ヨハネ伝第3章
分類
2 イエスの活動の初期
2:1 - 4:54
2-2 ユダヤに於けるイエスの活動
2:12 - 3:36
2-2-3 ニコデモとの対話
3:1 - 3:21
2-2-3-イ イエス新生につき語り給う
3:1 - 3:15
註解: ヨハ2:23に記されしエルサレムにおけるイエスの活動の一部としてニコデモとの対話がここに録されている。
3章1節 ここにパリサイ人にて名をニコデモといふ人あり、ユダヤ人の宰なり。[引照]
口語訳 | パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。 |
塚本訳 | ところでパリサイ人の中に名をニコデモという人があった。ユダヤの(最高法院の)役人であった。 |
前田訳 | ひとりのパリサイ人があった。名はニコデモ、ユダヤ人の一指導者であった。 |
新共同 | さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 |
NIV | Now there was a man of the Pharisees named Nicodemus, a member of the Jewish ruling council. |
註解: ニコデモは「宰」すなわち衆議所(サンヒドリム)の議員の一人であって従って学者であった(ヨハ3:10、ヨハネは学者、教法師らの語を用いない)。彼はパリサイ人であって宗教の事には熱心であった。この点においてヨハ1:19、ヨハ1:24等の人々とは異なった態度を取っていた。彼は後にイエスを弁護し(ヨハ7:50)、最後にイエスの葬りに際し力を尽くしたのを見れば(ヨハ19:39)、彼はイエスを神の子と信ずるに至らなかったにしても充分の尊敬を彼に対して払っていたのがわかる。おそらく彼の高き地位が彼が断然信仰に入るのを、もしくは信仰を告白するのを妨げたことであろう(ヨハ12:42、43)。
3章2節 夜イエスの許に來りて言ふ[引照]
口語訳 | この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。 |
塚本訳 | ある夜、イエスの所に来て言った、「先生、わたし達はあなたが神のところから来られた先生であることを知っています。神がご一しょでなければ、あなたのされるあんな徴[奇蹟]はだれもすることは出来ません。」 |
前田訳 | 彼が夜イエスのところへ来ていった、「先生(ラビ)、われらはあなたが神からいらした師にいますことがわかります。神が共にいまさなければ、あなたがなさる、これらの徴はだれもなしえません」と。 |
新共同 | ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 |
NIV | He came to Jesus at night and said, "Rabbi, we know you are a teacher who has come from God. For no one could perform the miraculous signs you are doing if God were not with him." |
註解: 白昼公然にイエスを訪うことは彼の地位とパリサイ人たる身分に対してでき難かったのであろう。同情すべきではあるが卑怯の謗りを免ることはできない。これが彼の終生公然とイエスの弟子たり得なかった原因である。
『ラビ、我らは汝の神より來る師なるを知る。神もし偕に在さずば、汝が行ふこれらの徴は誰もなし能はぬなり』
註解: 高き地位と身分を有し学問を持っていたニコデモは、自己の判断力の優れていることの自信を誇っていた。しかも彼の判断は外部的であった。彼はイエスの行い給える外部的徴を見て彼の神より来れる師であると判断し得しに過ぎなかった。ニコデモのイエスの許に来れる目的は彼を試さんがためではなく、彼が果して世評に上れるごときメシヤにあらざるかとの疑いをいだき、これを見届けんがために来たものであろう。
辞解
[我ら] この意見はニコデモ一人のものではなかった。
[師] ニコデモのごとき高位の老人が無位無学の青年イエスに対し「師」または「ラビ」と呼ぶことは、呼掛けとしては充分なる尊敬を払ったものと見なければならない。
[徴] イエスが多くの奇蹟を行い給えることは一々記されていないけれども、これをもって知ることができる(ヨハ2:23)。
3章3節 イエス答へて言ひ給ふ『まことに誠に汝に告ぐ、人あらたに生れずば、神の國を見ること能はず』[引照]
口語訳 | イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。 |
塚本訳 | イエスが答えて言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、(徴を見て信じたのではいけない。)人は新しく生まれなおさなければ、神の国にはいることは出来ない。」 |
前田訳 | イエスは答えられた、「本当にいう、人は新たに生まれねば神の国を見えない」と。 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 |
NIV | In reply Jesus declared, "I tell you the truth, no one can see the kingdom of God unless he is born again. " |
註解: 神の国は新生せる人々の属する国である。性来の人(Tコリ2:14)は神の御霊のことを知ることができない。新生は実に神の国に入るの門である。而して新生は聖霊によりて新たに生れることであって、古き肉の生命は死して新たなる霊の生命に復活することである(ロマ6:3−5、Uコリ5:17、ガラ6:15。Tペテ1:3、Tペテ1:23)。イエスはこの御言によりてニコデモの虚を衝き給うたのである。蓋しニコデモは学問、地位、身分、経験を有っていたけれども未だ内的に新たに生れていなかった。彼は自己の判断力に対して自信あるもののごとくに述べていたのに対し(2節)イエスはその自信を粉砕し給うた。
辞解
[あらたに] アノーセン anôthen は所の意味に用うれば「上より」を意味し、時の意味に用うれば「あらたに」を意味する。ここではこの両意味を掛けて「神より新たに」生れることを意味すと解することができる。
3章4節 ニコデモ言ふ『人はや老いぬれば、爭で生るる事を得んや、再び母の胎に入りて生るることを得んや』[引照]
口語訳 | ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。 |
塚本訳 | ニコデモがイエスに言う、「(このように)年を取った者が、どうして生まれなおすことが出来ましょう。まさかもう一度母の胎内に入って、生まれなおすわけにゆかないではありませんか。」 |
前田訳 | ニコデモはいう、「人は老いてからどうして生まれえましょう。ふたたび母の胎に入って生まれることはできますまい」と。 |
新共同 | ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 |
NIV | "How can a man be born when he is old?" Nicodemus asked. "Surely he cannot enter a second time into his mother's womb to be born!" |
註解: ニコデモは誠実な人であったけれども霊界の事柄につきて理解なく、唯外的に顕われし徴のみを見ることができたに過ぎなかった(9節参照)。それ故に彼自身は神の国を見得るものと信じていたのに対し、イエスはこれを否定し給い、その理由として新生の必要を説かれしをもって、彼はイエスに対し少しく反感をいだき、むしろ嘲笑的気分をもって(B1)彼のごとき老人の再生の不可能を論じて、イエスの御言の無理であることを主張してさらに立入って説明を与えられんことを乞うた。▲真面目な道徳家でありながら、道徳以上の世界を理解しない人は少なくない。
3章5節 イエス答へ給ふ『まことに誠に汝に告ぐ、人は水と靈とによりて生れずば、神の國に入ること能はず、[引照]
口語訳 | イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。 |
塚本訳 | イエスは答えられた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、人は霊によって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。 |
前田訳 | イエスは答えられた、「本当にいう、水と霊から生まれねばだれも神の国に入れない。 |
新共同 | イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 |
NIV | Jesus answered, "I tell you the truth, no one can enter the kingdom of God unless he is born of water and the Spirit. |
註解: ニコデモの不理解なるを見てイエスはやや詳しく新たに生れることの内容をここに説明し給うた。しかもなおこの説明すら多量の神秘的内容を含んでいる。而してイエスは新生の要素として水と霊とを掲げ給うた。これをもってイエスは水のバプテスマと霊のバプテスマとを表徴し給い(ヨハ1:33)、前者はヨハネのバプテスマをもって代表される悔改めと罪の赦し、すなわち肉につける生命の死滅(ロマ6:3)を意味し、霊のバプテスマはキリストを信ずることにより聖霊を注がれ新たなる生命を獲得することを意味する(使2:38。テト3:5、6参照)(B1。Z0)。
辞解
[水] バプテスマの儀式を言うのではない。また霊と同一物を意味する(C1)のでもない。また勿論救いにこの儀式が必要条件であることを意味したのでもない(C1、G1)。
3章6節 肉によりて生るる者は肉なり、靈によりて生るる者は靈なり。[引照]
口語訳 | 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。 |
塚本訳 | 肉によって生まれたものは肉であり、霊によって生まれたものだけが霊である(から)。 |
前田訳 | 肉から生まれるものは肉、霊から生まれるものは霊である。 |
新共同 | 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 |
NIV | Flesh gives birth to flesh, but the Spirit gives birth to spirit. |
註解: 肉は単に肉体を意味するのではなく自然人、性来のままなる人、アダムの堕落による罪性を継承せる人類を指す。ゆえに肉によりて生れるものとはアダムの罪によりて堕落せる人類の凡ての属性を意味しており(G1)、霊とは単に霊魂または精神という意味ではなく神の霊すなわち聖霊を意味する。すなわち聖霊によりて新たに生れしものとは母の胎より生れし肉によれる自然人とは全く別種のもので、キリストを信ずることにより聖霊により新たなる生命を得しものを意味する。ゆえに霊の新生を受くるには母の胎に入ることを要せず。また年齢の如何は別問題である。
辞解
[者] 8節の場合と異なり、ここでは中性であるゆえに「者」にあらず「もの」と訳すべきである。
3章7節 なんぢら新に生るべしと我が汝に言ひしを怪しむな。[引照]
口語訳 | あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。 |
塚本訳 | 『あなた達は新しく生まれなおさねばならない』と言ったからとて、すこしも不思議がることはない。 |
前田訳 | 『あなた方は新たに生まれねばならない』といったからとておどろくことはない。 |
新共同 | 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 |
NIV | You should not be surprised at my saying, `You must be born again.' |
註解: 「生るべし」は「生れざるべからず」と訳すべきであって、イエスにとっては新生は必要ではないけれども人類一般には必要であった。このことは不思議の様であるけれども実は当然でかつ確実なる事実であるゆえにこれを怪しんではならない。イエスはニコデモが怪訝な顔つきをなしているのを見てかく言い給うたのであろう。
3章8節 風は己が好むところに吹く、汝その聲を聞けども、何處より來り何處へ往くを知らず。すべて靈によりて生るる者も斯くのごとし』[引照]
口語訳 | 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。 |
塚本訳 | 風[プニューマ]は心のままに吹く。その音は聞えるが、どこから来てどこに行くか、あなたは知らない。霊[プニューマ]によって生れる者も皆、そのとおりである。」 |
前田訳 | 霊風は思うままに吹き、あなたはその声を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかはわからない。だれでも霊から生まれるものはそのようである」と。 |
新共同 | 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 |
NIV | The wind blows wherever it pleases. You hear its sound, but you cannot tell where it comes from or where it is going. So it is with everyone born of the Spirit." |
註解: 「風」も「霊」もギリシャ原語は共にプニューマ pneuma で、(ヘブル語のルーアッハも同様二重の意味あり)イエスはおそらくその時エルサレムの街を吹きつつありし風を指して、これを二重の意義に用いて霊の新生を説明し給うたのであろう。すなわち(1)霊は風と同じくその欲するままに吹き、その欲する処に赴く、人間の意思によりてこれを左右することができず、また制度規則をもってこれを束縛することができない。(2)人は風の声を聞くことができると同じく新生せるものは聖霊がその中に働いていることを感ずることができる。(3)しかしながら風がどこより来りどこへ往くかを知ることができないと同じく、霊によりて新たに生れしものもまたその霊がどこより来りどこに彼を導くかを知らない。霊による新生の世界は全く人のこれに参与することを許されない神秘境である。唯確実にして動かさざる事実である(使11:4−6参照)。
3章9節 ニコデモ答へて言ふ『いかで斯かる事どものあり得べき』[引照]
口語訳 | ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。 |
塚本訳 | ニコデモが言葉を返した、「(霊によって生まれるなどと、)そんなことがどうして出来ましょうか。」 |
前田訳 | ニコデモは答えた、「どうしてそれがありえましょうか」と。 |
新共同 | するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 |
NIV | "How can this be?" Nicodemus asked. |
註解: 私訳「これらのこといかにして起り得べきか」ニコデモはイエスの言を否定したのではなく、そのことの成り得べき方法を問うたのである(G1)。
3章10節 イエス答へて言ひ給ふ『なんぢはイスラエルの師にして、猶かかる事どもを知らぬか。[引照]
口語訳 | イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。 |
塚本訳 | イエスが答えて言われた。──「あなたはイスラエルの(名高い)先生でありながら、それくらいなことがわからないのか。 |
前田訳 | イエスは答えられた、「イスラエルの先生(ラビ)でありながらこれを知らないのか。 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 |
NIV | "You are Israel's teacher," said Jesus, "and do you not understand these things? |
註解: イエスの語り給えることは霊界の初歩の真理であって、イスラエルの師ともいうべきニコデモにしてこのことを知らないの見てイエスは驚きの声を発し給うた。肉の博学は霊のことにつきて無智である。
3章11節 誠にまことに汝に告ぐ、我ら知ることを語り、また見しことを證す、然るに汝らその證を受けず。[引照]
口語訳 | よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。 |
塚本訳 | アーメン、アーメン、わたしは言う、わたし達(神の国を説く者)は知っていることを話し、(自分で)見たことを証しするのである。しかしあなた達はその証しを受けいれない。 |
前田訳 | 本当にいう、われらは知ることを語り、見たことを証する。しかしあなた方はわれらの証を受け入れない。 |
新共同 | はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 |
NIV | I tell you the truth, we speak of what we know, and we testify to what we have seen, but still you people do not accept our testimony. |
註解: 本節以下にはイエス唯一人語り給いニコデモは唯これを謹聴していた。イエスはニコデモに対し三度「まことに誠に」を繰返し給うた。彼の熱誠をこめて教訓を垂れ給う有様を想像することができよう。イエスの語り給える新生命の問題はイエスは勿論ヨハネも弟子たちも実見の上熟知していることで、決して想像でも仮定でもない。ゆえにニコデモ始めパリサイ人らは唯単純にこれを信受すべきであった。然るに彼は「爭で」とか「如何にして」とかいう質問をイエスに向けたのである。
3章12節 われ地のことを言ふに汝ら信ぜずば、天のことを言はんには爭で信ぜんや。[引照]
口語訳 | わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。 |
塚本訳 | わたしが(いま)地上のことを言うのに、それを信じないなら、天上のことを言うとき、どうして信じることができよう。 |
前田訳 | わたしが地上のことをいったのにあなた方が信じなければ、天上のことをいってもどうして信じよう。 |
新共同 | わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 |
NIV | I have spoken to you of earthly things and you do not believe; how then will you believe if I speak of heavenly things? |
註解: 「地のこと」はイエスがこれまでエルサレムにおいて宣伝え給いし事柄であって、懺悔、罪の赦し、新生の経験とその必要等は凡てこれに属する。「天のこと」はキリストの十字架による贖いと未来における神の国の実現を指し、神の経綸の詳細を包含している。前者すなわち「我が体験し実見したことを言うてさえもこれを信じないならば、まして後者すなわち未だ地上生活においてこれを実見し得ざる天のことを言いてもこれを信ずることができないであろう」。イエスの教えは信じて始めてこれを解することができる。
3章13節 天より降りし者、即ち人の子の他には、天に昇りしものなし。[引照]
口語訳 | 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。 |
塚本訳 | しかも天から下ってきた者、すなわち人の子(わたし)のほかには、だれ一人天に上った者はない。(また天上のことを知っている者はない。) |
前田訳 | 天から下った人の子のほかだれも天に上ったものはない。 |
新共同 | 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 |
NIV | No one has ever gone into heaven except the one who came from heaven--the Son of Man. |
註解: イエスは肉体を取りて天より降り給いしロゴス(ヨハ1:14)であって、ダニエル書に預言せられし人の子に在し給う。ゆえに彼はその以前に天に住み給い天のことを目撃熟知し給う。彼以外は何人も一人として天に昇った者はない。ゆえにイエスが天のことを言い給う場合にはこれを信じなければならぬ。
辞解
[天に昇りしもの] 文書の表面を見ればイエスはかつて天に昇りしごとくに見えるけれどもこれ聖書全体の主旨に叶わない。この文章は省略せられていると見るべきで「何人も天に昇りしものすなわち天の事を見しものなし、天の事を見しものは、唯天より降り給いし人の子のみ」との意味である。
3章14節 モーセ荒野にて蛇を擧げしごとく、人の子もまた必ず擧げらるべし。[引照]
口語訳 | そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。 |
塚本訳 | そして、ちょうどモーセが荒野で(銅の)蛇を(竿の先に)挙げたように、人の子(わたしも十字架に)挙げられ(て天に上ら)ねばならない。 |
前田訳 | モーセが荒野で蛇を挙げたように、人の子も挙げられねばならない。 |
新共同 | そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 |
NIV | Just as Moses lifted up the snake in the desert, so the Son of Man must be lifted up, |
3章15節 すべて信ずる者の彼によりて永遠の生命を得ん爲なり』[引照]
口語訳 | それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。 |
塚本訳 | それは、(蛇にかまれた者がその銅の蛇を仰いで命を救われたように、)信ずる者が皆(天に上った人の子を仰いで、)彼にあって永遠の命を持つためである。 |
前田訳 | 彼を信ずるものが皆永遠(とこしえ)のいのちを持つためである。 |
新共同 | それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 |
NIV | that everyone who believes in him may have eternal life. |
註解: 民21:4−9の記事によればイスラエルはエホバに呟きし結果荒野において火の蛇にて咬まれて多く死するに至った。モーセはエホバに祈りその命により銅の蛇を造りこれを杆の上にのせ、蛇に咬まれしものこれを仰ぎ見て生きることができた。これがイエス・キリストの型であることをイエスはニコデモに語り給い、天のことを示し給うた。すなわち蛇は罪を示し、蛇に咬まれしものは罪人を示し、罪を代表せる銅の蛇は世の罪を負うキリストを示し、仰ぎ見ることは信仰に相当している。すなわちイエスはメシヤとして来り給うた。しかしこの世に王として君臨せんがためではなく、世の罪を負うて十字架に釘き、彼を信ずる者の罪を赦して彼らに永生を得しめんがためである。この苦難のメシヤはニコデモが夢想だにしなかった天のことであった。
辞解
[挙げらるべし] 「挙げられざるべからず」と訳すべき語である。この語は直接には十字架の上に挙げられることを意味するけれども(ヨハ12:32、33)、この中にはなおその昇天して神の右に坐し給うことをも意味すと解すべきである(A1、Z0。ヨハ8:28。使2:33)。
2-2-3-ロ 神その独子を人類に賜う
3:16 - 3:21
3章16節 それ神はその獨子を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして、永遠の生命を得んためなり。[引照]
口語訳 | 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 |
塚本訳 | そのゆえは、神はその独り子を賜わったほどにこの世を愛されたのである。これはその独り子を信ずる者が一人も滅びず、永遠の命を持つことができるためである。 |
前田訳 | 神はひとり子を賜うほど世を愛された。すべて彼を信ずるものが滅びずに永遠のいのちを持つためである。 |
新共同 | 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 |
NIV | "For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life. |
註解: 前数節を受けて、16−21節においてイエス・キリストの来り給えることの天的意義を詳説している。その冒頭の本節は神の国の福音の要約とも見るべき一節であって、聖書中の最も貴重なる宝石の一つである。すなわち人類救拯の御業の起源は「神」、救い主は「独子」イエス・キリスト、救いの手段はその独子を「賜い」て彼を十字架につけ人類の罪を贖うこと、救いの対象は「世」すなわちユダヤ人のみならず全世界の人類、救いの動機は己に叛ける人類に対する神の無限の「愛」、救わるべき道は神の賜物なるキリストを「信ずる」こと、救いの結果は審判によりて「亡ぼされざること」、救われしものの望みは「永遠の生命」である。(注意)本節以下21節までは従来主イエスの御言の継続として解せられていたけれども、エラスムス以来これを著者ヨハネの解説と解する有力なる学者も少なくなかった(ネアンダー、トールック、オルスハウゼンのごとき)。然るに近来の註解家は概ねこれをイエスの御言の継続と解している(B1、C1、D0、G1、G2、H0、M0、P0、Z0)。日本改訳聖書は「 」を除きこれをヨハネの解説として取扱い、予もこの改訳に同意する。
3章17節 神その子を世に遣したまへるは、世を審かん爲にあらず、彼によりて世の救はれん爲なり。[引照]
口語訳 | 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 |
塚本訳 | 神は世を罰するためにその子を世に遣わされたのではなく、子によって世を救うためである。 |
前田訳 | 神がその子を世につかわされたのは、世を裁くためでなく、世が彼によって救われるためである。 |
新共同 | 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 |
NIV | For God did not send his Son into the world to condemn the world, but to save the world through him. |
註解: 前節と相対応して神のイエスを世に遣し給える目的を示す。イエスはその再び来り給う場合に最後の審判を行い給う(黙20:12)。けれどもその初臨は世を裁くがためではない。神が愛により世を救わんがために彼を遣わし給うたのである。もしこの愛が顕われなかったならば(Tヨハ4:9)世に救わるべき人はないであろう。
3章18節 彼を信ずる者は審かれず、[引照]
口語訳 | 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。 |
塚本訳 | 彼を信ずる者は罰されない。信じない者は(今)すでに罰されている。彼を神の独り子として信じていないからである。 |
前田訳 | 彼を信ずるものは裁かれない。信じないものはすでに裁かれている、神のひとり子のみ名を信じなかったから。 |
新共同 | 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 |
NIV | Whoever believes in him is not condemned, but whoever does not believe stands condemned already because he has not believed in the name of God's one and only Son. |
註解: パウロが信仰によりて義とされることを述べしと同意義である(ロマ3:28)。神は世を愛してその独子を世に賜うた。世の人は唯彼を信じ、彼をその罪の贖い主として仰ぐをもって足るのである。神はこの信仰を嘉して彼の罪を赦し、彼を最後の審判より除外し給う(ヨハ5:24。黙20:4−6)。
信ぜぬ者は既に審かれたり。神の獨子の名を信ぜざりしが故なり。
註解: 信仰の結果たる永遠の生命もすでにこの世において始まると同様、不信仰の結果たる裁き krinein もすでに(19節以下のごとき状態において)ここに始まり、後にキリスト再臨の時この審判によって罪に定められる katakrinein(Tコリ11:32参照)に至るのである。而してその理由は神の愛を拒否し、その独り子イエスを信じないからである。我らの創造主に在し給う神がその独り子を遣わし給う場合に我ら全人類はこれを迎え、彼を仰ぎまつることが当然の態度である。これを為さざることにより人類はその罪のために裁かれるのである。
3章19節 その審判は是なり。[引照]
口語訳 | そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。 |
塚本訳 | すなわち、光が世に来たのに、人々は自分たちの行いが悪いので、光よりも暗さの方を愛したこと、それが罰である。 |
前田訳 | 裁きとはこれである。すなわち、光が世に来たのに、人々が光より闇を愛したというそのことである。人々のわざが悪かったのである。 |
新共同 | 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 |
NIV | This is the verdict: Light has come into the world, but men loved darkness instead of light because their deeds were evil. |
註解: この世において既に始まれる審判とは次のごときものである(21節まで)。
光、世にきたりしに、人その行爲の惡しきによりて、光よりも暗黒を愛したり。
註解: 真の光なるイエス来たり給うて世は二分した。信ずるものは救われ、イエスを信ぜざるものはその罪が神の愛によって赦されていることを信ずることができない。従ってその罪の結果なる悪しき行為がイエスの光によりて益々その醜さを増すことを恐れ、彼らはこれに堪えずして暗黒の中に逃れて光を避けるに至るのであって、これほど憐れむべき状態はない。これ裁かれし状態である。イエスを信ずることによりて新たに生れしもののみ(ヨハ1:12、13。ヨハ3:3)神の国を見ることができ、この罪の赦しを知り、幼児のごとく懼れることなくして光に来ることができる。
3章20節 すべて惡を行ふ者は光をにくみて光に來らず、その行爲の責められざらん爲なり。[引照]
口語訳 | 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。 |
塚本訳 | 悪いことをしている者は皆、光を憎んで光に来ない。自分の行いが明るみに出されたくないのである。 |
前田訳 | 偽りをするものはだれでも光を憎んで光に来ない、彼らのわざが現われないために。 |
新共同 | 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 |
NIV | Everyone who does evil hates the light, and will not come into the light for fear that his deeds will be exposed. |
註解: アダムとエバはエホバの命に逆きしため(これがすなわち悪である)、エホバの声を聞いてその身を隠した(創3:7、8)。エホバに責められることを直感したからである。凡て神に反いて為されし行為は悪である。悪が益々重なるに従い遂に光を憎むに至るのであって、古来キリスト者が罪なくして迫害されたのもこれがためである。
辞解
[悪] 第十九節の「悪しき」は「ポネーラ」 ponêra でキリストの目に悪しきことを意味し、本節の「悪」はフアウラ phaula であって、これを行うものの心に悪しきことを意味する。
[行う] プラッソー prassô で単に動作を継続的に行うことを意味している。
3章21節 眞をおこなふ者は光にきたる、その行爲の神によりて行ひたることの顯れん爲なり。[引照]
口語訳 | しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。 |
塚本訳 | これと反対に、真理を行っている者は、光に来る。自分の行いが神にあってなされたことを、現わしたいのである。」 |
前田訳 | 真を行なうものは光に来る。そのわざが神によってなされたことが現われるためである」。 |
新共同 | しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」 |
NIV | But whoever lives by the truth comes into the light, so that it may be seen plainly that what he has done has been done through God." |
註解: 「真を行う」とは要するに「神によりて」(私訳 ─ 神にありて)行うことであって、取税人の懺悔(ルカ18:13)も、ダビデ王の悔改めも(詩51篇)みな真を行っている点において使徒らの義しき行為に異ならない。神の命に従って行い、神に反ける行為を懺悔することはみな神にありて真を行うことである。かかる人々はその行為のあらわれんためにキリストの光に来る。彼らは光を恐れずまたこれを憎まない。ニコデモがもし真を行っているならば彼は光に来ることを恐れなかったであろうことを暗示している。
辞解
[行う] ポイエオー poieô で個々の行為を意味し、内心より自然に流れ出でて果実を結ぶごとき状態をいう。前節のプラッソーと異なる意味に用いられている。
要義 [新生の意義]キリスト教の中心問題は新生であって、人は信仰によりて新たに生れることなしに神の国のことを知ることができない。新生とは道徳的修養によりて人格が向上することでもなく、見性によりて人間の中にある仏性を発見することでもなく、禅定によりて無我の境に達することでもなく。まったく神の霊によって新たに生れ更ることである。而してかかる新生は唯信仰によりてのみこれを獲得することができるのであって、学問や知識や地位身分によりてこれを得ることができない。
信仰とは自己を罪のままキリストの光に露出してその罪を懺悔し、キリストの十字架を仰ぎてその罪の赦しの福音としてあらわれし神の言を信じ、復活して神の右に坐し給うキリストにその全信頼をささげることである。この信仰によりて天のことがすべて明らかにせられ、人間の知識をもって解し得ざる神の国の奥義を悟ることができ、暗黒の世界より光明の世界に移され、死の世界より永遠の生命の世界に遷されるのである。これ性来の人間性の中には存在せざる新たなる生命である。
2-2-4 バプテスマのヨハネとイエス
3:22 - 3:30
3章22節 この後イエス、弟子たちとユダヤの地にゆき、其處にともに留りてバプテスマを施し給ふ。[引照]
口語訳 | こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。 |
塚本訳 | そののち、イエスは弟子たちと(エルサレムを去って)ユダヤの地方に行き、一しょにそこに滞在して、洗礼を授けておられた。 |
前田訳 | そののちイエスは弟子たちとユダヤの地に行き、そこに彼らととどまって洗礼をしておられた。 |
新共同 | その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。 |
NIV | After this, Jesus and his disciples went out into the Judean countryside, where he spent some time with them, and baptized. |
註解: エルサレムにおけるメシヤとしての彼の自己掲示が受入れられず、わずかにニコデモの来訪を受け給いしに過ぎなかったので、イエスはここに田舎に退き、光を求めて来るものに対してその教えを垂れてバプテスマを施し給うた。このバプテスマは詳しく言えばイエスの弟子たちがバプテスマを施したのであった(ヨハ4:1、2)。
辞解
[ユダヤの地] ユダヤの田舎の意味でエルサレムの都に対す。
3章23節 ヨハネもサリムに近きアイノンにてバプテスマを施しゐたり、其處に水おほくある故なり。人々つどひ來りてバプテスマを受く。[引照]
口語訳 | ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。人々がぞくぞくとやってきてバプテスマを受けていた。 |
塚本訳 | ところがヨハネも、サリムに近いアイノンにいて、洗礼を授けていた。そこには水が沢山あったからである。人々が来て、ヨハネから洗礼を受けた。 |
前田訳 | ヨハネもサリムに近いアイノンで洗礼をしていた。それはそこに水が多かったからである。人々が来て洗礼を受けた。 |
新共同 | 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。 |
NIV | Now John also was baptizing at Aenon near Salim, because there was plenty of water, and people were constantly coming to be baptized. |
註解: あたかもこの間においてイエスとヨハネとは同一のことを為し、同一の教えを垂れ給えるごとくであったけれども、ここにこの両者の分岐点があったのである。そのことは次の数節においてヨハネ自身がこれを証し、後日の歴史がこれを証明している。
辞解
[サリムに近きアイノン] この地名の場所につきては諸説あり確定することができない。唯それがユダヤにあったことと(3:25)ヨルダンの西にあったことと(3:26)ヨルダンの川の岸ではなかったことと(水多くありとの説明を必要とせるより見れば)はこれを知ることができ、またアイノンはアイン(泉の意)イオン(鳩)の意らしく(M0)、一つの泉であったに相違ないことからもこれを知ることができる。
3章24節 ヨハネは未だ獄に入れられざりしなり。[引照]
口語訳 | そのとき、ヨハネはまだ獄に入れられてはいなかった。 |
塚本訳 | ヨハネはまだ牢に入れられていなかったのである。 |
前田訳 | ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。 |
新共同 | ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。 |
NIV | (This was before John was put in prison.) |
註解: マタ4:12。マコ1:14によればイエスのバプテスマと荒野の試誘の後間もなくヨハネが投獄せられしかのごとく見えるけれども、この間にはヨハ1:44のガリラヤ行きが第一、第二福音書に省略せられており、第四福音書記者はここにこれを訂正または注意したものと見るべきである。
3章25節 ここにヨハネの弟子たちと一人のユダヤ人との間に、潔につきて論起りたれば、[引照]
口語訳 | ところが、ヨハネの弟子たちとひとりのユダヤ人との間に、きよめのことで争論が起った。 |
塚本訳 | すると、ヨハネの弟子たちと一人のユダヤ人とのあいだに、(二人のうち、どちらの洗礼が)清めの(力をもっているかという)ことについて、議論がおこった。 |
前田訳 | さて、ヨハネの弟子たちとユダヤ人との間に清めについて論争があった。 |
新共同 | ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。 |
NIV | An argument developed between some of John's disciples and a certain Jew over the matter of ceremonial washing. |
註解: 「潔」原語 katharismos はバプテスマと同意義であって罪や汚れより潔められること、この争論の内容はおそらくこのユダヤ人がイエスのバプテスマを持ち出し、その益々盛んになり行くを示して、ヨハネのバプテスマよりも優れることを主張し、ヨハネの弟子たちを卑しめたものであろう。
3章26節 彼らヨハネの許に來りて言ふ『ラビ、視よ、汝とともにヨルダンの彼方にありし者、なんぢが證せし者、バプテスマを施し、人みなその許に往くなり』[引照]
口語訳 | そこで彼らはヨハネのところにきて言った、「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」。 |
塚本訳 | 弟子たちがヨハネの所に来て言った、「先生、あなたと一しょにヨルダン川の向こうにいた、そしてあなたが世に紹介されたあの人が、どうでしょう、洗礼を授けております。そして、みんなその方へ行きます。」 |
前田訳 | そこで彼らはヨハネのところに来ていった、「先生(ラビ)、あなたとともにヨルダンの向こう岸にいて、あなたが証をなさったあの人が、あのとおり洗礼をしていて、みんなが彼のところへ行きます」と。 |
新共同 | 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」 |
NIV | They came to John and said to him, "Rabbi, that man who was with you on the other side of the Jordan--the one you testified about--well, he is baptizing, and everyone is going to him." |
註解: ヨハネの弟子たちより見れば、イエスは彼らと同じ相弟子であり、またヨハネの証によりて世に顕われし人でヨハネはいわばイエスの恩人であった。このイエスがヨハネと同一の行為を為して彼を凌ぐに至っていることは弟子たちの堪え難きことであった。疑惑と嫉妬と憤慨の語気が弟子たちの語の中にあらわれている。これに対するヨハネの答がイエスとヨハネの差異を明らかにしている。
辞解
[人みな] 多くの人々を意味す。
3章27節 ヨハネ答へて言ふ『人は天より與へられずば、何をも受くること能はず。[引照]
口語訳 | ヨハネは答えて言った、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。 |
塚本訳 | ヨハネが答えた、「人は天から与えられないかぎり、何も(自分で)取ることは出来ない。 |
前田訳 | ヨハネは答えた、「天から与えられるのでなければ人は何も受けえない。 |
新共同 | ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。 |
NIV | To this John replied, "A man can receive only what is given him from heaven. |
註解: イエスもヨハネも各一定の賜物を天より与えられているのであって、その力の差異も成功も不成功もみな天より与えられし賜物の結果である。従って羨望や嫉妬は誤った態度である。(注意)或はこの語をイエスのみに関するものと解する人(C1、M0、G1、E0)と、反対にバプテスマのヨハネのみに関するものと解する人(A1、B1、C1)この両者に関するものと解する人(L1、T0等)とがある。最後の説が最も適当であって、この語は万人に関する一般的真理を言っており(Z0)、ヨハネはこの真理を自己とイエスとに当てはめたのである。
3章28節 「我はキリストにあらず」唯「その前に遣されたる者なり」と我が言ひしことに就きて證する者は汝らなり。[引照]
口語訳 | 『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。 |
塚本訳 | 『わたしは救世主ではない。ただあの方の先駆けをするために遣わされた者である』とわたしが言ったことについては、あなた達自身がわたしの証人ではないか。 |
前田訳 | 『わたしはキリストでなく、その前につかわされたものである』とわたしがいったことの証人はあなた方自身である。 |
新共同 | わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。 |
NIV | You yourselves can testify that I said, `I am not the Christ but am sent ahead of him.' |
註解: ヨハ1:20、ヨハ1:23註参照。ヨハネの弟子たちはイエスの栄え行くを見て妬んだけれどもヨハネはこれを以ってかえって彼の預言の証拠であるとしたのである。
3章29節 新婦をもつ者は新郎なり、新郎の友は、立ちて新郎の聲をきくとき大に喜ぶ、この我が勸喜いま滿ちたり。[引照]
口語訳 | 花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。 |
塚本訳 | 花嫁を持つのは花婿である。花婿の友達は花婿のそばに立っていて耳を傾け、花婿の(喜ぶ)声を聞いて喜びにあふれるのである。(花婿の友達である)わたしのこの喜びは、いま絶頂に達した。 |
前田訳 | 花よめをもつのは花むこである。花むこの友はそばに立って耳傾け、花むこの声を聞いてよろこぶ。このわがよろこびは今満ちた。 |
新共同 | 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。 |
NIV | The bride belongs to the bridegroom. The friend who attends the bridegroom waits and listens for him, and is full of joy when he hears the bridegroom's voice. That joy is mine, and it is now complete. |
註解: 新婦はメシヤ王国の民、新郎はキリスト、婚宴に加わる新郎の友はヨハネ、新郎の声は婚宴における新郎の喜びの声である。ヨハネは新郎の友たるに過ぎない。ゆえに新婦をもつことができないのは当然であって少しもこれを妬む心がなきのみならず、新郎の喜びの声を聞く時彼自身かえって歓喜に満たされるのである。故にイエスのバプテスマが栄行くことを聞く時ヨハネは却って喜びに満たされた。神とその民との関係は多くの場合婚姻関係をもって譬えられている
(イザ54:5以下。ホセ2:21、22。エペ5:32。黙19:7。ヤコ5:1、6)
。
3章30節 彼は必ず盛になり、我は衰ふべし』[引照]
口語訳 | 彼は必ず栄え、わたしは衰える。 |
塚本訳 | あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。(それが神の御心である。) |
前田訳 | 彼は栄え、わたしは衰えねばならない」と。 |
新共同 | あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」 |
NIV | He must become greater; I must become less. |
註解: これがイエスとヨハネが天より与えられし運命であった。而して凡ての聖人、賢人、ならびに諸宗教の開祖の運命を代表している。
2-2-5 天より来るものと地より出づるもの
3:31 - 3:36
註解: 31−36節については16−21節と同様、これをバプテスマのヨハネの語とする説と著者ヨハネの解説と見る説とに分かれている。予は日本改訳聖書と同じく後説による。ただしバプテスマのヨハネ対イエスの問題に関連する説明であること勿論である。
3章31節 上より來るものは凡ての物の上にあり、[引照]
口語訳 | 上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。 |
塚本訳 | 上から来られる方は、すべての者の上におられる。地から出た者は地上の者で、話すことも地上のことである。天から来られる方は、すべての者の上におられ、 |
前田訳 | 上から来るものは万物の上にある。地からのものは地のもので、地のことを語る。天から来るものは万物の上にある。 |
新共同 | 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。 |
NIV | "The one who comes from above is above all; the one who is from the earth belongs to the earth, and speaks as one from the earth. The one who comes from heaven is above all. |
註解: 言、肉となりて上より来り給えるものはイエス・キリストであった。かかる者は万物(万人と訳すべしとの説もある)の上にあり、ヨハネといえども彼に匹敵することはできない。彼はその源を天に持っているのである。勿論ヨハネもその使命を天から受けているけれども(マタ21:25)彼自身の出所は地であって天ではない。
辞解
[上より] 3節の「あらたに」と同文字。
地より出づるものは地の者にして、その語ることも地の事なり。
註解: ヨハネは霊によりて上より生れし人ではない。地より出でし人であった。ゆえにイエスとはその源を異にし、従ってその語ることも地のことであった。マタ11:11のごとく彼は天国における最も小さきものにも劣っていた。いわんやイエスに比してをや。
天より來るものは凡ての物の上にあり。
註解: 「上より」を「天より」と言い換えただけで初句の反復である。イエスの優越を強調している。
3章32節 彼その見しところ聞きしところを證したまふに、誰もその證を受けず。[引照]
口語訳 | 彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。 |
塚本訳 | 天で見聞きしたことを証しされる。(だから遣わされた者のだれ一人、こう言うわたし自身も、あの方に及ばない。)ところがだれもその証しを受けいれない。 |
前田訳 | 見聞きしたことを彼は証するが、だれもその証を受けない。 |
新共同 | この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。 |
NIV | He testifies to what he has seen and heard, but no one accepts his testimony. |
註解: 前節はイエスの起源を示し本節はその教訓に関す。あたかもヨハ3:11節の反復であって、ヨハ1:9−11とその意味を同じくしている。ゆえにヨハネの弟子たちが「人みなその許に行く」(ヨハ3:26)として驚いたのはイエスの天より来り給えることとその天的真理を体験より語り給うこととを知らないからである。もしこれを知ったならば全人類が彼の許に来なければならないことを悟るであろう。ゆえにヨハネの弟子たちが多数と思って驚いたのは実は極めて少数である。
3章33節 その證を受くる者は、印して神を眞なりとす。[引照]
口語訳 | しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。 |
塚本訳 | (しかし)その証しを受けいれる者は、(受けいれることによって、)神が真実であることを承認したのである。 |
前田訳 | その証を受けるものは神が真にいますことを認めたのである。 |
新共同 | その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。 |
NIV | The man who has accepted it has certified that God is truthful. |
註解: この少数者がイエスの証を受けて彼を信じた。かかる人々には神が偽りの神ではなく、真実にその預言を実現し給い約束を実行し給う方なりとの信仰がその心に印刻され(ヨハ1:12)またこれを人にも保証することとなるのである。何となればイエスの御言を信ずることは神の真実を確証することに外ならないからである。その故は神は預言者たちによりてメシヤを遣わすことを預言し給い、また天より声ありて(ヨハ1:33)イエスがそれであることを証し給うたからである。従ってイエスの証を信じない者は神を偽り者とするのである(Tヨハ5:10)。その故は次節がこれを示している。
辞解
[印して] sphragizô 証書に捺印する行為であって、その証書の法律上の効力を認めて公にすることを意味する。
3章34節 神の遣し給ひし者は神の言をかたる、[引照]
口語訳 | 神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。 |
塚本訳 | 神がお遣わしになった方は神の言葉を話される。神は(その方に)いくらでも霊をお与えになるからである。 |
前田訳 | 神がつかわされたものは神のことばを語る。神が霊を無限にお与えになるからである。 |
新共同 | 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。 |
NIV | For the one whom God has sent speaks the words of God, for God gives the Spirit without limit. |
註解: この語は完全にイエスに当てはまるのであって(ヨハ14:10、ヨハ14:24)彼は凡ての意味において神の遣わし給いし者である。(ヨハネのごときは特別の目的の範囲内においてのみ神に遣わされしものであった ヨハ1:6。)ゆえにイエスの凡ての言は神の言である。
神、御靈を賜ひて量りなければなり。
註解: イエスには御霊が無限に与えられた。ゆえに彼の語り給うことは凡て御霊によりて語り給うたのである。キリスト者も預言者もみなこの無限の御霊よりその一部を受けるのである(Tコリ12:8−12、Tコリ12:27。エペ4:7)。
3章35節 父は御子を愛し、萬物をその手に委ね給へり。[引照]
口語訳 | 父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。 |
塚本訳 | 父上は御子を愛して、一切のもの(の支配権)をその手におまかせになった。 |
前田訳 | 父は子を愛して万物を彼の手に与えられた。 |
新共同 | 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。 |
NIV | The Father loves the Son and has placed everything in his hands. |
註解: 父は無限に御霊をイエスに賜うのみならず、また無限の権力を賜い、万事万物をその手に与え給う(エペ1:22)。人類の救いと裁きをもその御手に委ね給うた(ヨハ5:27、ヨハ6:39)。これみな父なる神の愛の結果である。
3章36節 御子を信ずる者は永遠の生命をもち、御子に從はぬ者は生命を見ず、反つて神の怒その上に止るなり。[引照]
口語訳 | 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。 |
塚本訳 | (だから従順に)御子を信ずる者は永遠の命を持つが、御子に不従順な者は命にはいることができないばかりか、神の怒りがその人からはなれない。」 |
前田訳 | 子を信ずるものは永遠のいのちを持つ。子に従わぬものはいのちを見ず、神の怒りがその上にとどまる。 |
新共同 | 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」 |
NIV | Whoever believes in the Son has eternal life, but whoever rejects the Son will not see life, for God's wrath remains on him." |
註解: 詩2:12。イエスは神の言を語り(34節)、また神の権を委ねられ給う以上(35節)彼を信じ彼に従うことは人の当然の態度である。かかる者は現在においてすでに永遠の生命を所有し、キリスト再臨の時これが復活体として実現する。これに反し彼を信ぜず彼に従わない者は未来の世においてこの永遠の生命の実現するのを「見る」ことができない。神の怒りがその上に止まる。神の怒りにつきてはヨハ2:22要義二参照。イエスのこの世に来り給える目的と任務とはこれであった。バプテスマのヨハネについてはかかることがない。この両者の間に天と地との差異があることはこれによりて知ることができる。
要義 [天よりの者と地よりの者]ある意味においてはバプテスマのヨハネも神より遣わされし者であり(ヨハ1:6)また「天より」の者(マタ21:25)であった。同様に凡ての預言者もその一部に天的部分を持っているということができる。釈迦孔子その他の聖賢もまた然りというべきである。しかしながら完全なる意味においては唯イエス・キリストのみ「天よりの者」であり、「万物の上に在し」「万物を支配し給い」人類の救いと裁きとを委ねられ給いし御方であった。この意味において預言者中の最大なる者であったヨハネとイエスとの対比は取りも直さずイエスの万人に超越し給う所以を明らかにしているのであって、イエスの絶対唯一の神に在し給う所以をこれによりて知ることができる。而して凡ての真のキリスト者は天より生まれし者であり、従ってこの意味においてバプテスマのヨハネにも優れたるものなることを思うべきである。
ヨハネ伝第4章
2-3 イエス又ガリラヤに往き給う
4:1 - 4:54
4章1節 主、おのれの弟子を造り、之にバプテスマを施すこと、ヨハネよりも多しと、パリサイ人に聞えたるを知り給ひし時、[引照]
口語訳 | イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、 |
塚本訳 | さて、ヨハネよりもイエスの方がよけいに弟子をつくり、洗礼を授けているという噂が、パリサイ人の耳に入ったことを主が知られると、 |
前田訳 | さて、イエスのほうがヨハネよりも多く弟子を作って洗礼するとパリサイ人に聞こえた。主はこれを知って、 |
新共同 | さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、 |
NIV | The Pharisees heard that Jesus was gaining and baptizing more disciples than John, |
註解: この風聞はパリサイ人を恐怖せしめた。何となれば彼らはすでにバプテスマのヨハネを反対党の首領と考え、彼について憂慮と恐怖とを持っていたのであるから彼よりも多く奇蹟を行い給い、また宮潔めのごとき断然たる挙動に出で給うイエスがさらに多くの弟子を造ることを聞いて彼らは一層震駭したのであった。
4章2節 (その實イエス自らバプテスマを施ししにあらず、その弟子たちなり)[引照]
口語訳 | (しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった) |
塚本訳 | ──その実、洗礼を授けたのはイエス自身でなく弟子たちであったが── |
前田訳 | −−実はイエス自身ではなく弟子たちが洗礼したのであるが−− |
新共同 | ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―― |
NIV | although in fact it was not Jesus who baptized, but his disciples. |
註解: 前節はユダヤ人中に行われし風評そのままであって実は不正確であった。著者ヨハネはここにこれを訂正している。イエスが水のバプテスマを施さなかった理由は、彼は聖霊のバプテスマを施し給うべき唯一の主に在すことと、これがためにはその肉体的臨在は不必要なることとを示すがためであったろう。而してイエスの弟子はヨハネに対立してバプテスマを施すの資格は充分にあった。この後ガリラヤにおいてはイエスはバプテスマを行い給わなかった。この時までのヨハネとイエスのバプテスマはユダヤ人をメシヤ王国に入れんがための悔改めのバプテスマあった。イエス復活後の弟子たちのバプテスマはこれとその意味を異にしている(ロマ6:1以下参照)。
4章3節 ユダヤを去りて復ガリラヤに往き給ふ。[引照]
口語訳 | ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。 |
塚本訳 | (パリサイ人との衝突をさけるため)ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。 |
前田訳 | ユダヤを去ってふたたびガリラヤヘ向かわれた。 |
新共同 | ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。 |
NIV | When the Lord learned of this, he left Judea and went back once more to Galilee. |
註解: エルサレムの宮におけるメシヤとしての彼の行動は受けられず、ここにまたパリサイ人の反対が近付かんとしているので、時未だ至らざるに彼は人手に付され給うべきではなかったので反対の空気の少なきガリラヤに往き給うたのである。
2-3-1 サマリヤに於けるイエスの伝道
4:4 - 4:432-3-1-イ イエスとサマリヤ女との対話
4:4 - 4:26
4章4節 サマリヤを經ざるを得ず。[引照]
口語訳 | しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。 |
塚本訳 | しかし(ガリラヤへ行くのに)サマリヤを通らねばならなかった。 |
前田訳 | しかし彼はサマリアを通らねばならなかった。 |
新共同 | しかし、サマリアを通らねばならなかった。 |
NIV | Now he had to go through Samaria. |
註解: これが順路であった。潔癖なるユダヤ人らはサマリヤ人を忌みてペレアを迂回するものもあった。
4章5節 サマリヤのスカルといふ町にいたり給へるが、この町はヤコブその子ヨセフに與へし土地に近くして、[引照]
口語訳 | そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、 |
塚本訳 | そして、サマリヤのスカルという町のそばまで来られた。ヤコブがその子ヨセフに与えた地所の近くで、 |
前田訳 | そこで、スカルというサマリアの町へ来られた。それはヤコブが子のヨセフに与えた土地の近くであった。 |
新共同 | それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 |
NIV | So he came to a town in Samaria called Sychar, near the plot of ground Jacob had given to his son Joseph. |
註解: スカルは創33:19以下にしばしばあらわれるシケムの町(今のナブルース)ではなく(G1、M0、Z0)その東南の小村(今のアスカ)である。シケムをヤコブがヨセフに与えし記事は創48:22を見よ(創48:22に「一つの分け前」とあるは原語シケムで旧約聖書に数多き二義兼用である)。
4章6節 此處にヤコブの泉あり。[引照]
口語訳 | そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。 |
塚本訳 | そこには(有名な)ヤコブの井戸があった。旅に疲れたイエスは、いきなり井戸のわきに腰をおろされた。昼の十二時ごろであった。 |
前田訳 | そこにはヤコブの泉があった。さて、イエスは旅に疲れて無造作に泉のほとりにすわられた。時は正午ごろであった。 |
新共同 | そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。 |
NIV | Jacob's well was there, and Jesus, tired as he was from the journey, sat down by the well. It was about the sixth hour. |
註解: この泉の伝説(12節)は旧約聖書に記されていないけれども、この名称がある処を見ると古い伝説であろう。この泉(同時に井戸であった。▲原語は、「泉」と「井戸」とを区別している。11節)は深い井戸であって、今も七十余尺の深さを有ち、以前は一層深かったとのことである。
イエス旅路に疲れて泉の傍らに坐し給ふ、時は第六時頃なりき。
註解: イエスもその疲れ給うことにおいて我らと同じ肉体を有ち給うた。第六時はユダヤの時刻で正午に当っている。日の真盛りであって疲労と渇きを覚ゆる時であった。
4章7節 サマリヤの或女、水を汲まんとて來りたれば、イエス之に『われに飮ませよ』と言ひたまふ。[引照]
口語訳 | ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。 |
塚本訳 | 一人のサマリヤの女が水を汲みに来る。「飲ませてくれないか」とイエスが女に言われた。 |
前田訳 | ひとりのサマリアの女が水を汲みに来る。イエスは彼女に、「水を飲ませてください」といわれる。 |
新共同 | サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 |
NIV | When a Samaritan woman came to draw water, Jesus said to her, "Will you give me a drink?" |
註解: 水を汲まんとて来れる女の心にはこの世の物質的生活以外に何もなかった。ユダヤ人とは相敵視していたサマリヤ人すらイエスの愛はこれを区別し給わなかった。イエスはまず卑下りて求むる者の地位に自己を置き、これによりて求めらるも彼女の誇りの空しきを示さんとし給う。
4章8節 弟子たちは食物を買はんとて町にゆきし(故)なり。[引照]
口語訳 | 弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。 |
塚本訳 | 弟子たちは食べ物を買いに、町に行っていたのである。 |
前田訳 | 弟子たちは町へ食料を買いに出かけていた。 |
新共同 | 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 |
NIV | (His disciples had gone into the town to buy food.) |
註解: イエスが女に水を飲ませよと要求し給いし理由は弟子の不在で水を与える人がいないからであった。「故」の字、原文にあるゆえ存する方が明瞭である。
4章9節 サマリヤの女いふ『なんぢはユダヤ人なるに、如何なればサマリヤの女なる我に、飮むことを求むるか』これはユダヤ人とサマリヤ人とは交りせぬ故なり。[引照]
口語訳 | すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。 |
塚本訳 | サマリヤの女が言う、「ユダヤ人のあなたが、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲み物をお求めになるのです。」(女が不審に思ったのは、)ユダヤ人はサマリヤ人と交際をしないからである。 |
前田訳 | サマリア人の女はいう、「ユダヤ人なのに、どうしてサマリア女のわたしから飲み物をお求めですか」と。ユダヤ人はサマリア人と付きあわなかったからである。 |
新共同 | すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 |
NIV | The Samaritan woman said to him, "You are a Jew and I am a Samaritan woman. How can you ask me for a drink?" (For Jews do not associate with Samaritans. ) |
註解: イエスの容貌、言語、衣服等によりてそのユダヤ人なることを女は認めたのであろう。しかしこの女の目には水を求むる憐れむべきユダヤ人を見るのみで、生命の水を与えんとするイエス・キリストそこに在すことをさとらなかった。ゆえに女はこのユダヤ人の態度を普通のユダヤ人と異なることにやや奇異の感に打たれたのである。ユダヤ人とサマリヤ人とが交わりをしない理由は紀元前722年ユダヤ人の主要部分はバビロンに移され、その代わりに各種の異邦人がサマリヤに移され、残されし小部分のものはこれらの他種族と雑居し、また雑婚することによりてその血統と信仰を乱した(U列17:24以下、エズ4:2以下)。その結果バビロンより帰り来れるユダヤ人はサマリヤ人と交わることをせず、ついに強き反感がその間に生じ、サマリヤ人は別にゲリジム山に神殿を築きて礼拝しエルサレムに上らなかった。
4章10節 イエス答へて言ひ給ふ『なんぢ若し神の賜物を知り、また「我に飮ませよ」といふ者の誰なるを知りたらんには、之に求めしならん、さらば汝に活ける水を與へしものを』[引照]
口語訳 | イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。 |
塚本訳 | イエスは答えられた、「もし神の(賜わる最上の)賜物が何であるか、『飲ませてくれないか』と(今)あなたに言っている者がだれであるかがあなたにわかっていたら、あなたの方からその人に頼み、その人があなたに清水[命の水]を与えたであろうに。」 |
前田訳 | イエスは答えられた、「もし神の賜物が何であり、飲み物を下さいというのがだれであるかを知れば、あなたこそ彼に願い、彼はあなたにいのちの水を与えたでしょう」と。 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 |
NIV | Jesus answered her, "If you knew the gift of God and who it is that asks you for a drink, you would have asked him and he would have given you living water." |
註解: 物質的生活以外に何物もなきサマリヤ女の心を徐々に開きて、その中に求むる心を起さしめ給うイエスの巧みなる話法に注意すべし。「神の賜物」はイエス彼自身を指す(C1、S0)。神はその独り子を賜う程に世を愛し給うことを、人は知らないでいる。もしこのサマリヤ女がその前に坐するユダヤ人が神より人類に賜われる賜物なる神の独り子であることと、その人がキリストすなわち、人類の救い主メシヤに在し給うことを知ったならば彼女の態度は変らなければならない。(世の人がキリストに来ないのはキリストの本質を知らないからである。)而して彼は求めに応じて反対に彼女に活ける水を与うる地位に立ち給うであろう。「活ける水」は本来溜り水の反対で湧き出でて流れる水を意味しており(創26:19。レビ14:5)、イエスはさらにこれにその霊的意味を含ましめ、これを聖霊の意味に解している(ヨハ7:37−39)。聖霊による新生の意義が自らここにその片影を宿している(ヨハ4:14節註参照)。
辞解
[神の賜物] ほとんど大部分の学者はこれを「活ける水」と解し(A1、B1、E0、G1、Z0)、少数は「一般的の神の恵み」と解する(L2、M0、D0)。これらの説によらざらる理由は女がイエスに求むるように立至るべき原因は、イエスの神の賜物にして人類の救い主たることを知るにあり、求めし結果与えられるものが「活ける水」であるからである。「活ける水」の霊的意味もさらに多種多様に解せられている。L2参照。
4章11節 女いふ『主よ、なんぢは汲む物を持たず、井は深し、その活ける水は何處より得しぞ。[引照]
口語訳 | 女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。 |
塚本訳 | 女が言う、「主よ、あなたは釣瓶も持たれず、(この辺は)井戸も深いのに、どこからその清水を汲んで来られるのですか。 |
前田訳 | 彼女はいう、「主よ、桶もお持ちでなく、井戸も深いのにどこからそのいのちの水をお汲みになりますか。 |
新共同 | 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 |
NIV | "Sir," the woman said, "you have nothing to draw with and the well is deep. Where can you get this living water? |
註解: 汲むものなきイエスを見て彼女が怪しむは無理なきことである。同様に人としてのイエスは見栄えなきイエスであり(イザ53:2、3)また彼には用うべき力もなく、孤立無援であった。ゆえに目に見ゆる事情のみを見る人にとってはキリスト御自身が活ける水の持主に在し給うことを知ることができない。我らは肉によりてイエスを知ることは誤りである(Uコリ5:16)。
4章12節 汝はこの井を我らに與へし我らの父ヤコブよりも大なるか、彼も、その子らも、その家畜も、これより飮みたり』[引照]
口語訳 | あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。 |
塚本訳 | あなたはわたし達の先祖ヤコブよりもえらいのでしょうか。(まさかそうではありますまい。)彼のおかげで、わたし達のこの井戸もあるのです。彼も、その子たちも、家畜も、この井戸から飲みました。」 |
前田訳 | われらの先祖ヤコブよりあなたはお偉いのですか。彼はわれらにこの井戸を与え、彼自らもその子たちも家畜もその水を飲みました」と。 |
新共同 | あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 |
NIV | Are you greater than our father Jacob, who gave us the well and drank from it himself, as did also his sons and his flocks and herds?" |
註解: 彼女は淫奔なる生活をなしつつも(17、18節)、なおその始祖ヤコブについて誇っていた。伝統的信仰はこれを信ずる者の特性とは無関係なことが多い。而して伝統に固着している者はイエスを受入れることができない。
辞解
[我らの父] サマリヤ人はその祖先がヤコブであると信じていた。
[家畜] トレムマタ thremmata は「家僕」をも含むと解する説もある。
4章13節 イエス答へて言ひ給ふ『すべて此の水をのむ者は、また渇かん。[引照]
口語訳 | イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 |
塚本訳 | イエスは答えられた、「この(井戸の)水を飲む者はだれでもまた渇くが、 |
前田訳 | イエスは答えられた、「だれでもこの水を飲むものはまた渇くが、 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 |
NIV | Jesus answered, "Everyone who drinks this water will be thirsty again, |
4章14節 されど我があたふる水を飮む者は、永遠に渇くことなし。[引照]
口語訳 | しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 |
塚本訳 | わたしが与える水を飲む者は永遠に渇かない。そればかりでなく、わたしが与える水は、その人の中で(たえず)湧き出る水の泉となって、永遠の命に至らせるであろう。」 |
前田訳 | わたしが与える水を飲むものは永遠に渇かず、わたしが与える水は彼のうちに湧き水の泉となって永遠のいのちに至らせよう」と。 |
新共同 | しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 |
NIV | but whoever drinks the water I give him will never thirst. Indeed, the water I give him will become in him a spring of water welling up to eternal life." |
註解: イエスの与うる処のものはこの世の物質条件(11節)や伝統的宗教(12節)の与うる処のものとは異なっている。これらのものは我らの肉の渇きを一時充たすのみで霊の渇きを永遠に充たすことができない。然るにイエスの与え給うものは我らの渇きを永遠に癒し、我らを永久に満足せしむる処のものである。「もしそれでもなお渇きを覚えるならば、それは水のためではなく我らの方に欠陥があるからである。」(B1)。
わが與ふる水は彼の中にて泉となり、永遠の生命の水湧きいづべし』
註解: 私訳「わが与うる水は彼の中にて湧き出づる水の泉となりて永遠の生命に至るべし。」キリストを信ずるものは聖霊が与えられる(ヨハ7:39)。これはあたかも湧き出づる泉のごとくに永久に霊の渇きを癒し、ついにはこれが永遠の生命となるのである。信仰により霊によりて新生せるものは永遠の生命を得る(ヨハ3:15、16)。ここに新生命はその源はキリスト、流れは信者のこの世の生命、而して終りは永生に流入する水にたとえられている。
4章15節 女いふ『主よ、わが渇くことなく、又ここに汲みに來ぬために、その水を我にあたへよ』[引照]
口語訳 | 女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。 |
塚本訳 | 女が言う、「主よ、その水を下さい。(二度と)渇くことがないように、またここに汲みに来なくてもよいように。」 |
前田訳 | 女はいう、「主よ、その水を下さい、これから渇かないように、またここに汲みに来なくてよいように」と。 |
新共同 | 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」 |
NIV | The woman said to him, "Sir, give me this water so that I won't get thirsty and have to keep coming here to draw water." |
註解: 女の要求しているものはなお物質的慾望に過ぎなかった。すなわち再び渇きを覚えぬことと、再び汲みに来る労を要せぬことは彼女の願いであった。利益を目的とする宗教はみなこの類である。ただしイエスはこの女をしてついに「我に与えよ」との言を発せしめ給うた。これイエスの初めに言い給いし御言であって(7節)、ここに始めて求むる者の地位が転換した。
4章16節 イエス言ひ給ふ『ゆきて夫をここに呼びきたれ』[引照]
口語訳 | イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。 |
塚本訳 | イエスが言われる、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」 |
前田訳 | イエスはいわれる、「夫をここに呼んで来なさい」と。 |
新共同 | イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 |
NIV | He told her, "Go, call your husband and come back." |
註解: イエス・キリストを受け彼を信ぜんためにはまず己の罪を知らなければならない。物質的利益を得んとの希望よりキリストを信ずることはできない。ゆえにイエスはまずこの女の罪を指摘して彼女を悔改めしめんとした。イエスは彼女の不倫の生活を洞見し給うたからである。
4章17節 女こたへて言ふ『われに夫なし』イエス言ひ給ふ『夫なしといふは宜なり。[引照]
口語訳 | 女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。 |
塚本訳 | 女が答えた、「わたしには夫はありません。」イエスが言われる、「『わたしには夫はありません』と言うのは、もっともだ。 |
前田訳 | 女は答えた、「わたしに夫はありません」と。イエスはいわれる、「夫がないとはもっともだ。 |
新共同 | 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 |
NIV | "I have no husband," she replied. Jesus said to her, "You are right when you say you have no husband. |
4章18節 夫は五人までありしが、今ある者はなんぢの夫にあらず。無しと云へるは眞なり』[引照]
口語訳 | あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。 |
塚本訳 | 五人の夫とは別れ、今のは、あなたの夫ではないのだから。あなたの言ったことは本当だ。」 |
前田訳 | 五人の夫があったが、今あるのはあなたの夫ではない。あなたがいったことは本当だ」と。 |
新共同 | あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 |
NIV | The fact is, you have had five husbands, and the man you now have is not your husband. What you have just said is quite true." |
註解: この女のこれまでの生涯は淫蕩そのものであった。五人までも夫を更えたこと(その中に死亡せるものありや、また如何なる原因にて離婚せりや等は不明であるけれども、文章の語気よりいえば香しからざる関係を想像せしめる)は、彼女の貞淑な婦人でなかった証拠であり「現在の夫は真の夫ではなく彼女はその妾であった」(Z0)、これらの恥ずべき彼女の生涯が、イエスの霊眼によって暴露されたのである。彼女の驚きはいかに深かったことであろうか。我らもまたキリストの前に立つとき我らのすべての罪はかくのごとくに暴露されるであろう。「無しと言えるは真なり」は一つの皮肉であって、女は言語の上よりは真実を語りつつ、その罪の事実を隠蔽せんとしたのであった。これに対してイエスは言語の上よりは讃辞を与えつつ、事実上彼女を非難し給うた。この対話のいかに溌剌たる生命に満ちていたかを見よ。
辞解
[五人の夫] これをサマリヤの五種の異種族の神を意味すという説あれど取るに足りない。
4章19節 女いふ『主よ、我なんぢを預言者とみとむ。[引照]
口語訳 | 女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。 |
塚本訳 | 女が(びっくりして)言う、「主よ、わかりました、あなたは預言者です。 |
前田訳 | 女はいう、「主よ、わかりました、あなたは預言者です。 |
新共同 | 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 |
NIV | "Sir," the woman said, "I can see that you are a prophet. |
註解: 自己の罪を凡て洞見し給いしイエスを普通の人間であるとは思うことができなかった。これイエスを一ユダヤ人として軽蔑せる彼女の心に大なる変化を来した証拠である。
4章20節 我らの先祖たちは此の山にて拜したるに、汝らは拜すべき處をエルサレムなりと言ふ』[引照]
口語訳 | わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。 |
塚本訳 | (それでお尋ねしたいのですが、)わたし達の先祖はこの(ゲリジム)山で(神を)礼拝したのに、あなた達(ユダヤの人)は、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。(どういう訳でしょうか。)」 |
前田訳 | ところで、われらの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなた方は礼拝すべきところはエルサレムといわれます」と。 |
新共同 | わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 |
NIV | Our fathers worshiped on this mountain, but you Jews claim that the place where we must worship is in Jerusalem." |
註解: 彼女はまず前節の讃辞をイエスに呈して後、その夫に関する話題をそらしてユダヤ人とサマリヤ人との間の宗教争論の中心問題であった礼拝の場所に関する問題をイエスに提出した。かく話題を転じた目的は彼女の良心の苛責を深めることを好まなかったからであろう。人は何事よりも自己の良心の苛責を恐れ、あらゆる手段をもってこれを免れんとする。(この話題を転ずる動機については異見あり。(1)彼女の罪を懺悔する場所を知らんがため、(2)次節以下の主の御言を引出さんがため、(3)預言者に向って発すべき最も自然なる質問等(G1、M0参照)。)
辞解
[此の山] ゲリジム山、ヨハ4:9節註参照。
4章21節 イエス言ひ給ふ『をんなよ、我が言ふことを信ぜよ、此の山にもエルサレムにもあらで、汝ら父を拜する時きたるなり。[引照]
口語訳 | イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 |
塚本訳 | イエスが言われる、「女の人、わたし(の言葉)を信じなさい。(間もなく)あなた達が、この山でもエルサレムでもなく(どこででも、)父上を礼拝する時が来る。 |
前田訳 | イエスはいわれる、「わたしを信じなさい、女の方、この山でもエルサレムでもなく父を拝する時が来る。 |
新共同 | イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 |
NIV | Jesus declared, "Believe me, woman, a time is coming when you will worship the Father neither on this mountain nor in Jerusalem. |
註解: イエスはこの女の質問を捉えて21−24節において真の礼拝について語り給う。まず「をんなよ」と呼びかけて彼女が空論をもって話頭を転ぜんとするその心を引き締め、「我を信ぜよ」(私訳)と言いてその語らんとすることの真なることを示し、而して後まず第一に拝むべき場所とその礼拝の対象とを示し給うた。すなわち場所はゲリジムとかエルサレムとかのごとき限られた場所ではなく、或は屋内の密室において或は歩行の途上において、至る処に礼拝すべき場所がある(Tテモ2:8)。而して礼拝の対象はユダヤ人のみの神ではなく人類の「父」である。イエスはこの簡単平易なる語の中にユダヤ教に対する革命的思想を宣言し給うた。而してかかる「時」が来るべきことを示し給う。
辞解
[汝ら] 異説あれど「人類一般」と解することが最も適当であろう(G1)。
4章22節 汝らは知らぬ者を拜し、我らは知る者を拜す、救はユダヤ人より出づればなり。[引照]
口語訳 | あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。 |
塚本訳 | ただ(同じ神を、)あなた達は知らずに礼拝し、わたし達は知って礼拝している。救いはユダヤ人から出る(のでわたし達だけに神が示された)からである。 |
前田訳 | あなた方は知らぬものを拝し、われらは知るものを拝する。救いは(われら)ユダヤ人からのゆえに。 |
新共同 | あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 |
NIV | You Samaritans worship what you do not know; we worship what we do know, for salvation is from the Jews. |
註解: ここにも「汝ら」は「人類一般」と解し「我ら」はキリストにより真の神を知るに至りし者と解するのを可とする。21節以下においてのキリストの御言は極めて一般的真理を語り給えるものと解すべきである。すなわち救いはユダヤ人より出づとの預言が成就して(イザ2:1−5。ルカ2:30−32)キリスト来り給い、神をあらわし給いし結果(ヨハ1:18)、これまで神を見しことなく、従って神を知らざる人類一般(同上)が神を知りてこれを拝するに至っている。これ礼拝の根本的革命である。神を真に知らざりし結果ユダヤ人はエルサレムにおいてこれを礼拝すべしとなり、サマリヤ人はゲリジムにおいてこれを拝すべしとなり、異邦人は偶像を拝した。今やこれらがみなその意味を失う時が来たのである。(注意)ほとんど凡ての学者は上記の解釈とその見解を異にし「汝ら」をサマリヤ人「我ら」をユダヤ人と解し、ユダヤ人はアブラハム以後多くの預言者によりて神を知り、サマリヤ人はこれを知らなかったと解している。余は上記の解釈をヒルゲンフェルドの説としてG1中に揚げられているのを見出しただけである。
4章23節 されど眞の禮拜者の、靈と眞とをもて父を拜する時きたらん、今すでに來れり。父はかくのごとく拜する者を求めたまふ。[引照]
口語訳 | しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。 |
塚本訳 | しかし(ユダヤ人もサマリヤ人もなく、)本当の礼拝者が霊と真理とをもって父上を礼拝する時が来る。いや、今もうきている。父上もこんな礼拝者を求めておられるのである。 |
前田訳 | しかし、真の礼拝者が霊と真で父を拝する時が来る。否、もう来ている。父もこのように彼を拝するものを求めたもう。 |
新共同 | しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 |
NIV | Yet a time is coming and has now come when the true worshipers will worship the Father in spirit and truth, for they are the kind of worshipers the Father seeks. |
註解: 次にイエスは礼拝の心持につき革命的な断定を下し給うた。従来はイスラエルの国民宗教であり、一定の時刻に一定の場所において一定の儀式をもって一定の祭司の下に、習慣的規則的に礼拝が行われていたのを、今後はこれらの凡てが取除かれ、唯純粋に霊の働きと(ロマ1:9)真実の心とをもって父なる神を拝し奉る時が今すでに来たのである。何となればイエスはそのために来り給うたからである。而して父の求め給う者は子の心をもってするかかる礼拝者である。「霊の内的聖殿において為される礼拝は唯一の真の礼拝である。何となればこれのみが神の本質に叶うが故である。」(G1)。
4章24節 神は靈なれば、拜する者も靈と眞とをもて拜すべきなり』[引照]
口語訳 | 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。 |
塚本訳 | 神は霊である。だから礼拝者も霊と真理とをもって礼拝せねばならない。」 |
前田訳 | 神は霊にいます。ゆえに拝するものも霊と真で拝すべきである」と。 |
新共同 | 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 |
NIV | God is spirit, and his worshipers must worship in spirit and in truth." |
註解: 神の霊に在すことはユダヤ人もサマリヤ人もこれを知っていた。然るに彼らはこの神に対し形式的礼拝を行っていたのである。ゆえに凡てこれらの形式と伝統とを離れ、唯霊と真とのみの礼拝をささぐることが神の本質に対する当然の態度である。イエスおよびその弟子たちは今やかかる信仰の下に従来の信仰に対し革命的態度に出でなければならない立場に立っていた。それ故にイエスはこの最深の真理をサマリヤの女に語り給うた。
4章25節 女いふ『我はキリストと稱ふるメシヤの來ることを知る、彼きたらば諸般のことを我らに告げん』[引照]
口語訳 | 女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。 |
塚本訳 | 女が言う、「キリストと言われる救世主が来ることは知っています。救世主が来れば、わたし達に何もかも知らせてくださるでしょう。」 |
前田訳 | 女はいう、「キリストといわれるメシアが来ることを知っています。彼が来ると、すべてをわれらに告げるでしょう」と。 |
新共同 | 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 |
NIV | The woman said, "I know that Messiah" (called Christ) "is coming. When he comes, he will explain everything to us." |
註解: サマリヤ人も創15章、民24章、申18:15等によりメシヤの来臨について聞き知っており、かかる重大なる問題を明らかにせんためにメシヤの来ることを望んでいた。けれどもイエスをそれと信ずることができなかった。
4章26節 イエス言ひ給ふ『なんぢと語る我はそれなり』[引照]
口語訳 | イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。 |
塚本訳 | イエスは言われる、「あなたと話しているわたしが、それだ。」 |
前田訳 | イエスはいわれる、「あなたと語るわたしがそれです」と。 |
新共同 | イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」 |
NIV | Then Jesus declared, "I who speak to you am he." |
註解: ここにイエスはついに14節の誰なるかの質問に対する解答を与え給うた。罪人なりしサマリヤのこの女はかくして最も重大なる真理をイエスの口より学ぶことができたのである。
要義1 [イエスとその宗教]従来の宗教より見てイエスの我らに与え給える宗教は種々の点において革命的であった。彼の宗教は霊と真とをもって神を拝する宗教であって、従って(1)「霊」にあらざる形式は彼にとって不必要であった。礼拝の場所の如何や、その形式の如何は問題ではなかった。もし霊と真とをもって神を礼拝するならば、旧教教会において拝するも、新教教会において拝するも、あるいはまた教会以外において拝するも同じことである。また聖礼典に与るや否や、また如何なる形式において与るや等は問題ではない。(2)「真」にあらざること、すなわち虚偽や空虚なる心をもって神を拝することは彼にとっては罪であった。従って真の心より出でざる祈り、愛心より出でざる慈善等は神に対する冒涜であった。(3)イエスは神の経綸とその預言とを無視し給わなかった結果、ユダヤ人を特に神の選民と考え給うたにもかかわらず、彼はユダヤ人通有の人種的偏見を超越し給うた。彼がサマリヤ人と自由に語り、自由に交わり給えることにより、彼がいかに旧来の悪習慣を破り給いしかを知ることができる。
要義2 [イエスの伝道法]イエスがまず己を低くして彼女に近付き給い(7節)次に彼女の物質的慾求を利用してその心に求むる念を起さしめ(15節)次に彼女にその罪を示してまず悔改めに至らしめ(18節)ここに始めて真の礼拝の如何なるものかを教えて(23、24節)ついに御自身のメシヤなることを示し給いし(25節)その順序は実に我らの回心の経路の多くの場合に類似しているのであって、イエスがその霊をもて我らに近付き給う場合にも、この順序を踏み給うことが多いことに注意すべきである。
2-3-1-ロ イエスと弟子との対話
4:27 - 4:38
4章27節 時に弟子たち歸りきたりて、女と語り給ふを怪しみたれど、何を求め給ふか、何故かれと語り給ふかと問ふもの誰もなし。[引照]
口語訳 | そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった。 |
塚本訳 | とかくするうちに弟子たちがかえって来て、イエスが女と、(しかもサマリヤの女と)話しておられるのを(見て、)不思議に思った。それでも「何か御用で」とか、「何を話しておられますか」とたずねる者はなかった。 |
前田訳 | そこへ弟子たちが来て、イエスが女と話しておられるのにおどろいた。しかしだれも「何のご用で」とか「何をお話しで」とかいわなかった。 |
新共同 | ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。 |
NIV | Just then his disciples returned and were surprised to find him talking with a woman. But no one asked, "What do you want?" or "Why are you talking with her?" |
註解: ユダヤ人らは途上において婦人と語ることを恥辱不作法と考えた(己の妻とすらも)(S2)。いわんや彼らの卑んでいたサマリヤの女と語ることはなおさらである。しかしながらこれを怪しむことは誤りであった。何となればイエスは如何なる人種をも如何なる罪人をも神の子となすを得給うからである。ただし彼らが濫りに問いを発しなかったことはイエスに対する尊敬の当然の結果であった。「神やキリストの行為や言葉に気に入らないものがあった場合に我らは謙遜に沈黙を守り、隠れたることが上より啓示されるのを待つべきである。」(C1)。
4章28節 ここに女その水瓶を遺しおき、町にゆきて人々にいふ、[引照]
口語訳 | この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、 |
塚本訳 | すると女は水瓶を置いたまま町に行って、人々に言う、 |
前田訳 | 女は瓶を置いて町へ立ち去り、人々にいった、 |
新共同 | 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 |
NIV | Then, leaving her water jar, the woman went back to the town and said to the people, |
註解: 彼女は自分の水瓶を固く握りしめてこれに水を満たさしめんとする自己中心の態度、すなわちキリストを自己の智慧、知識、悟性の中に入れてしまおうとする態度が全く失せて、唯キリストを見出したことの歓喜に溢れていた。
4章29節 『來りて見よ、わが爲しし事をことごとく我に告げし人を。この人あるいはキリストならんか』[引照]
口語訳 | 「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。 |
塚本訳 | 「さあ来て御覧なさい、わたしのしたことを何もかも言いあてた人がいる。もしかしたら、この人は救世主ではないでしょうか。」 |
前田訳 | 「来てごらんなさい、わたしがしたことを皆いい当てた人がいます。この人がキリストではないでしようか」と。 |
新共同 | 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 |
NIV | "Come, see a man who told me everything I ever did. Could this be the Christ ?" |
註解: 彼女の歓喜と驚駭とを彼女は黙止するに忍びなかった。信仰の結果は常にかくのごとくであらねばならぬ。彼女はその内心の驚きの理由を示して同時に人々をキリストに導いた。「この人キリストならんか」(▲原文「まさか此の人はキリストではあるまいね!」というような口調)と言いて断定を避けたのは、彼女がかかる事柄につき断定すべき地位にいなかったからであろう。
要義 [サマリヤの女の回心]サマリヤの女の心の変化もまた教訓に富める経路を辿っているのであって、始めにイエスを単に指弾すべきユダヤ人と考え(8節)、次にイエスの答に接してもなおイエスの無力(11節)と自己の保持する伝統(12節)とを楯にしてイエスを蔑視していた。唯彼女の心に物質的慾求が旺んであったために、渇くことなき永遠の生命の水を与うべしとのイエスの御言をききてこれを与えられんことを乞うた(15節)。けれども彼の女の心は自己の利益以外に出でなかった。ここにおいてイエスは痛く彼女の良心を刺し給うた結果(18節)女はその話題を転じ、議論に事寄せてその良心の苦悩を忘れんとした(20節)。イエスはこの機会を利用して女に真の礼拝の如何と、そのメシヤに在し給うことを告げ(21−26節)給いし結果、遂に彼の女の心開かれ、これまでの自分中心をすてて(28節)ついにイエスをキリストと信じてこれを人にも伝うるに至った(29節)。
4章30節 人々町を出でてイエスの許にゆく。[引照]
口語訳 | 人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。 |
塚本訳 | 人々が町を出て、イエスの所に来た。 |
前田訳 | 人々は町を出てイエスのところへ来た。 |
新共同 | 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。 |
NIV | They came out of the town and made their way toward him. |
註解: 彼女の態度とその語る処の真剣さに動かされたのであろう。いかに無智なるなる者でも、またいかに罪深き者でも、その救いの体験よりキリストを証する時は人を動かすことができる。「ゆく」は「きたる」と訳すべきで、彼らがイエスの方に来りつつある光景を髣髴せしめる。
4章31節 この間に弟子たち請ひて言ふ『ラビ、食し給へ』[引照]
口語訳 | その間に弟子たちはイエスに、「先生、召しあがってください」とすすめた。 |
塚本訳 | その間に弟子たちが、「先生、お食事を」と催促すると、 |
前田訳 | その間に弟子たちはイエスに「先生(ラビ)、お食事を」と勧めた。 |
新共同 | その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、 |
NIV | Meanwhile his disciples urged him, "Rabbi, eat something." |
註解: 「この間に」は女町に帰りて人々を呼びて来る間に。
4章32節 イエス言ひたまふ『我には汝らの知らぬ我が食する食物あり』[引照]
口語訳 | ところが、イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。 |
塚本訳 | 言われた、「わたしにはあなた達の知らない食べ物がある。」 |
前田訳 | 彼はいわれた、「わたしにはあなた方の知らない食べ物がある」と。 |
新共同 | イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。 |
NIV | But he said to them, "I have food to eat that you know nothing about." |
註解: このユダヤ人にあらざるサマリヤ女の回心はイエスにとりて初めての経験であった。これを見てイエスの心は喜びに充ちたことは察するに余りある。人に霊の糧を与うるの歓喜はイエスをしてその肉の飢えを忘れしむるに充分であった。我らも霊の喜びに溢れる時肉体的快楽を追求する心は自ら消失する。
4章33節 弟子たち互にいふ『たれか食する物を持ち來りしか』[引照]
口語訳 | そこで、弟子たちが互に言った、「だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのであろうか」。 |
塚本訳 | すると弟子たちが互に言った、「だれも食べる物を持ってくるはずはないのに。」 |
前田訳 | そこで弟子たちは互いにいった、「だれも食べ物を持って来たはずはないのに」と。 |
新共同 | 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 |
NIV | Then his disciples said to each other, "Could someone have brought him food?" |
註解: 誰も持ち来たりしはずがないとの意味を含む。
4章34節 イエス言ひ給ふ『われを遣し給へる者の御意を行ひ、その御業をなし遂ぐるは、是わが食物なり。[引照]
口語訳 | イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。 |
塚本訳 | イエスが言われる、「わたしの食べ物は、わたしを遣わされた方の御心を行い、(任せられた)お仕事を成しとげることだ。 |
前田訳 | イエスはいわれる、「わが食べ物はわたしをつかわされた方のみ心を行ない、そのわざを全うするにある。 |
新共同 | イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。 |
NIV | "My food," said Jesus, "is to do the will of him who sent me and to finish his work. |
註解: イエスの生涯は自己の快楽や満足のために費されたことは一切なく、唯「父なる神の御意を行うこと」すなわち罪の赦しの福音を世に伝え、人の心身の病を癒し給うことと、「その御業をなし遂ぐること」すなわち十字架に釘きてその苦痛を受け、贖いの御業を成就し給うこととが彼の生活であったのみならず、また彼の食物であった。これなしに彼は生くることができず、これありて彼の心は歓喜に充たされ、彼の飢えは飽かしめられた。キリスト者もかくあるべきである。
辞解
[行ひ、遂ぐる] 「行ひ」は現在動詞、「遂ぐる」は未来動詞を用いている。
4章35節 なんぢら收穫時の來るには、なほ四月ありと言はずや。(視よ)我なんぢらに告ぐ、目をあげて畑を見よ、はや黄ばみて收穫時になれり。[引照]
口語訳 | あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。 |
塚本訳 | あなた達のあいだでは『刈入れの時の来るにはまだ四月』と言うではないか。しかしわたしは言う、目をあげて畑を見てごらん。(麦畑の間を押し寄せてくるあのスカルの人たちを!)畑は黄ばんで刈入れを待っている。 |
前田訳 | あなた方はいうではないか、『取入れが来るまでまだ四か月』と。しかしわたしはいう、目をあげて畑を見よ。色明るく取入れを待っている。 |
新共同 | あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、 |
NIV | Do you not say, `Four months more and then the harvest'? I tell you, open your eyes and look at the fields! They are ripe for harvest. |
註解: パレスチナにおいては大体四月半ばが収穫時である。(地方により小差あり)それ故に逆に推算すればこの時はちょうど十二月半頃であった。麦は十月半頃に蒔かれこの頃はすでに麦畑は青々と波打っていたのであろう。弟子たちは「もう四ヶ月たてば収穫時である」と話し合っていたことであろう。ちょうどこの時スカルの町から多くの群衆がこの緑の野を通ってこの方をめがけて来るのが見えた。イエスは彼らを指して弟子たちに向い「視よ、霊界の収穫は四ヶ月を待たない、今サマリヤの女の心に蒔いた種ははや黄みて、収穫時になっているではないか」と言い給うたのである。
辞解
[収穫時来るにはなほ四月あり] 一つの俚諺と見る学者があるけれども(A1、E0、G2)、かかる諺があったことの確証は挙げることができない。「四ヶ月」すなわちこの時十二月半ばであったとすれば、イエスはエルサレムにペンテコステより約八ヶ月間滞在し給うたこととなる。
[視よ] 原文にあり改訳にこれを欠いたのは誤り。
4章36節 刈る者は價を受けて永遠の生命の實を集む。播く者と刈る者とともに喜ばん爲なり。[引照]
口語訳 | 刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。 |
塚本訳 | すでに、刈る人は報酬を受けている。すなわち永遠の命にいたる実を集めている。まく人も刈る人も、同時に喜ぶためである。 |
前田訳 | すでに刈り手は報酬を受け、永遠のいのちへの実を集めている。まくものが刈るものとともによろこぶためである。 |
新共同 | 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。 |
NIV | Even now the reaper draws his wages, even now he harvests the crop for eternal life, so that the sower and the reaper may be glad together. |
註解: 刈る者の受くる價は救われし魂であって「実」そのものである。而してこの実は永遠の生命に至るの実であって、麦のごとく再び死滅する実ではない。この実を得て喜ぶは刈る者の幸福である。而してイエスの特に喜び給えることは、播くものであったイエスと刈る者である弟子とがこの場合には共に喜び得ることであった。
4章37節 俚諺に、彼は播き此は刈るといへるは、斯において眞(なれば)なり。[引照]
口語訳 | そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。 |
塚本訳 | 『まく人、刈る人、別の人』という諺は、そのままここに当てはまるからである。 |
前田訳 | ここに、『まくものと刈るものは別』との諺が当てはまる。 |
新共同 | そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。 |
NIV | Thus the saying `One sows and another reaps' is true. |
註解: 前節においてイエスと弟子たちが共に喜び得しことを、特別に喜ばしきことと為し給える理由は、この俚諺のごとく、多くは播く者と刈る者とは別人で、当然得べき利益を他人に奪われて悲しむ場合が多いのに、福音の伝道においてはこの播く者と刈る者とが別人でありながら共に喜ぶことができるからである。すなわちこの俚諺の意味を変更して霊界に適用したのである。
4章38節 我なんぢらを遣して、勞せざりしものを刈らしむ。他の人々さきに勞し、汝らはその勞を收むるなり』[引照]
口語訳 | わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。 |
塚本訳 | (すなわち)わたしはあなた達をやって、あなた達が自分で苦労しなかったものを刈り取らせる。ほかの人々が苦労し、あなた達はその苦労(の実)を取り入れるのである。(あなた達はわたしがまいたものを、ただ取り入れるだけでよいのだ。)」 |
前田訳 | わたしはあなた方をつかわして、あなた方自身が苦労しなかったものを刈らせる。苦労したのはほかの人で、あなた方は彼らの苦労を取り入れに来ている」と。 |
新共同 | あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」 |
NIV | I sent you to reap what you have not worked for. Others have done the hard work, and you have reaped the benefits of their labor." |
註解: 弟子たちを世界の各地に遣わす場合も今眼前に展開せんとするスカルの人々の場合と同様であって、旧約時代の先祖、預言者、ヨハネ、イエス等が(T0)長日月の間に種を蒔きて準備して来た処のものを、弟子たちが刈り取って神の国に入れ永遠の生命を得しむるのである。天国においては再び播く者と刈る者とが共に喜ぶ時があるであろう。
辞解
[他の人々] 種々の解釈あり、(1)イエス一人(M0、W2)、(2)イエス、預言者、バプテスマのヨハネ(古代師父、L2)、(3)イエスとヨハネ(G1)その他種々あり。
2-3-1-ハ イエスの福音サマリヤの伝わる
4:39 - 4:42
4章39節 此の町の多くのサマリヤ人、女の『わが爲しし事をことごとく告げし』と證したる言によりてイエスを信じたり。[引照]
口語訳 | さて、この町からきた多くのサマリヤ人は、「この人は、わたしのしたことを何もかも言いあてた」とあかしした女の言葉によって、イエスを信じた。 |
塚本訳 | さて、この町の大勢のサマリヤ人は、「あの人はわたしのしたことを何もかも言いあてた」と証しするこの女の言葉によって、イエスを信じた。 |
前田訳 | 「彼はわたしがしたことを皆いい当てた」と証した女のことばによって、この町の多くのサマリア人がイエスを信じた。 |
新共同 | さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 |
NIV | Many of the Samaritans from that town believed in him because of the woman's testimony, "He told me everything I ever did." |
註解: イエスの御言のごとく彼らは既に神の国に刈り取られた。ユダヤ人が不信仰であったのに比較して、ユダヤ人より蔑視せられしサマリヤ人がいかに喜んでイエスを受入れしかを見よ。ただしこの信仰は42節のごとき程度に至らず、他人の証を信じたる程度であった。この程度の信仰は動揺し易い。またイエスはこれを重く見給わなかった。ヨハ2:23。
4章40節 かくてサマリヤ人御許にきたりて、此の町に留らんことを請ひたれば、此處に二日とどまり給ふ。[引照]
口語訳 | そこで、サマリヤ人たちはイエスのもとにきて、自分たちのところに滞在していただきたいと願ったので、イエスはそこにふつか滞在された。 |
塚本訳 | それでサマリヤ人はイエスの所に来ると、自分たちのところに(しばらく)泊まっていてほしいと頼んだ。イエスはそこに二日泊まられた。 |
前田訳 | さて、サマリア人は彼のもとへ来ると、彼らのところに泊まるよう願った。それでイエスはそこに二日泊まられた。 |
新共同 | そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。 |
NIV | So when the Samaritans came to him, they urged him to stay with them, and he stayed two days. |
註解: これユダヤ人の伝統習慣に違反する処の行為であったにもかかわらず、イエスはかかる無意味の伝統を超越し給うた。サマリヤ人はまず彼の御許に来た。彼らはさらに彼に留まらんことを請うた。これ彼らの信仰のさらに進んだ状態を示している。我らも進んでイエスを己が心に迎えるに至ることが必要である。
4章41節 御言によりて猶もおほくの人信じたり。[引照]
口語訳 | そしてなお多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 |
塚本訳 | すると、さらに多くの人がイエスの言葉によって信じた。 |
前田訳 | すると、さらに多くの人々がイエスのことばを聞いて信じた。 |
新共同 | そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 |
NIV | And because of his words many more became believers. |
註解: 罪深き一人の女の回心とその証がかくも多くの人をキリストに導く原因となった。
4章42節 かくて女に言ふ『今われらの信ずるは、汝のかたる言によるにあらず、親しく聽きて、これは眞に世の救主なりと知りたる故なり』[引照]
口語訳 | 彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。 |
塚本訳 | そして彼らは女に言った、「われわれはもうあなたの話しで信ずるのではない。自分たちで(直接)聞いて、この方こそ確かに世の救い主だとわかったからである。」 |
前田訳 | そして女にいった、「われらはもはやあなたがいったから信ずるのではない。自ら聞いて、彼こそ真に世の救い主とわかったからである」と。 |
新共同 | 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」 |
NIV | They said to the woman, "We no longer believe just because of what you said; now we have heard for ourselves, and we know that this man really is the Savior of the world." |
註解: 信仰は間接に人の言によりて得るのみである場合は動揺し易き弱き信仰である。直接にイエスの御言を聴きて直接に彼を知りて始めて堅き信仰に達することができる。ただしここに達するには始めは間接に人の仲介によりてイエスに導かれることが必要である。我らも他人の説教や伝道によりてイエスを紹介せられただけでは不充分である。直接に御霊によりて彼に接し、彼の救い主に在すことを知らなければならない。
要義 [イエスの歓喜]エルサレムにおいて失望を経験し給えるイエスは、図らずもサマリヤにおいて大なる喜びを味わい給うた。イエスがこの喜びのためにその飢えをも忘れ給えることは、彼が人類を愛し給うその愛のいかに切であったかを示している。而して彼はさらに進んで弟子たちがその果を収穫することをこの上もなく喜び給うたのは、これやがて天国において播く者と刈る者とがその果を見て共に喜ぶ時の前兆となったからである。我らもたとい自ら蒔きし種を刈り取ることができずとも、この喜びを望んで種播と収穫とにいそしむべきである。
2-3-2 ガリラヤに於けるイエスの御業
4:43 - 4:542-3-2-イ ガリラヤ行の理由及び其の効果
4:43 - 4:45
4章43節 二日の後、イエスここを去りてガリラヤに往き給ふ。[引照]
口語訳 | ふつかの後に、イエスはここを去ってガリラヤへ行かれた。 |
塚本訳 | 二日ののち、そこを去ってガリラヤへ向かわれた。 |
前田訳 | その二日ののち彼はそこを去ってガリラヤへ向かわれた。 |
新共同 | 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。 |
NIV | After the two days he left for Galilee. |
4章44節 (そは)イエス自ら證して、預言者は己が郷にて尊ばるる事なしと言ひ給へ(る故な)り。[引照]
口語訳 | イエスはみずからはっきり、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われたのである。 |
塚本訳 | (これは前に言ったように、パリサイ人との衝突をさけるためであった。)イエス自身(かつて、)「預言者はその本国では尊敬を受けない」と、はっきり言われたことがあったからである。 |
前田訳 | イエス自身「預言者はおのが郷では敬われない」と証言されたことがある。 |
新共同 | イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。 |
NIV | (Now Jesus himself had pointed out that a prophet has no honor in his own country.) |
4章45節 [斯て](夫故に)ガリラヤに往き給へば、ガリラヤ人これを迎へたり。前に彼らも祭に上り、その祭の時にエルサレムにて行ひ給ひし事を見たる故なり。[引照]
口語訳 | ガリラヤに着かれると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。それは、彼らも祭に行っていたので、その祭の時、イエスがエルサレムでなされたことをことごとく見ていたからである。 |
塚本訳 | ところが、ガリラヤに行かれると、(予期に反して)ガリラヤ人は彼を歓迎した。これは、彼らも(過越の)祭に行ったので、イエスが祭の時にエルサレムでされたこと[奇蹟]を一つのこらず見たからである。 |
前田訳 | しかし彼がガリラヤへ入られると、ガリラヤ人は彼を歓迎した。彼らも祭りに行ったので、彼がエルサレムで祭りのときにされたことのすべてを見たからである。 |
新共同 | ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。 |
NIV | When he arrived in Galilee, the Galileans welcomed him. They had seen all that he had done in Jerusalem at the Passover Feast, for they also had been there. |
註解: 44節は43節の理由を示す文字(gar=for)45節はその結果を示す文字(oun=therefore)をもって始められているけれども、44節は43節の理由として不可解であり、45節は44節の予期に反する結果のごとくに見え、従ってこの三節は多くの解釈を生んでいる。その主なるものは、(1)「己が郷」をガリラヤと見ずしてナザレの町と解する説(C1、C2、B1等多数あり)、(2)これを下部ガリラヤと解し43節のガリラヤを上部ガリラヤと解する説(L2)、(3)これをユダヤと解する説(オリゲネスその他)、(4)預言者は故郷にて尊ばれざるものなる故、イエスはエルサレムやサマリヤに名声を博して、さらにこれを携えてガリラヤに来れる意味と解する説(M0、G1、Z0)、(5)ヨハ2:23−25。ヨハ3:22−30等の名声を厭いて一時ガリラヤにこれを避け、隠遁の生活を送らんとし給えるものと解する説(E0)等なお大同小異の説が多い。余は(3)の説により、救いはユダヤより出づる意味およびベツレヘムにて生れ給える意味において「己の郷」をユダヤと見、ユダヤにてパリサイ人らのために迫害せられんとし給えるためにガリラヤに来てそこにて受入れられ給えることを記せるものと解する(ゆえに「己が郷」の意味はマタイとヨハネと各々特徴あり。マタ13:57参照)。
2-3-2-ロ 王の近臣の子を隠し給う
4:46 - 4:54
4章46節 イエス復ガリラヤのカナに往き給ふ、ここは前に水を葡萄酒になし給ひし處なり。[引照]
口語訳 | イエスは、またガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にかえられた所である。ところが、病気をしているむすこを持つある役人がカペナウムにいた。 |
塚本訳 | それから、またガリラヤのカナに行かれた。そこは(前に)水を酒にされた所である。するとカペナウムに(ヘロデ・アンデパス)王の役人がいて、その息子が病気であった。 |
前田訳 | それから彼はふたたびガリラヤのカナへ行かれた。そこは水をぶどう酒にされたところである。そこに王の役人がいた。その息子はカペナウムでわずらっていた。 |
新共同 | イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。 |
NIV | Once more he visited Cana in Galilee, where he had turned the water into wine. And there was a certain royal official whose son lay sick at Capernaum. |
註解: ここにはイエスの親戚知人及び彼の奇蹟につきて知っている多くの人がいたので、イエスの心は自然にこの地に引き付けられ、ここにその働きをなさんとし給うたのであろう。
時に王の近臣あり、その子カペナウムにて病みゐたれば、
註解: 「王の近臣」すなわちヘロデ・アンテパスの近臣でルカ8:3のクーザか或は使13:1のヘロデの乳兄弟マナエンにはあらずやとの想像説がある(G1)。(注意)この物語とマタ8:5−13(ルカ7:1−10)の百卒長の物語とは全く別である。詳しくはこれを読めば差別を知ることができる。カペナウムはカナより二十余理。
4章47節 イエスのユダヤよりガリラヤに來り給へるを聞き、御許にゆきて、カペナウムに下りその子を醫し給はんことを請ふ、子は死ぬばかりなりしなり。[引照]
口語訳 | この人が、ユダヤからガリラヤにイエスのきておられることを聞き、みもとにきて、カペナウムに下って、彼の子をなおしていただきたいと、願った。その子が死にかかっていたからである。 |
塚本訳 | イエスがユダヤからガリラヤに来ておられると聞くと、イエスの所に行き、(カペナウムに)下ってきて息子を直してほしいと頼んだ。息子が死にそうだったのである。 |
前田訳 | 彼はイエスがユダヤからガリラヤへ来ておられると聞くと、彼のもとに来て、下って息子をいやすよう願った。息子は死にそうであった。 |
新共同 | この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。 |
NIV | When this man heard that Jesus had arrived in Galilee from Judea, he went to him and begged him to come and heal his son, who was close to death. |
註解: この近臣の祈りは真にして切であった。彼はイエスに関する風聞をきき、彼こそその子を癒し得るならんと信じたのである。しかしイエスに関する風聞を信ずることと、彼自身を信ずることとの間には根本的な差異がある(ヨハ4:39−42節参照)。唯彼の心は子(おそらく独り子ならん(ho huios = the son、B1)を思う心で一杯で、信仰の性質を考える余裕はなかった。
4章48節 ここにイエス言ひ給ふ『なんぢら徴と不思議とを見ずば、信ぜじ』[引照]
口語訳 | そこで、イエスは彼に言われた、「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう」。 |
塚本訳 | イエスは言われた、「あなた達は徴[奇蹟]と不思議なことを見なければ、決して信じない。」 |
前田訳 | そこでイエスはいわれた、「徴と不思議を見ねばあなた方は信じない」と。 |
新共同 | イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。 |
NIV | "Unless you people see miraculous signs and wonders," Jesus told him, "you will never believe." |
註解: イエスの要求し給う信仰は彼の言を聴き、彼を神の子と信ずる純粋なる信仰であった。然るにユダヤ人もガリラヤ人も共に彼の徴を見て信ずるのみであった(ヨハ2:23、ヨハ4:45)。ゆえに「汝ら」といいて一般ガリラヤ人に対しその信仰の純真にあらざるを責め給う。蓋しイエスはこの種の信仰に対してこれを喜び給わなかったのである(ヨハ3:2、ヨハ20:29)。
辞解
[徴と不思議] 徴 sêmeion は見えざる力の表現として見たる奇蹟、不思議 teras は見ゆる自然法に対する例外として見たる奇蹟。
4章49節 近臣いふ『主よ、わが子の死なぬ間に下り給へ』[引照]
口語訳 | この役人はイエスに言った、「主よ、どうぞ、子供が死なないうちにきて下さい」。 |
塚本訳 | 王の役人が、「主よ、子供が死なないうちに(カペナウムに)下ってきてください」と言いつづけると、 |
前田訳 | 王の役人はいう、「主よ、子が死なぬうちに下っていただきたい」と。 |
新共同 | 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。 |
NIV | The royal official said, "Sir, come down before my child dies." |
註解: 彼の心は信仰の性質如何を考うる余裕がなかった。唯その子の癒されんことを望む心に充たされていたのみであった。ある特殊の悩みを除かれんことをのみ望む結果、その以外のことを顧みる余地がない。この種の信仰の危険性はここにある。
4章50節 イエス言ひ給ふ『かへれ、汝の子は生くるなり』[引照]
口語訳 | イエスは彼に言われた、「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」。彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。 |
塚本訳 | イエスは言われる、「かえりなさい、息子さんはなおった。」その人はイエスの言われた言葉を信じて、かえっていった。 |
前田訳 | イエスはいわれる、「お帰り。お子さんは助かる」と。その人はイエスがいわれたとおりのことばを信じて、帰って行った。 |
新共同 | イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。 |
NIV | Jesus replied, "You may go. Your son will live." The man took Jesus at his word and departed. |
註解: ここにイエスは彼に対し徴と不思議を見ずに単に彼の言をもって彼を信ぜんことを要求し給う、これこそ真の信仰というべきである(ヘブ2:1)。
彼はイエスの言ひ給ひしことを信じて歸りしが、
註解: 彼の信仰は強かった。彼はイエスの試みに合格したのである。我らもまた「我終の日に汝らを甦らすべし」(ヨハ6:40)と言い給う時、これを見ずして信ずべきである。
4章51節 下る途中、僕ども往き遇ひて、その子の生きたることを告ぐ。[引照]
口語訳 | その下って行く途中、僕たちが彼に出会い、その子が助かったことを告げた。 |
塚本訳 | しかしすでに途中で、僕たちが出迎えて、子供がなおったことを知らせた。 |
前田訳 | すでに下り行く途中で僕(しもべ)らが出迎えて、子が助かったといった。 |
新共同 | ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。 |
NIV | While he was still on the way, his servants met him with the news that his boy was living. |
註解: 僕どもが来たのは師を煩わす必要なきことを告ぐるためか、または早く父を喜ばせんがためかいずれかであったろう。
4章52節 その癒えはじめし時を問ひしに『昨日の第七時に熱去れり』といふ。[引照]
口語訳 | そこで、彼は僕たちに、そのなおりはじめた時刻を尋ねてみたら、「きのうの午後一時に熱が引きました」と答えた。 |
塚本訳 | そこで僕たちに良くなった時間をたずねると、「きのう午後一時に熱が取れた」とこたえた。 |
前田訳 | そこで、よくなった時間を僕たちにたずねた。彼らは、「熱はきのう午後一時にとれました」と答えた。 |
新共同 | そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。 |
NIV | When he inquired as to the time when his son got better, they said to him, "The fever left him yesterday at the seventh hour." |
註解: 第七時は午後一時に当る。カナよりカペナウムまで二十数里であって、午後一時にカナを発するならば夕の八、九時までにはカペナウムに着くはずである。ゆえに「昨日」とあるはその日の日没前を昨日とするユダヤの暦法によったのである。
4章53節 父その時の、イエスが『なんぢの子は生くるなり』と言ひ給ひし時と同じきを知り、而して己も家の者もみな信じたり。[引照]
口語訳 | それは、イエスが「あなたのむすこは助かるのだ」と言われたのと同じ時刻であったことを、この父は知って、彼自身もその家族一同も信じた。 |
塚本訳 | 父は、それが「息子さんはなおった」とイエスが言われた時間であることを知り、彼はもちろん、全家族が信じた。 |
前田訳 | 父親はちょうどそのときイエスが「お子さんは助かる」といわれたことを知り、彼も彼の家族一同も信じた。 |
新共同 | それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。 |
NIV | Then the father realized that this was the exact time at which Jesus had said to him, "Your son will live." So he and all his household believed. |
註解: イエスは唯その御言のみをもって癒し給うた。彼の霊力は空間に制限せられなかった。この事実を見て一家みな彼を信ずるに至った(ヨハ4:46b註参照。おそらくこの一家はその後永く信仰の生活をなし、信者の中に名の聞えていた家族であろう)。近臣が一度信じて(50節)さらにまた信じたことが記されていることについてはヨハ2:11参照。
4章54節 是はイエス、ユダヤよりガリラヤに往きて爲し給へる第二の徴なり。[引照]
口語訳 | これは、イエスがユダヤからガリラヤにきてなされた第二のしるしである。 |
塚本訳 | イエスはこの第二の徴[奇蹟]を、ユダヤからガリラヤに行かれたときに行われた。 |
前田訳 | イエスはこの第二の徴をユダヤからガリラヤへ来てなさった。 |
新共同 | これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。 |
NIV | This was the second miraculous sign that Jesus performed, having come from Judea to Galilee. |
註解: ヨハ2:11参照。二回ともカナにおける奇蹟が録されていることに注意すべきであって、ここにも共観福音書の補充的立場に立てる第四福音書の特徴を見ることができる。
要義 [御言を信ぜよ]キリスト者の信仰は神の御言とイエスの御言をそのままに信ずることに帰着する。而して我ら自己の罪のためにまさに死せんとする時「汝の罪はキリストの十字架上に贖われたり」との神の御言を信ずることが我らに残されし唯一の途である。而してこれを信ずる者は生くることができるのであって、あたかも王の近臣がイエスの言を信じてその子の生けるを発見せると同じく、我らもイエスの言を信じて我らの起死回生の事実を経験することができる。神の御言を単純にそのままに、何らの思索批評を加えずして信ずること、そこに信仰の秘訣がある。