黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ロマ書

ロマ書第6章

分類
3 救拯論 3:21 - 11:36
3-(1) 個人の救い 3:21 - 8:39
3-(1)-(2) 潔められる事 6:1 - 8:17
3-(1)-(2)-(イ) バプテスマによる死と生 6:1 - 6:11

註解: キリストの十字架の贖罪によりて功なくして義とされるに至った者はその結果不道徳に陥るやと云うに然らず。彼らは義とせられし当然の結果としてその行為も亦潔められるに至る。併し乍らこれは律法の行為とは全く異れる原則に基く。

6章1節 されば(なに)をか()はん、恩惠(めぐみ)()さんために(つみ)のうちに(とどま)るべきか、[引照]

口語訳では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。
塚本訳それでは、どういうことになるのだろうか。(罪が増せば恩恵も豊かになるならば、)恩恵が増し強まるために、わたし達は罪(の生活)を続けるべきであろうか。
前田訳それならわれらは何といいましょう。恩恵が増すために罪にとどまるべきですか。
新共同では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
NIVWhat shall we say, then? Shall we go on sinning so that grace may increase?
註解: 若し人が以上の如くにして(1:18-5:21)義とされるものならば「されば」我ら何と云うべきか。即ち人が律法の行為なしにキリスト・イエスの贖によりて義とされるならば(1:18-5:21)行為には全く無頓着であってよい訳ではないか、又若し罪の増す処恩恵も(いや)増すと云うならば(ロマ5:20)却て罪のうちに止まっていよいよ多く恩恵を受ける方がよい訳ではないか――と云うのがパウロが仮に自己を信仰の真義を理解せざる人の立場に置いて考えた議論である。パウロの「信仰」なる語の意義をパウロの解した様に解しない者は往々にしてこうした結論を引出し、又は事実こうした状態に陥る。

6章2節 (けっ)して(しか)らず、[引照]

口語訳断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。
塚本訳もちろん、そうではない。わたし達は罪との関係ではすでに死んでいるのに、、どうしてなお罪の中に生きていられよう。
前田訳断じて否です。罪に対して死んだわれらが、どうしてその中に生きえましょう。
新共同決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
NIVBy no means! We died to sin; how can we live in it any longer?
註解: 非常に強き否定の語。

(つみ)()きて()にたる(われ)らは(いか)(なほ)その(うち)()きんや。

註解: キリストの贖罪により信仰によりて義とされた者は、罪に対する関係より見れば事実死んだものである。即ち罪の奴隷であった旧き人、律法によりてはこの奴隷たる状態より脱し得ざりし弱き人が、キリストと共に死に(3、4節註参照)、罪との関係はこれによりて全部清算せられ全く罪とは縁なきものとなってしまった。こうしたものが罪の中に止まりその中に生きる筈がなく、又こうした事は不可能事である。但しこれは罪との関係即ち意思の問題であって、信仰に入ったものの肉に罪を犯す可能性が全然無くなったと云う意味ではない。根本的の罪、アダムの罪、(すなわち)サタンに服従している人間の状態が死滅し清算されたと云う事である。6、7章はこの状態に関して各方面よりこれを説明している。先ず第一にパウロの取り来りし例はバプテスマである。

6章3節 なんじら()らぬか、(おほよ)そキリスト・イエスに()ふバプテスマを()けたる(われ)らは、その()()ふバプテスマを()けしを。[引照]

口語訳それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
塚本訳それともあなた達は知らないのか、キリスト・イエスへと洗礼を受けたわたし達はみな(彼のものになって、)彼の死へと洗礼を受けたのである。
前田訳それとも、あなた方は知りませんか、キリスト・イエスへと洗礼されたわれらは、皆彼の死へと洗礼されたことを。
新共同それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
NIVOr don't you know that all of us who were baptized into Christ Jesus were baptized into his death?
註解: 直訳「又汝ら知らぬかキリスト・イエスの中に沈められし我らは、何れも、彼の死の中に沈められし事を」パウロはバプテスマの形式(水中に浸す礼)を取りて信仰の事実を説明し、形式そのものよりもその中に含まれる信仰上の意義を高調している。即ちバプテスマは形式としては水の中に沈められる事であるけれども、それは信仰によりてキリストの中に沈められキリストと人格的霊的合一の状態に入った事を示すのである。而してキリストとの霊的帰一は当然彼の死(受難、十字架、埋葬、復活を含める広義の死の事実)との霊的合一を意味する。従ってバプテスマを受けし基督者は彼の死の中に没入(バプテスマ)し自らもキリスト・イエスの死を死んだ事を意味す、この霊的の死の内容は次節以下に説明する処によりて明かである。
辞解
[バプテスマを施す] baptizô は「水中に沈める事」「水を以て充分に潤おす姿」「酒が全身に回っている姿」「人民が市街に殺到する姿」等を意味する。これより転じてバプテスマの式を施す事を意味する。本節の場合もパウロはこの式を意味しつつその内容に重きを置いている事に注意しなければならぬ。

6章4節 (われ)らはバプテスマによりて(かれ)とともに(はうむ)られ、[その]()(あは)せられたり。これキリスト(ちち)榮光(えいくわう)によりて死人(しにん)(うち)より(よみが)へらせられ(たま)ひしごとく、(われ)らも(あたら)しき生命(いのち)(あゆ)まんためなり。[引照]

口語訳すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
塚本訳だからこの死への洗礼によって、彼と一しょに(死んで一しょに)葬られたのである。これはキリストが父上の栄光によって死人の中から復活されたように、わたし達も(復活して)新しい命をもって歩くためである。
前田訳実に、死への洗礼によってわれらは彼とともに葬られたのです。それは、父の栄光によってキリストが死人の中から復活されたように、われらも新しいいのちに歩むためです。
新共同わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
NIVWe were therefore buried with him through baptism into death in order that, just as Christ was raised from the dead through the glory of the Father, we too may live a new life.
註解: キリストと基督者との霊的一致は、ただにその死とその埋葬に就てのみならず、その復活に就ても亦同様である。バプテスマは埋葬の型であり従ってバプテスマを受けし基督者はその信仰に於て、キリストと共に葬られ死の状態に確実に入ったものである――実際キリストを信じ彼と霊に於て一となれるものに取っては、キリストの死は自己の死である――併し乍らこれ永久にこの状態に於て終らんが為ではなく、甦らんが為である。キリスト復活して今も尚活きて働き給うと同じく、基督者なる我らも亦霊的に復活してこの新生命によりて歩み、かくして潔めを全うせんが為に外ならぬ。即ち聖潔の原理はバプテスマの示すが如く、死して甦り給えるキリスト・イエスとの霊的結合一致に在る。
辞解
[その死に合せられたり] 原文に「その」を欠く故にキリストの死にあらず一般に「死」を意味す、従て「死に到れり」等と訳すべきである(M0、Z0)。これを「死に到るバプテスマ」と訳して「バプテスマ」の形容句と見る説あれど(B1、G1)探らない。
[父の栄光により] キリストの復活は父なる神の万能の働きによる。而して死の暗黒に打勝ちて神はその栄光をあらわし給う(ヨハ11:40)。
[新しき生命] 原語は「生命の新しさ」で「旧生命」に対する「新生命」の方面よりも「死」に対する生命の新しさを強調す。
[▲歩む] 単に「生きる」意味ではなく、「行動する」事。従って口語訳は不適当である。

6章5節 (われ)ら[キリスト]に()がれて、その()(さま)にひとしくば、その復活(よみがへり)にも(ひと)しかるべし。[引照]

口語訳もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
塚本訳なぜなら、わたし達が(洗礼によって)彼と合体してその死にあやかる者になった以上、復活にもあやかるのは当然だからである。
前田訳もしわれらが彼の死の形にならって彼と合わさるならば、復活の形においてもそうでしょう。
新共同もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
NIVIf we have been united with him like this in his death, we will certainly also be united with him in his resurrection.
註解: 4節を更に進んで説明している。即ち基督者はキリストの死により彼と同じ死を経験し、彼の死に類似せる姿が自然に自己の中に発育するに至ったとするならば、同様にキリストの復活に類似せる姿も彼に具わるに至るであろう。而してこの新なる生命に歩み聖潔を全うする事を得るに至るであろう。
辞解
[接がれて] symphutos は「接木」の意味に採る説あれど(C1、I0)この字の本来の意味としては「共に発育する」とか「一つの生命として育つ」との意味でこの最後の意味がこの場合に適当している(M0、Z0、A1、E0)。
[キリストに] 原文にないが、この意味を含んで居る。

6章6節 (われ)らは()る、われらの(ふる)(ひと)、[キリストと](とも)十字架(じふじか)につけられたるは、(つみ)(からだ)ほろびて、()ののち(つみ)(つか)へざらん(ため)なるを。[引照]

口語訳わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
塚本訳わたし達はこのことを知っている。──(洗礼は十字架をあらわす。)古いわたし達は(キリストと)一しょに十字架につけられたが、これは罪の体がほろび失せて、わたし達がもう二度と罪の奴隷にならないためであると。
前田訳われらの知るとおり、われらの古い人が彼とともに十字架につけられたのは、罪の体が滅びて、もはや罪の奴隷にならぬためです。
新共同わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
NIVFor we know that our old self was crucified with him so that the body of sin might be done away with, that we should no longer be slaves to sin--
註解: 我ら信仰に入る前はアダムに属せる旧き人であり、その体は罪に事えていた(Uコリ5:17エペ4:22コロ3:9)。然るに信仰に入りてこの旧き人、罪の奴隷たる人はキリストと共に十字架につけられて死んでしまった。而してその目的は罪の道具となっていた肉体が、そうしたものとしては破壊され無能力とされてしまい、その後は我らは全く罪に事えず、その奴隷たる状態を脱してしまう為である。即ち信仰によりて新に生れたのは潔められんが為であるとの意味である。
辞解
[我らは知る] 原語「知りて」で前節と連絡しキリストと共に甦る事の内容を明かにす。
[旧き人] アダムに属する人で「肉」と云うに同じ「霊」なる「新しき人」と対立す。即ち新生を経験せざる人間の全体。
[キリストと共に十字架につけらる] 霊的結合の結果生ずる心の状態。
[罪の体] (1)罪の一団(C1)、(2)罪の宿る所たる肉体、(3)肉体そのもの等種々に解せられているが、本節の場合は「罪の道具となり罪を行っていた体」の意味であろう(M0、G1)。
[ほろび] の原語 katargeô はその働きを無くしてしまう事。

6章7節 そは()にし(もの)(つみ)より(のが)るるなり。[引照]

口語訳それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
塚本訳死んだ者は罪から解放されるからである。
前田訳死んだものは罪から解放されているからです。
新共同死んだ者は、罪から解放されています。
NIVbecause anyone who has died has been freed from sin.
註解: パウロはここに世間普通の事実を捉え来って前節(この後罪に事えざる事)の理由の説明を与えている。即ち人間は生きている間は罪の奴隷となっているけれども死ねば、その時より罪の支配を脱してしまう。故にキリストと共に旧き人を十字架につけた場合、罪の支配の下にいた旧き人は最早や死んだのである

6章8節 我等(われら)もしキリストと(とも)()にしならば、また(かれ)とともに()きんことを(しん)ず。[引照]

口語訳もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
塚本訳しかしキリストと一しょに死んだ以上は、一しょに生きることをもわたし達は信じている。
前田訳われらがキリストとともに死んだのならば、彼とともに生きようこともわれらは信じます。
新共同わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
NIVNow if we died with Christ, we believe that we will also live with him.

6章9節 キリスト死人(しにん)(うち)より(よみが)へりて(また)()(たま)はず、()もまた(かれ)(しゅ)とならぬを(われ)()ればなり。[引照]

口語訳キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
塚本訳キリストは死人の中から復活されたのであるから、もう二度と死なれることはなく、もう死が彼を支配することはできないことを、わたし達は知っているのである。
前田訳われらの知るとおり、死人の中から復活されたキリストは、もはや死にたまわず、死はもはや彼を支配しません。
新共同そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
NIVFor we know that since Christ was raised from the dead, he cannot die again; death no longer has mastery over him.
註解: 6、7節に於て死によりて罪の支配を脱する方面を論じ、8-10節に於ては復活によりて永遠に生き、死の支配を脱せる事を示す。キリストと霊的に一致結合せる基督者はキリストの死を自己の死と見ると同じく、キリストの復活を自己の復活と見、その後はその生命は復活して神の御許に生き給うキリストの生命に結付いている(コロ3:3ガラ2:20ピリ1:21)。従て彼はキリストと共に永遠に生きるであろう。この事を基督者が信ずる理由は(9節a)復活のキリストが永遠に死に給わざる事を知るが故である。死は決して復活のキリストを支配する事は有り得ない。
辞解
[死にしならば] 過去形。
[活きんこと] 未来形、実際の事実に適合している。
[主となる] 支配する意味で支配されるものは奴隷である。キリストは死の奴隷となり給う事はない。

6章10節 その()(たま)へるは(つみ)につきて(ひと)たび()(たま)へるにて、その()(たま)へるは(かみ)につきて()(たま)へるなり。[引照]

口語訳なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
塚本訳なぜなら、彼が死なれたのは、一度かぎり罪との関係で死なれたのであり、いま生きておられるのは、神との関係で(永遠に)生きておられるのである。
前田訳彼が死にたもうたのは罪に対して一度だけ死にたもうたのであり、いま生きたもうのは神に対して生きたもうからです。
新共同キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
NIVThe death he died, he died to sin once for all; but the life he lives, he lives to God.
註解: キリストは罪を犯し給わなかったけれども、人類の罪を己に負い人類の苦しみを苦しみ給うた。併し彼はその死によりこの罪との関係を一度に断絶し、而して死にし者は罪より脱れるが故にこの死によりて罪との関係は全く清算された。従ってその死は一度びであって、決して繰返す必要がなかった。ヘブ9:12Tペテ3:18。而して彼は復活して永遠に生き給う、この生命は罪とは全く無関係で、唯神との関係に於て活くる生命である。故にこの新なる生命は永遠に罪に支配せらるる事が無い。
辞解
[▲つきて] 次節の註にある様に「対して」の意味で関係を示す。

6章11節 ()くのごとく(なんぢ)らも(おのれ)(つみ)につきては()にたるもの、(かみ)につきては、キリスト・イエスに()りて()きたる(もの)(おも)ふベし。[引照]

口語訳このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。
塚本訳だからあなた達もそのように、自分を罪との関係では死んだ者、神との関係ではキリスト・イエスにあって生きている者と考えよ。
前田訳そのように、あなた方も、自らを罪に対して死んだもの、神に対してキリスト・イエスにあって生きるものとお考えなさい。
新共同このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
NIVIn the same way, count yourselves dead to sin but alive to God in Christ Jesus.
註解: 私訳「キリスト・イエスに在りて」を全文に関係せしむる為「罪につきては」の前に置く。基督者の心の態度は「キリスト・イエスに在る」生活即ちキリスト・イエスとの霊的結合の生活である。従って基督者はキリストと同一の死と同一の復活を経験したものであって、キリスト罪に対して死に給いし如く、我らも罪に対しては死ねる者となっていて、キリスト神に対して生き給う如く、我らも神に対して生きているものである。これ「キリスト・イエスに在る者」の真の生命である。基督者は先づこの事を明らかにし、かく「思う」事が必要で、この点を曖昧にして置く場合、聖潔は行われない。尚この死と生は我らの肉体そのものの死滅ではなく、罪及び神に対する関係である事に注意すべし、従って罪に陥り易き腐敗せる性質は我らに残存する。
辞解
[キリスト・イエスに在りて] パウロ特愛の句で殊にその晩年の書翰に多く用ている。本節の場合これを死と生との両方にかける事が正しい見方であろう(M0、B1、E0、Z0等)。

3-(1)-(2)-(ロ) 肢体を神にささげよ 6:12 - 6:14

6章12節 されば(つみ)(なんぢ)らの()ぬべき(からだ)(わう)たらしめて()(よく)(したが)ふことなく、[引照]

口語訳だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、
塚本訳(このようにあなた達と罪との関係は切れてしまった。)だから(いつまでも)罪をあなた達の死ぬべき体の王にして支配させ、その欲望に服従してはならない。
前田訳それで、罪をあなた方の死ぬべき体の王にして、その欲に従わないように。
新共同従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
NIVTherefore do not let sin reign in your mortal body so that you obey its evil desires.

6章13節 (なんぢ)らの肢體(したい)(つみ)(ささ)げて不義(ふぎ)(うつは)となさず、[引照]

口語訳また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。
塚本訳またあなた達の肢体を不道徳の武器にして罪にまかせていてはならない。あなた達は死人の中から命によみがえった者であるから、自分を神に、すなわち自分の肢体を義の武器にして神にまかせよ。
前田訳また、あなた方の肢体を不義の武器として罪にまかせないように。死人の中から生きかえったものとして自らを神にまかせ、肢体を義の武器として神におまかせなさい、
新共同また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。
NIVDo not offer the parts of your body to sin, as instruments of wickedness, but rather offer yourselves to God, as those who have been brought from death to life; and offer the parts of your body to him as instruments of righteousness.
註解: 前節の原理を自己の実生活に適用すれば12-14節の如きものとなる。即ち我ら基督者は皆罪に対して死んで居るものであるが、罪は未だ死んだのではない、又我らの四肢五体もやがては死ぬべきものではあるが、今尚生きていて且つそれぞれ欲望と本能とを持ち、且つこの体も四肢も共に我らのものである。夫故に我らと縁を断った筈の罪(パウロは罪を一人格として取扱っている)をして我らの体を支配せしめてはならない。即ち肢体を罪の臣として不義を行う道具としてはならない。かくする事は、全く関係を断絶した筈の罪に未だに所を得しめている事となる。かかる事は有るべきではない。
辞解
[死ぬべき体] 我ら(即ち我らの意思、人格)は罪に対しては既に死ねる者であるが「体」はやがて「死ぬべき体」で未だ死んでいない。
[その慾] 「体の欲」。
[肢体] 「体」の各部。
[捧げ] 服従の態度を取る事、現在動詞命令法。
[器] hopla は主として「武器」の意味に用いられる語。

(かへ)つて死人(しにん)(うち)より()(かへ)りたる(もの)のごとく(おのれ)(かみ)にささげ、その肢體(したい)()(うつは)として(かみ)(ささ)げよ。

註解: 死人の中より活き返りたる者は、最早や罪と関係なく罪の支配を受けず、却て全く新なる生命を得ているのである。基督者はそのような者である。若しそのようなものが再び罪の奴隷となるならば、それほど大なる自家撞着(じかどうちゃく)はない。彼らは自己とその肢体とをことごとく神にささげ義の為にこれを用いなければならない。
辞解
[▲反って] 口語訳の「むしろ」はallaの訳としては弱過ぎる。「反対に」と言う様な語勢。
[ささげよ] 不定過去形の命令法を用い断然かくなすべしとの強き意味を示している。

6章14節 (なんぢ)らは律法(おきて)(した)にあらずして恩惠(めぐみ)(した)にあれば、(つみ)(なんぢ)らに(しゅ)となる(こと)なきなり。[引照]

口語訳なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
塚本訳なぜなら、罪はもうあなた達の主人として支配することはないからである。あなた達は律法の下にいるのでなく、恩恵の下にいるのである。
前田訳罪はもはやあなた方を支配しませんから。あなた方は律法のもとにでなく、恩恵のもとにいるのです。
新共同なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
NIVFor sin shall not be your master, because you are not under law, but under grace.
註解: 律法は彼らの肉に打勝つ力が無い、故に律法の下にある者は罪の支配を脱する事が出来ない。然るに我らは律法より脱し恩恵のみによりて義とせられ恩恵の下にある。而して神の恩恵は律法よりも力強く、我らを支配して神に対する全き献身の生涯を送らしむる故に罪(なる人格的力)が入り来りて我らの主となるべき余地が少しもない。この事は理論的に考えて解し得べき事柄では無く、実験的に味得すべき真理である。パウロに取りては「律法の下にある事」も「恩恵の下に在る事」も共に血みどろの体験であった。15-23節は恩恵の下に在る事の説明、ロマ7:1-6は「律法」の下にあらざる事の説明と見る事を得。
要義1 [義とされる事と潔められる事との関係] この二者の関係を正しく理解する事は信仰生活の重点である。(1)潔められし程度だけそれだけ義とされると見る説は、信仰のみによりて義とされる教理に違反し、(2)潔められしが故に義とされるとする説は罪を悔改めし放蕩息子がそのままに義とされる事の真理に反し、(3)義とせられしものは既に全く潔められたとする説は人間の罪の現実を無視し、贖罪の教理の一面のみを強調し過ぐる誤に陥り、(4)反対に義とせられしのみにては救は不完全なる故第二の恩恵によりて全く潔められる事を要すとする説は、義とされる事の何たるかに関する聖書の立場を誤解していて、(5)義とせられし事の継続叉は維持のために潔められる事を要すとする説は二者の間に有機的関係を認めず自力と他力の折衷説の如き無力のものとなり、(6)又義とされる事は手段にして潔められる事は目的なりと見る説は神の目的は更に大にして復活聖化に在る事を見落すの嫌がある。要するに、(7)6:1-8:17にパウロが種々の方面よリ説明する如く、潔められる事は義とされる信仰そのものの当然の活動であり響の声に応ずるが如きものである。原因と結果にあらず、本体と枝葉にあらず実に生命とその活動であり、義とされる事が生命を指すとすれば潔められる事は、その活動を指示する、態と用との関係とも云う事が出来る。
要義2 [罪につきて死ぬとは如何]  ロマ6:2。罪につきて死ぬ apothanein tê hamartia とは罪を一の人格的存在と見た言い方でアダムは罪の奴隷であったと同じく、人類は凡て罪の奴隷となり罪に支配されている。而して罪が人間を支配する手段としては律法を利用する。故に信仰によリキリストと共に十字架につけられし者は、罪の審判を受け終ったものであり、罪の奴隷たる関係に立つ一人格としては死んでしまったものである。これを罪に対して死すると云うのであって、アダムの原罪から死して、キリストに新生する事である。夫故に(1)罪そのものの死を意味しない、罪は今でも我らを支配せんとして熱心に努力している。(2)又罪につきて死するとは行為を潔くする事、キリストに倣う事を比喩的に云ったに過ぎないと見るのも誤っている。罪に死する事は特種の具体的事実であり霊性の体験である。(3)叉単にその後已に克ちて聖潔を全うせんとする決心を指すのでもない。既に死んで居る完成せる事実である。
要義3 [肉体と罪との関係] ロマ6:12。聖書の立場より見ると肉体そのもの、叉その四肢五体、及びこれに伴う本能的要求そのものは罪ではない。これらは善にも悪にもあらず唯一の白然現象そのものである。唯これらの四肢五体とその自然の要求とが罪に臣従(しんじゅう)する時、換言すれば神に背きてサタンに服従する意思によりて支配される時、これらのものは不義の器となりて罪を犯すに至っているのである。従って四肢五体もその要求も共にこれを神にささげて義の器たらしむる事が出来る。故に罪と云い義と云うは何れも意思の問題である事に注意すべきである。

3-(1)-(2)-(ハ) 罪の僕と義の僕 6:15 - 6:23

6章15節 (しか)らば如何(いか)に、(われ)らは律法(おきて)(した)にあらず、恩惠(めぐみ)(した)にあるが(ゆゑ)に、(つみ)(をか)すべきか、(けっ)して(しか)らず。[引照]

口語訳それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。
塚本訳それでは、どうだろうか。わたし達は律法の下にいるのでなく恩恵の下にいるのだから、罪を犯そうではないかということになるのだろうか。もちろん、そんなことはない。
前田訳それならどうでしょう。律法のもとでなく恩恵のもとにいるからとて、われらはこれからも罪を犯すべきでしょうか。断じて否です。
新共同では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。
NIVWhat then? Shall we sin because we are not under law but under grace? By no means!
註解: 前節を受けて新なる議論に入る。律法の下にあれば罪行は一々審判かれ、これに反して恩恵の下にあれば罪は凡て赦される故罪を犯すとも少しも恐れる処が無いではないか、と云うのが恩恵の下にある事の意義を正しく解せざる者の発する反問であり又往々にして陥る欠点である。パウロは断然これを否定して、次節以後にその理由を叙述している。
辞解
[罪を犯すべきか] ロマ6:1の「罪のうちに止るべきか」よりも更に強く具体的に突き進んでいる。

6章16節 なんぢら()らぬか、(おのれ)(ささ)(しもべ)となりて、(たれ)(したが)ふとも()の((したが)うものの)(しもべ)たることを。[引照]

口語訳あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
塚本訳あなた達はこのことを知らないのか。──奴隷として服従するためにある人に自分をまかせれば、あなた達は服従するその人の奴隷であって、罪の奴隷になって死ぬか、それとも、(神に)従順の奴隷になって義とされ(て生き)るか、どちらかである。
前田訳このことをご存じありませんか。奴隷として服従するよう自らを人にまかせれば、あなた方はその奴隷として服従すべきであり、それは罪の奴隷として死に至るか、従順の奴隷として義に至るか、どちらかです。
新共同知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。
NIVDon't you know that when you offer yourselves to someone to obey him as slaves, you are slaves to the one whom you obey--whether you are slaves to sin, which leads to death, or to obedience, which leads to righteousness?
註解: 日本人の如く君臣主従の関係を了解する国民は本節の意味を容易に理解する事が出来る。即ちいやしくも他人の臣僕、又は奴隷となった場合はその主人に対して全服従を示すべき義務があり、且つかくするのが臣僕の姿である。僕はその主人に対して自由がない。

(あるひ)(つみ)(しもべ)となりて()(いた)り、(あるひ)從順(じゅうじゅん)(しもべ)となりて()(いた)る。

註解: 罪(即ち不信)と死、従順(即ち信仰)と義(即ち生)とは密接不離の関係にある。この場合死とは肉体の死のみならず霊的の死、道徳的の死をも意味す、聖書にこの二者は同一事実と見る(マタ8:22Tコリ15:29參照)。義は今現に義とされ、最後に義人として完成される迄の全体を示し「義人は生く」るが故に死の反対を示す。罪の奴隷か信仰の奴隷か人間はこの二者の中の一を選ばなければならぬ。肉は罪を好みて多くの人自己を罪の奴隷とする。
辞解
罪と従順、死と義とを相対照せしめているのは形式的に不備であるけれども内容的には差支えがない。形式的に云えば罪と神、従順と不従順、生と死、義と不義とを相対照すべきである。

6章17節 ()れど(かみ)感謝(かんしゃ)す、(なんぢ)()はもと(つみ)(しもべ)なりしが、(つた)へられし(をしへ)(のり)(こころ)より(したが)ひ、[引照]

口語訳しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、
塚本訳しかし神に感謝する、あなた達は(かつて)罪の奴隷であったが、(神から信仰の)教えの型に入れられて心からそれに服従し、
前田訳しかし神に感謝します。あなた方は罪の奴隷でしたが、教えの型に入れられてそれに心から従い、
新共同しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、
NIVBut thanks be to God that, though you used to be slaves to sin, you wholeheartedly obeyed the form of teaching to which you were entrusted.

6章18節 (つみ)より解放(ときはな)されて()(しもべ)となりたり。[引照]

口語訳罪から解放され、義の僕となった。
塚本訳罪(の奴隷たる身分)から自由にされて、義の奴隷にしていただいたのである。
前田訳罪から解放されて義の奴隷にされました。
新共同罪から解放され、義に仕えるようになりました。
NIVYou have been set free from sin and have become slaves to righteousness.
註解: 前節の如くなる故、パウロは翻ってロマの基督者の状態を見て感謝の念が油然と湧いて来た。その故は彼らの主人即ち服従の対象がかつては罪であったのが一変して義となったからであり、これ彼らの従順の結果であった。この場合彼らの従順はその伝えられし教に対して払われた。神に対する従順は神の教に対する従順としてあらわれる。
辞解
[伝えられし教の範に] 「汝らが付されし教の範」(G1)と読む説あれども取らず。「教の範」を「教のあるタイプ」即ちパウロ主義のタイプの教の意味に取る説あれど(M0)不適当なり(Z0)。
[義の僕] 神に対する絶対服従は結局義に対する絶対服従となる故に「従順の僕」(16節)「神の僕」(22節)と云うも結局同一なり。
[心より] 故に形式的表面的服従にあらず心の転向なり。

6章19節 ()(ひと)(こと)をかりて()ふは、(なんぢ)らの(にく)よわき(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。
塚本訳(奴隷の例でこんな)人間的の言い方をするのは、あなた達の理解力が(まだ)弱いからである。(わたしはこう言いたい。──かつて)あなた達が奴隷になって肢体を汚れと不法とにまかせて不法を行ったように、今度は(神の)奴隷になって肢体を義にまかせて聖くなれと。
前田訳人間的ないい方をしますが、それはあなた方の肉の弱さのためです。肢体を奴隷としてけがれと不法にまかせて不法をしたように、今は肢体を奴隷として義にまかせて聖に向かいなさい。
新共同あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。
NIVI put this in human terms because you are weak in your natural selves. Just as you used to offer the parts of your body in slavery to impurity and to ever-increasing wickedness, so now offer them in slavery to righteousness leading to holiness.
註解: 主従関係を以てこの信仰の世界の事を説明したのは一般に肉即ち人間の性来(うまれつき)の自然性弱くして、かくの如くに明瞭にせざれば人はこれを解する事が出来ないからである。

なんぢら(もと)その肢體(したい)をささげ、(けがれ)()(はう)との(しもべ)となりて()(はう)(いた)りしごとく、(いま)その肢體(したい)をささげ、()(しもべ)となりて(きよめ)(いた)れ。

註解: 12節に肢体を器物としてささぐる譬を挙げ、ここでは凡てを人格化している。「穢」は道徳的不潔の行為、「不法」は律法違反の行為で、この二者は「罪」の内容を為している。肢体をこれらの奴隷とせばその結果肢体そのものが不法化する。同様に我らの肢体を義の奴隷とすれば肢体はこれによりて聖化される。
辞解
本文に「何となれば」gar とあり、命令を以て理由と見るは不可能なれども「潔きに到れ」を「潔きに至る事は絶対に必要なる故」の意味に取れば、gar の意味も解し得(M0、G1)。
[潔き] hagiasmos は聖別せられし結果聖くなる事。

6章20節 なんぢら(つみ)(しもべ)たりしときは()(たい)して自由(じいう)なりき。[引照]

口語訳あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。
塚本訳なぜなら、あなた達が罪の奴隷であった時には、義に対して自由(の身)であって(勝手放題な生活をしてい)たが、
前田訳罪の奴隷であったとき、あなた方は義に対して自由でしたが、
新共同あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。
NIVWhen you were slaves to sin, you were free from the control of righteousness.
註解: 罪の奴隷であった過去の生涯に於ては罪は圧迫的権威を以て、我らに臨むけれども義は我らを支配する力が無く、我らは義に対しては何等の義務を負わざる自由人であった。我らと義との関係はかくも力弱きものであった。

6章21節 その(とき)(いま)(はぢ)とする(ところ)(こと)によりて(なに)()()しか、これらの(こと)(きはみ)()なり。[引照]

口語訳その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。
塚本訳その時いったいどんな実を得たのであったか。今なら恥ずかしいものではないか。それらのものの最後は死だからである。
前田訳そのころ何の実を得ましたか。今なら恥じ入るようなものでした。それらの極(はて)は死です。
新共同では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。
NIVWhat benefit did you reap at that time from the things you are now ashamed of? Those things result in death!
註解: 私訳「その時何の実を得しか、今恥る処の事にあらずや、これらの事の極は死なり」我らは義の奴隷にあらざる故、穢と不法とが我らを支配しその結果何等の善き果実、即ち潔き生活をも来し得ず唯今恥づる処の結果を招いたに過ぎなかった。これらの汚穢の終局は死であって、神の審判によりて永遠の死に至らざるを得ない。
辞解
[実] パウロに於ては常によき意味の結果を云う(ガラ5:19ガラ5:22エペ5:9ピリ1:11ピリ1:22等)。
[極] 終局で最後の審判の時の事
[死] 永遠の死で永遠の生命の反対。

6章22節 ()れど(いま)(つみ)より解放(ときはな)されて(かみ)(しもべ)となりたれば、(きよめ)にいたる()()たり、その(きはみ)永遠(とこしへ)生命(いのち)なり。[引照]

口語訳しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。
塚本訳しかし今は、罪から自由にされて神の奴隷にしていただき、一つの実を得ている。この実はあなた達を聖め、最後は永遠の命に至らせるのである。
前田訳今や罪から解放されて神の奴隷にされ、あなた方は聖化への実を持っています。その極は永遠のいのちです。
新共同あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
NIVBut now that you have been set free from sin and have become slaves to God, the benefit you reap leads to holiness, and the result is eternal life.
註解: 前2節の正反対の状態を示す。即ち回心して基督者となりし「今」は罪より自由とせられて義の奴隷、換言すれば神の奴隷となった。罪に対して自由なるが故にあらゆる汚穢と不法とは我らの上に絶対の権威を振わない。神の奴隷なるが故にその行為は自然潔められざるを得ず、而してその終局は、死の反対即ち永遠の生命である。信仰は当然善き行為を伴い遂に永遠の生命に至る。
辞解
[開放されて] 20節の「白由」と同文字、本節にも前節と同じく「実」と「極」との二つを揚げし事に注意せよ。
[実] 現在の生活上に於て生ずる行為、
[極] 最後の審判の終局に於て招く結果を指す。

6章23節 それ(つみ)の[(はら)ふ](あたひ)()なり、()れど(かみ)賜物(たまもの)(われ)らの(しゅ)キリスト・イエスにありて()くる永遠(とこしへ)生命(いのち)なり。[引照]

口語訳罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。
塚本訳なぜなら、罪が(奴隷に)払ってくれる給料は死であり、(従う者に与えられる)神の賜物は、わたし達の主イエス・キリストにおいての永遠の命だからである。
前田訳それは、罪からの報酬は死であり、神からの賜物はわれらの主キリスト・イエスにあっての永遠のいのちだからです。
新共同罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
NIVFor the wages of sin is death, but the gift of God is eternal life in Christ Jesus our Lord.
註解: 前節の如くになる理由は(gar)罪人の主たる罪はその奴隷として罪を犯す者(15節)に対して「死」なる賃銭を仕払い、基督者の主たる神はその奴隷として潔きに至る者に対して恩恵の賜物としてキリスト・イエスにある永遠の生命を与え給う事である。賃銭と恩恵との差異は絶大である。故に人は神の僕となる事によりて潔められ、且つ永生を獲得する。
辞解
[値] opsônia 兵士に金銭その他を以て仕払う賃銭の事。
[賜物 ] charisma は「恩恵による賜物」を意味する。本節の場合前者は複数、後者は単数。
[キリスト・イエスに在りて受くる] 単に「キリスト・イエスにある」でキリストとの霊の交際の状態に於て存在する永遠の生命を指す。永遠の生命とは単に時間的に永遠なるのみにては無意味であって、キリスト・イエスにある生命なるが故に意義ある生命となる。
要義1 [自由と奴隷] 如何に神の奴隷であっても奴隷である以上自由が無い事となる筈である。然るにパウロは我らの「召されたるは自由を与えられん為なり」と云う(ガラ5:13)は如何なる理由によるのであるか。蓋し人間は本来神の奴隷たるべく創造されたものである。故に神に対する服従、即ち従順は人間の最も本然の姿である。故に神の奴隷となり神に従う時、人間の良心は完全にこれに共鳴して少しの反抗をも為ない。そこに絶対の自由を見出すのである。「神の奴隷となるは真の自由なり」(アウグスチヌス)。
要義2 [奴隷の生涯] 人間は罪の奴隷か然らざれば神の奴隷かの何れか一を撰ばなければならない。この二者の何れにも隷属せざる人間は事実として存在しない。而して奴隷の生涯、又は臣従の生涯の何たるかは君臣の関係に於て特別の発達を遂げたる日本人に取りて最も理解し易き事実であって、武士がその主君に仕えし精神を以て神に仕うる者は、真に神の臣として理想的の基督者となる事を得、基督者は神の臣として罪とは絶縁し(自由となり)、その肢体を凡て神にささげて潔き実を結び、遂に神の恩恵の賜物として永生を獲得するに至る。これ基督者武士の誉である。
要義3 [聖潔めは神に従う者に与えられる聖霊の果実なり] 恩恵の下に在るが故に罪を犯すとも審判かれる事なしと考うる事は重大なる誤りである。神に従う者即ち信仰によりて神の恩恵の下に在る者は神の奴隷なるが故に、その肢体は当然神にささげられなければならず、従って神はその御霊によりてこの肢体を潔めこれによき実を結ばしめ給う。神の僕は神のものとして聖別せられ hagiazô 従って聖潔 hagiasmosに到る事が出来る。故に聖潔を欲する者は神の忠実なる奴隷となる事が先決問題である。
附記 [6:15-23の思想の表顕法] パウロは或は「罪の僕」(16節)と云い、又は「穢と不法の僕」(19節)と云い叉「従順の僕」(16節)「義の僕」(18節、19節)「神の僕」(22節)等と云い異なる語を以て結局同一の事実を云い表わしている所以は、パウロは哲学者の如くに術語そのものに精確なる内容を規定せんとしなかった為であって、パウロの有する豊富なる宗教的経験を種々の語を以て自由に表顕せんとしたからである。この意味に於て6:15-23を解する事が必要である。

ロマ書第7章
3-(1)-(2)-(ニ) キリストとの婚姻関係 7:1 - 7:6

註解: 6:14に聖潔の原理として「律法の下にあらざる事」と「恩恵の下にある事」との二つをパウロは掲げ、この後者をば6:15-23に於て主従関係を以て説明し、前者をばこれに7:1-6に於て婚姻関係を以て説明している。

7章1節 兄弟(きゃうだい)よ、なんぢら()らぬか、[引照]

口語訳それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。
塚本訳それとも、あなた達は知らないのか、兄弟たちよ、──これは法律を知っている人たちに言うのだが──法律は人が生きている間だけ人を支配するのである。
前田訳それとも、ご存じありませんか、兄弟たちよ、わたしは律法を知る人々に申しますが、律法は人が生きている間だけ人を支配します。
新共同それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。
NIVDo you not know, brothers--for I am speaking to men who know the law--that the law has authority over a man only as long as he lives?
註解: 勿論知っている筈であると云う意味でパウロが屡々(しばしば)用うる表顕法。▲口語訳「それとも」は正しい。

(われ律法(おきて)()(もの)(かた)る)

註解: 原文に括弧なし。律法は冠詞なき故に一般に律法を指す、即ち律法の何たるかを知る汝らに言っているのであるとの意、従って特にユダヤ人やユダヤ教への改宗者を指したのではない。

律法(おきて)(ひと)()ける(うち)のみ(これ)(しゅ)たるなり。

註解: モーセの律法も人の死後を束縛する事が出来ない、従って人が死ぬる場合律法の束縛を脱してしまう。

7章2節 (をっと)ある(をんな)律法(おきて)によりて(をっと)()ける(うち)(これ)(しば)らる。[引照]

口語訳すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。
塚本訳たとえば、結婚した婦人は夫が生きているうちは法律によって(夫に)結びつけられているが、夫が死ねば、(彼女を夫に結びつける)夫の法律から解かれる。
前田訳すなわち、とついだ女は夫が生きている間は律法によって彼に結ばれていますが、夫が死ねば、夫の律法から解放されます。
新共同結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。
NIVFor example, by law a married woman is bound to her husband as long as he is alive, but if her husband dies, she is released from the law of marriage.
註解: ▲直訳「夫の下にある婦は生きている夫に律法により縛られている」

()れど(をっと)()なば(をっと)律法(おきて)より()かるるなり。

註解: 律法によれば妻はその夫を離縁する権なき故夫の生ける中は夫婦関係を規定する律法によりて束縛せられる事は当然である。然れど夫死ねば妻も同時に妻としては死んだのであって夫の権利を定むる律法より解放される事当然である。(注意)前節によれば律法より解かれる者は死ねる人であるはず故、本節の場合生き残れる妻は律法より解かれる事とはならない様に見え、従って種々の解釈を以てこれを説明し去らんとしているけれども、その必要は無い。この齟齬は外見に過ぎず、実は夫の死は同時にその妻の妻としての死である。故に夫の死後は妻は妻にあらず一の婦となる。但しこれ凡て法律的の意味であって、道徳的の意味ではない。

7章3節 されば(をっと)()ける(うち)(ほか)(ひと)()かば淫婦(いんぷ)(とな)へらるれど、(をっと)()なばその律法(おきて)より解放(ときはな)さるる(ゆゑ)に、(ほか)(ひと)()くとも淫婦(いんぷ)とはならぬなり。[引照]

口語訳であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。
塚本訳従って、夫が生きているうちにほかの男のものになれば、姦婦と言われるけれども、夫が死ねば、たとえほかの男のものになっても、(夫の)法律から自由(の身)であるから、姦婦ではない。
前田訳したがって、夫が生きている間に、ほかの男に行けば悪女と呼ばれますが、夫が死ねば、その律法から自由なので、ほかの男のものになっても悪女にはなりません。
新共同従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。
NIVSo then, if she marries another man while her husband is still alive, she is called an adulteress. But if her husband dies, she is released from that law and is not an adulteress, even though she marries another man.
註解: これ社会一般の正義観でありまたモーセの律法の定めるところである。第1節の適用としては、夫の死は同時に妻たる資格より見てその女の死を意味し、従て夫婦関係を規定する律法は最早やその女を束縛しない。

7章4節 わが兄弟(きゃうだい)よ、()くのごとく(なんぢ)()もキリストの(からだ)により律法(おきて)()きて()にたり。これ(ほか)(もの)、すなはち死人(しにん)(うち)より(よみが)へらせられ(たま)ひし(もの)()き、(かみ)のために()(むす)ばん(ため)なり。[引照]

口語訳わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。
塚本訳だから、わたしの兄弟たちよ、(あなた達と律法との関係も同じである。)キリストの体(が十字架の上で死んだこと)によって、あなた達も律法との関係では(一しょに)殺されたのである。これはあなた達が(古い夫である律法の束縛をはなれ、)ほかの者、すなわち死人の中から復活された方、(新しい夫キリスト)のものになって、わたし達が神のために(善い)実を結ぶためである。
前田訳それゆえ、わが兄弟たちよ、キリストの体によってあなた方も律法に対して殺されたのです。これはあなた方がほかのもの、すなわち死人の中から復活された方のものになって、われらが神に対して実るためです。
新共同ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。
NIVSo, my brothers, you also died to the law through the body of Christ, that you might belong to another, to him who was raised from the dead, in order that we might bear fruit to God.
註解: キリストの十字架上の死は(あたか)も罪を夫とせる如き我らの死であった。而して夫の死は妻の死たると同じくキリストの死によりて罪の下に在りしものとしての我らは死し、而してこれが為に罪の下に在りし我らは我らを拘束せし律法より脱して自由の人となった。これ復活のキリストと再婚せんがためである。かくしてその結婚の実を神の為に結ぶ事が新しき生涯の目的である。
辞解
[キリストの体] 肉の体は罪の住家にして十字架につけらるべきものである。「律法に就きて死す」は一般に(M0・G1・A1・Z0・E0)律法が彼らの第一の夫であって、キリストの十字架による彼らの死は同時にその夫なる律法の死であると解するけれども、それよりもむしろ第一の夫は罪であって、キリストの体の死によりこの第一の夫より開放せられしものと解すべきである(T0参照)。▲律法は罪と言う夫に従っている人間を規律する法則である故、キリストと共に死ぬ事は此の律法に対する死であり、それからの解放となる。
[実を結ぶ] 結婚の譬によりて説明し来れる故、復活のキリストに()きてこれによりて善き行為を為し良き実を結ぶ事を子を生む事に譬えたのである。而してこの実を得る事は神のためである。

7章5節 われら(にく)()りしとき、律法(おきて)()れる(つみ)(じゃう)(われ)らの肢體(したい)のうちに(はたら)きて、()のために()(むす)ばせたり。[引照]

口語訳というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。
塚本訳なぜなら、わたし達が(生まれたままの)肉にあっ(て生きてい)た時には、律法(の刺激)による罪の情熱が肢体の中に働いて、わたし達は死のために(滅びの)実を結んだからである。
前田訳それは、われらが肉にあったときには、律法による罪の欲情が肢体の中にはたらいて、われらが死への実りをしたからです。
新共同わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。
NIVFor when we were controlled by the sinful nature, the sinful passions aroused by the law were at work in our bodies, so that we bore fruit for death.
註解: 第一の夫たる罪に束縛されていた間は、我らは肉のうちに在り、肉に従って生きていた(ロマ8:4ロマ8:8ロマ8:13エペ2:3)。即ち諸々の罪の慾情が律法によりて益々刺激挑発せられ(ロマ7:8)我らの四肢五体の内にその力を及ぼした。換言すれば罪を主人として肉のうちに在り肉に従って生くる場合は律法がこれを支配し、これによりて罪なる夫の情は我らの肢体に働いた。而してこの夫婦の関係より生れる果実は必ず恥づべき多くの罪であって、結局死に至らんが為のものである。
辞解
[肉] この場合(その他主なる場合に於て)物質的の「肉」ではなく又「肉体」でもない。神に(そむ)ける人間の心身及びその欲求及び活動原理の全体を云う、故に「肉に在りし時」とは「旧き人」と同意義で未だ新生に入らざる状態を云う。
[罪の情] の罪はこの場合個々の罪を指すと見るべく(複数形)情はその罪によりて引起さる情慾と見るべきであろう(尚種種の見方あり、G1)。
[死のために] 目的。前節「神のため」に対す。律法の下にあるものは、罪の妻であり、罪によりて悪を生み、死に到らしめられる。

7章6節 されど(しば)られたる(ところ)()きて我等(われら)いま()にて律法(おきて)より()かれたれば、儀文(ぎぶん)(ふる)きによらず、(れい)(あたら)しきに(したが)ひて(つか)ふることを()るなり。[引照]

口語訳しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。
塚本訳しかし今は縛られていた律法に対して死に、律法から解かれたので、(律法の)古い文字によらず、(福音の)新しい霊において(神に)仕えるのである。
前田訳今や縛られていた律法に対して死んで、律法から解放されたので、われらは古い文字によらず、新しい霊によって神に仕えるのです。
新共同しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。
NIVBut now, by dying to what once bound us, we have been released from the law so that we serve in the new way of the Spirit, and not in the old way of the written code.
註解: 「縛られたる所」は第一の夫で前節の如き状態を指す、我ら基督者はキリストと共に死して罪の下にある状態は亡びた。従って旧き関係を支配する文字の律法は最早や我らに取って存在を失い。而してキリスト我らの新なる夫として我らを支配し給い、新なる聖霊がこの新なる関係を規定する。夫故に我らは最早や旧き我らを支配せる旧き文字即ち律法によらず、新しき我らを支配する霊の新しきによりて事え、これによりて聖潔に至る果を結ぶ事が出来る。かくして律法の下にあらざる我らの中に却て聖潔が完成されるのである。
要義 [律法撤廃論] 律法との絶縁即ち律法撤廃はパウロの福音の根本義より生ずる彼の提唱であった。これを一般的に表顕すれば道徳無用論とも云うべきである。この主張は一見非常に危険なるが如きも然らず、律法の死せる文字と絶縁して、活ける聖霊の働きによりて動かされるに至れる以上、律法は成就せられ、無道徳は却って完全なる道徳となる。信仰と道徳との関係はここに於て一の有機的結合となる。

3-(1)-(2)-(ホ) 律法は罪を除くに能わず 7:7 - 7:13

7章7節 さらば(なに)をか()はん、[引照]

口語訳それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。
塚本訳それでは、どういうことになるのだろうか。律法(自体)が罪であろうか。もちろん、そうではない。(しかし罪と無関係ではない。)むしろ律法によらなければ、わたしは罪を知らなかった。なぜなら、律法が“(人のものを)欲しがってはならない”と言わなければ、わたしは欲を知らなかったであろう。
前田訳それなら、われらは何といいましょう。律法は罪でしょうか。断じて否です。むしろ律法によらねばわたしは罪を知らなかったのです。律法が、「欲ばるな」といわねば、わたしは欲を知らなかったでしょう。
新共同では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
NIVWhat shall we say, then? Is the law sin? Certainly not! Indeed I would not have known what sin was except through the law. For I would not have known what coveting really was if the law had not said, "Do not covet."
註解: 1-6節殊に5節の如く律法によれる罪の情が、我らに死の実を結ばしむるとするならば人或は言うであろう、

律法(おきて)(つみ)なるか、(けっ)して(しか)らず、

註解: 律法そのものは勿論罪そのものの如き悪しきものではない(12節
辞解
[罪なるか] を「罪を生む力なるか」と解する説あれど不可。

律法(おきて)()らでは、われ(つみ)()らず、

註解: 律法によりて始めて罪の認識が生ずる。ロマ2:14の如き異邦人の心に宿る律法によりても罪は知られるけれども(いわん)やモーセの律法によりて人は皆自己の罪を知らしめられる。律法を行わんとの熱心の強さに比例して罪の深さが認識される。

律法(おきて)に『(むさぼ)(なか)れ』と()わずば、慳貪(むさぼり)()らざりき。

註解: 本節前半に一般原則を述べしパウロは更に進んで、モーセの律法の第十戒をここに引用し、この戒命によらざれば自己の中に住む貪りの罪の如何なるものかを知るに至らなかった事の彼の経験を述べている。パウロが殊更に第十誡を撰みし所以は一は「貪り」の罪のみが外部に行動として顕われる以前の内心の決定であって他の『殺す勿れ』『盗む勿れ』等の如く外部に顕われず、従って他の罪を行動に表わして行わなかったパウロでも、貪りの罪が無い訳に行かなかった事と他の一の理由は十誡の他の誡命も要するに貪りであってこれが種種の表顕を取ったのであると見る事が出来るからである。
辞解
[貪り] epithumia は心がある物に向いこれによりて心の要求を満足せんとする決心、

7章8節 されど(つみ)(をり)(じょう)誡命(いましめ)によりて各樣(さまざま)慳貪(むさぼり)()がうちに(おこ)せり。[引照]

口語訳しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。
塚本訳ところが(“人のものを欲しがってはならない”という掟が来ると、今まで眠っていた)罪は(目をさまし、)掟(に反抗しこれ)を利用して、ありとあらゆる欲をわたしの中に起こした。すなわち、律法がなければ罪は死んでいるのである。
前田訳しかし罪は掟によって機会を得、あらゆる欲をわがうちにおこしました。律法がなければ罪は死んだものです。
新共同ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。
NIVBut sin, seizing the opportunity afforded by the commandment, produced in me every kind of covetous desire. For apart from law, sin is dead.
註解: 「貪る勿れ」との誡命が与えられない間は人間の心は貪りの罪たる事を知らず、貪りの心をすら意識せざる状態に在った。然るにこの誡命が与えられるに及び罪(人格的に見たる罪)はこれを機会に我らの心をこの律法によりて刺激して種々の貪りの心を造り出し、益々強く自己の慳貪(むさぼり)の罪を心の中に働かしむるに至った。律法を厳守せんとして自己の罪を益々甚だしく感ずるに至ったパウロの血涙記としてこの節を読むべきである。
辞解
[機] aphormê は「出発点」「根拠地」等の意味で律法が罪の動き出す根拠地となった事を示す。罪なる悪魔は善なる律法によりてさえも人の悪心を挑発する恐るべき存在である。
[起せり] katergazomai (ロマ4:15ロマ5:3)。

律法(おきて)なくば(つみ)()にたるものなり。

註解: 罪は律法を以て始めて我らに働きかけるのであって、律法なくば罪は(あたか)も死ねるものの如く不活動の状態に在る。(あたか)も蛇が神の命令を捉うるに非ざればエバの心の中に叛逆の心を起さしめ得ざりしが如し。

7章9節 われ(かつ)律法(おきて)なくして()きたれど、誡命(いましめ)きたりし(とき)(つみ)()き((かえ)り)、(われ)()にたり。[引照]

口語訳わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、
塚本訳かつて律法のない時には、(罪が死んでいて)わたしは(子供のように罪を知らずに)生きていた。しかし掟が来ると、(わたしの中の)罪が生きかえり、
前田訳わたしはかつては律法なしで生きていました。しかし掟が来ると、罪が生きかえって、
新共同わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、
NIVOnce I was alive apart from law; but when the commandment came, sin sprang to life and I died.
註解: 十二歳の頃よりイスラエルの子弟は律法を以て訓育された。その前までは自分を縛る律法が無かつたので、パウロは罪を知らざる自由にして溌刺たる生命に生きていた。然るに律法がパウロ(サウロ)の若き心に入り来りし時、これ迄死んでいた罪は生き返り、反対に自分は霊的には全く生くる心地だになく生くる力もなき死者となった。ここに律法の下にあるパウロの絶対的無力の状態が書かれている。
辞解
[罪は生き] 「生き返り」と訳すべきで、その意味は死の状態より生き返った事、即ち活動を始むるに至った事を示す。以前にアダムに於て、又は父母に於て生きていた罪が再び生き返った意味(M0、その他)ではない。
[曾て] 回心以前(L1)又は律法の内面的意義を発見せる以前等の意味と解するよりも「幼年時代」と解する事が適当である。
[「我は生き」「我は死にたり」] 共に霊的の意味でパウロの悲壮なる闘いの経験を示すにこれに勝れる言葉はない。
[誡命(いましめ)] モーセの律法は個々の誡命(いましめ)から成っている。
[来りしとき] パウロの心に意識されるに至りしとき。

7章10節 (しか)して(われ)生命(いのち)にいたるべき誡命(いましめ)(かへ)つて()(いた)らしむるを見出(みいだ)せり。[引照]

口語訳わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。
塚本訳(今度は)わたしの方が(罪によって)死んでしまった。(こうして)命へ導く使命を持つ掟そのものが、(実際はかえってわたしを)死へ導くものになったことが、わたしにわかった。
前田訳わたしは死にました。そして、いのちのための掟そのものが、死のためのものになったことがわたしにわかりました。
新共同わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。
NIVI found that the very commandment that was intended to bring life actually brought death.
註解: 誡命(いましめ)は「これを行う者は生くべし」(レビ18:5)とある如く、本来霊的の死者をして霊的生命に至らしめんが為のものであったのが、パウロの悲しき体験によれば反って霊的の死を来らしむるに過ぎないものである事を見出したのであった。彼の驚きと失望は如何ばかりであったろう。
辞解
本節の「生」「死」も、前節と同じく霊的の意味である。併し永遠の生、永遠の死の観念も、当然の事実としてこれより敷衍せられ得る事勿論である。唯パウロはここには寧ろ現在に於ける霊的経験に重点を置いている。

7章11節 これ(つみ)(をり)(じょう)誡命(いましめ)によりて(われ)(あざむ)き、かつ(これ)によりて(われ)(ころ)せ(ばな)り。[引照]

口語訳なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。
塚本訳なぜなら、罪は掟を利用してわたしを惑わし、掟によって(わたしを)殺したからである。
前田訳罪は掟によって機会を得てわたしを迷わし、掟によって殺しました。
新共同罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。
NIVFor sin, seizing the opportunity afforded by the commandment, deceived me, and through the commandment put me to death.
註解: 前節の如く全く逆な結果を来す所以は罪の為であって、(あたか)もアダム、ヱバの場合蛇来りて神の誡命(いましめ)を持ち出し、これによりて禁ぜられし木の実を一層魅惑的ならしめて彼女を欺き、而も神の誡命(いましめ)を利用して彼らを死に至らしめしと同じく、パウロの場合に於ても罪は誡命(いましめ)の機会を捉えて彼を罪の中に陥れ、彼を霊的の死に至らしめた。夫故にパウロの経験によれば彼を殺したものは、罪であるけれども、律法は(あたか)も彼を刺せる刀の如きものであった。
辞解
[欺き] 「欺き出し」と云う如き文字で欺きて正道を離れしむる事。

7章12節 それ律法(おきて)(せい)なり、誡命(いましめ)もまた(せい)にして(ただ)しく、かつ(ぜん)なり。[引照]

口語訳このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。
塚本訳だから律法自体は聖であり、掟も聖であり、義であり善である。
前田訳それゆえ、律法は聖であり、掟も聖で義で善です。
新共同こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
NIVSo then, the law is holy, and the commandment is holy, righteous and good.
註解: 7節の疑問の否なる事を7-11節の説明によりて明かにしその結諭として本節を掲げ、且つ本節は次節の前提となる。
辞解
[律法] モーセの律法。
[聖] 神より出でし聖なるものの正も善もこの中に含まるるものと見ることも出来る。
[正しく] 他人に対し、
[善なり] 自己の具有する性質で共に聖なるものの必然の結果である。パウロは律法そのものに対してはこれを神より出でしものとして充分の尊敬を払い律法そのものには非難さるべき何ものも無き事を知っていた。

7章13節 されば(ぜん)なるもの(われ)()となりたるか。(けっ)して(しか)らず、[引照]

口語訳では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。
塚本訳それでは、善いものがわたしにとって死(をもたらすもの)になったのだろうか。もちろん、そうではない。罪は罪であることが現われるために、善いものによって、(律法という善いものを悪用して、)わたしに死をもたらしたのである。これは掟によって、罪が一層はっきり罪になるためである。
前田訳それなら、善がわたしにとっては死になったのでしょうか。断じて否です。罪が罪として現われるために善によってわたしに死をもたらしたのです。これは罪が掟によっていっそう罪らしくなるためです。
新共同それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。
NIVDid that which is good, then, become death to me? By no means! But in order that sin might be recognized as sin, it produced death in me through what was good, so that through the commandment sin might become utterly sinful.
註解: 9、10節の如く誡命(いましめ)来りて我は死にたりとすれば、パウロの霊的死の原因は善なる律法にあった事となるか。若し然らば大なる不合理ではないか。決してそうではない。

(つみ)(つみ)たることの(あらは)れんために、(ぜん)なる(もの)によりて()[が(うち)]に()(きた)らせたるなり。これ誡命(いましめ)によりて(つみ)(はなは)だしき(あく)とならん(ため)なり。

註解: 一見律法が我を霊的の死に陥れた如くであるが、実は善なる律法ではなくこの律法を利用した罪であった。罪はかくして我を死に至らしめたけれども、神の経綸の点より見ればこれ却て罪の正義が明かにせられん為であり、叉罪が非常なる程度に於て罪深きものたる事を示さんが為であった。律法によりて罪は益益その正体を暴露した。併し乍ら律法は無力にしてこの罪に打勝つの力が無かった。これが罪と律法との関係の真相である。
辞解
[▲(はなは)だしき悪] 直訳では「超罪悪漢」となる。
要義1 [貪りの罪に就て] 「貪り」なる訳語は必ずしも原語の真意を伝えて居ない。自己の慾望の対象たる事物に心を注ぎこれを得んとする決意がこの「貪り」と訳されし epithumia  である。而してこの心は未だ行為として外部に表われざるに、既に心の中に存するが故に、他人の目に入り得ない罪であるだけ、それだけ凡ての人の陥っている罪である。故にモーセの十誠の他の箇條に照しては非難せらるべき点を有せざりしパウロも、この「貪る勿れ」の一ヶ條の前には全く自己の罪人たる事を告白せざるを得なかったのである。而して自己の「貪りの罪」は結局他の凡ての誡命(いましめ)命を破る基礎となる事に心付くならば、この内心の罪の如何に恐るべきであるかを知る事が出来る。
要義2 [律法に対する心の態度] 律法は単に外部に表われる行動の規則と見るべきではなく、心の中の状態に対する規準と見るべきである。イエスが山上の垂訓に於てモーセの律法を一層深きものとして完成し給える事によりてこの事は明かである。又律法は単に自己の処世上の便宜規定でもなく、又社会生活の必要から起った拘束でもなく、実に神の御言である。故に自己の利害や社会に及ぼす結果如何の点より見て律法に対すべきではなく、唯神の御言として心の中まで凡て神の御前に暴露し律法を以てこれを審くべきである。かくする時本章のパウロの言葉は始めて全き同感を禁じ得ざるに至るであろう。
附記 7-13節は或はこれを(1)ユダヤ國民の事を記述せるものと解し、又は(2)ユダヤの律法を擬人化しパウロをその代表者として記せるものと解し、又は(3)回心せる基督者、或は(4)パウロ自身等種種の見方があるけれども、実際はパウロ自身が律法に従わんとして罪の為に殺されし経験を基礎として罪、律法の何たるかを説明せるものと見るべきである。

3-(1)-(2)-(ヘ) 肉は罪の下にあり 7:14 - 7:25

註解: 14-25節に於てパウロは人間の肉の何たるかを説明する事により律法の無力と罪の力とを説明し、結局霊に従う信仰の生活のみが人を罪と律法とより自由ならしむる事の説明(第8章)に進むのである。14-25節が回心前の経験なりや回心後の経験なりやを論ずるは誤りであって、これは回心の前後を論ぜず人間の肉の本質そのものの叙述である。これに就ては附記參照。

7章14節 われら律法(おきて)(れい)なるものと()る、[引照]

口語訳わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。
塚本訳(要するに罪は掟になく、私の中の罪にある。)その訳は、わたし達が知っているように、律法は(神から与えられた)霊的なものである。しかしわたしは肉的なものであり、(奴隷として)売られて罪の(支配の)下にいるからである。
前田訳われらが知るように、律法は霊的なものです。しかしわたしは肉的なもので罪のもとに売られています。
新共同わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
NIVWe know that the law is spiritual; but I am unspiritual, sold as a slave to sin.
註解: 原文に「何となれば」gar とあり14節以下が7-13節の理由となっている事を示す。律法は神の霊によりて与えられ従ってその本質、その要求凡て霊的である。この事は「われら」何人も知悉(しりつく)していて疑う余地がない。かく霊的なるものが何故に我らに死を来らせたであろうか。
辞解
[霊なるもの] pneumatikos は「無形なるもの」「精神的なるもの」等の意味に非ず、「霊的のもの」「神の霊によるもの」等の意味。「肉」の反対

されど(われ)(にく)なる(もの)にて(つみ)(した)()られたり。

註解: パウロが「我」を以て代表せんとする生れ乍らの人間は「肉によりて生れしものは肉なり」と云われし肉なる人間である。この肉は罪の下に売られ罪に圧迫されているものであって、この肉の本質は人間の回心以前と以後とによりて差別は無い。これがパウロの肉の過去の状態であると共に又現在の状態である。
辞解
7-13節に於ては動詞の過去形を用い14-25節に於ては現在形を用いている。これ肉の本質は現在に於ても同様だからである(この点附記参照)。故に罪の下に売られた状態は回心以前のみに適用し得ると考えるのは誤りである。
[肉なるもの] sarkinos は sarkikos と異り本質、内容を云う。

7章15節 わが(おこな)ふことは(われ)しらず、[引照]

口語訳わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。
塚本訳(罪の命ずるままに動くだけで、)自分のしていることを知らないのである。(それは自分と結びつかない。)したいと思うことはせず、いやでたまらないことばかりしているのだから。
前田訳わたしは自分がしていることがわかりません。欲することはせず、いとうことをこそしています。
新共同わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
NIVI do not understand what I do. For what I want to do I do not do, but what I hate I do.
註解: 肉なる我は自己の行動を全く無我夢中でやっている。
辞解
[行ふ] katergazomai は「成就する」「成し終える」等の意味で行動とその結果とを含む。
[知らず] 明瞭なる善悪の認識とこれに従うの意思を以て行動しない。

(そは)()(ほっ)する(ところ)(これ)をなさず、(かへ)つて()(にく)むところは(これ)()[す](せば)なり。

註解: 前半の「知らず」の内容を証明する。即ち肉なる我の姿は実に矛盾撞着(どうちゃく)そのものであって我が為したいと思う事をば実行に移す事さえせず、反って心より憎みて為すまじと思う事を自然に行為に出してしまう。何たる憐むべきものである事よ。尚パウロは肉の中にも善を欲する心の片鱗、生れ乍らの良心が存在する事を断言している。肉のなやみは善悪を知るの知識が無い事ではなく、これを実行し能わぬ点に存す。
辞解
[為さず] の prassô と「為すなり」の poieô は共に「行為する」の意味であるが、前者は行動に重きを置き、後者は内心とその結果とを併せて考うる意味、「実を結ぶ」も同文字。

7章16節 わが(ほっ)せぬ(ところ)()すときは律法(おきて)(ぜん)なるを(みと)む。[引照]

口語訳もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。
塚本訳ところで、したくないと思うことばかりをしているのなら、律法が良いものであることを認めているわけである。
前田訳しかし、欲しないことをしているなら、律法はよいものと認めているわけです。
新共同もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
NIVAnd if I do what I do not want to do, I agree that the law is good.
註解: 律法に反する事は我が欲せぬ処であり、(したが)って肉の弱さのためにこれを為しつつも尚律法の善美なる事に心から同意を表しているのが肉なる我が姿である。自己の分離、内心の予盾かくも甚だしいのが人間の肉である。
辞解
[認む] sumphêmi 「同意する」の意で、律法それ自身の考えと一致する事。

7章17節 ()れば(これ)(おこな)ふは(もはや)(われ)にあらず、()(うち)宿(やど)(つみ)なり。[引照]

口語訳そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。
塚本訳そうすると、それをしているのはもはやこのわたしではなく、わたしの中に住み込んでいる罪である。
前田訳すると、それをするのはもはやわたしではなく、わがうちに住む罪です。
新共同そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
NIVAs it is, it is no longer I myself who do it, but it is sin living in me.
註解: 我が肉は腐朽して我が思いのままに行動せず、かえって我が中に宿り、我が肉をその自由に動かしている罪(ここでも罪は人格化して考えられている)が、我が肉をして心にもあらざる事を為さしめる。律法を守らんとする我が「心」と我をして律法に反かしめんとする「罪」とが「肉」を戦場として戦い、罪が常に勝を制するのが人の肉の状態である。

7章18節 (われ)はわが(うち)、すなわち()(にく)のうちに(ぜん)宿(やど)らぬを()る、(ぜん)(ほっ)すること(われ)にあれど、(これ)(おこな)(こと)((われ)に)なければなり。[引照]

口語訳わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
塚本訳なぜなら、わたしの中には、すなわちわたしの肉の中には、(何一つ)善いものが住んでいないことを、わたしは知っている。良いことをしたいと思う意志はいつもわたしにあるが、(悲しいかな、)する力がないのである。
前田訳わたしは知っています、わがうち、すなわちわが肉のうちには、善が住まないことを。意欲はわたしにあっても、善の実践がともないません。
新共同わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
NIVI know that nothing good lives in me, that is, in my sinful nature. For I have the desire to do what is good, but I cannot carry it out.
註解: 前節に於て自己の行為を自己に帰せず罪に帰せしパウロは、本節に於て進んでその理由を説明している。即ちパウロは「我」を「心」と「肉」に分ちこの二者の闘争が彼の実際の有様である事を述べ、この「肉」の中には唯罪が宿るのみにて義が宿らず、而も「心」なる我は肉を支配する力がない(したが)って唯善を欲するのみにてこれを行う事が出来ない。この内心の分離は凡ての肉なる人の本質である。
辞解
[我がうちすなわち] と云いて「我」なるものを肉の我と肉以外の我とに分つ。二重人格とも云うべき状態なり。
[我にあれど] 我の側にあり、手近にありとの意。
[行ふ] katergazomai 本書に多く用う。

7章19節 (そは)わが(ほっ)する(ところ)(ぜん)(これ)をなさず、(かへ)つて(ほっ)せぬ(ところ)(あく)(これ)をな[す](せば)なり。[引照]

口語訳すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
塚本訳したいと思う善いことはせずに、したくないと思う悪いことばかりを、するからである。
前田訳欲する善はせず、欲しない悪をこそしています。
新共同わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
NIVFor what I do is not the good I want to do; no, the evil I do not want to do--this I keep on doing.
註解: 前節の証拠 gar は我が欲する善が自然に行為となりて表れる様な事はなく反対に欲せぬ悪をば孜々(しし)として行動に移している如き状態がそれである。
辞解
15節後半と殆んど同一の内容なれど唯「為す」の原語 poieô と prassô とが反対に用いられている。15節よりも一層絶望的状態の甚しさを表す。

7章20節 (われ)もし(ほっ)せぬ(ところ)(こと)をなさば、(これ)(おこな)ふは(われ)にあらず、()(うち)宿(やど)(つみ)なり。[引照]

口語訳もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。
塚本訳ところで、したくないと思うことばかりをしているのだから、それをしているのはもはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪である。
前田訳しかし、欲しないことをするのはわたしでなくて、わがうちに住む罪がそれをするのです。
新共同もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
NIVNow if I do what I do not want to do, it is no longer I who do it, but it is sin living in me that does it.
註解: 我は我にして我にあらず「罪」なる他者が入り来たりて我を占領し我が欲せざる処を我をして行わしめる。

7章21節 ()れば(ぜん)をなさんと(ほっ)する(われ)(あく)ありとの(のり)を、われ見出(みいだ)[せり](す)。[引照]

口語訳そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。
塚本訳だから、わたしが良いことをしたいと思えば、かならず悪いことがわたしに生まれるという法則があることを、発見する。
前田訳それで、善をなそうと欲するわたしに、悪をもたらす律法があることがわかります。
新共同それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
NIVSo I find this law at work: When I want to do good, evil is right there with me.
註解: パウロはその内省と律法を行わんとする努力との結果、かかる驚くべく且つ絶望すべき鉄則が自己を縛っている事を発見した。凡ての人は若しパウロと同じ熱心を以て律法を行わんとするならばこの法則を発見するであろう。
辞解
[法] ho nomos は7節以後常にモーセの律怯の意味に解されて来た為この節もかく解すべしと主張する事により多種多様の読み方が行われるに至った。ここに一々これを揚げない(M0、G1、Z0その他参照)。改訳本文の如くに訳する事は多数説ではないけれども前後の関係上至当であろう(A1、G1)。
[我に悪あり] 18節と同じく我が近くにありとの事。

7章22節 われ(うち)なる(ひと)にては(かみ)律法(おきて)(よろこ)べど、[引照]

口語訳すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、
塚本訳すなわち、(わたしの中に二つのわたしがあって、)内の人としてのわたしは神の律法を喜ぶが、
前田訳わたしは内の人によって神の律法をよろこびますが、
新共同「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
NIVFor in my inner being I delight in God's law;

7章23節 わが肢體(したい)のうちに(ほか)(のり)ありて、()(こころ)(のり)(たたか)ひ、(われ)肢體(したい)(うち)にある(つみ)(のり)(した)(とりこ)とするを()る。[引照]

口語訳わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
塚本訳わたしの肢体にもう一つの(わたし、罪の)法則(を喜ぶ外の人としてのわたし)があり、(その神の律法を行おうとする)わたしの理性の法則と戦って、肢体にあるこの罪の法則の捕虜にすることを、経験するのである。
前田訳わが肢体には別の律法が見えます。それがわが精神の律法と戦って、わが肢体の中にある罪の律法の中にわたしを捕えるのです。
新共同わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
NIVbut I see another law at work in the members of my body, waging war against the law of my mind and making me a prisoner of the law of sin at work within my members.
註解: 「心」nous は内なる人、四肢五体は肉の活動の場所で外なる人である。パウロは又ここに四つの律法(又は法、原語同一)を掲げている。即ち「神の律法」と「心の(律)法」、「肢体の(律)法」と「罪の(律)法」前二者は同一物、後二者も同一事を指す、唯「心」「肢体」はその法則の働く場所を指し、「神」「罪」はその法則の源泉を指す。即ち神の律法を悦ぶ事が中なる人の心の法則、反対にこれと戦いこれを捕虜とするのが罪の法則、この罪の法則に従い心の法則と戦うのが外なる人の肢体の法則である。人の心は常にこの二種の法則の激烈なる闘争場であって、而も肉の人に於ては罪の法則の下に征服される惨澹たる敗戦の場所である。
辞解
[内なる人] 「心」と云うに同じく人間の良心の活動する部分、
[悦ぶ] sunêdomai は「共に悦ぶ」意味で心の中に悦ぶ事。
[戦い] antistrateuomai 相対して戦う事。

7章24節 (ああ)われ(なや)める(ひと)なるかな、()()(からだ)より(われ)(すく)はん(もの)(たれ)ぞ。[引照]

口語訳わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
塚本訳なんとわたしはみじめな人間だろう!だれがこの死の体から、わたしを救い出してくれるのだろうか。
前田訳わたしは何とみじめな人間でしょう。だれがわたしをこの死の体から救ってくれましょう。
新共同わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
NIVWhat a wretched man I am! Who will rescue me from this body of death?
註解: 肉の人の最後の叫びである。罪が肢体を支配して神の律法に(したが)わんとする心を窒息せしむる苦悩の体を有つ肉の人は実に死の体を(まと)っているものである。誰か悩まずにいられようか。パウロはこの死の体より我を救わん者は誰ぞと云いて、救主を呼び求めている。これ肉の人の如何なるものなるかを徹底的にここに記述せるパウロの当然達すべき最後の言である。
辞解
[悩める] talaipôros 多くの艱難に耐え苦痛を()めたる姿。
[死の体] 単に死すべき肉体と云う意味ではなく内心の分離闘争の為に死の苦痛を()めている体の事。
[救わん] 未来形

7章25節 (われ)らの(しゅ)イエス・キリストに()りて(かみ)感謝(かんしゃ)す、[引照]

口語訳わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
塚本訳──神様、感謝します、わたし達の主イエス・キリストによって!──従って、このわたしは理性では神の律法に仕えるが、肉では罪の法則に仕えるのである。
前田訳われらの主イエス・キリストによって神に感謝します。結局わたし自身、精神では神の律法に、肉では罪の律法に仕えているのです。
新共同わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
NIVThanks be to God--through Jesus Christ our Lord! So then, I myself in my mind am a slave to God's law, but in the sinful nature a slave to the law of sin.
註解: 前節と本節との間に「云う迄もなくそれは神より遣わされし独子イエス・キリストである」と云う心持が包含されていて、この心持が本節の感謝となって表われた。人間はその肉に於ては実に悩める憐むべきものであるけれども、キリストの救により霊によりてこの憐みの状態を脱出する事が出来る、これ唯信仰のみによるのであって信仰を離れて我らはその瞬間より再び肉の人としてこの苦闘に入るのである。

()れば(われ)みづから(こころ)にては(かみ)律法(おきて)につかへ、(うち)にては(つみ)(のり)(つか)ふるなり。

註解: 7節以下の結論であって肉の人たる我の状態を要約している。即ち心(霊と云わない事に注意せよ)と肉との対立、神の律法と罪の(律)法との争闘の修羅場が「我自身」即ち信仰を計算に入れない場合の自己の姿である。
要義1 [人類の最大不幸] 人間が善を欲する心と悪に引かれる力とを持っている動物であると云う事は、人類に取って最大の不幸である。若し神の律法に仕えんとする心が全く無いならば、人間は完全に肉の生活に安住し、何等の矛盾をも感ぜず、動物の生活の如く自然にして幸福なる生活を送る事が出来るであろう。又若し反対に自己を支配する罪の力が自己の中に宿っていないならば、容易に神の律法に従う事が出来る神の如き生活を送る事が出来るであろう。この(いず)れにもあらずこの二者の混戦の(ちまた)である事が人類の「悩める者」たる所以である。肉なる人間の本質は永久にかくの如くである。
要義2 [罪の力] 罪は我らを(おさ)えて神の律法に従わざらしめんとする一の力であって、我に反する一の存在であり而も我が肉に宿っているものである。我ら神の律法に従わんとの心を起さずにいる間は、罪はその力を示さない。然るに一朝神の律法に従わんとの心を起すに及んで、罪は(たちま)ちにしてその力を振起して我を壓伏(あっぷく)し、これに反抗せんとする力に正比例して罪も亦その力を増す。かくして遂に罪の力の下に完全に壓伏(あっぷく)されるに至るのが肉たる人の実際の状態である。罪をかかるものと認識するに至る事は神の律法に従わんとの堅き決心を以て進む人には、何人にも可能であって、パウロにあらずとも誰にても彼と同じ結論に達せざるを得ないのである。
附記1 [7:14-25の記載はパリサイ人パウロの経験なりや又は基督者たるパウロの経験なりや] この問題は古来激しく論議されて今日に至っている。
一、オリゲネス、その他のギリシヤ教父の大部分、及び近代の聖書學者M0、G1、B1、I0、E0の大部分はこれをパウロの改心以前の経験と解する。その理由とする処を綜合すれば、
(イ)「罪の下に売られたり」(14節)、「悪はこれを為す」(19、20節)、「(ああ)われ悩める人なるかな」(14節)等の如き文字は新生せる基督者殊にパウロの如き聖者につき用い得べからざる語なる事。
(ロ) 7-13節は明かにパウロのパリサイ人としての経験であるが、これより14節に突然基督者としての経験に移ると云う事は、文章の飛躍があまりに甚だしい事。
(ハ) 新生に入る場合の大なる変化を記さない事は不可解であり、この変化は寧ろ24節及び7章と8章との間の変化に於て見る事が出来る事。
(二) 若し15、19、23、24節の如き事が基督者の事実ならば福音は無力なる事となる。
(ホ) 基督者の内面的闘争は「霊」と「肉」との争である。然るに14-25節に於ては我が「心」と「罪」との戦であって基督者の内面生活と云うよりも寧ろ普通一般の人々の経験に同じき事。
(へ) 現在動詞を用いている所以は過去の経験を生き生きと叙述せんが為の筆法であると解する事も出来る事(文法上の劇的現在形)。

二、これに対しアウグスチヌスその他のラテン教父の多数及びルーテル、カルヴィン、メランヒトン、へザその他宗教改革者の多くはこれを基督者となりし後のパウロの経験と解している。その理由とする処は

(イ) 7-13節に過去動詞を用いしパウロは14節以下に於て我然現在動詞を用いている事。
(ロ)「律法の善なるを認む」(16節)、「中なる人にては神の律法を悦ぶ」(22節)、その他「善を欲す」(15、19節)と云う事の如き聖き思想は新生せざる罪人には存在し得ない事。
(ハ) 25節後半の如き心持は何れの基督者も現在に於てこれを所有して居り、従って14-25節の全体の心持は新生せる基督者にも皆そのまま存在している事。

以上二説の何れにも夫々真理を包んでいるけれども、何れも無理の点がある事を免れない。即ち

(a) 現在動詞を過去の経験の叙述と見るよりはそのまま現在の経験と見る方が優っている。
(b) 14-25には新生せる基督者に特有なる霊と肉との戦につきては全く記載せず、殊更(ことさら)に注意して他の用語を以て記している(ロマ8:1以下又はガラ5:16以下と比較せよ)。
(c) この種の経験を凡て新生以前の人のみのものと見るは事実に適合せず、又パウロも回心以後この種の経験なしと見る事が出来ない。

これを要するに14-25節を新生の前か後かと云う如き時間的区割によりて決定せんとするは誤の本であって人間の肉は回心前も後も同一の肉であり、唯新生の後は御霊によりてこの肉に打勝ち得るの差があるに過ぎない。故に基督者と(いえど)も若し御霊によりて歩まないならば、この肉の戦は直ちに自己の中に起って来るのである。その意味に於てこの戦は回心前も後も常に同一である。唯信仰により御霊に導かれる場合、この戦は霊と肉との戦となり霊の勝利に帰する。故に14-25節は新生せざるものは勿論新生せるものと(いえど)も御霊の導に自己を委ねざる場合には必ず起る内心の分離の姿である。信仰によりて常にキリストに連る事の必要なる所以はここにある。
附記2 [7:14-25はパウロの経験なりや] この個所に於ける現在動詞をそのまま現在の事実として解する人々の中にはこの経験が基督者中の基督者たるパウロとしては、あまりに甚だしい不潔さである為に往々これを以てパウロ自身の経験である事を否定し、或は律法の下にあるユダヤ人、又は弱き基督者等を想像しパウロはその立場に自己を置きて叙述せるものと解する説がある。併し乍ら若し前述の如く7:14-25を肉の本質そのものの説明と解するならば、以上の如き困難も消滅してしまう、従ってかかる解釈の必要が無くなる訳である。
要義3 [潔めの教理の誤謬に就て] 7:14-25を附記1、2の如くに解する時は我らは潔めに関する二つの誤れる思想を訂正する事が出来る。その一は潔められんとの熱心に燃ゆる基督者で、彼らは新生せるものは(あたか)も肉そのものを全然所有せざる状態、即ち肉が全く無力となる状態に達せざれば真に潔められしものにあらずとし、信仰の外に他に潔めなる特殊の恵が存在しこの潔めを受くる必要ありと唱うる説で、この種の思想は潔めの結果、(あたか)も肉そのものが死滅するが如くに考える誤に陥り易い。その二は潔められる事の熱心を有たない基督者で、パウロさえ基督者となりてよリ後もかかる悩みがあったとすれば、(いわ)んや我ら平凡なる基督者は欲する善はなさず欲せざる悪はこれをなすとも別に怪むに足らず、当然の事であると考うる思想である。併しパウロがここにこうした大なる苦悩を述べし所以が、これを止むを得ざる状態として弁護せんが為ではなく、却って、かかる肉を所有するが故に我らに取って信仰即ち不断の霊の導が絶対に必要である事を教えしものである。この事を悟るならばこうした誤に陥らないであろう。