ロマ書第7章
分類
3 救拯論
3:21 - 11:36
3-(1) 個人の救い
3:21 - 8:39
3-(1)-(2) 潔められる事
6:1 - 8:17
3-(1)-(2)-(ニ) キリストとの婚姻関係
7:1 - 7:6
註解: 6:14に聖潔の原理として「律法の下にあらざる事」と「恩恵の下にある事」との二つをパウロは掲げ、この後者をば6:15-23に於て主従関係を以て説明し、前者をばこれに7:1-6に於て婚姻関係を以て説明している。
口語訳 | それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。 |
塚本訳 | それとも、あなた達は知らないのか、兄弟たちよ、──これは法律を知っている人たちに言うのだが──法律は人が生きている間だけ人を支配するのである。 |
前田訳 | それとも、ご存じありませんか、兄弟たちよ、わたしは律法を知る人々に申しますが、律法は人が生きている間だけ人を支配します。 |
新共同 | それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。 |
NIV | Do you not know, brothers--for I am speaking to men who know the law--that the law has authority over a man only as long as he lives? |
註解: 勿論知っている筈であると云う意味でパウロが屡々 用うる表顕法。▲口語訳「それとも」は正しい。
(われ
註解: 原文に括弧なし。律法は冠詞なき故に一般に律法を指す、即ち律法の何たるかを知る汝らに言っているのであるとの意、従って特にユダヤ人やユダヤ教への改宗者を指したのではない。
註解: モーセの律法も人の死後を束縛する事が出来ない、従って人が死ぬる場合律法の束縛を脱してしまう。
7章2節
口語訳 | すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。 |
塚本訳 | たとえば、結婚した婦人は夫が生きているうちは法律によって(夫に)結びつけられているが、夫が死ねば、(彼女を夫に結びつける)夫の法律から解かれる。 |
前田訳 | すなわち、とついだ女は夫が生きている間は律法によって彼に結ばれていますが、夫が死ねば、夫の律法から解放されます。 |
新共同 | 結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。 |
NIV | For example, by law a married woman is bound to her husband as long as he is alive, but if her husband dies, she is released from the law of marriage. |
註解: ▲直訳「夫の下にある婦は生きている夫に律法により縛られている」
註解: 律法によれば妻はその夫を離縁する権なき故夫の生ける中は夫婦関係を規定する律法によりて束縛せられる事は当然である。然れど夫死ねば妻も同時に妻としては死んだのであって夫の権利を定むる律法より解放される事当然である。(注意)前節によれば律法より解かれる者は死ねる人であるはず故、本節の場合生き残れる妻は律法より解かれる事とはならない様に見え、従って種々の解釈を以てこれを説明し去らんとしているけれども、その必要は無い。この齟齬は外見に過ぎず、実は夫の死は同時にその妻の妻としての死である。故に夫の死後は妻は妻にあらず一の婦となる。但しこれ凡て法律的の意味であって、道徳的の意味ではない。
7章3節 されば
口語訳 | であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。 |
塚本訳 | 従って、夫が生きているうちにほかの男のものになれば、姦婦と言われるけれども、夫が死ねば、たとえほかの男のものになっても、(夫の)法律から自由(の身)であるから、姦婦ではない。 |
前田訳 | したがって、夫が生きている間に、ほかの男に行けば悪女と呼ばれますが、夫が死ねば、その律法から自由なので、ほかの男のものになっても悪女にはなりません。 |
新共同 | 従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。 |
NIV | So then, if she marries another man while her husband is still alive, she is called an adulteress. But if her husband dies, she is released from that law and is not an adulteress, even though she marries another man. |
註解: これ社会一般の正義観でありまたモーセの律法の定めるところである。第1節の適用としては、夫の死は同時に妻たる資格より見てその女の死を意味し、従て夫婦関係を規定する律法は最早やその女を束縛しない。
7章4節 わが
口語訳 | わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。 |
塚本訳 | だから、わたしの兄弟たちよ、(あなた達と律法との関係も同じである。)キリストの体(が十字架の上で死んだこと)によって、あなた達も律法との関係では(一しょに)殺されたのである。これはあなた達が(古い夫である律法の束縛をはなれ、)ほかの者、すなわち死人の中から復活された方、(新しい夫キリスト)のものになって、わたし達が神のために(善い)実を結ぶためである。 |
前田訳 | それゆえ、わが兄弟たちよ、キリストの体によってあなた方も律法に対して殺されたのです。これはあなた方がほかのもの、すなわち死人の中から復活された方のものになって、われらが神に対して実るためです。 |
新共同 | ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。 |
NIV | So, my brothers, you also died to the law through the body of Christ, that you might belong to another, to him who was raised from the dead, in order that we might bear fruit to God. |
註解: キリストの十字架上の死は恰 も罪を夫とせる如き我らの死であった。而して夫の死は妻の死たると同じくキリストの死によりて罪の下に在りしものとしての我らは死し、而してこれが為に罪の下に在りし我らは我らを拘束せし律法より脱して自由の人となった。これ復活のキリストと再婚せんがためである。かくしてその結婚の実を神の為に結ぶ事が新しき生涯の目的である。
辞解
[キリストの体] 肉の体は罪の住家にして十字架につけらるべきものである。「律法に就きて死す」は一般に(M0・G1・A1・Z0・E0)律法が彼らの第一の夫であって、キリストの十字架による彼らの死は同時にその夫なる律法の死であると解するけれども、それよりもむしろ第一の夫は罪であって、キリストの体の死によりこの第一の夫より開放せられしものと解すべきである(T0参照)。▲律法は罪と言う夫に従っている人間を規律する法則である故、キリストと共に死ぬ事は此の律法に対する死であり、それからの解放となる。
[実を結ぶ] 結婚の譬によりて説明し来れる故、復活のキリストに適 きてこれによりて善き行為を為し良き実を結ぶ事を子を生む事に譬えたのである。而してこの実を得る事は神のためである。
7章5節 われら
口語訳 | というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。 |
塚本訳 | なぜなら、わたし達が(生まれたままの)肉にあっ(て生きてい)た時には、律法(の刺激)による罪の情熱が肢体の中に働いて、わたし達は死のために(滅びの)実を結んだからである。 |
前田訳 | それは、われらが肉にあったときには、律法による罪の欲情が肢体の中にはたらいて、われらが死への実りをしたからです。 |
新共同 | わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。 |
NIV | For when we were controlled by the sinful nature, the sinful passions aroused by the law were at work in our bodies, so that we bore fruit for death. |
註解: 第一の夫たる罪に束縛されていた間は、我らは肉のうちに在り、肉に従って生きていた(ロマ8:4、ロマ8:8、ロマ8:13。エペ2:3)。即ち諸々の罪の慾情が律法によりて益々刺激挑発せられ(ロマ7:8)我らの四肢五体の内にその力を及ぼした。換言すれば罪を主人として肉のうちに在り肉に従って生くる場合は律法がこれを支配し、これによりて罪なる夫の情は我らの肢体に働いた。而してこの夫婦の関係より生れる果実は必ず恥づべき多くの罪であって、結局死に至らんが為のものである。
辞解
[肉] この場合(その他主なる場合に於て)物質的の「肉」ではなく又「肉体」でもない。神に叛 ける人間の心身及びその欲求及び活動原理の全体を云う、故に「肉に在りし時」とは「旧き人」と同意義で未だ新生に入らざる状態を云う。
[罪の情] の罪はこの場合個々の罪を指すと見るべく(複数形)情はその罪によりて引起さる情慾と見るべきであろう(尚種種の見方あり、G1)。
[死のために] 目的。前節「神のため」に対す。律法の下にあるものは、罪の妻であり、罪によりて悪を生み、死に到らしめられる。
7章6節 されど
口語訳 | しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。 |
塚本訳 | しかし今は縛られていた律法に対して死に、律法から解かれたので、(律法の)古い文字によらず、(福音の)新しい霊において(神に)仕えるのである。 |
前田訳 | 今や縛られていた律法に対して死んで、律法から解放されたので、われらは古い文字によらず、新しい霊によって神に仕えるのです。 |
新共同 | しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。 |
NIV | But now, by dying to what once bound us, we have been released from the law so that we serve in the new way of the Spirit, and not in the old way of the written code. |
註解: 「縛られたる所」は第一の夫で前節の如き状態を指す、我ら基督者はキリストと共に死して罪の下にある状態は亡びた。従って旧き関係を支配する文字の律法は最早や我らに取って存在を失い。而してキリスト我らの新なる夫として我らを支配し給い、新なる聖霊がこの新なる関係を規定する。夫故に我らは最早や旧き我らを支配せる旧き文字即ち律法によらず、新しき我らを支配する霊の新しきによりて事え、これによりて聖潔に至る果を結ぶ事が出来る。かくして律法の下にあらざる我らの中に却て聖潔が完成されるのである。
要義 [律法撤廃論] 律法との絶縁即ち律法撤廃はパウロの福音の根本義より生ずる彼の提唱であった。これを一般的に表顕すれば道徳無用論とも云うべきである。この主張は一見非常に危険なるが如きも然らず、律法の死せる文字と絶縁して、活ける聖霊の働きによりて動かされるに至れる以上、律法は成就せられ、無道徳は却って完全なる道徳となる。信仰と道徳との関係はここに於て一の有機的結合となる。
口語訳 | それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。 |
塚本訳 | それでは、どういうことになるのだろうか。律法(自体)が罪であろうか。もちろん、そうではない。(しかし罪と無関係ではない。)むしろ律法によらなければ、わたしは罪を知らなかった。なぜなら、律法が“(人のものを)欲しがってはならない”と言わなければ、わたしは欲を知らなかったであろう。 |
前田訳 | それなら、われらは何といいましょう。律法は罪でしょうか。断じて否です。むしろ律法によらねばわたしは罪を知らなかったのです。律法が、「欲ばるな」といわねば、わたしは欲を知らなかったでしょう。 |
新共同 | では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。 |
NIV | What shall we say, then? Is the law sin? Certainly not! Indeed I would not have known what sin was except through the law. For I would not have known what coveting really was if the law had not said, "Do not covet." |
註解: 1-6節殊に5節の如く律法によれる罪の情が、我らに死の実を結ばしむるとするならば人或は言うであろう、
註解: 律法そのものは勿論罪そのものの如き悪しきものではない(12節)
辞解
[罪なるか] を「罪を生む力なるか」と解する説あれど不可。
註解: 律法によりて始めて罪の認識が生ずる。ロマ2:14の如き異邦人の心に宿る律法によりても罪は知られるけれども況 やモーセの律法によりて人は皆自己の罪を知らしめられる。律法を行わんとの熱心の強さに比例して罪の深さが認識される。
註解: 本節前半に一般原則を述べしパウロは更に進んで、モーセの律法の第十戒をここに引用し、この戒命によらざれば自己の中に住む貪りの罪の如何なるものかを知るに至らなかった事の彼の経験を述べている。パウロが殊更に第十誡を撰みし所以は一は「貪り」の罪のみが外部に行動として顕われる以前の内心の決定であって他の『殺す勿れ』『盗む勿れ』等の如く外部に顕われず、従って他の罪を行動に表わして行わなかったパウロでも、貪りの罪が無い訳に行かなかった事と他の一の理由は十誡の他の誡命も要するに貪りであってこれが種種の表顕を取ったのであると見る事が出来るからである。
辞解
[貪り] epithumia は心がある物に向いこれによりて心の要求を満足せんとする決心、
7章8節 されど
口語訳 | しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。 |
塚本訳 | ところが(“人のものを欲しがってはならない”という掟が来ると、今まで眠っていた)罪は(目をさまし、)掟(に反抗しこれ)を利用して、ありとあらゆる欲をわたしの中に起こした。すなわち、律法がなければ罪は死んでいるのである。 |
前田訳 | しかし罪は掟によって機会を得、あらゆる欲をわがうちにおこしました。律法がなければ罪は死んだものです。 |
新共同 | ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。 |
NIV | But sin, seizing the opportunity afforded by the commandment, produced in me every kind of covetous desire. For apart from law, sin is dead. |
註解: 「貪る勿れ」との誡命が与えられない間は人間の心は貪りの罪たる事を知らず、貪りの心をすら意識せざる状態に在った。然るにこの誡命が与えられるに及び罪(人格的に見たる罪)はこれを機会に我らの心をこの律法によりて刺激して種々の貪りの心を造り出し、益々強く自己の慳貪 の罪を心の中に働かしむるに至った。律法を厳守せんとして自己の罪を益々甚だしく感ずるに至ったパウロの血涙記としてこの節を読むべきである。
辞解
[機] aphormê は「出発点」「根拠地」等の意味で律法が罪の動き出す根拠地となった事を示す。罪なる悪魔は善なる律法によりてさえも人の悪心を挑発する恐るべき存在である。
[起せり] katergazomai (ロマ4:15。ロマ5:3)。
註解: 罪は律法を以て始めて我らに働きかけるのであって、律法なくば罪は恰 も死ねるものの如く不活動の状態に在る。恰 も蛇が神の命令を捉うるに非ざればエバの心の中に叛逆の心を起さしめ得ざりしが如し。
7章9節 われ
口語訳 | わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、 |
塚本訳 | かつて律法のない時には、(罪が死んでいて)わたしは(子供のように罪を知らずに)生きていた。しかし掟が来ると、(わたしの中の)罪が生きかえり、 |
前田訳 | わたしはかつては律法なしで生きていました。しかし掟が来ると、罪が生きかえって、 |
新共同 | わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、 |
NIV | Once I was alive apart from law; but when the commandment came, sin sprang to life and I died. |
註解: 十二歳の頃よりイスラエルの子弟は律法を以て訓育された。その前までは自分を縛る律法が無かつたので、パウロは罪を知らざる自由にして溌刺たる生命に生きていた。然るに律法がパウロ(サウロ)の若き心に入り来りし時、これ迄死んでいた罪は生き返り、反対に自分は霊的には全く生くる心地だになく生くる力もなき死者となった。ここに律法の下にあるパウロの絶対的無力の状態が書かれている。
辞解
[罪は生き] 「生き返り」と訳すべきで、その意味は死の状態より生き返った事、即ち活動を始むるに至った事を示す。以前にアダムに於て、又は父母に於て生きていた罪が再び生き返った意味(M0、その他)ではない。
[曾て] 回心以前(L1)又は律法の内面的意義を発見せる以前等の意味と解するよりも「幼年時代」と解する事が適当である。
[「我は生き」「我は死にたり」] 共に霊的の意味でパウロの悲壮なる闘いの経験を示すにこれに勝れる言葉はない。
[誡命 ] モーセの律法は個々の誡命 から成っている。
[来りしとき] パウロの心に意識されるに至りしとき。
7章10節
口語訳 | わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。 |
塚本訳 | (今度は)わたしの方が(罪によって)死んでしまった。(こうして)命へ導く使命を持つ掟そのものが、(実際はかえってわたしを)死へ導くものになったことが、わたしにわかった。 |
前田訳 | わたしは死にました。そして、いのちのための掟そのものが、死のためのものになったことがわたしにわかりました。 |
新共同 | わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。 |
NIV | I found that the very commandment that was intended to bring life actually brought death. |
註解:誡命 は「これを行う者は生くべし」(レビ18:5)とある如く、本来霊的の死者をして霊的生命に至らしめんが為のものであったのが、パウロの悲しき体験によれば反って霊的の死を来らしむるに過ぎないものである事を見出したのであった。彼の驚きと失望は如何ばかりであったろう。
辞解
本節の「生」「死」も、前節と同じく霊的の意味である。併し永遠の生、永遠の死の観念も、当然の事実としてこれより敷衍せられ得る事勿論である。唯パウロはここには寧ろ現在に於ける霊的経験に重点を置いている。
7章11節 これ
口語訳 | なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。 |
塚本訳 | なぜなら、罪は掟を利用してわたしを惑わし、掟によって(わたしを)殺したからである。 |
前田訳 | 罪は掟によって機会を得てわたしを迷わし、掟によって殺しました。 |
新共同 | 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。 |
NIV | For sin, seizing the opportunity afforded by the commandment, deceived me, and through the commandment put me to death. |
註解: 前節の如く全く逆な結果を来す所以は罪の為であって、恰 もアダム、ヱバの場合蛇来りて神の誡命 を持ち出し、これによりて禁ぜられし木の実を一層魅惑的ならしめて彼女を欺き、而も神の誡命 を利用して彼らを死に至らしめしと同じく、パウロの場合に於ても罪は誡命 の機会を捉えて彼を罪の中に陥れ、彼を霊的の死に至らしめた。夫故にパウロの経験によれば彼を殺したものは、罪であるけれども、律法は恰 も彼を刺せる刀の如きものであった。
辞解
[欺き] 「欺き出し」と云う如き文字で欺きて正道を離れしむる事。
7章12節 それ
口語訳 | このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。 |
塚本訳 | だから律法自体は聖であり、掟も聖であり、義であり善である。 |
前田訳 | それゆえ、律法は聖であり、掟も聖で義で善です。 |
新共同 | こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。 |
NIV | So then, the law is holy, and the commandment is holy, righteous and good. |
註解: 7節の疑問の否なる事を7-11節の説明によりて明かにしその結諭として本節を掲げ、且つ本節は次節の前提となる。
辞解
[律法] モーセの律法。
[聖] 神より出でし聖なるものの正も善もこの中に含まるるものと見ることも出来る。
[正しく] 他人に対し、
[善なり] 自己の具有する性質で共に聖なるものの必然の結果である。パウロは律法そのものに対してはこれを神より出でしものとして充分の尊敬を払い律法そのものには非難さるべき何ものも無き事を知っていた。
7章13節 されば
口語訳 | では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。 |
塚本訳 | それでは、善いものがわたしにとって死(をもたらすもの)になったのだろうか。もちろん、そうではない。罪は罪であることが現われるために、善いものによって、(律法という善いものを悪用して、)わたしに死をもたらしたのである。これは掟によって、罪が一層はっきり罪になるためである。 |
前田訳 | それなら、善がわたしにとっては死になったのでしょうか。断じて否です。罪が罪として現われるために善によってわたしに死をもたらしたのです。これは罪が掟によっていっそう罪らしくなるためです。 |
新共同 | それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。 |
NIV | Did that which is good, then, become death to me? By no means! But in order that sin might be recognized as sin, it produced death in me through what was good, so that through the commandment sin might become utterly sinful. |
註解: 9、10節の如く誡命 来りて我は死にたりとすれば、パウロの霊的死の原因は善なる律法にあった事となるか。若し然らば大なる不合理ではないか。決してそうではない。
註解: 一見律法が我を霊的の死に陥れた如くであるが、実は善なる律法ではなくこの律法を利用した罪であった。罪はかくして我を死に至らしめたけれども、神の経綸の点より見ればこれ却て罪の正体が明かにせられん為であり、叉罪が非常なる程度に於て罪深きものたる事を示さんが為であった。律法によりて罪は益益その正体を暴露した。併し乍ら律法は無力にしてこの罪に打勝つの力が無かった。これが罪と律法との関係の真相である。
辞解
[▲甚 だしき悪] 直訳では「超罪悪漢」となる。
要義1 [貪りの罪に就て] 「貪り」なる訳語は必ずしも原語の真意を伝えて居ない。自己の慾望の対象たる事物に心を注ぎこれを得んとする決意がこの「貪り」と訳されし epithumia である。而してこの心は未だ行為として外部に表われざるに、既に心の中に存するが故に、他人の目に入り得ない罪であるだけ、それだけ凡ての人の陥っている罪である。故にモーセの十誠の他の箇條に照しては非難せらるべき点を有せざりしパウロも、この「貪る勿れ」の一ヶ條の前には全く自己の罪人たる事を告白せざるを得なかったのである。而して自己の「貪りの罪」は結局他の凡ての誡命 を破る基礎となる事に心付くならば、この内心の罪の如何に恐るべきであるかを知る事が出来る。
要義2 [律法に対する心の態度] 律法は単に外部に表われる行動の規則と見るべきではなく、心の中の状態に対する規準と見るべきである。イエスが山上の垂訓に於てモーセの律法を一層深きものとして完成し給える事によりてこの事は明かである。又律法は単に自己の処世上の便宜規定でもなく、又社会生活の必要から起った拘束でもなく、実に神の御言である。故に自己の利害や社会に及ぼす結果如何の点より見て律法に対すべきではなく、唯神の御言として心の中まで凡て神の御前に暴露し律法を以てこれを審くべきである。かくする時本章のパウロの言葉は始めて全き同感を禁じ得ざるに至るであろう。
附記 7-13節は或はこれを(1)ユダヤ國民の事を記述せるものと解し、又は(2)ユダヤの律法を擬人化しパウロをその代表者として記せるものと解し、又は(3)回心せる基督者、或は(4)パウロ自身等種種の見方があるけれども、実際はパウロ自身が律法に従わんとして罪の為に殺されし経験を基礎として罪、律法の何たるかを説明せるものと見るべきである。
註解: 14-25節に於てパウロは人間の肉の何たるかを説明する事により律法の無力と罪の力とを説明し、結局霊に従う信仰の生活のみが人を罪と律法とより自由ならしむる事の説明(第8章)に進むのである。14-25節が回心前の経験なりや回心後の経験なりやを論ずるは誤りであって、これは回心の前後を論ぜず人間の肉の本質そのものの叙述である。これに就ては附記參照。
口語訳 | わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。 |
塚本訳 | (要するに罪は掟になく、私の中の罪にある。)その訳は、わたし達が知っているように、律法は(神から与えられた)霊的なものである。しかしわたしは肉的なものであり、(奴隷として)売られて罪の(支配の)下にいるからである。 |
前田訳 | われらが知るように、律法は霊的なものです。しかしわたしは肉的なもので罪のもとに売られています。 |
新共同 | わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。 |
NIV | We know that the law is spiritual; but I am unspiritual, sold as a slave to sin. |
註解: 原文に「何となれば」gar とあり14節以下が7-13節の理由となっている事を示す。律法は神の霊によりて与えられ従ってその本質、その要求凡て霊的である。この事は「われら」何人も知悉 していて疑う余地がない。かく霊的なるものが何故に我らに死を来らせたであろうか。
辞解
[霊なるもの] pneumatikos は「無形なるもの」「精神的なるもの」等の意味に非ず、「霊的のもの」「神の霊によるもの」等の意味。「肉」の反対
されど
註解: パウロが「我」を以て代表せんとする生れ乍らの人間は「肉によりて生れしものは肉なり」と云われし肉なる人間である。この肉は罪の下に売られ罪に圧迫されているものであって、この肉の本質は人間の回心以前と以後とによりて差別は無い。これがパウロの肉の過去の状態であると共に又現在の状態である。
辞解
7-13節に於ては動詞の過去形を用い14-25節に於ては現在形を用いている。これ肉の本質は現在に於ても同様だからである(この点附記参照)。故に罪の下に売られた状態は回心以前のみに適用し得ると考えるのは誤りである。
[肉なるもの] sarkinos は sarkikos と異り本質、内容を云う。
口語訳 | わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 |
塚本訳 | (罪の命ずるままに動くだけで、)自分のしていることを知らないのである。(それは自分と結びつかない。)したいと思うことはせず、いやでたまらないことばかりしているのだから。 |
前田訳 | わたしは自分がしていることがわかりません。欲することはせず、いとうことをこそしています。 |
新共同 | わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。 |
NIV | I do not understand what I do. For what I want to do I do not do, but what I hate I do. |
註解: 肉なる我は自己の行動を全く無我夢中でやっている。
辞解
[行ふ] katergazomai は「成就する」「成し終える」等の意味で行動とその結果とを含む。
[知らず] 明瞭なる善悪の認識とこれに従うの意思を以て行動しない。
(そは)
註解: 前半の「知らず」の内容を証明する。即ち肉なる我の姿は実に矛盾撞着 そのものであって我が為したいと思う事をば実行に移す事さえせず、反って心より憎みて為すまじと思う事を自然に行為に出してしまう。何たる憐むべきものである事よ。尚パウロは肉の中にも善を欲する心の片鱗、生れ乍らの良心が存在する事を断言している。肉のなやみは善悪を知るの知識が無い事ではなく、これを実行し能わぬ点に存す。
辞解
[為さず] の prassô と「為すなり」の poieô は共に「行為する」の意味であるが、前者は行動に重きを置き、後者は内心とその結果とを併せて考うる意味、「実を結ぶ」も同文字。
7章16節 わが
口語訳 | もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 |
塚本訳 | ところで、したくないと思うことばかりをしているのなら、律法が良いものであることを認めているわけである。 |
前田訳 | しかし、欲しないことをしているなら、律法はよいものと認めているわけです。 |
新共同 | もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。 |
NIV | And if I do what I do not want to do, I agree that the law is good. |
註解: 律法に反する事は我が欲せぬ処であり、随 って肉の弱さのためにこれを為しつつも尚律法の善美なる事に心から同意を表しているのが肉なる我が姿である。自己の分離、内心の予盾かくも甚だしいのが人間の肉である。
辞解
[認む] sumphêmi 「同意する」の意で、律法それ自身の考えと一致する事。
7章17節
口語訳 | そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 |
塚本訳 | そうすると、それをしているのはもはやこのわたしではなく、わたしの中に住み込んでいる罪である。 |
前田訳 | すると、それをするのはもはやわたしではなく、わがうちに住む罪です。 |
新共同 | そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 |
NIV | As it is, it is no longer I myself who do it, but it is sin living in me. |
註解: 我が肉は腐朽して我が思いのままに行動せず、かえって我が中に宿り、我が肉をその自由に動かしている罪(ここでも罪は人格化して考えられている)が、我が肉をして心にもあらざる事を為さしめる。律法を守らんとする我が「心」と我をして律法に反かしめんとする「罪」とが「肉」を戦場として戦い、罪が常に勝を制するのが人の肉の状態である。
7章18節
口語訳 | わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。 |
塚本訳 | なぜなら、わたしの中には、すなわちわたしの肉の中には、(何一つ)善いものが住んでいないことを、わたしは知っている。良いことをしたいと思う意志はいつもわたしにあるが、(悲しいかな、)する力がないのである。 |
前田訳 | わたしは知っています、わがうち、すなわちわが肉のうちには、善が住まないことを。意欲はわたしにあっても、善の実践がともないません。 |
新共同 | わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 |
NIV | I know that nothing good lives in me, that is, in my sinful nature. For I have the desire to do what is good, but I cannot carry it out. |
註解: 前節に於て自己の行為を自己に帰せず罪に帰せしパウロは、本節に於て進んでその理由を説明している。即ちパウロは「我」を「心」と「肉」に分ちこの二者の闘争が彼の実際の有様である事を述べ、この「肉」の中には唯罪が宿るのみにて義が宿らず、而も「心」なる我は肉を支配する力がない随 って唯善を欲するのみにてこれを行う事が出来ない。この内心の分離は凡ての肉なる人の本質である。
辞解
[我がうちすなわち] と云いて「我」なるものを肉の我と肉以外の我とに分つ。二重人格とも云うべき状態なり。
[我にあれど] 我の側にあり、手近にありとの意。
[行ふ] katergazomai 本書に多く用う。
7章19節 (そは)わが
口語訳 | すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 |
塚本訳 | したいと思う善いことはせずに、したくないと思う悪いことばかりを、するからである。 |
前田訳 | 欲する善はせず、欲しない悪をこそしています。 |
新共同 | わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 |
NIV | For what I do is not the good I want to do; no, the evil I do not want to do--this I keep on doing. |
註解: 前節の証拠 gar は我が欲する善が自然に行為となりて表れる様な事はなく反対に欲せぬ悪をば孜々 として行動に移している如き状態がそれである。
辞解
15節後半と殆んど同一の内容なれど唯「為す」の原語 poieô と prassô とが反対に用いられている。15節よりも一層絶望的状態の甚しさを表す。
7章20節
口語訳 | もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 |
塚本訳 | ところで、したくないと思うことばかりをしているのだから、それをしているのはもはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪である。 |
前田訳 | しかし、欲しないことをするのはわたしでなくて、わがうちに住む罪がそれをするのです。 |
新共同 | もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 |
NIV | Now if I do what I do not want to do, it is no longer I who do it, but it is sin living in me that does it. |
註解: 我は我にして我にあらず「罪」なる他者が入り来たりて我を占領し我が欲せざる処を我をして行わしめる。
7章21節
口語訳 | そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 |
塚本訳 | だから、わたしが良いことをしたいと思えば、かならず悪いことがわたしに生まれるという法則があることを、発見する。 |
前田訳 | それで、善をなそうと欲するわたしに、悪をもたらす律法があることがわかります。 |
新共同 | それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 |
NIV | So I find this law at work: When I want to do good, evil is right there with me. |
註解: パウロはその内省と律法を行わんとする努力との結果、かかる驚くべく且つ絶望すべき鉄則が自己を縛っている事を発見した。凡ての人は若しパウロと同じ熱心を以て律法を行わんとするならばこの法則を発見するであろう。
辞解
[法] ho nomos は7節以後常にモーセの律怯の意味に解されて来た為この節もかく解すべしと主張する事により多種多様の読み方が行われるに至った。ここに一々これを揚げない(M0、G1、Z0その他参照)。改訳本文の如くに訳する事は多数説ではないけれども前後の関係上至当であろう(A1、G1)。
[我に悪あり] 18節と同じく我が近くにありとの事。
口語訳 | すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 |
塚本訳 | すなわち、(わたしの中に二つのわたしがあって、)内の人としてのわたしは神の律法を喜ぶが、 |
前田訳 | わたしは内の人によって神の律法をよろこびますが、 |
新共同 | 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、 |
NIV | For in my inner being I delight in God's law; |
7章23節 わが
口語訳 | わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 |
塚本訳 | わたしの肢体にもう一つの(わたし、罪の)法則(を喜ぶ外の人としてのわたし)があり、(その神の律法を行おうとする)わたしの理性の法則と戦って、肢体にあるこの罪の法則の捕虜にすることを、経験するのである。 |
前田訳 | わが肢体には別の律法が見えます。それがわが精神の律法と戦って、わが肢体の中にある罪の律法の中にわたしを捕えるのです。 |
新共同 | わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。 |
NIV | but I see another law at work in the members of my body, waging war against the law of my mind and making me a prisoner of the law of sin at work within my members. |
註解: 「心」nous は内なる人、四肢五体は肉の活動の場所で外なる人である。パウロは又ここに四つの律法(又は法、原語同一)を掲げている。即ち「神の律法」と「心の(律)法」、「肢体の(律)法」と「罪の(律)法」前二者は同一物、後二者も同一事を指す、唯「心」「肢体」はその法則の働く場所を指し、「神」「罪」はその法則の源泉を指す。即ち神の律法を悦ぶ事が中なる人の心の法則、反対にこれと戦いこれを捕虜とするのが罪の法則、この罪の法則に従い心の法則と戦うのが外なる人の肢体の法則である。人の心は常にこの二種の法則の激烈なる闘争場であって、而も肉の人に於ては罪の法則の下に征服される惨澹たる敗戦の場所である。
辞解
[内なる人] 「心」と云うに同じく人間の良心の活動する部分、
[悦ぶ] sunêdomai は「共に悦ぶ」意味で心の中に悦ぶ事。
[戦い] antistrateuomai 相対して戦う事。
7章24節
口語訳 | わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 |
塚本訳 | なんとわたしはみじめな人間だろう!だれがこの死の体から、わたしを救い出してくれるのだろうか。 |
前田訳 | わたしは何とみじめな人間でしょう。だれがわたしをこの死の体から救ってくれましょう。 |
新共同 | わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 |
NIV | What a wretched man I am! Who will rescue me from this body of death? |
註解: 肉の人の最後の叫びである。罪が肢体を支配して神の律法に循 わんとする心を窒息せしむる苦悩の体を有つ肉の人は実に死の体を纏 っているものである。誰か悩まずにいられようか。パウロはこの死の体より我を救わん者は誰ぞと云いて、救主を呼び求めている。これ肉の人の如何なるものなるかを徹底的にここに記述せるパウロの当然達すべき最後の言である。
辞解
[悩める] talaipôros 多くの艱難に耐え苦痛を甞 めたる姿。
[死の体] 単に死すべき肉体と云う意味ではなく内心の分離闘争の為に死の苦痛を甞 めている体の事。
[救わん] 未来形
7章25節
口語訳 | わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。 |
塚本訳 | ──神様、感謝します、わたし達の主イエス・キリストによって!──従って、このわたしは理性では神の律法に仕えるが、肉では罪の法則に仕えるのである。 |
前田訳 | われらの主イエス・キリストによって神に感謝します。結局わたし自身、精神では神の律法に、肉では罪の律法に仕えているのです。 |
新共同 | わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。 |
NIV | Thanks be to God--through Jesus Christ our Lord! So then, I myself in my mind am a slave to God's law, but in the sinful nature a slave to the law of sin. |
註解: 前節と本節との間に「云う迄もなくそれは神より遣わされし独子イエス・キリストである」と云う心持が包含されていて、この心持が本節の感謝となって表われた。人間はその肉に於ては実に悩める憐むべきものであるけれども、キリストの救により霊によりてこの憐みの状態を脱出する事が出来る、これ唯信仰のみによるのであって信仰を離れて我らはその瞬間より再び肉の人としてこの苦闘に入るのである。
註解: 7節以下の結論であって肉の人たる我の状態を要約している。即ち心(霊と云わない事に注意せよ)と肉との対立、神の律法と罪の(律)法との争闘の修羅場が「我自身」即ち信仰を計算に入れない場合の自己の姿である。
要義1 [人類の最大不幸] 人間が善を欲する心と悪に引かれる力とを持っている動物であると云う事は、人類に取って最大の不幸である。若し神の律法に仕えんとする心が全く無いならば、人間は完全に肉の生活に安住し、何等の矛盾をも感ぜず、動物の生活の如く自然にして幸福なる生活を送る事が出来るであろう。又若し反対に自己を支配する罪の力が自己の中に宿っていないならば、容易に神の律法に従う事が出来る神の如き生活を送る事が出来るであろう。この孰 れにもあらずこの二者の混戦の衢 である事が人類の「悩める者」たる所以である。肉なる人間の本質は永久にかくの如くである。
要義2 [罪の力] 罪は我らを壓 えて神の律法に従わざらしめんとする一の力であって、我に反する一の存在であり而も我が肉に宿っているものである。我ら神の律法に従わんとの心を起さずにいる間は、罪はその力を示さない。然るに一朝神の律法に従わんとの心を起すに及んで、罪は忽 ちにしてその力を振起して我を壓伏 し、これに反抗せんとする力に正比例して罪も亦その力を増す。かくして遂に罪の力の下に完全に壓伏 されるに至るのが肉たる人の実際の状態である。罪をかかるものと認識するに至る事は神の律法に従わんとの堅き決心を以て進む人には、何人にも可能であって、パウロにあらずとも誰にても彼と同じ結論に達せざるを得ないのである。
附記1 [7:14-25の記載はパリサイ人パウロの経験なりや又は基督者たるパウロの経験なりや] この問題は古来激しく論議されて今日に至っている。
一、オリゲネス、その他のギリシヤ教父の大部分、及び近代の聖書學者M0、G1、B1、I0、E0の大部分はこれをパウロの改心以前の経験と解する。その理由とする処を綜合すれば、
(イ)「罪の下に売られたり」(14節)、「悪はこれを為す」(19、20節)、「噫 われ悩める人なるかな」(14節)等の如き文字は新生せる基督者殊にパウロの如き聖者につき用い得べからざる語なる事。
(ロ) 7-13節は明かにパウロのパリサイ人としての経験であるが、これより14節に突然基督者としての経験に移ると云う事は、文章の飛躍があまりに甚だしい事。
(ハ) 新生に入る場合の大なる変化を記さない事は不可解であり、この変化は寧ろ24節及び7章と8章との間の変化に於て見る事が出来る事。
(二) 若し15、19、23、24節の如き事が基督者の事実ならば福音は無力なる事となる。
(ホ) 基督者の内面的闘争は「霊」と「肉」との争である。然るに14-25節に於ては我が「心」と「罪」との戦であって基督者の内面生活と云うよりも寧ろ普通一般の人々の経験に同じき事。
(へ) 現在動詞を用いている所以は過去の経験を生き生きと叙述せんが為の筆法であると解する事も出来る事(文法上の劇的現在形)。
二、これに対しアウグスチヌスその他のラテン教父の多数及びルーテル、カルヴィン、メランヒトン、へザその他宗教改革者の多くはこれを基督者となりし後のパウロの経験と解している。その理由とする処は
(イ) 7-13節に過去動詞を用いしパウロは14節以下に於て我然現在動詞を用いている事。
(ロ)「律法の善なるを認む」(16節)、「中なる人にては神の律法を悦ぶ」(22節)、その他「善を欲す」(15、19節)と云う事の如き聖き思想は新生せざる罪人には存在し得ない事。
(ハ) 25節後半の如き心持は何れの基督者も現在に於てこれを所有して居り、従って14-25節の全体の心持は新生せる基督者にも皆そのまま存在している事。
以上二説の何れにも夫々真理を包んでいるけれども、何れも無理の点がある事を免れない。即ち
(a) 現在動詞を過去の経験の叙述と見るよりはそのまま現在の経験と見る方が優っている。
(b) 14-25には新生せる基督者に特有なる霊と肉との戦につきては全く記載せず、殊更 に注意して他の用語を以て記している(ロマ8:1以下又はガラ5:16以下と比較せよ)。
(c) この種の経験を凡て新生以前の人のみのものと見るは事実に適合せず、又パウロも回心以後この種の経験なしと見る事が出来ない。
これを要するに14-25節を新生の前か後かと云う如き時間的区割によりて決定せんとするは誤の本であって人間の肉は回心前も後も同一の肉であり、唯新生の後は御霊によりてこの肉に打勝ち得るの差があるに過ぎない。故に基督者と雖 も若し御霊によりて歩まないならば、この肉の戦は直ちに自己の中に起って来るのである。その意味に於てこの戦は回心前も後も常に同一である。唯信仰により御霊に導かれる場合、この戦は霊と肉との戦となり霊の勝利に帰する。故に14-25節は新生せざるものは勿論新生せるものと雖 も御霊の導に自己を委ねざる場合には必ず起る内心の分離の姿である。信仰によりて常にキリストに連る事の必要なる所以はここにある。
附記2 [7:14-25はパウロの経験なりや] この個所に於ける現在動詞をそのまま現在の事実として解する人々の中にはこの経験が基督者中の基督者たるパウロとしては、あまりに甚だしい不潔さである為に往々これを以てパウロ自身の経験である事を否定し、或は律法の下にあるユダヤ人、又は弱き基督者等を想像しパウロはその立場に自己を置きて叙述せるものと解する説がある。併し乍ら若し前述の如く7:14-25を肉の本質そのものの説明と解するならば、以上の如き困難も消滅してしまう、従ってかかる解釈の必要が無くなる訳である。
要義3 [潔めの教理の誤謬に就て] 7:14-25を附記1、2の如くに解する時は我らは潔めに関する二つの誤れる思想を訂正する事が出来る。その一は潔められんとの熱心に燃ゆる基督者で、彼らは新生せるものは恰 も肉そのものを全然所有せざる状態、即ち肉が全く無力となる状態に達せざれば真に潔められしものにあらずとし、信仰の外に他に潔めなる特殊の恵が存在しこの潔めを受くる必要ありと唱うる説で、この種の思想は潔めの結果、恰 も肉そのものが死滅するが如くに考える誤に陥り易い。その二は潔められる事の熱心を有たない基督者で、パウロさえ基督者となりてよリ後もかかる悩みがあったとすれば、況 んや我ら平凡なる基督者は欲する善はなさず欲せざる悪はこれをなすとも別に怪むに足らず、当然の事であると考うる思想である。併しパウロがここにこうした大なる苦悩を述べし所以が、これを止むを得ざる状態として弁護せんが為ではなく、却って、かかる肉を所有するが故に我らに取って信仰即ち不断の霊の導が絶対に必要である事を教えしものである。この事を悟るならばこうした誤に陥らないであろう。
ロマ書第8章
3-(1)-(2)-(ト) 霊肉の戦
8:1 - 8:11
註解: 「聖書を指輪とすればロマ書はその宝石であり第8章はその宝石の輝く先端である」(シベーネル)
8章1節 この
口語訳 | こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 |
塚本訳 | (こうしてわたし達はみな救われている。)だから今では、キリスト・イエスにある者は絶対に罪を罰されることはない。 |
前田訳 | それゆえ、今や、キリスト・イエスにあるものは何の罰も受けません。 |
新共同 | 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 |
NIV | Therefore, there is now no condemnation for those who are in Christ Jesus, |
註解: 罪の下にある肉は律法を成就する事が出来ず故に肉の人は詛 と死の法の下にある。然るにイエス・キリストの十字架の贖によりて我らは罪に死して神に生くる者となり、肉にいる者なりし我らは今やこの死の体から救われてキリスト・イエスに在る者となった(6-7章の全体はこの事を示す)。「この故に」こうした人の上には「今や」罪に対する詛 は去り、罪に定められる事は絶対にない。彼は罪の肉に対して死人となり人の罪を定むべき律法と絶縁したからである(ロマ7:1-6)、故にキリスト・イエスに在る者は肉の人とは全く異った存在となったのである。
辞解
[この故に] 前章末節との関係より見れば「されど」とあるべきが如くなれど、ロマ7:25前半の感謝によりてパウロの心はロマ6:1-7:24の全体の思想を要約し信仰によりて義とせられし者は無力なる肉たる死の体より救われて(ロマ7:14-25)、律法より解放され(ロマ7:1-6)、罪に死してキリストに生き(ロマ6:1-14)、罪の奴隷より贖われて神の奴隷となりたる者なる事を論定した。夫故に「この故に」云々はロマ6:1以下の全思想に関連すると見るを可とする(異説あり)。
[キリスト・イエスに在る者] 復活のキリスト・イエスとの人格的交通一致の状態を指す。彼によりて義とせられし者の到達する霊的極地、獄中書簡に特にこの思想多く、ヨハネはこれを「キリストとの交わり」なる語を以て表わす。
[罪に定める] katakrima は審判によりて有罪の判決を下すこと。
8章2節 キリスト・イエスに
口語訳 | なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 |
塚本訳 | なぜなら、キリスト・イエスによる命の霊の法則が、死と罪との法則からあなたを自由にしたからである。 |
前田訳 | キリスト・イエスにあるいのちの霊の律法が、あなたを罪と死の律法から解放したからです。 |
新共同 | キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 |
NIV | because through Christ Jesus the law of the Spirit of life set me free from the law of sin and death. |
註解: 肉の人は罪と死の法則の支配の下に在る(ロマ7:23)。これを脱する唯一の途はキリスト・イエスとの霊交に生きる事である。そこには永遠の生命の源なる神の御霊の法則が支配しているからである。
辞解
[キリスト・イエスに在る] 「生命」(Z0)、「御霊」「法」(G1)の何れに関係しているかにつき諸説あり、「生命の御霊の法」の全体に関連するものと解す(C1)。「開放す」に関係させる説(M0、I0、A1)もあれど採らず。
[生命の御霊] 生命なる御霊即ち同格名詞と見る。但しこの御霊は又生命を人に与える事勿論である(I0)。
[法] 法則で支配する力を指す。「罪と死との法」ロマ7:23。「生命の御霊の法」と云いて「死の罪の法」と云わざる所以は御霊そのものが生命であるに反し死は罪の値であるから。
8章3節
口語訳 | 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 |
塚本訳 | 律法が肉に妨げられて無力になったために出来なくなったことを、神は(御子によって)成し遂げてくださった。すなわち(わたし達の)罪の(征服の)ためにその子を罪の肉の形で(この世に)遣わし、その肉(を殺すこと)において罪を罰されたのである。 |
前田訳 | 律法が肉のため弱体になってできなくなったことを、神はなしとげられました。すなわち、(人の)罪のゆえにみ子を罪の肉の形でつかわし、肉において罪を罰せられたのです。 |
新共同 | 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 |
NIV | For what the law was powerless to do in that it was weakened by the sinful nature, God did by sending his own Son in the likeness of sinful man to be a sin offering. And so he condemned sin in sinful man, |
註解: 直訳「そは肉の為に弱きにより律法の為し能わぬ処をば神は己の子を罪の肉に似たる姿にて罪の為に遣し、肉に於いて罪を定め給いたればなり」。罪を罰しこれを処分する事は律法の任務であった。併し乍ら律法にはその力がなかった、これ律法に従うべきはずの肉は反対に罪の下に売られてその奴隷となり、律法に従う力が無かった為である。それ故に神はその御子をこの世に遣し給い、而も罪の肉即ち罪に支配される肉に似たる形にて、罪の為(罪を処分しこれを取除かんが為)に遣わし給い、彼の肉を十字架につける事によりて罪の下にある肉を処分し、罪に対する断罪を完成し給うた。即ち罪に対する処罰はキリストの十字架上の肉の死によりて完成した。これにより罪と死の法より開放されるに至った。
辞解
[罪の為に] 罪を裁き、破壊し、取除く為等凡ての意味を含む。
[罪ある肉] 原語「罪の肉」で罪を犯し易き肉、又は罪の支配の下にある肉等を意味する。
[の形にて] 「の相似形にて」の意味でキリスのト肉そのものは罪の下にあらず唯罪以外の点で凡て我らの如く誘われ給うたに過ぎなかった事を示す(ヘブ4:15)。
[肉に於いて] キリストの肉に於いて、従て彼と共に十字架に死する凡ての基督者の肉に於いて(ロマ6:3、4)。
[罪を定め給へり] 罪を罰してその処分を完成した事を意味する。これを罪の支配力を実際に破壊した事(B1、A1、M0)、又はキリストの聖なる生活を以て罪の罪たる事を明かにしてこれに詛 を与えた事(G1)等と解すべきではない。これらは皆この罪の処罰の目的又結果である(次節)。
8章4節 これ
口語訳 | これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。 |
塚本訳 | これはわたし達が(もはや)肉によって歩かず、霊によって歩き、律法の要求することがわたし達において完全に果たされるためである。 |
前田訳 | それは、肉によらず霊によって歩むわれらの間に律法の要求が満たされるためです。 |
新共同 | それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。 |
NIV | in order that the righteous requirements of the law might be fully met in us, who do not live according to the sinful nature but according to the Spirit. |
註解: キリストの肉の死は信仰によりて我らの肉の死を意味する。故に信仰によりてキリストに在り、彼の霊に導かれる者は、既に死せる彼の肉に従わず、我らの中に宿り給う聖霊に従って行動する。かくして肉によりて成就し能わざりし律法の凡ての義しき要求が我らの中に完うせらる。これが神その独子を遣し給いし目的であった。
辞解
[霊] pneuma は人間の心 nous とは異り聖霊を意味する。
[歩む] 道徳的行動を指す。
[律法の義] 律法が我らに要求する義。
8章5節
口語訳 | なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。 |
塚本訳 | なぜ(霊によって歩けばそれができる)か。肉による者[生まれながらの人]は肉のことを追い求めるが、霊による者[キリストを信ずる者]は霊のことを追い求めるからである。 |
前田訳 | それは、肉に従うものは肉のことを、霊に従うものは霊のことを求めるからです。 |
新共同 | 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 |
NIV | Those who live according to the sinful nature have their minds set on what that nature desires; but those who live in accordance with the Spirit have their minds set on what the Spirit desires. |
註解: 本節を序論とし6-8は肉に従う者、9-11は霊に従う者、12-13は結論を述ぶ。基督者の内には霊と肉との戦がある、霊は神の霊が我らに内住せるもので我らを神の御旨に従わしめんとし肉は罪に誘われ易くして我らを罪に従わしめんとする。この肉に従うものは肉の事即ち人間の自然性の喜ぶ事を常に念頭に置きて追求し、霊に従う者即ち新生せる基督者(信仰に生きる人、イエス・キリストに在る者)は神の霊の喜ぶ事を常に念頭に置き追求める(この二者につきてはガラ5:17-24参照)。而して基督者の中にも尚肉は存在するが故にこれを十字架につけ死ねるものとして取扱わなければならない。
辞解
[おもふ] phroneô は念願する事、常に念頭を去らざる事。
8章6節
口語訳 | 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。 |
塚本訳 | 肉を追い求めることは死をもたらすが、霊を追い求めることは命と平安とをもたらすからである。 |
前田訳 | 肉を求めれば死、霊を求めればいのちと平和です。 |
新共同 | 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。 |
NIV | The mind of sinful man is death, but the mind controlled by the Spirit is life and peace; |
註解: 「死」と云い「生命」と云うは共に現在の状態そのものを指すのみならず、やがて来るべき永遠の生死をも含める全体を指す。肉の念はそれ自身「死」の状態であって(ロマ7:23、24)内心の暗黒、分離、無力、絶望の状態がそれである。霊の念は反対にそれ自身生命であって光明、統一、能力、希望に充たされる。平安は内心の分離の反対で霊の念は我らの心の法と一致するが故にそこには唯平安あるのみ、次節はこの平安の反対である。
8章7節
口語訳 | なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。 |
塚本訳 | というのは、肉を追い求めることは神への敵対である。肉は神の律法に服従せず、服従することも出来ないからである。 |
前田訳 | 肉を求めるのは神への敵対です。肉は神の律法に従わず、従えもしませんから。 |
新共同 | なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。 |
NIV | the sinful mind is hostile to God. It does not submit to God's law, nor can it do so. |
註解: 私訳「これ肉の念は神に敵するが故にして」肉の念が死である所以はそれが神に対し敵対的関係に在るからであって肉なるものは罪の下に在る結果として、本質的に神の律法に服 わないのみでなく、従う事が出来ないからである。肉そのものの性質は不変である、故にこの争闘は絶えない。
8章8節 また
口語訳 | また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。 |
塚本訳 | 肉にある者は神をお喜ばせすることは出来ない。 |
前田訳 | 肉にあるものは神をおよろこばせできません。 |
新共同 | 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 |
NIV | Those controlled by the sinful nature cannot please God. |
註解: 「肉に居る者」即ち肉の主義に安住する者は、神に反し自己の欲求にその生活の中心を置く、かかる者はたとい一見如何に善事を為しつつあるが如くに見ゆる場合があっても、それは神を悦ばす事が出来ない。
辞解
[肉に居る者] 肉の主義に安住する者で「肉に従う者」よりも一層強き意味を持っている。「罪のうちに止まる」(ロマ6:1)と「罪を犯す」(ロマ6:15)との差もこれと同一の関係にある。
8章9節
口語訳 | しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。 |
塚本訳 | しかしあなた達は肉にある者ではなく、霊にある者である、(すでにキリストを信じて)神の御霊があなた達の中に住んでおられる以上は。しかし(神の御霊すなわち)キリストの霊を持たないなら、その人はキリストのものではない。 |
前田訳 | しかしあなた方は、神の霊があなた方の中にお住まいである以上、肉にでなく霊にあるものです。キリストの霊を持たねば、その人は彼のものではありません。 |
新共同 | 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 |
NIV | You, however, are controlled not by the sinful nature but by the Spirit, if the Spirit of God lives in you. And if anyone does not have the Spirit of Christ, he does not belong to Christ. |
註解: 前節まで原則的に叙述せるパウロは本節よりこれを読者各人に適用しつつその反省を促すものの如くである。即ち肉にいる者は神の敵であり、死より外に無いけれども若し基督者として神の聖霊が内住し給うならば、かかる人は肉にいる人ではなく霊にいる人である。即ちその生活は霊に従って生きる事となる。真の基督者は肉にいる人であり得ない。
キリストの
註解: キリストの御霊と云うも神の霊と云うも同一事物を指す。即ち聖霊を有てるものにあらざれば基督者とは云う事が出来ない。自ら顧みて御霊を持つや否やを見なければならない。キリストの御霊を有たざれば基督者ではなく、従って肉の念に捉われて平安を失い神に敵し死と詛 とを受ける。
8章10節
口語訳 | もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。 |
塚本訳 | しかしキリスト(の霊)があなた達におられるなら、(あなた達の)体は(アダムの)罪によって死んでいるが、霊は(キリストの)義によって生きている。 |
前田訳 | しかし、キリストがあなた方の中におられるならば、体は罪によって死んでも、霊は義によって生きます。 |
新共同 | キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 |
NIV | But if Christ is in you, your body is dead because of sin, yet your spirit is alive because of righteousness. |
註解: キリストの御霊を有つ者(9節)即ちキリストの内在を受けている者(基督者)はその肉の体はアダムの罪により霊的に既に死せるもの、肉的にもやがて死ぬべきもの(即ちこれを一括して死にたる者と見る)であるけれども、新生の霊、上より来れる聖霊は義なるキリストの霊が彼の中に宿れるものなるが故に、死ぬる事はなく生命そのものである。
辞解
[罪によりて] 自己の罪のみならずアダムの原罪により(ロマ5:12)の意。
[霊] 多くの学者(M0、G1、I0、E0)は人間の霊と解するけれども、神の霊によりて新生せしめられし新生の霊(C1)と見るを可とする。従て「義により」は義とせられしが為(M0、G1)でもなく、又義を条件として(Z0)でもなく、それ自身義なるが故にである。
[生命に在らん] 直訳「生命なり」で新生の霊の特質を明示している。人間の性来 の霊は義でも生命でもない、幸にしてパウロは「霊」をこの人間的の意味に用うる場合は極めて少い。
8章11節
口語訳 | もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。 |
塚本訳 | しかしイエスを死人の中から復活させたお方の御霊があなた達の中に住んでおられるなら、キリスト・イエスを死人の中から復活させたそのお方は、あなた達の中に住んでおられるその御霊によって、あなた達の死ぬべき体をも生かしてくださるであろう。 |
前田訳 | イエスを死人たちから復活させた方の霊があなた方の中にお住まいならば、キリスト・イエスを死人たちから復活させたその方は、あなた方の中に住むその霊によって、あなた方の死ぬべき体をも生かされましょう。 |
新共同 | もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。 |
NIV | And if the Spirit of him who raised Jesus from the dead is living in you, he who raised Christ from the dead will also give life to your mortal bodies through his Spirit, who lives in you. |
註解: イエスを死人の中より甦えらせ給いし者は勿論父なる神である。イエスは神の霊によりて生れ、神の霊を注がれし神の子であり、神はかかるイエスを死人の中より甦えられしめ給う事は当然であった、これと同様に彼と同じ霊を宿している基督者は、この御霊の故に死ぬべき体をも復活せしめられる事は当然である。新生の霊は決して死ぬべきでは無くやがて死に打勝ちて復活の体を与えられ、完全なる生命となるのである。
辞解
9節以下に「神の御霊」「キリストの御霊」「キリスト」「イエスを死人の中より甦えらせ給いし者の御霊」等種々の表顕を与えているけれども帰する処は一つである、唯各々特有の場合に適せる表顕を与えたに過ぎない。
始めに「イエスを」と云い後に「キリスト・イエスを」と云いしは始めに単に復活の事実に重きを置き、後には復活せるイエスの職分に重きを置きたる為である。
[汝らの中に宿り給う御霊によりて] 異本に「御霊の故に」とあり、孰 れも信憑すべき写本によっている。註解は後者に依った。若し改訳本文によるとすれば、この御霊が復活の作用を為す意味となる。
[死ぬべき体] 性質に重きを置き、「死にたる体」(10節)は事実に重きを置く。
8章12節 されば
口語訳 | それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。 |
塚本訳 | (こんなに大きな恩恵をいただいているの)だから、兄弟たちよ、わたし達は義務がある。(もちろん)肉に対して、肉的に生きる義務があるのではない。(神に対して、霊によって生きる義務があるのである。) |
前田訳 | それゆえ、兄弟たちよ、われらには責任があります。しかし肉に対しての、肉によって生きる責任ではありません。 |
新共同 | それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 |
NIV | Therefore, brothers, we have an obligation--but it is not to the sinful nature, to live according to it. |
註解: 私訳「されば兄弟よ我らは(▲負債を負うては居るが)肉に従いて活くべき負債を肉に対して負う者にあらず」、「霊に従いて生くべき負債を霊に対して負うものなり」が省略されている。聖潔の恩恵を受くる事も(3、4節)永生の恩恵に浴する事も(5-12節)、一として肉に負う処が無く凡て皆これを霊に負うている。故に肉は赤の他人、霊は我らの大恩人である、肉の命に従い肉を悦ばすべき義務は少しも無い。
8章13節
口語訳 | なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。 |
塚本訳 | その訳は、もしあなた達が肉によって生きれば、かならず死ぬからである。しかしもし(霊によって生き、)霊をもって体の働き[肉の行い]を殺せば、(永遠に)生きる。 |
前田訳 | あなた方が肉によって生きるなら、死にましょう。霊で体のはたらきを殺すなら生きましょう。 |
新共同 | 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 |
NIV | For if you live according to the sinful nature, you will die; but if by the Spirit you put to death the misdeeds of the body, you will live, |
註解: 聖霊の内住を受けた者はこれに従って生きる負債がある。聖潔の要諦 はここにあるのみならず、生命を得る事も亦この霊に従う生活によるのである。反対に肉に従って活きるものは自ら死を刈取っているのである。ここに至って潔められる事と生くる事とは離るべからざる関係に在る事を知る事が出来る。
辞解
[死なん] 原文「死ぬより外にない」と云う如き意。
[霊によりて] 内住の聖霊によりて。
[體 の] と云いて「肉の」と云わない所以は「體 」は肉の全体の統一的総体であるから。
[行為] praxis パウロは悪しき意味に用いている(コロ3:9)。
要義1 [霊と心と魂] 霊(pneuma、spirit)心( nous、mind)魂(psychê、soul)の三者は聖書に於て大体明瞭なる区別を以て用いられている。パウロの書簡に於ては殊に明かであって「霊」は神より出でし霊又は神の霊が人間に宿れるものを指し、従って人間に固有ならざるものであり、「心」は人間固有の理解力判断力思考力等を指し、内なる人(ロマ7:22)、神の律法をよろこぶ処のもの(ロマ7:22)、また律法の善なるを認むる心(ロマ7:16)である。「魂」は日本訳聖書には又「精神」「霊魂」「生命」「心」等種々に訳されているけれども、本来人間の肉体を生かす方面の力を指す、即ち人間の生活現象の無形的方面の総称である。生れながらの人は心と魂とを有っているけれども霊はこれを有たず、新生の人にして始めて御霊を持つに至る。これ神の賜物である。不幸にして日本訳ではこの三者相互間の区別が必ずしも明瞭に訳されていない事は遺憾である。
要義2 [霊と心と肉] 肉とは神をはなれし人間の肉体的精神的全体即ち自然人の活動原理を指す。故に必ずしも所謂肉慾を指すものにあらざる事は明かである(ガラ5:19)。而してこの「肉」は罪の下に奴隷となっているので「心」の思うままにならず、「心」は神の律法を善なりと認めつつも尚肉の念に従い罪の奴隷とせられているのがアダムの子孫たる性来 の人の姿である。故に心と肉とは互に相争い(ロマ7:25)人は内心の分離に悩まなければならない。
然るに霊によりて新生せるものは心の願が霊の念と一致するが故に自由があり、御霊は罪よりも強きが故に肉の念と戦い身体の行為を殺して生命に活きる事が出来る(8:13)。
附記 [霊と御霊] 日本訳聖書ロマ書8章殊にその1-27節に「御霊」及び「霊」なる文字が多く用いられている(原文22ヶ処)。原文にてはこの二者に文字上の区別なく共に pneuma である。それ故にこれを「御霊」と訳すべきか「霊」と訳すべきかは訳者の解釈による (英語にては Spirit、 spirit として文字の大小により区別す)。従って、場合によりその解釈に不一致なる事もあり得るのであって、大体に於て我らの中に内住し給う神の御霊を指せる時はこれを「霊」と訳し、我らの外にありて働き給う時これを「御霊」と訳せるものの如くである。与は寧ろこの凡てを「御霊」と訳して差し支えないと思う。我らは神の宮なるが故に我らの中に住み給う神の霊を御霊と呼んで差支えがない。尚問題となり得る個々の場合は註解を見よ。
8章14節 すべて
口語訳 | すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。 |
塚本訳 | 神の御霊に導かれている者はことごとく、神の子だからである。 |
前田訳 | 神の霊に導かれるものは皆神の子です。 |
新共同 | 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 |
NIV | because those who are led by the Spirit of God are sons of God. |
註解: 前節迄に御霊に導かれるものが死より開放せられし事を述べ、後進んで、その理由として( gar )前述の如き状態にあるもの即ち御霊に導かる基督者は神の子たる所以を掲げている。神の子であれば決して死ぬる筈がないから。而して神の子とは、神の御霊に導かれるものに外ならず他の外的条件は神の子たるに必然的の條件ではない。故に新生の御霊に導かれる者は単に消極的に罪と死の法より開放されるのみならず、進んで積極的に神の子たる身分を取得せるものである。
8章15節
口語訳 | あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。 |
塚本訳 | なぜなら、あなた達が(神から)戴いた霊は、(あなた達を)もう一度(律法の支配の下に置いて)びくびくさせる奴隷の霊でなく、(神の)子の霊である。(その証拠には、)わたし達は(祈るとき、)その霊によって「アバ(お父様)、お父様」と大声で呼ぶではないか。 |
前田訳 | あなた方はまたもやおそれさせる奴隷の霊を受けたのではなく、子としての霊を受けたのです。この霊によってわれらは、アバ、父上、と呼ぶのです。 |
新共同 | あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 |
NIV | For you did not receive a spirit that makes you a slave again to fear, but you received the Spirit of sonship. And by him we cry, <"Abba,> Father." |
註解: 御霊を受けし者の状態は律法の下にある人の如く恐をいだく事は最早あり得ない。養子即ち神の子とせられしものの霊を受けたのであって、この望が我らの中に働き我らに子たる心を起し、我らをして神をアバ父と呼び奉るに至らしめる。即ち御霊を受けし者の中には神の子たる実感が溢れて来る。
辞解
[再び] かつて律法の下にありしときは恐の中にその日を送った。
[僕たる霊] の「霊」は勿論「聖霊」ではない。「霊」なる文字は便宣上これを用いたのである。
[子とせられたる者の霊] 「猶子 の霊」「養子の霊」で(ガラ4:5)キリスト・イエスのみ聖霊によって生れし神の独子であり、我らは皆養子であり後に神より聖霊を賜わる。故に我らに賜わりし御霊は「猶子 の霊」と云うべきである。
[アバ父] ガラ4:6註参照。
[呼ぶ] 原語「叫ぶ」で心から溢れ出づる貌 。
8章16節
口語訳 | 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。 |
塚本訳 | 御霊自身が、今すでにわたし達が神の子供であることを、わたし達の霊に保証してくださるのである。 |
前田訳 | その霊自身がわれらの霊とともに証するように、われらは神の子どもです。 |
新共同 | この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 |
NIV | The Spirit himself testifies with our spirit that we are God's children. |
註解: 我らのうけし子たる霊がアバ父と叫ぶ事によりて霊の子たる事を証するのみならず、御霊御自身も我らの叫びに答えて我らを「子よ」と呼び給う。この直覚的感応が聖書の言によって裏書せらるる処に基督者と神との関係の確実さがある。
辞解
[「御霊みづから」の「証し」] の何たるやにつき、或は「信仰によりて義とされる事」(L1)その他我らを慰め、又は罪を叱責し又は祈らしむる等の聖霊の働きを指すと解する説あれどこれ等は皆聖霊の証しの内容と見るべきで、寧ろ前記の如くに解すべきである。
[我らの霊] 一般に「我らの精神」「我らの自覚」(M0)と云う如き意味(Tコリ2:11。Uコリ7:1)に解せんとしているけれども我らが神の子たる事を証する心はこの精神にあらずして神より賜わる霊である故この解釈を採らない。
[子] huios を用いずして teknonを用い、子たる地位よりも寧ろ子たる自然の関係に重きを置いている事は神との間の親密なる関係を示さんが為である。これにより前節の「猶子 の霊」なる語もその法律的意義が深められて「生みの親子」なる関係が強められる事となっている。
口語訳 | もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。 |
塚本訳 | (すでに神の)子供であるならば、また相続人である。神の相続人であり、キリストと共同相続人である、(キリストと)一しょに栄光を受けるため、(こうして彼と)一しょに苦しんでいる以上は。 |
前田訳 | 子どもである以上、世継ぎでもあります。キリストと栄光をも共にするように、彼と苦しみを共にする以上、神の世継ぎであり、キリストとともに世継ぎです。 |
新共同 | もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。 |
NIV | Now if we are children, then we are heirs--heirs of God and co-heirs with Christ, if indeed we share in his sufferings in order that we may also share in his glory. |
註解: 救われし者の光輝ある身分とその運命とに関してパウロの思想は次から次へと進展し重畳 する。ロマの法律の定むる処によれば子は当然に父の嗣業を嗣ぐべきものであり、神の国に於ても亦同様である。父なる神はその所有の凡てを子に与えん事を欲し給う。
註解: 基督者は神の子であり従ってその嗣子 である(ガラ3:29。ガラ4:7)。神の栄光、その愛とその義、その永遠の生命、その智慧、その能力、その国凡てはやがて基督者のものとせられるのである。而してキリストは神の独子として既にこの栄光を嗣ぎ給い、我らも亦やがて彼の再臨により栄光の体に化せられてキリストと共同相続者となる。実に大なる光栄である。
辞解
嗣子 、嗣業等は一般社会の法律観念の外イスラエルに取りては約束の地カナンがその嗣業であり、基督者に取りては天国はその嗣業である。而してこれを嗣ぐ者は嗣子 である。
[共に世嗣たり] 原語「共同世嗣たり」
これは[キリストと]ともに
註解: 私訳「もし共に栄光をも受けんが為に共に苦難を受くるならば」で前文の条件である。即ちキリス卜と共に世嗣とならんが為には彼と共に苦しまなければならない、サタンの支配するこの世にありてキリストは苦しみ給うた。若しキリストと共に活きるならば、彼の栄光のみを得てその苦難を免れる事は出来ない。基督者の苦難は栄光への道程である。
要義1 [基督者の栄誉] 神の子と云い神の世嗣と云うは何れも人間に取りては、あまりに過大なる栄誉であり、殆んど誇大なる妄想にあらずやと思われる程である。併しこれらは我らの信仰に対して神が約束し給う報であって、信仰は神に叛ける人類が神との間に義しき関係を恢復する所以の原囚であり、神と人との間に義しき関係が成立せる事は、宇宙間の最大の事実であるとするならば、これに対して「神の子」「神の世嗣」たるの栄誉が与えられる事は寧ろ当然の事と云わなければならない。
要義2 [基督者の苦難と栄光] パウロがキリストと共に世嗣となり共に栄光に与る事を考えているのは単にかかる空想に陶酔してその甘味を享楽しているのではなく、キリストと共にキリストの苦難を受けつつ、同時にその栄光につき考えているのであった。パウロに取りてはキリストを離れて何等の栄光を考える事が出来ず、而してキリストと偕に在る事は即ちキリストと共に苦しむ事であった。故に苦難と栄光とはキリストの場合の如く盾の両面でこれを分離して考える事は出来ない。パウロの場合に於ては華やかなる希望の夢の如くに見ゆる処の事柄も実はキリストと共に受くる苦難の血汐の結晶であった。
要義3 [要求は必ず実現す] 人間には生来 無限の要求があり、この凡ての要求は、この世の何物を以てもこれを充す事が出来ないけれども、信仰により神の子とせられ、その世継とされる事によりてのみ、人類はその無限なる凡ての要求を神の賜物として満す事が出来るのである。これ人間に固有なるあらゆる要求は反面にこれを満すものが必ず存在する事の証拠である。従って無限なる要求は神によるに非ざればこれを満し得ないのは当然である。神なしに人生は結局不幸に終らざるを得ざる所以はここにある。
8章18節 われ
口語訳 | わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。 |
塚本訳 | (しかもこの苦しみは恐れることはない。)なぜなら、わたしはこう考える。今の世の苦しみは、わたし達に現われようとしている栄光(──キリストと一しょに神の国の相続人になる最後の日の大いなる光栄──)にくらべれば、言うに足りない。 |
前田訳 | わたしは考えます。今の時の苦しみは、われらに現われようとする栄光に比べると、いうに足りません。 |
新共同 | 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 |
NIV | I consider that our present sufferings are not worth comparing with the glory that will be revealed in us. |
註解: 神の子、神の世嗣たる基督者が現世に於て苦雖を受くべき不可思議なる事実に説き及びたるパウロは(17節)本節以下39節に至る迄に於てその理由を説明する。即ちキリストの再臨による新天新地の復興までは天地万物皆呻吟 の中にある事を示す。19-22は被造物の呻 き、23-25は基督者の呻 き、26-27は御霊の呻 きにつき述ぶ。
辞解
[今の時] キリストの再臨迄の間。
[顕われんとする栄光] キリスト再臨の時に信者の復活、新天新地の復興により顕われる栄光。
[我らの上に] eis hêmas の適訳にあらず、「我らの中に、又我らの為に」と云う如き意味を有す。
8章19節 それ
口語訳 | 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。 |
塚本訳 | (そしてこの栄光は必ず与えられる。)その証拠(の第一)は、創造物が神の子たちの現われるのを、首を長くして待ちこがれていることである。 |
前田訳 | 被造物は熱望して神の子たちが現われるのを待っています。 |
新共同 | 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 |
NIV | The creation waits in eager expectation for the sons of God to be revealed. |
註解: 本節より22節迄は被造物のうめき。原文の語意に近く私訳すれば「そは被造物は鶴首 して神の子等の顕現を待望すればなり」で、あらゆる被造物(辞解参照)は現在の不完全さに耐えず、神の子らの顕現の時即ちキリストの再臨により新天新地の復興される時を鶴首 して待ち望んで居るとの意味である。パウロの自然観とも云うべきもので、最も深く自然の心を洞察せる言である。尚、これに類似せる自然観に就てはイザ11:6以下。イザ65:17。イザ66:1。詩102:27等参照。
辞解
[造られたる者] ktisis は前後の関係より(1)人類、(2)人類以外の被造物、(3)凡ての被造物等種種の意味に用いられ本節の場合には尚「ユダヤ人」「基督者」「異教徒」「新生せる者に残存する肉」「無生物」等種々の意味に解せられているけれども、19-22節の場合は23節以下との対照より考え基督者及未信者を除外せる全被造物と見るべきである。
[切に慕いて] apokaradokia は首を挙げて待望む事を意味す。
[神の子たちの現れん事] 再臨の時キリストに在りて眠れる神の子らは先づ甦りてキリストと共に現われる(コロ3:4)、即ちキリストの再臨による新天新地の復興の時を指す。
8章20節
口語訳 | なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、 |
塚本訳 | なぜであるか。創造物は自分から(今のような)はかない運命に屈服したのでなく、それは屈服させたお方([神]の御心)によるからである。(彼らはアダムの罪の責任を負わされたのである。)しかし(この屈服には)望みがある。 |
前田訳 | 被造物がむなしさに服したのは、自ら進んでではなく、服させた方によってです。 |
新共同 | 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 |
NIV | For the creation was subjected to frustration, not by its own choice, but by the will of the one who subjected it, in hope |
註解: 私訳「蓋し被造物は自ら好んでにあらず、服せしめ給う者の故に、虚無に服せしめられたり」被造物が今日の如く虚しくして破壊と滅亡に向って進みつつある所以は自ら好んで然るに非ず、神が人類の罪を審きし結果、人類の罪に汚されし自然界も自然こうした状態に入れられたのである。
辞解
[虚無] mataios は結果を生ぜざる事、即ち神の栄光となるべきはずの被造物が滅亡の奴隷となっている事。
[服せしめ給いし者] 「神」の外に「アダム」又は「サタン」と解する説あれど採らない。
8章21節 [
口語訳 | かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。 |
塚本訳 | 創造物自身も、滅亡の奴隷になっている(現在の)状態から自由にされて、神の子供たちがうける栄光と自由とにあずかるのだから。 |
前田訳 | そこに望みがあります。被造物自身も滅びの奴隷状態から解放されて、神の子らの栄光の自由を与えられようからです。 |
新共同 | つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 |
NIV | that the creation itself will be liberated from its bondage to decay and brought into the glorious freedom of the children of God. |
註解: 前節「虚無に服せしめられたり」を形容する1節で前節と合せて「造られたるものの虚無に服せしは已が願によるに非ず(▲服せしめ給う者(即ち神)の故にして)、造られたる物も滅亡の僕たる状より解かれて神の子たちの光栄の自由に入るべきが故に希望を以て虚無に服せしめられたる故なり」と読むべきで(B1、G1、A1)、被造物が虚しきに服せしめられし時も尚恢復の希望を失わざりし事を示すものと解す(改訳本文はこの解釈によれるもの)。19節の説明 gar としてはかく解するを可とす。被造物がその不完全さに呻きつつあるとは云え、これは決して絶望的ではない。
辞解
[滅亡の僕] 「腐朽の奴隷」で「光栄の自由」と同様、腐朽、光栄等は奴隷自由の性質内容をなす。本節は又前節「服せしめ給いしもの」を形容する一節として「……の自由に入れらるべき希望をいだきて服せしめ給いしものにより、虚無に服せしめられたるなり」と読む説あり(M0、I0、E0、Z0)。これによれば神は被造物を虚無に服せしめ給うたけれども、彼はやがてこの被造物も再び神の子の栄光に相応わしき自由を獲得するであろうとの希望をいだきつつこれ為し給うた事を示すと解す。近来の通説なれども採らない。雙方とも非難の余地があるけれども、これより以上の読み方は見当らない。
8章22節
口語訳 | 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。 |
塚本訳 | わたし達が知っているように、全創造物は(かの日から)今まで、一しょになって呻き、一しょになって産みの苦しみをしている。(父なる神がこの 呻きに耳を傾けられないことがあろうか。) |
前田訳 | われらは知っています、全被造物が今にいたるまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしていることを。 |
新共同 | 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 |
NIV | We know that the whole creation has been groaning as in the pains of childbirth right up to the present time. |
註解: 自然は一見美わしい、併しその美わしさの中に非常なる不完全さがある。この不完全さを洞察するの明あるものは、その処に自然界の凡てのものが声を合せて呻吟叫喚 しつつあるのを聴く事が出来る。而してかかる悲嘆と苦闘がある所以はやがてそれより救わるべき希望の存する証拠であると考える事が出来、パウロは実際かく信じた。これ本節が前節の「希望」を証明する理由 garたる所以である。
辞解
[われらは知る] パウロは自然界を観察するならば何人もこれを知る事を得るものと信じていた。
[ともに苦しむ] synôdinô は出産の苦痛に用うる語で、やがて生れ出づべき新天新地が苦悶しつつあるこの被造物の胎内にあるが如き言表わし方である。
[今に至るまで] アダムの堕落より自然界の上に詛 が来てより今に至るまで、併しやがてはこの苦悶は解消するであろうとの意あり。
8章23節
口語訳 | それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。 |
塚本訳 | しかし(苦しんでいるのは)創造物だけではない。わたし達自身も、(神の子にされた証拠として)御霊なる初穂を持っているので、このわたし達自身も、自分(のみじめな姿)をかえりみて、呻きながら、(正式に神の)子にされること、すなわちわたし達のこの(罪の)体があがなわれ(て、朽ちることのない栄光の体にされ)ることを、待っているのである。 |
前田訳 | そればかりでなく、霊の初穂を持つわれら自身も、顧みてうめき、子とされることを、すなわちわれらの体のあがなわれることを待っています。 |
新共同 | 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 |
NIV | Not only so, but we ourselves, who have the firstfruits of the Spirit, groan inwardly as we wait eagerly for our adoption as sons, the redemption of our bodies. |
註解: 本節より25節までは基督者のうめき。基督者の苦悶は心に既に御霊の初の実を有つにも関わらず、その体の不完全なるが為に御霊と肉との闘が終焉 しないからである。故に基督者にすらも決して苦闘なきにあらず、否却て心中耐えがたき悲嘆をいだきてキリストの再臨の時を待望んで居る。その時至れば彼らはその子たる身分が実現し、体は新しき霊の体(Tコリ15:42-49)に復活し、又は化せられて(Tコリ15:52、Tテサ4:17)何等の苦闘なき永遠の栄光に入る事が出来る。
辞解
[御霊の初の実] この世に於て基督者は御霊の全収穫を得る事が出来ない。併しその初の実は他の被造物は所有せず基督者のみの所有する処である。
[子とせられん事] 既に15節に於て子とせられたる者の霊を有つ事を云っているのは内面的霊的意義であり、これが完全に実現するのはキリスト再臨の時である。
[体の贖われん事] この体は滅亡の奴隷であり、復活栄化によりてこの滅亡の状態より贖い出される。
[待つ] apekdechomai で19節の場合と同じく「遠方より差出す人の手より受取る」貌。
口語訳 | わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。 |
塚本訳 | なぜなら、わたし達は(最後の日に救いが完成されるという)望みをもって、救われているからである。目に見ることのできる望みは望みではない。人はいま現に見ているものを、なんでその上望む必要があろうか。 |
前田訳 | われらはこの望みのゆえに救われているからです。見える望みは望みではありません。見えるものを、そのうえ何で望みましょう。 |
新共同 | わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 |
NIV | For in this hope we were saved. But hope that is seen is no hope at all. Who hopes for what he already has? |
註解: 「望によりて」は救われしものの状態を云うので(B1、M0、G1)希望に生きるものとして救われた事を示す、救われるのは信仰による事勿論である。
註解: 眼に見ゆるもの、現に自已の現実所有に帰しているものは「希望」と称する事が出来ない。希望は将来に関するものであって、現実の所有となったものに対しては最早や希望は成立し得ない。基督者の救は内面的意味に於ては既に現在の所有であるけれども、その外部的完成の意味に於いては未来の希望に属する。
8章25節
口語訳 | もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。 |
塚本訳 | しかしわたし達が見ていないものを望むとすれば、忍耐をもって待たねばならない。 |
前田訳 | われらに見えぬものを望む以上、忍耐して待つのです。 |
新共同 | わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 |
NIV | But if we hope for what we do not yet have, we wait for it patiently. |
註解: 基督者はキリスト再臨の時に顕るべき体の贖 を待ち、見ずしてこれを望む者である。この輝く希望に生くるが故に如何なる苦難の下にも、叉如何なる不完全さの下にも忍耐して、この希望の実現すべき日を待つものである。
辞解
[忍耐] hupomonê 重荷の下に耐える事。
要義1 [被造物の嘆き] 『人は天然の美を語る、然れども美は僅にその表面に止まる、一歩その裏面に入れば天然は美に非ずして醜である。調和に非ずして混乱である。平和に非ずして戦争である。夏の野山に百花咲き競うの状は美くしけれども叢中 如何なる殺伐、如何なる敗壊 が演ぜられつつある乎を知るならば、詩人の心は恐怖に戦 慄 えて賛美の歌は絶えるであろう。蛇は蛙を呑まんとし、蛙は虫を食わんとし、虫は相互を殺さんとす、その蛇を狙う鷲がある、その鷲を狙う他の鳥がある、鶯 の声美わしと雖も蛇はその巣に侵入してその卵を呑まんとし、鷹はその雛と親鳥とを窺 いて巣中の団欒を毀 たんとす。伯労 の残酷なる、烏の陰険たる、杜鵙 の狡猾 なる、鳥類の常性を研究して見て、春の森、夏の林の決してエデンの園ではない事が判明 る、水中に於ても同じである、池に数尾のやつめうなぎがいれば他の魚類は腹部に穴を穿 たれ血を吸われて斃 れてその跡を絶つに至る、鰯や飛魚やさんまは鯨や海豚 の餌食となりて失するに対し、鯨や海豚 には叉これを攻撃する逆叉 (=シャチ)ありて彼らのこれを恐れるや甚だし、猫が鼠を弄 ぶの状 、いたちが雛を襲うの目的、無情を極め、残忍を極む、花咲く桜は美しくあれども、その若葉を食う虫は見るさえ恐ろしく松食う虫、稲を枯らす微菌数うるにいとまがない、まことに耳を地につけて聞けば天然の呻吟 の声が聞える、曰く「我は痛む、我は苦しむ人の子よ、早く救われて、汝と共に我を救えよ、我は敗壊 の奴隷たるに堪えず、汝と共に神の子たちの栄なる自由に入らんことを願う」と、天然は人と共に呪われ、彼と共に縛られて共に解放を叫びつつある。』(内村鑑三全集、第6巻623、624頁)
人類社会も亦この呻吟 を発している。有史以来人類の希 うところは人と人、階級と階級、国と国との平和であった、併し乍ら事実は正にその正反対であり、不可抗的の力を以て迫り来る自己保存の慾求の為に遂には互に相食 み相殺戮するに至り、叉然せんとして互にその兵力を養いてこれに備えている、修羅の衢 を現出する戦時は勿論の事平和の時に於てさえもその平和の底に流れる争闘の潮流は不断に呻吟 を発してその苦悶より救われん事を切望しているのである。
自然を見、人生を見てこの呻吟 の声をきくを得ざる者は、未だ物の真相を洞見せざる者である。
要義2 [神の子たちの顕現―パウロの自然観] パウロは創3:17によりアダムの罪の為に土は人類に取りて詛 われたる存在となった事を主張する。自然界の主たるべく生れし人類(創1:28-30)が神に叛きて、神は人類と共に全世界を詛 の下に置き給うた、キリスト来り給いて救の約束は確実にせられ、聖霊を以てその保証を与えられたけれども(エペ1:14)、而もこの救は未だ実現しない。それ故にかくして詛 の下にある自然界の切望は詛 なき新天新地の復興であり、従って神に服 う神の子らの顕現とその支配とである。自然界はここに至りて始めてその目的に到達したのであり、それまでは呻吟 の中に居なければならない。
要義3 [基督教の来世的要素] 基督教の終局的帰結がキリストの再臨による万物の復興(黙21:1以下)と体の復活と、而して神の聖支配の完成とに在る事は聖書を一貫せる主張であって、これが即ち「希望」である。この来世的要素は聖書の中心的真理の一つであり、これを無視して聖書はその統一を失い支離滅裂となる。それ故に来世的要素を迷信視してこれを除かんとする基督教は、必然に基督教とは異る他の教となるを免れない。
8章26節
口語訳 | 御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。 |
塚本訳 | しかし(創造物やわたし達神の子が苦しんでいると)同じように、御霊も、弱いわたし達を助けてくださる。すなわち、(神のみ心にかなうには)どう何を祈るべきかわからないので、御霊自身が、無言の呻きをもって(わたし達の祈りを神に)執り成してくださるのである。 |
前田訳 | 同じように、霊もわれらの弱さを共に助けに来ます。何を祈ったらよいかわかりませんが、霊自身が口でいいえぬうめきをもってとりなされます。 |
新共同 | 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 |
NIV | In the same way, the Spirit helps us in our weakness. We do not know what we ought to pray for, but the Spirit himself intercedes for us with groans that words cannot express. |
註解: 26、27節は御霊のうめき。私訳「同様に御霊も亦共に我らの弱きを支え給う」基督者がその弱きのために心の中に嘆くと同様に御霊も亦これを見て無関心にいる事が出来ず、我らの霊的及び肉的弱さに対して我らと共にその重荷を分担し我らを援助し給う。それ故に23-25節に於ける我らの呻吟 は単に我らのみの呻吟 に終る事なく、御霊も共に呻吟 て、我らをして耐え易からしめ、我らの呻吟 が神に達する途を開き給う。
辞解
[助く] sunantilambanô は「共に、代わりに、取る」なる合成文字で重荷を代わりて分担する意。
註解: 私訳「我ら何を祈るが至当なりやを知らざれども……」弱きが故に我らの心は苦しみ悶え乱れて唯呻吟 くのみである。こうした場合神に対して何を祈るのが至当なりやをすら弁 える事が出来ないのが我らの心の姿である。併し乍らこうした場合、聖霊は我らをこうした状態に放置し給わず、我らを神に執成 して神の前に受納れられるように取計らい給う。但しこの聖霊の執成 しも、同様に「言い難きうめき」言語に絶せる呻吟 の形を以てなされるのであって、聖霊がかかる呻吟 を発する事により神は我らの弱さにも関らず、我らを子として受納れ給う。
辞解
[言ひ難き歎き] をTコリ12:10の異言と解する事は(Z0)適当ではない。「言ひ難き」は「言語に表わし得ざる」か又は「言語に表われざる」かにつき異解あり、雙方を含むと見るを可とす、神をアバ父と呼ぶ子たる者の御霊の呻吟 は言語を成さないけれども、神に通ずる力はある。
[執成 す] huperentunchanô 「(人の)為に(人に)代わりて(神に)逢う」の意。
8章27節 また[
口語訳 | そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。 |
塚本訳 | しかし(人の)心を見抜くお方[神]は、御霊が何を求めているか、すなわち、御霊が神の御心にかなうように聖徒たちのために執り成しておられることを、(もちろん)御存じである。 |
前田訳 | こころごころを見抜く方は霊の思いが何かをご存じです。霊が神に従って聖徒のためにとりなされるからです。 |
新共同 | 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 |
NIV | And he who searches our hearts knows the mind of the Spirit, because the Spirit intercedes for the saints in accordance with God's will. |
註解: 私訳「されど心を探り給う者は御霊の念の何たるかを知り給う。御霊は神に循 いて聖徒の為に執成 し給えばなり」聖霊の執成 は言語に表わし得ざるにも関らず(de)神は御霊の念の何たるかを知りて、その執成 を受け、やがて我らをこの苦悩呻吟 より救い出し給う。その故は聖霊の執成 が神の経綸に叶うものなるが故である。ここに神と聖霊との完全なる一致がある。
辞解
[心を極め給う者] 旧約聖書に於ても屡々 用いられる「神」の称呼、心中を洞察し給う者、表面(うわべ)を見給わぬ者は神である。
[執成 し給えばなり] を「執成 し給うことを知り給う」と訳すべしとの説あれど(Z0、M0、I0)適切でない(G1、A1)。
[神の御意に適いて] 直訳「神に循 いて」で御意に適うよりも一層広き意味を有す。
8章28節
口語訳 | 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。 |
塚本訳 | そればかりではない。(わたし達の救いは次のことからも確かである。)わたし達が知っているように、神を愛する者、すなわち(神の)計画に応じて召された者には、すべてのことが救いに役立つのである。 |
前田訳 | われらは知っています、神を愛するものには神が協力してすべてを善になさることを。彼らは聖旨に従って召されたものだからです。 |
新共同 | 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 |
NIV | And we know that in all things God works for the good of those who love him, who have been called according to his purpose. |
註解: 被造物のうめき即ち物質界人間界の不完全さ、基督者の肉の重荷等による苦悩(18-25節)は一見人生を不幸の中に幽閉するが如くに見えるけれども、基督者に取りてはこれらの凡てが現世に於ても多くの益を与うるのみならず、結局彼らの救とその永遠の栄光を来らしむるの原因となる。
辞解
[神を愛する者] 基督者の称呼の一つと見る事を得、「御旨によりて召されたる者」も同様である。前者は基督者の神に対する心を主とし、後者はかかる基督者も自己の能力によりて神を愛する事が出来るに至ったのではなく、神の預め定め給える計画に従って召された為である事を示す。
[御旨] prothesis は「前以て計画する事」。
[相働きて] 「相共に働きて」で共力する事。異本に「神は凡ての事を相共に働かしめて」とあり、▲口語訳はこの異本に由ったのであろう。
[益となる] 「善の為に」でここで善とは日常生活の幸福利便等よりも(これらを除外する要はないが)更に大なる至上善、即ち神の御旨の完成による永遠の救、天国の栄光を指している事は次の29、30節によりて明らかである。
8章29節 (
口語訳 | 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。 |
塚本訳 | というのは、神は(世の始まる前に)あらかじめお選びになった人たちをば御子(キリスト)と同じ姿にすることを、あらかじめお定めになったからである。──これは(こうして出来た)多くの兄弟たちの中で、彼を長男にするためである。── |
前田訳 | あらかじめご存じのものを、み子と像(かたち)を同じくするよう神は予定されました。これはみ子が多くの兄弟の長子になられるためです。 |
新共同 | 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 |
NIV | For those God foreknew he also predestined to be conformed to the likeness of his Son, that he might be the firstborn among many brothers. |
註解: 前節の理由を示す。即ち如何なる苦悩も皆信ずる者に善を来らしむる所以は、神がその救を実現せんための手段としてこの弱さを用い給うからである。人の救は実に神のみの計画と働き、即ち予知と予定によるのであって、我らの努力や功績によるのではない。而して神は救われる者を御子キリストの像に似せん事を預定し、これを実現し給う(30節)。故に我らが救われるは神がこれを欲してかく計画し(28節)、かく預知し預定し実現し給うからであって、我らの価値の故ではない。
辞解
[預じめ知る] proginôskô は「知る」なる文字の聖書的用法の如く、神が特に注意をその上に注ぎ、その愛を以て顧み給う事を意味する(G1、I0)。出33:17。詩144:3。ホセ13:5。アモ3:2。マタ7:23。ロマ11:2。神に知られる者に信仰(G1)や愛(Z0)がありと見るの必要は無い。
[御子の像] 現在及将来の凡てを含む(Z0)、即ち現世に於てはイエスの如くに歩む者たらしめ、来るべき世に於て復活のキリストの如き栄光の中に入らしめんとする事、これを後者のみに限る(M0)必要はない。
[預じめ定める] proorizô 預定説に就てはロマ9:33附記參照。
これ
註解: 復活のキリストはやがて栄光の体に復活すべき凡ての基督者の長兄である。かくあらしむる事即ちキリストに栄光あらしめ、同時に多くの兄弟をも彼と共に栄光を受けしめんとする事が(17節)神の予知予定の目的である。「嫡子」の概念についてはコロ1:15、コロ1:18。黙1:4-5等参照。
8章30節
口語訳 | そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。 |
塚本訳 | そして(時が来ると)あらかじめお定めになった人たちを召し、お召しになった人たちを義とし、義とした人たちには栄光をお与えになるだろう。 |
前田訳 | これら予定されたものをばお召しにもなり、お召しのものをば義ともなさり、義となさったものをば栄化もなさいました。 |
新共同 | 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。 |
NIV | And those he predestined, he also called; those he called, he also justified; those he justified, he also glorified. |
註解: 原文の語声を損せずに私訳すれば「且預じめ定めたる者をば亦これを召し、召したる者をば亦これを義とし、而して義としたる者をば亦これに栄光を与え給えり」となる。神が如何にして人を救い給うかを録し、神これを為し給うが故に能わざる処なく、叉この救が人の価値如何によらざるが故に、確乎不動である事を示す。
辞解
[召す] 福音の宣伝による、而して召したる者には信仰を与えて(エペ2:8)、これを信仰によりて「義とし」神との間の正しき関係に入らしめ、聖霊を以てこれを潔め「而して遂に」 de この義としたる者には世の終に於て栄光を与え給う。「召し」「義とし」に不定過去動詞を用いているのは当然であるが、未来に与えらるべき栄光についても同様に「栄光を与え給えり」edoxase なる不定過去形を用いたる所以は種々に説明されているけれども、神の永遠の経綸を考えつつありしパウロは凡ての時を超越したのでありて、パウロが屡々 為す如くこの場合も未来の栄光を既に完成せるものとして見たからであろう。エペ2:6の如きもこれと同一の心持である。
要義1 [御霊の呻吟 ] 基督者には他人の与り知らざる歎きがある。心の奥底の見えざる罪、社会の底に流れる打勝ち難き罪の力、自然界を支配する矛盾と混乱、これらが基督者の耐え難き苦痛である。これ基督者の中に聖霊が宿っているからであって、御霊もこれに応じて苦しみ給いこれらの苦痛に関しその言い難き呻吟 をあげて神にせまるのである。これが基督者と神との間の執成 であって神の選び給える者にはこの苦痛も結局彼らに善を来らしむる結果となる所以はここに在る。基督者に特有のうめきは又彼らに特有の結果を持来らしめる事は当然である。
要義2 [基督者には凡ての事善となる] 最高の善は神の御旨の成る事である。それ故に現世に於ける凡ての困難、迫害、不幸は勿論被造物に纏綿 するあらゆる不完全さの呻 きも、結局に於て神の御旨が凡ての上に殊に彼を愛する者の上に行われる原因となる以上、これらも要するに最高の善を来らしむる原因であって、我らを絶望に陥らしむる如き事なく却てこれによリて益々勇気を得しむる事となる。
要義3 [神の独舞台 ] 天地は神の独舞台 であり、神のみその自由の意思を以て働き給う場所である事は天地創造の時以来永久に変りが無い。人類の救も亦同様唯神のみの働に帰すべきであって、これに対して人間は何等の共力をも為す事が出来ない。神は預知し、預定し、召し、義とし、而して栄光を与え給う。神の絶対主権であり神独一の世界である。人間は唯彼に対し絶対の服従より外に取るべき途はない。かくして凡ての栄光は神に帰せられなければならない。
要義4 [預知と預定に就て] ロマ9:33附記参照。
8章31節
口語訳 | それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。 |
塚本訳 | すると、それはどういうことになるのだろうか。──神がわたし達の味方である以上、だれがわたし達に敵対できるか。 |
前田訳 | それではわれらは何といいましょう。神がわれらの側ならば、だれがわれらに敵しましょう。 |
新共同 | では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 |
NIV | What, then, shall we say in response to this? If God is for us, who can be against us? |
註解: 31-34節に於てパウロは対句的語法を以て救の絶対性と確実性とを高調する。而して31-39節は恰も本書前半(1-8章)の結尾の如き形を呈している。本節はその総論の如きもの。神が我らの救の源泉であり又その創始者であり給う以上、我らの救は磐石の如くに確実である、この神との親しき結合がある以上、如何なる反対も恐れるに足らない。
辞解
[此等のこと] 神の救の預定と我らの現在の苦悩。
[何をか言はん] ロマ4:1。ロマ6:1。ロマ7:7の場合の如く反対諭を予想してにあらず。自ら反省して絶対的勝利なる事の確信を得、言語に表わし得ざる感謝と讃美が心に湧き出でた事を示す。
[「味方」「敵」] 原語は前置詞 pros と kata とを以て示す。
8章32節
口語訳 | ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。 |
塚本訳 | 御自分の子をさえなんの惜しげもなく、わたし達みんなのために死に引き渡されたその神が、どうしてそれと共に、すべてのものをも賜わらないことがあろうか。 |
前田訳 | おのがみ子を惜しまずにわれらすべてのために死に渡された方が、どうしてみ子といっしょに万物をわれらに恵まれないでしょうか。 |
新共同 | わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。 |
NIV | He who did not spare his own Son, but gave him up for us all--how will he not also, along with him, graciously give us all things? |
註解: 対句の第二。神の愛は無限であり、その独子をすら惜み給わない。この愛の神がその御子と共に万物を惜みなく与え給う事は当然である。故に貧困の中にある基督者も無限の富者である。
辞解
[御子] の場合は「惜まず」なる語を用い、「万物」の場合は「賜う」 charizomai 「惜みなく与う」なる文字を用いし事に注意せよ、御子と万物とは比較にならない程の価値の上下がある。
[我ら衆 ] この場合パウロは凡ての信者と云う意味に考えていたのであろう。
[之にそえて] 「彼と共に」。
[万物] 普通「救に必要なる凡ての物」と解せられているけれども(M0、G1、B1、I0)かく限る必要なく、基督者がキリストと共に被造物の王となり支配する事の思想を云えるものと解する事を得(ロマ5:17)。
8章33節
口語訳 | だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。 |
塚本訳 | だれが(わたし達)神の選ばれた者を告発することができるか。神が(裁判官として)“罪なしと宣告しておられるのに。” |
前田訳 | だれが神に選ばれたものを訴えましょう。義となさるものは神です。 |
新共同 | だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。 |
NIV | Who will bring any charge against those whom God has chosen? It is God who justifies. |
8章34節
口語訳 | だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。 |
塚本訳 | “だれが(わたし達を)罰することができるか。”キリスト・イエスが(わたし達の罪のために)死んで、それだけでなく復活して、いま神の右においでになって、わたし達のために執り成していてくださるのに。 |
前田訳 | だれが罰しましょう。なくなった方、否、むしろ復活された方であるキリスト・イエスが神の右にいまして、われらにとりなしもなさいます。 |
新共同 | だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 |
NIV | Who is he that condemns? Christ Jesus, who died--more than that, who was raised to life--is at the right hand of God and is also interceding for us. |
註解: 対句第三、第四。神が義とし給いキリストが執成 し給う以上何人も我らを訴える事が出来ず、又罪に定むる事が出来ない。否如何に訴え如何に罪に定むるとも全く無効である。我らの救はかくも確実である。
辞解
[訴える] 非難を向ける事。
[死にて甦えり給いし] 原文直訳「死に給いし者、而して甦えらせられ給いし者なるキリスト・イエス」で過去に於て我らの罪の為に死に、然も我らの義の為に甦り、現在も我らの為に執成 し給うキリストを意味す。
[神の右に在す] 宇宙の支配者の地位に立ち給う事、かかるキリストの執成 ある以上、我らを罪に定め得るものは無い。神すらこれを為し給う筈が無い。
附記 33-34節を改訳の如くに見る訳し方(G1,L1,C1)の外に次の如くに訳する事も出来る(A1,A2元訳)。「神の選び給える者を訴うる者は誰ぞ、義とし給う神か(そんな筈は無いとの意を含む)。罪に定むる者は誰ぞ、死して而も甦えり神の右に在して我らの為に執成 給うキリスト・イエスか(そんな筈はない)」35節の問と答とに比較してこの見方が優っていると思われるが、意味の上に大差はない、且つ近頃の通説ではない。尚32節以下の質問応答の連続はこの他にも二三の区分法あり(M0,B1,Z0)。
8章35節
口語訳 | だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。 |
塚本訳 | (このゆえに)だれがキリストの(わたし達を愛する)愛から、わたし達を引き離すことができるか。苦しみか、悩みか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。 |
前田訳 | だれがわれらをキリストの愛から離しましょう、苦難か、なやみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。 |
新共同 | だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。 |
NIV | Who shall separate us from the love of Christ? Shall trouble or hardship or persecution or famine or nakedness or danger or sword? |
註解: 対句の第五。たとい31-34節の如き大なる祝福が我ら基督者に臨むとも、若しキリストの愛より離れるならば、不幸の極である。併し乍らキリストの愛は強くして何物も我らをこの愛より離す程強くはない。我らのキリストに対する愛が強いのではなく、キリストの我らに対する愛が強いのである(Tヨハ4:10)。
辞解
[誰ぞ] と云いて「何ぞ」と云わない所以は、患難、迫害等々の陰に必ず人間的要素が働いているからである(B1)。
[患難] thlipsis 外部の事情より受くる困難。
[苦難] stenochôria は心中の苦悶。その他各種の危険はパウロ自身つぶさにこれを甞 めた(Uコリ11:23-28)。
8章36節
口語訳 | 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。 |
塚本訳 | こう書いてある。──“あなた[神]のためにわたし達は一日中死の危険にさらされている、わたし達は屠られる羊のように考えられた。” |
前田訳 | 聖書にあるように、あなた(神)のためわれらはひねもす死に、ほふられる羊と見られています。 |
新共同 | 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。 |
NIV | As it is written: "For your sake we face death all day long; we are considered as sheep to be slaughtered." |
註解: 迫害の中に苦悶しつつも而もエホバに依頼みて離れざるイスラエルの心を歌える詩44篇中よりその22節を引用せるもの(七十人訳より)基督者の実際も亦この詩に極めて類似していて前節後半の苦難は事実基督者の運命である。
8章37節 されど
口語訳 | しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。 |
塚本訳 | (もちろん、引き離すことのできるものはない。)そればかりか、わたし達を愛して(十字架につけられて)くださった方により、これらすべての(苦難の)中にあって、わたし達は悠々と勝つことができる。 |
前田訳 | しかしこれらすべてのうちにも、われらを愛された方によって、われらはかち得てあまりあります。 |
新共同 | しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 |
NIV | No, in all these things we are more than conquerors through him who loved us. |
註解: 35、36節の如き状態の中に在りて我ら自身の力はあまりに弱い、唯キリストのみ充分にこれに打勝つ力を我らに与え給う。これキリスト我らを愛し給い我らの中にそのカを以て働きかけ給うが故である。
辞解
[愛したまふ者] 不定過去形を用う、その受肉と受難にあらわれしイエス・キリストの愛を云えるもの。
[勝ち得て余あり] キリストの愛に生きる者の受くる力は無限である。
8章38節 われ
口語訳 | わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 |
塚本訳 | なぜなら、わたしは確信している、死でも命でも、天使でも支配(天使)でも、現在起こっていることでも将来起こることでも、権力(天使)でも、 |
前田訳 | わたしは確信します、死もいのちも、天使も司も、現状も未来も諸権力も、 |
新共同 | わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 |
NIV | For I am convinced that neither death nor life, neither angels nor demons, neither the present nor the future, nor any powers, |
8章39節
口語訳 | 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。 |
塚本訳 | 高い所のものでも低い所のものでも、その他どんな創造物でも、わたし達の主キリスト・イエスによる神の愛から、わたし達を引き離すことはできない。 |
前田訳 | 高きも低きも、そのほかいかなる被造物も、われらの主キリスト・イエスにある神の愛からわれらを離せないことを。 |
新共同 | 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 |
NIV | neither height nor depth, nor anything else in all creation, will be able to separate us from the love of God that is in Christ Jesus our Lord. |
註解: 如何なる困難も我らをキリストより離れしむる事を得ざるのみならず、天地万有何物も我らをキリストにある神の愛(キリストの愛となって顕われた神の愛)より離れしむる事が出来ない。神の愛は完全に絶対に我らを捕虜としているのである。これが地上に於て人間の到達し得る最高点である(B1)。
辞解
[死も生命も] 以下の列挙は、全体を併せて万ての被造物を網羅した事と解すべきである。即ち「死も生命も」は人間生活の全体を指し、「御使も権威ある者も」は天使の全体を代表し、「今ある者も後あらん者も」は時間の全体を指し(者は物とすべし)「力ある者も」は宇宙間の勢力を意味し、「高きも深きも」は空間の全体を指す、
[此の他の造られたる者も] (者は物とすべし)は我らの知り得る被造物以外の被造物を指す。
[キリスト・イエスにある神の愛] 35節「キリストの愛」と同一で、キリストの愛として顕われた神の愛を意味する。
要義1 [救の確実性] 救が若し我らの聖書知識、信仰的自覚、教会所属等に基礎を持つに過ぎないものであるならば極めて不確実なものである。然るに救は神にその凡ての基礎があるのであって、神が我らの味方に在し(31節)、我らに御子をすら与え給い(32節)、我らを義とし給い(33節)、イエス・キリストは我らの為に執成し給う(34節)事が我らの救である以上、我らの救は大磐石の上に立ちて如何なる風雨にも徴動だにしない。最早や我らを訴うる者、罪に定むる者、我らに敵する者は全く存在せず、我らをキリストの愛より離れしむる者は全宇宙の中に一も存在しない。これより以上に確実なる救は他に有り得ない。
要義2 [キリスト・イエスの愛に生くる事] 信仰の極致はキリスト・イエスの愛に生くる事である。若し他に如何なる理論的神學があり、神の預知と預定とがあり、神の為し給う救があっても、若し基督者なる者がキリストの愛に生き得ないものであったならば、その生活は無味乾燥である。パウロはロマ書1-8章に於て義とされる事、潔められる事、栄を賜わる事等の救の各方面を論じているけれども、その窮極はキリスト・イエスにある神の愛の中に生きる事より外に無かった。而してこの愛は無限に強大なるが故に如何なるものも如何なる力も我らをこの愛より離れしむる事が出来ない。この愛の捕虜が救われし基督者である。
要義3 [神の愛と神の賜物] 若し罪の赦し、罪の潔め、復活、栄化等の神の賜物のみに目を注ぎ、神の愛を忘却するならば、それは本末顛倒であって真の信仰ではなく一種の御利益的信仰に過ぎない。我らは賜物に目を留めるよりも神の愛に我らの全注意を注ぎその愛によりて動かされなければならない。神の愛、キリストの愛に感激せずして唯その結果なる賜物のみを喜ぶ如き信仰は利己主義の変形に過ぎない。