黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版第2コリント

第2コリント第2章

分類
3 パウロの自己弁明(其の一) 1:12 - 7:16
3-3 罪人を赦す事に就て 2:1 - 2:11

2章1節 われ(ふたた)(うれひ)をもて(なんぢ)らに(いた)らじと(みづか)(さだ)めたり。[引照]

口語訳そこでわたしは、あなたがたの所に再び悲しみをもって行くことはすまいと、決心したのである。
塚本訳で、わたしは自分でこう決心したのだ、二度と悲しい訪問はするまいと。
前田訳そこでわたしは決心しました、二度と悲しみの中にそちらへ行くまい、と。
新共同そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。
NIVSo I made up my mind that I would not make another painful visit to you.
註解: 前章23節以下の弁解の継続である。第2回目にコリントに来た時も憂を以て来たのであった(この訪問は聖書に直接記載されず)。此度こそ憂を以って到らじと決心したのである

2章2節 (われ)もし(なんぢ)らを(うれ)ひしめば、()(うれ)ひしむる(もの)のほかに(たれ)(われ)(よろこ)ばせんや。[引照]

口語訳もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませているその人以外に、だれがわたしを喜ばせてくれるのか。
塚本訳なぜなら、もしわたしがあなた達を悲しませたら、わたしから悲しませられるその人(達)をおいて、一体だれがわたしを楽しませてくれる人達であるか。
前田訳もしわたしがあなた方を悲しませているならば、わたしに悲しまされている人のほか、だれがわたしをよろこばせますか。
新共同もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。
NIVFor if I grieve you, who is left to make me glad but you whom I have grieved?
註解: 我が愛は汝らに集注している、その汝らの罪を審く事によって汝らを憂いしむるならば、我が憂いしむる汝らが悔改めて我を喜ばせないならば、外に我を喜ばせる人とては一人も無い、それ故に旅程を変更せずに行ったならば、我は態々(わざわざ)憂うるが為に行く様なものであって、到底忍びない事である

2章3節 われ(さき)()(こと)()(おく)りしは、()(いた)らんとき、(われ)(よろこ)ばすべき((はず)の)もの、(かへ)つて(われ)(うれ)ひしむる(こと)のなからん(ため)にして、[引照]

口語訳このような事を書いたのは、わたしが行く時、わたしを喜ばせてくれるはずの人々から、悲しい思いをさせられたくないためである。わたし自身の喜びはあなたがた全体の喜びであることを、あなたがたすべてについて確信しているからである。
塚本訳この故にこそわたしは(あの手紙を)書いたのであり、それは行ったとき、わたしを喜ばせてくれるべき人たちから悲しみを受けたくないためであった。わたしの喜びがあなた達みんなの喜びであると、あなた達みんなについてわたしは信頼しているのである。
前田訳わたしがお書きしたのはこのことであって、それはそちらへ行って、わたしをよろこばせるはずの人から悲しみを受けないためでした。わたしは皆さんについて、わたしのよろこびは皆さんのものと確信しているからです。
新共同あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。
NIVI wrote as I did so that when I came I should not be distressed by those who ought to make me rejoice. I had confidence in all of you, that you would all share my joy.
註解: パウロがTコリ5:1以下にコリントの信徒を憂いしめなければならぬ事を書き送ったのは、パウロがコリントを訪問してその兄弟姉妹と喜を共にせんとする場合に、彼を喜ばすべき筈の人々が却って彼を憂いしむる事が無い様にとの用意からであった。(注意)学者によりパウロが第2回にコリントを訪問せる後、中間書簡(コリントと前後書の中間にある故かく名付く)をコリントに送り本節、4節及び9節の書簡はそれであると主張する人もある。かく推定することは絶対的必要ではない

(なんぢ)らは(みな)わが喜悦(よろこび)喜悦(よろこび)とするを(しん)ずるに()りてなり。

註解: 直訳「我が喜悦は汝ら凡ての喜悦なる事を汝ら凡てにつき信ずるによりてなり」コリントの信徒が悔改めてその汚穢を離れる事が、パウロの欲する喜悦であった。そしてパウロは是がまたコリント人らの喜びである事を信ずるが故に、前の書を書き送ったのである。

2章4節 われ(おほい)なる患難(なやみ)(こころ)悲哀(かなしみ)とにより、(おほ)くの(なみだ)をもて(なんぢ)らに()(おく)れり。[引照]

口語訳わたしは大きな患難と心の憂いの中から、多くの涙をもってあなたがたに書きおくった。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、あなたがたに対してあふれるばかりにいだいているわたしの愛を、知ってもらうためであった。
塚本訳わたしは非常な苦悩と心の痛みとから、多くの涙のうちにあれを書いたのであって、あなた達が悲しませられるためではなく、わたしがあなた達に対して特に持っている愛を知ってもらいたかったためである。
前田訳大きな苦しみと心の痛みとから、多くの涙の中に手紙をお書きしました。それはあなた方を悲しませるためではなく、わたしがあなた方に対してあふれるばかり抱いている愛を知ってもらうためでした。
新共同わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。
NIVFor I wrote you out of great distress and anguish of heart and with many tears, not to grieve you but to let you know the depth of my love for you.
註解: ▽この「涙の書簡」をパウロが書いたのは(緒言参照)、彼の第2回コリント訪問が非常な不結果となり、コリントの信者との間の溝が増々深まり、心の悩みが大きくなったので、この涙の書簡となったのであった。中間書簡説を否定する人は、Tコリ5:1以下がそれであると解す△ ▽―△間全部改訂。

これ(なんぢ)らを(うれ)ひしめんとにあらず、()(なんぢ)らに(たい)する(あい)(あふ)るるばかりなるを()らしめん(ため)なり。

註解: パウロはコリントの信者に対して前の書を送ったけれども、是唯彼らを愛する心が溢れての結果であった。単に彼等の信仰を支配して彼らに君臨せんが為でも無く(Uコリ1:24)、また単に彼らを憂いしめて快を(むさぼ)らんが為でも無い。パウロはこの事をコリントの信者が知る事を切望していた。而して愛なき非難叱責は常に無効に帰し、却て害を与うるに過ぎさるに反し、愛故の叱責は必ず歓喜の結果を来すであろう。
要義 [パウロの弁解の態度]Uコリ1:15−2:4においてパウロは自己に対する誤解を弁明している。我らは彼の弁解の態度に学ばなければならない。彼の弁解の動機は(すこし)も自己の利益や安全の為ではなく、全く彼がキリストの使徒としての職を遂行する上の障害を除去せんが為に外ならなかった。日本人は自己弁解を好まない。若し弁解が自己の利益名声の擁護のみを意味するならば、勿論弁解を好まざる日本人の態度は正しい。しかし自己弁解が神の福音の障害を除去する為であるならば、その弁解をなさざる者は不忠である。而してパウロの自己弁護の理由は、普通の弁護のごとくに消極的、防禦的では無く、積極的、攻撃的であり、堂々たる信仰の告白とも云うべきものである点において、最も偉大なる自己弁解であって、全文字の中に溢れるものは彼の信仰と彼の愛であり、この信仰と愛の告白がそのまま彼の自己弁解となったのである。我らもまたかかる態度に出づる事を得る様にならなければならない。

2章5節 もし(うれ)ひしむる(ひと)あらば、(われ)(うれ)ひしむるにあらず、幾許(いくばく)(なんぢ)(すべて)(うれ)ひしむるなり。(幾許(いくばく)かと()へるは、われ(はげ)しく()むるを(この)まぬ(ゆゑ)なり)[引照]

口語訳しかし、もしだれかが人を悲しませたとすれば、それはわたしを悲しませたのではなく、控え目に言うが、ある程度、あなたがた一同を悲しませたのである。
塚本訳で、もし誰かが人を悲しませていたとすれば、わたしを悲しませていたのではなく、言い過ぎないように言えば多少、あなた達全体を悲しませていたのである。
前田訳もしだれかが悲しませたのなら、わたしを悲しませたのではなくて、いい過ぎないようにすれば、幾分か皆さんを悲しませたのです。
新共同悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。
NIVIf anyone has caused grief, he has not so much grieved me as he has grieved all of you, to some extent--not to put it too severely.
註解: 直訳「もし憂いしむる人あらば我をにはあらで汝ら凡てを幾分か(彼を責め過ぎぬようにかく言う)憂いしむるなり」。パウロは「もし」「人あらば」等不定の用語によりて責められる者に対するやさしき思慮を示し、而して「たといかかる人ありとも我はその為に悩まされた事は無く、唯強いて云えば汝ら凡てが幾らか憂いしめられたのである。ここに「幾許(いくばく)か」と云ったのは、この語を用いなかったならば罪を犯せる人を責め過ぎる事となるからである」。
辞解
この一節は種々の意味に訳し得る可能性があり、従って其の解釈も区々(まちまち)である。中に最も多くの学者の採用する読み方は「もし憂いしむる人あらば唯いささか我を憂えしめしに過ぎず、かく云うは汝ら凡てを責め過ぐる事無からん為なり」であって、カルビンのごときもこの意味に取っている

2章6節 かかる(ひと)多數(たすう)(もの)より()けたる懲罰(こらしめ)()れり。[引照]

口語訳その人にとっては、多数の者から受けたあの処罰でもう十分なのだから、
塚本訳当人にはあなた達の多数の者からうけたあの制裁で十分である。
前田訳そのような人には、多数の人からのあの制裁で十分です。
新共同その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。
NIVThe punishment inflicted on him by the majority is sufficient for him.
註解: Tコリ5:2以下に従い罪を犯したものは教会より罰せられた。しかしながらそれは彼を悔改めしめんが為であって彼を(みだ)りに苦しめんが為ではない、故に多くの人より懲罰を受けた以上最早充分である、故にパウロは彼らにその手をゆるめん事を勧告している。愛はよく責むべき時を知りまた赦すべき時を知る

2章7節 されば(なんぢ)(むし)(かれ)(ゆる)し、かつ(なぐさ)めよ、(おそ)らくは()(ひと)(はなは)だしき(うれひ)(しづ)まん。[引照]

口語訳あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきである。そうしないと、その人はますます深い悲しみに沈むかも知れない。
塚本訳だから(今度は)むしろ反対に、あなた達がゆるして慰めなければならない。当人があまり大きな悲しみに圧倒されてしまうようなことがあってはいけない。
前田訳それで、逆にあなた方はそのような人をむしろゆるし、慰めて、その人が度を過ごした悲しみに落ち込まないようになさい。
新共同むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。
NIVNow instead, you ought to forgive and comfort him, so that he will not be overwhelmed by excessive sorrow.
註解: 罪を意識し、神と人の前に卑下(へりくだ)り、罪を告白してその赦しを乞う人の心ほど苦痛なものは無い。かかる者は唯(ゆる)しと慰めとを渇望しているのであって、その時になってもなおこれに懲罰を与える時はサタンの乗ずる処となり、教会の愛は冷却し、罪人は(はなは)だしき(うれ)いに沈んで却ってサタンの捕らうる処となるであろう。マタ18:22エペ4:32
辞解
[恐らく云々] 直訳「あまりに(はなは)だしき悩みが彼を呑むことなからんが為に」

2章8節 この(ゆゑ)(われ)なんぢらの(あい)(かれ)(あらは)さんことを(すす)む。[引照]

口語訳そこでわたしは、彼に対して愛を示すように、あなたがたに勧める。
塚本訳だからあなた達に勧める、愛を彼にしめす議決をしてもらいたい。
前田訳それゆえお勧めしますが、その人への愛を決意なさい。
新共同そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。
NIVI urge you, therefore, to reaffirm your love for him.
註解: 「汝らの審判と懲罰は充分であるから是からは彼に向って汝らの愛を公示すべきである、何よりも大切なるはこの愛を示す事である」。
辞解
[顕す] kuroôは公けに効力ある宣告をなすごとき場合に用いられる。この場合においては教会全体としてかかる人に愛を公に顕わすべしとの事である

2章9節 [(さき)に]()(おく)りしは、(すべ)ての(こと)につきて(なんぢ)らが從順(じゅうじゅん)なりや(いな)やをも(こころ)()らん(ため)なり。[引照]

口語訳わたしが書きおくったのも、あなたがたがすべての事について従順であるかどうかを、ためすためにほかならなかった。
塚本訳わたしがあれを書いたのは、(当人を罰する目的ではなく、)あなた達が何事についても従順であるかどうか、この点で試験ずみであることを知るためにほかならなかったのである。
前田訳わたしがお書きしたのは、あなた方をためして、何につけても従順であるかどうかを知るためでした。
新共同わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。
NIVThe reason I wrote you was to see if you would stand the test and be obedient in everything.
註解: 「Tコリを記しし理由は多くあったけれども、汝らに対し刑罰を課するのが目的ではなく、汝らの従順を試し見ようとしたのであった。然るに汝らは我が言に従順であった事が証拠立てられた」事をパウロは言外に含めている

2章10節 なんぢら何事(なにごと)にても(ひと)(ゆる)さば、(われ)(また)これを(ゆる)さん、われ(ゆる)したる(こと)あらば、(なんぢ)らの(ため)にキリストの(めん)(ぜん)(ゆる)したるなり。[引照]

口語訳もしあなたがたが、何かのことについて人をゆるすなら、わたしもまたゆるそう。そして、もしわたしが何かのことでゆるしたとすれば、それは、あなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである。
塚本訳しかし、(いまは、)あなた達が何かについてゆるす人を、わたしもゆるそう。いや、わたしがもし何かについてゆるしたとすれば、わたしがゆるしたことは、あなた達のため、キリスト(を証人としてそ)の目の前でしたことなのである。
前田訳それで、もしあなた方がだれかに何かをゆるすならば、わたしもそうします。そして、もしわたしが何かをゆるしたのならば、わたしのゆるしたことは、あなた方のためにキリストのみ前でしたのです。
新共同あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。
NIVIf you forgive anyone, I also forgive him. And what I have forgiven--if there was anything to forgive--I have forgiven in the sight of Christ for your sake,
註解: 「なんじらと我とは一つ念となって働くべきであって、汝が何事にても人を(ゆる)すならば我も(ゆる)したものであり、また我が前に人を(ゆる)した事があればそれは、汝も我と共にその人を(ゆる)さんが為である、而も唯自分勝手に(ゆる)したのではなくキリストの御顔の前に(ゆる)し、キリストの御前において再び和解したのである」。故にかくして(ゆる)されたるものは再び聖徒の交わりに入る事ができる。かく云いてパウロは▽コリントの教会内にある、互に非難し合い、(ゆる)し合わない態度を戒め、パウロがすでに(ゆる)したのだから、彼らも(ゆる)すべき事を教えた△。▽ ―△間全部改訂。 
辞解
[(ゆる)す] カリゾマイcharizomaiは「惜しみなく与う」との意味より転化せる意味であって神が人の罪を「赦す」アフイエーミaphiêmiとは別語

2章11節 これサタンに(あざむ)かれざらん(ため)なり、我等(われら)はその詭謀(はかりごと)()らざるにあらず。[引照]

口語訳そうするのは、サタンに欺かれることのないためである。わたしたちは、彼の策略を知らないわけではない。
塚本訳こうするのは、わたし達が悪魔の策略に乗せられないためであって、(不和に乗ずる)そのたくらみをよく知っているからである。
前田訳それはわれらが悪魔に欺かれないためです。われらはそのたくらみを知らないのではありません。
新共同わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。
NIVin order that Satan might not outwit us. For we are not unaware of his schemes.
註解: サタンは一人にても多くこれを己の配下に属せしめんとして機を伺う、故に真に悔改めしものをもなお赦さずに置き、愛を以てこれに対しない場合には、サタンはその機を伺って彼を虜にするのである。またサタンは基督者の義を愛する心を利用して彼らの愛の心を働かない様にし、人を審判く事に熱心にして人を(ゆる)すことを忘れるに至らしむる場合もある。これ何れもサタンの詭謀(はかりごと)であって、これに陥るならば一人の兄弟を失うに至る事もあり得る故に注意しなければならぬ。
辞解
[(あざむ)く] 原語は機会を利用して得をする事。
要義 [罪人の赦しに就いて]信徒の中に罪に陥れるものがある場合に、それにつきてあまりに寛大に過ぎて、これに無頓着である事は神の御心に叶わない。コリントの信徒は(さき)にかかる状態に在った。これ基督者として取るべき態度では無い(Tコリ5:6−8。Tコリ6:15−20)。しかしながら人の罪を審判く目的は、彼が再び悔改めて立帰らんが為である。故に心より悔改めしものに対して、なお懲罰を与えて彼をして全く意気沮喪(そそう)せしむる事は、愛なき行為であって基督者の取るべき態度ではない。而して如何に審判き如何に(ゆる)すべきかは、要するにキリストの面前においてキリストの御心に叶う様に行わるべきであって、そこには義と愛とが接吻し、我らをして場合に応じて適当なる処置を為す事を得しめる、然らざれば必ずサタンの乗ずる処となるのである。

3-4 マケドニヤに於けるパウロの体験 2:12 - 2:17

2章12節 (われ)キリストの福音(ふくいん)(ため)にトロアスに(いた)り、(しゅ)われに(もん)(ひら)(たま)ひたれど、[引照]

口語訳さて、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、わたしのために主の門が開かれたにもかかわらず、
塚本訳なお(このことも知らずにいてもらいたくない。)──わたしは救世主の福音を伝えるためにトロアス(の港)に行ったとき、主のために(有望な)門がわたしに開けたのに、
前田訳キリストの福音のためトロアスに行ったとき、主にあって門がわたしに開かれましたが、
新共同わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、
NIVNow when I went to Troas to preach the gospel of Christ and found that the Lord had opened a door for me,
註解: 直訳「主にありて我が為に戸は開かれたれど」。パウロは前節迄に自己の心の歴史を語り、本節より事実上の経歴を語って居る。即ち彼はエペソを去って北方トロアスに行った、其の地に於て福音を宣伝えんが為である。然るに戸はパウロの為に開かれて其の所に迎えられた。而も普通の意味において迎えられたのでは無く「主にありて」信者、伝道者として迎えられ、基督の福音を伝うる機会が与えられた

2章13節 ()兄弟(きゃうだい)テトスに()はぬによりて(こころ)平安(へいあん)をえず、彼處(かしこ)(もの)(わかれ)()げてマケドニヤに()けり。[引照]

口語訳兄弟テトスに会えなかったので、わたしは気が気でなく、人々に別れて、マケドニヤに出かけて行った。
塚本訳(あなた達の所に使いに行った)兄弟のテトスに会えないので、心の休まることがなく、(その地の)人々に別れを告げてマケドニヤに出てきたのであった。
前田訳兄弟テトスに会えなかったので霊に安らぎがなく、人々に別れを告げてマケドニアへ出かけました。
新共同兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。
NIVI still had no peace of mind, because I did not find my brother Titus there. So I said good-by to them and went on to Macedonia.
註解: パウロは先にテトスをエペソよりコリントに遣わし、前の書簡の結果を伺はしめ己はトロアスに行った、さいわい其処に福音の伝道者として迎えられたけれども来るべき筈のテトスが来ないので、コリント教会の有様が分らず、非常に気に懸って心に安きを得なかった。彼のコリント教会に対する愛心の深さを察する事ができる。それ故彼はできるだけ速に報告を得んとて其処を去ってマケドニヤに行った。(Uコリ7:5

2章14節 感謝(かんしゃ)すべきかな、(かみ)何時(いつ)にてもキリストにより、(われ)らを(とら)へて凱旋(がいせん)し、何處(いづこ)にても我等(われら)によりてキリストを()知識(ちしき)(かをり)をあらはし(たま)ふ。[引照]

口語訳しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。
塚本訳しかし神に感謝せねばならない。神はいつでもわたし達をキリストによる凱旋行列に(虜として)引き回し、至る所でわたし達を通して御自分を知らせる知識の薫りをお広めになる。
前田訳しかし神に感謝します。神はつねにわれらをキリストにあって勝利の列に加え、いたるところでわれらを通じて彼の知識の香りをひろめたまいます。
新共同神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
NIVBut thanks be to God, who always leads us in triumphal procession in Christ and through us spreads everywhere the fragrance of the knowledge of him.
註解: ここにパウロは神を凱旋将軍にたとえ、パウロらを以て奴隷としてその後に従う敗軍の将卒に比し、而してロマの将軍凱旋の時その路傍に香を焼きて芳香を放たしむる光景に喩えて、この節を記しているのである。すなわち神はキリストによりてパウロ等に打ち勝ち給い、彼らを奴隷として後に従えこれを敵味方に示して、彼らの弱さと神の強さとを常にあらわし、また凱旋の際に香わしき馨が道路に満つるが如くに、キリストに従うパウロ等の信仰と態度とによりて、キリストの力と愛とを示し、キリストを知るの知識の如何に香わしきものなるかを至る処に顕わし給う事をパウロは感謝しているのである。要するにエペソにおいてもトロアスにおいても、またマケドニヤにおいてもパウロは彼ら自身の弱さを見せつけられながら、神はこの弱きパウロ等を率いて凱旋し給い、到る処にキリストの福音の香を散布し給うたのであって、パウロは未だテトスに逢わなかった時でも、その悲しみの中にも神に感謝を捧げることができたのである。
辞解
[我らを執えて凱旋し] 原語は「我らを凱旋す」の形を取っており、従って種々の解釈がある。すなわち(1)「我らをして凱旋せしめ」(2)「我らによりて凱旋し」(3)「凱旋の時に我らを凱旋将軍として顕わし」(4)「凱旋の際に我らを引廻し」などであるけれども予は前記の解(M0 Z0)を採った。日本改訳は恐らくこの意味に訳したのであろう。
[何時にても,何処にても] 即ちパウロの一般的体験をここに云っているのであって、Uコリ7:5以下のコリント教会の報告をきいての感謝ではない(Z0)。

2章15節 (すく)はるる(もの)にも(ほろ)ぶる(もの)にも、(われ)らは(かみ)(たい)してキリストの(かうば)しき(かをり)なり。[引照]

口語訳わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。
塚本訳というのは、わたし達は救われる者の間でも、滅びゆく者の間でも、神にささげられるためのキリストのよい薫である。
前田訳われらは、救われるものに対しても、滅びるものに対しても、神のためキリストのよい香りです。
新共同救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
NIVFor we are to God the aroma of Christ among those who are being saved and those who are perishing.
註解: パウロ等の働きは不信仰によりて亡ぶる者にも働き、また信仰によりて救わる者の中にも働きを及ぼすのであって、神にたいしてはそれが皆キリストの香しき馨となって立ち昇るのである。我らはキリストの霊に浸され、これと同化する事によりて我らからキリストの香が発散する。この馨が神に達して神はキリストが我らによりて顕し給う凱旋を喜び給うのである。14節は人に対する香、15節は神に対する香である

2章16節 この(ひと)には()よりいづる(かをり)となりて()(いた)らしめ、かの(ひと)には生命(いのち)より()づる(かをり)となりて生命(いのち)(いた)らしむ。[引照]

口語訳後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。
塚本訳ある者には、死から死へみちびく薫であるが、ある者には、命から命へみちびく薫である。(ああ、)一体だれにこんなことが勤まろう。
前田訳あるものには死から死への香り、あるものにはいのちからいのちへの香りです。このようなことにだれがふさわしいでしょうか。
新共同滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。
NIVTo the one we are the smell of death; to the other, the fragrance of life. And who is equal to such a task?
註解: 「この人」すなわち亡ぶる者に取っては、この世の快楽、欲望に対して死せるパウロ等より発散するキリストの香は、死人より発する悪臭のごとくに思われ、然もこれによりて彼らは滅亡すべき不信仰の状態に在る事が明かにせられ、反対に「かの人」すなわち救われる者に取っては、キリストにありて新に生まれしパウロ等より発散するキリストの香は生命の香わしき馨として彼らに作用し、彼らをして生命に至らしむるのである。すなわち福音は或は人をしてキリストに反対せしめ或は彼に帰依せしむる、故にキリストの馨によりて死すべきものと、生命に至るものとが明かに区別せられるのである。(Tコリ1:23ヨハ9:39

(たれ)()(にん)()へんや。

註解: この重大にして困難なる任務を遂行し得る者は誰であるか、誰も有る筈が無い。けれども神はパウロを捉えて彼を奴隷として使役し給う。彼は全く神に服従する事によりてこの任に耐え得るものとされたのである(引照3)。この服従が次節の行動となり、神の奴隷に相応しき行為となってあらわれて来るのである

2章17節 (われ)らは(おほ)くの(ひと)のごとく(かみ)(ことば)()げず、眞實(まこと)により(かみ)による(もの)のごとく、(かみ)(まへ)にキリストに()りて(かた)るなり。[引照]

口語訳しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。
塚本訳──わたし達はあの多くの人たちのように、神の言葉を売り物にするようなことをしない。いやそればかりか、純心な心からする者として、いや、神につかわされた者として、神の前に(責任をもち、)キリストにあって、語っているのである。
前田訳われらは多くの人のように神のことばを売りものにせず、真心から、神によって、神のみ前でキリストにあって語っています。
新共同わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。
NIVUnlike so many, we do not peddle the word of God for profit. On the contrary, in Christ we speak before God with sincerity, like men sent from God.
註解: 「多くの人」はパウロに反対の教師たち(M0)であって、彼らは神の言に自己の思想を混じてこれを述べ、かくして人の歓心を求めて自己の利益を謀っているのである。パウロはかかる人は到底福音の宣伝者たる任に耐える人ではない事をコリントの信者に示さんとしている。而してパウロ等はこれに反し、その語る処第一に「真実の心」よりし、心に不純の動機を包蔵せず、第二に「神より出づるもののごとき」態度を取り何ら神の言を曲げ、薄めなどせず、第三に神の前に語り、人の歓心を求めず、第四に「キリストに在り」その全生命を彼に託して語るのである。
辞解
[曲げず] 原語は葡萄酒商が葡萄酒に混合物を加えて、これを売却して利益を得るごとき狡猾(こうかつ)なる行為を指す。

第2コリント第3章
3-5 使徒職の光栄と神の使者としてのパウロ 3:1 - 6:10
3-5-イ パウロとその推薦状 3:1 - 3:3

註解: コリントの教師の中にはユダヤ的思想を持つものがあってパウロに反対し、パウロのエルサレムの基督者、殊にペテロ、ヤコブ等より紹介状をも持参せざる事、またその伝道の職の何等高き権限なきものなる事等を掲げて、パウロを非難したものがあったのであろう。これに対して先ずパウロは使徒職の光栄と尊貴とを論じている

3章1節 我等(われら)ふたたび(おのれ)(すす)(はじ)めんや、[引照]

口語訳わたしたちは、またもや、自己推薦をし始めているのだろうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた、あるいは、あなたがたからの推薦状が必要なのだろうか。
塚本訳(こう言えば、)わたし達はまたまた「自分を推薦し」始めた(と悪口を言われる)のであろうか。それともどこかの人たちのように、(エルサレム集会から)あなた達あての、あるいはあなた達からの推薦の手紙を、わたし達が必要とするとでもいうのか。
前田訳われらはまたもや自己推薦をはじめるのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなた方への、またはあなた方からの推薦状がわれらに要るのですか。
新共同わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。
NIVAre we beginning to commend ourselves again? Or do we need, like some people, letters of recommendation to you or from you?
註解: Uコリ2:17(あたか)も自己誇張すなわち自家広告のごとくに聴こえる恐れがあるので、パウロはここにその然らざる事を証明している。「再び」とはTコリ(例えばTコリ2:1―12。Tコリ3:10Tコリ4:1−13。Tコリ9:15等)によりかかる誤解を起し、コリントの教会の中にすでにパウロは自家広告に巧であるとの非難をなすものが有ったのであろう。この言を受けてここに「再び」と云ったのである

また(ある)(ひと)のごとく(ひと)推薦(すゐせん)(ふみ)(なんぢ)らに(もたら)し、また(なんぢ)()より()くることを(えう)せんや。

註解: 自己を薦めないのみならず他人より推薦される必要もなく、また汝らより他人に推薦して貰う必要もない。「或人」とは恐らくパウロに反対なるユダヤ人の教師等で(Uコリ2:17)エルサレムの母教会(Z0)から推薦状を受けてコリントに来た人達であろう。パウロにはその必要が無い事を次に述べている

3章2節 (なんぢ)らは(すなは)(われ)らの(ふみ)にして(われ)らの(こころ)(しる)され、(また)すべての(ひと)()られ、かつ()まるるなり。[引照]

口語訳わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。
塚本訳わたし達のための(推薦の)手紙はあなた達であり、わたし達の心に書き込まれており、皆の人に知られまた読まれている。
前田訳われらの推薦状はあなた方自身で、われらの心に書かれており、すべての人に知られ、また朗読されています。
新共同わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。
NIVYou yourselves are our letter, written on our hearts, known and read by everybody.
註解: 如何なる推薦状をも必要としない所以はコリントの信者がそのままパウロらの書いた書であって、紙や革に録される代りにパウロ等の心に録されて何処にも持ち行く事ができ、且つこの書状は凡ての人がこれを知り且つ読んでいる、故にパウロは自己を推薦する必要もなくまた人に推薦される必要もない。何となればコリントの教会がパウロによりて建てられた事、またそれが如何なる有様にあるかは凡ての人がこれを知っているからである

3章3節 (なんぢ)らは(あきら)かに(われ)らの(つとめ)によりて()かれたるキリストの(ふみ)なり。(しか)(すみ)にあらで()ける(かみ)御靈(みたま)にて(しる)され、石碑(せきひ)にあらで(こころ)肉碑(にくひ)(しる)されたるなり。[引照]

口語訳そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。
塚本訳(実際)あなた達はわたし達によって配達されたキリストの手紙であって、インキでなく生ける神の霊で、また、(モーセ律法とは違い)“石の板”にではなく“人の心の板”に書かれていることが、知れ渡っているのである。
前田訳あなた方がわれらの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によらず、生ける神の霊により、石の板にでなく、肉の心の板に書かれていることは明らかです。
新共同あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
NIVYou show that you are a letter from Christ, the result of our ministry, written not with ink but with the Spirit of the living God, not on tablets of stone but on tablets of human hearts.
註解: 而してパウロ等の心に録されし書簡なるコリントの教会は如何なる書なりやを説明せんとして、パウロはここに他の比喩を掲げている、すなわちその書簡の著者はキリストであり、パウロ等はこれを筆写する職を命ぜられ、その材料は墨ではなく活ける神の御霊であり、その用紙はコリントの信者の心の肉碑である、すなわちパウロ等の働きによりて神の御旨が次第にコリント人らの心に入り、そこに御霊を以て記入せられてコリントの教会が出来上ったのであって、この教会の存在それ自身がパウロの働きを証明しており、至る処に適用すべき立派なる書状である。而してこの文字はモーセの十戒の如くに石碑の上に録されたものではなく、活ける心の肉碑の上に記されし活ける神の言である故にそこに生命があり、自由があり、進展がある。かかる美わしき書簡は未だ(かつ)て書かれた事が無い。―パウロが書簡の比喩より石碑と肉碑の比喩に移ったのは、その思想の中に旧約のモーセと新約の使徒たるパウロ等との比較がすでに浮び出でていたからであろう。これが4節以下の叙述となって展開したのである(Tコリ3:9以下参照、畠の比喩より建築物の比喩に転じた場合)。

3-5-ロ 儀文の役者と霊の役者 3:4 - 3:11

3章4節 (われ)らはキリストにより、(かみ)(たい)して()かる確信(かくしん)あり。[引照]

口語訳こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。
塚本訳しかしわたし達がこんな(大きな)自信を持つのは、キリストを通してであり、神にたよってである。(神がキリストを通してわたし達を使徒に任じられたからである。)
前田訳われらがこのような確信を持つのは、キリストにより神に対してです。
新共同わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。
NIVSuch confidence as this is ours through Christ before God.
註解: 2、3節に記されし確信であって、パウロ等が神の使徒としてかかる働きを為したことの確信をキリストによりて、神に対していだいている事をパウロは公言して誇っている。原文には「確信」なる文字が最初にあり、意味を強めている。▲パウロは4−18節に自己とモーセとを比較し、パウロの職はモーセのそれより以上である事を断言している。これはユダヤ人としては冒涜とも思われる驚くべき自信である。

3章5節 されど(おのれ)何事(なにごと)をも(みづか)(さだ)むるに()(ると()うにあ)らず、(さだ)むるに()るは(かみ)によるなり。 [引照]

口語訳もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。
塚本訳これは自分でことを考え出すような能力が自分にあるというのではない。わたし達の能力はみな神から来る。
前田訳われらが自らしたかのように、何ごとかを自ら判断する資格があるのではなく、われらの資格は神からのものです。
新共同もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。
NIVNot that we are competent in ourselves to claim anything for ourselves, but our competence comes from God.
註解: パウロは前節の如き確信を()っていた。しかしながらこれに就て彼は更に詳説して云う「とは云うもののこの使徒職を遂行する場合に何事を計画し遂行するにも、自分の智慧や計画を以てこれを為すだけの力が自分にあると云うのではない。我をしてこの任に耐うるもの(Uコリ2:16)たらしむるは神の力によりて導かれるからである」と。
辞解
[定むる] ロギゾマイlogizomaiは「数うる」意味より転化してよく計量し考察判断するの意となれるもの。
[足る] Uコリ2:16に「任に耐うる」と訳せられしヒカノスhikanosであってパウロは己がこの任に耐うる所以が、神より来るのであって己によるにあらざる事を示しているのである

3章6節 (その)(かみ)(われ)らを新約(しんやく)役者(えきしゃ)となるに()らしめ(たま)へり、儀文(ぎぶん)役者(えきしゃ)にあらず、(れい)役者(えきしゃ)なり。[引照]

口語訳神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。
塚本訳神はわたし達に、新しい契約のための世話役、(すなわち古い契約にある律法の)文字のためではなく、(神の)霊のための世話役たる能力をお与えになったのである。文字は殺すが、霊は命を与えるからである。
前田訳神はわれらに新しい契約の奉仕者の資格をお与えでした。それは文字のでなく霊の契約です。文字は殺し、霊は生かすからです。
新共同神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。
NIVHe has made us competent as ministers of a new covenant--not of the letter but of the Spirit; for the letter kills, but the Spirit gives life.
註解: パウロをキリストの使徒として行動するの任務に耐うるものとならしめ給える神は、彼らを新しき契約の役者となるに相応しきものとなし給うた。新しき契約とは旧き契約に対する語であって、旧約にシナイの山において神が二枚の石の板に十戒を書きてモーセに与え給い、この律法を守るものは救われる事を約束し給える事を指し、新約はキリストの血によりて罪を赦され永遠の生命を与えられる事の約束(ロマ10:5以下。ガラ4:24以下。ヘブ12:24)を指している。而して旧き契約の役者はその根拠を神の与え給える律法の文字(儀分)に置き、これに従い律法を成就する事によりて神の約束に与り得る事を説くに反し、新しき契約の役者は神の与え給える聖霊にその基礎を置き、この御霊によりて導かれる場合に人は律法を(まっと)うする事ができる事を教うるのである(ロマ8:4)。故に旧約の役者は文字の奴隷であり、新約の役者は霊の奴隷である。この二者の間に根本的の相違があるのであって、神はパウロ等をしてこの新約の役者、霊の役者たらしめ給うた(かく言いてパウロは旧約と新約との区別を明かにせざりし、ユダヤ的偽教師に対し自己の天職が如何に革命的であり、全く新なる役務であるかを示している)。
辞解
[新約] 新はカイノスkainosであってネオスneos(新鮮の意義)とは異なり、従来存在しなかった初新の契約である事を示している。
[契約] デアセーケーdiathêkêは神と人との相互の約束では無く「遺言」とも訳し得る文字であって、神より人に対する一方的約束である(ヘブ8:7−13)
[▲儀文] grammaは「文字」のこと

そは儀文(ぎぶん)(ころ)し、(れい)(いか)せばなり。

註解: 文字として与えられし律法は、それ自身霊的ではあるけれども(ロマ7:14)、我らに罪に打ち勝つべき霊の力を与える事ができない。故に律法の存在が結局我らをして罪を犯さしむる誘因となり(ロマ7:11)、その結果我らは永遠の死を味わしめられるのである。然るに「キリスト・イエスに在る生命の御霊の法は我らを罪と死との法より解放す」(ロマ8:2)のであって、神の御霊を受けている者は、その御霊により罪に打ち勝ち、何等律法の文字に束縛される事無くして、神の御旨を自由に充分に遂行する事ができ、これによりて永遠の生命が与えられるのである、儀文と霊との間にはかく根本的の相違がある

3章7節 (文字(もじ)にて)(いし)()り[(しる)さ]れたる()の[(のり)の](つとめ)にも光榮(くわうえい)ありて、イスラエルの()()はそのやがて()ゆべきモーセの(かほ)光榮(くわうえい)()つめ()ざりし(ほど)ならんには、[引照]

口語訳もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、
塚本訳文字で石に彫られている(モーセ律法、すなわち)死をつげる役目でさえ栄光があったので、やがては無くなるものながら“モーセの顔の栄光”のゆえに、イスラエル[ヤコブ]の子孫はその顔を見つめることが出来なかったくらいである(という。そうである)なら、
前田訳もし文字で石に彫られた死の奉仕が栄光のうちになされ、イスラエルの子らがモーセの顔をその消え去るべき栄光のゆえに見つめることができなかったのならば、
新共同ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、
NIVNow if the ministry that brought death, which was engraved in letters on stone, came with glory, so that the Israelites could not look steadily at the face of Moses because of its glory, fading though it was,
註解: モーセは旧約の役者、すなわち儀文(文字)を以って二枚の石に彫られし律法の役者、換言すれば死の法(前節註参照)の役者であった。然るに彼が石の板を携えてシナイ山を(くだ)った時、彼の顔は輝きイスラエルの人々はこれを見つめ得なかった(出20:1−20。出34:29−30参照)。これ旧約の役者たるモーセの光栄である。
辞解
[光栄ありて] 原語の意「光栄の中に入れられて」(Z0)。
[消ゆべき光栄] モーセの顔の輝きはその任務を終ると共にやがて消ゆべきものであり(13節)新約の役者の光栄はますます輝くべきものである(18節)。ヘブ8:5−13を参照するならば、この数節のよき註解となるであろう

3章8節 まして(れい)(つとめ)光榮(くわうえい)なからんや。[引照]

口語訳まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。
塚本訳まして(命を与える)霊の役目が、どうして栄光にかがやかないことがあろうか。
前田訳まして霊の奉仕ははるかにすぐれた栄光のうちになされるのではありませんか。
新共同霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。
NIVwill not the ministry of the Spirit be even more glorious?
註解: 死せる文字なる律法にあらず、死せる魂をも活かす貴き霊に(つか)える役者の職は遙に優れる光栄がある筈である。故にパウロらの光栄はこの意味において遙にモーセの光栄に優っている。▲モーセを最大の神の人と信じていたユダヤ人に取ってこのパウロの大なる確信は実に破天荒な事であった。コリントの反パウロ党はパウロのこの偉大さを知らなかった。

3章9節 (そは)(つみ)(さだ)むる(つとめ)もし光榮(くわうえい)あらんには、まして()とする(つとめ)光榮(くわうえい)(あふ)れざらんや。[引照]

口語訳もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。
塚本訳刑罰をさだめる役目でさえ栄光をもつくらいなら、義とする役目が栄光にあふれるばかりであるのは、なおさらだからである。
前田訳もし処罰の奉仕が栄光ならば、まして義の奉仕ははるかに栄光にあふれるものです。
新共同人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。
NIVIf the ministry that condemns men is glorious, how much more glorious is the ministry that brings righteousness!
註解: 9節は「何となれば」を以て始まり前節の理由の説明をなしている、10節も「また何となれば」を以て始まり理由の追加をなしている。日本訳にはこれを略している。すなわち(ふる)き契約は律法を守らしむるにあって、これを完全に守らざる時は罪に定められるのである。然るに新しき契約はキリストの贖罪によりて罪あるものを信仰によりて義とするのである。前者は殺し後者は活かす。この前者の職にさえもモーセに与えられし如き光栄があるものであるならば、()してパウロに与えられし後者の職は光栄に満ち溢れる(ことわり)である

3章10節 [もと]光榮(くわうえい)ありし(もの)(さら)(まさ)れる光榮(くわうえい)(くら)ぶれば、光榮(くわうえい)なき(もの)となれり。[引照]

口語訳そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。
塚本訳それどころか、(かっては古い契約によって)栄光を受けたものも、この点では、(新しい契約の)ぬきんでた栄光のまえに、(全く)“栄光”を受けなくなっている、(と言うことが出来る。)
前田訳かつて栄光を受けたものも、このすぐれた栄光のために、この場合、栄光を受けません。
新共同そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。
NIVFor what was glorious has no glory now in comparison with the surpassing glory.
註解: 私訳「またもと光栄ありし者も、更に勝れる光栄のためにこの点において光栄を失いたればなり」モーセの職はたとえそれが罪を定むる職であってもそれ自身としては光栄ある職であった。然るにパウロの福音の伝道の職は一層光栄ある職であるために、これと対比して見れば(あたか)も月は太陽の前にその光輝を失うがごとくにその光栄を失った。キリストの僕として福音を宣伝うるの光栄は、千余年間イスラエルの理想的人物であったモーセの光栄にも優っていることを人は気が付かなければならない

3章11節 もし()ゆべき(もの)光榮(くわうえい)ありしならんには、まして永存(ながら)ふるものに光榮(くわうえい)なからんや。[引照]

口語訳もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである。
塚本訳やがては無くなるものが栄光にかがやいたくらいなら、いつまでものこるものが栄光にかがやくのは、なおさらだからである。
前田訳過ぎゆくものに栄光があるならば、まして永続するものに、よりすぐれた栄光があるはずです。
新共同なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。
NIVAnd if what was fading away came with glory, how much greater is the glory of that which lasts!
註解: この節も日本訳には、これを省略しているけれども「何となれば」を以って始まり前節の理由の説明になっている。すなわち「消ゆべき物」(者にあらず物なり)なる儀文の役者たる事にさえもモーセの顔にありしごとき光栄がある位ならば、(いわ)んや「永存(ながら)うるもの」すなわち霊の役者たる事に光栄がある事は極めて当然だからである。
辞解
原文にはこの二種の光栄の性質の差を前置詞dia―throughとen―inによりて区別している。すなわち「もし消ゆべきもの光栄を通過せんには()して永存(ながら)うるものは光栄の中におらざらんや」となる。
要義 [律法と福音]ここにパウロは旧約と新約、儀文と霊、生と死、罪と義、石と心、滅亡と永存等種々の語を用いて律法と福音との区別を明かにせんとしているのであって、当時のコリントの信者はこの意味を充分に解するに足るだけの霊的理解力を()っていた事が知られるのである。(けだ)しこの事たる単にパウロの使徒職に関連せる問題であるのみならず福音の根本問題であって、パウロのこの語を理解する事無しに福音を理解する事はできない。ロマ書殊にその第一章ないし第八章は、この真理の詳細なる説明とも見るべきものであって、ここにはこれを詳述する事ができない。唯律法は文字を以って外より我らに与えられし規律であってこれによって我らは如何に行うべきかを示されているけれども、我らの心には悪を行わんとする傾向があって、我らをして善を行わんとする心に反逆を企てしむるのである。故に我らは自己の力を以っては結局律法を完全に成就するの力無く、罪の中に止まっており、その価として死に至るより外に途が無いのである。然るに神はキリストを我らに与え給い、その上に凡ての罪を置きて彼を十字架に()け、彼を信ずる我らの罪を赦し、その証拠として我らに聖霊を賜い、肉の無力を以て成就し得ざりし律法を、聖霊を以って成就する事ができる様に我らを導き給うたのである。ここにおいて我らは福音を信ずる信仰により死より永生に移り、モーセに与えられし旧き約束とは全く異なれる新なる約束を与えられたのである。それ故にモーセに与えられし儀文による神の約束は結局滅亡消失すべき運命を()っているものであって、イエス・キリストは律法の終りとなり(ロマ10:4)律法は福音の真生命が来る迄の後見者に過ぎない(ガラ4:1−5)。パウロはこの地位を明らかにする事によって自己の職の光栄を示さんとしたのである。

3-5-ハ 面帕(かおおおい)を除きたる生涯 3:12 - 3:18

3章12節 (われ)らは()くのごとき希望(のぞみ)()つゆゑに、(さら)(おく)せずして()ひ、[引照]

口語訳こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、
塚本訳わたし達はこんな(自信と)希望(と)を持っているのであるから、正正堂堂と振舞い、(福音の真理を説いて、)
前田訳われらはこのような望みを持つがゆえに、全くあからさまに語ります。
新共同このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、
NIVTherefore, since we have such a hope, we are very bold.
註解: 「斯くのごとき希望」とは前数節に述べられし新約の役者たる栄光と、その栄光の永遠に亡びざる事の希望を意味し、「臆せずして」は「公然に凡てをサラケ出して」との意味であって、パウロはキリストの僕等に約束せられしこの不滅の冠を望んでおり(ルカ22:29以下。Uテモ4:8Tペテ5:4)、モーセ及びイスラエルの人々のごとくに面帕(かおおおい)を以って顔や心が(おお)われず、凡てが明かにせられているので自然その言う処も直截(ちょくせつ)判明であり、律法主義より脱却せざるユダヤ的基督者のごとくに、律法の性質に就いても遠慮勝ちに云う事をしない。しかしこの事がパウロに対し躓く人ができた原因の一つであった

3章13節 (また)モーセの(ごと)くせざるなり。(かれ)()ゆべき(もの)()えゆくをイスラエルの()らに()せぬために、面帕(かほおほい)(かほ)におほいたり。[引照]

口語訳そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。
塚本訳“モーセ”のような(見苦しい)ことはしない。彼はやがては無くなるもの(栄光)の最後をイスラエルの子孫に見て取られまいと、“顔にベールをかけたのである。”
前田訳われらは、モーセのようにはしません。彼は顔に覆いをかけて、イスラエルの子らが過ぎゆくものの終わりを見つめないようにしました。
新共同モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。
NIVWe are not like Moses, who would put a veil over his face to keep the Israelites from gazing at it while the radiance was fading away.
註解: 「消ゆべき者の消えゆく」は「消ゆべき物の終局」と直訳して意味明瞭である。モーセが面帕(かおおおい)をあてた訳はその消え行く栄光を隠す為であった事は聖書(出34:33)に記されていない。モーセのこの行為は、彼が無意識に神より智慧を与えられたものであって、従って面帕(かおおおい)を当てた事はモーセ自身の考え如何は別問題として、事実その消ゆべき栄光の終局をイスラエルの子らに見せない為であった、この事をパウロは新に霊を以って示されたのである。それ故に霊の役者として永存(ながら)うべきパウロ自身は、モーセのごとき態度に出でず凡てを明々白々に臆せずに語っているのである

3章14節 ()れど(かれ)らの(こころ)(にぶ)くなれり。キリストによりて[面帕(かほおほい)の](すた)るべきを(さと)らねば、今日(けふ)(いた)るまで舊約(きうやく)()(とき)その面帕(かほおほい)なほ(のこ)れり。[引照]

口語訳実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
塚本訳しかし(そのために、)彼らの考えは頑なにされてしまった。なぜなら、今日までも古い契約の朗読の時、同じベールが残っているからである。ベールは取り除かれないままである。古い契約は(ただ)キリストにおいて無くなるものだからである。
前田訳しかし彼らの考えはにぶくされました。こんにちまで、旧い契約の朗読にあたって、この同じ覆いが残っていて、除かれていません。それはキリストによってはじめて過ぎゆくものです。
新共同しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。
NIVBut their minds were made dull, for to this day the same veil remains when the old covenant is read. It has not been removed, because only in Christ is it taken away.
註解: 私訳「されど彼らの思頑固(かたくな)にせられたり。キリストによりて(旧約の)廃るべき事を示されねば今日に至るまで旧約を読む時同じ面帕(かおおおい)なお存れり(M0、Z0、A1)」原文に「廃るべき」ものの何たるかが記されていないので、本文のごとくに読む事が不可能では無いけれども、多くの有力なる学者の説に従い私訳のごとくに読む方が適当であると思う。而して本節の意味は、モーセがその廃るべき光栄を隠すが為に面帕(かおおおい)を以って顔を(おお)うたのであるのに、イスラエルの人々の心は頑固となりてこれを覚らず、旧約すなわちモーセに与えられし律法はキリストによりて成就せられ、その時より旧約は廃るべきものである事(ロマ10:4コロ2:14)を覚らず、その結果今日に至るまで旧約を読む時、モーセの顔を(おお)える同じ面帕(かおおおい)が旧約の上に懸けられ、この旧約の終局がキリストである事を見出し兼ねている状態である。若し彼らの心が頑固(かたくな)にせられなかったならば、彼らはすでにその面帕(かおおおい)を取り除き、旧約が凡てキリストを指しキリストにおいて成就せる事を見出す事ができたであろう。
辞解
[廃る] 2-13節に「消ゆる」と訳せられし語と同一の語である、「廃る」と訳する方が優っている様に思う。
[悟らねば] 私訳「示されねば」は原語「面帕(かおおおい)を取り去られないので」の意味であって、面帕(かおおおい)に懸けて巧に言い表している。本節はなお次のごとくにも読む事ができる。「キリストによりて面帕(かおおおい)は廃るべきものなる故に、今日に至るまで同じ面帕(かおおおい)は取除かれずして旧約を読む時なお存したり」(B1)▲口語訳はこのB1の読み方による。RSVも同様なり。

3章15節 (されぞ)今日(けふ)(いた)るまでモーセの(ふみ)()むとき、面帕(かほおほい)(かれ)らの(こころ)のうへに()かれたり。[引照]

口語訳今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。
塚本訳いやむしろきょうまでモーセ(律法)が朗読される度毎に、ベールは彼らの心にかかって(いるので、そのほんとうの意味が隠されて)いる。
前田訳こんにちまで、モーセが朗読されるとき、いつも覆いが彼らの心にかかっています。
新共同このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。
NIVEven to this day when Moses is read, a veil covers their hearts.
註解: モーセの顔を(おお)い、旧約の上を(おお)える面帕(かおおおい)はまた世の人の心の上を(おお)うた(ここにはユダヤ人の心の上を(おお)えるものとして示されている)。すなわちこの面帕(かおおおい)は完全に凡てを(おお)い隠して、キリストに立帰る事を妨げ、旧約の中に示されしキリストを(おお)い隠している。故にモーセの書を読みても彼らはこれを覚る事ができない  

3章16節 ()れど(しゅ)()する(とき)、その面帕(かほおほい)()(のぞ)かるべし。[引照]

口語訳しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
塚本訳“しかし彼らの心が主に帰るならば、その時ベールは取り除かれる。”
前田訳しかし主に帰るとき、いつも覆いは除かれる。
新共同しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
NIVBut whenever anyone turns to the Lord, the veil is taken away.
註解: 「されど彼らの心が主キリストに立帰る時、主の御霊の力により(あたか)出34:34のごとくその面帕(かおおおい)は取り除かれ、その心眼は開け従来見るを得ざりし霊の世界を見、旧約がキリストによりて廃るべきものである事を悟り、この旧約の中心がキリストであってキリストにより旧約の全体が、完全に成就せられし事を認むる事ができる

3章17節 (しゅ)(すなは)御靈(みたま)なり、(しゅ)御靈(みたま)のある(ところ)には自由(じいう)あり。[引照]

口語訳主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
塚本訳(ここで)主(と)は御霊(のこと)である。主の御霊のあるところには自由が(あるから、ベールが取り除かれるので)ある。
前田訳主は霊にいまします。主の霊のあるところ、そこに自由があります。
新共同ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
NIVNow the Lord is the Spirit, and where the Spirit of the Lord is, there is freedom.
註解: 我ら主に帰する時主イエス・キリストは御霊として我らの中に住み給う(ヨハ14:16−20)。これに反し律法は文字であって御霊ではない、従って我らを束縛し、且つその消ゆべきものなる事を面帕(かおおおい)を以って(おお)い隠している。故に我らはこの束縛と不明とによりて不自由となっている。然るに主は御霊なるが故に、我らを外より束縛せずして内より我らに生命と力を与え(ヨハ8:32ヨハ8:36ロマ8:9、10)、我らより面帕(かおおおい)を除きて凡ての事を明らかならしめ(ヨハ14:26)、我らに完全なる自由を与えるのである(ガラ5:1)。律法に従う者と主に従う者との間には斯くのごとき根本的の相違がある

3章18節 我等(われら)はみな面帕(かほおほい)なくして、(かがみ)(うつ)るごとく(しゅ)榮光(えいくわう)()[引照]

口語訳わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
塚本訳そしてわたし達(主キリストを信ずる者)は皆、覆いを取られた顔で(直接)“主の栄光”を鏡にうつして拝見し、栄光から栄光に進み(つつ、ついに)主と同じ(栄光の)姿に造りかえられる。御霊である主がなさるのであるから当然である。
前田訳われらはみな覆いのない顔で主の栄光を反映し、栄光から栄光へと、霊にいます主によって、彼と同じ像(すがた)に変えられてゆきます。
新共同わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
NIVAnd we, who with unveiled faces all reflect the Lord's glory, are being transformed into his likeness with ever-increasing glory, which comes from the Lord, who is the Spirit.
註解: 「我らはキリストを信ずる事によりて面帕(かおおおい)は取り去られ、未だ直接に主の光栄を拝する迄には至らずとしても(これは主の再臨の時にあり)、鏡に映る如き状態において、面帕(かおおおい)なしに主の栄光を見る事を得る様になっており

榮光(えいくわう)より榮光(えいくわう)にすすみ、(しゅ)たる御靈(みたま)によりて(しゅ)(おな)(かたち)(くわ)するなり。

註解: 主の栄光を仰ぐとき自然に自己もこれに化せられ、キリストに在る栄光が自分に反射してその栄光ますます加わり、キリスト(すなわち御霊として我らの中に働き給うキリスト)によりて、我らの心は次第にキリストと同じ像に化せられて行くのである(Tヨハ3:2)。而してその終局は復活の時における栄化であるTコリ15:52
辞解
[化する] は動物の「変態」と同文字。
要義1 [パウロの勇気の源はこの希望にあり]パウロは当時一新宗教の宣伝者に過ぎなかった。ユダヤ人らは千余年来モーセをその信仰の祖として旧き約束を信じ来たった。このユダヤ人の宝典たる旧約の律法とパウロの宣伝える福音とは、その歴史より云うも、その信者の数より云うも、またその社会的勢力より云うも到底比較にならない程度のものであった。然るにパウロは自己をモーセに比し、新約の役者たる基督者の未来の栄光と現在の地位とを論じ、キリストにありて彼らの栄光は永遠に滅びざるのみならず、彼ら自身もまた栄光より栄光に進みて、遂には主の再臨の時主と同じ像に化する事を信じ、これを望む事によりて、その光栄は旧約の役者たるモーセに優れるものなる事を大胆に論じている事は、ユダヤ人より見るならば驚くべき暴言であった事であろう。しかしながらキリストに立帰れる心を()つものにとっては、この事は極めて明瞭なる事実であって一点の疑問を挿む余地なきものであった。而してこれは単にモーセの律法による旧約のみに関する事実ではなく、凡ての道徳凡ての律法は皆(ほぼ)同様の意味においてキリストにおいて終を告ぐべきものであって、キリストにある栄光のみ永遠に廃る事なきものである。
要義2 [聖書は霊的に読まるべきものである]ユダヤ人は旧約聖書を文字として読んでおり、その文字に束縛されていた。これ彼らの心に面帕(かおおおい)がかかっていて、また旧約聖書の上にも同じ面帕(かおおおい)がかかっていたからである。故に若し基督者が聖書に対して同様に文字的にこれを解釈せんとするならば、聖書を殺してしまうものである。聖書は霊を以ってこれを読む事によりて始めてその真の意義を知る事ができる。