黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版マルコ伝

マルコ伝第9章

分類
4 十字架に対って進み給う 8:27 - 9:50
4-1 受難の予告 8:27 - 9:32
4-1-ハ 己が十字架を負え 8:34 - 9:1
(マタ16:24-28) (ルカ9:23-28)  

9章1節 また()(たま)ふ『まことに(なんぢ)らに()ぐ、此處(ここ)()(もの)のうちに、(かみ)(くに)の、權能(ちから)をもて(きた)るを()るまでは、()(あぢ)はぬ(もの)どもあり』[引照]

口語訳また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
塚本訳また言葉をつづけられた、「アーメン、わたしは言う、(その時はじきに来る。)今ここに立っている者のうちには、死なずにいて、力強い神の国が来るのを見る者がある。」
前田訳そしていわれた、「本当にいう、ここに立つもののうち、神の国が権威をもって現われるまで死を味わわぬものがある」と。
新共同また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
NIVAnd he said to them, "I tell you the truth, some who are standing here will not taste death before they see the kingdom of God come with power."
註解: 本節は前章の終りに入るべきものである。神の国が権能をもて来るとはイエスの再臨の時であり、イエスが王として権能をもって世を(さば)き神の国を立てんとて来り給う場合を指す。ここに立つ者はイエスの再臨の切迫せることを思い緊張せる態度をもってこれを待望むべきである。
辞解
本節を第9章の初頭に置きし所以は、これを次に録されるイエスの変貌の預言と解したためである。本節をかく解することは適当ではない。むしろ前章末尾の論の継続と見るべきである。「死を味わぬ者」これを肉体の死と解する場合は、イエスの再臨が「此處に立つ者」の中のある者がなお存命中に起ることの意味となる。もしまたこれを永遠の死の意味と解する時は、「此處に立つ者」の中に信仰によりて永遠の生命を獲得する者があることの意味となる。イエスの再臨が非常に近いと思われたのはこれを前者の意味に取ったからであろう。而してイエスの再臨が彼らの生時に起らなかったので、後代の人々はこれをイエスの変貌、または聖霊降下、またはエルサレムの陥落に関する教えと解することによりこの困難を除かんとした。しかしながらこの御言は主の再臨の時期を知る材料とすべきではなく、主の再臨に対する態度を教えられしものと見るべきである。
要義 [生死の転換]マコ8:34−9:1におけるイエスの御言は、「生」と「死」とについて全く特異の世界を展開していることに注意することが必要である。イエスにとりては生に二種の生あり死にも二種の死あり、この世における肉体的生命の生死と、霊の世界、神の国における永遠の生命とである。この二者は互に相対立しているのであって、一つを得んとすれば他を失わなければならない。イエスもその肉体の生命を失って永遠の生命に復活し給うた。我らもまた己をすてて永遠に生きなければならない。

4-1-ニ イエスの変貌 9:2 - 9:8
(マタ17:1-8) (ルカ9:28-36)  

9章2節 六日(むゆか)(のち)[引照]

口語訳六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、
塚本訳(それから)六日の後、イエスはただペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山にのぼられた。すると彼らの見ている前でイエスの姿が変った。
前田訳六日ののちイエスはペテロとヤコブとヨハネを連れて高い山へ上られた。彼らだけの内輪であった。すると彼らの目の前でイエスのお姿が変わり、
新共同六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
NIVAfter six days Jesus took Peter, James and John with him and led them up a high mountain, where they were all alone. There he was transfigured before them.
註解: ルカ9:28には「八日ばかり過ぎて」とあり、六日にその前後の日数を加えし漠然たる言い方である。総じてユダヤ人の日数の表顕法は日本人のそれと同様不精密である。

イエスただペテロ、ヤコブ、ヨハネのみを()きつれ、(ひと)()けて(たか)(やま)(のぼ)りたまふ。

註解: 直訳「イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネを伴い、人を避けて唯彼らのみを高き山上に連れゆき給う」。この三人はイエスの弟子中の最も大なるもので重要なる機会においては、イエスは常に彼らのみを伴い給うた(マコ5:37マコ14:32マタ26:37)。イエスが人を避けて山に登り給える動機は来るべき苦難に対して祈りをもって準備し給わんがためであった(ルカ9:28に「祈らんとて」とあるを見よ)。主なる弟子のみを携え給いしは、彼らにもその心の備えを為さしめんがためであった。このおごそかなる祈りはイエスを変貌せしめたのであった。
辞解
[高き山] マタ17:1辞解参照。

(かく)(かれ)らの(まへ)にて()(さま)かはり、

9章3節 ()(ころも)かがやきて(はなは)(しろ)くなりぬ、()晒布者(ぬのさらし)()()ぬほど(しろ)し。[引照]

口語訳その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。
塚本訳着物(まで)が真っ白に輝きだし、この世のどんな晒し屋でも、これほど白くは出来ないくらいであった。
前田訳お着物が真白に輝きはじめ、世のどのさらし屋もできないほど白くなった。
新共同服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
NIVHis clothes became dazzling white, whiter than anyone in the world could bleach them.
註解: 苦難を前にして切に祈り給うイエスの御姿は、それだけでもすでに神々しき極みであったに相違ない。かかる状態がその極点に達した時のことを考えるならばイエスの変貌も、考え得ないことではない。また(さなぎ)が蛾に変るごとき事実を見るならば肉体の変化も不可能なことではない。この変貌がイエスの再臨の時の栄光に類せるものと考えられた(Uペテ1:16−18)。
辞解
[其の(さま)かはり] マタ17:2辞解参照。

9章4節 エリヤ、モーセともに(かれ)らに(あらは)れて、イエスと(かた)りゐたり。[引照]

口語訳すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
塚本訳するとエリヤがモーセと共に彼らにあらわれ、二人はイエスと話していた。
前田訳そしてエリヤがモーセとともに彼らに現われてイエスと語りあっていた。
新共同エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
NIVAnd there appeared before them Elijah and Moses, who were talking with Jesus.
註解: モーセもエリヤも共に特別なる死を経過せる人であり(申34:6U列2:11)、モーセは律法の代表、エリヤは預言者の代表とも見ることができ、かつエリヤはメシヤの先駆者であり(マラ3:23)、モーセはまたエリヤの型であった(申18:15)。これらの諸点より、この場合イエスの死とその復活につきて語る(ルカ9:31)に最も適当せる人物であった。イエスの死は律法の完成であり、預言の成就であり、而して神の為し給う処である。

9章5節 ペテロ差出(さしい)でてイエスに()ふ『ラビ、(われ)らの此處(ここ)()るは()し。われら()つの(いほり)(つく)り、(ひと)つを(なんぢ)のため、(ひと)つをモーセのため、(ひと)つをエリヤのためにせん』[引照]

口語訳ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
塚本訳ペテロが口を出してイエスに言う、「先生、わたし達(三人)がここにいるのは、とても良いと思います。だから小屋を三つ造りましょう。あなたに一つ、モーセに一つ、エリヤに一つ。」
前田訳そこでペテロはイエスにいった、「先生、われらがここにいるのをさいわい、幕屋を三つ作りましょう、あなたに一つ、モーセに一つ、エリヤに一つ」と。
新共同ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
NIVPeter said to Jesus, "Rabbi, it is good for us to be here. Let us put up three shelters--one for you, one for Moses and one for Elijah."
註解: ペテロを始め他の二人もこの異常なる光景を見て畏怖と驚異の念に充された。而してペテロは例のごとく即座にその思うがままを吐露したのであった。彼らがモーセ、エリヤおよびイエスと共にいることの幸福をたたえ、三つの(いおり)(幕屋)を造りて彼らを住まわしめんとの意を漏した。ペテロはこの歴史的の三人が共にいることの歓喜に全く支配せられ、モーセやエリヤが永く地上に留り得るものなりや否やにつきて反省する余裕すらなかった。またイエスがモーセおよびエリヤによりて代表されることの完成者であることを知る由もなかった。
辞解
[差出でて] 「答えて」で、必ずしも人の問いに答える意味ではなく、何らかの事実に「応じて」の意味に用うるヘブル語法である。「差出でて」は適訳ではない。
「此處に居るは善し」を「汝らに(つか)うるために好都合である」と解する説あれど(L2)、不適当である。

9章6節 (かれ)()いたく(おそ)れたれば、ペテロ(なに)()ふべきかを()らざりしなり。[引照]

口語訳そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。
塚本訳彼はなんと言ってよいかわからなかったのである。三人とも怯えていたから。
前田訳何といってよいかペテロは知らなかった。三人はおそれていたのである。
新共同ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
NIV(He did not know what to say, they were so frightened.)
註解: 前節のペテロの言は全く狼狽の結果であった、ルカとマルコはこの説明を与えているけれども、おそらくペテロ自身その時の心持をマルコに語っていたに相違ない。

9章7節 (かく)(くも)おこり、(かれ)らを(おほ)ふ。(くも)より(こゑ)()づ『これは()(いつく)しむ()なり、(なんぢ)(これ)()け』[引照]

口語訳すると、雲がわき起って彼らをおおった。そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。
塚本訳すると雲がおこって彼ら(イエスとモーセとエリヤと)を掩い、「これはわたしの“最愛の子、”“彼の言うことを聞け”」という声が雲の中からきこえてきた。
前田訳すると雲が出て彼らをおおい、加えて雲から声がした、「これはわがいとし子、彼に耳傾けよ」と。
新共同すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
NIVThen a cloud appeared and enveloped them, and a voice came from the cloud: "This is my Son, whom I love. Listen to him!"
註解: イエスのバプテスマの時に天より聞えしこの声が再び天より起った。この度は直接に弟子たちに向って語られ、かつ申18:15にモーセの預言せるごとく「汝ら之に聴け」との語が加えられた、これにより弟子たちにとりてイエスのメシヤたることがいよいよ明かにせられた。而して彼らはこの凡ての光景の中に明かに神の臨在を感得することができた。
辞解
[雲] 神の在し給う所と考えられた。雲が彼らを覆うたのは神が彼らを隠し給うたこととなる。

9章8節 弟子(でし)たち(いそ)見囘(みまは)すに、イエスと(おのれ)らとの(ほか)には、はや(たれ)()えざりき。[引照]

口語訳彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。
塚本訳途端に(すべてが消えうせて、)見まわすと、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一しょにおられた。
前田訳その途端、あたりを見まわすと、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らとともにおられた。
新共同弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
NIVSuddenly, when they looked around, they no longer saw anyone with them except Jesus.
註解: 弟子たちの眼前の光景は一変して唯イエスが始めのごとき姿にて在し給うを見るのみであった。マタイは弟子たちが天よりの声を聴き懼れて地に倒れ伏している処をイエスがやさしき手をもって觸り彼らを励まし起たしめ給いしことを記す(マタ17:6、7)。マルコ伝の方が事実に近きもののごとくに思わる。イエスのみを見てモーセとエリヤが見えなくなったのは、イエスにおいて律法と預言者とが完成せられしことを示すものと見て意義深きを感ずる。
要義 [イエスの変貌と弟子たちに与えし印象]この現象は三人の弟子たちにとりてあまりに驚くべき事実であったので、彼らはイエスの戒命に従い(9節)このとこを当分誰にも告げなかった(ルカ9:36)。しかしながら彼らの心中にはその師が普通の人間ではなく、モーセやエリヤのごとく神の僕ではなく神の子として独一なる存在にいまし給うことを強く印象せられたに相違ない。而してこの栄光に耀けるイエスの御姿は、イエスの死後、その再臨の時の栄光を想わしむる材料となったことは疑う余地がない(Uペテ1:17、18)。神は我らに十分なる材料を与えてイエスを信ぜしめんとし給うた。これをしも信じないならば、その責任は凡て我らの側にあると言わなければならない。

4-1-ホ エリヤ問答 9:9 - 9:13
(マタ17:9-13)   

9章9節 (やま)をくだる(とき)、イエス(かれ)らに、(ひと)()の、死人(しにん)(うち)より(よみが)へるまでは、()しことを(たれ)にも(かた)るなと(いまし)(たま)ふ。[引照]

口語訳一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。
塚本訳山を下りながら、イエスは、人の子(わたし)が死人の中から復活する時でなければ、いま見たことをだれにも話してはならないと彼らに命じられた。
前田訳山をおりながら、人の子が死人の中から復活する時でなければ、彼らが見たことをだれにもいうな、と命じられた。
新共同一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
NIVAs they were coming down the mountain, Jesus gave them orders not to tell anyone what they had seen until the Son of Man had risen from the dead.
註解: イエスの復活の事実を知りて始めて変貌の真の意義を把握することができるのであって、それまでは、もしこの事実が一般に流布するならば、唯単にイエスを奇怪なる迷信の対象となすに過ぎないこととなるであろう。イエスは外部的に現われし奇跡が語り伝えられることを非常に嫌い給うた。なおイエスが確信をもって復活のことを語り給うことに注意すべし。9−13節はルカ伝にこれを欠く。

9章10節 (かれ)()(ことば)(こころ)にとめ『死人(しにん)(うち)より(よみが)へる』とは、如何(いか)なる(こと)ぞと(たがひ)(ろん)()ふ。[引照]

口語訳彼らはこの言葉を心にとめ、死人の中からよみがえるとはどういうことかと、互に論じ合った。
塚本訳彼らはこの言葉をかたく守ったが、互の間では(人の子が)死人の中から復活するとは、いったい何事だろうと評議をしていた。
前田訳彼らはこのことばを守ったが、死人の中から復活するとは何であるかを互いに論じあった
新共同彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
NIVThey kept the matter to themselves, discussing what "rising from the dead" meant.
註解: 一般に復活ということは彼らの問題ではなかった。この場合はイエスが如何なる死と如何なる復活とを経給うかにつきて論じ合った。凡てが弟子たちにとりて不思議なる光景であったからである。

9章11節 (かく)てイエスに()ひて()ふ『學者(がくしゃ)たちは、(なに)(ゆゑ)エリヤまづ(きた)るべしと()ふか』[引照]

口語訳そしてイエスに尋ねた、「なぜ、律法学者たちは、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。
塚本訳彼らはこう言ってイエスに尋ねた、「なぜ聖書学者は、まずエリヤが(来てそのあとで人の子が)来るべきである、と言うのですか。(人の子は来られたのに、エリヤはまだ来ないではありませんか。)」(彼らは山の上のことを思い浮かべたのである。)
前田訳そして彼にたずねた、「なぜ学者はまずエリヤが来ねばならぬというのですか」と。
新共同そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
NIVAnd they asked him, "Why do the teachers of the law say that Elijah must come first?"
註解: 学者はマラ3:23に基き、メシヤの出現の前に、先駆者としてエリヤが必ず来ることを主張しているのであるが、イエスがすでに来り給い、今やまさに死に赴くところであるのにエリヤが来ないではないかとの質問である。

9章12節 イエス()(たま)ふ『()にエリヤ()(きた)りて、(よろづ)(こと)をあらたむ。()らば(ひと)()につき、(おほ)くの苦難(くるしみ)()け、かつ(なみ)せらるる(こと)(しる)されたるは(なに)ぞや。[引照]

口語訳イエスは言われた、「確かに、エリヤが先にきて、万事を元どおりに改める。しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてあるのはなぜか。
塚本訳彼らに言われた、「たしかにまず“エリヤが”来て、(人の子の道を準備するために)万事を“整頓する。”ただ(もしそれならば)、どうして人の子が多くの苦しみをうけて、軽蔑されることが(聖書に)書いてあるのだろうか。
前田訳彼はいわれた、「まずエリヤが来て万物を改める。しかし、人の子について、『苦しみを重ねてはずかしめられる』と聖書にあるのはどうか。
新共同イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
NIVJesus replied, "To be sure, Elijah does come first, and restores all things. Why then is it written that the Son of Man must suffer much and be rejected?
註解: 後半私訳「然らば人の子につき如何に録されたるか。彼が多くの苦難を受け、かつ(なみ)されることなり」(E0、I0、M0)。イエスの答は二部に分れ次節と相対応している。すなわちエリヤに関する預言は実現することは事実であることを余は認める。然らば汝らに反問するが聖書は人の子につきて如何に語っているか。言うまでもなくイザ53:1以下のごとく彼の苦難と蔑視を預言しているではないか。次節にいうごとく、前者はバプテスマのヨハネにおいて実現した。後者もやがて実現するであろう。
辞解
本節後半は現行訳のごとくに訳することを得(L2)るけれども連絡がやや不円滑なり。本分もやや難解なり。

9章13節 されど(われ)なんぢらに()ぐ、エリヤは(すで)(きた)れり。(しか)るに(かれ)()きて(しる)されたる(ごと)く、人々(ひとびと)(こころ)のままに(これ)(あしら)へり』[引照]

口語訳しかしあなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」。
塚本訳しかしわたしは言う、エリヤも(すでに)来た。(洗礼者ヨハネがそれであった。)ただ人々は、彼について書いてあるとおりに、したい放題のことを彼にしたのである。(すなわち彼を殺し、人の子の道を準備させなかったので、人の子が苦しみをうけねばならない。)」
前田訳わたしはいう、エリヤも来た。ただ、人々は思うままに彼をあしらった、彼について聖書にあるように」と。
新共同しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」
NIVBut I tell you, Elijah has come, and they have done to him everything they wished, just as it is written about him."
註解: 弟子たちはこれがバプテスマのヨハネを指していることを悟った(マタ17:13)。バプテスマのヨハネは我が先駆者たるエリヤとしてこの世に来た、然るに人々はヨハネをその心のままに取扱いついに彼を殺した。あたかもT列18章T列19章においてエリヤの受けしごとき取扱いである、されば人の子にに対してもこの世は聖書に録されしごとくにこれを取扱うであろう(マタ17:12)。
要義 [預言を解する力]預言はその文字の表面においてこれを解する場合、その実現を見分くる力が無い。聖書の言をその霊的内容において把握し、同時に凡ての現象をもその霊的意義において把握する時始めて預言の真意とその実現とを知ることができる。イエスがバプテスマのヨハネをもってエリヤの再来と見たのもこの霊眼であり、ナザレの民がイザ61:1、2の預言がイエスにおいて実現せることを見分け得なかったのはこの霊眼を有たないからであった。イエスの弟子たちにも未だこの力が与えられなかった。預言は文字の知識をもってこれを理解することはできない。

4-1-ヘ 癲癇の兒を醫し給う 9:14 - 9:29
(マタ17:14-20) (ルカ9:37-43)  

9章14節 [(あひ)(とも)に](かれら)弟子(でし)たちの(もと)(きた)りて、(おほい)なる群衆(ぐんじゅう)(これ)(めぐ)り、學者(がくしゃ)たちの(これ)(ろん)じゐたるを()[(たま)ふ](る)。[引照]

口語訳さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。
塚本訳(山を下りて、ほかの)弟子たちの所にかえって見ると、大勢の群衆が弟子たちを取り巻き、聖書学者たちがこれと議論をしていた。
前田訳弟子たちのところへ行かれると、大勢の群衆が彼らをかこみ、学者らが彼らと論じているのを見受けられた。
新共同一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。
NIVWhen they came to the other disciples, they saw a large crowd around them and the teachers of the law arguing with them.
註解: この弟子たちはイエスに従える三人の弟子以外の弟子たちを指す、十二使徒の他の九人と限ることは無理である。この記事はマルコ伝に最も詳細である。
辞解
異本に「かれ・・・・・来りて・・・・・見給う」と単数にて表わされるものあり。
[相共に] 原文になし、「来りて」を複数とすれば「見給う」と訳することは不適当なり。
[論ずる] 18節によれば弟子たちが治癒を行い得ざりしことに関するものであった。

9章15節 群衆(ぐんじゅう)みなイエスを()るや(いな)や、いたく(をどろ)き、御許(みもと)(はし)()きて(れい)をなせり。[引照]

口語訳群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。
塚本訳群衆はイエス(の姿)を見るが早いか、皆びっくりして、駆けてきて歓迎した。
前田訳群衆は皆すぐ彼を見つけ、おどろいて駆けよって来て歓迎した。
新共同群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
NIVAs soon as all the people saw Jesus, they were overwhelmed with wonder and ran to greet him.
註解: 群衆の驚きは、癲癇(てんかん)の子が醫されずして、弟子と学者たちとの間に激論が始まり困憊(こんぱい)していたその瞬間に突然イエスが現われ給うたので喜び驚いたのであろう。なお他の理由を掲ぐる学者もある。例えば変貌の山におけるイエスの栄光がなお残っていたためと想像するがごとし。

9章16節 イエス()(たま)ふ『なんぢら(なに)(かれ)らと(ろん)ずるか』[引照]

口語訳イエスが彼らに、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」と尋ねられると、
塚本訳イエスが群衆に尋ねられた、「弟子たちと何を議論しているのか。」
前田訳そこで彼らにたずねられた、「何を論じあっているのか」と。
新共同イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、
NIV"What are you arguing with them about?" he asked.
註解: 「かれら」は弟子たちを指す、群衆も学者に和して弟子たちを責めていた。

9章17節 群衆(ぐんじゅう)のうちの一人(ひとり)こたふ『()よ、(おふし)(れい)()かれたる()()御許(みもと)()(きた)れり。[引照]

口語訳群衆のひとりが答えた、「先生、おしの霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。
塚本訳群衆のうちの一人が答えた、「先生、唖の霊につかれている伜をあなたの所につれて来ました。
前田訳群衆のひとりか答えた、「先生、息子をおそばに連れて来ました。唖者の霊につかれています。
新共同群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。
NIVA man in the crowd answered, "Teacher, I brought you my son, who is possessed by a spirit that has robbed him of speech.

9章18節 (れい)いづこにても(かれ)()けば、痙攣(ひきつ)(あわ)をふき、()をくひしばり、(しか)して()(おとろ)ふ。御弟子(みでし)たちに(これ)()(いだ)すことを()ひたれど(あた)はざりき』[引照]

口語訳霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。
塚本訳この子は霊がつくと所かまわず投げ倒され、泡をふき、歯斬りして、体がこわばってしまいます。それで霊を追い出すことをお弟子たちに頼みましたが、おできになりませんでした。」
前田訳霊がとりつくと、どこでも地に倒され、泡をふき、歯ぎしりして硬直します。お弟子たちに霊を追い出すようお願いしましたが、できませんでした」と。
新共同霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
NIVWhenever it seizes him, it throws him to the ground. He foams at the mouth, gnashes his teeth and becomes rigid. I asked your disciples to drive out the spirit, but they could not."
註解: 弟子も学者も群衆も誰一人答うる者が無かった。彼らは切実なる要求を伴わざる空論を闘わせていたからである。唯一人病児の父のみ真剣にその子の醫されんことを望み、イエスの問いに答えずして直ちに自己の願望をイエスに告げた。真実なる要求なき者にとりてイエスは用なき他人である。
辞解
[唖の霊] 人を唖ならしむる悪霊とも解することができ、また霊それ自身が唖にして、それが人に憑きてその人をも唖ならしむるものとも解することを得。

9章19節 (ここ)(かれ)らに()(たま)ふ『ああ(しん)なき()なるかな、(われ)いつまで(なんぢ)らと(とも)にをらん、何時(いつ)まで(なんぢ)らを(しの)ばん。その()()(もと)()れきたれ』[引照]

口語訳イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。
塚本訳彼らに答えられる、「ああ不信仰な時代よ、わたしはいつまであなた達の所におればよいのか。いつまであなた達に我慢しなければならないのか。その子をつれて来なさい。」(こう言って群衆のいない所に行かれた。)
前田訳彼は答えられた、「ああ不信の世よ、いつまでわたしはいっしょか。いつまであなた方を辛抱するのか。その子をお連れ」と。
新共同イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
NIV"O unbelieving generation," Jesus replied, "how long shall I stay with you? How long shall I put up with you? Bring the boy to me."
註解: 「彼ら」は「弟子」または「群衆」または「学者」と見るよりもそれらの全体に対するものと見るを可とす。学者らの不信仰はもとより、弟子も、群衆も不信であった。而してイエスは殊に弟子たちの無力を悲しみ給えることは勿論である。イエスは間もなくこの世を去り給うべきことを暗示し、彼らの不信を忍び得ざる悲憤の心を漏し給うた。而してイエスはこの奇蹟を衆人の前に行い給うことによりて、その能力を示し給い、かかる能力を有ち給う彼を殺さんとする不信の代の前に、その証を為し給うた。彼を信ぜざるものは言い逃るべき術がない。いわんや彼を殺す者おや。

9章20節 (すなは)()れきたる。(かれ)イエスを()しとき、(れい)ただちに(これ)痙攣(ひきつ)けたれば、()(たふ)れ、(あわ)をふきて(ころ)(まは)る。[引照]

口語訳そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。
塚本訳人々がイエスの所につれて来ると、霊はイエスを見るや否や、その子をひどくひきつけさせたので、子は地に倒れ、泡をふきながらころげまわった。
前田訳人々は子を彼のところへ連れて来た。霊が彼を見るや否や、子をけいれんさせたので、子は地に倒れ、泡をふいてころげまわった。
新共同人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
NIVSo they brought him. When the spirit saw Jesus, it immediately threw the boy into a convulsion. He fell to the ground and rolled around, foaming at the mouth.
註解: これは悪霊の最後の活躍であるとしてここに記されている。この種の疾病は当時凡て悪霊の仕業と解せられていた。

9章21節 イエスその(ちち)()(たま)ふ『いつの(ころ)より()くなりしか』(ちち)いふ『をさなき(とき)よりなり。[引照]

口語訳そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。
塚本訳イエスが父親に尋ねられた、「こうなってから、どのくらいになるか。」父親がこたえた、「子供の時からです。
前田訳彼は子の父にたずねられた、「こうなってからどれほどの時がたったか」と。父は答えた、「幼いころからです。
新共同イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。
NIVJesus asked the boy's father, "How long has he been like this?" "From childhood," he answered.

9章22節 (れい)しばしば(かれ)()のなか(みづ)(なか)()()れて(ほろぼ)さんとせり。()れど(なんぢ)なにか()()ば、(われ)らを(あはれ)みて(たす)(たま)へ』[引照]

口語訳霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。
塚本訳霊はこの子を殺そうとして、幾たびか、火の中、水の中に投げ込みました。それでも、もしなんとかお出来になるなら、わたしども(親子)を不憫と思って、お助けください。」
前田訳霊はこの子を片づけようとして、火の中、水の中へ何度も投げ込みました。もしできましたらわれらをあわれんでお助けを」と。
新共同霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
NIV"It has often thrown him into fire or water to kill him. But if you can do anything, take pity on us and help us."
註解: 21−24節はマルコ伝特有であって、その当時の光景を髣髴せしめている。永年の病疾であったので、その父すらイエスといえども必ず彼を醫し得るや否やを知らなかった。「なにか為し得ば」と言ったのはかかる心持を示す。

9章23節 イエス()ひたまふ『()()ばと()ふか、(しん)ずる(もの)には、(すべ)ての(こと)なし()らるるなり』[引照]

口語訳イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。
塚本訳イエスは言われた、「もしお出来になるなら(と言うの)か。信ずる者にはなんでも出来る。」
前田訳イエスはいわれた、「もしできましたら、か。信じるものには何でもできる」と。
新共同イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
NIV"`If you can'?" said Jesus. "Everything is possible for him who believes."
註解: 半信半疑の者、全心全霊をもって依り頼まざる者にとりては、神すら何をも為し得ずまた為し給わない。全心全霊をもって信ずる者には神はすべてのことを為し得給う。絶対の信頼のみが信頼である。半信半疑は不信に劣る。
辞解
[為し得ばと言ふか] 異本および異解によれば「もし信じ得るならば」とせらる。現行訳がまさっている(L2)。

9章24節 その()(ちち)ただちに(さけ)びて()ふ『われ(しん)ず、信仰(しんかう)なき(われ)(たす)(たま)へ』[引照]

口語訳その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
塚本訳即座にその子供の父親が叫んだ、「信じます。不信仰をお助けください。」
前田訳その子の父はすぐ叫んだ、「信じます。不信のわたしにお助けを」と。
新共同その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
NIVImmediately the boy's father exclaimed, "I do believe; help me overcome my unbelief!"
註解: 病児の父はイエスの御言によりて心開かれ、断乎たる心をもってイエスを信じた。しかし彼はそれだけでもなお自己の不信ならんことを恐れて、不信仰の場合においてもなお彼を助けてその病児を醫し給わんことをイエスに求めた(L2、I0、M0、B0)。
辞解
[信仰なき我を助け給え] 直訳「我が不信仰を助け給え」で自分に信仰を与えて、その不信仰を補わんことの願いであると解す(B1、E0)。ただし結局において子供の醫されんことを祈ることとなること勿論である。

9章25節 イエス群衆(ぐんじゅう)(はし)(あつま)るを()て、(けが)れし(れい)(いまし)めて()ひたまふ『(おふし)にて耳聾(みみしひ)なる(れい)よ、(われ)なんぢに(めい)ず、この()より()でよ、(かさ)ねて()るな』[引照]

口語訳イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「おしとつんぼの霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。
塚本訳イエスは群衆が駆けよってくるのを見ると、(急いで)汚れた霊を叱りつけて言われた、「唖と聾の霊、わたしが命令するのだ、この子から出てゆけ、二度と入るな!」
前田訳イエスは群衆が駆けよるのを見て、けがれた霊をいましめていわれた、「唖者と耳しいの霊よ、わたしが命ずる、この子から出よ、二度と入るな」と。
新共同イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
NIVWhen Jesus saw that a crowd was running to the scene, he rebuked the evil spirit. "You deaf and mute spirit," he said, "I command you, come out of him and never enter him again."
註解: 前に集い来れる群衆の上に更に群衆が増し加わって来たのでイエスは急ぎその治療を行い給うた。群衆に言い広められることを嫌い給いしがためである。

9章26節 (れい)さけびて(はなは)だしく痙攣(ひきつ)けさせて()でしに、その()死人(しにん)(ごと)くなりたれば、(おほ)くの(もの)これを()にたりと()ふ。[引照]

口語訳すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。
塚本訳霊はどなって、はげしくひきつけさせて、出ていった。子は死んだようになったので、多くの人が、「死んだ」と言った。
前田訳霊は叫んでひどく麻痺させて出て行った。子は死んだようになったので、多くの人が「死んだ」といった。
新共同すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。
NIVThe spirit shrieked, convulsed him violently and came out. The boy looked so much like a corpse that many said, "He's dead."
註解: 悪霊がその退却に際して最後の打撃を病者に与えたのであった。25、26節の治癒の過程はこれを今日の心理学的過程としても説明することができる。すなわち病者の錯乱せる精神がイエスの強烈なる精神力によりて調節せられ、その大なる変化に際して死人のごとくに凡ての力を喪失したのであると解することができる。ただし今日の精神病の諸疾患が他の霊的実在者の働きでないと確言することは医学的に見ても早計であろう。▲今日の精神分裂症に対する衝撃法は物質的の力によるものであるが、25節の治癒は霊の力によって同様の結果を来したものであろう。

9章27節 イエスその()()りて(おこ)(たま)へば()てり。[引照]

口語訳しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。
塚本訳イエスはその子の手をとって起された。すると立ち上がった。
前田訳しかしイエスがその手を取って起こされると、立ちあがった。
新共同しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
NIVBut Jesus took him by the hand and lifted him to his feet, and he stood up.
註解: イエスは罪になやめる者の心を立たしめ給う、この病者を起たしめ給えるもその力による。

9章28節 イエス(いへ)()(たま)ひしとき、弟子(でし)たち(ひそか)()ふ『我等(われら)いかなれば()(いだ)()ざりしか』[引照]

口語訳家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
塚本訳家にかえられると、弟子たちは人のいない時に尋ねた、「なぜわたし達には霊を追い出せなかったのでしょうか。」
前田訳家にお帰りになると、弟子たちがそっとおたずねした、「なぜわれらに霊が追い出せなかったのですか」と。
新共同イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
NIVAfter Jesus had gone indoors, his disciples asked him privately, "Why couldn't we drive it out?"

9章29節 (こた)(たま)ふ『この(たぐひ)(いのり)()らざれば、如何(いか)にすとも()でざるなり』[引照]

口語訳すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。
塚本訳彼らに言われた、「この種類(の霊)は、祈り以外(の手段)では決して出てゆかせることは出来ない。」
前田訳彼はいわれた、「この類(たぐい)のものは祈りによるほか決して追い出せない」と。
新共同イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。
NIVHe replied, "This kind can come out only by prayer. "
註解: この全体の出来事に関するイエスの教訓である。祈りは神との霊の交通である。人は祈りによりて神の力を受け、この力によりて悪の霊に打勝つことができる。悪霊の力は人よりも強い、故に祈ることなしに人はサタンの前に無力である。▲▲この際イエスはこの場で特に祈り給わなかった。変貌の山におけるイエスの祈りがこの力の源であった。
要義 [死人のごとくなりき]悪霊に憑かれて苦しめられし少年の姿は、サタンに捕われて苦悩する罪人に似ている。人間の罪は全く彼を支配し、彼を(もてあそ)び、彼をして転々苦悩せしめる。殊に彼がイエスに接するに及んでは、益々自己の罪の甚だしさを知り、ついに死にたるもののごとくなるに至るのである。罪の苦悩を経験してここに至らざる者は未だ真に罪の力を知っているものということができない。而してかくのごとくに死にたるものとなるに及べばイエスは御手を伸べて彼を立上がらしめ給う。悪霊より救われし者の姿も全くかくのごとくであるということができる。

4-1-ト 再び受難を予告し給う 9:30 - 9:32
(マタ17:22-23) (ルカ9:43-45)  

9章30節 此處(ここ)()りて、ガリラヤを()ぐ。イエス(ひと)()(こと)()るを(ほっ)(たま)はず。[引照]

口語訳それから彼らはそこを立ち去り、ガリラヤをとおって行ったが、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
塚本訳一行は(エルサレムに上るため)そこを去って、ガリラヤを通った。しかしイエスは(この旅行が)人に知られることを好まれなかった。
前田訳彼らはそこを出てガリラヤを通った。しかし彼はそれが人に知れることを望まれなかった。
新共同一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
NIVThey left that place and passed through Galilee. Jesus did not want anyone to know where they were,
註解: 此處(ここ)」はピリポ・カイザリヤ(マコ8:27)を指す、それよりイエスはガリラヤを通ってその旅路を続け給うた。一ヶ所に滞留し給うことがないように。而してイエスは次節に掲ぐる目的のために、その旅行が一般の人々に知られるを好まず、ひそかにその旅路を続け給うた。

9章31節 これは弟子(でし)たちに(をしへ)をなし、かつ『(ひと)()人々(ひとびと)()にわたされ、人々(ひとびと)これを(ころ)し、(ころ)されて、三日(みっか)ののち(よみが)へるべし』と()(たま)ふが(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。
塚本訳「人の子(わたし)は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。殺されるが、三日の後に復活する」と言って、弟子たちに教えて(その覚悟を求めて)おられたからである。
前田訳それは、「人の子は人々の手に渡され、人々は彼を殺し、彼は殺されて三日ののちに復活しよう」と弟子たちに教えておられたからである。
新共同それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
NIVbecause he was teaching his disciples. He said to them, "The Son of Man is going to be betrayed into the hands of men. They will kill him, and after three days he will rise."
註解: 本節は前節末尾の理由を示す。この当時のイエスの最大の関心はマコ8:31に記されるごとく十二弟子の教育にその御心を集中することであり、かつその受難と復活とを、弟子たちの心に深く印象付けることであった。かかることは多くの群集の中においては為し得ないことであって、そのために、イエスは特に人々に知られずに過すことを要求し給うた。

9章32節 弟子(でし)たちは、その(ことば)(さと)らず、また()(こと)(おそ)れたり。[引照]

口語訳しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。
塚本訳彼らはこの言葉(の意味)がわからなかった。でもこわいので尋ねなかった。
前田訳彼らはこのことがわからなかったが、たずねることをおそれていた。
新共同弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
NIVBut they did not understand what he meant and were afraid to ask him about it.
註解: マコ8:32マコ9:1の場合と同じく、この受難の予告を充分に悟らなかった。弟子の耳にはイエスの言が聞えていた。しかもその語が彼らの心に入らなかった。これを悟る能力が無かったのである。あたかも性に関する成年の言が幼少の時代にはこれを聞いても悟り得ないと同様である(ルカ9:45要義参照)。またこれを問うことを恐れたのは、イエスの態度があまりにも厳粛真剣であったので、これを理解しないのはイエスに対し大なる失望を与うることを感じたからである。

4-2 神の国の民たる資格 9:33 - 9:50
4-2-イ 大と小 9:33 - 9:37
(マタ18:1-5) (ルカ9:46-48)  

9章33節 (かく)てカペナウムに(いた)る。イエス(いへ)()りて、弟子(でし)たちに()(たま)ふ『なんぢら(みち)すがら(なに)(ろん)ぜしか』[引照]

口語訳それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。
塚本訳カペナウムに来た。家につかれるとイエスは、弟子たちにお尋ねになった、「道々何を評議していたのか。」
前田訳彼らはカペナウムに来た。家に入って弟子たちにおたずねになった、「道すがら何を論じあったか」と。
新共同一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
NIVThey came to Capernaum. When he was in the house, he asked them, "What were you arguing about on the road?"
註解: エルサレムに向って進み給うイエスはそのガリラヤ通過の際にカペナウムに立寄り給うた(マタ17:24)。人を避けて旅行し給えるイエスがカペナウムに立寄り給うことは不可解であるとする学者(L2)があるけれども、必ずしも然らず、弟子たちの議論につきイエスはこれを聴いていなかったのであろう。

9章34節 弟子(でし)たち默然(もくねん)たり、これは(みち)すがら、(たれ)(おほい)ならんと、(たがひ)(あらそ)ひたるに()る。[引照]

口語訳彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。
塚本訳彼らは黙っていた。(自分たちのうちで)だれが一番えらいかと、道々論じ合っていたからである。
前田訳彼らは黙っていた。道すがらだれか一番偉いか論じあっていたからである。
新共同彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
NIVBut they kept quiet because on the way they had argued about who was the greatest.
註解: 弟子たちが黙然たりしは、心に恥ずる処があったからである。弟子たちは皆野心満々たる青年であった。一方イエスがまさに十字架の露と消えんとしつつある時弟子たちはこれを知らざるもののごとく互いにその優位を争っていた。ここではマコ10:37のごとく神の国における優位(L2)と見るよりも、むしろ現世生活における優位(M0)と解するを可とす。弟子たちの考え方も次第に発展したものと見るべきである。
辞解
[大ならん] 直訳「ヨリ大ならん」。

9章35節 イエス()して、十二(じふに)弟子(でし)()び、(これ)()ひたまふ『(ひと)もし(かしら)たらんと(おも)はば、(すべ)ての(ひと)(しりへ)となり、(すべ)ての(ひと)役者(えきしゃ)となるべし』[引照]

口語訳そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。
塚本訳イエスは坐って、十二人を呼んで言われる、「一番上になりたい者は皆の一番下になれ、皆の召使になれ。」
前田訳彼はすわって十二人を呼んでいわれる、「先頭を切りたいものは、皆のしんがりで皆の僕(しもべ)になれ」と。
新共同イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
NIVSitting down, Jesus called the Twelve and said, "If anyone wants to be first, he must be the very last, and the servant of all."
註解: 重大なる真理を示さんがために十二弟子をみな呼び集め給うた。この世において人の上に立つ者は、他の人々を押し除けてその上に立ち、他の人々を使役して自分に奉仕せしめるのであるが、神の国においてはその反対で謙遜をもって凡ての人の最後に自己を置き、凡ての人の役者 diakonos としてこれに仕うべしとのことである。かかる人が神の国における最高の存在である。
辞解
[なるべし] estai は未来動詞であるため、この節の意味を「頭たらんとの野心を持つものはその罰として最後に立たしめられ凡ての人の奴隷となるであろう」との意味に解せる説があるけれど適当ではない。

9章36節 (かく)てイエス幼兒(をさなご)をとりて、(かれ)らの(なか)におき、(これ)(いだ)きて()(たま)ふ、[引照]

口語訳そして、ひとりの幼な子をとりあげて、彼らのまん中に立たせ、それを抱いて言われた。
塚本訳それから、一人の子供(の手)を取って彼らの真中に立たせ、それを抱いて言われた、
前田訳そしてひとりの子どもの手を取って一座の真ん中に立たせ、抱いていわれた、
新共同そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
NIVHe took a little child and had him stand among them. Taking him in his arms, he said to them,

9章37節 『おほよそ()()のために(かか)幼兒(をさなご)一人(ひとり)()くる(もの)は、(われ)()くるなり。(われ)()くる(もの)は、(われ)()くるにあらず、(われ)(つかは)しし(もの)()くるなり』[引照]

口語訳「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。
塚本訳「わたしの名を信ずる一人のこんな子供を迎える者は、わたしを迎えてくれるのである。わたしを迎える者は、わたしを迎えるのでなく、わたしを遣わされた方をお迎えするのである。」
前田訳「わが名のゆえにこのような子のひとりを迎えるものはわたしを迎えている。わたしを迎えるものはわたしをでなくて、わたしをおつかわしの方をお迎えしている」と。
新共同「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
NIV"Whoever welcomes one of these little children in my name welcomes me; and whoever welcomes me does not welcome me but the one who sent me."
註解: マタイ伝には本節を省きルカ伝は33b−35の問答を省く、マルコ伝の記事は、連絡宜しからず。大体の思想は、大ならんとする者は小なるものとなり、幼児のごとき信仰を持たなければならぬ。而してこの世はかかる者を無視し虐待する。しかしながらキリストの名のため、キリストを信ずることの故にかかる者を受け納る者は結局キリストを受け、神を受け納れることとなる。それ故にキリスト者は凡ての人の(しりえ)となり、凡ての人の役者となるけれども、彼は決して軽蔑さるべきものではない。▲かかる一人の幼児はこの世の権力者に無視されるけれどもイエスの弟子はかかる者を受けこれに(つか)えなければならない。
要義 [幼児のごとき信仰]虚栄心なく、偽善なく、報いを求むることなくして喜んで人に(つか)え、人の後に置かれるも(すこし) もこれを恨むることなき無邪気な信仰が、最もキリストの喜び給う処であった。自ら高しとするものは天国おいて卑しとせられる。

4-2-ロ イエスに逆わぬ者 9:38 - 9:40
(ルカ9:49-50)   

9章38節 ヨハネ()ふ『()よ、(われ)らに(したが)はぬ(もの)の、御名(みな)によりて惡鬼(あくき)()(いだ)すを()しが、(われ)らに(したが)はぬ(ゆゑ)に、(これ)(とど)めたり』[引照]

口語訳ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。
塚本訳ヨハネがイエスに言った、「先生、わたし達の仲間でない者が、あなたの名を使って悪鬼を追い出しているのを見たので、止めるように言いました。仲間にならないからです。(しかし言うことを聞きませんでした。)」
前田訳ヨハネは彼にいった、「先生、われらについて来ないものであなたのみ名によって悪霊どもを追い出すのを見ました。しかしわれらについて来ないのでやめさせようとしました」と。
新共同ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
NIV"Teacher," said John, "we saw a man driving out demons in your name and we told him to stop, because he was not one of us."
註解: この者は単にイエスの御名を魔術の符号として用いたものと見るべきではなく、イエスを信じつつ、しかもイエスの弟子の一団の中に加わらない一人であったと見るべきであろう。イエスの弟子たちはイエスを自分らの一団の独占としようとした。それ故にその一団に加わらざる者がイエスの御名を唱え、またはこれによりて悪鬼を逐い出すことを禁止した。宗派心の顕れである。またヨハネの強き性格がここにも表われている。
辞解
ヨハネが唯一人にて登場するのは共観福音書においてはここだけである。38−41節はマタイ伝に之を欠く。

9章39節 イエス()ひたまふ『(とど)むな、()()のために能力(ちから)ある(わざ)をおこなひ、(にはか)(われ)(そし)()(もの)なし。[引照]

口語訳イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
塚本訳イエスは言われた、「止めさせるに及ばない。わたしの名を使って奇蹟を行ったすぐそのあとで、わたしの悪口の言える者はないのだから。
前田訳イエスはいわれた、「やめさせることはない。わが名を用いて奇跡を行ないながら、すぐわたしを悪くはいえまい。
新共同イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
NIV"Do not stop him," Jesus said. "No one who does a miracle in my name can in the next moment say anything bad about me,

9章40節 (われ)らに(さから)はぬ(もの)は、(われ)らに()(もの)なり。[引照]

口語訳わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。
塚本訳反対しない者はわたし達の味方である。
前田訳われらにさからわぬものはわれらの味方である。
新共同わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
NIVfor whoever is not against us is for us.
註解: イエスには宗派心が無かった。イエスの名に基きて奇蹟を行い得るくらいの者ならば、心よりイエスを信じている者に相違ない。かかる者は急にその態度を変じてイエスを(そし)るはずがない。それ故にかかる者はイエスに逆うにあらざれば、たとい直接にその弟子の群に入らなくともイエスの仲間であると見るべきことをイエスは教え給うた。己が師を崇拝するのあまり、その師に接近する者以外を排斥せんとする心は、イエスの取らざる処である。
辞解
[我が名のために] epi で御名を基礎としてというごとき意。
要義 [師を崇拝する心]己が師を尊敬することは正しい。しかしながらその師の周囲の一団のみを特別の団体と考え、然らざるものを異端視することは、誤れる宗派心である。イエスは飽くまでもイエスを主と仰ぎその御名を呼ぶことを条件とし給うたけれども、必ずしも人間的の特別の団体に加入することを条件とし給わなかった。そこにイエスの偉大さがある。

4-2-ハ 躓について 9:41 - 9:48
(マタ18:6-9)   

9章41節 キリストの(もの)たるによりて、(なんぢ)らに一杯(いっぱい)(みづ)()まする(もの)は、(われ)まことに(なんぢ)らに()ぐ、(かなら)ずその(むくい)(うしな)はざるべし。[引照]

口語訳だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
塚本訳キリストの弟子だからとてあなた達に一杯の水を飲ませる者は、アーメン、わたしは言う、(天にて)その褒美にもれることはない。
前田訳キリストの弟子だからとあなた方に一杯の水を飲ませるものは、本当にいう、決して報いにもれまい。
新共同はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
NIVI tell you the truth, anyone who gives you a cup of water in my name because you belong to Christ will certainly not lose his reward.

9章42節 また(われ)(しん)ずる()(ちひさ)(もの)一人(ひとり)(つまづ)かする(もの)は、(むし)(おほい)なる碾臼(ひきうす)(くび)()けられて、(うみ)()()れられんかた(まさ)れり。[引照]

口語訳また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。
塚本訳しかし(わたしを)信ずるこの小さな者を一人でも罪にいざなう者は、大きな 挽臼を頚にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかにその人の仕合わせである。
前田訳しかしこれら信ずる小さいもののひとりをつまずかせるものは、大きな臼を首にかけられて海に投げ込まれたほうがその人にとってましである。
新共同「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
NIV"And if anyone causes one of these little ones who believe in me to sin, it would be better for him to be thrown into the sea with a large millstone tied around his neck.
註解: イエスの御名を基として奇蹟を行うほどの者をば弟子の一団に属せざるの故をもって排斥すべきに非ざるは勿論、この世の人の目より見て極めて微々たるイエスの弟子の一人に対して為されし小なる親切すら、それがキリストの者すなわちキリスト者たる故に為されし場合は、その行為を為したる者はキリストに対する尊敬を有する者に相違なき故、またこれに相当する報いを天において与えらるべく、反対に、弟子の一人を弟子たるの故に躓かせ、彼の前に障害を置きて彼をイエスより離れしめんとする者は、最も残酷なる刑罰に値している者であり、むしろ今直ちに死する方が幸いである。イエスの御名に対する態度は、その極めて些細のものといえども必ずそれに相当する報いを受けずにいることができない。
辞解
[大なる碾臼(ひきうす)] 驢馬に()かする碾臼(ひきうす)のこと。
要義 [キリスト者はこの世を(さば)きつつあり]キリスト者は自ら世を(さば)かんとせずして世は自然にキリスト者によって(さば)かれつつあることは不思議なる事実である。キリストのものたるが故に世がこれに対して如何なる態度を取るかは、キリスト者の幸不幸の問題ではなくむしろかかる態度を取るところの世の人の運命を支配する問題である。キリスト者の存在はこの世において小なる存在であるにかかわらずその影響するところは極めて大きい。

9章43節 もし(なんぢ)()なんぢを(つまづ)かせば、(これ)()()れ、不具(かたは)にて生命(いのち)()るは、兩手(りゃうて)ありて、ゲヘナの()えぬ()()くよりも(まさ)るなり。[引照]

口語訳もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、かたわになって命に入る方がよい。
塚本訳もし手があなたを罪にいざなうなら、切ってすてよ。両手があって地獄の消えぬ火の中へ行くよりも、片手で(永遠の)命に入る方が仕合わせである。
前田訳もし手があなたをつまずかせるなら、切り捨てよ。両手があって地獄の消えぬ火に入るより、片手でいのちに入るほうがよい。
新共同もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
NIVIf your hand causes you to sin, cut it off. It is better for you to enter life maimed than with two hands to go into hell, where the fire never goes out.
註解: 〔44なし〕

9章44節 [なし][引照]

口語訳〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕
塚本訳[無し]
前田訳
新共同(†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
NIV

9章45節 もし(なんぢ)(あし)なんぢを(つまづ)かせば、(これ)()()れ、蹇跛(あしなへ)にて生命(いのち)()るは、兩足(りゃうあし)ありてゲヘナに()()れらるるよりも(まさ)るなり。[引照]

口語訳もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。〔
塚本訳もし足があなたを罪にいざなうなら、切ってすてよ。両足があって地獄に投げ込まれるよりも、片足で(永遠の)命に入るほうが仕合わせである。
前田訳もし足があなたをつまずかせるなら、切り捨てよ。両足があって地獄に投げ込まれるより、片足でいのちに入るほうがよい。
新共同もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
NIVAnd if your foot causes you to sin, cut it off. It is better for you to enter life crippled than to have two feet and be thrown into hell.
註解: 〔46なし〕

9章46節 [なし][引照]

口語訳地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕
塚本訳[無し]
前田訳
新共同(†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
NIV

9章47節 もし(なんぢ)()なんぢを(つまづ)かせば、(これ)()(いだ)せ、片眼(かため)にて(かみ)(くに)()るは、兩眼(りゃうめ)ありてゲヘナに()()れらるるよりも(まさ)るなり。[引照]

口語訳もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。
塚本訳もしまた目があなたを罪にいざなうなら、えぐり出せ。両目があって地獄に投げ込まれるよりも、片目で神の国に入るほうが仕合わせである。
前田訳もし目があなたをつまずかせるなら、えぐり出せ。両目があって地獄に投げ込まれるより、片目で神の国に入るほうがよい。
新共同もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
NIVAnd if your eye causes you to sin, pluck it out. It is better for you to enter the kingdom of God with one eye than to have two eyes and be thrown into hell,

9章48節 彼處(かしこ)にては、その(うじ)つきず、()()えぬなり」[引照]

口語訳地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。
塚本訳地獄では、“蛆は(永遠に)死なず、火は消えない”(で、その人たちを責めさいなむからである。)
前田訳地獄では、蛆(うじ)は絶えず、火は消えない。
新共同地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
NIVwhere "`their worm does not die, and the fire is not quenched.'
註解: 28−42節においてはキリスト者に対する外部の人々の態度如何の問題を論じているのであるが、43−48節においてはキリスト者自身の罪の問題につき強き言葉をもってこれを戒め給う。キリスト者は自己の中に己を躓かせてキリストより離れしむるものがあるならば、如何なる苦痛を忍んでも、如何なる犠牲を払ってもこれを除き去らなければならぬ。然らざれば永遠の火の刑罰を受くるゲヘナに投げ込まれるであろうことを教え給うた。「手」「足」は我らの活動すなわち行為を意味し、「眼」は我らの心の中に映る外界の光景の印象より来る心の中の罪を表わす。我らの行為よりまた心より、凡ての罪を除き去ることによりて、始めて神の国に生くることができる。
辞解
[ゲヘナ] ゲイ・ヒンノームすなわちヒンノームの谷を意味す。この谷はエルサレムの南より南西に亘る谷で昔ここでイスラエルの民も異教の神モロクにその子らをささげ、その犠牲の火が消ゆることがなかった(U列23:10エレ7:31エレ19:5以下)。48節はイザ66:24の引用で、腐朽と刑罰を表徴的に言ったものである。この二者は実際としては同時に存在し得ないこと勿論である。また手足を切断し目を抜き出すことも表徴的意味である。

4-2-ニ (しお)の教え 9:49 - 9:50
(マタ5:13) (ルカ14:34-35)  

9章49節 それ(ひと)はみな()をもて(しほ)つけらるべし。[引照]

口語訳人はすべて火で塩づけられねばならない。
塚本訳人は皆、火で塩味をつけられねばならない。(神のお喜びになる供え物となるためである。)
前田訳人はみな火で塩づけにされよう。
新共同人は皆、火で塩味を付けられる。
NIVEveryone will be salted with fire.

9章50節 (しほ)()きものなり、()れど(しほ)もし()(しほ)()(うしな)はば、(なに)をもて(これ)(あぢ)つけん。(なんぢ)(こころ)(うち)(しほ)(たも)ち、かつ(たがひ)(やわら)ぐべし』[引照]

口語訳塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。
塚本訳塩は良いもの。しかしもし塩に塩気がなくなったら、何で(もう一度)それに塩気をつけるか。(いつも)心に塩を保って、互に仲良くせよ。」
前田訳塩はよいもの。しかし塩に塩気がなくなれば、何で味をつけよう。あなた方のうちに塩を持て、そして互いに平和であれ」と。
新共同塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
NIV"Salt is good, but if it loses its saltiness, how can you make it salty again? Have salt in yourselves, and be at peace with each other."
註解: 人は審判の火をもって心の中に(しお)つけなければならない。すなわち審判の火をもって自己の凡ての不義を焼き尽くすことによりて、自己を腐敗より救い、(しお)味を保つべきである。(しお)は食物に味をつけその腐敗を防ぐ、もしこの火の(しお)気が火としての働きを失い自己の腐敗を焼き尽くす力を失うならば、もはや如何ともすることができない。それ故に人は心の中に審判の火の(しお)気を保持し、自己をば厳格に批判しつつ、同時に他の人々に対しては互いに和らぎ、平和なる関係に入らなければならない。
辞解
この両節は解釈上の最難関の一つである。その故は49節に「何となれば」とありて前節と関連あることを示し、従って「火」は43、47節の火と関連し「(しお)つけらるべし」は50節の(しお)と関連するが故にこれを切り離して解し得ないからである。M0は十四の解釈の例を掲げている。殊に異本には49節にさらに「凡ての供物は(しお)にて(しお)つけらる」を加えて一層困難を増す。上記のごとく解釈することにより(ほぼ)意味が通ずる。
要義 [火をもって(しお)つけよ]我らは我らの心の中より凡ての罪を除き凡ての不義を断ち去らねばならない。然らざればゲヘナの火に遭わなければならないこととなる。我らもしゲヘナの火を避けんと欲するならば、我々の心の中に悪を焼き尽くす火を保ち、これをもって心の中の凡ての腐敗を焼き尽し、凡ての不義を除き去らなければならない。而してこのことが我らに(しお)のごとき味を付ける結果となり、この(しお)をもって味つけることが我らの心を健全に保ち、我らをしてゲヘナの火を免れしむる唯一の途となる。それ故に我らが救われることは決して安易な業ではない。火を要し(しお)を要す。火をもって不義を焼き尽くし(しお)をもって腐敗を止めなければならぬ。然らざれば我らはついに躓きを免れることができない。

マルコ伝第10章

分類
5 ユダヤにおけるイエス 10:1 - 10:52
5-1-イ 離婚問題 10:1 - 10:12
(マタ19:1-12)   

註解: ルカ伝にはこの間に所謂ルカによる旅行記(ルカ9:51−18:14)の長文の記事あり。

10章1節 イエス此處(ここ)をたちて、ユダヤの地方(ちはう)およびヨルダンの彼方(かなた)(きた)(たま)ひしに、群衆(ぐんじゅう)またも御許(みもと)(つど)ひたれば、(つね)のごとく(をし)(たま)ふ。[引照]

口語訳それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた。
塚本訳そこを立って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう(のペレヤ)とに行かれる。すると群衆がまた彼の所に集まってきたので、またいつものように教えられた。
前田訳そこを立ってユダヤの地方とヨルダンの向こう岸に行かれると、群衆がまたおそばに集まって来たので、またいつものようにお教えになった。
新共同イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。
NIVJesus then left that place and went into the region of Judea and across the Jordan. Again crowds of people came to him, and as was his custom, he taught them.
註解: 此處(ここ)」はカペナウム(マコ9:33)でイエスはそれより南下しヨルダン川の東岸を下りてヨルダンの彼方なるユダヤ地方に着き給うた。
辞解
[ユダヤの地方およびヨルダンの彼方] 道順としては逆になるのでこれを逆にして「ヨルダンの彼方およびユダヤの地方」と読むベしとする説もあるけれども(L2)、この「および」を「すなわち」と読めばマタ19:1と同じく「ヨルダンの彼方なるユダヤ」なる意味となる(I0、E0、M0)。
[教え給ふ] 未完了過去形で継続的行為を示す。

10章2節 (とき)にパリサイ(びと)(きた)(こころ)みて()ふ『(ひと)その(つま)(いだ)すはよきか』[引照]

口語訳そのとき、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。
塚本訳そこにパリサイ人たちが進み出て、イエスを試そうとして尋ねた、「夫は妻を離縁してもよろしいか。」
前田訳するとパリサイ人が近よって、夫は妻を離縁してよいかとたずねた。彼を試みたのである。
新共同ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
NIVSome Pharisees came and tested him by asking, "Is it lawful for a man to divorce his wife?"
註解: この当時もユダヤ人はその妻に離縁状を与えてこれを出すことを正当と考えていた。イエスが極めて厳格なる道徳を教えかつモーセの律法をそれよりもいっそう高きものに完成することを唱えていたので、パリサイ人らは離婚の問題につきてもイエスに独特の考えがあるならんと想像し、この質問を出した。
辞解
マタ19:3には「何の故にかかはらず」とあり、離婚の理由如何に重点を置いている。マルコはさらに一般的にこの問題を取扱い離婚の可否に関する概括的の答弁をイエスに求めたのである。

10章3節 (こた)へて()(たま)ふ『モーセは(なんぢ)らに(なに)(めい)ぜしか』[引照]

口語訳イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命じたか」。
塚本訳彼らに答えられた、「モーセはあなた達になんと命じているか。」
前田訳彼は答えられた、「モーセはあなた方に何と命じたか」と。
新共同イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
NIV"What did Moses command you?" he replied.

10章4節 (かれ)()ふ『モーセは離縁状(りえんじゃう)()きて(いだ)すことを(ゆる)せり』[引照]

口語訳彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。
塚本訳彼らが言った、「モーセは、“離縁状を書いて(妻を)離縁することを”許した。」
前田訳彼らはいった、「モーセは離縁状を書いて離縁することをゆるしました」と。
新共同彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
NIVThey said, "Moses permitted a man to write a certificate of divorce and send her away."
註解: イエスはまずパリサイ人らに質問して、彼らの立場を明かにし給うた。彼らの答えは申24:1-3の引用によりモーセの律法に従っていることの理由をもって彼らが離縁状を与えて簡単に妻を出すことの習慣を弁護した。ただし「何を命ぜしか」の答えに対して「許せり」と答えたのは、彼らにも幾分離婚の罪なることを感じていることを示す。なお申24:1の条件の解釈に広狭二種あり、ヒレル派はこれを広く解してあらゆる理由をこの中に含ましむる故結局何らの理由をも必要とせざることとなる。

10章5節 イエス()(たま)ふ『(なんぢ)らの(こころ)無情(つれなき)によりて、()誡命(いましめ)(しる)ししなり。[引照]

口語訳そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。
塚本訳イエスは彼らに言われた、「モーセはあなた達の心が(神に対して)頑固なために、この掟を書いたのである。
前田訳イエスはいわれた、「モーセはあなた方が頑なためにこのような掟を書いた。
新共同イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
NIV"It was because your hearts were hard that Moses wrote you this law," Jesus replied.
註解: モーセのこの律法は、離婚が正しき行為であること示しているのではなく、むしろ横暴なる男性より女性を保護せんがためであることを示している。人間は肉の念に放任される場合、夫婦の間に多くの不満を発見することが普通の事実である。
辞解
[無情] 粗暴なることまた従って頑固なること。

10章6節 ()れど開闢(かいびゃく)(はじめ)より「(ひと)(をとこ)(をんな)とに(つく)(たま)へり」[引照]

口語訳しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。
塚本訳しかし(天地)創造の始めから、“神は彼らを男と女とに造られた。”
前田訳しかし創造のはじめから神は人を男と女とに造られ、
新共同しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
NIV"But at the beginning of creation God `made them male and female.'

10章7節 (かか)(ゆゑ)(ひと)はその(ちち)(はは)(はな)れて、[引照]

口語訳それゆえに、人はその父母を離れ、
塚本訳“それゆえに人はその父と母とをすてて、
前田訳それゆえに人は父と母とを離れて、
新共同それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
NIV`For this reason a man will leave his father and mother and be united to his wife,

10章8節 二人(ふたり)のもの一體(いったい)となるべし」[引照]

口語訳ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。
塚本訳二人は一体となる”(とモーセは書いている。)従って、もはや二人ではない、一体である。
前田訳ふたりがひとつ体となる。したがってもはやふたりでなくひとつ体である。
新共同二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
NIVand the two will become one flesh.' So they are no longer two, but one.
註解: 創1:27創2:24の記事を引用してモーセの語と対象せしめ、創造主の本来の意思は、一夫一婦の制であったことを示し、モーセの律法は単に一時の便宜法に過ぎざることを教えんとし給う。創2:24はアダムの言かエホバ典記者の解説かは問題であるとしても、イエスはそこに真の神意を見出し給うた。7節末尾に「その妻に合い」を略したるは簡単にするためならん。▲創2:24を一夫一婦制の基礎と解したのはイエスの烱眼(けいがん)であった。

()ればはや二人(ふたり)にはあらず、一體(いったい)なり。

10章9節 この(ゆゑ)(かみ)(あは)(たま)ふものは、(ひと)これを(はな)すべからず』[引照]

口語訳だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。
塚本訳だから夫婦は(皆)神が一つの軛におつなぎになったものである。人間がこれを引き離してはならない。」
前田訳神がひとつ軛(くびき)に結ばれたものを人が離すべきでない」と。
新共同従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
NIVTherefore what God has joined together, let man not separate."
註解: 夫婦はその結合によりて一つの体となる。而してこれは神の定め給える関係なるが故に、たとい人間的に如何なる不満ありとも、人はこれを離してはならない。神の御旨として畏れかしこまなければならない。

10章10節 (いへ)()りて弟子(でし)たち(また)この(こと)()ふ。[引照]

口語訳家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。
塚本訳家で弟子たちが、またこのことをお尋ねした。
前田訳家でまた弟子たちがこのことについておたずねした。
新共同家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。
NIVWhen they were in the house again, the disciples asked Jesus about this.

10章11節 イエス()(たま)ふ『おほよそ()(つま)(いだ)して、(ほか)(めと)(もの)は、その(つま)(たい)して姦淫(かんいん)(おこな)ふなり。[引照]

口語訳そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。
塚本訳彼らに言われる、「妻を離縁してほかの女と結婚する者は、妻に対して姦淫を犯すのである。
前田訳彼らにいわれる、「妻を離縁してほかの女をめとるものは妻に対して姦淫する。
新共同イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。
NIVHe answered, "Anyone who divorces his wife and marries another woman commits adultery against her.

10章12節 また(つま)もし()(をっと)()てて(ほか)(とつ)がば、姦淫(かんいん)(おこな)ふなり』[引照]

口語訳また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。
塚本訳もし妻が夫を離縁してほかの男と結婚すれば、(これも)姦淫を犯すのである。」
前田訳妻が夫を離縁してほかの男と結ばれても姦淫する」と。
新共同夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
NIVAnd if she divorces her husband and marries another man, she commits adultery."
註解: 以上のごとく夫婦は神の合せ給える一体なる故、人はこれを離すべきではなく、たとい離縁状を与えてこれを出しても、これは無効であってその夫婦たる関係は不変である。それ故に他の女を娶る場合はこの結合は真の夫婦の結合ではなく姦淫である。妻の場合も勿論同様である。
辞解
[其の夫を棄てて] 「棄て」は11節の「妻を出して」の「出し」と同一の語なり。ゆえに「その夫を出して」となる。然るにユダヤの律法では妻が夫を追い出すことは絶対になき故(S2)、これはマルコがローマ人やギリシャ人に読ませるためにその異なれる習慣に適応したのであろう(L2、I0)。それ故に異本には「もし女その夫より出で行く時は」と訂正しているのである。
要義 [離婚の絶対禁止]婚姻は神の為し給える業であるとすれば、如何なる場合にもそれが無上命令であり我らの絶対の服従を要求する。人間として夫婦間に如何に多くの不満がある場合でも、神の与え給える苦難の一種としてこれを耐え忍ばなければならない。而してこの不幸なる関係の中に神の愛の御旨を見出す場合、人はその不幸なる婚姻関係の中より神にある聖なる使命観を汲み出し、聖なる愛を生み出すことができる。なお姦淫のみが例外的に離婚の原因として許されているのは(マタ19:9)、姦淫それ自身が神の定めに対する叛逆であり、婚姻関係を破壊してしまったからである。

5-1-ロ 幼兒を祝福し給う 10:13 - 10:16
(マタ19:13-15) (ルカ18:15-17)  

10章13節 イエスの(さは)(たま)はんことを(のぞ)みて、人々(ひとびと)幼兒(をさなご)らを()(きた)りしに、弟子(でし)たち(いまし)めたれば、[引照]

口語訳イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。
塚本訳イエスにさわっていただこうとして、人々が子供たちをつれて来ると、弟子たちが咎めた。
前田訳人々がおそばに子どもらを連れて来た。さわっていただくためである。しかし弟子たちは彼らをとがめた。
新共同イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
NIVPeople were bringing little children to Jesus to have him touch them, but the disciples rebuked them.
註解: イエスは手をもって觸ることによりて多くの病苦を癒し給うた。これを見て人々はその手に特別の祝福力があることと思い幼児に觸ることによりてその将来を祝福してもらいたいと願った。弟子たちは師を尊敬するのあまり、かかることをもって師を煩わすまじとてこれを(いまし)めた。弟子がその師の真の心を知り尽すことはなかなかに困難である。

10章14節 イエス(これ)()、いきどほりて()ひたまふ『幼兒(をさなご)らの(われ)(きた)るを(ゆる)せ、(とど)むな、(かみ)(くに)(かく)のごとき(もの)(くに)なり。[引照]

口語訳それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
塚本訳イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた、「子供たちをわたしの所に来させよ、邪魔をするな。神の国はこんな(小さな)人たちのものである。
前田訳イエスはそれを見ていきどおっていわれた、「子どもらをよこしなさい。邪魔をしないで。神の国はこんな人たちのものである。
新共同しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
NIVWhen Jesus saw this, he was indignant. He said to them, "Let the little children come to me, and do not hinder them, for the kingdom of God belongs to such as these.
註解: イエスは弟子たちの処置を憤り給うた。イエスは打算的なる弟子たちの姿よりも、無邪気にして率直なる幼児の姿が、かえって神の国の民の姿に近いことを感じ、単純にして自然なる幼児の姿を心より愛し給うたのであった。イエス自身まことに幼児のごとく単純率直にして自然である。

10章15節 (まこと)(なんぢ)らに()ぐ、(おほよ)幼兒(をさなご)(ごと)くに(かみ)(くに)をうくる(もの)ならずば、(これ)()ること(あた)はず』[引照]

口語訳よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。
塚本訳アーメン、わたしは言う、子供のように(すなおに)神の国(の福音)を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない。」
前田訳本当にいう、神の国を子どものように受け入れねば決してそこに入れまい」と。
新共同はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
NIVI tell you the truth, anyone who will not receive the kingdom of God like a little child will never enter it."

10章16節 (かく)幼兒(をさなご)(いだ)き、()をその(うへ)におきて(しゅく)(たま)へり。[引照]

口語訳そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。
塚本訳それから子供たちを抱き、(頭に)手をのせて祝福された。
前田訳そして子どもらを抱き、手を置いて祝福された。
新共同そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
NIVAnd he took the children in his arms, put his hands on them and blessed them.
註解: 神の国を受けてこれに入るには幼児のごとき単純さをもってイエスを信じこれに依り頼まなければならない。利害の打算にあらず理屈にあらず、これらを超越せる信頼である。イエスは父なる神に対し幼児のごとき信頼を有ち給うた。
辞解
[神の国を受くる] 神の国は「来る」ものなるが故にこれを「受くる」のであって、結局神の支配に服することを意味す。
要義 [神の国に入るもの]幼児のごとき信仰とは、聖書の知識にあらず、信仰箇条の受諾にあらず、神学の理解にあらず、また教会への所属またはその儀式への参加にあらず、幼児のごとき自然さと単純さとをもって神に信頼することである。自然なるが故に、そこに虚偽がなく、単純なるが故に力強い。父なる神に信頼せるイエスの姿こそ、正しくこの幼児のごとき信仰であった。我らもまた彼に倣いて幼児のごとくにならなければならない。

5-1-ハ 富める青年 10:17 - 10:27
(マタ19:16-26) (ルカ18:18-27)  

10章17節 イエス(みち)()(たま)ひしに、一人(ひとり)はしり(きた)(ひざま)づきて()ふ『()()よ、永遠(とこしへ)生命(いのち)()ぐためには、(われ)なにを()すべきか』[引照]

口語訳イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
塚本訳旅行に出ようとされると、ひとりの人が駆けてきて、ひざまずいて尋ねた、「善い先生、永遠の命をいただくには、何をすればよいでしょうか。」
前田訳彼が旅に出ようとされると、ひとりの人が駆けて来てひざまずいてたずねた、「よい先生、永遠(とこしえ)のいのちを継ぐには何をすべきですか」と。
新共同イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
NIVAs Jesus started on his way, a man ran up to him and fell on his knees before him. "Good teacher," he asked, "what must I do to inherit eternal life?"
註解: イエス、家より(10節)途に出で給いし時の事件であった。走り来れるはその道を求むる熱心を示し、(ひざまづ)きたるはそのイエスを尊敬する心を表し、「善き師よ」と言えるはイエスの憐憫を求めまたこれを信頼していることを暗示す。「永遠の生命を嗣ぐ」はメシヤ王国に入ることと同義に用いられていた(I0)。彼は何を「為す」べきかを問うた。しかしながら「為す」前に「成ら」なければならない。この人は富める青年であった(マタ19:22)。

10章18節 イエス()(たま)ふ『なにゆゑ(われ)()しと()ふか、(かみ)ひとりの(ほか)()(もの)なし。[引照]

口語訳イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
塚本訳イエスは言われた、「なぜわたしを『善い』と言うのか。神お一人のほかに、だれも善い者はない。
前田訳イエスはいわれた、「なぜわたしのことを『よい』というのか。神おひとりのほかによい方はない。
新共同イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
NIV"Why do you call me good?" Jesus answered. "No one is good--except God alone.
註解: 青年は単に人間的の意味および程度においてイエスを「善き師」と呼んだのであった。イエスはこの青年の心をまず第一に至高善に向けることの必要を感じ給うた。然らざれば自己の不完全さを充分に認識することができないからである。マタ19:17の質問応答は異る形をとっているけれども、イエスの意図としては同一の結果を来すこととなる。ただしマルコ伝の問答(ルカ18:19も同じ)の方がむしろ自然である。またこの答えによりてイエスが自己の神性を否定し給うたと見るは誤っている。イエスは神学的に論じ給うたのではなく、青年の心を捕えて訓練し給うたのである。

10章19節 誡命(いましめ)(なんぢ)()るところなり「(ころ)すなかれ」「姦淫(かんいん)するなかれ」「(ぬす)むなかれ」「僞證(ぎしょう)()つるなかれ」「(あざむ)()るなかれ」「(なんぢ)(ちち)(はは)とを(うやま)へ」』[引照]

口語訳いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。
塚本訳(するべきことは神の掟を守ることだけで、)掟はあなたが知っている通り。──“殺してはならない、姦淫をしてはならない、盗んではならない、偽りの証言をしてはならない、”奪い取ってはならない、“父と母とを敬え。”(ただこれだけである。)」
前田訳あなたは掟を知っているはず。いわく、『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父と母とを敬え』と」。
新共同『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
NIVYou know the commandments: `Do not murder, do not commit adultery, do not steal, do not give false testimony, do not defraud, honor your father and mother.' "
註解: イエスはモーセの十誡の第二の石版に属する部分を提示してこの青年がはたしてこれを実行しているや否やを反省せしめ給う。永遠の生命を継ぐために必要なことは真の意味において律法を守ることである。その他に何らの奇抜なものがない。
辞解
第五誡の「汝の父と母を敬え」を最後に置く所以は不明である。▲もし十誡が二枚の石の板に平分されたとすれば第五誡は第一の石板に記されたこととなる。
[欺き取るなかれ] マルコ伝のみに在り恐らく第十誡の「貪るなかれ」に相当するものならん。

10章20節 (かれ)いふ『()よ、われ(おさな)(とき)より(みな)これを(まも)れり』[引照]

口語訳すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。
塚本訳その人が言った、「先生、それならみんな若い時から守っております。」
前田訳その人はいった、「先生、それなら皆若い時から守っています」と。
新共同すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
NIV"Teacher," he declared, "all these I have kept since I was a boy."
註解: これ必ずしも特に高慢ある態度であるということはできない。幼少の時より真面目なる生活を続け来りしこの青年の偽らざる告白であった。しかしながら彼は唯十誡をその表面において守ることをもって誇りとしている点に彼の霊魂の欠陥があった。これがために彼は彼のたましいの深所(ふかみ)に巣くう己が罪の正体を看破し得なかったのであった。彼の心に深き不安があり、その解決をイエスに求めたのも、この深き病根のためであり、また彼が「皆これを守れり」と簡単に答うることができたのもこの認識の欠陥の結果であった。

10章21節 イエス(かれ)()をとめ、(いつく)しみて()(たま)[引照]

口語訳イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
塚本訳イエスは彼をじっと見て、かわいく思って言われた、「(よく守った。だが)一つ足りない。家に帰って、持っているものをみな売って、(その金を)貧乏な人に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことができる。それから来て、わたしの弟子になりなさい。」
前田訳イエスは彼をじっと見て愛着を感じていわれた、「ひとつあなたに欠けている。行って持ちものを皆売って貧しい人々に与えよ。そうすれば天に宝を得よう。それから来てわたしに従いなさい」と。
新共同イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
NIVJesus looked at him and loved him. "One thing you lack," he said. "Go, sell everything you have and give to the poor, and you will have treasure in heaven. Then come, follow me."
註解: イエス彼を見て、その真面目なる態度と、求むる心の豊かなるとを知り、心より彼を愛しみ給うた。もしこの青年がイエスのこの愛を知ったならば、彼は次節の言に躓かなかったであろう。

『なんぢ()(ひと)つを()く、()きて(なんぢ)()てる(もの)を、ことごとく()りて、(まづ)しき(もの)(ほどこ)せ、さらば財寶(たから)(てん)()ん。(かつ)きたりて(われ)(したが)へ』

註解: この青年は外部的には全く欠点なき青年であった。しかし彼には神に対する絶対の信頼すなわち信仰が欠けていたのである。この根本的病源を発見したのがイエスの烱眼(けいがん)であり、イエスはこの点に一撃を与え給うた。すなわちこの青年が無意識の中にその資産に依り頼み、神に依り頼まなかったのであった。それ故にイエスは彼の心をその財宝より引き離してイエスに従わしめんとし給うたのであった。
辞解
「所有をことごとく売りて貧しき者に施す」ことは、この青年の心を救うがための手段であって、イエスの社会政策的プログラムではなく、またこの青年に積極的に善行を為すべしと教えた(I0)のでもない。
[一つを缺く] 「施すこと」と「イエスに従うこと」との二つを含む。これを「一つ」と称するはこの二者の根源たる神に対する信頼を指すからである。

10章22節 この(ことば)によりて、(かれ)(うれひ)(もよほ)し、(かな)しみつつ()りぬ、(おほい)なる資産(しさん)をもてる(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
塚本訳彼はこの言葉に顔をくもらせ、悲しそうにして立ち去った。大資産家であったのである。
前田訳彼はこのことばに顔を曇らせ、悲しんで立ち去った。大金持であったからである。
新共同その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
NIVAt this the man's face fell. He went away sad, because he had great wealth.
註解: 彼にはイエスの御言に従う勇気がなかった。彼にとりては見えざる神の力よりも、見ゆる資産の力の方が大きく見えたのであった。アブラハムが神の言に従ってその子イサクをささげんとしたのと同様に、この青年がもしイエスの言に従ってその資産を売りて貧しき者に施す決心をしたならば、彼の霊魂はこれによりて救われ、資産もまた彼に取戻されたのであろう。信仰の試錬に際してはかかる危機一髪の刹那が大切の瞬間である。
辞解
[憂を催し] 口語訳、塚本訳のごとく「顔を曇らせ」の意。

10章23節 イエス見囘(みまは)して弟子(でし)たちに()ひたまふ『(とみ)ある(もの)(かみ)(くに)()るは如何(いか)(かた)いかな』[引照]

口語訳それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。
塚本訳イエスは(うしろ姿を見送っておられたが、)やがて見まわして、弟子たちに言われる、「物持ちが神の国に入るのは、なんとむずかしいことだろう。」
前田訳イエスはあたりを見て弟子たちにいわれる、「金持が神の国に入るのはなんとむずかしかろうことか」と。
新共同イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
NIVJesus looked around and said to his disciples, "How hard it is for the rich to enter the kingdom of God!"
註解: 富める者はこの世においてすでに多くの満足を得るが故に神の国を求めず、求めてもこの世に対する執着を棄て得ざるが故に神の国に入ることができない。この点において富者は貧者よりも遙かに不幸である。

10章24節 弟子(でし)たち()御言(みことば)(をどろ)く。[引照]

口語訳弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。
塚本訳弟子たちはその言葉にびっくりした。(彼らは富むことが、神に特別に愛されているしるしと信じたのである。)イエスはかさねて言われる、「子供たちよ、神の国に入ることは、なんとむずかしいのだろう。
前田訳弟子たちはこのことばにおどろいた。イエスはふたたびいわれる、「子どもらよ、神の国に入るのはなんとむずかしいことか。
新共同弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
NIVThe disciples were amazed at his words. But Jesus said again, "Children, how hard it is to enter the kingdom of God!
註解: 彼らが驚きし理由は、富める者がもし(ことごと)くその資産を売りて貧者に施さざれば天国に入り難しとすれば、それは何人にとりても至難のことであって、富者に課せられし条件があまりに苛酷に思えたためであろう。普通の考え方としては富者は若干の施済を行う程度で容易に神の国に入り得るものと考えられていたからである。

イエスまた(こた)へて()(たま)ふ『()たちよ、(かみ)(くに)()るは如何(いか)(かた)いかな。

10章25節 ()める(もの)(かみ)(くに)()るよりは駱駝(らくだ)(はり)(あな)(とほ)るかた(かへ)つて(やす)し』[引照]

口語訳富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
塚本訳金持が神の国に入るよりは、駱駝が針の孔を通る方がたやすい。」
前田訳らくだが針の穴を通るほうが、金持が神の国に入るよりはやさしい」と。
新共同金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
NIVIt is easier for a camel to go through the eye of a needle than for a rich man to enter the kingdom of God."
註解: イエスは一般的に神の国に入ることの至難なることを述べ殊に富者においてはそれが一層困難なして駱駝が針の孔を通るよりも難く、ほとんど不可能であることを語り給うた。もし我らこの語を発し給えるイエスの御心を汲み得るならば、イエスはおそらく資産に富める者のみならず、学問に、知識に、地位に、経験に、凡て自己の所有に誇りこれに依り頼む者を眼中に置き給うたのであろう(マタ19:30要義一参照)。これらを凡て棄て去ってイエスに従う者にあらざれば神の国に入ることはできない。
辞解
「駱駝」を少しく文字を加えて「大綱」と読むべしとする説、また「針の穴」をエルサレムのある門と解せんとする説あれどその必要なし。

10章26節 弟子(でし)たち(いた)(をどろ)きて(たがひ)()ふ『さらば(たれ)(すく)はるる(こと)()ん』[引照]

口語訳すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。
塚本訳弟子たちはいよいよ驚いて互に言った、「それでは、だれが救われることが出来るのだろう。」
前田訳彼らはますますおどろいて互いにいった、「それならだれが救われえよう」と。
新共同弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
NIVThe disciples were even more amazed, and said to each other, "Who then can be saved?"
註解: この世に貧者の数は富者に比して無数に多い。それ故に富者が神の国に入り難しとしても他に救わる者はいくらでもあり得るわけである。然るに弟子たちが「誰か救われる事を得ん」と言って驚いた所以は、二つの理由を考えることができる。その一はこの富める青年のごとく立派なる人間が単にその資産を(ことごと)く施すことをしないために救われないとすれば、はたして誰が救われるであろうかとの疑問と見ることができ、その二は、資産に富む者のみならず、学問、知識、経験、地位、権力等に富む者も、これを(ことごと)く売りて貧者に施さなければ救われないとすれば救われるものは非常に少ないこととなるだろうとの疑問である。

10章27節 イエス(かれ)らに()()めて()ひたまふ『(ひと)には(あた)はねど、(かみ)には(しか)らず、()(かみ)(すべ)ての(こと)をなし()るなり』[引照]

口語訳イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。
塚本訳イエスは彼らをじっと見て言われる、「人間には出来ないが、神には出来る。“神にはなんでも出来る。”」
前田訳イエスは彼らを見つめていわれる、「人にはできないが、神はおできになる。神は全能にいますから」と。
新共同イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
NIVJesus looked at them and said, "With man this is impossible, but not with God; all things are possible with God."
註解: 人は自己の所有に依り頼むことをやめんとしてやめる力がない。すなわち自己をその罪より救うことができない。しかしながら神はその独り子を人類の罪のために十字架につけ給い、かかる人間にその罪を悟らしめ、凡てを捨てて神に従うことを得しめ給う。かくして人に(あた)わぬことを神が為し給うのである。
要義 [富める者とは誰ぞ]ここに富める者とは必ずしも金銀財宝を多額に所有している者ではなく、その所有に心を奪われ、これに依り頼むことによりて心の平安を維持している類の人をいうのである。而して世の所謂富者は概ねこの種の人であることは周知の事実である。しかしながらこれは必ずしも金銀財宝に富める者に限られていない。自己の学問、知識、経験等、凡てこれに依り頼んでいる者はそれらについての富者である。これらは神を神とせずしてその所有を神としているのであって、彼らにとりてはその所有が偶像である。それ故に我らはたとい金銀において貧しくあっても心を許してはならない。もし我らの心の中に何なりと捨て難きものがあるとすれば、我らはそれについて富める者であり、神の国に入り得ざる者となる。

5-1-ニ 一切を棄てし者 10:28 - 10:31
(マタ19:27-30) (ルカ18:28-30)  

10章28節 ペテロ、イエスに(むか)ひて『(われ)らは一切(いっさい)をすてて(なんぢ)(したが)ひたり』と()()でたれば、[引照]

口語訳ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。
塚本訳ペテロがイエスに、「でも、わたし達は(あの金持とちがいます。)この通り何もかもすてて、あなたの弟子になりました」と言い出した。
前田訳ペテロが彼にいいだした、「ごらんのとおりわれらはすべてを捨ててあなたに従っています」と。
新共同ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。
NIVPeter said to him, "We have left everything to follow you!"
註解: この場合もペテロは他の弟子たちの総意を代表せるものと見るべきである。彼はイエスに向い、イエスの二つの要求 ─ 凡てを棄てることと彼に従うこと ─ を充したことを主張し、この犠牲に対する報いとして何を得べきかを質問した。イエスが21節に「財宝を天に得ん」と教え給える意味を解し兼ねたのと、また彼ら果して何を得べきやにつき甚だ不安なる心持を感じたからである。

10章29節 イエス()(たま)ふ、『まことに(なんぢ)らに()ぐ、()がため、福音(ふくいん)のために、(あるひ)(いえ)(あるひ)兄弟(きゃうだい)、あるひは姉妹(しまい)(あるひ)(ちち)(あるひ)(はは)(あるひ)()(あるひ)田畑(たはた)をすつる(もの)は、[引照]

口語訳イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、
塚本訳イエスは言われた、「アーメン、あなた達に言う、わたしのため、また福音のために、家や兄弟や姉妹や母や父や子や畑をすてた者で、
前田訳イエスはいわれた、「本当にいう、わたしのため、福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てたものはだれでも、
新共同イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
NIV"I tell you the truth," Jesus replied, "no one who has left home or brothers or sisters or mother or father or children or fields for me and the gospel

10章30節 (たれ)にても(いま)(いま)(とき)(ひゃく)(ばい)()けぬはなし。(すなは)(いへ)兄弟(きゃうだい)姉妹(しまい)(はは)()田畑(たはた)迫害(はくがい)(とも)()け、また(のち)()にては、永遠(とこしへ)生命(いのち)()けぬはなし。[引照]

口語訳必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。
塚本訳今、この世で──迫害のうちにおいてではあるが──百倍の家と兄弟と姉妹と母と子と畑とを、また来るべき世では永遠の命を受けない者は一人もない。
前田訳今この世では、迫害とともにではあるが、百倍の家、兄弟、姉妹、母、子、畑を受け、来世では、永遠のいのちを受ける。
新共同今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。
NIVwill fail to receive a hundred times as much in this present age (homes, brothers, sisters, mothers, children and fields--and with them, persecutions) and in the age to come, eternal life.
註解: 「百倍を受けぬはなし」とは家百軒、兄弟百人、姉妹百人というごとき意味ではなく、イエスのため、福音を信じまたこれを伝うるがためにこれらを棄つるものは、それらの所有に遙かに優れる幸福を現世においても与えられることの意味である。しかもその幸福は迫害がこれに伴うのであって、迫害が来るにしてもなお百倍の幸福を享有し得るとすれば、その幸福の大なることを知ることができる。イエスとその福音のために家、兄弟、姉妹等々を棄つるものがかくも絶大なる幸福を享け得る所以は、人間の凡ての不幸の原因が自己中心、すなわち自己の所有物をもって自己を幸福ならしめんとする利己心に在るからである。これらの凡てを棄てるとはこれに伴う凡ての私情私慾を断ち切ることである。その結果天空海闊(てんくうかいかつ)、凡てのものを神に属するものとして考え、神のものとしてさらに神よりこれを受けるが故に、百倍の幸福としてこれを受けることができるのである。而してさらにイエスの再臨によりて来るべき新たなる世においては、永遠の生命が与えられ、永遠に亡びざる幸福を獲得する。
辞解
[妻] ルカ18:29にあるのみでマタイ伝にもこれを欠く、これあるいは欧州人の道徳観には妻を棄てることが特に悪事として感ぜられしためか、または後に妻を百人も得るということが面白からざる感じを与うるがためか、または妻を自己と一体と見る観念より、この場合妻も捨てられる側ではなく捨てる側、すなわちこの困難なる捨身を実行する側に立つものと考えられたためであろう。また30節に「父」を欠くのは、偶然の脱落か、または「多くの父を有つ」ということが不倫なる関係を連想せしむるのを避けたのであろう。しかしながら「百倍」なる文字がすでに表徴的である以上、以上のごとき凡てのことは実は杞憂に過ぎない。
[百倍] 伝道によりて多くの父母兄弟姉妹にも相当すべき人を霊的に獲得することを意味すと見る説あれど(B1)むしろ、霊的の意味に解し、棄てて後に与えられらる父母兄弟姉妹らは、以前のそれらよりも遙かに多くの幸福を我らに与うる。

10章31節 ()れど(おほ)くの(さき)なる(もの)(あと)に、(あと)なる(もの)(さき)になるべし』[引照]

口語訳しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。
塚本訳しかし(決して油断をしてはならない。)一番の者が最後になり、最後の者が一番になることが多い。」
前田訳しかし最初のものが最後になり、最後のものが最初になることが多い」と。
新共同しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
NIVBut many who are first will be last, and the last first."
註解: 神の国には情実はなく、その実際の情態によりてその位置の前後、上下が定まる。ゆえに他人より先にイエスに従える者ももし怠惰に過し居る場合は他の者に先立たれる。イエスの最初の弟子といえども必ずしも最初に神の国に入ることを保証されない。
要義 [百倍の祝福]人間の幸福は各人がその己を棄てし程度によりて決定する。誰にも最も親しくして棄て難しとする肉親、資産等を棄つる場合、これによりて受くる祝福もまたそれに比例して大となる。それ故に人は幸福を求めんとしてかえってこれを失い、これを棄つることによりてかえってこれを獲得する。イエスの弟子は事実この世において物質的または家庭的幸福を得ることは難いけれども、信仰によりて獲得する真の幸福ははるかにこれらに優れるものである。然のみならず、凡てを棄てて一旦信仰に入りて後は父母、兄弟、姉妹、財産の意義は一変し、真の父母、兄弟、財産となり、その価値もまた百倍する。その故はそれらを神のものとして見ることができるからである。かくして、彼らは物質的にも家庭的にも結局において真の幸福を味わうに至る。而して単にこの世におけるのみならず永遠の相において見るも、彼らはついに永遠の生命を得るに至るのである。

5-1-ホ 三度死を予告し給う 10:32 - 10:34
(マタ20:17-19) (ルカ18:31-33)  

10章32節 エルサレムに(のぼ)(みち)にて、イエス(さき)だち()(たま)ひしかば、弟子(でし)たち(をどろ)き、(したが)()(もの)ども(おそ)れたり。[引照]

口語訳さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、
塚本訳一行はエルサレムへ(の道を)上る途中であった。イエスが(十二人の)弟子たちの先頭に立って(どしどし)歩かれるので、彼らは薄気味わるく思い、ついて行く(ほかの)人たちは恐ろしがっていた。イエスはまた十二人(だけ)をそばに呼んで、自分の身に起ろうとしていることを話し出された、
前田訳彼らはエルサレムへと上る道すがらであった。先頭に立たれたのはイエスで、彼らはおじけ、従うものはおそれていた。彼はまた十二人を呼んで、ご自身におころうとすることを話しはじめられた、
新共同一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
NIVThey were on their way up to Jerusalem, with Jesus leading the way, and the disciples were astonished, while those who followed were afraid. Again he took the Twelve aside and told them what was going to happen to him.
註解: イエスのこの時の態度と気勢は全く特別であった。平日は弟子たちと語りながら群を為して進み給うたのにこの時だけは目をエルサレムに向けて突撃し給う姿勢であった。おそらくその目は血走っていたであろう。イエスはこの時いよいよ彼に対する反対者の根拠地なるエルサレムを衝かんとし給うが故である。イエスの神の子たる所以の使命を果さんがためには、たとい如何なる危険を冒してもエルサレム行を避くべきではなかった(マタ16:22、23)。このイエスの猛然たる決死の態度を見て弟子たちはその御心を理解せずして驚き、その他の(したが)い往く者は何事の起らんかを懼れた。
辞解
[先だち往き] ルカはルカ9:51およびルカ19:28にイエスがいよいよエルサレムに往かんとし給うときにこの光景を録す。

イエス(ふたた)十二(じふに)弟子(でし)(ちか)づけて、(おの)()(おこ)らんとする(こと)どもを(かた)()(たま)ふ、

註解: イエスは弟子たちの驚きを覚りその歩を緩めて弟子たちを近づけ、エルサレムにおいて起るべきことを預言し給う。イエスの御心に満ちているものはこの運命であった。

10章33節 ()よ、(われ)らエルサレムに(のぼ)る。(ひと)()祭司長(さいしちゃう)學者(がくしゃ)らに(わた)されん。(かれ)()(さだ)めて、異邦人(いはうじん)(わた)さん。[引照]

口語訳「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。
塚本訳「さあ、いよいよわたし達はエルサレムへ上るのだ。そして人の子(わたし)は(そこで)大祭司連と聖書学者たちとに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異教人に引き渡し、
前田訳「いよいよ、われらはエルサレムへ上る。人の子は大祭司や学者に引き渡され、彼らは死に定めて異邦人に引き渡し、
新共同「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
NIV"We are going up to Jerusalem," he said, "and the Son of Man will be betrayed to the chief priests and teachers of the law. They will condemn him to death and will hand him over to the Gentiles,

10章34節 異邦人(いはうじん)嘲弄(てうろう)し、(つばき)し、(むち)うち、(つい)(ころ)さん。[引照]

口語訳また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。
塚本訳異教人はなぶり、唾をかけ、鞭で打って、ついに殺すのである。しかし三日の後に復活する。」
前田訳異邦人はあざけり、唾し、鞭打って殺そう。そして彼は三日ののちに復活しよう」と。
新共同異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
NIVwho will mock him and spit on him, flog him and kill him. Three days later he will rise."
註解: イエスの受難週間において起れる出来事に全く合致する。殊に34節のごときは逐語的に成就した。学者の想像するがごとくに(I0)かく逐語的に一致することはおそらく事後に事実に引付けて曲げこれをイエスの語としたものであろう。それにもかかわらず、イエスがその運命の大体を預言し給えることは明かであって、イエスはその極めて鋭き直観をもって、その受くべき苦難につき予感し給うたのであった。それ故にこの預言は大体において前二回(マコ8:31以下。マコ9:31)の預言と共に、たしかにイエス自ら語り給えるものであることを疑うべきではない。
辞解
[異邦人に付さん] マコ8:31以下。マコ9:31の場合にはこれを欠く。
「殺す」ことはユダヤ人の衆議所の権限に許されていない。これはローマ人の権内に留保されていた。

(かく)(かれ)三日(みっか)(のち)(よみが)へるべし』

註解: (▲イエスの体内に宿った生命は神の生命であって肉体に隷属していないことを直覚し給うたものと見るべきである。)復活の預言はイエスの内心に宿れる神の子たる意識より発生せる当然の所産であった。しかしながらこれはあまりにも神秘的であるために、弟子たちすらこの御言をさとることができなかった(ルカ18:34)。
要義 [第三回の苦難の予告]イエスはかくもしばしばその受難につきて弟子たちに告げ給うた理由はおそらくイエスの胸裏に受難の自覚が強烈に湧き出でて抑え切れなかったためと、またその受難が凡ての弟子たちの躓きとならんことを憂い、これを予告することによりて、彼の死後弟子たちをして、真にイエスのキリストたることを知るに至らしめんためであったろう。また弟子たちがこれらの預言につき少しも悟ることができなかったのは、彼らに未だこれを悟るべき智慧が与えられていなかったからであった。

5-1-ヘ ゼベダイの子らを戒め給う 10:35 - 10:45
(マタ20:20-28)   

10章35節 (ここ)にゼベダイの()ヤコブ、ヨハネ御許(みもと)(きた)りて()ふ『()よ、(ねが)はくは(われ)らが(なに)にても(もと)むる(ところ)()したまへ』[引照]

口語訳さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。
塚本訳ここに、ゼベダイの子ヤコブとヨハネとが進み寄ってイエスに言う、「先生、お願いがあります、きいていただきたいのです。」
前田訳ゼベダイの子らヤコブとヨハネがおそばに来ていった、「先生、お願いです。われらが望むものをかなえてください」と。
新共同ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
NIVThen James and John, the sons of Zebedee, came to him. "Teacher," they said, "we want you to do for us whatever we ask."
註解: 29、30節のイエスの御言により弟子たちの中にますます多くの欲求が燃え上った。伝道者の(いまし)むべきはその野心である。殊に32−34節の受難の予告を受けつつなお自己の野心に没頭する無理解さと醜さを見よ。
辞解
マタ20:20にはヤコブとヨハネの母がその子らのためにイエスに求めたこととなっている。この方が事実であろうとする学者(M0)と、これはこの要求がヤコブとヨハネのために不名誉である故、その不名誉を緩和せんために母を登場せしめたのであるとする説(L2)とあり。二種の伝説が伝わっていたのであろう。
[為したまへ] 「為したまわんことを望む」ということ。

10章36節 イエス()(たま)ふ『わが(なんぢ)らに(なに)()さんことを(のぞ)むか』[引照]

口語訳イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。
塚本訳彼らに言われた、「何をしてほしいのか。」
前田訳彼はいわれた、「望みはなにか」と。
新共同イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
NIV"What do you want me to do for you?" he asked.

10章37節 (かれ)()ふ『なんぢの榮光(えいくわう)(うち)にて、一人(ひとり)をその(みぎ)に、一人(ひとり)をその(ひだり)()せしめ(たま)へ』[引照]

口語訳すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。
塚本訳彼らが言った、「(来ようとしている)あなたの栄光の中で、わたし達の一人をあなたの右に、一人を左に坐らせてください。」
前田訳彼らはいった、「あなたの栄光の中に、われらのひとりを右に、ひとりを左にすわらせてください」と。
新共同二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
NIVThey replied, "Let one of us sit at your right and the other at your left in your glory."
註解: イエスの心がその受難の予感に充されている間に、これらの弟子たちの心は空しき野心に支配せられていた。彼らの野心はこの世の栄誉利達ではなかったけれども、己が慾心に支配せられている点において何らの差異がなかった。父よりの報賞を求むる心は父の御心を喜ばせまつらんとする心であって、自分の慾望を充さんとする心ではない。ゆえにまず第一に父の御心を喜ばすることを求むべきである。
辞解
[なんぢの栄光の中] (あらた)まりイエスが王として栄光の座位に坐し給う時をいう。
[右と左] 右は王座に次ぎ左はまたその次なること我が国に同じ。栄光の国の最高の位置を要求したのである。

10章38節 イエス()(たま)ふ『なんぢらは(もと)むる(ところ)()らず、(なんぢ)()わが()酒杯(さかづき)()み、()()くるバプテスマを()()るか』[引照]

口語訳イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。
塚本訳イエスが言われた、「あなた達は自分で何を願っているのか、わからずにいる。わたしが飲む(苦難の)杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることが出来るのか。」
前田訳イエスはいわれた、「あなた方は求めるものをわきまえない。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」と。
新共同イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
NIV"You don't know what you are asking," Jesus said. "Can you drink the cup I drink or be baptized with the baptism I am baptized with?"
註解: イエスの受け給う苦難は父の御意に(したが)うがためであった。我らの求むべきものは天における栄位ではなくまず父の御意に(したが)うことである。ヨハネもヤコブもまず父の御意に従い、如何なる苦難をも嘗むべきであった。イエスはこれを彼らに要求し、その可能なりや否やを問い給う。
辞解
[酒杯、バプテスマ] 「酒杯」は旧約聖書においても運命を意味し吉凶共に用いられていた。ここでは勿論苦杯であってこれを飲むことは苦難を受くることを意味す(イザ51:17イザ51:22)。「バプテスマ」も同様に苦難を意味す、水中に浸されるがごとくに苦難の中に没されること。酒杯は迫害による苦難、バプテスマはその十字架の死を意味すると見ることを得(B1)。両者ともイエスの受難を指す。マタイ伝にはバプテスマのことを欠く。

10章39節 (かれ)()いふ『()るなり』[引照]

口語訳彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。
塚本訳「出来ます」と彼らがこたえた。イエスは言われた、「(いかにも、)あなた達はわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けるにちがいない。
前田訳彼らはいった、「できます」と。イエスはいわれた、「あなた方はわが飲む杯を飲み、わが受ける洗礼を受けよう。
新共同彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
NIV"We can," they answered. Jesus said to them, "You will drink the cup I drink and be baptized with the baptism I am baptized with,
註解: 彼らにはこれに対するだけの決心があった。唯、彼らの誤謬はまず神の御旨に(したが)わんことを求めずして、第一に褒賞を求めしことであった。

イエス()(たま)ふ『なんぢら()()酒杯(さかづき)()み、また()()くるバプテスマを()くべし。

註解: 事実ヤコブは44年頃殉教の死を遂げた(使12:2)。ヨハネについては殉教せりとの伝説もあれど天寿を全うせるものとみるべきがごとし。しかしヨハネも生涯多くの迫害に遭うたのであった。。

10章40節 ()れど()(みぎ)(ひだり)()することは、(われ)(あた)ふべきものならず、ただ(そな)へられたる(ひと)こそ[(あた)へらるるなれ]』[引照]

口語訳しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。
塚本訳しかし、わたしの右と左の席は、わたしが与えるのではなく、(あらかじめ神に)定められた人々に与えられるのである。」
前田訳しかしわが右と左の座はわたしが与えるものではなく、(神に)定められた人々のものである。
新共同しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
NIVbut to sit at my right or left is not for me to grant. These places belong to those for whom they have been prepared."
註解: イエスはヤコブ、ヨハネに(むか)い、イエスの受け給う苦難と同じき苦難を受くる覚悟を要求し給い、この覚悟があることを認め給うたけれども、その報いとしてイエスの左右に坐せしめんとの約束を与え給わなかった。これを与うる権は全く父の有ち給う処であって父が適当と思召す者にこれを備え給う。ゆえに与えられるも与えられざるも、これを意に介すべきではなく、凡ては神の御旨に従うべきである。イエスもこの完全なる従順さをもってその苦難を受け、十字架の死に至るまで(したが)い給うた。それ故に神は彼を復活栄化せしめ、その褒賞を与え給うたのであった(ピリ2:8、9)。我らも主の足跡に従い、受くべき苦難を受け、凡ての報賞を神にまかすべきである。
辞解
「ただ備えられたる人こそ」を「他の人に備えられたり」とも読むことを得れど、かく読むことは適切ではない。

10章41節 (じふ)(にん)弟子(でし)これを()き、ヤコブとヨハネとの(こと)により(いきど)ほり()でたれば、[引照]

口語訳十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。
塚本訳(ほかの)十人(の弟子)はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことを憤慨し始めた。
前田訳ほかの十人がこれを耳にして、ヤコブとヨハネのことを怒りはじめた。
新共同ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
NIVWhen the ten heard about this, they became indignant with James and John.
註解: 二人のみ他の十人を差置きて優位を獲得せんとせしことが他の使徒たちを怒らしめたのであった。かくして彼らの中にも同一の心情が存在していることを自ら暴露している。人は他人を非難する際に、かえって自己の正体の醜さを暴露することが多い。

10章42節 イエス(かれ)らを()びて()ひたまふ『異邦人(いはうじん)(きみ)(みと)めらるる(もの)の、その(たみ)(つかさ)どり、(おほい)なる(もの)の、(たみ)(うへ)(けん)()ることは、(なんぢ)らの()(ところ)なり。[引照]

口語訳そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
塚本訳イエスは彼らを呼びよせて言われる、「あなた達が知っているように、世間ではいわゆる主権者が人民を支配し、また(いわゆる)えらい人が権力をふるうのである。
前田訳そこでイエスは彼らを呼んでいわれる、「あなた方が知るように、この世では民の頭と思われる人々が支配し、偉い人々が権力をふるう。
新共同そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
NIVJesus called them together and said, "You know that those who are regarded as rulers of the Gentiles lord it over them, and their high officials exercise authority over them.
註解: ここにイエスは十人の弟子たちにもその誤謬を訓戒し給う。これがまた同時にヤコブ、ヨハネの野心を聖き意味において成就する途である。この世の国々の支配者やその在上者は民を圧迫し、その権威をもって民を抑圧するのが普通である。かかる力を有するものが偉大なる者、在上者、支配者と認められる。
辞解
[異邦人] 原語は普通イスラエル以外の諸国民を指すけれどもここでは必ずしもかく解しなければならない理由はない。
[認められる者] 「自認する者」とも訳す。現行訳を可とす。
(つかさど)り」 katakurieuô、「権を執る」 katexousiazô は共に kata を用い強く圧迫する意味を有す。

10章43節 ()れど(なんぢ)らの(うち)にては(しか)らず、(かへ)つて(おほい)ならんと(おも)(もの)は、(なんぢ)らの役者(えきしゃ)となり、[引照]

口語訳しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
塚本訳しかしあなた達の間では、そうであってはならない。あなた達の間では、えらくなりたい者は召使になれ。
前田訳しかしあなた方の間ではそれは当たらない。あなた方の間では、偉くなりたいものは召使いになれ。
新共同しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
NIVNot so with you. Instead, whoever wants to become great among you must be your servant,

10章44節 (かしら)たらんと(おも)(もの)は、(すべ)ての(もの)(しもべ)となるべし。[引照]

口語訳あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。
塚本訳一番上になりたい者は皆の奴隷になれ。
前田訳一番上になりたいものは皆の僕になれ。
新共同いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
NIVand whoever wants to be first must be slave of all.
註解: 神の国の民の中に在りては、人間の価値は転倒する。愛をもって凡ての人に(つか)うるものが最大の人物であり、力をもって凡ての人を使役する者は最小の存在となる。信仰の英雄はこの世の人の目には微小の存在であり、この世の英雄は神の民の目には無視せらるべきである。弟子たちが真に大ならんと欲するならば、まず凡ての人の僕として最少の存在とならなければならぬ。これを完全に実行し給えるイエスを見よ。人の目に大ならんとする者は必ず神の目に少なる者となる。▲大臣に相当する minister なる語が本来「僕」を意味するのはこの思想の所産である。

10章45節 (ひと)()(きた)れるも、(つか)へらるる(ため)にあらず、(かへ)つて(つか)ふることをなし、(また)おほくの(ひと)の(ために)贖償(あがなひ)として(おの)生命(いのち)(あた)へん(ため)なり』[引照]

口語訳人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
塚本訳人の子(わたし)が来たのも仕えさせるためではない。仕えるため、多くの人のあがない金としてその命を与えるためである。」
前田訳人の子が来たのは仕えられるためでなく、仕えるため、多くの人のあがないとしておのがいのちを与えるためである」と。
新共同人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
NIVFor even the Son of Man did not come to be served, but to serve, and to give his life as a ransom for many."
註解: イエスの生涯は完全にして徹底せる奉仕の生涯であった。彼は全人類に(つか)えてその生命をそのために与え給うた。彼の死は全人類を愛しこれを罪より救い出さんがための死であった。彼の死なしには人類はその罪より逃れて神に立帰ることができなかったのである。罪の中に在る人類は神の前に罰されるより外になき状態に在る、然るにイエスの死によりて神の怒りは解け、イエスに在りて神に来る者を凡て子として受納れ給う。かくしてイエスは人を神に買取るための贖い代のごとき役目を果し給うた。
辞解
[贖償(あがない)] lutron は贖い金として奴隷を買戻して自由人となす時に払われる金である。
要義 [贖罪論とイエスの死]パウロの贖罪論はイエスの与り知らざる処であると主張する学者は多くある。事実イエスが「贖い」なる語を用い給いしはこの箇所のみである。勿論イエスの贖罪をあまりに神学の項式的に考うることは、適当ではない。イエスも決してかく考え給うたのではあるまい。すなわち奴隷の主人に贖い代を払うごとくに罪人の主なるサタンに代価を払いて罪人を買戻すごとき意味にておいて十字架の死を味わい給うたのではない。唯イエスは凡ての人を罪より救わんとの愛の心のために自己を凡ての人に与え給うた。神は彼の祈りを聴き給わず、このイエスをして、ついに十字架の死を嘗めしめ給い、彼の絶対的従順を試し給うた。かくして神はイエスの絶対的従順(▲ピリ2:8参照)のゆえに凡ての人をその罪より赦し給うたのである。この意味においてイエスの死は全く贖い代のごとき働きを為したのであった。なおマタ20:28要義一、二参照。

5-1-ト 盲人を醫し給う 10:46 - 10:52
(マタ20:29-34) (ルカ18:35-43)  

註解: この盲人治癒の奇蹟はイエスのエルサレム入りを前にして、メシヤとして彼を表わす好機会であった。なお46−52節の記事につきてはマタ20:29−34註および要義参照。マタイ伝は二人の盲人につきて録し、ルカ伝はエリコに入る前の事件として録す。不精確なる言い伝えの結果、この程度の差異が起ることは避け難い。

10章46節 (かく)(かれ)らエリコに(いた)る。イエスその弟子(でし)たち(およ)(おほい)なる群衆(ぐんじゅう)(とも)に、エリコを()でたまふ(とき)[引照]

口語訳それから、彼らはエリコにきた。そして、イエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
塚本訳彼らはエリコ(の町)に来る。イエスが弟子たちや多くの群衆と一しょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲の乞食が道ばたに坐っていた。
前田訳彼らはエリコに来る。彼と弟子たちとかなりの群衆がエリコを出ると、目しいの物乞いテマイの子バルテマイが道ばたにすわっていた。
新共同一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
NIVThen they came to Jericho. As Jesus and his disciples, together with a large crowd, were leaving the city, a blind man, Bartimaeus (that is, the Son of Timaeus), was sitting by the roadside begging.
註解: イエスはペレア地方よりヨルダン川を西に渡りてエルサレムに向う途中、その道筋なるエリコを通過し給うた。この附近は豊饒(ほうじょう)なる土地として人口稠密(ちゅうみつ)であった。
辞解
[大なる群衆] イエスの風評を耳にして彼に従い来れる附近の人々である。

テマイの()バルテマイといふ盲目(めしひ)乞食(こつじき)(みち)(かたへ)()しをりしが、

註解: 盲人にして乞食なるは不幸の極である。盲人の名を掲げているのはマルコ伝のみである。バルは「子」を意味するけれども一般に一つの固有名詞のごとくに取扱われている。ゆえに註解的に「テマイの子」と加えておいたのであろう。テマイなる人は名の知れている人なのであろう(B1)。

10章47節 ナザレのイエスなりと()き、(さけ)(いだ)して()ふ『ダビデの()イエスよ、(われ)(あはれ)みたまへ』[引照]

口語訳ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。
塚本訳ナザレのイエス(のお通り)だと聞くと、「ダビデの子イエス様、どうぞお慈悲を」と言って叫び出した。
前田訳彼はナザレのイエスだと聞くと叫びだしていった、「ダビデのみ子、イエスさま、おあわれみを」と。
新共同ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
NIVWhen he heard that it was Jesus of Nazareth, he began to shout, "Jesus, Son of David, have mercy on me!"
註解: 一般の群衆は単にナザレのイエスなりと呼んでいたがバルテマイのみはその盲人としての直感より彼をメシヤなりと信じ、ダビデの子と呼んだ。その信仰は偉大である。「我を憫みたまへ」との祈りもまたその真実の心より(ほとばし)り出づる処であった。人は苦悩の中にある時には無事平安の時よりも遙かに明かに主イエスを認めることができる。

10章48節 (おほ)くの(ひと)かれを(いまし)めて(もだ)さしめんとしたれど、増々(ますます)(さけ)びて『ダビデの()よ、(われ)(あはれ)みたまへ』と()ふ。[引照]

口語訳多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。
塚本訳多くの人が叱りつけて黙らせようとしたが、かえってますます「ダビデのお子様、どうぞお慈悲を」と叫びつづけた。
前田訳多くの人がたしなめて黙らせようとしたが、ますます「ダビデのみ子、おあわれみを」と叫びつづけた。
新共同多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
NIVMany rebuked him and told him to be quiet, but he shouted all the more, "Son of David, have mercy on me!"
註解: 一般の人には盲人を憐む同情の心はない、唯冷かに彼の喧騒を止めんとした。一般人の冷淡なる批評は熱心に求むるものの心を冷すことはできない。バルテマイはあらゆる妨害を突破して救いを求めて叫んだ。求めよさらば与えられん、彼の熱心とそのイエスを信ずる信仰がついに彼を救うに至ったのであった。48、50節の活き活きした叙述はマルコ伝特有である。

10章49節 イエス()(とどま)りて『かれを()べ』と()(たま)へば、人々(ひとびと)盲人(めしひ)()びて()ふ『(こころ)(やす)かれ、()て、なんぢを()びたまふ』[引照]

口語訳イエスは立ちどまって「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。
塚本訳イエスは立ち止まって、「あれを呼べ」と言われた。人々が盲人を呼んで言う、「安心せよ。起きよ。お呼びだ。」
前田訳イエスは立ちどまっていわれた、「あれを呼べ」と。人々か目しいを呼んでいう、「安心せよ。起きよ。お呼びだ」と。
新共同イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
NIVJesus stopped and said, "Call him." So they called to the blind man, "Cheer up! On your feet! He's calling you."
註解: イエスの目は冷淡なる群衆に注がれずして、自己の救いになやむ盲人に注がれる。イエスは悩める心の友である。
辞解
[心安かれ云々] 非常に矢継早に言える口調を示しており、群集がイエスの言葉に驚きて盲人を呼べる有様を目前に髣髴することができる。目撃者の実話であることを示す。次節も同様なり。

10章50節 盲人(めしひ)うはぎを()()て、(をど)(あが)りて、イエスの(もと)(きた)りしに、[引照]

口語訳そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。
塚本訳盲人は上着をぬぎ捨て、躍り上がってイエスの所に来た。
前田訳目しいは上着を脱ぎ捨て、躍りあがってイエスのおそばに来た。
新共同盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
NIVThrowing his cloak aside, he jumped to his feet and came to Jesus.
註解: 欣喜雀躍(きんきじゃくやく)の貌をあらわす、何故に上衣を脱ぎ捨てしやは不明であるが運動を活発ならしめんがためならん。

10章51節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『わが(なんぢ)(なに)()さんことを(のぞ)むか』盲人(めしひ)いふ『わが()よ、()えんことなり』[引照]

口語訳イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。
塚本訳イエスが彼に言われた、「何をしてもらいたいのか。」盲人がこたえた、「先生、見えるようになりたい。」
前田訳イエスは彼にいわれた、「何をしてもらいたいのか」と。目しいはいった、「先生、目が見えますように」と。
新共同イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
NIV"What do you want me to do for you?" Jesus asked him. The blind man said, "Rabbi, I want to see."
註解: イエスの質問は盲人をして自己の心を告白せしめんがための質問であり、この告白によりて盲人の心の状態を知ることができる。彼は単純であって唯ひたすらに見えんことを熱望した。而してイエスによりてこの熱求が充されるであろうことを信じた。複雑なる要求、不熱心なる要求、充されることを確信せざる要求は決して充されない。
辞解
[わが師よ] 原語ラボニ(ヨハ20:16)。

10章52節 イエス(かれ)に『ゆけ、(なんぢ)信仰(しんかう)なんぢを(すく)へり』と()(たま)へば、(ただ)ちに()ることを()、イエスに(したが)ひて(みち)()けり。[引照]

口語訳そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
塚本訳そこでイエスが、「お帰り。あなたの信仰がなおした」と言われると、すぐ見えるようになって、イエスの旅行について行った。
前田訳イエスはいわれた、「お帰り。あなたの信仰があなたを救った」と。彼はすぐ目が見えるようになって、道中お伴をした。
新共同そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
NIV"Go," said Jesus, "your faith has healed you." Immediately he received his sight and followed Jesus along the road.
註解: 彼の信仰の故にイエスの一言が彼を救い彼の目を開いた。彼のよろこびは如何ばかりであったろう。またこれを目撃せる群集の驚きも如何ばかりであったろう。苦悩の極にあるものにとりては往々にしてイエスの一言が彼に徹底的の救いを与える。
要義1 [盲人の信仰]バルテマイはその盲なることの苦痛に耐えかねている心によりてイエスを仰ぎ見たるが故に、イエスのメシヤたることを霊の眼をもって見ることができた。肉の眼をもってイエスを見る者は、多くイエスに躓き彼を信じ得ない。これ彼らに深き悩みなく、イエスを見る目が開かれていないからである。人間は肉の物を見る目に自信を有する間は霊の目は開かれない。肉の目(理性、判断力、智力等)に絶望したる場合、始めて霊の眼が開かれる。
要義2 [単純なる熱求]我らの要求は単純にして直截でなければならない。 金と神とを共に得んとし、この世と神の国とを共に掴まんとするごときは結局において充されない要求である。また多岐にわたる要求は要求の力を減殺する。我らがイエスの十字架の救いを理論的にも哲学的にも満足なる説明を得て後イエスを信ぜんとしてもそれは不可能である。唯一筋に救われんことを求めてイエスに来る者は、その求むる処を与えられる。而してついには他の凡ての問題も自然と解決されるに至る。