黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ガラテヤ書

ガラテヤ書第4章

分類
2 教理の部 1:6 - 5:12
2-2 信仰と律法との差別 3:1 - 4:11
2-2-ホ 律法は後見者又家令に過ぎず 4:1 - 4:7  

註解: パウロはさらに進んで世嗣(よつぎ)といえども未成年の間と成年となれる後との間に、異なれる立場に立たなければならないことを例として、信仰に入る前後の差異を説明している。

4章1節 われ()ふ、世嗣(よつぎ)全業(ぜんげふ)(しゅ)なれども、成人(せいじん)とならぬ(うち)(しもべ)(こと)なることなく、[引照]

口語訳わたしの言う意味は、こうである。相続人が子供である間は、全財産の持ち主でありながら、僕となんの差別もなく、
塚本訳わたしの意味はこうである。──相続人がまだ未成年である間は、(亡くなった父の)全財産の主人でありながら、奴隷と何の相違もなく、
前田訳わたしはこう申しましょう。相続人も、未熟であるうちは、全財産の主人でありながら奴隷とちがいません。
新共同つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、
NIVWhat I am saying is that as long as the heir is a child, he is no different from a slave, although he owns the whole estate.

4章2節 (ちち)(さだ)めし(とき)(いた)るまでは後見者(うしろみ)家令(かれい)との(した)にあり。[引照]

口語訳父親の定めた時期までは、管理人や後見人の監督の下に置かれているのである。
塚本訳父の定めた期限(が来る)までは、後見人と管理人との下にいるのである。
前田訳父が定めた時まで後見人と管理人のもとにいます。
新共同父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。
NIVHe is subject to guardians and trustees until the time set by his father.
註解: 世嗣(よつぎ)たるべき子が幼少の間は父は一定期間を定めてその子の上に保護者および家扶を任命し、子は自由に法律行為、経済行為を為すことができず、これらの使用人の下に立ちて「僕」すなわち奴隷と同一の地位に立つのである。子は本来全業の主であり全財産の所有者であるのになおかつかかる時期がある。かく言いて次節に述ぶる信仰に入る以前における信者たるべき者の状態と比較対照している。本節は父の死後か生前かにつき不明の点あり。父の生前を意味すると解する(M0)。また本節はローマの法律の解釈ではなく、世間一般の習慣を叙述したものであろう。
辞解
[主なれども] 父存命中は未だ「主」ではないが主たるべき人を意味す。
[後見者] 父を死ぬる者と見た場合の訳語。原語 epitropos はマタ20:8ルカ8:3等には「家司」と訳されている。家事、財産、子女の教育など何事によらず委託せられし人を意味す。
[家令] oikonomos はルカ12:42Tコリ4:2等に「支配人」と訳され、主として財産関係を取扱う家司である。

4章3節 ()くのごとく(われ)らも成人(せいじん)とならぬほどは、()小學(せうがく)(した)にありて(しもべ)たりしなり。[引照]

口語訳それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。
塚本訳同じようにわたし達も、(信仰の)未成年であった時は、(信仰のいろはである地水火風というような)この世の元素の霊の(支配の)下に奴隷になっていた。
前田訳われらもそうで、未熟であったときは、この世の諸霊力のもとに奴隷でした。
新共同同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。
NIVSo also, when we were children, we were in slavery under the basic principles of the world.
註解: キリストにある信仰を摑得(かくとく)する以前はあたかも未成年のごときものであり、未だ独立自由の信仰を有せず何ものかの下に奴隷的取扱いを受けなければならない。而して「我ら」キリスト者も以前はこの世の小学(9節)ともいうべき初歩の教えに支配されていた。律法もこの小学の一種に過ぎず、その他ユダヤ教も異教もある意味においてこの種の小学と見ることができる。
辞解
[成人とならぬほどは] 原語「小児の間は」。
[世の小学] 「世」は神の国の反対、人間の世界。「小学」stoicheion は本来(1)ABCすなわちイロハの意味をもつ語であるが、転じて物質的には(2)元素、(3)天体等の意味に用いられ、また知識的には(4)初歩初等教育の意味に用いられる。古代教父の多くは本節を(3)の意味に解しているけれどもむしろ(4)の意味に解すべきである(L3、M0、A1)。日、月、季節、年などを守ること、飲食に関する諸制限、その他の些末なる禁止規定等みなこの「初歩」に過ぎない(コロ2:8コロ2:20、21参照)。▲「小学」stoichciaは10節及びコロ2:8-23等より明らかである通り、パウロは主として「初歩的な些末な形式や規則や日、月、食物等の規則」を指している。引照1参照。「霊力」と言う意味に解することは誤りではないが不適当であり前後の連絡と統一とを失う。
[僕たりしなり] 原語「僕とせられて」で他動的であり奴隷たる状態を一層適切に示している。「奴隷とせられて世の小学の下にありき」と訳すべきである。

4章4節 されど(とき)滿()つるに(およ)びては、(かみ)その御子(みこ)(つかは)し、これを(をんな)より(うま)れしめ、律法(おきて)(した)(うま)れしめ(たま)へり。[引照]

口語訳しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。
塚本訳しかし(定められた)時が満ちると、神はその御子を女から生まれさせ、律法の下に置いて、(この世に)お遣わしになった。
前田訳しかし時が満ちると、神はみ子をおつかわしでした。彼は女から生まれ、律法のもとにお生まれでした。
新共同しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。
NIVBut when the time had fully come, God sent his Son, born of a woman, born under law,
註解: 第2節と同様に神は人類を律法の下に閉じ込め置くべき期間を自ら定め給うた。而してこの期間において人類、殊にユダヤ人において、律法より解放(ときはな)たるべき準備ができていた。これが時満ちた有様である。この時神は一人の人間として、殊に律法の下にあるユダヤ人として御子キリストを天より遣わし給うた。神のその約束を実行し給うたのである。
辞解
[時満つる] 「時の満盈(まんえい)が来れる時」と直訳さるべき文字、満盈(まんえい)plêrôma につきてはコロ1:19辞解参照。
[遣し] exapostellô 天より派出し派遣せること。
[女より生れしめ] 普通の人間として生れ給いというごとき意味で処女懐胎を伝えるにはあらず。
[律法の下には] アブラハムの裔としてユダヤ人の中に生れ給えることを指しているけれども、同時に5、6節等より見るも異邦人もある意味において律法の下にあり、キリストは異邦人をも贖い給うことを意味していると見るべきであって、「律法の下に生れ」はこの意味において広義に解する必要がある(L3)。

4章5節 これ律法(おきて)(した)にある(もの)をあがなひ、我等(われら)をして()たることを()しめん(ため)なり。[引照]

口語訳それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。
塚本訳これは律法の下に(奴隷になって)いる者を贖い出して、わたし達に子たる身分を受けさせるためである。
前田訳それは律法のもとにあるものすべてをあがない、われらが子の身分を受けるためです。
新共同それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。
NIVto redeem those under law, that we might receive the full rights of sons.
註解: 神がその独子を世に遣わし給う場合に前節のごとき途を取り給いし所以は律法の下にある者をその奴隷の状態より贖い出し、彼の子たる身分を我らに賜いて我らを養子とし彼と同じく子たる身分を取得せしめんとの思召(おぼしめ)しに外ならなかった。
辞解
[律法の下に在るもの] 文字上よりはユダヤ人を意味すれども広義においては一般の律法の下に在るものにも及んでいる。
[我ら] ここに第一人称に転換せるは自己およびガラテヤの教会の信徒に関する重大な経験を叙述せんがためである。
[子たること] huiothesia は養子とすること。

4章6節 かく(なんぢ)(かみ)()たる(ゆゑ)に、(かみ)御子(みこ)御靈(みたま)(われ)らの(こころ)(つかは)して『アバ、(ちち)』と()ばしめ(たま)ふ。[引照]

口語訳このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。
塚本訳しかしあなた達が(いまや神の)子であることは、神がわたし達の心に、「アバ[お父様]、お父様」と呼ぶ御子の霊をお遣わしになったことによって(、知り得るの)である。
前田訳あなた方が子であるようにと、神は「アバ父上」と呼びかけるみ子の霊をわれらの心へとお送りでした。
新共同あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。
NIVBecause you are sons, God sent the Spirit of his Son into our hearts, the Spirit who calls out, <"Abba>, Father."
註解: キリストに贖われて神の子とせられし者には、その保護として聖霊がその心に内住し給う、この聖霊は神の子キリストの霊であって、これを受けたる者はキリストと同じく神の子の性質を享有する。而してこの内住の聖霊は神に対して深き愛と祈りとを以て心の底から「アバ父」と呼ぶに至るのである。
辞解
[故に] 神が聖霊を与え給う理由。ただし時間的に前後の関係ありと見るの要なし。
[遣し] exapesteilen 不定過去動詞で過去において一回をもって完了せることを示す、すなわち聖霊が個々の心に宿りて我らを新生し給うことは一度に完成される事実たるを示す。神は御子を遣し(4節)またさらに御子の霊、すなわち聖霊を遣し給うた。
[アバ父] アバはアラマイク(アラム)語で父という意味、切なる訴えに際してこの語が繰返されたのであろう。キリストもこの語を用い給うた(マコ14:36)、そうしてユダヤ人のキリスト者はギリシャ語をもって語る場合にもこのアバを棄て難く思いてこれを用い、さらにギリシャ語をこれに添えて繰返したのであろう。ユダヤ人と異邦人とがキリストに在りて一つとなることのよき表徴である。なお「汝ら」と「我ら」とが交代に用いられる所以はパウロが自己の心の経験より(ほとばし)り出でたる事実を記すに際して第二人称を用うるよりも自然第一人称を用うるまでに感情が高調せるためであろう。

4章7節 されば最早(もはや)なんぢは(しもべ)にあらず、()たるなり、(すで)()たらば(また)(かみ)()りて世嗣(よつぎ)たるなり。[引照]

口語訳したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。
塚本訳だからあなたはもはや奴隷ではなく、子である。子である以上、神(の恩恵)によって相続人である。
前田訳それで、あなたはもう奴隷でなくて子であり、子であるならば神による相続人です。
新共同ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。
NIVSo you are no longer a slave, but a son; and since you are a son, God has made you also an heir.
註解: かくして律法の下に守役の束縛を受けて奴隷とせられし時の状態とは全く異なる処の子たる状態に入る事が出来たのである。その当然の結果としてかかる人は世嗣として神の嗣業を継承するの身分に立っている。僕は主人の財産を継承することができない。以上によりて明らかなるごとく、子とされることも世嗣とされることもみな神の賜物であって我らの行為や功績による点は少しもない。
辞解
[世嗣(よつぎ)] 本節の場合パウロがユダヤの相続法(申21:17)について言っているか、またはローマ法の相続法についていっているかの議論は重要ではない。1、2節と同じく普通一般の相続の概念をいっているのであって法律の解釈をしているのではない。
[なんぢ] 最後に第二人称単数を用いて相手方一人一人に関して世嗣(よつぎ)たる身分を強調している。
要義 [奴隷と世嗣(よつぎ)]キリスト者と然らざる者との差異を世嗣(よつぎ)と奴隷(または未成年者)とに譬えることは種々の意味において適切なる譬喩(ひゆ)である。律法の下にある者の不自由と福音を信ずる者の自由、律法による死と神の子として受くる永遠の生命、僕としての恐怖と「アバ父と呼ぶ」子の霊、これらはみな奴隷と嗣子(しし)の生活の差に比すべきものである。而して一度(ひとたび)真に嗣子(しし)たる身分を摑得(かくとく)したるものは最早や再び奴隷たる状態に逆戻りすることができないと同じく一度(ひとたび)真に信仰によりて義とせられ永遠の生命を摑得(かくとく)せるものは再び律法の束縛の下に身を置くことができない。

2-2-ヘ 小学をすてよ 4:8 - 4:11  

4章8節 されど(なんぢ)(かみ)()らざりし(とき)は、その(じつ)(かみ)にあらざる[神々(かみがみ)]に(つか)へたり。[引照]

口語訳神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。
塚本訳けれども、(まことの)神を知らなかった当時は、あなた達は実際神でない神々に(奴隷として)仕えた。
前田訳かつて神を認めなかったころ、あなた方は本質的には神でないものの奴隷でした。
新共同ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。
NIVFormerly, when you did not know God, you were slaves to those who by nature are not gods.
註解: 前節までキリスト者となりし者の幸福を述べし後、パウロはガラテヤの信徒をして彼らの過去の憐れむべき状態を回想せしめ、今再び奴隷の状態に陥らんとすることに対する警戒を与えている。すなわち彼らは以前には唯一の真の神を知らず、本質上神にあらざるものすなわち悪鬼、偶像、人間の思想その他の小学に(つか)えてその奴隷となっていた。奴隷としても最も悪しき状態にいた。
辞解
[(つか)へたり] 原語「奴隷となっていたこと」。

4章9節 (いま)(かみ)()り、むしろ(かみ)()られたるに、[引照]

口語訳しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。
塚本訳しかし今あなた達は神を知っている、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてもう一度無力な、貧弱なあの元素の霊(の崇拝)に戻るのか。(どうして)もう一度あらためて(その奴隷として)仕えようと思うのか。
前田訳今や神を知り、否むしろ神に知られたのに、なぜふたたび弱くていやしい諸霊力にもどるのですか。あらためてその奴隷になりたいのですか。
新共同しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。
NIVBut now that you know God--or rather are known by God--how is it that you are turning back to those weak and miserable principles? Do you wish to be enslaved by them all over again?
註解: ガラテヤの信徒(原典には「コロサイの信徒」とあるが前後関係からガラテヤの信徒を指していると判断する:編者)は今は前節とは全く異なれる状態にいるのであって、彼らはキリストによりて神を知ったのである。ただし神を自己の力によりて知り得たのみであるならば不完全であり、また動揺しやすいけれども、むしろ神に知られたというべきであって、神は予め彼らを知り給いて彼らを選び、霊をもって彼らを導き、彼らに御自身を顕わして彼らを救い給うたのである(ピリ3:12Tヨハ4:10、11)。かくして神に知られしものにして始めて真に神を知ることができる。

(なに)(また)かの(よわ)くして(いや)しき小學(せうがく)(かへ)りて、(ふたた)び((あらた)に)その(しもべ)たらんとするか。

註解: 神に知られ神の子とせられ、かくしてアバ父と呼ぶことができ、世嗣として天の嗣業を約束せられている以上、何で再び逆戻りしてこの世の小学の奴隷とならんと欲するのであるか。それは弱くして我らを救う力なく、貧しくして我らに永遠の嗣業を与うることができない。
辞解
[(また)] 「再び」と同じく palin。「再び」と訳せられし部分の原語は palin anôthen で単に意味を強めたものと解するよりも「再び新に」と訳して以前に(つか)えし偶像も世の小学の一種であるが今度新にユダヤの律法に(つか)うる意味において「新に」を加えしものと見るを可とす(B1)。anôthen 「新たに」「始めより」等の意味あり(M0、A1)。
[するか] 「欲するか」。従って本節は以下のごとき私訳となる。「何ぞ再び弱く貧しき小学に逆戻りして再び新たにその奴隷たらんと欲するか」。

4章10節 (なんぢ)らは()(つき)季節(きせつ)(とし)とを(まも)る。[引照]

口語訳あなたがたは、日や月や季節や年などを守っている。
塚本訳あなた達は(なおも元素の霊に仕えて、)日や、月や、季節や、年(の祭り)を守っている。
前田訳あなた方は日と月と季節と年を守っています。
新共同あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。
NIVYou are observing special days and months and seasons and years!
註解: 前節の具体的説明であるが、この中に驚きと悲しみの口調が表われている。ガラテヤの人々はユダヤ教主義のキリスト者に感化された結果、ユダヤの律法に規定される特定の日や月等を一所懸命に守っていた(単に割礼だけが問題ではなく、かかる方面にも彼らの福音に対する無理解が存していた)。しかしこれらは実に無意味な努力に過ぎなかった。
辞解
[日、月、季節、年] 「日」は安息日、新月等を指し、「月」は特に聖なる月とされる第七月(チスリの月)等を指し、「季節」は祭事の季節すなわち五旬節、過越、仮庵の祭等を指し、「年」は七年毎の安息の年、五十年毎のヨベルの年等を指す。ただし以上の各々につき幾分ずつ異なれる解あれどパウロのいわんとする根本の問題に影響せざる故にこれを略す、また安息の年ヨベルの年のごときはその当時すでにガラテヤにおいて実際に守られていたとは考えられない。
[守る] paratêreô は熱心に注意して守ること。日曜安息日を律法として強制せんとするごときもこの種の小学の一種である。なお割礼や食物のことにつきここで述べていない理由はおそらくそれほど遺漏(いろう)なく列挙する必要がないからであろう。

4章11節 (われ)(なんぢ)らの(ため)(はたら)きし(こと)(あるひ)()(えき)にならんことを((なんじ)らの(ため)に)(おそ)る。[引照]

口語訳わたしは、あなたがたのために努力してきたことが、あるいは、むだになったのではないかと、あなたがたのことが心配でならない。
塚本訳わたしは無駄骨折りをしたのではないかと、あなた達のために心配する。
前田訳わたしがあなた方のためにおそれるのは、あなた方のために骨折ったのがむだにならないかということです。
新共同あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。
NIVI fear for you, that somehow I have wasted my efforts on you.
註解: 私訳「我は汝らのために無益に働きしにあらざるかを汝らのために恐る」。パウロの恐れは自己の利益のためでなく彼らの救いのためであった。何となればパウロはかかるこの世の小学がなお彼らを支配しつつあったことを目撃したからである。パウロはかかる奴隷的状態より彼らを救わんがために福音を伝えたのであった。
辞解
[恐る] 「恐る」の前に「汝らのために」または「汝らについて」と訳すべきである。
[無益に働きし] 直説法完了過去形でその結果が現われたのではないかということを念頭に置いて記している。
要義1 [道徳的律法と儀礼的律法]旧約の律法にはこの二種がある、而してこれらはいずれも「来たらんとする善き事の影」(ヘブ10:1)である点において同一であった。パウロが律法の行為によらず信仰によりて義とされることをいう場合にこの双方ともこれを律法の中に包含せしめていることはロマ7:7以下等によりて明らかである。キリスト来り給いてこの二種の律法をその詛いと共に十字架につけてこれを除き給うた(コロ2:14)。ここに10節に単に儀式的律法のみについて論じられる所以は、律法に束縛されるや否やを外部より判断するにはこれらによるより以外に途なきがゆえである。パウロは道徳的律法のみを保存せんとしたのではない。愛により働く信仰は、律法がなくとも道徳的律法を完うすることができる(ロマ13:10)。
要義2 [異邦人の律法]パウロは前章および本章において律法の下にある点においてユダヤ人も異邦人も大差なきがごとくに論じている。これに関しライトフートは双方とも儀礼的律法について言っているのであって霊的道徳的律法については異邦人のものは積極的の悪であって到底守役たるに足りないと論じているけれども、これ異教に関する無理解とキリスト教に関する誤れる誇りより起れるものであって、異教徒といえども等しく神の摂理の下に、ある種の律法の下に在ったものと見ることができ、パウロもまたかく解したものと見るべきである。必ずしも儀式的律法に限るべきではない。かく解して始めてパウロの所論が意義あるものとなるのである。

2-3 ガラテヤの信徒に対する愛の苦しみ 4:12 - 4:20

註解: 前節までガラテヤのキリスト者の過去の生涯を顧み、彼らが今再び当時のごとき状態に立還らんとしつつあることにつき深い憂慮を示せる後、パウロは彼らを正しき福音に引戻さんとの熱心と愛とが彼の心に湧き上がるのを覚えた。而してこれと同時に彼の心に浮んだのは自己とガラテヤの信徒との間の過去における美わしき愛の関係であった。12−20節においてパウロはこのことを回想して切なる述懐をなし彼らを始めの愛に返さんとしているのである。

4章12節 兄弟(きゃうだい)よ、(われ)なんぢらに()ふ、われ(なんぢ)()のごとく()りたれば、(なんぢ)()がごとく()れ。[引照]

口語訳兄弟たちよ。お願いする。どうか、わたしのようになってほしい。わたしも、あなたがたのようになったのだから。あなたがたは、一度もわたしに対して不都合なことをしたことはない。
塚本訳兄弟たちよ、お願いする、わたしのように(自由に)なってもらいたい、わたしも(ユダヤ人でありながら、あなた達に福音を伝えるために)あなた達のようになったのだから。あなた達はわたしに対してなんらの苦しみを与えたことがない。
前田訳わたしの身になってください。わたしもあなた方の身になりました。兄弟よ、お願いです。あなた方はなにもわたしに悪いことをしたのではありません。
新共同わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。
NIVI plead with you, brothers, become like me, for I became like you. You have done me no wrong.
註解: パウロはここに至って始めの憤激を打忘れて「兄弟よ」「請う」などの文言を用いてガラテヤ人の心を和らげ、彼らを説得せんとしているのである。パウロは言う、「予はユダヤ人たる特権と習慣とを棄てて汝らのごとくになったのも汝らを愛するからであった、汝らもまた始めのごとく我を愛してもらいたい、そして我がごとくに律法から自由になってもらいたい、愛は心の一致であり、また信仰の一致であると」。
辞解
[ごとく] 本節の「ごとく」を単にパウロとガラテヤ人との間の愛を示すに過ぎないものにする解釈があるけれども前節との関係上不適当であり、また律法より自由たるべきことの問題のみについて言っているものと解する説あれど後節との連絡を失う、ゆえに上註のごとくに解してパウロの心理的連絡を取ることとした。

(なんぢ)何事(なにごと)にも(われ)(そこな)ひしことなし。

註解: 「然るに何故に福音を離れて我が心を苦しめるのであるか」とパウロは彼らに訴えかつ彼らを責めている。

4章13節 わが(はじ)(なんぢ)らに福音(ふくいん)(つた)へしは、肉體(にくたい)(よわき)かりし(ゆゑ)なるを(なんぢ)()る。[引照]

口語訳あなたがたも知っているとおり、最初わたしがあなたがたに福音を伝えたのは、わたしの肉体が弱っていたためであった。
塚本訳いや、あなた達は知っている、最初わたしがあなた達に福音を伝えたのは、(わたしの)肉体の病気のためであった。
前田訳ご存じのとおり、はじめ福音をお伝えしたのはわたしの体が弱っていたためでした。
新共同知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。
NIVAs you know, it was because of an illness that I first preached the gospel to you.
註解: パウロは病気のためガラテヤ地方に予定せざりし滞在を余儀なくせられ、それが同地方に福音を伝うる機縁となった。而してこのガラテヤ書が今日我らに残されて信仰による義の真義が明らかにされるに至った。神は思わざる事件より思わざりし結果を来たらしめ給う。
辞解
[初め] to proteron は単に「以前」の意味の外に二回ある中の第一回目の意味に用いられる(M0、L3)。パウロの第一回伝道旅行を指したものと見るべきで本書の(したた)められる前にすでに二回ガラテヤに行きしことを示すと見るべきであろう。
[肉体の弱かりし故なる] 「肉体の弱さ」についてはUコリ12:7註参照、ラムゼーの主張する慢性マラリヤであったろう。

4章14節 わが肉體(にくたい)(なんぢ)らの試錬(こころみ)となる(もの)ありたれど(なんぢ)(これ)(いや)しめず、(また)きらはず、(かへ)つて(われ)(かみ)使(つかひ)(ごと)く、キリスト・イエスの(ごと)(むか)へたり。[引照]

口語訳そして、わたしの肉体にはあなたがたにとって試錬となるものがあったのに、それを卑しめもせず、またきらいもせず、かえってわたしを、神の使かキリスト・イエスかでもあるように、迎えてくれた。
塚本訳そしてわたしの肉体にあなた達を試みるものがあったにもかかわらず、軽蔑せず、唾棄もせず、いな、神の使のように、キリスト・イエス(自身)のように、わたしを迎えてくれた。
前田訳しかしあなた方はわたしの体について誘惑があったのに、いやしめず唾せず、神の使いのように、キリスト・イエスのようにわたしをお迎えでした。
新共同そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。
NIVEven though my illness was a trial to you, you did not treat me with contempt or scorn. Instead, you welcomed me as if I were an angel of God, as if I were Christ Jesus himself.
註解: パウロの病は人に卑しめられ嫌悪される種類のものであった、かかる疾患に(かか)る者は神の詛いを受けたる者、または悪鬼に憑かれし者と思われていたのであろう。それ故にもしパウロが神より選ばれし人であるならばかかる疾病に(かか)るはずがないと考えるのが普通の考えであった。それ故にガラテヤの信徒にとってはこの疾病がパウロを迎うる上の大なる障碍(しょうがい)であり、また試練であった。然るに彼らは試練となりたるこの疾病を嘲笑の目的とせず、またこれを嫌悪せず、パウロをもって神に詛われるものとは思わずして反対に神の使のごとくに彼を尊み、悪鬼に憑かれしものとして取扱わず、救い主キリスト・イエスのごとくに彼を厚遇した。ここにガラテヤ人のパウロに対する理解と愛とが充分に顕われ、またこれに対するパウロの感謝と喜悦の心が溢れている。
辞解
[試練となる者] 原語は peirasmos で「試練」であるけれども「試みるもの」を指すことがある(L3)、前記マラリヤ類似の地方病はガラテヤ地方において悪魔に憑かれしものと見られていた(ラムゼー)。
[卑しむ] exoutheneô 軽視、軽蔑すること。
[きらう] ekptuô は唾を吐き出すことで「唾棄する」に相当する。

4章15節 (なんぢ)らの[()(とき)の]幸福(さいはひ)は[いま]何處(いづこ)()るか。[引照]

口語訳その時のあなたがたの感激は、今どこにあるのか。はっきり言うが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してでも、わたしにくれたかったのだ。
塚本訳すると(その時の)あなた達の幸福感は、(今)どうなったのか。(ほんとうに)あなた達は、出来るなら、自分の目をえぐり出してくれたでもあろう。あなた達のためにわたしはそのことを証明する。
前田訳それなのにあなた方のさいわいは今どこにありますか。証言しますが、あなた方はできることなら目をくりぬいてわたしに与えようとしました。
新共同あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。
NIVWhat has happened to all your joy? I can testify that, if you could have done so, you would have torn out your eyes and given them to me.
註解: パウロを迎えかれより福音を学ぶにつき彼らは互いにその祝福を述べていたのに今はそれがどこに行ったのであるか。
辞解
[幸福] makarismos は祝意を表すこと、自己または人の祝福を祝賀すること。

(われ)なんぢらに()きて(あかし)す、もし()()べくば(おの)()(ゑぐ)りて(われ)(あた)へ[んとまで(おも)ひ]しを。

註解: 彼らのパウロに対する愛は彼らの為し得べき最大の犠牲をすら惜しまない程であった。このことをパウロは神の前に断言しているのである。
辞解
[目を(ゑぐ)りて...] 譬喩的表顕であって目は人体中最も重要な器官なので目をもってする譬は聖書に多く存している(詩17:8箴7:2ゼカ2:12等)。目を(えぐ)りて人に与うることは最大の犠牲をも(いと)わざることを示す。なお本節よりパウロの疾患は眼病であったと推測する説があるけれども決定的ではない。
[(あた)へんとまで思ひしを] 原語「(あた)へしを」で一層力強き文章である。

4章16節 (しか)るに(われ)なんぢらに(まこと)()ふによりて(あた)となりたるか。[引照]

口語訳それだのに、真理を語ったために、わたしはあなたがたの敵になったのか。
塚本訳ではわたしがあなた達に真理を(、ただ信仰だけで救われるという福音の真理を)語ったので、(それで)あなた達の敵になったのか。
前田訳すると、わたしはあなた方に正直であったために、敵になったのですか。
新共同すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。
NIVHave I now become your enemy by telling you the truth?
註解: パウロは彼らに真の福音、純粋の福音、律法以上の福音を伝えたがために彼らの敵となったのであるか、これ有り得べからざることである。
辞解
[然るに] hôste は「それ故に」と訳すべき文字。すなわち13−15節のごとくパウロを愛したるが故に、パウロが彼らの敵のごとくになった理由は真を言ったこと以外にはないこととなる。

4章17節 かの人々(ひとびと)(なんぢ)らに熱心(ねっしん)なるは()(こころ)にあらず、(なんぢ)らを[(われ)らより](はな)して(おのれ)らに熱心(ねっしん)ならしめんとてなり。[引照]

口語訳彼らがあなたがたに対して熱心なのは、善意からではない。むしろ、自分らに熱心にならせるために、あなたがたをわたしから引き離そうとしているのである。
塚本訳(あの人たちはあなた達を非常に慕っているように見える。しかし)あの人たちがあなた達を熱心に慕っているのは、善くはない。彼らはあなた達を(ただわたしから、いや、福音の真理から)引離して、自分に熱心にしようとしているのである。
前田訳あの人たちがあなた方に働きかけるのは善意でなく、あなた方が彼らに働きかけるようにとあなた方を閉め出したいのです。
新共同あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。
NIVThose people are zealous to win you over, but for no good. What they want is to alienate you [from us], so that you may be zealous for them.
註解: 私訳「彼らは善き心より汝らを慕わず、己らを慕わしめんために汝らを隔離せんと欲するなり」。キリストのために愛するものは善き心であり、自己のために愛するは悪しき心である。ユダヤ主義の偽教師らは盛んにガラテヤの信徒に媚を送った、しかしこれキリストのために彼らを愛したのではなく、自己の徒党を造り、彼らをして自分を慕わしめんがために彼らを他の教師他の思想より隔離せんと欲したのである。すなわち自己中心であってキリスト中心ではない。
辞解
[熱心なる] 次節の「熱心に慕う」と同語 zeloô 熱心に(この場合は愛と信頼とを)求むること。
[離して] 除外し、排斥し、隔離すること、何から彼を隔離するやにつきて異説あり、「キリスト」「教会」「キリストの自由」「パウロ」「パウロ一派の人々」「天国」等種々に考えられている。この場合「パウロおよび彼と思想を同じくするもの」、または「ユダヤ主義の教師と反対の立場にあるもの」等と解すべきであろう。「我らより」は原文になし。▲自己の宗派に人を導くことに熱心な態度は本節と同一の誤りに陥った態度である。常に人をキリストに導く必要がある。

4章18節 ()(こころ)より熱心(ねっしん)(した)はるるは、(ただ)()(なんぢ)らと(とも)にをる(とき)のみならず、何時(いつ)にても(よろ)しき(こと)なり。[引照]

口語訳わたしがあなたがたの所にいる時だけでなく、いつも、良いことについて熱心に慕われるのは、良いことである。
塚本訳善い心から、いつも熱心に慕われるのは、よろしい、わたしがあなた達の所にいる時ばかりでないのは。
前田訳良い意味で働きかけられるのは、つねによいことで、わたしがそちらにいるときに限りません。
新共同わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。
NIVIt is fine to be zealous, provided the purpose is good, and to be so always and not just when I am with you.
註解: 「善き心より」は「宜しきに叶いて」と訳すべきである。パウロは言う、「(さき)に予は汝らに福音を伝えしにより汝らに慕われていた。然るにその後汝らを離れている間に予に対する汝らの愛は冷却して偽教師らに向わんとしているのである。これ実に悲しきことである。福音を伝うる場合のごとき善きことのために予が汝らに慕われることは何時にても常に宜しきことであって予が汝と偕にいると否とに関係がない」。かく言いてパウロは彼らの愛を取返さんことを努力している。
辞解
[熱心に慕われる] 前節「熱心なる」の受動形。慕われるものの何を指すかによりて自然意味を異にするの結果となる。多くの学者はこれをガラテヤ人と解しているけれどもZ0はこれをガラテヤ人およびパウロと解し、L3はこれをパウロと解す、予は最後の解釈による。

4章19節 わが幼兒(をさなご)よ、(なんぢ)らの(うち)にキリストの(かたち)()るまでは、(われ)ふたたび(うみ)苦痛(くるしみ)をなす。[引照]

口語訳ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。
塚本訳わたしの子供たちよ、あなた達の中にキリストが形づくられるまで、わたしはもう一度産みの苦しみをしている。
前田訳わが子よ、キリストがあなた方の間に形をとるまで、わたしはふたたびあなた方のために産みの苦しみをします。
新共同わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。
NIVMy dear children, for whom I am again in the pains of childbirth until Christ is formed in you,
註解: ガラテヤにおけるパウロの第一回の産みの苦しみは無効に終らんとしている。これガラテヤの信徒の心にキリストが充分に形成せられていなかったからであった。それ故にパウロは再び産みの苦しみを繰返して彼らの心に完全にキリストの形を造り出さなければならない処の苦しい立場に立たしめられるに至った。伝道によりて人々の心にキリストの姿を形成するまでの苦痛は容易のことではない。しかしながらこの母としての役目がパウロの役目であった。▲▲口語訳「ああ」は原文にない。
辞解
[わが幼児よ] 異本によれば「わが若子らよ」teknia mou とありこれはヨハネは多く用いるけれどもパウロは他に用いていない。ここでは特に母として深き愛を弱きガラテヤの信徒に注ぎつつある心持が溢れてこの語を用いたのであろう。
[キリストの形] パウロの形でなくキリストの形が造られなければならない(B1)。

4章20節 (いま)なんぢらに(いた)りて()(こゑ)()へんことを(ねが)ふ、(なんぢ)らに()きて(まど)へばなり。[引照]

口語訳できることなら、わたしは今あなたがたの所にいて、語調を変えて話してみたい。わたしは、あなたがたのことで、途方にくれている。
塚本訳(出来るなら、)いまわたしはあなた達の所にいたい。そして(この烈しい)語気を変え(て、やさしい声で話し)たい。わたしは(今)あなた達のことで途方にくれている。
前田訳今にもそちらへ行きたい、そして語調を変えて話したいのです、あなた方のために途方にくれていますから。
新共同できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。
NIVhow I wish I could be with you now and change my tone, because I am perplexed about you!
註解: パウロは第二回伝道旅行においてガラテヤを訪問せし時、彼らがキリストより離れんとするを見てあまりに強く彼らを叱責したのであろう。その結果彼らが益々パウロを離れんとするのを見、かつパウロの不在の時一層この傾向の甚だしきを見て、パウロは今またガラテヤに到りその声を()え、異なった態度をもって彼らに語らんことを欲した。これパウロがガラテヤ人のその後の態度について迷い、いかにすべきかを知らなかったからである。かつ書簡のみでは充分先方の心持を汲取ることができず、またパウロの惑いを解くこともできないからである。
要義1 [キリスト者の疾病その他不幸の他の人々に対する意義]パウロの疾病はガラテヤの人々の信仰の試練となった。同様に今日キリスト者が特に多くの不幸に見舞われる時、他の未信者または不信の人々はこれをもってキリスト者の上に神の詛いが下っているのではないかと疑う場合がある。しかしながらキリスト者はいかに大なる不幸の下に在りてもなお信仰なき最大幸福者に優りて幸福であって、このことを示さんがために神は時にキリスト者を大なる不幸に陥らしめ給うのである。パウロの場合もその疾病によってガラテヤ人はいよいよ深く彼の愛すべきことを知ることができたのである。
要義2 [教理の正しさと愛の結合]13−20節は、一見あたかもパウロと偽教師らとの間にガラテヤ人の愛の争奪戦が行われているがごとくに見える。パウロの感情もガラテヤ人の愛を求めて激していた。しかしながら同じく愛であってもパウロはキリストに在る愛を求め、偽教師らはキリストよりもまず己らを愛せんことを求めた。而してもしガラテヤ人がキリストに在りて愛することができるならば、この愛がやがてパウロと彼らとを繋ぐ紐となるであろう。かくして双方とも正しき教義の上に立つ時はこの両者の上に自然に結合が行われることは当然である。誤れる信仰に伴える愛はキリストに在る愛ではない、従ってキリストに在る者との間に愛の結合を為すことができない。パウロがガラテヤ人を偽教師に対する愛より引離さんとしたのはパウロの私的感情ではなくキリストに在るものの当然の立場である。

2-4 自主と奴隷 4:21 - 5:12
2-4-イ ハガルとサラの譬話 4:21 - 4:31  

4章21節 律法(おきて)(した)にあらんと(ねが)(もの)よ、(われ)にいへ、(なんぢ)律法(おきて)をきかぬか。[引照]

口語訳律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。あなたがたは律法の言うところを聞かないのか。
塚本訳(モーセ)律法の下にいたいと思う人たちよ、言ってくれ、あなた達は律法がわからないのか。
前田訳おたずねしますが、律法の下にありたい方々、律法をお聞きでありませんか。
新共同わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。
NIVTell me, you who want to be under the law, are you not aware of what the law says?
註解: 本節以下においてパウロはアブラハムの二子を比喩的に解し、これによりて律法と約束との区別を示している。律法の下にあらんと願う者はガラテヤにおいてユダヤ主義の教師に誘われて信仰のみによりては義とせられざることを信ずる人々を指す。パウロが彼らに質問を発し、彼らをしてこれに答えしめんとしているのは、その事柄のあまりにも当然なることを示して彼らの無理解を責めている口調である。
辞解
[律法] 前者に冠詞なく一般的にいい、後者は冠詞を伴い、「聖書」または「モーセの五書」を意味する。日本語にてはこの区別が不明である。
[律法をきかぬか] 「聞くを欲せずや」(L1)と解するよりも「集会において読まれるのを聞いているのではないか」との意(M0)に解すべきである。

4章22節 (すなは)ちアブラハムに()二人(ふたり)あり、一人(ひとり)婢女(はしため)より、一人(ひとり)自主(じしゅ)(をんな)より(うま)れたりと(しる)されたり。[引照]

口語訳そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。
塚本訳こう書いてある。──アブラハムに二人の息子があって、一人は女奴隷(ハガル)から、一人は自由の女(正妻サラ)から生まれた。
前田訳それに書かれていますが、アブラハムにふたりの子があり、ひとりは女奴隷からで、ひとりは自由の女からでした。
新共同アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。
NIVFor it is written that Abraham had two sons, one by the slave woman and the other by the free woman.
註解: 婢女(はしため)はハガル(創16:15)でその子はイシマエル、自主の女は正妻サラ(創21:2)でその子はイサク。
辞解
[自主] 自由というに同じ。

4章23節 婢女(はしため)よりの()(にく)によりて(うま)れ、自主(じしゅ)(をんな)よりの()約束(やくそく)による。[引照]

口語訳女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。
塚本訳けれども女奴隷からの(イシマエル)は、(普通の人間のように)肉によって生まれ、自由の女からの(イサク)は、(聖書に書いてあるように)約束によったのである。
前田訳女奴隷からのものは肉によって、自由の女からのものは約束によって生まれたのです。
新共同ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。
NIVHis son by the slave woman was born in the ordinary way; but his son by the free woman was born as the result of a promise.
註解: 二人とも同じアブラハムの子ではあるがしかしイシマエルは普通の性的関係に従って(kata)生れ、イサクは創17:16以下、創18:10以下等の神の約束に依りて(dia)生殖能力なき老年の夫婦の間に生れた。

4章24節 この(うち)(たとへ)あり、二人(ふたり)(をんな)(ふた)つの契約(けいやく)なり、その(ひと)つはシナイ(やま)より()でて、奴隷(どれい)たる()()む、これハガルなり。[引照]

口語訳さて、この物語は比喩としてみられる。すなわち、この女たちは二つの契約をさす。そのひとりはシナイ山から出て、奴隷となる者を産む。ハガルがそれである。
塚本訳これは比喩で言うのである。すなわち、二人の女は(旧約と新約との)二つの契約を意味する。一つはシナイ山から(出たモーセ律法)であって、産んだ子は奴隷である。この契約はハガルである(からである)。
前田訳これは譬です。彼女らはふたつの契約で、ひとつはシナイ山の出で奴隷へと子を産み、それがハガルです。
新共同これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。
NIVThese things may be taken figuratively, for the women represent two covenants. One covenant is from Mount Sinai and bears children who are to be slaves: This is Hagar.
註解: この旧約の史実にはまた一種の比喩的意味を含んでいる。すなわち二人の女は旧き約束(旧約─律法)と新しき約束(新約─恩恵)に相当している。すなわち旧約はモーセの律法でシナイ山にその源を発し、律法の奴隷たるものの生みの母である。この点においてサラとは異なりハガルに相当している。
辞解
[譬あり] allêgoroumena 旧約聖書の比喩的解釈 allegorical interpretation は後世のラビによって濫用された。パウロもしばしばこれを用いている。すなわち旧約の史実を否定せず唯その中に第二の意義を含むものと解すること。

4章25節 このハガルはアラビヤに()るシナイ(やま)にして(いま)のエルサレムに(あた)る。エルサレムはその()らとともに奴隷(どれい)たるなり。[引照]

口語訳ハガルといえば、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当る。なぜなら、それは子たちと共に、奴隷となっているからである。
塚本訳──ハガル(という語)はアラビヤではシナイ山(を意味するの)である。──そしてハガルは今のエルサレムに相当している。(律法の御本山であるエルサレムは、)彼女の(多くの)子供たちと一緒に、(律法の)奴隷であるからである。
前田訳ハガルとはアラビアでのシナイ山のことで、今のエルサレムに相当し、その子らとともに奴隷です。
新共同このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。
NIVNow Hagar stands for Mount Sinai in Arabia and corresponds to the present city of Jerusalem, because she is in slavery with her children.
註解: パウロは21節以来種々の事実および思想を二つに分ちてこれを対立せしめ、以て律法と福音の区別を明らかにしている。すなわち自由なるサラと奴隷なるハガル、世嗣なるイサクと放逐されるイシマエル、律法による旧き契約と恩恵による新しき契約、奴隷たる子を生むハガルと約束の子を生むサラ、律法を与えられたるシナイ山およびこれを継承している今のエルサレムと約束を実現すべき上なるエルサレム等々であり、この対比はなお31節まで継続している。本節の意味は改訳に従えばハガルは奴隷たる子を生み、その子孫はアラビヤ人となった点において、人を奴隷たらしむる律法を与えられしシナイ山に相当し、かつ今のエルサレムに相当する。その故はイスラエルの人々は今も律法の下に(かつローマの政府に、B1)奴隷となりエルサレムがその代表的中心であるからである。ただし本節は「このハガル〔なる語〕はアラビヤ〔語〕にてシナイ山を意味し云々」と読み、アラビヤ人がシナイ山をやや類似の発音 Hadschar(Chadschar)にて呼ぶ事実をもって証明せんとし(M0、A1)、または「ハガル」なる文字なき異本によりて「そはこのシナイ山はアラビヤにありて今のエルサレムに当り云々」と読むべしとの説を為す学者がある(Z0)。この読み方が最良であろう。
辞解
[當る] sustoicheô は「同列に属する」「同種属である」との意味で、多くの項目を両々相対比せしむる場合に用いる。
[子ら] 住民を指す。
[エルサレムの子ら] イスラエルの全体を指す。

4章26節 されど(うへ)なるエルサレムは、自主(じしゅ)にして(われ)らの(はは)なり。[引照]

口語訳しかし、上なるエルサレムは、自由の女であって、わたしたちの母をさす。
塚本訳しかし天のエルサレムは自由で(あって)、これこそわたし達の母である。
前田訳上なるエルサレムは自由の女で、われらの母です。
新共同他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。
NIVBut the Jerusalem that is above is free, and she is our mother.
註解: 文法上は前節末尾を受け、思想上は24節の「一つの契約」と相対応す。すなわち今一つの契約はキリストより出で自由の子を生む点ににおいてサラに相当し、この自由なるサラは上なるエルサレムに当り、その生む処の市民は自由なる我らキリスト者である。
辞解
[上なるエルサレム] または「天のエルサレム」ヘブ12:22、「新しきエルサレム」黙21:2、「神の都」黙3:12、とも呼び、キリストの再臨によりて実現すべき国をいう、この国は今現にキリスト者の心の中にその一部の実現を持っている故、キリスト者の国籍は天にある(ピリ3:20)、すなわち新しき契約の子は自由なるキリスト者である。

4章27節 (しる)していふ『石女(うまずめ)にして()まぬものよ、(よろこ)べ。(うみ)苦痛(くるしみ)せぬ(もの)よ、(こゑ)をあげて(よば)はれ。獨住(ひとりずみ)(をんな)()(おほ)し、(をっと)ある(もの)()よりも(おほ)し』とあり。[引照]

口語訳すなわち、こう書いてある、「喜べ、不妊の女よ。声をあげて喜べ、産みの苦しみを知らない女よ。ひとり者となっている女は多くの子を産み、その数は、夫ある女の子らよりも多い」。
塚本訳というのは、(聖書に)こう書いてある。──“喜べ、産まぬ石女よ、歓呼せよ、さけべよ、産みの苦しみせぬ者。そは孤独なる女の子は多いからである、夫をもつ女の子よりも。”
前田訳聖書にいわく、「よろこべ、子なしの産まず女、歓呼して叫べ、陣痛を知らぬものよ。ひとりものは夫のあるものより多く子を得よう」と。
新共同なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ、/産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、/多くの子を産むから。」
NIVFor it is written: "Be glad, O barren woman, who bears no children; break forth and cry aloud, you who have no labor pains; because more are the children of the desolate woman than of her who has a husband."
註解: イザ54:1の七十人訳よりの引用で、原箇所はエホバに棄てられ、廃墟に帰し、住む人なきエルサレム(市邑は女性として表わさる)がやがて神の恩恵によりて恢復せられ、(さき)にエホバの花嫁たりし時代よりも一層大なる繁栄を得るに至るであろうことの慰めに満てる預言である。パウロはこれをユダヤ教とキリスト教との関係に応用し、上なるエルサレムはサラのごとく今までは子を生まざる石女(うまずめ)であり産の苦痛をしなかったけれども、その子はやがてエホバを夫とするユダヤ教、今のエルサレム、ハガルの子よりも数多きに至るであろう。この上なるエルサレムを母とする約束の子らは希望に満てる幸いなる者であることを示している。
辞解
[獨住(ひとりずみ)の] erêmos は「夫に棄てられし」の意であるけれども、ここでは子なかりしサラを連想せしめ約束の子を生むべき母に当たる。
[夫ある者] 一時アブラハムの寵を得しハガルを連想せしめ、律法の下に奴隷たるユダヤ人を生むべき母に相当する。

4章28節 兄弟(きゃうだい)よ、なんぢらはイサクのごとく約束(やくそく)()なり。[引照]

口語訳兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。
塚本訳兄弟たちよ、(今のエルサレムに属しない)あなた達は(、ハガルの子ではなくして、サラの子)イサクと同じく、約束の(言葉によって生まれた)子である。
前田訳兄弟よ、あなた方はイサクのように約束の子です。
新共同ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。
NIVNow you, brothers, like Isaac, are children of promise.
註解: キリスト者はイスラエルのごとく肉によりて生れたものではなく霊によりて生れたのである、ゆえにサラのごとく肉に絶望せる後約束により神の力によって生れた約束の子である。本節は次節を引き出さんがために記さる。

4章29節 (しか)るに()(とき)(にく)によりて(うま)れし(もの)御靈(みたま)によりて(うま)れし(もの)()めしごとく、(いま)なほ(しか)り。[引照]

口語訳しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である。
塚本訳しかしその時、肉によって生まれた者(イシマエル)が御霊によって生まれた者(イサク)を迫害したように、今も同じである。(地上のエルサレムの子らが天のエルサレムの子らを迫害する。)
前田訳そのころ肉によって生まれたものが霊によって生まれたものを迫害したように、今もそうです。
新共同けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。
NIVAt that time the son born in the ordinary way persecuted the son born by the power of the Spirit. It is the same now.
註解: パウロはいたずらに譬喩を(もてあそ)んでいるのではなく、彼の眼中には現実の問題が生きていた、ユダヤ人およびユダヤ主義の偽教師に迫害せられているキリスト者を励まし、かつ慰むることが本書簡の重要な目的であってここにもそのことに言及している。これあたかも昔イシマエルがイサクを迫害したのと同様であった。ただし創21:9には「迫害」のことが録されていない、パウロは伝説によって録したものであろう。

4章30節 されど聖書(せいしょ)(なに)()へるか『婢女(はしため)とその()とを()ひいだせ、婢女(はしため)()自主(じしゅ)(をんな)()(とも)(わざ)()ぐべからず』とあり。[引照]

口語訳しかし、聖書はなんと言っているか。「女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない」とある。
塚本訳しかし聖書はなんと言うか。“女奴隷とその息子とを追出せ。女奴隷の息子は決して”自由の女の“息子と一緒に相続すべきではないから”。
前田訳しかし聖書は何といいましょう。「女奴隷とその子を追え。女奴隷の子は自由の女の子とともに相続してはならない」と。
新共同しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。
NIVBut what does the Scripture say? "Get rid of the slave woman and her son, for the slave woman's son will never share in the inheritance with the free woman's son."
註解: 迫害恐れるに足りない、何となれば聖書に(創21:10)いうごとくに旧き契約、すなわち律法の子は婢女(はしため)の子と同じくやがては神の家より放逐せられて世嗣となることができず、唯恩恵による約束に基ける子すなわちキリスト者のみが嗣業を継ぐことができるからである。従ってキリスト者とその福音に迫害するユダヤ人、ユダヤ主義のキリスト者はやがて神の国より逐い出されるに至るであろう。パウロがこの時代においてすでにこのことを断言したことは偉大なる信仰と先見とによるのである。

4章31節 されば兄弟(きゃうだい)よ、われらは婢女(はしため)()ならず、自主(じしゅ)(をんな)()なり。[引照]

口語訳だから、兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのである。
塚本訳このゆえに、兄弟たちよ、わたし達は女奴隷の子でなく、自由の女の子である。
前田訳それゆえ、兄弟よ、われらは女奴隷の子ではなく自由の女の子です。
新共同要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。
NIVTherefore, brothers, we are not children of the slave woman, but of the free woman.
註解: モーセの律法に属せず、その他あらゆる律法の奴隷でなく、自主の女の約束の子、すなわちキリストの教会の子である。故に律法の下にあらんことを願うごときは、自己の身分を(わきま)えざる大なる誤りである。本節は第5章1節と共に21節以下の結論を構成していると見ることが最も適当である。
要義 [律法主義の終局]パウロの当時においてはキリスト教は未だ萌芽の時代であり、ユダヤ教の律法主義が最優勢であった。故にユダヤ人および律法主義者が多くの勢力を有っていたことは当然である。この際に当りてパウロが律法をもって奴隷に譬え、キリスト者としての自由を主張し、而して律法とその奴隷たる子らの末路は唯滅亡あることを預言したことは実に大胆なる断言であると言わなければならない。「この宣言の中に含まれる確信の力と預言的観察力の深さとはほとんど量り知ることができない。キリスト教国の過半が狂気に近き熱心をもってモーセの律法に固執しており、またユダヤ主義の一派が益々勢力を得つつあるがごとくに見え、かつその力はパウロの建設せる異邦人の教会においてすら彼の感化を覆えし、彼の生命を危険に陥れるに充分であったかのごとくに見えしその当時においてパウロは確信をもってユダヤ主義の吊の鐘を鳴らしていたのである」(L3)。真の福音に純粋の心をもって、堅く立つ者は、凡ての迷信より脱出することができ、多数の人々とその誤謬を共にすることを免れることができる。
附記 [比喩的解釈について]比喩 allêgoria は「他の事を言う」意味で、文言の表面の意味以外に他に何事かを言う場合を指す。故に聖書の比喩的解釈とは例えば上掲サラとハガルの場合のごとく史実そのものの外に二つの契約をも意味すると解するがごときすなわちそれである。この解釈法は聖書の中にも多く存在しており、ヨハネ伝にもキリストの死を過越の小羊の屠殺と見るごとき、またシロアムの池の奇蹟の説明(ヨハ9:7)のごときであり、パウロもしばしばこの種の解釈を応用した(Tコリ10:1−11。エペ5:22−33。Tコリ9:9以下、Uコリ3:13以下)。またヘブル書におけるメルキゼデクまたは祭事の解釈のごときも幾分がこの種の解釈をも加味しているとみるべきである。フイロンも旧約聖書に対し多くこの種の解釈を用い、当時のラビもその後の教父も旧約聖書に対して多くこの比喩的解釈法を用いた。後世に至りてあまりこれを濫用せる結果、無用の牽強付会(けんきょうふかい)と不真面目なる曲解とを生ずるにいたり、その結果精確を旨とする今日の科学的研究法は全くかかる解釈法を排斥している。しかしながら比喩的解釈法は全然排斥すべきものではない。唯歴史上の事実、神の定め給える制度、自然界の事象等の奥底に当然に又本質的に含有せらるべき霊的真理に限りこの比喩的解釈法を応用せらるべきであろう。その他神が特にある霊的真理を示さんがために創造し給えりと見るべき出来事(キリストの死が過越の祭の初日に相当せるがごとき)には勿論この比喩的解釈を用うべきである。唯注意すべきことは比喩的解釈はその示さんとする霊的真理の真実たる証拠ではなく、唯その真実さを助勢するに過ぎないということである。故にこれがなくとも霊的真理そのものの真実さに欠点があるわけではない。

ガラテヤ書第5章
2-4-ロ 信仰は人を律法(割礼)より自由にす 5:1 - 5:12  

5章1節 キリストは自由(じいう)()させん(ため)(われ)らを()(はな)ちたまへり。されば(かた)()ちて(ふたた)奴隷(どれい)(くびき)(つな)がるな。[引照]

口語訳自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。
塚本訳自由を与えるためにキリストはわたし達を自由にされた。だからしっかり立って、二度と奴隷の軛につながれるな。
前田訳自由へとキリストがわれらを解放されたのです。それゆえ堅く立って二度と奴隷の軛を負わないでください。
新共同この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
NIVIt is for freedom that Christ has set us free. Stand firm, then, and do not let yourselves be burdened again by a yoke of slavery.
註解: 前章末節を受けてキリストにある自由に確立することを薦め、さらに次節以下の薦奨の前提を提出している。キリストの十字架の死によりて、我らは律法(異邦人にとってはその道徳または種々の小学的規律形式)の束縛とその詛いとより解放され自由となり自主独立となった。この自由はキリストの死を必要とする重要なる賜物である。故に今さら再びユダヤ主義の律法やその他の小学に束縛され、その奴隷となってはならない。
辞解
「自由」と前節の「自主」とは同語 eleutheria 「解き放つ」はその動詞形。

5章2節 ()よ、(われ)パウロ(なんぢ)らに()ふ、[引照]

口語訳見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。
塚本訳見よ、このパウロがあなた達に言う、もし割礼を受けるなら、キリストはあなた達に何の役にも立たない。
前田訳はっきりとわたしパウロが申します。割礼をお受けになるならばキリストはあなた方になんにも役だちますまい。
新共同ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
NIVMark my words! I, Paul, tell you that if you let yourselves be circumcised, Christ will be of no value to you at all.
註解: パウロはここに特別に読者の注意を喚起してこの注意を与えている。
辞解
[視よ] 単数で一人一人に命令する形。
[我パウロ] 使徒の権威をもってこれを言う。

もし割禮(かつれい)()けば、キリストは(なんぢ)らに(えき)なし。

註解: 異邦人でありながら割礼を受け、これによりて辛うじて義とされようとするならばそれはキリストを全く無用のものとしてしまうこととなるのである。今日でも十字架の贖い以外に制度礼典などを救いの条件とする者は結局キリストを無用視し排斥している結果となる。
辞解
[益なし] 未来動詞形でキリストの贖いによりて義とせられて救われる恩恵に与ることが将来できないであろうとの意味。

5章3節 (また)さらに(すべ)割禮(かつれい)()くる(ひと)(あかし)す、かれは律法(おきて)全體(ぜんたい)(おこな)ふべき負債(おひめ)あり。[引照]

口語訳割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。
塚本訳割礼を受けるすべての人にもう一度はっきり言う。その人は律法の全体を行なう義務がある。
前田訳すべて割礼を受ける人にもう一度証言しますが、その人は律法全体を行なう義務があります。
新共同割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。
NIVAgain I declare to every man who lets himself be circumcised that he is obligated to obey the whole law.
註解: パウロは言う「次に私は再び繰返して単にガラテヤ人のみならず割礼を受ける凡ての人に対して証言する。そうした人は、律法によって義とされようと思う人々であり、従って律法の全体を欠ける処なく行う義務がある(ガラ3:10)。そしてこれはだれも成し遂げることができない」。そう言って割礼を受けることによって義とされようとする者の反省を促している。ここに律法と福音の絶対的対立を明らかにしているのであって、今日もこの区別を明らかにしなければ遂に福音の福音たる所以を失うに至るであろう。
辞解
[さらに] 「再び」でこれは2節の「言ふ」に対する「再び」で(L3)前回の訪問の際の言に対する「再び」(M0)ではない。
[割礼を受くる者] 異邦人にして割礼を受けず単にユダヤの宗教に賛成する者は「門の改宗者」proselytes of the gate といい、割礼を受けてユダヤ教に入った者は「義の改宗者」proselytes of righteousness と呼ばれ、前者は律法の一部を守る義務があり、後者は律法の凡てを守る義務があった。

5章4節 律法(おきて)()りて()とせら[れんと(おも)ふ](なんぢ)らは、キリストより(はな)れたり、恩惠(めぐみ)より()ちたり。[引照]

口語訳律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。
塚本訳律法によって義とされようとするあなた達は、実はキリストから離れ、恩恵から落ちているのである。
前田訳律法によって義とされようとするあなた方はキリストと断絶し、恩恵から落ちています。
新共同律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
NIVYou who are trying to be justified by law have been alienated from Christ; you have fallen away from grace.
註解: 律法によって義とされることとキリストの恩恵により信仰によって義とされることとは全く相容れない対立関係に立っている。前者は自己の義の上に立ち、後者はキリストの贖いの上に立つ、人もし律法により自己の義の上に立とうとするならばもはやキリストとは無関係であり、恩恵の世界、救いの世界から堕落して滅亡の世界に落ち込んでいるのである。パウロのごとく徹底的に律法の凡てを遵守し、これによりて義とせられんとする者はこの苦痛を味わうことができる。行為と信仰とが対立して相容れないという意味ではなく、行為によりて義とせられんとすることと信仰によりて義とせられんとすることとが相容れなのである。この点においてカトリック教会は勿論今日は多くのプロテスタント教会も恩恵と唱えて実は恩恵を排斥し恩恵から堕ちている。
辞解
[義とせられんと思ふ] 原語「義とされる」で、意味は「自分で義とされると思っていること」。

5章5節 (われ)らは御靈(みたま)により、信仰(しんかう)によりて希望(のぞみ)をいだき、()とせらるることを()てるなり。[引照]

口語訳わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。
塚本訳(キリストを信ずる)わたし達は、御霊によって、信仰により、(最後の日に)義とされる希望をもって待っているからである。
前田訳われらは信仰による霊によって義とされることを待望しています。
新共同わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
NIVBut by faith we eagerly await through the Spirit the righteousness for which we hope.
註解: 適訳にあらず。直訳すれば「そは我らは御霊により信仰に由りて義の望みを待てばなり」となる。我らは肉によらずして御霊に導かれ、律法の行為によらずして信仰によりて、「義の希望(のぞみ)」すなわち我らの望みなる義の世界(Uペテ3:13)を待っている。前節のごとく「汝らは」キリストより離れて滅亡に入り、「我ら」は義とせられて我らの望む処のもの、すなわち義を完全に与えられるに至るであろう、我らはこれを待ち望んでいるのである。
辞解
[義の希望] elpis dikaiosunês は(1)正義が要求する処の希望、(2)正義(すなわち義とせられんこと)を望む希望、(3)義の希望すなわち希望せられたる正義の状態、正義の国など種々に解することができる。改訳は(2)を取り(A1、M0)、予は(3)を取った(Z0)。
[待つ] apekdechomai は未来の希望に関して用いられる場合が多い。(ロマ8:19ロマ8:23ロマ8:25Tコリ1:7ピリ3:20)この点より見るも(3)が適当であろう。

5章6節 キリスト・イエスに()りては、割禮(かつれい)()くるも割禮(かつれい)()けぬも(えき)なく、ただ(あい)()りてはたらく信仰(しんかう)のみ(えき)あり。[引照]

口語訳キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。
塚本訳キリスト・イエスを信ずる者においては、割礼があるのも、割礼がないのも、なんの価値もない。ただ信仰(、信仰だけ)が愛によって働くのだから。
前田訳キリスト・イエスにあって価値があるのは、割礼でも無割礼でもなく、愛によって働く信仰です。
新共同キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
NIVFor in Christ Jesus neither circumcision nor uncircumcision has any value. The only thing that counts is faith expressing itself through love.
註解: イエス・キリストに在る者にとりては割礼を受けるごとき形式的のことは何の役にも立たない。さらばといって反対に割礼を受けないということも敢て誇るべき理由とはならない。要するにこれらの形式的の事柄はキリストに在る者すなわちキリスト者にとりて第二義以下の問題である。唯必要なことは信仰であってしかも愛によりて働く活ける信仰である。キリストを信ずる信仰は活きて働く信仰でなければならない。そうして信仰が働く時は愛をもってすることを要する。義とされる信仰はかかる信仰であってヤコブのいわゆる「死ぬる信仰」ではない。また本節の愛はカトリック教会の解釈のごとく義とされる一要件として信仰と相並立または相補足すべきものではなく、または信仰を起す原因でもない。(なおヤコ2:14−26註および要義参照)なお前節と本節においてパウロが信望愛の鼎足(ていそく)的真理を述べていることに注意せよ。

5章7節 なんぢら(まへ)には()(はし)りたるに、(たれ)(なんぢ)らの眞理(まこと)(したが)ふを(はば)みしか。[引照]

口語訳あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか。
塚本訳あなた達は(あんなに)よく走り出したのに、だれが邪魔をして真理に従わせなかったのか。
前田訳お働きはりっぱでした。だれがあなた方の邪魔をして真理に従わないようにしたのですか。
新共同あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。
NIVYou were running a good race. Who cut in on you and kept you from obeying the truth?
註解: ガラテヤの信徒はその信仰の生涯において立派に振舞っていた。今に至って恩恵により信仰によりて義とされる真理に従うことを何人が妨害するのであるか、かくいいてパウロはガラテヤ人の始めの信仰の熱心を回顧して彼らを迷わす偽教師らに対する満腔(まんこう)憤懣(ふんまん)を吐いている。
辞解
[走る] パウロは競技用語をよく信仰の生涯に応用している(ガラ2:2引照を見よ)。

5章8節 かかる(すすめ)(なんぢ)らを()したまふ(もの)より()づるにあらず。[引照]

口語訳そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから出たものではない。
塚本訳(真理に従わせなかった)あの忠告は、あなた達を召されたお方[神]から(出たの)ではない。
前田訳そんな説得はあなた方をお召しの方からのものではありません。
新共同このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。
NIVThat kind of persuasion does not come from the one who calls you.
註解: 前節の真理に従わざらしめんとする説得「勧め」はたといいかに美わしく見え、道理あるごとくであっても決して神から出たものではなく、神の恩恵を理解せずキリストより離れ、神より離れし人の利己心や党派心から出て来るものである。
辞解
[(すすめ)] peismonê は前節に「従う」と訳せし peithô と同源語で、(1)他人を説服すること(M0)、(2)自分が説服されること(L3)の二義を有する。本節の場合(1)を可とする。すなわち偽教師らのガラテヤ人に対して行う口説きというごとき意。

5章9節 (すこ)しのパン(だね)(こな)團塊(かたまり)をみな(ふく)れしむ。[引照]

口語訳少しのパン種でも、粉のかたまり全体をふくらませる。
塚本訳(注意せよ。)すこしのパン種が捏粉全体を醗酵させる。
前田訳少しのパン種がねり粉全体をふくらします。
新共同わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。
NIV"A little yeast works through the whole batch of dough."
註解: Tコリ5:6註参照、聖書を通じてパン種は悪の表徴である。この場合偽教師を指すか、その教えを指すかにつきて二説あり。この二者のいずれか一方に決定して他を排するの必要はない。いずれにしてもその教師の数は少なくその教の勢力は目下のところ微弱であっても、悪の力は恐るべき伝播力を有し、いつの間にか全団塊にその影響を及ぼすものゆえに警戒を要する。

5章10節 われ(なんぢ)らに()きては、その(いささ)かも異念(いねん)(いだ)かぬことを(しゅ)によりて(しん)ず。されど(なんぢ)らを(みだ)(もの)は、(たれ)にもあれ審判(さばき)()けん。[引照]

口語訳あなたがたはいささかもわたしと違った思いをいだくことはないと、主にあって信頼している。しかし、あなたがたを動揺させている者は、それがだれであろうと、さばきを受けるであろう。
塚本訳わたしは(もちろん)主にあってあなた達を信用している、あなた達がなんら(わたしと)ちがった考えを持っていないことを。しかしあなた達を騒がせる者は、それがだれであろうとも、(神の)裁きを受ける。
前田訳わたしは主にあってあなた方を信頼します。あなた方のお考えは別のものにはなりますまい。あなた方を乱すものは、それがだれにせよ、裁きを受けましょう。
新共同あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。
NIVI am confident in the Lord that you will take no other view. The one who is throwing you into confusion will pay the penalty, whoever he may be.
註解: パウロはガラテヤの人々がこの書簡を読むならばパウロと同じ考えを持つに至るであろうことを疑わなかった。唯彼らの純真なる信仰を(みだ)す偽教師らは神の審判を免れることができない。たとい彼らはペテロであろうがエルサレムの母教会員であろうが、主イエスを直接に拝した人々であろうがそんなことは問題ではない。
辞解
[異念を懐かぬ] 未来動詞でこの書簡を読む場合のガラテヤ人の心持を指す。
[信ず] peithô で7節の「従う」と同語、以前より信じ来って今に至るとの意、何々に相違なしと思うこと。
[受けん] 「負うであろう」で神の審判を重荷のごとく荷負わされること。

5章11節 兄弟(きゃうだい)よ、(われ)もし(いま)割禮(かつれい)宣傳(のべつた)へば、(なに)ぞなほ迫害(はくがい)せられんや。もし(しか)せば十字架(じふじか)顚躓(つまづき)()みしならん。[引照]

口語訳兄弟たちよ。わたしがもし今でも割礼を宣べ伝えていたら、どうして、いまなお迫害されるはずがあろうか。そうしていたら、十字架のつまずきは、なくなっているであろう。
塚本訳兄弟たちよ、(わたしが割礼を説いていると悪口を言う者があるとか。冗談も休み休みにせよ。)わたしが(今も)なお割礼(の必要)を説いているならば、なんでなおも(こんなに)迫害されようか。それこそ十字架の(福音に対するユダヤ人の)躓きも、なくなったであろう。
前田訳兄弟よ、もしわたしが相変わらず割礼をのべ伝えているなら、なぜ今も迫害されるものですか。いずれにせよ、十字架のつまずきはなくなるでしょう。
新共同兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。
NIVBrothers, if I am still preaching circumcision, why am I still being persecuted? In that case the offense of the cross has been abolished.
註解: 偽教師らは迫害をも受けず、十字架の顚躓(つまづき)もなくいかにも正しき教理を教えるもののごとくに振舞い、これに反しパウロは迫害を受け、その十字架の福音には多くの人が躓く、パウロは何も自ら好んでかかる運命に自己を置いたのではない、十字架の福音の真理を擁護しキリストの死をして空に帰せざらしめんがために無割礼を宣伝えたからである。もしパウロがキリストを見出した今もなお割礼を宣伝えているならば迫害もせられずその十字架の福音(真の福音ではないが)は多くの人を引付けたであろう。パウロが割礼に反対せるはこれらのあらゆる犠牲をもってしてもこれを為す必要があったからである。
辞解
[今も] 今なお eti はパウロが今より以前に(或は回心以前に)割礼を宣伝えたことがあったと解する説と、あるいはパウロ反対者らの中にパウロがテモテに割礼を施したることを知りて(使16:3)「パウロは今もなお割礼を宣伝う」と唱うる者があったことをパウロが引用して「もし彼らのいうごとく、実際今もなお割礼を宣伝うるならば、迫害はないはずである。迫害があるのは実際宣伝えない証拠である」と主張したものと解する説とがあり大多数の学者は後者による。予はむしろ「十字架の福音を信じ、割礼が無用に帰したる今に至ってもなお」の意味と解し、以前に割礼を宣伝えしことの有無は考慮の中に入れる必要なしと思う。
[十字架の顚躓(つまづき)] 十字架の福音は常に愚に見え多くの人の躓きとなる(Tコリ1:18Tコリ1:23)。

5章12節 (ねが)はくは(なんぢ)らを(みだ)(もの)どもの自己(みづから)不具(ふぐ)にせんことを。[引照]

口語訳あなたがたの煽動者どもは、自ら不具になるがよかろう。
塚本訳(割礼々々と言って)あなた達をひっかき回しているあの連中は、(いっそのこと)自分で切り取ったらよかろう!
前田訳あなた方をそそのかすものはいっそ自らを切除したらよいでしょう。
新共同あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。
NIVAs for those agitators, I wish they would go the whole way and emasculate themselves!
註解: 原文の心持は「汝らを撹乱する連中は一層のこと〔割礼位で止まらず〕その男茎を切断したらよかろうに」との意。パウロの鋭き皮肉がここに表われている。彼らは要するに無益なことに力瘤(ちからこぶ)を入れているのであって、もし割礼がそれほど大切なものならば一層のことみな切ってしまったらよさそうなものではないか、というのがパウロの彼らに対する皮肉なる覚醒の警鐘である。
辞解
[乱す] anastatoô は10節の「(みだ)す」tarassô よりも一層強き語。
[不具にする] apokoptô は「玉莖(ぎょっけい)を切る」こと(申23:2)。なおこれを「教会より放逐せられんことを」「団体より除斥せられんことを」等の意味に取る人があり、かく解することも不可能にあらずとするも本節の場合は不適当である。
要義1 [信仰とは何物もこれに附加することを要せず]十字架の福音に対する信仰のみにては不完全であり、これに割礼を加うることを要すと唱えたのが偽教師らの主張であった。パウロは割礼そのものを排斥しなかったことは自らテモテに割礼を施ししことをもってこれを知ることができる(使16:3)。故に一歩進んで、もしこれを救いの一条件とするならば、彼はさらに容易に多くのユダヤ人を自説に引入れ、また迫害を免れることができたであろう。然るに彼は極力これを排斥した。その故は我らの救いは信仰のみによるのであってキリストの十字架の贖いをもって完全に成就せられ、他に何物をもこれに附加することを要しなかったのみならず、もしこれを要すとするならば十字架の贖いは結局無用に帰すると同じ結果となるからである。この一見小なるがごとくに見ゆる問題が実は福音の正邪の分岐点であった。「凡てか無か」十字架の贖いもこのいずれかでなければならない。今日も信仰のみによりて義とされることの教義の重要さを知らず、これに種々の儀式礼典制度組織行為などを附加せんとする者あるはガラテヤにおける偽教師の類に過ぎない。
要義2 [愛によりて働く信仰]信仰のみによりて義とされることは愛を無価値のものとすることではない。パウロは信望愛の三者の中、愛を最大のものとして讃美している(Tコリ13章)。ただ、もし我らが愛によりて神の前に義とされることとなるならば、我らは永遠に絶望の中にいなければならないことは確かである。故に神は別に救いの道を建て給い、これを人間に告示し給う、罪ある人間は唯これを信受するをもって足るのである。愛の大小有無は問題ではない。しかしながら信仰は愛の神に対する絶対の信頼であり、かつ活ける信仰である以上、愛の神に対する信仰はもしそれが真の信仰であるならばやがて神の愛をもって人を愛する愛となるのであって、これすなわちに愛によりて働く信仰である。かかる信仰こそ真の信仰であって人を神の前に義たらしむる処のものである。愛によりて働かない信仰は実は信仰ではない。

分類
3 行為の部 5:13 - 6:17
3-1 霊肉の戦 5:13 - 5:26
3-1-イ 愛と自由 5:13 - 5:15  

5章13節 兄弟(きゃうだい)よ、(なんぢ)らの()されたるは自由(じいう)(あた)へられん(ため)なり。ただ()自由(じいう)(にく)(したが)機會(をり)となさず、(かへ)つて(あい)をもて(たがひ)(つか)へよ。[引照]

口語訳兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。
塚本訳兄弟たちよ、あなた達は自由のために(神から)召されたのである。ただこの自由を(濫用して)肉を満足させる機会としてはならない。むしろ愛によって互に奴隷として仕えるべきである。
前田訳あなた方は自由へと召されたのです。兄弟よ、ただ、その自由を欲望へのきっかけとせず、愛によって互いにお仕えなさい。
新共同兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
NIVYou, my brothers, were called to be free. But do not use your freedom to indulge the sinful nature ; rather, serve one another in love.
註解: 8節にもいえるごとく神は汝らを律法の束縛とその詛いの下に苦しませんとて汝らを召したのではない、最も喜ばしき自由を与えんためであった。ただしこの自由は霊の自由であって肉の自由ではない。ゆえに我らはこの自由をもって肉慾を(ほしいまま)にするの自由となすべきではない。かえってこの自由により愛をもって自己を凡ての人の奴隷とすべきである。かくして信仰による自由と愛による奉仕の奴隷的生活とが渾然(こんぜん)として一つとなるのである。
辞解
[(つか)ふ] 奴隷として働くというごとき文字で自由の反対である。

5章14節 [それ](そは)律法(おきて)全體(ぜんたい)は『おのれの(ごと)くなんぢの(となり)(あい)すべし』との一言(いちげん)にて(まった)うせらる[る](れば)なり。[引照]

口語訳律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
塚本訳(もしあなた達がたがいに愛するならば、律法を守らずして、実は律法を完成することができる。)というのは、律法全体は一言で成就するからである、すなわち、“隣の人を自分のように愛せよ”。
前田訳律法全体が、「隣びとを自らのごとく愛せよ」のひと言に尽きるからです。
新共同律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
NIVThe entire law is summed up in a single command: "Love your neighbor as yourself."
註解: 割礼のごときはたといこれを行っても律法の一部を全うするに過ぎない。然るにもし前節のごとく愛をもって互いに仕えるならばそれは、律法全体を全うすることとなるのである(マタ22:40ロマ13:8ロマ13:10)。換言すればレビ19:18より引用せるこの聖句一つによりて律法全体が全うされるが故に、割礼のごとき小事に拘泥せず、信仰による自由をもって隣人を愛すべきである。
辞解
[律法の全体] 単に隣人を愛することのみにていかにして全うされるのかとの疑問に対し、「律法の全体」をその中の道徳律、または十誡の第二の石版等に限ることによりて説明し去らんとする説があるけれども不適当である。パウロは必ずしも量的精確さをもって、本節を記したのではなく愛そのものの絶対の価値を意識しつつ上記の引用を為したのであって彼の心中には勿論神に対する愛をも含んでいたものと見るべきである。儀式その他律法の外形を破っても愛の行為さえあれば凡て全うせられしものと見ることができる。

5章15節 (こころ)せよ、()(たがひ)()(くら)はば(あひ)(とも)(ほろぼ)されん。[引照]

口語訳気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。
塚本訳しかし、もし(愛をわすれて、)互にかみ合い、食い合っているならば、共倒れにならないように気をつけよ。
前田訳互いに噛み合い、食い合うならば、ご注意なさい、互いに滅ぼしてしまいます。
新共同だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。
NIVIf you keep on biting and devouring each other, watch out or you will be destroyed by each other.
註解: パウロが前二節において愛を強調せし所以は本節よりこれを悟ることができる。すなわち偽教師の侵入によりガラテヤの教会内には分離反嚙(はんばく)が起りつつあった。もしこの状態が悪化するならば遂には互いに喰い尽されてしまうであろう、パウロはかかる状態を免れしめんがために愛をもって互いに仕うべきことを教えたのである。
辞解
[咬み、食う] 共に野獣の行動。
[若し・・・・・・はば] 原文文法上事実を指しており「互に咬み食ふ以上は」の意。本節は「汝ら互に咬み食ふ以上は、互に喰い尽くされざるように心せよ」と訳すべきで甚だ強き警戒である。
要義 [霊の自由とその危険]律法主義、道徳主義によりて圧迫せられ、これを完うせんとして能わざる苦悩の中より、福音によりて救い出され、霊の自由を獲得せる者は、一時に自由の天地に出されし歓喜のために往々にしてその自由を肉の放縦(ほうじゅう)(ほしいまま)にすべき機会に悪用して無律法主義に陥るの危険がある。かくして福音を受くる以前には陥ることがなかった不道徳に陥ることが往々ある。これ自由の濫用、または自由の行き過ぎであって、我らは深くこれを慎まなければならない。そしてこれを防ぐ法は再び律法の束縛に逆戻りすることではなく、愛をもって自己を凡ての人の奴隷となし愛をもって肉を束縛することである。この束縛は悦ばしき束縛であり自由なる束縛である。

3-1-ロ 霊と肉 5:16 - 5:26  

5章16節 (われ)いふ、御靈(みたま)によりて(あゆ)め、さらば(にく)(よく)()げざるべし。[引照]

口語訳わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
塚本訳わたしの意味はこうである。──霊によって歩け。そうすれば肉の欲を満たすことがないであろう。
前田訳わたしがいいたいのは、霊によってお歩きならば肉の欲をとげないですむということです。
新共同わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
NIVSo I say, live by the Spirit, and you will not gratify the desires of the sinful nature.
註解: 信仰により律法よりの自由を獲得せる者にとりて最も必要なる注意は聖霊の導きに従って歩むことである。自由は往々にして肉の自由に変化しやすい危険があり、これを防ぐためには唯聖霊に従うの一途あるのみ。

5章17節 (にく)(のぞ)むところは御靈(みたま)にさからひ、御靈(みたま)の[(のぞ)むところ]は(にく)にさからひて(たがひ)(あひ)(もど)ればなり。これ(なんぢ)らの(ほっ)する(ところ)をなし[()]ざらしめん(ため)なり。[引照]

口語訳なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
塚本訳なぜなら肉の欲するところは霊に反し、霊は肉に反する。二つは互にさからうものであって、(肉の体をもつ)あなた達は、したいと思うことを、することができないからである。
前田訳肉は霊に逆らって欲求し、霊は肉に逆らいます。これらが互いに相争っているので、あなた方が欲することができないのです。
新共同肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
NIVFor the sinful nature desires what is contrary to the Spirit, and the Spirit what is contrary to the sinful nature. They are in conflict with each other, so that you do not do what you want.
註解: 肉は性来(うまれつき)の人間の精神および肉体、御霊は新生せる人に宿る聖霊で、この二者が心の中にありて互いに相争っているのがキリスト者の状態である。これ我らが自己の欲するままを為すことなく、御霊に従って歩まんがためである。信仰生活は聖霊に従って歩む生活すなわち己の欲する処によらず聖霊の欲し給うままを行う生活に外ならない。
辞解
[これ汝らの・・・・・・] 「これ汝らの・・・・・・」以下を「その結果汝らの欲する処を為すこと得ず」と読み(B1、C1、L3)、肉に妨げられて霊の要求を満たすことができないこと(C1)または霊も肉も双方とも思う通りにできないこと(B1)との意味に取る説があるけれども主格は「汝ら」なる故この解釈は当らない。ゆえにパウロの言わんとする要点はこの霊と肉との戦いに際して我らの取るべき態度は「我ら」の欲する処を為すにあらずして「御霊」の欲する処を「我ら」が為すようにしなければならないことである。かく解して前節との関係が明瞭となる。
[望む] epithumeô は前節の「慾」epithumia と同源語。

5章18節 (なんぢ)()もし御靈(みたま)(みちび)かれなば、律法(おきて)(した)にあらじ。[引照]

口語訳もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。
塚本訳しかしもしあなた達が霊に導かれているならば、律法の(支配の)下にはいない。
前田訳しかし、もし霊に導かれるならば、あなた方は律法の下にはいません。
新共同しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
NIVBut if you are led by the Spirit, you are not under law.
註解: 前節のごとく聖霊と肉とが互いに相対立し相争うために自己の欲する処を為し得ずとすれば、いかなる途を取るべきかというにそこに二つの途がある。その一は自己の肉を律法をもって束縛し律法をもって裁くことであり、その二は御霊に導かれることである。この二者も互いに相反しており、前者は人を詛いと奴隷の状態に置き、後者は人をして自由ならしめる。ゆえに御霊に導かれる者はもはや律法の束縛とその詛いの下に立たない。それにもかかわらずかえって律法を完うすることができる。

5章19節 それ(にく)行爲(おこなひ)はあらはなり。[引照]

口語訳肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
塚本訳肉の行いは明らかである。──それは不品行、汚れ、放蕩、
前田訳肉の働きは明白です。それらは不義、不潔、ふしだら、
新共同肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
NIVThe acts of the sinful nature are obvious: sexual immorality, impurity and debauchery;
註解: 肉の行為は外部に明瞭に表われる。これによりてその人が霊に従わず、肉に従うことを知ることができる。淫行以下十五の罪はこれを大略四種に区別することができる。パウロは勿論明瞭なる系統的排列をしたわけではない、唯彼の心理的秩序が適当の系統を生み出したのである。「行為」に複数名詞を用い、22節の「果」に単数名詞を用いている。すなわち肉の行為は一つの根本的原理より出でず、肉の諸種の慾望より出づるがゆえにその結果もまた複数を適当とし、霊の果は御霊が単数でそれより生ずる果も渾然たる一つの体系であるゆえ単数を用う。

(すなは)淫行(いんかう)汚穢(けがれ)好色(かうしょく)

註解: これらは第一種の罪で自己と他人とを共に(そこな))う色欲の罪である。当時の異邦の社会においてこの種の性的罪悪は殊にこれを戒むる必要があった。

5章20節 偶像(ぐうざう)崇拜(すうはい)呪術(まじわざ)[引照]

口語訳偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
塚本訳偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、激怒、我利、仲違い、党派心、
前田訳偶像崇拝、魔術、敵意、争い、妬み、怒り、我欲、不和、分派、
新共同偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
NIVidolatry and witchcraft; hatred, discord, jealousy, fits of rage, selfish ambition, dissensions, factions
註解: 第二種の罪で神対する反逆の罪である。当時の異教国に殊にこの罪が多かった。

怨恨(うらみ)紛爭(あらそひ)嫉妬(ねたみ)憤恚(いきどほり)徒黨(とたう)分離(ぶんり)異端(いたん)

5章21節 猜忌(そねみ)[引照]

口語訳ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
塚本訳そねみ、酩酊、酒宴等々である。前もって言ったことであるが、(今もう一度)あらかじめ言っておく、こんなことをする者は、神の国を相続することがないであろう。
前田訳そねみ、泥酔、宴楽、その他この類に似たものです。前にもいったことを今も予告します。こんなことをするものは神の国を継ぎません。
新共同ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
NIVand envy; drunkenness, orgies, and the like. I warn you, as I did before, that those who live like this will not inherit the kingdom of God.
註解: 第三種の罪で他人に対する要念すなわち愛に反する心の表れである。この中始めの四種は心の状態をいい、後の四種はそれが表面に行動となって表われし場合を指す。
辞解
[怨恨(うらみ)] echthros は愛の反対の状態。
紛爭(あらそひ) eris はさらに進んで争いに立ち至れる状態。
[嫉妬(ねたみ)] zêlos は相手方の持てるよきものを羨み己もかくのごとくにならんとを望む熱心より他人を(にく)む心。
[憤恚(いきどほり)] thumoi は怒りの爆発せる形、かくして「徒党」を結び、遂に団体生活より「分離」し、進んで「異端」として一派を形成し、遂に「猜忌(そねみ)」心を起して他人の持てるものを奪わんとするに至る。教会生活において最も注意すべきはこの種の高慢より生ずる心の態度である。

醉酒(すゐしゅ)宴樂(えんらく)などの(ごと)し。

註解: 第四種類で人間が自己に対して犯す罪である。自己の肉慾を(ほしいまま)にせんとする者はこの罪に陥る。

(われ)すでに(いまし)めたるごとく、(いま)また(いまし)む。()かることを(おこな)(もの)(かみ)(くに)()ぐことなし。

註解: 以上に列挙するがことき罪を行いつつ悔改めることをしないものは、たとい名はいかにキリスト者であっても神の子と称されることができず、神の国の嗣業に与ることができない。真の自由はかかる状態をいうのではない。
辞解
[行う] prassô を用い常習的に行うことを意味す。肉の弱さのために一時この種の罪に陥ることあるとも悔改むるならば神は彼を赦し給うであろう。
[すでに(いまし)む] 多分第二回訪問の時。

5章22節 されど御靈(みたま)()[引照]

口語訳しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
塚本訳しかし霊の実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善良、忠実、
前田訳霊の実は愛、よろこび、平和、寛容、親切、善意、真実、
新共同これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
NIVBut the fruit of the Spirit is love, joy, peace, patience, kindness, goodness, faithfulness,
註解: 肉には行為(erga 働き)なる語を用いし所以は(19節)それが肉の一時の作用に過ぎずして何ら果を結ぶことなき故であり、御霊には果実(karpos)なる語を用いし所以はそれが御霊の働きの自然の結果であり、それからさらに発育してまた果を結ぶに至るからである。前者が複数で後者が単数なる所以については19節註参照。

(あい)喜悦(よろこび)平和(へいわ)

註解: 愛以下九種の果を三つに区別することができる、第一種は愛(Tコリ13章)を筆頭として霊的の喜悦(Tテサ5:16)およびキリストにある平和(ヨハ14:27)であって、この三者はキリスト者としての最も根本的かつ一般的特性を示すものであり19節、20節の肉の行為の第一種および第二種とは丁度正反対の状態を示している。

寛容(くわんよう)仁慈(なさけ)善良(ぜんりゃう)忠信(ちゅうしん)

5章23節 柔和(にうわ)[引照]

口語訳柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
塚本訳柔和、節制である。これらのものに対しては律法は(力が)ない。
前田訳柔和、自制です。これらに反対する律法はありません。
新共同柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
NIVgentleness and self-control. Against such things there is no law.
註解: これらは第二種の果であって他人に対する愛心の発露である。この中始めの三つは肉の行為の第三種中後の四種に対する正反対の諸徳であり、すなわち他人より受けし反対、迫害、非難、損害に対しては「寛容」をもって対してこれを赦し、反って「仁慈(なさけ)」の心をこれに向け、さらに進んで「善良」すなわち善行をもって彼らに対すること。而して後の二種は肉の行為の第三種中始めの四種すなわち怨恨(うらみ)嫉妬(ねたみ)憤恚(いきどおり)などの反対で「忠信」にして「柔和」なることである。これらが霊の結ぶ貴重なる果実である。

節制(せつせい)なり。

註解: これは第三種とみるべき果実で肉の行為の第四種の正反対である。

()かるものを(きん)ずる律法(おきて)はあらず。

註解: いかなる律法であっても聖霊の結ぶ以上のごとき美果に対して反対でありえない。故に18節のごとく御霊に導かれる者は律法の下に立つことがない、常に律法以上に超越してしかも律法に叶う生活を為すことができ、律法の束縛なく自由なる生活を送りつつ律法の要求を充たすことができる。

5章24節 キリスト・イエスに(ぞく)する(もの)は、(にく)とともに()(じゃう)(よく)とを十字架(じふじか)につけたり。[引照]

口語訳キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
塚本訳キリスト・イエスのものである者は、肉と共に情熱をも欲をも十字架につけてしまった。
前田訳キリスト・イエスの人々はその肉を情と欲もろとも十字架につけたのです。
新共同キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
NIVThose who belong to Christ Jesus have crucified the sinful nature with its passions and desires.
註解: (▲本節の訳は口語訳が正しい。)16節以下の全体の総括であり、またその根本原則である。キリスト者が御霊により歩まざるべからざる理由は、その肉が、彼らの信仰に入りし時に、すでにキリストと共に十字架につけられているのであって(ロマ6:3ロマ6:6)我らの肉はキリストと共に原理として死んでいるのである。従って肉の作用であるその慾(受動的なる激情)もその情(能動的なる諸々の慾)も同時に十字架につけられて死んでいるからである。而してキリスト者はそれ以後はキリストその中に生き御霊によりて彼らを動かし給うのである。この原理を確保してこれを我らの上に実現しなければならない。

5章25節 もし(われ)御靈(みたま)()りて()きなば、御靈(みたま)()りて(あゆ)むべし。[引照]

口語訳もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。
塚本訳もしわたし達が(かく)霊によって生きているのなら、また霊に従おうではないか。
前田訳われらが霊に生きるのなら、霊に歩みましょう。
新共同わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
NIVSince we live by the Spirit, let us keep in step with the Spirit.
註解: 前節の当然の結果として「故にキリスト者は御霊により生くるなり」なる意味が省略せられて本節に連絡し本節より第一人称に変じてパウロ自身をもその中に包含せしめている。即ち御霊によりて生きることがキリスト者の原則であるならばその当然の結果として、また御霊によりて歩むべく、御霊の導きに従って行動しなければならない。然るを肉の思いに従い、世の小学に還りまたは互いに徒党を結ぶならば、それは肉によりて生きるのである。なお本節より見て御霊によりて生くることが原理であり未だ完全に事実とならざることを知る。然らざれば後半は無用のこととなるであろう。パウロは常にこの立場をとる。コロ3:1
辞解
[歩む] stoicheô は16節の「歩む」peripateô と異なり、前者は列を作りて行進すること、後者は単に歩行することを意味する。「歩むべし」は「歩もうではないか」の意。

5章26節 (たがひ)(いど)(たがひ)(ねた)みて、(むな)しき(ほまれ)(もと)むることを()な。[引照]

口語訳互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。
塚本訳たがいに挑発したり、たがいに妬んだりして、虚栄心にかられまいではないか。
前田訳いどみ合い妬み合って偉がりますまい。
新共同うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
NIVLet us not become conceited, provoking and envying each other.
註解: 肉によりて歩むものは強ければ相手方に「挑み」かかり、弱ければ相手方を「妬み」かくして空しき誉れを求めている。偽教師らもこの類であった。ゆえにパウロは15節と相対応してここにも実際上の教訓を与え、ガラテヤの信徒をしてかかる醜き肉の党争に陥ることなきよう警戒を与えている。
辞解
[()な] 主格は「我ら」で「為ぬようにしよう」との意。(注意)26節より新しき章が始まると見る説があるけれども(M0)然らず、むしろ13節以下の結論をガラテヤ教会の実情に適せしめたものであう。
要義1 [霊と肉との相反]肉とはいわゆる肉慾(色慾食慾等の)のみならず性来(うまれつき)の人間に付随せる旧き人の総称であり、霊は新たに生れしキリストに就ける人の称呼である。この二者は常に相反する立場に立っておりこの二者の間に調和はありえない。肉はその情と慾と共にこれを十字架につけるより外に途なく肉そのものを潔めることはできない。霊は肉の進化または浄化せるものにあらずして天よりの新しい生命である。キリスト者はこの新しい生命を旧き肉の中に宿したものである。キリスト者の心中にはこの二者が相反して戦っている。それゆえに自己の欲することをなすならば我らは肉に従って生くる場合が多いであろう。我らは「霊によりて体の行為を殺し」(ロマ8:13)、御霊によりて生き、御霊によりて歩まなければならない。
要義2 [原理とその適用]キリスト者はキリストにより罪の奴隷たる状態より解き放たれ(ガラ5:1)、キリストと共に死に(ガラ2:20)、キリストを衣(ガラ3:27)、その肉を十字架につけ、情も慾もみなこれを十字架につけた者である(ガラ5:24)。このことは原理として本質として完全にキリスト者の上に成就している。キリスト者はすでにかかる者として取扱われ、かかる者として立つべく命ぜられている。しかしながら具体的事実としてキリスト者は未だかかる状態を完全にその身に実現していない。それゆえに「堅く立つべきこと」(ガラ5:1)、自由を濫用すべからざること(ガラ5:13)、肉の慾を遂ぐべからざること(ガラ5:16)、御霊によりて歩むべきこと(ガラ5:25)、その他の注意を与えられる必要があるのである。もしキリスト者が完全にその原則的清潔を実現しているものならば、かかる注意は不要なはずである。キリスト者が完全なる清潔に達し得るとせばそれは原理としての意味においてである。