黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ガラテヤ書

ガラテヤ書第6章

分類
3 行為の部 5:13 - 6:17
3-2 愛の交り 6:1 - 6:10
3-2-イ 互に他人の重きを負え 6:1 - 6:5  

6章1節 兄弟(きゃうだい)よ、もし(ひと)(つみ)(みと)むることあらば、御靈(みたま)(かん)じたる(もの)柔和(にうわ)なる(こころ)をもて(これ)(ただ)すべし、[引照]

口語訳兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。
塚本訳兄弟たち、もし何か過ちを犯した人があったら、あなた達霊の人は、柔和な心でこんな人を正しい道に引戻さねばならない。(ただ)あなたも(一緒に)誘惑されないように、自分に注意せよ。
前田訳兄弟よ、もしなにか過ちに陥る人があっても、あなた方は霊の人として霊による柔和さでそのような人を正してください。自らも誘惑されないようにかえりみてください。
新共同兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。
NIVBrothers, if someone is caught in a sin, you who are spiritual should restore him gently. But watch yourself, or you also may be tempted.
註解: 私訳「兄弟よ、人がもし何らかの(あやまち)に捉えられているのであれば、御霊に属するあなたがたはそうした者を柔和の霊をもって矯正しなさい」。1−5節においてパウロはガラテヤの教会において過失に陥れる者ある場合いかにこれに対するべきかを教えている。兄弟の一人がその歩みの弱きために罪に追付かれ罪に陥る場合は御霊に属する者すなわち肉に従わず御霊に従って歩む人々はかかる弱き人を非難叱責することなく、御霊の特徴たる柔和の精神(ガラ5:23)をもってその過失を矯正するのがその第一の務めである。
辞解
[認むる] 「認むる」と訳されている prolambanô は逃げるより先に追付かれること。
[御霊に感じたる者] 「御霊に属する汝ら」Tコリ2:15Tコリ3:1
[正す] katartizô 破損しているものを修繕して完全にすること。Tコリ1:10註参照。

(かつ)[おのおの](みづか)(かへり)みよ、(おそ)らくは(おのれ)(さそ)はるる(こと)あらん。

註解: 他人の罪のみを注目していることは危険である。高慢、排他の心が自然にそこより生じて来る。また他人の罪を見て自分こそは決して罪に陥らないと思うことほど危険なことはない、サタンはかかる隙に乗じて我らを誘うゆえに自ら省みなければならぬ。
辞解
[省みよ] 前半の「あなたがた(口語訳))」よりの後半に単数の「自分自身(口語訳)」に変化しているのはこの反省を各人に強く印象せんがためである。

6章2節 なんぢら(たがひ)(おもき)()へ、(しか)してキリストの律法(おきて)(まった)うせよ。[引照]

口語訳互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。
塚本訳(互が)互の重荷を負え。そうすれば救世主の律法を成就することができる。
前田訳互いに重荷を負ってください。それこそキリストの律法を全うすることです。
新共同互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
NIVCarry each other's burdens, and in this way you will fulfill the law of Christ.
註解: 「而して」は「斯くして」と訳すべし。「重荷」は罪に悩む心で、基督者は愛を以って互いにこの苦悩に同情し合う事により、この重荷を分割し、罪に陥れる者の重荷を軽からしむべきである。そして斯くする事によりて基督の律法(Tコリ9:21。なおロマ3:27ロマ8:2参照)なる愛の律法を完全に充たさなければならない。なお本節には用語上の含蓄もあり「もしモーセの律法の重荷(ルカ11:46使15:10使15:28)を負う位ならば御互いの重荷を負うべし、もしモーセの律法を全うせんと欲する位ならばキリストの律法を全うせよ」との意味がありガラテヤ人の陥らんとする誤謬を風刺している。
辞解
[全うす] anaplêroô は完全に凡ての欠けたる所をも充すこと。

6章3節 (ひと)もし()ること()くして(みづか)()りとせば、(これ)みづから(あざむ)くなり。[引照]

口語訳もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。
塚本訳なぜなら、もしなんでもない人が自分を何かであるように思うならば、その人は自分をごまかしているのである。
前田訳なんでもないのにひとかどと思う人は自らをあざむいています。
新共同実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。
NIVIf anyone thinks he is something when he is nothing, he deceives himself.
註解: 直訳「人もし何物にもあらずして何物かなりと思わば自ら欺くなり」。自己の無価値なることを知りて始めて他人の罪過に同情を注ぎ、自らその重荷を分担することを得る。然るに自己に何らかの価値ありと思う高ぶりに陥っている者は無慈悲に他人の罪を責むることを知ってその他を知らない。かかる者は自己欺瞞に陥っているのである。

6章4節 各自(おのおの)おのが行爲(おこなひ)(ため)()よ、さらば(ほこ)るところは(ほか)にあらで、ただ(おのれ)にあらん。[引照]

口語訳ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。
塚本訳一人一人、自分のすることをしらべてみよ。するとその時、誇る理由は自分自身にだけあって、(決して)他人に(比較して誇るべきで)ない(ことに気づく)であろう。
前田訳めいめい自らの行ないをしらべてください。そうすれば他人に対してではなくて、もっぱら自らに対して(恩恵の)誇りを持ちえましょう。
新共同各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。
NIVEach one should test his own actions. Then he can take pride in himself, without comparing himself to somebody else,
註解: 他人が弱点を発揮して罪過に陥ったのを見てこれに比較して自己に誇ることは大なる誤りである、自分自身の行為をよく験して見るならば、他人ではなく唯自分自身に価値がある場合にのみ誇ることができるであろう。(▲すなわち自分の行為を検討するならば他人に対して誇るべき何ものもないことを知るであろう。自分だけに誇っているのは愚かなことである。)しかし実際自己の行為を験すならば何人も自己に誇るべき何物もなきことを見出すであろう。この自己検査によりて人は前節の自己欺瞞を免れることができる。

6章5節 各自(おのおの)おのが()()ふべければなり。[引照]

口語訳人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。
塚本訳一人一人がそれぞれの重荷を負っているからである。
前田訳それはめいめいが自らの荷を負うべきだからです。
新共同めいめいが、自分の重荷を担うべきです。
NIVfor each one should carry his own load.
註解: 他人の過失を見て自己に誇ることの誤っている所以は人はみな自己の罪の深さより生ずる良心の苦痛を持っており、自らこれを負わなければならないからである。自己の行為を験してこのことを発見することができる。
辞解
[荷] phortion はその軽重を問わず負担し得るだけの荷(船荷、手荷物等)で、従ってこれを負うことが当然のことである場合に用い、2節の「重き」barê は負い難き「重荷」を意味し、これを卸さんとする願望がこれに伴う場合に用いられる。人は自己に充分の「荷」を負うてはいるけれども他人の「重荷」を見てはこれを分担しなければならない。
要義1 [罪に陥れる者に対する態度]罪に陥りつつ悔改めざる者はこれを(すべて)の前において責むべきである(Tテモ5:20)、しかしながらその罪を悔いている者は重荷を負うている者故、これを愛をもって慰め、その重荷を分担すべきである。すなわちその罪のために受くべき内外の苦痛を彼と共にしなければならない。故に教会全体はその一員の罪のために苦しまなければならない。而して罪に陥りし者はその故に益々神の前に兄弟の前に懺悔の生涯を送らなければならない。
要義2 [他人の罪を見て誇るべからず]自己を省み、自己を験すことを忘れる者は他人の罪を見てこれを裁き、自らは何ら罪なきもののごとくに誇る場合が多い。しかしながらこれ大なる罪である。自ら何らの価値なきことを忘れて他を裁く者は自らも裁かれることを免れることができない。全く罪なくして我ら凡ての罪をみな負い給えるキリストを思い見るべきである。

3-2-ロ 信徒のコイノーニア 6:6 - 6:10  

6章6節 御言(みことば)(をし)へらるる(ひと)は、(をし)ふる(ひと)(すべ)ての()(もの)(とも)にせよ。[引照]

口語訳御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。
塚本訳けれども、御言葉を教えられている者は、善い物の分前をなんでもその教師に差上げよ。
前田訳みことばを教えられる人は教える人とよいものをすべてお分かちなさい。
新共同御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。
NIVAnyone who receives instruction in the word must share all good things with his instructor.
註解: 2節において人が罪に陥れる場合に互いに重荷を負い合うべきことを教えしと同様、物質的の方面においても互いに善き物すなわち物質的幸福を共にすべきことを本節以下において教えている。方面を異にしているけれども愛の行為たる点においてその軌を一にしている。而して第一に為すべきことは物質的生活に重荷を負う福音の教師に対しその弟子たちはすべての物資的必要または幸福すなわち善き物を分与すべきことである。教師のみを貧困の中に置き弟子のみ安佚(あんいつ)を貪るべきではない。教師にはこの権がある。パウロは自らこの権を用いなかったにもかかわらず、このことにつきしばしば教えている。Tコリ9:11Uコリ11:9ピリ4:10Tテモ5:17、18。
辞解
[善き物] 地上の財貨を指す。ルカ1:53ルカ12:18、19。ルカ16:25。これを「道徳的善」と解するは(M0)不適当である。
[共にせよ] koinôneô は「交わりを持つこと」Tヨハ1:3の「交り」はこれと同源語。

6章7節 (みづか)(あざむ)くな、(かみ)(あなど)るべき(もの)にあらず、(ひと)()(ところ)は、その()(ところ)とならん。[引照]

口語訳まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。
塚本訳思違いをするな、神は侮るべきではない。人は(自分で)蒔いたものを、また刈取らねばならない。
前田訳まちがわないでください。神はあなどられません。人はまくものを刈りとります。
新共同思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
NIVDo not be deceived: God cannot be mocked. A man reaps what he sows.
註解: 善を為さずして自ら善を為しているがごとくに考うる者は自ら欺く者である。自ら播く処のものを刈るのが当然であるにもかかわらず、そのことを思わずにあたかもかかることのなきかのごとくに生活するは神の存在を無視し、神を侮り奉っているものである。Uコリ9:6註参照。なおガラテヤ人が吝嗇(りんしょく)(=けち:広辞苑)なりしにあらずやと想像する学者がある、Tコリ16:1(L3)。
辞解
[侮る] muktêrizô は鼻を上向けにして嘲弄(ちょうろう)する姿。

6章8節 (おの)(にく)のために()(もの)(にく)によりて滅亡(ほろび)()りとり、御靈(みたま)のために()(もの)御靈(みたま)によりて永遠(とこしへ)生命(いのち)()りとらん。[引照]

口語訳すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。
塚本訳というのは、肉に蒔く者は肉から滅亡を刈取り、霊に蒔く者は(最後の日に神の)霊から永遠の命を刈取るであろう。
前田訳おのが肉にまく人は肉から滅びを刈りとり、霊にまく人は霊から永遠のいのちを刈りとります。
新共同自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
NIVThe one who sows to please his sinful nature, from that nature will reap destruction; the one who sows to please the Spirit, from the Spirit will reap eternal life.
註解: 私訳「己が肉〔の畑〕に播くものは肉より腐朽を刈りとり、御霊〔の畑〕に播く者は霊より永遠の生命を刈りとらん」。前節は種子の種類を述べ本節は畑の種類をいう(種子はそれぞれその畑と性質を同じうするものと考うべきである)。肉の畑に播くとは凡ての自己の肉の思いに支配せられ自己の肉の満足のために準備することであって、かかる者は6節におけるごとき教師と物質上の幸福を共にすることをせず、自己の肉のためにのみ労苦する。しかしながら彼らは結局永遠の生命を獲得することができず、永遠の滅亡に入るに過ぎない。然るに反対に御霊の畑に播く者、すなわち御霊に支配せられ御霊の満足し給うように準備する者は御霊の畑から永遠の生命なる立派な実を刈りとることができる。
辞解
[のために] eis は多くの学者(B1、M0、L3、Z0)により「の畑に」の意味に解せられ、かく解する方が適当である。改訳は原文の意味を伝えない。
[己が] 自己中心主義、利己主義を示し、他人と重荷を分たざる生活を示す。「御霊」に「己が」を付加しないのは御霊は己のものにあらざるが故である。

6章9節 われら(ぜん)をなすに()まざれ、もし(たゆ)まずば、(とき)いたりて()()るべし。[引照]

口語訳わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。
塚本訳わたし達は気を落さず善いことをしようではないか。怠けずにおれば、時が来ると(かならず)刈取るのだから。
前田訳たゆまずよいことをしましょう。気を落とさねば、よいおりに刈りとりえましょう。
新共同たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。
NIVLet us not become weary in doing good, for at the proper time we will reap a harvest if we do not give up.
註解: 御霊の畑に御霊の種子を播くことは換言すれば善を為すことである。これはいかに困難でも()むことなく力を落すことなく常に(かた)き決心と溌剌たる元気とをもって為さなければならない。かくして収穫の時によき果を刈り取らなければならない。
辞解
[()む、(たゆ)む] ()む」 enkakeô は事を為すの意思を失うこと。「(たゆ)む」ekluomai は事を為すの力を失うこと、前者は後者の原因である場合が多い。

6章10節 この(ゆゑ)(をり)(したが)ひて、(すべ)ての(ひと)(こと)信仰(しんかう)家族(かぞく)(ぜん)をおこなへ。[引照]

口語訳だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。
塚本訳従って、わたし達は時のある間に、すべての人に対し、とくに信仰仲間に対して、善を行なおうではないか。
前田訳それゆえ、おりあるかぎりすべての人に、とくに信仰の同胞によいことをしましょう。
新共同ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
NIVTherefore, as we have opportunity, let us do good to all people, especially to those who belong to the family of believers.
註解: この場合の「善を行え」も6節以下の関係より見るも、また「殊に」以下より見るも慈善的行為を励むことを意味する(Z0)。而してこの務めは機会あるごとに一般の人に対して行うべきであるけれども、社会関係に親疎の事実があるのでキリスト者としてはまず信仰を同うする同士に対して殊にこの務めを果さなければならない。かく教えてパウロは教師、全人類、キリスト者のすべてに対して善きものを共にすべき霊的共産の主義をここに教えている。
辞解
[(をり)(したが)ひて] 「機ある毎に」と訳する方が原語の語勢を伝えることができる。
[信仰の家族] 「信者同士」という意味で家とは関係がなく、神の家の家族というに同じ、エペ2:19Tテモ3:15Tペテ2:5Tペテ4:17ヘブ3:6
要義 [愛の共産主義─愛のコイノーニヤ]聖書は政治的、法律的、経済的共産主義を教えないけれども愛の共産主義を教える。すなわち罪に陥れる人がある場合に愛によりてその罪の重荷を分担すると同じく、物質的生活において重荷を負うているものに対しても同じくこの重荷を分担することはキリスト者の愛の当然の発露である。これを慈善と称して上層階級より下層階級に対する恩恵的行為と解するは誤りである。キリスト者の為すべき当然の愛のコイノーニヤ(交わり)である。而してキリスト教会において聖徒の交わりといえば聖餐式に与ることを意味するごとにくなっているけれども、実はこれは真の交わりではなく、真の交わりすなわちコイノーニヤは愛による苦楽の分担より外にない。ここに真の聖徒の交わりがある。

3-3 再び割礼無用論 6:11 - 6:17

6章11節 ()よ、われ()づから如何(いか)[に(おほい)]なる文字(もじ)にて(なんぢ)らに()(おく)るかを。[引照]

口語訳ごらんなさい。わたし自身いま筆をとって、こんなに大きい字で、あなたがたに書いていることを。
塚本訳見よ、わたしが自分の手であなた達に書くこの文字の、何と大きいことであろう!
前田訳見てください、なんと大きな文字でわたしが自筆でお書きするかを。
新共同このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。
NIVSee what large letters I use as I write to you with my own hand!
註解: パウロは他の多くの書簡と異なりこの書簡は全部自分で(したた)めたものであろう。而して彼は眼病にて視力が弱かりしためか(ガラ4:15)、または多くの迫害のために右手の動作に不自由を起していたためか、理由はは確定し得ないけれども大なる文字をもってこの書簡を(したた)めたのであろう。殊にこの書簡はパウロの心中欝勃(うつぼつ)たる悲憤に充ちて(したた)められたので自然文字も大きく乱暴に流れたのであろう。本節もTコリ16:21Uテサ3:17コロ4:18と同じく10節まで口授し11節またはその以下をパウロが手記したものと解する学者がも多いけれども(M0、L3、E0)本節はこれと異なりむしろピレ1:19と同じく全書簡に関するものと見るべきである(Z0、A1、C1、L1、B1、C2)。その故は前者の場合は全く異なれる語法を用いていることと辞解に説明するごとくパウロの用語例に反することと書簡そのものの性質とよりかく判断する方が適当なるが故である。
辞解
[大なる文字] 「長き書簡」(B1、C1、L1)または「醜き文字」(C2、Winer等)と読む説あれど、無理な読み方であり、かつ「大なる文字」にて意味上の差支えがない。
[書き贈る] egrapsa は不定過去形であるが書簡体不定過去で読者の手に入る時から見た過去であり多く用いられている。ピレ1:19ピレ1:21Tペテ5:12Tヨハ2:14Tヨハ2:21Tヨハ2:26Tヨハ5:21等。ただしパウロは egrapsa を後に従う文章についていった用例はない(Z0脚注参照)。

6章12節 (おほよ)(にく)において(うるわ)しき外觀(みえ)をなさんと(ほっ)する(もの)は、(なんぢ)らに割禮(かつれい)()ふ。これ(ただ)キリストの十字架(じふじか)(ゆゑ)によりて()められざらん(ため)のみ。[引照]

口語訳いったい、肉において見えを飾ろうとする者たちは、キリスト・イエスの十字架のゆえに、迫害を受けたくないばかりに、あなたがたにしいて割礼を受けさせようとする。
塚本訳(兄弟たち、)肉において見えを張りたい連中がみな、あなた達に割礼を強いる。(それは)ただキリストの十字架(を説くこと)によって、(ユダヤ人から)迫害されまいとするだけである。
前田訳人間的に見えを切りたがる人々はあなた方に割礼を強いようとします。それはもっぱらキリスト・イエスの十字架ゆえに迫害されないためです。
新共同肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。
NIVThose who want to make a good impression outwardly are trying to compel you to be circumcised. The only reason they do this is to avoid being persecuted for the cross of Christ.
註解: ユダヤ人にしてキリストの十字架を信じてこれを宣伝える者も、もし割礼を異邦人に強うるならば、律法を遵守しユダヤ教に反せざるがごとくに見ゆるので迫害を免れることができた。かかる輩が割礼を宣伝えるのは人々に好感を与えこれによりてこの迫害を免れんとするに過ぎない。
辞解
[肉において] 霊的のことでなく肉的人間的方面において。
[美しき外観をなす] euprosôpeô は直訳も意味も共に日本語の俗語「良い顔をする」に相当する。内心は貪慾や虚栄心や迫害を恐れる心に充ちつつ外部のみ正義の人らしい顔をし、律法を完全に遵守するごとくに装うこと。

6章13節 そは割禮(かつれい)をうくる(もの)すら(みづか)律法(おきて)(まも)らず、(しか)(なんぢ)らに割禮(かつれい)をうけしめんと(ほっ)するは、(なんぢ)らの(にく)につきて(ほこ)らんが(ため)なり。[引照]

口語訳事実、割礼のあるもの自身が律法を守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいために、割礼を受けさせようとしているのである。
塚本訳というのは、割礼を受けている彼ら自身が、律法を守らない。彼らがあなた達に割礼を受けさせたいのは、あなた達の肉において誇ろうとするのである。
前田訳割礼ある人々自身は律法を守らず、あなた方の人間的な面で誇るために割礼したいのです。
新共同割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。
NIVNot even those who are circumcised obey the law, yet they want you to be circumcised that they may boast about your flesh.
註解: ガラテヤの教会に対する偽教師らは割礼を受けることをもってその主義としている者であるにもかかわらず、彼ら自身前節のごとき虚偽を行うことによりて律法の精神に反している。そのくせに汝らに割礼を強うるのは汝らをして肉に割礼を受けしめ、確実に選民たるユダヤ人と同じに為したことの成功を誇らんとするに過ぎない虚しき誇である。
辞解
[割礼をうくる者] 異本に「受けし者」とあり、「受くる者」とは「受くることをその常習とするもの」の意。すなわちユダヤ人を指す。

6章14節 されど(われ)には、(われ)らの(しゅ)イエス・キリストの十字架(じふじか)のほかに(ほこ)(ところ)あらざれ。(これ)によりて()(われ)(たい)して十字架(じふじか)につけられたり、()()(たい)するも(また)(しか)り。[引照]

口語訳しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。
塚本訳しかし少なくともわたしは、わたし達の主イエス・キリストの十字架以外に、誇ることがないように!この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対して、十字架につけられている。
前田訳わたしは断じてわれらの主イエス・キリストの十字架のほか誇りますまい。彼によって世はわたしに対して、わたしも世に対して十字架につけられたのです。
新共同しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。
NIVMay I never boast except in the cross of our Lord Jesus Christ, through which the world has been crucified to me, and I to the world.
註解: パウロにとっては肉につける割礼のごときは全然問題ではなかった。キリストの十字架によりパウロもまたキリストと共に十字架上に死んでしまった(ガラ2:20)。それ故にかつてこの世における有望なる人であった彼は今や世に対してはもはや何の美わしさもなき死者となり、世はまた同様新生に入れられし今の彼に対しては死んだものである。彼と世とは全く別の存在となった。互いに他を詛われしものと見る。かかる偉大な事実は肉の割礼等によりてこれを得ることは夢にも思いも寄らざる点である。ゆえにパウロは唯このイエス・キリストの十字架に誇るのみでその以外に誇るべき何物をも持たなかった(ピリ3:2−8)。
辞解
[之によりて] イエスの十字架によりて。

6章15節 それ割禮(かつれい)()くるも()けぬも、(とも)(かぞ)ふるに()らず、ただ[(たふと)きは](あらた)(つく)らるる(こと)なり。[引照]

口語訳割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。
塚本訳なぜなら、割礼があるのも、割礼がないのも、なんの意味もない。ただ意味があるのは、(キリストによる)新しい創造。
前田訳たいせつなのは割礼でも無割礼でもなく、ただ新しい創造です。
新共同割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
NIVNeither circumcision nor uncircumcision means anything; what counts is a new creation.
註解: 神の前に義とせられ救われて良心の平安を得るためには信仰により聖霊によりて新たなる被造物とせられ、全然新たに生れることが必要であってその以外のことは(儀式、礼典、制度、組織、思想、学問等)その何たるかを問わず全く不必要である。それ故に割礼は有るも可無くも可、否、有無を問題とする必要すらない。ゆえに割礼を受けしことは何ら誇るに足らず、同様にこれを受けざることもまた誇るべき理由とはならない、との意。
辞解
[新に造られる事] kainê ktisis 「新たなる創造」新生せる人は旧き人の進化せるものにあらず、神により新たに造られしものである。

6章16節 ()(のり)(したが)ひて(あゆ)(すべ)ての(もの)(うへ)に、(かみ)のイスラエルの(うへ)に、平安(へいあん)憐憫(あはれみ)とあれ。[引照]

口語訳この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。
塚本訳この規範に従うすべての人々の上に、“平安”と憐れみとあらんことを。また神の“イスラエルの上に”も。
前田訳この基準によって歩む人々の上に、また神のイスラエルの上に、平和とあわれみがありますように。
新共同このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。
NIVPeace and mercy to all who follow this rule, even to the Israel of God.
註解: この法(基準)すなわち新生がキリスト教の根本であって他の儀式、制度、伝統等は数うるに足らざることを本旨とし、これに従って行進する凡ての者の上にパウロは神よりの平安と憐憫とを祈っている。而してかかる者こそ真のイスラエル、真のアブラハムの子(ガラ3:7)、神のイスラエルであって割礼を受けたものが真のイスラエルではない。
辞解
[法] kanôn は真直な棒を意味し、これに縄をつけて或は距離を測るに用い、または大工の定規にも用う、また一定の縄張りをもカノーンという。この以外に出づべからざるものをいう、従って一定の規律、基準等の意味となる。聖書の正経をカノーンというはこの文字。
[歩む] stoicheô を用う(ガラ5:25註参照)未来形は彼らの将来を思えるパウロの語。
[神のイスラエル] 「神のイスラエル」の上にある kai は「及び」ではなくこの場合は「すなわち」と読むべきであり、「神のイスラエル」は前記のごとき意味で(M0、A1、C1、L3、E0)、キリスト者となれるユダヤ人(B1、Z0)ではない。

6章17節 (いま)よりのち(たれ)(われ)(わづら)はすな、(われ)はイエスの(しるし)()()[びたる](ぶる(ゆえ))なり。[引照]

口語訳だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから。
塚本訳今後、だれもわたしに迷惑をかけてくれるな。このわたしの体にはイエスの焼印があるのだから!
前田訳これからだれもわたしをわずらわさないでください。わたしはイエスの印(いん)を体につけていますから。
新共同これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
NIVFinally, let no one cause me trouble, for I bear on my body the marks of Jesus.
註解: パウロは極めて不快なる心持をもって本書簡を(したた)め終りて後、かかる問題によりて煩わされることを好まざるもののごとく今後かかることを再びせざるように命じ、その理由として自己のイエスの使徒たる権威を主張し、その証拠としてイエスの僕たる印をその全身に受けていることを指している、この印とは彼が使徒としての活動において迫害のために受けし傷跡である。なおこの語の中には一種の皮肉を含むとも解し得べくすなわち全身にかくも傷を受けている以上この上に割礼の傷の問題で煩わされるは堪え難いことであるとの意と見ることができる。
辞解
[(しるし)] stigma 奴隷、兵卒、捕虜、時には神殿に仕うる奴隷等が額または手に烙印される印をいう。この場合は奴隷としての印の意味が適当する。
[()ぶ] bastazô は「負う」で重荷として負うこと、使徒職は光栄であると同時に重荷である、この上に彼に重荷を負わしむべきではない。
要義1 [新たに造られること]何故に律法は不要なりや、これキリスト者は新たに造られし者なるが故である。旧き肉はいかに割礼やその他の律法の行為をもって装飾しても結局神の前に義とされることができない。信仰によって新たに造られることが唯一の救いの途である。今日割礼を問題とする人はない。然るに洗礼その他の二三の礼典は初代における割礼の代わりにその位に座し、これを受くる者は救われ、然らざるものは亡ぶるがごとく論ぜられている。しかしながらかかるものといえども信仰によりて新たに造られることの貴きに比して数うるに足らない。
要義2 [割礼無割礼共に数うるに足らず]儀式礼典が新生命の貴きに比して数うるに足らざることは以上によりてこれを明らかにすることができる。しかしながらこれらがたとい新生の尊きに比して数うるに足らずとはいえ、これを行わざることが数うるに足ることであると思うことは又同様に大なる誤りである。これらを行わないことも行うことと同様に数うるに足らない。故に行うことを欲する者はこれを行うべし、欲せざる者は行うべからず、各々いかにすることが最もよく主に仕うる所以なりやを考え自己の信ずる処に従って行うべきである。自己の為すことを基準として他を裁いてはならない(ロマ14:23)。

分類
4 挨拶頌栄 6:18

6章18節 兄弟(きゃうだい)よ、(ねが)はくは(われ)らの(しゅ)イエス・キリストの恩惠(めぐみ)、なんぢらの(れい)とともに()らんことを、アァメン。[引照]

口語訳兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アァメン。
塚本訳わたし達の主、イエス・キリストの恩恵、あなた達の霊と共にあらんことを、兄弟たちよ、アーメン。
前田訳兄弟よ、われらの主イエス・キリストの恵みがあなた方の霊とともにありますように。アーメン。
新共同兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。
NIVThe grace of our Lord Jesus Christ be with your spirit, brothers. Amen.
註解: 結尾に「兄弟よ」と呼ぶことによりてこの書簡の厳しき調子を和らげ、キリストの恩恵を彼らの上に祈ることによりて彼らをキリストに再び結付けんと試みているのである。「なんぢらの霊」といいて単に「なんぢら」と呼ばざる所以は彼らの肉がさらに一層完全に殺し尽くされる必要がパウロの心を満たしていたからであろう。