黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版マタイ伝

マタイ伝第20章

分類
8 ユダヤにおけるイエスの御業と御教 19:1 - 20:34
8-5 葡萄園の労働人の譬喩 20:1 - 20:16

20章1節 (そは)天國(てんこく)勞動人(はたらきびと)葡萄園(ぶだうぞの)(やと)ふために、(あさ)(はや)()でたる主人(あるじ)のごとし。[引照]

口語訳天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。
塚本訳(なぜであろう。)天の国は、家の主人が夜の引明けに出ていって、葡萄畑に労働者を雇うのに似ているからである。
前田訳天国をたとえるとこうである。家の主人が朝早く出かけて、ぶどう畑に労務者をやとった。
新共同「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
NIV"For the kingdom of heaven is like a landowner who went out early in the morning to hire men to work in his vineyard.
註解: この比喩はマタイ伝特有であって、前章末節を受けてこれを敷衍したものである。この比喩において主人は神を表示し、労働人はイスラエル、使徒又はその他のキリスト者等神に選ばれて神の国に働くものを指している。

20章2節 一日(いちにち)(いち)デナリの約束(やくそく)をなして、勞動人(はたらきびと)どもを葡萄園(ぶだうぞの)(つかは)す。[引照]

口語訳彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。
塚本訳一日一デナリ[五百円]の約束で、労働者たちを葡萄畑にやった。
前田訳労務者と一日一デナリの約束ができて彼らをぶどう畑にやった。
新共同主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
NIVHe agreed to pay them a denarius for the day and sent them into his vineyard.
註解: 最初に遣わされし者は主人の約束を信じて葡萄園に行き、自己の労働に対する報酬として一デナリ(当時の一日の労銀)を得る期待を()っていた。すなわち最初に選ばれし使徒らのごとく、その天国のための労働に対して充分の報償を期待し得るがごとき人々である、また国民としてこれを見るならば、神の約束をもって選ばれしイスラエルに相当している。これらの人々にはその最初に選ばれしこととその勤労の価値を誇って神の恩恵に依り頼まざる危険があったので、イエスはこれを誡めんとし給うたのである。

20章3節 また九時(くじ)ごろ()でて市場(いちば)(むな)しく()(もの)どもを()て、[引照]

口語訳それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。
塚本訳また九時ごろ出ていって、ほかの労働者が何もせずに市場に立っているのを見て、
前田訳九時ごろ出て行って、市場に別の労務者らが働かずに立っているのを見て、
新共同また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
NIV"About the third hour he went out and saw others standing in the marketplace doing nothing.

20章4節 「なんぢらも葡萄園(ぶだうぞの)()け、相當(さうたう)のものを(あた)へん」といへば、(かれ)らも()く。[引照]

口語訳そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。
塚本訳『あなた達も葡萄畑に行きなさい。やるだけのものはやるから』と言うと、
前田訳いった、『あなた方もぶどう畑に行きなさい。しかるべきものを払おう』と。彼らは行った。
新共同『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
NIVHe told them, `You also go and work in my vineyard, and I will pay you whatever is right.'
註解: これらの者は最初に選ばれし者に比してその労働の価値は少ない、ゆえに自ら誇るべき点の少なきことを自覚している。しかし主人は「相当のもの」を与うることを約束し給う以上、その正義と愛とに信頼して葡萄園に行った。
辞解
[九時ごろ] 原語「第三時」とあり。ユダヤにては日出より日没までを十二に区分して時を数う、日本訳は現代の時計に合わせて大略の時刻により意訳せるものである。5、6節も同じ。

20章5節 十二(じふに)()(ころ)三時(さんじ)(ころ)とに(また)いでて(まへ)のごとくす。[引照]

口語訳そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。
塚本訳その人たちも行った。十二時ごろと三時ごろにまた出ていって、同じようにした。
前田訳また正午ごろにも三時ごろにも出かけて同じようにした。
新共同それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
NIVSo they went. "He went out again about the sixth hour and the ninth hour and did the same thing.
註解: その労働の時間が少ない結果、労働の価値は益々少なく、主人の恩恵を信じて相当のものを与えられることを期待して園に行ったに過ぎなかった。

20章6節 ()()(ころ)また()でしに、なほ()(もの)どものあるを()ていふ「(なに)ゆゑ終日(ひねもす)ここに(むな)しく()つか」[引照]

口語訳五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。
塚本訳(最後に)五時ごろ出ていって見ると、(まだ)ほかの労働者が立っていたので、言う、『なぜ一日中何もせずに、ここに立っているのか。』
前田訳五時ごろ出かけると、ほかのが立っているのでいう、『なぜあなた方は一日じゅう働かずにここに立っているのか』と。
新共同五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
NIVAbout the eleventh hour he went out and found still others standing around. He asked them, `Why have you been standing here all day long doing nothing?'
註解: 神は常にその労働人を求め給う。「空しく立つ者」はこの神の御旨を知らず、これに従うことが人生の目的であることを自覚せず、無益のことにその生涯を空費しているものである。

20章7節 かれら()ふ「たれも(われ)らを(やと)はぬ(ゆゑ)なり」[引照]

口語訳彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。
塚本訳彼らがこたえる、『だれも雇ってくれないのです。』彼らに言う、『(まだ一時間は働ける。)あなた達も葡萄畑に行きなさい。』
前田訳彼らはいう、『だれもわれわれを雇ってくれなかったからです』と。彼はいう、『あなた方もぶどう畑に行きなさい』と。
新共同彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
NIV"`Because no one has hired us,' they answered. "He said to them, `You also go and work in my vineyard.'
註解: 福音が宣伝えられない場合には、神の召しを知らずにいるのであって、かかる人は神に雇われることができない。

主人(あるじ)いふ「なんぢらも葡萄園(ぶだうぞの)()け」

註解: 彼らは行きて約一時間労働した、彼らは何らの報酬の約束も受けずして唯主人を絶対に信頼しつつ労働に往いたのである。

20章8節 (ゆふべ)になりて葡萄園(ぶだうぞの)主人(あるじ)その(いへ)(つかさ)()ふ「勞動人(はたらきびと)()びて、(あと)(もの)より(はじ)め、(さき)(もの)にまで賃銀(ちんぎん)をはらへ」[引照]

口語訳さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。
塚本訳さて夕方になると、葡萄畑の主人が監督に言う、『労働者たちを呼んで、賃金を払ってやりなさい、(逆に)最後の者から始めて最初の者まで。』
前田訳夕になるとぶどう畑の主人が番人にいう、『労務者を呼んで報酬を払いなさい、最後のものからはじめて最初のものへ』と。
新共同夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
NIV"When evening came, the owner of the vineyard said to his foreman, `Call the workers and pay them their wages, beginning with the last ones hired and going on to the first.'

20章9節 かくて()()ごろに(やと)はれしもの(きた)りて、おのおの(いち)デナリを()く。[引照]

口語訳そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。
塚本訳そこで(まず)五時ごろの者が来て、一デナリずつ貰った。
前田訳五時ごろのものが来て一デナリずつもらった。
新共同そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
NIV"The workers who were hired about the eleventh hour came and each received a denarius.
註解: 家司はキリストである(マタ11:27ヨハ5:27ヘブ3:6)。主人が後のものに最初に賃金を払わしめ、しかも一デナリを与えられし所以は一見これを解するに苦しむ点である。勿論ある学者らの言うごとく最後の者が一時間内に最初の者と同量の仕事をしたからではない(もし然りとすればこの比喩は無意味なる当然である)。この比喩の教えんとする処は、報酬は神の恩恵の自由なる賜物であって、行為の価値に対する代価にあらざること、及び僕はいかに完全にその義務を果しても「無益なる僕、為すべき事を為したるのみ」(ルカ17:10)であることであった。神は必ずその約束をば実行し給う、しかしその心にかなえる者に自由に恩恵を施し、恵まんとする者を恵み、憐れまんとするものを憐れみ給う(出33:19)。この比喩の場合において自己の功績や価値に頼ること最も少なく、すべてを神の恩恵に委せし最後のものが最も多く神の御旨に叶ったのである。ゆえに彼は最初にしかも一デナリすなわち一日の労働に相当する完全な報償を受けたのである。信仰は神の目に偉大なる尊さを()っているのである。

20章10節 (さき)(もの)きたりて、(おほ)()くるならんと(おも)ひしに、(これ)(また)おのおの(いち)デナリを()く。[引照]

口語訳ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。
塚本訳最初の者は来て、(あの連中が一デナリなら、)自分たちは余計に貰えるものと思っていたところ、彼らも一デナリずつ貰った。
前田訳最初のものが来て、もっともらえようと思ったが、彼らも一デナリずつもらった。
新共同最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
NIVSo when those came who were hired first, they expected to receive more. But each one of them also received a denarius.
註解: 使徒たちは勿論その他多く働きしキリスト者といえども、もしかくのごとき期待を持ったならば、彼らは失望に終らなければならない。

20章11節 ()けしとき、家主(いへあるじ)にむかひ(つぶや)きて()ふ、[引照]

口語訳もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして
塚本訳そこで貰ったとき、家の主人に向かって不平を
前田訳もらったとき彼らは家の主人に不平をいった、
新共同それで、受け取ると、主人に不平を言った。
NIVWhen they received it, they began to grumble against the landowner.

20章12節 「この(あと)(もの)どもは(わづか)(いち)時間(じかん)はたらきたるに、(なんぢ)一日(いちにち)(らう)(あつ)さとを(しの)びたる(われ)らと(ひと)しく(これ)()へり」[引照]

口語訳言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
塚本訳言った、『この最後の者は(たった)一時間しか働かなかった。われわれは一日中、重労働と暑さを辛抱したのに、あなたは同じ扱いをされたではないか。』
前田訳『この最後のものは一時間しただけなのに、あなたは一日中の負担と暑さに耐えたわれらと同じになさる』と。
新共同『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
NIV`These men who were hired last worked only one hour,' they said, `and you have made them equal to us who have borne the burden of the work and the heat of the day.'
註解: 常識的に道理ある抗議である。自己の行為の価値をもって神の前に立たんとするもの、又は先に選ばれしことを誇るユダヤ人らは、労働の価値少なきもの、又は後に選ばれしキリスト者らが同等以上の取扱いを受くることを忍ぶことができない。これ彼らはその労働それ自身が無価値なることを知らないからである(ルカ15:29、30)。尚「つぶやく」ことは使徒又はキリスト者の例とすれば不適当であるけれども、かかる誘惑(まどわし)に陥ることは可能である。

20章13節 主人(あるじ)こたへて()一人(ひとり)()ふ「(とも)よ、(われ)なんぢに不正(ふせい)をなさず、(なんぢ)(われ)(いち)デナリの約束(やくそく)をせしにあらずや。[引照]

口語訳そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。
塚本訳主人がその一人に答えた、『君、わたしは何も間違ったことをあなたにした覚えはない。一デナリの約束ではなかったのか。
前田訳主人は彼らのひとりに向かっていった、『友よ、わたしは何もあなたに不正をしていない。一デナリと約束したではないか。
新共同主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
NIV"But he answered one of them, `Friend, I am not being unfair to you. Didn't you agree to work for a denarius?
註解: 主人の答は正当であった。行為をもって神の前に義とせられんとする者は恩恵の賜物の意義を解することができない。されど神は遂にその約束を実行し給う(ロマ9:6マタ11:1、2)。而して神の約束により行為の価値に対して報償を受くる者よりも、神に対する信頼の結果、神の自由の恩恵を受くる者は遥かに幸福である。
辞解
[友よ] 親密を表わす場合よりも、むしろ不快の情を表わさんとする場合の呼びかけに用いられる(マタ22:12マタ26:50)。

20章14節 (おの)(もの)()りて()け、この(あと)(もの)(なんぢ)とひとしく(あた)ふるは、()(こころ)なり。[引照]

口語訳自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
塚本訳自分の分を取って帰りたまえ。わたしはこの最後の人に、あなたと同じだけやりたいのだ。
前田訳あなたの分を取ってお帰り。わたしがしたくてこの最後の人にあなたと同じだけ与えるのだ。
新共同自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
NIVTake your pay and go. I want to give the man who was hired last the same as I gave you.

20章15節 わが(もの)()(こころ)のままにするは()からずや、(われ)よきが(ゆゑ)(なんぢ)()あしきか」[引照]

口語訳自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
塚本訳わたしのものを、わたしがしたいようにしてはいけないのか。それとも、わたしが親切をしてやったのが羨ましいのか。』
前田訳わたしのもので、わたしのしたいことをしていけないのか。それとも、わたしはよいのにあなたの目が悪いのか』と。
新共同自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
NIVDon't I have the right to do what I want with my own money? Or are you envious because I am generous?'
註解: 「我が(こころ)なり」直訳「われ欲す」、すなわち神はその欲するままに行う権威を()ち給う(ロマ9:14−21)。神は何者にも束縛されることがない。呟くことなしにこの絶対権に服従する者は幸いである。ゆえに神がその権に属する物を自由に処分し給う時、これに向って呟く者は誤っている。彼はその誇りと自らを正しとする念とによりて心の目を暗くしたのである。
辞解
[我よきが故に汝の目あしきか] 「我が恩恵を与うることに対して汝は呟くのであるか」との意味。

20章16節 かくのごとく(のち)なる(もの)(さき)に、(さき)なる(もの)(のち)になるべし』[引照]

口語訳このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。
塚本訳このように、最後の者が一番になり、一番の者が最後になるであろう。」
前田訳このように、最後のものが最初に、最初のものが最後になろう」。
新共同このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
NIV"So the last will be first, and the first will be last."
註解: 前章末節と相応している。神の国の賞賜(しょうし)もまたこれと同じく先なる者必ずしも先ではなく後なるもの必ずしも後ではない。この比喩のごとく前後が反対になる場合も有り得るのである。それゆえに先に召され選ばれし者必ずしも安心することができない。要は信仰の問題であり神の自由なる恩恵の賜与(しよ)の問題である。異本に「それ召される者多けれど選ばれる者少なし」とあり。
要義 [葡萄園の比喩の中心]この比喩は最も難解なる比喩の一であって、従って種々の解釈が行なわれている。或は(1)天国における報償の平等を示すものと解し、或は(2)労働者の雇われし時刻の差をもって人々が信仰に入る年齢の差を示し、この差は天国における報償には無関係であることを教うるものと解し、或は(3)この差別はアダムより使徒時代に至るまでの歴史の各時代を示すものと見、或は(4)ユダヤ人と教会との関係を示すものと見る。このいずれも相当の理由とそれぞれの欠点があって容易にいずれとも決定することはできない。予はこの比喩をもって神の恩恵の賜の性質を説明するものと見、先に選ばれ、多く働けることが必ずしも天国における誇りとならざることを示せるものと解釈した。この意味にこれを解釈するならば前記諸種の解釈のいずれにも共通にこれを適用することができる。▲親が多くの子の各々に対する愛が平等であることもこれと同一の原理と見ることができよう。

8-6 三度び受難を預言し給う 20:17 - 20:19
(マコ10:32-34)(ルカ18:31-34) 

20章17節 イエス、エルサレムに(のぼ)らんとし(たま)ふとき、(ひそか)十二(じふに)弟子(でし)(ちか)づけて、(みち)すがら()(たま)ふ、[引照]

口語訳さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、
塚本訳いよいよエルサレムへ(の道を)上り出されるとき、イエスはまた十二人(の弟子)だけをそばに呼んで、道々こう話された、
前田訳イエスは、いよいよエルサレムに上るにあたって、十二人だけを連れ、道すがら彼らにいわれた、
新共同イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。
NIVNow as Jesus was going up to Jerusalem, he took the twelve disciples aside and said to them,
註解: イエスのこの場合の御態度は、特に厳粛荘重であった。

20章18節 ()よ、(われ)らエルサレムに(あが)る、(ひと)()祭司長(さいしちゃう)學者(がくしゃ)らに(わた)されん。(かれ)(これ)()(さだ)め、[引照]

口語訳「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、
塚本訳「さあ、いよいよわたし達はエルサレムへ上るのだ。そして人の子(わたし)は(そこで)大祭司連と聖書学者たちとに引き渡される。彼らは死刑を宣告して
前田訳「いよいよわれらはエルサレムへ上る。人の子は大祭司や学者に渡される。彼らはわたしを死刑にし、
新共同「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、
NIV"We are going up to Jerusalem, and the Son of Man will be betrayed to the chief priests and the teachers of the law. They will condemn him to death

20章19節 また嘲弄(てうろう)し、(むち)うち、十字架(じふじか)につけん(ため)異邦人(いはうじん)(わた)さん、かくて(かれ)三日(みっか)めに(よみが)へるべし』[引照]

口語訳そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。
塚本訳異教人に引き渡し、異教人はなぶり、鞭で打ち、ついに十字架につけるのである。しかし三日目に復活する。」
前田訳異邦人に渡し、あざけり、鞭打ち、十字架につけよう。そしてわたしは三日目によみがえろう」と。
新共同異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
NIVand will turn him over to the Gentiles to be mocked and flogged and crucified. On the third day he will be raised to life!"
註解: ここではマタ16:21マタ17:22、23よりも一層詳細にその死と復活とを預言し給うた。彼の敵が宗教家と聖書学者であって、イエスがこれを意識し給えることは殊に注意を要する点である。今日も真の活ける信仰の敵は、形式主義の教会や文字主義の聖書学者であって、我らはこれを警戒すべきである。

8-7 ゼベダイの子らを誡め給う 20:20 - 20:28
(マコ10:35-45) 

20章20節 ここにゼベダイの()らの(はは)、その()らと(とも)御許(みもと)にきたり、(はい)して何事(なにごと)(もと)めんとしたるに、[引照]

口語訳そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。
塚本訳その時、ゼベダイの子(ヤコブとヨハネと)の母がその(二人の)子をつれてイエスの所に来て、ひざまずき、何かお願いしようとした。
前田訳そのときゼベダイの子らの母が子らとともに彼のところへ来てひれ伏し、何かを願おうとした。
新共同そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。
NIVThen the mother of Zebedee's sons came to Jesus with her sons and, kneeling down, asked a favor of him.
註解: 「ここに」はイエスがその受難につき深く思いに沈み給う際のこと、ゼベダイの子らはヤコブとヨハネで、彼らもその母と同じ希望を有っていた(マコ10:35参照)。

20章21節 イエス(かれ)()ひたまふ『(なに)(のぞ)むか』かれ()ふ『この()二人(ふたり)()(なんぢ)御國(みくに)にて、一人(ひとり)(なんぢ)(みぎ)に、一人(ひとり)(ひだり)()せんことを(めい)(たま)へ』[引照]

口語訳そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。
塚本訳彼女に言われた、「何の願いか。」彼女が言う、「(来ようとしている)あなたの御国で、この二人の子が一人はあなたの右に、一人は左に坐るよう御命令ください。」
前田訳彼はいわれた、「何をお望みですか」と。彼女はいう、「あなたのみ国で、わがふたりの子のひとりが右に、ひとりが左にすわるようお命じください」と。
新共同イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
NIV"What is it you want?" he asked. She said, "Grant that one of these two sons of mine may sit at your right and the other at your left in your kingdom."
註解: 「何を望むか」は「何を欲するか」との意味である。而して彼女の要求は神の賜物を強要せんとする無謀の要求であり、又その野心はこの世的野心の一変形に過ぎなかった。我らはかかる野心をすて神の賜物をばその恩恵によるものとして、すべて感謝してこれを受くべく決してこれを強要すべきではない。
辞解
[右、左] 日本の右大臣左大臣のごとく、王に次ぐ最高の地位である。彼らはマタ19:28の約束を思い、ペテロその他の使徒を出し抜きて天国における最高の地位を得んとしたのであった。野心の中の最大なるものである。

20章22節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『なんぢらは(もと)むる(ところ)()らず、()()まんとする酒杯(さかづき)()()るか』かれら()ふ『()るなり』[引照]

口語訳イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。
塚本訳イエスが答えられた、「あなた達は自分で何を願っているのか、わからずにいる。(ヤコブとヨハネに聞くが、)わたしが飲まねばならない(苦難の)杯を飲むことが出来るのか。」「出来ます」と二人がこたえる。
前田訳イエスは答えられた、「あなた方は求めるものをわきまえない。いったいわたしが飲むべき杯を飲むことができるのか」と。彼らはいう、「できます」と。
新共同イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、
NIV"You don't know what you are asking," Jesus said to them. "Can you drink the cup I am going to drink?" "We can," they answered.
註解: 「汝らははその求むる所のことがいかなる内容を()った事柄であるかを知らずに求めている。それは苦難を経なければ到達のできない処であり、又これを与うることは唯父の自由の選択によるのである。汝らは我が受けんとする十字架の苦痛を受けることができるか」とイエスは彼らに反問し給うた。ルーテル曰く「肉は十字架に()けられる前に崇められんこと、卑下(へりくだ)らしめられる前に高く挙げられんことを欲するものである」と。
辞解
[酒杯] 喜びを表わす場合もあるけれども(詩23:5詩116:13)ここではイエスの苦難とその死を表徴する。マコ10:38以下及びマタイ伝の異本に「酒杯」とバプテスマとを並称している。この「バプテスマ」も同じく彼の死を表徴している。尚イザ51:17イザ51:22エレ49:12参照。

20章23節 イエス()ひたまふ『()(なんぢ)らは()酒杯(さかづき)()むべし、されど()(みぎ)(ひだり)()することは、これ(われ)(あた)ふべきものならず、()(ちち)より(そな)へられたる(ひと)こそ[(あた)へらるるなれ]』[引照]

口語訳イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。
塚本訳イエスは言われる、「いかにも、あなた達はわたしの杯を飲むにちがいない。しかしわたしの右と左の席、それはわたしが与えるのではなく、(あらかじめ)わたしの父上から定められた人々に与えられるのである。」
前田訳彼はいわれる、「あなた方はわが杯を飲もう。しかしわが右とわが左にすわることはわたしが与えるものではなく、わが父によってそなえられた人々のものである」と。
新共同イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
NIVJesus said to them, "You will indeed drink from my cup, but to sit at my right or left is not for me to grant. These places belong to those for whom they have been prepared by my Father."
註解: イエスはヤコブとヨハネが、イエスの苦難をその身に受け得るとの返答を承認し給うた(事実上ヤコブは殉教の死を遂げたけれども、使12:2、ヨハネは天寿を全うした。問題は実際死の杯を飲みしや否やではなく飲み得るや否やにあった)。しかしながらイエスの左右に坐する特権を与うることはこれは父の権限内にあることであって、イエスの関知せざる処であることを示し給うた。
辞解
[我が父より備へられたる人こそ与へられるなれ] 原語を直訳すれば「されど我が父より備えられし人々には」とあり、その後に「かかる地位が与えられるであろう」との意味を補充して読むの通説である。この読み方によればイエスの権限が制限されていることとなるので、これを避けんがために「されど」 alla を「除きては」の意味に取り「我が父より備えられし人々を除きては我が与うべきものならず」と読み、与うる権限をイエスが持ち給うものと解する説もある(C1、B1、A1)。尚人の子の権限の有限なることについてはマタ24:36註参照。

20章24節 (じふ)(にん)弟子(でし)これを()き、二人(ふたり)兄弟(きゃうだい)(こと)によりて(いきど)ほる。[引照]

口語訳十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。
塚本訳(ほかの)十人(の弟子)はこれを聞いて、二人の兄弟のことを憤慨した。
前田訳それを聞いて十人はふたりの兄弟のことを怒った。
新共同ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
NIVWhen the ten heard about this, they were indignant with the two brothers.
註解: 憤る者の心中にも二人の兄弟に等しき野心が(かく)れていたのであろう。

20章25節 イエス(かれ)らを()びて()ひたまふ『異邦人(いはうじん)(きみ)の[その(たみ)](かれら)を(つかさ)どり、(おほい)なる(もの)の[(たみ)](かれら)の(うへ)(けん)()ることは、(なんぢ)らの()(ところ)なり。[引照]

口語訳そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
塚本訳するとイエスは彼らを呼びよせて言われた、「あなた達が知っているように、世間では主権者が人民を支配し、また(いわゆる)えらい人が権力をふるうのである。
前田訳イエスは彼らを呼びよせていわれた、「あなた方の知るように、異邦人の間では長(おさ)たちが人々をおさめ、偉い人たちが力を持つ。
新共同そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
NIVJesus called them together and said, "You know that the rulers of the Gentiles lord it over them, and their high officials exercise authority over them.
註解: イエスはここにおいて十二人の弟子のすべてに教訓を与うるの必要を知り、「かれら」を呼びて曰う「汝ら互に地の上の権力を握らんことを望むならば、それは神を知らずにこの世の栄誉を求めている異邦人の王のごときものの為すことである。」
辞解
[大なる者] 大臣たち。

20章26節 (なんぢ)らの(うち)にては(しか)らず、(なんぢ)らの(うち)(おほい)ならんと(おも)(もの)は、(なんぢ)らの役者(えきしゃ)となり、[引照]

口語訳あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
塚本訳あなた達の間では、そうであってはならない。あなた達の間では、えらくなりたい者は召使になれ。
前田訳あなた方の間ではそうあってはならない。あなた方の間で偉くなりたければあなた方の召使いになれ。
新共同しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
NIVNot so with you. Instead, whoever wants to become great among you must be your servant,

20章27節 ((なんじ)らの(うち)に)(かしら)たらんと(おも)(もの)(なんぢ)らの(しもべ)となるべし。[引照]

口語訳あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
塚本訳一番上になりたい者は奴隷になれ。
前田訳あなた方の間で一番になりたければあなた方の僕になれ、
新共同いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
NIVand whoever wants to be first must be your slave--
註解: 神の国の民に在りては上下大小の差別はこの世の思想とは正反対である。愛をもって人に仕うる役者(えきしゃ)は大なる者であり、人の僕となるものはその(かしら)である。位置身分の高下はその点について問題ではない。ピリ2:6、7。神の位をすてて人となり給えるイエスが彼らの例であるべきである。我らかかるものが真の偉大であることを思わなければならない。

20章28節 かくのごとく、(ひと)()(きた)れるも(つか)へらるる(ため)にあらず、(かへ)つて(つか)ふることをなし、(また)おほくの(ひと)[の](のために)贖償(あがなひ)として(おの)生命(いのち)(あた)へん(ため)なり』[引照]

口語訳それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
塚本訳人の子(わたし)が来たのも仕えさせるためではない。仕えるため、多くの人のあがない金としてその命を与えるためである。」
前田訳ちょうど人の子のように。彼が来たのは仕えられるためではなく、仕えて、多くの人のあがないとしておのがいのちを与えるためである」。
新共同人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
NIVjust as the Son of Man did not come to be served, but to serve, and to give his life as a ransom for many."
註解: この意味においてイエスは最も低き地位まで下り給うた。人に仕うるの途に種々の程度がある。労役金銭を与えて仕うることもでき、又人の病苦を慰めることによってこれに仕うることもできる。しかしながら仕うるものの最大の犠牲は己の生命を人に与うることであり、仕えられるもの最大の喜悦は、その最も恐れる死と滅亡とより贖い出されることである。イエスはこの最大の犠牲を払いて人に仕え、人類に最大の幸福を持来(もちきたら)し給うた。ゆえに神は「彼を高く上げてこれに諸般の名にまさる名を賜うた」のである。ピリ2:9。我らも彼に倣いて人に仕うるならば神よりの賞賜(しょうし)に与ることができるであろう。
辞解
[贖償(あがなひ)] 贖い代金であって、他のものに捕われている者を贖い返すために、その者と同価値の代金を払うことを意味している (レビ19:20イザ45:13出21:30民35:31) 。人類は罪とその結果なる死の下に捕われている。今イエスの死の代償によりて罪人を死より救い出したのがこの贖償(あがなひ)である。
要義1 [価値の顚倒]天国においてはすべてのものの価値は顚倒している。幸なる者は、富める者、迫害する者、与えられる者にあらずして、貧しき者、迫害される者、与うる者である(マタ5:3−12)。生命を得んとするものは失い、失うものはこれを得る(マタ16:25)。罪の増す処恩恵もいよいよ増し来る(ロマ5:20)。パリサイ人、学者らよりも罪人、遊女は先に天国に入る(マタ21:31)等、すべてにおいて世の一般普通の見方とは正反対の見方を持っているのである。同様に大なるものは人を使うものにあらずして人に仕うる者なること、首たらんとするものは僕たらざるべからざること等、我らはこの顚倒せる思想の中に神の国の真理を見出さなければならない。世の人の思う処とは正反対なる世界が神の国である。ゆえにもしキリスト者が世人のごとくに思い、世人のごとくに行動するならば神の国より排斥されるであろう。
要義2 [イエスの代贖の死]イエスの十字架の死が我らの罪の贖 apolutrôsis であることは、パウロが特にこれを強調せる真理であるけれども、福音書においては唯この第28節に一回(マコ10:45と共に)主の御言として出ているに過ぎない。唯一節であるけれども重要なる一節であって、他人に対する愛の奉仕の究極は贖罪の死でなければならないことを示しているものである。『人が自ら自己を解放し得ざる捕囚の状態にあることは、イエス自らこれをしばしば述べ給うた (マタ5:26マタ6:12マタ18:23−35) 。而してこの贖い代はオリゲネスその他の唱うるごとく、悪魔に払われたものではなく「身と霊とをゲヘナに滅ぼし得る」もの(マタ10:28)すなわち神に払われたものである(ルカ23:46)』(Z0)。そのゆえは、神の正義は血を流すこと(即ち死)なしに人の罪を赦すことができないからである。近代の学者は贖罪の奥義を理解すること浅きがためにこの代償の意義を弱めんとし、又はこれを否定し、或はこの節がイエス御自身の口より出でしことを否定せんとしているけれども、それはこの節の生命を殺す処の妄断である。イエスは勿論神学説をここに述べ給うたのではない。愛の極致は当然この代償にまで至るのである。

8-8 二人の盲人を医し給う 20:29 - 20:34
(マコ10:46-52)(ルカ18:35-42) 

20章29節 (かれ)らエリコを()づるとき、(おほい)なる群衆(ぐんじゅう)イエスに(したが)へり。[引照]

口語訳それから、彼らがエリコを出て行ったとき、大ぜいの群衆がイエスに従ってきた。
塚本訳一行がエリコ(の町)を出ると、大勢の群衆がイエスについて来た。
前田訳彼らがエリコを出ると多くの群衆が彼に従った。
新共同一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。
NIVAs Jesus and his disciples were leaving Jericho, a large crowd followed him.
註解: ペレアより(マタ19:1)エルサレムに行く途に当り、死海に近くエリコの町がある。以下の記事はイエスの最後のエルサレム行きの途中の出来事である。ルカ18:35には「エリコに近付き給うとき」とあり。

20章30節 ()よ、二人(ふたり)盲人(めしひ)(みち)(かたは)らに()しをりしが、イエスの()(たま)ふことを()き、(さけ)びて()ふ『(しゅ)よ、ダビデの()よ、(われ)らを(あはれ)みたまへ』[引照]

口語訳すると、ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが、イエスがとおって行かれると聞いて、叫んで言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。
塚本訳すると二人の盲人が道ばたに坐っていたが、イエスのお通りだと聞くと、「主よ、ダビデのお子様よ、どうぞお慈悲を」と言って叫んだ。
前田訳すると見よ、ふたりの目しいが道ばたにすわっていて、イエスのお通りを聞いて叫んだ 「主よ、あわれんでください、ダビデのみ子よ」と。
新共同そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
NIVTwo blind men were sitting by the roadside, and when they heard that Jesus was going by, they shouted, "Lord, Son of David, have mercy on us!"
註解: 霊界の盲人たる我らもかかる熱心をもって主を呼び求めなければならない。「ダビデの子」はメシヤに対する呼称でこの盲人はイエスをメシヤと信じていた。マルコ、ルカには一人の盲人について記す、二人の中の主なる一人につき記したのであろう。

20章31節 群衆(ぐんじゅう)かれらを(いやし)めて(もだ)さしめんとしたれど、愈々(いよいよ)(さけ)びて()ふ『(しゅ)よ、ダビデの()よ、(われ)らを(あはれ)(たま)へ』[引照]

口語訳群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。
塚本訳群衆が叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます大声で、「主よ、ダビデのお子様よ、どうぞお慈悲を」と言って叫んだ。
前田訳群衆はたしなめて黙らせようとしたが、彼らはますます大声で叫んだ、「主よ、あわれんでください、ダビデのみ子よ」と。
新共同群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
NIVThe crowd rebuked them and told them to be quiet, but they shouted all the louder, "Lord, Son of David, have mercy on us!"
註解: 切にイエスを呼び求める者は群衆の非難嘲笑に対してこれらの盲人のごとくに無関心でいるべきである。

20章32節 イエス()ちどまり、(かれ)らを()びて()(たま)ふ『わが(なんぢ)らに(なに)()さんことを(のぞ)むか』[引照]

口語訳イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。
塚本訳イエスは立ち止まって、二人を呼んで言われた、「何をしてもらいたいのか。」
前田訳イエスは立ちどまって彼らを呼んでいわれた、「何をしてもらいたいのか」と。
新共同イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。
NIVJesus stopped and called them. "What do you want me to do for you?" he asked.
註解: イエスは切に求むる者の呼び声に応じて立ち止まり給う。この質問は彼らをしてその求むる処を一層明瞭に意識せしめんがためである。

20章33節 (かれ)()ふ『(しゅ)よ、()(ひら)かれんことなり』[引照]

口語訳彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。
塚本訳彼がこたえる、「主よ、目があくといい。」
前田訳彼らはいう、「主よ、目をあけてください」と。
新共同二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。
NIV"Lord," they answered, "we want our sight."
註解: これが彼らの切なる求めであった。我らもまた我らの切なる求めを主の御前に告白することが必要である。そして我らの霊の目を暗くして見ることが能わざる時、この盲人のごとく「目の開かれんこと」を主に請い求むべきである。

20章34節 イエス[いたく](あはれ)みて(かれ)らの()(さは)(たま)へば、(ただ)ちに(もの)()ることを()て、イエスに(したが)へり。[引照]

口語訳イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
塚本訳イエスが不憫に思ってその目にさわられると、すぐ見えるようになって、イエスについて行った。
前田訳イエスがあわれんで目にさわられると、彼らはただちに見えるようになって、彼に従った。
新共同イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
NIVJesus had compassion on them and touched their eyes. Immediately they received their sight and followed him.
註解: イエスは「我らを憐み給え」との切なる願いをききて「憐み」の心を起し給うた。イエスの奇跡の奥にはこの愛憫(あいびん)の御心が働いている。
要義 [聖書の不一致について]聖書の記事、殊に四福音書の記事中には往々にして相一致せざる点があることは争われない。この盲人開目の奇跡のごときもその一つであって、共観福音書を比較するならば奇跡の行なわれし場所(エリコの入口と出口)、その人数(二人と一人)その方法(手にて触ることと言を出すこと)等、いずれも異っているのを見出すであろう。その他イエスの系図(マタ1:1−16とルカ3:23−38)、十字架に釘き給える時刻 (マタ27:45マコ15:33ルカ23:44ヨハ19:14) 、悪魔につかれし者 (マタ8:26−34。マコ5:1−21。ルカ8:26−40) 、最後の晩餐と過越の祭との関係(共観福音書とヨハネ伝との差異)等、数え来れば尚多くの場合を挙げることができる。聖書無謬説を堅く主張せんとする者は種々の苦心を払ってこの矛盾を除かんとし、また聖書の神の言たることを信じない者はこの矛盾を利用して聖書の権威を否定せんとしている。この両者はいずれも聖書の本質を誤解しているのであって、聖書は神が人類をその罪より救い給う経綸を記したものであって、歴史的事実の記載を目的としたものではない。ゆえに歴史的又は科学的に見て種々の誤謬があっても、これが人類の罪の救いの問題に関係なき限り、その誤謬又は矛盾を承認して何の差支えもない。聖書は人の手を経て書かれたものであって、神はその聖旨を示す上に差支えなき誤謬や矛盾はこれを放置し給い、かくして聖書崇拝より免れしめんとし給うたのであろう。その意味において神の拯(救い)の業と無関係なる誤謬や矛盾がいかに多くとも、聖書が神の言たることを否定することができない。いわんやこれらの極めて少き(小さき)においておや。

マタイ伝第21章

分類
9 イエスの受難問題 21:1 - 27:26
9-1 イエス、エルサレムに入り給う 21:1 - 21:11
(マコ2:1-10)(ルカ19:28-38) 

註解: これよりイエスの受難週に入る。イエス三十三年の御生涯の記事なるこの福音書において最後の三年がほとんどその全部を占め、その三年の中最後の一週間がその三分の一を占むることは、イエスがこの間特別の緊張を示し給い、又イエスの死が最も重大な事柄であって、弟子たちの注意がここに集中せられていたことを示すものである。マタイ伝によれば受難週第一日(日)は21:1−17。第二日(月)は21:18−20。第三日(火)は21:20−25:46。第四日(水)は26:1−16。第五日(木)は26:17−46。第六日(金)は26:47−27:61。第七日(土、安息日)は27:62−66に記され、而して第八日すなわち日曜の朝の復活の記事は28:1以下に記されている。

21章1節 (かれ)らエルサレムに(ちか)づき、オリブ(やま)(ほとり)なるベテパゲに(いた)りし(とき)、イエス二人(ふたり)弟子(でし)(つかは)さんとして()(たま)ふ、[引照]

口語訳さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、
塚本訳一同がエルサレムに近づき、オリーブ山の中腹のベテパゲに来ると、その時イエスはこう言って二人の弟子を使いにやられた、
前田訳彼らがエルサレムに近づいてオリブ山のベテパゲに来たとき、イエスはふたりの弟子をつかわしていわれた。
新共同一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
NIVAs they approached Jerusalem and came to Bethphage on the Mount of Olives, Jesus sent two disciples,
註解: これはニサンの月の十日で日曜日の出来事であった。イエスはエリコよりエルサレムに近付き給うた。この間にベタニヤの村においてヨハ12:1−8の出来事があったことが記され、マタイ、マルコにはそれが四日後の水曜日に起ったように記されている。ヨハネの方が正しいであろう。
辞解
[ベテパゲ] 「無花果の家」の意。

21章2節 (むかひ)(むら)にゆけ、やがて(つな)ぎたる驢馬(ろば)のその()とともに()るを()ん、()きて(われ)()ききたれ。[引照]

口語訳「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。
塚本訳「あの向かいの村まで行ってきなさい。(村に入ると)すぐ、子をつれた驢馬がつないであるのが見える。解いてわたしのところに引いてきてもらいたい。
前田訳「向こうの村へ行くと、すぐにろばと子ろばがつながれているのが見えよう。それを放して連れて来なさい。
新共同言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
NIVsaying to them, "Go to the village ahead of you, and at once you will find a donkey tied there, with her colt by her. Untie them and bring them to me.
註解: イエスが驢馬(ろば)につきて予知し給えるのみならず、次節の記事につきても予めこれを知り給えることは驚くべきことである。イエスは時々必要の場合にその超人間性の片影を啓示し給う。マコ11:2ルカ19:30ヨハ12:14には驢馬(ろば)一頭につきてのみ記し、双方の間に齟齬(そご)があるように見えるけれども、マタイは唯記事を詳細に(わた)らしめるためにかかる結果となったのである。

21章3節 (たれ)かもし(なんぢ)らに(なに)とか()はば「(しゅ)(よう)なり」と()へ、さらば(ただ)ちに(これ)(つかは)さん』[引照]

口語訳もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。
塚本訳もしなんとか言う者があったら、『主がお入用です』と言えばよろしい。すぐ渡してくれるから。」
前田訳何かいう人があったら、『主のご用』といいなさい。すぐ渡してくれよう。
新共同もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
NIVIf anyone says anything to you, tell him that the Lord needs them, and he will send them right away."
註解: 「主の用なり」として選ばれる者は幸である。驢馬(ろば)のごとく最も愚鈍なる者も選ばれるならば主の御用に立つの栄誉を担うことができる。ゆえにたとい我ら驢馬(ろば)のごとく愚であってもこれを憂うる必要はない。

21章4節 ()(こと)(おこ)りしは、預言者(よげんしゃ)によりて()はれたる(ことば)成就(じゃうじゅ)せん(ため)なり。(いは)く、[引照]

口語訳こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。
塚本訳これは、預言者(ゼカリヤ)をもって言われた言葉が成就するためにおこったのである。──
前田訳これは預言者のいったことが成就するためである。いわく、
新共同それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
NIVThis took place to fulfill what was spoken through the prophet:

21章5節 『シオンの(むすめ)()げよ、「()よ、(なんぢ)(わう)、なんぢに(きた)(たま)ふ。柔和(にうわ)にして驢馬(ろば)()り、(くびき)()驢馬(ろば)()()りて」』[引照]

口語訳すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。
塚本訳“シオンの娘に告げよ、”“見よ、心のやさしいあなたの王が、来られる、驢馬にのって、驢馬の子の子驢馬にのって”と。
前田訳『語れ、シオンの娘に、なんじの王が来たもう。彼は柔和でろばに乗り、荷うまの子である子ろばに乗る』と」。
新共同「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
NIV"Say to the Daughter of Zion, `See, your king comes to you, gentle and riding on a donkey, on a colt, the foal of a donkey.'"
註解: ゼカ9:9よりの引用であるけれども文字に少しく差異あり、イザ62:11をも加え七十人訳とヘブル語聖書双方の語法を交えている。預言は必ずしもその預言者の心にありし思想のままに実現するものではない。マタイがここにこれを引用せる所以はイエスは平和の君として来り給い、卑下(へりくだ)りて見栄えなき姿においてエルサレムに入り給うことを示さんがためである。軍馬はこの世の王の乗用する処であって戦争を意味し、その勇姿は征服を表徴している。驢馬(ろば)はこれに反し柔和なる動物で平和を意味し軛を負うことを表徴し十字架に()かんがためにエルサレムに入り給うイエスをよく表徴している。王が王らしからざるかかる姿において来り給うことの預言がいかなる意味であったかは、イエス栄光を受け給いてその十字架の贖罪の真理が明かにされるまで、誰もこれを覚ることができなかった(ヨハ12:16)。
辞解
[シオンの娘] シオンはエルサレムの南の丘で、ダビデがエブス人より奪取せるところであったが、後は神殿所在地の名称となり転じてエルサレムを指すようになった。
[娘] 住民を指す。

21章6節 弟子(でし)たち()きて、イエスの(めい)(たま)へる(ごと)くして、[引照]

口語訳弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、
塚本訳弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにして、
前田訳弟子たちは出かけてイエスが命じられたとおりにし、
新共同弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
NIVThe disciples went and did as Jesus had instructed them.

21章7節 驢馬(ろば)とその()とを()ききたり、(おの)(ころも)をその(うへ)におきたれば、イエス(これ)()りたまふ。[引照]

口語訳ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
塚本訳驢馬と子驢馬とを引いてきた。そして自分たちの着物をその上にひろげると、イエスはそれに乗られた。
前田訳ろばと子ろばを連れて来た。そして、彼らが着物をその上にひろげると、イエスはそれに乗られた。
新共同ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
NIVThey brought the donkey and the colt, placed their cloaks on them, and Jesus sat on them.
註解: この世の王は借馬(しゃくば)に乗るようなことはあり得ない。然るにイエスは諸王の王に在し給うたけれども、この世においては枕する処だになかった。「我が国はこの世の国にあらず」との御言をここにも事実として見ることができる。この驢馬(ろば)のごとくイエスに使役される者は幸である。
辞解
[イエス之に乗りたまふ] 「之に」が複数代名詞すなわち「彼等に」とあるゆえ、二頭の驢馬とすれば解釈上困難な問題があるけれども、これは「衣」と受ける代名詞と見るべきであろう(M0)。

21章8節 群衆(ぐんじゅう)(おほ)くはその(ころも)(みち)にしき、(ある)(もの)()(えだ)()りて(みち)()く。[引照]

口語訳群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。
塚本訳おびただしい群衆がその着物を道に敷いた。木の枝を切ってきて道に敷く者もあった。
前田訳大勢の群衆が自らの着物を道に敷いた。あるものは木の枝を切って道に敷いた。
新共同大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
NIVA very large crowd spread their cloaks on the road, while others cut branches from the trees and spread them on the road.
註解: 国王の入城に際してかくのごとくにする習慣があった、U列9:13。群衆はイエスに対する歓迎の意を表わしたのである。この群衆が数日の後に十字架上のイエスを嘲弄(ちょうろう)しようとは誰が考えたであろうか。群集心理ほど頼むに足りないものはない。

21章9節 かつ(まへ)にゆき(のち)にしたがふ群衆(ぐんじゅう)よばはりて()ふ『ダビデの()にホサナ、()むべきかな、(しゅ)御名(みな)によりて(きた)(もの)。いと(たか)(ところ)にてホサナ』[引照]

口語訳そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
塚本訳群衆は、イエスの前を行く者もあとについて行く者も、叫んで言った。──ダビデの子に“ホサナ!主の御名にて来られる方に祝福あれ。”いと高き所に“ホサナ!”
前田訳群衆は先に行くものもあとにつくものも叫んでいう、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来たるものに祝福あれ。いと高きところにホサナ」と。
新共同そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
NIVThe crowds that went ahead of him and those that followed shouted, "Hosanna to the Son of David!" "Blessed is he who comes in the name of the Lord!" "Hosanna in the highest!"
註解: 群衆の歓呼の声である。
辞解
[ダビデの子にホサナ] 「ダビデの子万歳」という程の意、ホサナはヘブル語で「救い給えかし」の意であって(詩118:25の原語は「エホバよ今ホサナ」)、本来神に対する祈願の語であったけれども、後に仮庵の祭(結茅節、かりほずまいのいわい、レビ23:34)等にカンランの葉を打振りつつホサナを叫ぶ習慣ができたので、転じて歓呼の声として用いられ祈願の意味を失うに至った。本節の場合も同様である。
[ダビデの子] メシヤ、救主。
[主の名によりて来る者] すなわち神より遣わされし者
[いと高き処に] すなわち天にあるもの救い給えとの意味。

21章10節 (つい)にエルサレムに()(たま)へば、(みやこ)(こぞ)りて(さわぎ)()ちて()ふ『これは(たれ)なるぞ』[引照]

口語訳イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。
塚本訳やがてエルサレムに着かれると、都中が「この人はだれだろう」と言って騒ぎたった。
前田訳彼がエルサレムに入られると町じゅうがどよめいていう、「これはだれなのか」と。群衆はいった、
新共同イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
NIVWhen Jesus entered Jerusalem, the whole city was stirred and asked, "Who is this?"
註解: エルサレムの都にはイエスを知らざる多くの人々があった。

21章11節 群衆(ぐんじゅう)いふ『これガリラヤのナザレより()でたる預言者(よげんしゃ)イエスなり』[引照]

口語訳そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。
塚本訳「この人はガリラヤのナザレの預言者イエスだ」と群衆は言った。
前田訳「これは預言者イエス、ガリラヤはナザレのお方」と。
新共同そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
NIVThe crowds answered, "This is Jesus, the prophet from Nazareth in Galilee."
註解: 群衆はイエスを預言者と知り詳しくその生地をも説明した。彼を預言者と知りし所以は彼の奇跡を見たからであった。
要義 [イエスのエルサレム入城について]これまでイエスはそのメシヤなりことを誰にも告ぐなとしばしば誡め給い(マタ16:20マタ17:9)、又群衆が彼を担がんとする時これを避け給うた。然るに今はそのメシヤたることを群衆にも示し給うべき最後の時期に到達したのである。しかしながら彼は言や説明をもってこのことを示し給わず、彼のメシヤに在し給うことを示すに、最も適切なる預言を実現せしむることによりてそのメシヤたることを表徴し給うた。而してゼカ9:9に従い風采揚らざる驢馬に乗り、鞍をも置かずに弟子の衣服を鞍としてエルサレムに入り給うことは、平和と苦難のメシヤを表徴するに最も相応しい姿であった。これをもって彼は地的権力と地的栄光とをもって来るメシヤにあらざることを示し給うたのである。人民はこのことを悟らなかった。ゆえに彼が十字架に釘けられるを見て彼を嘲弄したのである。

9-2 エルサレムにおけるイエス 21:12 - 22:46
9-2-イ イエス宮を潔め給う 21:12 - 21:17
(マコ2:15-18) (ルカ19:45-46)  

21章12節 イエス(みや)()り、その(うち)なる(すべ)ての賣買(うりかひ)する(もの)()ひいだし、兩替(りゃうがへ)する(もの)(だい)鴿(はと)()(もの)腰掛(こしかけ)(たふ)して()(たま)ふ、[引照]

口語訳それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
塚本訳イエスは宮に入って、宮(の庭)で物を売る者や買う者を皆追い出し、両替屋の台や、鳩を売る者の腰掛けを倒された。
前田訳イエスは宮に入って宮で物を売り買いするものを皆追い出し、両替屋の台や鳩屋の椅子を倒された。そして彼らにいわれる、
新共同それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
NIVJesus entered the temple area and drove out all who were buying and selling there. He overturned the tables of the money changers and the benches of those selling doves.
註解: イエスは前にエルサレムに入り給いし時一度宮潔めを実行し給い(ヨハ2:14)、今再びこれを為し給う、一度潔められし宮が再び汚されしゆえである。マコ11:15以下にこの出来事は翌日に行われしものとして記されている。
辞解
[宮] エルサレムの神殿、エルサレムの東カンラン山に相対する処にあり、広く平坦なる空地あり、その中に当時新なる神殿が建築されつつあった。紀元七十年この神殿はローマ軍に破壊され、その後幾多の変遷を経て今日は回々教の堂宇(回教のドーム)が立っている。
[売買する者] 本来は神殿参拝用のものを売っていたが次第にその他のものをも売買するようになった。
[両替] 納金(マタ17:24)のため。
[はとを売る者] 貧者の供え物としてはとが用いられていた(レビ5:7)。

21章13節 『「わが(いへ)(いのり)(いへ)(とな)へらるべし」と(しる)されたるに、(なんぢ)らは(これ)強盜(がうたう)()となす』[引照]

口語訳そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。
塚本訳それからこう言われた、「“わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである”と(聖書に)書いてあるのに、あなた達はそれを“強盗の巣”にしている。」
前田訳「『わが家は祈りの家と呼ばれるはず』と聖書にあるのに、あなた方はそれを強盗の巣にする」と。
新共同そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」
NIV"It is written," he said to them, "`My house will be called a house of prayer,' but you are making it a `den of robbers.' "
註解: 前半はイザ56:7、後半はエレ7:11の引用でイエスは巧にこれを結付けて、神の宮の本質がいかに彼らによりて汚されているかを示し、これを潔め給うた。▲イエスはこの語によりイスラエルの全体−祭司より民衆まで−が皆神に叛きこの世の慾に支配され、イエスを神の子と信じないことを怒られたのであった。
彼らが何等の犯行を示さなかったのはイエスの威厳を見て懼れたのであろう。

21章14節 (みや)にて盲人(めしひ)跛者(あしなへ)ども御許(みもと)(きた)りたれば、(これ)(いや)したまへり。[引照]

口語訳そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。
塚本訳宮(の庭)で盲人や足なえが寄ってきたので、イエスはそれをなおしてやられた。
前田訳宮で目しいや足なえが彼に近よって来たので彼らをいやされた。
新共同境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
NIVThe blind and the lame came to him at the temple, and he healed them.
註解: 始めに宮における奇跡を拒み給いしイエスは(マタ4:5−7)今ここにこれを行い給うた。「もっとも相応しき宮の用い方である」(B1)。

21章15節 祭司長(さいしちゃう)學者(がくしゃ)らイエスの()(たま)へる不思議(ふしぎ)なる(わざ)と、(みや)にて(よば)はり『ダビデの()にホサナ』と()ひをる()()とを()(いきど)ほりて、[引照]

口語訳しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、
塚本訳すると大祭司連や聖書学者たちは、イエスがされた不思議な業と、宮(の庭)で子供たちが、「ダビデの子に“ホサナ!”」と言って叫んでいるのを見て憤り、
前田訳祭司長や学者が彼のなさった驚異的なことと、子どもが宮で「ダビデの子にホサナ」と叫ぶのを見ていきどおり、
新共同他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
NIVBut when the chief priests and the teachers of the law saw the wonderful things he did and the children shouting in the temple area, "Hosanna to the Son of David," they were indignant.
註解: 「平凡ならざるもの、伝統に反するものは偽善者にとっては皆耐えられない」(B1)ので、これを憤った。
辞解
[宮にて] ▲▲hiernは神殿区域全体の名称。庭や廊等をも含む。naosは神殿そのものでその中にhagion聖所とhagia hagiôn至聖所とがある。日本訳聖所ではこの三者の訳語が混同している。

21章16節 イエスに()ふ『なんぢ(かれ)らの()ふところを()くか』イエス()(たま)ふ『(しか)り「嬰兒(みどりご)(ちち)()(くち)讃美(さんび)(そな)(たま)へり」とあるを(いま)()まぬか』[引照]

口語訳イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。
塚本訳イエスに言った、「あの子供たちがなんと言っているのか、聞えているのか。」イエスは言われた、「聞えている。あなた達は“(神よ、)あなたは幼児と乳飲み子との口によって、(御自分のために)賛美をお備えになった”と詩篇にあるのを、まだ読んだことがないのか。(大人が黙っているから、子供が叫ぶのだ。)」
前田訳彼にいう、「彼らが何といっているか聞こえますか」と。イエスはいわれる、「聞こえるとも。『幼子と乳のみ子の口に讃美をそなえたもうた』とあるのを読んだことがないのか」と。
新共同イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
NIV"Do you hear what these children are saying?" they asked him. "Yes," replied Jesus, "have you never read, "`From the lips of children and infants you have ordained praise' ?"
註解: 彼らはイエスが群衆の叫びを「聞き」て黙認し給うことをもって冒涜の行為としてこれを責めた。イエスはこれに対し詩8:2(七十人訳)を引用して嬰児、乳児すら讃美すべきにいわんや彼らをやとの意味をもって答たうた。

21章17節 (つい)(かれ)らを(はな)れ、(みやこ)()でてベタニヤにゆき、そこに宿(やど)(たま)ふ。[引照]

口語訳それから、イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこで夜を過ごされた。
塚本訳イエスは彼らをすて置き、都を出てベタニヤにゆき、そこで夜を過ごされた。
前田訳イエスは彼らを去り、町から出でベタニヤに行き、そこに泊まられた。
新共同それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。
NIVAnd he left them and went out of the city to Bethany, where he spent the night.
註解: ベタニヤはエルサレムを(へだて)る3キロメートル、カンラン山の麓の小村でマリヤ、マルタ姉妹の住んでいるところであり、その兄弟ラザロを甦えらしめ給いし古跡である。イエスはその近付きつつあった苦難の際にもこの兄弟の愛によりて慰めを得給うたであろう。
要義 [宮潔めの意義]「宮よりも大なる者茲にあり」(マタ12:6)と宣いしイエスが単にエルサレムの神殿を潔めんがためのみにかかることを為し給うたであろうか、イエスは人の手にて造られしエルサレムの宮よりいつまでも商売のごとき慾深きものを除き人々がここに来りて祈ることを望み給うたのであろうか、そうではない。イエスの宮潔めは、真の神の宮なるこの天地間より、審判によりてその中にあるすべての穢を除き給うことの予表であった。「天は神の座位、地は神の足台である」ゆえに天地は祈の家であり、この天地間に生を受けている人類は皆祈りの生活を為すべきである。然るに人類は皆強盗であり、この社会は盗賊の巣に外ならない有様を呈している。殊にキリストの教会においてもこの例に漏れない。やがてイエスが再び来り給う時、彼はすべてこれらのものをこの天地の宮より追払い給うであろう。

9-2-ロ 無花果の奇蹟 21:18 - 21:22
(マコ11:12-14) (マコ11:20-25)  

21章18節 (あさ)(はや)(みやこ)にかへる(とき)、イエス()ゑたまふ。[引照]

口語訳朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。
塚本訳(次の)朝早く都に帰られるとき、イエスは空腹であった。
前田訳朝早く都へもどられるとき、彼(イエス)は飢えられた。
新共同朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
NIVEarly in the morning, as he was on his way back to the city, he was hungry.
註解: ニサンの月の十一日、月曜日の出来事。神の子が飢え給うことはその(はなは)だしき謙虚の結果であって、人類を救わんがために僕の(すがた)を取り給えるがためである。

21章19節 (みち)(かたへ)なる(ひと)もとの無花果(いちぢく)()()て、その(した)(いた)(たま)ひしに、()のほかに(なに)をも見出(みいだ)さず、(これ)(むか)ひて『(いま)より(のち)いつまでも()(むす)ばざれ』と()(たま)へば、無花果(いちぢく)()たちどころに()れたり。[引照]

口語訳そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。
塚本訳それで道ばたに一本の無花果の木があるのを見て、そこに行かれた。が見ると、ただ葉ばかりで何もなかった。イエスはその木に言われる、「もはやいつまでも、お前には実がなってはならない!」無花果の木は見る間に枯れてしまった。
前田訳そのとき一本のいちじくの木を道ばたに見受けてそのほうに行かれたが、葉のほか何も見えなかったので、それにいわれる、「もはや永久におまえには実が出来ないように」と。するとたちまちいちじくは枯れた。
新共同道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
NIVSeeing a fig tree by the road, he went up to it but found nothing on it except leaves. Then he said to it, "May you never bear fruit again!" Immediately the tree withered.
註解: 四月は無花果(いちじく)の実る季節ではないけれども、冬越しの果が残っていることもあった、イエスはこれを求め給うたのである。無花果(いちじく)はユダヤ人の標識であり、従ってこの奇跡は葉(形式、外貌)のみ多くして果実なきユダヤ人に対する審判を示したものである。イエスの奇跡は多くの場合愛より行なわれていた、然るにこの奇跡は宮潔めの行為と共にイエスの怒と審判とを示している、遅しといえども神は怒り給う。神は怒り給うことなしと考うことの誤をこれより証明することができる。

21章20節 弟子(でし)たち(これ)()(あや)しみて()ふ『無花果(いちぢく)()()立刻(たちどころ)()れたるは(なに)ぞや』[引照]

口語訳弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。
塚本訳これを見て弟子たちは驚いて言った、「なぜ無花果は見る間に枯れてしまったのですか。」
前田訳それを見て弟子たちはおどろいていう、「どうしてたちまちいちじくが枯れたのですか」と。
新共同弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。
NIVWhen the disciples saw this, they were amazed. "How did the fig tree wither so quickly?" they asked.
註解: マコ11:20−25には翌朝ペテロがその枯れたことを発見したと記されている。マタイはこれを簡略に記したのであろう。従ってこの節よりニサンの月の十二日火曜日の出来事である。

21章21節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『まことに(なんぢ)らに()ぐ、もし(なんぢ)信仰(しんかう)ありて(うたが)はずば、(ただ)()無花果(いちぢく)()にありし(ごと)きことを()()るのみならず、()(やま)に「(うつ)りて(うみ)()れ」と()ふとも(また)()るべし。[引照]

口語訳イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。
塚本訳イエスは答えられた、「アーメン、わたしは言う、もしあなた達に信仰があって疑わないならば、この無花果におこった(と同じ)ことをすることができるばかりか、この山にむかい『立ち上がって海に飛び込め』と言っても、その通りになる。
前田訳イエスは答えていわれる、「本当にいう、もしあなた方が信仰を持って疑わなければ、いちじくのことを行なえるばかりか、この山に向かって、『立ちあがって海に入れ』といってもそうなろう。
新共同イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。
NIVJesus replied, "I tell you the truth, if you have faith and do not doubt, not only can you do what was done to the fig tree, but also you can say to this mountain, `Go, throw yourself into the sea,' and it will be done.
註解: 「山を移す信仰」は偉大なる信仰の意味である(マタ17:20Tコリ13:2註)。しかしながらもし我ら確信をもって山に向いて「移りて海に入れ」と言い得る場合があるならばその山は移って海に入るであろう。無花果(いちじく)を単なる言をもって枯し給えるは、実を結ばざるユダヤ人は必ず亡ぼされることの確信の下に行われたのである。

21章22節 かつ(いのり)のとき(なに)にても(しん)じて(もと)めば、ことごとく()べし』[引照]

口語訳また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。
塚本訳信じて祈れば、求めるものはなんでも、戴くことができる。」
前田訳すべて祈りのうちに信じて求めるものは受けるであろう」と。
新共同信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
NIVIf you believe, you will receive whatever you ask for in prayer."
註解: 「何にても」というも悪事すなわち父のみ旨にあらざることは祈り求めてこれを得ることができない。何となればかかるものは信じて(神との霊の交りにおいて)これを求むることができないからである。しかしながら神との交わりにおいて神の御旨に叶うと信じて求むることに与えられないことは一つもない。我らに果してこの確信ありやを顧みなければならなぬ(マタ17:20註)。
要義 [神の審判の奇跡]イエスの奇跡はほとんど全部その愛より流れ出でし救いの奇跡である中に、この無花果の奇跡及び宮潔めの行為は審判の表現であることに注意しなければならぬ。神の審判を否定し神は唯愛の神にして怒り給うことなしと考うる者は、この奇跡の意義を解することができない。而して救の奇跡は常に人に対して直接これを施し給いしに反し、審判の奇跡はこれを人に施さず、型として人間以外のものにこれを施し給いしことも深き意味があることであって、イエスのこの世に来り給えるは世を審かんためにあらず、世を救わんためであった(ヨハ12:47)。ゆえに救の奇跡は人に向って直接にこれを施し給い、反対に彼を信ぜず、よき果を結ばざる者、又は神の宮を穢す者は、やがて審かれなければならないことを示さんがためには間接に無生物に対してこれを行い給うたのである。▲イエスがユダヤ人に対する怒を、罪ない樹木に対して漏らしたことは不当で、卑怯な態度であるとしてこの奇跡を非難する人があるけれども、人類に対して重大な真理を示すために一本の無意識な樹木を犠牲にしたことは何ら非難すべきことではない。

9-2-ハ 権威の源 21:23 - 21:27
(マコ2:27-33) (ルカ20:1-8)  

21章23節 (みや)(いた)りて(をし)(たま)ふとき、祭司長(さいしちゃう)(たみ)長老(ちゃうらう)御許(みもと)(きた)りて()ふ『(なに)權威(けんゐ)をもて(これ)()(こと)をなすか、(たれ)がこの權威(けんゐ)(さづ)けしか』[引照]

口語訳イエスが宮にはいられたとき、祭司長たちや民の長老たちが、その教えておられる所にきて言った、「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。
塚本訳宮に来て教えておられると、大祭司連と国の長老たちが寄ってきて、言った、「なんの権威で(きのうのような)あんなことを(宮で)するのか。だれがあの権威を授けたのか。」
前田訳彼が宮へ行って教えておられると、大祭司と民の長老らが来ていう、「なんの権威でこれらをしますか。だれがあなたにこのような権威を与えましたか」と。
新共同イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
NIVJesus entered the temple courts, and, while he was teaching, the chief priests and the elders of the people came to him. "By what authority are you doing these things?" they asked. "And who gave you this authority?"
註解: 祭司長、長老、学者(マコ11:27)等は衆議所より隠に派遣せられしものならん。彼らは祭司、又はレビ族に属する者及びそれらによって任命せられし者にあらざれば、神よりの権威を()っていないものと確信していた。伝統に束縛されているあるキリスト教会もこれと同様である。これらの人々はイエスを訴うる口実を捕えんがために来たのであって、その質問はイエスが教えをなし、病を癒し、宮を潔め、エルサレムに王者のごとくに入城する等のすべてのことは神より与えられし権威に基くものなりや、又神より出づる権威なりとせば何人がこの権威を与えしやの二点であった。これにより彼らはイエスを捕うるに充分なる口実を握み得るものと考えたのである。彼らの信仰は今日のカトリック教徒がローマ法王より授けられし権威にあらざれば、何の権威なしと信ずるがごとき態度であった。

21章24節 イエス(こた)へて()ひたまふ『(われ)一言(ひとこと)なんぢらに()はん、もし(それ)()げなば、(われ)もまた(なに)權威(けんゐ)をもて(これ)()のことを()すかを()げん。[引照]

口語訳そこでイエスは彼らに言われた、「わたしも一つだけ尋ねよう。あなたがたがそれに答えてくれたなら、わたしも、何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。
塚本訳イエスは答えて言われた、「ではわたしも一つ尋ねる。それにこたえられたら、わたしも何の権威でそれをするかを言おう。
前田訳イエスは答えられた、「わたしもあなた方にひとつ聞きたいことがある。それをわたしにいうなら、わたしもあなた方になんの権威でこれらをするかをいおう。
新共同イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
NIVJesus replied, "I will also ask you one question. If you answer me, I will tell you by what authority I am doing these things.

21章25節 ヨハネのバプテスマは何處(いづこ)よりぞ、(てん)よりか、(ひと)よりか』[引照]

口語訳ヨハネのバプテスマはどこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか」。すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。
塚本訳──ヨハネの洗礼はどこから来たのか。天(の神)から(授かったの)か、それとも人間からか。」彼らはひそかに考えた、「もし『天から』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったか』と言うであろうし、
前田訳ヨハネの洗礼はどこから来たか、天からか人からか」と。彼らは互いに話しあった、「もしわれらが天からといえば、なぜ彼を信じなかったかと彼はいおう。
新共同ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。
NIVJohn's baptism--where did it come from? Was it from heaven, or from men?" They discussed it among themselves and said, "If we say, `From heaven,' he will ask, `Then why didn't you believe him?'
註解: 例えばカトリック教会を始め制度化せる教会は、皆伝統に束縛せられて真理に目を塞いでいると同じく祭司長、長老等もまたバプテスマのヨハネの天的権威に対して目を塞いでいた。然るに群衆なる平信徒は、かかる伝統の死守の必要を認めないので、かえって正しき感覚を有ち、ヨハネの天的権威を知っていた。イエスは敵のこの弱点を巧に捕えて反問し給うた。イエスの意味はバプテスマのヨハネは何人よりも任命せられずに預言者であったと同じく、イエス御自身もまた神より直接に権威を与えられこの世の人間的制度とは没交渉であるという意味である。

かれら(たがひ)(ろん)じて()ふ『もし(てん)よりと()はば「(なに)(ゆゑ)かれを(しん)ぜざりし」と()はん。

註解: 真理を真理として受入れず、また告白せずすべてを便宜より割出して論議する悪しき精神がここにも表われている、彼らは結果のみを顧慮するがゆえに天より来れる真理であることを知りつつもこれを信じようとしない。

21章26節 もし(ひと)よりと()はんか、(ひと)みなヨハネを預言者(よげんしゃ)(みと)むれば、(われ)らは群衆(ぐんじゅう)(おそ)る』[引照]

口語訳しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから」。
塚本訳もし『人間から』と言えば、民衆(の反対)がこわい。みんながヨハネを預言者と思っているのだから。」
前田訳もし人からといえば、群衆がおそろしい、皆がヨハネを預言者としているから」と。
新共同『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
NIVBut if we say, `From men'--we are afraid of the people, for they all hold that John was a prophet."
註解: 自己の便宜にあらざれば他人の顔色を恐れるのが、この種の人々の常である。ユダヤの群衆は宗教上の問題については熱狂しやすかった。ゆえに彼らを恐れたのである。

21章27節 (つい)(こたへ)えて『()らず』と()へり。イエスもまた()ひたまふ『(われ)(なに)權威(けんゐ)をもて(これ)()のことを()すか(なんぢ)らに()げじ。[引照]

口語訳そこで彼らは、「わたしたちにはわかりません」と答えた。すると、イエスが言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい。
塚本訳そこで「知らない」とイエスに答えた。イエスも言われた、「ではなんの権威であんなことをするのか、わたしも言わない。
前田訳そこで彼らはイエスに答えた、「知りません」と。彼もいわれる、「わたしもなんの権威でこれらをするかをあなた方にいわない」と。
新共同そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
NIVSo they answered Jesus, "We don't know." Then he said, "Neither will I tell you by what authority I am doing these things.
註解: 真理を真理と告白することを躊躇(ちゅうちょ)する卑怯者は往々にして「知らず」なる遁辞(とんじ)を用うる。イエスの答は実に巧であって、この一撃により敵の虚偽の仮面は粉砕され、イエスの権威は立派に証明せられた。

9-2-ニ 二人の子の譬喩 21:28 - 21:32

21章28節 なんぢら如何(いか)(おも)ふか、(ある)(ひと)ふたりの()ありしが、その(あに)にゆきて()ふ「()よ、今日(けふ)葡萄園(ぶだうぞの)()きて(はたら)け」[引照]

口語訳あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。
塚本訳いったいあなた達はどう思うか。──ある人に二人の息子があった。長男の所に行って、『坊や、きょう葡萄畑に行って働いてくれ』と言うと、
前田訳「あなた方はどう思うか。ふたりの子を持つ人があって、はじめの子のところに来ていった、『子よ、きょうぶどう園に行って働きなさい』と。
新共同「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
NIV"What do you think? There was a man who had two sons. He went to the first and said, `Son, go and work today in the vineyard.'

21章29節 (こた)へて「(しゅ)よ、(われ)ゆかん」と()ひて(をはり)()かず。[引照]

口語訳すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。
塚本訳長男は『いやです』と答えたが、あとで後悔して出かけた。
前田訳答えて『はい』といったが行かなかった。
新共同兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
NIV"`I will not,' he answered, but later he changed his mind and went.
註解: 兄弟をもってユダヤ人中の二種類の人を代表している、兄は表面父の言に従いつつ事実においては従わない祭司長、学者、民の長老のごときものを指しているのであって、彼らは律法に忠実なるものなることを自任していながら、神がヨハネを遣わした場合にこれを受けず、神がその独子キリストを遣し給えばこれを拒み、神の御旨に従わなかった。

21章30節 また(おとうと)にゆきて(おな)じやうに()ひしに、(こた)へて「()かじ」と()ひたれど、(のち)くいて()きたり。[引照]

口語訳また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。
塚本訳つぎに次男の所に行って同じように言うと、こちらは、『お父さん、承知しました』と答えたが、行かなかった。
前田訳次の子のところへ来て同じようにいった。答えて、『いやです』といったが、あとで悔いて出かけた。
新共同弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
NIV"Then the father went to the other son and said the same thing. He answered, `I will, sir,' but he did not go.
註解: 弟は一旦父の命に叛いているけれども後に悔いてこれに従うものであって、遊女、取税人のごときものを表徴している。彼ら表面より律法を破っていたけれども、一旦悔いた後はこれに忠実に従うものとなったのである。

21章31節 この二人(ふたり)のうち(いづれ)(ちち)(こころ)()しし』(かれ)らいふ『(のち)(もの)なり』[引照]

口語訳このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
塚本訳この二人のうち、どちらが父の心を行ったのだろうか。」「もちろん長男」と彼らが答える。イエスが言われる、「アーメン、わたしは言う、税金取りや遊女たちは、あなた達よりも先に神の国に入るであろう。
前田訳ふたりのうちどちらが父のみ心をなしたか」。彼らはいう、「次の子です」と。イエスはいわれる、「本当に、取税人と遊女はあなた方に先んじて神の国へ入ろう。
新共同この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
NIV"Which of the two did what his father wanted?" "The first," they answered. Jesus said to them, "I tell you the truth, the tax collectors and the prostitutes are entering the kingdom of God ahead of you.
註解: 彼らは他人の場合には正しき判断を持ちながら自己の罪を知らなかった。ダビデとナタンの会話の場合もこれに類しており、我らもまた常にこの過に陥りやすい。

イエス()(たま)ふ『まことに(なんぢ)らに()ぐ、取税人(しゅぜいにん)遊女(あそびめ)とは(なんぢ)らに(さき)だちて(かみ)(くに)()るなり。

註解: 無頼漢や放蕩者が法王、監督、牧師よりも先に神の国に入るなりというのと同じであって、革命的の宣言である、而してこれは誤りなき事実であって、表面神の民のごとくに装い、自らもそれと信じつつ、父の御意(みこころ)よりも便宜や伝統を重んずるものは、この祭司長、学者らと同じく真理を拒否して滅亡に至り、取税人、遊女は罪を告白してイエスに救われる。

21章32節 それヨハネ()(みち)をもて(きた)りしに、(なんぢ)らは(かれ)(しん)ぜず、取税人(しゅぜいにん)遊女(あそびめ)とは(しん)じたり。(しか)るに(なんぢ)らは(これ)()(のち)も、なほ悔改(くいあらた)めずして(しん)ぜざりき。[引照]

口語訳というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。
塚本訳そのわけは、(洗礼者)ヨハネが義の道を示しに来たのに、あなた達は彼を信ぜず、税金取りや遊女の方がかえって信じたからだ。しかしあなた達は(あの人たちが悔改めるのを)見たあとでも、後悔して彼を信じようとしなかった。
前田訳ヨハネが義の道をもってあなた方のところへ来たが、あなた方は彼を信ぜず、取税人と遊女は彼を信じた。あなた方はそれを見ながら、あとで悔いて彼を信じようとしなかったから」と。
新共同なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
NIVFor John came to you to show you the way of righteousness, and you did not believe him, but the tax collectors and the prostitutes did. And even after you saw this, you did not repent and believe him.
註解: (ただ)しき道を説きしヨハネを祭司長、長老等が信じなかった理由は、その伝統的権力を否定しなければならなかったからである。それが彼らにはできなかった。今日キリスト教会の中に多くの義しからざる点が残存しているにかかわらず、これを除去し得ずにいることは、同様にその伝統に固着しているからである。取税人や遊女はかかるものに束縛せられず、自由なる感覚をもってヨハネを信ずることができた。
要義 [制度としての教会は堕落す]制度としての教会は、この制度を離れて自由に神を礼拝するものをもって異端と目し、彼らの教会に属し、その洗礼按手を受けた者が始めて真のキリスト者であり、その他のものをば排斥、迫害するのである。これ制度としての教会が、真理を真理として受入れるよりも、この制度を保護せんことを主なる目的とするからである。かくして彼らは表面敬虔の貌を取りつつ実は神の御意を拒否しているのである。例えばすべての教会がキリストの下に一つなることが、神の御意であることを疑う人は一人もない。然るにもかかわらずこれを実現し得ない理由は皆自己の教会なるものに捕われ、その便宜や事情やその他の事柄のみを考えて真理そのもの、すなわち神の御旨のみを考えないからである。この点において今日もイエスの当時と同じく平信徒はかえって単純に心理を受入れ、殊に罪になやめる者がかえって伝統的教会に満足せずして真の福音に来ることを見るのは事実である。信仰は人と神との直接の関係である。その間に職業的祭司学者等が介在する場合に必ずその真理が掩い隠されるのであって、イエスを迫害したのもこの職業的宗教家であった。

9-2-ホ 悪しき農夫の譬喩 21:33 - 21:46  
(マコ12:1-12) (ルカ20:9-19)  

21章33節 また(ひと)つの(たとへ)()け、[引照]

口語訳もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
塚本訳もう一つの譬を聞きなさい。ある家の主人があった。“葡萄畑をつくって、それに垣根をめぐらし、その中に搾り場をもうけ、(見張りの)櫓を建てた”上、小作人たちに貸して旅行に出かけた。
前田訳「もうひとつ譬えを聞きなさい。ある人が主人としてぶどう園を作り、垣をめぐらし、中に酒ぶねを掘り、見張り台を建てて、農夫に賃貸しして旅に出た。
新共同「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
NIV"Listen to another parable: There was a landowner who planted a vineyard. He put a wall around it, dug a winepress in it and built a watchtower. Then he rented the vineyard to some farmers and went away on a journey.
註解: イエスはその敵なる祭司長らをして沈黙せしめしのみならず、さらに彼らを引留めて他の一の譬を聴くことを命じ給うた。

ある家主(いへあるじ)葡萄園(ぶだうぞの)をつくりて(まがき)をめぐらし、

註解: 家主は神、葡萄園はイスラエルの民である。神は特にこの民を選び、律法を与えて他の国民より分離して、あたかも(まがき)を廻らせるごとくにし給うた(エペ2:14)。

(うち)酒槽(さかぶね)()り、(やぐら)()て、

註解: 酒槽は祭壇、櫓は神の宮(C2等)と解する人が多い。強いてかく解せずとも、神がユダヤ人を選び分ちこれを特選の民として、エジプトより導き出しカナンの地に住まわしめ、生くるに必要なすべての賜物を備え給えることと解することができる。

農夫(のうふ)どもに()して(とほ)旅立(たびだち)せり。

註解: 農夫どもは祭司長、学者等の支配階級の人々と見るべきである。すなわち神はユダヤ人をカナンの地に導き給いて後は直接に彼らに手を下し給わず、ユダヤ人の支配者らにその民を委せて(貸して)暫くの間これを傍観し給うた(遠く旅立せり)。

21章34節 果期(みのりどき)ちかづきたれば、その()受取(うけと)らんとて(しもべ)らを農夫(のうふ)どもの(もと)(つかは)ししに、[引照]

口語訳収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。
塚本訳収穫の時が近づくと、収穫を取り立てるために、使用人たちを小作人の所に使いをやった。
前田訳実りの季節が近づいたので、実をとらせに僕を農夫のところへつかわしたが、
新共同さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。
NIVWhen the harvest time approached, he sent his servants to the tenants to collect his fruit.
註解: 霊界の果期(みのりどき)には預言者が神より遣わされ、その収穫を受取る任務をもって来る。果実とはユダヤ人の立派な霊的状態である。

21章35節 農夫(のうふ)どもその(しもべ)らを(とら)へて、一人(ひとり)()ちたたき、一人(ひとり)をころし、一人(ひとり)(いし)にて()てり。[引照]

口語訳すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。
塚本訳すると小作人は使用人をつかまえて、一人をなぐりつけ、一人を石で打ち、一人を殺した。
前田訳農夫らは僕を捕えて、ひとりは叩き、ひとりは殺し、ひとりは石打ちした。
新共同だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。
NIV"The tenants seized his servants; they beat one, killed another, and stoned a third.
註解: 農夫らはその園が主人からの委托せられしものなることを忘れてこれを利用せんとした、その結果主人の僕を迫害した。ユダヤ人の歴史は祭司階級が預言者を迫害せる歴史である。 エレ20:1、2。エレ37:15エレ38:6T列19:14T列22:24−27。U歴24:19−22。使7:52Tテサ2:15 。信仰が神に対する忠誠を忘れて形式を重んじ、これによりて支配される時神の僕は迫害されることは免れない。キリストの教会もそれがキリストのものなることを忘れる場合に神の僕を迫害する。ウィクリフやフスのごときこの運命に遭った。マルコ、ルカには一層詳細にこの迫害の状態を記している。その箇所註参照。

21章36節 (また)ほかの(しもべ)らを(まへ)よりも(おほ)(つかは)ししに、(これ)をも(おな)じやうに()へり。[引照]

口語訳また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。
塚本訳また前よりも多くのほかの使用人をやると、同じような目にあわせた。
前田訳またはじめのより大勢の僕をつかわしたが、彼らは同じようにあしらった。
新共同また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
NIVThen he sent other servants to them, more than the first time, and the tenants treated them the same way.
註解: 農夫らにその園が主人のものであり、その果を主人に納むべきものであることを示さんがためにいかに熱心であったかがわかる。しかも農夫らは悔改めなかった(ヘブ11:37、38。エレ44:4

21章37節 「わが()(うやま)ふならん」と()ひて、(つい)にその()(つかは)ししに、[引照]

口語訳しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。
塚本訳最後に『わたしの独り息子なら恐れ入るにちがいない』と言って、その息子を使いにやった。
前田訳ついに自分の子をつかわした、『わが子なら彼らは敬おう』といいながら。
新共同そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。
NIVLast of all, he sent his son to them. `They will respect my son,' he said.
註解: 子はイエス・キリストである。マコ12:6に「なほ一人あり、即ち其の愛しむ子なり」とあり、特に明瞭に神の独子を指していることが解る。聴く者もまたかく解したであろう。かくして神は最後にイスラエルを悔改めしめんがためにイエスをこの世に遣わし給うた。これが神の救の業の最後の表顕(ひょうけん)である。
辞解
[遂に] 原語は「最後に」となっている。

21章38節 農夫(のうふ)ども()()()(たがひ)()ふ「これは世嗣(よつぎ)なり、いざ(ころ)して、その嗣業(しげふ)()らん」[引照]

口語訳すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。
塚本訳すると小作人たちはこの息子を見て、『これは相続人だ。さあ、殺して、その財産を取ってしまおう』と互に言いながら、
前田訳農夫らは子を見て互いにいった、『彼は跡継ぎだ。さあ殺して遺産をとろう』と。
新共同農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』
NIV"But when the tenants saw the son, they said to each other, `This is the heir. Come, let's kill him and take his inheritance.'
註解: ユダヤ人の主脳者らは神が最も大切に思い給うところの事柄を邪魔物視し、これを排斥する。これ神の重んじ給うことと彼らの重んずることとが相異なっているからである。ゆえに彼らにとっては単純なる神の真理が彼らの伝統と権威とを妨ぐる障害物のごとく見えるのである(今日の教会にもこの傾向がある)。彼らはこの障害物を除くことにより神の国を私有し、「その嗣業を取らん」と言っているけれども、彼らに神の子を受くべき嗣業は与えられない。

21章39節 かくて(これ)をとらへ、葡萄園(ぶだうぞの)(そと)()()して(ころ)せり。[引照]

口語訳そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。
塚本訳つかまえて葡萄畑の外に放り出した上、殺してしまった(と言う話。)
前田訳そして彼を捕えてぶどう園の外へ投げ出して殺した。
新共同そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
NIVSo they took him and threw him out of the vineyard and killed him.
註解: 神の国を私有してその栄光を奪わんとする者は、神の世嗣を殺さなければならない。キリストも門の外にて(ヘブ13:12、13。ヨハ19:17)苦難を受け給うた。

21章40節 さらば葡萄園(ぶだうぞの)主人(あるじ)きたる(とき)、この農夫(のうふ)どもに(なに)()さんか』[引照]

口語訳このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。
塚本訳それで(尋ねるが、)葡萄畑の持ち主が来たら、この小作人たちをどうするだろうか。」
前田訳ぶどう園の主人が来たとき、この農夫らをどうしようか」。
新共同さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
NIV"Therefore, when the owner of the vineyard comes, what will he do to those tenants?"
註解: 旅立せる主人帰り来る時、即ち(▲イエスがこの世に来たり給うて、)再びイスラエルの民に直接に関与し給う時を指す。聖霊によりて動かされし弟子たちがユダヤ人にイエスをメシヤと信ずべきことを宣伝えしときがそれである。イエスは彼等に問い、彼らをしてその答えによって自己の罪を定めしめ給うた。

21章41節 かれら()ふ『その惡人(あくにん)どもを()くまで(ほろぼ)し、果期(みのりどき)におよびて()(をさ)むる(ほか)農夫(のうふ)どもに葡萄園(ぶだうぞの)()(あた)ふべし』[引照]

口語訳彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。
塚本訳人々が答える、「そのひどい奴どもをひどい目にあわせて殺し、葡萄畑は、収穫の時ごとにそれを納めるほかの小作人に貸すにちがいない。」
前田訳彼らはいう、「奴らをむごく殺して、ぶどう園をほかの農夫らに賃貸しし、季節に実を納めさせましょう」と。
新共同彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
NIV"He will bring those wretches to a wretched end," they replied, "and he will rent the vineyard to other tenants, who will give him his share of the crop at harvest time."
註解: 紀元七十年エルサレムは亡ぼされ、福音はユダヤ人を去って異邦人に宣伝えられ、そこに霊によるイスラエルが生れるに至った。すなわち彼らはその答によりて自己を審いたのである。

21章42節 イエス()ひたまふ『聖書(せいしょ)に、「造家者(いえつくり)らの()てたる(いし)は、これぞ(すみ)首石(おやいし)となれる、これ(しゅ)によりて()れるにて、(われ)らの()には(くす)しきなり」とあるを(なんぢ)(いま)()まぬか。[引照]

口語訳イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。
塚本訳イエスは彼らに言われた、「あなた達は聖書で(この句を)まだ読んだことがないのか。──“大工たちが(役に立たぬと)捨てた石、それが隅の土台石になった。これは主のなされたことで、われわれの目には不思議である。”
前田訳イエスは彼らにいわれる、「聖書の中で読んだことがないか、『家造りの捨てた石こそ隅の土台石になった。これ主のなしたもうたこと、われらの目には不思議である』と。
新共同イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』
NIVJesus said to them, "Have you never read in the Scriptures: "`The stone the builders rejected has become the capstone ; the Lord has done this, and it is marvelous in our eyes' ?
註解: 聖書にしばしば引用される詩118:22、23の言である(使4:11Tペテ2:7)。「造家者(いえつくり)」はこの比喩の農夫たちに相当し、「主」は神を意味し、「石」はキリストを示している。「彼らはキリストを教会の必要なる石、価値ある一員とすら認めなかった」(B1)。キリストはこの詩によりて、前の比喩をもって示し能わざる方面を彼らに示さんとし給うた。すなわち葡萄園の主人の子は殺されてしまった。しかしキリストは復活して事実神の嗣子(よつぎ)となり給うたのである。造家者(いえつくり)らに棄てられし石なるキリストが家の隅の首石として、その家の最も重要な基礎となった。これと同じくたといキリストが祭司、学者、パリサイ人らのために殺されるとも、これによりて神の目的が失敗に帰することはない。

21章43節 この(ゆゑ)(なんぢ)らに()ぐ、(なんぢ)らは(かみ)(くに)をとられ、()()(むす)國人(くにびと)は、(これ)(あた)へらるべし。[引照]

口語訳それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。
塚本訳だからわたしは言う、神の国はあなた達から取り上げられて、神の国の実を結ぶ(ほかの)国民に与えられるであろう。
前田訳それゆえいうが、神の国はあなた方から取られて、格好な実を結ぶ異邦人に与えられよう。
新共同だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。
NIV"Therefore I tell you that the kingdom of God will be taken away from you and given to a people who will produce its fruit.
註解: ここに始めてイエスは露骨に率直に祭司、長老、学者らの受くべき審きにつきて彼らに語り給うた。▲「国人」は口語訳のように「異邦人」とも訳される語。

21章44節 この(いし)(うへ)(たふ)るる(もの)はくだけ、(また)この(いし)(ひと)のうへに(たふ)るれば、()(ひと)微塵(みじん)とせん』[引照]

口語訳またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。
塚本訳そして(救世主なる)この石の上に(つまずき)倒れる人は打ち砕かれ、(最後の裁きの日に)この石が倒れかかる人は、粉微塵になるであろう。」
前田訳〔この石の上に倒れる人はくだけ、この石は落ちて人を粉々にしよう〕」。
新共同この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
NIVHe who falls on this stone will be broken to pieces, but he on whom it falls will be crushed."
註解: キリストが卑下(へりくだ)りたる(すがた)をもって来り給い、ユダヤ人の伝統を超越し、職業的宗教家を非難し給うことを見て躓く者は、この石の上に倒れる者であって、これらのものは遂に砕け、又キリストを拒み、彼に逆らいし者にしてキリスト再び来り給う際にその審判を受くる者は、この石その上に倒れる者であって、これらのものは微塵(みじん)に砕かれるであろう。すなわちキリストに躓く者、又彼に反対する者の運命を示して明かに祭司長、長老らの運命を彼らに顕わし給うた。▲▲「倒れる」は口語訳のように「落ちる」とも訳される語。

21章45節 祭司長(さいしちゃう)・パリサイ(びと)ら、イエスの(たとへ)をきき、(おのれ)らを()して(かた)(たま)へるを(さと)り、[引照]

口語訳祭司長たちやパリサイ人たちがこの譬を聞いたとき、自分たちのことをさして言っておられることを悟ったので、
塚本訳大祭司連とパリサイ人はこれらの譬を聞いて、イエスが自分達のことを言っておられることを知り、
前田訳祭司長とパリサイ人は彼の譬えを聞いて、イエスが彼らのことをいわれるのを悟った。
新共同祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、
NIVWhen the chief priests and the Pharisees heard Jesus' parables, they knew he was talking about them.
註解: 始めはかくと悟らなかった彼らも、遂にはこの比喩が己らのことを指すのであることを悟るに至った。これを悟って彼らは悔改むべきであったのに、彼らはかえって益々イエスに反抗した。伝統と打算と利害のために囚われて、真理に盲目となれるもの程憐むべきものはない。

21章46節 イエスを(とら)へんと(おも)へど群衆(ぐんじゅう)(おそ)れたり、群衆(ぐんじゅう)かれを預言者(よげんしゃ)とするに()る。[引照]

口語訳イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。
塚本訳怒ってイエスを捕らえようと思ったが、民衆(が騒ぎ出すの)を恐れた。民衆はイエスを預言者と思っていたからである。
前田訳そして彼を捕えようとしたが、彼らは群衆をおそれた。群衆がイエスを預言者としたからである。
新共同イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。
NIVThey looked for a way to arrest him, but they were afraid of the crowd because the people held that he was a prophet.
註解: 彼らは悔改めずにかえってイエスをこの世から除かんとした。ただ彼らを恐れしめたのは群衆の意向であった。ここにも彼らは自己の安全をもって主要の関心事としているのを見るのであって、そこに何ら信仰的態度がない。もしキリスト教界がかかる人々のみとなったならばそれはキリスト教の没落である。
要義 [なぜユダヤ人はキリストを拒みしや]ユダヤ人がキリストを拒みし第一の原因はその祭司長、パリサイ人、学者等がその形式化制度化せるイスラエルの宗教団体をもって最も重要なるものと考え、人間的伝統を重んじて神の御旨に絶対的に服従しなかったからである。而して始めはキリストを歓迎せる群衆が遂には彼を十字架に釘けよと叫ぶに至ったのは、彼らが神の言を充分に理解しなかったからである(今日のキリスト信徒のごとくに)。