第1ヨハネ書第5章
1-13 イエスをキリストと信ずるもの
5:1 - 5:12
5章1節 凡そイエスをキリストと信ずる者は、神より生れたるなり。おほよそ之を生み給ひし神を愛する者は、神より生れたる者をも愛す。[引照]
口語訳 | すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。 |
塚本訳 | どんな人でも、イエスが救世主であると信ずる者は、神(の力)によって生まれたのであり、またどんな人でも、自分を生んでくださったお方を愛する者は、彼(の力)によって生まれた者(、すなわち同じ父から生まれた者)を愛する。 |
前田訳 | だれでもイエスはキリストであると信じるものは神からの生まれです。だれでも産みの親を愛するものは彼から生まれたものを愛します。 |
新共同 | イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。 |
NIV | Everyone who believes that Jesus is the Christ is born of God, and everyone who loves the father loves his child as well. |
註解: キリスト者は神の子であり、従って相互は神の家族である。そこに親子の間の愛と兄弟の間の愛がなければならぬ。イエスをキリスト神の子と信ずることは神によりて新たに生れし人すなわち神の子にのみ可能である(ヨハ1:13、ヨハ3:3)。子たる以上は当然その生みの親たる神を愛するはずであり、またこの神を愛する以上は当然その同じ神より生れたる他のキリスト者をも愛するはずである。すなわちキリスト者の相互の愛はその新生命の当然の発露であり、そしてこの新生命はイエスをキリストと信ずる信仰にその実体を見出す。ただしここでヨハネは我らの愛を信徒同志に限るべきことを教えたのではない。
5章2節 我等もし神を愛して、その誡命を行はば、之によりて神の子供を愛することを知る。[引照]
口語訳 | 神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。 |
塚本訳 | 神を愛し、その掟を行う時、そのことによって、わたし達は神の子(なる兄弟)たちを愛していることがわかるのである。 |
前田訳 | われらが神を愛してそのいましめを行なうときに、神の子らを愛することがわかります。 |
新共同 | このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。 |
NIV | This is how we know that we love the children of God: by loving God and carrying out his commands. |
註解: 神を愛してその誡めを守ることは兄弟愛のある証拠である。信仰の兄弟互に相愛する以上はその共通の父なる神を愛し、その誡命を守るはずであるから。なおTヨハ3:17、Tヨハ4:12、Tヨハ4:20、21等には兄弟愛があることが神を愛することの証拠であるように録されているので本節とちょうど正反対になるのでこれを種々に解せんとしているけれども、しかしこの両者は矛盾ではなく一つの生命の顕われであり、この双方ともそのままに真理である。一は互に他の証拠となる。
5章3節 神の誡命を守るは即ち神を愛するなり、[引照]
口語訳 | 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。 |
塚本訳 | 神の掟を守ること、それが神を愛することだからである。そしてその掟は、むずかしいものではない。 |
前田訳 | 神への愛とはわれらが彼のいましめを守ることです。そしてそのいましめは重荷ではありません。 |
新共同 | 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。 |
NIV | This is love for God: to obey his commands. And his commands are not burdensome, |
註解: 前節前半(原語で後半)の説明「神を愛してその誡命を守る」といえばこの二者別々のことのように見えるけれども実は同一のことであって、この二者を区別することができない。ゆえに神を愛すといえばそれは誡命を守るということとなる。この二者を別々のことのように考えてはならない。
而してその誡命は難からず。
註解: 神の誡命を守るといえばいかにも困難なことのように思うであろうけれども、それは決して負い難き重荷ではない。必要なる力は神によりて与えられる。要義二参照。
辞解
[難からず] 「bareiai」ならず、この語は負い切れない重荷につきて用う。ガラ6:5辞解「荷」の項参照。
5章4節 おほよそ神より生るる者は世に勝つ、世に勝[つ](ちし)勝利は我らの信仰なり。[引照]
口語訳 | なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。 |
塚本訳 | というのは、すべて神(の力)によって生まれたものは、(掟に反抗する)この世(の悪の力)に勝っているからでる。そしてこの世に勝った勝利、それはわたし達の信仰。 |
前田訳 | だれでも神から生まれたものは世に勝つからです。そして、世に勝つ勝利とはわれらの信仰です。 |
新共同 | 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。 |
NIV | for everyone born of God overcomes the world. This is the victory that has overcome the world, even our faith. |
註解: 「神より生れる者」は5:1よりイエスをキリストと信ずる者であることがわかる。そしてこのことは次節において確められている。かかる者はいかに世の力が強くともこれに勝つことができる。何となれば「汝らに居給う者は世に居る者より大」(Tヨハ4:4)でありイエスはサタンに勝ち給うたからである。我らがすでに世に勝っているのは、この信仰によるのである。神の子を信じていながら世に勝っていない者はあるはずがない。
辞解
[者] ヨハ3:6と同じく中性で一般的の「もの」を指す、ただし主として人間を意味すること勿論である。
[世に勝つ勝利] 不定過去分詞を用いている故、「勝ちし」と訳するを可とす(A1、M0)。現在の意味に解し得ないことはないけれども本節の語勢より見て不適当である。なお要義参照。「世」はサタンを支配者とし神の民に敵する全精神と全存在を指す。
5章5節 世に勝つものは誰ぞ、イエスを神の子と信ずる者にあらずや。[引照]
口語訳 | 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。 |
塚本訳 | では、だれがこの世に勝つのであるか、イエスは神の子であると信ずる者でなくして。 |
前田訳 | イエスが神の子であると信ずるものでなくて、だれが世への勝利者でしょう。 |
新共同 | だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。 |
NIV | Who is it that overcomes the world? Only he who believes that Jesus is the Son of God. |
註解: すでに世に勝ちし者はまた日々に世と戦ってこれに勝ちつづける(現在分詞)。そしてかくのごとき勝利を贏ち得る者はイエスを神の子と信ずる者(Tヨハ2:22。Tヨハ3:23。Tヨハ5:1)、全心全霊をもって神の子イエスに依り頼む者である。「信ずる者はみな、そして信ずる者のみ、世に勝つ」(B1)。これイエスに在ることによってこの世の凡ての物に優る宝を得ているからである(ピリ3:8以下)。
5章6節 これ水と血とに由りて來り給ひし者、即ちイエス・キリストなり。啻に水のみならず、水と血とをもて來り給ひしなり。[引照]
口語訳 | このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。 |
塚本訳 | 彼こそ水と血とを経て来られた方、イエス・キリストである。ただ水をもってばかりでなく、水をもってまた血をもって(、こられたのである)。(彼が受けられた洗礼の水と、十字架の上に流された血が、彼を神の子と証しするのである。)また御霊(弁護者)が(まことの)証しをする者である。御霊は真理であるからである。 |
前田訳 | 水と血とによっておいでの方は、彼イエス・キリストです。水だけでなく、水と血とです。霊が証をします。霊がまことだからです。 |
新共同 | この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。 |
NIV | This is the one who came by water and blood--Jesus Christ. He did not come by water only, but by water and blood. And it is the Spirit who testifies, because the Spirit is the truth. |
註解: 次に6−12節においてヨハネはイエスは神の子キリストであることの証明を必要とした。このイエスはバプテスマのヨハネより「水」にてバプテスマを受けし際その神の子たることを示し(ヨハ1:31、33、34)、十字架上に贖罪の「血」を流して真に神の子たることをあらわし給える者である。すなわちその生涯とその死とが凡てイエスの神の子キリストに在し給うことを証拠立てている。「啻に水のみならず」と注意せる所以は仮現説(Docetism)のごとくイエスはバプテスマによりて一時キリストを宿し、その死の前にキリストはイエスを離れ給うたと解せんとする説に対する駁撃である。すなわちイエスは徹頭徹尾神の子に在し、その証拠たるべき著しき事件は水のバプテスマと十字架の死であるとの意味である。
辞解
[水と血] 難解なために種々多様の解釈あり、その中主なるものは(1)十字架上にイエスの流し給える血と水(ヨハ19:34)、(2)キリストの定め給える洗礼と聖餐式、(3)ヨハネのバプテスマと十字架の血、(4)イエスの肉体の構成要素等およびこれらを併合せるもの等種々あり。上掲註のごとくに見ることが最も適当である(A1、M0)。
5章7節 證する者は御靈なり。御靈は眞理なればなり。[引照]
口語訳 | あかしをするものが、三つある。 |
塚本訳 | なぜ(水と血とのほかに、御霊の証しがいる)か。(モーセ律法により)証しをする者は三人で、 |
前田訳 | 証するものに三者あります。 |
新共同 | 証しするのは三者で、 |
NIV | For there are three that testify: |
註解: (原書は多くこの部分を6節の中に入れている)「水」と「血」すなわちイエスの全生涯が彼の神の子に在し給うことを証するのみならず、さらに「御霊」が直接我らにイエスの神の子に在し給うことを証する。父より賜わる御霊によるにあらずばイエスをキリストと言い表わすことができない(Tヨハ4:2。マタ16:17。Tコリ12:3)。その故は御霊は真理そのものである故我らの中に真理そのものに在し給うイエスを証することができるからである。この御霊は永続的に我らのために証をする(ヨハ15:26。ヨハ16:13、14)。
5章8節 證する者は三つ、御靈と水と血となり。この三つ合ひて一つとなる。[引照]
口語訳 | 御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。 |
塚本訳 | 御霊と水と血である。そしてこれら三つが一つにな(り、イエスが神の子キリストであることを証しす)るのである。 |
前田訳 | 霊と水と血とです。そして三者はひとつになります。 |
新共同 | “霊”と水と血です。この三者は一致しています。 |
NIV | the Spirit, the water and the blood; and the three are in agreement. |
註解: 御霊は内より、水と血とは外より一つの事すなわちイエスのキリストなることを証しすることにおいて相一致する。イエスの生涯を見また御霊が我らの心に証する証を聞くことによりこの事実は疑い得ざることとなる。なお附記参照。
辞解
[証する者は三つ] 原本では7節をなす。
[合ひて一つとなる] 一つのことに一致する意味。一つのことはイエスのキリストなること。
5章9節 我等もし人の證を受けんには、神の證は更に大なり。[引照]
口語訳 | わたしたちは人間のあかしを受けいれるが、しかし、神のあかしはさらにまさっている。神のあかしというのは、すなわち、御子について立てられたあかしである。 |
塚本訳 | もし人の証しを(真実なものとして)受けいれるならば、(御霊と水と血とによる)神の証しは、もっと有力である。なぜなら、これは神の証しであり、彼が御子について証しをされたのだからである。 |
前田訳 | われらは人の証を受けますが、神の証のほうが偉大です。神の証とはみ子についておあかしのものです。 |
新共同 | わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。 |
NIV | We accept man's testimony, but God's testimony is greater because it is the testimony of God, which he has given about his Son. |
註解: この「人の証」も「神の証」も単に一般的に言えるなり。普通一般の社会生活において我らは人の証を受けて信ずるくらいであるから、ましてこれよりもさらに大なる神の証の一層信ずべきことは勿論である。そして前節の御霊と水と血との三者はみなこれを神の証と称することができる。
神の證はその子につきて證し給ひし是なり。
註解: 神の証はその子に関する証であって、イエスが神の子に在し給うことは、神御自身の証明を持っている厳然たる事実である(その内容は11節に詳記される)。ヨハネはここにイエスのキリストなることは人間的証明ではなく神の直接の証明であり、従ってこれを拒む者は神を拒む者なることを強調せんとしているのを見る。
5章10節 神の子を信ずる者はその衷にこの證をもち、神を信ぜぬ者は神を僞者とす。これ神その子につきて證せし證を信ぜぬが故なり。[引照]
口語訳 | 神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。 |
塚本訳 | (そしてこの神の証しによって)神の子を信ずる者は、(ただ外の証しばかりでなく、)自分の中に(その)証しを持つのである。(これに反して)神を信じない者は、神を嘘つきにしたのである。神が御子について証しされた証しを信じなかったからである。 |
前田訳 | 神の子を信ずるものは自らのうちにこの証を持ちます。しかし神を信ぜぬものは神を偽りものにします。神がみ子についておあかしのことを信じないからです。 |
新共同 | 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。 |
NIV | Anyone who believes in the Son of God has this testimony in his heart. Anyone who does not believe God has made him out to be a liar, because he has not believed the testimony God has given about his Son. |
註解: イエスのキリストなることは神の御霊の証によりて保証せられていることである故、イエスを信ずる者は、その心の衷に明らかにこの神の証をもつ。これに反しイエスをキリストと信じない者は神を信じない者であって、極言すれば神をもって虚偽者とするの冒涜を敢えてしているのである。これ神がその御子につきて為し給う証を信じないからである。
5章11節 その證はこれなり、神は永遠の生命を我らに賜へり、この生命はその子にあり。[引照]
口語訳 | そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。 |
塚本訳 | そして(神の)証しというのはこれである。──(わたし達が御子を信じたとき、)神が永遠の命を与えられたこと、この命は御子がもっておられるということである。 |
前田訳 | 証というのは神がわれらに永遠のいのちをお与えのことです。このいのちはみ子のうちにあります。 |
新共同 | その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。 |
NIV | And this is the testimony: God has given us eternal life, and this life is in his Son. |
註解: 主観(我らの衷に与えられたる永遠の生命)と、客観(キリストとして顕われし永遠の生命)とがヨハネに在りては二つにして一つであった。イエスに対する信仰はイエスを我がものとする。すなわち神の賜物としてキリストを自分の衷に受ける。そしてキリストは永遠の生命なる故(Tヨハ1:2、Tヨハ5:20)、我らにこの永遠の生命が与えられたこととなる。この事実はこれを信ずる者にとって疑うことができない確かなる事柄であって、これすなわち神の証であると言わなければならぬ。
5章12節 御子をもつ者は生命をもち、神の子をもたぬ者は生命をもたず。[引照]
口語訳 | 御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。 |
塚本訳 | (だから、)御子を持つ者は(永遠の)命を持ち、神の御子を持たない者は命を持たない。 |
前田訳 | み子を持つものはいのちを持ちます。神の子を持たぬものはいのちを持ちません。 |
新共同 | 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。 |
NIV | He who has the Son has life; he who does not have the Son of God does not have life. |
註解: 神の子イエス・キリストがすなわち永遠の生命である故、彼をもつと否とによりて生命の有無が決定する。要するにイエスをキリストと信ずること(Tヨハ5:1)と永遠の生命を有つこととは同一事の異なれる表顕である。キリストなしに永遠の生命はない。単に主観的なる神秘主義的なる永遠の生命はヨハネの考えと異なる。
辞解
「御子」と「神の子」とに言い分けたことは別段の理由なきものと思われる。後者は一層不信者を恐れさせるため(B1)と見る説もあるけれども同意し難い。
要義1 [イエスをキリストと信ずること]これがすなわちヨハネの信仰の本体である。かかる者は(1)神より生れし神の子であり(1節a)、(2)従って神の子たちを愛する者であり(1節b)、(3)また神の誡命を守り(2、3節)、(4)世に勝ち(4、5節)、(5)神によりて証され(6−10節)、(6)永遠の生命をもつ(11、12節)。そしてこの数ヶ条の示す事柄はことごとくみな信仰的生命の状態またはその活動であって、もしこの中の一つを欠くものがあるならばそれは真の信仰ではない。またこれらは互に因となり果となって動いているのであって、決して個々独立の存在ではない。
要義2 [世に勝ちし勝利]信仰の戦いも他の戦いの場合と同じく、戦って後始めて勝つのは勝利の上乗なるものではない。戦う前にすでに勝っているのが真の勝利である。キリスト者はキリストに在りてすでに世に勝っている者である。従って日毎の戦いにおいても必ず勝つことができる。「世に勝ちし勝利は我らの信仰なり」(Tヨハ5:4)はかかる心持を最も適切に表顕したものである。
要義3 [誡命は難からず]Tヨハ5:3に「而してその誡命は難からず」とあるは果して事実なりや。ロマ7:14以下のパウロの苦闘を見、その他我ら自身、肉の力が如何に強く我らに働きて、我らをして誡命を守ることの至難なるかを思わしむるかを考える時この言は事実にあらざるかのごとくに見える。しかしながらヨハネはキリストにありて世に勝つ処の活躍する生命そのものを描写しているのであって、Tヨハ3:9の場合と同じく、すべての肉の力に打勝ちて余りある信仰の姿をここに記載しているのである。カルヴィンのごとくこの一節を弱めて解釈することはヨハネの本旨に反する。
附記 [5:7、8について]異本(元訳参照)に「(7)天に於いて証する者は三つ、父と言と聖霊となり、此の三つは一つなり、(8)又地に於いて証する三つ、御霊と水と血となり此の三つ合ひて一つとなる」とあり、またこの二節を前後せるラテン文の写本あり、カルビンは前者により、ベンゲルは極力後者を主張しているけれども、この部分は後世の加入が混じっていることは確かであって十六世紀より以前のギリシャ語写本には全くこれを欠き古代教父もこれを引用せず、ラテン訳にも古き写本にはこれを欠く故、これを除く方が適当である。これらの文言が加わることにより一見全体が理解し易くなるごとくに見えるけれども、実は然らず、現行改訳本文のままにてヨハネの言わんとする処が最もよく表わされているのである。
1-14 他人のために祈れ
5:13 - 5:17
5章13節 われ神の子の名を信ずる汝らに此等のことを書き贈るは、汝らに[自ら]永遠の生命を有つことを知らしめん爲なり。[引照]
口語訳 | これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。 |
塚本訳 | このことをあなた達に書いたのは、あなた達は(イエスを)神の子として信じているので、すでに永遠の命があることを知らせるためである。 |
前田訳 | このことをお書きしたのは、あなた方が永遠のいのちをお持ちのことを確認なさるためです。あなた方は神の子のみ名をお信じですから。 |
新共同 | 神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。 |
NIV | I write these things to you who believe in the name of the Son of God so that you may know that you have eternal life. |
註解: ヨハネがこの書簡を認めし目的は、その受信人がみな主の御名を信ずる信仰の所有者であるので、彼らに永遠の生命を有たしめんためではなく、すでにこれを有つことを知らしめんためであった。キリスト者は往々にして自己の中に神が賜いし賜物のいかに大きいかを忘れている。
辞解
異本には「また神の子の名を信ぜしめんためなり」との添加があるけれどもその必要がない。
5章14節 我らが神に向ひて確信する所は是なり、即ち御意にかなふ事を求めば、必ず聽き給ふ。[引照]
口語訳 | わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。 |
塚本訳 | そして、もし神の御心に従って何かを求めるならば、神は(かならず願いを)聞いてくださること、それが神に対して持っているわたし達の確信である。 |
前田訳 | われらが神に対して持つ確信とは、み心に従って求めれば、神はわれらにお聞きになることです。 |
新共同 | 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。 |
NIV | This is the confidence we have in approaching God: that if we ask anything according to his will, he hears us. |
註解: 14、15節は16、17節を引き出す前提で、祈祷の効果を前もって示している。神の子を信ずることにより永遠の生命を有つ者はまた他人のためにもこの生命が与えられんことを祈るのが当然である(16節)。そしてこのことは神の御旨に叶うことである故(死に至る罪は然らず)神は必ずこの祈りを聴き給うことの確信を持つことができる。
辞解
[確信] parrhêsia Tヨハ3:21、Tヨハ4:17の「懼なし」と同語、大胆さを意味す。キリスト者にはこの大胆なる心をもって神に近付くことを必要とする。
5章15節 かく求むるところ、何事にても聽き給ふと知れば、求めし願を得たる事をも知るなり。[引照]
口語訳 | そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。 |
塚本訳 | かくしてわたし達は、神はかならずわたし達の求める願いを聞いてくださることを知っているならば、求めた(すべての)求めを(すでに)得ていることを知っているのである。 |
前田訳 | われらの求めをお聞きになることがわかれば、彼に求めたものを得ていることがわかります。 |
新共同 | わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。 |
NIV | And if we know that he hears us--whatever we ask--we know that we have what we asked of him. |
註解: キリスト者と神との関係はかかる絶対的親密さを有し、その間に少しの間隙も、疑惑も、不安もない。祈りによりて求むることは、もしそれが神の御旨にかなうことである以上、未だ得ざる前よりすでにこれを獲得した心持でいることができるのが、真の信頼の姿である。偉大なる信仰である。
辞解
[求めし願] 直訳「彼に求めし願い事」。
[得たる] 直訳「持つ」で現在所有していること。
5章16節 人もし其の兄弟の死に至らぬ罪を犯すを見ば、神に求むべし。さらば彼に、死に至らぬ罪を犯す人々に生命を與へ給はん。[引照]
口語訳 | もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。 |
塚本訳 | もしだれかが、死に至らない罪を犯す兄弟を見たら、(神に祈り)求むべきである。そうすれば(その人は)彼に命を与える。(ただし、これは)死に至らない罪を犯す者のことである。死に至る罪がある。わたしはそんな(罪を犯す)者のために願えと言うのではない。 |
前田訳 | もし兄弟が死に至らぬ罪を犯すのを見れば、神にお祈りなさい。神はいのちをお与えでしょう。これは死に至らぬ罪を犯す人々についてです。しかし死に至る罪があります。これについては祈れとは申しません。 |
新共同 | 死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。 |
NIV | If anyone sees his brother commit a sin that does not lead to death, he should pray and God will give him life. I refer to those whose sin does not lead to death. There is a sin that leads to death. I am not saying that he should pray about that. |
註解: キリスト者が故意にキリストに叛かないかぎり、その罪は彼を死に至らしめない。彼のためにキリスト助け主あり、彼を神の前に執成し彼にその生命を与えてこれを確保し給う。罪はもしこれを悔改めることによりて神との交わりを回復しないならば当然に人々を死に至らしめる。しかしながらキリストに叛かないかぎり如何なる罪といえども回復が可能である(附記参照)。
辞解
[兄弟] 信仰の兄弟。
[求む] aiteô は次の「請ふ」 erôtaô と異なる。前者は卑き者が高き者に対し切に嘆願する場合、後者は対等の者が請求するがごとき場合に用う。
[与え給はん] 主語なき故これを「神与え給わん」と解する説と「神に求むる人これを与えん」と解する読み方とがある(M0、H0、G1)。前者が優る。▲「罪を犯す人々」と複数にしてあるのは、「彼は勿論、彼以外に死に至らぬ罪を犯す人々があれば、その人々にも・・・・・・」。
死に至る罪あり、我これに就きて請ふベしと言はず。
註解: 「死に至る罪」につきては附記参照。かかる罪は人の肉の弱さによるにあらず、サタンと同じく神に対する積極的反逆の立場にある故、かかる者は故意に悔改めを拒否しており、従って彼らは死の中にいる。かかる者に対して生命を与えられんことを請うことは全く無効であり間違っている。ヨハネはこの場合神に請うことを禁じたのではなく、請うことを命じないことを明らかにしたのである。神の御意に叶わないこと故(14節)これを神に請うべきではない。
辞解
「請ふ」を用いし所以は死に至る罪に対しては到底その赦しを熱心に「求むること」などは思いもよらないことであり、これを単純に「請ふ」ことすら不似合であることを示す。
5章17節 凡ての不義は罪なり、されど死に至らぬ罪あり。[引照]
口語訳 | 不義はすべて、罪である。しかし、死に至ることのない罪もある。 |
塚本訳 | どんな不義でも罪である。しかし、死に至らない罪がある。 |
前田訳 | すべて不義は罪ですが、死に至らぬ罪もあります。 |
新共同 | 不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。 |
NIV | All wrongdoing is sin, and there is sin that does not lead to death. |
註解: 「罪の払う値は死なり」(ロマ6:23)とある以上凡ての不義すなわち罪は死であるはずであるが、ヨハネはいかに律法に反せる不義であっても、これを悔改むることによりて死を免れることができることをここに教えているのである。
附記 [死に至る罪]この語によりてヨハネが何を意味しているかにつきて多くの説がある。
一. 旧約聖書をラビが解釈する場合これを「死に至る罪」と「死に至らぬ罪」とに区別した。前者はレビ18:6−29。レビ20:9−21。民15:30、31等の死罪または国外追放の罪に相当するものである。これを引用して「死に至る罪」を死刑の宣告または教会よりの破門の宣告を受くべき罪と解す。
二. ヤコ5:14、15。Tコリ11:30の場合のごとく疾病または死をもって神より罰せられるごとき罪と解す。
三. バプテスマを受けし後の姦淫の罪。
等種々に解せられているけれども本文前後の関係より考えるにこの罪は(a)肉体的の死を意味せず霊的死を意味し、これによって霊的の永遠の生命と対立せしめていること故、一、二の解は当らない。(b)読者が直ちに理解し得た罪と解すべきである故文章の前後の関係より推定し得べきものなることを要し、従って三の解は当らない。(c)キリストを有つことは生命をもつことである故(12節)死に至る罪は生命を持たず、従ってキリストを拒む罪である。(d)ただし16節に「死に至らぬ罪を犯すを見ば」とあり、他の人々にも見えるごとくに行為に表われた罪であることを必要とする。
以上の諸点より考えるならば、キリストが神の子であることを聖霊によりて示されていながら、キリストに反対し、福音を否定し、またはキリストに敵する者(Tヨハ2:18−20)のごときは死に至る罪に陥っている者である。マタ12:31以下の聖霊に逆らう罪もこれと同一の罪であり、ヘブ6:4−5のごときもこれに近い。死に至る罪とはかくのごとく、充分の知識を具有していながら公然とキリストに背く罪である(A1参照)。
1-15 真のキリスト者
5:18 - 5:21
5章18節 凡て神より生れたる者の罪を犯さぬことを我らは知る。[引照]
口語訳 | すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。 |
塚本訳 | わたし達は知っている、(前に言ったように、)すべて神(の力)によって生まれた者は罪を犯さないことを、否、神(の力)によってお生まれになった方(キリスト)がその人を守られるので、悪者[悪魔]はその人にさわらないことを。 |
前田訳 | われらは、神から生まれたものはだれも罪を犯さぬことを知っています。神からお生まれの方がその人を守り、悪ものはその人にさわれません。 |
新共同 | わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。 |
NIV | We know that anyone born of God does not continue to sin; the one who was born of God keeps him safe, and the evil one cannot harm him. |
註解: 形式的には16、17節を受けて次節に連絡する一節であるが内容としては新たなる最終段落の始めである。この断言は一見前二節と矛盾するがごときもTヨハ3:6−10の場合と同じく外観の矛盾を問題とせず新生命の本質を断定的に描写したのである。従って罪はキリスト者の本質に対して、全く有り得べからざるものであることが解る。これを「死に至る罪を犯さぬこと」(C1)とか、または「罪を犯す状態に留在していないこと」等と解するはヨハネの真意の歪曲である。
神より生れ給ひし者、これを守りたまふ故に、惡しきもの觸るる事をせざるなり。
註解: 「神より生れ給いし者」はキリスト(H0、S1)、「悪しき者」はサタンである。キリストの守護の下にある者にはサタンはその手を触れることができない。またこれを「神より生れしものは〔その新生命が〕彼を守る故に」と訳する説(A1)あれどやや無理なり。また異本に「神より生れしものは自らを守る故に」とあり、この方は意味が明瞭である。これを採用するもの多し(B1、C1、M0)、原本批評上問題となる点である。
辞解
[悪しきもの] サタンを示す。
[觸れる事をせず] 人はサタンに触れられただけでも恐るべき害を受ける。
5章19節 我らは神より出で、全世界は惡しき者に屬するを我らは知る。[引照]
口語訳 | また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。 |
塚本訳 | (また)わたし達は知っている、わたし達は神から(出た者)であって、全世界は悪者の支配の下にあることを。 |
前田訳 | われらは神の出であることを知っていますが、この世はすべて悪ものの手のうちにあります。 |
新共同 | わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。 |
NIV | We know that we are children of God, and that the whole world is under the control of the evil one. |
註解: 前節の「悪しきもの」を受けて我らと世の対立を明らかにす。世とはサタンの支配の下にある凡てのものの称呼であり従ってキリストに属する者以外の凡ての人々およびその主義を指す、我らと全世界とはかくして完全なる対立の立場にある。
辞解
[悪しき者に屬す] 原語「悪しき者の中に横たわる」で、サタンの完全なる支配の中に安住するごとき姿を示す。「触れられる」ことをも厭うキリスト者の立場(18節)との差異を見よ。
5章20節 また神の子すでに來りて我らに眞の者を知る知識を賜ひしを我らは知る。[引照]
口語訳 | さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。 |
塚本訳 | しかしわたし達は知っている、神の子が来て、(唯一の)まことの者(なる神)を知る知識力をわたし達に与えられたことを。そしてわたし達はこのまことの者の中に、(然り、)御子イエス・キリストの中に、あるのである。この方はまことの神であり、また永遠の命である。 |
前田訳 | われらには神の子が来られて、まことの彼を知る分別をお与えのことがわかっています。われらはまことの方、すなわちみ子イエス・キリストのうちにあります。彼こそまことの神で永遠のいのちです。 |
新共同 | わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。 |
NIV | We know also that the Son of God has come and has given us understanding, so that we may know him who is true. And we are in him who is true--even in his Son Jesus Christ. He is the true God and eternal life. |
註解: 真の者は神であり神を認識する能力はキリストによりて与えられた。人間にとって神を知ることが唯一最上の緊要事である。そして人はキリストを知ることによりて真の神の何たるかを知ることができた。
辞解
[知識] dianoia で「知る能力」の意味、「知能」と訳せば幾分原意に近い。
而して我らは眞の者に居り、その子イエス・キリストに居るなり、
註解: この訳語はやや不明である、原文は「我らは真の者すなわち、御子イエス・キリストに居るなり」とも訳し得るけれども(R、V)、むしろ「我らは御子イエス・キリストに在りて真の者に居る」と訳すべきである。その意味は前述せるごとくイエス・キリストの来り給えることによって神を知る力を得しのみならず、このイエス・キリストを信じ、彼との交わりに生きることによりて神の中にいることができることを示す。すなわち神との霊交はキリストに在る者に属する。
辞解
「眞の者」という所以は次に来る偶像との対比を明らかにせんためである。「眞」(▲原語 alêthinos)は「真正」の意味、「真実」の意味ではない。
彼は眞の神にして永遠の生命なり。
註解: イエス・キリストは真の神なるが故に彼におる者は真の神におり、彼イエスは永遠の生命なるが故に彼を有つ者は生命をもつ。
辞解
この「彼」 houtos は「神」なりや「キリスト」なりやにつき古来両説が対立する。古代教父時代、宗教改革時代にはこれをキリストと解することが有力であったが(L1、C1、B1)今日は反対にこれを神と解する学者が増加している(M0、A1、H0、E0)。双方ともそれぞれその理由を主張することができるけれども、予は(1)「彼」が最も近くにある文字「イエス・キリスト」を受けていることは、絶対的ではないまでも(Tヨハ2:21。Uヨハ1:7等を見よ)最も自然であること。(2)「永遠の生命」は本書においてはキリスト彼自身につき用いられること(Tヨハ1:2)。(3)「眞の者」にいることを述べて後に「その神は眞の神なり」というは次節との関係により説明することは不能にあらざるもあまり適切にあらず。(4)神を永遠の生命と呼ぶ場合はあまり多からざること等よりたといキリスト・イエスを直接に神と呼ぶ例は他にないとしても、この場合これをキリストと解するを可と信ず。かくして本書の首尾が極めてよく一致するを見る。
5章21節 若子よ、自ら守りて偶像に遠ざかれ。[引照]
口語訳 | 子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。 |
塚本訳 | 子供たちよ、(このまことの神をもつあなた達は、)偶像から身を守りなさい。 |
前田訳 | 皆さん、ご自身を偶像から遠ざけてください。 |
新共同 | 子たちよ、偶像を避けなさい。 |
NIV | Dear children, keep yourselves from idols. |
註解: 最後にヨハネは簡単にして強い警戒を与えて本書を終っている。ここに偶像とは勿論手に造れる像のみに限る意味ではなく、イエス・キリスト以外のものをイエス・キリストに代えて拝する行為ならびに心持がある場合これらを凡て偶像の中に数えているものと見るべきである。本書簡全体の精神はキリストとの交際に入ること故、ここにその正反対の態度を示してこれを警戒したのである。
要義 [神の子の姿]18−21節にヨハネは本書簡の結尾のごとき形において簡単に神の子たるキリスト者の姿を叙述していることを注意しなければならない。すなわちキリスト者は(1)神の子であり、(2)罪を犯さず(18節a)、(3)サタンより保護せられ(18節b)、(4)神を知るの知能を与えられ(20節a)、(5)キリストにおいて神に居り(20節b)、(6)永遠の生命にして真の神たるキリストを有ち(20節c)、(7)偶像に遠ざかっている者である(21節)、ゆえにこの最後の数節はほとんど全書簡の要約とも見得るものである。