黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ヘブル書

ヘブル書第6章

分類
1 教理の部 1:1 - 10:18
1-3 大祭司としてのキリストを示して信仰の進歩をすすむ 4:14 - 6:20
1-3-ホ 信仰の向上の必要 6:1 - 6:3  

註解: 1−3節はこれを二様に解することができる。その一は著者の決心を述べしものと見る解釈で(B1、D0、E0、L1、Z0等)、著者が教えの初歩を論ずることをやめ、さらに一層深き教えの奥義に進まんとする決心を言い表わせるものと解し、その二は読者に対する奨励と見る解釈で(C1、I0、M0、P0、W2)、読者をして信仰の初歩に止ることなく、一層成熟せる信仰に進ましめんとする著者の言と解する。日本訳もこの両者の何れとも解し得るがごとくであるけれども、語法より見ればおそらく第二説を取れるものならん、予も第二説を優れりとする。その理由は前数節との連絡および4節以下の警戒との関係上よりかく解することが自然であること、また読者を奨励、警戒、訓戒せんとする場合に多く「我ら」なる語を用うること等である(2:1。4:1。10:19、26。12:1)。

6章1節 この(ゆゑ)(われ)らはキリストの(をしへ)初歩(しょほ)(とどま)ることなく、[引照]

口語訳そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、
塚本訳それゆえ、わたし達は(すこしも早く)キリストの教のいろはをすてて、完全(な信仰生活)に進みゆこうではないか。(すなわち)死ぬ行いの悔改めや神への信仰、
前田訳それゆえ、われらはキリストについての教えの初歩をあとにして完全へと進みましょう。またもや、死んだ行ないの悔い改めと神への信仰、
新共同-2節 だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。
NIVTherefore let us leave the elementary teachings about Christ and go on to maturity, not laying again the foundation of repentance from acts that lead to death, and of faith in God,
註解: 直訳「この故に我らはキリストの初歩の教を後に残し」、「止ることなく」 aphiêmi は「棄て」「措き」「後に残し」等の意味であって、この書簡の読者はもはや教師ともなり得べき人々である故に(5:12)何処までもキリストの初歩の教に停滞せずにこれを措きてさらに完全に向って進むべきことを奨めている。而してキリストの初歩の教え、すなわちその基礎工事ともいうべきことを次の六カ条に掲げ、これを二つづつ三対に区別している。

(ふたた)()にたる行爲(おこなひ)(より)の悔改(くいあらため)(かみ)(たい)する信仰(しんかう)と[の(もとゐ)]、

註解: キリストの初歩の教えの第一対は悔改めと信仰である。「死にたる行為」とは「罪の行為」(9:14)を意味し、パウロの所謂信仰によりて為されざる「律法の行為」(ロマ3:20、28。9:32。ガラ2:16。3:2、5、10)に相当する。あたかも行為なき信仰が死ぬる信仰であるがごとくに(ヤコ2:26)、信仰なき行為は死ぬる行為である。パリサイ主義の行為のごときこの例である。ゆえにかかる行為より悔改めて神に対する信仰に至らなければならぬ。この信仰は活ける行為の原動力である。この悔改めと信仰とはキリストの初歩の教えであって何人もこれなくしてキリスト者ということができない。而してユダヤ人はこの二者を往々にしてユダヤ教の行為、悔改め、信仰と混同してユダヤ教に逆戻りする恐れがあったので、間接にこのことを注意したのである。─(注意)「基」は「基礎工事」のこと、原文には次節にある「基」のみで本節の「基」の文字なし。日本訳は文章の都合上ここにも「基」を入れたので、これがため二種の基礎があるがごとくに誤解せざるよう注意を要す。

6章2節 [また]各樣(さまざま)のバプテスマと按手(あんしゅ)と、死人(しにん)復活(よみがへり)永遠(とこしへ)審判(さばき)との(をしへ)(もとゐ)()かずして完全(まったき)(すす)むべし。[引照]

口語訳洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。
塚本訳(いろいろな)洗礼の教や按手、死人の復活や永遠の審判(など、信仰)の土台をすえ直す(ような)ことをすまいではないか。
前田訳洗礼や按手、死人の復活と永遠の裁きなどの教えの基礎を置くことはしますまい。
新共同
NIVinstruction about baptisms, the laying on of hands, the resurrection of the dead, and eternal judgment.
註解: キリスト教のバプテスマは更生の表徴であり(ロマ6:4)、按手は聖霊を受くることを示している(使8:17。19:6)、新生と聖霊の内住はキリスト教の重要なる教理であって信仰の基礎である。ここに「各種のバプテスマ」(原語バプテスモスの複数)といえる所以は、当時のユダヤ人はキリスト教のバプテスマの外にモーセによりて定められしバプテスモス(濯事(すすぎごと)、9:10およびその引照参照)をも行っていたので、これらとキリスト教のバプテスマとの間の区別を明らかにすることが必要であったことを示す(A1、Z0、T0)。また按手も種々の場合に行われた(使6:6。13:3)けれども、これと聖霊の内在との区別を教うる事が必要であった。バプテスマや按手の形式が信仰の基礎であるのではなく、そのキリスト教的内容が信仰の基であり、ユダヤ人は往々これを忘れてユダヤ思想に逆戻りをせんとしていた。信仰の初歩の第三対は未来に関する教え、復活および審判である。この二者は信仰の重要なる基礎であるけれども唯これらの教義がユダヤ教にも有ったのでキリスト教に至ってその内容がさらに充実せるものに一新せられしことを知ることが必要であった。要するに以上の三対六種の教えが信仰の基礎であって、この書簡の読者は今さらかかる初歩の信仰の基礎づけに停滞せずにさらに完全なる成熟せる奥義に向って進むべきである。
辞解
「教」なる文字を「バプテスマの教」と読みてバプテスマのみに関連せしめる読み方もあるけれども(B1)不適当である。
[完全] teleiotês 前章末節の成人 teleios と同語源の文字で「初」または「初歩」の反対、すなわち成熟完備せる状態をいう。

6章3節 (かみ)もし(ゆる)(たま)はば、(われ)(これ)をなさん。[引照]

口語訳神の許しを得て、そうすることにしよう。
塚本訳(もちろんこれも必要なことだから、)神がお許しになるならば、これをもやろう。
前田訳これらをも、神がよみしたもうならば、いたしましょう。
新共同神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。
NIVAnd God permitting, we will do so.
註解: 信仰の進歩も神の恩恵による許容なしにはこれを為すことができない。
要義 [キリスト教の基礎的信条]ここに悔改めと信仰、新生と聖霊の内在、復活と審判がキリスト教の信仰の初歩または基礎として掲げられていることは注意を要する。何時までもかかる基礎的事柄に停滞すべきではない。然るに今日のキリスト者の中にはこれらの初歩的教理に対してすら無理解なる者の多きことは驚くべき事柄であって、ヘブル書の読者と共にさらに一層完全なる信仰に進むことが必要である。終生信仰の道を辿りつつ基礎工事すら完成し得ずに終るもののあることは悲しむべきことである。

1-3-ヘ 信仰の堕落に対する警戒 6:4 - 6:8  

註解: 4−8節は完全に進まなければならない理由として堕落に対する恐るべき警戒を与えている。すなわち4、5節は1、2節と対応しており信仰の初歩すなわち基礎的教義につき一度び味わい理解せる人々の心の状態を述べ、6節以下にかかる人の堕落の恐るべきことを教えている。

6章4節 (そは)(ひと)たび(てら)されて(てん)よりの賜物(たまもの)(あぢは)ひ、[引照]

口語訳いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、
塚本訳というのは、一度(福音の光に)照らされていながら、(すなわち)天からの賜物を味わい、聖霊を授かる者となり、
前田訳ひとたび光を受けて 天の賜物を味わい、聖霊にあずかり、
新共同一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、
NIVIt is impossible for those who have once been enlightened, who have tasted the heavenly gift, who have shared in the Holy Spirit,
註解: 「一たび照らされて」は神の光に心の罪が照らされて悔改めとなり、神の光を仰ぐことによりてその賜物なるキリストに対する信仰と新生(エペ2:8。ヨハ3:16)とを味わいてその如何に(さいわい)なるものなるかを自ら経験せる状態(1節後半、2節前半参照)。なお賜物の何たるかにつきては、聖餐、聖霊、義、キリスト、福音、光、等種々の解釈あり。

(せい)(れい)(あづか)(もの)となり、

註解: 信者は聖霊を()け与えられる(使2:3)。悔改めと新生の結果としてかくなることができる(2節の「按手」の註参照)。

6章5節 (かみ)()(ことば)來世(らいせい)能力(ちから)とを(あぢは)ひて(のち)[引照]

口語訳また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、
塚本訳また、神の良い御言葉と、来るべき世の力とを味わっていながら、
前田訳神のよいことばと来世の力とを味わったものたちが、
新共同神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、
NIVwho have tasted the goodness of the word of God and the powers of the coming age,
註解: 「善き言」 kalon rêma は神の慰めまたは約束に関して用いられ(ヨシ21:45。23:15。ゼカ1:13。七十人訳)、この場合これを福音の意味に解する人が多いが予は死に打勝ちて復活すべき神の約束を意味するものと解する。「来世の能力(複数)」はキリスト来り給いて罪人を救い、病者を癒し、貧しき者に福音を聴かしめ悪魔に打勝ち死にて甦り給いしことによりて顕われし来世の能力。この能力がやがて永遠の審判(2節後半)となりてキリストの再臨により新天新地が実現するに至るのである。キリスト者はこの能力を味わったものである。ここに「味ふ」なる語を二回ともに用いし所以は、これらの人々は単に耳にしてこれらの真理を聞いたばかりでなく信じて心にこれを味わったことを意味すると共に、単に味わっただけで、これを常食として信仰の発育を遂げず完全に進むの状態に至らざるごとき姿を示したのである。かかる者は堕落の危険がある。

6章6節 墮落(だらく)する(もの)[引照]

口語訳そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。
塚本訳堕落した者は、(今度は)自分で神の子を十字架につけ、晒しものにするのであるから、(彼らを)もう一度新しくして悔改めさせることは出来ないからである。
前田訳それにもかかわらず堕落してからは、ふたたび悔い改めへと導くことはできません。それは彼らが自ら神の子を、またもや十字架にかけて、さらしものにしているからです。
新共同その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。
NIVif they fall away, to be brought back to repentance, because to their loss they are crucifying the Son of God all over again and subjecting him to public disgrace.
註解: この場合の「堕落」 parapiptô は、肉の弱さ、悪魔の試誘、信仰の動揺等により「盗み、偽り、殺人、酔酒、姦淫」等の罪に陥ったことを意味するのではなく(C1)、10:26のごとく一旦信仰を味わって後に全く神の恩恵を拒み、キリストの十字架の贖いを否定し、未来に対する望みを失い、全き不信仰の状態に陥ったことを意味し(C1、M0、B1、E0、I0)、聖霊を涜すの罪(マタ12:31以下等)、死に至るの罪(Tヨハ5:16)と同義である。

(さら)にまた(みづか)(かみ)()十字架(じふじか)()けて(さら)(もの)とする(ゆゑ)に、(ふたた)びこれを悔改(くいあらため)立返(たちかへ)らすること(あた)はざるなり。

註解: (▲この種の人の信仰について、彼は果して新生をしたのか、またはこれを真の新生と称すべであるかは大なる問題である。単に頭脳のみにて理解し思索しただけであるのは新生命を生きるものではない。単にこれを味わっただけである。)キリストを十字架に()けたユダヤ人はその為すところを知らず(ルカ23:34)キリストの神の子たることを知らずにこれを為したのであった。ゆえに悔改め得る余地があった。然るに一旦新生を経験し福音の根本を味わった者が堕落してキリストに背くことは、キリストを神の子として知りてこれを「新たに十字架につけ」 anastauroô 、これを辱しめ奉るのであって、もはや再び新たに悔改めしむることは不可能である(10:26)。知らずに神に背ける者(Tテモ1:13)は、光に照されてこれを(さと)り悔改めることができる。然るに知りて神に背く者はもはやその罪を(さと)らせることが絶対にできない。かかる者はサタンと同じ性質に化したのである。
辞解
[自ら] 直訳「自己に」 heautois は種々の解釈がある。予はガラ6:14により「自己に対して」の意味に解した(B1)。
[能はざるなり] 「至難なり」のごとき意味に弱めんとする説あれど誤りで「全然不可能なり」と解すべきである。
[立返らする能はず] 「自ら立返る能はず」と解し、神はこれを立返らしむることができることを意味すると解する説がある(B1、G2)けれども、10:26−31より見てこの解釈は不適当である(M0、E0)。

6章7節 それ()しばしば()(うへ)(くだ)(あめ)()()れて(たがや)(もの)(えき)となるべき作物(さくもつ)(しゃう)ぜば、(かみ)より祝福(しくふく)()く。[引照]

口語訳たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。
塚本訳“地が”たびたびその上に降りそそぐ雨を(よく)吸込んで、耕す人々のために有益な“作物を”産すれば、神の祝福にあずかる(ことができる)。
前田訳地がその上にたびたび降る雨を飲み込んで、耕す人々に役だつ作物を育てるならば、神からの祝福にあずかります。
新共同土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。
NIVLand that drinks in the rain often falling on it and that produces a crop useful to those for whom it is farmed receives the blessing of God.
註解: 信仰の初歩に停滞せず進んで完全なる発育を求むる者はあたかもこの比喩に示される土地のごとくであって、神の恩恵を一旦味わいしままに放置することなく、慈雨のごとき恩恵を常に吸入れ、恩恵に恩恵を加えられて耕す者は神の喜び給う作物を生ぜしめる。従って神これを祝福し給う。

6章8節 されど(いばら)(あざみ)とを(しゃう)ぜば、()てられ、かつ(のろひ)(ちか)く、その()ては()かるるなり。[引照]

口語訳しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。
塚本訳だが、“茨や薊をはやすならば”、(地は)益なきものとなり、“呪われ”、その最後は、焼かれるのである。
前田訳しかし、茨やあざみを生やすならば、地は無用になり、呪いに近づき、果てには焼かれます。
新共同しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。
NIVBut land that produces thorns and thistles is worthless and is in danger of being cursed. In the end it will be burned.
註解: 神の恩恵の慈雨を受けてもこれを吸入れず、教えの初歩を植付けられしのみに止まる者は、枯死して完全に進むことができず、反対に(いばら)(あざみ)とを生じ、神の御旨に反するに至る。かかる土地は放棄せられ詛われるより外にない、而してついにはその果は焚かれるであろう。神に対する信仰より堕落する者の運命もこれに等しい。▲信仰はその果によって知られるのである。信と行為の問題はここにもその片鱗を窺うことができる。
辞解
前節の「生ぜば」 tiktô は本節の「生ぜば」 ekpherô とは別字を用いている。前者は子の生まれることを意味し、後者は一層機械的で「発生」「搬出」等の意味である。
[近く] (のろい)の程度を幾分和らげて言えるもの。
要義1 [新生を経験せる者は堕落する場合ありや]ロマ8:29、30。ヨハ6:37、39。10:27、28。Tヨハ2:19。マタ15:13等によれば、神の選び給いて新生を経験せしめられしものは永遠に亡ぶることなきことを示されているにかかわらず、ヘブ6:4−6によれば一度新生を経験したるものも場合により堕落し永遠に滅亡に陥り恢復の見込みなきことを示され、この間に不調和、矛盾があるがごとくである。この矛盾を除かんがために、あるいはヘブ6:4−6を一見回心せるがごときも、未だ真の永続的回心を経験せず、最後の反抗心に打勝たざる場合と解し(G1)、あるいは神の選びと新生とを区別し、選ばれし者はみな新生せしめられるけれども新生せしものは必ずしも選ばれしものにあらずと解し(A1)、あるいはヘブ6:4、5は[未だ](原本にこの語が記載されているが意味不明となるため括弧書きとした。編者)栄光のキリストを有たされた未だ真の生命を有たざる名義上の信徒なりと解し(ダービー)、あるいは神はこれらの者を不完全なる程度に一時的に照らして真理を示したのみで選ばれしものにあらざる彼らは、心よりキリストに依り頼みしにあらずと解する(C1)等によりてこの矛盾を避けんとの試みが行われている。しかしながらヘブ6:4、5は明らかに新生の経験を意味し、たとい幼稚なる信仰であってもとにかく真の信仰であり、キリストによって更生せるものであることは明らかである。然らざれば、全くの未信者であって信仰に関する少しばかりの知識は彼らを信者と称するに足らない。従って彼らには新たなる堕落と称すべきものなく、また勿論未だ救わるべき余地が残っている。要するに選ばれしものに関する前掲の諸聖句は、かかる者に対する神とキリストとの態度を示せるものであり、而して人が真に選ばれしや否やは世の終末の審判の時に至らざれば客観的には確定せざる以上、キリスト者は凡て回心によりて新生を経験せし後にも堕落する場合あり得るものであって、従って信仰の持続とその発育が必要であることを知らなければならない。我らこのことに努力するならば神は末の日までにこれを全うし給うであろう(ピリ1:6)。
要義2 [如何なる程度の堕落が絶望的なりや]キリスト者は回心し新生を経験せる後といえども肉の弱さのために罪に陥ることがある。かかる種類の罪であるならばたといそれが如何に重き罪であっても、またたといその回数が七度を七十倍するほどであっても、決して絶望的ではない。我ら悔改めてその罪を言い表わすならば、キリスト我らのために神の前にこれを執成し、神はこれを赦し、これを潔め給うのである(Tヨハ1:9。2:1)。しかしながらもしキリスト者にして「ことさらに罪を犯して止めない場合」(ヘブ10:26)、またはキリストの贖いを拒み、神の恩恵を故意に排斥する場合には、これ聖霊を蔑如し無視するのであって、聖霊を(けが)すの罪であり(ゆる)さるべからざるものである。

1-3-ト 忍耐をもって希望を確保すべきこと 6:9 - 6:20  

註解: 著者は以上において恐るべき絶望的の堕落につきて述べし後、この語が過度に読者を恐れしめざるように次に慰めと薦めとを与えている。

6章9節 (あい)する(もの)よ、[引照]

口語訳しかし、愛する者たちよ。こうは言うものの、わたしたちは、救にかかわる更に良いことがあるのを、あなたがたについて確信している。
塚本訳しかし愛する者たちよ、わたし達は(今)こんなに(烈しいことを)言っていても、あなた達については、それより善いもの、すなわち(最後の)救に関するものがあることを確信する。
前田訳しかし、親愛なる方々、こうはいいますものの、あなた方については、よりよいもの、救いに導くものがあることをわれわれは確信しています。
新共同しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。
NIVEven though we speak like this, dear friends, we are confident of better things in your case--things that accompany salvation.
註解: キリスト者に対する呼称として最も相応しきものの一つである。薦めを与える場合にこの呼びかけを用うる場合が多い。読者に対する真情の吐露である。

われら()くは(かた)れど、(なんぢ)らには(さら)()きこと、[(すなは)ち]((およ)び)(すくひ)にかかはる(こと)あるを(ふか)(しん)ず。

註解: 以上のごとく言いしものの実は汝らは前諸節に述べし滅亡と詛いより(のが)れ得ざるごとき状態に在るのではなく、次節に示すがごとくそれよりも一層善き状態におり、従ってまた救いと密接なる関係にあることを信じて疑わないとの意味で、前数節の激語をやわらげんがための用意である。
辞解
[救ひにかかはる事] 原語は「救に近き事」「救と密着せる事」等を意味する。

6章10節 (かみ)不義(ふぎ)(いま)さねば、(なんぢ)らの勤勞(はたらき)と、(まへ)聖徒(せいと)につかへ、(いま)もなほ(これ)(つか)へて御名(みな)のために(あらは)したる(あい)とを(わす)(たま)ふことなし。[引照]

口語訳神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。
塚本訳というのは、神は不公平ではないから、あなた達のした(善い)ことや、御名のために聖徒たちの世話をし、今もなお世話をしつつ、示したその愛を、お忘れになることはないからである。
前田訳神はあなた方がみ名のためにした愛のわざをお忘れのような不義の方ではありません。あなた方はかつて聖徒にお仕えでしたし、今もお仕えです。
新共同神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。
NIVGod is not unjust; he will not forget your work and the love you have shown him as you have helped his people and continue to help them.
註解: (▲信仰の有無はその告白する教理によって知ることはできず、その生活そのものの如何による。)彼らがより善き物を有ち、救いに近接している証拠として著者の掲げし事柄は、教理の問題でなく実行の問題であることに注意せよ。真の信仰は必ず実行となりて顕われるものである。その実行の内容は「勤労」と「愛」とで、「愛によりて働く(勤労する)信仰」(ガラ5:6)を彼らが持っていたことを示している。而してこの愛は聖徒すなわち信者に対する過去現在の奉仕となり、その困窮を(たす)くる施しとなって顕われ、この奉仕は自己のためにもあらずまた信者のためにもあらず神の御名のため、神の御栄えのために為されたのであった。而して神は義の神に在せば、必ずこれらの勤労と愛とを記憶して彼らを救いに導き給うであろう。
辞解
[事ふる] diakoneô は「施す事」の意味にも用いらる(Uコリ8:4。9:1註参照)。

6章11節 (われ)らは(なんぢ)()がおのおの(をはり)まで[(まへ)と](おな)(はげ)みをあらはして(まった)(のぞみ)(たも)ち、[引照]

口語訳わたしたちは、あなたがたがひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、
塚本訳ただわたし達は、あなた達のひとりびとりが希望を完成するため、最後まで前と同じ熱心を示したらと思うのである。
前田訳われらは願っています。あなた方のめいめいが最後まで希望の実現へと同じ熱意を示してください。
新共同わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。
NIVWe want each of you to show this same diligence to the very end, in order to make your hope sure.
註解: 私訳「我らは汝らの各々が充実せる望みを懐かんがために終りまで同じ勉励をあらわして」著者は前節においてヘブル書読者の愛の行為を特に指摘したる後、転じて彼らの欠点ともいうべきキリスト者としての希望に対する執着の欠乏とこれを充実せんとせる努力の不足とを補わんがために本節の薦めを為しているのである。信仰の初歩に止っている者は、キリスト者の望みの如何に大なるものであるかを知らない。それ故にキリストの再臨によりてキリスト者が嗣ぐべき嗣業の富に対する望みを充分に豊かに握ることは彼らにとって極めて必要で、これがためには前節の勤労と愛とに対して示せると同じ勉励努力を示すことが必要である。この望みを確保することによりて聖徒に対する愛は深められる(コロ1:5)。
辞解
[全き望を保ち] plêrophoria tês elpidos でこのプレーロフォリアは「確信」(A1、B1、C1)「充実」(I0、Z0)等の意味があり、ここではこの二者を兼ぬべきものと解する説もある(E0)、すなわち「望を心一杯に持つ」ことで確信という意味もまたこの中に含まれていると見るべきであろう(10:22。コロ2:2。Tテサ1:5)。

6章12節 (おこた)ることなく、信仰(しんかう)耐忍(しのび)とをもて約束(やくそく)()人々(ひとびと)(なら)はんことを(もと)む。[引照]

口語訳怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。
塚本訳これはあなた達が怠け者とならずに、信仰と忍耐とをもって、(神の)約束(のもの、すなわちキリストによる救)を相続する人たちの真似をする者となるためである。
前田訳怠けものにならないで、信仰と忍耐によって約束を受け継ぐ人々に見習ってください。
新共同あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。
NIVWe do not want you to become lazy, but to imitate those who through faith and patience inherit what has been promised.
註解: 前節の敷衍であって、充実せる信仰を(いだ)かんと努力する者は、その心や行いにおいて、また教えを聞きて進歩することにおいて怠るごときものとならない。かえって神の約束し給える嗣業の栄光の富(エペ1:18)を嗣ぐがために信仰をもて忍耐するのであって、旧約新約の聖徒の中にかかる人は少なくない。ゆえにかかる人々に(なら)わんことを熱求しているのである。かくしてこの書の読者なるユダヤ人の信者も始めて愛(10節)と望(11節)と信仰(12節)とに充たされ救いを全うすることができるのである。
辞解
[求む] epithumeô は「熱求する」の意。
要義 [神は我らの愛の行為を忘れ給わない]9−12節。マタ25:31以下。神は我らの学問や議論はこれを忘れ給うであろう。また我らの預言も異言も知識もみな廃/rb>(すた)る時が来るであろう。しかし愛は永遠である(Tコリ13:8)。神は我らの愛の行為を永遠に忘れ給わない。一教派が信条の正統さをもって他の教派を(さば)く時、神はその理論の正否よりもその愛の有無に目を止め給うであろう。ヘブル書著者が、さらに充実せる希望を持たしめんとせし所以は一層この愛を増さんがためであって、単に信者をしてキリスト教終末観に通暁(つうぎょう)せしめキリスト再臨の日時を計算するごとき愚を為さしめんがためではなかった。

6章13節 それ(かみ)はアブラハムに(やく)(たま)ふとき、()して(ちか)ふべき(おのれ)より(おほい)なる(もの)なき(ゆゑ)に、(おのれ)()して(ちか)ひて()(たま)へり、[引照]

口語訳さて、神がアブラハムに対して約束されたとき、さして誓うのに、ご自分よりも上のものがないので、ご自分をさして誓って、
塚本訳(あなた達はあのアブラハムの真似をしなければならない。)というのは、神はアブラハムに約束をされるとき、(全能の神で、ご自分より)大なる者を指して誓うことができなかったので、“御自分を指して誓い”、
前田訳神がアブラハムにお約束になるとき、さして誓うべきより偉大なものがないので、御自らをさして誓い、
新共同神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、
NIVWhen God made his promise to Abraham, since there was no one greater for him to swear by, he swore by himself,
註解: 信仰をもって忍耐しさえすれば必ず嗣業を継ぐことを得ることをアブラハムの実例をもって示し、かつその理由は神がこれを誓い給いしによることを教えている。神これを誓いし以上、これほど確実なものはない。而してアブラハムの場合において神は己を指して誓い給うた(創22:16)。これ神より大なるもの無きが故である。

6章14節 『われ(かなら)ず、なんぢを(めぐみ)(めぐ)まん、なんぢを(ふや)(ふや)さん』と、[引照]

口語訳「わたしは、必ずあなたを祝福し、必ずあなたの子孫をふやす」と言われた。
塚本訳“わたしはかならずあなたを恵みに恵むであろう、また”あなたを“ふやしにふやすであろう”と言われた。
前田訳こう仰せでした、「きっとわたしはあなたの祝福に祝福を加え、あなたの子孫を増しに増す」と。
新共同「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。
NIVsaying, "I will surely bless you and give you many descendants."
註解: 創22:16。七十人訳。旧約原文には「なんぢの種を殖/rb>(ふや)殖/rb>(ふや)さん」とあり、ここでは神の約束と誓いの力につき述べるのが主題であって、逐字的引用を必要としないのでこれを除いたのであろう。アブラハムは忍耐によりこの神の誓いを完全に確信していた。

6章15節 ()くの(ごと)くアブラハムは()(しの)びて約束(やくそく)のものを()たり。[引照]

口語訳このようにして、アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを得たのである。
塚本訳こうしてアブラハムは忍耐づよく待って、約束(のもの)を得たのである。
前田訳かくてアブラハムは忍耐したので約束のものを得ました。
新共同こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。
NIVAnd so after waiting patiently, Abraham received what was promised.
註解: アブラハムは神を信じその信仰による忍耐をもって終始した(ロマ4:1以下。ヘブ11:17)。その結果、老いたる妻よりイサクを得、このイサクを神に献ぐる場合にもなおその信仰を持続して再びイサクを得、またその子孫を得た(創17:1−22:19参照)。これ神の誓の変わらざる証である。

6章16節 おほよそ(ひと)(おのれ)より(おほい)なる(もの)()して(ちか)ふ、その(ちかひ)はすべての爭論(さうろん)()むる保證(ほしょう)たり。[引照]

口語訳いったい、人間は自分より上のものをさして誓うのであり、そして、その誓いはすべての反対論を封じる保証となるのである。
塚本訳なぜなら、人は自分より大なる者(、すなわち神)を指して誓い、その誓が彼らのすべての反対論にきまりをつける裏づけとなるのである。
前田訳そもそも人間はより偉大なものをさして誓います。そしてその誓いはすべての反論を止める保証になります。
新共同そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて誓うのであって、その誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証となります。
NIVMen swear by someone greater than themselves, and the oath confirms what is said and puts an end to all argument.
註解: 後半私訳「而してその誓いは凡ての反対論を終結して確認に至らしむるものなり」。ここに神の誓いの意義を説明せんとして(17節)まず本節において人の誓いの性質を説明している。人が誓う場合は己より大なる者すなわち神を指して誓う。而してこれによってもはやあらゆる反対も否定も効力なく、この事実は絶対的に確立せるものなることを意味している。これが誓いの性質である。

6章17節 この(ゆゑ)(かみ)約束(やくそく)()(もの)御旨(みむね)(かは)らぬことを(一層(いっそう))充分(じゅうぶん)(しめ)さんと(ほっ)して(ちかひ)(くは)(たま)へり。[引照]

口語訳そこで、神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証されたのである。
塚本訳だから神は、約束(のもの)を相続する人たちに、御計画の不変であることを、よりはっきり示してやるために、誓をもって(それを)保証されたのである。
前田訳それゆえ、神は約束を受けるものたちにご経綸の不変性をより明らかに示そうとのおぼしめしで、誓いによって保証なさいました。
新共同神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。
NIVBecause God wanted to make the unchanging nature of his purpose very clear to the heirs of what was promised, he confirmed it with an oath.
註解: 神がアブラハムに誓いをもて語り給える所以は単なる約束によるよりも一層完全に神の御旨の不変なることを示さんがためであった。而してこれを示される人々は「約束を継ぐ人々」すなわち旧約時代および新約時代の聖徒である。「誓を加え給へり」はむしろ「誓をもて立会ひ給へり」と訳すのが優っており、あたかも人と人とが神を指して誓う場合に、神が彼らの間の立会人、保証人となり給うごとき意味があると同じく神が自らを指して誓い給う場合には、神自身誓いをもて人と神との間の立会人、保証人となり給うたのである。
辞解
[誓を加へ給へり] 「加える」の mesteuô は他動詞的に「中間に置く」「仲介者(立会人)とする」とも読むことができ、改訳はこの意味をもって「誓を加ふ」と訳したのであろう。しかし多くの註解家(A1、B1、E0、I0、M0、W2、Z0等)はこれを自動詞的に「誓をもって中間に立つ」「誓をもって立会人(保護人、仲介者)となる」と解し、前掲註解のごとき意味に取る。予もこれに従った。

6章18節 これ(かみ)(いつは)ること(あた)はぬ(ふた)つの(かは)らぬものによりて、[引照]

口語訳それは、偽ることのあり得ない神に立てられた二つの不変の事がらによって、前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきたわたしたちが、力強い励ましを受けるためである。
塚本訳これは神が嘘をつくことの出来ない二つの不変のこと(、すなわち約束と誓と)によって、(わたし達に──自分の)前にある希望をしっかり持っているため(キリストの福音に)のがれてきているわたし達に──力強い奨励をお与えになろうとするのである。
前田訳それは神がお偽りになれない二つの不変のことによって、われらが強い励ましを受けるためです。われらは目の前に置かれている希望を捕えるために逃れてきたものです。
新共同それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。
NIVGod did this so that, by two unchangeable things in which it is impossible for God to lie, we who have fled to take hold of the hope offered to us may be greatly encouraged.
註解: 前節末尾の理由の説明である。二つの変わらぬものとは「約束」と「誓」とであって、その中の一つですら確定不変であるのに、いわんや二つの変わらぬものをもってして、神は決して偽り給うことができない。神は(まこと)に在し給う故に単なる神の言すら(いつわ)りがない、いわんや約束や誓いにおいておや。
辞解
[變らぬもの] 変らぬ行為。

(おのれ)(まへ)()かれたる希望(のぞみ)(とら)へんとて(のが)れたる(われ)らに(つよ)奨勵(しゃうれい)(あた)へん(ため)なり。

註解: アブラハムが約束の地カナンに向ってハランの地を(のが)れ出でしごとく(11:8−10)我らもまた己が前に置かれし神の約束の嗣業なる希望を捉えんがために(ピリ3:12−14)この世より(のが)れ出でし者である。従って多くの試誘と苦難と迫害とがこれに伴う、故にもしこの約束と誓いとが我らの希望の保証とならないならば我らは落胆し、堕落するであろう。ゆえにかかる我らに強き奨励を与えて励まさんがために神は約束の上に誓いをもて立会い、保証人となり給うたのである。
辞解
[前に置かれたる希望] 未来において我らの嗣業となるべきもので望みの目的となっているもの。
[(のが)れたる] katapheugô は「難を避け隠家を求めて(のが)れる」意味に用いられている語である(ヨシ10:27。申4:42。詩142:9。イザ10:3)

6章19節 この希望(のぞみ)(われ)らの靈魂(たましひ)(いかり)のごとく安全(あんぜん)にして(うご)かず、かつ(まく)(うち)()る。[引照]

口語訳この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ「幕の内」にはいり行かせるものである。
塚本訳わたし達はこの希望を魂の安全かつ不動なる錨として持っており、(海の深所ならぬ)“(聖所の)幕の内に入るのである”。(わたし達の希望がいと高き天にまで達するのはこのためである。)
前田訳この希望をわれらは魂の確固不動の錨として持っています。それは幕の中へと入らせるものです。
新共同わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。
NIVWe have this hope as an anchor for the soul, firm and secure. It enters the inner sanctuary behind the curtain,
註解: 私訳「我ら霊魂の錨としてこの希望を有つ、この錨は安全にして動かずかつ幕の内部に入る」。あたかも荒海の上を航行せる船舶が(のが)れて安全なる港に錨を投ぜるがごとくに我らの霊魂の船はこの世の荒海を(のが)れて(前節)神の国の安全なる港に投錨している。而して我らの錨は神の約束と誓いとによりて与えられし望みであって、従って困難試誘の如何なる風波があるも我らは安全でありまたその錨は確固不動である。而してこの希望の錨は幕の内側に投込まれてあって、今直ちにこれを見ることができない。この幕は至聖所と聖所とを隔つる幕でこの内側には至聖所がありアロン以下の大祭司は年一回、キリストは永遠に(次節)この中に入りて神と面接し民のために贖いをなした。この神との親密なる霊交の世界が我らの望である。

6章20節 イエス我等(われら)のために前驅(さきがけ)し、永遠(とこしへ)にメルキゼデクの(くらゐ)(ひと)しき(だい)祭司(さいし)となりて、その(ところ)()(たま)へり。[引照]

口語訳その幕の内に、イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として、わたしたちのためにさきがけとなって、はいられたのである。
塚本訳主イエスはわたし達のために先駆者としてそこに入ってゆき、“永遠にメルキゼデクと同等の”大祭司となられたのである。
前田訳そこへイエスはわれらのために先がけしてお入りになり、とこしえにメルキセデクに等しい大祭司におなりでした。
新共同イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。
NIVwhere Jesus, who went before us, has entered on our behalf. He has become a high priest forever, in the order of Melchizedek.
註解: 幕の内側、すなわち神の国にまず第一に前駆として入り給えるものは復活栄化し神の右に坐し給えるイエス・キリストであった。而してこれ結局我らのためであって我らの贖罪も(9:12)執成しも(9:24)神に近付くことも(10:19以下)みなイエスがまず至聖所に入り給えることによりて可能となったのである。而してイエスは、アロンのごとく人間として一時的の大祭司ではなくメルキゼデクのごとく(5:6、10。および7章以下参照)王たる大祭司として永遠に至聖所に入り給うた。▲キリスト者の希望は至聖所に入って神との出遭いを有つことである。このような生活がすなわち信仰生活である。
要義1 [我らの望みなるキリスト]Tテモ1:1。コロ1:27。信仰の初歩にあるヘブル書の読者に対して、その著者が最も熱心に薦めている問題はキリスト者の希望を最も確実に握ることであった。キリスト者の信仰がこの世的であり来世の希望が明瞭でない間は、この世の風波、すなわち試誘や困難のために堕落する危険が多い。ゆえに我らは神の約束、殊にその誓を信じ、不動なる望みを懐かなければならない。而してこの望みは我らの()ぐべき嗣業であってイエス・キリストまずその長子としてこの嗣業を継ぎ給う。天国が我らの望みなる所以はイエス・キリストがまずそこに入り給うたからであって、イエスなしに天国に入るよりもイエスと共に地獄に下る方が優っている。ゆえに来世の希望の確実さもその歓喜もみな一つにイエスに懸っているのであって、彼こそは我らの望みであり給う。
要義2 [約束と誓い]我らの希望は神の約束とこれに加うるに誓とをもって与えられしものである。その確実さにおいてこれに勝るものはない。もし我らの希望が我らの主観に過ぎないならばそれは動搖常なく頼り得ないものである。神が約束に加うるに誓をもって立入り給えることは我らの希望の絶対的確実さと永遠性とを示すものである。

ヘブル書第7章
1-4 レビ族の祭司に優れるキリスト 7:1 - 7:28
1-4-イ メルキゼデクの特質 7:1 - 7:3  

註解: 本章においてはキリストの型なるメルキゼデクの特質を掲げてキリストの大祭司としての本質を説明し、レビ系の祭司に対する優越を示している。1−3節は原文では一つの長き文章をなしている。▲この点を強調する目的はイスラエルの人々にイエスに対する信仰を与えるためであると同時に、諸国民に旧約聖書の真理がイエスを指していることを示す点にある。

7章1節 ()のメルキゼデクはサレムの(わう)にて至高(いとたか)(かみ)祭司(さいし)たりしが、[引照]

口語訳このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司であったが、王たちを撃破して帰るアブラハムを迎えて祝福し、
塚本訳なぜか。この“メルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司であった。アブラハムが(四人の)王たちを打破って帰るとき出迎えて彼を祝福したので、
前田訳このメルキセデクはサレムの王、いと高き神の祭司で、王たちを打ち破って帰るアブラハムを迎えて祝福しました。
新共同このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。
NIVThis Melchizedek was king of Salem and priest of God Most High. He met Abraham returning from the defeat of the kings and blessed him,
註解: 創14:14−20の記事をそのままここに応用している。
辞解
[サレム] 後のエルサレムに当る(S2、Z0の182頁脚注参照)、ヨハ3:23のサリムすなわちスキトポリスの南にあるサルミアスなりとの説あれどおそらく然らざらん。要するにサレムの位置は重要問題ではなくその名の意味が型として重要なのである(2節)。

(わう)たちを(やぶ)りて(かへ)るアブラハムを(むか)へて祝福(しくふく)せり。

註解: 創14:19、20.これによりてメルキゼデクはその祭司たることを表示した。かつ彼はアブラハムよりも大なる者であり(7節)従ってレビ族以上の祭司であることが知られる(8−10節)。

7章2節 アブラハムは(かれ)(すべ)ての(もの)十分(じふぶん)(いち)()(あた)へたり。[引照]

口語訳それに対して、アブラハムは彼にすべての物の十分の一を分け与えたのである。その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。
塚本訳アブラハムはすべての(分捕物の)一割税を”彼に分けたのである。(このことは、メルキゼデクがイスラエルの民の上に立つ王であり、祭司であることを示している。)第一に、(メルキはヘブライ語で「王」、ゼデクは「義」で、)メルキゼデクは訳すると「義の王」(である)。つぎに、(サレムは「平和」であり、)“サレムの王は”すなわち「平和の王」である。
前田訳アブラハムは彼にすべての十分の一を分かちました。その名の意味はまず「義の王」、次に「サレムの王」、すなわち「平和の王」です。
新共同アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。
NIVand Abraham gave him a tenth of everything. First, his name means "king of righteousness"; then also, "king of Salem" means "king of peace."
註解: ユダヤ人が始祖として崇敬()かざりしアブラハムもその行為によりてメルキゼデクの自己より大なる祭司たることを認めたことを示す。

その()()けば第一(だいいち)()(わう)(つぎ)にサレムの(わう)、すなはち平和(へいわ)(わう)なり。

註解: メルキは「王」(「メレク」「王」の語尾が変化せるもの)、ゼデクは「義」、サレムは「平和」(シャロームと同語)を意味する。すなわち彼は「義」と「平和」の二性質を具備する「王」であったことによってキリストの型たる性質を有っていた。旧約聖書においてメシヤはしばしば義と(ゼカ9:9。エレ23:5。イザ11:4)平和(イザ9:6。ミカ5:4)とを代表している。

7章3節 (ちち)なく、(はは)なく、系圖(けいづ)なく、(よはひ)(はじめ)なく、生命(いのち)(をはり)なく、[引照]

口語訳彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。
塚本訳(ことに聖書はメルキゼデクの系図を掲げない。)父なく、母なく、系図なく、(生涯の)日の初めもなく、命の終りもなく、神の子に似ていて、(永久に)いつまでも“祭司”である。
前田訳彼は父なく、母なく、系図なく、齢に初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似て、いつまでも祭司です。
新共同彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。
NIVWithout father or mother, without genealogy, without beginning of days or end of life, like the Son of God he remains a priest forever.
註解: 創世記十四章におけるメルキゼデクの記事は不思議にもその父母について全く記されていない従ってその系図も全然不明であって、あたかも天より降れる人のごとき姿をもって録されている。またその誕生についても死についても沈黙されていることは如何にも不可思議なる事実であって、アロンの(すえ)にあらざれば祭司となることを得ないこと(出28:1以下。民3:10。18:1以下)、また祭司たる者の母は聖き女たるべきこと(レビ21:7。エゼ44:22)また祭司はその系図を明らかにすることを要すること(ネヘ7:63以下)を定めし旧約聖書の中に父なく母なく系図なき祭司メルキゼデクの存在することは一つの不思議である。しかしこれはアロンの(すえ)にあらざるキリストがアロンの(すえ)たる祭司に優り給うことを示さんがための型であり、その生活の始めも終りもなきことはキリストの永遠なる祭司に在すことの型であると解してその意味明瞭となる。

(かみ)()(ごと)くにして(かぎ)りなく祭司(さいし)たり。

註解: 前節に述べしごとく彼は凡ての点において神の子のごとくであって、キリストの型であり、また詩110:4に示されるごとく彼は限りなく祭司たることによって、同じくキリストの永遠の大祭司に在すことの型であった。

1-4-ロ メルキゼデクの優越 7:4 - 7:10  

註解: 次に以上の事実の説明を加えている。

7章4節 先祖(せんぞ)アブラハム[分捕物(ぶんどりもの)のうち]十分(じふぶん)(いち)(もっと)()(もの)(これ)(あた)へたれば、その(ひと)如何(いか)(たふと)きかを(おも)ふべし。[引照]

口語訳そこで、族長のアブラハムが最もよいぶんどり品の十分の一を与えたのだから、この人がどんなにすぐれた人物であったかが、あなたがたにわかるであろう。
塚本訳祖先、“アブラハムが”分捕物の“一割税を与えた”このメルキゼデクが、いかに偉大であるかを、あなた達はよく(考えて)見よ。
前田訳彼がいかに偉大かをごらんなさい。彼に父祖アブラハムがいちばんよい分捕品の十分の一を分かったのです。
新共同この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。
NIVJust think how great he was: Even the patriarch Abraham gave him a tenth of the plunder!
註解: ユダヤ人がアブラハムを先祖として非常に尊んでいたことよりこの一節を見ればその意味は明らかである。
辞解
[最も善きもの] akrothinion は穀物の推積の最上部(すなわち初穂)または戦利品の中の最良品を意味し、これを献げられる神または人は最上の尊敬を払われしことを意味する。

7章5節 レビの()()のうち祭司(さいし)(つとめ)()くる(もの)は、律法(おきて)によりて、(たみ)すなはちアブラハムの(こし)より()でたる(おの)兄弟(きゃうだい)より、十分(じふぶん)(いち)()ることを(めい)ぜらる。[引照]

口語訳さて、レビの子のうちで祭司の務をしている者たちは、兄弟である民から、同じくアブラハムの子孫であるにもかかわらず、十分の一を取るように、律法によって命じられている。
塚本訳まずレビの子孫のうち祭司職を受ける者は、律法によって民、すなわちその兄弟たちから、(同じく)アブラハムの腰から出てきた者ではあるが、一割税を取れと命ぜられている。
前田訳レビの子孫で祭司の務めを引き受けるものは、律法によって兄弟である民から十分の一をとるよう定められています。彼らが同じくアブラハムの腰の出であるにもかかわらずです。
新共同ところで、レビの子らの中で祭司の職を受ける者は、同じアブラハムの子孫であるにもかかわらず、彼らの兄弟である民から十分の一を取るように、律法によって命じられています。
NIVNow the law requires the descendants of Levi who become priests to collect a tenth from the people--that is, their brothers--even though their brothers are descended from Abraham.
註解: 同じアブラハムの子孫たる諸族の中でレビ族のみが祭司の職につくことができ、他の諸族からその十分の一を取ることを律法によりて命令せられていた(民18:20−32)。これによりてレビ族の他の諸族よりも優っていることが明らかである。かく言いて次節のメルキゼデクの一層優れることを証明する前提としている。なお祭司のみが十分の一を取るのではなく全レビ族がこれを取るのであるが(民18:20)、習慣上祭司がこれを受け取ったのでかく言ったのであろう(A1)。
辞解
[腰より出づ] 子孫後裔の意味。

7章6節 されど()血脈(ちすぢ)にあらぬ(かれ)は、アブラハムより十分(じふぶん)(いち)()りて約束(やくそく)()けし(もの)祝福(しくふく)せり。[引照]

口語訳ところが、彼らの血統に属さないこの人が、アブラハムから十分の一を受けとり、約束を受けている者を祝福したのである。
塚本訳ところが、メルキゼデクは、彼ら(レビ)の血統(の者)でないにもかかわらず、アブラハムから一割税を取り、また(神の)約束を受けた者(であるそのアブラハム)を“祝福したのである”。
前田訳しかし彼らの系図に属さない彼はアブラハムから十分の一を与えられ、約束を受けたもの(アブラハム)を祝福しました。
新共同それなのに、レビ族の血統以外の者が、アブラハムから十分の一を受け取って、約束を受けている者を祝福したのです。
NIVThis man, however, did not trace his descent from Levi, yet he collected a tenth from Abraham and blessed him who had the promises.
註解: 創12:2以下。13:14以下の約束を神より受けしアブラハムをすら祝福するのみならず彼より十分の一の献物を受けるということはメルキゼデクの非常なる優越性を暗示している。しかも彼はレビの子らのうちより出でたのではなかった。ゆえにキリストのごとくレビ族より出でずして祭司となることは不可能ではない。

7章7節 それ(せう)なる(もの)(おほい)なる(もの)祝福(しくふく)せらるるは(ろん)なき(こと)なり。[引照]

口語訳言うまでもなく、小なる者が大なる者から祝福を受けるのである。
塚本訳言うまでもなく、小さい者が大きい者に祝福される。(だからアブラハムよりもメルキゼデクの方が大きい。)
前田訳およそ反論の余地のないことですが、小さいものが大きいものから祝福されるのです。
新共同さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです。
NIVAnd without doubt the lesser person is blessed by the greater.
註解: ゆえにメルキゼデクはアブラハムよりも大に従って勿論レビよりも大である。

7章8節 かつ此所(ここ)にては()ぬべき(もの)十分(じふぶん)(いち)()くれども、彼處(かしこ)にては『()くるなり』と(あかし)せられた(もの)これを()く。[引照]

口語訳その上、一方では死ぬべき人間が、十分の一を受けているが、他方では「彼は生きている者」とあかしされた人が、それを受けている。
塚本訳かつここでは、(すなわちレビの場合は、)死ぬべき人間が“一割税を”受けるけれども、そこでは、(すなわちメルキゼデクの場合は、永遠に)生きている、と証されている者が、それを受けるのである。
前田訳また、一方死ぬべき人間が十分の一を受けていますが、他方「生きている」と証されたものが、それを受けています。
新共同更に、一方では、死ぬはずの人間が十分の一を受けているのですが、他方では、生きている者と証しされている者が、それを受けているのです。
NIVIn the one case, the tenth is collected by men who die; but in the other case, by him who is declared to be living.
註解: 此所(ここ)」はレビの場合、「彼処(かしこ)」はメルキゼデクの場合である。レビ族の祭司は死ぬべき人でありメルキゼデクは活きていることが聖書に証せられている。この点がメルキゼデクの優越を証する第二の点である。
辞解
[「活くるなり」と証せられたる者] (私訳「活き居ると証せられたる者」)とは何れの証を指すやにつき異説あり(I0)、(1)彼の死に関する旧約聖書の沈黙、(2)詩110:4よりの証明、(3)この二者の併用等である。第三説を採る。

7章9節 また十分(じふぶん)(いち)()くるレビすら、アブラハムに()りて十分(じふぶん)(いち)(をさ)めたりと()ふも()なり。[引照]

口語訳そこで、十分の一を受けるべきレビでさえも、アブラハムを通じて十分の一を納めた、と言える。
塚本訳そして、言わば一割税を受けるレビ(の祭司たち自身)も、アブラハムによって一割税をささげたのである。
前田訳いうなれば、十分の一を受けるレビさえも、アブラハムを通じて十分の一を課せられたのです。
新共同そこで、言ってみれば、十分の一を受けるはずのレビですら、アブラハムを通して十分の一を納めたことになります。
NIVOne might even say that Levi, who collects the tenth, paid the tenth through Abraham,

7章10節 そはメルキゼデクのアブラハムを(むか)へし(とき)に、レビはなほ(ちち)(こし)()りたればなり。[引照]

口語訳なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを迎えた時には、レビはまだこの父祖の腰の中にいたからである。
塚本訳“メルキゼデクがアブラハムを出迎えた”時、レビはまだ父(アブラハム)の腰にあったからである。
前田訳それは、メルキセデクがアブラハムを迎えたとき、彼(レビ)はまだこの父祖の腰にいたからです。
新共同なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいたからです。
NIVbecause when Melchizedek met Abraham, Levi was still in the body of his ancestor.
註解: アブラハムがメルキゼデクを己より優れる者と認めしのみならず、言わばレビ(およびその一族をも含めたる意味)さえもメルキゼデクの優越を認めてアブラハムを代表者として十分の一を納めたとも言える。(▲それ故メルキゼデクは祭司以上の祭司である。)その故は10節に記されしごとくアブラハムはその子レビをその腰の中に持ちつつメルキゼデクに十分の一をささげたからである。
辞解
[父の腰にあり] 生れる前の状態を指す。

1-4-ハ レビ族の祭司の更迭の必要 7:11 - 7:17  

7章11節 (さて)もしレビの(すぢ)なる祭司(さいし)によりて(まった)うせらるる(こと)ありしならば((たみ)(これ)によりて律法(おきて)()けたり)(なに)ぞなほ(ほか)にアロンの(くらゐ)(ひと)しからぬメルキゼデクの(くらゐ)(ひと)しき祭司(さいし)(おこ)必要(ひつえう)あらんや。[引照]

口語訳もし全うされることがレビ系の祭司制によって可能であったら—民は祭司制の下に律法を与えられたのであるが—なんの必要があって、なお、「アロンに等しい」と呼ばれない、別な「メルキゼデクに等しい」祭司が立てられるのであるか。
塚本訳(このようにメルキゼデクはアブラハムにもレビにも勝っている。)それで、もしレビ系の祭司職によって(神の前に人間が)完全になることができるならば──民はこの祭司職の基礎の上に律法を受けたのであるから──(レビ系の祭司)アロンと“同等”でない、“メルキゼデクと同等”と言われるほかの“祭司(イエス)の”あらわれる必要が、なおどこにあるか。
前田訳もし完成がレビ系の祭司職によるとすると−−民はそれによって律法を与えられているのですが−−何の必要があって、メルキセデクに等しくてアロンに等しいとはいわれない別の祭司が立てられるのですか。
新共同ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、――というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから――いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。
NIVIf perfection could have been attained through the Levitical priesthood (for on the basis of it the law was given to the people), why was there still need for another priest to come--one in the order of Melchizedek, not in the order of Aaron?
註解: これより主として詩110篇の預言を中心として論じている。すなわち祭司職は神と民との間に在りて民の罪を贖いまた執成すものであるが、イスラエルの民はレビの系の祭司職と関連しこれを基として律法を授けられており、この律法を成就して完全に達せしむること、すなわち神の前に罪なきものとなすことはレビ族の祭司職の任務であった。さて(oun)このレビ系の祭司職によりてこの完全が得られたならば、詩110:4に言われるごとくアロンの位に(したが)うものと称えられないメルキゼデクの位に(したが)う他の祭司が立てられるという必要は何処にありや、全くない。然るに事実はその反対であったのでこの必要が起ったのである。永井訳「是の故に完成もしレビの系なる祭司職によりてありしならば ─ そはこれに本づきて民は掟を受けたればなり ─ なお何ぞアロンの班に(したが)いて称えられざる、メルキゼデクの班に(したが)う、他の祭司の起ることを要せんや」は原文の意を一層明らかに示す正確な訳文である。ただし「是の故に」はここでは「さて」のごとき意味に訳するを可とする(M0、Z0、A1)。
辞解
[(くらゐ)] ▲▲5:6脚注(▲)参照。「位」(taxisの訳)を口語訳で省略したことは遺憾である。

7章12節 (そは)祭司(さいし)(かは)(とき)には律法(おきて)(また)(かなら)(かは)る[べき](べければ)なり。[引照]

口語訳祭司制に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずである。
塚本訳(しかし詩篇が預言したように、いまイエスは、アロン系にかわるメルキゼデクと同等の大祭司としてあらわれ、これによって、レビ系の祭司職はモーセ律法と同時に廃止されたのである。)というのは、祭司職が変更されるときは、必然に律法の変更をも来たすからである。
前田訳祭司制が変われば必然的に律法の変更がおきます。
新共同祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。
NIVFor when there is a change of the priesthood, there must also be a change of the law.
註解: 前節のごとき必要が起った所以は「前の律法が何をも完成しなかった」ので(19節)、この律法が(かわ)る必要が当然に生じて来たからである。而して律法は祭司の基礎の上に与えられているので祭司の変更は当然律法の変更を意味するのであって、レビの系の祭司職が変わってキリストが大祭司となり給うことは、この律法が一変する必要があったことを示す重大なる意義を有っているのである。

7章13節 (これ)()のことは(かつ)祭壇(さいだん)(つか)へたることなき(ほか)(やから)(ぞく)する(もの)をさして()へるなり。[引照]

口語訳さて、これらのことは、いまだかつて祭壇に奉仕したことのない、他の部族に関して言われているのである。
塚本訳なぜならこの詩篇の言葉は、そのだれもかつて祭壇に携わったことのないほかの族(、すなわちユダ族に属する者)についてである。
前田訳これらのことがいわれている人は、祭壇に仕えるものが出たことのない別の部族に属しています。
新共同このように言われている方は、だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に属しておられます。
NIVHe of whom these things are said belonged to a different tribe, and no one from that tribe has ever served at the altar.
註解: 「此等のこと」は詩110篇の言であって祭壇に仕えしレビ族以外の族に属する者(単数)すなわちキリストについて言われているのである。(▲ヘブル書の記者は旧約聖書をこの意味での預言と解した。)これ祭司が(かわ)る必要があったからである(前節)。

7章14節 それ(われ)らの(しゅ)のユダより()(たま)へるは(あきら)かにして、()(やから)につき、モーセは(いささ)かも祭司(さいし)(かかは)ることを()はざりき。[引照]

口語訳というのは、わたしたちの主がユダ族の中から出られたことは、明らかであるが、モーセは、この部族について、祭司に関することでは、ひとことも言っていない。
塚本訳(大祭司である)わたし達の主がユダ(族)の出であることは、明白だからである。この族については、モーセは何も祭司に関することを語ったことがない。
前田訳われらの主がユダからお出のことは明らかで、モーセはこの部族について、祭司たちのことは何もいいませんでした。
新共同というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。
NIVFor it is clear that our Lord descended from Judah, and in regard to that tribe Moses said nothing about priests.
註解: 我らの主イエス・キリストがダビデの子孫としてユダの族より起り給いしこと(創49:10。イザ2:1。黙5:5)は当時の信者の間に周知の事実であった。而してユダ族に関してはモーセは祭司職のことを語らず、すなわち全く祭司職と無関係であった。ゆえにイエスがメルキゼデクの位に等しき祭司となり給えることは(5:5。7:17)律法の変革が行われる証拠である。キリストによりモーセの律法は終りを告げ(ロマ10:4)、キリストの律法(ガラ6:2)が始った。

7章15節 - 16節 (また)メルキゼデクのごとき(ほか)祭司(さいし)おこり、(にく)誡命(いましめ)(ほふ)()らず、()ちざる生命(いのち)能力(ちから)によりて()てられたれば、[()()(ところ)]いよいよ(あきら)かなり。[引照]

口語訳そしてこの事は、メルキゼデクと同様な、ほかの祭司が立てられたことによって、ますます明白になる。[16節]彼は、肉につける戒めの律法によらないで、朽ちることのないいのちの力によって立てられたのである。
塚本訳なお一層明白なことは、“メルキゼデク”と同じ“ような”ほかの“祭司(イエス)が”あらわれた以上、[16節]彼は肉にかんする掟の法則によらず、不滅の命の力によって立てられていることである。
前田訳このことはメルキセデクに似た別の祭司が立てられればさらに明らかになります。[16節]彼は肉のいましめの律法によらず、不滅のいのちの力によって立てられています。
新共同このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。[16節]この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。
NIVAnd what we have said is even more clear if another priest like Melchizedek appears, [16節]one who has become a priest not on the basis of a regulation as to his ancestry but on the basis of the power of an indestructible life.
註解: (▲▲この節口語訳は解り易く訳されている。)直訳「また肉の誡命の法によらず、朽ちざる生命の能力によりて〔祭司と〕なりし、メルキゼデクに似たる他の祭司立ちたれば、いよいよ明かなり」単にキリストがユダより出で給えることのみではなくメルキゼデクに似たる状態において祭司となり給えることは11節以下に言える事実、すなわちレビの系の祭司によりて全うし得ざりし事柄を全うするために祭司の変革と律法の変革とを必要とし而してこれがキリストによりて実現せることをいよいよ明らかに示すものである。この祭司たるキリストは「肉の誡命」すなわち神がモーセによりて、肉なる人に対して与えし律法の規定によりて祭司となり給いしにはあらずして、(アロンはそれであった)不死の生命を有ちて永遠に生き、今は甦りて神の右に坐し給う。その生命の能力によって祭司となり給うたのであれば、この資格を充分に有ち給う。
辞解
「我が言ふ所」なる文字は原文になし、従って「いよいよ明かなり」の主格は、あるいは11節(B1)あるいは12節(C1、A1、M0、G2)あるいは13節以下(Z0)なりと解せられている、けれども予は11節以下の全部と解した。

7章17節 そは『なんぢは永遠(とこしへ)にメルキゼデクの(くらゐ)(ひと)しき祭司(さいし)たり』と(あかし)せられ(たま)へばなり。[引照]

口語訳それについては、聖書に「あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である」とあかしされている。
塚本訳(詩篇で、)“あなたは永遠にメルキゼデクと同等の祭司である”と証されているではないか。
前田訳聖書は証します、「なんじこそとこしえにメルキセデクに等しい祭司」と。
新共同なぜなら、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。
NIVFor it is declared: "You are a priest forever, in the order of Melchizedek."
註解: 16節の理由、詩110:4。永遠なること、メルキゼデクの位に等しきこと、祭司たること、これらがキリストの特徴であった。

1-4-ニ 新たなる大祭司と新たなる律法との優越 7:18 - 7:25  

7章18節 (まへ)誡命(いましめ)(よわ)く、かつ(えき)なき(ゆゑ)(はい)せられ、[引照]

口語訳このようにして、一方では、前の戒めが弱くかつ無益であったために無効になると共に、
塚本訳(それならば新しい祭司職はどの点が勝れているか。)一方では、(祭司に関する)前の掟は、それが弱くかつ無益なため、廃止の宣告をうけたのである。
前田訳前のいましめはその弱さと無益のゆえに無効となります。
新共同その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。――
NIVThe former regulation is set aside because it was weak and useless

7章19節 律法(おきて)(なに)をも(まった)うせざりし((ゆゑ))なり)(さら)(すぐ)れたる希望(のぞみ)()かれたり、この希望(のぞみ)によりて(われ)らは(かみ)(ちか)づくなり。[引照]

口語訳(律法は、何事をも全うし得なかったからである)、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせるのである。
塚本訳この律法は、(罪の赦しや神との和合などを)何一つ成しとげることが(でき)なかったからである。しかし他方では、(イエスによってレビの祭司職によるものに)まさった希望がもたらされ、わたし達はこの希望によって神に近づくのである。
前田訳律法は何をも完成しえなかったからです。しかしよりすぐれた希望が現われ、それによってわれらは神に近づくのです。
新共同律法が何一つ完全なものにしなかったからです――しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。
NIV(for the law made nothing perfect), and a better hope is introduced, by which we draw near to God.
註解: これより著者は新たなる祭司が前の祭司に優り、新しき律法が古き律法に優れる所以を三つの点より論じている。その第一はこの二節であって、前にモーセによりて伝わりし肉の律法や誡命は「力弱く」して我らをしてこれを守らしむる力なく(ロマ7:12−8:4)、従って我らを全うして神の前に立たしむることができない(11節)。それ故にこれは「無益」なるものであった。ゆえに廃止されるの結果となり、これに代えてさらに優れる希望(誡命と言わないことに注意せよ)が導き入れられた。この希望はすなわちキリストであって確固不動の錨である(6:13−20)。ゆえに我らを全うして神に近付かしむることができる。
辞解
[前の] proagousa は「前に導き入れられし」との意味。
[置かれたり] epeisagôgê は「之に加えて導き入れられたり」の意味。
この二語は同じ「導く」 agô なる語の複合詞で相対応している。

7章20節 かの人々(ひとびと)(ちかひ)なくして祭司(さいし)とせられたれども、[引照]

口語訳その上に、このことは誓いをもってなされた。人々は、誓いをしないで祭司とされるのであるが、
塚本訳それから(イエスの場合には)、それが誓約なくしては行われなかったので──というのは、彼らの方は誓約なしに祭司になったが、
前田訳いかに大きなことが誓いをもってなされたことでしょう。祭司たちは誓いなしで立てられたのです。
新共同また、これは誓いによらないで行われたのではありません。レビの系統の祭司たちは、誓いによらないで祭司になっているのですが、
NIVAnd it was not without an oath! Others became priests without any oath,

7章21節 (かれ)(ちかひ)なくしては()られず、(ちかひ)をもて祭司(さいし)とせられ(たま)へり。(すなは)(かれ)()きて『(しゅ)ちかいて()(たま)はず、「なんじは永遠(とこしへ)祭司(さいし)たり」』と()(たま)ひしが(ごと)し。[引照]

口語訳この人の場合は、次のような誓いをもってされたのである。すなわち、彼について、こう言われている、「主は誓われたが、心を変えることをされなかった。あなたこそは、永遠に祭司である」。
塚本訳イエスの方は、彼に対してこう言われるお方により、誓約をもって祭司とされた、“(神なる)主は(つぎのように)誓われたが、(決して)心を変えられないであろう、「あなたは永遠に祭司である」と”。
前田訳しかし彼は誓いをもってです。彼について聖書はいいます、「主は誓われた。そしてそれを悔いたもうまい。なんじこそとこしえに祭司である」と。
新共同この方は、誓いによって祭司となられたのです。神はこの方に対してこう言われました。「主はこう誓われ、/その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である。』」
NIVbut he became a priest with an oath when God said to him: "The Lord has sworn and will not change his mind: `You are a priest forever.'"

7章22節 イエスは()くも(すぐ)れたる契約(けいやく)保證(ほしょう)となり(たま)へり。[引照]

口語訳このようにして、イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのである。
塚本訳──この点において、イエスは彼らにまさった(新しい)契約の保証人となられたのである。
前田訳このように、イエスはよりすぐれた契約の保証人とおなりです。
新共同このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。
NIVBecause of this oath, Jesus has become the guarantee of a better covenant.
註解: 原文の語勢から遠ざかっている。私訳「20、また彼は誓なしに祭司とせられざりし故に ─ 彼らは誓なしに祭司とせられたれど 21、彼は、彼に対して「『汝永遠に祭司たり』と主は誓いて悔い給わず」と言い給える者により誓をもって祭司とせられ給えり ─ 22、従ってイエスは優れる契約の保証となり給えり」、すなわち20節前半と22節が相対応して文章の中軸をなし、20節後半および21節はその説明をなしている。而して中心思想は同じく詩110:4であって、キリストはアロンの系と異なり神の誓によりて祭司となり給えることによりて旧約に優れる新約の保証となり給えることを示し、これがキリストの優越の第二の点であることを教えている。
辞解
[彼] キリスト。
[彼ら] アロンの系の祭司。
[言ひ給へる者] 神であることは明らかである。
[契約] diathêkê は「契約」および「遺言」の意味を有し、これより以後本書中に多く用いられている。9:16以下には明らかに遺言の意味に用いられているけれども、遺言と訳することが不適当なる場合も多い(ロマ11:27。ガラ4:24。エペ2:12。黙11:19等)。しかしながら聖書中にあらわれるこの文字は普通の契約とも趣きを異にし、(1)神の一方的恩恵による意思表示なること、(2)何物かを与うる約束なること、(3)相手方が一定の条件を充たすことによりてこれを得る資格が生ずること等の点より見て遺言のごとき性質を有する契約と見るべきであろう(Z0)。

7章23節 かの人々(ひとびと)()によりて[(なが)くその(つとめ)に](とどま)ることを()ざる(ゆゑ)に、祭司(さいし)となりし(もの)(かず)(おほ)かりき。[引照]

口語訳かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。
塚本訳それから、彼らは死によって(いつまでも)祭司の職に留まることを妨げられるため、祭司になった者(の数)が多いけれども、
前田訳多くの人々が祭司になりますが、それは職にとどまることを死によって妨げられるからです。
新共同また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました。
NIVNow there have been many of those priests, since death prevented them from continuing in office;

7章24節 されど(かれ)永遠(とこしへ)(いま)せば(かは)ることなき祭司(さいし)(つとめ)(たも)ちたまふ。[引照]

口語訳しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。
塚本訳イエス(の場合)は、“永遠に”生きながらえるのであって、彼のもつ祭司職は移り変りがないのである。
前田訳しかし彼はとこしえにおとどまりで、不変の祭司職をお持ちです。
新共同しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。
NIVbut because Jesus lives forever, he has a permanent priesthood.
註解: 第三の優越点は死に支配されるレビ族の祭司に対してキリスト永遠に不死に在し給う点である。前者は常に変更する故、我らは祭司その人に依り頼むことができない。然るに後者すなわちキリストは我らの望みに在し、かつ永遠に身につきて離れざる祭司職を保ち給う故に、彼に依り頼む者は平安を得ることができる。

7章25節 この(ゆゑ)(かれ)(おのれ)()りて(かみ)にきたる(もの)のために執成(とりなし)をなさんとて(つね)()くれば、(これ)(まった)(すく)ふこと得給(えたま)ふなり。[引照]

口語訳そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。
塚本訳それゆえ彼はまた、彼によって神に近づく人々を完全に救うことが出来る。彼は人々のために(神に)執成をしようとして常に生きておられるからである。
前田訳それゆえにこそ、彼は彼によって神に近づくものを永久にお救いになれるのです。彼はつねに生きて彼らを弁護なさいます。
新共同それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。
NIVTherefore he is able to save completely those who come to God through him, because he always lives to intercede for them.
註解: 「頼りて」dia は「通して」の意味で信仰によりてキリストに連なりキリストに在りて神の前に顕われる者すなわちキリスト者を指す。キリストは神の前にその人々の罪の執成しを為さんがために(ロマ8:26、27、34)永遠に生き給うが故に、かかる人々を完全に救い(罪の赦し、身体の復活、永遠の栄光に入ること)得給う。もしキリストにこの永遠性がなかったならば、彼を通して神に来る者は彼の死と共にその目的を達するを得ざるに至るであろう。永遠の祭司を有つ者は(さいわい)である。完全に救うことを得ざりしレビ族の祭司と比較せよ。

1-4-ホ 結論 7:26 - 7:28  

註解: 26−28節は1−25節の結尾であると共に、さらに遡って4:14−5:10の大祭司の思想を呼び起し、同時に次章以下の大祭司に関する思想の発端となっている(7:1−25においては「大祭司」なる語を用いず「祭司」なる語を用いている)。

7章26節 ()くのごとき(だい)祭司(さいし)こそ(われ)らに相應(ふさは)しき(もの)なれ、[引照]

口語訳このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。
塚本訳(わたしはイエスがメルキゼデクと同等の大祭司であることを、くどくどと述べてきた。なぜか。)こんな大祭司こそ、わたし達にふさわしいからである。聖なる、罪のない、汚れのない、罪人と分けられ、もろもろの天よりも高くされた大祭司!
前田訳このような大祭司こそわれらに向いています−−敬虔、実直、純潔で罪びとから離れていて、もろもろの天よりも高くいます方です。
新共同このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。
NIVSuch a high priest meets our need--one who is holy, blameless, pure, set apart from sinners, exalted above the heavens.
註解: (かく)の如き」は以上のごときの意味で前節までの説明を受けている。我らに必要であってこの必要に応ずる大祭司は只キリストのみである。

(すなは)(せい)にして(あく)なく、(けがれ)なく、罪人(つみびと)より(とほ)ざかり、諸般(もろもろ)(てん)よりも(たか)くせられ(たま)へり。

註解: (かく)の如き大祭司」の内容の詳説であって、大祭司たるキリストが如何にそれに必要なる諸性質を具備し給うかを示す。「聖にして」 hosios は心も行為も常に神によりて導かれること、「悪なく」は他人に対して悪意を包蔵せざること、「(けがれ)なく」は自己の内外に不潔を帯びざること、以上は神、人、自己に対するキリストの人格的特質である。「罪人より遠ざかり」断然罪人との関係を断ちて聖なる世界に住み、「諸般の天より高くせられ」て神の御前に直接に親しく立ち給う。大祭司はかかる者でなければならない。もし聖ならず、悪意と(けがれ)とを帯び、罪人と()し、この世の中に囚われているならば、かかる者は神の聖前に立ちて祭司の職を果すことができない。レビ21:10−15の規定および贖罪日の前に大祭司は七日間唯一人宮に住むべきこと等はこれらの諸要件の型のごときものであてキリストは事実としてこれらを完成し給うた。

7章27節 (ほか)(だい)祭司(さいし)のごとく()(おのれ)(つみ)のため、(つぎ)(たみ)(つみ)のために日々(ひび)犧牲(いけにへ)(ささ)ぐるを(えう)(たま)はず、その(ひと)たび(おのれ)(ささ)げて(これ)()(たま)ひたればなり。[引照]

口語訳彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。
塚本訳彼は(レビ系の)大祭司たちのように、まず自分の罪のために、つぎに民の罪のために、毎日犠牲を捧げるに及ばない。(あとにも先にも)ただ一度かぎり、(山羊や小牛でなく)自分自身を捧げて、これをなしとげられたからである。
前田訳彼は大祭司らのようにまず自らの罪のため、次に民の罪のために日ごといけにえをささげる必要がありません。このことを彼はひとたび自らをささげることによってなしとげられたのです。
新共同この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。
NIVUnlike the other high priests, he does not need to offer sacrifices day after day, first for his own sins, and then for the sins of the people. He sacrificed for their sins once for all when he offered himself.
註解: 人としての大祭司は自己の罪と民の罪のために日々犠牲を献ぐる必要があった。キリストにその必要がない、その故は大祭司は動物を屠って犠牲をささげるだけで不完全であるけれども(9:9)、キリストは己をささげて十字架上に犠牲となり給い(10:10−14。9:28)、神の御前に自己を献げ給い(8:3)、大祭司が日々に為してもなお足らざりしことを一度にて成就し給うたからである。私訳「そは己を献げて一度にこれを成し給いたればなり」(M0、Z0、I0)。
辞解
[日々] 多くの難問を起した文字である。大祭司がまず己の罪のため、次に民の罪のために犠牲をささげるのは年に一回で毎日ではない(9:7。レビ16:2、6、15、29以下)。毎日の行事は普通の祭司九人により大祭司の名において行われ、始めと終りに民の罪の贖いのための燔祭、中間に大祭司のための素祭が献げられた(S2)。ヘブル書の著者はこの二者を一括して、犠牲の本質を三カ条に要約し、(1)己の罪のため、(2)民の罪のため、(3)日々これを行うとしたのであろう。「之を成し」の中にイエスが「己の罪のため」に犠牲をささげ給いしことは含まれていないことは自明の事柄である。「之」は万人のために必要なる犠牲と解すべきである。

7章28節 律法(おきて)(よわき)みある人々(ひとびと)()てて(だい)祭司(さいし)とすれども、律法(おきて)(のち)なる(ちかひ)御言(みことば)は、永遠(とこしへ)(まった)うせられ(たま)へる御子(みこ)(だい)祭司(さいし)となせ(ばな)り。[引照]

口語訳律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。
塚本訳(なぜ一度で十分であるか。)律法は弱さをもつ人々を大祭司に任命するけれども、律法の後に来たこの誓約の御言葉は、“永遠に”完成された“御子(イエス)を”任命するからである。
前田訳律法は弱さを持つ人間を大祭司にしました。しかし律法の後になされた誓いのことばは、とこしえに全うされたみ子を大祭司にしたのです。
新共同律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。
NIVFor the law appoints as high priests men who are weak; but the oath, which came after the law, appointed the Son, who has been made perfect forever.
註解: 前節のごとくにレビ族の大祭司とキリストとの間に根本的の差異ある所以は(さき)にも述べしごとく律法によりて定められしレビの系の祭司はあらゆる人間的の霊肉の弱さを有ち(5:1、2)、死に支配せられ(23節)ているに反し、「律法の後の誓の御言」(詩110:4)すなわち神が誓いを加えて祭司となし給えるイエスは(7:20、21)26節のごとく、罪なく、悪なく、(けがれ)なく、死なく、永遠に(まっと)うせられ給いし神の子であるからである。▲キリストの来臨の後に旧約の祭司の意味が明白になったのであるが、旧約の祭司制度そのものも神がイスラエルの祖先に人間の罪を示し、またかかる人間がどうして神の前に立ち得るかの途を啓示したものであった。すなわち祭司制度そのものが一つの預言であった。
要義 [旧約の祭司制度および祭事の新約的意義]アロン以後イスラエルの祭司制度は連綿として継続して紀元七十年エルサレムの陥落の時に至った。その間に実行上において浮沈盛衰、変遷があったにしてもこれがユダヤ人の信仰の中心であったことには変りがなかった。而して燔祭、素祭、酬恩祭、罪祭等の祭事もまた彼らによって常に行われていた。しかしこれらは従来単に律法の命令として形式的に行われていたに過ぎないのであるけれども、キリスト来り給い死にて甦り給うに及んでこれらの制度祭事がみなキリストの型であり、凡てが彼によりて明らかにせられしことを知ることができた。神はイスラエルを選び、彼らにこの律法による祭司と祭事とを与え給いて彼らの良心を訓練し、かくしてキリストを遣わし給うことの準備たらしめたのである。人間の要するものは旧約的制度や形式ではなく、実にキリストの贖いと執成しである。而して凡てにおいて(まっと)うせられ給えるキリストは、己を献げて一度にこれを成就し給いしが故に幕の内に入り給える彼を大祭司として持つところのキリスト者は、彼によりて全うせられ完全なる救いに与ることができるのである。ゆえに新約の時代においては凡ての形式はその存在の意義を失ったのであって唯我らの罪のために十字架に懸り今は甦りて神の右に坐して我らのために執成して永遠に活き給う大祭司キリストに凡てをまかせて彼を仰ぎ見ることが我らの凡てでなければならない。