの(こく)[(せき)]は(てん)()り、[引照]

口語訳しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
塚本訳しかし(私達はそうであってはならない。)私達の故国は天にある。私達は主イエス・キリストが救い主として其処から来給うのを待っているのである。
前田訳われらの国籍は天にあり、そこから救い主としての主イエス・キリストを待ちうけています。
新共同しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
NIVBut our citizenship is in heaven. And we eagerly await a Savior from there, the Lord Jesus Christ,
註解: 十字架の贖いによりて救われ、義とせられし我らは、天の国に属するものであり、地上のことにつきては何らの欲求もなく、人間的価値につきては何らの誇りを有たず、また有つ必要もない。天において大なる富を持ち大なる誇りを有するが故である。
辞解
[されど] 原文「何となれば」とあり、文章の飛躍がある。すなわち「されど我らは天のことを思う、何となれば」というべき場合である。
[国籍] 「国籍」と訳されし politeuma は politeia と異なり、むしろ単に「国」と訳すべきである。ただし統治権の方面より見たる「国」basileia ではなく人民の集団として見たる「国」である。

(われ)らは(しゅ)イエス・キリストの救主(すくひぬし)として()(ところ)より[(きた)りたまふ]を()つ。

註解: キリスト者の霊の国は天にあり、従って我らの霊は地上の何物にも捉えられず、何物にも望みを置かず、唯キリストの再臨を待望するの生活を送るものである。救い主イエス・キリストは天より来りて我らを救い給う。
辞解
[待つ] apekdechomai は「手を差伸べて遠方より来るものを受くる」ごとき貌で切なる待望を表す(ロマ8:23辞解参照)。

3章21節 (かれ)萬物(ばんぶつ)(おのれ)(したが)はせ()能力(ちから)によりて、(われ)らの(いや)しき(さま)(からだ)()へて、(おの)榮光(えいくわう)(からだ)(かたど)らせ(たま)はん。[引照]

口語訳彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。
塚本訳(その時)彼は私達の(この)卑しい体を御自分の栄光の体と同じ貌に変え給うであろう──万物を己に従わせ得給う御力によって!
前田訳彼はわれらのいやしい体を変えて、彼の栄光の体と同じ形になさるでしょう。それは彼が万物を彼に従わせえたもうという、その力によってです。
新共同キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
NIVwho, by the power that enables him to bring everything under his control, will transform our lowly bodies so that they will be like his glorious body.
註解: イエスの再臨の時、彼はその無限の能力によりて死ぬる者を朽ちざる体に甦らせ、生き残れる我らを同じ栄光の体に化せしめ給う(Tテサ4:16、17。Tコリ15:52)。それ故に我らは地のことを思わず天のことを思い、栄光の国を望み、キリストの救いを待つ。
辞解
[萬物を己に(したが)はせ得る力] キリストは萬の物をその足の下に(したが)わせて後、国を父なる神に付し給う。これが終りである(Tコリ15:23−28)。
要義1 [十字架の敵]パウロにとりてイエスの十字架の贖いが、神の恩恵の顕現として唯一の救いの途であった。これ以外に救いの途を見出さんとする者は、キリストの死を(むな)しからしめ、神の恩恵より離れた者である(ガラ5:4)。それ故にその途がたとい肉の眼に立派に見え、また社会的に有益無害であっても、それは十字架に敵するものであり、パウロにとりては正面の敵であった。それ故に彼の弟子または同国人にしてこの方向に進む者をば彼は非常なる悲しみをもって眺めざるを得なかった。パウロの心が如何に徹底的にキリストとその十字架とに依り頼んでいたかを見ることができる(Tコリ2:2)。
要義2 [神の国とこの世の国]「我らの国は天にあり」といい、「我が国はこの世のものならず」(ヨハ18:36)という場合、地上の国において一定の国籍を有する者は二重国籍を有する者のごとき態度を取らざるを得ざるにあらずやとの疑問を有つ者があるけれども、然らず。天の国、神の国は霊の国であって、我らが信仰により新たに生れた際に上より我らに与えられし霊の生命の属する所であり、地上の国は生来(うまれつき)の我ら、肉の我らの属する所である。前者は神によりて支配される全世界に(わた)れる見えざる霊の国であり、後者は主権者によりて支配される地上の国家である。前者は神に従う霊の秩序を目的とし、後者は主権者に(したが)う地上の秩序を目的とする。前者は甦りの完全なる体をもって成立ち、後者はアダムの子孫たる罪の体もって成立つ。そしてこの二者は同一の原理すなわち神の愛と神の義とによりて支配される点において同一であるけれども、神の国においてはそれを妨げる何らの妨害がなく、この世の国においては肉の念がこれを妨げる故にその実状と効果とを異にする。

ピリピ書第4章

註解: この一節は前節末尾に密着する。

4章1節 この(ゆゑ)()(あい)するところ(した)ふところの兄弟(きゃうだい)、われの喜悦(よろこび)われの冠冕(かんむり)[たる(あい)する(もの)]よ、()くのごとく(しゅ)にありて(かた)()て。((あい)する(もの)よ。)[引照]

口語訳だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。
塚本訳だから、愛し慕うわが兄弟達よ、わが歓喜よ冠よ、かく主にあって確り立って居れ、(ああ、わが)愛する者よ!
前田訳それゆえ、わが愛し慕う兄弟よ、わがよろこび、また冠(かんむり)である愛するものよ、このように主にあって立ちなさい。
新共同だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
NIVTherefore, my brothers, you whom I love and long for, my joy and crown, that is how you should stand firm in the Lord, dear friends!
註解: 本節の始めと終りとに「愛する兄弟」「愛する者よ」を繰り返し、また「慕うところの兄弟」とも呼んでいるのを見れば、パウロが如何にピリピの信徒に対し切々たる愛情を持っていたかを知る。また「わが喜悦わが冠冕(かんむり)」と呼ぶを見れば、パウロはピリピの信者の信仰を喜びかつこれに誇っていたことを知ることができる。それ故に彼はかれらに「斯くのごとく主にありて堅く立つ」べきことをすすめている。すなわち十字架の敵たる者に惑わされることなく、天国の民として、キリストにありてその再臨待望の信仰に堅立すべきことを教えているのである。
辞解
[冠冕(かんむり)] stephanos 勝利の栄冠、ピリピの信者の立派な信仰はパウロの勝利の栄冠である。
[斯くのごとく] ピリ3:17の模範のごとくと解する説あれど(M0)むしろピリ3:20、21のごとくパウロらのみならずピリピの信徒をも含めて、一般的にキリスト者の取るべき態度を指すと見るべきであろう。従って「現にピリピの人の取っている態度のごとくに」(B1、C1)と解するに及ばない。▲かかる言葉で呼びかけることのできる会衆を持っている伝道者は幸福である。またかく呼ばれる集会もまた幸福である。

3-5 日常生活の注意 4:2 - 4:9
3-5-イ 争うこと勿れ 4:2 - 4:3  

4章2節 (われ)ユウオデヤに(すす)めスントケに(すす)む、(しゅ)にありて(こころ)(おな)じうせんことを。[引照]

口語訳わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。
塚本訳ユオデヤに勧める、またシンケテに勧める、主に在って思いを同じうするように!
前田訳エウオデアに勧め、スントケに勧めます。主にあって思いをひとつになさい。
新共同わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。
NIVI plead with Euodia and I plead with Syntyche to agree with each other in the Lord.
註解: この二人の婦人が相争って教会の平和を(みだ)していた。パウロはその一人一人に勧めて同じ念をいだくように教えている。しかもそれは「主にありて」で相争うに至ることは主を離れることから起るのである。
辞解
この二婦人の何人たるか、教会の役員であったかどうか、またその争いの何に起因しているか等一切不明である。ピリピの教会には婦人が優勢であった(使16:13以下)。その半面にかかる争いは生じ易い。

4章3節 また眞實(まこと)(われ)(くびき)(とも)にする(もの)よ、なんぢに(もと)む。この二人(ふたり)(をんな)(たす)けよ。[引照]

口語訳ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。
塚本訳然り、(私と共に軛を負ってくれる)真実なる僚友よ、君にも頼む、どうかこの婦人達を助けてやってくれ。この人達はクレメンスや、その他“生命の書に”名の載っている私の働き仲間と一緒になって、私と共に福音のために戦ってくれたのだ。
前田訳そうです。あなたにも願います。忠実な共労者よ、彼女らを助けなさい。この人たちは福音のためにわたしと戦いを共にしました。いのちの書に名を連ねるクレメンスその他のわが同労者もいっしょでした。
新共同なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。
NIVYes, and I ask you, loyal yokefellow, help these women who have contended at my side in the cause of the gospel, along with Clement and the rest of my fellow workers, whose names are in the book of life.
註解: ここにパウロはある一人に呼びかけて、二人の婦人を助けることを求めている。この一人の誰なるかにつきては辞解を見よ。
辞解
[真実に我と共に軛を共にする者よ] gnêsie suzuge は難解にして諸種の解あり。(1)スンズゴスという人名と見る。(2)パウロ自身、(3)パウロの妻、(4)シラス、(5)テモテ、(6)エパフロデト、(7)バルナバ、(8)ルカ、(9)ルデヤ、(10)ピリピにおける有力な監督等種々あれど要するに不明なり。「軛を共にする者」とは夫婦、仲間等の関係に用いる故に、パウロはこの場合ピリピの信徒の中に一人にてもパウロと共にこの事態を憂うる者に呼びかけたものと見ることを得るように思う。
[助く] syllambanô は「捕える」というごとき意味の語で、この二人を同志の中に取り込むごとき心持を示す。

(かれ)らはクレメンス()のほか生命(いのち)(ふみ)()(しる)されたる()同勞者(どうらうしゃ)(おな)じく、福音(ふくいん)のために(われ)とともに(つと)めたり。

註解: パウロはここに二人の婦人の福音のための功労を挙示している。すなわち彼らのごとき人々はクレメンスその他のパウロの同労者と同様に福音のために勤めたのであった。それらの人々はみな神の御許にある生命の書に名を録され永遠の生命を確保したものであるから、二人の婦人も同様に生命の書に録されているのであろうというのがパウロの内意であろう。従って彼らが相争うことは有るべからざることで、これを一致せしめ全教会が一つとなることが当然である。
辞解
[クレメンス] おそらくピリピの教師であろう。
[生命の書] 云々はすでに死せる聖徒を指す(B1)か否やは不明である。
[彼ら] 「かかる人々は」の意。
要義1 [教会の不一致]教会の不一致は種々の原因より起り得るのであって、必ずしも凡てが誤っていると言うことはできない。パウロとユダヤ的キリスト者との争いのごときはそれである。しかしながら信徒相互間の高慢、勢力争い、利害の争い、感情的好悪による争い等はキリストにある者の為すべからざる処のものであり、各自深く反省すべき処の事柄である。
要義2 [信徒間の争闘]キリスト者同士の間にも争いが起ることがある。かかる場合双方の考うべきことは第一に両者ともキリストを首とする同一の体なること、第二に両者の一致が当然の姿であること、従って第三に両者の和解に向って努力すべきことである。そして和解の道は、第一に、相手の欠点を指摘するより先に、まず自己の欠点につき反省すべきこと、第二に、自由問題の範囲につきては他を強制せず、蔑視せず、また裁かないことである。

3-5-ロ 歓喜、祈願、感謝の生活 4:4 - 4:7  

註解: 4−7節はキリスト者の生活態度の如何なるべきかを示し、これをこの世の人々の生活とそれとはなしに対照しているのを見る。

4章4節 (なんぢ)(つね)(しゅ)にありて(よろこ)べ、(われ)また()ふ、なんぢら(よろこ)べ。[引照]

口語訳あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
塚本訳いつも主に在って喜べ!もう一度(繰り返して)言う、喜べ!
前田訳主にあって、つねにおよろこびなさい。繰り返します。およろこびなさい。
新共同主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
NIVRejoice in the Lord always. I will say it again: Rejoice!
註解: 歓喜は本書の基調である。そしてこれは「常に」でなければならず、間断があってはならない。また「主にありて」であって、肉にある喜びとは全く異なる種類の喜びでなければならぬ。かく常に喜び得ることはキリスト者の特権である。

4章5節 (すべ)ての(ひと)(なんぢ)らの寛容(くわんよう)()らしめよ、(しゅ)(ちか)し。[引照]

口語訳あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。
塚本訳君達の優しい心を(信仰の友人ばかりでなく、)皆(世間)の人に(も)知らせよ。主(の来臨)は近い。
前田訳あなた方の善意がすべての人に知られますように。主はお近くです。
新共同あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
NIVLet your gentleness be evident to all. The Lord is near.
註解: 寛容は他人が自分に対する悪しき態度や他人より受ける損害等に対してこれを忍耐して柔和なる態度をもって接することである。これはキリストの再臨の近きことを知り、その際に受くべき栄光を思う時、容易にこれを実行することができる。そしてこれを一般の人に示すことがキリスト者の務めである。
辞解
[主は近し] 当時の信徒間の合言葉のごときものとなった。Tコリ16:22のマラン・アタはそのアラム語である。多分世の迫害等の苦痛に遭う時「今一息だ」というごとき心持で「主は近し」と言い合ったのであろう。寛容の徳もこの信仰により可能となる。

4章6節 何事(なにごと)をも(おも)(わづら)ふな、[引照]

口語訳何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
塚本訳何事についても心配せず、君達の求めは感謝を添えた祈りと願いとにより、大小となく神に知らせよ。
前田訳何ごとも心配せず、万事感謝をもって祈りと願いをしつつ、あなた方の求めを神にお知らせなさい。
新共同どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
NIVDo not be anxious about anything, but in everything, by prayer and petition, with thanksgiving, present your requests to God.
註解: 思い煩いは心が神から離れて自己に、または物に向った時に起ってくる心である(マタ6:25マタ6:34)。

ただ(こと)ごとに(いのり)をなし、(ねがひ)をなし、感謝(かんしゃ)して(なんぢ)らの(もとめ)(かみ)()げよ。

註解: 万事につき神に対する関係においてこれを処置することがキリスト者の日常の態度でなければならぬ。すなわち「祈り」となって神に対して一般的の願望を吐露し「願い」として特別の事件につきその処置を求め、そして凡ての神の愛護指導に関して感謝し、そして我らの生活上信仰上の種々の求むることどもを神に向って告げることが我らの生活でなければならない。かくする者にとりては思い煩いはあるはずがない。▲神を知らない者にはこの平安は有り得ない。

4章7節 さらば(すべ)(ひと)(おもひ)にすぐる(かみ)平安(へいあん)は、(なんぢ)らの(こころ)(おもひ)とをキリスト・イエスによりて(まも)らん。[引照]

口語訳そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
塚本訳そうすれば全く思いもよらぬ神の平安が君達の心と考えをキリスト・イエスにおいて守るであろう。
前田訳そうすれば、すべての人知をこえる神の平和が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。
新共同そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
NIVAnd the peace of God, which transcends all understanding, will guard your hearts and your minds in Christ Jesus.
註解: 神に対する祈りによりて神との霊の交わりに生きる者には、神の与え給う平安は、あらゆる思い煩いを克服し、彼らの心(思想や感情)と彼らの思い(判断や企図)とをキリスト・イエスにありてあらゆる外敵の侵入より防衛する。そしてこの「神の平安」は到底人間の心をもって把握し尽くし得ない広さ高さ深さを有つ処のものである。
辞解
[人の思にすぐる] 「人間の思いをもって企て得ない」の意味に取る学者多し(M0、L3)。ただし上註のごとくに解す(L1、C1)。
[神の平安] 神との間の平和の意味にあらず。
[守る] 敵の攻撃より防禦すること。
要義 [キリスト者の日常生活]「常に喜べ、絶えず祈れ、凡てのことに感謝せよ」(Tテサ5:16-18)はキリスト者の日常生活の基調である。かくして世の人の日常生活を支配する不平、不満、ならびに祈ることを得ざる淋しさは、キリスト者にとりては別世界の事件である。しかもこれキリスト者の修養努力の結果にあらず、キリスト者の全生涯が神の恩恵の下にあるからである。

3-5-ハ 一般道徳を尊重せよ 4:8 - 4:9  

4章8節 (をはり)()はん、兄弟(きゃうだい)よ、[引照]

口語訳最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。
塚本訳最後に、兄弟達よ、(凡て)真なること、気高いこと、正しいこと、潔いこと、人の喜ぶこと、褒めることは何でも、徳という徳、誉れという誉れ、これら(凡て)を(常に)心に留め(、これを行おうと努め)よ。
前田訳終わりに、兄弟よ、すべて真実のこと、気高いこと、正しいこと、純粋なこと、愛すべきこと、ほまれ高いこと、また徳といわれ、称賛に値するものがあれば、これらを心におとめなさい。
新共同終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
NIVFinally, brothers, whatever is true, whatever is noble, whatever is right, whatever is pure, whatever is lovely, whatever is admirable--if anything is excellent or praiseworthy--think about such things.
註解: ピリ3:1註参照。なお8、9節はキリスト者が一般社会の道徳習慣に対して如何に考え、如何なる態度を取るべきかにつきて教えている。

(おほよ)(まこと)なること、

註解: 人間の真実さ。

(おほよ)(たふと)ぶべきこと、

註解: 道徳的善の故に尊ばれること。

(おほよ)(ただ)しきこと、

註解: 法律的道徳的不正不義の反対。

(おほよ)(いさぎ)よきこと、

註解: 純潔、清浄なること。

(おほよ)(あい)すべきこと、

註解: 人の一般に愛好することがら。

(おほよ)令聞(よききこえ)あること、

註解: 評判よきこと、または人々によく聞ゆること(L3、L1)の意味に解する学者あり。

如何(いか)なる(とく)

註解: この徳 aretê はギリシャ古典において専ら用いられる文字で、道徳を意味しているのであるが、パウロはできるだけこれを用いることを避けているもののごとく、ここに唯一回用いているだけである。ここでも一般的に道徳として認められている事柄を指す。

いかなる(ほまれ)にても、(なんぢ)()これを(おも)へ。

註解: 「誉」は一般の人々に認められることである。以上に列挙せられし八つの事柄は信仰より出づる徳ではなく、一般に認められる社会道徳である。パウロはこれらをも「(おも)ふ」べきこと、これに対して敬意を持つべきことをすすめている。これはキリスト者の謙遜の当然の姿である。キリスト者は高き道徳を保持して、これに誇るの結果、往々にして一般の人々が道徳として尊敬している事柄につき、一般の人以下の態度に出づることがあることは、悲しむべきことであり、充分に注意しなければならない事柄である。▲▲いわゆる旧来の陋習(ろうしゅう)(=悪い習慣:広辞苑)はこれを破らなければならないが、旧来の習慣の中に宿っている善い精神はこれを尊重して行くべきである。外国の習慣の盲目的模倣も日本旧来の習慣の無批判的固執も共に神の意味の自由さの障害である。

4章9節 なんぢら(われ)(まな)びしところ、()けしところ、()きしところ、()(ところ)(みな)おこなへ、[引照]

口語訳あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。
塚本訳君達が学びまた伝えられ、私に聞きまた見たことは、(すべて)これを行え。そうすれば平和の神が君達と共にいまし給うであろう。
前田訳あなた方がわたしから学び、受け、聞き、見たこと、それらを実践なさい。
新共同わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
NIVWhatever you have learned or received or heard from me, or seen in me--put it into practice. And the God of peace will be with you.
註解: 我が説教によりて学び、我より伝えられし処を受け、我が生活や行動につきて見聞した処、それらをみな実行すべし。前節は「(おも)へ」であってこれは生活上の参考であり、生活の原動力ではない。生活の原動力は信仰であり、パウロの生活や教訓はその模範である(ピリ3:17)。

さらば平和(へいわ)(かみ)なんぢらと(とも)(いま)さん。

註解: 神は我らの正しき生活態度の中にのみ宿り給う。そして神の賜う平和はかかる者の中にのみ存する。凡てにおいて正しからんと欲しない者には神が宿り給わない。
要義 [一般道徳とキリスト者]信仰によりて義とせられ律法の行為によらずとの教理は、往々にして律法違反を敢えてして恥じざるに至る傾向を有している。いわんや異教の社会の風俗、習慣、徳義等を軽視または無視する傾向は、キリスト者の中に往々見受ける処である。しかしながら異教国においても、神は適当の方法をもって必要なる徳義と風習とを教え給うた。その中にはそれらの国民にとりて棄てることができないもの、また棄てる必要のなきものが多く存在する。それ故にキリスト者なるが故にこれらを軽蔑しまたは無視すべきではない。これらに対して相当の敬意を払うべきことは、当然のことと言わなければならない。外国宣教師が日本の国体とその道徳習慣に対して尊敬を持たなかったことが、日本におけるキリスト教の発展の上に及ぼした障害は量り知ることができないものがある。

分類
4 ピリピの信徒のパウロへの援助 4:10 - 4:20

4章10節 (なんぢ)らが(われ)(おも)(こころ)(いま)また(きざ)したるを、われ(しゅ)にありて(いた)(よろこ)ぶ。[引照]

口語訳さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである。
塚本訳君達が私のことを思ってくれる心にとうとうもう一度花を咲かせ、(私に贈り物をして)くれたことを私は主に在って非常に喜んだ──君達は(もちろん前から)いつも思っていてくれたのだが、(実行する好い)機会がなかったのだ。
前田訳主にあってわたしにたいへんうれしいことには、わたしのことを思う心があなた方に、今また芽ばえてきました。もっとも、あなた方はそれを心がけてくれましたが、機会(おり)がなかったのです。
新共同さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。
NIVI rejoice greatly in the Lord that at last you have renewed your concern for me. Indeed, you have been concerned, but you had no opportunity to show it.
註解: ピリピの信徒は以前にしばしばパウロを金銭的に援助した(ピリ2:25ピリ2:30Uコリ11:9)。しかしその後しばらく絶えていたのが、今また使い、または旅行者に託してパウロに援助を送った。これがパウロを思う心の再起を意味し、甚だしくパウロを喜ばせた。ただしこの喜びは以下に言うごとくパウロの私慾や私情の問題ではなく、「主にある」喜びであり、ピリピの信徒の信仰的心情に対する喜びであった。
辞解
[(きざ)す] 新芽が発生すること、これより転化して、繁盛することの意味にも用い、本節の場合「汝ら今また栄えて我が事を思うに至りたることを・・・・・・喜ぶ」と解する説あり(M0)。不適当なり、現行訳を可とす。

(なんぢ)らは(もと)より(われ)(おも)ひゐたるなれど、(をり)()ざりしなり。

註解: 上記のごとく一時はパウロを忘却せるがごとくであったけれども、実は「その間にも」eph’ho 彼を思っていたが、ただ彼に援助を送る機会がなかったのであるとパウロは説明して、本節前半により半面ピリピの信徒を非難するがごとくに見えるものを打消し、ピリピの信徒の立場をパウロ自ら弁解しているのである。
辞解
[思ひゐたり] 未完了過去形を用い継続的動作を示す。その前に関係代名詞句 eph’hô あり、先行詞の何たるかにつきて議論あり、前半の全部を受くるものと解す、すなわち「新たに(きざ)すまでの間にも」というごとき意ならん。ピリ3:12ロマ5:12辞解参照。

4章11節 われ窮乏(ともしき)によりて(これ)()ふにあらず、[引照]

口語訳わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
塚本訳これは(何も)貧乏をしているから言うのではない。私自身はどんな境遇にでも満足する稽古をしたのだから。
前田訳わたしが乏しいからこういうのではありません。わたしは置かれた境遇で満ち足りることを学びました。
新共同物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。
NIVI am not saying this because I am in need, for I have learned to be content whatever the circumstances.
註解: パウロがピリピの信徒の贈物を非常に喜んだということ(10節)は、パウロが窮乏の中にあったためであると解されることは、パウロに取っても甚だ心外なことであった。かかる誤解のなからんためにことさらにこれをここに弁解しているのである。

(われ)如何(いか)なる(さま)()るとも、()ることを(まな)びたればなり。

註解: 最も富める者は、その持てる僅かの物にて足ることを学べる人であり、最も貧しき者はその持てる多くの物にてなお不足を感ずる人である。足ることを知るは最大の幸福である。パウロはその経験と、神より受くる恩恵とによりこれを知っていたので、貧困の中にありても他人よりの援助を期待せず、またこれを懇請せず、また使徒の権威をもってこれを強請しなかった(Tコリ9:15)。

4章12節 (われ)卑賤(いやしき)にをる(みち)()り、(とみ)にをる(みち)()る。[引照]

口語訳わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
塚本訳貧乏の道も知って居れば、有福の道も知っている。食い飽きることにも飢えることにも、有り余ることにも事欠くことにも、一切合切に通じている。
前田訳わたしは貧しくあることを知り、富むことを知っています。ありとあらゆることに秘義を受けています−−飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも。
新共同貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。
NIVI know what it is to be in need, and I know what it is to have plenty. I have learned the secret of being content in any and every situation, whether well fed or hungry, whether living in plenty or in want.
註解: 直訳「我は自ら(ひく)くすることを知りまた富むことを知る。」如何なる境遇といえども差支えなしにこれに処することができる。「貧賤も移すこと能わず、富貴も淫すること能わず」(孟子)。境遇の如何を超越して常に不変である。

また()くことにも、()うることにも、()むことにも、(とぼ)しき(こと)にも、一切(すべて)秘訣(ひけつ)()たり。

註解: 如何なる幸福も如何なる不幸も、換言すれば万事万端においてパウロはこれに対処する秘決を握っていた。不幸の中に毅然たる人にしてかえって幸福の中に堕落し、幸福の中に正しく生くる人にしてかえって不幸の中に失脚する場合が多い。
辞解
[一切の] 原語「凡てにおいてまた各々において」で万事万端というがごとし。

4章13節 (われ)(つよ)くし(たま)(もの)によりて、(すべ)ての(こと)をなし()るなり。[引照]

口語訳わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。
塚本訳私を力づけ給うお方の御蔭で何でも出来る。
前田訳わたしを力づけてくださる方によって何でもできます。
新共同わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。
NIVI can do everything through him who gives me strength.
註解: 前2節の結論である。すなわちパウロがかく如何なる境遇にも耐え、これに超越し、これを克服し得る所以は己が力量によるにあらず、我が(うち)に働きて我を強くし給う者すなわちキリストによりて力を得て、これを為し得るに至るのである。信仰は凡ての境遇に処する道を教え、凡ての境遇に打勝つことを得しめる。

4章14節 されど(なんぢ)らが()患難(なやみ)(あづか)りしは()(こと)なり。[引照]

口語訳しかし、あなたがたは、よくもわたしと患難を共にしてくれた。
塚本訳それにしても君達は善くこそ私と苦難を共にしてくれた。
前田訳しかしあなた方がわたしと苦しみを共にしてくれたのはいいことでした。
新共同それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。
NIVYet it was good of you to share in my troubles.
註解: 11−13節のごとくであるとすればピリピの信徒の寄附は不必要であり、彼らの行為は無用の干渉であると言わんがばかりに聞ゆるために、パウロは「されど」と言いて彼らの行為の意義を新たに考える態度を取っている。そしてパウロは「善き事なり」(直訳「善く行えり」)と言って賞揚している。
辞解
[(あづか)る] synkoinôneô は「共に交わる」なる文字、患難を共にすること。

4章15節 ピリピ(ひと)よ、(なんぢ)らも()る、わが(なんぢ)らに福音(ふくいん)(つた)ふる(はじめ)[引照]

口語訳ピリピの人たちよ。あなたがたも知っているとおり、わたしが福音を宣伝し始めたころ、マケドニヤから出かけて行った時、物のやりとりをしてわたしの働きに参加した教会は、あなたがたのほかには全く無かった。
塚本訳ピリピの人達よ、君達自身も知っているように、福音伝道の初め私がマケドニヤ(の君達の所)を出て来る時、ただ君達を除いては一つの教会も私と(遣り取りして)貸借勘定(の親しい関係)に入ってくれなかった。
前田訳ピリピの方々よ、あなた方もご承知のように、福音を説きはじめたころ、マケドニアから出かけたときに、どの集まりも物のやりとりでわたしと協力してくれませんでしたが、あなた方だけはしてくれました。
新共同フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。
NIVMoreover, as you Philippians know, in the early days of your acquaintance with the gospel, when I set out from Macedonia, not one church shared with me in the matter of giving and receiving, except you only;
註解: これは第二伝道旅行の頃のことを指す(使16:12)。

マケドニヤを(はな)()るとき、授受(やりとり)して()(こと)(あづか)りしは、(なんぢ)()のみにして、(ほか)教會(けうくわい)には()かりき。

註解: マケドニヤの伝道を終えてアカヤに赴かんとしていた時(使17:14)(M0、L2)、ピリピの信徒はパウロに対して金銭を贈ったが他の教会はこれを為さなかった。これをパウロは特に徳としていた。
辞解
[離れ去るとき] 「離れてから後」のこととし、Uコリ11:8、9の寄付を指すと解する説あり(L3)。
[授受して我が事に与りしは] 直訳「授受の事(勘定)において我に交わりしは」である。授受はパウロに金銭を与えパウロより霊の賜物を受けたことを指す説あれどかく詳細に解するに及ばず、密接なる金銭上の関係があることを指す。「授受の勘定」なる語は商業用語。

4章16節 (なんぢ)らは()がテサロニケに()りし(とき)に、一度(ひとたび)ならず二度(ふたたび)までも()窮乏(ともしき)(もの)(おく)れり。[引照]

口語訳またテサロニケでも、一再ならず、物を送ってわたしの欠乏を補ってくれた。
塚本訳また私がテサロニケにいた時も、(本当に)君達は一度ならず二度まで乏しい私に物を贈ってくれたのである。
前田訳テサロニケでも、一度ならず二度まで、わたしの欠乏のために物を送ってくれました。
新共同また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
NIVfor even when I was in Thessalonica, you sent me aid again and again when I was in need.
註解: パウロはテサロニケにおいては生活苦に陥り、自ら労働して生活を維持していた(Tテサ2:5Uテサ3:8)。かかる場合重ね重ねの贈物は如何ばかりパウロを力付けたことであろう。

4章17節 これ贈物(おくりもの)(もと)むるにあらず、[引照]

口語訳わたしは、贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである。
塚本訳これは贈り物が欲しいからではない。君達の貸の勘定を殖やす信仰の果実が欲しいのである。
前田訳わたしは贈り物を欲しがるのではなく、あなた方の益を増す果実を求めています。
新共同贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。
NIVNot that I am looking for a gift, but I am looking for what may be credited to your account.
註解: 前節においてピリピの信徒の行為を褒めたのは、或はかくしてまた贈物に与らんとする野心でもあるように思われるやも知れないが、決してかかる意味ではないことをパウロは弁解している。11節参照。

(ただ)なんぢらの(えき)となる()(しげ)からんことを(もと)むるなり。

註解: 直訳「唯汝らの勘定を豊富ならしむる実を求む」で15節の思想を継続し商業上の思想を応用している。すなわちピリピ人は贈物を為すことによりて損をすることはなくかえってこれによりてその貸借対照表の益の方を豊富ならしむる実が彼らに与えられるのである。慈善は人のためならず、それはかえってこれを行う者を益する。

4章18節 (われ)には(すべ)ての(もの)そなはりて(あまり)あり、[引照]

口語訳わたしは、すべての物を受けてあり余るほどである。エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である。
塚本訳とにかく(今)私は凡てを受け取ったので有り余っている。エパフロデトから君達の贈り物を貰ったので満ち溢れているのだ──(本当に君達の贈り物は)“馨しい香り”、神の喜び受け給う献げ物である。
前田訳わたしはすべてを受けてあり余っています。エパフロデトからあなた方がお送りのものをお受けして満ち足りています。それはかぐわしい香り、神のよろこんでお受けになるいけにえです。
新共同わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。
NIVI have received full payment and even more; I am amply supplied, now that I have received from Epaphroditus the gifts you sent. They are a fragrant offering, an acceptable sacrifice, pleasing to God.
註解: 「そなはりて」 apechô は商業用語で「領収済」の意味に用いられる語である。もう充分に受けたので余っている位であるとのこと。

(すで)にエパフロデトより(なんぢ)らの贈物(おくりもの)()けたれば、()()れり。

註解: 「飽き足れり」はむしろ「満ち足りている」と訳するを可とす、本節前半の詳説である。すなわちすでにエパフロデトより受けし汝らの贈物にて充分であったのに今また贈物を受けてもはや万事領収済の上に余分が出来たというごとき意。

これは(かうば)しき(にほひ)にして(かみ)()(たま)ふところ、(よろこ)びたまふ(ところ)供物(そなへもの)なり。

註解: 「汝らの贈物」の説明句である。この贈物は単に贈られるパウロを喜ばすだけではなく、最も喜び給うは神である。祭壇においてささげられる犠牲の燔祭の(けむり)は、神に対して「馨しき香」であると同じく、この贈物もまた馨しき香として神の御許に達する(エペ5:2Uコリ2:15)。そしてこれはまた旧約の犠牲の供物と同じく神の喜びて()け給う供物である。それ故にパウロに対して為されし愛の贈物は、そのまま神への供物である。

4章19節 かくてわが(かみ)(おのれ)(とみ)(したが)ひ、キリスト・イエスによりて(なんぢ)らの(すべ)ての窮乏(ともしき)榮光(えいくわう)のうちに(おぎな)(たま)はん。[引照]

口語訳わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。
塚本訳そして私の神はその(満ち足る)富により、君達の乏しいものを何でもキリスト・イエスをもって輝かしく満たし給うであろう。
前田訳わが神はキリスト・イエスにある栄光による富の中からあなた方のすべての必要をお満たしでしょう。
新共同わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
NIVAnd my God will meet all your needs according to his glorious riches in Christ Jesus.
註解: パウロに対して贈物を為したことは一見彼らの損失となるごとくに見える。それはパウロが物質的にこれに報いることができないからである。しかしながらこの贈物は実は神に対して為された供物である故、神は彼らの欠乏を自ら充たし給うのである。(▲Uコリ8:1、2参照。マケドニヤ地方(ピリピはその中にあり)の信徒は極度の貧困の中よりパウロの募金に応じたのであった。)それは「己の富に(したが)ひ」て為さするのであり、無限の富を有ち給う神は豊かに報いることを得給う。またこれは必ずしもこの世における物的報償を意味しない。かえってキリスト・イエスにありて栄光の中に与えられる永遠の神の国の報償である。マタ5:3以下。ヨハ4:14エペ1:18ロマ8:21
辞解
「我が神」と言える所以は我は汝らに報いることを得ざれど、「我に代りて我が神は」というごとき意。
[補い] plêroô は「満す」。

4章20節 (ねが)はくは榮光(えいくわう)世々(よよ)(かぎ)りなく、(われ)らの(ちち)なる(かみ)にあれ、アァメン。[引照]

口語訳わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。
塚本訳願う、私たちの父なる神に栄光世々限りなくあらんことを、アメーン!
前田訳われらの神また父に栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
新共同わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
NIVTo our God and Father be glory for ever and ever. Amen.
註解: パウロはピリピの信徒の立派なる行為を思い、凡てを神の栄光に帰してこれを讃美している。ロマ11:36引照3を見よ。

分類
5 結尾の挨拶 4:21 - 4:23

4章21節 (なんぢ)らキリスト・イエスに()りて聖徒(せいと)おのおのに安否(あんぴ)()へ、[引照]

口語訳キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、よろしく。わたしと一緒にいる兄弟たちから、あなたがたによろしく。
塚本訳キリスト・イエスにあって聖徒の一人一人によろしく伝えてくれ。私と一緒にいる兄弟達から君達によろしく。
前田訳キリスト・イエスにあるすべての聖徒によろしく。わたしと共にある兄弟たちからよろしくいっています。
新共同キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。
NIVGreet all the saints in Christ Jesus. The brothers who are with me send greetings.
註解: (▲「安否を問へ」は原語 aspazesthe で「挨拶せよ」の意。口語訳「よろしく」)信徒相互間に愛の挨拶を交すべきこと。

(われ)(とも)にある兄弟(きゃうだい)たち(なんぢ)らに安否(あんぴ)()ふ。

註解: ローマに在りてパウロの周囲にある兄弟たちを指す。

4章22節 (すべ)ての聖徒(せいと)(こと)にカイザルの(いへ)のもの、(なんぢ)らに安否(あんぴ)()ふ。[引照]

口語訳すべての聖徒たちから、特にカイザルの家の者たちから、よろしく。
塚本訳凡ての聖徒達、ことにカイザルの宮廷の者達から君達によろしく。
前田訳すべての聖徒、ことにカイサルの家の人たちからよろしくいっています。
新共同すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。
NIVAll the saints send you greetings, especially those who belong to Caesar's household.
註解: 「カイザルの家のもの」は王、王侯、宮内官より奴隷に至るまで、何れもかく呼ぶことができるので、この場合如何なる人を指しているかは不明である。ロマ16章にある人名の多くが「カイザルの家のもの」の中に在りし事実は明らかにせられているけれども同名異人なりや否やを知り難し、唯当時ローマの宮廷にキリスト信徒がかなり多かりしことを知ることができる。

4章23節 (ねが)はくは(しゅ)イエス・キリストの恩惠(めぐみ)、なんぢらの(れい)(とも)()らんことを。[引照]

口語訳主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。
塚本訳主イエス・キリストの恩恵、君達の霊とともにあらんことを。
前田訳主イエス・キリストの恵みがあなた方の霊とともにありますように。
新共同主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。
NIVThe grace of the Lord Jesus Christ be with your spirit. Amen.
註解: ロマ16:20引照3を見よ。パウロの書簡に常用の祈りである。
要義1 [知足の生涯]キリストに在る者は、その所有物の多少によりて影響せられない。それ故に殊更にティオゲネスのごとくに無所有を求めず、またソロモンのごとく多過ぎず少な過ぎざることをも求めない。如何なる境遇に在りても同一の心境をもって生活し得るのである。何となれば彼はキリストに在ることをもって足るが故に、その他の如何なる境遇も彼を左右し得ないからである。「一箪(いったん)の食、一瓢(いっっぴょう)の飲」をもって楽んでいた顔回(がんかい)ならずとも、キリスト者はみなかくあり得るのであり、英雄ならずともキリスト者は、富貴も淫すること能わず貧賤も移すこと能わざる処の者である。これキリストが彼を強くし給うが故である。
要義2 [伝道者に対する金銭的援助]パウロは使徒たる権威をもって信徒より金銭を強制的に徴収しなかった(Tコリ9:12)けれども、自由なる献金は喜んでこれを受けた。かかる献金をパウロが非常に喜んだ訳は、これがかえってこれを与える者に多くの祝福を与え、多くの実を結ばしめ、神がこれを喜びてこれに報賞を与え給うが故である。伝道者は神の使いである。この使いを厚く遇する者を神が報い給うことは当然である。マタ25:31−46の一層高度なる場合である。