ヨハネ伝第4章
分類
2 イエスの活動の初期
2:1 - 4:54
2-3 イエス又ガリラヤに往き給う
4:1 - 4:54
4章1節
口語訳 | イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、 |
塚本訳 | さて、ヨハネよりもイエスの方がよけいに弟子をつくり、洗礼を授けているという噂が、パリサイ人の耳に入ったことを主が知られると、 |
前田訳 | さて、イエスのほうがヨハネよりも多く弟子を作って洗礼するとパリサイ人に聞こえた。主はこれを知って、 |
新共同 | さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、 |
NIV | The Pharisees heard that Jesus was gaining and baptizing more disciples than John, |
註解: この風聞はパリサイ人を恐怖せしめた。何となれば彼らはすでにバプテスマのヨハネを反対党の首領と考え、彼について憂慮と恐怖とを持っていたのであるから彼よりも多く奇蹟を行い給い、また宮潔めのごとき断然たる挙動に出で給うイエスがさらに多くの弟子を造ることを聞いて彼らは一層震駭 したのであった。
4章2節 (その
口語訳 | (しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった) |
塚本訳 | ──その実、洗礼を授けたのはイエス自身でなく弟子たちであったが── |
前田訳 | −−実はイエス自身ではなく弟子たちが洗礼したのであるが−− |
新共同 | ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―― |
NIV | although in fact it was not Jesus who baptized, but his disciples. |
註解: 前節はユダヤ人中に行われし風評そのままであって実は不正確であった。著者ヨハネはここにこれを訂正している。イエスが水のバプテスマを施さなかった理由は、彼は聖霊のバプテスマを施し給うべき唯一の主に在すことと、これがためにはその肉体的臨在は不必要なることとを示すがためであったろう。而してイエスの弟子はヨハネに対立してバプテスマを施すの資格は充分にあった。この後ガリラヤにおいてはイエスはバプテスマを行い給わなかった。この時までのヨハネとイエスのバプテスマはユダヤ人をメシヤ王国に入れんがための悔改めのバプテスマあった。イエス復活後の弟子たちのバプテスマはこれとその意味を異にしている(ロマ6:1以下参照)。
口語訳 | ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。 |
塚本訳 | (パリサイ人との衝突をさけるため)ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。 |
前田訳 | ユダヤを去ってふたたびガリラヤヘ向かわれた。 |
新共同 | ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。 |
NIV | When the Lord learned of this, he left Judea and went back once more to Galilee. |
註解: エルサレムの宮におけるメシヤとしての彼の行動は受けられず、ここにまたパリサイ人の反対が近付かんとしているので、時未だ至らざるに彼は人手に付され給うべきではなかったので反対の空気の少なきガリラヤに往き給うたのである。
口語訳 | しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。 |
塚本訳 | しかし(ガリラヤへ行くのに)サマリヤを通らねばならなかった。 |
前田訳 | しかし彼はサマリアを通らねばならなかった。 |
新共同 | しかし、サマリアを通らねばならなかった。 |
NIV | Now he had to go through Samaria. |
註解: これが順路であった。潔癖なるユダヤ人らはサマリヤ人を忌みてペレアを迂回するものもあった。
4章5節 サマリヤのスカルといふ
口語訳 | そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、 |
塚本訳 | そして、サマリヤのスカルという町のそばまで来られた。ヤコブがその子ヨセフに与えた地所の近くで、 |
前田訳 | そこで、スカルというサマリアの町へ来られた。それはヤコブが子のヨセフに与えた土地の近くであった。 |
新共同 | それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 |
NIV | So he came to a town in Samaria called Sychar, near the plot of ground Jacob had given to his son Joseph. |
註解: スカルは創33:19以下にしばしばあらわれるシケムの町(今のナブルース)ではなく(G1、M0、Z0)その東南の小村(今のアスカ)である。シケムをヤコブがヨセフに与えし記事は創48:22を見よ(創48:22に「一つの分け前」とあるは原語シケムで旧約聖書に数多き二義兼用である)。
口語訳 | そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。 |
塚本訳 | そこには(有名な)ヤコブの井戸があった。旅に疲れたイエスは、いきなり井戸のわきに腰をおろされた。昼の十二時ごろであった。 |
前田訳 | そこにはヤコブの泉があった。さて、イエスは旅に疲れて無造作に泉のほとりにすわられた。時は正午ごろであった。 |
新共同 | そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。 |
NIV | Jacob's well was there, and Jesus, tired as he was from the journey, sat down by the well. It was about the sixth hour. |
註解: この泉の伝説(12節)は旧約聖書に記されていないけれども、この名称がある処を見ると古い伝説であろう。この泉(同時に井戸であった。▲原語は、「泉」と「井戸」とを区別している。11節)は深い井戸であって、今も七十余尺の深さを有ち、以前は一層深かったとのことである。
イエス
註解: イエスもその疲れ給うことにおいて我らと同じ肉体を有ち給うた。第六時はユダヤの時刻で正午に当っている。日の真盛りであって疲労と渇きを覚ゆる時であった。
4章7節 サマリヤの
口語訳 | ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。 |
塚本訳 | 一人のサマリヤの女が水を汲みに来る。「飲ませてくれないか」とイエスが女に言われた。 |
前田訳 | ひとりのサマリアの女が水を汲みに来る。イエスは彼女に、「水を飲ませてください」といわれる。 |
新共同 | サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 |
NIV | When a Samaritan woman came to draw water, Jesus said to her, "Will you give me a drink?" |
註解: 水を汲まんとて来れる女の心にはこの世の物質的生活以外に何もなかった。ユダヤ人とは相敵視していたサマリヤ人すらイエスの愛はこれを区別し給わなかった。イエスはまず卑下 りて求むる者の地位に自己を置き、これによりて求めらるも彼女の誇りの空しきを示さんとし給う。
4章8節
口語訳 | 弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。 |
塚本訳 | 弟子たちは食べ物を買いに、町に行っていたのである。 |
前田訳 | 弟子たちは町へ食料を買いに出かけていた。 |
新共同 | 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 |
NIV | (His disciples had gone into the town to buy food.) |
註解: イエスが女に水を飲ませよと要求し給いし理由は弟子の不在で水を与える人がいないからであった。「故」の字、原文にあるゆえ存する方が明瞭である。
4章9節 サマリヤの
口語訳 | すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。 |
塚本訳 | サマリヤの女が言う、「ユダヤ人のあなたが、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲み物をお求めになるのです。」(女が不審に思ったのは、)ユダヤ人はサマリヤ人と交際をしないからである。 |
前田訳 | サマリア人の女はいう、「ユダヤ人なのに、どうしてサマリア女のわたしから飲み物をお求めですか」と。ユダヤ人はサマリア人と付きあわなかったからである。 |
新共同 | すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 |
NIV | The Samaritan woman said to him, "You are a Jew and I am a Samaritan woman. How can you ask me for a drink?" (For Jews do not associate with Samaritans. ) |
註解: イエスの容貌、言語、衣服等によりてそのユダヤ人なることを女は認めたのであろう。しかしこの女の目には水を求むる憐れむべきユダヤ人を見るのみで、生命の水を与えんとするイエス・キリストそこに在すことをさとらなかった。ゆえに女はこのユダヤ人の態度を普通のユダヤ人と異なることにやや奇異の感に打たれたのである。ユダヤ人とサマリヤ人とが交わりをしない理由は紀元前722年ユダヤ人の主要部分はバビロンに移され、その代わりに各種の異邦人がサマリヤに移され、残されし小部分のものはこれらの他種族と雑居し、また雑婚することによりてその血統と信仰を乱した(U列17:24以下、エズ4:2以下)。その結果バビロンより帰り来れるユダヤ人はサマリヤ人と交わることをせず、ついに強き反感がその間に生じ、サマリヤ人は別にゲリジム山に神殿を築きて礼拝しエルサレムに上らなかった。
4章10節 イエス
口語訳 | イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。 |
塚本訳 | イエスは答えられた、「もし神の(賜わる最上の)賜物が何であるか、『飲ませてくれないか』と(今)あなたに言っている者がだれであるかがあなたにわかっていたら、あなたの方からその人に頼み、その人があなたに清水[命の水]を与えたであろうに。」 |
前田訳 | イエスは答えられた、「もし神の賜物が何であり、飲み物を下さいというのがだれであるかを知れば、あなたこそ彼に願い、彼はあなたにいのちの水を与えたでしょう」と。 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 |
NIV | Jesus answered her, "If you knew the gift of God and who it is that asks you for a drink, you would have asked him and he would have given you living water." |
註解: 物質的生活以外に何物もなきサマリヤ女の心を徐々に開きて、その中に求むる心を起さしめ給うイエスの巧みなる話法に注意すべし。「神の賜物」はイエス彼自身を指す(C1、S0)。神はその独り子を賜う程に世を愛し給うことを、人は知らないでいる。もしこのサマリヤ女がその前に坐するユダヤ人が神より人類に賜われる賜物なる神の独り子であることと、その人がキリストすなわち、人類の救い主メシヤに在し給うことを知ったならば彼女の態度は変らなければならない。(世の人がキリストに来ないのはキリストの本質を知らないからである。)而して彼は求めに応じて反対に彼女に活ける水を与うる地位に立ち給うであろう。「活ける水」は本来溜り水の反対で湧き出でて流れる水を意味しており(創26:19。レビ14:5)、イエスはさらにこれにその霊的意味を含ましめ、これを聖霊の意味に解している(ヨハ7:37−39)。聖霊による新生の意義が自らここにその片影を宿している(ヨハ4:14節註参照)。
辞解
[神の賜物] ほとんど大部分の学者はこれを「活ける水」と解し(A1、B1、E0、G1、Z0)、少数は「一般的の神の恵み」と解する(L2、M0、D0)。これらの説によらざらる理由は女がイエスに求むるように立至るべき原因は、イエスの神の賜物にして人類の救い主たることを知るにあり、求めし結果与えられるものが「活ける水」であるからである。「活ける水」の霊的意味もさらに多種多様に解せられている。L2参照。
4章11節
口語訳 | 女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。 |
塚本訳 | 女が言う、「主よ、あなたは釣瓶も持たれず、(この辺は)井戸も深いのに、どこからその清水を汲んで来られるのですか。 |
前田訳 | 彼女はいう、「主よ、桶もお持ちでなく、井戸も深いのにどこからそのいのちの水をお汲みになりますか。 |
新共同 | 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 |
NIV | "Sir," the woman said, "you have nothing to draw with and the well is deep. Where can you get this living water? |
註解: 汲むものなきイエスを見て彼女が怪しむは無理なきことである。同様に人としてのイエスは見栄えなきイエスであり(イザ53:2、3)また彼には用うべき力もなく、孤立無援であった。ゆえに目に見ゆる事情のみを見る人にとってはキリスト御自身が活ける水の持主に在し給うことを知ることができない。我らは肉によりてイエスを知ることは誤りである(Uコリ5:16)。
4章12節
口語訳 | あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。 |
塚本訳 | あなたはわたし達の先祖ヤコブよりもえらいのでしょうか。(まさかそうではありますまい。)彼のおかげで、わたし達のこの井戸もあるのです。彼も、その子たちも、家畜も、この井戸から飲みました。」 |
前田訳 | われらの先祖ヤコブよりあなたはお偉いのですか。彼はわれらにこの井戸を与え、彼自らもその子たちも家畜もその水を飲みました」と。 |
新共同 | あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 |
NIV | Are you greater than our father Jacob, who gave us the well and drank from it himself, as did also his sons and his flocks and herds?" |
註解: 彼女は淫奔なる生活をなしつつも(17、18節)、なおその始祖ヤコブについて誇っていた。伝統的信仰はこれを信ずる者の特性とは無関係なことが多い。而して伝統に固着している者はイエスを受入れることができない。
辞解
[我らの父] サマリヤ人はその祖先がヤコブであると信じていた。
[家畜] トレムマタ thremmata は「家僕」をも含むと解する説もある。
4章13節 イエス
口語訳 | イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 |
塚本訳 | イエスは答えられた、「この(井戸の)水を飲む者はだれでもまた渇くが、 |
前田訳 | イエスは答えられた、「だれでもこの水を飲むものはまた渇くが、 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 |
NIV | Jesus answered, "Everyone who drinks this water will be thirsty again, |
4章14節 されど
口語訳 | しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 |
塚本訳 | わたしが与える水を飲む者は永遠に渇かない。そればかりでなく、わたしが与える水は、その人の中で(たえず)湧き出る水の泉となって、永遠の命に至らせるであろう。」 |
前田訳 | わたしが与える水を飲むものは永遠に渇かず、わたしが与える水は彼のうちに湧き水の泉となって永遠のいのちに至らせよう」と。 |
新共同 | しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 |
NIV | but whoever drinks the water I give him will never thirst. Indeed, the water I give him will become in him a spring of water welling up to eternal life." |
註解: イエスの与うる処のものはこの世の物質条件(11節)や伝統的宗教(12節)の与うる処のものとは異なっている。これらのものは我らの肉の渇きを一時充たすのみで霊の渇きを永遠に充たすことができない。然るにイエスの与え給うものは我らの渇きを永遠に癒し、我らを永久に満足せしむる処のものである。「もしそれでもなお渇きを覚えるならば、それは水のためではなく我らの方に欠陥があるからである。」(B1)。
わが
註解: 私訳「わが与うる水は彼の中にて湧き出づる水の泉となりて永遠の生命に至るべし。」キリストを信ずるものは聖霊が与えられる(ヨハ7:39)。これはあたかも湧き出づる泉のごとくに永久に霊の渇きを癒し、ついにはこれが永遠の生命となるのである。信仰により霊によりて新生せるものは永遠の生命を得る(ヨハ3:15、16)。ここに新生命はその源はキリスト、流れは信者のこの世の生命、而して終りは永生に流入する水にたとえられている。
4章15節
口語訳 | 女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。 |
塚本訳 | 女が言う、「主よ、その水を下さい。(二度と)渇くことがないように、またここに汲みに来なくてもよいように。」 |
前田訳 | 女はいう、「主よ、その水を下さい、これから渇かないように、またここに汲みに来なくてよいように」と。 |
新共同 | 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」 |
NIV | The woman said to him, "Sir, give me this water so that I won't get thirsty and have to keep coming here to draw water." |
註解: 女の要求しているものはなお物質的慾望に過ぎなかった。すなわち再び渇きを覚えぬことと、再び汲みに来る労を要せぬことは彼女の願いであった。利益を目的とする宗教はみなこの類である。ただしイエスはこの女をしてついに「我に与えよ」との言を発せしめ給うた。これイエスの初めに言い給いし御言であって(7節)、ここに始めて求むる者の地位が転換した。
4章16節 イエス
口語訳 | イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。 |
塚本訳 | イエスが言われる、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」 |
前田訳 | イエスはいわれる、「夫をここに呼んで来なさい」と。 |
新共同 | イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 |
NIV | He told her, "Go, call your husband and come back." |
註解: イエス・キリストを受け彼を信ぜんためにはまず己の罪を知らなければならない。物質的利益を得んとの希望よりキリストを信ずることはできない。ゆえにイエスはまずこの女の罪を指摘して彼女を悔改めしめんとした。イエスは彼女の不倫の生活を洞見し給うたからである。
4章17節
口語訳 | 女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。 |
塚本訳 | 女が答えた、「わたしには夫はありません。」イエスが言われる、「『わたしには夫はありません』と言うのは、もっともだ。 |
前田訳 | 女は答えた、「わたしに夫はありません」と。イエスはいわれる、「夫がないとはもっともだ。 |
新共同 | 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 |
NIV | "I have no husband," she replied. Jesus said to her, "You are right when you say you have no husband. |
4章18節
口語訳 | あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。 |
塚本訳 | 五人の夫とは別れ、今のは、あなたの夫ではないのだから。あなたの言ったことは本当だ。」 |
前田訳 | 五人の夫があったが、今あるのはあなたの夫ではない。あなたがいったことは本当だ」と。 |
新共同 | あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 |
NIV | The fact is, you have had five husbands, and the man you now have is not your husband. What you have just said is quite true." |
註解: この女のこれまでの生涯は淫蕩そのものであった。五人までも夫を更 えたこと(その中に死亡せるものありや、また如何なる原因にて離婚せりや等は不明であるけれども、文章の語気よりいえば香 しからざる関係を想像せしめる)は、彼女の貞淑な婦人でなかった証拠であり「現在の夫は真の夫ではなく彼女はその妾であった」(Z0)、これらの恥ずべき彼女の生涯が、イエスの霊眼によって暴露されたのである。彼女の驚きはいかに深かったことであろうか。我らもまたキリストの前に立つとき我らのすべての罪はかくのごとくに暴露されるであろう。「無しと言えるは真なり」は一つの皮肉であって、女は言語の上よりは真実を語りつつ、その罪の事実を隠蔽せんとしたのであった。これに対してイエスは言語の上よりは讃辞を与えつつ、事実上彼女を非難し給うた。この対話のいかに溌剌たる生命に満ちていたかを見よ。
辞解
[五人の夫] これをサマリヤの五種の異種族の神を意味すという説あれど取るに足りない。
4章19節
口語訳 | 女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。 |
塚本訳 | 女が(びっくりして)言う、「主よ、わかりました、あなたは預言者です。 |
前田訳 | 女はいう、「主よ、わかりました、あなたは預言者です。 |
新共同 | 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 |
NIV | "Sir," the woman said, "I can see that you are a prophet. |
註解: 自己の罪を凡て洞見し給いしイエスを普通の人間であるとは思うことができなかった。これイエスを一ユダヤ人として軽蔑せる彼女の心に大なる変化を来した証拠である。
4章20節
口語訳 | わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。 |
塚本訳 | (それでお尋ねしたいのですが、)わたし達の先祖はこの(ゲリジム)山で(神を)礼拝したのに、あなた達(ユダヤの人)は、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。(どういう訳でしょうか。)」 |
前田訳 | ところで、われらの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなた方は礼拝すべきところはエルサレムといわれます」と。 |
新共同 | わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 |
NIV | Our fathers worshiped on this mountain, but you Jews claim that the place where we must worship is in Jerusalem." |
註解: 彼女はまず前節の讃辞をイエスに呈して後、その夫に関する話題をそらしてユダヤ人とサマリヤ人との間の宗教争論の中心問題であった礼拝の場所に関する問題をイエスに提出した。かく話題を転じた目的は彼女の良心の苛責を深めることを好まなかったからであろう。人は何事よりも自己の良心の苛責を恐れ、あらゆる手段をもってこれを免れんとする。(この話題を転ずる動機については異見あり。(1)彼女の罪を懺悔する場所を知らんがため、(2)次節以下の主の御言を引出さんがため、(3)預言者に向って発すべき最も自然なる質問等(G1、M0参照)。)
辞解
[此の山] ゲリジム山、ヨハ4:9節註参照。
4章21節 イエス
口語訳 | イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 |
塚本訳 | イエスが言われる、「女の人、わたし(の言葉)を信じなさい。(間もなく)あなた達が、この山でもエルサレムでもなく(どこででも、)父上を礼拝する時が来る。 |
前田訳 | イエスはいわれる、「わたしを信じなさい、女の方、この山でもエルサレムでもなく父を拝する時が来る。 |
新共同 | イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 |
NIV | Jesus declared, "Believe me, woman, a time is coming when you will worship the Father neither on this mountain nor in Jerusalem. |
註解: イエスはこの女の質問を捉えて21−24節において真の礼拝について語り給う。まず「をんなよ」と呼びかけて彼女が空論をもって話頭を転ぜんとするその心を引き締め、「我を信ぜよ」(私訳)と言いてその語らんとすることの真なることを示し、而して後まず第一に拝むべき場所とその礼拝の対象とを示し給うた。すなわち場所はゲリジムとかエルサレムとかのごとき限られた場所ではなく、或は屋内の密室において或は歩行の途上において、至る処に礼拝すべき場所がある(Tテモ2:8)。而して礼拝の対象はユダヤ人のみの神ではなく人類の「父」である。イエスはこの簡単平易なる語の中にユダヤ教に対する革命的思想を宣言し給うた。而してかかる「時」が来るべきことを示し給う。
辞解
[汝ら] 異説あれど「人類一般」と解することが最も適当であろう(G1)。
4章22節
口語訳 | あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。 |
塚本訳 | ただ(同じ神を、)あなた達は知らずに礼拝し、わたし達は知って礼拝している。救いはユダヤ人から出る(のでわたし達だけに神が示された)からである。 |
前田訳 | あなた方は知らぬものを拝し、われらは知るものを拝する。救いは(われら)ユダヤ人からのゆえに。 |
新共同 | あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 |
NIV | You Samaritans worship what you do not know; we worship what we do know, for salvation is from the Jews. |
註解: ここにも「汝ら」は「人類一般」と解し「我ら」はキリストにより真の神を知るに至りし者と解するのを可とする。21節以下においてのキリストの御言は極めて一般的真理を語り給えるものと解すべきである。すなわち救いはユダヤ人より出づとの預言が成就して(イザ2:1−5。ルカ2:30−32)キリスト来り給い、神をあらわし給いし結果(ヨハ1:18)、これまで神を見しことなく、従って神を知らざる人類一般(同上)が神を知りてこれを拝するに至っている。これ礼拝の根本的革命である。神を真に知らざりし結果ユダヤ人はエルサレムにおいてこれを礼拝すべしとなり、サマリヤ人はゲリジムにおいてこれを拝すべしとなり、異邦人は偶像を拝した。今やこれらがみなその意味を失う時が来たのである。(注意)ほとんど凡ての学者は上記の解釈とその見解を異にし「汝ら」をサマリヤ人「我ら」をユダヤ人と解し、ユダヤ人はアブラハム以後多くの預言者によりて神を知り、サマリヤ人はこれを知らなかったと解している。余は上記の解釈をヒルゲンフェルドの説としてG1中に揚げられているのを見出しただけである。
4章23節 されど
口語訳 | しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。 |
塚本訳 | しかし(ユダヤ人もサマリヤ人もなく、)本当の礼拝者が霊と真理とをもって父上を礼拝する時が来る。いや、今もうきている。父上もこんな礼拝者を求めておられるのである。 |
前田訳 | しかし、真の礼拝者が霊と真で父を拝する時が来る。否、もう来ている。父もこのように彼を拝するものを求めたもう。 |
新共同 | しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 |
NIV | Yet a time is coming and has now come when the true worshipers will worship the Father in spirit and truth, for they are the kind of worshipers the Father seeks. |
註解: 次にイエスは礼拝の心持につき革命的な断定を下し給うた。従来はイスラエルの国民宗教であり、一定の時刻に一定の場所において一定の儀式をもって一定の祭司の下に、習慣的規則的に礼拝が行われていたのを、今後はこれらの凡てが取除かれ、唯純粋に霊の働きと(ロマ1:9)真実の心とをもって父なる神を拝し奉る時が今すでに来たのである。何となればイエスはそのために来り給うたからである。而して父の求め給う者は子の心をもってするかかる礼拝者である。「霊の内的聖殿において為される礼拝は唯一の真の礼拝である。何となればこれのみが神の本質に叶うが故である。」(G1)。
4章24節
口語訳 | 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。 |
塚本訳 | 神は霊である。だから礼拝者も霊と真理とをもって礼拝せねばならない。」 |
前田訳 | 神は霊にいます。ゆえに拝するものも霊と真で拝すべきである」と。 |
新共同 | 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 |
NIV | God is spirit, and his worshipers must worship in spirit and in truth." |
註解: 神の霊に在すことはユダヤ人もサマリヤ人もこれを知っていた。然るに彼らはこの神に対し形式的礼拝を行っていたのである。ゆえに凡てこれらの形式と伝統とを離れ、唯霊と真とのみの礼拝をささぐることが神の本質に対する当然の態度である。イエスおよびその弟子たちは今やかかる信仰の下に従来の信仰に対し革命的態度に出でなければならない立場に立っていた。それ故にイエスはこの最深の真理をサマリヤの女に語り給うた。
4章25節
口語訳 | 女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。 |
塚本訳 | 女が言う、「キリストと言われる救世主が来ることは知っています。救世主が来れば、わたし達に何もかも知らせてくださるでしょう。」 |
前田訳 | 女はいう、「キリストといわれるメシアが来ることを知っています。彼が来ると、すべてをわれらに告げるでしょう」と。 |
新共同 | 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 |
NIV | The woman said, "I know that Messiah" (called Christ) "is coming. When he comes, he will explain everything to us." |
註解: サマリヤ人も創15章、民24章、申18:15等によりメシヤの来臨について聞き知っており、かかる重大なる問題を明らかにせんためにメシヤの来ることを望んでいた。けれどもイエスをそれと信ずることができなかった。
4章26節 イエス
口語訳 | イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。 |
塚本訳 | イエスは言われる、「あなたと話しているわたしが、それだ。」 |
前田訳 | イエスはいわれる、「あなたと語るわたしがそれです」と。 |
新共同 | イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」 |
NIV | Then Jesus declared, "I who speak to you am he." |
註解: ここにイエスはついに14節の誰なるかの質問に対する解答を与え給うた。罪人なりしサマリヤのこの女はかくして最も重大なる真理をイエスの口より学ぶことができたのである。
要義1 [イエスとその宗教]従来の宗教より見てイエスの我らに与え給える宗教は種々の点において革命的であった。彼の宗教は霊と真とをもって神を拝する宗教であって、従って(1)「霊」にあらざる形式は彼にとって不必要であった。礼拝の場所の如何や、その形式の如何は問題ではなかった。もし霊と真とをもって神を礼拝するならば、旧教教会において拝するも、新教教会において拝するも、あるいはまた教会以外において拝するも同じことである。また聖礼典に与るや否や、また如何なる形式において与るや等は問題ではない。(2)「真」にあらざること、すなわち虚偽や空虚なる心をもって神を拝することは彼にとっては罪であった。従って真の心より出でざる祈り、愛心より出でざる慈善等は神に対する冒涜であった。(3)イエスは神の経綸とその預言とを無視し給わなかった結果、ユダヤ人を特に神の選民と考え給うたにもかかわらず、彼はユダヤ人通有の人種的偏見を超越し給うた。彼がサマリヤ人と自由に語り、自由に交わり給えることにより、彼がいかに旧来の悪習慣を破り給いしかを知ることができる。
要義2 [イエスの伝道法]イエスがまず己を低くして彼女に近付き給い(7節)次に彼女の物質的慾求を利用してその心に求むる念を起さしめ(15節)次に彼女にその罪を示してまず悔改めに至らしめ(18節)ここに始めて真の礼拝の如何なるものかを教えて(23、24節)ついに御自身のメシヤなることを示し給いし(25節)その順序は実に我らの回心の経路の多くの場合に類似しているのであって、イエスがその霊をもて我らに近付き給う場合にも、この順序を踏み給うことが多いことに注意すべきである。
4章27節
口語訳 | そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった。 |
塚本訳 | とかくするうちに弟子たちがかえって来て、イエスが女と、(しかもサマリヤの女と)話しておられるのを(見て、)不思議に思った。それでも「何か御用で」とか、「何を話しておられますか」とたずねる者はなかった。 |
前田訳 | そこへ弟子たちが来て、イエスが女と話しておられるのにおどろいた。しかしだれも「何のご用で」とか「何をお話しで」とかいわなかった。 |
新共同 | ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。 |
NIV | Just then his disciples returned and were surprised to find him talking with a woman. But no one asked, "What do you want?" or "Why are you talking with her?" |
註解: ユダヤ人らは途上において婦人と語ることを恥辱不作法と考えた(己の妻とすらも)(S2)。いわんや彼らの卑 んでいたサマリヤの女と語ることはなおさらである。しかしながらこれを怪しむことは誤りであった。何となればイエスは如何なる人種をも如何なる罪人をも神の子となすを得給うからである。ただし彼らが濫りに問いを発しなかったことはイエスに対する尊敬の当然の結果であった。「神やキリストの行為や言葉に気に入らないものがあった場合に我らは謙遜に沈黙を守り、隠れたることが上より啓示されるのを待つべきである。」(C1)。
4章28節 ここに
口語訳 | この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、 |
塚本訳 | すると女は水瓶を置いたまま町に行って、人々に言う、 |
前田訳 | 女は瓶を置いて町へ立ち去り、人々にいった、 |
新共同 | 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 |
NIV | Then, leaving her water jar, the woman went back to the town and said to the people, |
註解: 彼女は自分の水瓶を固く握りしめてこれに水を満たさしめんとする自己中心の態度、すなわちキリストを自己の智慧、知識、悟性の中に入れてしまおうとする態度が全く失せて、唯キリストを見出したことの歓喜に溢れていた。
4章29節 『
口語訳 | 「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。 |
塚本訳 | 「さあ来て御覧なさい、わたしのしたことを何もかも言いあてた人がいる。もしかしたら、この人は救世主ではないでしょうか。」 |
前田訳 | 「来てごらんなさい、わたしがしたことを皆いい当てた人がいます。この人がキリストではないでしようか」と。 |
新共同 | 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 |
NIV | "Come, see a man who told me everything I ever did. Could this be the Christ ?" |
註解: 彼女の歓喜と驚駭とを彼女は黙止するに忍びなかった。信仰の結果は常にかくのごとくであらねばならぬ。彼女はその内心の驚きの理由を示して同時に人々をキリストに導いた。「この人キリストならんか」(▲原文「まさか此の人はキリストではあるまいね!」というような口調)と言いて断定を避けたのは、彼女がかかる事柄につき断定すべき地位にいなかったからであろう。
要義 [サマリヤの女の回心]サマリヤの女の心の変化もまた教訓に富める経路を辿っているのであって、始めにイエスを単に指弾すべきユダヤ人と考え(8節)、次にイエスの答に接してもなおイエスの無力(11節)と自己の保持する伝統(12節)とを楯にしてイエスを蔑視していた。唯彼女の心に物質的慾求が旺んであったために、渇くことなき永遠の生命の水を与うべしとのイエスの御言をききてこれを与えられんことを乞うた(15節)。けれども彼の女の心は自己の利益以外に出でなかった。ここにおいてイエスは痛く彼女の良心を刺し給うた結果(18節)女はその話題を転じ、議論に事寄せてその良心の苦悩を忘れんとした(20節)。イエスはこの機会を利用して女に真の礼拝の如何と、そのメシヤに在し給うことを告げ(21−26節)給いし結果、遂に彼の女の心開かれ、これまでの自分中心をすてて(28節)ついにイエスをキリストと信じてこれを人にも伝うるに至った(29節)。
口語訳 | 人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。 |
塚本訳 | 人々が町を出て、イエスの所に来た。 |
前田訳 | 人々は町を出てイエスのところへ来た。 |
新共同 | 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。 |
NIV | They came out of the town and made their way toward him. |
註解: 彼女の態度とその語る処の真剣さに動かされたのであろう。いかに無智なるなる者でも、またいかに罪深き者でも、その救いの体験よりキリストを証する時は人を動かすことができる。「ゆく」は「きたる」と訳すべきで、彼らがイエスの方に来りつつある光景を髣髴せしめる。
4章31節 この
口語訳 | その間に弟子たちはイエスに、「先生、召しあがってください」とすすめた。 |
塚本訳 | その間に弟子たちが、「先生、お食事を」と催促すると、 |
前田訳 | その間に弟子たちはイエスに「先生(ラビ)、お食事を」と勧めた。 |
新共同 | その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、 |
NIV | Meanwhile his disciples urged him, "Rabbi, eat something." |
註解: 「この間に」は女町に帰りて人々を呼びて来る間に。
4章32節 イエス
口語訳 | ところが、イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。 |
塚本訳 | 言われた、「わたしにはあなた達の知らない食べ物がある。」 |
前田訳 | 彼はいわれた、「わたしにはあなた方の知らない食べ物がある」と。 |
新共同 | イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。 |
NIV | But he said to them, "I have food to eat that you know nothing about." |
註解: このユダヤ人にあらざるサマリヤ女の回心はイエスにとりて初めての経験であった。これを見てイエスの心は喜びに充ちたことは察するに余りある。人に霊の糧を与うるの歓喜はイエスをしてその肉の飢えを忘れしむるに充分であった。我らも霊の喜びに溢れる時肉体的快楽を追求する心は自ら消失する。
4章33節
口語訳 | そこで、弟子たちが互に言った、「だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのであろうか」。 |
塚本訳 | すると弟子たちが互に言った、「だれも食べる物を持ってくるはずはないのに。」 |
前田訳 | そこで弟子たちは互いにいった、「だれも食べ物を持って来たはずはないのに」と。 |
新共同 | 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 |
NIV | Then his disciples said to each other, "Could someone have brought him food?" |
註解: 誰も持ち来たりしはずがないとの意味を含む。
4章34節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。 |
塚本訳 | イエスが言われる、「わたしの食べ物は、わたしを遣わされた方の御心を行い、(任せられた)お仕事を成しとげることだ。 |
前田訳 | イエスはいわれる、「わが食べ物はわたしをつかわされた方のみ心を行ない、そのわざを全うするにある。 |
新共同 | イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。 |
NIV | "My food," said Jesus, "is to do the will of him who sent me and to finish his work. |
註解: イエスの生涯は自己の快楽や満足のために費されたことは一切なく、唯「父なる神の御意を行うこと」すなわち罪の赦しの福音を世に伝え、人の心身の病を癒し給うことと、「その御業をなし遂ぐること」すなわち十字架に釘きてその苦痛を受け、贖いの御業を成就し給うこととが彼の生活であったのみならず、また彼の食物であった。これなしに彼は生くることができず、これありて彼の心は歓喜に充たされ、彼の飢えは飽かしめられた。キリスト者もかくあるべきである。
辞解
[行ひ、遂ぐる] 「行ひ」は現在動詞、「遂ぐる」は未来動詞を用いている。
4章35節 なんぢら
口語訳 | あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。 |
塚本訳 | あなた達のあいだでは『刈入れの時の来るにはまだ四月』と言うではないか。しかしわたしは言う、目をあげて畑を見てごらん。(麦畑の間を押し寄せてくるあのスカルの人たちを!)畑は黄ばんで刈入れを待っている。 |
前田訳 | あなた方はいうではないか、『取入れが来るまでまだ四か月』と。しかしわたしはいう、目をあげて畑を見よ。色明るく取入れを待っている。 |
新共同 | あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、 |
NIV | Do you not say, `Four months more and then the harvest'? I tell you, open your eyes and look at the fields! They are ripe for harvest. |
註解: パレスチナにおいては大体四月半ばが収穫時である。(地方により小差あり)それ故に逆に推算すればこの時はちょうど十二月半頃であった。麦は十月半頃に蒔かれこの頃はすでに麦畑は青々と波打っていたのであろう。弟子たちは「もう四ヶ月たてば収穫時である」と話し合っていたことであろう。ちょうどこの時スカルの町から多くの群衆がこの緑の野を通ってこの方をめがけて来るのが見えた。イエスは彼らを指して弟子たちに向い「視よ、霊界の収穫は四ヶ月を待たない、今サマリヤの女の心に蒔いた種ははや黄みて、収穫時になっているではないか」と言い給うたのである。
辞解
[収穫時来るにはなほ四月あり] 一つの俚諺 と見る学者があるけれども(A1、E0、G2)、かかる諺があったことの確証は挙げることができない。「四ヶ月」すなわちこの時十二月半ばであったとすれば、イエスはエルサレムにペンテコステより約八ヶ月間滞在し給うたこととなる。
[視よ] 原文にあり改訳にこれを欠いたのは誤り。
4章36節
口語訳 | 刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。 |
塚本訳 | すでに、刈る人は報酬を受けている。すなわち永遠の命にいたる実を集めている。まく人も刈る人も、同時に喜ぶためである。 |
前田訳 | すでに刈り手は報酬を受け、永遠のいのちへの実を集めている。まくものが刈るものとともによろこぶためである。 |
新共同 | 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。 |
NIV | Even now the reaper draws his wages, even now he harvests the crop for eternal life, so that the sower and the reaper may be glad together. |
註解: 刈る者の受くる價は救われし魂であって「実」そのものである。而してこの実は永遠の生命に至るの実であって、麦のごとく再び死滅する実ではない。この実を得て喜ぶは刈る者の幸福である。而してイエスの特に喜び給えることは、播くものであったイエスと刈る者である弟子とがこの場合には共に喜び得ることであった。
4章37節
口語訳 | そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。 |
塚本訳 | 『まく人、刈る人、別の人』という諺は、そのままここに当てはまるからである。 |
前田訳 | ここに、『まくものと刈るものは別』との諺が当てはまる。 |
新共同 | そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。 |
NIV | Thus the saying `One sows and another reaps' is true. |
註解: 前節においてイエスと弟子たちが共に喜び得しことを、特別に喜ばしきことと為し給える理由は、この俚諺 のごとく、多くは播く者と刈る者とは別人で、当然得べき利益を他人に奪われて悲しむ場合が多いのに、福音の伝道においてはこの播く者と刈る者とが別人でありながら共に喜ぶことができるからである。すなわちこの俚諺 の意味を変更して霊界に適用したのである。
4章38節
口語訳 | わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。 |
塚本訳 | (すなわち)わたしはあなた達をやって、あなた達が自分で苦労しなかったものを刈り取らせる。ほかの人々が苦労し、あなた達はその苦労(の実)を取り入れるのである。(あなた達はわたしがまいたものを、ただ取り入れるだけでよいのだ。)」 |
前田訳 | わたしはあなた方をつかわして、あなた方自身が苦労しなかったものを刈らせる。苦労したのはほかの人で、あなた方は彼らの苦労を取り入れに来ている」と。 |
新共同 | あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」 |
NIV | I sent you to reap what you have not worked for. Others have done the hard work, and you have reaped the benefits of their labor." |
註解: 弟子たちを世界の各地に遣わす場合も今眼前に展開せんとするスカルの人々の場合と同様であって、旧約時代の先祖、預言者、ヨハネ、イエス等が(T0)長日月の間に種を蒔きて準備して来た処のものを、弟子たちが刈り取って神の国に入れ永遠の生命を得しむるのである。天国においては再び播く者と刈る者とが共に喜ぶ時があるであろう。
辞解
[他の人々] 種々の解釈あり、(1)イエス一人(M0、W2)、(2)イエス、預言者、バプテスマのヨハネ(古代師父、L2)、(3)イエスとヨハネ(G1)その他種々あり。
4章39節
口語訳 | さて、この町からきた多くのサマリヤ人は、「この人は、わたしのしたことを何もかも言いあてた」とあかしした女の言葉によって、イエスを信じた。 |
塚本訳 | さて、この町の大勢のサマリヤ人は、「あの人はわたしのしたことを何もかも言いあてた」と証しするこの女の言葉によって、イエスを信じた。 |
前田訳 | 「彼はわたしがしたことを皆いい当てた」と証した女のことばによって、この町の多くのサマリア人がイエスを信じた。 |
新共同 | さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 |
NIV | Many of the Samaritans from that town believed in him because of the woman's testimony, "He told me everything I ever did." |
註解: イエスの御言のごとく彼らは既に神の国に刈り取られた。ユダヤ人が不信仰であったのに比較して、ユダヤ人より蔑視せられしサマリヤ人がいかに喜んでイエスを受入れしかを見よ。ただしこの信仰は42節のごとき程度に至らず、他人の証を信じたる程度であった。この程度の信仰は動揺し易い。またイエスはこれを重く見給わなかった。ヨハ2:23。
4章40節 かくてサマリヤ
口語訳 | そこで、サマリヤ人たちはイエスのもとにきて、自分たちのところに滞在していただきたいと願ったので、イエスはそこにふつか滞在された。 |
塚本訳 | それでサマリヤ人はイエスの所に来ると、自分たちのところに(しばらく)泊まっていてほしいと頼んだ。イエスはそこに二日泊まられた。 |
前田訳 | さて、サマリア人は彼のもとへ来ると、彼らのところに泊まるよう願った。それでイエスはそこに二日泊まられた。 |
新共同 | そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。 |
NIV | So when the Samaritans came to him, they urged him to stay with them, and he stayed two days. |
註解: これユダヤ人の伝統習慣に違反する処の行為であったにもかかわらず、イエスはかかる無意味の伝統を超越し給うた。サマリヤ人はまず彼の御許に来た。彼らはさらに彼に留まらんことを請うた。これ彼らの信仰のさらに進んだ状態を示している。我らも進んでイエスを己が心に迎えるに至ることが必要である。
口語訳 | そしてなお多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 |
塚本訳 | すると、さらに多くの人がイエスの言葉によって信じた。 |
前田訳 | すると、さらに多くの人々がイエスのことばを聞いて信じた。 |
新共同 | そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 |
NIV | And because of his words many more became believers. |
註解: 罪深き一人の女の回心とその証がかくも多くの人をキリストに導く原因となった。
4章42節 かくて
口語訳 | 彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。 |
塚本訳 | そして彼らは女に言った、「われわれはもうあなたの話しで信ずるのではない。自分たちで(直接)聞いて、この方こそ確かに世の救い主だとわかったからである。」 |
前田訳 | そして女にいった、「われらはもはやあなたがいったから信ずるのではない。自ら聞いて、彼こそ真に世の救い主とわかったからである」と。 |
新共同 | 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」 |
NIV | They said to the woman, "We no longer believe just because of what you said; now we have heard for ourselves, and we know that this man really is the Savior of the world." |
註解: 信仰は間接に人の言によりて得るのみである場合は動揺し易き弱き信仰である。直接にイエスの御言を聴きて直接に彼を知りて始めて堅き信仰に達することができる。ただしここに達するには始めは間接に人の仲介によりてイエスに導かれることが必要である。我らも他人の説教や伝道によりてイエスを紹介せられただけでは不充分である。直接に御霊によりて彼に接し、彼の救い主に在すことを知らなければならない。
要義 [イエスの歓喜]エルサレムにおいて失望を経験し給えるイエスは、図らずもサマリヤにおいて大なる喜びを味わい給うた。イエスがこの喜びのためにその飢えをも忘れ給えることは、彼が人類を愛し給うその愛のいかに切であったかを示している。而して彼はさらに進んで弟子たちがその果を収穫することをこの上もなく喜び給うたのは、これやがて天国において播く者と刈る者とがその果を見て共に喜ぶ時の前兆となったからである。我らもたとい自ら蒔きし種を刈り取ることができずとも、この喜びを望んで種播と収穫とにいそしむべきである。
4章43節
口語訳 | ふつかの後に、イエスはここを去ってガリラヤへ行かれた。 |
塚本訳 | 二日ののち、そこを去ってガリラヤへ向かわれた。 |
前田訳 | その二日ののち彼はそこを去ってガリラヤへ向かわれた。 |
新共同 | 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。 |
NIV | After the two days he left for Galilee. |
4章44節 (そは)イエス
口語訳 | イエスはみずからはっきり、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われたのである。 |
塚本訳 | (これは前に言ったように、パリサイ人との衝突をさけるためであった。)イエス自身(かつて、)「預言者はその本国では尊敬を受けない」と、はっきり言われたことがあったからである。 |
前田訳 | イエス自身「預言者はおのが郷では敬われない」と証言されたことがある。 |
新共同 | イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。 |
NIV | (Now Jesus himself had pointed out that a prophet has no honor in his own country.) |
4章45節 [
口語訳 | ガリラヤに着かれると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。それは、彼らも祭に行っていたので、その祭の時、イエスがエルサレムでなされたことをことごとく見ていたからである。 |
塚本訳 | ところが、ガリラヤに行かれると、(予期に反して)ガリラヤ人は彼を歓迎した。これは、彼らも(過越の)祭に行ったので、イエスが祭の時にエルサレムでされたこと[奇蹟]を一つのこらず見たからである。 |
前田訳 | しかし彼がガリラヤへ入られると、ガリラヤ人は彼を歓迎した。彼らも祭りに行ったので、彼がエルサレムで祭りのときにされたことのすべてを見たからである。 |
新共同 | ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。 |
NIV | When he arrived in Galilee, the Galileans welcomed him. They had seen all that he had done in Jerusalem at the Passover Feast, for they also had been there. |
註解: 44節は43節の理由を示す文字(gar=for)45節はその結果を示す文字(oun=therefore)をもって始められているけれども、44節は43節の理由として不可解であり、45節は44節の予期に反する結果のごとくに見え、従ってこの三節は多くの解釈を生んでいる。その主なるものは、(1)「己が郷」をガリラヤと見ずしてナザレの町と解する説(C1、C2、B1等多数あり)、(2)これを下部ガリラヤと解し43節のガリラヤを上部ガリラヤと解する説(L2)、(3)これをユダヤと解する説(オリゲネスその他)、(4)預言者は故郷にて尊ばれざるものなる故、イエスはエルサレムやサマリヤに名声を博して、さらにこれを携えてガリラヤに来れる意味と解する説(M0、G1、Z0)、(5)ヨハ2:23−25。ヨハ3:22−30等の名声を厭 いて一時ガリラヤにこれを避け、隠遁の生活を送らんとし給えるものと解する説(E0)等なお大同小異の説が多い。余は(3)の説により、救いはユダヤより出づる意味およびベツレヘムにて生れ給える意味において「己の郷」をユダヤと見、ユダヤにてパリサイ人らのために迫害せられんとし給えるためにガリラヤに来てそこにて受入れられ給えることを記せるものと解する(ゆえに「己が郷」の意味はマタイとヨハネと各々特徴あり。マタ13:57参照)。
4章46節 イエス
口語訳 | イエスは、またガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にかえられた所である。ところが、病気をしているむすこを持つある役人がカペナウムにいた。 |
塚本訳 | それから、またガリラヤのカナに行かれた。そこは(前に)水を酒にされた所である。するとカペナウムに(ヘロデ・アンデパス)王の役人がいて、その息子が病気であった。 |
前田訳 | それから彼はふたたびガリラヤのカナへ行かれた。そこは水をぶどう酒にされたところである。そこに王の役人がいた。その息子はカペナウムでわずらっていた。 |
新共同 | イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。 |
NIV | Once more he visited Cana in Galilee, where he had turned the water into wine. And there was a certain royal official whose son lay sick at Capernaum. |
註解: ここにはイエスの親戚知人及び彼の奇蹟につきて知っている多くの人がいたので、イエスの心は自然にこの地に引き付けられ、ここにその働きをなさんとし給うたのであろう。
註解: 「王の近臣」すなわちヘロデ・アンテパスの近臣でルカ8:3のクーザか或は使13:1のヘロデの乳兄弟マナエンにはあらずやとの想像説がある(G1)。(注意)この物語とマタ8:5−13(ルカ7:1−10)の百卒長の物語とは全く別である。詳しくはこれを読めば差別を知ることができる。カペナウムはカナより二十余理。
4章47節 イエスのユダヤよりガリラヤに
口語訳 | この人が、ユダヤからガリラヤにイエスのきておられることを聞き、みもとにきて、カペナウムに下って、彼の子をなおしていただきたいと、願った。その子が死にかかっていたからである。 |
塚本訳 | イエスがユダヤからガリラヤに来ておられると聞くと、イエスの所に行き、(カペナウムに)下ってきて息子を直してほしいと頼んだ。息子が死にそうだったのである。 |
前田訳 | 彼はイエスがユダヤからガリラヤへ来ておられると聞くと、彼のもとに来て、下って息子をいやすよう願った。息子は死にそうであった。 |
新共同 | この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。 |
NIV | When this man heard that Jesus had arrived in Galilee from Judea, he went to him and begged him to come and heal his son, who was close to death. |
註解: この近臣の祈りは真にして切であった。彼はイエスに関する風聞をきき、彼こそその子を癒し得るならんと信じたのである。しかしイエスに関する風聞を信ずることと、彼自身を信ずることとの間には根本的な差異がある(ヨハ4:39−42節参照)。唯彼の心は子(おそらく独り子ならん(ho huios = the son、B1)を思う心で一杯で、信仰の性質を考える余裕はなかった。
4章48節 ここにイエス
口語訳 | そこで、イエスは彼に言われた、「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう」。 |
塚本訳 | イエスは言われた、「あなた達は徴[奇蹟]と不思議なことを見なければ、決して信じない。」 |
前田訳 | そこでイエスはいわれた、「徴と不思議を見ねばあなた方は信じない」と。 |
新共同 | イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。 |
NIV | "Unless you people see miraculous signs and wonders," Jesus told him, "you will never believe." |
註解: イエスの要求し給う信仰は彼の言を聴き、彼を神の子と信ずる純粋なる信仰であった。然るにユダヤ人もガリラヤ人も共に彼の徴を見て信ずるのみであった(ヨハ2:23、ヨハ4:45)。ゆえに「汝ら」といいて一般ガリラヤ人に対しその信仰の純真にあらざるを責め給う。蓋しイエスはこの種の信仰に対してこれを喜び給わなかったのである(ヨハ3:2、ヨハ20:29)。
辞解
[徴と不思議] 徴 sêmeion は見えざる力の表現として見たる奇蹟、不思議 teras は見ゆる自然法に対する例外として見たる奇蹟。
4章49節
口語訳 | この役人はイエスに言った、「主よ、どうぞ、子供が死なないうちにきて下さい」。 |
塚本訳 | 王の役人が、「主よ、子供が死なないうちに(カペナウムに)下ってきてください」と言いつづけると、 |
前田訳 | 王の役人はいう、「主よ、子が死なぬうちに下っていただきたい」と。 |
新共同 | 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。 |
NIV | The royal official said, "Sir, come down before my child dies." |
註解: 彼の心は信仰の性質如何を考うる余裕がなかった。唯その子の癒されんことを望む心に充たされていたのみであった。ある特殊の悩みを除かれんことをのみ望む結果、その以外のことを顧みる余地がない。この種の信仰の危険性はここにある。
4章50節 イエス
口語訳 | イエスは彼に言われた、「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」。彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。 |
塚本訳 | イエスは言われる、「かえりなさい、息子さんはなおった。」その人はイエスの言われた言葉を信じて、かえっていった。 |
前田訳 | イエスはいわれる、「お帰り。お子さんは助かる」と。その人はイエスがいわれたとおりのことばを信じて、帰って行った。 |
新共同 | イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。 |
NIV | Jesus replied, "You may go. Your son will live." The man took Jesus at his word and departed. |
註解: ここにイエスは彼に対し徴と不思議を見ずに単に彼の言をもって彼を信ぜんことを要求し給う、これこそ真の信仰というべきである(ヘブ2:1)。
註解: 彼の信仰は強かった。彼はイエスの試みに合格したのである。我らもまた「我終の日に汝らを甦らすべし」(ヨハ6:40)と言い給う時、これを見ずして信ずべきである。
4章51節
口語訳 | その下って行く途中、僕たちが彼に出会い、その子が助かったことを告げた。 |
塚本訳 | しかしすでに途中で、僕たちが出迎えて、子供がなおったことを知らせた。 |
前田訳 | すでに下り行く途中で僕(しもべ)らが出迎えて、子が助かったといった。 |
新共同 | ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。 |
NIV | While he was still on the way, his servants met him with the news that his boy was living. |
註解: 僕どもが来たのは師を煩わす必要なきことを告ぐるためか、または早く父を喜ばせんがためかいずれかであったろう。
4章52節 その
口語訳 | そこで、彼は僕たちに、そのなおりはじめた時刻を尋ねてみたら、「きのうの午後一時に熱が引きました」と答えた。 |
塚本訳 | そこで僕たちに良くなった時間をたずねると、「きのう午後一時に熱が取れた」とこたえた。 |
前田訳 | そこで、よくなった時間を僕たちにたずねた。彼らは、「熱はきのう午後一時にとれました」と答えた。 |
新共同 | そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。 |
NIV | When he inquired as to the time when his son got better, they said to him, "The fever left him yesterday at the seventh hour." |
註解: 第七時は午後一時に当る。カナよりカペナウムまで二十数里であって、午後一時にカナを発するならば夕の八、九時までにはカペナウムに着くはずである。ゆえに「昨日」とあるはその日の日没前を昨日とするユダヤの暦法によったのである。
4章53節
口語訳 | それは、イエスが「あなたのむすこは助かるのだ」と言われたのと同じ時刻であったことを、この父は知って、彼自身もその家族一同も信じた。 |
塚本訳 | 父は、それが「息子さんはなおった」とイエスが言われた時間であることを知り、彼はもちろん、全家族が信じた。 |
前田訳 | 父親はちょうどそのときイエスが「お子さんは助かる」といわれたことを知り、彼も彼の家族一同も信じた。 |
新共同 | それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。 |
NIV | Then the father realized that this was the exact time at which Jesus had said to him, "Your son will live." So he and all his household believed. |
註解: イエスは唯その御言のみをもって癒し給うた。彼の霊力は空間に制限せられなかった。この事実を見て一家みな彼を信ずるに至った(ヨハ4:46b註参照。おそらくこの一家はその後永く信仰の生活をなし、信者の中に名の聞えていた家族であろう)。近臣が一度信じて(50節)さらにまた信じたことが記されていることについてはヨハ2:11参照。
4章54節
口語訳 | これは、イエスがユダヤからガリラヤにきてなされた第二のしるしである。 |
塚本訳 | イエスはこの第二の徴[奇蹟]を、ユダヤからガリラヤに行かれたときに行われた。 |
前田訳 | イエスはこの第二の徴をユダヤからガリラヤへ来てなさった。 |
新共同 | これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。 |
NIV | This was the second miraculous sign that Jesus performed, having come from Judea to Galilee. |
註解: ヨハ2:11参照。二回ともカナにおける奇蹟が録されていることに注意すべきであって、ここにも共観福音書の補充的立場に立てる第四福音書の特徴を見ることができる。
要義 [御言を信ぜよ]キリスト者の信仰は神の御言とイエスの御言をそのままに信ずることに帰着する。而して我ら自己の罪のためにまさに死せんとする時「汝の罪はキリストの十字架上に贖われたり」との神の御言を信ずることが我らに残されし唯一の途である。而してこれを信ずる者は生くることができるのであって、あたかも王の近臣がイエスの言を信じてその子の生けるを発見せると同じく、我らもイエスの言を信じて我らの起死回生の事実を経験することができる。神の御言を単純にそのままに、何らの思索批評を加えずして信ずること、そこに信仰の秘訣がある。
ヨハネ伝第5章
分類
3 イエスとユダヤ主義との争闘
5:1 - 11:57
註解: 5−11章においてはイエスはガリラヤおよびユダヤにおいて、多くの奇蹟を行い、人々を教え給うた。ヨハネ伝には特にその中のユダヤにおける事件について記されており、共観福音書には主としてガリラヤにおける事件について記されている。殊にヨハネ伝の記事の中にはイエスの多くの議論が挿入せられ、これに対するユダヤ人の躓きにつきて録されている。
5章1節 この
口語訳 | こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。 |
塚本訳 | そののちユダヤ人の祭があって、イエスはエルサレムに上られた。 |
前田訳 | そののちユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。 |
新共同 | その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。 |
NIV | Some time later, Jesus went up to Jerusalem for a feast of the Jews. |
註解: この祭が何の祭であったかは重要なる問題であって、この祭の何祭なるかによってイエスの地上において伝道し給える年数に大差を生ずる結果となる。然るに不幸にしてこれには種々の説あり。(1)三月のプリム祭(エス9:26−28)、(2)四月の過越の祭、(3)五月の五旬節、(4)十月の仮庵の祭、(5)十二月の宮潔の祭(ヨハ10:22)のいずれにも相当の主張者があり、有力なる学者が各々異なった説を主張している。これを見ても問題の困難を知ることができる。ヨハ4:35がサマリヤにおける十二月半頃の出来事とすれば、ヨハ6:4に過越の祭の近きことが記され、ヨハ7:2に仮庵の祭近づきたることが記されている。ゆえに本節の祭をプリム祭と解する場合には4:35と6:4との間に四ヶ月の時日を計算することができるけれども(2)(3)(4)のいずれかに解する場合には6:4の過越の祭と4:35との間に一年と四ヶ月を経過せることとなり、イエスの生涯に一ヵ年の差異を生ずることとなる。余は第四の説を採る(Z0)。ただしこの問題はイエスの歴史的研究にとっては重大であるけれども信仰の問題としてはそれほど重要ではない。以上の諸説のいずれにも相当の理由と相応の困難がある。
5章2節 エルサレムにある
口語訳 | エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。 |
塚本訳 | エルサレムの羊門のわきに、ヘブライ語でベテスダという池があり、(これを取り巻いて)五つの回り廊下があった。 |
前田訳 | エルサレムの羊門のそばに、ヘブライ語でベテスダといわれる池があり、それを五つの回り廊下がとり巻いていた。 |
新共同 | エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。 |
NIV | Now there is in Jerusalem near the Sheep Gate a pool, which in Aramaic is called Bethesda and which is surrounded by five covered colonnades. |
註解: 羊門についてはネヘミヤ記(引照1)参照。今のステパノ門でエルサレムの東北方にあり、昔羊商はこの門より入りここに羊等が売買された処であろう。ベテスダの池はステパノ門の近く目下の市街地の地下にあり、近年発掘された長方形の貯水池がおそらくそれであろう。四周と中央に廊がある間歇泉である。ベテスダの名称はおそらく「恵の家」を意味するであろう。ただしこの名称は聖書の写本の異なるに従い種々の差異あり確定することができない。従ってその意味にも種々あり得る。
5章3節 その
口語訳 | その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。 |
塚本訳 | 廊下には大勢の病人──盲人、足なえ、やせ衰えた者などが寝ころがっていた。【水の動くのを待っていたのである。 |
前田訳 | その中に大勢の病人たち、目しい、足なえ、麻痺者が横たわっていた。〔彼らは水の動くのを待っていた。 |
新共同 | この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。(†底本に節が欠落 異本訳<5:3b-4>)彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。 |
NIV | Here a great number of disabled people used to lie--the blind, the lame, the paralyzed. |
註解: いずれも医者より見離されしもの、または医者の力をもっては如何とも為し得ざる種類の人々である。神の御業はかえって著しくかかる人の上に顕われる。我らも全然我ら自身に絶望する時かえって神の力が我らの上に顕われることを見ることができる。
(
5章4節 それは
口語訳 | それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕 |
塚本訳 | それは、主の使がときどき池に下りてきて水をかきまわすので、水がかきまわされたとき真先に(池に)はいった者は、どんな病気にかかっていても、(きっと)直るからであった。】 |
前田訳 | ときどき主の使いが池に下って水を動かすので、水が動かされてからまっ先に入ったものが、どんな病に犯されていても直るからである。〕 |
新共同 | |
NIV |
註解: 多くの古き写本にこの括弧内の文字を欠き、かつこれを含む場合にも多くの文字上の差異がある。おそらく後日他地方の人がこの文字なしには7節があまりに卒然にて意味が不明瞭となるので、説明のために欄外に書き加えて置いたのが後に本文の中に入ったのであろう(G1)。この池は間歇泉でその水が時々短時間の間に湧き出でて水面を動かし、その瞬間に池に入る場合にその治癒力が殊に多かったのであろう。天使云々はその池に関する伝説そのままを記したのである。
口語訳 | さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。 |
塚本訳 | するとそこに三十八年病気の人がいた。 |
前田訳 | その中に三十八年病む人がいた。 |
新共同 | さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。 |
NIV | One who was there had been an invalid for thirty-eight years. |
註解: 全く絶望的の病人であったことを知ることができる。
5章6節 イエスその
口語訳 | イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。 |
塚本訳 | イエスはその人が横になっているのを見、すでに長い間わずらっていることを知ると、「直りたいか」とたずねられた。 |
前田訳 | イエスはその人が横たわっているのを見て、すでに長らくわずらっていることを知ると、彼にいわれる、「直してもらいたいか」と。 |
新共同 | イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。 |
NIV | When Jesus saw him lying there and learned that he had been in this condition for a long time, he asked him, "Do you want to get well?" |
註解: イエスは突然ここに現われ給うた。おそらく弟子を伴わずに一人来給うたのであろう。ヨハ2:13の場合との著しき差異に目を留めよ。本節はイエスがこの病人を憐れみ給いし有様を髣髴することができる。イエスの質問は我らも平日用うる「治りたいのかい」との俗語と同じく「さぞ癒えたく思っているだろう」との同情の語であって、果して癒えんことを欲するや否や不明のためにに質問したのでもなく、または患者やその他人々の注意と期待を起さんがため(M0)でもなく、また彼の眠れる心を覚さんとした(L2)のでもない。
5章7節
口語訳 | この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。 |
塚本訳 | 病人が答えた、「主よ、水がかきまわされた時に、わたしを池に入れてくれる者がないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に下りてゆきます。」 |
前田訳 | 病人は答えた、「主よ、水が動かされたとき池にわたしを入れてくれる人がないのです。わたしが行くうちに、ほかの人がわたしの先におりて行きます」と。 |
新共同 | 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」 |
NIV | "Sir," the invalid replied, "I have no one to help me into the pool when the water is stirred. While I am trying to get in, someone else goes down ahead of me." |
註解: 同病相憐れむ立場にある人々すら自己に不利益となれば他を顧みないのが人の常である。罪なきイエスが罪人のために死に給えるその愛の深さは量り知ることができない。
5章8節 イエス
口語訳 | イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。 |
塚本訳 | イエスが言われる、「起きて担架をかついて、歩きなさい。」 |
前田訳 | イエスはいわれる、「起きて床をあげて歩みなさい」と。 |
新共同 | イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 |
NIV | Then Jesus said to him, "Get up! Pick up your mat and walk." |
5章9節 この
口語訳 | すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。 |
塚本訳 | するとその人はすぐ直って、担架をかついで歩きまわった。あいにくその日は安息日であった。 |
前田訳 | たちまちその人は直って、床をあげて歩みはじめた。 |
新共同 | すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。 |
NIV | At once the man was cured; he picked up his mat and walked. The day on which this took place was a Sabbath, |
註解: イエスの愛は彼をしてユダヤ人の律法なる安息日を超越せしめ、彼の能力は数十年の病に打勝つことができた。彼欲し給う時は相手方の信仰の有無を論ぜずこれを癒し給うことができる。
その
註解: ▲イエスの病気治療の奇蹟は安息日に多く行われた。三十八年間の病人の治療を一日や二日延期することは差支えがないのだから、イエスは故意に安息日にこれを為したのであったと見なければならない。これは信仰の形式化律法化に対する挑戦であった。
5章10節 ユダヤ
口語訳 | そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った、「きょうは安息日だ。床を取りあげるのは、よろしくない」。 |
塚本訳 | そこでユダヤ人(の役人たち)が病気のよくなった人に言った、「(きょうは)安息日だ、担架をかつぐのは規則違反だ。」 |
前田訳 | そこでユダヤ人はいやされた人にいった、「安息日だからあなたが床をあげるのはゆるされない」と。 |
新共同 | そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」 |
NIV | and so the Jews said to the man who had been healed, "It is the Sabbath; the law forbids you to carry your mat." |
註解: 「ユダヤ人」はサンヘドリウムの議員らを意味する。ヨハ2:18参照。安息日には三十九種の行為(それがまた各々六つに区別せらる)を為すことが禁じられていた。その中に安息日に病人を床のまま運ぶことは許されていたけれども床のみを運ぶことは禁じられていた(S2)。ゆえにイエスが「床を取りあげて歩め」と言い給えるは明らかにこの安息日に関するラビの規則を破ることとなるのであった。なおマタ12:2註および引照参照。
5章11節
口語訳 | 彼は答えた、「わたしをなおして下さったかたが、床を取りあげて歩けと、わたしに言われました」。 |
塚本訳 | 彼は答えた、「わたしを直してくれた人が、『担架をかついで歩け』と言ったのです。」 |
前田訳 | 彼は答えた、「わたしを直してくれたその人が床をあげて歩めといいました」と。 |
新共同 | しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。 |
NIV | But he replied, "The man who made me well said to me, `Pick up your mat and walk.'" |
註解: 癒されし者の喜びは死せる律法に束縛せらる可くあまりに大きかった。新生せるキリスト者が律法以上に出づる時の心地もかくのごとくである。この答は一面彼のありのままの事実をいうと共に、他面イエスの権威が不知不識の間に彼に認められたのである。
5章12節 かれら
口語訳 | 彼らは尋ねた、「取りあげて歩けと言った人は、だれか」。 |
塚本訳 | 彼らが尋ねた、「『かついで歩け』と言った人はだれだ。」 |
前田訳 | 彼らはたずねた、「床をあげて歩めといった人はだれか」と。 |
新共同 | 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。 |
NIV | So they asked him, "Who is this fellow who told you to pick it up and walk?" |
註解: 彼らの質問は用意周到であった。「汝を醫したるは誰なるか」と問わなかったのは彼らはイエスの奇蹟を認めんとせずに、その律法違反を責めようとしたからであった。
5章13節 されど
口語訳 | しかし、このいやされた人は、それがだれであるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと出て行かれたからである。 |
塚本訳 | しかしいやされた人は、それがだれか知らなかった。大勢の人がその場所にいたので、イエスは(そっと)立ち去られたのであった。 |
前田訳 | しかしいやされた人はそれがだれか知らなかった。群衆がそこにいたのでイエスがぬけ出られたからである。 |
新共同 | しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。 |
NIV | The man who was healed had no idea who it was, for Jesus had slipped away into the crowd that was there. |
註解: イエスは彼を醫し給いし後群衆がこれを見て騒ぎ立てんことを思いこれを嫌いて避け給うた。「退き」は「面をそむけて避ける」ごとき貌を言う。
5章14節 この
口語訳 | そののち、イエスは宮でその人に出会ったので、彼に言われた、「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」。 |
塚本訳 | そののちイエスは宮で彼に出合って言われた、「ほら、直ったではないか。もう罪を犯すなよ。もっとひどい目にあうかもしれないから。」 |
前田訳 | そののちイエスが宮で彼に出会っていわれた、「ごらん、あなたは直った。もう罪を犯すな。さもないと前よりも悪くなる」と。 |
新共同 | その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」 |
NIV | Later Jesus found him at the temple and said to him, "See, you are well again. Stop sinning or something worse may happen to you." |
註解: 「視よ」はその癒されしことに対する注意を喚起したのである。またこの場合はその病の原因が彼の罪にあった(然らざる場合もある。ヨハ9:3-12および要義参照)。それ故にイエスは彼が宮に来れる際に(おそらく癒されし喜びのために宮に来たのであろう。)彼をして癒されし喜びのあまり病の原因を忘れることなきように注意を与え給うた。蓋し神は罪に対する罰として病を与え給うけれどもその罪を再びする場合には神はさらに大なる叱責を必要とし給うからである(レビ26:14以下。申28:15以下)。ゆえに患難が続いて至る時我らは顧みなければならない。
5章15節 この
口語訳 | 彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスであったと、ユダヤ人たちに告げた。 |
塚本訳 | その人は行って、直してくれた人はイエスであると、ユダヤ人(の役人たち)に話した。 |
前田訳 | 彼は立ち去って、彼をいやしたのはイエスであるとユダヤ人に告げた。 |
新共同 | この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。 |
NIV | The man went away and told the Jews that it was Jesus who had made him well. |
註解: かく告ぐることによってユダヤ人らがイエスを迫害するならんとは毫 も考えなかったのであろう。彼がユダヤ人にこのことを告げたのは12節の問に対する答に過ぎない(M0)。その中にある学者が唱うるごとく或はイエスを陥れんとする悪意、或はユダヤ人の司たちに対する服従、或はイエスに対する感恩の念等があったものと強いて想像する必要がない。
5章16節 ここにユダヤ
口語訳 | そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。 |
塚本訳 | このためユダヤ人は、イエスを迫害しはじめた。安息日にたびたびそんなことをされたからである。 |
前田訳 | このためユダヤ人はイエスを迫害しはじめた。彼が安息日にこのようなことをされたからである。 |
新共同 | そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。 |
NIV | So, because Jesus was doing these things on the Sabbath, the Jews persecuted him. |
註解: 癒されし人に対しては床を取りあげて歩みしことが律法違反なりと責め、イエスに対しては彼を癒し給えることに対してこれを責める。ユダヤ人らの目には律法の形式のみが重要であって、その精神は見えなかった。いわんや神の御旨のごときは彼らこれを見るの明がなかった。かかる形式一点張りの道徳主義者は今日もなお多くこれを見受ける。彼らにとってはこの形式に違反することが罪であって、たといその心において彼ら以上に義しくとも彼らはこの形式を守らざるの故をもってこれを責める。
5章17節 イエス
口語訳 | そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。 |
塚本訳 | イエスは彼らに答えられた、「わたしの父上は、いまでもなお働いておられる。だからわたしも働く。」 |
前田訳 | 彼はいわれた、「わが父が今もなおお働きのように、わたしも働く」と。 |
新共同 | イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」 |
NIV | Jesus said to them, "My Father is always at his work to this very day, and I, too, am working." |
註解: 「わが父」であって「われらの父」ではない。神の独り子に在すイエスのみこの言を発することを得給うのである。而して父なる神は今に至るまで一日も安息なしに働き給う。ゆえにその子なるキリストもまた安息なしに働くのである。「御父は御子なしに働き給わず御子は御父なしには働き給わない」(B1)。勿論神は七日目にその創造の業を休み給うた。それ故に今日に至るまで自然界に新しき創造は行われない。唯神はその創造し給える自然を保持し、これを活動せしむるため、ならびに堕落せる人類を救わんがためには一日も休み給うことがない。而して安息日は特に神のために聖別せられし日である以上、神の御業に参加してならない理由はない。キリストが病者を癒すも、癒されし者が喜びのあまり床を取りあげて歩むのもみな神の御業に参加するのである。かつキリストは安息日以上に立ち給うた。キリストに在るものも同様に安息日によって律法的に束縛されることはない。
5章18節
口語訳 | このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。 |
塚本訳 | このためユダヤ人は、いよいよイエスを殺そうと思った。安息日を破るばかりでなく、神を自分の父と言って、自分を神と等しくされたからである。 |
前田訳 | このためユダヤ人はますますイエスを殺そうとした。安息日を破ったばかりでなく、神をおのが父といって、自らを神とひとしくされたからである。 |
新共同 | このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。 |
NIV | For this reason the Jews tried all the harder to kill him; not only was he breaking the Sabbath, but he was even calling God his own Father, making himself equal with God. |
註解: イエスが安息日を破れる行為も、その理由も共にユダヤ人にとっては赦すべからざる大なる冒涜であった。かくして彼らは律法を擁護して福音を拒否した。キリスト者にとってはイエスが安息日の律法以上に出でてこの律法を全うし給えることがかえって大なる福音となるのである。
5章19節 イエス
口語訳 | さて、イエスは彼らに答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。 |
塚本訳 | そのとき、イエスは彼らに答えて言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、子は父上のなさることを見て(それを真似るので)なければ、自分では何一つすることが出来ない。父上のなさるのと同じことを、子もまたするのだから。 |
前田訳 | イエスは彼らに答えていわれた、「本当にいう、子は、父がなさることを見る以外、自分からは何もできない、父がなさるのと同じことを子もまたするからである。 |
新共同 | そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。 |
NIV | Jesus gave them this answer: "I tell you the truth, the Son can do nothing by himself; he can do only what he sees his Father doing, because whatever the Father does the Son also does. |
註解: 前半は消極的方面、後半は積極的方面を示し、これによりて父と子との完全な一致を顕わしている。すなわちイエスは完全に父に服従し給い、イエスの意思は完全に父なる神の意思に一致しているのであって、従って父の為し給わざることをイエスは父を離れて彼一人にて為すことができず(行為を為す能力がないというのではなく、これを為すことが道徳的に不可能なることをいう)、また父の為し給うことは凡てこれを為し給う。この御言葉によりユダヤ人の非難せる二つの点(18節)をことごとく反駁し給うた。すなわち安息日に病者を癒すは父の為し給うことであるとの意である。
5章20節
口語訳 | なぜなら、父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう。あなたがたが、それによって不思議に思うためである。 |
塚本訳 | 父上は子を愛して、御自分でなさることをことごとく子に示されるのである。そればかりか、子がしたこれらのことよりもっと大きな業を子に示され、子がそれをすると、あなた達はびっくりするであろう。 |
前田訳 | 父は子を愛して、自らなさることすべてを子に示される。そしてそれらより大きなわざを子に示されよう、あなた方がおどろくために。 |
新共同 | 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。 |
NIV | For the Father loves the Son and shows him all he does. Yes, to your amazement he will show him even greater things than these. |
註解: イエスが「父のなし給うことを見る」こと(19節)ができるのは父が子を愛してその為す処を示し給うが故である。すなわち父と子との間は愛による人格的関係であって、父はその愛子に対しては何事も隠すことなくこれを示し給う。この愛に対してイエスは如何でかその御旨に逆らうことができようか。この愛とこれに対する完全なる服従がイエスの特徴であって、この服従は神性を否定する理由とはならず、かえってその証拠となる。
辞解
[示し給ふ] 原文「示し給えばなり」で前節の理由をいっている。
また
註解: 神は今後において今イエスが為し給える奇蹟よりもさらに大なる業を示し給うであろう。而してイエスはその示しに従ってこれを為し給うであろう。これ汝らのごとき我に敵する者がこれを見る時驚異に打たれんがためである。さらに大なる業とは21−29節に述ぶる処の事柄である(ヨハ14:12)。すなわち審判と復活である。
5章21節
口語訳 | すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与えるであろう。 |
塚本訳 | それは、父上が(心のままに)死人を生き返らせて命を与えられるように、子も自分の欲する者に命を与えるからである。 |
前田訳 | 父が死人を起こしていのちを与えるように、子も欲する人々にいのちを与える。 |
新共同 | すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。 |
NIV | For just as the Father raises the dead and gives them life, even so the Son gives life to whom he is pleased to give it. |
註解: 本節以下27節に至るの間「死にし者」とは霊的死者を意味し、これを「活かす」ことは霊的に復活することを意味する。而して28節以下においては世の終末における最後の審判と肉体の復活とを意味する(M0)。この二つの事実をヨハネはあたかも一事実なるかのごとくに記載しているのであって、従ってこの数節に解釈上の難問が生ずるに至った。しかし以上のごとく解することが最も適当であろう(ヨハ3:18註参照)。神が死人を復活せしむることは旧約聖書にしばしば記されている(申32:39。Tサム2:6。エゼ37:1-10。ダニ12:2。T列17:17−24。U列4:18−37)。これと同じく子なるキリストもまた死人を活かし給う。而して現在においては霊的の死者を永遠の生命に醒めしめ、未来においてはこれに肉体の復活を与え給う。ただし「己が欲する者」を活かし給うのであって、救いは全くキリストの御旨のみが成るのである。
辞解
[起す、活す] 「起す」egeirein は復活せしむること、横たわっているものが立上る形、「活す」zôopoiein は生命を賦与すること、この二者に差別があるのではない。
5章22節
口語訳 | 父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。 |
塚本訳 | 父上は御自分ではだれも裁かれず、裁きはすべて子におまかせになったのである。 |
前田訳 | 父はだれも裁かず、裁きはすべて子にゆずられた。 |
新共同 | また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。 |
NIV | Moreover, the Father judges no one, but has entrusted all judgment to the Son, |
註解: 前節「己が欲する者」の説明であって、キリストは濫りにその権を用い給うのではなく、審判の権を父より委ねられ給いてこれを用い給うのである。而してこの権は現在においてはヨハ3:18−21のごとき形において行われ、未来においてはこれが完成せる形において実現する。「父は誰をも裁き給わず」とは、キリストは天の上、地の下の権を凡て委ねられ給いしが故であって(マタ28:18)、死人を甦らせ、すべての敵を亡ぼして国を父なる神に付し給うまでは(Tコリ15:23−28)審判の実行者はキリストである。唯勿論父の御旨を受けてこれを行い給う。本節は一見ヨハ3:17と矛盾するごときも、3:17の救いを実行し給う当然の結果救われずして審判に至るものが生ずるのである。
5章23節 これ
口語訳 | それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をつかわされた父をも敬わない。 |
塚本訳 | これは皆の者をして、父上を敬うように子を敬わせるためである。子を敬わない者は、子を遣わされた父上をも敬わない。 |
前田訳 | これは、人が皆子を敬うこと父を敬うごとくするためである。子を敬わぬものは、彼をつかわされた父をも敬わない。 |
新共同 | すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。 |
NIV | that all may honor the Son just as they honor the Father. He who does not honor the Son does not honor the Father, who sent him. |
註解: 前節のごとく父が更生の権と審判の権とを子に与え給える目的は、父なる神に対する万人の畏敬を子にも及ぼさんがためである。ゆえに子なるキリストを敬わない者は父なる神をも敬わない大なる罪に陥っているのである。ユダヤ人らはこれを知らず、半死の病人を蘇生せしめしキリスト・イエスを殺さんとしているのである。人は一般にたとい神を敬うことを知ってもキリストを同じ神として敬うことを知らない(Tヨハ2:23)。
5章24節
口語訳 | よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。 |
塚本訳 | アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしの言葉を聞き、わたしを遣わされた方を信ずる者は、(今すでに)永遠の命を持っていて、(最後の日に)罰を受けない。その人はもはや死から命に移っているのである。 |
前田訳 | 本当にいう、わがことばを聞いて、わたしをつかわされた方を信ずるものは永遠のいのちを持ち、裁きにあわず、死からいのちへと移っている。 |
新共同 | はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 |
NIV | "I tell you the truth, whoever hears my word and believes him who sent me has eternal life and will not be condemned; he has crossed over from death to life. |
註解: 「誠にまことに」と言いてその語の重要なることに注意を引き給える後、イエスは彼を遣わし給いし神をキリストの言によりて信ずる者に関する重大なる事実を示し給う。すなわちかかる者にとりては世の終末に起るべき二つの重大事実 ─ 審判と復活 ─ がすで開始しているというのである。キリストを遣わし給える神(単なる神にあらず、この条件に注意せよ)を信ずる者は世の終末の審判において永遠の刑罰を免れ(ロマ8:1)、復活せしめられて永遠の生命を賜ること (ヨハ3:16、ヨハ6:39、40、ヨハ6:44、ヨハ6:54) は勿論であるが、それのみではなく、現在においてすでに永遠の生命を確実に所有し、かつ審判者なるキリストがその首 であれば、当然の結果審判に至らず、霊的に死する現在の状態から永遠の生命に移されているのである。而してこの生命はやがてキリストの御聲により霊体をとりて復活するのである。ヨハ3:18において不信者がすでに裁かれていると同じく、本節においては信ずる者はすでに永遠の生命を持ち審判を免れているのである。
5章25節
口語訳 | よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。 |
塚本訳 | アーメン、アーメン、わたしは言う、死人が(一人のこらず)神の子(わたし)の声を聞く時が来る、いや、今もう来ている。しかし(ただ聞くばかりでなく、ほんとうに)聞き従う者(だけ)が生きる。 |
前田訳 | 本当にいう、時が来る、もう来ている、死人が神の子の声を聞き、聞くものが生きようその時が。 |
新共同 | はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。 |
NIV | I tell you the truth, a time is coming and has now come when the dead will hear the voice of the Son of God and those who hear will live. |
註解: 「死にし人」は前節と同じく霊的に死にし人(マタ8:22。黙3:1)、「神の子の聲」はあたかも世の終末において死者を復活せしむるために号令し給うと同じく(Tテサ4:16)現在においてキリストの教訓がその声である。「きく」一般的に聞くこと。「きく人」はききてこれを信ずる人を意味する。「今すでに来れり」それ故にキリストその教えを始め給える今の時は非常に重要な時であって、この世の審判と死者の復活とがすでに始まったのである。以上のごとくヨハネは審判も永世も共にこの世においてすでに始まっている事実として記しているけれども、同時に未来においてそれが具体的に顕われることをも認めていた。28、29節がそれである。
5章26節 これ
口語訳 | それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。 |
塚本訳 | 父上は御自分で命を持っておられるように、子(たるわたし)にも命を持つことを許し、 |
前田訳 | 父が自らのうちにいのちをお持ちのように、子も自らのうちにいのちを持つようになさった。 |
新共同 | 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。 |
NIV | For as the Father has life in himself, so he has granted the Son to have life in himself. |
註解: 本節と次節は前節の理由の説明である。「みづから」生命を有つとは生命の本源であること、従って無限にその生命を有ち給うことを意味し(被造物の生命は神より分与され従って有限である。)キリストもまた神より与えられてこの生命の無限の源で在し給う。ゆえに無限にこれを人にも分与することができる(ヨハ1:4)。自ら有つことと与えられることとは矛盾せる事実のごとくであるけれども然らず、父なる神は絶対の主権をもって凡てをその子に与え給い、子は絶対の服従をもって自己の意思により凡てを神にささげ給う。ここに完全なる愛の調和がある。
辞解
[得させ] 次節と同じく原文「与え給い」である。
5章27節 また
口語訳 | そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。 |
塚本訳 | かつ、裁きをする全権を子にお授けになった。人の子である(わたしは、人間の心がわかる)からである。 |
前田訳 | そして裁きをする権威を子に与えられた。彼は人の子であるから。 |
新共同 | また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。 |
NIV | And he has given him authority to judge because he is the Son of Man. |
註解: キリストは永遠の生命の本源を有ちてこの世に来り給えるのみならず(前節)、また同時に父より審判する権を与えられ、この世において既に人を裁き給い(ヨハ3:18)、また世の終りにおいて最後の審判を行い給う。而して神が御子に審判の権を与え給える所以は、彼が人の子に在し、人間の凡ての性質を具有し給い、人間の凡ての心を知り給い、一般の人間と差別がなかったからである。この審判の権を与えられて彼は人の子たると同時に神の子に在すことの証拠がいよいよ明らかになってくるのである(ダニ7:13。使17:31。ヘブ2:5)。
辞解
[人の子なるによりて] 難解なる箇所である。他の場合と異なり「子」に冠詞を付せざる故これを「メシヤ」の意味と解することができない。ゆえに上述のごとく解した(C1)。ただし他に種々の解釈あり。また「人の子たるに因りて」は前節にも関係すると見る学者が多い。
5章28節
口語訳 | このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、 |
塚本訳 | あなた達は(子が裁くという)このことを驚くに及ばない。時が来ると、墓の中にいる者が皆子(たるわたし)の声を聞いて、 |
前田訳 | あなた方はこのことにおどろくな。時が来て、墓にあるものが皆彼の声を聞いて |
新共同 | 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、 |
NIV | "Do not be amazed at this, for a time is coming when all who are in their graves will hear his voice |
註解: 以上21節以下に述べし永遠の生命の賦与と審判につきて驚異の念を持ってはならない。さらに驚くべき事柄が起るであろう。何となれば現に生きている者が死より生命に移るのみならず、すでに肉体的に死んだものがみな復活する時が来るからである。彼らはキリストの声(Tテサ4:17)に応じて再び肉体を取って来るであろう。この復活は「みな」同時に起るのではなく、これには順序がある(Tコリ15:23。黙20:4−15)。(注意)本節および次節が世の終末の復活および審判に関するものなることを否定する人があるけれども誤っている。
5章29節
口語訳 | 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。 |
塚本訳 | (墓から)出てくるからである。すなわち、善いことをした者は(永遠の)命にはいるために復活し、悪いことをした者は(死の)罰を受けるために復活する。 |
前田訳 | 歩き出そう。善をなしたものはいのちの復活へ、悪をなしたものは裁きの復活へと向かって。 |
新共同 | 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。 |
NIV | and come out--those who have done good will rise to live, and those who have done evil will rise to be condemned. |
註解: 世の終末にはすべての人例外なしに復活する。ただし善を為しし者は復活して永遠の生命を事実的に獲得し、悪を行いし者は復活して永遠の滅亡に入る。「善」「悪」「為す」「行う」等につきてはヨハ3:20、21註参照。すなわちこの善悪は神およびキリストの眼における善悪であって、人間の標準に従う善悪ではない。ルカ18:9−14の取税人、十字架上に悔改めし強盗(ルカ23:42)、詩51篇のダビデ等みな善を為しし者であり、パリサイ人のごとく自己の道徳をもって満足する者は外見善を行うごとく見えても悪を行っているのである。
要義1 [審判と永生とについて]ヨハネ伝においてはこの二者を現世においてすでにその一部を獲得しているものとして記していることに注意すべきである。キリスト者は往々二つの極端に馳せ、一方に審判は単に現在における良心の審判であり、永世は単に現世における霊的完全なりとして将来におけるこれらを否定する者あり、他方にその正反対にこれらは単に世の終末における出来事として、現在の生活とは没交渉なるもののごとくに考えている者がある。この二者いずれも誤っているのであって、キリスト肉体となりて来り給える結果、彼を信ずる者と信ぜざる者とが現世においては既に一つは永生を獲得して死を見ざるに至り、一つは審判を受けてやがて永遠の死に入れられるのである。ゆえに現世と来世とは一つの継続せる事実である。
要義2 [神とイエスとの関係]「父の懐にいます者」なる語は最も明瞭にこの数節に展開されている。実にイエスと父なる神とは完全なる愛の調和において生き給うた。イエスは常に父と共に働き給い(17節)、父の為し給うことを見ての外は何事をも為し給わず(19節)、完全なる服従に終始し給うた。父はまたイエスを愛してそのあらゆる権力能力をイエスに与え、その生命をも彼のものとなし給うた(26、27節)。かくして父と子との完全なる一致の生涯を我らに示して我らの信仰の生涯の模範となし給うた。
註解: 以上のごとき父と子との完全なる一致の生涯をイエスはさらに諸種の方面よりの
証 を持って証明し、彼を信ぜざるユダヤ人の不信を責め給う。蓋し救いが神より出づるものである場合にはそのことに関する証明が必要であることとなるからである。
口語訳 | わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。 |
塚本訳 | わたしは自分では何一つすることが出来ない。(ただ父上から)聞いたとおりに裁く。だからわたしがする裁きは正しい。自分の考えでなく、わたしを遣わされた方の考えを行おうとするからである。 |
前田訳 | わたしは自分からは何もなしえない。わたしは聞くとおりに裁く。わが裁きは正しい。それはわが心をでなく、わたしをつかわされた方のみ心を求めるからである。 |
新共同 | わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」 |
NIV | By myself I can do nothing; I judge only as I hear, and my judgment is just, for I seek not to please myself but him who sent me. |
註解: イエスは凡てのことにおいて絶対に神の御意に服従し給うことをここに改めてこれを明示し給う。ゆえにイエスの言行を見てこれをイエス一個人の言行と見るべからず、神の為し給う言行と見るべきである。この一節を根拠として父なる神と子なる神との同一なることを否定するは誤りである(17、19節参照)。
ただ
註解: 21−29節に示せる審判も(従って更生も)みな父の御言を聞きてそのままにこれを行い給う。神とキリストとの間にはかかる絶えざる霊の交通があり神は常にその御旨を彼に啓示し給う。19節は「見る」こと本節は「聞くこと」と主題とす。行いは見ることを得、裁きは聞くことを得るからである。
わが
註解: 神の御意は常に正しい、否神の御意以外に真に正しいものはない。ゆえに明瞭なる自覚をもって常に神の御意を行い給いしイエスは、自らその行い給うこと(従ってその裁きも)正しいことを証することを得給うた。完全にかかる断定を為し得るは唯イエスのみであるけれども、我らも信仰にありて為せる行為につき幾分の度においてこの自証を為すことができる。
5章31節
口語訳 | もし、わたしが自分自身についてあかしをするならば、わたしのあかしはほんとうではない。 |
塚本訳 | (今わたしの裁きは正しいと言ったが、)もしわたしが自分で自分のことを証明するのであったら、わたしの証明は信用できない。 |
前田訳 | もし、わたしが自分について証すれば、わが証は真でない。 |
新共同 | 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。 |
NIV | "If I testify about myself, my testimony is not valid. |
註解: イエスは次節以下の証を掲示せんがために、まず仮にユダヤ人らが彼についてなせるごとく彼を普通の罪ある人間の立場に置きて考うることを許し給うた。この立場よりすれば、人が自ら自己の正しさを証してもそれは真偽不明である。すなわち真実性がない。なお申19:15参照。ギリシャ、ローマにも類似の格言あり。イエスがヨハ8:14に全く反対の言を発し給えるは、全く異なった立場より言い給うたからである。
5章32節
口語訳 | わたしについてあかしをするかたはほかにあり、そして、その人がするあかしがほんとうであることを、わたしは知っている。 |
塚本訳 | わたしのことを証明してくださるお方はほかにあるのである。そしてわたしは、わたしのことを証明されるその(方の)証明が、信用すべきであることを知っている。 |
前田訳 | わたしについて証する別の方がある。わたしは知る、わたしについてなされたその証が真であることを。 |
新共同 | わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。 |
NIV | There is another who testifies in my favor, and I know that his testimony about me is valid. |
註解: イエスは第一に30節において自らを証し給い、第二にここに32−35節においてバプテスマのヨハネの証(C2)を掲げ給う。「他にあり」とはすなわちこのヨハネのことである。イエスはヨハネの証の真なることを知り給うた。(注意)大多数の学者は「他にあり」を神と解する(A1、B1、G1、L1、M0、E0、Z0等々)。ヨハ8:18、ヨハ8:50、ヨハ8:54参照。余はこれに反し、クリソストム等少数者の説によりヨハネを指すものと解する。その理由は(1)32節後半の附加、(2)37節に父の証につき別に述べられてあること、(3)30−47にイエスは逐次にその証者を列挙し給いてその間に混乱なきこと。
口語訳 | あなたがたはヨハネのもとへ人をつかわしたが、そのとき彼は真理についてあかしをした。 |
塚本訳 | しかし(それは、あなた達が考えるように洗礼者ヨハネではない。)あなた達はヨハネに使をやり、彼は(わたしが)真理(であること)について証明したが、 |
前田訳 | あなた方はヨハネに使いをやり、彼は真について証した。 |
新共同 | あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。 |
NIV | "You have sent to John and he has testified to the truth. |
註解: ヨハ1:19註参照。▲「前に」は「遣す」なる動詞の完了形から意訳したもの。
註解: 「よし我自ら己につきて証することが真ならずともヨハネが我即ち真理につきて証せることは真であった」。すなわちユダヤ人はもしヨハネの証を信ずるならばイエスを神の子と信ずるべきであった。
5章34節
口語訳 | わたしは人からあかしを受けないが、このことを言うのは、あなたがたが救われるためである。 |
塚本訳 | わたしは人間(ヨハネ)から証明してもらう必要はない。わたしがヨハネのことを言うのは、ただあなた達が(彼の証明によりわたしを信じて)救われるためである。 |
前田訳 | わたしは人間から証を受けるのではないが、あなた方が救われるためにこれをいう。 |
新共同 | わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。 |
NIV | Not that I accept human testimony; but I mention it that you may be saved. |
註解: イエスはヨハネの証が誤っているとも無効であるとも言い給わない。ただイエスご自身は人よりの証しを受ける必要がない。自らの証にて充分である(ヨハ8:14)けれども、ユダヤ人らはヨハネを信ずるものが多かったので、それらの人の救われんためにヨハネの証をも一つの証としてここに掲げ給うたのである。
5章35節 かれは
口語訳 | ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。 |
塚本訳 | ヨハネは(光ではないが、まことの光に導く)燃えて輝く明りであった。しかしあなた達は(彼の言葉に従おうとせずに、)しばし彼の光にうち興じただけであった。 |
前田訳 | ヨハネは燃え輝く燈(ともしび)であった。あなた方はしばらくは彼の光をよろこぶ気持があった。 |
新共同 | ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。 |
NIV | John was a lamp that burned and gave light, and you chose for a time to enjoy his light. |
註解: ヨハネは光そのものではないけれども燈火として燃え輝きて世を照らした。これイエスの証のためであった。然るに汝らは唯その光の中に喜ぶのみであってイエスを信ずる信仰に至らなかった。その間に燃ゆるものは燃え尽きなければならず、ヨハネの光は暫時にして消えてしまった。かくしてユダヤ人はこの第二の証をも受けなかった。▲▲「光にありて」はヨハネの光の中に浴しての意。口語訳の「光を」は意訳で原文の意味を正確に伝えていない。
5章36節 されど
口語訳 | しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。 |
塚本訳 | わたしには、ヨハネの証明よりも有力な証明がある。父上がわたしに成しとげさせようとして賜った仕事、すなわちわたしがしている仕事そのものが、わたしが父上に遣わされたことを証明してくれるからである。 |
前田訳 | わたしにはヨハネよりも大きな証がある。父がわたしに与えて全うさせようとされたわざ、すなわちわたしがなすわざこそ、父がわたしをつかわされたことを証している。 |
新共同 | しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。 |
NIV | "I have testimony weightier than that of John. For the very work that the Father has given me to finish, and which I am doing, testifies that the Father has sent me. |
註解: 第三の証はヨハネ〔の証〕よりも大きい。すなわちイエスの為し給える御業であった。この御業は神がイエスをして完成せしめ給う救いの御業であって、神がこれまで長き期間にわたりて為し給えることの継続完了である。すなわちイエスの説教奇蹟は勿論その十字架に至るまでの凡ての業績を包含する(Z0)。この御業は神自ら為し給うのではなく、またキリスト自ら神を離れて為し給うのでもない。神がキリストにこれを与えてキリストをして成就せしめ給う業である。ゆえにイエスの御業を見るならば、イエスは父より遣わされ給えるメシヤであることを知ることができる。▲口語訳「我につきて」を脱落している。
5章37節 また
口語訳 | また、わたしをつかわされた父も、ご自分でわたしについてあかしをされた。あなたがたは、まだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない。 |
塚本訳 | その上、わたしを遣わされた父上御自身が、わたしのことを(聖書で)証明してくれるからである。(ところがあんなにはっきり書いてあるのに、)あなた達はいまだかって父上の声を聞いたことも、姿を見たこともなく、 |
前田訳 | そして、わたしをつかわされた父自らわたしについて証された。あなた方はいまだ彼の声を聞いたこともなく、彼の姿を見たこともない。 |
新共同 | また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。 |
NIV | And the Father who sent me has himself testified concerning me. You have never heard his voice nor seen his form, |
註解: 第四の証は神の直接の証である。イエスがバプテスマを受け給う時天より声あり、また御霊は鳩のごとく彼の上に降った(ヨハ1:32。マタ3:16、17)これ父の直接の証であった(C2、B1)。(注意)この証はまた旧約聖書にある神の証と解する学者も多い(C1、L1、M0、G1)。けれども余は取らない。
註解: イエスのバプテスマの際における神の声と御霊の形とはユダヤ人らが未だ見もせず聞きもしない。蓋し神は未だ見ゆべき形において聞ゆべき声をもってあらわれ給わなかった。唯もしユダヤ人らがイエスを信じさえしたならば彼らはイエスの中に神の声を聞き、神の形を見ることができたであろう。
5章38節 その
口語訳 | また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。 |
塚本訳 | また御言葉があなた達の心に留まっていない。父上の遣わされた者を信じないのがその証拠だ。 |
前田訳 | そして彼のことばはあなた方のうちにとどまっていない。彼がつかわされたその人をあなた方は信じないからである。 |
新共同 | また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。 |
NIV | nor does his word dwell in you, for you do not believe the one he sent. |
註解: ヨハネもこの神の言を証した。もしユダヤ人らの心にこの御言が止ったならば神の遣わし給いしキリストを信じたであろう。キリストを信ぜざる点より見て神の言が彼らの中に留まらないことがわかる。かくして第四の証もまたユダヤ人らにとって無効であった。
5章39節
口語訳 | あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 |
塚本訳 | あなた達は聖書(旧約)をもっていることが永遠の命を持っていることのように思って、それを研究している。ところがこの聖書は、(永遠の命である)このわたしのことを証明しているのに、 |
前田訳 | あなた方が聖書をしらべるのは、それによって永遠のいのちを得ると思うからである。しかし聖書こそわたしについて証している。 |
新共同 | あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。 |
NIV | You diligently study the Scriptures because you think that by them you possess eternal life. These are the Scriptures that testify about me, |
註解: 第五の証は聖書すなわち旧約聖書である。この聖書中の預言も歴史も教訓もみなキリストにつき証しているものであって(マタイ伝中にある「聖書の成就せんため」「聖書に応わんがため」等の語を精読せよ)、聖書によりてキリストを知るに至ることが聖書の目的である。然るにユダヤ人らは唯詳細に聖書の文字を査 べて、これにより永生を獲得せんとしているのであって、驚くべき迷であるといわなければならないぬ。
辞解
[されど] 「而して」の意(M0)。
5章40節
口語訳 | しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。 |
塚本訳 | あなた達はその命を得るためわたしの所に来ようとしない。 |
前田訳 | それなのに、あなた方はわたしのところに来ていのちを得ようとしない。 |
新共同 | それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。 |
NIV | yet you refuse to come to me to have life. |
註解: 彼ら聖書によりてキリストを発見し信仰をもって彼に来ったならば彼より永遠の生命を得ることができたであろう。しかるに我に来ること欲せずして徒 らに聖書の文言にのみ没頭して滅亡を招いている。
口語訳 | わたしは人からの誉を受けることはしない。 |
塚本訳 | (こう言うのは、自分を認めてもらいたいからではない。)わたしは人間の名誉などほしくない。 |
前田訳 | わたしは人の誉れを受けない。 |
新共同 | わたしは、人からの誉れは受けない。 |
NIV | "I do not accept praise from men, |
註解: 以上のごとくにイエスの言い給える所以は人より誉れを得んためではない、またイエスは人の誉れを受けんがために、人の目を喜ばすことを為し給わなかった。否、人よりの誉れはイエスこれを拒絶し給う(ヨハ2:24、25)。我らもまた彼にならい人の誉れを無視し人の軽蔑を無視しなければならぬ。イエスは本節以下においてユダヤ人の不信をいたく悲しみ、これを非難し給う。
口語訳 | しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。 |
塚本訳 | しかし(それをほしがる)あなた達は、心の中に神に対する愛を持たない。わたしはそれを知っている。 |
前田訳 | わたしはあなた方のことを知っている。すなわち、あなた方の中に神の愛がないことを。 |
新共同 | しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。 |
NIV | but I know you. I know that you do not have the love of God in your hearts. |
註解: イエスの憂い給う処は己が人より誉れを受けないことではなく、ユダヤ人らの心に真に神を愛する心がないことであった。この愛がないならばたといパリサイ人らに厳格なる律法遵守や、正統的教義や、聖書の知識があっても何の役にも立たない。彼らはこれによりて人より誉れを得んとしているに過ぎないからである。
5章43節
口語訳 | わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。 |
塚本訳 | (その証拠には、)わたしが父上の権威で来たのに、あなた達はわたしを受けいれず、だれかほかの人[偽救世主]が自分の権威で来れば、その人を受け入れるのである。 |
前田訳 | わたしは父のみ名によって来たのにあなた方はわたしを受けない。もし別のものがおのが名によって来れば、その人をあなた方は受けよう。 |
新共同 | わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。 |
NIV | I have come in my Father's name, and you do not accept me; but if someone else comes in his own name, you will accept him. |
註解: イエスは「我が父」すなわち神の御名によりて来り給うたけれども、己の誉れはこれを求めず、卑しき地位、栄えなき状態にその一生を終り給うた。ゆえに神を愛せず真理よりも虚偽を愛するユダヤ人は彼を信じなかった。もし「他の人」すなわち偽キリストがおのれの名によりて来り、自己の栄えを示し、ユダヤ人の肉を喜ばしめたならば、彼らはかえって彼を受けるであろう。これ神を愛せざるが故に、自己の肉の欲する処のものを受けるからである。不信仰は常に神以外のものを愛しこれを喜ぶ。ゆえに偽キリスト来ればこれによりてユダヤ人の信仰は試されるのである(申13:3)。
5章44節
口語訳 | 互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。 |
塚本訳 | 互に(この世の)名誉をやり取りして、ただひとりの神からの名誉を求めないあなた達が、どうして(わたしに対する)信仰をもつことが出来ようか。 |
前田訳 | あなた方はどうして信じえよう、あなた方は互いから誉れを受けながら、ただひとりの神からの誉れを求めないのに。 |
新共同 | 互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。 |
NIV | How can you believe if you accept praise from one another, yet make no effort to obtain the praise that comes from the only God ? |
註解: 人よりの誉れを求むることと神よりの誉れを求むることとは両立することができない。パリサイ人祭司らの不信も偽善も律法主義も形式主義もみな結局人より誉められんためである。ゆえに神の誉れを得ることができない。神の喜び給うことはその遣わし給える者を信ずることであって、神を愛せず、神を喜ばしめんとせざる彼らは信ずる能力すらない。「唯一の神よりの誉」と言いてその誉れの極めて狭く、局限せられていると同時にその価値の絶対なることを示す。
5章45節 われ
口語訳 | わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。 |
塚本訳 | (しかし)わたしが(最後の日に)あなた達を父上に訴えるなどと考えてはならない。いつも訴えている者がいる。あなた達が頼みとしているあのモーセである。 |
前田訳 | しかしわたしがあなた方を父に訴えると思うな。あなた方を訴えるのはモーセで、あなた方は彼に望みをかけて来た。 |
新共同 | わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。 |
NIV | "But do not think I will accuse you before the Father. Your accuser is Moses, on whom your hopes are set. |
註解: パリサイ人、祭司、学者等のユダヤ人らはイエスがたとい彼らの不信仰と神を愛せざることを責むるとも歯牙にかけるに足らないと思ったであろう。そしてその理由として彼らはモーセを信じており、モーセこそ彼らの味方であれば恐れるに足らないと思ったであろう。イエスはこの誤れる信念を根底より覆し、彼らが頼みとして「望みを置いている」(直訳)モーセこそかえって彼らを神に訴うる者であることを示し給うた。内容なき形式的宗教をいだいて誇る者はいずれの時代においてもこのユダヤ人のごとき運命にあるであろう。
5章46節
口語訳 | もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。 |
塚本訳 | もしもあなた達がモーセ(の言うこと)を信じたら、わたしを信じたはずである。モーセはわたしのことを書いているのだから。 |
前田訳 | もしあなた方がモーセを信じたら、わたしをも信じたろう。このわたしについて彼は書いたからである。 |
新共同 | あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。 |
NIV | If you believed Moses, you would believe me, for he wrote about me. |
5章47節 されど
口語訳 | しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。 |
塚本訳 | しかし彼の書いたものを信じないなら、どうしてこのわたしの言葉を信ずることができようか。」 |
前田訳 | もしあなた方が彼の書きものを信じなければ、どうしてわたしのことばを信じよう」。 |
新共同 | しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」 |
NIV | But since you do not believe what he wrote, how are you going to believe what I say?" |
註解: ここに新約と旧約、福音と律法との関係が明らかにせられている。もしモーセを信じたならば、モーセの記せる事柄(申18:15、出エジプト記の幕屋歴史、レビ記の祭典、犠牲等はみなキリストの型であった。Tコリ5:8、Tコリ10:4。なおヘブル書、使7章等を精読せよ)がみなキリストに関するものであること故、これをも信じたであろう。然るに彼らの心雲っているがためにこれを信ずることができなかった(Uコリ3:14)。すなわち旧約聖書全体殊にモーセの律法はキリストにおいて完成せられたのであって、キリストは律法の終りとなり給うたのである。ユダヤ人がこれを信じないのは結局彼らの信仰の柱石と考えているモーセを信じないことである。モーセを信じないならばキリストの言を信じないのは当然である。かく言いてイエスは自己に対するユダヤ人の不信を責め、彼らの足下よりその立ち居る基礎を奪い去り給うた。
要義1 [イエスに関する証について]初代弟子たちはイエスの偉大なる人格に接し、その恩寵と真理とに溢れる栄光を見た。我ら今日この生ける事実に接することができないけれども、なお四福音書を始め聖書の各部ならびに教会の歴史を通してこのイエスの人格の偉大さを偲ぶことができ、また聖霊によりて直接に活けるキリストに接することができる。この偉大なる人格の直接の証さえあれば他に何も必要がないと思うほどである。然るに神はその大なる憐憫により我らをして信ずることを得しめんがために、他に多くの証を我らに与え給うたことは感謝しなければならない。その証は註解の中にも示したるごとく、(1)キリストの自証、30−31節、(2)ヨハネの証、32−35節、(3)キリストの業の証、36節、(4)神の証、37−38節、(4)聖書の証、39節である。神は天地創造の始めより人類の救拯のために働き給い、ユダヤ人を選びてこれに荒野の生活を営ましめ、預言者を遣わして彼らの眠りを覚さしめ、最後にキリストを遣わして彼を十字架につけ給うた。この数十年の歴史と、最後に顕われしヨハネと、イエスの三年の御生涯を見て、キリストの神より遣わされし救い主に在すことの証拠がいかに豊富なるかを知ることができる。かかる豊富なる証拠をもって支えらる福音は最も確実なる福音であるというべきである。
要義2 [聖書について]聖書は、新約聖書は勿論、旧約聖書もみなキリストについて記せるものである。何となれば同じ御霊がこれを記し給うたからである。ゆえに聖書を充分に悟らざればキリストを知ることができず、聖書を基礎とせざるキリスト教は架空の教えである。唯聖書を一の文字と見、これを一の律法として学ぶ時は再び面帕 をその上に置くのであって、大なる誤りである。我らは霊をもって聖書を読み、聖書を通してキリストに至らなければならぬ。(Uコリ3:12−18およびその18節要義二参照)
要義3 [真の信仰と形式的信仰]ユダヤ人は一の立派な宗教団体としてモーセにその望みを置き、モーセの五書を始め他の旧約聖書を読み、宗教的儀式を行い、モーセによりて伝えられし律法を遵守している人々であった。然るにイエスはこのモーセがユダヤ人らを訴えるであろうと言い給いしことは、我らに対する深き教訓を与え給うたのである。もし我らの信仰が真のものでなく唯規則、制度、儀式、礼典、文字のみであったならば、我らの頼みとして望みを置くキリストが我らを訴え給うであろう。その時我らの驚きは如何ばかりであろうか。キリストの目にはユダヤの宗教団体は存在の意義を失った。唯神を愛し、聖書を信じてキリストに来る者のみ真の神の国の民であったのである。このことは今日の我らにとっても深き教訓である。