第1テサロニケ書第3章
分類
2 歴史的部分 1:2 - 3:13
2-2 パウロの熱心と愛 2:17 - 3:13
2-2-ロ テモテの派遣について 3:1 - 3:5
口語訳 | そこで、わたしたちはこれ以上耐えられなくなって、わたしたちだけがアテネに留まることに定め、 |
塚本訳 | それ故もはや我慢が出来ず、私達だけアテネに残ることに決心し、 |
前田訳 | それで、もはや堪えられなくて、われらだけアテナイにとどまることに決め、 |
新共同 | そこで、もはや我慢できず、わたしたちだけがアテネに残ることにし、 |
NIV | So when we could stand it no longer, we thought it best to be left by ourselves in Athens. |
註解: テサロニケの信徒を訪れたい熱望(Tテサ2:17、18)がしばしば妨げられたので、耐え切れない心持になった。
註解: この「我等」はパウロ一人を指すと見る説多し(A1、L2 、M0)、その故は使徒行伝によればパウロがベレヤにシラスとテモテを残してアテネに行ってから(使17:14)、彼らがコリントにあるパウロの許に帰り来る(使18:5)までは、彼らがアテネに来たことは記されていないので(使17:16)、この事実と「我等」との調和は困難であるためである。或は使17:15のパウロの命令に従い、その後二人ともアテネに来り、さらにアテネよりテモテをテサロニケに遣わしたものかもしれない。そしてその後パウロはコリントに行き、シラスは使18:5までアテネに残留し(使18:1参照)、テサロニケより帰り来れるテモテと合流してコリントに来りパウロに合したものと考えることができる。かく解すればこの「我等」はパウロとシラスを指す。
3章2節 キリストの
口語訳 | わたしたちの兄弟で、キリストの福音における神の同労者テモテをつかわした。それは、あなたがたの信仰を強め、 |
塚本訳 | 私達兄弟で、キリストの福音における神の共働者であるテモテを(君達の所に)遺った。これは(彼によって)君達をその信仰において強め、また励まし、 |
前田訳 | われらの兄弟でキリストの福音のための神の共労者テモテをつかわしました。それはあなた方を強め信仰を励まして、 |
新共同 | わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、 |
NIV | We sent Timothy, who is our brother and God's fellow worker in spreading the gospel of Christ, to strengthen and encourage you in your faith, |
註解: ここにパウロはその遣わせるテモテにつきその貴き資格を掲げている。これをもって単にパウロの習癖と見るべきではなく、テサロニケの信徒をしてテモテのことを思い起さしめ、彼が重大なる資格をもって来たことを記憶せしむるがためである。パウロが他人を紹介する場合にしばしばその特質をこれと共に掲げるのは、その場合に応じて特種の目的を有するものと考えるべきである。
辞解
[役者] diakonos は異本「同労者」synergos とあり、またこの双方を掲げるものあり、重要なる写本は「同労者」を用う。もしこれが正しとすればテモテは非常に光栄ある資格をもって称えられたこととなる。
これは
3章3節 (
口語訳 | このような患難の中にあって、動揺する者がひとりもないように励ますためであった。あなたがたの知っているとおり、わたしたちは患難に会うように定められているのである。 |
塚本訳 | (斯くして)この(大なる)患難の際に(君達の中の)誰一人も揺すぶられることの無いためである。──私達(キリストを信ずる者)が斯く運命づけられていることは、君達自身が(よく)承知しているはずだ。 |
前田訳 | だれもこの苦しみの中で動揺しないためでした。ご承知のとおり、われらはこのことへと定められています。 |
新共同 | このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。 |
NIV | so that no one would be unsettled by these trials. You know quite well that we were destined for them. |
註解: テモテを遣わせることの目的を録す、すなわち彼らの遭えるこれらの迫害に際しても堅く動かざる信仰を持続せしめ、信仰につき奨励薫陶せんがためであって、これを換言すればこれらの大なる患難に遭遇するも、その信仰やその心に動揺する者のなからんためであり、テサロニケの教会の確立のためである。
辞解
[動かす] sainô は犬が尾を振ることに用いられ、阿諂 の態度を指すと解する説があり、かく解する場合、患難に対して追従の態度に出でて信仰を失うことを意味す。ただしこの語はまた単に「動揺する」意味にも用いられる故本節の場合単純にかく解するを可とす。
註解: 直訳「我らこのことに定められたるは汝自ら知る所なり」。「我ら」はキリスト者一般を指す、キリスト者は信仰生活を送らんとする場合必ず迫害に遭う(Uテモ3:12。マタ5:10)。このことはテサロニケの信徒の知っている処である。
3章4節
口語訳 | そして、あなたがたの所にいたとき、わたしたちがやがて患難に会うことをあらかじめ言っておいたが、あなたがたの知っているように、今そのとおりになったのである。 |
塚本訳 | 何故なら、私達が患難に遭わねばならぬことは、君達と一緒にいた時分に予め話して置いたことでもあり、それが(果たして)その通りになって、君達が(今自分で経験してそれを)知ったまでであるから。── |
前田訳 | そちらにおりましたとき、われらが苦しもうことを前もって申しましたが、そうなったこともご承知のとおりです。 |
新共同 | あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました。 |
NIV | In fact, when we were with you, we kept telling you that we would be persecuted. And it turned out that way, as you well know. |
註解: キリスト者は患難に遭わなければならぬことは既にパウロがテサロニケにいた時からこれを告げていたのであった。何となればこれは偶然のことではなく、必然的運命だからである(要義参照)。然るにその後幾何 もなくして今日はもはやその言が実現し、そして汝らはそのことを知っている。すなわち当然来るべきものが来たのである。
口語訳 | そこで、わたしはこれ以上耐えられなくなって、もしや「試みる者」があなたがたを試み、そのためにわたしたちの労苦がむだになりはしないかと気づかって、あなたがたの信仰を知るために、彼をつかわしたのである。 |
塚本訳 | この故に私は最早我慢が出来ず、あるいは「試惑者」(なるサタン)が君達を試惑みて、(今日までの)私達の骨折りが(全く)無駄になるようなことがあってはと、君達の信仰(のことが心配になり、様子)を知るため君達の所に使い(としてテモテ)を遺ったのである。 |
前田訳 | それでわたくしも堪えられなくて彼をつかわしました。それは、誘惑者があなた方を試みなかったか、われらの労苦がむだにならないかが心配で、あなた方の信仰を知るためでした。 |
新共同 | そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。 |
NIV | For this reason, when I could stand it no longer, I sent to find out about your faith. I was afraid that in some way the tempter might have tempted you and our efforts might have been useless. |
註解: 第1節を再記している。従ってこれまでは括弧の中に在るごとき関係となる。現行訳に省かれてる「も亦」は、忍ぶ能わざる者がパウロのみあらざることを示す。
註解: 「試むる者」はサタンである。この場合の試みは試誘 よりも試煉と解すべきである。凡ての試煉や試誘 の背後には「試むる者」(定冠詞を有す)なるサタンが糸を操っている。そしてこの試煉に屈しまたは試誘 に負ける時、迫害を冒してなされるパウロらの伝道の労苦も空に帰してしまうこととなる。かくならざらんがために彼らの信仰状態を知り、これに適当な助けを与えさせんとてテモテを遣わしたのであった。
辞解
[恐れ] 原文になし。意訳である。むしろ「空しくならざらんため」と訳すべし。▲パウロの関心は信者の数の多少ではなく、その信仰生活の状態如何であったことは注意しなければならない。
3章6節
口語訳 | ところが今テモテが、あなたがたの所からわたしたちのもとに帰ってきて、あなたがたの信仰と愛とについて知らせ、また、あなたがたがいつもわたしたちのことを覚え、わたしたちがあなたがたに会いたく思っていると同じように、わたしたちにしきりに会いたがっているという吉報をもたらした。 |
塚本訳 | 然るに今テモテが君達の所から帰って来て、君達の信仰と愛とについて喜ばしい報告を齎し、また君達がいつも私達について善い思い出を有って居り、丁度私達が会いたいと思っているように、君達(の方で)も私達に会いたいと思い焦がれていると告げたので、 |
前田訳 | 今テモテがそちらから帰って、あなた方の信仰と愛の朗報をもたらし、われらのことをつねによくお思いで、われらがお会いしたいのと同じく、あなた方もわれらに会いたいと思っている、と伝えました。 |
新共同 | ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。 |
NIV | But Timothy has just now come to us from you and has brought good news about your faith and love. He has told us that you always have pleasant memories of us and that you long to see us, just as we also long to see you. |
註解: この書簡はテモテがコリントに帰り来れる後間もなく認 められしものであろう。彼はテサロニケの信徒の信仰と愛とに充ちている信仰状態を告げた(Tテサ1:2、3)。これはパウロらにとりて真に喜ばしき音信であった。
辞解
「今」を7節の「慰安を得たり」に関連せしめんとする説(M0)は不可。
[喜ばしき音信を聞かせ] euangelizomai は「福音を宣伝ふ」と同一の語。
註解: 本節前半がテサロニケの信徒の信仰状態、後半はパウロらに対する愛着を陳ぶ、すなわち彼らはパウロらにつきて常に善き思い出をいだき、また切に彼らに逢うことを熱望していた。この点においてパウロの心持に劣らぬものがあった。彼らの関係はまことに美わしいものである。
辞解
[懇 ろに念ひ] 「善き憶出を有ち」。
[告げ] 前半の「喜ばしき音信を聞かす」を再度訳出せるもの。
3章7節 (
口語訳 | 兄弟たちよ。それによって、わたしたちはあらゆる苦難と患難との中にありながら、あなたがたの信仰によって慰められた。 |
塚本訳 | (愛する)兄弟達よ、それ故、私達は君達の故に、あらゆる苦難と患難において君達の信仰によって慰められた。 |
前田訳 | それで、兄弟よ、われらはあらゆる困窮と苦難のうちにあなた方の信仰によって励まされました。 |
新共同 | それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。 |
NIV | Therefore, brothers, in all our distress and persecution we were encouraged about you because of your faith. |
3章8節
口語訳 | なぜなら、あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、わたしたちはいま生きることになるからである。 |
塚本訳 | (君達は私達の生命である。)君達が主に在って確く立っていれば、(私達は生きている。然り、)私達は今生きているのだ! |
前田訳 | じつに、われらが今生きているのは、あなた方が主にあって竪くお立ちなればこそです。 |
新共同 | あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。 |
NIV | For now we really live, since you are standing firm in the Lord. |
註解: 8節私訳「そは汝ら主にありて堅く立たば我ら生くるが故なり」。テサロニケの信徒の信仰状態およびパウロらに対する愛情をききて、これによりてパウロらは多くの苦難と患難を受けつつも、その中にありて慰安を得て、自己の苦難を忘れることができた。パウロらにとりてはテサロニケの信徒が堅き信仰を有っていることが彼らを元気づけ、生き心地有らしむる所以であって、然らざる場合パウロは死よりも苦しい立場に立つのであった。如何にパウロが彼らを愛し、その信仰につき心を労していたかを見ることができる。
辞解
[苦難と患難] 如何なる事実を指すやは不明であるが、使18:5−10等もその中に含まれるものと思わる。
[堅く立たば] 事実に基く仮定。勧めの心持を含む。
[生く] 「永遠の生命を受く」というごとき意味ではなく、また単に「幸福なり」というのでもない。「力に充ち、新鮮なる生命に充ること」を意味す。
3章9節
口語訳 | ほんとうに、わたしたちの神のみまえで、あなたがたのことで喜ぶ大きな喜びのために、どんな感謝を神にささげたらよいだろうか。 |
塚本訳 | まことに私達は君達に就き、君達の故に私達の神の前に喜んでいる一切の大なる喜びに対して、(一体)如何なる感謝(の祈り)を神に捧ぐることが出来ようか。 |
前田訳 | あなた方のことゆえに神のみ前によろこぶわれらの一切のよろこびについて、どんな感謝を神にささげえましょうか。 |
新共同 | わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。 |
NIV | How can we thank God enough for you in return for all the joy we have in the presence of our God because of you? |
3章10節
口語訳 | わたしたちは、あなたがたの顔を見、あなたがたの信仰の足りないところを補いたいと、日夜しきりに願っているのである。 |
塚本訳 | 私達は(もし許されれば再び)君達の顔を見、且つは君達の信仰の欠けた所を完全にしたいと、夜も昼も熱心に(神に)懇願しているのである。 |
前田訳 | われらは直接お会いしてあなた方の信仰の欠けたところを補いたいと夜昼心をこめて祈っています。 |
新共同 | 顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。 |
NIV | Night and day we pray most earnestly that we may see you again and supply what is lacking in your faith. |
註解: 10節末尾の「願ふ」は「願いつつ」で10節は文脈上9節に従属しているがその関係は論理的結合ではなく、一方に祈願を為しつつあるが、他方感謝に言葉なきことを示している。パウロはテサロニケの信徒の信仰を非常に喜んでいた。しかしこれは結局神の恩恵の賜物であるので神に感謝を献ぐべきものであるとパウロは考えた。しかもその喜びの大なるがために如何なる感謝をもって神に報ゆべきかを知らなかった。
辞解
[献ぐ] 「報ゆ」または「償う」意味の語を用う。
[神の前によろこぶ] そのよろこびのこの世的、肉的のものにあらざることを意味す。
註解: 11−13節で、パウロのテサロニケの信徒に関し祈祷を神にささげている。人間の熱愛と熱望は結局神に向けられ神に到達しなければならない。
3章11節
口語訳 | どうか、わたしたちの父なる神ご自身と、わたしたちの主イエスとが、あなたがたのところへ行く道を、わたしたちに開いて下さるように。 |
塚本訳 | 願わくは私達の父なる神彼自らと私達の主イエスが、私達のために道を備えて君達に到らしめ給わんことを。 |
前田訳 | われらの父なる神ご自身と主イエスがそちらへの道をお整えなさいますように。 |
新共同 | どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。 |
NIV | Now may our God and Father himself and our Lord Jesus clear the way for us to come to you. |
註解: パウロらの熱望だけでは足らず、またこれがためにパウロらが種々画策するだけでは足りない。結局において神の御旨が成るのであり、神の御手が加えられることが必要である。パウロはこのことを父なる神に祈っているのである。
辞解
[みづから] すなわち「彼自身」で、パウロら自身と対照して神の働きを強調していると見るべきである。これを単なる修飾と見ることは(L2)不適当である。
[導き] 道を直くすること、三人称単数の形を用いているのはユダヤ人の祈祷のギリシャ訳の形式にパウロが慣れていたためであろう(L2)。そしてこれは結局において父と子との一人格たることの感じを表明したこととなる(A1、B1)。
3章12節
口語訳 | どうか、主が、あなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを、わたしたちがあなたがたを愛する愛と同じように、増し加えて豊かにして下さるように。 |
塚本訳 | 願わくは君達相互の間においても、凡ての人に対しても、主が君達の愛を増し且つ豊かにして、君達に対する私達の愛の如くなし給わんことを。 |
前田訳 | 主があなた方の互いの愛とすべての人への愛を増してあふれさせてくださいますように。われらのあなた方への愛もまたそのように。 |
新共同 | どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。 |
NIV | May the Lord make your love increase and overflow for each other and for everyone else, just as ours does for you. |
註解: 前節において自分のことを祈ったパウロは本節以下においてはテサロニケの信徒のために祈る。その第一は彼らキリスト者同志は勿論のこと一般の人、殊に彼らに敵する者に対しても愛を増しかつ豊かにせんことであった。キリスト者にとりて何よりも大切なことは愛の増さんことである。これは如何に祈っても祈り過ぎることがない。そしてパウロは「我らが汝に対するごとく」と言いて、その愛の深さを彼らに示し、彼らもパウロらのごとくならんことを祈っている。
辞解
[我らが汝らを愛するごとく] 原文「我らが汝らに対するごとく」で、これに如何なる語句を補充すべきかにつきては種々の説あり、現行訳がパウロの心持を顕している。
3章13節 かくして
口語訳 | そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。 |
塚本訳 | かくて君達は心を強められ、私達の主イエスがその凡ての聖徒達と共に(再び)来臨り給う時、私達の父なる神の前に於てその聖潔に就て責められることなからんことを。 |
前田訳 | 主があなた方の心を堅くし、われらの主イエスが彼のすべての聖徒とご来臨のとき、父なる神のみ前に聖くとがなく立ちえますように。 |
新共同 | そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。 |
NIV | May he strengthen your hearts so that you will be blameless and holy in the presence of our God and Father when our Lord Jesus comes with all his holy ones. |
註解: 前節の愛を豊かにすることの目的。信仰を堅く保ちて主の再臨の時に、その審判の座の前に立ちて神の前に潔くして責むべき所なきものとならんためである。かくなることによりて、テサロニケ人の救いは完成せらるのである。
辞解
[凡ての聖徒と偕に] ここでの「聖徒」 hagioi は旧約聖書では天使につきて用いられている場合があり(ゼカ14:5)また当時の経外典によりばエホバの来臨の際天使と共に来ること、または天使および聖者と共に来ること等種々の思想があるので、この「聖徒」 hagioi が天使を意味するか、またはすでに眠れる聖徒を意味するかは不明である。「主がその御使いと共に来り給う」ということは当時の慣用の表顕形式であったことと(Uテサ1:7。マタ16:27。マタ25:31。マコ8:38。ルカ9:26)、およびすでに眠れる信者はキリスト再臨の時、これと共に来ることの思想が当時に存していたのを見れば(Tテサ4:16)、本節の場合この両者を併せているものと解すべきであろう(A1、B1)。パウロは単に同時において固定せる形式をそのまま用いたとしても、全然その意味を無視したはずがなく、上記のごとき心持であったと想像することができる。
要義1 [テサロニケの信徒に対するパウロの愛]この愛のまことに切なるものであることは、3:1−10によりてこれを窺い知ることができる。而してこの愛は、パウロがイエス・キリストの使徒としてテサロニケ人にイエスの福音を宣伝えし結果、彼らをイエスのものとすることができ、かくして彼らはパウロが獲得した伝道の果実であるがために、結局においてイエス・キリストの愛がそれらの人々に注がれたのであり、このイエス・キリストの愛をもってパウロもまた彼らを愛しているのであった。従ってパウロの熱愛はキリストにありて彼らに注がれており、その結果切に彼らに逢わんとする熱望となり、さらにそれが神の前にまたキリストの前に彼らを完全なるものとして立たしめんとの熱心なる祈りとして彼らのためにささげられているのである。我らはここに肉による自然の愛以上に強くしてしかも聖化せられし愛の貌を見ることができる。
要義2 [凡ては神より出づ]パウロはテサロニケの信徒のためにあらゆる労苦を厭わず、或はテモテを遣わし、或は自ら書簡を認 める等のことをなし、殊に彼らが迫害の下に立てる場合、或は慰め或は励ましてこれを力付け、彼らがパウロらを愛しこれを見んことを切望することをききて歓喜に溢れている等の事実を見る場合、パウロは凡て人間的にテサロニケの信徒に対しているようであるけれども、然らず、パウロの心中にはこれらの凡てのことにつきて唯神にのみ感謝をささげ、神にのみ祈りつつあったのであり、また唯神を喜ばせ奉らんことをのみ考えていたのであった。凡ての善は恩恵として神より出づるものである。それ故に我らは神に感謝し神に栄光を帰しなければならぬ。而して我らはこの神に仕え、神の御心を行うものである故、全力を尽くしてこれに当らなければならぬ。己はその使命に全力を尽くしつつ、凡ての感謝を神にささげ、凡ての栄光を神に帰するのが、真のキリスト者の態度である。
第1テサロニケ書第4章
分類
3 道徳的、教理的部分 4:1 - 5:24
3-1 個人関係 4:1 - 4:12
3-1-イ 聖かるべきこと 4:1 - 4:8
註解: 本節以下12節までは道徳的教訓、4:13−5:11は終末的教訓、5:12−24は一般的教訓を与えている。本書の主要部分を為す教訓的部分である。
4章1節 されば
口語訳 | 最後に、兄弟たちよ。わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。 |
塚本訳 | だから最後に、(愛する)兄弟達よ、主イエスによって願いまた勧める。神をお喜ばせするにはどう歩かねばならぬかを、(既に)私達に教えられたのだから、どうかその通りに…君達は(今)その通りに歩いているのであるが、どうかなお一層進歩してもらいたい! |
前田訳 | さらに、兄弟よ、主イエスにあってお願いしまたお勧めしたいのです。いかに歩んで神によろこばれるべきかはわれらからお聞きで、そのとおりお歩きですが、さらに完全にそうしてください。 |
新共同 | さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。 |
NIV | Finally, brothers, we instructed you how to live in order to please God, as in fact you are living. Now we ask you and urge you in the Lord Jesus to do this more and more. |
註解: パウロがテサロニケの信徒に求めまた勧めることは、彼らのこれまでパウロより学び、かつ彼ら自らも実行せるごとき、神を悦ばすべき正しき道徳的行為を、従来よりも一層豊富にせんことであった。即ちテサロニケの信徒はその信仰においても行為においても高い程度に達していたのであるが、それを一層完全にせんことであった。
辞解
[学ぶ] 伝承すること。
[進む] 豊富になること。
[主イエスによりて] 主イエスとの霊の交わりにありて。
4章2節
口語訳 | わたしたちがどういう教を主イエスによって与えたか、あなたがたはよく知っている。 |
塚本訳 | 私達が主イエスによってどんな命令を与えたか、君達は知っているのだから。 |
前田訳 | どんな指図を主イエスによってお与えしたかご承知です。 |
新共同 | わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。 |
NIV | For you know what instructions we gave you by the authority of the Lord Jesus. |
註解: 前節を確めんがために彼らの記憶を呼び起しているのである。
辞解
[イエスに頼りて] dia なる前置詞を用う、イエスに対する信仰より来れる命令である。
4章3節 それ
口語訳 | 神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、 |
塚本訳 | 然り、神の御旨は君達が潔くなること、すなわち淫行を避け、 |
前田訳 | 神のみ心はあなた方が聖くあることです。それは、不品行から遠ざかり、 |
新共同 | 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、 |
NIV | It is God's will that you should be sanctified: that you should avoid sexual immorality; |
註解: テサロニケの信徒は大体において信者の模範であったけれども(Tテサ1:7)淫行と貪慾の点においては他の異邦人キリスト者一般と同様(エペ5:3)なお殊に訓戒を要するのであった。3−8節はすなわちこれらに関する教訓である。而してパウロは淫行を避くることの根本的必要はそれが神の要求であること、すなわち神は信者の潔からんことを要求し給うことをここに教えているのである。
辞解
[つつしみ] 「遠ざけ」と訳すべき文字。
口語訳 | 各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、 |
塚本訳 | 一人一人が聖潔と尊敬とをもって自分の妻を待うことを学び、 |
前田訳 | おのおのがその体を聖く尊く保つことを知り、 |
新共同 | おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、 |
NIV | that each of you should learn to control his own body in a way that is holy and honorable, |
註解: 淫行を避けんがためには各々己が妻を有ちこれを神の賜物と考えて潔き交わりをなし、これを尊敬の心をもって取扱い、肉的なる猥 なる心情を遠ざけることが必要にしてかつ最善の途である。
辞解
[妻] 原語は「器」なる語であって、これを「身体」と解し、「得て」を「支配して」と訳する意見多し(L2、A1)。しかしながらこの解釈には種々の無理あり、むしろ現行訳のごとくこれを「妻」と訳するを可とす(A1、M0、Z0)。妻を器と呼びたる例としてTペテ3:7辞解を見よ。▲「得る」ktaomai を「支配する」と訳すことが無理であるが、口語訳もこの解釈を取り「保つ」と訳している。「器」を自分の「身体」と見ることも適当ではない。5節と対応して性的関係の神聖さを教えたのである。
4章5節
口語訳 | 神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、 |
塚本訳 | (決して)“神を知らぬ異教人”のように情慾をもって(これに対)してはならぬこと、 |
前田訳 | 神を知らぬ異教徒のように欲におぼれず、 |
新共同 | 神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。 |
NIV | not in passionate lust like the heathen, who do not know God; |
註解: 情慾を制御すべきことを知るがためには神を知ること、すなわちこれを神の支配の下に置くことが最も必要である。異邦人が情慾に関して放縦なのは情慾をも聖なる神の支配の下に置くべきことを知らないためである。
辞解
[情慾を放縦にす] 直訳「慾望の熱情」というごとき文字、慾は人間が自然に具有する神の賜物である。それ故に神によりて支配せらるべきものであり、熱情がこれを支配しはならない。
4章6節 かかる
口語訳 | また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである。 |
塚本訳 | 兄弟の権利を侵し、取り引きにおいて利を貪らぬことである。凡てこれらのことに対し、“主が仕返しをし給うお方”であることは、前に君達に言いまた証した通りだから。 |
前田訳 | 兄弟のことで干渉や侵害をしないことです。これらすべてについて主が報いをなさることは、前にもいい、かつ証明したとおりです。 |
新共同 | このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。 |
NIV | and that in this matter no one should wrong his brother or take advantage of him. The Lord will punish men for all such sins, as we have already told you and warned you. |
註解: 本節に関しては二種の全く異なる解釈があり、その一は3−5節を受けて情慾問題に関するものと見、兄弟の妻を奪うことすなわち姦淫を禁ずるの意味と解する説であり(A1、B1)、その二はこれを淫行の問題とは別に、これと並んで貪慾を戒むる意味であると解す(M0、Z0、L2)。第二説が適当なるがごとし、第二説に従えば「取引上のことにおいて兄弟を搾取しまたは掠めざらんことなり」と訳すべきである。現行訳がこの何れを採用したのであるかは訳語の上からは不明である。
辞解
[かかる事] 文法上より見るもむしろ「取引上の事において」「仕事の上にて」または「係争問題において」(L2)等と訳する方が適当である。
[欺き] huperbainô は新約聖書に唯一回用いられており、「行き過ぎる」「範囲を超す」「蹂躙 する」(Z0)等のごとき意味の語である。上記第一説を主張する学者はこれを夫婦関係の範囲を超えて兄弟を蹂躙 する意味に取り、第二説を主張する学者はこれを商売上正当なる利益の範囲を超え兄弟を搾取する意味に取る。
[掠む] pleonekteô は貪慾の心をもって奪い取ること、金銭上の意味に用うる場合多し。
註解: 淫行、貪慾等の行為は神を知らざる異邦において日常茶飯事であり、何らの恐れなくこれらが行われていた(エペ5:3−6)。それらの社会においてキリスト教の信仰に入りたる者にとりては、これらの汚穢より免れるに最も有効なる途は主の報い、すなわち神の罰を思うことである。神の御前に畏れ戦 くより外には、この汚穢より免れる途はない。このことをパウロはテサロニケのみならず他の信徒たちにも常に告げていた(ガラ5:21。エペ5:5、6。コロ3:6)。なお本節は「われらが曩 に汝らに告げまた証しごとくこれら凡てのことにつきて主は報復者に在し給うが故なり」と訳すべきである。
辞解
[これらのこと] 淫行、貪慾を指す。
4章7節
口語訳 | 神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。 |
塚本訳 | 神が私達を召し給うたのは不潔を行わせるためでなく、聖潔のためである。 |
前田訳 | 神があなた方をお招きになったのは汚れにではなく、聖さにです。 |
新共同 | 神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。 |
NIV | For God did not call us to be impure, but to live a holy life. |
註解: 「汚穢」はここでは前掲淫行、貪慾の総称と見るべきである。すなわち淫行を避け貪慾を戒むべき所以は、消極的には神の罰があるからこれを恐れるべきが故であり(6節)積極的にはそれが神のキリスト者を召し給う召命の目的だからである。すなわち単に刑罰に対する恐怖のみが聖潔の動機であってはならず、神の御旨を成すことが真の動機でなければならぬ。
辞解
「汚穢」と「清潔」につき前置詞による微妙の区別がなされているけれどもこれを訳語に示すことは至難である。
4章8節 この
口語訳 | こういうわけであるから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのである。 |
塚本訳 | かかるが故にこの戒めを軽んずる者は人を軽んずるのでなく、“君達にその”聖なる“霊を賜うた”神を軽んずるのである。 |
前田訳 | これをあなどるものは、人をでなく、あなた方に聖霊をお与えの神をあなどるのです。 |
新共同 | ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。 |
NIV | Therefore, he who rejects this instruction does not reject man but God, who gives you his Holy Spirit. |
註解: 以上のごとき教訓は当時のギリシャ文化の社会一般には行われていなかったので、単にパウロという一人の人間の思想または主義であると思ってこれを拒んではいけない。これは神を拒み神の意思に反し、その召命を空しくする所以である。而して神はキリスト者に聖霊を与え給うが故にこの神を拒むことは聖霊を拒むことであり、かかる者より聖霊は取り去られてしまう。
要義 [罪と聖霊]隠れたる罪、または一般に問題とされない種類の罪は一見その人の上に何らの悪結果をも来さないもののごとくに見える。しかしながらキリスト者の場合においては、これが世の終りにおいて神の審判に服すべき理由となるのみならず、現世においても聖霊が彼より取り去られる原因となるのである。神は己に背く者に聖霊を与え給わず、聖霊はかかる者の中に帰り給わない。それ故にこの種の罪の中に留まる者の必ず陥る結果は、その霊的無力である。
註解: 9−12節はキリスト者が同信の友および社会一般に対して如何に行動すべきかを述ぶ。
4章9節
口語訳 | 兄弟愛については、今さら書きおくる必要はない。あなたがたは、互に愛し合うように神に直接教えられており、 |
塚本訳 | 兄弟愛については(かれこれ)書く必要はあるまい。互いに相愛すべきことは君達自ら神に教えられ、 |
前田訳 | 兄弟愛についてはお書きするに及びません。ご自身お互いに愛するよう神に教えられておいでです。 |
新共同 | 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。 |
NIV | Now about brotherly love we do not need to write to you, for you yourselves have been taught by God to love each other. |
4章10節 また
口語訳 | また、事実マケドニヤ全土にいるすべての兄弟に対して、それを実行しているのだから。しかし、兄弟たちよ。あなたがたに勧める。ますます、そうしてほしい。 |
塚本訳 | しかもそれをマケドニヤ中にいる凡ての兄弟達に対して実行しているのだから。しかし(愛する)兄弟達よ、君達に勧める。なお一層(そのことにおいて)進歩し、 |
前田訳 | そしてマケドニア全体の兄弟にそれをなさっておいでです。なおお勧めしますが、さらにそうしてください。 |
新共同 | 現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています。しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます。 |
NIV | And in fact, you do love all the brothers throughout Macedonia. Yet we urge you, brothers, to do so more and more. |
註解: キリスト者の道徳の中心は愛である。ただしこのことはテサロニケの信者にはもはや書き送る必要をパウロは認めなかった。その理由の一はすでに彼らは充分このことを教えられていること、その二はこれを充分に実行していることである。第一の理由につきては「汝ら互に相愛すべきことに関しては神の教え子なればなり」(私訳)といいて、パウロが彼らに教えしことも真の意味においては神が教えたのであることを示し、第二の理由につきては「マケドニヤ全国にある凡ての兄弟を愛する」ことを掲げている。「兄弟」はキリスト者同士であり、初代の信徒はかくのごとく互に相愛したのであった。
辞解
[親しく] 「汝ら自身」。
[すべての兄弟を愛す] 原語「すべての兄弟に対してこれを行う」
されど
註解: テサロニケのキリスト者は大体において愛につき学びかつ実行していることを認めつつも、なおこれをもって満足すべきにあらざることを教えている。愛することには極限がない。
辞解
[ますます之を行ひ] 「益々充実し」で、兄弟愛に関す。
口語訳 | そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。 |
塚本訳 | また静かに生活し、自分の仕事を励み、(曩に)命じたように手ずから働くことをもって名誉とせよ。 |
前田訳 | 静かに生きることを尊び、おのがことを務め、手ずから働くこと、指図したとおりになさい。 |
新共同 | そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。 |
NIV | Make it your ambition to lead a quiet life, to mind your own business and to work with your hands, just as we told you, |
註解: 「安静」は自ら騒ぎ回り、または走り回ることの反対で、平静に市民としての日常生活を行うこと。当時の信徒の中には、入信の悦びに夢中になり、自己の職務をも忘れて騒ぎ回りし者もありしことなるべく、またキリストの再臨の近きことを教えられて日常の仕事も手につかず、焦慮の生活を為せるものもありしなるべく、これらの人々に対しパウロは安静を要求したのである。
辞解
[力 めて] philotimeomai につきてはロマ15:20辞解参照。
註解: 他人のことに濫りに干渉せず、自己の為すべき分を忠実に為すこと。狂信家は往々にして空虚なる騒ぎを演じ、また己のごとく熱狂せざる者に対して干渉するごときが多い。
註解: 労働の重要さを示す。キリスト再臨の接近せることを信ずる者は、往々にしてこの世の実生活を無意味と考え、日常の労働を軽視する、この弊害を矯正せんとするのがパウロの目的であった。
辞解
[手づから] 「手づから」とあるので手工業者がテサロニケの信徒の大部分を為すと見る説があるけれども(A1、M0)かく局限する必要なし(Z0)。以上が10節の「勧む」の内容である。
4章12節 これ
口語訳 | そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。 |
塚本訳 | これは(主を信じない)外部の人に対して(信者らしい)見苦しからぬ生活をし、また誰の厄介にもならずにすむためである。 |
前田訳 | それはあなた方が外の人々に対して折り目正しく歩み、だれにも世話にならないためです。 |
新共同 | そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。 |
NIV | so that your daily life may win the respect of outsiders and so that you will not be dependent on anybody. |
註解: 11節の諸種の勧めの目的を示す、前半は「安静にして」、「己が事を為す」ことの目的、後半は「手づから働く」ことの目的である。「外の人」は信者以外の人を指す。たとい信仰のためであるとしても狂信的態度は未信者を躓かせ、また往々にして未信者すら敢て為さざるごとき不道徳、非常識の態度を取るに至る。ゆえに「正しく行うこと」すなわち「立派な態度を取ること」が必要である。また信仰の故と称して自己の業務を疎かにする者があり、かかる者は自己の生活が困窮するようになり、自然他人に迷惑を及ぼすに至る。かかることを避くることがキリスト者にとりて必要である。
辞解
[正しく行う] 「立派に歩む」で「立派に」 euschêmonôs 「善き貌に」の意。
[乏しきことなし] 「何物をも必要とせず」であるが「何物」を「何者」と男性として解し、「何人の助けをも要せず」と訳する説もある。かく解することは誤訳ではないが、これを中性と見て現行訳のごとく解する方が適当であろう。
要義 [狂信者の弊]信仰は一方に眠れる信仰、死ねるごとき信仰となりやすいと共に、反対に他方に熱狂的信仰に陥りやすい。熱狂的信仰に陥る原因は、神が自己を支配せずして、自己の感情に支配されることにある。そしてその結果は、平凡平静なる日常生活をもって不信仰と誤認し、特別にして異常なる生活にのみ信仰生活の正しき姿があると考えるに至るものである。従って11節に示されるごとき種々の弊害を伴うに至るのであって、この事実は今日もこれをいわゆる再臨信者、聖霊派の中に見出すことができる。彼らはこれに関して充分に反省を要するであろう。
註解: 4:13-5:11はキリスト再臨の問題に関する教訓で、4:13-18は再臨前に死せる信者の運命、5:1-3は再臨の時期及び状態、5:4-11はこれに対する信者の態度を教える。
4章13節
口語訳 | 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。 |
塚本訳 | 兄弟達よ、(主に在って)眠った者のことを知っていて、希望の無い他の人々のように(徒らに)歎かないようにしてもらいたい。 |
前田訳 | 兄弟よ、眠る人々についてお知らせしたく思います。希望のない他の人々のようにお悲しみにならないためです。 |
新共同 | 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。 |
NIV | Brothers, we do not want you to be ignorant about those who fall asleep, or to grieve like the rest of men, who have no hope. |
註解: テサロニケの信徒はキリストの再臨を待望む信仰を獲ていた(Tテサ1:10)。けれどもキリストの再臨は非常に近く、自分たちの生存中に起ると確信していたので(4:17)、思いがけなく彼ら信徒の中に死者が出て、しかもキリストの再臨が未だなかったので、彼ら(死者)が果してキリストの再臨によりて、建てられる永遠の国に入ることができるや否やの不安が彼らの間に生じた。その結果彼らはその死者に対して不信者と同様に悲しんだのであった。パウロはこの問題につきて彼らを慰めんとしたのである(18節)。
辞解
[眠れる者] 「死ぬる者」の単なる婉曲話法である。それ故にこの語を根拠として、死者が眠っているのであると結論してはならない。また肉体だけが眠り、霊は醒めていると論ずる必要もない。またこの場合キリスト者としての信仰を有ちて死ねる者を指す。
[希望なき他の人] 救われて永遠の国に入るの希望なき人々、すなわち福音の信仰による復活の希望を持たざる異邦人、未信者等を指す、彼らは親しき者の死については絶望的悲しみを有つ。
4章14節
口語訳 | わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。 |
塚本訳 | 私達が信ずるようにもしイエスが死んで復活し給うたならば、神はイエスによって眠った者をも同様にイエスと共に連れ来たり給うであろうから。 |
前田訳 | イエスが亡くなって復活なさったとわれらが信じるならば、神はイエスにあって眠った人々を彼とともにお導きでしょう。 |
新共同 | イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。 |
NIV | We believe that Jesus died and rose again and so we believe that God will bring with Jesus those who have fallen asleep in him. |
註解: キリストと信徒との一体感の当然の結果としてイエスに在りて眠りに就きたる者もまたイエスと一体の関係に在る故、イエスが来り給う時は必ず共に導き連れ来り給うべきである。
辞解
前半直訳「そはもし我らイエスに死して甦り給いしことを信ぜば、同様に神は・・・・・・」となる。ただし意味は「我らはたしかにこれを信じているのであるが、そうとすれば同様に・・・・・・」となる。
口語訳 | わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。 |
塚本訳 | 然り、私達の主の御言をもってこのことを(はっきり)君達に言う(ことが出来る)──私達主の来臨(の時)まで生き残っている者は、(既に)眠った者に先立つ(て光栄に与る)ことは絶対に無い。 |
前田訳 | 主のことばによって申しますが、われら主の来臨まで生き残るものは、眠った人々に先立つことは決してありますまい。 |
新共同 | 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。 |
NIV | According to the Lord's own word, we tell you that we who are still alive, who are left till the coming of the Lord, will certainly not precede those who have fallen asleep. |
註解: 次に掲げられる言に相応するものは福音書の中に見出し得ない(マタ24:31。マタ25:1以下。ヨハ6:39以下等は当らない)。それ故に或は口伝によりパウロに伝えられしものか、またはガラ1:12かまたはTコリ11:23(辞解参照)のごとく直接に黙示をもってパウロに示されたものと見るより外にない。
註解: キリスト再臨の時に生存している信者よりも先に、すでに眠れる信者は復活する。それ故にすでに眠れる者の運命につき憂慮すべきではない。
辞解
[我らのうち] 「のうち」は原文になし、パウロは己が生存中に主の再臨があると信じていた。この点パウロの信仰に誤りがあったこととなるので、この結論を避けんがために種々の訳し方または解し方が試みられているけれども、何れも決定的ではない。現行訳「我らのうち」もその試みの一つである。パウロにとりては再臨接近の信仰が生き生きしていたので、かく言うより他に言い方がなかったのであろう。
註解: 本節および次節は前節の提言の詳説である。
4章16節 それ
口語訳 | すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、 |
塚本訳 | 何故なら、(その時)主自ら号令と御使いの頭の声と神のラッパ(の響き)と共に天から下り給うて、キリストにおいて死んだ死人がまず復活し、 |
前田訳 | 主ご自身、合図とともに、すなわち天使長の声と神のラッパによって、天からお降りでしょう。そしてキリストにある死人がまずよみがえりましょう。 |
新共同 | すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、 |
NIV | For the Lord himself will come down from heaven, with a loud command, with the voice of the archangel and with the trumpet call of God, and the dead in Christ will rise first. |
註解: キリストの天降りの時の盛んなる光景を叙す、すなわち神はキリストの天降りの号令を発し給い、御使いの長(ミカエルなりや他の御使いなりや等は素より知る限りにあらず)は眠れる聖徒を醒まさんがために声を揚げ、神のラッパが吹奏せられて目覚めたる者が召集せられ、天において大なる動員令が発せられ、かくしてキリスト自ら次に録されるごとき栄光をもって天より降り給う。ただしこれらの声が天上のみの出来事であることはTテサ5:2によりて明らかである。
辞解
後期ユダヤ教においてはメシヤの来臨に関して本節のごとき思想が行われていた。これは地上におけるメシヤの救いに対して次第に望みを失えるユダヤ人の自然の落ち行く途であった。従ってこれらの思想は旧約よりの影響(次節を見よ)もあるべく、また他民族の神話よりの影響もあるであろうが、パウロはイエスの復活によりて、それらの思想をその再臨の時の姿として受入れ得るに至ったのであった。ただしパウロはこれらの三つの声の何たるかを一々神学的に考察したものとは思われず、むしろ詩的にこれを取扱ったものと見て可ならん。なおこの三者の中第二第三は第一の内容的詳説であるとみるごときことも(M0)必要がない。
その
4章17節
口語訳 | それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。 |
塚本訳 | それから私達(その時まで)生き残っている者が主に会うため彼らと一緒に雲に乗って空中に奪い去られる。かくして私達はいつも主と共に居るのである。 |
前田訳 | 次にわれら生き残るものが彼らといっしょに雲で移され、空で主にお会いし、かくていつまでも主とともにあるでしょう。 |
新共同 | それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。 |
NIV | After that, we who are still alive and are left will be caught up together with them in the clouds to meet the Lord in the air. And so we will be with the Lord forever. |
註解: キリスト来り給う時、キリストにある死人すなわち信仰をもって死ねる人々はまず甦るのであって、決して彼らは永遠に主の再臨を迎え得ないのではない。そして次に生きて残っている信者たる我らはTコリ15:52によれば瞬間に化して霊の体となり、彼ら先に甦りたる者と共に雲のうちに取り去られるのである。そしてキリストは天より降りて地上に至る前に空中においてこれらの復活せる聖徒は彼を迎え奉るのである。かくしてキリストと一体たる彼らは、常に主と偕にいることができるようになるのである。
辞解
[雲のうち] 神は雲の中に在し給うことの思想より来れる表顕(詩104:3。詩18:11。イザ19:1)。高き稜威をあらわす。
[空中にて] 「空中に」と訳して「取り去られ」に関連せしむる説多し(M0、A1、B1)、むしろ現行訳を取る(Z0)。なおパウロはキリストの地上に来り給うこと、義者、不義者の審判等につきては触れていない。テサロニケの信徒をその悲嘆より救い得ることをもって足れりとしたのであって、ここにキリストの再臨に関する彼の思想の全貌を示さんとしたのではない。
口語訳 | だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。 |
塚本訳 | だから、これらの言をもって互いに慰め合え。 |
前田訳 | それゆえこれらのことばで互いに慰め合ってください。 |
新共同 | ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。 |
NIV | Therefore encourage each other with these words. |
註解: 以上のごときキリストの再臨の時の出来事の順序を知るならば、再臨以前に死者が生じたからとて悲嘆に暮れるべきではなく、今後一般に死者の生じたる場合の信仰的態度が決定される訳である。
要義 [キリストの空中再臨と携挙] 4:13−18の記事は我らの今日の知識と思想とに照してあまりに子供らしく、あまりに空想的であって信ずるに難き点が数々ある。雲に乗って来ること、空中の奉迎、その他凡て決して信じやすい事実ではない。殊にパウロはその生存中の主の再臨を信じ、この点明らかに彼が誤っていたとすれば、この思想全体を誤謬として放棄すべきではないかとの説が起るのは当然である。しかしながら第一に我らは神の万能を信ずるが故に、我らの常識や、経験や、科学的知識をもって理解し得られざるの故をもって絶対にそのことが起らないと定めることができない。第二にパウロの録せるこれらの思想は大体においてユダヤ的でありまた神秘的であってこれを一々具体的に解せんとするは誤りである。これを一つの美わしき詩と解し、その実現は我らの想像を超越する貌において行われるものであることを思わなければならない。第三に主の再臨はキリストの救いとその復活と、完全に聖なる新天新地と、その中に住むべき神の民とに対する要求より当然に事実として信ぜらるべきことである故、その実現の状況の記載如何に拘泥せず、その事実そのものに対する確信を持つべきである。それ故にこれらの記事を非科学的なりとし非現代的なりとし、または後期ユダヤ教の思想なりとして一擲 してはならない。あたかもキリストの初臨の預言が、必ずしも明瞭なる形において預言せられず、想像に難き種々の預言となって伝えられたのであったが、キリスト来り給いてそれらの預言の意義が分明せるごとく、キリストの再臨もまた、その実現の後において聖書の言の意義が明らかにせられるであろう。