ガラテヤ書第5章
分類
2 教理の部 1:6 - 5:12
2-4 自主と奴隷 4:21 - 5:12
2-4-ロ 信仰は人を律法(割礼)より自由にす 5:1 - 5:12
5章1節 キリストは自由を得させん爲に我らを釋き放ちたまへり。されば堅く立ちて再び奴隷の軛に繋がるな。[引照]
口語訳 | 自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。 |
塚本訳 | 自由を与えるためにキリストはわたし達を自由にされた。だからしっかり立って、二度と奴隷の軛につながれるな。 |
前田訳 | 自由へとキリストがわれらを解放されたのです。それゆえ堅く立って二度と奴隷の軛を負わないでください。 |
新共同 | この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。 |
NIV | It is for freedom that Christ has set us free. Stand firm, then, and do not let yourselves be burdened again by a yoke of slavery. |
註解: 前章末節を受けてキリストにある自由に確立することを薦め、さらに次節以下の薦奨の前提を提出している。キリストの十字架の死によりて、我らは律法(異邦人にとってはその道徳または種々の小学的規律形式)の束縛とその詛いとより解放され自由となり自主独立となった。この自由はキリストの死を必要とする重要なる賜物である。故に今さら再びユダヤ主義の律法やその他の小学に束縛され、その奴隷となってはならない。
辞解
「自由」と前節の「自主」とは同語 eleutheria 「解き放つ」はその動詞形。
5章2節 視よ、我パウロ汝らに言ふ、[引照]
口語訳 | 見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。 |
塚本訳 | 見よ、このパウロがあなた達に言う、もし割礼を受けるなら、キリストはあなた達に何の役にも立たない。 |
前田訳 | はっきりとわたしパウロが申します。割礼をお受けになるならばキリストはあなた方になんにも役だちますまい。 |
新共同 | ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。 |
NIV | Mark my words! I, Paul, tell you that if you let yourselves be circumcised, Christ will be of no value to you at all. |
註解: パウロはここに特別に読者の注意を喚起してこの注意を与えている。
辞解
[視よ] 単数で一人一人に命令する形。
[我パウロ] 使徒の権威をもってこれを言う。
もし割禮を受けば、キリストは汝らに益なし。
註解: 異邦人でありながら割礼を受け、これによりて辛うじて義とされようとするならばそれはキリストを全く無用のものとしてしまうこととなるのである。今日でも十字架の贖い以外に制度礼典などを救いの条件とする者は結局キリストを無用視し排斥している結果となる。
辞解
[益なし] 未来動詞形でキリストの贖いによりて義とせられて救われる恩恵に与ることが将来できないであろうとの意味。
5章3節 又さらに凡て割禮を受くる人に證す、かれは律法の全體を行ふべき負債あり。[引照]
口語訳 | 割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。 |
塚本訳 | 割礼を受けるすべての人にもう一度はっきり言う。その人は律法の全体を行なう義務がある。 |
前田訳 | すべて割礼を受ける人にもう一度証言しますが、その人は律法全体を行なう義務があります。 |
新共同 | 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。 |
NIV | Again I declare to every man who lets himself be circumcised that he is obligated to obey the whole law. |
註解: パウロは言う「次に私は再び繰返して単にガラテヤ人のみならず割礼を受ける凡ての人に対して証言する。そうした人は、律法によって義とされようと思う人々であり、従って律法の全体を欠ける処なく行う義務がある(ガラ3:10)。そしてこれはだれも成し遂げることができない」。そう言って割礼を受けることによって義とされようとする者の反省を促している。ここに律法と福音の絶対的対立を明らかにしているのであって、今日もこの区別を明らかにしなければ遂に福音の福音たる所以を失うに至るであろう。
辞解
[さらに] 「再び」でこれは2節の「言ふ」に対する「再び」で(L3)前回の訪問の際の言に対する「再び」(M0)ではない。
[割礼を受くる者] 異邦人にして割礼を受けず単にユダヤの宗教に賛成する者は「門の改宗者」proselytes of the gate といい、割礼を受けてユダヤ教に入った者は「義の改宗者」proselytes of righteousness と呼ばれ、前者は律法の一部を守る義務があり、後者は律法の凡てを守る義務があった。
5章4節 律法に由りて義とせら[れんと思ふ]汝らは、キリストより離れたり、恩惠より墮ちたり。[引照]
口語訳 | 律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。 |
塚本訳 | 律法によって義とされようとするあなた達は、実はキリストから離れ、恩恵から落ちているのである。 |
前田訳 | 律法によって義とされようとするあなた方はキリストと断絶し、恩恵から落ちています。 |
新共同 | 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。 |
NIV | You who are trying to be justified by law have been alienated from Christ; you have fallen away from grace. |
註解: 律法によって義とされることとキリストの恩恵により信仰によって義とされることとは全く相容れない対立関係に立っている。前者は自己の義の上に立ち、後者はキリストの贖いの上に立つ、人もし律法により自己の義の上に立とうとするならばもはやキリストとは無関係であり、恩恵の世界、救いの世界から堕落して滅亡の世界に落ち込んでいるのである。パウロのごとく徹底的に律法の凡てを遵守し、これによりて義とせられんとする者はこの苦痛を味わうことができる。行為と信仰とが対立して相容れないという意味ではなく、行為によりて義とせられんとすることと信仰によりて義とせられんとすることとが相容れなのである。この点においてカトリック教会は勿論今日は多くのプロテスタント教会も恩恵と唱えて実は恩恵を排斥し恩恵から堕ちている。
辞解
[義とせられんと思ふ] 原語「義とされる」で、意味は「自分で義とされると思っていること」。
5章5節 我らは御靈により、信仰によりて希望をいだき、義とせらるることを待てるなり。[引照]
口語訳 | わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。 |
塚本訳 | (キリストを信ずる)わたし達は、御霊によって、信仰により、(最後の日に)義とされる希望をもって待っているからである。 |
前田訳 | われらは信仰による霊によって義とされることを待望しています。 |
新共同 | わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。 |
NIV | But by faith we eagerly await through the Spirit the righteousness for which we hope. |
註解: 適訳にあらず。直訳すれば「そは我らは御霊により信仰に由りて義の望みを待てばなり」となる。我らは肉によらずして御霊に導かれ、律法の行為によらずして信仰によりて、「義の希望」すなわち我らの望みなる義の世界(Uペテ3:13)を待っている。前節のごとく「汝らは」キリストより離れて滅亡に入り、「我ら」は義とせられて我らの望む処のもの、すなわち義を完全に与えられるに至るであろう、我らはこれを待ち望んでいるのである。
辞解
[義の希望] elpis dikaiosunês は(1)正義が要求する処の希望、(2)正義(すなわち義とせられんこと)を望む希望、(3)義の希望すなわち希望せられたる正義の状態、正義の国など種々に解することができる。改訳は(2)を取り(A1、M0)、予は(3)を取った(Z0)。
[待つ] apekdechomai は未来の希望に関して用いられる場合が多い。(ロマ8:19、ロマ8:23、ロマ8:25。Tコリ1:7。ピリ3:20)この点より見るも(3)が適当であろう。
5章6節 キリスト・イエスに在りては、割禮を受くるも割禮を受けぬも益なく、ただ愛に由りてはたらく信仰のみ益あり。[引照]
口語訳 | キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。 |
塚本訳 | キリスト・イエスを信ずる者においては、割礼があるのも、割礼がないのも、なんの価値もない。ただ信仰(、信仰だけ)が愛によって働くのだから。 |
前田訳 | キリスト・イエスにあって価値があるのは、割礼でも無割礼でもなく、愛によって働く信仰です。 |
新共同 | キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。 |
NIV | For in Christ Jesus neither circumcision nor uncircumcision has any value. The only thing that counts is faith expressing itself through love. |
註解: イエス・キリストに在る者にとりては割礼を受けるごとき形式的のことは何の役にも立たない。さらばといって反対に割礼を受けないということも敢て誇るべき理由とはならない。要するにこれらの形式的の事柄はキリストに在る者すなわちキリスト者にとりて第二義以下の問題である。唯必要なことは信仰であってしかも愛によりて働く活ける信仰である。キリストを信ずる信仰は活きて働く信仰でなければならない。そうして信仰が働く時は愛をもってすることを要する。義とされる信仰はかかる信仰であってヤコブのいわゆる「死ぬる信仰」ではない。また本節の愛はカトリック教会の解釈のごとく義とされる一要件として信仰と相並立または相補足すべきものではなく、または信仰を起す原因でもない。(なおヤコ2:14−26註および要義参照)なお前節と本節においてパウロが信望愛の鼎足的真理を述べていることに注意せよ。
5章7節 なんぢら前には善く走りたるに、誰が汝らの眞理に從ふを阻みしか。[引照]
口語訳 | あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか。 |
塚本訳 | あなた達は(あんなに)よく走り出したのに、だれが邪魔をして真理に従わせなかったのか。 |
前田訳 | お働きはりっぱでした。だれがあなた方の邪魔をして真理に従わないようにしたのですか。 |
新共同 | あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。 |
NIV | You were running a good race. Who cut in on you and kept you from obeying the truth? |
註解: ガラテヤの信徒はその信仰の生涯において立派に振舞っていた。今に至って恩恵により信仰によりて義とされる真理に従うことを何人が妨害するのであるか、かくいいてパウロはガラテヤ人の始めの信仰の熱心を回顧して彼らを迷わす偽教師らに対する満腔の憤懣を吐いている。
辞解
[走る] パウロは競技用語をよく信仰の生涯に応用している(ガラ2:2引照を見よ)。
5章8節 かかる勸は汝らを召したまふ者より出づるにあらず。[引照]
口語訳 | そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから出たものではない。 |
塚本訳 | (真理に従わせなかった)あの忠告は、あなた達を召されたお方[神]から(出たの)ではない。 |
前田訳 | そんな説得はあなた方をお召しの方からのものではありません。 |
新共同 | このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。 |
NIV | That kind of persuasion does not come from the one who calls you. |
註解: 前節の真理に従わざらしめんとする説得「勧め」はたといいかに美わしく見え、道理あるごとくであっても決して神から出たものではなく、神の恩恵を理解せずキリストより離れ、神より離れし人の利己心や党派心から出て来るものである。
辞解
[勸] peismonê は前節に「従う」と訳せし peithô と同源語で、(1)他人を説服すること(M0)、(2)自分が説服されること(L3)の二義を有する。本節の場合(1)を可とする。すなわち偽教師らのガラテヤ人に対して行う口説きというごとき意。
5章9節 少しのパン種は粉の團塊をみな膨れしむ。[引照]
口語訳 | 少しのパン種でも、粉のかたまり全体をふくらませる。 |
塚本訳 | (注意せよ。)すこしのパン種が捏粉全体を醗酵させる。 |
前田訳 | 少しのパン種がねり粉全体をふくらします。 |
新共同 | わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。 |
NIV | "A little yeast works through the whole batch of dough." |
註解: Tコリ5:6註参照、聖書を通じてパン種は悪の表徴である。この場合偽教師を指すか、その教えを指すかにつきて二説あり。この二者のいずれか一方に決定して他を排するの必要はない。いずれにしてもその教師の数は少なくその教の勢力は目下のところ微弱であっても、悪の力は恐るべき伝播力を有し、いつの間にか全団塊にその影響を及ぼすものゆえに警戒を要する。
5章10節 われ汝らに就きては、その聊かも異念を懷かぬことを主によりて信ず。されど汝らを擾す者は、誰にもあれ審判を受けん。[引照]
口語訳 | あなたがたはいささかもわたしと違った思いをいだくことはないと、主にあって信頼している。しかし、あなたがたを動揺させている者は、それがだれであろうと、さばきを受けるであろう。 |
塚本訳 | わたしは(もちろん)主にあってあなた達を信用している、あなた達がなんら(わたしと)ちがった考えを持っていないことを。しかしあなた達を騒がせる者は、それがだれであろうとも、(神の)裁きを受ける。 |
前田訳 | わたしは主にあってあなた方を信頼します。あなた方のお考えは別のものにはなりますまい。あなた方を乱すものは、それがだれにせよ、裁きを受けましょう。 |
新共同 | あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。 |
NIV | I am confident in the Lord that you will take no other view. The one who is throwing you into confusion will pay the penalty, whoever he may be. |
註解: パウロはガラテヤの人々がこの書簡を読むならばパウロと同じ考えを持つに至るであろうことを疑わなかった。唯彼らの純真なる信仰を擾す偽教師らは神の審判を免れることができない。たとい彼らはペテロであろうがエルサレムの母教会員であろうが、主イエスを直接に拝した人々であろうがそんなことは問題ではない。
辞解
[異念を懐かぬ] 未来動詞でこの書簡を読む場合のガラテヤ人の心持を指す。
[信ず] peithô で7節の「従う」と同語、以前より信じ来って今に至るとの意、何々に相違なしと思うこと。
[受けん] 「負うであろう」で神の審判を重荷のごとく荷負わされること。
5章11節 兄弟よ、我もし今も割禮を宣傳へば、何ぞなほ迫害せられんや。もし然せば十字架の顚躓も止みしならん。[引照]
口語訳 | 兄弟たちよ。わたしがもし今でも割礼を宣べ伝えていたら、どうして、いまなお迫害されるはずがあろうか。そうしていたら、十字架のつまずきは、なくなっているであろう。 |
塚本訳 | 兄弟たちよ、(わたしが割礼を説いていると悪口を言う者があるとか。冗談も休み休みにせよ。)わたしが(今も)なお割礼(の必要)を説いているならば、なんでなおも(こんなに)迫害されようか。それこそ十字架の(福音に対するユダヤ人の)躓きも、なくなったであろう。 |
前田訳 | 兄弟よ、もしわたしが相変わらず割礼をのべ伝えているなら、なぜ今も迫害されるものですか。いずれにせよ、十字架のつまずきはなくなるでしょう。 |
新共同 | 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。 |
NIV | Brothers, if I am still preaching circumcision, why am I still being persecuted? In that case the offense of the cross has been abolished. |
註解: 偽教師らは迫害をも受けず、十字架の顚躓もなくいかにも正しき教理を教えるもののごとくに振舞い、これに反しパウロは迫害を受け、その十字架の福音には多くの人が躓く、パウロは何も自ら好んでかかる運命に自己を置いたのではない、十字架の福音の真理を擁護しキリストの死をして空に帰せざらしめんがために無割礼を宣伝えたからである。もしパウロがキリストを見出した今もなお割礼を宣伝えているならば迫害もせられずその十字架の福音(真の福音ではないが)は多くの人を引付けたであろう。パウロが割礼に反対せるはこれらのあらゆる犠牲をもってしてもこれを為す必要があったからである。
辞解
[今も] 今なお eti はパウロが今より以前に(或は回心以前に)割礼を宣伝えたことがあったと解する説と、あるいはパウロ反対者らの中にパウロがテモテに割礼を施したることを知りて(使16:3)「パウロは今もなお割礼を宣伝う」と唱うる者があったことをパウロが引用して「もし彼らのいうごとく、実際今もなお割礼を宣伝うるならば、迫害はないはずである。迫害があるのは実際宣伝えない証拠である」と主張したものと解する説とがあり大多数の学者は後者による。予はむしろ「十字架の福音を信じ、割礼が無用に帰したる今に至ってもなお」の意味と解し、以前に割礼を宣伝えしことの有無は考慮の中に入れる必要なしと思う。
[十字架の顚躓] 十字架の福音は常に愚に見え多くの人の躓きとなる(Tコリ1:18、Tコリ1:23)。
5章12節 願はくは汝らを亂す者どもの自己を不具にせんことを。[引照]
口語訳 | あなたがたの煽動者どもは、自ら不具になるがよかろう。 |
塚本訳 | (割礼々々と言って)あなた達をひっかき回しているあの連中は、(いっそのこと)自分で切り取ったらよかろう! |
前田訳 | あなた方をそそのかすものはいっそ自らを切除したらよいでしょう。 |
新共同 | あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。 |
NIV | As for those agitators, I wish they would go the whole way and emasculate themselves! |
註解: 原文の心持は「汝らを撹乱する連中は一層のこと〔割礼位で止まらず〕その男茎を切断したらよかろうに」との意。パウロの鋭き皮肉がここに表われている。彼らは要するに無益なことに力瘤を入れているのであって、もし割礼がそれほど大切なものならば一層のことみな切ってしまったらよさそうなものではないか、というのがパウロの彼らに対する皮肉なる覚醒の警鐘である。
辞解
[乱す] anastatoô は10節の「擾す」tarassô よりも一層強き語。
[不具にする] apokoptô は「玉莖を切る」こと(申23:2)。なおこれを「教会より放逐せられんことを」「団体より除斥せられんことを」等の意味に取る人があり、かく解することも不可能にあらずとするも本節の場合は不適当である。
要義1 [信仰とは何物もこれに附加することを要せず]十字架の福音に対する信仰のみにては不完全であり、これに割礼を加うることを要すと唱えたのが偽教師らの主張であった。パウロは割礼そのものを排斥しなかったことは自らテモテに割礼を施ししことをもってこれを知ることができる(使16:3)。故に一歩進んで、もしこれを救いの一条件とするならば、彼はさらに容易に多くのユダヤ人を自説に引入れ、また迫害を免れることができたであろう。然るに彼は極力これを排斥した。その故は我らの救いは信仰のみによるのであってキリストの十字架の贖いをもって完全に成就せられ、他に何物をもこれに附加することを要しなかったのみならず、もしこれを要すとするならば十字架の贖いは結局無用に帰すると同じ結果となるからである。この一見小なるがごとくに見ゆる問題が実は福音の正邪の分岐点であった。「凡てか無か」十字架の贖いもこのいずれかでなければならない。今日も信仰のみによりて義とされることの教義の重要さを知らず、これに種々の儀式礼典制度組織行為などを附加せんとする者あるはガラテヤにおける偽教師の類に過ぎない。
要義2 [愛によりて働く信仰]信仰のみによりて義とされることは愛を無価値のものとすることではない。パウロは信望愛の三者の中、愛を最大のものとして讃美している(Tコリ13章)。ただ、もし我らが愛によりて神の前に義とされることとなるならば、我らは永遠に絶望の中にいなければならないことは確かである。故に神は別に救いの道を建て給い、これを人間に告示し給う、罪ある人間は唯これを信受するをもって足るのである。愛の大小有無は問題ではない。しかしながら信仰は愛の神に対する絶対の信頼であり、かつ活ける信仰である以上、愛の神に対する信仰はもしそれが真の信仰であるならばやがて神の愛をもって人を愛する愛となるのであって、これすなわちに愛によりて働く信仰である。かかる信仰こそ真の信仰であって人を神の前に義たらしむる処のものである。愛によりて働かない信仰は実は信仰ではない。
分類
3 行為の部 5:13 - 6:17
3-1 霊肉の戦 5:13 - 5:26
3-1-イ 愛と自由 5:13 - 5:15
5章13節 兄弟よ、汝らの召されたるは自由を與へられん爲なり。ただ其の自由を肉に從ふ機會となさず、反つて愛をもて互に事へよ。[引照]
口語訳 | 兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。 |
塚本訳 | 兄弟たちよ、あなた達は自由のために(神から)召されたのである。ただこの自由を(濫用して)肉を満足させる機会としてはならない。むしろ愛によって互に奴隷として仕えるべきである。 |
前田訳 | あなた方は自由へと召されたのです。兄弟よ、ただ、その自由を欲望へのきっかけとせず、愛によって互いにお仕えなさい。 |
新共同 | 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 |
NIV | You, my brothers, were called to be free. But do not use your freedom to indulge the sinful nature ; rather, serve one another in love. |
註解: 8節にもいえるごとく神は汝らを律法の束縛とその詛いの下に苦しませんとて汝らを召したのではない、最も喜ばしき自由を与えんためであった。ただしこの自由は霊の自由であって肉の自由ではない。ゆえに我らはこの自由をもって肉慾を恣にするの自由となすべきではない。かえってこの自由により愛をもって自己を凡ての人の奴隷とすべきである。かくして信仰による自由と愛による奉仕の奴隷的生活とが渾然として一つとなるのである。
辞解
[事ふ] 奴隷として働くというごとき文字で自由の反対である。
5章14節 [それ](そは)律法の全體は『おのれの如くなんぢの隣を愛すべし』との一言にて全うせらる[る](れば)なり。[引照]
口語訳 | 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。 |
塚本訳 | (もしあなた達がたがいに愛するならば、律法を守らずして、実は律法を完成することができる。)というのは、律法全体は一言で成就するからである、すなわち、“隣の人を自分のように愛せよ”。 |
前田訳 | 律法全体が、「隣びとを自らのごとく愛せよ」のひと言に尽きるからです。 |
新共同 | 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。 |
NIV | The entire law is summed up in a single command: "Love your neighbor as yourself." |
註解: 割礼のごときはたといこれを行っても律法の一部を全うするに過ぎない。然るにもし前節のごとく愛をもって互いに仕えるならばそれは、律法全体を全うすることとなるのである(マタ22:40。ロマ13:8、ロマ13:10)。換言すればレビ19:18より引用せるこの聖句一つによりて律法全体が全うされるが故に、割礼のごとき小事に拘泥せず、信仰による自由をもって隣人を愛すべきである。
辞解
[律法の全体] 単に隣人を愛することのみにていかにして全うされるのかとの疑問に対し、「律法の全体」をその中の道徳律、または十誡の第二の石版等に限ることによりて説明し去らんとする説があるけれども不適当である。パウロは必ずしも量的精確さをもって、本節を記したのではなく愛そのものの絶対の価値を意識しつつ上記の引用を為したのであって彼の心中には勿論神に対する愛をも含んでいたものと見るべきである。儀式その他律法の外形を破っても愛の行為さえあれば凡て全うせられしものと見ることができる。
5章15節 心せよ、若し互に咬み食はば相共に亡されん。[引照]
口語訳 | 気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。 |
塚本訳 | しかし、もし(愛をわすれて、)互にかみ合い、食い合っているならば、共倒れにならないように気をつけよ。 |
前田訳 | 互いに噛み合い、食い合うならば、ご注意なさい、互いに滅ぼしてしまいます。 |
新共同 | だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。 |
NIV | If you keep on biting and devouring each other, watch out or you will be destroyed by each other. |
註解: パウロが前二節において愛を強調せし所以は本節よりこれを悟ることができる。すなわち偽教師の侵入によりガラテヤの教会内には分離反嚙が起りつつあった。もしこの状態が悪化するならば遂には互いに喰い尽されてしまうであろう、パウロはかかる状態を免れしめんがために愛をもって互いに仕うべきことを教えたのである。
辞解
[咬み、食う] 共に野獣の行動。
[若し・・・・・・はば] 原文文法上事実を指しており「互に咬み食ふ以上は」の意。本節は「汝ら互に咬み食ふ以上は、互に喰い尽くされざるように心せよ」と訳すべきで甚だ強き警戒である。
要義 [霊の自由とその危険]律法主義、道徳主義によりて圧迫せられ、これを完うせんとして能わざる苦悩の中より、福音によりて救い出され、霊の自由を獲得せる者は、一時に自由の天地に出されし歓喜のために往々にしてその自由を肉の放縦を恣にすべき機会に悪用して無律法主義に陥るの危険がある。かくして福音を受くる以前には陥ることがなかった不道徳に陥ることが往々ある。これ自由の濫用、または自由の行き過ぎであって、我らは深くこれを慎まなければならない。そしてこれを防ぐ法は再び律法の束縛に逆戻りすることではなく、愛をもって自己を凡ての人の奴隷となし愛をもって肉を束縛することである。この束縛は悦ばしき束縛であり自由なる束縛である。
3-1-ロ 霊と肉 5:16 - 5:26
5章16節 我いふ、御靈によりて歩め、さらば肉の慾を遂げざるべし。[引照]
口語訳 | わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。 |
塚本訳 | わたしの意味はこうである。──霊によって歩け。そうすれば肉の欲を満たすことがないであろう。 |
前田訳 | わたしがいいたいのは、霊によってお歩きならば肉の欲をとげないですむということです。 |
新共同 | わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 |
NIV | So I say, live by the Spirit, and you will not gratify the desires of the sinful nature. |
註解: 信仰により律法よりの自由を獲得せる者にとりて最も必要なる注意は聖霊の導きに従って歩むことである。自由は往々にして肉の自由に変化しやすい危険があり、これを防ぐためには唯聖霊に従うの一途あるのみ。
5章17節 肉の望むところは御靈にさからひ、御靈の[望むところ]は肉にさからひて互に相戻ればなり。これ汝らの欲する所をなし[得]ざらしめん爲なり。[引照]
口語訳 | なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。 |
塚本訳 | なぜなら肉の欲するところは霊に反し、霊は肉に反する。二つは互にさからうものであって、(肉の体をもつ)あなた達は、したいと思うことを、することができないからである。 |
前田訳 | 肉は霊に逆らって欲求し、霊は肉に逆らいます。これらが互いに相争っているので、あなた方が欲することができないのです。 |
新共同 | 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。 |
NIV | For the sinful nature desires what is contrary to the Spirit, and the Spirit what is contrary to the sinful nature. They are in conflict with each other, so that you do not do what you want. |
註解: 肉は性来の人間の精神および肉体、御霊は新生せる人に宿る聖霊で、この二者が心の中にありて互いに相争っているのがキリスト者の状態である。これ我らが自己の欲するままを為すことなく、御霊に従って歩まんがためである。信仰生活は聖霊に従って歩む生活すなわち己の欲する処によらず聖霊の欲し給うままを行う生活に外ならない。
辞解
[これ汝らの・・・・・・] 「これ汝らの・・・・・・」以下を「その結果汝らの欲する処を為すこと得ず」と読み(B1、C1、L3)、肉に妨げられて霊の要求を満たすことができないこと(C1)または霊も肉も双方とも思う通りにできないこと(B1)との意味に取る説があるけれども主格は「汝ら」なる故この解釈は当らない。ゆえにパウロの言わんとする要点はこの霊と肉との戦いに際して我らの取るべき態度は「我ら」の欲する処を為すにあらずして「御霊」の欲する処を「我ら」が為すようにしなければならないことである。かく解して前節との関係が明瞭となる。
[望む] epithumeô は前節の「慾」epithumia と同源語。
5章18節 汝等もし御靈に導かれなば、律法の下にあらじ。[引照]
口語訳 | もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。 |
塚本訳 | しかしもしあなた達が霊に導かれているならば、律法の(支配の)下にはいない。 |
前田訳 | しかし、もし霊に導かれるならば、あなた方は律法の下にはいません。 |
新共同 | しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。 |
NIV | But if you are led by the Spirit, you are not under law. |
註解: 前節のごとく聖霊と肉とが互いに相対立し相争うために自己の欲する処を為し得ずとすれば、いかなる途を取るべきかというにそこに二つの途がある。その一は自己の肉を律法をもって束縛し律法をもって裁くことであり、その二は御霊に導かれることである。この二者も互いに相反しており、前者は人を詛いと奴隷の状態に置き、後者は人をして自由ならしめる。ゆえに御霊に導かれる者はもはや律法の束縛とその詛いの下に立たない。それにもかかわらずかえって律法を完うすることができる。
5章19節 それ肉の行爲はあらはなり。[引照]
口語訳 | 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、 |
塚本訳 | 肉の行いは明らかである。──それは不品行、汚れ、放蕩、 |
前田訳 | 肉の働きは明白です。それらは不義、不潔、ふしだら、 |
新共同 | 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 |
NIV | The acts of the sinful nature are obvious: sexual immorality, impurity and debauchery; |
註解: 肉の行為は外部に明瞭に表われる。これによりてその人が霊に従わず、肉に従うことを知ることができる。淫行以下十五の罪はこれを大略四種に区別することができる。パウロは勿論明瞭なる系統的排列をしたわけではない、唯彼の心理的秩序が適当の系統を生み出したのである。「行為」に複数名詞を用い、22節の「果」に単数名詞を用いている。すなわち肉の行為は一つの根本的原理より出でず、肉の諸種の慾望より出づるがゆえにその結果もまた複数を適当とし、霊の果は御霊が単数でそれより生ずる果も渾然たる一つの体系であるゆえ単数を用う。
即ち淫行・汚穢・好色・
註解: これらは第一種の罪で自己と他人とを共に傷う色欲の罪である。当時の異邦の社会においてこの種の性的罪悪は殊にこれを戒むる必要があった。
5章20節 偶像崇拜・呪術・[引照]
口語訳 | 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 |
塚本訳 | 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、激怒、我利、仲違い、党派心、 |
前田訳 | 偶像崇拝、魔術、敵意、争い、妬み、怒り、我欲、不和、分派、 |
新共同 | 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 |
NIV | idolatry and witchcraft; hatred, discord, jealousy, fits of rage, selfish ambition, dissensions, factions |
註解: 第二種の罪で神対する反逆の罪である。当時の異教国に殊にこの罪が多かった。
怨恨・紛爭・嫉妬・憤恚・徒黨・分離・異端・
5章21節 猜忌・[引照]
口語訳 | ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。 |
塚本訳 | そねみ、酩酊、酒宴等々である。前もって言ったことであるが、(今もう一度)あらかじめ言っておく、こんなことをする者は、神の国を相続することがないであろう。 |
前田訳 | そねみ、泥酔、宴楽、その他この類に似たものです。前にもいったことを今も予告します。こんなことをするものは神の国を継ぎません。 |
新共同 | ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。 |
NIV | and envy; drunkenness, orgies, and the like. I warn you, as I did before, that those who live like this will not inherit the kingdom of God. |
註解: 第三種の罪で他人に対する要念すなわち愛に反する心の表れである。この中始めの四種は心の状態をいい、後の四種はそれが表面に行動となって表われし場合を指す。
辞解
[怨恨] echthros は愛の反対の状態。
「紛爭」 eris はさらに進んで争いに立ち至れる状態。
[嫉妬] zêlos は相手方の持てるよきものを羨み己もかくのごとくにならんとを望む熱心より他人を悪む心。
[憤恚] thumoi は怒りの爆発せる形、かくして「徒党」を結び、遂に団体生活より「分離」し、進んで「異端」として一派を形成し、遂に「猜忌」心を起して他人の持てるものを奪わんとするに至る。教会生活において最も注意すべきはこの種の高慢より生ずる心の態度である。
醉酒・宴樂などの如し。
註解: 第四種類で人間が自己に対して犯す罪である。自己の肉慾を恣にせんとする者はこの罪に陥る。
我すでに警めたるごとく、今また警む。斯かることを行ふ者は神の國を嗣ぐことなし。
註解: 以上に列挙するがことき罪を行いつつ悔改めることをしないものは、たとい名はいかにキリスト者であっても神の子と称されることができず、神の国の嗣業に与ることができない。真の自由はかかる状態をいうのではない。
辞解
[行う] prassô を用い常習的に行うことを意味す。肉の弱さのために一時この種の罪に陥ることあるとも悔改むるならば神は彼を赦し給うであろう。
[すでに警む] 多分第二回訪問の時。
5章22節 されど御靈の果は[引照]
口語訳 | しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 |
塚本訳 | しかし霊の実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善良、忠実、 |
前田訳 | 霊の実は愛、よろこび、平和、寛容、親切、善意、真実、 |
新共同 | これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 |
NIV | But the fruit of the Spirit is love, joy, peace, patience, kindness, goodness, faithfulness, |
註解: 肉には行為(erga 働き)なる語を用いし所以は(19節)それが肉の一時の作用に過ぎずして何ら果を結ぶことなき故であり、御霊には果実(karpos)なる語を用いし所以はそれが御霊の働きの自然の結果であり、それからさらに発育してまた果を結ぶに至るからである。前者が複数で後者が単数なる所以については19節註参照。
愛・喜悦・平和・
註解: 愛以下九種の果を三つに区別することができる、第一種は愛(Tコリ13章)を筆頭として霊的の喜悦(Tテサ5:16)およびキリストにある平和(ヨハ14:27)であって、この三者はキリスト者としての最も根本的かつ一般的特性を示すものであり19節、20節の肉の行為の第一種および第二種とは丁度正反対の状態を示している。
寛容・仁慈・善良・忠信・
5章23節 柔和・[引照]
口語訳 | 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 |
塚本訳 | 柔和、節制である。これらのものに対しては律法は(力が)ない。 |
前田訳 | 柔和、自制です。これらに反対する律法はありません。 |
新共同 | 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 |
NIV | gentleness and self-control. Against such things there is no law. |
註解: これらは第二種の果であって他人に対する愛心の発露である。この中始めの三つは肉の行為の第三種中後の四種に対する正反対の諸徳であり、すなわち他人より受けし反対、迫害、非難、損害に対しては「寛容」をもって対してこれを赦し、反って「仁慈」の心をこれに向け、さらに進んで「善良」すなわち善行をもって彼らに対すること。而して後の二種は肉の行為の第三種中始めの四種すなわち怨恨、嫉妬、憤恚などの反対で「忠信」にして「柔和」なることである。これらが霊の結ぶ貴重なる果実である。
節制なり。
註解: これは第三種とみるべき果実で肉の行為の第四種の正反対である。
斯かるものを禁ずる律法はあらず。
註解: いかなる律法であっても聖霊の結ぶ以上のごとき美果に対して反対でありえない。故に18節のごとく御霊に導かれる者は律法の下に立つことがない、常に律法以上に超越してしかも律法に叶う生活を為すことができ、律法の束縛なく自由なる生活を送りつつ律法の要求を充たすことができる。
5章24節 キリスト・イエスに屬する者は、肉とともに其の情と慾とを十字架につけたり。[引照]
口語訳 | キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。 |
塚本訳 | キリスト・イエスのものである者は、肉と共に情熱をも欲をも十字架につけてしまった。 |
前田訳 | キリスト・イエスの人々はその肉を情と欲もろとも十字架につけたのです。 |
新共同 | キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。 |
NIV | Those who belong to Christ Jesus have crucified the sinful nature with its passions and desires. |
註解: (▲本節の訳は口語訳が正しい。)16節以下の全体の総括であり、またその根本原則である。キリスト者が御霊により歩まざるべからざる理由は、その肉が、彼らの信仰に入りし時に、すでにキリストと共に十字架につけられているのであって(ロマ6:3、ロマ6:6)我らの肉はキリストと共に原理として死んでいるのである。従って肉の作用であるその慾(受動的なる激情)もその情(能動的なる諸々の慾)も同時に十字架につけられて死んでいるからである。而してキリスト者はそれ以後はキリストその中に生き御霊によりて彼らを動かし給うのである。この原理を確保してこれを我らの上に実現しなければならない。
5章25節 もし我ら御靈に由りて生きなば、御靈に由りて歩むべし。[引照]
口語訳 | もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。 |
塚本訳 | もしわたし達が(かく)霊によって生きているのなら、また霊に従おうではないか。 |
前田訳 | われらが霊に生きるのなら、霊に歩みましょう。 |
新共同 | わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。 |
NIV | Since we live by the Spirit, let us keep in step with the Spirit. |
註解: 前節の当然の結果として「故にキリスト者は御霊により生くるなり」なる意味が省略せられて本節に連絡し本節より第一人称に変じてパウロ自身をもその中に包含せしめている。即ち御霊によりて生きることがキリスト者の原則であるならばその当然の結果として、また御霊によりて歩むべく、御霊の導きに従って行動しなければならない。然るを肉の思いに従い、世の小学に還りまたは互いに徒党を結ぶならば、それは肉によりて生きるのである。なお本節より見て御霊によりて生くることが原理であり未だ完全に事実とならざることを知る。然らざれば後半は無用のこととなるであろう。パウロは常にこの立場をとる。コロ3:1。
辞解
[歩む] stoicheô は16節の「歩む」peripateô と異なり、前者は列を作りて行進すること、後者は単に歩行することを意味する。「歩むべし」は「歩もうではないか」の意。
5章26節 互に挑み互に妬みて、虚しき譽を求むることを爲な。[引照]
口語訳 | 互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。 |
塚本訳 | たがいに挑発したり、たがいに妬んだりして、虚栄心にかられまいではないか。 |
前田訳 | いどみ合い妬み合って偉がりますまい。 |
新共同 | うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。 |
NIV | Let us not become conceited, provoking and envying each other. |
註解: 肉によりて歩むものは強ければ相手方に「挑み」かかり、弱ければ相手方を「妬み」かくして空しき誉れを求めている。偽教師らもこの類であった。ゆえにパウロは15節と相対応してここにも実際上の教訓を与え、ガラテヤの信徒をしてかかる醜き肉の党争に陥ることなきよう警戒を与えている。
辞解
[爲な] 主格は「我ら」で「為ぬようにしよう」との意。(注意)26節より新しき章が始まると見る説があるけれども(M0)然らず、むしろ13節以下の結論をガラテヤ教会の実情に適せしめたものであう。
要義1 [霊と肉との相反]肉とはいわゆる肉慾(色慾食慾等の)のみならず性来の人間に付随せる旧き人の総称であり、霊は新たに生れしキリストに就ける人の称呼である。この二者は常に相反する立場に立っておりこの二者の間に調和はありえない。肉はその情と慾と共にこれを十字架につけるより外に途なく肉そのものを潔めることはできない。霊は肉の進化または浄化せるものにあらずして天よりの新しい生命である。キリスト者はこの新しい生命を旧き肉の中に宿したものである。キリスト者の心中にはこの二者が相反して戦っている。それゆえに自己の欲することをなすならば我らは肉に従って生くる場合が多いであろう。我らは「霊によりて体の行為を殺し」(ロマ8:13)、御霊によりて生き、御霊によりて歩まなければならない。
要義2 [原理とその適用]キリスト者はキリストにより罪の奴隷たる状態より解き放たれ(ガラ5:1)、キリストと共に死に(ガラ2:20)、キリストを衣(ガラ3:27)、その肉を十字架につけ、情も慾もみなこれを十字架につけた者である(ガラ5:24)。このことは原理として本質として完全にキリスト者の上に成就している。キリスト者はすでにかかる者として取扱われ、かかる者として立つべく命ぜられている。しかしながら具体的事実としてキリスト者は未だかかる状態を完全にその身に実現していない。それゆえに「堅く立つべきこと」(ガラ5:1)、自由を濫用すべからざること(ガラ5:13)、肉の慾を遂ぐべからざること(ガラ5:16)、御霊によりて歩むべきこと(ガラ5:25)、その他の注意を与えられる必要があるのである。もしキリスト者が完全にその原則的清潔を実現しているものならば、かかる注意は不要なはずである。キリスト者が完全なる清潔に達し得るとせばそれは原理としての意味においてである。
ガラテヤ書第6章
3-2 愛の交り 6:1 - 6:10
3-2-イ 互に他人の重きを負え 6:1 - 6:5
6章1節 兄弟よ、もし人の罪を認むることあらば、御靈に感じたる者、柔和なる心をもて之を正すべし、[引照]
口語訳 | 兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。 |
塚本訳 | 兄弟たち、もし何か過ちを犯した人があったら、あなた達霊の人は、柔和な心でこんな人を正しい道に引戻さねばならない。(ただ)あなたも(一緒に)誘惑されないように、自分に注意せよ。 |
前田訳 | 兄弟よ、もしなにか過ちに陥る人があっても、あなた方は霊の人として霊による柔和さでそのような人を正してください。自らも誘惑されないようにかえりみてください。 |
新共同 | 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。 |
NIV | Brothers, if someone is caught in a sin, you who are spiritual should restore him gently. But watch yourself, or you also may be tempted. |
註解: 私訳「兄弟よ、人がもし何らかの過に捉えられているのであれば、御霊に属するあなたがたはそうした者を柔和の霊をもって矯正しなさい」。1−5節においてパウロはガラテヤの教会において過失に陥れる者ある場合いかにこれに対するべきかを教えている。兄弟の一人がその歩みの弱きために罪に追付かれ罪に陥る場合は御霊に属する者すなわち肉に従わず御霊に従って歩む人々はかかる弱き人を非難叱責することなく、御霊の特徴たる柔和の精神(ガラ5:23)をもってその過失を矯正するのがその第一の務めである。
辞解
[認むる] 「認むる」と訳されている prolambanô は逃げるより先に追付かれること。
[御霊に感じたる者] 「御霊に属する汝ら」Tコリ2:15。Tコリ3:1。
[正す] katartizô 破損しているものを修繕して完全にすること。Tコリ1:10註参照。
且[おのおの]自ら省みよ、恐らくは己も誘はるる事あらん。
註解: 他人の罪のみを注目していることは危険である。高慢、排他の心が自然にそこより生じて来る。また他人の罪を見て自分こそは決して罪に陥らないと思うことほど危険なことはない、サタンはかかる隙に乗じて我らを誘うゆえに自ら省みなければならぬ。
辞解
[省みよ] 前半の「あなたがた(口語訳))」よりの後半に単数の「自分自身(口語訳)」に変化しているのはこの反省を各人に強く印象せんがためである。
6章2節 なんぢら互に重を負へ、而してキリストの律法を全うせよ。[引照]
口語訳 | 互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。 |
塚本訳 | (互が)互の重荷を負え。そうすれば救世主の律法を成就することができる。 |
前田訳 | 互いに重荷を負ってください。それこそキリストの律法を全うすることです。 |
新共同 | 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。 |
NIV | Carry each other's burdens, and in this way you will fulfill the law of Christ. |
註解: 「而して」は「斯くして」と訳すべし。「重荷」は罪に悩む心で、基督者は愛を以って互いにこの苦悩に同情し合う事により、この重荷を分割し、罪に陥れる者の重荷を軽からしむべきである。そして斯くする事によりて基督の律法(Tコリ9:21。なおロマ3:27、ロマ8:2参照)なる愛の律法を完全に充たさなければならない。なお本節には用語上の含蓄もあり「もしモーセの律法の重荷(ルカ11:46。使15:10、使15:28)を負う位ならば御互いの重荷を負うべし、もしモーセの律法を全うせんと欲する位ならばキリストの律法を全うせよ」との意味がありガラテヤ人の陥らんとする誤謬を風刺している。
辞解
[全うす] anaplêroô は完全に凡ての欠けたる所をも充すこと。
6章3節 人もし有ること無くして自ら有りとせば、是みづから欺くなり。[引照]
口語訳 | もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。 |
塚本訳 | なぜなら、もしなんでもない人が自分を何かであるように思うならば、その人は自分をごまかしているのである。 |
前田訳 | なんでもないのにひとかどと思う人は自らをあざむいています。 |
新共同 | 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。 |
NIV | If anyone thinks he is something when he is nothing, he deceives himself. |
註解: 直訳「人もし何物にもあらずして何物かなりと思わば自ら欺くなり」。自己の無価値なることを知りて始めて他人の罪過に同情を注ぎ、自らその重荷を分担することを得る。然るに自己に何らかの価値ありと思う高ぶりに陥っている者は無慈悲に他人の罪を責むることを知ってその他を知らない。かかる者は自己欺瞞に陥っているのである。
6章4節 各自おのが行爲を驗し見よ、さらば誇るところは他にあらで、ただ己にあらん。[引照]
口語訳 | ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。 |
塚本訳 | 一人一人、自分のすることをしらべてみよ。するとその時、誇る理由は自分自身にだけあって、(決して)他人に(比較して誇るべきで)ない(ことに気づく)であろう。 |
前田訳 | めいめい自らの行ないをしらべてください。そうすれば他人に対してではなくて、もっぱら自らに対して(恩恵の)誇りを持ちえましょう。 |
新共同 | 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。 |
NIV | Each one should test his own actions. Then he can take pride in himself, without comparing himself to somebody else, |
註解: 他人が弱点を発揮して罪過に陥ったのを見てこれに比較して自己に誇ることは大なる誤りである、自分自身の行為をよく験して見るならば、他人ではなく唯自分自身に価値がある場合にのみ誇ることができるであろう。(▲すなわち自分の行為を検討するならば他人に対して誇るべき何ものもないことを知るであろう。自分だけに誇っているのは愚かなことである。)しかし実際自己の行為を験すならば何人も自己に誇るべき何物もなきことを見出すであろう。この自己検査によりて人は前節の自己欺瞞を免れることができる。
6章5節 各自おのが荷を負ふべければなり。[引照]
口語訳 | 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。 |
塚本訳 | 一人一人がそれぞれの重荷を負っているからである。 |
前田訳 | それはめいめいが自らの荷を負うべきだからです。 |
新共同 | めいめいが、自分の重荷を担うべきです。 |
NIV | for each one should carry his own load. |
註解: 他人の過失を見て自己に誇ることの誤っている所以は人はみな自己の罪の深さより生ずる良心の苦痛を持っており、自らこれを負わなければならないからである。自己の行為を験してこのことを発見することができる。
辞解
[荷] phortion はその軽重を問わず負担し得るだけの荷(船荷、手荷物等)で、従ってこれを負うことが当然のことである場合に用い、2節の「重き」barê は負い難き「重荷」を意味し、これを卸さんとする願望がこれに伴う場合に用いられる。人は自己に充分の「荷」を負うてはいるけれども他人の「重荷」を見てはこれを分担しなければならない。
要義1 [罪に陥れる者に対する態度]罪に陥りつつ悔改めざる者はこれを衆の前において責むべきである(Tテモ5:20>)、しかしながらその罪を悔いている者は重荷を負うている者故、これを愛をもって慰め、その重荷を分担すべきである。すなわちその罪のために受くべき内外の苦痛を彼と共にしなければならない。故に教会全体はその一員の罪のために苦しまなければならない。而して罪に陥りし者はその故に益々神の前に兄弟の前に懺悔の生涯を送らなければならない。
要義2 [他人の罪を見て誇るべからず]自己を省み、自己を験すことを忘れる者は他人の罪を見てこれを裁き、自らは何ら罪なきもののごとくに誇る場合が多い。しかしながらこれ大なる罪である。自ら何らの価値なきことを忘れて他を裁く者は自らも裁かれることを免れることができない。全く罪なくして我ら凡ての罪をみな負い給えるキリストを思い見るべきである。
3-2-ロ 信徒のコイノーニア 6:6 - 6:10
6章6節 御言を教へらるる人は、教ふる人と凡ての善き物を共にせよ。[引照]
口語訳 | 御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。 |
塚本訳 | けれども、御言葉を教えられている者は、善い物の分前をなんでもその教師に差上げよ。 |
前田訳 | みことばを教えられる人は教える人とよいものをすべてお分かちなさい。 |
新共同 | 御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。 |
NIV | Anyone who receives instruction in the word must share all good things with his instructor. |
註解: 2節において人が罪に陥れる場合に互いに重荷を負い合うべきことを教えしと同様、物質的の方面においても互いに善き物すなわち物質的幸福を共にすべきことを本節以下において教えている。方面を異にしているけれども愛の行為たる点においてその軌を一にしている。而して第一に為すべきことは物質的生活に重荷を負う福音の教師に対しその弟子たちはすべての物資的必要または幸福すなわち善き物を分与すべきことである。教師のみを貧困の中に置き弟子のみ安佚を貪るべきではない。教師にはこの権がある。パウロは自らこの権を用いなかったにもかかわらず、このことにつきしばしば教えている。Tコリ9:11。Uコリ11:9。ピリ4:10。Tテモ5:17、18。
辞解
[善き物] 地上の財貨を指す。ルカ1:53。ルカ12:18、19。ルカ16:25。これを「道徳的善」と解するは(M0)不適当である。
[共にせよ] koinôneô は「交わりを持つこと」Tヨハ1:3の「交り」はこれと同源語。
6章7節 自ら欺くな、神は侮るべき者にあらず、人の播く所は、その刈る所とならん。[引照]
口語訳 | まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。 |
塚本訳 | 思違いをするな、神は侮るべきではない。人は(自分で)蒔いたものを、また刈取らねばならない。 |
前田訳 | まちがわないでください。神はあなどられません。人はまくものを刈りとります。 |
新共同 | 思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。 |
NIV | Do not be deceived: God cannot be mocked. A man reaps what he sows. |
註解: 善を為さずして自ら善を為しているがごとくに考うる者は自ら欺く者である。自ら播く処のものを刈るのが当然であるにもかかわらず、そのことを思わずにあたかもかかることのなきかのごとくに生活するは神の存在を無視し、神を侮り奉っているものである。Uコリ9:6註参照。なおガラテヤ人が吝嗇(=けち:広辞苑)なりしにあらずやと想像する学者がある、Tコリ16:1(L3)。
辞解
[侮る] muktêrizô は鼻を上向けにして嘲弄する姿。
6章8節 己が肉のために播く者は肉によりて滅亡を刈りとり、御靈のために播く者は御靈によりて永遠の生命を刈りとらん。[引照]
口語訳 | すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。 |
塚本訳 | というのは、肉に蒔く者は肉から滅亡を刈取り、霊に蒔く者は(最後の日に神の)霊から永遠の命を刈取るであろう。 |
前田訳 | おのが肉にまく人は肉から滅びを刈りとり、霊にまく人は霊から永遠のいのちを刈りとります。 |
新共同 | 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。 |
NIV | The one who sows to please his sinful nature, from that nature will reap destruction; the one who sows to please the Spirit, from the Spirit will reap eternal life. |
註解: 私訳「己が肉〔の畑〕に播くものは肉より腐朽を刈りとり、御霊〔の畑〕に播く者は霊より永遠の生命を刈りとらん」。前節は種子の種類を述べ本節は畑の種類をいう(種子はそれぞれその畑と性質を同じうするものと考うべきである)。肉の畑に播くとは凡ての自己の肉の思いに支配せられ自己の肉の満足のために準備することであって、かかる者は6節におけるごとき教師と物質上の幸福を共にすることをせず、自己の肉のためにのみ労苦する。しかしながら彼らは結局永遠の生命を獲得することができず、永遠の滅亡に入るに過ぎない。然るに反対に御霊の畑に播く者、すなわち御霊に支配せられ御霊の満足し給うように準備する者は御霊の畑から永遠の生命なる立派な実を刈りとることができる。
辞解
[のために] eis は多くの学者(B1、M0、L3、Z0)により「の畑に」の意味に解せられ、かく解する方が適当である。改訳は原文の意味を伝えない。
[己が] 自己中心主義、利己主義を示し、他人と重荷を分たざる生活を示す。「御霊」に「己が」を付加しないのは御霊は己のものにあらざるが故である。
6章9節 われら善をなすに倦まざれ、もし撓まずば、時いたりて刈り取るべし。[引照]
口語訳 | わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。 |
塚本訳 | わたし達は気を落さず善いことをしようではないか。怠けずにおれば、時が来ると(かならず)刈取るのだから。 |
前田訳 | たゆまずよいことをしましょう。気を落とさねば、よいおりに刈りとりえましょう。 |
新共同 | たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。 |
NIV | Let us not become weary in doing good, for at the proper time we will reap a harvest if we do not give up. |
註解: 御霊の畑に御霊の種子を播くことは換言すれば善を為すことである。これはいかに困難でも倦むことなく力を落すことなく常に確き決心と溌剌たる元気とをもって為さなければならない。かくして収穫の時によき果を刈り取らなければならない。
辞解
[倦む、撓む] 「倦む」 enkakeô は事を為すの意思を失うこと。「撓む」ekluomai は事を為すの力を失うこと、前者は後者の原因である場合が多い。
6章10節 この故に機に隨ひて、凡ての人、殊に信仰の家族に善をおこなへ。[引照]
口語訳 | だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。 |
塚本訳 | 従って、わたし達は時のある間に、すべての人に対し、とくに信仰仲間に対して、善を行なおうではないか。 |
前田訳 | それゆえ、おりあるかぎりすべての人に、とくに信仰の同胞によいことをしましょう。 |
新共同 | ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。 |
NIV | Therefore, as we have opportunity, let us do good to all people, especially to those who belong to the family of believers. |
註解: この場合の「善を行え」も6節以下の関係より見るも、また「殊に」以下より見るも慈善的行為を励むことを意味する(Z0)。而してこの務めは機会あるごとに一般の人に対して行うべきであるけれども、社会関係に親疎の事実があるのでキリスト者としてはまず信仰を同うする同士に対して殊にこの務めを果さなければならない。かく教えてパウロは教師、全人類、キリスト者のすべてに対して善きものを共にすべき霊的共産の主義をここに教えている。
辞解
[機に隨ひて] 「機ある毎に」と訳する方が原語の語勢を伝えることができる。
[信仰の家族] 「信者同士」という意味で家とは関係がなく、神の家の家族というに同じ、エペ2:19、Tテモ3:15、Tペテ2:5。Tペテ4:17。ヘブ3:6。
要義 [愛の共産主義─愛のコイノーニヤ]聖書は政治的、法律的、経済的共産主義を教えないけれども愛の共産主義を教える。すなわち罪に陥れる人がある場合に愛によりてその罪の重荷を分担すると同じく、物質的生活において重荷を負うているものに対しても同じくこの重荷を分担することはキリスト者の愛の当然の発露である。これを慈善と称して上層階級より下層階級に対する恩恵的行為と解するは誤りである。キリスト者の為すべき当然の愛のコイノーニヤ(交わり)である。而してキリスト教会において聖徒の交わりといえば聖餐式に与ることを意味するごとにくなっているけれども、実はこれは真の交わりではなく、真の交わりすなわちコイノーニヤは愛による苦楽の分担より外にない。ここに真の聖徒の交わりがある。
3-3 再び割礼無用論 6:11 - 6:17
6章11節 視よ、われ手づから如何[に大]なる文字にて汝らに書き贈るかを。[引照]
口語訳 | ごらんなさい。わたし自身いま筆をとって、こんなに大きい字で、あなたがたに書いていることを。 |
塚本訳 | 見よ、わたしが自分の手であなた達に書くこの文字の、何と大きいことであろう! |
前田訳 | 見てください、なんと大きな文字でわたしが自筆でお書きするかを。 |
新共同 | このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。 |
NIV | See what large letters I use as I write to you with my own hand! |
註解: パウロは他の多くの書簡と異なりこの書簡は全部自分で認めたものであろう。而して彼は眼病にて視力が弱かりしためか(ガラ4:15)、または多くの迫害のために右手の動作に不自由を起していたためか、理由はは確定し得ないけれども大なる文字をもってこの書簡を認めたのであろう。殊にこの書簡はパウロの心中欝勃たる悲憤に充ちて認められたので自然文字も大きく乱暴に流れたのであろう。本節もTコリ16:21。Uテサ3:17。コロ4:18と同じく10節まで口授し11節またはその以下をパウロが手記したものと解する学者がも多いけれども(M0、L3、E0)本節はこれと異なりむしろピレ1:19と同じく全書簡に関するものと見るべきである(Z0、A1、C1、L1、B1、C2)。その故は前者の場合は全く異なれる語法を用いていることと辞解に説明するごとくパウロの用語例に反することと書簡そのものの性質とよりかく判断する方が適当なるが故である。
辞解
[大なる文字] 「長き書簡」(B1、C1、L1)または「醜き文字」(C2、Winer等)と読む説あれど、無理な読み方であり、かつ「大なる文字」にて意味上の差支えがない。
[書き贈る] egrapsa は不定過去形であるが書簡体不定過去で読者の手に入る時から見た過去であり多く用いられている。ピレ1:19、ピレ1:21。Tペテ5:12。Tヨハ2:14、Tヨハ2:21、Tヨハ2:26。Tヨハ5:21等。ただしパウロは egrapsa を後に従う文章についていった用例はない(Z0脚注参照)。
6章12節 凡そ肉において美しき外觀をなさんと欲する者は、汝らに割禮を強ふ。これ唯キリストの十字架の故によりて責められざらん爲のみ。[引照]
口語訳 | いったい、肉において見えを飾ろうとする者たちは、キリスト・イエスの十字架のゆえに、迫害を受けたくないばかりに、あなたがたにしいて割礼を受けさせようとする。 |
塚本訳 | (兄弟たち、)肉において見えを張りたい連中がみな、あなた達に割礼を強いる。(それは)ただキリストの十字架(を説くこと)によって、(ユダヤ人から)迫害されまいとするだけである。 |
前田訳 | 人間的に見えを切りたがる人々はあなた方に割礼を強いようとします。それはもっぱらキリスト・イエスの十字架ゆえに迫害されないためです。 |
新共同 | 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。 |
NIV | Those who want to make a good impression outwardly are trying to compel you to be circumcised. The only reason they do this is to avoid being persecuted for the cross of Christ. |
註解: ユダヤ人にしてキリストの十字架を信じてこれを宣伝える者も、もし割礼を異邦人に強うるならば、律法を遵守しユダヤ教に反せざるがごとくに見ゆるので迫害を免れることができた。かかる輩が割礼を宣伝えるのは人々に好感を与えこれによりてこの迫害を免れんとするに過ぎない。
辞解
[肉において] 霊的のことでなく肉的人間的方面において。
[美しき外観をなす] euprosôpeô は直訳も意味も共に日本語の俗語「良い顔をする」に相当する。内心は貪慾や虚栄心や迫害を恐れる心に充ちつつ外部のみ正義の人らしい顔をし、律法を完全に遵守するごとくに装うこと。
6章13節 そは割禮をうくる者すら自ら律法を守らず、而も汝らに割禮をうけしめんと欲するは、汝らの肉につきて誇らんが爲なり。[引照]
口語訳 | 事実、割礼のあるもの自身が律法を守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいために、割礼を受けさせようとしているのである。 |
塚本訳 | というのは、割礼を受けている彼ら自身が、律法を守らない。彼らがあなた達に割礼を受けさせたいのは、あなた達の肉において誇ろうとするのである。 |
前田訳 | 割礼ある人々自身は律法を守らず、あなた方の人間的な面で誇るために割礼したいのです。 |
新共同 | 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。 |
NIV | Not even those who are circumcised obey the law, yet they want you to be circumcised that they may boast about your flesh. |
註解: ガラテヤの教会に対する偽教師らは割礼を受けることをもってその主義としている者であるにもかかわらず、彼ら自身前節のごとき虚偽を行うことによりて律法の精神に反している。そのくせに汝らに割礼を強うるのは汝らをして肉に割礼を受けしめ、確実に選民たるユダヤ人と同じに為したことの成功を誇らんとするに過ぎない虚しき誇である。
辞解
[割礼をうくる者] 異本に「受けし者」とあり、「受くる者」とは「受くることをその常習とするもの」の意。すなわちユダヤ人を指す。
6章14節 されど我には、我らの主イエス・キリストの十字架のほかに誇る所あらざれ。之によりて世は我に對して十字架につけられたり、我が世に對するも亦然り。[引照]
口語訳 | しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。 |
塚本訳 | しかし少なくともわたしは、わたし達の主イエス・キリストの十字架以外に、誇ることがないように!この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対して、十字架につけられている。 |
前田訳 | わたしは断じてわれらの主イエス・キリストの十字架のほか誇りますまい。彼によって世はわたしに対して、わたしも世に対して十字架につけられたのです。 |
新共同 | しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。 |
NIV | May I never boast except in the cross of our Lord Jesus Christ, through which the world has been crucified to me, and I to the world. |
註解: パウロにとっては肉につける割礼のごときは全然問題ではなかった。キリストの十字架によりパウロもまたキリストと共に十字架上に死んでしまった(ガラ2:20)。それ故にかつてこの世における有望なる人であった彼は今や世に対してはもはや何の美わしさもなき死者となり、世はまた同様新生に入れられし今の彼に対しては死んだものである。彼と世とは全く別の存在となった。互いに他を詛われしものと見る。かかる偉大な事実は肉の割礼等によりてこれを得ることは夢にも思いも寄らざる点である。ゆえにパウロは唯このイエス・キリストの十字架に誇るのみでその以外に誇るべき何物をも持たなかった(ピリ3:2−8)。
辞解
[之によりて] イエスの十字架によりて。
6章15節 それ割禮を受くるも受けぬも、共に數ふるに足らず、ただ[貴きは]新に造らるる事なり。[引照]
口語訳 | 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。 |
塚本訳 | なぜなら、割礼があるのも、割礼がないのも、なんの意味もない。ただ意味があるのは、(キリストによる)新しい創造。 |
前田訳 | たいせつなのは割礼でも無割礼でもなく、ただ新しい創造です。 |
新共同 | 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。 |
NIV | Neither circumcision nor uncircumcision means anything; what counts is a new creation. |
註解: 神の前に義とせられ救われて良心の平安を得るためには信仰により聖霊によりて新たなる被造物とせられ、全然新たに生れることが必要であってその以外のことは(儀式、礼典、制度、組織、思想、学問等)その何たるかを問わず全く不必要である。それ故に割礼は有るも可無くも可、否、有無を問題とする必要すらない。ゆえに割礼を受けしことは何ら誇るに足らず、同様にこれを受けざることもまた誇るべき理由とはならない、との意。
辞解
[新に造られる事] kainê ktisis 「新たなる創造」新生せる人は旧き人の進化せるものにあらず、神により新たに造られしものである。
6章16節 此の法に循ひて歩む凡ての者の上に、神のイスラエルの上に、平安と憐憫とあれ。[引照]
口語訳 | この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。 |
塚本訳 | この規範に従うすべての人々の上に、“平安”と憐れみとあらんことを。また神の“イスラエルの上に”も。 |
前田訳 | この基準によって歩む人々の上に、また神のイスラエルの上に、平和とあわれみがありますように。 |
新共同 | このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。 |
NIV | Peace and mercy to all who follow this rule, even to the Israel of God. |
註解: この法(基準)すなわち新生がキリスト教の根本であって他の儀式、制度、伝統等は数うるに足らざることを本旨とし、これに従って行進する凡ての者の上にパウロは神よりの平安と憐憫とを祈っている。而してかかる者こそ真のイスラエル、真のアブラハムの子(ガラ3:7)、神のイスラエルであって割礼を受けたものが真のイスラエルではない。
辞解
[法] kanôn は真直な棒を意味し、これに縄をつけて或は距離を測るに用い、または大工の定規にも用う、また一定の縄張りをもカノーンという。この以外に出づべからざるものをいう、従って一定の規律、基準等の意味となる。聖書の正経をカノーンというはこの文字。
[歩む] stoicheô を用う(ガラ5:25註参照)未来形は彼らの将来を思えるパウロの語。
[神のイスラエル] 「神のイスラエル」の上にある kai は「及び」ではなくこの場合は「すなわち」と読むべきであり、「神のイスラエル」は前記のごとき意味で(M0、A1、C1、L3、E0)、キリスト者となれるユダヤ人(B1、Z0)ではない。
6章17節 今よりのち誰も我を煩はすな、我はイエスの印を身に佩[びたる](ぶる故)なり。[引照]
口語訳 | だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから。 |
塚本訳 | 今後、だれもわたしに迷惑をかけてくれるな。このわたしの体にはイエスの焼印があるのだから! |
前田訳 | これからだれもわたしをわずらわさないでください。わたしはイエスの印(いん)を体につけていますから。 |
新共同 | これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。 |
NIV | Finally, let no one cause me trouble, for I bear on my body the marks of Jesus. |
註解: パウロは極めて不快なる心持をもって本書簡を認め終りて後、かかる問題によりて煩わされることを好まざるもののごとく今後かかることを再びせざるように命じ、その理由として自己のイエスの使徒たる権威を主張し、その証拠としてイエスの僕たる印をその全身に受けていることを指している、この印とは彼が使徒としての活動において迫害のために受けし傷跡である。なおこの語の中には一種の皮肉を含むとも解し得べくすなわち全身にかくも傷を受けている以上この上に割礼の傷の問題で煩わされるは堪え難いことであるとの意と見ることができる。
辞解
[印] stigma 奴隷、兵卒、捕虜、時には神殿に仕うる奴隷等が額または手に烙印される印をいう。この場合は奴隷としての印の意味が適当する。
[佩ぶ] bastazô は「負う」で重荷として負うこと、使徒職は光栄であると同時に重荷である、この上に彼に重荷を負わしむべきではない。
要義1 [新たに造られること]何故に律法は不要なりや、これキリスト者は新たに造られし者なるが故である。旧き肉はいかに割礼やその他の律法の行為をもって装飾しても結局神の前に義とされることができない。信仰によって新たに造られることが唯一の救いの途である。今日割礼を問題とする人はない。然るに洗礼その他の二三の礼典は初代における割礼の代わりにその位に座し、これを受くる者は救われ、然らざるものは亡ぶるがごとく論ぜられている。しかしながらかかるものといえども信仰によりて新たに造られることの貴きに比して数うるに足らない。
要義2 [割礼無割礼共に数うるに足らず]儀式礼典が新生命の貴きに比して数うるに足らざることは以上によりてこれを明らかにすることができる。しかしながらこれらがたとい新生の尊きに比して数うるに足らずとはいえ、これを行わざることが数うるに足ることであると思うことは又同様に大なる誤りである。これらを行わないことも行うことと同様に数うるに足らない。故に行うことを欲する者はこれを行うべし、欲せざる者は行うべからず、各々いかにすることが最もよく主に仕うる所以なりやを考え自己の信ずる処に従って行うべきである。自己の為すことを基準として他を裁いてはならない(ロマ14:23)。
分類
4 挨拶頌栄 6:18
6章18節 兄弟よ、願はくは我らの主イエス・キリストの恩惠、なんぢらの靈とともに在らんことを、アァメン。[引照]
口語訳 | 兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アァメン。 |
塚本訳 | わたし達の主、イエス・キリストの恩恵、あなた達の霊と共にあらんことを、兄弟たちよ、アーメン。 |
前田訳 | 兄弟よ、われらの主イエス・キリストの恵みがあなた方の霊とともにありますように。アーメン。 |
新共同 | 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。 |
NIV | The grace of our Lord Jesus Christ be with your spirit, brothers. Amen. |
註解: 結尾に「兄弟よ」と呼ぶことによりてこの書簡の厳しき調子を和らげ、キリストの恩恵を彼らの上に祈ることによりて彼らをキリストに再び結付けんと試みているのである。「なんぢらの霊」といいて単に「なんぢら」と呼ばざる所以は彼らの肉がさらに一層完全に殺し尽くされる必要がパウロの心を満たしていたからであろう。