黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版第1ペテロ書

第1ペテロ書第3章

分類
3 キリスト者のこの世における生活に関する教訓 2:11 - 4:6
3-4 妻に対する教訓 3:1 - 3:6

3章1節 - 2節 (同様(どうよう)に)(つま)たる(もの)よ、(なんぢ)らもその(をっと)(したが)へ。[引照]

口語訳同じように、妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、[2節]あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。
塚本訳同じく妻達よ、自分の夫に従え、或る夫が(伝道者の宣べる)御言には従わずとも、言葉でなく妻の行いによって、[2節](すなわち)お前達の神を畏れる潔い行いを見て捕えられんためである。
前田訳同様に、女の方たちはおのが夫に従いなさい。もしみことばに従わぬものがあっても、妻の無言の行状によって納得してくれるでしょう。[2節]すなわち、あなた方のつつましやかな清い行状を見てです。
新共同同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。[2節]神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。
NIVWives, in the same way be submissive to your husbands so that, if any of them do not believe the word, they may be won over without words by the behavior of their wives, [2節]when they see the purity and reverence of your lives.
註解: 主従の関係と夫婦の関係が凡てにおいて同一というのではなく、唯服従が妻の夫に対する関係の重点である意味において主従の関係に等しい。この点が今日のキリスト教国においていかに無視、蹂躙(じゅうりん)されているかを見よ。▲Tペテ2:13の脚注参照。口語訳「仕えなさい」の原語 hupotassô は英語の subordinateに相当す。(hupo=sub,tassô=ordinate)「(したが)う」と訳すべきである。

たとひ御言(みことば)(したが)はぬ(をっと)ありとも、

註解: 信仰に反対なる未信者の夫を持てる妻が信仰に入る場合は当時少なくなかった。

(なんぢ)らの(きよ)く、かつ恭敬(うやうや)しき行状(ぎゃうじゃう)()て、(ことば)によらず(つま)行状(ぎゃうじゃう)によりて(すくひ)()らん(ため)なり。

註解: 私訳「汝らの畏敬による潔き行状を見て、無言の裏に妻の行状によりて救入れられん為なり」。貞操や従順は勿論、妻たる身分に伴う凡ての行状を純潔ならしむることを神を畏れ敬いつつ注意し努力する妻は、たといその夫に対して信仰問題につきて説明または論議せずとも─否かえってかかる言を用いないがために─その行状がその夫を動かして夫の心を信仰に導き入れるに至るものである。服従の力の偉大さはここにある。
辞解
[言によらず] 「言なしに」で人を信仰に導くに必ずしも説明が最良の伝道法ではないことを示す。この事実は今日も多く目撃することができ、必ずしもロマ10:17と矛盾しない。
[救入れらる] kerdêthêsontai 損失を免れて利得を得る意味の動詞 kerdainô の未来受動形で、夫が亡びを免れて信仰に入ることはその妻や友人が彼を獲得せるのみならずキリストが彼を獲得せることとなり、彼は彼らに獲得せられしこととなる。

3章3節 (なんぢ)らは(かみ)()み、(きん)をかけ、衣服(ころも)(よそほ)ふごとき表面(うはべ)のものを(かざり)とせず、[引照]

口語訳あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、
塚本訳お前達の飾りは髪を(綺麗に)編んだり、金(の装身具)をつけたり、(美しい)着物を着たりする外部のことでなく、
前田訳あなた方の飾りはうわべの結い髪や金の装いや衣服の着つけでなく、
新共同あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。
NIVYour beauty should not come from outward adornment, such as braided hair and the wearing of gold jewelry and fine clothes.
註解: 婦人がこれらのもののために費やす苦心と時間と費用とは莫大である。この凡てを神の御旨に叶うことに用うべきである。

3章4節 (こころ)のうちの(かく)れたる(ひと)、すなはち柔和(にうわ)恬靜(しずやか)なる(れい)()ちぬ(もの)(かざり)とすべし、(これ)こそは(かみ)(まへ)にて(あたひ)(たか)きものなれ。[引照]

口語訳かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。
塚本訳柔和な、典雅な心ばせを朽ちぬ飾りとする心の中の隠れた人でなければならぬ。これこそ神の前で値打あるものである。
前田訳むしろ隠れた心の底の人柄で、霊の柔和と静けさという朽ちないものです。この霊こそ神の前に尊いものです。
新共同むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
NIVInstead, it should be that of your inner self, the unfading beauty of a gentle and quiet spirit, which is of great worth in God's sight.
註解: 婦人の真の飾りは前節のごとき外面的なものではなく、内面的のものすなわち「隠れたる人」であり、しかも知識や智慧にあらずして「心情の人」である。彼は柔和と恬靜(しずやか)なる霊を特色とする。そしてこの心情こそ、前節の諸々の飾りとは反対に、不朽にして高価なるものである。
辞解
[心のうちの] tês kardias は「心情の」と訳せば誤解を防ぐことができる。
[柔和な] praus は人に対して闘争的、反抗的ならざる心。
[恬靜(しずやか)なる] hêsuchios は静粛にして控え目でありかつ多弁ならず喧騒なる生活を嫌う心。

3章5節 むかし(かみ)(のぞみ)()きたる(きよ)(をんな)たちも、かくの(ごと)くその(をっと)(したが)ひて(おのれ)(かざ)りたり。[引照]

口語訳むかし、神を仰ぎ望んでいた聖なる女たちも、このように身を飾って、その夫に仕えたのである。
塚本訳昔神に望みをかけた妻達も、斯く(柔和と典雅な心をもって)その夫に従い、自らを飾ったではないか。
前田訳このようにかつて神に望んだ聖女たちもおのが夫に従って身を飾りました。
新共同その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。
NIVFor this is the way the holy women of the past who put their hope in God used to make themselves beautiful. They were submissive to their own husbands,
註解: イスラエルの歴史に表われし賢き婦人を引用して彼らの飾りは夫に対する服従であったことを示して当時の婦人の(いましめ)としている。
辞解
[神に望を置きたる潔き女] 真のイスラエルの婦はこの世の栄華を望まず、この世の汚れに染まず、神を望める聖潔の生涯を送る人である。次節の例のサラのごときこれである。

3章6節 (すなは)ちサラがアブラハムを(しゅ)()びて(これ)(したが)ひし(ごと)し。[引照]

口語訳たとえば、サラはアブラハムに仕えて、彼を主と呼んだ。あなたがたも、何事にもおびえ臆することなく善を行えば、サラの娘たちとなるのである。
塚本訳(例えば)サラが“「主」と呼んで”(夫)アブラハムに従順であったように。お前達も善いことをして、どんな“脅迫を”も”恐れなければ”、サラの子となったのである。
前田訳それはサラがアブラハムを主と呼んで従ったようにです。あなた方は善を行なって何もおそれなければ彼女の子におなりです。
新共同たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。
NIVlike Sarah, who obeyed Abraham and called him her master. You are her daughters if you do what is right and do not give way to fear.
註解: 前節の最も代表的の例としてサラを掲げている。創18:12にサラがアブラハムを主と呼べる記事あれど、単にこの一回の事実を指したのではなく彼女の一生涯の間、アブラハムを主として彼に仕えた(不定過去動詞にもこの用法あり。M0、A1、ガラ4:8)。

(なんぢ)らも(ぜん)(おこな)ひて何事(なにごと)にも(おのの)(おそ)れずばサラの()たるなり。

註解: アブラハムの生涯はハランの地を出で、カナンにさまよいてよりその死に至るまで勇敢なる信仰的冒険の生涯であった。サラがもしこれに恐愕したならば彼に(したが)うことができなかったであろう。サラは「いかに恐ろしきことにも懼れずして」(直訳)、善を行いその妻たる務めを全うした。ペテロは当時のキリスト者婦人にもサラのごとくなるべきことを薦め、これによりて男子が信仰によりてアブラハムの子たると同じく(ガラ3:7)、女子は服従によりてサラの子たることを示した。
辞解
この一節は意義上にも文法上にも異説が多い。「汝らはサラの子となりたれば(不定過去)善を行い、如何に恐ろしき事にも懼れざるなり(現在動詞)」(M0、ラゲ訳)と訳することが最も適当なるがごとし。
要義 [キリスト教の婦徳(ふとく)(=夫人の守るべき徳義:広辞苑)]パウロもペテロも共に婦徳(ふとく)要諦(ようてい)(=肝心の点:広辞苑)は夫に対する服従に在りとしていることは注意しなければならない(コロ3:18エペ5:22テト2:5)。今日の多くのキリスト教国においては、婦人尊重の習慣が発達しすぎて婦人の服従の美徳が失われている。その不幸なる結果はやがて彼らの上に報いられるであろう。唯もし彼らがこれをもってキリスト教的態度なりとするならば、これ大なる誤りである。妻の服従は神の定め給える永遠の途であって、単に当時のユダヤ人、または昔の男子尊重の戦乱時代の遺物ではない。唯妻の服従の美徳は往々にして男子の我慾を遂行するための方便として濫用された事実は多く存在した。しかしながらこの弊を矯正する方法は、妻の服従の美徳を廃止することにあらずして、夫婦共に信仰に立ちつつ各々神の定め給える永遠の途に進むことである。

3-5 夫に対する教訓 3:7

3章7節 (をっと)たる(もの)よ、(なんぢ)らその(つま)(おのれ)より(よわ)(うつは)(ごと)くし、知識(ちしき)にしたがひて(とも)()み、[引照]

口語訳夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなたがたの祈が妨げられないためである。
塚本訳夫達も同じく、妻を(自分よりも)弱い器として(いたわり、)理解をもって共に棲み、彼女達もまた恩恵の生命の共同相続人(である)として尊敬を払え。これは君達の祈りが妨げられないようにするためである。
前田訳夫たちも同様です。より弱い器としての妻とともに知識に従って住み、いのちの恵みを共に継ぐものとして(妻を)尊んでください。それはあなた方の祈りが妨げられないためです。
新共同同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。
NIVHusbands, in the same way be considerate as you live with your wives, and treat them with respect as the weaker partner and as heirs with you of the gracious gift of life, so that nothing will hinder your prayers.
註解: キリスト者たる夫の妻に対する務めは、第一にその共棲(きょうせい)に際して妻をば弱き(肉体的にも精神的にも)器としてこれをいたわり、これを圧迫虐待することなく、また女性の天性、妻の特質、夫妻生活の本質の如何を知り、家庭の内外に対する諸般の複雑なる関係の中に在る弱き妻を扱うには如何にすべきかの知識を有ち、これによりて(とも)()むことが必要である。この知識なきもの、また妻を虐待するものは夫たるの務めを尽くしていないものである。
辞解
[器] Tテサ4:4辞解参照。人格を無視し妻を所有物視したる意味ではなく、妻は夫のために創造(つく)られし「助け」(創2:18)であることよりこれを「器」と言ったのである。なお使9:15を見よ。
[の如くし] 「として」と訳する方が可し。
[己より弱き] 肉体的には勿論、精神的にも意志力において女は男より弱い。
[知識にしたがひて] 「節制をもって」の意に解する説あり、これも知識の一部であるが、これに限る必要はない。
[偕に棲み] 単に性的生活を行うの意味に限るべきではない。

生命(いのち)恩惠(めぐみ)(とも)()(もの)として(これ)を貴ベ、

註解: 夫の第二の務めは妻を貴ぶことである。これ女尊男卑の意味ではなく夫妻は共に神の世嗣として永遠の生命の恩恵に与るものなるが故である。妻を奴隷または所有物視することは罪である。神の貴び給うものを人もまた貴ぶべきである。

これ(なんぢ)らの(いのり)妨害(さまたげ)なからん(ため)なり。

註解: もし夫が妻を軽視、虐待しまたは無知の取扱いを為す場合には家庭における夫婦共同の祈祷は妨げられる。共同の祈祷なしに夫婦生活も家庭生活もありえない。
辞解
[汝らの祈] 夫たる者の祈りと解する説もある。
[妨害] enkoptein は中断する、邪魔が入る等の意味。
要義 [キリスト教の夫徳]東洋道徳は妻の義務を強調しつつ夫の義務を教えることが少ない。従って男尊女卑の風を生じ、女子を物品視する弊風(へいふう)を生んだ。キリスト教はこれに反し妻の夫に対する服従を教えると共に夫が妻を貴ぶべきこと、また夫の妻に対する義務を教え、かくして完全なる神中心の家庭生活を実現せしめんとしているのである。

3-6 一般的の教訓 3:8 - 3:12

3章8節 (をはり)()ふ、[引照]

口語訳最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。
塚本訳最後に、皆の者が同じ思いで、同情深く、兄弟仲よく、憐憫深く、謙遜であり、
前田訳終わりに申します。皆が心をひとつにし、同情し、兄弟愛にみち、あわれみをほどこし、へりくだってください。
新共同終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。
NIVFinally, all of you, live in harmony with one another; be sympathetic, love as brothers, be compassionate and humble.
註解: 2:13節以下の教訓の結尾。

(なんぢ)らみな(こころ)(おな)じうし、

註解: ロマ12:16および同節引照1参照。キリストを主と仰ぎ彼につかえることにおいて同心一体となること、自己を高しとし、または聡しとする者(ロマ12:16)または互いに相容れざる者(ロマ15:5ロマ15:7)紛争を事とする者(Tコリ1:10)徒党、虚栄のためにする者(ピリ2:2、3)は心を同じくしている者ではない。

(たがひ)(おも)()り、

註解: sympathein 同情を持つこと。

兄弟(きゃうだい)(あい)し、

註解: 愛なしに信仰の兄弟の関係はない。

(あはれ)み、

註解: 柔和なる心をもって苦難にあるものを憐む。

へりくだり、

註解: 神に対し人に対する謙遜、偽りの謙遜との差に注意せよ(コロ2:18コロ2:23)。

3章9節 (あく)をもて(あく)に、(そしり)をもて(そしり)(むく)ゆることなく、(かへ)つて(これ)祝福(しくふく)せよ。(なんぢ)らの()されたるは祝福(しくふく)()がん(ため)なればなり。[引照]

口語訳悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。
塚本訳悪で悪に、あるいは悪口で悪口に報いず、むしろ反対に、祝福せよ。祝福を相続するために召されたのであるから。
前田訳悪に悪を、そしりにそしりを返さず、むしろ祝福をお返しなさい。あなた方が召されたのは祝福を継ぐためです。
新共同悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
NIVDo not repay evil with evil or insult with insult, but with blessing, because to this you were called so that you may inherit a blessing.
註解: 8節が信徒相互の関係とすれば本節は信徒の敵に対する関係を示す。マタ5:38−48のイエスの教訓を髣髴せしめる。他人の悪(行為)および謗り(言語)に対して復讐心を起さずにいること、さらに進んでその敵を祝福することは、自ら永遠の祝福を嗣ぐの希望を握るにあらざれば不可能である。そして神の我らを召し給える目的がこの永遠の祝福を嗣がさせるためであるとすれば、我らは今よりこの祝福を敵にも分与することができる。

3章10節 ((けだ)し)『生命(いのち)(あい)し、()()(おく)らんとする(もの)は、(した)(おさ)へて(あく)()け、口唇(くちびる)(おさ)へて虚僞(いつはり)(かた)らず、[引照]

口語訳「いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は、舌を制して悪を言わず、くちびるを閉じて偽りを語らず、
塚本訳“何故なら生命を愛し善い日を見ようと思う者は、舌を抑えて悪を、唇を抑えて欺瞞を語らぬようにせよ。
前田訳(聖書にあります、)「いのちを愛し、よい日々を見たい人は、舌の悪をとどめ、唇にいつわりをいわせず、
新共同「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は、/舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、
NIVFor, "Whoever would love life and see good days must keep his tongue from evil and his lips from deceitful speech.
註解: 「生命」は本節の場合は地上における生活を意味し、この生活を愛してこれを有意義ならしめ、また「善き日」すなわち真の意味において幸福なる日を送らんとする者は8、9節のごとき生活を送るべきことを教えているのである。そしてその第一は口舌を慎むことである。悪口や虚偽はたといそれが相手方の悪口虚偽に報いるものであっても人を不幸ならしめその生活を害する。いわんや然らざる場合はなおさらである。
辞解
10−12節は詩34:13−17の七十人訳の引用でペテロはこれを少しく変更している。

3章11節 (あく)より(とほ)ざかりて(ぜん)をおこなひ、平和(へいわ)(もと)めて(これ)()ふべし。[引照]

口語訳悪を避けて善を行い、平和を求めて、これを追え。
塚本訳悪を避け、善を行え、平和を探し、追い求めよ、
前田訳悪を避けて善をなし、平和を求めてそれを追え。
新共同悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。
NIVHe must turn from evil and do good; he must seek peace and pursue it.
註解: 平凡なるがごとくにして実は義しき生活の要領を尽くしている一節である。
辞解
[求める] zêteô は熱求する意。
[追ふ] diôkô はさらに強き意味で追求してこれを得るまでは止まざる(すがた)。かくまでも平和を求める心を神は我らに要求し給う。

3章12節 それ(しゅ)()義人(ぎじん)(うへ)にとどまり、その(みみ)(かれ)らの(いのり)にかたむく。されど(しゅ)御顏(みかほ)(あく)をおこなふ(もの)(むか)ふ』[引照]

口語訳主の目は義人たちに注がれ、主の耳は彼らの祈にかたむく。しかし主の御顔は、悪を行う者に対して向かう」。
塚本訳主の目は義人の上に注がれ耳は彼らの祈りに傾く、しかし主の御顔は悪を行う者にうち向かう”。(と詩篇にある。)
前田訳主の目は義人たちにそそがれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられるが、主の顔は悪をなすものに向けられる」と。
新共同主の目は正しい者に注がれ、/主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
NIVFor the eyes of the Lord are on the righteous and his ears are attentive to their prayer, but the face of the Lord is against those who do evil."
註解: 「怒りは全顔面を動かし愛は目に顕われる」(B1)。御顔は主の審判を表わし目と耳は主の愛を示す。常に主を仰ぎ見る者は主の御旨に叶う生活すなわち義しき祈りの生活を送ることを喜ぶ。
要義 [主を仰ぎ見るの生活]8−12節の生活は愛と義と聖潔と平和とに充てるキリスト者の生活の縮図である。その目は主の御顔に注がれその耳は主の御言を聴き、その望みは永遠の祝福にかかっている。これを世の主義に従って生きる肉の人の生涯と比較するならばその対照を明らかにすることができるであろう。

3-7 主イエス・キリストとその救い 3:13 - 3:22

3章13節 (()つ)(なんぢ)()もし(ぜん)熱心(ねっしん)ならば、(たれ)(なんぢ)らを(そこな)はん。[引照]

口語訳そこで、もしあなたがたが善に熱心であれば、だれが、あなたがたに危害を加えようか。
塚本訳もし君達が善に熱心であるなら、誰が害を加えよう。
前田訳あなた方が善の熱心家ならば、だれが加害者になりましょう。
新共同もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
NIVWho is going to harm you if you are eager to do good?
註解: 直訳「且つ汝らもし善の熱求者たらば汝らを(そこな)はんものは誰なるか」との強き言い表わし方である。善を求めるものは物質的損害によりて益々多くの精神的利益と幸福とを獲得する。

3章14節 たとひ()のために(くる)しめらるる(こと)ありとも、(なんぢ)幸福(さいはひ)なり[引照]

口語訳しかし、万一義のために苦しむようなことがあっても、あなたがたはさいわいである。彼らを恐れたり、心を乱したりしてはならない。
塚本訳しかし仮に正義のため苦しんでも、幸いである。“彼ら(異教人達)の恐ろしさを恐れず、また驚かされず”、
前田訳しかしもし義をなしてお苦しみならば、あなた方はさいわいです。「彼らをおそれず、心を乱さず」、
新共同しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。
NIVBut even if you should suffer for what is right, you are blessed. "Do not fear what they fear ; do not be frightened."
註解: 山上の垂訓(マタ5:10)を思い起す一節である。
辞解
[義] 8−12節のごとき生活を指す。
[苦しめらる] (そこな)う」よりも弱き語。

(かれ)()威嚇(おどし)(おそ)るな、また(こころ)(さわ)がすな』

註解: イザ8:12の引用で迫害に対して泰然自若たるべきことを教えている。不信者の多き実社会において権力者、上官、上役等よりの威嚇(おどし)もキリスト者を恐れしめその心を騒がしめてはならない。マタ10:28

3章15節 (こころ)(うち)にキリストを(しゅ)(あが)めよ、[引照]

口語訳ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。
塚本訳ただ心に“主”キリスト“を(畏れこれを)聖とせよ”。君達にある希望について説明を求むる者には誰にでも、何時でも弁明の用意をして居れ。
前田訳主キリストを心の中であがめてください。あなたの中にある希望について説明を求める人には、だれでもつねに答えうる用意をなさい。
新共同心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
NIVBut in your hearts set apart Christ as Lord. Always be prepared to give an answer to everyone who asks you to give the reason for the hope that you have. But do this with gentleness and respect,
註解: 迫害誹謗に対して心を動かさない方法はキリストを主と崇め、彼に依り頼むことにより何者をも恐れざるにある。「心の中に」を附加したる所以は主キリストを単に形式や口頭をもって崇むることが迫害に打勝つ力なきことを示す。
辞解
[崇め] hagiazô はマタ6:9の「崇め」と同文字、「聖め」を意味するその個所の註を参照。本節はむしろ「心の中に主キリストを崇めよ」と訳す方が優っている(M0、B1、Z0、I0、E0等)。その故は本節はイザ8:13を念頭に置きて録したることは明らかなる故。日本改訳は英改正訳によりたるものならん(A1)。

また(なんぢ)らの(うち)にある(のぞみ)理由(りいう)()(ひと)には、柔和(にうわ)畏懼(おそれ)とをもて(つね)辯明(べんめい)すべき準備(そなへ)をなし、

辞解
[辯明] apologia 弁証。当時キリスト教に対し種々の反対論や誤解がありしため弁明を必要とした。

3章16節 かつ()良心(りゃうしん)(たも)て。[引照]

口語訳しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。
塚本訳しかし柔和と、(主に対する)恐れとをもってせよ。また(恥ずることのない)善い良心をもて。君達のキリストにおける善い行いを罵っている者達が、その譏っている事柄について恥をかかせられるためである。
前田訳それを柔和と謙遜でなし、明らかな良心をもってなさい。あなた方がそしられるときに、あなた方のキリストにあるよい行ないを悪くいう人々が恥じるでしょう。
新共同それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。
NIVkeeping a clear conscience, so that those who speak maliciously against your good behavior in Christ may be ashamed of their slander.
註解: 私訳「汝らの(うち)にある希望の理由を問う凡ての人に弁明すべく常に準備をなせ、されど柔和と懼れをもって善き良心を持ちつつ〔これを為すべし〕」。迫害非難を懼れて往々自己の信仰を秘し、またはこれを証することを躊躇することに対しペテロはここに大切なる教訓を与えている。ただしそれは「汝らの(うち)にある希望」たることを必要とし、単に形式的表面的の信仰であるならば弁明も役に立たない。また「凡ての人」に弁明することを必要とするけれども問いもせぬ人に押売りがましくすることは真理の尊厳を害し、豚に真珠を投与える類である。また信仰につき弁明するには第一に「柔和」を必要とし、高慢や熱狂はかえって害がある。また神に対する「畏れ」なしに空論を(もてあそ)ぶことは百害あって一利ない。また「善き良心を持たずして」換言すれば自ら信仰に反する行為を為し良心に責を感じつつ信仰の証を為すともそれは何らの効果を持来すことができない。ここにペテロは信徒が信仰の証をするに極めて重要なる諸条件を示したのである。
辞解
[かつ善き良心を保て] 前文との関係が消滅してしまう故に適訳ではない。

これ(なんぢ)()のキリストに()りて(おこな)()行状(ぎゃうじゃう)(ののし)(もの)の、その(そし)ることに()きて(みづか)()ぢん(ため)なり。

註解: 前節のごとき立派なる態度をもって応答する時はその答弁の内容よりも、その答弁者の態度そのものが敵を恥ぢしむるに充分である。いわんやその弁明が真理ならばなおさらのことである。これらの敵はキリスト者の信仰によりて行う善行をも種々に曲解してこれを罵ったので、今その正しき弁明をきき自己の偽りが明らかになり自己のこの誹謗的行為について()ぢしめられるであろう。熱狂や高慢なる態度は敵を恥ぢしめずに、かえって敵をしてキリスト教を益々軽蔑せしめ反感を助長する。
辞解
[自ら()ぢん爲] 直訳「()ぢしめられん為」。

3章17節 もし(ぜん)をおこなひて苦難(くるしみ)()くること(かみ)御意(みこころ)ならば、(あく)(おこな)ひて[苦難(くるしみ)()くるに](まさ)るなり。[引照]

口語訳善をおこなって苦しむことは—それが神の御旨であれば—悪をおこなって苦しむよりも、まさっている。
塚本訳何故ならもし神の御意が欲するのであるならば、善いことをして苦しむ方が、悪いことをして苦しむよりはよいからである。
前田訳もし神のみ心ならば、善をなして苦しむことは悪をなすにまさります。
新共同神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
NIVIt is better, if it is God's will, to suffer for doing good than for doing evil.
註解: 悪を行いて苦難を受くることは当然のことでありかつ人を懲戒するに益がある。しかしながらもし神の御旨である場合には善を為しつつ苦難を受くることは一層勝っている。殉教者の血は宣教の源になったと同じくキリストにある義しき者の苦難は信仰の証のよき機会を与える。ただしこれは神の御旨であることが必要であって、自己の性癖や無智のために受くる苦難は決して褒むべきではない。

3章18節 (そは)キリストも(なんぢ)らを(かみ)(ちか)づかせんとて、(ただ)しきもの(ただ)しからぬ(もの)((とも))に(かわ)りて、(ひと)たび(つみ)のために()(たま)[へ](ひたればな)り、[引照]

口語訳キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。
塚本訳というのはキリスト(御自身)すら罪の(贖いの)ために、義しい人でありながら義しからぬ人々のために、ただ一度死に給うたのである。これは君達を神に連れ行くためで、彼は肉では殺され給うたが、霊では活かされ、
前田訳キリストも罪のために、すなわち義にいましながら不義者のために、ひとたびお死にでした。それはわれらを神に導くためにです。彼は肉にあって殺され、霊にあって生かされたのです。
新共同キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
NIVFor Christ died for sins once for all, the righteous for the unrighteous, to bring you to God. He was put to death in the body but made alive by the Spirit,
註解: キリストの十字架の苦難と正しきキリスト者の受くる苦難とはその程度においてもその効果においても全然同一なりとは言い得ないけれども、この両者の間に非常に類似せる点があることは、苦難に遭えるキリスト者を慰める処の事実である。その類似点は(1)正しき者が正しからぬ者共のために苦しむこと、(2)罪のために苦しむこと、(3)一度(この世において)苦難に遭うのみでやがて永遠の幸福に復活すること、(4)目的が罪人を神に近付かしむるにあることである。善を行うキリスト者が罪人の罪のために迫害に遭うのも要するに彼らを神に近付かせんがための神の御旨であることを思うべきである。
辞解
「キリストも」の前に「そは・・・・・・なればなり」とあって前節の「勝るなり」の理由を説明する。
[神に近づく] 神との親しき霊交に入ること。「救」よりもさらに一歩進んだ状態。
[代りて] huper Tペテ2:21のごとくその主なる意義により「の為に」と訳する方がかえって適当している(キリストの苦難との比較上)。
[死に給へり] 異本に「苦しみ給へり」とあり。

(かれ)(にく)[(たい)]にて(ころ)され、(れい)にて()かされ(たま)へるなり。

註解: 十字架上に殺され給えるはキリストの肉、すなわち人間的、地的、一時的の体であり、甦り給えるは霊の体すなわち神的、天的、永遠的の体であった。
辞解
この一段は文法上「神に近づかせんとて」に関連しており(M0)、復活して神の右に坐し人々を執成(とりな)し給うことによりて凡ての人を神に近付かしめ給う。ヨハ12:32

3章19節 また(れい)にて()き、(ひとや)にある(れい)宣傅(のべつた)へたまへり。[引照]

口語訳こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。
塚本訳且つ霊で行って、(陰府の)獄に閉じ込められていた(悪)霊達に(救いの福音を)宣べ給うた。
前田訳そして霊にあって、(死の)獄(ひとや)の中の諸霊をも訪れて宣教をなさいました。
新共同そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
NIVthrough whom also he went and preached to the spirits in prison
註解: ▲問題の多い一節である。信仰なしに死んだ人も死後に福音が伝えられるということは大きな恩恵である。しかしこれは不信仰を奨励する意味でないことは勿論である。

3章20節 これらの(れい)は、(むかし)ノアの時代(じだい)方舟(はこぶね)(そな)へらるるあひだ寛容(くわんよう)をもて(かみ)()(たま)へるとき、(したが)はざりし(もの)どもなり、[引照]

口語訳これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。
塚本訳彼らはかつてノアの日に、箱船が造られる間神が寛容をもって(悔い改めを)待ち給うた時不従順で、(ただ)小数の者、すなわち(ノアとその家族)八人(だけ)がこの箱船に入り水を通って救われた。
前田訳彼らはかつてノアのころ箱舟が備えられたときに、神が寛容でお待ちにもかかわらず不従順でした。箱舟では少数、すなわち八人だけが水から救われました。
新共同この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。
NIVwho disobeyed long ago when God waited patiently in the days of Noah while the ark was being built. In it only a few people, eight in all, were saved through water,
註解: 復活し給えるキリストは、その霊の体をもって進み行き、不信仰のために死後に幽囚の苦を()めつつある霊に向って罪の赦しの福音を宣伝え給うた。これ彼らもまた新たに悔改めて救われること有らんかとの愛の御心からである。この獄の中に幽囚せられし死人の霊の代表的のものは創6−8章のノアの洪水が来らんとしつつありし際の不従順の人類であった。ノアが方舟を準備しつつあるその期間に、あたかもキリストの御在世の期間と同じく神の教えと審判が近付きつつあることが人類に向って公示せられた。かくして神は寛容をもって人類の悔改めを期待し給うた。

その方舟(はこぶね)()(みづ)()(すく)はれし(もの)は、(わづか)にしてただ八人(はちにん)なりき。

註解: しかるに方舟に入りて救われるものはわずかに八人に過ぎず、他は凡て洪水のために滅ぼされ、その霊は獄の中に投込まれたのである。キリストの贖罪の死はこれらの不信の霊をも救わんがために復活のキリストにより彼らにも福音が宣伝えられたのである。その後といえども不信のままに死ぬるもの、未だ福音を聞かずして死ねる者らにもキリストは霊にて宣伝え給うであろう。(注意)本節は最も難解なる一節で重要なる問題を含み異説多し。章末附記参照。

3章21節 その(みづ)(かたど)れるバプテスマは(にく)汚穢(けがれ)(のぞ)くにあらず、()良心(りゃうしん)(かみ)(たい)する要求(もとめ)にして、イエス・キリストの復活(よみがへり)によりて(いま)なんぢらを(すく)ふ。[引照]

口語訳この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。
塚本訳今やこの水の対型たる洗礼は、肉の穢れを除くことでなく、善い良心を神に祈願することであって、イエス・キリストの復活により君達をも救うのである。
前田訳この水が今あなた方をも救う洗礼の典型です。洗礼は肉の汚れを除去することではなく、明らかな良心を神に願い求めることで、イエス・キリストの復活によるものです。
新共同この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。
NIVand this water symbolizes baptism that now saves you also--not the removal of dirt from the body but the pledge of a good conscience toward God. It saves you by the resurrection of Jesus Christ,
註解: ノアの洪水は一つの型である。方舟は水に浮び上り、ノアの一家は洪水の中を通過してこれから救い出された。これと同様にノアの洪水に(かたど)られるパブテスマの水はロマ6:3−11の示すごとく我らの肉の死を示し、浮び上れる方舟に似たるキリストの復活は我らの新生すなわち救いを意味する。そして復活せるキリストは次節のごとく天に在し権力を持ちて我らを救い給う。キリストが肉にて殺され霊にて生かされ給えるはこのためであった(18節)。そしてこのバプテスマは単に肉の外部の汚穢を除くというごとき消極的の問題ではなく「神に対する善き良心を要求」すること、すなわち神との間に罪による離隔がなく、罪は赦されて神との間に義しき関係に立つこと(使24:16ヘブ10:19ヘブ10:22)である。
辞解
本節は前節と同じく難解の一節で、文法上、意義上に種々の説に分かれている。多くの点において改訳本文のごとくに訳する説が最も優っている故これによった。ただしその中「善き良心の神に対する要求」の原文には「善き良心が神に対して何物かを求めること」(B1、E0、改訳)、または「善き良心を神に対して求めること」(W2、ホフマン)、「神に対して善き良心が契約をすること」(M0、L1、G2)、「善き良心が神を求めること」(A1)。その他の解があるけれども、むしろ「神に対する善き良心を求めること」(セーヤー辞典)と訳することが最も優っているように思う故解釈はこれによった。▲パウロはロマ6:3−14に水のバプテスマを肉の死と霊の新生命への復活の型として説明している。これを参照すれば難解な本節を理解することができるであろう。

3章22節 (かれ)(てん)(のぼ)りて(かみ)(みぎ)(いま)す。御使(みつかひ)たち(およ)びもろもろの權威(けんゐ)能力(ちから)とは(かれ)(したが)ふなり。[引照]

口語訳キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである。
塚本訳彼は天に行き神の右に居給うて、使い、権威、権力(等の天使達)がこれに服従している。
前田訳彼は天に上って神の右に座し、天使と権威と権力をお従えです。
新共同キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。
NIVwho has gone into heaven and is at God's right hand--with angels, authorities and powers in submission to him.
註解: キリストの復活によりて救われる理由を明らかにせんがために活けるキリストの現在の稜威を示す。すなわち彼の地的肉的存在は今や栄光に充てる天的存在と化し、彼は神の右に坐して神の権を代理し、あらゆる種類の天使は彼の支配の下に服従し宇宙における絶対の権を握り給う。
辞解
[昇り] 19節の「往き」と同語。
[権威・能力(ちから)] 天使の別名。引照3及びエペ1:21コロ1:16参照。
要義1 [主イエス・キリストの苦難とその栄光を憶え]キリストの生涯において、殊にその苦難の場合において、キリストの苦難とその栄光を仰ぎ見るべきである。18−22節にキリストの受難の意義、その復活、その霊による福音の宣伝、その昇天、権威、支配等につきて記され、これによりて我らの救いの確実さを示し、もって現世における苦難に耐えるべきことを教えているのはそのためである。善を行いつつ苦難に遭うことは堪え難き苦痛である。しかしながら復活して神の右に坐し給う主イエス・キリストの栄光を仰ぎ()るとき、この苦難は彼によって救われる者に最も相応しき状態であることをさとるであろう。
要義2 [不信者、未信者、幼児等の救いについて]人は信仰によって罪を赦され、義とせられ、救われる。従って不信仰なる者は審判に遭い、永遠の滅亡に入ることは当然のこととして聖書の示す真理である。唯聖書は未だ福音を知らずして死せる我らの祖先、または福音を誤り伝えられしが故に信じ得ざりし人々、または伝道者の不徳に対する反感より信仰に入り得ざりし人々、または信仰の何たるかを解せざる幼児についてはほとんど何らの記載がない。もし彼らもアダムの裔として罪人であるが故に当然に亡ぶべきであるとするならば、理論としては徹底しているけれども、神の愛と公平を思うとき、かかる結論に我らは承服しがたきを感ずる。この点につきて聖書が沈黙を守っている所以は、これらの不信または未信の人々の将来如何は神と彼らとの間のみの問題であって、我らがこれに立入ることもできず、またこれに対して好奇心を持つべきにあらざるが故であろう。聖書によりて神は直接に我らに向って信仰を要求し給う。我らはこれに対し直接に諾否(だくひ)の応答をすれば足るのであって、他人の問題について詮議(せんぎ)立てすべきではない。これは神の領分に属する。唯聖書中二三この点につき暗示を与える個所があるのであって、Tペテ3:19節のごときもその一であり、またTペテ4:6Uペテ3:9ヨハ5:28のごときも何らか這般(しゃはん)の消息を伝うるがごとくに思われる。万人救済説を聖書の文字によりて断定することはできないにしても神が万人の救済を望み給うことは聖書全体に充満する真理である。而して神において能わざるなし。神はやがて聖書に示されざる方法によりて万人の救済を実現し給うことがないとは何人も断言しえない処であろう。
附記 Tペテ3:19節について]この一節は虚心坦懐(きょしんたんかい)にこれを読む場合には何人も上掲の註解に示すがごとき意義に解せざるを得ないであろう。かく解する時、不信のままに死にたる霊にもまた改めて福音が復活のキリストによりて宣伝えられることとなる。然るに聖書の教うる根本的真理の一つは、不信仰のままに死せる者は永遠の滅亡に入るより外なきことである。本節はこの明瞭なる教理と矛盾するがために、古来本節に関し多くの異なれる解釈が試みられた。
(1) 「霊にて往き」を先在のキリスト(Tコリ10:4)と解し、受肉以前のキリストの霊がノアをして神の審判を宣伝せししことと解す。「獄にある霊」は「肉と無智の暗黒の中にある霊」と解す(A1その他)。この節は後半がTペテ3:20に反す。
(2) 「霊にて往き」は使徒たちがキリストの霊を受けて伝道すること、「獄にある霊」は不信のユダヤ人および異邦人と解す(グロチウス等)。この節の後半もTペテ3:20に反す。
(3) 「宣傅へ」を審判を宣伝えしことと解し前提の矛盾を避けんとする説(カロヴイウス等)。しかし、「宣傅へ」はかかる意味には用いられない。
(4) 「獄にある霊」を旧約の聖徒と解し、キリストの救いを待ちつつあった人々に福音が宣伝えられしことと見る。「獄」を「観望槽(ものみやぐら)」と解す(C1、テルトウリアヌスその他)、この節前半はTペテ3:20に反し、後半は極めて稀なる用法である。
(5) この節はノアの時の凡ての不信の徒を意味せず、その中で最後の瞬間に信仰に入りしものを意味するであろうとする説(B1、L1(1545年)その他)。聖書本文よりかかることを想像することができない。
(6) 「獄にある霊」は堕落せる天使であると解する説(スピツタその他)。Tペテ3:20に反す。
 なおキリストが「獄にある霊」に宣伝せる時期については十字架の死後復活以前の時期と解する説が多い。しかしながら上掲の註解のごとく復活の後と解することは差支えがない。要するに以上のごとく解することは本来の意義ではなく、聖書中に存する矛盾を除かんとする企てに過ぎない。聖書の真理は一つの系統に詰込むべくあまりに大であることを思うべきである。

第1ペテロ書第4章
3-8 苦難の意義 4:1 - 4:6

4章1節 (されば)キリスト(にく)[(たい)]にて苦難(くるしみ)()(たま)ひたれば、(なんぢ)らも(また)おなじ(こころ)をもて(みづか)(よろ)へ。[引照]

口語訳このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。
塚本訳かくキリストは肉体で受難し給うたのであるから、君達も同じ考えで自分を武装せよ──(罪なくして)肉体で受難した者は(既に)罪(の生活)を断ったのであるから──
前田訳キリストが肉にあってお苦しみでしたので、あなた方も同じ心で武装なさい。肉にあって苦しんだものは罪をのがれます。
新共同キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。
NIVTherefore, since Christ suffered in his body, arm yourselves also with the same attitude, because he who has suffered in his body is done with sin.
註解: 2:11以下の薦奨の続きで6節に至っている。すなわちキリストすらもその肉体は人類の罪を負って死の苦難を受け給うた。ゆえに罪の肉を持てる我らは安逸に肉の生活を送るべきではなく、キリストと同じ苦難を受ける心掛けを必要とする(コロ1:24)。
辞解
[されば] Tペテ3:18を受ける

――(そは)(にく)[(たい)]にて苦難(くるしみ)()くる(もの)(つみ)()む[る](れば)なり――

註解: 肉が安逸の中にいる時ほど罪の力は我らを捉える。罪から離れる最もよき方法の一つは肉体に苦難を受けることである。それ故に苦難は我らを罪より離れしめんがための神の恩恵である。
辞解
[止むる] 停止の意味で根絶の意味ではない。ゆえに苦難の中における聖潔または信仰は苦難の去ると共に警戒を有する。

4章2節 これ(いま)よりのち、(ひと)(よく)(したが)はず、(かみ)御意(みこころ)(したが)ひて、肉體(にくたい)(やど)れる(のこり)(とき)(すご)さん(ため)なり。[引照]

口語訳それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。
塚本訳これは君達が最早人間の情欲によらず、神の御心によって肉体の残りの時を生きるためである。
前田訳それは肉にある余生を、もはや人の欲でなく、神のみ心のために過ごすためです。
新共同それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。
NIVAs a result, he does not live the rest of his earthly life for evil human desires, but rather for the will of God.
註解: 私訳「かくして肉にある残りの時を決して人の慾に生きず神の御意(みこころ)に生くるに至るなり」。肉体に苦難を受け罪を止めたる余生を送るならばその結果その生活の原理、方針、規範はもはや人間的慾求ではなく神の御意にあるようになる。すなわち生活そのものが神の意思に支配されるに至る。前節は肉につける死を示し、本節は霊につける生を示す。
辞解
本節は前節の「自ら(よろ)へ」との命令の目的を示すと見る説がある(英、日改訳、A1)。けれども文法上は「罪を止むる」の結果と見る方が正しい(M0、B1、I0、E0、C1)。註はこれによった。

4章3節 なんぢら()ぎにし()は、異邦人(いはうじん)(この)(ところ)をおこなひ、好色(かうしょく)(よく)(じゃう)酩酊(めいてい)宴樂(えんらく)暴飮(ばういん)律法(おきて)にかなはぬ偶像(ぐうざう)崇拜(すうはい)(あゆ)みて、もはや()れり。[引照]

口語訳過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。
塚本訳というのは君達は過去を(神の御意ならぬ)異教人の意欲を行いながら放埒、情欲、大酒、酒宴、酒乱と禁断の偶像礼拝とに過ごしたが、(もう)充分だからである。
前田訳あなた方は思う存分、過去に異教徒の心を行なったのです。すなわち、放縦、欲情、酔酒、宴楽、暴欲、悪質な偶像崇拝をしていました。
新共同かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。
NIVFor you have spent enough time in the past doing what pagans choose to do--living in debauchery, lust, drunkenness, orgies, carousing and detestable idolatry.
註解: 私訳「そはなんぢらが異邦人の望む処を行い、好色・・・・・・偶像崇拝に歩みしは過ぎし日にて充分なればなり」。すなわち享楽生活と不信仰生活は過去だけですでに充分であって将来は前節のごとく神の御意(みこころ)に生きなければならない。
辞解
[異邦人の好む所] 直訳「異邦人の旨または意思」の意。ここではユダヤ人に対する異邦人の国籍的区別よりも、キリスト者に対する未信者の道徳的区別を言えるものと解すべきであろう。
[律法にかなはぬ] athemitos は「律法を蹂躙(じゅうりん)する」というごとき強き意味。
[おこなひ、歩む] 共に完了形分詞を用い凡て過去の事実であることを示す。

4章4節 (この(ゆゑ)に)(かれ)らは(なんぢ)らの(おのれ)とともに放蕩(はうたう)(きはみ)(はし)らぬを(あや)しみて(そし)るなり。[引照]

口語訳今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている。
塚本訳(しかしかつては共にこれらのふしだらな生活をしていた)彼ら(異教人達)は、君達が(最早)同じ放蕩(生活)の流れに共に身を投じないので、そのことを(驚き)異しみ、(君達を譏るばかりか、遂に)主と神とを冒涜する。
前田訳今はあなた方が同じ放縦の流れで行動を共になさらないので、彼らがいぶかってののしるのです。
新共同あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。
NIVThey think it strange that you do not plunge with them into the same flood of dissipation, and they heap abuse on you.
註解: 享楽主義者がキリスト者を(そし)る理由は、キリスト者がその旧き生活と絶縁して享楽主義者と行動を共にせざるを見て驚異の念に打たれるが故である。ゆえに彼らに(そし)られることはむしろ光栄である。
辞解
[(きはみ)] anachusis 聖書中ここのみに用いられている文字で洪水において水が溢れる(すがた)、噴火において溶岩が流出する(すがた)等に用いられる語。ゆえに放蕩の「(きはみ)」は糜爛(びらん)せる放蕩生活を意味する。
[怪しむ] xenizô は「驚く」の意。▲奇異、稀有、不可思議なるに驚くこと。
[(そし)る] blasphêmeô は「涜神」の意味と「誹謗」の意味とあり。本節の場合は後者である(I0)。

4章5節 (かれ)らは()ける(もの)()にたる(もの)とを(さば)準備(そなへ)をなし(たま)へる(もの)(おのれ)のことを()ぶベし。[引照]

口語訳彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない。
塚本訳(もちろんそれについて)彼らは生者と死者とを審く準備をしてい給う方に勘定を払わねばならない。──(然り、死者もまた審かれねばならない。)
前田訳しかし彼らは生者と死者とを裁く用意のある方に申し開きせねばなりません。
新共同彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。
NIVBut they will have to give account to him who is ready to judge the living and the dead.
註解: キリストはすでに死ねる者も今生きている者も一人残らず(さば)かんがために再び来り給うであろう(今彼は神の右に在して凡ての準備は整っている)。その時彼らはその享楽的行為および我らを(そし)る行為につき(ただ)されるであろう。我らは今苦難に遭い、彼らは今勝誇っているけれども彼らはその全生涯につき終りの日にその責任を問われるであろう。
辞解
[生ける者、死ぬる者] 霊的の意味ではなく肉体上の生死。
[己のことを()ぶべし] 訊問に答えて弁解すること。マタ12:36使19:40ヘブ13:17

4章6節 (その(ゆゑ)は)福音(ふくいん)()にたる(もの)宣傅(のべつた)へられしは、(かれ)らが肉體(にくたい)にて(ひと)のごとく(さば)かれ、(れい)にて(かみ)のごとく()きん(ため)な(ればな)り。[引照]

口語訳死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。
塚本訳何故なら、肉体では人間的に(既に罪人として)審かれ(て死んだが、)霊では神に倣って(永遠に)生きるため、(陰府に在る)死者にも(キリストによって)福音が宣べ伝えられたからである。
前田訳このためにこそ死者にも福音が説かれたのです。すなわち、彼らが肉にあっては人間として裁かれ、霊にあっては神に従って生きるためです。
新共同死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。
NIVFor this is the reason the gospel was preached even to those who are now dead, so that they might be judged according to men in regard to the body, but live according to God in regard to the spirit.
註解: 前節のごとく享楽放蕩の生活を為しキリスト者らを非難しつつ生活する人は現世における成功者であり、また勢力家であるかもしれないけれども、彼らはやがてその死後に至り再臨のキリストによりて(さば)かれなければならない。従って彼らの行為は死して後も神に対して責任があり神より審判を受けなければならない。たしかにしTペテ3:19にノアの例をもって示したように、今は霊によりて凡ての死者に福音が宣伝えられているのであって、その目的はたとい彼らが肉においては人間一般と同様に(さば)かれて死に入っているけれども、霊においては神のごとくに霊的生命に入るを得んがためである。ゆえに現在においてキリスト者を非難する享楽主義者、偶像崇拝者たちはこの世における行為につきて(ただ)さるべきは勿論、死者にすら福音が宣伝えられている以上、生きてこれに接しつつこの福音を非難する彼らは言い(のがれ)るべき途がないであろう。また現在において肉に苦難を受けているキリスト者は霊にて神のごとくに生くることを得るの幸福を今より享有するのである。(附記)本節はTペテ3:19と同じく福音が死者にも宣伝えられ、この世において福音を信ぜずに死したる者も救われる見込みがあるという思想を含むために、神学上この思想に反対なる人々より多く異なれる解釈が与えられ、ルーテルもこれを不可解なる一節と称している。或は「死にたる者」を前節の意味によらずして「死にたるキリスト者」(B1、Z0)と解し、または「生時に福音に接せる者」等と解し、「宣伝えられ」を過去における事実と解しているけれどもいずれも原文になき意味を追加したのであり、またかく解することにより前後の連絡を失ってしまう。なおTペテ3:19に関する3章末尾の附記参照。
要義 [肉の苦難は罪を止む]苦難のもたらす多くの恩恵の中、その最大なるものは苦難の中にある者をして罪を止めさせる点にある。殊に享楽、肉慾の罪は安佚(あんいつ)の中において最も力強く働くのであって、苦難を受けることなしにこれらの罪に打勝つことは至難のことに属する。ゆえに人の慾に従わず神の御意(みこころ)に従って生きるためには苦難は最良の友であり教師である。ゆえに霊に生きんとするものは肉の苦難を喜ぶべきである。

分類
4 教会の信仰の生活 4:7 - 5:11
4-1 信仰生活の要諦 4:7 - 4:11

4章7節 (よろづ)(もの)のをはり(ちか)づけり、()れば(なんぢ)(こころ)(たしか)にし、(つつし)みて(いのり)せよ。[引照]

口語訳万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。
塚本訳(今や)万事の終わりが近づいた。だから考え深くあれ、また真面目に折れ。
前田訳すべての終わりが近づきました。祈りのために良識と分別の生活をなさい。
新共同万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
NIVThe end of all things is near. Therefore be clear minded and self-controlled so that you can pray.
註解: 7−11節にペテロは信徒相互の関係につき薦めをなす。そしてその大前提として5、6節を受けてキリストの再臨と万物の滅亡の近きことを示し、かかる場合霊に生きるキリスト者はまず第一に「心を(たしか)にし」己を制して真面目にして乱れざる心を持つようにしまた「慎みて」感情のために動揺せず、かくして祈りを事としなければならないことを教えている。これが世の終りにおけるキリスト者の必要なる態度である。
辞解
[心を(たしか)にし] sôphronêo は自制力あり思慮ある心を持つこと。
[慎み] nêphô は感情に支配されないこと。

4章8節 何事(なにごと)よりも()(たがひ)(あつ)(あひ)(あい)せよ。(あい)(おほ)くの(つみ)(おほ)へばなり。[引照]

口語訳何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。
塚本訳何はさて措き、互いに対し強き愛を持て。“愛は”多くの“罪を蔽う”のだから。
前田訳何よりも互いに堅い愛をお持ちなさい。愛は多くの罪をおおいます。
新共同何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
NIVAbove all, love each other deeply, because love covers over a multitude of sins.
註解: マタ18:22)神に対して祈りが第一の務めであるごとく(7節)、人に対しては何よりもまず互に熱愛することが信徒相互における第一の務めである。そして熱き愛はその愛するものの罪を(おお)いてこれを赦し、これをいたわり、罪に目を留めず、他人にもこれを(おお)いかくし、あたかもこれを己の罪のごとくに見て唯神に祈りてその罪を赦されて汚れより潔められんことを祈るのみである。そしてこの愛は必ずよき結果を来し、反対に憎悪は益々罪を重ねさせるに至る。箴10:12
辞解
[罪を(おほ)ふ] 他に異なった解釈があるが取らず。

4章9節 また(をし)むことなく(たがひ)(ねんご)ろに(もてな)せ。[引照]

口語訳不平を言わずに、互にもてなし合いなさい。
塚本訳呟かず互いに接待せよ。
前田訳つぶやかず、互いにもてなしてください。
新共同不平を言わずにもてなし合いなさい。
NIVOffer hospitality to one another without grumbling.
註解: 私訳「(つぶや)くことなく互に歓待せよ」。心より喜んで未知の訪客をも接待することは当時の最も尊重せられし美風の一つであった。ヘブ13:2註参照。なおマタ25:35ロマ12:13Tテモ3:2テト1:8使16:15。その他。
辞解
[(をし)むことなく] 原語「(つぶや)くこと gongusmos なく」であって、単に接待の費用を(おし)みて(つぶや)くことのみではなく、その労を厭うことその他の(つぶや)きをも含む故にこれを「(つぶや)くことなく」と訳すべきである。

4章10節 (かみ)のさまざまの恩惠(めぐみ)(つかさ)どる()(いへ)(つかさ)のごとく、各人(おのおの)その()けし賜物(たまもの)をもて(たがひ)(つか)へよ。[引照]

口語訳あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。
塚本訳神の様々な恩恵の(依託をうけた)善い番頭のように、一人々々が受けた恩恵(の賜物)を以て互いに奉仕せよ。
前田訳おのおのが受けた賜物によって、神のさまざまな恵みの良い管理人として互いにお仕えなさい。
新共同あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
NIVEach one should use whatever gift he has received to serve others, faithfully administering God's grace in its various forms.
註解: 愛の働きの第二は信徒の各々が神より受けし賜物をもて互に(つか)えることである。信徒は各々聖霊によりて賜物の分与を受けており(Tコリ12:7)、これらが相合して完全なる教会の賜物となる故にこれを私することは大なる罪である。善き家司ら(複数)はその托せられし主家の財貨を私することをしない。キリスト者はその与えられし賜物につき善き家司たることを必要とする。
辞解
[恩惠(めぐみ)] charis 単数でこれに「様々」なる形容詞を附してその表顕の多様性を示す。この恩恵(めぐみ)が各人に与えられて賜物(複数)charismata となる。

4章11節 もし(かた)るならば、(かみ)(ことば)をかたる(もの)のごとく(かた)り、[引照]

口語訳語る者は、神の御言を語る者にふさわしく語り、奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである。栄光と力とが世々限りなく、彼にあるように、アァメン。
塚本訳(例えば)もし或る人が(預言の賜物を与えられて)語るならば、(自分の言をまじえず、ただ)神の言として(語れ。)もし(また)或る人が(職務を行う賜物を与えられそれを以て)奉仕するならば、(自分の力を以てせず、)神が授け給うた力によって(これを行え。)これはイエス・キリストにより何事においても神が栄光を受け給わんためである。栄光と権力とは代々限りなく彼のものである、アーメン。
前田訳語る人は神のことばを話るごとくしてください。仕える人は、神がお与えの力によるごとくしてください。それは何につけても神がイエス・キリストによって栄光をお受けのためです。彼にこそ栄光と力が世々とこしえにありますように。アーメン。
新共同語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。
NIVIf anyone speaks, he should do it as one speaking the very words of God. If anyone serves, he should do it with the strength God provides, so that in all things God may be praised through Jesus Christ. To him be the glory and the power for ever and ever. Amen.
註解: 前節における賜物の例として本節に語ることと(つか)えることとを掲げている。「語る」は集会等において語る場合を主として指す。すなわち預言し、教え、勧める等の凡てを含む。これを為すには自己の思想や感情によらず神の黙示を受けたる者のごとくに語るべきである。かくして神のみが崇められなければならぬ。この語、牧師長老等の職制(G1)とは関係がない(M0)。
辞解
[神の言] 「言」logia は古代は神の託宣に用い、旧新約聖書には神の黙示につきて用う(使7:38ロマ3:2)。

(つか)ふるならば、(かみ)(あた)へたまふ能力(ちから)()けたる(もの)のごとく(つか)へよ。

註解: (つか)える」diakoneô とは貧民を救い、病者を見舞い、幽囚の中にある者を訪う等の行為であって、これを為すものはこれを為し得るだけの力を必要とする。しかしながらこれを自己の力より為さず、神より与えられし力をもって行い、自己よりも神の崇められることを求めなければならない。

(これ)イエス・キリストによりて(こと)(こと)(かみ)(あが)められ(たま)はん(ため)なり。

註解: 何故に前節のごとくに行うべきかの理由を示す。すなわち神は凡ての能力と智慧と言葉との本源に在し給うが故に、教会においてこの神が崇めら給うべきである。然るにもし人の智慧、能力、財貨、地位、雄弁が崇められるに至るならば禍である。そして神が崇められ給うことはイエス・キリストによらなければならない。これ我らを神と(やわら)がしめ神より聖霊の賜物を与えられるに至るのはイエス・キリストの仲保(なかだち)によるからである。

榮光(えいくわう)權力(ちから)とは世々(よよ)(かぎ)りなく(かれ)()するなり、アァメン。

註解: もし信徒相互の間に7節以下のごとき状態が実現するならば如何ばかり神の栄光が揚げられ神の権力が発揮せられることであろうかを思い、ついにこのような頌栄の辞となってあらわれたのである。
辞解
[彼] 神を指す。
要義 [祈りと愛と奉仕]教会生活、信徒の団体生活の要諦はここにこの三点に要約されている。この三者なくしていかに聖書知識に富み神学の造詣深く制度組織完備するも、真の信徒の団体生活と称することができない。

4-2 迫害による苦難に対する教訓 4:12 - 4:19

4章12節 (あい)する(もの)よ、(なんぢ)らを(こころ)みんとて(きた)れる()[のごとき試煉(こころみ)]を(こと)なる(こと)として(あや)しまず、[引照]

口語訳愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、
塚本訳愛する者よ、試練のため君達に起こった烈火の苦難を(何か)異常なことが臨んだかのように(驚き)異しむな。
前田訳親しい方々、あなた方を誘惑する火の試練がどんなにいぶかしくてもいぶからず、
新共同愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。
NIVDear friends, do not be surprised at the painful trial you are suffering, as though something strange were happening to you.
註解: この書簡は全篇を通じて迫害に対する教訓に充ちている。これ当時信仰の迫害が烈しかったからである。我らは迫害と苦難の火焔の中にある場合にあたかもこれを案外なことが起ったごとくに驚き怪しむべきではなく、これは我らを試煉し、我らを潔めんがための火であるが故に当然のことと思うべきことを教えている。愛の神の子に迫害苦難が臨むことは一見不合理なるがごとくに見えるけれども、実はこれがかえって神の子の当然の運命である。

4章13節 (かへ)つてキリストの苦難(くるしみ)(あづか)れば、(あづか)るほど(よろこ)べ、なんぢら(かれ)榮光(えいくわう)(あらは)れん(とき)にも(よろこ)(たの)しまん(ため)なり。[引照]

口語訳むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。
塚本訳むしろキリストの苦難に与れば与るだけ喜べ。(最後の日)その栄光の顕るる時にも歓びに喜ぶ(ことが出来る)ためである。
前田訳キリストの苦難にあずかるものとしておよろこびなさい。それはあなた方が、彼の栄光が啓示されるときにも歓呼しておよろこびのためです。
新共同むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。
NIVBut rejoice that you participate in the sufferings of Christ, so that you may be overjoyed when his glory is revealed.
註解: 世はキリストを迫害したと同じ精神をもってキリスト者をも迫害し、キリストは今も我らと共にこの苦しみを苦しみ給う。しかしながら我らいよいよこれを喜ぶべきである。これキリストやがて栄光の中に再臨し給う時一層大なる歓喜を味わうことを得んがためである。ゆえにキリスト者は今すでに喜び、永遠にはさらに大なる喜びの中に入ることができる。
辞解
本節後半が前半の理由 hoti ではなくその目的 hina であることに注意せよ。すなわち苦難の中に喜ぶものはさらに大なる喜びを得、苦難の中に悲しむ者はキリストの再臨の時恥を受けるに至るであろう。

4章14節 もし(なんぢ)()キリストの()のために(そし)られなば幸福(さいはひ)なり。榮光(えいくわう)御靈(みたま)すなはち(かみ)御靈(みたま)なんじらの(うへ)(とど)まり(たま)へばなり。[引照]

口語訳キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。
塚本訳もし君達がキリストの名において罵られるならば幸福である、(それは、その時)栄光の霊と“神の霊が”君達の上に“留まっている”(証拠である)から。
前田訳キリストのみ名ゆえに恥かしめられるならば、あなた方はさいわいです。それは栄光の霊すなわち神の霊があなた方の上に宿るからです。
新共同あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
NIVIf you are insulted because of the name of Christ, you are blessed, for the Spirit of glory and of God rests on you.
註解: マタ5:11マコ8:35等の主の御言をペテロは深く心に銘じたことであろう。(そし)られてもなお幸福を感謝し得るはキリスト者の特権であるこれ人の(そし)りが彼の上にあること多ければ多きほど神は彼を憐み、彼を恵み、神の御霊は益々多く彼を(おお)い彼の上に留まるからである。(そし)りは人より来り、御霊は神より来る。
辞解
[栄光の御霊] 「栄光の御霊」なる呼称を用いし所以は「(そし)り」の恥辱と相対応せんがため、さらにこれを「神の御霊」なる語をもって説明せる所以は「人」の(そし)りに相対応せんがためであろう。

4章15節 (なんぢ)()のうち(たれ)にても(あるひ)殺人(ひとごろし)、あるひは盜人(ぬすびと)、あるひは(あく)(おこな)(もの)(たるをもて)、あるひは(みだり)他人(たにん)(こと)干渉(かんせふ)する(もの)[となりて](たるをもて)苦難(くるしみ)()ふな。[引照]

口語訳あなたがたのうち、だれも、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者として苦しみに会うことのないようにしなさい。
塚本訳君達のうち誰も人殺し、あるいは泥坊、あるいは悪者として、あるいはおせっかい屋として受難してはならない。
前田訳あなた方のだれも人殺し、盗びと、悪人、干渉者としてお苦しみなく。
新共同あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。
NIVIf you suffer, it should not be as a murderer or thief or any other kind of criminal, or even as a meddler.
註解: キリスト者は自由を得るの結果、普通人の悪とする処を平気で行うことは有り勝ちなることである。そのために迫害されることは(すこし)も光栄ではなくかえって神の御名を汚す。これをキリストの御名の故の迫害と誤認して誇るごときは甚だしき悪である。
辞解
[殺人(ひとごろし)盜人(ぬすびと)] かかる悪事も絶無とは言われない。
[者となりて] hôs は次節のごとく「者たるをもて」と訳する方が統一的である。
[他人の事に干渉せる者] allotriepiskopos 直訳「他人の物事の監督」でキリスト者は自己の信仰に誇るの余り、その地位に在らざるして他人の行為事件を自己の思いのままに処理せんとして人々の嫌う処となる場合がある。

4章16節 されど()しキリステアンたるをもて苦難(くるしみ)()けなば、(これ)()づることなく、(かへ)つて()()によりて(かみ)(あが)めよ。[引照]

口語訳しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい。
塚本訳しかしもしクリスチャンとして(受難するの)ならば恥じるな、むしろこの(クリスチャンたる)名において神の栄光を顕せ。
前田訳しかしクリスチャンとして苦しむ人は恥じることなく、この名によって神に栄光を帰してください。
新共同しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。
NIVHowever, if you suffer as a Christian, do not be ashamed, but praise God that you bear that name.
註解: 世の人はキリステアンたることだけで他に理由なくともキリスト者を嫌いこれを迫害し苦難に陥れる。そして多くの世の人に歓迎される時はこれを光栄と感じ、彼らに擯斥(ひんせき)(=排斥:広辞苑)される時これを恥辱と感ずるは普通の人情であるけれども、ペテロはキリスト者を戒めてかかる苦難を恥ずることなく、かえってキリストの名をもって神を崇め、かかる苦難と悔辱とを受けることに対して神に感謝し、彼に栄光を帰すべきであることを教えている。
辞解
[キリステアン] Christianos 使11:26参照。「キリストの者」の意味で反対者より与えられし軽蔑の名称である。

4章17節 (すで)(とき)いたれり、審判(さばき)(かみ)(いへ)より(はじめ)るべし。まづ我等(われら)より(はじめ)るとせば、(かみ)福音(ふくいん)(したが)はざる(もの)のその結局(はて)如何(いか)にぞや。[引照]

口語訳さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。
塚本訳審判が神の家“から始まる”時(は既に近づいているの)だから。しかしもし(審判が)まず(神の家すなわちキリストを信ずる)私達から(始まる)とすれば、神の福音に従わぬ者の最後はどうであろう!
前田訳今や裁きが神の家から始まる時です。もしそれがまずわれらのところからならば、神の福音に従わぬものの終わりはどうでしょう。
新共同今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。
NIVFor it is time for judgment to begin with the family of God; and if it begins with us, what will the outcome be for those who do not obey the gospel of God?
註解: ペテロはキリスト者の現在の苦難をもって神の審判(さばき)が始まっているのであると言っている。勿論この審判(さばき)は滅亡に至らしむる審判(さばき)ではなく、神は神の家すなわち教会を特に愛し給うが故にこれを鍛煉し、これを潔めやがてこれを救わんがために下し給う審判(さばき)である。そしてキリストの者たる我らにおいてすらすでにかかる審判(さばき)が始まっているとすれば、最後の審判における不信仰の者の状態は如何ばかりであろうか。これを思うてキリスト者はむしろ現在におけるその苦難を喜び、これを感謝すべきである。

4章18節 義人(ぎじん)もし(から)うじて(すく)はるるならば、()敬虔(けいけん)なるもの、(つみ)ある(もの)何處(いづこ)にか()たん。[引照]

口語訳また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。
塚本訳そして“もし義人すら辛うじて救われるとすれば、不敬虔な者や罪人は”(一体)どうなるのであろう”。
前田訳「もし義人がかろうじて救われるならば、不信のものや罪びとはどうなりましょうか」。
新共同「正しい人がやっと救われるのなら、/不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。
NIVAnd, "If it is hard for the righteous to be saved, what will become of the ungodly and the sinner?"
註解: 本節においてペテロは神の義を高調し、不信なるもの罪あるものの滅亡を示してキリスト者をその苦難の中に慰む。神の恩恵を高調せるロマ5:20と対比せよ。
辞解
本節は箴11:31の七十人訳の引用。
[義人] 神との義しき関係にある者すなわち信者。
[辛うじて] 種々の苦難によりて試煉せられ、多くの困難を経て救いに達する。
[何處にか立たん] 直訳「何處に顕われん」、滅亡すること。

4章19節 されば(かみ)御意(みこころ)(したが)ひて苦難(くるしみ)()くる(もの)は、(ぜん)(おこな)ひて(おの)靈魂(たましひ)眞實(まこと)なる造物主(つくりぬし)にゆだね(まつ)るべし。[引照]

口語訳だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。
塚本訳だから(君達の中で)神の御心により受難する者もその霊魂を誠実なる造物主に委ねよ、善を行いながら!
前田訳それゆえ、神のみ心に従って苦しむ人々も善をなして、その魂をまことに満ちた創造主(つくりぬし)におゆだねなさい。
新共同だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。
NIVSo then, those who suffer according to God's will should commit themselves to their faithful Creator and continue to do good.
註解: 15節の原因によるにあらずして16節の理由により苦難を受くる者は神の御意(みこころ)による苦難である(12、13節)。この場合この苦難を逃れんと焦るべきではない。たとい肉体は如何なる迫害に遭うも霊魂はこれを神に委ね奉りて絶対に安全である。ただしその生活は「善を行う」ことに終始しなければならない。迫害を受くる時、心は往々にして復讐心に燃え、愛を失いて悪を行うに至るが故に慎まなければならぬ。
辞解
[真実なる] 偽りを語らず約束を必ず成就すること、神は救いの約束を必ず成就し給う。ゆえに肉体はよし迫害の中に死ぬるとも恐れる必要はない。
[造物主(つくりぬし)] すなわち神、彼は我らの朽つべき肉体を変えて栄光の体に像らせ給う。
要義 [義人の苦難]神に絶対に信頼しているキリスト者にとって、苦難は歓喜を与うる原因となり、また益々善行にいそしむ動機となり、さらに進んで益々その信頼を強むる理由となることは、キリスト者の最も著しき特徴の一つである。而して義しき者が患難多きこと(詩34:19)は一見不合理なるがごとくであるけれども、もし前述の事実を経験するならば、これ全く神の御旨による大なる恩恵であることを知ることができるであろう。