ガラテヤ書第1章
分類
1 冒頭の挨拶 1:1 - 1:5
註解: 1−5節はパウロの他の書簡と同じく冒頭の挨拶であるけれども、単なる形式一片のものではなく、この中にもパウロは自己の使徒としての立場とその使徒職の性質とを示し同時にその宣伝える福音の根本を明らかにし、パウロの使徒たることを否定せんとする者、福音と律法主義とを混同せんとする者に戦いを挑んでいる。
口語訳 | 人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ、 |
塚本訳 | 人々から(使徒にされたの)でなく、また人によってでもなく、(すなわち人間的の命令や委任によってでなく、)イエス・キリストと、彼を死人の中から復活させられた父なる神とによって使徒となったパウロと、 |
前田訳 | 人々からでもなく、ある人によるのでもなく、イエス・キリストと彼を死人たちの中から起こしたもうた父なる神による使徒パウロと、 |
新共同 | 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、 |
NIV | Paul, an apostle--sent not from men nor by man, but by Jesus Christ and God the Father, who raised him from the dead-- |
註解: 「人」は複数形、「より」apo は源泉を示し、パウロの使徒職の源は人間にあるのではないことを主張している。これを今日に例えれば法王、監督という人間又は人間の団体たる教会又は人間の判断又は思想から彼の使徒職が生れ出たのではない。彼に反対する偽教師に異なるのはこの点である。
註解: 「人」はこの場合単数形、「由る」dia は手段又は媒介者を示し、パウロの使徒職は他の使徒の一人が彼を勧誘したのでもなく又その他の人が彼を招いたのでもない。「人」が単数であるのは次に来るイエス・キリストに対応せしめんため。
イエス・キリスト
註解: パウロの使徒職はかくのごとく人間とは全く関係なく、神が直接に彼を召し給うたのである。而して神が彼を召し給う場合に、復活のキリストを彼に顕わしめこのキリストによりて直接に彼を召し給うた(使9:1−9)故に彼の使徒職を否定するものは詛われるであろう。ここに「由りて」dia のみを用いて「より」apo を用いざる所以は、キリストおよび神が自ら彼を召し給う以上 dia その召命の源泉 apo もまた神にあることは勿論当然のことなるがためである。また特にキリストを死人の中より甦らせ給えることを掲げし所以は一は彼の召命は彼の空想の産にあらずして、この復活の主より受けし歴史的事実であることを示し、一はこの復活によりて我らの義とせられ罪を赦されしことの確証が与えられているからである(ロマ4:24、Tコリ15:17)、かくして神に義とせられている以上、いかなる反対者の議論も恐れる必要がなきことを示す。
口語訳 | ならびにわたしと共にいる兄弟たち一同から、ガラテヤの諸教会へ。 |
塚本訳 | および、わたしと一緒におるすべての兄弟たちとから、この手紙をガラテヤの諸集会におくる。 |
前田訳 | わたしとともにあるすべての兄弟とからガラテアの諸集会に。 |
新共同 | ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。 |
NIV | and all the brothers with me, To the churches in Galatia: |
註解: 全教会員を指すと見るよりも、パウロと共に伝道旅行に同道している人々を指すと見るべきであろう(ピリ4:21、22)。またこの文言より、他の兄弟たちもパウロの意見に同意なることを示してこの書簡の効果を強めている。ただし人の権威に頼る意味でないこと勿論である。以上は本書簡の発信人。
[
註解: これは「本書簡の受信者、「諸教会」と複数を用いて本書簡の回覧書簡たることを示している。なおパウロの他の書簡におけるごとく受信人に対して讃辞を添加しないのは(ロマ1:8、Tコリ1:4−7、エペ1:15その他)、この書簡が始めより叱責の気分をもって録されているからである。
1章3節
口語訳 | わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 |
塚本訳 | わたし達の父なる神と主イエス・キリストからの恩恵と平安、あなた達にあらんことを。 |
前田訳 | われらと主イエス・キリストとの父なる神からの恵みと平安があなた方にありますように。 |
新共同 | わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 |
NIV | Grace and peace to you from God our Father and the Lord Jesus Christ, |
註解: 「恩恵」は我らを罪より救い、良心を神に対して「平安」ならしめる。かくして我らを苦しめる罪と良心とはもはや我らを苦しめない。なおTコリ1:3註参照。当時の書簡の形式に更にキリスト教的内容を盛しものがこの1−3節である。
1章4節
口語訳 | キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。 |
塚本訳 | キリストはわたし達の父なる神の御心にしたがい、わたし達を悪い現在の世から救いだそうとして、わたし達の罪のために自分を与え(て十字架につけ)られたのである。 |
前田訳 | 主はわれらの罪のために自らをお与えでした。それはわれらの父なる神のみ心によってわれらを今の悪の世から選びわかつためです。 |
新共同 | キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。 |
NIV | who gave himself for our sins to rescue us from the present evil age, according to the will of our God and Father, |
註解: 文法上は前節の「イエス・キリスト」を受けし説明句であるけれども、パウロは単に無意味にこれを延長したのではなく、キリストの十字架の死をもって我らの罪の赦しが充分なることを信ぜざる偽教師に対し、パウロの信仰の根本義を主張しているのである。すなわち我らの救いは我らの行為や功績によるにあらずイエス・キリストの贖罪の死によるのであり、この死の目的は我らを悪(又は悪しき者なるサタン)の支配するこの世より救助して、キリストの支配し給う光の国に移さんがためであり(コロ1:13)、而してこのイエスの死の原因は父なる神の御経綸でありイエスはこれに服従して十字架の死を味わい給うたのであった(ピリ2:8)。かくして我らの罪の問題は神の側より永遠に完全に解決せられた。
辞解
[今の悪しき世] または「此の世」(Tテモ6:17。エペ2:2。ロマ12:2)と称し、「かの世」(ルカ20:35)。「来世」(ヘブ6:5)等に対立していいる。而してこれは時間的の区別よりむしろ霊的の区別が基の本体を為している。故に今の世は常に悪であり、かの世は唯善のみ存在する。
[我らの罪] 千九百年後の今日もなお同様に我らの罪のためにイエス・キリストは死に給うたのである。
1章5節
口語訳 | 栄光が世々限りなく神にあるように、アァメン。 |
塚本訳 | 栄光は永遠より永遠に神のものであれ、アーメン。 |
前田訳 | 栄光がとこしえに神にありますように。アーメン。 |
新共同 | わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。 |
NIV | to whom be glory for ever and ever. Amen. |
註解: 前節に神の御名を呼びその恩恵をたたえたのでパウロの心は彼に頌栄を奉らずに止むことができなかった。かかる例はなおTテモ1:17。ロマ9:5。ロマ11:36。Uコリ9:15。エペ3:20等にも顕われている。パウロは書簡を認 めつつある間にもその心は常に神の栄光に対する讃美をもって充たされていたことがわかる。
分類
2 教理の部 1:6 - 5:12
2-1 パウロの福音の真実性と独立性 1:6 - 2:21
2-1-イ ガラテヤ人の背教を責む 1:6 - 1:10
1章6節
口語訳 | あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。 |
塚本訳 | わたしが(実に)不思議に思うことは、あなた達が、キリストの恩恵によって召されたお方[神]からこんなに早く別の福音に離れおちつつあることであるが、 |
前田訳 | わたくしは驚いています。あなた方をキリストの恵みによって召された方から、かくも早く別の福音に移ろうとは! |
新共同 | キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。 |
NIV | I am astonished that you are so quickly deserting the one who called you by the grace of Christ and are turning to a different gospel-- |
註解: ここにパウロは他の書簡におけるがごとく感謝と祈願とを述ぶることなくして直ちに叱責をもって始めていることに注意を要する。彼の心はガラテヤの教会の変信に対する悲憤に溢れていた。彼らが恩恵の福音を受けて後間もなくまたこれを棄てて再び律法の束縛に逆戻りしたことをパウロは非常に駭 き怪しんだ。ここにパウロはキリストの十字架の死を虚 しからしめんとするサタンの狡計 を見たのである。
辞解
[速やかに] 彼らの入信と変心との間にどれくらいの時日が経過したかは不明である。使18:23の後間もなくであろう(緒言参照)。
[(恩恵)をもて] ▲「をもて」は en = in であって eis = into でないから口語訳の様に「・・・のうちに」は不適当である。
[恩恵もて召し給いし者] 神である。モーセの場合のごとく律法をもって束縛したのではなくキリストの恩恵によりて罪を赦し、神の子たる資格を与えて召し給うたのである。ガラテヤの人々がかかる恩恵より離れることは全く驚くべきことである。しかしながら今日も同様この恩恵の福音を信ぜざるもの、またこれより離れるものは多い。
[異る福音] 実は福音ではないけれどもパウロはここに仮に偽教師の用語をそのまま使用し、次節をもってこれを否定したのである。
[移り行く] metatithesthe は「背教者となること」。現在動詞を用いて目下も移り行きつつあることを示す。
[怪しむ] thaumazô 驚き怪しむこと。▲口語訳「落ちてゆく」は原語には程遠い。
口語訳 | それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。 |
塚本訳 | (実は)ほかの福音はない。これはただある人たちがあなた達を騒がせて、救世主の福音を(福音でない反対なものに)ひっくりかえそうとしているのである。 |
前田訳 | 福音がほかにあるわけはなく、それは単にある人々があなた方を迷わせてキリストの福音を曲げようとしているにすぎません。 |
新共同 | ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。 |
NIV | which is really no gospel at all. Evidently some people are throwing you into confusion and are trying to pervert the gospel of Christ. |
註解: 直訳「これは他の一つの福音にあらず」でパウロの福音と並び称せらるべきものではない。全く異なれるものである。
ただ
註解: 偽教師らは反対にパウロを偽使徒と呼びパウロの教えし福音を誤れる福音と称し、かくして信徒の間に動揺を来さしめキリストの福音を顛覆せんとしていた。
辞解
[擾 し] tarassô はここでは内心の動揺よりもむしろ、教会全体の擾乱 を意味す。
[変える] metastrephô は強き意味の語で全く顚倒 させること。
1章8節 されど
口語訳 | しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。 |
塚本訳 | しかし、わたし達自身でも、あるいは天の使でも、わたし達が伝えた福音に反する福音を伝えるならば、その人は呪われよ。 |
前田訳 | たとえわれらにせよ天の使いにせよ、われらがあなた方に伝えたものに逆らって福音を伝えるならば、その人は呪われよ。 |
新共同 | しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。 |
NIV | But even if we or an angel from heaven should preach a gospel other than the one we preached to you, let him be eternally condemned! |
註解: パウロはその使徒職に対する確信とその信仰の唯一絶対性に対する確信とにより、パウロらの宣伝えし福音のみが唯一の正しき神よりの信仰であって、これに違反せる福音を伝うる者は神に叛き神を離れ神より詛わるべきものなることを論じている。
辞解
[我ら] パウロの外テモテ、シラス(シルヷノ)らパウロと共にガラテヤに伝道せる人々(L3)。
[天の使] 神とキリストを除く最高の実在。ゆえに天使すら詛いを免れずとせばいわんや普通の人間たる偽教師をや。
[背き] par’ ho が「以外の」か「反対の」かにつき新旧両教の間に神学論としての争いがあった。新教は前者を採って伝説を否定し、旧教は後者によりて伝説を擁護せんとした。福音の本質は唯一である、ゆえにそれ以外のものはこれに反対するものである。
[詛わる] anathema 教会より破門されることではなく、霊魂が神より離れて滅亡と審判の下にあること。anathema はヘブル語の hērem に相当し、本来は神に献げられしものの意であり、これより転じて触るべからざるもの汚れたるもの、(神に献げんために)殺さるべきものなどの意味を持っている。すなわち新約聖書においては神の恩恵を離れて滅亡に入るべきものの意であって、神が進んで彼らを憎み、これを詛うの意ではなく、また後世にカトリック教会およびこれに倣いて新教教会が行いし破門の意味でもない。
1章9節 われら
口語訳 | わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである。 |
塚本訳 | 前にも言ったと同じに、今もう一度言う、あなた達が以前に受けいれたものに反する福音を伝える者は、呪われよ。 |
前田訳 | 前にいったように、今も繰り返します。だれでも、あなた方が受けたものに逆らって福音を伝えるならば、その人は呪われよ。 |
新共同 | わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。 |
NIV | As we have already said, so now I say again: If anybody is preaching to you a gospel other than what you accepted, let him be eternally condemned! |
註解: 前節は一般の場合を仮定し(ean を用い)、本節はガラテヤ教会における具体的の事実に対して(ei を用い)パウロは神の詛を呼んでいる。純なる福音を固く把握してこれより動かないことの必要は幾度繰返しても足りない。従ってこの信仰を破壊せんとする者に対する詛いの警告もまた幾度もこれを繰返さなければならない。
辞解
[前に] 前節を指すのではなく、前におそらく第二回伝道旅行に際して彼らに告げたのであろう。
要義1 [誤れる教理を説く者に対する詛]パウロは党派心からかかる詛いを反対の教師に向って宣告したのではない(かつパウロ自身が詛うたのではない)。キリストの恩恵の福音が空しきに帰されることは、取りも直さず、神の恩恵全体が泥土の中に踏みにじられることである。神の愛に対して溢れる感謝の念を抱いているパウロにとっては、かかる説を単に説の相違として看過することができなかった。これに対して熱き聖憤が油然として湧き出でたのである。而してこの憤りは、また神の憤りであることを確信したパウロは神の呪詛が彼らの上に下ることを宣言せずにはいられなかった。この問題が小なる神学論争にあらざることに注意せよ。
要義2 [福音と日本のキリスト教会]今日のキリスト教会の多くはガラテヤの教会と同じく、パウロらの伝えし福音を棄てて異なる福音に走っている。キリストの十字架がかくして彼らによって空しくせられ、神の恩恵が拒まれるならば、彼らもまた詛われるより外はない。もしパウロのこの言が永遠の真理であるならば彼らの運命はガラテヤの信徒と異なる処がないであろう。
1章10節
口語訳 | 今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。 |
塚本訳 | そもそもわたしは今、人の気に入ろうとしているか、それとも神か。それとも人を喜ばせようとしているか。もし今もなお人を喜ばせているのだったら、わたしは(人の奴隷で、)キリストの奴隷ではない。 |
前田訳 | 今わたしが納得されようとしているのは人にですか、神にですか。わたしは人の気に入ろうとしているのですか。もし今なお人の気に入るのならキリストの奴隷ではありますまい。 |
新共同 | こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。 |
NIV | Am I now trying to win the approval of men, or of God? Or am I trying to please men? If I were still trying to please men, I would not be a servant of Christ. |
註解: もしパウロが人を喜ばせんことを欲するならば福音を無視して律法主義を唱え割礼を高調するなど人の心に叶うことを説いたであろう、また前数節のごとく偽教師に対して激しき非難を浴びせる場合、彼らがパウロに対して反感を懐き更に激しくパウロを非難するに至るのは勿論である。かくいいて間接に偽教師らこそ人を喜ばせんことを努めていることを示す。
辞解
[喜ばれ] peithô は妥協する、取入る等の意、おそらくパウロがテモテに割礼を施し(使16:3)またはユダヤ人にはユダヤ人のごとくなることをもって妥協主義、御都合主義として非難していたのであろう。「喜ばす」は areskô 気に入るようにすること。
1章11節
口語訳 | 兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。 |
塚本訳 | なぜなら、あなた達に知らせる、兄弟たちよ、わたしが説いた福音は、人間的のものではない。 |
前田訳 | 兄弟よ、言明しますが、わたしが伝えた福音は人間ごとではありません。 |
新共同 | 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。 |
NIV | I want you to know, brothers, that the gospel I preached is not something that man made up. |
註解: パウロはこれより更に進んで自己の使徒職の神より出でしものたることを組織的に叙述している。まず第一に彼の宣伝えし福音は人間的なるものではなく神的天的なるものであったことが彼の使徒職の本質の証明となる。
辞解
[兄弟よ] パウロはここに始めてガラテヤの信徒を「兄弟」と呼んでいる、幾分心が落着いたからであろう。
[われ汝らに示す] 注意を喚起する場合の言。
[人に由れる] kata anthrôpon は「人間的」とでもいうべき文字で、1節および次節の apo,dia,para(原因、経路、発端)等の気持ちは皆この kata の中に総括されている(B1)。
1章12節
口語訳 | わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったのである。 |
塚本訳 | というのは、わたしは人からそれを受けいれたのでも、また教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によったのである。 |
前田訳 | なぜなら、わたしはそれを人から受けたのでも教えられたのでもありません。イエス・キリストの黙示によるものです。 |
新共同 | わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。 |
NIV | I did not receive it from any man, nor was I taught it; rather, I received it by revelation from Jesus Christ. |
註解: パウロはダマスコ途上の出来事において、及びその後もキリストにより直接に黙示〈啓示〉によりて福音を受け又これを詳しく教えられたので人間とは全く無関係であった。かくいいてパウロの反対者らがパウロはイエスを知らず、従って他の人より間接に福音を伝受、学習せしもの故ペテロその他の弟子のごとき権威なしと主張する主張に対抗している。
辞解
[人より] para を用い伝達を意味す。
[受け] paralambanô 一般的の宣伝を受入れる。
[教えられ] 特に努力をして学習すること。
[黙示] apokalupsis これまで覆われしものを顕わすこと。
[に由り] dia 経路、なお意味の上より「受けまた教えられたるなり」を補充すべきである。
1章13節
口語訳 | ユダヤ教を信じていたころのわたしの行動については、あなたがたはすでによく聞いている。すなわち、わたしは激しく神の教会を迫害し、また荒しまわっていた。 |
塚本訳 | その証拠には、わたしがまだユダヤ教にいた時分の行動は、あなた達が聞いたとおりで、わたしはひどく神の集会を迫害し、これをたたきつぶそうとした。 |
前田訳 | まだユダヤ教のころのわが行状はご承知です。激しく神の集会(エクレシア)を迫害し、それを粉砕しようとしました。 |
新共同 | あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。 |
NIV | For you have heard of my previous way of life in Judaism, how intensely I persecuted the church of God and tried to destroy it. |
註解: パウロはここに読者をして、彼の過去の生涯(それは彼らに既に語られていた)を回想せしめ、彼が到底素直にキリストの福音を人より受け又学ぶごとき態度を持たざりしことを明らかにし、これによりて彼の福音が人間的要素を全く含まず凡てキリストの黙示によることを証明している。
註解: パウロのキリスト教徒迫害の事実は彼が本来福音に対する極端なる反対者であったことを示す、人間的に見て彼は福音の敵である。引照3の記事参照。パウロはこの事実をしばしば説教や書簡の中に指摘している。使22:1−21。使26:4−23。Tコリ15:8−10。ピリ3:6。Tテモ1:13。
辞解
[暴 す] portheô 荒廃に帰せしむること。
1章14節
口語訳 | そして、同国人の中でわたしと同年輩の多くの者にまさってユダヤ教に精進し、先祖たちの言伝えに対して、だれよりもはるかに熱心であった。 |
塚本訳 | そしてユダヤ教においては、同族の中で多くの同年輩の人々よりも進んでおり、祖先の言伝えの非常な熱心家であった。 |
前田訳 | ユダヤ教では国人の中の多くの同年輩の者をぬきんでていて、父祖のいい伝えにはなはだ熱心でした。 |
新共同 | また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。 |
NIV | I was advancing in Judaism beyond many Jews of my own age and was extremely zealous for the traditions of my fathers. |
註解: パウロは最も頑固なるパリサイ主義の中に育てられ(ピリ3:5)、而してその中においても殊にその主義に忠実であった。かくのごときパリサイ人がキリストの福音の使徒となることのごときは彼の心に革命的事実なきかぎり不可能である。彼の人間的方面は極端に福音に反対し、また彼の律法に対する熱心は、福音の使徒たちの言に耳を貸さないのみならず、却って彼らを迫害した。彼の福音はその起原においても、これを彼に伝うる経路においても、その本質においても人間に関するものはなく全く人間的でなかった。偽教師らはパウロを律法破壊者として非難しているけれどもパウロは決して本来の律法破壊者ではなかった。むしろ人間的にはその反対であった。
辞解
[先祖たちの言傳 ] モーセの律法を指すか「パリサイ主義の伝説」を指すかにつき二説あり多くの学者は後者と採る。
1章15節 されど
口語訳 | ところが、母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、 |
塚本訳 | しかし“わたしが母の胎内にいる時から”(すでに)わたしを聖別し、また恩恵によって“召された”お方[神]が、 |
前田訳 | しかし、わたしを母の胎以来お選びで、自らの恵みでお召しの方のお気が向いたとき、 |
新共同 | しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、 |
NIV | But when God, who set me apart from birth and called me by his grace, was pleased |
1章16節
口語訳 | 異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしの内に啓示して下さった時、わたしは直ちに、血肉に相談もせず、 |
塚本訳 | 異教人に福音を伝えさせるため御子をわたしに啓示する決心をされたその時、わたしはじきに血肉[人間]と相談をせず、 |
前田訳 | み子をわがうちにお示しでした。それはわたしが彼を異邦人の間にのべ伝えるためでした。そこで血肉のものに相談もせずにすぐさま、 |
新共同 | 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、 |
NIV | to reveal his Son in me so that I might preach him among the Gentiles, I did not consult any man, |
註解: パウロが異邦人の使徒となったのは徹頭徹尾神のみの御働きであった。すなわち(1)神はパウロが母の胎にありし時すでにこれを選びの器と予定し生れると共にこれを他の人々と「分離し」別のものとして取扱い給うた ─ パウロ自身も何人も後日に至るまでこのことを知らなかった ─、故にパウロの性格や功績が彼の使徒職とは何の関係もなく又自ら進んで自己の生活のために僧職を執るごときものとは全く異なっていた。(2)而して時至りて彼がキリスト者を迫害せんとしてダマスコに途上において神彼を恩恵により「召し」給うた、故にパウロの聖召はパウロの意思や希望とは無関係であり又法王や教会の機関による任命のごときものとは全く異なっていた。(3)かくして彼を召し給いて後彼の心に御子イエスを黙示し給うた(マタ16:16参照)。すなわちイエスを神の子と信ずる信仰を与え給うた。故にパウロの信仰は彼の思索や研究や又は他人より教えられし結果ではなかった。(4)そうして神は遂に彼を異邦人の伝道者として派遣し給うた。故に自己の熱心による外国伝道のごときものではなく、また人間的制度の命ずる処によって伝道に従事しているのでもなかった。かくのごとくパウロの(1)聖別、(2)聖召、(3)黙示、(4)派遣、凡てが神のみの御業であってそこに人間的なるものは一片だに介在しなかった。大小の差こそあれ福音の伝道者は皆かくのごとくなければならない。
辞解
[胎を出でしより] 「生れる以前より」と解する説(L3)と、「生れると同時に」の意に解する説とがある。(M0、Z0)、前者を取る。創世以前よりの予定(エペ1:4)についてはここに触れていない。
[選び分ち] aphorizô は分離すること、特別の目的のためであった。
[我が内に] 「我が心の内に」の意味で、イエスが神の子たることをその霊に示された。「我によりて」の意味(L3)ではない。
[▲可しとし] eudokêsan 口語訳はこの語の訳を脱落している。
われ
1章17節
口語訳 | また先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行った。それから再びダマスコに帰った。 |
塚本訳 | また、先輩の使徒たちに会いにエルサレムにのぼりもせず、アラビヤに行き、ダマスコに戻った。(このようにわたしの福音はキリストの啓示によるもので、人からのものではない。) |
前田訳 | エルサレムに上って先輩の使徒たちを訪ねもせず、アラビアへと出かけ、またダマスコヘ帰りました。 |
新共同 | また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。 |
NIV | nor did I go up to Jerusalem to see those who were apostles before I was, but I went immediately into Arabia and later returned to Damascus. |
註解: パウロの受けし福音と使徒職が全く人間と無関係でありしが故にパウロもまたこの職を遂行する上に人間との交渉を全然排除した。彼はその生活の一大方向転換に際してこれを「血肉」すなわち人間的の凡てのもの ─ 例えば祭司、父母、親戚、友人、弟子のみならず自己の都合 ─ とも相談せず唯神の命のみに従ってこれを決行した。また先輩なる十二使徒や主の兄弟ヤコブのごとき使徒たちに逢いて彼らより自己の使徒たることを認めてもらう必要もなかった。況 んや彼らにより使徒職に任命してもらう必要はなおさらなかった。故に彼はエルサレムにも上らず直ちにアラビヤに行き、そこに砂漠において、寂寥 の中に神より訓練せられ、後再びダマスコに帰った。彼の使徒職とその福音が他の使徒より継承せるものにあらずして直接に神より受けしものであることを、かくして彼はここに強調している。いかなる意味においてもパウロは他の使徒たちと同一の立場に立っておりその間に優劣の差はない。
辞解
[直ちに] 「謀らず」「上らず」および「出て往き」に懸かる。
[血肉] ここでは人間を意味す。なおマタ16:17辞解、Tコリ15:50参照。
[アラビヤに出て往き] 使徒行伝にはこのことが記されていない。パウロがここに記したのは彼が凡ての人間的関係を断ちしことを明示せんがためである。使9:23がこの場合を含んでいるのであろう。アラビヤに行きし目的がどの辺にあったかは明らかではないがキリスト教徒迫害者としての生涯をしばらく退いて一般に対し謹慎の態度を示すと同時に沙漠において、祈りによりその霊をはぐくむことがその新生涯への出立に相応しかったのであろう。
要義1 [福音を伝うる者の資格]福音は人に由るものに非ざることはパウロの場合のみならず我らの場合も同様である。我らは福音を人の口より聞く場合が多い。しかしながらこれを信ずるに至るのは、人間の働きではなく神の御業である。神御霊をもって我らの心を動かして福音を信ぜしめ給うのである(エペ2:8)。同様に伝道者の資格も、学歴や按手礼によりて得られない、神より直接にこれを賜るにあらずば、我らは真の伝道者たることができない。然らざる者は真の伝道者の資格なきものである。
要義2 [神の選びと我らの生涯]多くの人々は神の予定や選びの教理を聴く時、自己の罪深さを顧みて、自分のごとき者は結局滅亡に予定されしものにあらずやとの絶望的思想を懐くに至るものである。しかしながら母の胎を出でしより選び別たれしパウロがダマスコ途上において復活のイエスに逢うまでの彼の生涯 ─ 神に対する根本的反逆者 ─ を思うならば、いかなる人にても神の選びに与っていないと考うべきではないことを知るであろう。神はいかに罪深き生涯をもこれを潔めてその器としてこれを用うるを得給う。
要義3 [人より独立せる使徒職]パウロはキリストの聖召に与った時、血肉とも謀らず、先輩の使徒たちとも逢わずして直ちにその使徒職を遂行した。彼は唯キリスト・イエスの僕であっていかなる人間に対しても自主独立であった。かくのごとき人のみ真の自由の福音を宣伝うることができる。人間や人間的制度組織の制肱 、束縛の下にあるものは、福音の使徒たることができない。
要義4 [沙漠の生涯]モーセ、イスラエルの民、エリヤ、バプテスマのヨハネ等沙漠の寂寞の中に人の霊魂が訓練された例は頗 る多い。パウロもその一つの場合であった。パウロはアラビヤの沙漠において深く神と交わり神の恩恵の深さを心より味わったことであろう。
1章18節 その
口語訳 | その後三年たってから、わたしはケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間、滞在した。 |
塚本訳 | その後三年たって、ケパと近づきになろうとしてエルサレムにのぼり、彼の所で十五日泊った。 |
前田訳 | それから三年後にエルサレムに上ってケパをたずね、彼のもとに十五日間とどまりました。 |
新共同 | それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、 |
NIV | Then after three years, I went up to Jerusalem to get acquainted with Peter and stayed with him fifteen days. |
1章19節
口語訳 | しかし、主の兄弟ヤコブ以外には、ほかのどの使徒にも会わなかった。 |
塚本訳 | しかし別の使徒には会わなかった、主の兄弟のヤコブ以外には。 |
前田訳 | しかし使徒のうちの他の人には、主の兄弟ヤコブのほか会いませんでした。 |
新共同 | ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。 |
NIV | I saw none of the other apostles--only James, the Lord's brother. |
1章20節 (
口語訳 | ここに書いていることは、神のみまえで言うが、決して偽りではない。 |
塚本訳 | ──いまあなた達に書いていることは、神の前に、決して嘘ではない。── |
前田訳 | わたしが書いていることは、神かけて申しますが、偽ってはいません。 |
新共同 | わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。 |
NIV | I assure you before God that what I am writing you is no lie. |
註解: パウロがダマスコに帰りてより三年間もエルサレムに在る他の使徒たちに逢わなかったことは、使徒団又はその首長なるペテロより彼の使徒職に関する認可を得るの必要なかりしことを示し、僅々 十五日より多くかの地に留まらなかったことは彼に対する迫害のためであったけれども(使9:29、30)、その結果彼が福音につき彼らより学習する機会なかりしこと又使徒らと充分の意思の疎通を持ち得なかったことを示している。なおペテロとヤコブ以外の使徒たちと面会しなかったのは弟子たち彼を信ぜずして懼れたからであったが(使9:26)、その結果としてパウロの使徒職が、使徒団のそれと全く没交渉であったことを示している。パウロはこの叙述の神の前に偽りなきことを附加して、この事実によりて彼の使徒職が他の使徒たちのそれに劣らざる所以を強調している。
辞解
[その後] 一見、ダマスコに帰りて後三年を意味するごときも、文章の前後上16節の「直ちに」に対応してパウロの回心後三年の意と見るを可とす(A1、L3、Z0)。
[尋ねんとて] historêsai は大都市を見物するごとき場合に用うる語、パウロのエルサレム訪問の動機の一端をこの語より窺うことができる。
[かれと偕に] pros auton ヨハ1:1「神と偕に」の註参照。
[主の兄弟ヤコブ] エルサレムのキリスト教徒の首班であった。このヤコブにつきてはなおヤコブ書緒言、およびヨハ19:42附記「主の兄弟について」参照。ヤコブもここでは使徒と呼ばれていると見ることができる(L3)。
口語訳 | その後、わたしはシリヤとキリキヤとの地方に行った。 |
塚本訳 | それからシリヤとキリキヤの地方に行った。 |
前田訳 | それからシリアとキリキアの地方へ行きました。 |
新共同 | その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。 |
NIV | Later I went to Syria and Cilicia. |
註解: パウロは再びエルサレムより遠ざかってシリヤ、キリキヤの地方に往った。彼の全き独立の行動がここにも明らかに示されている。使9:30によれば彼はエルサレムの兄弟たちよりカイザリヤを経て海路タルソに送られた。その後シリヤ、キリキヤを巡回伝道したのであろう。
1章22節 キリストにあるユダヤの
口語訳 | しかし、キリストにあるユダヤの諸教会には、顔を知られていなかった。 |
塚本訳 | だが、わたしはユダヤのキリスト諸集会にはまだ顔を知られていなかった。 |
前田訳 | しかし、キリストにあるユダヤの諸集会には顔を知られていませんでした。 |
新共同 | キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。 |
NIV | I was personally unknown to the churches of Judea that are in Christ. |
1章23節 ただ
口語訳 | ただ彼らは、「かつて自分たちを迫害した者が、以前には撲滅しようとしていたその信仰を、今は宣べ伝えている」と聞き、 |
塚本訳 | 彼らはただ、「かつてはわたし達を迫害した男が、いま、かつてたたきつぶそうとしていた信仰を伝えている」という噂を聞いて、 |
前田訳 | ただ、「かつて自分らを迫害したものがかつて粉砕しようとした信仰を今はのべ伝えている」と彼らが聞いて、 |
新共同 | ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、 |
NIV | They only heard the report: "The man who formerly persecuted us is now preaching the faith he once tried to destroy." |
口語訳 | わたしのことで、神をほめたたえた。 |
塚本訳 | わたしのゆえに神を讃美した。 |
前田訳 | わたしゆえに神を讃美しました。 |
新共同 | わたしのことで神をほめたたえておりました。 |
NIV | And they praised God because of me. |
註解: パウロはここにエルサレム以外のユダヤ地方一般に全く個人的関係がなかったことを示している、もし彼が使徒たちの弟子であったならば、自然その地方の信徒にも紹介されたであろう。彼の使徒職及び福音は人間より完全に独立していた。かつ彼の回心がユダヤ地方のキリスト者が神を崇むる原因となりしことをも述ぶることによりて、彼の福音の他の使徒たちのそれと異なることなきを暗示し、かくして彼の使徒職がいかなる性質のものであるかを読者に示している。もし彼の福音が人間的なるものであったならば、彼はまず使徒たちより認可を受け、次にキリスト教の発祥地ともいうべきユダヤ地方のキリスト者に紹介してもらうことをしたのであろう。然るにかかる事実が絶無であったことは、パウロの使徒職と福音とがいかに人間から独立していたかの確かな証拠となる。
辞解
[ユダヤ] エルサレムを除外せる呼称。ヨハ3:22。
[信仰の道] 原語「信仰」で「信仰を伝う」とは福音を伝うと同義。
[我が事によりて] 「我の故に」。
要義 [パウロと他の使徒たちの関係]使9:26によれば弟子たちはパウロの弟子たることを信ぜずして彼を懼れたとあり、ガラ1:18、19によれば彼はペテロとヤコブ以外の使徒に逢わなかったとのことである。おそらく他の使徒たちも彼を信ぜず又彼を懼れたのであろう。約三年の間ダマスコにおいてイエスのキリストなることを宣伝えていた彼に対してなお疑念を懐き恐怖を持つのを見れば以前の彼の迫害がいかに強烈であったかを想像することができ又人は容易に党派心に捉われ得ることを示している。而してかかる一般的恐怖と不信の中にありて彼と握手せるペテロやヤコブの態度がいかに寛容であったかを注意すべきである。自己の教会において洗礼を受けざるものをあたかも異端か継子 のごとくに取扱う今日の教会は、ペテロやヤコブがこの大異端者にしてしかも三年余も彼らと無関係に伝道しており、今も彼らに対しても友情の握手以外の何をも求めないパウロに対する寛大にして公正なる態度を見倣うべきである。カトリック教会のペテロはこのペテロとは全く別人でなければならない。
附記 [使9:26−30とガラ1:18−24との関係]この間に一見矛盾があるように見え、かつこれを主張する学者があるけれども、両書の記者の記述せんとせる要点に注意するならばこの間に矛盾がないことを見出し得るであろう。すなわちルカはパウロが初めてエルサレムに上りし時バルナバの仲保によりて使徒たち及び他の弟子たちとの間に仇敵の関係は消滅して相当の理解と愛と協力とが行われたことに重きを置きパウロはガラテヤ書においては彼の使徒職及び福音がエルサレム及びユダヤの使徒たちやキリスト者たちとは独立にキリストより直接に受けしものなることを強調せんとしたのである。従って双方とも事実であり、唯各その必要なる点を記載したにすぎない。
ガラテヤ書第2章
2-1-ニ 使徒会議における事情及活動 2:1 - 2:6
2章1節 その
口語訳 | その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒に、テトスをも連れて、再びエルサレムに上った。 |
塚本訳 | その後十四年たって、わたしはバルナバと一緒に、テトスをも連れて、ふたたびエルサレムにのぼった。 |
前田訳 | その後十四年して、またエルサレムヘ上りました。バルナバといっしょで、テトスも連れてゆきました。 |
新共同 | その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。 |
NIV | Fourteen years later I went up again to Jerusalem, this time with Barnabas. I took Titus along also. |
註解: 十四年の間エルサレムの使徒や信徒と直接の交渉がなかったことは、前章の論法と同じく、彼の使徒職と福音との独立性を証明している。このエルサレム上りは使15:1以下に相当する第三回目の上京でいわゆるエルサレム会議のための上京であろう。この以前に使11:29、30.および使12:25に記されし第二回の上京についてはパウロはここに沈黙している。その理由は不明であるけれどもおそらくその時パウロは単に飢饉救済の資金を持参する一片の使者に過ぎなかったためであろう。テトスを伴いしは異邦人の信者の標本を示さんがためであったろう。
辞解
[その後] ガラ1:18−24の出来事の後の意味、回心の後とする説もあれど不適当である。すなわち回心から最短足掛け16年を最長と見て満17年経過したこととなる。
[バルナバと共に] パウロとバルナバとの位置の上下はこれにより知り得ない(Z0)。
口語訳 | そこに上ったのは、啓示によってである。そして、わたしが異邦人の間に宣べ伝えている福音を、人々に示し、「重だった人たち」には個人的に示した。それは、わたしが現に走っており、またすでに走ってきたことが、むだにならないためである。 |
塚本訳 | しかし、のぼったのは(神の)啓示によったので、異教人のあいだで説いている福音を(そこの)人々に、名士たちには特別に、示した。(これは、)わたしが(現に福音のために力を尽くして)走っており、また(過去において)走ったことを、無駄にしないためであった。 |
前田訳 | わたしが上ったのは黙示によってです。そして彼らにわたしが異邦人の間に伝えている福音を紹介しました。内輪でお偉方にしたのです。それはわたしが走りまた走ったのがむだにならないためです。 |
新共同 | エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。 |
NIV | I went in response to a revelation and set before them the gospel that I preach among the Gentiles. But I did this privately to those who seemed to be leaders, for fear that I was running or had run my race in vain. |
註解: 使15:2にはアンテオケの兄弟たちより遣わされたように録されているけれども、これは外面的事実であって、パウロは唯機械的に彼らに動かされたのではなく、かかる明瞭な事実につき態々 エルサレムまで行くべきか否かにつき深く考慮したことであろう。而して直接に黙示を受けてこのエルサレム行きを決行したのである。この二つの記事に少しも矛盾がない。
かくて
註解: パウロはエルサレムに至り、彼がその当時は勿論今もなお宣伝えて変わらざる福音(現在動詞)、すなわち信仰のみによりて義とせられ律法の行為によらずとの福音を「彼ら」エルサレムの信徒の前に提示し、またヤコブ、ペテロ、ヨハネらの使徒たちには個人的にこれを提示した。而してパウロは単にこれを彼らに「告げし」ことを主張する所以は、彼らと合議の上彼らの認可を得しものとの誤解を防がんがためである。而してパウロの宣伝うる福音は直接にキリストの黙示によるものであるけれども、また決して自分一個だけで秘密に宣伝えているのではなく、エルサレムの母教会や、使徒の柱石たちにも充分に了解があるのである。─ かくいいてパウロの福音を非難する偽教師らに答えている。
辞解
[宣ぶる] 現在動詞。
[彼ら] エルサレムの一般の信者。
[名ある者ども] 首なる使徒たち。
[私 に] kat’ idian は秘密にという意味ではなく、「個人的に」との意。問題は同一でも一層深く説明する必要があるので特に個人的に会合したのであろう。これによりてパウロと彼らとの間に充分な了解があったことの証拠となる。
これは
註解: もしパウロの福音が誤りでかえって偽教師らの主張がヤコブ、ペテロ、ヨハネやエルサレムの信徒たちの信仰と同一であるように誤解される場合には、パウロの過去、現在および将来の伝道は空しきに帰してしまうであろう。パウロは自分の宣伝えし福音が正しきや否やについて疑問を持っていたのではない。他人がパウロの福音について誤解することを憂いたのである。
辞解
[走る] 競技の用語でここでは熱心に伝道することに応用している。
2章3節
口語訳 | しかし、わたしが連れていたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼をしいられなかった。 |
塚本訳 | それで(彼らはわたしの福音がどんなものかを知ったので、わたしの異教伝道を否認せず、そればかりか、)わたしが連れていたテトスすら、異教人であるのに、割礼を強いられなかった。 |
前田訳 | しかしわたしといっしょにいたテトスさえもギリシア人でありながら割礼を強いられませんでした。 |
新共同 | しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。 |
NIV | Yet not even Titus, who was with me, was compelled to be circumcised, even though he was a Greek. |
註解: 私訳「されど我と偕なるテトスすらギリシヤ人なるに割礼を強いられざりき」。弟子たちはパウロの福音を了解したのみならず、一般の人々の中にはテトスに割礼を施すべきことを主張せる者があったにもかかわらず、このことがテトスの上に強制されなかった。これ割礼が異邦人の救いの必要条件にあらざることが承認された証拠である。パウロがここにテトスのことを引用せるは使16:3にユダヤ人のためにテモテに割礼を施した事実がガリラヤに知れており、これを偽教師らが利用して、パウロの福音の本質を不明確にせんとする者があったので、この度は彼の態度を明らかにする必要があったからであろう。パウロの自由なる態度を学ぶべきである。
口語訳 | それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので—彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。 |
塚本訳 | すなわち忍び入った偽兄弟がいて、(わたし達の中に)忍び込み、わたし達がキリスト・イエスによって持っている自由を待伏せして、奴隷にしようとしていたので、 |
前田訳 | ことは、しのび込んだ偽兄弟のしわざです。彼らこそ、われらがキリスト・イエスによって得ている自由をねらって、われらを奴隷にしようと入り込んだのです。 |
新共同 | 潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。 |
NIV | [This matter arose] because some false brothers had infiltrated our ranks to spy on the freedom we have in Christ Jesus and to make us slaves. |
註解: テトスが割礼を強いられなかった理由を示す。すなわち割礼を施すこと、そのことは格別差支えがないにしても偽兄弟がもしこれを利用して「割礼を受けずば救われない」(使15:1)ことを主張するに至るならば、福音の自由の放棄である故、かかる偽兄弟があるがために、パウロはこの際断然テトスの割礼に反対した。エルサレムの信徒や使徒たちの中にはこの際テトスに割礼を施すことによりて妥協せんと欲したものもあるかもしれないけれども、パウロの主張を容れて割礼をテトスに強いなかった。これはパウロらにとり又キリストの福音にとり危機一髪の場合であってパウロの明瞭なる態度によりてキリスト教の福音は律法主義への堕落から救われた。
辞解
[偽兄弟] ユダヤ的キリスト者、律法主義的キリスト者はキリストの十字架を虚しくするゆえキリストにある真の兄弟ではない。
[私 に入る] 探偵等の行動についていう語。(注意)この句は前後の関係不明瞭なるため種々に解せられ、また種々の語を補充せられているけれども上述のごとくに解すべきであろう。A2、A1、B1、M0等の解釈はやや上述する処に近い。
註解: 偽兄弟らはパウロの福音に反対し、あたかも探偵のごとくに忍び入りてパウロらの行動を探り出し、パウロらがキリスト・イエスに在る自由の故に律法を形式的に遵守せざるを見てこれを非難し、パウロ始め異邦人のキリスト者らを再び律法の下に奴隷たらしめんとしている輩である。もし彼らの術数に陥り律法の遵守を救いの条件として信仰と並立せしむるならば、キリストの福音はこれによりて亡びてしまう恐るべき結果を来すであろう。
辞解
[忍び入る、窺う] みな探偵に関して用うる語。律法主義者は律法に照らして他人の欠点を探偵することを好む。
[キリスト・イエスに在りて有てる自由] 霊の自由というに同じ、肉の自由とは全く別物で、肉に死して霊に生き、自己に死してキリストに活くる者の持つ自由、かかる人はもはや律法によりて束縛せられない。
[奴隷とする] katadouloô は奴隷として圧伏することで強き語。
2章5節
口語訳 | わたしたちは、福音の真理があなたがたのもとに常にとどまっているように、瞬時も彼らの強要に屈服しなかった。 |
塚本訳 | わたし達は片時も彼らに服従し譲歩しなかった。真の福音があなた達の所に保存されるためでる。 |
前田訳 | しかしわたしたちは一時といえども彼らに譲歩して屈伏しませんでした。それは福音の真理がいつまでもあなた方のところにとどまるためです。 |
新共同 | 福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。 |
NIV | We did not give in to them for a moment, so that the truth of the gospel might remain with you. |
註解: この時もしパウロが一時でも彼らに服従して譲歩したならば、信仰のみによりて義とせられ律法の行為によらずとの福音の根本真理は倒れてしまっただろう。パウロがここに立ちて頑として動かなかったのは我意を通さんがためではなく「汝ら」すなわち異邦人のキリスト者の間に福音の真理が永遠に存続せんがためであった。ルーテルのウォルムスの会議における態度を連想せしめられる。
辞解
[汝ら] 一般の異邦人のキリスト者、従ってガラテヤ人にも適用される。
[留る] diamenô は永遠に存続すること。menô よりも一層強き語。
[譲り従う] 原語は「服従によりて譲歩する」で愛によりて譲歩する場合はあっても服従によりて譲歩する場合はない。
2章6節
口語訳 | そして、かの「重だった人たち」からは—彼らがどんな人であったにしても、それは、わたしには全く問題ではない。神は人を分け隔てなさらないのだから—事実、かの「重だった人たち」は、わたしに何も加えることをしなかった。 |
塚本訳 | しかし名士たちからは──その人たちがどんな(に偉い)人たちであったにもせよ、わたしはそんなことに頓着しない。“神は”人に“わけ隔てをされない”。──ほんとうにこの名士たちは、わたしに(これ以上)何も要求しなかった。 |
前田訳 | お偉方については、彼らがどれほどであろうとかまいません。神は人のうわべを区別なさいません。わたしにはお偉方は何も指図しませんでした。 |
新共同 | おもだった人たちからも強制されませんでした。――この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。――実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。 |
NIV | As for those who seemed to be important--whatever they were makes no difference to me; God does not judge by external appearance--those men added nothing to my message. |
註解: パウロはここに盛名ある大使徒らに関する彼の評価と、彼らが彼の福音をいかに評価せしかを示して彼らとの関係を明らかにしている。すなわちたといいわゆる大使徒らはイエスの直弟子であり、また教会の創始者である等、外面的には多くの優越を持っていたとしても、これらは外面的のことであってパウロにとっては何らの関心を持たない事柄である、神は人の心を見てその外面を見給わないからである。かくいいてパウロは自己の福音が大使徒らより伝承せるものでなくとも差支えないことを明らかにしているのである。故にたとい大使徒らと異なれる考えを持っていてもパウロはその主張を曲げなかったことであろう。しかるに事実彼らはパウロの使徒職にもまたその福音にも何をも加えず、そのままこれを承認した。これを見てもパウロの使徒職および福音は他の使徒たちの福音と共に神より出でし同一のものであること、またパウロがいかなる意味においても他の使徒の下に立つものにあらざることが解るであろう。
辞解
[名ある者ども] カトリック学者がこの「名ある者ども」を偽兄弟と解せんとするがごときは素よりペテロの優越権を擁護せんがための曲解に過ぎない(B2)。
[然るにかの名ある者どもより] 直訳「価値ありと見ゆる人々より」この「より」がいずれに関係するやは文勢上不明である。おそらく「何物をも受けざりき」のごとき文章を補充すべきものであろう。パウロはこの部分を認 むるに先立ちまずこれらの「名声ある人々」の価値如何を明示する必要を感じて「彼らは云々」を附加し、終って前文の中断せることを忘れて新たに「実に云々」の文章を起したのであろう(M0、L3)。他に異なる数種の解あり。
[如何なる人なるにもせよ] 「かつて如何なる人なりしにもせよ」とも読むことを得、イエス御在世の当時のことをいいしものと解す(L3)。
[何をも加えず] 「加う」prosanatithêmi はガラ1:16の「謀 る」と同語、自己のものを持出して他人に付加えることを意味する。なお使15:20、使15:29。使21:25と本節との矛盾せずやとの疑問は起り得るけれども、これらにおいて録される事柄はパウロの信仰に制限を付せるものにあらず、信仰の当然の結果または人間の自然性を損なうごときことを殊更に明示したまでで、パウロの「信仰のみによりて義とされる」福音に何物かを附加したのではない。
2章7節
口語訳 | それどころか、彼らは、ペテロが割礼の者への福音をゆだねられているように、わたしには無割礼の者への福音がゆだねられていることを認め、 |
塚本訳 | むしろ反対に、ペテロが割礼の人[ユダヤ人]への福音を(神から)まかせられたように、わたしも割礼のない人[異教人]への福音をまかせられていることを、彼らは知ったので、 |
前田訳 | それどころか、わたしが割礼のないものの福音を、ペテロが割礼のあるものの福音をゆだねられたことを認めました。 |
新共同 | それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。 |
NIV | On the contrary, they saw that I had been entrusted with the task of preaching the gospel to the Gentiles, just as Peter had been to the Jews. |
註解: 同一の福音であって唯その伝道の範囲を異にし、ペテロとパウロは各々異なれる範囲に福音を伝うべきことを神に委ねられた。故に第二義以下の事柄においては適用を異にすべきは当然である。
辞解
[割礼ある者] ユダヤ人。
[割礼なき者] 異邦人。
[認め] idontes は「見て」で9節に連絡する。なお本節はペテロとパウロの主要の職務をいったので、パウロもユダヤ人に福音を伝え、ペテロも異邦人に福音を伝えたことは勿論である(使15:7。Tペテ1:1)。また本節より使徒たちの中におけるペテロの首位を推定することができる。
2章8節 (ペテロに
口語訳 | (というのは、ペテロに働きかけて割礼の者への使徒の務につかせたかたは、わたしにも働きかけて、異邦人につかわして下さったからである)、 |
塚本訳 | ──というのは、ペテロに働いて割礼の人の使徒にされたお方[神]が、わたしにも働いて異教人の使徒にされたのであるが── |
前田訳 | ペテロに働きかけて割礼あるものの使徒になさった方がわたしにも働きかけて異邦人へおつかわしでした。 |
新共同 | 割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。 |
NIV | For God, who was at work in the ministry of Peter as an apostle to the Jews, was also at work in my ministry as an apostle to the Gentiles. |
註解: 原文には gar 「そは・・・・・・給いたればなり」とあり、前節の理由を述ぶ、すなわちペテロとパウロとは使命を異にしているけれども共に神によりて動かされし点において同一であって彼と我との間に何らの甲乙径庭 がない。
辞解
[能力を与え] energeô は「働きかける」または「作用を及ぼす」の意、ゆえに「そはペテロを動かして割礼あるものの使徒となし給いしものは、また我をも動かして異邦人の〔使徒となし〕給いたればなり」と解すことを得。この原動者は勿論神である(Tコリ12:6。ピリ2:13。コロ1:29)。
2章9節 また
口語訳 | かつ、わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである。 |
塚本訳 | こうして彼らは(神が)わたしに下さった恩恵をみとめたので、(エルサレム集会の)柱石と思われているヤコブとケパ[ペテロ]とヨハネとは、わたしとバルナバとに協同の(伝道をする)握手をした。わたし達は異教人に、あの人たちは割礼の人に(福音を伝えることにして)。 |
前田訳 | そして、わたしに与えられた恩恵がわかって、柱と思われているヤコブとケパとヨハネはわたしとバルナバとに協力の握手をし、われらが異邦人に、彼らが割礼あるものに向かうようにしました。 |
新共同 | また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。 |
NIV | James, Peter and John, those reputed to be pillars, gave me and Barnabas the right hand of fellowship when they recognized the grace given to me. They agreed that we should go to the Gentiles, and they to the Jews. |
註解: 他の使徒たちはパウロの使命を認識せるのみならず(7節)、また神が彼にその能力活動成功において豊かなる恩恵を与え給えることを悟ってパウロ、バルナバに「交誼 の右手を与えた」(直訳)。すなわちヤコブ、ペテロ、ヨハネらの使徒中の中心人物はパウロと彼らとの間の性格や傾向や教育の差異をばこれを無視して神の使命と恩恵とが彼に与えられしことのみを見かつ知りて交誼 の握手を為した(これ今日我らも取るべき態度である)。而してかかる交誼 の目的は、一の団体を組織して共同に活動せんがためではなく、むしろ別々の天地に活動せんがためであった。
辞解
[柱] 建物を支うるものは柱である。首要の人物を指す。
[さとりて] 直訳「知りて」で7節の「見」と相対応している。
[ヤコブ] 主の兄弟ヤコブ、ここにガラ1:18と異なりペテロよりも先にヤコブを挙げしは彼がエルサレムの教会において首長の地位と声望とを有したがためである。一般伝道に関する場合にはペテロが首位に置かれる。
[交誼 ] koinônia 新約聖書においては主に在るものの一体としての交わりに多く用いられる語(使2:42。Tコリ1:9。ピリ2:1。Tヨハ1:3−7)。
[握手せり] 直訳「右手を与えたり」で契約または和解の意に用いられる熟語、ペルシャより始まりギリシャ語ヘブル語に輸入された。
2章10節
口語訳 | ただ一つ、わたしたちが貧しい人々をかえりみるようにとのことであったが、わたしはもとより、この事のためにも大いに努めてきたのである。 |
塚本訳 | ただ貧しい人たちだけは忘れないようにとのことだが、そのことならば、わたしもまた(常に)しようと努めていたのである。(かくしてエルサレム集会は、わたしが使徒たることを認めざるを得なかった。) |
前田訳 | ただ願わくはわれらが貧しい人々を顧みるようにということでしたが、ひたすらこのことをするようわたしも努めてきたのです。 |
新共同 | ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。 |
NIV | All they asked was that we should continue to remember the poor, the very thing I was eager to do. |
註解: エルサレムの使徒たちはパウロに伝道上の完全なる独立を承認した、唯ユダヤ地方の貧しきキリスト者を顧みることを忘れないようにとの希望があった。すなわち制度組織による一致ではなく愛による霊の一致を彼らは要求したのである。而してパウロは勿論このことに充分努力していた。
辞解
[貧しき者] ユダヤ地方は当時頻々 たる飢饉のために非常に貧困に陥っており、就中 キリスト者は最も困難な立場にあった、これがために異邦のキリスト者よりしばしば救助金が送られた (この書簡の前には使11:29、30.後にはロマ15:26、27。Tコリ16:3。Uコリ9:1以下。使24:17等あり) 。本節においてパウロが努力したことをいっているのはTコリ16:1の事実を指しているのであろう。本節の「貧しき者」は文法上必ずしもユダヤにおける貧困者に限る理由はないけれどもかく解することにより前後の関係一層明瞭となる。
要義1 [パウロの苦闘]パウロは律法主義のキリスト者に対して一歩も譲歩しなかった。信仰のみによりて義とされることの根本的真理は一歩も妥協を許さなかったからである。もしこれに対してわずかでも譲歩するならばそれはこの真理そのものの否定を意味しているからである。割礼を受けずば救われないということはあたかも今日教会に入会せずば救われないとか、洗礼を受けずば救われないというと同じく、信仰のみによりて救われることの大真理を否定することである。
要義2 [独立のパウロ]パウロは他の使徒からその使徒職を授与されたのでもなく、またこれを継承したのでもなかった。故に彼らはこの世の人の目にいかなる人であってもパウロは別段これを問題にしなかった(6節)、また大使徒らはパウロに何も加えず、パウロの使徒職も福音も人間たる使徒より伝承せるものは一つもなかった。而してもしパウロと大使徒との間に一致が存したとすれば、それは双方とも神より出づるが故であった。そこに霊による真の一致がある。而してこのことは単にパウロと彼の使徒職のみに関したことではなく、神によりて選ばれてキリスト者となる凡ての人に適用される真理である。
要義3 [独立と共同]大使徒らは交誼 すなわち一致の印として右手をパウロに差出した。しかしながらこの一致はパウロをペテロの配下に属せしめたのでもなく、またパウロをエルサレム教会の一員たらしめたのでもなかった。かえってペテロもパウロも各々独立して自分の与えられし天職に進むことと(8節)、愛によりて互いに顧みることとにおいて一致協同の実があげられたのである(10節)。真の一致は各人が神に在りて独立し愛によりて相交わる処にのみ存在する。真に貴く美わしき一致である。
2章11節 されどケパがアンテオケに
口語訳 | ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。 |
塚本訳 | またわたしはケパがアンテオケに来た時、彼が(良心に)責められることをしたので、面と向かって反対したことがあった。 |
前田訳 | しかしケパがアンテオケに来たとき、彼がまちがっていたので面と向かってなじりました。 |
新共同 | さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。 |
NIV | When Peter came to Antioch, I opposed him to his face, because he was clearly in the wrong. |
註解: パウロとペテロとの間には何ら上下の関係なく、パウロの使徒職もその福音もペテロより継承したものではない。その証拠の一つとしてパウロはアンテオケにおける一つの出来事をここに紹介している。聖霊に導かれる場合パウロはペテロの上に立ち彼を叱責した。法王至上権または無謬権のごときはいかなる条件の下にも成立たないことの証拠である。
辞解
[アンテオケ] 当時においては異邦人キリスト教徒の中心であった。ペテロがここに来たのは上述使徒会議(使15:1以下)の直後であったろう。
2章12節 その
口語訳 | というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。 |
塚本訳 | 彼はヤコブのところから(割礼の)人々が来る前は、異教人(クリスチャン)と一緒に食事をしていたのに、彼らが来ると、この割礼の人々を恐れ、離れて身を引いたからである。 |
前田訳 | 彼はヤコブのもとからある人々が来るまでは異邦人と食を共にしていたのに、彼らが来ると、割礼ある人々をおそれて引きさがって離れてゆきました。 |
新共同 | なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。 |
NIV | Before certain men came from James, he used to eat with the Gentiles. But when they arrived, he began to draw back and separate himself from the Gentiles because he was afraid of those who belonged to the circumcision group. |
註解: ペテロはかつて幻影(使10:9−28)によりて異邦人を潔からざるものと認むべからざることを示され、この黙示に従って行動し彼らと交わりかつ食事を共にした。かつ前数節に叙述される使徒会議においてもペテロはパウロの立場に同意した。然るに今ペテロはアンテオケに来りて始めの程は異邦人と交際を続けていたが後に至りてヤコブの許より来れる人々を畏れこれを継続するの勇気を失い、彼らとの間を自然に遠ざかってしまった。パウロはペテロのこの偽善を叱責したのである。
辞解
[ヤコブの許より] 何人が何の目的で来たのであるかは不明である。
[退き、別れたり] 未完了過去形なので種々に説明せられているけれどもおそらくこの事件は一回の会食についていったのではなくペテロが始めの間は異邦人と親密に交遊していたのを後に到りて徐々に疎遠の態度を取り、遂に全く彼らを離れるに至ったのであろう。「退き」は軍事用の用語として多く用いらる。
[共に食す] 愛餐は当時のキリスト者の間の交際の印であった。
2章13節
口語訳 | そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。 |
塚本訳 | そしてほかのユダヤ人(クリスチャン)たちも彼と一緒に偽善をやり、ついにはバルナバまでが彼らの偽善にさらわれたからである。 |
前田訳 | そしてほかのユダヤ人も彼と偽善を共にし、バルナバも彼らの偽善に引きずりこまれました。 |
新共同 | そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。 |
NIV | The other Jews joined him in his hypocrisy, so that by their hypocrisy even Barnabas was led astray. |
註解: ペテロの行為は偽善であった。何となれば神に対する確信をもって正直に人の前に行動せず、彼の信念と異なれる行動を取ったからである。然るにこの行動はユダヤ人の異邦人に対する優越感を満足し、また彼らの律法によりて義とせられんとする心に叶い、また律法を破れりとの非難を受くることの恐怖のために、アンテオケにおける多くのユダヤ人のキリスト者 ─ しかもパウロと共に異邦人の信仰の自由のために戦えるバルナバまでもが ─ この偽善的行為に誘われていった。パウロの悲憤はいかばかりであったろうか。
辞解
[僞行 ] hypocrisis 「偽善」の意、本心に異なる行動を為すこと。
2章14節 されど
口語訳 | 彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。 |
塚本訳 | しかし彼らが福音の真理に従って正直に行動しないのを見て、わたしはみんなの前でケパに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人のようでなく、異教人のように生活するではないか。それだのに、どうして異教人(クリスチャン)を強要してユダヤ人のように生活させるのか。」 |
前田訳 | しかし彼らが福音の真理にそって正しく歩まないのを見て、わたしは皆の前でケパにいいました、「あなたがユダヤ人でありながらユダヤ人のようでなく異邦人のように生活するのに、どうして異邦人にユダヤ人のようにせよと強いるのですか」と。 |
新共同 | しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」 |
NIV | When I saw that they were not acting in line with the truth of the gospel, I said to Peter in front of them all, "You are a Jew, yet you live like a Gentile and not like a Jew. How is it, then, that you force Gentiles to follow Jewish customs? |
註解: 使徒の首班と目せられしペテロを公衆の前にて面責せるパウロの真実さを思うべきである。またペテロの後継者と称するローマ法王が今日主張しつつある無謬論がいかなる牽強付会 をなすも結局大なる誤謬であることをも知ることができる。
辞解
[福音の真理] 律法の行為によりて義とせられず信仰によることの真理
[正しく歩む] orthopodeô 真直ぐな足をもって堂々と闊歩する姿。
[会衆の前] 原語「凡ての人の前に」
『なんぢユダヤ
註解: 始めペテロは異邦人中に交わり、彼らと共に肉を食し、異邦人のごとくに生活した。然るに今また翻ってユダヤ人の生活に逆戻りするならば、彼の行動を見て異邦人の信者もまた彼に倣うべきものであると誤解する者が生ずるに至るであろう、何となればペテロは彼らと共に食事をせず、彼らとキリスト者としての交際を為さざるに至ったからである。パウロのペテロを責めし所以はペテロのこの撞着 せる生活であった。
辞解
[『・・・・・・』] 本文に『 』がないので何節までがペテロに対する叱責の言であるかは明瞭でない。21節までをペテロに対する論駁 となす説もあり(M0)、その他の異説もあれど改訳の見解可なるがごとし。
[強いて] ペテロの実例とその態度とにより間接に異邦人のキリスト者にユダヤ人のごとき生活を強うることとなるであろう。
要義1 [ペテロの宗主権]カトリック教会はペテロが十二使徒団の首班であり従って全キリスト教会の地上における主長でありイエスより神の国の鍵を預けられており、彼によらざれば神の国に入ることができなことを主張しているけれどもパウロにおいては全然かかる考えがなかったことは本文の場合を見ても明らかである。ペテロも一人の誤り易き人間であった。いわんや彼の後継者と称するものをや。パウロはあくまでも人に由らず、直接に聖霊の指導によって働いた。かかる人にとって法王ペテロは不必要である。
要義2 [ペテロの偽善]ペテロがかかる偽善を行い、また多くの人々彼の偽善に誘われるに至った事情を考えてみるならば、その根本においてユダヤ人を恐れたからであった。しかしながら彼らにも相当の理由はあったのであろう。彼らは或はかくすることによって多くのユダヤ人を福音に導き、または多くの異邦人を潔き生涯に導き得るだろうというごとき理屈を心の中に描きて自己を弁護していたかもしれない。しかしながらペテロの心中には福音の真理は律法より自由となることであるとの確信があった、彼は周囲の事情に動かされてかかる偽善的行為に陥ったのである。サタンは巧みに罪を弁護する方法を我らに授ける。我らはサタンの詭計 に陥らず、あくまでも福音の真理に従って行動しなければならない。
要義3 [無智と偽善]信仰の弱きこと、すなわち福音の真理とキリストに在る自由を完全に認識せざるより生ずる行為がある。例えば食物または月日に関する特殊の禁断のごとき(ロマ14:1−6。Tコリ8:1。コロ2:16)、すなわちそれである。しかしながらかかる無智の結果肉を食わず、または日、月を守る者は固陋 と称すべきも偽善ではない。固陋 は避くべきであるけれども偽善はさらにこれを嫌悪すべきである。今日キリスト教会において神の御旨にあらざることを悟りつつも会衆の歓心を求めてこれに投ぜんとするごとき行為は、いずれも偽善としてこれを排斥しなければならない。もし会衆がかかる偽善に誘われるならば最も恐るべき結果を招来するであろう。
2章15節
口語訳 | わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、 |
塚本訳 | (言うまでもなく)わたし達は生まれながらのユダヤ人であって、罪の異教人ではない。 |
前田訳 | われらは生まれながらユダヤ人で、異邦人出の罪びとではありません。 |
新共同 | わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。 |
NIV | "We who are Jews by birth and not `Gentile sinners' |
註解: ユダヤ人は神の特別の選びの下にあり神より律法を授けられ神に最も近き民であった。異邦人はこれと異なり、神なく律法なく性来 にして怒りの子であり(ロマ1:24。エペ2:3)、神より離れている意味において「罪人」であった。もし律法の行為によりて義とされるものならば、ユダヤ人と異邦人との間には根本的な差異があることとなるけれども幸いこの差別はそれ程根本的ではなく、ユダヤ人であっても律法の行為によっては義とせられない。然るにペテロはかかる差異を強調するごとき行為に出でんとしたのであった。これは福音の破壊であるが故にパウロは反対せざるを得なかった。
辞解
[罪人] ユダヤ人に罪がないというのではない、「罪人」とは「神なき人」というほどの意味で「異邦人」の別名のごとく用いられていた。
2章16節
口語訳 | 人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。 |
塚本訳 | けれども、人は(モーセ)律法を行うことによっては(神の前に)義とされない、ただキリスト・イエスを信ずる信仰によらねばならぬことを知ったので、わたし達も(ユダヤ人でありながら、)キリスト・イエスを信じたのである。律法を行うことによらず、キリストを信ずる信仰によって義とされるためである。というのは、律法を行うことによっては、人は“すべて義とされない”からである。 |
前田訳 | 人が義とされるのは律法の行ないによるのでなく、ただキリスト・イエスのまことによると知って、われらもキリスト・イエスを信じました。それは律法の行ないによらずに、キリストのまことによって義とされるためです。律法の行ないによっては何びとも義とされないからです。 |
新共同 | けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。 |
NIV | know that a man is not justified by observing the law, but by faith in Jesus Christ. So we, too, have put our faith in Christ Jesus that we may be justified by faith in Christ and not by observing the law, because by observing the law no one will be justified. |
註解: 生れながらにして神の選民であり神の律法を賜っているユダヤ人すら、律法の行為によりて義とせられない以上、かかる律法を異邦人にまで強制することは全く無意味である。予(パウロ)がキリスト・イエスを信ずるに至った所以はこの信仰のみが予のみならず万民を神の前に義とすることができることを知ったからである。本節は同一の観念を三回も繰返しているように見えるけれどもこれを四段に分けて了解を助けることができる。第一段(「知りて」まで)はイエスを信ずるに至れる前提、第二段(「信じたり」まで)は全文の主体、第三段(「為なり」まで)は信ずるに至れる目的、第四段(私訳「そは」以下)は旧約聖書の事実をもってこの信仰の理由を確証したのである。
辞解
[義とせらる、律法の行為] これらの語につきてはロマ3:20註参照。
2章17節
口語訳 | しかし、キリストにあって義とされることを求めることによって、わたしたち自身が罪人であるとされるのなら、キリストは罪に仕える者なのであろうか。断じてそうではない。 |
塚本訳 | しかしながら、キリスト(を信ずる信仰)によって義とされようとする結果、(モーセ律法を捨てるので)わたし達自身が罪人となるとすれば、キリストは罪の扇動者ではないか。とんでもない! |
前田訳 | さて、キリストによって義とされるよう求めているからとて、われら自らも罪びとと認められるならば、キリストは罪の奉仕人ですか。断じて否です。 |
新共同 | もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。 |
NIV | "If, while we seek to be justified in Christ, it becomes evident that we ourselves are sinners, does that mean that Christ promotes sin? Absolutely not! |
註解: キリストは我らを義とせんがために義の役者としてこの世に来りその目的を果し給うた。我らは彼に在ることによりてのみ(すなわち信仰によりてのみ)義とされるのである。然るにペテロの態度のごとくこれでは不充分であるとしてさらに律法の行為を必要とするならば、我らユダヤ人はキリストを信ずること(彼に在ること)によりてかえって異邦人と同じ罪人(15節)と認められ、ユダヤ人よりもさらに以下のものとなった訳となる。もし然りとすればキリストは罪の役者、すなわち罪人を作るために働く者となる訳である。そんな馬鹿なことは有るはずがない。かく反語を用いてパウロは信仰のみによりて義とされることの絶対性を主張し、これに律法の行為を附加せんとせる者はキリストの教えを全く無意義とするのみならずかえって彼を罪の臣僕たらしむることとなることを示しているのである。(注意)なお本節を「キリストに在りて義とせられんことを求めて我らもまた〔異邦人と同じ〕罪人と認められる以上は」と訳し、これをパウロの説と見、その以下をばこれを利用してパウロを攻撃する敵の言と見る解釈あり(Z0、L3参照)。すなわち信仰によりて義とされることはユダヤ人も異邦人と同じく凡て罪人なることを意味すと解す。しかしこの解釈は可能であるが適切ではない。
辞解
[罪の役者] 罪そのものに仕えるという意味よりはむしろ罪を醸成、助長せんがために働く人を意味す。
2章18節
口語訳 | もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者であることを表明することになる。 |
塚本訳 | なぜなら、もしわたしが一旦こわした(律法なる)ものをふたたび建てるならば、それこそ自分自身が(律法を)犯す者であることを表わすからである。(ケパがしたことはこれではないか。) |
前田訳 | もしこわしたものをふたたび建てるならば、わたしは自らを違反者といいあらわすことになります。 |
新共同 | もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。 |
NIV | If I rebuild what I destroyed, I prove that I am a lawbreaker. |
註解: 前節の理由を述ぶ(gar)、すなわち「キリストに在る者は律法による義を毀 ち去ったものであるが、自分はこれを決して罪とは思わない、然るにもし自分がこの律法を再び建てようとするならば、これは変節、無節操であって、それこそかえって破戒者というべきであ
辞解
[毀 つ、建てる] いずれも家屋の例を取る。パウロは福音の真理を家屋に譬えたる場合多し、ロマ15:20。Tコリ3:10その他。
[犯罪者] parabatês は破戒者、律法を破る者の意。ロマ2:25、ロマ2:27。ヤコ2:9、ヤコ2:11のごとく一般的に律法の精神に反する意味にも用う。本節の場合は変節が破戒の内容をなすものと見るべきであろう。
2章19節
口語訳 | わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。 |
塚本訳 | というのは、神に対して生きるために、わたしは律法によって律法(との関係)に(おいて)死んでしまったのである。キリストと一緒に十字架につけられたのである。 |
前田訳 | わたしは神に生きるために律法によって律法に死にました。わたしはキリストとともに十字架につけられました。 |
新共同 | わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 |
NIV | For through the law I died to the law so that I might live for God. |
註解: 前節、律法を毀 ったというのはいかなる意味であるかといえばそれは律法に対しては自分が死んでしまい律法とは無関係となり律法をしてその作用を失わしめたことである。律法に対して死ぬるに至った原因は律法であった。すなわち律法は我らの心に罪を示し(ロマ5:13、ロマ7:7)、また罪の心を起し(ロマ7:8)、而してさらにこの罪を裁く(ロマ3:19)。かくして我らは我らの罪のため律法の審判に服し、次節のごとくキリストと共に十字架に釘けられることによりて死んだのである。而してキリストと共に復活し今は神のために生き神と共に生きているのであってこれ律法に死んだ目的でありまた結果である。この一節は実にキリスト教の頂点であり、またその核心である(B1)。
辞解
[律法によりて] 「信仰の律法」(B1)、「恩恵の律法」(L1)等と解する説あれど不適当である。我らを死に至らしめたのは律法そのものである。ただしここでは旧約聖書そのものを指すのではなく、一般的に道徳律と見るべきである(冠詞なきゆえ)。
2章20節
口語訳 | 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 |
塚本訳 | わたしはもはや生きていない。キリストがわたしの中に生きておられる。いまわたしが肉体で生きるのは、わたしを愛し、このわたしのために自分をすてられた神の子を信ずる信仰によって生きているのである。 |
前田訳 | わたしはもはや生きているのでなく、わがうちにあるキリストが生きているのです。今わたしが肉にあって生きているのは、神の子のまことによって生きているのです。彼はわたしを愛してわたしのために自らをおささげでした。 |
新共同 | 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。 |
NIV | I have been crucified with Christ and I no longer live, but Christ lives in me. The life I live in the body, I live by faith in the Son of God, who loved me and gave himself for me. |
註解: パウロの経験「律法によりて我が凡ての罪は裁かれ、我は十字架につけられて殺された。しかしそれはキリストが十字架につけられ給えることによるのであって我は唯信仰によりてキリストに連なり彼と一体となることによりて彼と共に十字架につけられたのである。キリスト我に代りて十字架につけられて死に給える時、我もまた十字架上に死んだのである。故にこのわれは最早生きているのではなく、それは過去のわれである。現在はキリストが我が内に在りて生き給うのであってキリストの生命が我に宿っているのである」。▲贖罪信仰の体験のエキスである。
註解: 「我は前述のごとく既に死んだものである。しかしなお今現に肉において生きている。というのは旧い自分が元のままに生きているのではなく、神の子イエスを信ずる信仰により新しき人として生きているのである。このイエスこそ我を愛し我がために十字架上に死に給うたのである」。なおガラ5:24。ガラ6:14。ロマ6:4−8。ピリ1:21。コロ2:11参照。キリストの死は万人のためであった。然るにパウロはこれを「我がため」と言ったのは贖罪の経験の全く個人的にして社会的にあらざることを示す。キリスト我が内に生くることと我キリストを信ずる信仰に生くることとは同一事実の両面である。キリストに対する信仰に生くる時、キリスト我を支配し我が内に生き給う。
2章21節
口語訳 | わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。 |
塚本訳 | わたしは神の恩恵をないがしろにしない。もし律法によって義が来るならば、それこそキリストの死は犬死である。 |
前田訳 | わたしは神の恩恵を無にしません。もし義が律法によるものならば、キリストが死なれたのはむだです。 |
新共同 | わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。 |
NIV | I do not set aside the grace of God, for if righteousness could be gained through the law, Christ died for nothing!" |
註解: 「神は恩恵によりてその独子を我に賜い、その死によりて我ら唯信仰のみによりて義とされるに至ったのである。もしこの恩恵のみによりて義とせられず更に律法も必要なりとするならば、それは恩恵を無効に帰してしまう訳である。我は決してかかることをしない。もし義が律法によりて来るものならばキリストは無駄に、理由も必要もなしに死に給うたこととなるのである。そんな馬鹿らしいことは絶対に有り得ない」。
辞解
[空しくせず] ouk athetô 「無効に帰せしめない」とのこと。
[徒然 なり] dôrean 「只で」「理由なしに」「必要なしに」等の意味。
要義1 [律法によりて義とせられんとする心]恩恵により、功績なしに義とされることの幸福を思うならば一旦福音に入りしものが今さら律法によりて義とせられんとするごときことは有り得べからざるがごとくに見える。然るに実際においてかかる現象が多いことは、人間がいかに自己の義、律法を遵守することによりて自己の功績として誇り得る義を欲するかを物語っている。信仰のみによって義とされることを知りて後にも往々にして律法の義に頼らんとする心の起ることはこの事実の顕れしものであって、ペテロの態度もその一つの発顕である。パウロが極力これを否定しているのは、信仰の義を高調せんがためであった。
要義2 [キリストと共なる生命]「最早われ生くるに非ず、キリスト我が内に在りて生くるなり」とはパウロの信仰の極致であって、いわゆるパウロの神秘主義とはこれである。この信仰ありて始めて信仰のみによりて義とされることの真の意義を知ることができ、またこの信仰ありて始めて真に人を愛することができ、律法を完全に行うことができるのである。パウロが律法の行為を全く排斥して唯信仰のみに立つことができたのも、かかる信仰を持っているからであった。この信仰こそ愛によりて働く信仰であり(ガラ5:6)、善行を生み出す信仰である。故に信仰のみによって義とされることを唱うるとも毫 も危険がない。この教理を否定するカトリックの立場、またはこの教理が善き業を滅ぼすであろうと恐れる人は、未だパウロのいわゆる信仰の何たるかを解しないものである。
要義3 [信仰の絶対性]絶対的なるものはこれに何ものをも附加することができない。人もしキリストに在らば(キリストを信じる信仰にいるのであれば)彼は新たに造られたものであって(Uコリ5:17)、そのまま神の前にキリストの義を着て立ち得るものである(ロマ13:14)。他に何物をも附加することを必要としない。もし何物かを附加することによりて始めて人を義とするを得るに過ぎないならば信仰そのものは人を義とするに足らざることとなり、キリストの死は無益のこととなる。無限なるものと有限なるものとの間には無限の差があるごとく、信仰のみによりて絶対に義とされるや否やによりて信仰の価値に無限の差を生ずる。パウロは信仰の絶対性を主張せんがために本書簡を認 めたのである。