黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ヨハネ伝

ヨハネ伝第15章

分類
4 受難週 12:1 - 19:42
4-2 イエスの決別説教 14:1 - 16:33
4-2-2 キリストに在りて果を結ぶ事 15:1 - 16:4
4-2-2-イ 我に居れ 15:1 - 15:11

註解: イエスは前章においてその死に関する弟子たちの心の動揺を戒め、たとい彼死に給うとも聖霊は彼らに与えられて彼らの心に住み、キリストもまた霊をもって彼らに内住し、神も彼らの中にその住家を(とも)にし給うことを告げ、而してその条件として信徒がキリストを愛すべきこと、キリストの誡命に従うべきことをもってし給うた。本章においてイエスはさらに進んで、我ら信徒の方よりキリストに連なり霊の交わりの生涯を送るべきこと(1−11節)、これによりて愛の生活を送るべきこと(12−17節)、弟子たちは主と同じく迫害さるべきこと(18−27)を語り給う。

15章1節 (われ)(まこと)葡萄(ぶだう)()、わが(ちち)農夫(のうふ)なり。[引照]

口語訳わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
塚本訳わたしがまことの葡萄の木、父上は栽培人である。
前田訳わたしはまことのぶどうの木、父はぶどうつみである。
新共同「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
NIV"I am the true vine, and my Father is the gardener.
註解: 葡萄は橄欖(オリブ)や無花果と共にユダヤ地方の特産であり(民13:23)、旧約聖書においてもイスラエルの譬えとしてしばしば用いられ(詩80:8以下。イザ5:1−7。エレ2:21エゼ15:1エゼ19:10)、またキリストもしばしばこれを用い給うた(マタ20:1−16、マタ21:33−46等)。ここにイエスは、さらに葡萄の樹の譬喩をもって彼と弟子との関係を示し給い、父をば農夫に喩えてその審判を示し給う。イエスが突然ここに葡萄の樹の譬喩をもって語り給いし理由について種々の想像を巡らし、或はその場所の附近に葡萄樹があったのであろうとか、または葡萄酒より思い付き給うたのであろう等種々の説を為しているけれども、これらは不可能ではないにしても必ずしもそうであったと確定することはできない、またその必要もない。

15章2節 おほよそ(われ)にありて()(むす)ばぬ(えだ)は、(ちち)これを(のぞ)き、()(むす)ぶものは、いよいよ()(むす)ばせん(ため)(これ)(きよ)めたまふ。[引照]

口語訳わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
塚本訳わたしについている蔓で実を結ばないものは、父上が皆それを切り取ってしまわれる。また実を結ぶものは、より多く実を結ぶように、皆それを奇麗に刈り込まれる。
前田訳わたしの蔓(つる)で実らぬのは皆お切りになる。実るのは皆より多く実を結ぶようにとお清めになる。
新共同わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
NIVHe cuts off every branch in me that bears no fruit, while every branch that does bear fruit he prunes so that it will be even more fruitful.
註解: 葡萄の枝にしてその幹に連なりこれより養分を自由に吸収するものは必ずよき果を結ぶ。これに反し幹に連なるごとく見えてもその連絡不完全にして、妨害物があるために養分の流通自由ならざる枝は果を結ぶことができない。農夫は後者をばこれを切り取り前者をばさらにこれより害虫を除き、不潔物を去りて豊かに果を結ばしめる。キリスト者とキリストの間もこの幹と枝との関係であって(5節)、この間に自由なる霊の交わりがある場合には豊かに善き行為となりて果を結び、たとい外部的にキリスト者のごとくであっても、この霊交が己の慾やサタンのために妨げられる時は善行の果実を結ばない。父なる神はこの前者をば聖霊の力によりてその肉の穢れを益々潔め、後者をばこれを誘惑によりまたは彼ら自身の惰眠によりてキリストより離してサタンに付し給う。而してこの霊の交わり、キリストとの連絡をパウロは信仰と呼んでいる。▲▲「潔む」 kathairô はまた「剪定」する意味もある。

15章3節 (なんぢ)らは(すで)(きよ)し、わが((なんぢ)らに)(かた)りたる(ことば)()りてなり。[引照]

口語訳あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
塚本訳あなた達はわたしが語った言葉(を受け入れること)によって(汚れを除かれ)、すでに奇麗になっている。
前田訳あなた方はわたしが語ったことばのゆえにすでに清い。
新共同わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
NIVYou are already clean because of the word I have spoken to you.
註解: イエスの言には人の心を潔める力がある。弟子たちはこの言により潔められて、イエスとの霊の交わりに入っている者である(ヨハ13:10)。

15章4節 (われ)()れ、さらば(われ)なんぢらに()らん。[引照]

口語訳わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
塚本訳わたしに留っておれ。そうすればわたしもあなた達に留っている。ちょうど蔓が葡萄の木に留っていなければ、自分で実を結ぶことが出来ないように、あなた達もわたしに留っていなければ、実を結ぶことは出来ない。
前田訳わたしにとどまれ、わたしもあなた方にとどまる。ちょうど蔓がぶどうの木にとどまらねば自分では実を結べないように、あなた方もわたしにとどまらねば同様である。
新共同わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
NIVRemain in me, and I will remain in you. No branch can bear fruit by itself; it must remain in the vine. Neither can you bear fruit unless you remain in me.
註解: イエスは前節の断定を為し給える後、さらに弟子たちが常にキリストの中におり、寸時もこれより離るべからざることを教え給うた。蓋し人の罪や怠慢は人をキリストより離れしむるからである。而してこれがキリストが彼らの中に留まり給うの前提である。注意。「さらば我汝に居らん」を「而して我をも汝らに居らしめよ」と訳することもできるけれども、かくする必要はない。▲4−10節に十二回(原語は九回)「居る」と訳されてある menô は「止る」ことで永続的状態を意味するのであるが口語訳では「つながって居る」「とどまって居る」「居る」と三種に訳されていることは、意味は判り易いが原語の一貫性を知り得ないことは重大な欠陥である。

(えだ)もし()()らずば、(みづか)()(むす)ぶこと(あた)はぬごとく、(なんぢ)らも(われ)()らずば(また)(しか)り。

註解: キリストなしに自ら善行を為し得ると信ずる者は、ついに自己の誤りを発見するの苦き経験を嘗めなければならない時が来るであろう。イエスのこの御言は永遠に真理である。

15章5節 (われ)葡萄(ぶだう)()、なんぢらは(えだ)なり。(ひと)もし(われ)にをり、(われ)また(かれ)にをらば、(おほ)くの()(むす)ぶべし。(なんぢ)(われ)(はな)るれば、何事(なにごと)をも()(あた)はず。[引照]

口語訳わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
塚本訳わたしが葡萄の木、あなた達は蔓である。わたしに留っており、わたしもその人に留っている人だけが、多くの実を結ぶのである。あなた達はわたしを離れては、何一つすることは出来ないのだから。
前田訳わたしはぶどうの木、あなた方は蔓である。わたしにとどまり、わたしもとどまるその人が多くの実を結ぶ。あなた方はわたしなしでは何もできないから。
新共同わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
NIV"I am the vine; you are the branches. If a man remains in me and I in him, he will bear much fruit; apart from me you can do nothing.
註解: イエスはついに弟子たちに向いイエスとの間に樹と枝との関係が立派に成立していることを告げ給うた。キリスト者はこの関係に今後入らんとしている者ではなく、すでにこの関係に入っている者である。キリストは神を離れて全く無力に在ししと同じく(ヨハ5:19の引照参照)キリストを離れて全く無力であるのが真の弟子である。極端なる言のごときも深き真理である。而して宇宙間に真に価値ある行為はかかる行為である。「善行を多く為し能わずとも言い給わずして、何事も為し能わずと言い給うたことに注意せよ。すなわち多かれ少なかれキリストなしには善行は行われない、そは彼なしには何事も為し能わないからである」(A2)。

15章6節 (ひと)もし(われ)()らずば、(えだ)のごとく(そと)()てられて()る、人々(ひとびと)これを(あつ)()()()れて()くなり。[引照]

口語訳人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
塚本訳人はわたしに留っていなければ、蔓のように投げ出されて枯れる。すると集められ、火の中に投げ込まれて焼かれる。
前田訳わたしにとどまらぬものは蔓のように外に投げ出されて枯れる。そして集めて火に投げ込まれて焼かれる。
新共同わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
NIVIf anyone does not remain in me, he is like a branch that is thrown away and withers; such branches are picked up, thrown into the fire and burned.
註解: 名義上の信者であっても事実においてキリストの中に生きないものの最後の審判の時における運命はかくのごとくである。かかる者はキリストより霊の養いを受くること能わずして枯渇し、キリストを首とする霊的教会の外に捨てられ、ついに永遠の亡びに入るであろう(マタ13:39−43)。

15章7節 (なんぢ)()もし(われ)()り、わが(ことば)なんぢらに()らば、(なに)にても(のぞみ)(したが)ひて(もと)めよ、さらば()らん。[引照]

口語訳あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
塚本訳もしあなた達がわたしに留まっており、わたしの言葉があなた達に留まっておれば、なんでもほしいものを願いなさい。かならずかなえられる。
前田訳あなた方がわたしにとどまり、わがことばがあなた方にとどまれば、欲するものを求めよ。それはかなえられよう。
新共同あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
NIVIf you remain in me and my words remain in you, ask whatever you wish, and it will be given you.
註解: キリストとの生命の交通を有つものはその結果としてまずその求むる処ことごとく与えられることができるのであって、己の欲する処ことごとく成るは人間の考え得る最大の幸福であり、人間が罪に陥らざりし以前の自然の状態に近い姿である。キリストとの完全なる霊交を有つものはかかる状態に達することができる。
辞解
[望に随ひて] また「欲する処のものを」と訳することができる。

15章8節 なんぢら(おほ)くの()(むす)ばば、わが(ちち)榮光(えいくわう)()(たま)ふべし、(しか)して(なんぢ)()わが弟子(でし)とならん。[引照]

口語訳あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
塚本訳あなた達が多くの実を結んで、わたしの弟子たることを示すならば、父上はこれによって、栄光を受けられるであろう。
前田訳あなた方が多くの実を結んでわが弟子となれば、わが父は栄化されよう。
新共同あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
NIVThis is to my Father's glory, that you bear much fruit, showing yourselves to be my disciples.
註解: キリストに連なる第二の結果は多くの良き果を結ぶことによりて父栄光を受け給うことである。これ多くの果を結べば農夫(1節)の栄えとなると同じである。キリストは凡てにおいて父の栄光を揚げ給うた。これと同じく弟子も父の栄光となる場合に始めて真にキリストの弟子と称することを得るであろう。異本「なんぢら多くの果を結びわが弟子となることによりてわが父は栄光をうけ給わん」意味はこの方が明瞭である。▲口語訳はこの異本によっている。

15章9節 (ちち)(われ)(あい)(たま)ひしごとく、(われ)(なんぢ)らを(あい)したり、わが(あい)()れ。[引照]

口語訳父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。
塚本訳父上がわたしを愛されたように、わたしもあなた達を愛した。わたしの愛に留っておれ。
前田訳父がわたしを愛されたように、わたしはあなた方を愛した。わが愛にとどまれ。
新共同父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
NIV"As the Father has loved me, so have I loved you. Now remain in my love.
註解: まことに幸福なる宣言また命令である。父がキリストを愛し給いしと同じ無限宏大なる愛をもってキリストも我らを愛し給いその愛に居れと宣う。我らキリストの中に生き、1−8節に示せるごとき彼との霊交を有つことは、とりもなおさずこの愛の中に懐かれることである。しかもイエスはこのことを切に望み給うとは何たる奇しき事実であろうか。我らはこの愛を離れてはならない。

15章10節 なんぢら()しわが誡命(いましめ)をまもらば、()(あい)にをらん、(われ)わが(ちち)誡命(いましめ)(まも)りて、その(あい)()るがごとし。[引照]

口語訳もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。
塚本訳わたしの掟を守っておれば、わたしの愛に留っているであろう。わたしが父上の命令を守って、その愛に留っているのと同じである。
前田訳わがいましめを守れば、あなた方はわが愛にとどまろう、ちょうど、わたしが父のいましめを守って彼の愛にとどまるように。
新共同わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
NIVIf you obey my commands, you will remain in my love, just as I have obeyed my Father's commands and remain in his love.
註解: 前節においてその愛の中に懐かるべきことを命じ給えるイエスは、それに対して必要なる条件をここに示し給うた。それはモーセの十誡ではなく彼の誡命(12節)を守ることである(Tヨハ2:5)。「誡命を守る」ことは「律法の行為」を為すことではない(ロマ3:20ガラ2:16)。「我ら互に相愛すること」である。(▲▲12節を見よ。)かかる者にはイエスの愛が注がれその愛は永らく彼を離れない。(この誡命を守ることは守らんとする意思がそこに有るや否やの問題であって、完全に守り得しや否やの問題ではない、C1。)イエスはその父との関係を例としてこれに倣うべく薦め給う。

15章11節 (われ)これらの(こと)(かた)りたるは、()喜悦(よろこび)(なんぢ)らに()り、かつ(なんぢ)らの喜悦(よろこび)滿(みた)されん(ため)なり。[引照]

口語訳わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
塚本訳このことを話したのは、わたしのもっている喜びが(また)あなた達のものとなり、あなた達のその喜びが完全なものとなるためである。
前田訳このことをいったのは、わがよろこびがあなた方の中にあって、あなた方のよろこびが満たされるためである。
新共同これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
NIVI have told you this so that my joy may be in you and that your joy may be complete.
註解: しかしながら神の誡めを守ることは決して重荷ではなくイエスにとりて絶大の喜悦であった(詩1:2)。イエスはこの喜悦と同じ喜びが信徒の心にも宿りかつこれに満されんことを望み給うた。而して枝としてキリストに連なり、その誡命を守ることをもって喜びとすることはいかに幸福なる生活であろうか。

4-2-2-ロ 互に相愛せよ 15:12 - 15:17

15章12節 わが誡命(いましめ)(これ)なり、わが(なんぢ)らを(あい)せしごとく(たがひ)(あひ)(あい)せよ。[引照]

口語訳わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
塚本訳わたしがあなた達を愛したように、互に愛せよ。──これがわたしの掟である。
前田訳わたしがあなた方を愛したように互いに愛せよ、これがわがいましめである。
新共同わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
NIVMy command is this: Love each other as I have loved you.
註解: イエスの誡命は個々別々の律法のごとくではなく、唯信仰の兄弟姉妹が互にイエスの愛と同じ愛(すなわち自己犠牲の愛。なおマタ22:39と比較せよ、律法はこのイエスの福音以下である)をもって相愛することである。自らはこの誡命をば無視しながら唯イエスの愛のみ受けんとするも、それは不可能である(10節)。またかかる者は偽の信者である(Tヨハ2:4Tヨハ2:9)。

15章13節 (ひと)その(とも)のために(おのれ)生命(いのち)()つる、(これ)より(おほい)なる(あい)はなし。[引照]

口語訳人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
塚本訳(わたしはあなた達のために命を捨てる。)友人のために命を捨てる以上の愛はないのだ。
前田訳友のためいのちを捨てるにまさる愛はだれも持てない。
新共同友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
NIVGreater love has no one than this, that he lay down his life for his friends.
註解: 前節の互に相愛することの極致は友のために生命を棄てることで、最大の愛はこれである。イエスが我らに要求し給う処はかかる愛以下のものではない。何となれば彼自身我らの友(次節)として我らのために生命を棄て給いしが故である。ロマ5:6以下に矛盾せずやとの問題が起り得るけれども、ロマ書の場合と異なり、イエスはこの場合弟子相互の間および彼と弟子との間の関係について語り給うたからであって、敵についてはこの場合問題になっていない。

15章14節 (なんぢ)()もし()(めい)ずる(こと)をおこなはば、()(とも)なり。[引照]

口語訳あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
塚本訳あなた達はわたしの命ずることを行ってさえおれば、わたしの友人である。
前田訳わたしがあなた方に命ずることを行なえば、あなた方はわが友である。
新共同わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
NIVYou are my friends if you do what I command.
註解: イエスの誡命に背きつつその友とならんとするも不可能である。而してイエスの誡命は困難ではない(マタ11:30)。これを守ることによって我ら「神の友」となり得ることの幸福を思うべきである。「我も汝らのために生命を棄てん」なる一句を本節に含蓄しているものとして解するならば、前節との連絡が一層明らかとあるであろう。本節が信仰のみによりて義とされる思想に反せずやとの疑問が起り得るけれども、次節によりイエスの命を行うことがその恩恵によりて神の御旨を示されるが故なることを知ることができる。すなわち信仰を予想している。

15章15節 (いま)よりのち(われ)なんぢらを(しもべ)といはず、(しもべ)主人(あるじ)のなす(こと)()らざるなり。(われ)なんぢらを(とも)()べり、()(ちち)()きし(すべ)てのことを(なんぢ)らに()らせたればなり。[引照]

口語訳わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
塚本訳わたしはもはやあなた達を僕と言わない。僕は(命じられたことをするだけで、)主人が何をしようとしているか知らないのだから。わたしはあなた達を友人と言ったが、これは父上から聞いたことを何もかも知らせたからだ。
前田訳もはやわたしはあなた方を僕と呼ばない。僕は主人のなすことを知らないから。あなた方を友といったのは、わが父から聞いたことを皆知らせたからである。
新共同もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
NIVI no longer call you servants, because a servant does not know his master's business. Instead, I have called you friends, for everything that I learned from my Father I have made known to you.
註解: イエスは(さき)に弟子たちを僕として取扱い給うた(ヨハ12:26ヨハ13:13ヨハ13:16)。而してこれは正常なる名称であり、イエスと弟子たちとの関係の本体である。それにもかかわらずイエスは彼らをさらに友として取扱い、その父より聴き給いし人類救済の経綸を凡て弟子たちに示し給うた。この意味において彼らは単にイエスの命に機械的に服従する奴隷ではなく、イエスの御心を知りてこれを行う友のごときものである。それ故に我らがイエスの友たる所以は我らの価値によるにあらず、凡てイエスの恩恵によるのである。ただしイエスがかかる態度をもって臨み給えば、彼らは益々イエスに対して僕たる心と態度に出づべきは当然である(ロマ1:1ガラ1:10ピリ1:1その他)。注意「今よりのち」ルカ12:4にすでに「友」と呼び給うたのはイエスのこの心持の自然の発露であって本節はその意識的発表であるとみるべきであろう。「友と呼べり」は前節を指す。「凡てのこと」は一見ヨハ16:12と矛盾するがごときも然らず、現在において弟子たちの解し得べきすべてのことを意味す。

15章16節 (なんぢ)(われ)(えら)びしにあらず、(われ)なんぢらを(えら)べり。[引照]

口語訳あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
塚本訳(しかも)あなた達がわたしを選んだのではなく、わたしがあなた達を(使徒に)選んで、あなた達が出かけていって(善い)実を結び、その実がいつまでものこるように、また(その必要のために)あなた達がわたしの名で父上にお願いすれば、なんでもかなえてくださるようにしてやったのである。
前田訳あなた方がわたしを選んだのではなく、わたしがあなた方を選んだ。そして、あなた方が前進して実を結び、実がいつまでも残るように導いた。わが名によってあなた方が父に求めるものを皆かなえていただくためである。
新共同あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
NIVYou did not choose me, but I chose you and appointed you to go and bear fruit--fruit that will last. Then the Father will give you whatever you ask in my name.
註解: 使徒の職に彼らを選び給いしはイエスであった。これ必ずしも彼らがイエスを師と選んだからでもなく、また彼らの才能功績に報いんためでもなく、唯キリストの自由なる恩恵によったのである。彼らがイエスを求むる心すらもイエスがこれを起し給うたのである。本節は使徒の選任の問題であるけれども、一般の信徒が選ばれることはなおさら神の自由の選びによること勿論である(C1)。全く価値なき我らが選ばれて神の子とされる恩恵を思うべきである。

(しか)して(なんぢ)らの()きて()(むす)び、(かつ)その()(のこ)らんために、(また)おほよそ()()によりて(ちち)(もと)むるものを、(ちち)(たま)はんために(なんぢ)らを()てたり。

註解: 使徒を選び給いし目的を示す。すなわち(1)「往きて」伝道すること、(2)果を結びて信徒が増加すること、(3)その果が永続して「教会が世の終りまで存立すること」(C1)、(4)祈りが聴かれることである。これらはみな神の望み給う処である故必ず実現する。而してこの最後のものは伝道生涯に伴う種々の困難に際して最も重要なものである。この必要なる祈りの聴かれんがために彼らを使徒職に任じ給うた。

15章17節 これらの(こと)(めい)ずるは、(なんぢ)らの(たがひ)(あひ)(あい)せん(ため)なり。[引照]

口語訳これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。
塚本訳(つまるところ、)わたしの命令はこれである、──互に愛せよ!
前田訳わたしは命ずる、互いに愛せよ。
新共同互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
NIVThis is my command: Love each other.
註解: 12節以下の総括と見ることができる。キリスト者相互の愛がいかに大切なことであるかをこれにより知ることができる。

4-2-2-ハ 世は汝らを憎まん 15:18 - 16:4

15章18節 ()もし(なんぢ)らを(にく)まば、(なんぢ)()より(さき)(われ)(にく)みたることを()れ。[引照]

口語訳もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
塚本訳(しかしわたしに愛される時、あなた達はこの世から憎まれる。だが)もしこの世があなた達を憎んだら、あなた達よりも先にわたしを憎んだと思え。
前田訳もし世があなた方を憎めば、世はあなた方より先にわたしを憎んだことを知れ。
新共同「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
NIV"If the world hates you, keep in mind that it hated me first.
註解: 前節に至るまでイエスは弟子たち一団の中の愛の関係を述べ、本節以下、16:4に至るまでこの世の人が弟子の一団に対する憎悪の関係を示している。蓋し神とサタンとは光と暗とのごとく相反目しているのであって、神に属する信徒とサタンに属する世の人とは正反対の立場に立っているからである。唯イエスは弟子たちのこの運命に対しても慰めの途の存することを教え給う、すなわち彼らの受くべき迫害も困難もみなイエスが彼らに先立ちてこれを受け給うたことである。このことを思うならば彼らは容易にその困難に打勝つことができるであろう。

15章19節 (なんぢ)()もし()のものならば、()(おの)がものを(あい)するならん。(なんぢ)らは()のものならず、(われ)なんぢらを()より(えら)びたり。この(ゆゑ)()(なんぢ)らを(にく)む。[引照]

口語訳もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
塚本訳もしあなた達がこの世のものであったら、この世は自分のもの(であるあなた達を)愛するはずである。しかしあなた達は(もはや)この世のものではなく、わたしがこの世から選び出したのだから、この世はあなた達を憎むのである。
前田訳もしあなた方が世の出ならば、世はおのがものを愛したろう。しかし、あなた方が世の出でなく、わたしが世から選んだので、世はあなた方を憎む。
新共同あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。
NIVIf you belonged to the world, it would love you as its own. As it is, you do not belong to the world, but I have chosen you out of the world. That is why the world hates you.
註解: 世がキリストの弟子を憎む理由は弟子たちが悪を行うからではなく、彼らが世の主義に服従せず世の所属とならずしてキリストによりて世より選び出され聖別せられてキリストの信徒となり、その命に従っているからである。而してサタンはキリストの敵であって、キリストを憎むと同じくサタンの子らはキリストの弟子たちを憎む。キリスト者は世より憎まれることがその当然の運命でありまた真の弟子たるの証である。▲口語訳「この世からでたもの」は同訳の次の「この世のものではない」と一致しない。双方とも所属を示す ek であるから訳語も双方とも「この世のもの」に一致させる必要がある。

15章20節 わが(なんぢ)らに「(しもべ)はその主人(あるじ)より(おほい)ならず」と()げし(ことば)をおぼえよ。[引照]

口語訳わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。
塚本訳『僕はその主人よりもえらくはない』と言ったわたしの言葉を忘れないように。人々は(わたしにしたと同じことをあなた達にするであろう。)わたしを迫害したなら、あなた達をも迫害し、わたしの言葉を守ったなら、あなた達の言葉をも守るであろう。
前田訳『僕は主人にまさらない』といったわたしのことばを覚えていよ。人々は、わたしを迫害したらあなた方も迫害し、わがことばを守ったらあなた方のことばも守ろう。
新共同『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
NIVRemember the words I spoke to you: `No servant is greater than his master.' If they persecuted me, they will persecute you also. If they obeyed my teaching, they will obey yours also.
註解: ヨハ13:16においては愛の行為においてイエスの範に従うべきことを教え、ここにはイエスと運命を共にすべきことと忍耐の必要とを教えている。共に信徒の当然の義務である。

(ひと)もし(われ)()めしならば、(なんぢ)()をも()め、わが(ことば)(まも)りしならば、(なんぢ)らの(ことば)をも(まも)らん。

註解: 世はキリストに対せしと全く同一の態度をもって弟子たちに対するであろう。而して事実そのごとくに実現した(使5:41コロ1:24)。
辞解
[守りしならば] 事実ユダヤ人がイエスの御言を守ることを言えるにあらず(3節)、またその中の少数につき(G1)言えるにもあらず、またこの場合これを「監視する」意味に取る必要もなく(マタ27:36b)または反語でもない。ユダヤ人がイエスに対しいかなる態度を取るも、これと同じ態度を弟子たちに対して取ることを言い給えるに過ぎない。

15章21節 (されど)すべて(これ)()のことを()()(ゆゑ)(なんぢ)らに()さん、それは(われ)(つかは)(たま)ひし(もの)()らぬに()る。[引照]

口語訳彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。
塚本訳ところが、彼らはあなた達がわたしの弟子であるために、(憎み、迫害など)すべてこれらのことを、あなた達にするであろう。わたしを遣わされた方を知らないからである。
前田訳しかし、わが名のゆえに人々はあなた方にこれらのことをしよう。わたしをつかわされたものを知らないからである。
新共同しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。
NIVThey will treat you this way because of my name, for they do not know the One who sent me.
註解: イエスおよび弟子たちの受くべき迫害の原因がユダヤ人の不信に在ることをイエスは21−27節において詳述し給う。すなわちこの迫害は「我が名の故に」であって、イエスの御名は悪魔にとってもまたこの世の人にとっても「毒であり死であった」(L1、引照1参照)。かくのごとくイエスを拒むユダヤ人は神の選民たることを誇っていながら実は神を知らないのである。キリスト者と称して誇りつつキリストを知らない者はいかに多いことであろうか。

15章22節 われ(きた)りて(かた)らざりしならば、(かれ)(つみ)なかりしならん。されど(いま)はその(つみ)いひのがるべき(やう)なし。[引照]

口語訳もしわたしがきて彼らに語らなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし今となっては、彼らには、その罪について言いのがれる道がない。
塚本訳もしわたしが(この世に)来て(何も)語らなかったら、(父上を知らぬことについて)彼らに罪はなかったが、(すでにわたしからそれを聞いた)今は、(父上に対し)その罪の弁解はできない。
前田訳もしわたしが来て人々に語らなかったなら彼らに罪はなかったろう。しかし今は彼らの罪にいいわけはない。
新共同わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。
NIVIf I had not come and spoken to them, they would not be guilty of sin. Now, however, they have no excuse for their sin.
註解: イエスの降臨と教訓は人類全体、殊に彼の来臨を約束せられしユダヤ人にとっては革命的事実であった。彼らはイエスを受けてその名を信ずべきであった(ヨハ1:12)。然るに彼らはイエスを信ぜず彼とその弟子とを迫害したのであって、その罪はもはや弁解の余地がない。

15章23節 (われ)(にく)むものは()(ちち)をも(にく)むなり。[引照]

口語訳わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む。
塚本訳わたしを憎む者は父上をも憎むのであるから。
前田訳わたしを憎むものはわが父をも憎む。
新共同わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。
NIVHe who hates me hates my Father as well.
註解: イエスを憎むことによりて単に彼を憎むだけでなく、ユダヤ人にとって全く思いがけなくも彼らの信仰の対象である神をも憎むこととなるのである。不信なるユダヤ人はことのとを悟らない。

15章24節 (われ)もし(たれ)もいまだ(おこな)はぬ(こと)(かれ)らの(うち)(おこな)はざりしならば、(かれ)(つみ)なかりしならん。[引照]

口語訳もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て、憎んだのである。
塚本訳もしわたしがほかのだれもしたことのない業を彼らの間でしなかったら、彼らに罪はなかった。しかし今彼らは(わたしの言葉と業とによって)わたしをも父上をも見て、しかも憎んだのである。
前田訳ほかのだれもしなかったわざを、わたしが人々の間でしなかったならば、彼らに罪はなかったろう。しかし今は彼らはわたしをもわが父をも見て憎んだ。
新共同だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
NIVIf I had not done among them what no one else did, they would not be guilty of sin. But now they have seen these miracles, and yet they have hated both me and my Father.
註解: イエスの能力ある御業すなわち奇蹟についてはヨハ5:36註および引照参照。本節は22節と相対照し、22節は来臨と説教、本節は奇蹟につき記している。
辞解
[行はぬ事] 「行はぬ業」と訳すべきである。

されど(いま)ははや(われ)をも()(ちち)をも()たり、また(にく)みたり。

註解: イエスの御業を見し者は父を見たのである(ヨハ10:37、38)。然るに彼らは父をも子をも憎んだ。

15章25節 これは(かれ)らの律法(おきて)に「ひとびと(ゆゑ)なくして(われ)(にく)めり」と(しる)したる(ことば)成就(じゃうじゅ)せん(ため)なり。[引照]

口語訳それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。
塚本訳しかしこれは、彼らの律法[聖書]に〃彼らはゆえなくわたしを憎んだ〃と書いてある言葉が成就するためである。
前田訳これは、『彼らはゆえなくわたしを憎んだ』と彼らの律法にあることばが成就するためである。
新共同しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
NIVBut this is to fulfill what is written in their Law: `They hated me without reason.'
註解: 詩69:4詩35:19等に歌われし詩の作者に対する理由なき憎悪の感情がすなわちイエスに対するユダヤ人の態度の預言たることをイエスは看取し給うた。
辞解
[律法] ヨハ10:34と同じく旧約聖書全体を指す

15章26節 (ちち)[の(もと)]より()(つかは)さんとする助主(たすけぬし)、すなはち(ちち)より()づる眞理(まこと)御靈(みたま)のきたらんとき、(われ)につきて(あかし)せん。[引照]

口語訳わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。
塚本訳(また)わたしが父上のところからあなた達に遣わす弁護者、すなわち父上のところから出てくる真理の霊が来る時、それがわたしのことを(すべて)証明するであろう。
前田訳わたしが父からあなた方へ送る助け主、すなわち父から出て行く真理の霊が来るとき、彼がわたしについて証しよう。
新共同わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
NIV"When the Counselor comes, whom I will send to you from the Father, the Spirit of truth who goes out from the Father, he will testify about me.
註解: 以上においてイエスはイエスの死とこれに伴って来るべき聖霊の降臨と、父なる神およびイエスの内住と誡命の遵守と世の迫害とについて語り給うた。しかしながらもしかくキリストに反して彼を憎む世が、彼を拒みて信じないならば、彼らは全き絶望の中にその苦難の生活を送らなければならないであろう。しかしながらこれは杞憂に過ぎない。何となれば(さき)に弟子たちに約束し給える聖霊(ヨハ14:16、17)は、やがてこの世に来り給うて直接に、または聖霊の宿れる弟子たちその他の人々を通してキリストにつき証を人々の心の中に与え給い、彼らを導きてキリストを信ぜしむるに至るであろう。かくして信ずるものには弟子たちと同じくこの聖霊が内住し給うのである(エペ1:13、14)。而してこの聖霊は「助主」(ヨハ14:16註参照)であり、また「真理の御霊」であって、キリストと同じく(ヨハ14:16)真理そのものすなわち神に在し給う。而してこの聖霊はキリストが父に請いて遣わし給えるものであって、父の許より出て来り給える霊であり、三位の神の一柱である。注意。本節は学者間の大なる争論の目的となったのであって、聖霊が父のみより出づるや父と子とより出づるやの問題について、東部教会と西部教会との間に意見の相異が行われた。しかしながらかかる問題はこの一節のみによりて解せず全体の真理より解すべきである。この一節は聖霊の神性を示してその証の確実なることを示したのである。なお para を「の許より」と訳すならば、同様に「父の許より出づる真理の御霊」と訳することを要する。

15章27節 (なんぢ)()もまた(はじめ)より(われ)とともに()りたれば(あかし)するなり。[引照]

口語訳あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。
塚本訳またあなた達も、始めからわたしと一しょにいたのだから、わたしの証人である。
前田訳そしてあなた方も証しよう、あなた方ははじめからわたしといっしょであったから。
新共同あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
NIVAnd you also must testify, for you have been with me from the beginning.
註解: 弟子たちはキリストの証人として特別の地位と責任と権威とを持っていた。何となれば彼らは唯聖霊の内住を有つのみならず、初めよりイエスと偕に在りて歴史的イエスの目撃者(ルカ1:1使1:21、22)であって、イエスについて完全なる証を為すの資格を有っていたからである。ゆえに弟子たちの証(今日新約聖書として我らに残されている)は聖霊の証と相並んで重要なる証である(使5:32使15:28に弟子たち自らこのことを言っている)。

ヨハネ伝第16章

註解: 前章の継続であって1−4節までは弟子たちに対する迫害の問題の継続、5−33節はイエスの死後に顕わるべき聖霊の働きと、イエスが再び彼らに来り給うこととに関しての教訓である。

16章1節 (われ)これらの(こと)(かた)りたるは、(なんぢ)らの(つまづ)かざらん(ため)なり。[引照]

口語訳わたしがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである。
塚本訳このことを話したのは、(わたしがいなくなったあとで、)あなた達が(信仰に)つまずかないためである。
前田訳これらのことをいったのはあなた方がつまずかぬためである。
新共同これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。
NIV"All this I have told you so that you will not go astray.
註解: 「これらの事」は15:18節以下のことを意味し、弟子たちの愛の行為に対してかえって迫害の当然来るべきことと、その迫害の中にも聖霊と弟子たちの証によりてキリストが証されることとを指す。このことを承知しているならばいかなる迫害がきても彼らは躓かないであろう。

16章2節 (ひと)なんぢらを除名(じょめい)すべし、(しか)のみならず、(なんぢ)らを(ころ)(もの)みな(みづか)(かみ)(つか)ふと(おも)ふとき(きた)らん。[引照]

口語訳人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。
塚本訳彼らはあなた達を礼拝堂追放にするにちがいない。それどころか、あなた達を殺す者が皆、神に奉仕しているかのように思う時が来るであろう。
前田訳人々はあなた方を会堂から追放しよう。否、あなた方を殺すものが皆、神にささげものをしていると思う時が来る。
新共同人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。
NIVThey will put you out of the synagogue; in fact, a time is coming when anyone who kills you will think he is offering a service to God.
註解: 「除名」についてはヨハ9:23辞解参照。イエスはユダヤ人らが或は弟子たちを除名して彼らの国籍を奪い、また彼らを殺しその血を犠牲として神にささぐることが神に対する最上の礼拝であると思う時が来ることを預言し給うた。而してこの預言は的中した(使7:58−60、使12:2、3等)。
辞解
[神に(つか)ふ] また「神に礼拝を献ぐ」と訳することができ、旧約時代においては偶像礼拝を行うものまたは偽りの預言者を殺すことは神の御旨に叶う犠牲をささぐることであると見られていた(申13:9申17:3−7、申18:20)。パウロの教会迫害もこの心であった(ガラ1:13使7:58使8:1使9:1−2)。誤れる熱信は恐るべき結果に陥ることを思うべきである。

16章3節 これらの(こと)をなすは、(ちち)(われ)とを()らぬ(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。
塚本訳彼らがそんなことをするのは、父上をもわたしをも知らないからである。
前田訳彼らがそうするのは、父をもわたしをも知らぬからである。
新共同彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。
NIVThey will do such things because they have not known the Father or me.
註解: ヨハ15:21以下参照。ユダヤ人でももしキリストを知らなければ父を完全に知ることができない。神を拝すると誤信して誤れる自己の観念を拝しているようになるのである。キリストを知ることによりて始めて完全に父を拝することができる。

16章4節 (われ)これらの(こと)(かた)りたるは、(とき)いたりて()()()ひしことを(なんぢ)らの(おも)ひいでん(ため)なり。[引照]

口語訳わたしがあなたがたにこれらのことを言ったのは、彼らの時がきた場合、わたしが彼らについて言ったことを、思い起させるためである。これらのことを初めから言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。
塚本訳それにもかかわらずこのことを話したのは、その(迫害の)時が来た時、わたしがこう言ったことをあなた達に思い出させるためである。このことを始めから言わなかったのは、一しょにいた(ので、必要がなかった)からである。
前田訳これらのことをいったのは、その時が来た際に、わたしがいったことをあなた方に思い出させるためである。はじめからこれらをいわなかったのは、あなた方といっしょであったからである。
新共同しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。
NIVI have told you this, so that when the time comes you will remember that I warned you. I did not tell you this at first because I was with you.
註解: 1節の詳述であって、時至りて弟子たちの神の国に対する希望が粉砕されんとする際、イエスの御言を思い起すならば弟子たちはこれによりて力付けられるからである。▲「時いたりて」が口語訳に「彼らの時」とあるのは主なる訳本に由ったものでシナイ写本には「彼らの」がない、文語訳はこの方に由ったものと思われる。

(はじめ)より(これ)()のことを()はざりしは、(われ)なんぢらと(とも)()りし(ゆゑ)なり。

註解: キリスト彼らと偕に在し給う間は、キリスト主として世の憎悪を一身に受け給い、またいかなる事件に遭遇するも彼らはキリストよりその意義を学ぶことができる。マタ5:10以下等、マタ10:16以下等、マタ24:9等によればイエスはこの前すでに弟子たちの苦難につき予告し給いしごとくに見えるけれども、これ他の福音書殊にマタイ伝においては事件の時日よりも内容によりて集編せる故であろう。(G1,Z0)

4-2-3 聖霊来り給う事 16:5 - 16:15

16章5節 (いま)われを(つかは)(たま)ひし(もの)にゆく、(しか)るに(なんぢ)らの(うち)、たれも(われ)に「何處(いづこ)にゆく」と()(もの)なし。[引照]

口語訳けれども今わたしは、わたしをつかわされたかたのところに行こうとしている。しかし、あなたがたのうち、だれも『どこへ行くのか』と尋ねる者はない。
塚本訳しかし今、わたしを遣わされた方の所に行くのに、あなた達はだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。
前田訳今はわたしをつかわされた方のところへ行く。しかしあなた方はだれもどこへ行くかと問わない。
新共同今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。
NIV"Now I am going to him who sent me, yet none of you asks me, `Where are you going?'
註解: 前節までイエスはその死に伴いて弟子たちに迫るべき苦難の方面を述べて後、本節以後においてその希望の方面に移り、16節に至るまでまず聖霊の降臨とその働きとを示し給う。イエスは弟子たちがすでにこれをさとり意気沮喪(そそう)せずして、大なる希望をもってイエスの行き給う場所につきて考え、その栄光を望み見んことを欲し給うた。彼らにこのことなくまた質問すらもなかったことはいたくイエスを失望せしめた。ペテロ(ヨハ13:36)およびトマス(ヨハ14:5)の質問はこの場合の弟子たちの大体の気分とは没交渉であったので「問ふ者なし」と断言し給うたのであろう。

16章6節 (ただ)これらの(こと)(かた)りしによりて、(うれひ)なんぢらの(こころ)にみてり。[引照]

口語訳かえって、わたしがこれらのことを言ったために、あなたがたの心は憂いで満たされている。
塚本訳それどころか、(父上の所に行くと言った)このわたしの言葉が、あなた達の胸を悲しみで一ぱいにしている。
前田訳むしろ、これらを話したので、悲しみがあなた方の心を満たした。
新共同むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。
NIVBecause I have said these things, you are filled with grief.
註解: これが前節の無質問の原因であった。師に別れることの悲哀は勿論さも有るべきことであるとはいえ、彼らはその光明の方面をも見るべきはずであった。

16章7節 されど、われ(まこと)(なんぢ)らに()ぐ、わが()るは(なんぢ)らの(えき)なり。(われ)さらずば助主(たすけぬし)なんぢらに(きた)らじ、(われ)ゆかば(これ)(なんぢ)らに(つかは)さん。[引照]

口語訳しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。
塚本訳しかし本当のことを言うが、わたしが(父上の所に)行くことは、あなた達のために利益である。行かねば、弁護者はあなた達の所に来ないが、行けば、わたしが彼を遣わすからである。
前田訳しかしわたしは真をいう、わたしが去るのはあなた方のためである、と。わたしが去らねば、助け主はあなた方に来ないが、去れば、わたしが彼をつかわそう。
新共同しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
NIVBut I tell you the truth: It is for your good that I am going away. Unless I go away, the Counselor will not come to you; but if I go, I will send him to you.
註解: キリスト昇天して神の右に坐し父に請うて助主すなわち聖霊を送り給う。ゆえにもしキリスト死に給わないならば聖霊は降らない、これイエスの去ることが弟子たちの益となる所以である。蓋し聖霊来り給うことによりてキリストの地上の臨在とはまた異なれる働きを我らに為し給うが故である(次節)。キリストの降世も聖霊の降臨も、みなそれぞれ異なれる必要があったのである。

16章8節 かれ(きた)らんとき、()をして(つみ)につき、()につき、審判(さばき)につきて、(あやま)てるを(みと)めしめん。[引照]

口語訳それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。
塚本訳そして彼は来ると、罪について、義について、罰について、この世に(その考えの)誤りを認めさせるであろう。
前田訳彼は来て、罪につき、義につき、裁きについて世の蒙を啓こう。
新共同その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
NIVWhen he comes, he will convict the world of guilt in regard to sin and righteousness and judgment:
註解: 罪の内容、義の内容、従ってこの二者の相交わる審判の内容がすべての宗教の中心問題をなしているのであって、これらの解釈如何がその宗教の本質の分かれる処となるのである。聖霊が降って我らに宿り給うまでは我らはこれらにつき誤れる立場にいてこれを知らずにいるのであって、聖霊によりて新たに生れたものは始めてこの過去の誤りを示されみなこの心中の大革命を経験しているのである。これ聖霊降下の働きであって霊界における大転機である。▲「過てるを認めしめん」は「過誤を自覚させられるであろう」との意。口語訳の「世の人の目を開く」は elencho の訳としては適訳とは思われない。「自覚」「自責」等の意味であるから。

16章9節 (つみ)()きてとは、(かれ)(われ)(しん)ぜぬに()りてなり。[引照]

口語訳罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。
塚本訳すなわち、罪についてとは、人々がわたしを信じないこと(が罪であること。)
前田訳罪についてとは、わたしを信じないため、
新共同罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、
NIVin regard to sin, because men do not believe in me;
註解: 罪とはイエスに対する不信である(ヨハ15:22)ことは聖霊の働きによりて始めてこれを知ることができる(使2:37−39)。その他の罪はその結果であってこれに比すれば軽い罪である。「福音を信ぜざることはソドムの人々に倣うよりも一層悪事である」(マタ10:15、B1)。

16章10節 ()()きてとは、われ(ちち)にゆき、(なんぢ)(いま)より(われ)()ぬに()りてなり。[引照]

口語訳義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。
塚本訳義についてとは、わたしが父上の所に行って、あなた達がもはやわたしを見ることができなくなること(が、わたしの父上に義とされた証拠であること。)
前田訳義についてとは、わたしが(義の)父へと去ってあなた方に見えなくなるため、
新共同義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、
NIVin regard to righteousness, because I am going to the Father, where you can see me no longer;
註解: 世は義の何たるかを知らず、己の義(マタ6:1ロマ10:2)律法の義(ガラ2:21)すなわち道徳的の義をもって真の義と考えているけれども、それは誤りであって、イエスが十字架上に贖罪の死を遂げ給いて我らを義とし同時に神の義を顕わし給い、而してイエスの義しき者に在し給うことの証として、また我らの義とせられしことの証として彼は復活昇天し給うた(ロマ4:25)。すなわち人の目には罪人の一人のごとくであったイエスは、死より甦りて父の御許に昇り給いしことによりて我らの罪が義とせられしことと、彼こそ義そのものであることが示されたのである(Tコリ1:30Tヨハ2:1Tヨハ2:29Tヨハ3:7)。何となればイエスは地上においては人と同じ貌を取り給うたけれども、もし彼が単に一人の不義なる罪の人間に過ぎないならば栄光の中に神の右に昇り給うはずがないからである。このことを明らかにするものも聖霊の働きである。

16章11節 審判(さばき)()きてとは、()()(きみ)さばか[るる](れたる)に()りてなり。[引照]

口語訳さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。
塚本訳また罰についてとは、この世の支配者[悪魔]が(わたしを殺したのは、わたしが罰されたのでなく、自分が)罰されたのであること。──(この三つのことを認めさせるのである。)
前田訳裁きについてとは、この世の君が裁かれたためである。
新共同また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。
NIVand in regard to judgment, because the prince of this world now stands condemned.
註解: ヨハ12:31註および辞解参照。キリストの死は人類の罪すなわち悪魔の支配に対する神の審判である。悪魔は人間の上に死の権力を有ち、人間を罪の中に閉込め死の恐怖をもって束縛していた。然るにイエスはサタンに服従せず、神の御旨に従い人間の罪を負いて死にてまた復活し給うことによりて、キリストに在る凡ての人はすでに悪魔に死して神に生くるものとなり(ロマ6:16)、悪魔との関係は断絶し悪魔は人類に対するその支配権を失った。すなわちサタンは審判(さばか)れたのである(ヘブ2:14、15)。ゆえにイエスの死は世の人の目には、イエスが神を涜すことにより審判(さばか)れしもののごとくに見えたけれども実は然らず。イエスはその復活昇天によりてその然らざることを示し、かつ人間より死の刺を取り去り、また死の恐怖と罪の束縛より人間を解放することによりて、悪魔こそすでに審判(さばか)れたのであることを示し給うた。「我既に世に勝てり」(33節)とはすなわちこれである。聖霊はこのことを明らかにし給う。
辞解
[さばかるゝに因りてなり] 「さばかれたる」であってキリスト昇天し聖霊が降り給える時より顧みて完了せる事実なることを示す。

16章12節 (われ)なほ(なんぢ)らに()ぐべき(こと)あまたあれど、(いま)なんぢら()()へず。[引照]

口語訳わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
塚本訳まだ沢山言うことがあるが、(今は言わない。)あなた達にはいまそれを理解する力がない。
前田訳まだいうことは多いが、あなた方は今は耐ええない。
新共同言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
NIV"I have much more to say to you, more than you can now bear.
註解: 聖霊を受けざる者には隠されている多くの奥義がある。これらは後に聖霊によりて使徒たちに示された。教会の奥義(エペ3:5)、未来の審判の光景(黙示録)、イエスの十字架の贖罪の真の意義(ロマ書)、復活の意義(Tコリ15章[編者:原典Uコリ15となっているが間違い])等も後に至って弟子たちに一層明らかにせられた。大体使徒の書簡の内容はこの中に属するのであって、福音書と同様にこれを重んずべき所以はここにある。

16章13節 されど(かれ)すなはち眞理(まこと)御靈(みたま)きたらん(とき)、なんぢらを(みちび)きて眞理(まこと)をことごとく(さと)らしめん。[引照]

口語訳けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
塚本訳真理の霊が来る時、彼があなた達を導いていっさいの真理を悟らせるであろう。(いっさいの真理というのは、わたしと同じく、)彼は自分勝手に話すのではなく、(父上から)聞いたことを話すからである。また将来起るべき(世の終りの)ことをあなた達に知らせるであろう。
前田訳真理の霊の来るとき、彼があなた方をすべての真理へと導こう。彼は自分で語らず、聞くとおりのことを語ろう。そしてやがて来ることをあなた方に告げよう。
新共同しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
NIVBut when he, the Spirit of truth, comes, he will guide you into all truth. He will not speak on his own; he will speak only what he hears, and he will tell you what is yet to come.
註解: 直訳「なんぢらを凡ての真理に導き入れん」「汝ら」は使徒たちを指す。これを見ても四福音書にあるイエスの言のみを唯一の真理として使徒らの書簡の真理なることを否定する者の誤っていることを知ることができる。「なんぢらを導き」聖霊は道案内者である。

かれ(おのれ)より(かた)るにあらず、(おほよ)()くところの(こと)(かた)り、かつ(きた)らんとする(こと)どもを(なんぢ)らに(しめ)さん。

註解: イエスと同様に(ヨハ12:49)聖霊も己より語るにあらず、その語り給うことは(1)父なる神より聞けること、(2)世の終り、また来世の有様であって、キリストの贖罪、復活、再臨、新天新地の出現、万物の復興等がこれである。ゆえに人間の知識をもって知り得ざることのみである。

16章14節 (かれ)はわが榮光(えいくわう)(あらは)さん、それは()がものを()けて(なんぢ)らに示すべければなり。[引照]

口語訳御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。
塚本訳彼は(こうして)わたしの栄光をあらわすのである。というのは、彼はわたしのものの中から取ってあなた達に知らせる(ので、結局わたしに代って仕事をつづける)のだから。
前田訳彼はわたしを栄化しよう。わたしから受けてあなた方に告げようからである。
新共同その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
NIVHe will bring glory to me by taking from what is mine and making it known to you.
註解: 御子なるイエスが父なる神を栄め給うと同じく(ヨハ14:13ヨハ17:4)聖霊は御子イエスを栄め給う。キリストの栄光は神の栄光であって、恩恵と真理、愛と義とに満ち給うその人格の光である。イエスを見し者は神を見し者であり、イエスの栄光を完全に我らに示す者は聖霊である。これ聖霊が自らイエスの栄光、イエスの人格を受けてこれを聖霊御自身のものとなし、かくして我らにそれを示すからである。ゆえに聖霊がこれを示すにあらざれば我らはイエスを神の子と言うことができない(Tコリ12:3)。

16章15節 すべて(ちち)()(たま)ふものは()がものなり、()(ゆゑ)()がものを()けて(なんぢ)らに(しめ)さんと()へるなり。[引照]

口語訳父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。
塚本訳父上のものはことごとく、わたしのものである。だから(いま)、わたしのものの中から取ってあなた達に知らせる、と言ったのである。
前田訳父がお持ちのものは皆わがものである。それゆえに、わたしから受けてあなた方に告げる、といったのである。
新共同父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
NIVAll that belongs to the Father is mine. That is why I said the Spirit will take from what is mine and make it known to you.
註解: 本節は前節の詳解であって、前節に「我がもの」と言い給えるはみな父の有ち給うものであり(コロ1:19コロ2:9)、全く完全であること、従ってこれを受けて我らに示す聖霊は全く完全なる神を我らに示すものであることを意味する。三位の神がかく一体として働き給うことはキリスト教の信仰の秘義である。

4-2-4 復活の預言 16:16 - 16:24

16章16節 (しばら)くせば(なんぢ)(われ)()ず、また(しばら)くして(われ)()るべし』[引照]

口語訳しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」。
塚本訳しばらくするとあなた達はもはやわたしを見ることができない。またしばらくするとわたしに会うことができる。」
前田訳しばらくすると、あなた方はもはやわたしを見ない。そしてまたしばらくすると、わたしを見よう」。
新共同「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
NIV"In a little while you will see me no more, and then after a little while you will see me."
註解: 聖霊の降下およびその働きにつき語り終えて本節よりイエスはその復活につき弟子たちに告げ給う。すなわち間もなくイエスは死に給いて彼らの目より奪われ給うけれども、またしばらくして復活して彼らに現れ給うであろう(B1、B2、G1、H0、L2、W2、W1)。この後の顕現をもって聖霊の降下による霊的顕現と解するもの(ヨハ14:19、G1、M0、C1)、またキリストの再臨と解するもの(Z0)、(3)またこの三者を兼ぬるもの(A1)があるけれどもこれを復活体の顕現と見るのが最も適当していることは以下数節の註によってこれを見ることができる。有力ならざる異本には本節に「我父に往けばなり」とあり、次節により挿入せしものならん。

16章17節 ここに弟子(でし)たちのうち(ある)(もの)たがひに()ふ『「(しばら)くせば(われ)()ず、また(しばら)くして(われ)()るべし」と()ひ、かつ「(ちち)()くによりて」と()(たま)へるは、如何(いか)なることぞ』[引照]

口語訳そこで、弟子たちのうちのある者は互に言い合った、「『しばらくすれば、わたしを見なくなる。またしばらくすれば、わたしに会えるであろう』と言われ、『わたしの父のところに行く』と言われたのは、いったい、どういうことなのであろう」。
塚本訳するとある弟子たちは互にこう言った、「『しばらくするとあなた達はわたしを見ることができない。またしばらくするとわたしに会うことができる』とか、『わたしは父上の所に行く』とか言われるが、あれはいったい何事だろう。」
前田訳すると弟子たちのあるものが互いにいった、「彼がいわれるのはどういうことか、『しばらくすると、あなた方はわたしを見ない、そしてまたしばらくすると、わたしを見よう』とは。それに、『父へと去り行く』とは」と。
新共同そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
NIVSome of his disciples said to one another, "What does he mean by saying, `In a little while you will see me no more, and then after a little while you will see me,' and `Because I am going to the Father'?"
註解: 前節のイエスの御言は弟子たちにとって一つの謎であった。彼らはこれに10節の御言をも思い併せて(M0)その矛盾を解くことができず、互にその心中を語り合った。

16章18節 (また)いふ『この(しばら)くとは如何(いか)なることぞ、我等(われら)その()(たま)ふところを()らず』[引照]

口語訳彼らはまた言った、「『しばらくすれば』と言われるのは、どういうことか。わたしたちには、その言葉の意味がわからない」。
塚本訳彼らはつまりこう言ったのである、「『しばらく』と言われるが、あれはいったい何事だろう。何を思っておられるのかわからない』と。
前田訳そこで彼らはいった、「『しばらく』といわれるのは何か。彼がいわれることはわからない」と。
新共同また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
NIVThey kept asking, "What does he mean by `a little while'? We don't understand what he is saying."
註解: 三日目に復活し給うべきことは彼らに解し得ない謎であった(ルカ18:31−34)。

16章19節 イエスその()はんと(おも)へるを()りて()(たま)ふ『なんぢら「(しばら)くせば(われ)()ず、また(しばら)くして(われ)()るべし」と()()ひしを(たづ)ねあふか。[引照]

口語訳イエスは、彼らが尋ねたがっていることに気がついて、彼らに言われた、「しばらくすればわたしを見なくなる、またしばらくすればわたしに会えるであろうと、わたしが言ったことで、互に論じ合っているのか。
塚本訳イエスは自分に尋ねたがっているのを知って言われた、「『しばらくするとあなた達はわたしを見ることができない。またしばらくするとわたしに会うことができる』と言ったことを話し合っているのか。
前田訳イエスは彼らがたずねたいことを悟っていわれた、「『しばらくすると、あなた方はわたしを見ない、そしてまたしばらくすると、わたしを見よう』といったことについて互いにたずねあっているのか。
新共同イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。
NIVJesus saw that they wanted to ask him about this, so he said to them, "Are you asking one another what I meant when I said, `In a little while you will see me no more, and then after a little while you will see me'?
註解: イエスは人の心を見てこれを悟り給う。なお マタ9:4マタ12:25ルカ6:8ルカ9:47ヨハ2:24、25。ヨハ4:16ヨハ6:64

16章20節 (まこと)にまことに(なんぢ)らに()ぐ、なんぢらは()(かな)しみ、()(よろこ)ばん。(なんぢ)(うれ)ふべし、()れどその(うれひ)喜悦(よろこび)とならん。[引照]

口語訳よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。
塚本訳アーメン、アーメン、わたしは言う、(わたしがいなくなると)あなた達は泣いて悲嘆にくれるが、この世は喜ぶであろう。あなた達は悲しむが、その悲しみは(やがて)喜びにかわるであろう。
前田訳本当にいう、あなた方は泣き悼(いた)もうが、世はよろこぼう。あなた方は悲しもうが、悲しみはよろこびとなろう。
新共同はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
NIVI tell you the truth, you will weep and mourn while the world rejoices. You will grieve, but your grief will turn to joy.
註解: イエスの十字架の死はサタンに従うこの世の人にとっては喜びとなり、弟子たちにとっては慟哭憂苦の原因となる。しかしながらしばらくしてこの憂苦は彼の復活によりて歓喜と化すであろう。

16章21節 をんな()まんとする(とき)(うれひ)あり、その()いたるに()りてなり。()()みてのちは苦痛(くるしみ)をおぼえず、()(ひと)(うま)れたる喜悦(よろこび)によりてなり。[引照]

口語訳女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。
塚本訳女が子を産む時には、女の(宿命の)時が到来したので悲しみがあるけれども、子が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはや(お産の)苦しみを覚えていない。
前田訳女は子を産むとき悲しむ。彼女の時が来たからである。子が生まれると、人が世に生まれたよろこびのゆえに苦しみをもはや覚えていない。
新共同女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
NIVA woman giving birth to a child has pain because her time has come; but when her baby is born she forgets the anguish because of her joy that a child is born into the world.
註解: イエスの復活はあたかも新しき神の国の初子の誕生にも比すべきものであった(ロマ8:29コロ1:19、18。ヘブ1:6)。死のみが支配しているこの世界に永遠の生命としてイエスが甦り給うたことは驚くべきこと柄であって、そのために憂苦があることが至当である。弟子たちの憂苦はこの産みの苦痛に相当する。而して復活の主を見て喜ぶその喜悦(ヨハ20:20)はあたかも世に人の産れし時の喜悦に似ている。

16章22節 ()(なんぢ)らも(いま)(うれひ)あり、されど(われ)ふたたび(なんぢ)らを()ん、その(とき)なんぢらの(こころ)よろこぶべし、その喜悦(よろこび)(うば)(もの)なし。[引照]

口語訳このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。
塚本訳だから、(同じく)あなた達にも今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなた達に会うのだから、(その時)あなた達の心は喜ぶであろう。そしてあなた達からその喜びを奪う者はだれもない。
前田訳そのように、あなた方も今は悲しみがある。しかしわたしがまた会うと、あなた方の心はよろこぼう。そしてだれもそのよろこびをあなた方から奪うまい。
新共同ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
NIVSo with you: Now is your time of grief, but I will see you again and you will rejoice, and no one will take away your joy.
註解: キリストの復活は彼が神の子たること(ロマ1:3)および我らの罪の赦されしこと(Tコリ15:17)かくしてサタンに打勝ちしことを示す証拠でる。それ故に復活の主顕われて彼らを見給う時、弟子たちの歓喜は大きくかつそれは永遠につづくであろう。何となればキリストは天に昇りて神の右に座し給うことが確実であるからである。如何なる敵すらも彼らよりこの喜悦を奪うことができない。前節の出産の比喩および本節の「我汝らを見ん」等は16節以下を聖霊の降下と解し難い理由である。

16章23節 かの()には(なんぢ)何事(なにごと)をも(われ)()ふまじ。(まこと)にまことに(なんぢ)らに()ぐ、(なんぢ)()のすべて(ちち)(もと)むる(もの)をば、()()によりて(たま)ふべし。[引照]

口語訳その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。
塚本訳その時には、(もはや)何事もわたしに尋ねる必要はない。アーメン、アーメン、わたしは言う、(その時)あなた達が父上に何かお願いすれば、わたしの名でそれをかなえてくださるであろう。
前田訳かの日にあなた方は何もわたしに問うまい。本当にいう、父に求めるものは何でもわが名によって与えられよう。
新共同その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
NIVIn that day you will no longer ask me anything. I tell you the truth, my Father will give you whatever you ask in my name.
註解: 復活し給えるキリストを見、而して後聖霊が彼らに注がれるその日に至らば弟子たちの心には凡ての問題解決して、もはや17、18節のごとき質問を発する必要なく、またヨハ14:5ヨハ14:8ヨハ14:22等のごとき質問も必要なきに至るであろう。而してキリストの神の子に在し給うことが聖霊の働きによりて明らかにされるならば、弟子たちは父の御許に在すこのイエスを通して父に祈るに至るであろう。而してイエスとの完全なる霊の交わりを有ち給う父は(ヨハ14:11)この祈りに応え、イエスの御名の故に凡ての求むるものをこれに賜うであろう。「すべて」とは大胆なる断言であるだけ重大な約束である。

16章24節 なんぢら(いま)までは(なに)をも()()によりて(もと)めたることなし。(もと)めよ、(しか)らば()けん、(しか)して(なんぢ)らの喜悦(よろこび)みたさるべし。[引照]

口語訳今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。
塚本訳いままであなた達は何一つわたしの名で(父上に)お願いしなかった。(わたしがまだ父上の所に行かなかったからである。しかし今は)お願いせよ、そうすれば戴ける。あなた達の喜びが完全なものとなるためである。
前田訳今まではあなた方はわが名によっては何も求めたことはない。求めれば受けよう、あなた方のよろこびが満たされるために。
新共同今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
NIVUntil now you have not asked for anything in my name. Ask and you will receive, and your joy will be complete.
註解: 今に至るまでは未だイエスの復活を目撃しないので、弟子たちはイエスに対する人格的信頼は有っていたけれども、イエスの御名によりてすなわちイエスを神の右に座し給う主、神に代りて支配し給う王と信じ、このイエスによりて子とせられし者として父に祈り求めたことはなかった。しかしながらイエスが復活して父の御許に昇り給うならば、その時こそイエスはその信徒に対し復活の主として活き給うが故に、イエスの御名によりて求むることの当然なることを知り、かくして求むるもの(ヨハ15:7)はみなこれを与えられることを知るであろう(ヨハ15:16)。かくしてイエスとの霊の交わりの歓喜を味わうことを得るであろう。求むるものを凡て受くる状態は最も幸福なる状態である。キリスト者はその凡ての要求を完全に充たされるものである。(現在においてすでにその一部を充たし、未来において全部が実現する。)

4-2-5 結尾 16:25 - 16:33

16章25節 (われ)これらの(こと)(たとへ)にて(かた)りたりしが、また(たとへ)にて(かた)らず、明白(あらは)(ちち)のことを(なんぢ)らに()ぐるとき(きた)らん。[引照]

口語訳わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。
塚本訳以上わたしは(天のことを地上の事柄になぞらえて)謎のように話したが、(間もなく)もはや謎のように話さず、そのものずばりに父上のことを知らせる時が来る。
前田訳わたしはこれらをあなた方に譬えで話した。しかし時が来て、もはや譬えで話さず、明らかに父について告げよう。
新共同「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
NIV"Though I have been speaking figuratively, a time is coming when I will no longer use this kind of language but will tell you plainly about my Father.
註解: その時は聖霊降下の時であって、その時には父と子と聖霊の本質ならびに関係が明らかにせられ、これを譬えによらずありのままに語ることができるようになる。すなわち聖霊によりてイエスは直接に大胆に自由に父のことを示し給う。

16章26節 その()には(なんぢ)()わが()によりて(もと)めん。[引照]

口語訳その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。
塚本訳その時あなた達は、(前に言ったように)わたしの名で(父上に)お願いするのである。しかし(わたしの名で、と言っても、)それはわたしがあなた達のために父上に願ってあげると言うのではない。(その必要はない。)
前田訳その日に、あなた方はわが名によって求めよう。しかし、わたしはあなた方のために父に願おうとはいわない。
新共同その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。
NIVIn that day you will ask in my name. I am not saying that I will ask the Father on your behalf.
註解: 聖霊によりて父とキリストとの関係を知るに場合には自らキリストの御名によりて祈るに至るであろう。

(われ)(なんぢ)らの(ため)(ちち)()ふと()はず、

註解: 聖霊降臨以前にはイエスは彼らのために父に請い給うた(ヨハ14:6ヨハ17:9)。聖霊が一旦降臨し給える後はキリストの御名によりて信者が自ら神に祈願することができる。ロマ8:34ヘブ7:25Tヨハ2:1の執成しは勿論必要であって、これは信者が罪に陥った場合のことで祈りの場合ではない。

16章27節 (ちち)みづから(なんぢ)らを(あい)(たま)へばなり。これ(なんぢ)()われを(あい)し、また(われ)(ちち)より()(きた)りしことを(しん)じたるに()る。[引照]

口語訳父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。
塚本訳なぜなら、あなた達がわたしを愛し、またわたしが神のところから出てきたことを信じたので、父上御自身で(直接)あなた達を愛しておられるからである。
前田訳父ご自身あなた方を愛されるからである。それはあなた方がわたしを愛し、わたしが神からの出と信じたからである。
新共同父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。
NIVNo, the Father himself loves you because you have loved me and have believed that I came from God.
註解: 永遠に活き給うキリストに対する愛とキリストを神の独り子と信ずる信仰とは聖霊の賜物であって、父なる神の最も喜び給う処である、それ故に父は自らかかる者を愛してその祈りを聴き給う。ゆえにキリストの復活栄化と聖霊の降臨によりて我らはキリストを通して直ちに神に接することができる。▲「父より出で来りし」は適訳ではない。「父の御許を離れ来りし」の意。

16章28節 われ(ちち)より()でて()にきたれり、また()(はな)れて(ちち)()くなり』[引照]

口語訳わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。
塚本訳(くりかえして言う、)わたしは父上のところから出てこの世に来たが、またこの世を去って父上の所にかえるのである。」
前田訳わたしは父から出て世に来た。また世を去って父へと行く」と。
新共同わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
NIVI came from the Father and entered the world; now I am leaving the world and going back to the Father."
註解: イエス・キリストは父なる神と同質に在し給うたのを、その父より出でてこの世に来り給うた。而して今やその使命を果し給える以上再び父の許に帰り給うことは当然の順序である。このことを信じ得るならば弟子たちはイエスの死について憂うることをしないであろう。

16章29節 弟子(でし)たち()ふ『()よ、(いま)明白(あらは)(かた)りて(いささ)かも(たとへ)をいひ(たま)はず。[引照]

口語訳弟子たちは言った、「今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。
塚本訳弟子たちは(イエスの言葉の意味を取りちがえて)言う、「まあ、今あなたははっきりお話になって、ちっとも謎を言われません。
前田訳弟子たちはいった、「こんなに明らかにお話しで、何ごとも譬えではいわれません。
新共同弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。
NIVThen Jesus' disciples said, "Now you are speaking clearly and without figures of speech.

16章30節 (われ)(いま)なんぢの()(たま)はぬ(ところ)なく、また(ひと)(なんぢ)()ふを[()ち]((えう)し)(たま)はぬことを()る。(これ)によりて(なんぢ)(かみ)より()できたり(たま)ひしことを(しん)ず』[引照]

口語訳あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」。
塚本訳あなたはなんでも御承知で、だれもお尋ねする必要がない(ほど人の心を見抜かれる)ことが、今わかりました。これでわたし達は、あなたが神のところから出てこられたことを信じます。」
前田訳あなたはすべてをご存じで、だれもおたずねしなくてよいことが、今わかります。これで、神からお出のことを信じます」と。
新共同あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
NIVNow we can see that you know all things and that you do not even need to have anyone ask you questions. This makes us believe that you came from God."
註解: 弟子たちは以上のイエスの御言(20−28節)によりて、現在において理解し得べきことおよび将来に期待し得べきことの凡てをイエスの口より示され、イエスの全知とイエスが質問を要せずして凡ての答弁を与え給うこと(17-19節)を見た。ここにおいて彼らの不安は去り、疑惑は除かれ、ついにここに改めて最も明らかにキリストを神の子とするの信仰の告白に到達した(ヨハ1:49ヨハ4:19ヨハ4:29ヨハ4:42)。

16章31節 イエス(こた)(たま)ふ『なんぢら(いま)(しん)ずるか。[引照]

口語訳イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。
塚本訳イエスは(いとおしげに彼らを見やりながら)答えられた、「いま信ずるというのか。
前田訳イエスは答えられた、「今信ずるのか。
新共同イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。
NIV"You believe at last!" Jesus answered.

16章32節 ()よ、なんぢら(ちら)されて各自(おのおの)おのが(ところ)にゆき、(われ)をひとり(のこ)すとき(いた)らん、(いな)すでに(いた)れり。()れど(われ)ひとり()るにあらず、(ちち)われと(とも)(いま)すなり。[引照]

口語訳見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。
塚本訳見ていなさい、みなちりぢりになって自分の家にかえり、わたしを独りぼっちにする時が来るから、いや、もう来ている。しかしわたしは独りぼっちではない、父上がいつも一しょにいてくださるのだから。
前田訳見よ、おのおのが散らされて家に行き、わたしひとりを残す時が来る。もう来ている。しかしわたしはひとりではない。父がともにいてくださるから。
新共同だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
NIV"But a time is coming, and has come, when you will be scattered, each to his own home. You will leave me all alone. Yet I am not alone, for my Father is with me.
註解: イエスは彼らの信仰告白を喜び給うたに相異ない。しかしながら彼は人の心の弱さを知悉(しりつく)し給いて、彼らがやがてキリストを棄てて己の安全を謀るごとき恥ずべき態度を取るに至る時が近付いたことを示して我らの弱きを示し、これを警戒し給うた(マタ26:31)。しかしながら彼らがかかる態度を取るに至った場合でもイエスの心は絶対に平安であった。その故はイエスは唯一人居給うにあらずして父と偕に在し給うからである。イエスは大なる淋しさの中になお父の愛と父に対する信頼によりて慰められ給うた。

16章33節 (これ)()のことを(なんぢ)らに(かた)りたるは、(なんぢ)(われ)()りて平安(へいあん)()んが(ため)なり。[引照]

口語訳これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
塚本訳これらのことを話したのは、あなた達がわたしに(しっかり)結びついていて、平安を保つことができるためである。この世ではあなた達に苦しみがある。しかし安心していなさい。わたしがすでに世に勝っている。」
前田訳これらをいったのは、あなた方がわたしにあって平安を持つためである。世にあって、あなた方にはなやみがある。しかし、安んぜよ、わたしはすでに世に勝っている」と。
新共同これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
NIV"I have told you these things, so that in me you may have peace. In this world you will have trouble. But take heart! I have overcome the world."
註解: 14:1以下においてイエスの語り給いし諸々の御言の結論としてイエスはここにその要約を為し給うた。すなわちイエスの死とその後に来るべき弟子たちに対する迫害に際して、彼らをして霊の平安を持たしめんことがこの長き袂別(べいべつ)の辞の眼目であった。而してこの平安はイエスの御言を信じ、彼に在りて彼との霊交を持続することより外にない。而して神より出でて神に帰り給う彼との交わりを有つ場合においては、離別の悲哀と迫害の苦痛の中に在りても彼らは不動の平安を保つことができる。後に残らんとする弟子たちに対するイエスの切なる愛を味わわなければならぬ。

なんぢら()にありては患難(なやみ)あり、されど雄々(をを)しかれ。(われ)すでに()()てり』

註解: 弟子たちの受くべき迫害についてはすでにヨハ15:18−25において示された。しかしそれは世にある間だけのことである。彼らの主イエス・キリストは「既に世に勝ち」給い、悪魔をして一指も彼に触れしめなかった。これこそ完全に世に打勝ちし生涯である。(死に打勝ち復活し給いしはその結果であった。)而してこのイエスを主と仰ぐ弟子たちは如何なる苦難の中にあっても、絶対の勝利を確信して雄々しい態度を失わないことができる。イエスがすでに世に勝ち給えると同じく彼らももしイエスに在るならば同じく世に勝っているのである。
要義 [イエスの袂別の辞の概観]十四章乃至(ないし)十六章のイエスの袂別(べいべつ)の辞は聖書中の最大偉観である。時はイエスの十字架を眼前に見ることができる切迫せる場合であった。処はエルサレム、機会は最後の晩餐ともいうべき過越の祭の時であった。人はイエスと十二使徒(後に十一使徒)であった。イエスの死は弟子たちの上に当然に大なる絶望と震駭とを来すべきであった。これに対しイエスは彼らを励まし、慰め、力付け、望みを与え給うた。彼はまずその死は永遠の離別ではなく、天国において永遠に彼らと共に住むべき準備に過ぎざることを示し(14:1−5)、次にイエスと父との関係を示してその霊的一体の秘義を明らかにし(14:6−11)、次にイエスと弟子たちとの間の霊的一体の秘義を示し(14:12−14)、次に聖霊の降臨と、これに伴う三位の神と我らとの関係を示し(14:15−24)、而してこれらの諸関係を明らかならしむるは聖霊の働きなることを示して、イエスの死は彼らの心を騒がすべきではなく、むしろ喜ぶべきものであることを教え給うた。ここにキリスト教の神人関係の秘義があると共に、また現実の問題としてイエスと別れる弟子たちに対する大なる慰安がある。
 而してイエスはさらに進んで霊をもってイエスに連なることの真理を説き給うた。すなわちイエスとの霊の交わりを持続するの条件はその誡命を守ることであり、その結果はよき果を結びて益々潔められることであることすなわちこれである(15:1-17)。しかしながら一方かかる幸福なる状態を考え得ると共に、他方弟子たちはこの世に在りて迫害を受けなければならないことをも考えなければならぬ(15:18−16:4)。それにもかかわらずイエスの死は彼らの幸福である。その故は第一に聖霊の降下であって、これによって彼らはかつて有たざりし霊の悟りを有つに至り(16:5−15)、第二にイエスの復活であって、これに伴って聖霊の内住とイエスの在天の支配とがあり、かくして弟子たちの一時の悲哀は永遠の歓喜と希望に代り(16:16−30)、而して最後に彼らに平安の約束と勝利の確信とを与えてこの説教を結んでいる(16:31−33)。
 この全篇を通覧する時、そこに絶大なる悲劇があると共に永遠不死の希望があり、全き敗北と共に完全なる勝利があり、絶望的の弱さの中に何物にも動かされざる勇気があり、この世の交わりは絶えて美わしき天国の霊交に入るの約束を見ることができる。まことにキリストの袂別(べいべつ)に相応しきものであると言わなければならぬ。この全問題を正解してこれを実現する者は真のキリスト者と称することができるであろう。