コロサイ書第1章
分類
1 冒頭の挨拶 1:1 - 1:2
口語訳 | 神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロと兄弟テモテから、 |
塚本訳 | 神の御意によってキリスト・イエスの使徒たる(われ)パウロと、兄弟テモテ、 |
前田訳 | 神のみ心によるキリスト・イエスの使徒パウロと兄弟テモテから、 |
新共同 | 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、 |
NIV | Paul, an apostle of Christ Jesus by the will of God, and Timothy our brother, |
註解: ガラ1:1註参照。
キリスト・イエスの
註解: この両人が連名にて発信人となっている。エペソ書が同時に認 められながらテモテを加えなかった理由につきてはエペ1:1註参照。なおパウロはその若き弟子をも兄弟と呼ぶことに注意すべし。
1章2節 [
口語訳 | コロサイにいる、キリストにある聖徒たち、忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父なる神から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 |
塚本訳 | 手紙をキリストにある信仰の兄弟なるコロサイの聖徒達に遺る。願う、我らの父なる神よりの恩恵と平安、君達にあれ。 |
前田訳 | コロサイに住む聖徒ら、キリストにある信仰の兄弟たちに。われらの父なる神からの恩恵と平安があなた方にありますように。 |
新共同 | コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 |
NIV | To the holy and faithful brothers in Christ at Colosse: Grace and peace to you from God our Father. |
註解: コロサイの市およびその教会につきては緒言を見よ。獄中書簡以後のパウロの書簡には「何某の教会に贈る」と録していない点注意を要す(ピレ1:2を除く)。おそらくパウロの教会観の変化のためであろう。
[
註解: エペ1:2の註参照。ただし本節には神の次に「及び主イエス・キリスト」を欠く、この点特別の理由ありと考えることが果たして適当なりや否やは問題であるが、パウロはコロサイの信徒の誤れるキリスト観を訂正せんとの意図が強く存していたと見るべきべきである故(13-23節その他)、この場合注意してキリストの名を除いたものとも考え得ない事はない。
分類
2 感謝と祈願 1:3 - 1:12
2-1 感謝 1:3 - 1:8
1章3節
口語訳 | わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神に感謝している。 |
塚本訳 | 君達のため祈る時、私達は何時も主イエス【・キリスト】の父なる神に感謝する。 |
前田訳 | われらはつねにあなた方のために祈りつつ、主イエスの父なる神に感謝します。 |
新共同 | わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。 |
NIV | We always thank God, the Father of our Lord Jesus Christ, when we pray for you, |
註解: 3−8節は一気に書き下せる一つの文章である故邦訳ではその調子を伝え得ず、断片的になっている。他の書簡と同じく挨拶の次に来れる感謝である。そしてこの感謝はパウロの祈りの中に湧き出でることは極めて自然である。
辞解
[常に] 「祈る」に懸るか(B1、A1)、「感謝す」に懸るか(M0、E0、L3)につき説分る。文法上は何れとも解することができるが「祈る」にかかると見る方が自然であろう。
1章4節 [これ]キリスト・イエスを
口語訳 | これは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからである。 |
塚本訳 | 君達のキリスト・イエスにおける信仰と、凡ての聖徒達に対して持つ愛について聞くからである。 |
前田訳 | それはあなた方のキリスト・イエスへの信仰とすべての聖徒に対してお持ちの愛を聞いているからです。 |
新共同 | あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。 |
NIV | because we have heard of your faith in Christ Jesus and of the love you have for all the saints-- |
註解: 原文「聞きて」なる分詞をもって始まり、前節の「感謝す」と連絡する。本節および次節の中に信、望、愛、の三綱領を叙述す(Tテサ1:3)。キリスト・イエスに在る信仰と、凡ての聖徒に対する愛とは、キリスト者の不可欠の徳性である。コロサイの信徒はこの点において賞賛に値していた。パウロはこの事実をエパフラスより聞いたことは勿論、その他にも聞くことができたのであろう。
辞解
[對する汝らの愛] 直訳すれば「對して汝らの懐く愛」となる。
1章5節 [かく
口語訳 | この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基くものであり、その望みについては、あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている。 |
塚本訳 | この愛は君達のため天に蓄えられている希望によるのであるが、この希望のことは曩に君達が福音の真理の言において聞いたところである。 |
前田訳 | このことはあなた方のために天に貯えられた望みによります。それはあなた方に伝えられた福音の真理のことばのうちにお聞きのものです。 |
新共同 | それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。 |
NIV | the faith and love that spring from the hope that is stored up for you in heaven and that you have already heard about in the word of truth, the gospel |
註解: (私訳)「汝らのために天に蓄えある希望の故に」と訳されるべきで前節「汝らの懐く愛」にかかる(辞解参照)。この「希望」は希望の内容を意味し、来るべき神の国において聖徒に与えられるべきあらゆる富と光栄とを指す。キリスト者はこの希望を把握しているが故にこの世において、その肉の慾に捕われず、従って凡ての聖徒を愛し得るに至るのである。
辞解
[希望の故に] (1)3節の「感謝す」に懸ると解する説(B1)、(2)4節の「信仰と愛」とに懸ると見る説(L3)、(3)上記のごとくに見る説(M0、E0、A1、L2)等あり、なお「希望」は現行改訳のごとくに動詞的に見るよりも、希望の内容を指すと見るべきである。
[蓄へある] マタ5:12。マタ6:20。マタ19:21。ピリ3:20。ヘブ11:7等の思想を参照すべし。
この
註解: 前述せる「希望」をさらに詳述すれば、これはコロサイの信徒がエパフラスの伝道により、福音の真理を伝える言によりてすでに聞き及んでいる処であるとの意。すなわち汝らはすでにこれを知っており、今さら繰り返す必要すらないほど明瞭なる希望であるとの意味である。
辞解
[福音 の眞 の言 ] また(1)「福音の真理の言」、(2)「真理すなわち福音の言」等と訳される。(1)を可とす(L2)。
[曾 て] (1)今より以前に(B1)、(2)未来に希望が実現せざる以前に(M0)、(3)偽教師が誤れる教えを伝える前に(L3)等種々に解されているが(1)を採る。パウロはこれによりコロサイの信徒がすでに希望の点においても充分にこれを把握していることを認めたのであった。
1章6節 この
口語訳 | そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである。 |
塚本訳 | (そして今や)この福音は君達の所まで来て、君達の間でも真に神の恩恵を聴き知った(最初の)日から、全世界におけると同様、(豊かに)果実を結び成長しているのである。 |
前田訳 | これは全世界にそうであるように、あなた方のところでも実を結んで成長しています。それは神の恵みを聞いて真にそれをお知りになって以来のことです。 |
新共同 | あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。 |
NIV | that has come to you. All over the world this gospel is bearing fruit and growing, just as it has been doing among you since the day you heard it and understood God's grace in all its truth. |
註解: 前節「汝らに及べる」を説明し、全世界にも及べると同様であることを示す。すなわち福音の普遍性を顕す。「果を結ぶ」は信徒の心の中に信仰が発達して確き信仰となり、善き行為として顕れるに至ることを示し、「増々大になれり」は「成長し」で、福音の伝播が次第に広範囲に及ぶことを示す。いずれも樹木にたとえられている。パウロのここに言わんとすることは、「汝らに至れる福音は決して汝らのみの小なる社会の問題ではなく、全世界に関する事柄である」との意味である。これによりてコロサイの信徒の確信を増さんとしたのである。
註解: 「然りし」は「果を結びて成長すること」であって、福音が全世界において結実成育しつつある有様は、福音がコロサイに伝えられて、その人々が「眞に」(すなわち偽教師らのごとき誤れる信仰ではなく)これを知った日より今まで、コロサイの信徒の間に結実成育しつつあるのと同様であるとの意味である。
辞解
[神の恩恵] ここでは「福音」の別名と解して可なり。なお本節の内容およびその前節との関係は「福音が汝らに及べること(5節、ただし原文ではこの部分6節に入る)は全世界にも及べるがごとくであり、その福音は単に空なる言として全世界に及んだのではなく、結実成育しつつあるのであって、このことはまた汝らの中においても同様であり、豊かに果を結び成育を遂げつつあるのである。そしてこのことの起りし時期は汝らが神の恩恵の福音を聞きて回心し、堅くこれを信じた日以来のことである」という意味である。なお本節をこれと異なる構造に分解し、「汝らが神の恩恵をききて真にこれを知りし日より」を「汝らに及べる・・・・・」に懸け、その他を括弧に入れて読む説がある(L2)。有力な説であるけれども幾分自然さを失う。
1章7節
口語訳 | あなたがたはこの福音を、わたしたちと同じ僕である、愛するエペフラスから学んだのであった。彼はあなたがたのためのキリストの忠実な奉仕者であって、 |
塚本訳 | この恩恵は君達がエパフラに(福音を)聞いた(時教えられた)通り──彼は(主にある)私達の愛する奴隷仲間で、君達のためにキリストの忠実な世話役である。 |
前田訳 | このことはわれらの愛する同僕エパフラスからお学びのとおりです。彼はあなた方のためのキリストの忠実な奉仕人です。 |
新共同 | あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、 |
NIV | You learned it from Epaphras, our dear fellow servant, who is a faithful minister of Christ on our behalf, |
註解: 「はこの福音である」は原文になし。原文は「学びたるがごとく」とあり、前節神の恩恵すなわち福音はエパフラスがコロサイの人々に伝えた処であって、コロサイの信徒はその通りに福音を聞いてこれを信じた。それ故にこそこの正しい信仰は、果を結び成長したのであった。偽教師に欺かれなかったことを暗示している。このエパフラスはパウロらの同労者であり、またコロサイ人であり(コロ4:12)かつ当時パウロの幽囚生活において彼とその労苦を分っていた(ピレ1:23)。なおエパフロデトとの異同につきてはピリ2:25を見よ。
註解: エパフラスはキリストの忠実なる役者(執事)としてコロサイの信徒のために働いたのであった。パウロはかく言うことにより彼のコロサイにおける働きを賞揚し、偽教師らの教えに迷わされてはならないことを示す。
辞解
[汝らのために] 原語 huper はむしろ「汝らの代りに」と訳されるのが普通である。ただしかく訳す場合「キリストの」を「我らの」に変更する必要が生じ適当ではない。また異本に「我らの代りに」とあり、これを採用する学者もある(E0、L3、L2)。ただし現行訳のごとく訳することは全然不可能にあらず、この方を採る。
1章8節
口語訳 | あなたがたが御霊によっていだいている愛を、わたしたちに知らせてくれたのである。 |
塚本訳 | 彼はまた君達が(神の)霊による愛を持っていることを私達に明らかにしてくれた。 |
前田訳 | 霊にあるあなた方の愛をわれらに知らせたのも彼です。 |
新共同 | また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。 |
NIV | and who also told us of your love in the Spirit. |
註解: コロサイの信徒らは未だパウロを見たこともなかったけれども、エパフラスによりてパウロにつきて聞き及んでおり、同じ信仰の師たる意味においてパウロを深く愛していた。それ故にこの愛は純粋なる「御霊による愛」であった。これこそ最も尊き愛である。エパフラスはコロサイの信徒のこの愛につきパウロに告げたのであった。これにより、未だパウロを見たことのないコロサイの信徒とパウロとの間に深い霊の関係が成立ったのであって、パウロはこの心持をまずコロサイの人々に告げんとしたのであった。
要義 [信、望、愛]Tテサ1:3におけるがごとく、パウロはコロサイの信徒に対しても信仰と希望と愛とを称揚していることに注意すべし、信仰なき希望は一種の利己主義的自己満足に陥り、愛なき信仰は教理の固執となり、希望なき信仰は永遠の栄光の輝きを欠き、信仰なき愛は人情的の愛に過ぎざることとなる。この三者は常に離るべからざる関係にある。
1章9節 この
口語訳 | そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、 |
塚本訳 | それ故私達もそのことを聞いた日から絶えず(神に)祈って、君達が御霊による凡ての知恵と聡明とを与えられて、神の御意を知る知識に満たされんことを求めている。 |
前田訳 | それゆえわれらもこれを聞いた日から絶えずあなた方のために祈り求めています−−あなた方がすべての知恵と霊の分別によって彼のみ心をくまなく洞察し、 |
新共同 | こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、 |
NIV | For this reason, since the day we heard about you, we have not stopped praying for you and asking God to fill you with the knowledge of his will through all spiritual wisdom and understanding. |
註解: 感謝の次に来るものは祈願である。そして本節後半はその祈願の主体あるいは内容であり、10節前半にさらにその目的を述べ、10b−12節には、この祈願の目的に関する三つの説明を掲げている。なお祈願の主要点は常に相手方の最も弱き点、欠けている点に触れていることに注意すべし。
註解: 末尾「神の御意を知る知識に満されんことなり」で、当時コロサイの信徒の間に、偽教師が起り、哲学的知識を装い(コロ2:8)または禁慾主義(コロ2:21)または天使礼拝による誤れる敬虔主義(コロ2:18)あるいは飲食や季節に関する律法主義(コロ2:16)等を唱えて、彼ら信徒を欺く(コロ2:4)者があったので、パウロは、かかる者に欺かれる原因は神の救いの経綸に関する御意を知るの知識に欠けるが故であると考え、この知識に満たされんことを求めたのであった。そしてかかる知識は、単に人間的の知識にあらず、霊的の知識である故、「霊的の智慧と穎悟 」とをもってすることが必要である。
辞解
[智慧 と穎悟 ] 「智慧 」sophia は最も広い意味の賢さであって知、情、意の各方面における完備する姿を指し、「穎悟 」 synesis は物事を理論的にまた実際的に思考し判断する力をいう。智慧は一般的であり穎悟 はその内訳の一つである。なおエペ1:8の聡明 phronêsis もこれに類似しているが、この語は主として実行の方面における賢明さを指す。
1章10節
口語訳 | 主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。 |
塚本訳 | これは君達が主(を信ずる者たる)に相応しく歩いて、凡ての天において彼を喜こばせんこと、(然り、第一には)凡ての善き業において(多くの)果実を結び神を知る知識に成長せんこと、 |
前田訳 | 主にふさわしく歩んですべて彼によろこばれますように。また、あらゆるよいわざに実を結んで神を知ることに成長なさるように。 |
新共同 | すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。 |
NIV | And we pray this in order that you may live a life worthy of the Lord and may please him in every way: bearing fruit in every good work, growing in the knowledge of God, |
註解: 前節の祈願の目的である。これを私訳すれば「凡ての事〔主を〕悦ばせんとして、主に相応しく歩まんがためにして」〔神を知る〕の知識によりて(辞解参照)凡ての善き業において結実成長しとなる。すなわち神を知るの知識に満たされることは、単にその知識に誇らんがためではなく「主に相応しく」すなわち主イエス・キリストに属する者たるに相応しく歩むこと(行動すること)のためである。その結果「主を悦ばせ」得ることとなるのであって、自己の道徳を誇るためではない。そしてこの「主に相応しく歩む」ことをなお詳しく説明すれば次の三つとなる。その第一はすべての善き業において結実し成長することであり、キリスト者としての凡ての善行が豊かになり、益々成長発達することを指している。そしてこれは「神〔を知る〕の知識により」てかくなるのであって、空しき哲学や、律法主義や、禁慾主義等によりてはかかる結果を得ることができない。神を真に知ることによりて我らの徳性の向上発達を来たらしめる。
辞解
「神〔を知る〕の知識により」と私訳したのは重要なる写本によったのであるが異本に「凡ての善き業において結実成長しつつ神〔を知る〕の知識に至り」とあり、この方を採用する学者も多い(L2、M0、現行訳)。この方が一見了解し易くかつ次節とも相類似しているようであるけれどもそれだけ平凡である。上記の私訳を適当とす(L3、E0、A1)。
[主を悦ばせんとして] 「主を」は原文になき故、意味の上より補充するを可とす。ただしこれを一般の人を悦ばす意味に解する説(L2)あれどその必要なし。
[知識] 前節および本節の知識は epignôsis で gnôsis の一層深き状態を指す。
1章11節 また
口語訳 | 更にまた祈るのは、あなたがたが、神の栄光の勢いにしたがって賜わるすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍び、 |
塚本訳 | (第二には)彼の栄光の威力に応じて凡ての能力を強められ、凡て(の苦難)を耐え忍ばんこと、 |
前田訳 | 全きみ力のうちに彼の栄光の勢いによって強められて、万事よろこびをもって耐え忍び、 |
新共同 | そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、 |
NIV | being strengthened with all power according to his glorious might so that you may have great endurance and patience, and joyfully |
註解: 主に相応しく歩むことの説明の第二、私訳「また神の栄光の勢威に循い、よろこびを伴うあらゆる忍耐と寛忍とに達するまで、凡ての力によりて強くせられつつ」。第一は神を知るの知識によって善き行為を為すことであったが、第二は神の栄光の勢威、すなわち神がその栄光の中に保ち給う大能の勢威にしたがい、あらゆる力において強められることであり、その結果凡てのことにおいて忍び耐え得る様になることである。
辞解
「忍び」 hupomonê と「耐え」 makrothumia とは共に忍耐を意味しているけれども、前者は困難、迫害、誘惑の下に(hupo)ありて、これらに耐えて頑としてその立つべき場所に立っている(menô)ことであり、挫折することの反対である。後者すなわち makrothumia は「気の長きこと」を意味し、「短気」の反対で、他人の非礼、侮辱、迫害等に対して容易に怒らないことを意味す。前者によりて人は希望を失わず、後者によりて人に対する憐憫を失わない。
[よろこびて] 次節の「感謝す」に関連すべしとする説多し(M0、L2)、何れにても文法上は差支えなし。
1章12節
口語訳 | 光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者とならせて下さった父なる神に、感謝することである。 |
塚本訳 | (最後に)君達をして光に在る聖徒達の(受くる大なる)世襲財産の分け前に与り得る者と為し給う父(なる神)に、喜びをもって感謝せんことである。 |
前田訳 | あなた方を光のうちにある聖徒の嗣業にあずかるに足るようになさった父に感謝してください。 |
新共同 | 光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。 |
NIV | giving thanks to the Father, who has qualified you to share in the inheritance of the saints in the kingdom of light. |
註解: 主に相応しく歩むことの説明の第三である。私訳「我らを光にある聖徒の嗣業の分け前に値する者たらしめし父に感謝しつつ」となる。嗣業の分け前は嗣業そのものを指す同格名詞。この聖徒の嗣業は神の国において実現すべき未来の約束であり、それは神の光の中に輝くところのものである。父なる神は我らを選び、救い、潔め給い、この嗣業に値しているものとなし給うた故我らはこの父に感謝しなければならない。
辞解
[嗣業の分け前] 使26:18を見よ、本節にきわめて類似している一節である。
要義 [知識、善行、力]信、望、愛に亜 ぎてパウロの要求する処の事柄は知識、善行、力である。真の知識は神の御意を知ることであり、真の善行は神の御旨を行うことであり、真の力は神の助けによりて来る。この三者は信望愛の三者と不可分の関係にあり、同一物の異なる角度よりの観察とも見ることを得。
分類
3 教理の部 1:13 - 2:23
3-1 パウロのキリスト観 1:13 - 1:23
3-1-イ キリストによる罪の赦し 1:13 - 1:14
1章13節
口語訳 | 神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。 |
塚本訳 | 父は暗闇の権力から私達を救い出して、その愛の御子の王国に移し給うた。 |
前田訳 | 彼はわれらを闇の権威から救い出して彼のいとし子の国へとお移しでした。 |
新共同 | 御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 |
NIV | For he has rescued us from the dominion of darkness and brought us into the kingdom of the Son he loves, |
註解: 文章としてはなお前節に接続しているが前節においてパウロの祈願は終った。唯、前節に「父」なる語が出て来たので、パウロの思想はここにさらに深く信仰の中心に突入し、13−23節の大キリスト論に転回する。本節においては前節末尾の「父」の説明に移行し、次節よりさらに「子」に移行し、15節以下は彼の深きキリスト観に入る。我らはもとは暗黒を支配する権威すなわちサタンの下に捕われていた(エペ2:1、2。使26:18)のであるが、キリストの十字架の贖罪により、彼を信ずるものとなし、御子キリストの支配下に我らを移し給うた。これは凡て神の御業であり、我らは唯その恩恵に感謝するより外にない。
辞解
[愛 しみ給う御子] 原語「愛の御子」であるので、これを「神の愛が生み出せる子」というごとき意味に解し(A2)、神学上の困難なる問題となっているけれども、この場合その必要がない。
[御子の国] 未来において完成するのであるが現在においてすでに我らの心に実在しているのである。それ故に「遷 したまへり」の不定過去形はきわめて適当である。
1章14節
口語訳 | わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。 |
塚本訳 | 私達は彼において贖罪すなわち罪の赦しを持っているのである。 |
前田訳 | み子によってわれらはあがないを、すなわち罪のゆるしを得ています。 |
新共同 | わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。 |
NIV | in whom we have redemption, the forgiveness of sins. |
註解: 我らは神の愛子の国に遷 されたのであるが、この御子によりて我らは贖われて神の子とせられたのであり、彼に在ることによりて我らは罪の赦しを得ているのである。何たる感謝すべきことであろうか。この13、14節をつぶさに知ることがすなわち神の御意を知ることであり、これなしには我らはキリストに相応しいものとなることができない。
要義 [神の国に移されし者の歩み]キリスト者は神によりて選ばれ、サタンの国より救い出されて御子の国に遷 され、神の子とされたものであるという事実が10−12節におけるキリスト者の諸徳すなわち主に相応しく歩まなければならないことの基礎である。この主に相応しき歩みは、自己につきては善行、他人に対しては忍耐、神に対しては感謝がその主要の道となるのであって、この中の一つを欠くものは主に相応しきものとなることができない。パウロは10−12節に巧みにこの三者を網羅しているのであって、これは哲学的思索の結果にあらず、道徳的修養の結果にあらず、サタンの国より神の国に移されし者の自然の心情であり、彼の信仰より出づる自然の言である。
註解: 15−20節はパウロのキリスト観として特種なる部分であり、神学上および解釈上に多くの困難と問題とを投げかけた個所である。この部分のキリスト観はパウロの他の書簡の中には極めて断片的に現われているだけで、この個所におけるごとく明瞭にまとまって叙述された処はない。そしてこの部分を充分に理解するには、当時行われていたアレキサンドリヤの哲学者フィローンのロゴス哲学や、ユダヤ教のメシヤ思想や、またグノシス的思想傾向や、その他コロサイの地方にも行われしならんと思惟されるペルシャ的思想、ヘルメテイカの思想などを背景とせる神─天使─被造物─人間との関係に関する諸種の考え方、または学説等を眼中に置いて解釈する必要があり、パウロもそれらを眼中に置きつつ─しかもこれらの思想を断然超越せるものとして─キリスト中心の思想を転回しこれによりて最高の絶対的解決を与えたのである。それ故にパウロはこれら諸種の思想形式および用語を利用したけれども、それらに束縛せられず、自由に自己の信仰の内容をそれらの語に盛ったものとして解しなければならない。これら諸種の思想と一々比較することは本書の範囲内においては不可能である。なお15−17節はキリストと宇宙との関係、18−20節はキリストを首とせる教会を中心として万有の和らぎを示す、すなわち第一の創造と第二の創造におけるキリストの地位を示す。
口語訳 | 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。 |
塚本訳 | (まことに)彼は見えざる神の御像、凡て創造られた物の(前に生まれた)長子であり給う。 |
前田訳 | 彼は見えぬ神の像であり、すべての被造物に先立ってお生まれの方です。 |
新共同 | 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 |
NIV | He is the image of the invisible God, the firstborn over all creation. |
註解: 「像」 eikôn は単に似ている意味ではなく、原型より生れ出でまたはこれによりて作り出された像の意味であって、原型との関係を有することを意味す。この意味においてキリストは神の本質をもってその本質としているのである。従って神と同じく見得べからざるものであった。従って本節は人間となり給えるキリストを指したのではないが、またこれを除外したのでもない。人としてのキリストも神の像であった(Uコリ4:4、ヘブ1:3 charactêr)。けれどもそれは彼の見得べき肉体の部分についてではない。
辞解
なおフィローンの哲学にしばしばロゴスを神の像なりと称えているのであるが、ヨハネもパウロもこれを利用して一層高きものとすることができた。また本節はアリウス論争の中心となった点であって教理史上重要な一節である。
註解: キリストは万の被造物と二つの点において異なる。その一は被造物よりも先に存在し給えることであり、その二は造られたるにあらずして生れ給うたことである。prôtotokos (最初に生れし者、初子、長子)なる語を用いたのはそのためであって、従ってキリストは最初の被造物 prôtoktistos ではない。神の長子なるが故に、全宇宙の支配者であり、また当時ユダヤの思想には詩89:27の「初子」をメシヤと解していたので、キリストを初子と呼ぶことによりてそのメシヤたることを示した。そしてかく言うことによりてパウロはキリストを至高の地位に置いているのである。かかる語を用いてキリストを説明せる所以は、グノシス的傾向を有する偽教師らがキリストに対してかかる深き理解なきために、誤れる説を唱えてコロサイの信徒を惑わし、彼らをしてキリストに対する真心と貞操とを失わせるに至ることを恐れたからであった(Uコリ11:3)。
辞解
[初子] prototokos は聖書にはイスラエル、ダビデおよびキリスト者の称呼としても用いられている(出4:22。詩89:27。ヘブ12:23)。
口語訳 | 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。 |
塚本訳 | 万物は彼において創造られたからである。(然り、)天上のものも地上のものも、見ゆるものも見えぬものも、また(あらゆる天使達、すなわち)「王座」も「支配者」も「権威」も「権力」も、万物ことごとく彼によって、また彼のために創造られた。 |
前田訳 | 彼にあって、万物が、天と地にあるもの、見えるもの見えぬもの、王座も主権も支配も権威も、万物が彼によって彼のために造られたのです。 |
新共同 | 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 |
NIV | For by him all things were created: things in heaven and on earth, visible and invisible, whether thrones or powers or rulers or authorities; all things were created by him and for him. |
註解: この「よりて」は en で本節後半の「彼によりて」の場合の dia と異なる。この en は適当なる訳語を見出すことが困難であるが、その意味は万物がキリストの中に(範囲、L2)すなわちキリストの支配し給う範囲の中に神によりて創造せられしことの意味である。換言すれば神は万物を創造し給うたけれどもキリスト以外の場所、すなわちキリストと関係なき範囲には一物をも創造し給わなかった。かくして凡ての被造物はキリストの中に造られたのである。それ故にキリストの支配の下にあらざる被造物は一つも存在しない。また当然の結論としてキリスト自身は被造物の中に属しない。その以外である。
辞解
この「彼の中に」は難解なので(1)彼が創造の原因たる意味であるとなし、または(2)彼の中に萬物が観念的に創造せられていると解するなど種々の解あり。上記のごとくに解す。なお本節は「何となれば」とあり、前節の理由を示す。
註解: 天上地上、有形無形の凡てのものを指す、日月星晨 のごとく天上にありても見ゆるものあり人間の霊魂のごとく地上にありても見えぬものがある。
註解: この四者は天の使いの名称である。なお天使の性質、階級、善悪等につきてはエペ1:21およびその註を参照すべし。なお「政治」 archai 「権威」 exousiai 等はこの世の司や権威者につきても用いられる語であるから(ルカ12:11。テト3:1)本節の場合にもこれらを包含すべきやにつき諸説あり、パウロの目的は主として天使を指し、天使礼拝の誤謬を正さんとしたのである故、地上の司、権威は彼の眼中になかったかもしれないけれども、天上地上の凡てのものと言っているのを見るならば、地上のものをも含めていると解しても差支えがない(L3)。
辞解
本節は文章がここで一段落をなしている故、現行訳のごとく訳しては適当ではない。すなわち「そは天上地上の萬物は見ゆるものも、見えぬものも、位も、支配も、政治も、権威も彼の中に造られたればなり」と訳すべきである。
みな
註解: 「みな」は「萬の物は」と訳すべし、万物はキリストの中に(en)、すなわち彼の抱擁と支配の中に造られたのであるが、また同時に彼を通じ、彼を仲介して(dia)造られたのである。「萬のものこれに由りて成り」(ヨハ1:3)も同様の思想である。すなわちキリストは創造の仲保であり、彼の手を経ずして一物も造られなかった。神はキリストを通じてその創造の御業を行い給うた。然のみならずまた万物は「彼のために」(eis)造られたのである。すなわち万物創造の目的はキリストに帰せしむるためであり、キリストのために万物はその存在を与えられたのである。
辞解
最初の「造らる」は不定過去形で、一気に完了せる創造の行為を示し、終りの「造らる」は完了形で現在まで結果の残存することを示す。
1章17節 (
口語訳 | 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。 |
塚本訳 | そして彼は万物より先にあり給う。且つ万物は彼によって存在する。 |
前田訳 | 彼は万物に先んじて存在し、万物は彼にあって立っています。 |
新共同 | 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。 |
NIV | He is before all things, and in him all things hold together. |
註解: 「彼自身は」または「彼こそは」というがごとく極めて強意的の文章である。彼は万物の創造の原因、手段および目的であり給う以上、彼は当然凡ての被造物よりも先に、然り無限の前より存在し給う。このことは15節と同じことであるが、15節は彼の身分に重点を置き、本節は彼の存在の時に重点を置いている。ヨハネはこのことを主御自身の口をもって言わしめている(ヨハ8:58)。
註解: 私訳「萬物は彼の中に共存する也」万物がキリストの中に en 一体となりて共存することを意味す。キリストの中に在り、彼の支配の中に在る場合、人間は勿論、その他の万物も完全なる調和を得、互いに相寄り相助けてその存在を完 うすることができる。反対にもし彼を離れるならば、そこに不和と争闘と滅亡とがあるのみである。
要義 [パウロのキリスト観(1)キリストと宇宙との関係]15−17節において、パウロは宇宙の万物とキリストとの関係を論じているのであるが、これによれば、キリストは被造物にあらずして神の生み給える長子であり、従って万物の創造はキリストの中に、キリストにより、キリストのために為されたのであって、彼の外に、彼によらずして、彼のためならずして一物も創造されなかったのである。かくして万物は徹頭徹尾キリストのものであるというのである。真に偉大なるキリスト観であり宇宙観である。
パウロがかかる信仰に達したのは、彼が復活のイエスに接して回心し、死より生に移されたことがその根本の原因を為しているのであって、彼はキリストの聖き霊と復活とによって神の子たることを確信し(ロマ1:4)、神の子たる以上、神の像であり、被造物よりも先に生れ給える神の初子であり、万物の支配者、創造者、享有者に在し給うことを信じたのであった。もしこの中の一つでもキリストに欠けるならば、彼は神の子と称することができない。
勿論パウロはコロサイその他に現れ始めし偽教師らのグノシス的傾向、またはアレキサンドリヤの哲学その他の憂うべき数々の教えに対する弁護論としてこのキリスト観を書いたのであって、その結果彼のキリスト観の体系はこれらの思想の体系と比較対照さるべき形式にまとめられたのであるけれども、彼のこの信仰の内容あるいは本質は、これらの異端論から刺激されて生れたのではないと見るべきである。ただし思想の動向や、用語や、説明の形式などは自然これらの反対論者の用いつつあるものによったのは争われない事実である。
それ故にこのキリスト論を目して他人の挿入なりとし(ホルツマン)またはこれがために本書を偽書簡なりとすること(バウル)の理由なきは勿論、このキリスト論をもって単に他の外部にあった思想の影響を受けて考え出したものとみる(ディベリウス)ごとき説はこれを採用することができない。パウロの思想は深くその救いの体験に根ざしたのであって、唯用語や説明の形式などにおいてのみ当時の思想の影響を見得るにすぎない。かかる偉大なキリスト観は、唯偉大なる信仰的体験のみより生れて来るのである。▲キリストが神に在し給う以上は彼は創造者でありまた自己目的的存在でなければならない。それ故にこそ神の子の死が人類の救いとなったのである。
註解: 18−20節はキリストが教会の首たること、そしてこの教会を中心としたる神と万有との和らぎを叙述す。15−17節が宇宙観的キリストに関するのに対し、18−20節は救済観的キリストに関する記述である。前者は第一の創造であり、後者は第二の創造である。この両者においてキリストは同様の関係と位置にあることに注意すべし。
1章18節
口語訳 | そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。 |
塚本訳 | 彼はまた体なる教会の頭であり給う。彼は始めであり、死人の中から最初に生まれた長子であり給う。これは凡てにおいて彼が第一人者たらんためである。 |
前田訳 | 彼は体の、すなわち集会(エクレシア)の頭です。彼は始めであり、死人の中から最初にお生まれの方です。それはすべてにおいて彼が首位をお占めのためです。 |
新共同 | また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。 |
NIV | And he is the head of the body, the church; he is the beginning and the firstborn from among the dead, so that in everything he might have the supremacy. |
註解: 万物が彼の中に造られたこと(16節)よりも一層密接なる関係にあるのが彼と教会との間である。彼と教会との間の関係は、原因と結果の関係でもなく、統治者と被治者との関係でもなく、首と体との関係であって一つの生命である。全宇宙が彼において一つに帰するよりも一層密接なる度において全教会が彼において一つに帰しているのである。この思想はパウロの書簡の処々にあらわれる。エペ1:22、23。エペ4:12。エペ5:23。Tコリ12章等。▲教会はその性格の偉大性を自覚しなければばらない。然るに事実は極めて貧窮なる倶楽部の如きものとなっているのではないか。
註解: キリストの復活を指す。キリストの復活は新しき創造の「始」である。「始」に「言」あり(ヨハ1:1)もこの点において新たなる創造の世界にも適用することができる。「最先に生れ給ひし者」は15節の「先に生れ給へる者」と同じく prôtotokos で「初子」「長子」の意味である。15節において彼は宇宙の凡ての被造物に対して初子であったが、本節においては「死人の中よりの初子」である。すなわち彼は甦り給えることによりて時間的に最初に生れ給える者であり、また資格において長子であり給う。「これ多くの兄弟のうちに御子を嫡子(prôtotokos)たらせんためなり」(ロマ8:29)とあるのもこの意味である。
これ(
註解: 嫡子は当然凡てにおいて第一人者であると同じくキリストも最先に復活し給えることによりて新たに創造せらるべき神の国において万事につき第一人者、首たる者となり給う。
辞解
[凡ての事につき] 男性と解し「凡ての人の」と訳する説あり、教会のことを主として論じている場合故かく解することは不可能ではないけれども、一層広義に中性として解する方が適当である。多くの学者もこの解をとる。
1章19節 [
口語訳 | 神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、 |
塚本訳 | 何故なら、神は豊満なる神性を悉く彼に宿らせ、 |
前田訳 | 神がよみしたもうて、彼のうちに全き成就を宿らせ、 |
新共同 | 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、 |
NIV | For God was pleased to have all his fullness dwell in him, |
註解: 私訳「そは神は凡てのプレーローマが彼に宿り・・・・・ことを悦びたまいたればなり」で、前節の理由の説明となる。「悦びたまいたればなり」は現行訳「善しと為し給ひたればなり」で次節の終りに入っている。キリストは凡てにおいて長となり給うたという言の意味を本節および次節において説明したのであって、神はキリストがかかる者たることを悦び、これを実現し給うたのであった。その第一は凡てのプレーローマ(「満足れる徳」だけでは意を尽くさない。神の力神の属性の全体を指す。エペ3:19註参照)がキリストの中に宿ることである。パウロはグノシス的偽教師らに対し、彼らが考えるごとく、このプレーローマが他の種々御使いたちに分ち与えられるのではなく、その全体がキリストに宿っていることを主張し、またキリスト・イエスに対し人間的不完全さを主張する彼らの思想を打破せんとしたのであった。
辞解
「神は」なる主語は原文になき故これを補充することが必要である。なお「プレーローマ」を主語として訳することもできるけれども(L2)、通説に従って差支えなし。
プレーローマ「満足れる徳」の意味につきてはコロ2:9。エペ1:23。エペ3:19。エペ4:13。ヨハ1:14、ヨハ1:16等参照。
[宿し] 私訳「宿り」 katoikeô は paroikeô 「仮寓 する」と異なり、「定住する」意味である。
1章20節 その
口語訳 | そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。 |
塚本訳 | その十字架の血によって平和を作り、彼によって地上のものも天上のものも、万物を(悉く)彼によって御自分と和睦させようと決心し給うたからである。 |
前田訳 | 彼によって万物をご自身に和解させるよう、彼の十字架の血によって平和をお作りでした。万物とは地にあるものも天にあるものもです。 |
新共同 | その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。 |
NIV | and through him to reconcile to himself all things, whether things on earth or things in heaven, by making peace through his blood, shed on the cross. |
註解: キリスト教の救済論はほとんどこの一節に要約されていると見ることができる。すなわち神の造り給える宇宙は本来「甚だ善き」(創1:31)もので完全なる調和があったが、その後天の使いのあるものが神に叛き、次に人類の始祖が神に反(そむ)きて罪を犯し神に詛 われるに至り(創2章)、その結果全宇宙の全被造物が神との調和を失って、その詛 いの下に呻吟 するに至った(ロマ8:18−23)。すなわち全宇宙と神との間の不和が現実の事態となったのである。この不和をキリストによりて取り除き、万物、すなわち地上天上の凡てのもの、人間も動物も植物も無生物も、個人も社会も国家もキリストに由り(dia 通し、仲介により)て神と和らがしむることが神の欲し給う処であり、悦び給う処であった。この和解を来たらしむる方法として、神はキリストを十字架に釘 け、罪なき彼を我らの代りに罪となし(Uコリ5:21)て彼を罰することによりて我らを義とし給うた。すなわちキリストの十字架の血は神と人との間に「平和を造り出し」たのであって、この十字架の贖罪の死によりて、万物と神との間に和解が完全に成立したのである。キリストが凡てのことにおいて長たる必要はこれがためであった。すなわちキリストの十字架によりて旧き世界は一変して神との新しき関係に入り、そこに新世界の創造が始まり、キリストはその復活によりてこの新世界における初子となり給うたのである。
辞解
[平和をなし] 「平和を作り出し」の意。
[彼によりて] 二回原文に出て来るけれども現行訳には二回とも出ていない。一回はぜひ訳出する必要がある。
[己と] 「彼と」と読むべしとする説多し。
[和らがしむ] apokatallassô は、普通は katallassô を用いているのであるが apo を加えてこれを強めたものとみるべきであろう。 なおこれを旧状に回復する意味に解する説もある。
要義 [パウロのキリスト観(2)キリストと教会]キリストと教会との関係は、単に師弟の関係でもなく、またキリストの獲得せる悟りまたは真理を受継げる後継者でもなく、キリストを首とせるその体である。このことはエペ5:22以下その他にしばしば示されている真理であり、この中に豊富にして偉大なる内容を包蔵しているのであるが、本書1:18−20に展開せられしキリストと教会との関係は、さらにキリストの宇宙的存在たること(15−18節)と相合して極めて重要なる内容を示しているのである。すなわち宇宙万物の支配者、創造者、享有者に在し給うキリストが、同時に新たなる創造の嫡子、支配者、救済者に在し給い、この新たなる創造がキリストによりて行われ、それによって教会が成立しつつあり、それがやがて完全なる神の国にまで到達すべきものであるというのである。それ故にキリスト者なるものは自らこの宇宙的存在たることを自覚し、神の恩恵とキリストの憐憫とを悟ると共に、神の経綸を実現し、神の悦び給うものとならなければならない。神の救いを、救われし個人の幸福の点のみより観察するごときは教会の宇宙的意義を無視するものであり、教会を単に人を救うための便宜より生れし人間的制度と考えるごときも教会の神的意義を無視するものである。同様にキリストを単に一つの偉大なる宗教家と考えることもパウロのキリスト観を去ること遠いものである。
註解: 21-23節はキリストの福音の何たるかを述べる。
1章21節
口語訳 | あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。 |
塚本訳 | かつては君達も悪行を行って神に縁無き者(であり、)また心にてはその敵であったが、 |
前田訳 | かつてはあなた方も神から疎外され、悪いわざをして心で神に敵していました。 |
新共同 | あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。 |
NIV | Once you were alienated from God and were enemies in your minds because of your evil behavior. |
註解: 私訳「汝らももとは悪しき行為により心にて〔神に〕遠ざかりその敵となりしが」。キリストと教会に関する原理を述べ終ってパウロは本節以下においてこれをコロサイの信徒の実生活に適用して、彼らを力付けかつ励ましているのである。まず始めに彼らの入信以前の状態を彼らに思い出さしめているのが本節である。すなわち彼らの状態は神より遠ざかり神に敵対している状態であった。このことは彼らの心に神を愛せず、種々の人間的思想に迷わされしことと、および彼らが種々の悪行を為していたことがその証拠である。
辞解
[神に] 原文には無いけれども当然補充さるべきである。
[神の敵] 「神に憎まれるもの」と解する説あれど不適当である。
1章22節
口語訳 | しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。 |
塚本訳 | 今や神は君達をも御子の肉体の死によって(御自分と)和睦させ給うた。それは君達を御自分の前で聖い、瑕の無い、咎め所の無い者にしようとし給うたのである── |
前田訳 | 今や彼の肉体によりその死によって神は和解をなさいました。それはあなた方を聖くきずなく潔白なものとして自らの前にお立たせになるためです。 |
新共同 | しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。 |
NIV | But now he has reconciled you by Christ's physical body through death to present you holy in his sight, without blemish and free from accusation-- |
註解: 原文は「・・・・・立たしめんがために・・・・・和がしめ給えり」となっている。本来神との間に不和の関係にあり敵対関係にすらあった我らを(21節)神は己と和がしめ給うた。それはキリストの肉の体をもってその死によりて成就し給うた。詳説すれば、キリストを「罪ある肉の形にて罪のために遣し肉において罪を定めたまへり」(ロマ8:3)とあるごとく、キリストの肉の体の死によりて凡ての人類の罪は審 かれてしまい、これによりて神の心は宥められ、全人類の罪は赦され、このキリストを信ずるものを神は喜びて御許に迎え給う、即ちこの場合神と人との間に和解が成立ったのである。かくのごとく神が我らを己と和がしめ給うた目的は、我らをして新たなる生命に甦った神の子たるに相応しく、潔く瑕なく、責むべき所なき者となりて、御前に立たしめんがためであった。すなわち神が御子キリストを十字架に釘 け、その血によりて我らを己と和がしめ給うたのは、最後の審判の日に我らが神の前に立派な姿において立つことができ、かくして栄光の国に入ることができ、神の御座の前にその栄光となり得んがためである。それ故に神が我らを己と和がしめ給うたのは、神御自身のためであるが同時にそれは我らの絶対的光栄である。なおここに「肉の体」を強調せる所以は、グノシス的思想の影響の下に、神と人との仲保は肉の体を持たざる天の使いであるとの考えに反対せんがためであると見るべきであろう。「その死により」も同様であって、キリストを真に知らんがためにはその死の真の意義を知らなければならない。
辞解
[神] 原文になし、かつ「和らがしめ」は異本「和らがしめられ」とあり、これを採用する場合「神」の代りに「汝らは」となり「汝らは・・・・・彼と和らがしめられ」と訳す。ただし現行訳のままを可とする。
1章23節
口語訳 | ただし、あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。この福音は、天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものであって、それにこのパウロが奉仕しているのである。 |
塚本訳 | もし君達が(飽くまで)根強く堅く信仰に止まり、聞いた福音の希望から動かされることさえ無ければ!この福音は天の下の凡ての創造られたものに宣べ伝えられ、私パウロがその世話役となったのである。 |
前田訳 | ただしあなた方は信仰にとどまって動かず、くじけず、耳を傾けた福音の希望からそらされないでください。これは天下のすベての被造物にのべ伝えられた福音で、わたしパウロはその奉仕人になりました。 |
新共同 | ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。 |
NIV | if you continue in your faith, established and firm, not moved from the hope held out in the gospel. This is the gospel that you heard and that has been proclaimed to every creature under heaven, and of which I, Paul, have become a servant. |
註解: 「斯くされることを得べし」は原文になし。従ってこの仮定は前節に連絡し、神の前に潔く瑕なく責むべき所なく立たしめられるにはこの条件が満たされなければならぬとの意味である。すなわちキリストによりて救われし者といえども、もしその信仰に止らず、またその信仰を基礎として堅く立たず、福音によって与えられる永遠の希望に確立せずしてすぐに動揺するがごとき状態にあるならば、彼らはついに完全(まった)きものとして神の前に立つこと得ざるに至るであろう。
辞解
「止 る」「基礎を置く」「堅く立つ」「動揺せず」等、何れも堅き信仰の必要を強調しており、コロサイの信徒が偽教師の誤れる教えによって動揺されないことを薦めている。
註解: 本節前半「福音の望」の「福音」に関する三つの形容である。その一は「汝らの聞きし所」の福音であるということであって、エパフラスより聞ける正しき福音を指す。第二はこの福音は「天の下なる凡ての被造物の中において宣伝へられた」のであって、全世界に向って公然と堂々と宣伝えられたものであり、決して秘密に人目を忍んで宣伝えられるごとき卑劣なものではなく、また世界の一小部分にのみ適用するがごとき限られた真理ではない。第三に「我パウロがその役者となれるもの」であるということは、彼の異邦人の使徒として選ばれし事実(使9:3以下)に対する彼の確信を物語っており、これによりて彼パウロがコロサイの人々を教える権威あることおよび偽教師らの教えの信ずべからざることを示している。18−20節におけるキリストと教会との関係の説明において教会の宇宙的意義を示したる後、パウロはこの教会の中にコロサイの信徒も加えられていることを教えて彼らをして確信に充つるに至らしめ、同時に彼らが信仰に堅く立ちてこの栄誉を失わざらんことを勧め、ついにこの神の経綸を人々に伝える福音の偉大さと、その使徒とされたパウロ自身の責任の重大さとに及んでいるのは、まことに壮大なる一幅の活画である。9節以下においてコロサイの信徒の信仰と行為につきて祈願しつつあったパウロはついに神の救いよりキリストの宇宙的意義に及び(17節)この宇宙的キリストが同時に教会の首たることを示して(18節)教会の宇宙的存在たることを示し、次第に下ってまたコロサイの信徒およびパウロ自身に及んでいるのである。ここに我らはパウロの筆によってキリストを信ずるものの偉大さを如実に見ることができる。
要義 [パウロのキリスト観(3)キリストの福音]神に反 ける我ら人類がキリストの肉の体の死によって神と和らぐことを得るに至ったことが、神が人類に与え給える福音である。そしてこの救いによりて罪深き人類も潔く瑕なく責むべき所なくして神の前に立たしめられるのである。宇宙の創造者、支配者にして神の初子に在し給うキリストの死は、かくして宇宙万物を神と和らがす原因となり、混沌たる宇宙の中に、一朝にして美しい調和と平和とが成立つに至ったのであった。そしてこの救いは神御自身の光栄のために神の造り給えるものであって世にこれにまされる大なる福音はない。この福音の信徒たりしパウロの使命の重大さを思うべきである。
1章24節 われ
口語訳 | 今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。 |
塚本訳 | 今私は君達のために苦しむことを喜びとし、またキリスト・イエスの体なる教会のために私の体でキリストの患難の不足を補っている。 |
前田訳 | 今わたしはあなた方のための苦しみにあることをよろこびます。わが肉体でキリストの悩みの残されたところを代わって全うしましょう。それは彼の体すなわち集会のためです。 |
新共同 | 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。 |
NIV | Now I rejoice in what was suffered for you, and I fill up in my flesh what is still lacking in regard to Christ's afflictions, for the sake of his body, which is the church. |
註解: 「今や我」と訳すべし。13-23節のごとき大真理を発見し、キリストの真の意義を知るに至りたる「今は」の意。パウロは自己の受くるあらゆる苦難をよろこび、これをもってキリストの患難の不足を補充しているのであると叫んでいるのであるが、キリストの患難は果して不完全不充分なものであったか、補充する必要があるのであるか、如何なる意味において不足であるかにつき難解であるために多くの解釈を生じ、また神学上の難問題をも引起した一節である。つぎのごとくに解すべし。(1)キリストの贖罪のための十字架の苦しみ(これは患難 thlipsis と呼んでいない)は完全無欠であって、我らの罪の贖いのためにはキリストの苦悩に少しの欠けたる処もなく、従ってこの意味においてパウロはこれを補充する必要もなく、また補充することもできない。(2)キリストは今天にありてその体なる教会の患難を御自身の患難として悩み給う、しかしながらキリストはこの患難の凡てをその身に受けることができない。この意味においてその患難に欠けたる処(不足)があり、この不足の部分をパウロがその身に受けてこれを補うのである。例えば日本が他国と戦う場合、その戦争より生ずる凡ての悩みは天皇御自身の悩みである。しかしながら天皇御自ら前線に立ちて将兵の苦労までも悩み給うことはできない。それ故に将兵は前線にありて天皇の悩みの欠けたるを補うのである。これは将兵に対して無上の光栄であって、日本の将兵はこの苦労を喜ぶのはそのためである。この心持をもってパウロの言を解するならばこの短い、しかも充分の誇りをその中に蔵している句の真意を解することができる。▲民主国家となった今日の日本人にはこの思想の理解は困難であろうが全体主義的な時代における皇室中心の思想は上記のごとくであった。
辞解
本節は以上のごとくに解してきわめて明瞭にその意味を汲取ることができるが、従来は種々の意味に解せられていた。(1)パウロはキリストとの霊交に生き、キリストの死はパウロの死であり(ガラ2:20)、パウロの生命はキリストの生命であり(同上。ロマ6:3−5)、キリストの復活はパウロの新生である(コロ2:12。ロマ6:4)等凡てのことにおいてキリストとの一致を信じていたので、パウロは自己の患難をキリストの患難として感じたのであると解する説(M0、L2)。この考えは誤ってはいないけれども本節の解釈としては「缺けたるを補ふ」意味が説明されない。(2)キリストは苦難を受け給うたけれどもなお後世の聖徒のためにキリストはその苦難を残し給うたと見る説(L3)、すなわち、パウロやその他の聖徒、殉教者、それだけに限らず教会一般の受くる苦難はキリストが始め給える業の継続としてキリストの患難をなやんでいると見るのであるが、これは事業を継続するとは言い得るけれども不足を補充すると言うことにはならない。(3)その他キリストによって与えられる患難、キリストのために耐え忍ぶ患難、キリストの患難に似ている患難などと解し、またはキリストは死の患難であり、パウロはその他の患難をなやむこと、またパウロの異邦人の使徒としての患難など種々の解釈があるけれども適当なものはない。なお本節より教会には一定量の患難が割当られており、その患難の不足の部分をパウロがなやみ、従ってそれだけ他の人々はなやまずに済むとの思想を引き出すことは(B1)上記註より見て明らかなるがごとく大なる誤りである。カトリック教会は本節を基礎として聖者の功績によりて平信徒の苦行の欠けたるを補い、これにより免れしめられると教え、免罪符の起源をなしていることは聖書の曲解が重大なる結果を惹起することの著しき事例である。
1章25節 われ[
口語訳 | わたしは、神の言を告げひろめる務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。 |
塚本訳 | そして私は神からその(教会の)世話役たる(尊い)職を賜わったので、君達に神の言を充分に伝えようとしているのである── |
前田訳 | わたしがその奉仕人になったのは、あなた方のためにわたしに与えられた神の経綸によるのであり、それは神のことばを全うするためです。 |
新共同 | 神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。 |
NIV | I have become its servant by the commission God gave me to present to you the word of God in its fullness-- |
註解: 前節の「教会」を受けて、パウロがそのために患難を受くる理由を説明せんがために、まず彼がその家令として任命せられ、教会の役者として仕えていることを述べ、彼の職務の光栄とその責任の重大さとを示す。しかもそれが「汝らの為」であり、異邦人の使徒たることを強調している。
辞解
「神より」は原文になし、意味の上より補充せるもの、「職」 oikonomia は家令の職、または家司の仕事の内容を指す。
1章26節 これ
口語訳 | その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。 |
塚本訳 | この神の言は世々代々隠されていた奥義であるが、今や神の聖者達に顕されたのであって、 |
前田訳 | この奥義は世々代々隠されていましたが、今や彼の聖徒たちに示されました。 |
新共同 | 世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。 |
NIV | the mystery that has been kept hidden for ages and generations, but is now disclosed to the saints. |
註解: 「宣伝へんとてなり」は原語「充たさんがために」で前節「與へられたる」に懸る。すなわち教会の家令たる職務を与えられた目的を記載す。すなわちその目的は奥義なる神の言を異邦人の間に充満せしめんがためであった。そしてこの奥義たるやこれまで世々代々隠されていた事柄で、神の御心の中に納められていたのであったが、この時代に至ってキリスト者に啓示された事実であった。すなわち本節の場合は異邦人もキリストによりて神の民となり救いに入れられることの事実である。
辞解
「これ神の言を充さん(現行訳─宣伝へん)が為なり」は原文では前節に属す。歴世歴代の世 aiôn と代 genea との差につき諸説あり、後者を前者の一部と見るもの(L3)、または前者は年月、後者は人間の代々を指すとするもの(M0)等であるが、新約聖書においてはこれらの文字はその語の意味に関係なく長年月の意味に用いられいる。
[聖徒] 使徒および預言者に限る説あれど全キリスト者と見るべきである。
[奥義] この語の意味につきてはロマ11:25の辞解を見よ。本節の場合はエペ3:5−6の場合(L2)と異なり(L3)単にキリストに由る異邦人の救いの意味と解すべきであろう。
[宣伝へん為] 「充さん為」 plêroô の不定詞で、主観的に(1)心中に確き信仰を植付ける意味に解する説、(2)客観的に各方面または凡ての人に福音を伝える意味に解する説、(3)完全に福音を伝える意味に解する説等あり、この場合(2)が適当と思われる。
1章27節
口語訳 | 神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。 |
塚本訳 | 神はこの奥義が異教人にとって如何ばかり大なる栄光の富であるかを知らせようと欲し給うたのである。そして奥義とは(取りも直さず)君達の中にい給うキリストのことであって、(これがまた)栄光の希望である。 |
前田訳 | 神は彼らにこの奥義の栄光が異邦人の間でどんな富であるかを知らせようとなさいました。それはあなた方の間にあるキリストで、栄光への希望です。 |
新共同 | この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。 |
NIV | To them God has chosen to make known among the Gentiles the glorious riches of this mystery, which is Christ in you, the hope of glory. |
註解: 前節の奥義が「聖徒に顕されし事」は神の欲し給える事であることと、その奥義の内容の要約を説明している。すなわち異邦人の中にキリストが在すこと、換言すれば異邦人が救われて、その心の中にキリストが宿り給うということは、従来全く考えられない奥義であって、これこそ「栄光の望」であり、キリストの栄光を望む希望である。それ故にこの奥義の栄光が如何に豊かなものであるかを異邦人に知らしめんことを神は欲し給うたのであった。パウロが異邦人の使徒として選ばれしはそのためであった。
辞解
[この奥義は] 原文関係代名詞であるので「奥義の栄光の富」を受けるとする説もあるがその必要なし。
[汝らの中に在す] 心の中に在す意味ならん。
1章28節
口語訳 | わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。 |
塚本訳 | 私達はこのキリストを宣べ伝え、あらん限りの知恵をもって凡ての人を諭し、凡ての人を教えて、凡ての人をキリストにおいて完全な者にしようとしているのである。 |
前田訳 | 彼をこそわれらはのべ伝えています。そしてすべての人をいましめ、知恵を尽くして教えています。それはすべての人をキリストにある全きものとして立てるためです。 |
新共同 | このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 |
NIV | We proclaim him, admonishing and teaching everyone with all wisdom, so that we may present everyone perfect in Christ. |
註解: パウロやテモテらの伝道の内容、方法、および目的を述ぶ。内容はこの栄光の望なるキリスト、異邦人を救いその中に在し給うキリストであり、その方法はあらゆる智慧をもって訓戒して悔改めしめ、教訓を与えて信ぜしめることであり、その目的はキリストに在る全き者として神の前に立たしめることである。▲パウロの伝道の動機は凡ての人を教会に導き入れることではなく、神の前に立たせることであった。ここに真の教会がある訳である。
辞解
[知慧を盡して] Tコリ1:17。Tコリ2:1のごとき人間の智慧ではなく、Tコリ2:6のごとき神の智慧である。
[凡ての人] 三回も繰り返しているのは、グノシス的思想を有する偽教師は奥義の智慧は唯少数の選ばれたる者に限ると唱えることに対する反対を含む。
[キリストにある全き者] 神の目に罪なきものとして認められる者である。グノシス的の意味における全き者 teleios は、初学の者に対する終了者を意味す。
1章29節 われ
口語訳 | わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。 |
塚本訳 | そしてまた私の中に力強く働き給う御力に応じて、このため奮闘努力しているのである。 |
前田訳 | このためにわがうちに力となって働く彼のみ力によって苦労しつつ精を出しているのです。 |
新共同 | このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。 |
NIV | To this end I labor, struggling with all his energy, which so powerfully works in me. |
註解: パウロはこの異邦人に対する使徒たる職務のために苦闘しているのであるが、しかしそれは自己の弱き力をもって努力するのではなく、神がパウロの中に力強く働き給い、その神の活動によりてパウロ自身活動するのである。神に自己を委 せ切ったものの活動は人間の想像し得ざる力となって表われるものである。パウロの超人的活動もまたこの神の力によるものであった。なおパウロは当時ローマ幽囚の中に在りしことに注意すべし、彼はその中にありてもなお異邦人伝道のために苦闘していた。
辞解
[力を盡す] agônizomai は競技における苦闘につき用いられる語。
[労す] 苦労すること。
要義1 [パウロの伝道の態度]24−29節の示すがごとくパウロの伝道は凡ての点において真の伝道者の態度を示しているのを見る。その伝道の動機は自己の虚栄や自己の能力に対する自信ではなく、その内容は異邦人の中におけるキリストの奥義とその栄光の富とであって、あらゆるこの世的栄華を超越せる永遠の栄光であり、神の永遠の経綸に関することであり、そしてその方法は凡ての神的智慧をもって訓戒教育することである。そして彼自身神より力を受けて奮闘努力し、己の上に降るあらゆる患難はキリストの患難の不足を補充するのであり、キリストの患難をそのままパウロの身に受けてなやむの光栄を担っていると信じるのである。伝道はまさにかくして為さるべきものであり、伝道者はまさにかくのごときものでなければならない。
要義2 [キリスト者の苦難の補欠]戦闘の教会はこの世との戦いにおいて苦難を経験しなければならない。この苦難は凡てキリスト御自身の苦難であるが、しかしキリストはこの凡ての苦難を直接に経験することができない。24節註に例示せるがごとく一国の君主はその国が他国と戦っている場合、その戦争の凡ての苦難は君主の苦難ではあるが、しかし君主は一兵卒の苦難までは自らこれを受けることができない。この意味において君主の苦難だけでは戦争はできず、そこになお欠けるところがあるわけであり、これを補うのが国民および兵卒の苦難である。かく考えて君主の苦難をその身に負う国民の名誉を思うことができ、キリストの苦難の欠けたるを補うパウロの光栄をも想像することができる。
コロサイ書第2章
3-2-ロ パウロの心労 2:1 - 2:5
2章1節
口語訳 | わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため、また、直接にはまだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい。 |
塚本訳 | 君達に知ってもらいたいのは、君達や、ラオデキヤの人達や、(まだ)肉で私の顔を見たことのない皆の人達のために、私がどんなに苦労して、 |
前田訳 | 知っていただきたいのですが、あなた方とラオデキアの人々とまだ肉にあってわが顔を見たことのない人々のために、どんなに苦労していることでしょう。 |
新共同 | わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。 |
NIV | I want you to know how much I am struggling for you and for those at Laodicea, and for all who have not met me personally. |
註解: 原文初頭に「何となれば」とあり、前章末尾の「力 を盡 して勞 する」ことの詳説である。パウロはコロサイの人々とは未知であり(ピレモンやエパフラスは他の場所でパウロと知り合いになった)、またその近くのラオデキヤにも赴いたことがなかった。それ故に、それらの地方およびその周囲にある信徒たちのことが常に気にかかり、幽囚の中にありながらそれらの人々のために苦しみ、祈りの中に苦闘していた。パウロはこのことを彼らに知ってもらいたかった。
辞解
[その他] 原文「および」。
[パウロの顔を見ない人々] これらの中にコロサイの人々やラオデキヤの人々を含むのであるか、またはこれらを除外するのであるかは原文からは確定することができず、何れとも解し得るのであるが、使徒行伝の記事および本書の調子より、パウロはコロサイに行かなかったと見るべきで、従って「顔を見ぬ人」の中に彼らをも含むと見るべきである。ただしかく解するにしても単に本節だけより見ればパウロの心中には「および肉において我が顔を見ぬ人々」と言った時は、コロサイやラオデキヤ以外の人を指したとも言い得るのである。その故はコロサイやラオデキヤの人々がパウロを知らないことは彼らには説明する必要がないからである。しかし次節に「彼ら」とあり、その中にコロサイの人々をも含んでいると見るべきである故、本節「我が顔を見ぬ人々」の中にもこれを含ませたのであると見るべきである。「我が肉体の顔を」は「肉において我が顔を」となっている。
[苦心す] 前節の「力を盡して」と同義、競技の用語。
2章2節 [かく
口語訳 | それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。 |
塚本訳 | 皆の心を励まし、愛によって教え、(かくて)豊富且つ完全なる凡ての聡明、(然り、)神の奥義すなわちキリストを知る知識に達せしめようとしているか、ということである。 |
前田訳 | それは彼らの心が励まされ、愛によって共に教えられて分別の確かさに富み、神の奥義すなわちキリストを知る英知に至るためです。 |
新共同 | それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。 |
NIV | My purpose is that they may be encouraged in heart and united in love, so that they may have the full riches of complete understanding, in order that they may know the mystery of God, namely, Christ, |
註解: (▲伝道の目的は人々にキリストを知らせることである。パウロの伝道は徹底的にキリスト中心であった。本書においてもこの点を著しく見ることができる。)私訳「これ彼ら愛をもて相列 り確実なる穎悟 の凡ての富を得、神の奥義なるキリストを知るの知識に至ることにより彼らの心慰められん為なり」。パウロの苦心の原因は彼らの間に入り込んで来た偽教師らが、彼らより正しき信仰を奪いて彼らの心より慰めを奪ってしまうことであった。それ故にパウロはここに、彼らがかかる状態に陥らざらんことを目的としているのである。そのために必要なのは第一に彼らが愛の中に一つに連結することである。愛の連結なき処、そこに異端邪説の侵入する隙がある。そして単に互に連結するのみならず穎悟 がなければならぬ。これはグノシス的偽教師らの重要視している事柄であるが、彼らに迷わされず、信仰に関する確かなる穎悟 を豊富に所有しなければならぬ。また神の奥義なるキリストに関する知識を得、これによりて明瞭にして不動なる信仰に立つことを得るようになってその心慰められなければならない。グノシス思想においても奥義の知識が重要視されたけれども、彼らの場合この奥義はキリストではない。奥義なるキリストを知るより外に真の心の慰めはない。
辞解
[神の奥義なるキリスト] また「キリストの神の奥義」と読むべしとの説(M0)あり、原文誤解し易き故無数の異本あり、現行訳を可とす。
2章3節 キリストには
口語訳 | キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。 |
塚本訳 | “知恵”と知識と“の宝は”悉くこのキリストの中に“隠されている”のである。 |
前田訳 | キリストにこそ知恵と知識とのすべての宝が隠されています。 |
新共同 | 知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。 |
NIV | in whom are hidden all the treasures of wisdom and knowledge. |
註解: グノシス的偽教師の重視する智慧も知識も凡てみな不完全であり、迷妄に過ぎず、真の智慧と知識との宝は凡てみなキリストの中に蔵されている。奥義なるキリストを見出すことこそグノシス主義の偽教師らが思いも及ばざる智慧と知識とを供給するものである。
辞解
前節の穎悟 synesis および本節の智慧 sohpia と知識 gnôsis はみな幾分の差別あり、知識は真理または事実を知ること。他の二語につきてはコロ1:9辞解参照。
2章4節
口語訳 | わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。 |
塚本訳 | 君達が誰からもうまい言で言いくるめられることのないように、このことを言っておく。 |
前田訳 | このことをいうのはだれもあなた方を甘いことばでだまさないためです。 |
新共同 | わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。 |
NIV | I tell you this so that no one may deceive you by fine-sounding arguments. |
註解: グノシス的偽教師らは理屈に巧なる人々であって、もっともらしき理屈をつけ、誤った結論を引き出して人を惑わす人々であった。パウロが1−3節のごとき注意を与えたのはコロサイの信徒がかくして欺かれることの無からんためである。
辞解
[これ] は1−3節。
[巧なる言] pithanologia は如何にももっともらしく思わせる言。
[欺く] paralogizomai は本来計算をごまかす意味より転じて、理屈をごまかして人を惑わすこと。
2章5節 われ
口語訳 | たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。 |
塚本訳 | 私は肉でこそ離れて居れ、霊では(いつも)君達と一緒にいて、キリストに対する君達の信仰の秩序正しいことと、堅固なこととを見て喜んでいるのである。 |
前田訳 | たとえ肉にあって離れていても、わたしは霊にあってあなた方といっしょです。それで、あなた方のキリストへの信仰の秩序と堅さとを見てよろこんでいます。 |
新共同 | わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。 |
NIV | For though I am absent from you in body, I am present with you in spirit and delight to see how orderly you are and how firm your faith in Christ is. |
註解: ローマに幽囚の身となっているパウロはコロサイの信徒とは肉体的には非常に離れていたけれども、彼らを愛するがゆえに霊においては常に彼らとともにいた、そして心に喜び、かつ霊の眼をもって彼らの信者としての共同生活において秩序があり、また容易に敵に犯されざる堅き信仰があることを見ていた。
辞解
[秩序] taxis は軍隊用語、軍隊の秩序正しき隊伍につき用う。
[堅き] stereôma は必ずしも軍隊用語ではないが(M0)前線の堅固なることに用いらる(L3)。パウロは獄中書簡において殊に軍隊的の用語を多く用いているのは、獄中にて兵士に守られていたからであろう(エペ6:1以下)。
要義 [智慧と知識の本体たるキリスト]世の人は自己の心の中に、またはこの世の先覚者の中に智慧と知識とを求めているけれども、そこには真の智慧も知識もない。キリストには智慧と知識の凡ての実が蔵 れており、そこに神の奥義としてのキリストがある。このキリストを信ずる者はそこに完全なる満足充実を見出すことができる。キリストのみがあらゆる完全さの具現であり、完全なる者の像である。
2章6節 (されば)
口語訳 | このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。 |
塚本訳 | それで君達は(既に)主イエス・キリストを受け入れたのであるから、(ただ)彼において歩まなくてはいけない── |
前田訳 | それで、あなた方はキリスト・イエスを主とお受け入れですから、彼にあって歩んでください。 |
新共同 | あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。 |
NIV | So then, just as you received Christ Jesus as Lord, continue to live in him, |
註解: (▲キリスト者の生活態度はキリスト・イエスに在って歩むことに尽きている。)キリストに対する信仰の堅きことはまことに喜ぶべきことである故、それと同様に汝らの歩みすなわち行いもまたキリストに在るものとして、彼の御旨に叶えるごとくに行動すべきである。
辞解
[キリスト・イエスを主として受く] キリスト者の信仰の要約ともいうことができる。なおこの箇所を「キリストすなわち主イエスを受け」と読む説あれど(L3)適当ではない。
2章7節 また
口語訳 | また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。 |
塚本訳 | 彼の中に(深く)根を下ろし、彼の上に(いよいよ高く)建てられ、また教えられた通りに信仰に堅くなり、感謝に溢れながら! |
前田訳 | 彼によって根を張られ、建てられてください。教えられたように信仰が強められ、感謝にあふれてください。 |
新共同 | キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。 |
NIV | rooted and built up in him, strengthened in the faith as you were taught, and overflowing with thankfulness. |
註解: 信仰生活の基礎およびその発展につきて教う。「根ざし」は植物に例を取ったので、根をキリストに卸すことにより彼より養分を取りてキリストらしく成長する。「上に建てる」は建築に例を取ったのでキリストを基礎工事と見てその上に建築することである。その上に信仰を堅くして建物の崩壊を防ぎ、感謝に溢れて活ける喜びを持つ、これがキリスト者の生活である。最も憂うべく恐るべきはその反対の状態で、信仰が成長せず、その基礎が誤っており、建物は弱く歓喜なきことである。歩行、植物、建築等種々の比喩の混合はパウロにおいては稀ではない。
辞解
[信仰を堅くし] 「信仰によりて堅くなり」とも訳することができる(M0、L3)が、現行訳を採る。
2章8節 なんぢら
口語訳 | あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。 |
塚本訳 | 注意せよ、(いわゆる)哲学、すなわち空しい欺瞞をもって君達を奪い去る者があるかも知れない。この(人達の言う)哲学は(如何に巧みな説明があるにせよ、要するに)人間の言い伝えに拠るものであり、(地水火風というような)此世の元素の霊に拠るものであって、キリストに拠らないものである。 |
前田訳 | 気をおつけなさい。人間のいい伝えと世の諸霊力とによっていてキリストによっていないむなしい偽りの哲学で、だれもあなた方を捕えないようになさい。 |
新共同 | 人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。 |
NIV | See to it that no one takes you captive through hollow and deceptive philosophy, which depends on human tradition and the basic principles of this world rather than on Christ. |
註解: これまで間接に注意を与えていたパウロはここにいよいよ偽教師の正体を明白にし、如何なる点に注意しなければならなぬかを示す。パウロの恐れたのは、彼らが偽教師から「奪い去られ」キリストより離されることであった。偽教師はその「空虚なる欺瞞の哲学」(私訳)によって彼らを信仰より引き離さんとしているのであった。すなわち彼らの所謂「哲学」は内容が無く真実を欠いている処のものであるとパウロは言う。そしてこの哲学たるやその起源はキリストによるのではなくして人間の言伝えに過ぎず、またその内容はキリストのプレーローマではなく、この世の小学すなわち極めて幼稚なる思想に過ぎないものである。
辞解
[奪ひ去る] sylagôgeô は誘拐の意味もあるが、ここでは掠奪の意味に取る方が適当であろう(Z0)。
[キリストに従はず] 彼らの教えは、キリストが起源でもなく内容をもなしていない。
[人の言傳 )] 彼らは言い伝えを非常に重んじていた。例えばユダヤ教または神秘主義、エツセネ派等における伝統のごときそれである。
[小學] stoicheia は種々の意味あり、(1)列、(2)ABC、(3)元素、(4)幽霊、(5)天体等であるがここでは2、3等より初歩の事柄を指し、飲食、季日、割礼等のごとき儀式的のことに関する教えを意味すと見るべきである。詳細は16節、20−23節を見よ。▲口語訳がStoicheia を「霊力」と訳しているのは(4)に由ったものである。Uペテ3:12の「天体」は(5)に由っているが脚注は(3)に由る。
[人を惑わす虚しき哲学] 「空虚なる欺瞞の哲学」と私訳したのであるが、あるいはこれを「哲学と空虚なる欺瞞」と訳し、二つの部分に分ける説があるけれども冠詞が繰り返されない故上記のごとく訳すべきである。なお「哲学」は本来善き意味の語であるがここでは悪しき意味に用いられている。おそらく偽教師らはその主張を「哲学」の名をもって呼んでいたのであろう。
2章9節 それ
口語訳 | キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、 |
塚本訳 | (君達はこんなものに惑わされず、ただキリストに拠れ。)何故なら、彼の中には豊満なる神性が悉く形体を取って宿って居り、 |
前田訳 | キリストのうちにこそ神性のあらゆる充満が体として住んでいるからです。 |
新共同 | キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、 |
NIV | For in Christ all the fullness of the Deity lives in bodily form, |
註解: 原文「何となれば」とあり、前節キリストに従わざることの非なる理由を示す。「神の満ち足れる徳」は直訳「神の本質のプレーローマ」で、グノシス的偽教師らは神の本質は多くの霊的存在(天使のごとき)の間に分たれていると主張するのに対し、パウロはこれが全部一体として具体的にキリストの中に宿っていることを主張している。すなわちキリストの中には、その受肉の時もその前後においても、神の本質が一つの体をなしてまとまった全体として定住しているというのである。換言すればキリストは神の本質を真似たものでもなく、その一部分を受けたのでもなく、またその全部を数量的にまたは機械的に受けているのでもなく、体をなして、まとまった統制ある全体として受けているのである。キリストが神に在し給う以上かくあらなければならない。
辞解
[神の] theotês は神の本質を指しており、「神性」 theiotês は神の属性を指す(ロマ1:20)。この二者は区別するを要す。
[形體 をなして] sômatikôs はあるいは(1)受肉のキリストに宿りての意に解し(L3)、または(2)天に在すキリストに身体の形をとりて宿ると解し(M0)すなわち天に在すキリストも体を有ち給うとの意味となる。あるいは(3)キリストは神の体であると解す(B1)、その他にも(4)「本質的に」(5)「実際的に」の意味に解し、またはこの体を(6)宇宙(7)教会等と解するなど種々の説あり。上記のごとく解す(ハウプト)。
[宿る] 現在動詞である故これを(1)のとごく受肉のキリストのみに限るのは不適当であり、またこれを(2)のごとく昇天後のキリストのみに限ることも同様に不適当である。
2章10節
口語訳 | そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、 |
塚本訳 | 君達は彼によってこの豊満に与る者とされたのであるから──彼は凡ての(天使達、すなわち)「権威」「権力」(等)の頭であり給う。 |
前田訳 | そしてあなた方は彼にあって全うされています。彼はすべての支配と権威の頭で、 |
新共同 | あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。 |
NIV | and you have been given fullness in Christ, who is the head over every power and authority. |
註解: キリスト者は「キリストに在り」てキリストと霊の交りに生きる者であり、従って「満足れる者」である。何となればキリスト自身神の本質のプレーローマを宿しているからである。エペ3:19。エペ4:13。それ故にキリストに在るものはもはや人の言伝えや世の小学に求むべきものは何もない。かつこのキリストは政治、権威等と称される天の使いたちの首に在し給う以上、もはや偽教師らの主張するごとく、これらを仲保として崇める必要はない。▲本節および次節の主眼はパウロが全く制度的教会のごときものを想像だにせず、各個人とキリストとの帰一と、そのキリストの絶対的完全とを主眼していたことを見ることができる。
2章11節
口語訳 | あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。 |
塚本訳 | 君達はまた彼において手にてせざる(真の)割礼、すなわち(モーセ律法によりただ体の一部に施すものでなく、)肉の体を(悉く)脱ぎ去るキリストの割礼によって割礼された。 |
前田訳 | 彼にあってあなた方は手によらぬ割礼を受けて肉の体を脱ぎ捨てました。これがキリストの割礼です。 |
新共同 | あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、 |
NIV | In him you were also circumcised, in the putting off of the sinful nature, not with a circumcision done by the hands of men but with the circumcision done by Christ, |
註解: 異邦人は手をもって肉の一部に行う不完全な割礼は受けていないけれども、その反対に「手をもてせざる」完全なる割礼を受けている。しかもその範囲は肉の一部を切り取る割礼ではなく、「肉の体」すなわち「罪の体」(ロマ6:6)を「脱ぎ去り」全くそれを棄ててしまうこと、換言すれば罪につきて死んでしまうことである。かくして我らは「肉に居らで霊に居り」(ロマ8:9)「肉に従はず霊に従ひて歩む」(ロマ8:4)。この割礼こそは真の割礼であって、モーセの割礼ではなくキリストの割礼である。何となればキリストはその肉の体を十字架に釘 け給うたからである。このキリストの死が我らの死であり、手にて為さざる真の割礼である。
辞解
[手にて為さざる] 「手にて造れる」宮や偶像等(使7:48。使17:24。ヘブ9:11、ヘブ9:24)の反対で、神より来たれることを暗示す。
[キリストの割禮] キリストに由りて為される割礼、すなわち回心によりて信仰に入ることを指す、これはキリストにより霊的に導かれ、キリストとの霊の交りに入ることである故、これをキリストの割礼と呼んだのであると解するのであるが(M0)、上記のごとくに解する方が強き表顕となる(L3、E0)。
[脱ぎ去ること] apekdusis(▲ apo(・・・から) ek(・・・の外に) dusis (投げ込む、棄てる)の複合詞、コロ3:9の「脱ぎて」も同語。割礼が男子の陽の皮を切り取って棄てるのであることと相対応する。)は(15節はその動詞)剥ぎ取りて外に棄てるというごとき強き意味あり、割礼と対照してこの場合に適当の表顕である。この二重の複合詞は稀有の用例なり。
2章12節
口語訳 | あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。 |
塚本訳 | (然り、キリストの)洗礼(こそ真の割礼であって、君達はこれ)によって彼と共に(死んで)葬られ(たのである。そして)また彼を死人の中から甦らせ給うた神の力を信ずることによって、彼に於て共に甦ったのである。 |
前田訳 | あなた方は洗礼において彼とともに葬られ、また洗礼において彼とともによみがえらされました。それは死人の中から彼をお起こしの神の力の真実によるものです。 |
新共同 | 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。 |
NIV | having been buried with him in baptism and raised with him through your faith in the power of God, who raised him from the dead. |
註解: (▲9、10節は受肉のキリスト、11節はその十字架の死、12節はその復活に相当する。) ロマ6:3−11および註を参照すべし、パウロの解釈によればバプテスマを受けて水中に没するは死して葬られることを表徴し、再び水上に出て来るのは復活して新たなる生命に活きることを意味す。そしてこれはキリストに対する信仰によりてキリストを主と信じ、彼との霊の一致によりて受くるバプテスマであるから、キリストと共に葬られ、また彼と共に甦えらされる事を意味す。キリストを信ずると云わずして彼を甦らせ給える神の活動を信ずると言ったのは、この活動 energeia によりて彼もまた甦らせられるのであることを信ずる結果となるからである(ロマ10:9参照)。かくしてキリスト者はキリストと共に今すでに霊的に復活して肉の体を脱ぎ去り新たなる生命に生きる者であり、やがてキリスト再臨の時、この新生命に霊の体を与えられることの希望に生きる者である。
辞解
[神の活動 を信ずるによりて] 直訳「神の活動の信仰によりて」であるがこれを「神の活動により与えられたる信仰によりて」の意味に解する説あり(B1、L1)、信仰が神の活動によりて与えられることは事実であるけれども(エペ2:5−8)本節をかく解する必要なし。
2章13節
口語訳 | あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。 |
塚本訳 | (異教人たる)君達は(前には)咎と肉に割礼無きこととの故に死んだ者であったが、神は私達の凡ての咎を赦して、君達をもキリストと共に生かし給うた。 |
前田訳 | 罪ゆえに、また肉の無割礼ゆえに死人であったあなた方を神はキリストとともに生かし、われらの罪をすべておゆるしでした。 |
新共同 | 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、 |
NIV | When you were dead in your sins and in the uncircumcision of your sinful nature, God made you alive with Christ. He forgave us all our sins, |
註解: 「我らの凡ての咎を赦して汝らを彼と共に生かし」と訳すべし、前節の復活につきさらにその経験、内容、および意義を示す。殊に異邦人キリスト者に対する意義を説明している。すなわちエペ2:1のごとく、異邦人たるコロサイの信徒らは信仰に入る前には諸般の咎に陥っていた。かつ11節に示せるごとき肉の体を脱ぎ去る割礼を受けず、すなわち新生の経験がないので、生きながら永遠の死の中に在るのであった。然るに神はその独り子を我らに与えこれを十字架に釘 け給い、これによりて我らの凡ての咎を赦し、彼を信ずる者を彼と共に甦えらしめ永遠の生命に生き返らせ給うた(エペ2:3−6)。
辞解
[肉の割禮] 殊更に「肉の」を加えたのは罪を代表する肉の意味であって、異邦人は本来の意味における割礼を受けていないのは勿論、肉の体を脱ぎ去る割礼を受けていなかった。
[死にたる者] 聖書は霊的意味において人間はすでに死んているものと見る。
[神は] 原文になし、充分意味の上で明瞭だからであろう。
[我らの] 第二人称から第一人称に移っているのはパウロの心理状態がこの場合咎の赦しにつき彼自身を除外する気になれなかったのであろう。この種の人称の転換はパウロの書簡には随所に見出すことができる。
2章14節 かつ
口語訳 | 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。 |
塚本訳 | すなわち(厳しい)規則をもって私達に敵し私達を責める証文(すなわちモーセ律法)に棒を引き、これを十字架に釘づけて取り除き給うた。 |
前田訳 | 神はわれらに不利な証文を規則もろとも取り消し、われらの邪魔であったそれを除き去って、十字架におつけでした。 |
新共同 | 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。 |
NIV | having canceled the written code, with its regulations, that was against us and that stood opposed to us; he took it away, nailing it to the cross. |
註解: (▲私訳「かつ我らに対立して我らを責める規定の証書を抹消し」)「これを中間より取り去りて十字架につけ」は「これを十字架につけて撤去し」と訳すべし。キリストの十字架の贖いによりて、我らはキリストと共に新生命に甦りたるのみならず、律法が完全に撤廃せられしことを示す。律法は「我らを責むる規の証書」あたかも借金の証書のごとく、それが効力を有する間は我らはこれによりて責められ、これを果すの義務を負わされるごとく、律法が効力を有する間我らはこれに対して義務を負わされ、これを完全に行わざる場合に詛いを受けなければならぬ(ガラ3:10)。然るにキリストは十字架の上において我らのために代りてこの詛いを受け給いしことにより我らを律法の詛いより解放し給うた(ガラ3:13)。かくして「キリストは凡て信ずる者の義とせられんために律法の終りとなり給うた」(ロマ10:4)。あたかも借金の証書を塗抹 してこれを無効ならしめるごときものである。そして律法はキリストと共に十字架に釘 けられ、我らと神との中間にある邪魔物、またユダヤ人と異邦人との間の隔ての中籬 は撤去された。かくしてキリストの贖いによりて異邦人も神と直接に交り、その救いに与ることを得るに至ったのである。
辞解
[證書] cheirographon は「手記」「手署」の意味で自ら書いた証文のことである。主として借金証書等を指す。律法を行なわぬものは詛わるべきことにつきて、ユダヤ人はこれに署名したとも言い得るけれども(申27:14−26)異邦人にはこのことがなかった。しかし異邦人も良心を与えられている以上、同様に律法に署名したと見ることができる(ロマ2:14、15)。
[規 ] 律法の諸種の規定を指す。文法上問題の箇所であるが現行訳の通りにて可なり。
「我らを責むる」と「我らに逆ふ」と重複しているのは一層意味を強めるためで、前者は我らに反対している状態、後者は我らに逆う働きを示す。
[塗抹 し] いわゆる帳消しにすること。
[中間より取り去り] 「撤去する」意味の熟語。十字架につけることによりて撤去したので、撤去してから十字架につけたのではない。なお「撤去す」は完了形の動詞で、現在もその存在を失ったことを示す。
2章15節
口語訳 | そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。 |
塚本訳 | かくて(また)「権威」と「権力」とに武装を解かせて公然(これを)曝しものにし、キリストに於て彼らを捕虜として凱旋行列に引き廻し給うたのである。 |
前田訳 | 神は支配と権威を丸腰にしてさらしものにし、キリストにあって凱旋なさって彼らをお従えでした。 |
新共同 | そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。 |
NIV | And having disarmed the powers and authorities, he made a public spectacle of them, triumphing over them by the cross. |
註解: キリストに従い彼の救いに与ることの最後の効果は神が天使に打ち勝ちこれをもキリストに従わしめ給うことであった。「政治と権威」はコロ1:16。コロ2:10の場合と同じく天の使いである。彼らは善をも為すけれども悪をも為すものと考えられた。エペ2:2。エペ6:12等はその場合の例である。本節もこの悪天使、少なくとも信者に対して悪しき影響を与うる場合を考えているのであって、神は彼らの「武装を解除し」て、彼らをしてもはや活動することを得ざらしめ、キリストによりて凱旋しつつ彼らを捕虜として大ピラに衆人の前に公示し、彼らの無力を知らしめ給うた。それ故にキリスト者が今さら律法に束縛されることの誤りであると同じく、天使礼拝を行うことも同様に誤りである。
辞解
本節は難解にして問題多き箇所である。「褫 ぐ」は捕虜の武装解除の場合に用う。本節にも軍隊用語多き故かく解すべきであろう(L2)。
[政治と権威] キリストの周囲に纏い付いている弱さまたは悪の力と解する説(L2)、またはこれを神の仲保者と見る説(E0)は採らない。
「十字架によりて」(L3、C1、M0)は「キリストによりて」と解する方が、9節以下の全体の中心思想と一致する(B1、L1、L2、Z0)。
[公然に] また「大胆に」の意味もあり、本節の場合は「大ピラに」の俗語が最も適当する。「示し」は公表すること。▲▲キリストの十字架によって罪を赦された者にとっては天のあらゆる悪霊は全く無力である。
要義1 [キリストのプレーローマ]キリストには智慧と知識の凡ての実が蔵 されているのみならず(3節)、さらにまた神の満足れる徳(プレーローマ)も体をなして彼に宿り(9節)、凡ての天使は彼の統御の下にある(10節)。それ故に律法、戒律、小学的規律等による諸徳はすでにその意義を失い、天使礼拝もまた全く意味なきものとなる。我らはキリストのプレーローマにより何らの欠ける処なき完全なる満足を有つことができる。
要義2 [キリストの救いの意義]9−15節においてキリストによる救いの諸相を見ることができる。すなわち彼自身の本性のプレーローマに在し給うが故に、彼を信ずる者は彼に在りて同じ神の本質をもって満たされることができ(10節)、そして彼(信者)は肉の体に割礼を受けてこれを脱ぎ去ることによりて罪より全く脱れることができ(11節)、またキリストのバプテスマを受けることによりてキリストと共に死し共に甦り彼と共に永遠に生き(12、13節)、そして律法の詛と束縛より解放 たれてキリストにある自由を獲得し(14節)、空中の権を握る諸天使をして彼らの上に力を及ぼすことなからしめ給う。以上の諸点をパウロは他の書簡において類似のまたは異なりたる術語をもって論じている処であるが、ここではコロサイにおける偽教師の諸種の謬説を打破せんがために務めて彼らの思想に接近せる用語を用いて論じていることは注意すべきことである。要するにキリストの救いの完全さを明瞭確実に把握することが、偽教師のあらゆる謬説より自己を保護する最善の道である。▲聖書の福音にも特殊の用語があるが、他の異なった思想や信仰に対して説明する場合用語を注意することが必要である。
註解: 16、17節においては過度の形式主義と禁慾主義との誤りを正し、18節、19節において天使礼拝のごとき信仰の誤りを正している。
2章16節
口語訳 | だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。 |
塚本訳 | (斯く証文に棒が引かれて私達は律法から全く自由となったの)だから、君達は(最早)食うことや、飲むことや、あるいは祭日、新月(の祭り)、安息日のことについて、人にかれこれ言われることはない。 |
前田訳 | それゆえ、あなた方は食物や飲み物、あるいは祭りや新月や安息日の問題でだれにも裁かれないようになさい。 |
新共同 | だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。 |
NIV | Therefore do not let anyone judge you by what you eat or drink, or with regard to a religious festival, a New Moon celebration or a Sabbath day. |
註解: モーセの律法においては食物は種類によりて禁止せられていた。飲み物すなわち飲酒につきては二三の特別の人と場合とにおいて禁止の規定または制限があるだけで一般には禁止されていなかった。然るにコロサイにおけるユダヤ教的傾向の強い教師、またはエツセネ派的傾向を受けている人々はこれら飲食物に関する規則を一層厳格にすることを主張したのであろう。(▲▲今日でもキリスト教の一派に、飲食と安息日について旧約の律法を守るべきであると主張するものがある。)これにつきてパウロは「何人も汝らを審 いてはならない」と教えている。なお詳細はロマ14:1以下および註。ヘブ9:10参照。またユダヤには年、月、週による祭日休日があった。これらにつきても、キリスト者となった以上はこれを守る必要なしとする者と、一層厳格にこれを守るべしと主張するものとがあった。偽教師は多分後者であろう。人間の目には一般に禁慾的なることや、厳格なる戒律主義等が価値あるように思われがちなものである。これにつきてもパウロは審 くべからずと教えている。これらの日に関してはガラ4:10参照。
辞解
[食物、飲物] 精確に訳せば「食うこと」「飲むこと」となるが、意味は結局差別がない。
[祭、月朔 、安息日] 「祭」は年に一回祝われる各種の祭、「月朔 」は月に一回、「安息日」は週に一度の休日である。
[誰にも審 かるな] 「誰も汝らを審 かざらんことを」である。
2章17節
口語訳 | これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。 |
塚本訳 | これらは(皆)来るべきものの影で、その本体はキリストである。(従って私達は本体を有っているのであるから、今更何で影の必要があろう! |
前田訳 | これらは来たるべきものの影で、本体はキリストのものです。 |
新共同 | これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。 |
NIV | These are a shadow of the things that were to come; the reality, however, is found in Christ. |
註解: (▲「キリストに属けり」は直訳「キリストの体である」。)影は実体に先行し、これに類似し、これを預示しているけれども、実物が顕われた以上は影は無意味であって用をなさない。おおよそモーセの律法は飲食に関すると季日に関するとまたは祭祀に関するとを論ぜず凡てキリストを預表する影であった。今やキリスト来たってその影の意味が明らかにせられその用が無くなった以上、なおもその影に固執するの誤謬を犯すことは愚かなことである。例えば燔祭罪祭その他の祭事はイエスの犠牲の死を預想し、過越はキリストの贖いを預想し、種なしパンは信者の団体を預想し、安息日は信者の安息を預想し、荒野の旅は信者の生涯を預想するがごときそれである。
2章18節
口語訳 | あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、 |
塚本訳 | 君達は謙遜と天使礼拝とを嬉しがっている者(など)から決して貶さられることはない。こんな人は自分が(異教の)奥義に入った時(親しく)観た(と思っている掴まえ所もない)ものを、肉の感念から訳もなく(ただ)威張っている(だけ)の(こと)で、 |
前田訳 | 偽りの謙遜と天使崇拝にふける人がだれもあなた方を失脚させませんように。その人は見た幻をてらい、肉の思いによってむなしく誇っていて、 |
新共同 | 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、 |
NIV | Do not let anyone who delights in false humility and the worship of angels disqualify you for the prize. Such a person goes into great detail about what he has seen, and his unspiritual mind puffs him up with idle notions. |
註解: 私訳「謙遜と天使礼拝に耽る者に汝らの褒美を奪はるな」。コロサイの偽教師は自ら謙遜をもって任じていた。すなわち人間は神に近づくことを得ざる者ゆえ天使の仲保を求めて天使を礼拝しなければならぬと考えた。彼らはかくしてキリストを除外してしまうのであって、この謙遜は真の謙遜にあらず、かえって神の愛を蹂躙 する不信の行為である。汝が当然得べき天国の褒美をかかる者の欺きのために失い、彼らに奪われてはならぬ。
辞解
[殊更に・・・・・よそほひ] 原語 thelôn en の訳としては適当ではない(L3)。「耽る」または「を喜ぶ」と訳すべきである(L3、L2)。▲▲23節の「みづから定めたる礼拝」は原語で ethelothrêskeia で本節の「殊更に謙遜を装い」 thelon en thrêskeia(i) と同じ。口語訳の「ひとりよがりの」や、俗に言う「自分免許の・・・・・」などに相当する。
[奪ふ] katabrabeuô は当然褒美を得るべき者の褒美を他者が妨害または反対して奪うこと。
かかる
註解: 非常に難解の一句。私訳「かれらはその観し所のものを探究し」とでも訳すべきであるかもしれない(L2)。「探究し」 embateuô は「踏入る」という意味あり神託を受けんがために聖所に立入る場合などに用いる語である。偽教師らは、その直観をもって人の見ざるものを見ることができると考え、その観しものの何たるかを探究しているというごとき意味であろう。なおこの部分文字の誤写ありと推定しこれを改訂して「空中をさまよふ」と訳し、空しき空想に耽る意味に解せんとする説もある(L3、Z0)けれども勿論確定的ではない。
註解: 偽教師らはその念(nous 心)をもって特別の真理を悟り得るがごとくに思い、これを誇っていた。パウロはこれを「肉の心」であるとして「霊」と峻別 しており、「肉の念は死なり霊の念は生命なり平安なり」(ロマ8:6)故に彼らの誇っているその肉の心は結局何らの価値なきものであり、その誇りは虚しき誇りであることを喝破している。偽教師らの誤謬の中核を打砕いている。
口語訳 | キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。 |
塚本訳 | (キリストなる)頭にくっついていない。体(なる教会)全体はこの頭から靭帯と腱とによって支えられ、結び合わされ、(かくして)神に育てられて成長するのである。 |
前田訳 | 頭(キリスト)についていません。頭によってこそ全身が関節と筋で支えられ結ばれて、神による成長をとげるのです。 |
新共同 | 頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。 |
NIV | He has lost connection with the Head, from whom the whole body, supported and held together by its ligaments and sinews, grows as God causes it to grow. |
註解: 私訳「首を把握せざるなり」もっとも重要なるは首たるキリストを把握することである。単に自己の肉観に沈潜することも、肉の念につき空しき誇りをもつこともそれは何の役にもたたない。
註解: エペ4:16参照。私訳「全体はこの首を本として節々維々 によりて供給を受けかつ結合せられ」。人体の節々(接ぎ目)は例えば頭と体、胴と脚のごとく各部が接ぎ合わされている部分で、これによりて各部に滋養やその他の必要の命令が伝達供給せられるのであり、また維々 は靭帯でこれによりて各部は結合せられて一体となる。この場合パウロはキリストと教会との関係を考えたのではなく、キリストと宇宙、およびその中の天使を始めすべてのものを眼中に置き、キリストがその万物の中心でありかつ本源であり、そのキリストより出でて万物が必要の供給を受け、かつ一体とせられ、それには種々の物の接ぎ目がありまたこれを結び付ける靭帯があることを言ったのである。そしてこれが教会に最もよく適合することは勿論である。
辞解
[節々] エペ4:16辞解参照。
[助けられ] epichorêgeô は供給を受くること。
[相 聯 り] symbibazô 一つに固めること。
註解: 全体は一体となりキリストと連なる事により彼よりすべての供給を受け、彼にありて一体となりて成長を発育する。これこそ「神の成育」と称せらるべきものである。
2章20節
口語訳 | もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、 |
塚本訳 | もし君達が、(今言ったように洗礼によって)キリストと共に死に、此世の元素の霊(の支配)から離れたのなら、何故(なお)この世に生きている者のように、 |
前田訳 | もしあなた方がキリストとともに世の霊力から離れて死んだのならば、なぜ世に生きるもののように規制されますか−− |
新共同 | あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、 |
NIV | Since you died with Christ to the basic principles of this world, why, as though you still belonged to it, do you submit to its rules: |
2章21節 『
口語訳 | 「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。 |
塚本訳 | 「手をつけるな、味わうな、触るな」という規則に縛られるのか。 |
前田訳 | さわるな、味わうな、手にするな、などと。 |
新共同 | 「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。 |
NIV | "Do not handle! Do not taste! Do not touch!"? |
註解: キリスト者は(従ってコロサイの信徒も)キリストと共に死んだ者である。従って罪に対し(ロマ6:2)、自己に対し(Uコリ5:14、15)、律法に対し(ロマ7:6。ガラ2:19)、世に対し(コロ3:3)死んだのである。これと同様この世の小学(8節辞解参照)に対しても死んでいるのである。然るを何故なおこの世に生きている人、すなわち信仰なく回心せざる人と同様に、人間の考え出した誡命や教えに迷わされて種々の些細な形式的な規定に支配されるのであるか、と言いてパウロは彼らを詰問している。この規定は「捫 るな、味ふな、觸 るな」というごとき消極的規定であって、おそらくモーセの律法のみならずエツセネ派の潔癖や禁慾的傾向より生じ来れる諸種の規定で、不潔なるものに触れまたはこれを掴むことを禁じまたは酒類その他肉類等を味うことを禁じたのであろう。この種の禁慾的態度が往々にして信仰上の重要なる問題のごとくに考えられることは、何時の時代にも有りがちなことである。
辞解
[小学] 口語訳「霊力」 コロ2:8辞解▲参照。
[世に生ける者] キリスト者はこの世に生きる者ではなく天国の民である。
[捫 ] haptô は掴むこと。
[觸 る] thinganô は前者よりも軽くさわること。
この「捫 る」「觸 る」は上記註のごとく飲食物や祭事に関することならん。性的行為と解するのはこの場合不適当である。
[規 の下にある] dogmatizômaiは、また「規 の下に置かれるか」と受動態にも訳することを得。この方は意味が一層強くなる。
[人の] キリスト者は人間の工夫せる規定に束縛せられてはならない。キリストの律法がその規定である。
口語訳 | これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。 |
塚本訳 | これら(禁断の物)は皆使えば消え失せるように出来ていて、“人間の訓戒と教え”によるものである(から、少しの心配もない)。 |
前田訳 | これらはすべて使えばなくなるもので、人間の規則や教えによるものではありませんか。 |
新共同 | これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。 |
NIV | These are all destined to perish with use, because they are based on human commands and teachings. |
註解: 消費によりて壊滅すること、すなわち「捫 るな、味ふな、觸るな」と言われている飲食物等は、消費してしまえば厠 に落ちるだけで(マコ7:19)、何ら特別に問題とするほどのこともないのである。然るにかくもこれを重大問題としていることは、全く小学の初歩の思想に過ぎない。これに惑わされてはならない。
辞解
[人の誡命と教とに循 ひて] 日本訳では20節に入り、原文は本節の最後に来る。イザ29:13。マタ15:9−20。マコ7:7、マコ7:14−19参照。
2章23節 これら[の
口語訳 | これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。 |
塚本訳 | そして(また)これら(の訓戒や教え)はお手製礼拝と(いわゆる)謙遜と禁欲とで(如何にも)知恵があるように思われているが、(実は)ただ肉の(感情の)満足に役立つだけである。 |
前田訳 | これらは利己的礼拝と偽りの謙遜と体の苦行とのゆえに、知恵のあることのように見えても、肉欲の満足を押える力はありません。 |
新共同 | これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。 |
NIV | Such regulations indeed have an appearance of wisdom, with their self-imposed worship, their false humility and their harsh treatment of the body, but they lack any value in restraining sensual indulgence. |
註解: 難解にして異説の多い一説であるが現行訳はおそらくもっとも適当であろう。すなわちこれらの偽教師の主張する多くの禁止的誡命は、智慧ある賢明なる誡命であるとの風評を得ているけれども、さらに一見肉慾を禁止してその身体を酷使し、また天使を礼拝するなどのことをなして自ら謙遜を装い、きわめて信仰的であるかのごとくに見えるのであるけれども、実は肉の放縦に対して何らの価値なきことであって、彼らは「外は美しく見ゆれども内は死人の骨と様々な穢れとにて満つ」る類である(マタ23:27)。
辞解
[自ら定めたる禮拜] ethelothrêskeia は「エセ礼拝」真の礼拝にあらず、敬虔らしく装う礼拝なり。
[謙遜] 勿論真の謙遜にあらず「エセ謙遜」なり。
[惜まぬ事] 酷使し鍛錬すること。
[あるごとく見ゆ] 「あるとの信用、または風評を得ている」こと。
[實は肉慾の放縱を防ぐ力なし] 難解にして種々の解あり。(1)「肉慾を適当に充すことを尊重せず」(2)「何らの価値なし、唯肉慾を充すのみ」何れも原文または原文の解釈上無理の点あり。
要義 [コロサイの偽教師と我ら]2:16−23に殊に明瞭に示されるごとく当時コロサイ地方においては、飲食物、季日、祭日等の厳守、天使礼拝、潔斎などの事柄を特に重視する教師あり、コロサイの教会内にも入り来たってキリスト教徒に少なからざる影響を与えた。これらの教理の中にはグノシス的なるもの、エツセネ派の影響を受けしもの、ユダヤ教的なるものが雑然として混合しており、当時の東洋(すなわち西アジヤ)に特有の密儀的気分がこれに加わったものであった。
これらが如何にしてキリスト教に影響を与えたかは聖書には説明されていないけれども、おそらく第一にキリスト教そのものにこれらが欠如していると感じたることと、第二にこれらのものそれ自身に何らかの宗教的価値あるかのごとくに思われやすいからである。第一の点はキリストの価値に関する無理解より生じているのであってパウロは9−15節に極力キリストの完全無欠なる所以を強調して、キリスト者はかかる規律(ドグマタ)に支配される必要なきことを教え、これにより第二の点をも自然に消滅させることができるようにしたのである。
しかしながら人間には本来このような禁慾的克己主義や、規律厳守の厳格主義や、物質的清浄を旨とする潔斎主義や、対象如何にかかわらず敬虔なる態度を持する敬虔主義を好みまたは尊敬する傾向がある。この傾向そのものは決して軽蔑すべきものではなく最も貴重なものであるけれども、これらの事柄はキリストによって完成されるまでの小学であって、キリストによる克己、キリストによる厳格、キリストによる潔め、キリストに対する礼拝が完成する場合、これらの諸小学は自ら消滅するはずのものである。今日といえどもキリスト者が禁酒禁煙や、日曜日厳守や、教会礼拝などに過度の重点を置くに至ることはこれらの小学への逆戻りであって、キリストに在る真の自由を破壊するものである。この種の偽教師の存在は決して昔の時代やコロサイとその付近の場所に限ったわけではない。