ヨハネ伝第11章
分類
3 イエスとユダヤ主義との争闘
5:1 - 11:57
3-4 宮潔の祭より受難週まで
10:22 - 11:57
3-4-3 ラザロの復活
11:1 - 11:53
3-4-3-イ 準備
11:1 - 11:16
11章1節 ここに
口語訳 | さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、マリヤとその姉妹マルタの村ベタニヤの人であった。 |
塚本訳 | さて、ラザロというひとりの病人があった。。マリヤとその姉妹マルタとの村、ベタニヤの人である。 |
前田訳 | ラザロという病人があった。マリヤとその姉妹マルタの村ベタニアの人であった。 |
新共同 | ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。 |
NIV | Now a man named Lazarus was sick. He was from Bethany, the village of Mary and her sister Martha. |
11章2節
口語訳 | このマリヤは主に香油をぬり、自分の髪の毛で、主の足をふいた女であって、病気であったのは、彼女の兄弟ラザロであった。 |
塚本訳 | このマリヤは主に香油を塗り、髪の毛で御足をふいた女であるが、病気であったラザロはその兄弟であった。 |
前田訳 | マリヤは主に香油をぬり、み足を自分の髭でふいた女で、その兄弟ラザロが病んでいた。 |
新共同 | このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。 |
NIV | This Mary, whose brother Lazarus now lay sick, was the same one who poured perfume on the Lord and wiped his feet with her hair. |
註解: ヨハネはマリヤ、マルタの名を始めて掲げながら読者が知っているもののごとくに記しているのは、ルカ10:38−42の記事を知っているものと予想したのであろう。共観福音書(マタ26:6−13。マコ14:3−9。ルカ7:36以下は別)には香油を主に塗りし事件はベタニヤに起りしのみを記してそれがマリヤなりしことを記さず、ヨハネはここにこの事件およびラザロの復活の事件の人物と場所との関係を明示している。(この事件をばヨハ12:1以下に記す)ベタニヤは橄欖 山の東南麓エルサレムより二十五丁エリコに行く途中にあり。ヨハ1:28のベタニヤとは別村。
11章3節
口語訳 | 姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。 |
塚本訳 | マリヤとマルタとはイエスに使をやって、「主よ、大変です。あなたの可愛がっておられる人が病気です」と言わせた。 |
前田訳 | 姉妹たちはイエスに使いをやって、「主よ、あなたのお気に入りが病気です」といわせた。 |
新共同 | 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。 |
NIV | So the sisters sent word to Jesus, "Lord, the one you love is sick." |
註解: 彼らは使いをペレアに遣わした。彼らは主の彼ら凡てを愛し給うことを知り、この伝言により、イエスが必ず彼らを助け給うべきことを確信した。告白のみがよく愛の神を動かすことができる(Tヨハ1:9)。イエスに来り給わんことを乞わなかったのは、彼の危険につき知っていたのと、必ずしも来り給わずともその力を顕わし給うこと(ヨハ4:50)を信じたからであろう。
辞解
[愛し給ふもの] phileô なる動詞を用いている。なお36節も同様である。この動詞の意義につきてはTコリ13:3要義一。マタ5:48要義一参照。
11章4節
口語訳 | イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。 |
塚本訳 | イエスは聞いて言われた、「これは死ぬための病気ではない。神の栄光のためである。すなわち(神の栄光をあらわすために、)神の子(わたし)がこれによって栄光を受けるためである。」 |
前田訳 | イエスはそれを聞いていわれた、「この病は死に至らず、神の栄光のため、神の子が栄化されるためである」と。 |
新共同 | イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」 |
NIV | When he heard this, Jesus said, "This sickness will not end in death. No, it is for God's glory so that God's Son may be glorified through it." |
註解: これはイエスの答ではなく、使いおよび弟子たち一般に対する宣言また約束であった。イエスはこの時すでにその異常なる洞見力をもってラザロの復活を予見し給い、またこの復活が神の栄光とイエスの栄光とに如何に大なる寄与をなすべきかを知悉 し給うた。ヨハ9:3の場合に比してさらに大なる神の御計画がこの病者ラザロの上にあった。神の選び給える者に対する復活の事実とこれによりて受け給うべき神とキリストの栄光も、かくのごとくにして今より預言せられて居る。
11章5節 イエスはマルタと、その
口語訳 | イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。 |
塚本訳 | イエスはマルタとその姉妹ラザロとを愛しておられた。 |
前田訳 | イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 |
新共同 | イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 |
NIV | Jesus loved Martha and her sister and Lazarus. |
註解: それ故にベタニヤにおける彼らの家は苦難のイエスに対するオアシスであった(マタ21:17)。
11章6節 ラザロの
口語訳 | ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に滞在された。 |
塚本訳 | ところでイエスはラザロが病気と聞かれると、おられたところに(なお)二日留っていて、 |
前田訳 | しかし、ラザロが病むと聞かれると、おられたところに二日とどまって、 |
新共同 | ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。 |
NIV | Yet when he heard that Lazarus was sick, he stayed where he was two more days. |
11章7節
口語訳 | それから弟子たちに、「もう一度ユダヤに行こう」と言われた。 |
塚本訳 | そのあとで弟子たちに、「もう一度ユダヤに行こう」と言われた。 |
前田訳 | そのあとで弟子たちにいわれる、「今一度ユダヤへ行こう」と。 |
新共同 | それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」 |
NIV | Then he said to his disciples, "Let us go back to Judea." |
註解: なぜマリヤらの切望を知りつつ直ちにユダヤに往き給わざりしかについては種々の臆説あり(M0)。されどこの場合は父がその栄光を顕わさんとし給うこと、イエスは徹頭徹尾父の御意に従って動き給いしことは勿論であって、二日の滞留も父の指揮に従い給えるものと解すべきであろう。而してこれが弟子たちの信仰によき結果を与えた(15節)。またイエスの再臨もかくのごとくであって、いかに信徒がこれを切望するも、唯父の御意のみによりて最も適当の時に来り給うであろう。イエスが我ら復 ベタニヤに行くべしと言い給わずして「ユダヤに往くべし」と言い給える所以は、イエスの目的がラザロの復活によりて全ユダヤに神の栄光を顕わし給わんがためであったからである。
辞解
[二日留り、而してのち] 原語は「二日留りたれど遂にその後」というごとき語気あり、この二日の間の緊張せる心持を示す。大なる嵐の前の静けさにも比すべきである。
11章8節
口語訳 | 弟子たちは言った、「先生、ユダヤ人らが、さきほどもあなたを石で殺そうとしていましたのに、またそこに行かれるのですか」。 |
塚本訳 | 弟子たちが言う、「先生、ついこの間もユダヤ人があなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこに行かれるのですか。」 |
前田訳 | 弟子たちはいう、「先生(ラビ)、つい先ごろユダヤ人があなたを石打ちしようとしていましたのに、今一度あそこへ行かれるのですか」と。 |
新共同 | 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」 |
NIV | "But Rabbi," they said, "a short while ago the Jews tried to stone you, and yet you are going back there?" |
註解: 師に対する弟子の心づかいは優しかった(マタ16:22参照)。
11章9節 イエス
口語訳 | イエスは答えられた、「一日には十二時間あるではないか。昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。 |
塚本訳 | イエスが答えられた、「(心配するな。わたしが神に命ぜられた務を果す時までは、だれもわたしに手を下すことはできない。)昼間は十二時間あるではないか。人は昼間歩けば、つまづくことはない。この世の光(太陽)が照らしているからだ。 |
前田訳 | イエスは答えられた、昼間は十二時間あるではないか。人は昼間歩けばつまずかない、この世の光が見えるから。 |
新共同 | イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。 |
NIV | Jesus answered, "Are there not twelve hours of daylight? A man who walks by day will not stumble, for he sees by this world's light. |
11章10節
口語訳 | しかし、夜あるけば、つまずく。その人のうちに、光がないからである」。 |
塚本訳 | しかし夜歩けば、つまづく。その人の中に(心を照らす)光がないからである。」 |
前田訳 | 夜歩けばつまずく、光がその人の中にないから」と。 |
新共同 | しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」 |
NIV | It is when he walks by night that he stumbles, for he has no light." |
註解: 日中に歩く者は太陽の光があるので躓かない、躓くのは暗黒の中を歩く場合である。ここにイエスは神の御意、神の命令を太陽の光に譬え、この御旨に遵 って行動する場合には決して途を誤りまたは躓くことがない(詩91:11)。また如何にユダヤ人が彼を殺さんとするも決して彼を殺すことができない。神がイエスをこの世に置き給う間は太陽が彼の道を照らしているのであって、彼は如何なる途をも恐れなく歩むことができ、また神の命ならば進まなければならない。反対に神の命に従わず、迫害を恐れてユダヤに行かないならば、その時こそ神の光を失い暗黒の中を歩むのであって、その人は必ず躓くのである。イエスにとってはその一生涯の終りが近付いていたけれどもなお昼たるを失わなかった。(注意)本節には種々の誤れる解釈がある。
11章11節 かく
口語訳 | そう言われたが、それからまた、彼らに言われた、「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」。 |
塚本訳 | こう話して、またそのあとで言われる、「わたし達の友人ラザロが眠った。目をさましに行ってやろう。」 |
前田訳 | このことをいってからのちにいわれる、「われらの友ラザロは眠った、しかし起こしに出かけよう」と。 |
新共同 | こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」 |
NIV | After he had said this, he went on to tell them, "Our friend Lazarus has fallen asleep; but I am going there to wake him up." |
註解: ペレアよりベタニヤまでを一日路とすれば、17節によりラザロは4節の後間もなく死にたることは明らかである。イエスは充分これを知り、弟子たちにラザロを復活せしむべきことを告げ給うたのである。
辞解
[呼び起す] exhypnizô 目をさまさせること。
11章12節
口語訳 | すると弟子たちは言った、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」。 |
塚本訳 | 弟子たちが言った、「主よ、眠ったなら(きっと)助かりましょう。(眠る病人はなおると言います。起さない方がよいでしょう。)」 |
前田訳 | 弟子たちはいった、「主よ、眠ったのなら救われましょう」と。 |
新共同 | 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。 |
NIV | His disciples replied, "Lord, if he sleeps, he will get better." |
註解: 意訳「主よ、眠れるならば助からん」ゆえに行く必要はあるまい、病人に安眠は良薬である。弟子たちはこの普通の事実を捉え来ってイエスを引留めんとした。
辞解
[癒ゆべし] sôthêsetai 直訳「救われん」。意訳「助からん」マタ9:21辞解参照。
11章13節 イエスは
口語訳 | イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った。 |
塚本訳 | イエスはラザロが死んだことを言われたのに、弟子たちは安眠していることを言われるものと思ったのである。 |
前田訳 | イエスは彼の死についていわれたが、彼らは単なる眠りについていわれたと思った。 |
新共同 | イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。 |
NIV | Jesus had been speaking of his death, but his disciples thought he meant natural sleep. |
註解: 弟子たちのこの誤解をもってあまりに甚 だしき誤解ゆえ、事実にあらずとする学者があるけれども必ずしもそうではない。イエスといえども常に異常なる洞見力のみを顕わし給うたのではなく、平日は通常の人間として弟子たちと会話を交し給うたのである。
辞解
[寝ねて眠れる] 「寝ねて」と訳されし hypnos は睡眠を意味し、「眠れる」と訳されし koimêsis は睡眠と共に安静に横臥する意味をも含むゆえに死をも意味する。
11章14節 ここにイエス
口語訳 | するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、「ラザロは死んだのだ。 |
塚本訳 | そこでイエスが今度ははっきり言われた、「ラザロは死んだのだ。 |
前田訳 | そこでイエスはあからさまにいわれた、「ラザロは死んだ。 |
新共同 | そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。 |
NIV | So then he told them plainly, "Lazarus is dead, |
11章15節
口語訳 | そして、わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである。では、彼のところに行こう」。 |
塚本訳 | わたしがそこにいなかったことを、あなた達のために喜ぶ。あなた達の信仰を強めることができるからだ。さあ、ラザロの所に行こう。」 |
前田訳 | わたしがあそこにいなかったことをよろこぶ。いなかったのはあなた方のため、あなた方が信ずるためである。さあ、彼のところへ行こう」と。 |
新共同 | わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」 |
NIV | and for your sake I am glad I was not there, so that you may believe. But let us go to him." |
註解: 私訳「我は汝らが信ぜんためには、我がかしこにおらざりしを汝らのために喜ぶ」もしキリスト彼処 にい給いてラザロが死ななかったか、または死しても直ちに甦えらせられたならば、弟子たちはイエスを信ずることが充分に強くなかったであろう。「何となれば神の御業が自然界の普通の現象に近ければ近いほど、人は神の御業を尊むこと少なく、その御業が顕われ難いからである」(C1)。
11章16節 デドモと
口語訳 | するとデドモと呼ばれているトマスが、仲間の弟子たちに言った、「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」。 |
塚本訳 | するとトマスすなわち(ギリシヤ語で)デドモ(二子)が相弟子たちに言った、「(主の命があぶない。)わたし達も行って、主と一しょに死のう。」 |
前田訳 | デドモ(二子)ことトマスが相弟子たちにいった、「われらも行って彼とともに死のう」と。 |
新共同 | すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。 |
NIV | Then Thomas (called Didymus) said to the rest of the disciples, "Let us also go, that we may die with him." |
註解: イエスの御心は常に神の御旨を行い神の御栄えを掲ぐることにあった。弟子たちはイエスの生命につきて考うると同時に、己らの生命についても恐れていた。唯主イエスの決心があまりに堅いために、トマスもついに主に従って死なんとの決心をするに至ったのである。
辞解
[デドモ] はギリシャ語で、「トマス」はそれに相当するヘブル語。共に双生児の意味。
要義1 [直ちに聴かれざる祈り]六節にイエスが二日留り給えることは、切迫せるこの場合としてはあまりに悠長な態度であって、もしラザロがその危険状態を続けていたならばマルタ、マリヤにとっては耐え難く待遠 であったことであろう。しかしながら我らはこの目前の事情のみより見て神の愛の有無を判断してはならない。神は時に我らの祈りを直ちに聴き入れ給わずして、これによりて我らの忍耐を試み、また我らをして服従の態度を養うことを得しめ給うのである。ゆえに我らの祈願が直ちに聴き入れられざる場合といえども我らは祈願を続くべきであり、また神の愛を信じ、いかに遅くともついには我らの願いを聴き給うと確信して祈るべきである。
要義2 [光明と暗黒]9節によりて我らは次のことを学ぶことができる。すなわち「人が神の召命なしに自己の思い付きによりて導かれるままに委する場合には、その全生涯は放浪と誤謬の道程に過ぎない。自ら非常に賢なりと思惟する処の者も、もし神の口より出づる言を聴かず、聖霊をしてその行動を支配せしめざる場合においては、あたかも暗黒の中をさ迷う盲人のごとくである。人の取るべき唯一の正しき途は神の召命を充分に確かめ、常に神を案内者として我らの眼から離さないことである。我らの生涯を巧みに規律するこの規則は必ず好結果を得べしとの期待を伴うものである。何となれば神の支配が失敗に終ることは有り得ないからである。而してこの知識は我らにとって非常に必要である。何となれば信者がキリストに従わんとして一歩踏み出すや否や、サタンは直ちに無数の障碍 をもってこれを妨げ、種々の危険をもって四方を囲み、あらゆる手段をもってその進歩を妨げんとするからである。しかしながら主が我らの前に燈火を照らして我らに進めと命じ給う場合には、我らはたとい無数の死が我々の道を塞ぐとも勇敢に前進しなければならぬ」(C1)。かかる者は日中に歩むものであり、この途を避くるものは夜歩むものである。
11章17節 さてイエス
口語訳 | さて、イエスが行ってごらんになると、ラザロはすでに四日間も墓の中に置かれていた。 |
塚本訳 | さてイエスが(ベタニヤに)行って見られると、ラザロはもう四日も墓の中にあった。 |
前田訳 | イエスが来てみると、ラザロはすでに四日墓にあることがわかった。 |
新共同 | さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 |
NIV | On his arrival, Jesus found that Lazarus had already been in the tomb for four days. |
註解: ユダヤにおいては死人はその日の日没前に埋葬する習慣である。なお11節註参照。
11章18節 ベタニヤはエルサレムに
口語訳 | ベタニヤはエルサレムに近く、二十五丁ばかり離れたところにあった。 |
塚本訳 | ベタニヤはエルサレムの近くで、十五スタデオ(三キロ)ばかり離れていた。 |
前田訳 | ベタニアはエルサレムに近く、十五スタデオほどであった。 |
新共同 | ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 |
NIV | Bethany was less than two miles from Jerusalem, |
註解: 次節の多くの人がエルサレムより来れることの説明のために、この距離を掲げたのである。
辞解
[二十五丁] 原語「十五スタデア」(ヨハ6:19)。
11章19節
口語訳 | 大ぜいのユダヤ人が、その兄弟のことで、マルタとマリヤとを慰めようとしてきていた。 |
塚本訳 | マルタとマリヤの所には、大勢のユダヤ人がラザロの悔やみに来ていた。 |
前田訳 | それで多くのユダヤ人が兄弟の悔やみにマルタとマリヤのところに来ていた。 |
新共同 | マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 |
NIV | and many Jews had come to Martha and Mary to comfort them in the loss of their brother. |
註解: これがユダヤ人の習慣であって埋葬後七日の間行われた(S2)。マルタの一族はその地における名家であったのであろう(ヨハ12:5参照)。「ユダヤ人」はヨハ1:19の場合と同じくイエスに反対なるユダヤの司たち(M0、G1)。
11章20節 マルタはイエス
口語訳 | マルタはイエスがこられたと聞いて、出迎えに行ったが、マリヤは家ですわっていた。 |
塚本訳 | マルタは、イエスが来られると聞くと出迎えにいったが、マリヤは家に坐っていた。 |
前田訳 | マルタはイエスが来られると聞いて彼を迎えに出、マリヤは家にすわっていた。 |
新共同 | マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 |
NIV | When Martha heard that Jesus was coming, she went out to meet him, but Mary stayed at home. |
註解: マルタは活動的であったがためにイエスの来り給うことを早く聞きつけて村はずれまで出迎えた。マリヤは悲しみのあまり家に坐して弔問の客に接していた。ルカ10:38以下と対比して二人の性格が双方とも鮮やかに描写せられしを見よ。
11章21節 マルタ、イエスに
口語訳 | マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。 |
塚本訳 | マルタがイエスに言った、「主よ、あなたがここにいてくださったら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 |
前田訳 | マルタはイエスにいった、「主よ、もしあなたがここにおいででしたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 |
新共同 | マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 |
NIV | "Lord," Martha said to Jesus, "if you had been here, my brother would not have died. |
註解: イエスの不在なりしを悔やむ言であって、イエスの来給うことの遅かりしを恨む言ではない。イエスがすぐに来給うとも間に合わなかったことをマルタは知っていた。
11章22節 されど
口語訳 | しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」。 |
塚本訳 | しかしあなたがお願いになることなら、神様は何でもかなえてくださることを、わたしは今でも知っています。」 |
前田訳 | しかし今でも、わたしは知っています、あなたがお願いのことなら、何でも神がお与えくださいますことを」と。 |
新共同 | しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 |
NIV | But I know that even now God will give you whatever you ask." |
註解: このマルタの告白には力がなく「光輝がなかった」(C1)。その故はこの語はイエスに対する信仰ではなく、イエスに関する知識に過ぎないからである。「汝は復活の主に在し給う、汝は我が兄弟を甦らしめ給うことを得」との信仰を告白すべきであった。ゆえにイエスは25、26節をもって彼女を導き、27節の信仰に到達せしめ給うた。
11章23節 イエス
口語訳 | イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。 |
塚本訳 | イエスは言われる、「あなたの兄弟は生き返る。」 |
前田訳 | イエスはいわれる、「あなたの兄弟は復活しよう」と。 |
新共同 | イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 |
NIV | Jesus said to her, "Your brother will rise again." |
註解: マルタが言うべくして言い得なかった信仰の内容をイエスの方より示し給うた。然るにマルタの信仰はこれに共鳴することができる程度に達していなかったために、マルタはイエスが単に終末の日における復活を示して彼女を慰め給うものと解した。
11章24節 マルタ
口語訳 | マルタは言った、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」。 |
塚本訳 | マルタが言う、「最後の日の復活の時に生き返ることは、知っています。」 |
前田訳 | マルタはいう、「終わりの日の復活の時に彼が復活しようことはわかります」と。 |
新共同 | マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 |
NIV | Martha answered, "I know he will rise again in the resurrection at the last day." |
註解: 従ってマルタはここにも復活に関する彼女の知識を告白するに過ぎなかった(「知る」を繰返しているのを見よ)。イエスに対する信仰はかかる知識だけでは足りない。彼の復活の生命に与り、永遠に死なざる状態に入ることを信ずる信仰でなければならない。ゆえにイエスは次の2節においてこのことを教え給う。
11章25節 イエス
口語訳 | イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 |
塚本訳 | イエスがマルタに言われた、「わたしが復活だ、命だ。(だから)わたしを信じている者は、死んでも生きている。 |
前田訳 | イエスはいわれる、「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信ずるものは死んでも生きよう。 |
新共同 | イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 |
NIV | Jesus said to her, "I am the resurrection and the life. He who believes in me will live, even though he dies; |
註解: 「我は」と言いてイエスはマルタの心を彼自身に引きよせ給う。信仰の対象は神学の知識にあらず、キリストに対する人格的信頼である。而してこのキリストが死にたる者の復活であり生けるものの生命であり給う。蓋しイエスは一度死にて復 甦り永遠に活き給うが故である。ゆえに彼を信じ、彼と人格的に結合しているものは肉体は死すとも永遠に死なない。やがては甦えらされるのである(ヨハ6:39-40、ヨハ6:44、ヨハ6:54)。
11章26節
口語訳 | また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。 |
塚本訳 | また、だれでも生きてわたしを信じている者は、永遠に死なない。このことが信じられるか。」 |
前田訳 | また、生きてわたしを信ずるものは永遠に死なない。このことをあなたは信ずるか」と。 |
新共同 | 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 |
NIV | and whoever lives and believes in me will never die. Do you believe this?" |
註解: 前節はすでに肉体的に死ねる信者を指し、本節は生存せる信者を指す。生きてキリストを信じ彼の復活の生命に与るものはすでに生命に移っているのであって(ヨハ5:24)、すでにキリストと共に甦って天の処に坐しているのである (ロマ8:10。Uコリ4:14。エペ2:6。コロ2:12。コロ3:1。Tペテ1:23) 。生くるも死ぬるも唯キリストを信ずること、彼と人格的一致の関係に入ることが主要の問題であることを示し給う。
11章27節
口語訳 | マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。 |
塚本訳 | イエスに言う、「はい、主よ、(信じます。)あなたが救世主で、神の子で、世に来るべき方であると、私は信じています。」 |
前田訳 | 彼女はいう、「はい、主よ、わたしは信じます、あなたはキリスト、神の子、世に来たるべき方と」と。 |
新共同 | マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 |
NIV | "Yes, Lord," she told him, "I believe that you are the Christ, the Son of God, who was to come into the world." |
註解: 理智的であったマルタもついに主イエスをキリストと仰ぐの信仰を告白するに至った。25、26節におけるイエスの御言は知識として受入れられたのではなく、イエスに対する信仰として彼女を動かしたのを見ることができる。これがイエスの凡ての人に要求し給う点である。
11章28節 かく
口語訳 | マルタはこう言ってから、帰って姉妹のマリヤを呼び、「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」と小声で言った。 |
塚本訳 | こう言ったのち、マルタは行って姉妹のマリヤを呼び、「先生が来て、あなたを呼んでおられる」とささやいた。 |
前田訳 | こういってから彼女は立ち去って姉妹のマリヤを呼び、そっといった、「先生がおいでで、あなたをお呼びです」と。 |
新共同 | マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。 |
NIV | And after she had said this, she went back and called her sister Mary aside. "The Teacher is here," she said, "and is asking for you." |
註解:竊 にマリヤを呼びしはその場に居りしイエスに反対なるユダヤ人らに気付かれないようにとの注意であった。31節参照。
11章29節 マリヤ
口語訳 | これを聞いたマリヤはすぐ立ち上がって、イエスのもとに行った。 |
塚本訳 | これを聞くとマリヤは、急いで立ち上がってイエスの所に行った。 |
前田訳 | それを聞くと「マリヤはすぐ立ちあがってイエスのところへ行った。 |
新共同 | マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。 |
NIV | When Mary heard this, she got up quickly and went to him. |
註解: マリヤの性質をよく表わしている事実である。
11章30節 イエスは
口語訳 | イエスはまだ村に、はいってこられず、マルタがお迎えしたその場所におられた。 |
塚本訳 | イエスはまだ村に入らず、マルタが出迎えたさっきの場所におられた。 |
前田訳 | イエスはまだ村に着かれず、マルタが出迎えたさっきのところにおられた。 |
新共同 | イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。 |
NIV | Now Jesus had not yet entered the village, but was still at the place where Martha had met him. |
註解: おそらくこれマルタの注意によりてイエスは郊外に留まり給い、そこにマリヤを呼びて彼らと共に竊 にラザロの墓に行かんとし給うたのであろう(ただしこの計画は成功しなかった。次節)
11章31節 マリヤと
口語訳 | マリヤと一緒に家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、彼女は墓に泣きに行くのであろうと思い、そのあとからついて行った。 |
塚本訳 | マリヤと一しょに家にいて慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急に立って出て行くのを見ると、墓に泣きに行くものと思って、あとについて行った。 |
前田訳 | マリヤとともに家にいて慰めていたユダヤ人たちは、マリヤがすぐ立ちあがって出かけるのを見ると、墓に泣きに行くと思ってついて行った。 |
新共同 | 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。 |
NIV | When the Jews who had been with Mary in the house, comforting her, noticed how quickly she got up and went out, they followed her, supposing she was going to the tomb to mourn there. |
註解: マルタが竊 にマリヤを呼び出しし目的はこれがために無効となった。
11章32節 かくてマリヤ、イエスの
口語訳 | マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。 |
塚本訳 | マリヤはイエスのおられる所に来ると、イエスを見るなり、足もとにひれ伏して言った、「主よ、あなたがここにいてくださったら、わたしの・・わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」 |
前田訳 | マリヤはイエスのおられるところに来て、彼を見るや否や、み足にひれ伏していった、「主よ、あなたがここにおいででしたら、わたしの兄弟ば死ななかったでしょうに」と。 |
新共同 | マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。 |
NIV | When Mary reached the place where Jesus was and saw him, she fell at his feet and said, "Lord, if you had been here, my brother would not have died." |
註解: マルタはイエスの足下に伏さなかった。マリヤはその全心全霊をもってイエスに敬意を表した。マリヤの言はマルタのそれと同一であった。この姉妹がラザロの重患に際して「イエスが居給いしならば」と如何に思い、かつ語り合ったことであろう。二人ともイエスを見てまず第一にこの言を発した。しかしイエスはすでに霊をもって彼らと共に居給いしことを(11節)彼らは覚らなかった。
11章33節 イエスかれが
口語訳 | イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、 |
塚本訳 | イエスはマリヤが泣き、一しょに来たユダヤ人たちも泣くのを見ると、(その不信仰を)心に憤り、かつ興奮して、 |
前田訳 | イエスは彼女が泣き、いっしょに来たユダヤ人も泣くのを見て、心になげき、激していわれた、 |
新共同 | イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 |
NIV | When Jesus saw her weeping, and the Jews who had come along with her also weeping, he was deeply moved in spirit and troubled. |
註解: 生命の主に在し給うイエスの前に開展せられし光景は、生命に対する最大の敵なる死が勝ち誇って、人々を苦しめ悲しませている光景であった。もし彼らがキリストを生命の主と信じたならば、この涙の中にも希望をもって彼を仰いだであろう。然るに彼らはこれを為すことができなかった。
註解: 私訳「御霊において憤激し」死が勝ち誇っている光景と、マリヤその他のユダヤ人が不信仰のため生命の主を仰ぎつつなお死の悲しみの中に捉われているのを見給いて、イエスの心は憤激の念に堪えなかった。人の死に際して肉の人は肉の思いがまず彼らを支配するに反し、イエスはその御霊がまず働き給う。
辞解
[心を傷め] embrimaomai は難解な文字であって、専ら憤怒の情を表わす文字であり(マコ14:5)、新約聖書中にはなお「厳しく戒む」る意味に用いられている(マタ9:30。マコ1:43)。要するにまさに起らんとする、またはすでに起れる事実に対する反対の激情を示す文字である。ゆえに単に「愁傷」の意味はなく、何事かに対する反対の激情を意味する。而してイエスがこの場合何に対してこの情を起し給いしやについては多くの説あり、(1)ユダヤ人の虚偽の悲嘆(M0)、(2)ユダヤ人の心にある敵意、(3)自己の悲しみの感情(B1)、(4)罪の業(T0)、(5)ユダヤ人がイエスのまさに行わんとする奇蹟をもってイエスを殺すの理由とすること。その他多くの解釈があるけれども予は上記の解(C1、ルートハルト、オルスハウゼン、カイムその他の説の混合)を適当と思う。なお38節も同定義に取るべきである。
註解: 私訳「心を騒がせて言い給う」憤激の次に来れるものは御心の中の動揺であった。これは単に死の悲しみではなく、イエスは今やその奇蹟を行わんとして不信なるユダヤ人がこれを理由に彼を殺さんとすることを明らかに知り給うた。これを恐れて行わざれば神の栄光を顕わすことができず、これを行えば彼らに殺される場合に立ち至った。イエスの御心は動揺せざるを得なかった。
辞解
[悲しみて] tarasso は「心騒ぎ」と訳されし場合多く (マタ2:3、マタ14:26。ヨハ12:27、ヨハ13:21、ヨハ14:1) 殊に12:27、13:21の場合はイエスの霊肉が苦闘の状態に在る場合であって、本節の場合に類似している(T0)。
11章34節 『かれを
口語訳 | 「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。 |
塚本訳 | (マルタとマリヤに)言われた、「どこにラザロを納めたか。」二人が言う、「主よ、来て、御覧ください。」 |
前田訳 | 「どこに彼を置いたか」と。彼らはいった、「主よ来て、ごらんください」と。 |
新共同 | 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 |
NIV | "Where have you laid him?" he asked. "Come and see, Lord," they replied. |
註解: イエスはその霊的憤激の情を有ち心の動揺を経過していよいよ父の御旨を行うことに取りかかり給うた。すなわち第一にラザロの墓の在所を問い給うたのである。
口語訳 | イエスは涙を流された。 |
塚本訳 | イエスが涙を流された。 |
前田訳 | イエスは涙された。 |
新共同 | イエスは涙を流された。 |
NIV | Jesus wept. |
註解: ついにイエスはその人間としての自然の感情に動かされて涙を流し給うた。「石のごとき心をもっては死人を甦らしむることができない」(ヘングステンベルグ)彼は決して自然の情に支配せられて凡てを忘れることもなく、また禁慾主義者のごとくに無感覚でもなかった。彼は神として神らしく感じ、人として人らしく感じ給うたのである。この間に何らの矛盾もなく、また何らの不合理もない。この節は原文三文字よりなり、聖書における最短の一節である。
11章36節 ここにユダヤ
口語訳 | するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。 |
塚本訳 | するとユダヤ人たちが言った、「まあ、なんとラザロを可愛がっておられることだろう!」 |
前田訳 | するとユダヤ人がいった、「見よ、何と彼を愛しておられたことか」と。 |
新共同 | ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 |
NIV | Then the Jews said, "See how he loved him!" |
11章37節 その
口語訳 | しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。 |
塚本訳 | しかし中には、「盲人の目をあけたこの人にも、このラザロが死なないように出来なかったのか」と言う者もあった。 |
前田訳 | 彼らの中には、「目しいの目をあけたこの人さえも、ラザロが死なないようにはできなかったのか」というものもあった。 |
新共同 | しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。 |
NIV | But some of them said, "Could not he who opened the eyes of the blind man have kept this man from dying?" |
註解: ここにもまたイエスの前に人々の意見が二分した(ヨハ10:19註参照)。その中の一種の人々はラザロに対するイエスの切なる愛を見て彼に好意を寄せ、他の者どもは飽くまで彼に対して批評的に出で彼を拒まんとしている態度を示している。すなわち盲人の目を開ける彼が唯涙を流すのみでラザロを死なざらしめなかったのは、彼の無力を示すか、さもなくば彼の愛の偽りなることを示すものであるとの語気がこの中に含まれている。
11章38節 (この
口語訳 | イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。 |
塚本訳 | そこでイエスはまたも心に憤りながら、(ラザロの)墓に来られる。墓は洞穴で、入口に石を置いて(ふさいで)あった。 |
前田訳 | イエスはまたも心になげいてへ墓に来られる。それは洞穴で、石でふさいであった。 |
新共同 | イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。 |
NIV | Jesus, once more deeply moved, came to the tomb. It was a cave with a stone laid across the entrance. |
註解: 私訳「イエス再び心の中に憤激しつつ墓に到れり」このユダヤ人の邪悪の心に対してイエスは憤り給うたのである。34−38節をもって只イエスがこれらの人々と共にラザロの死を悲しんだことを記せるものと解することは、イエスのこの場合における複雑なる心理を無視したのであり、かつ「心を傷め」と訳することはその原語の意味を殺すものである(33節辞解参照)。
註解: ユダヤ地方の普通の墓はこの形式による。穴の口は水平なるものと垂直なるものとあり。
11章39節 イエス
口語訳 | イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。 |
塚本訳 | 「石をのけなさい」とイエスが言われる。死んだ人の姉妹のマルタが言う、「主よ、もう臭くなっています。四日目ですから。」 |
前田訳 | イエスはいわれる、「石をのけよ」と。事切れた人の姉妹のマルタはいう、「主よ、もうにおいます、四日目ですから」と。 |
新共同 | イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 |
NIV | "Take away the stone," he said. "But, Lord," said Martha, the sister of the dead man, "by this time there is a bad odor, for he has been there four days." |
註解: マルタの性質は飽くまでも実際的具体的散文的であった。彼女はイエスの御言を聞きて、イエスがまさに不思議を行わんとし給うことを信ぜずして、眼をイエスより離してラザロの屍体を考えた。彼女はアブラハムのごとく、唯イエスの力を信じて単純にその命に従うべきであった。信仰は打算を超過する。アブラハムは子無くしてなお多くの国民の祖たることの約束を信じた。また神の命に従って直ちにその独子イサクをささげた。我ら死せる自己の肉、この世を見てそこには唯腐敗せる汚物を見るのみである。マルタはこれを見て畏縮した。
11章40節 イエス
口語訳 | イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。 |
塚本訳 | イエスがマルタに言われる、「信ずれば神の栄光が見られると、(さきほども)あなたに言ったではないか。」 |
前田訳 | イエスは彼女にいわれる、「信ずれば神の栄光が見えよう、とあなたにいったではないか」と。 |
新共同 | イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 |
NIV | Then Jesus said, "Did I not tell you that if you believed, you would see the glory of God?" |
註解: 25節および4節を見よ。彼を信ずれば神の栄光を見ることができる。にもかかわらず人は見て後に信ぜんとする傾がある。ヘブ11:1。この御言によってマルタを叱責してその消えんとする信仰を呼び起し給うた。信仰は神の力があらわれるの準備として必要である。
11章41節 ここに
口語訳 | 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。 |
塚本訳 | 人々が石をのけた。するとイエスは目を天に向けて言われた、「お父様、(まだお願いしないのに、もう)わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。 |
前田訳 | そこで彼らは石をのけた。イエスは目を上に向けていわれた、「父よ、お聞き届けくださったことを感謝いたします。 |
新共同 | 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 |
NIV | So they took away the stone. Then Jesus looked up and said, "Father, I thank you that you have heard me. |
註解: 祈祷に際して神との霊の交わりに入る場合のイエスの態度はかくのごとくであった(ヨハ17:1。マタ14:19。なおルカ18:13参照)。
『
註解: おそらくイエスはこの数日間常にラザロの復活について父に祈願し給うたことであろう。今この祈りがすでに聴かれ、彼にラザロを甦らしむべき力が与えられしことの確信を得てこの感謝をささげ給うた。
11章42節
口語訳 | あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。 |
塚本訳 | (願わずとも)あなたはいつもわたしの願いを聞いてくださることを、わたしはよく知っております。しかしまわりに立っている人たちのために、(今わざと声を出して感謝を)申したのであります。(わたしの願いはなんでもきかれることを彼らに示して、)あなたがわたしを遣わされたことを信じさせるためであります。」 |
前田訳 | あなたはいつもお聞き届けくださることをわたしは知っています。しかし、まわりに立つ人々のためにかく申しました。あなたがわたしをおつかわしのことを彼らが知るためです」と。 |
新共同 | わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 |
NIV | I knew that you always hear me, but I said this for the benefit of the people standing here, that they may believe that you sent me." |
註解: すなわち前節の感謝は決して特別の場合ではなく、父は常にイエスの祈りに聴き給うのであることをここに宣言し給い、同時にラザロを甦らしむる奇蹟によりてイエスは神の子メシヤに在すことを宣言し給うた。ゆえにもしラザロが甦らないならばイエスは神より遣わされ給うたのではなく、もし彼が甦って来るならばイエスが神から遣わされ給いしことの証拠であって、群衆はこれを信じなければならないこととなるのである。ゆえにイエスはこの祈りを高声にてささげ給いしは群衆にこれを示さんがためであった。而してこれ同時にイエスにとって決死の挑戦であった。何となれば、ラザロを甦することによりて、ユダヤ人らは益々彼を殺さんとすることが確実であったからである。
11章43節
口語訳 | こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。 |
塚本訳 | こう言ったのち、大声で、「ラザロ、出て来い」と叫ばれた。 |
前田訳 | こういってから大声で叫ばれた、「ラザロよ、出ておいで」と。 |
新共同 | こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 |
NIV | When he had said this, Jesus called in a loud voice, "Lazarus, come out!" |
註解: あたかも深き眠りに入っている者を呼び起すがごとくである。
11章44節
口語訳 | すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。 |
塚本訳 | 死人が手足を包帯で巻かれたまま、(墓から)出てきた。顔は手拭で包まれていた。イエスは「解いてやって(家に)帰らせなさい」と人々に言われた。 |
前田訳 | 死人が手足を布で巻かれたまま出て来た。顔は手拭でおおわれていた。イエスは人々にいわれた。「彼をほどいて家に帰らせなさい」と。 |
新共同 | すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。 |
NIV | The dead man came out, his hands and feet wrapped with strips of linen, and a cloth around his face. Jesus said to them, "Take off the grave clothes and let him go." |
註解: マルタとマリヤの喜びは勿論、人々の驚きはいかばかりであったろうか。ヨハネはかかることにつきては沈黙している。これかえってこの場合における光景の荘厳さを増す。
イエス『これを
註解: 甦らしむることはイエスの仕事、布と手拭いとを解くことは周囲の人々の仕事、歩みて家に往くことはラザロの仕事であった。イエスは人々として各々わずかずつにてもその業を為さしむることを喜び給う。
要義1 [ラザロと復活の意義]ラザロの復活はキリストの愛と能力との顕われであり、またこれによりて神の栄光が揚れることは勿論であるけれども、これは同時に世の終りにおける復活の見本であった。終末の日にキリストが再び来給いて「起きよ」「墓より出て来れ」と呼び給う時、キリストに在る死人はみなこのラザロのごとくに甦って出て来るであろう。ラザロは復活してまた死んだ。しかしながら終末の日においては永遠の生命に甦るであろう。
要義2 [死と生命]39節におけるマルタの言は我らに多くの霊的教訓を与える。マルタは四日を経過せるその兄弟の屍体につきて考え、その腐爛して悪臭を放つならんことを考うるのあまり、イエスの約束(ヨハ4:25)を忘れた。あたかもペテロがその脚下の浪を見て沈まんとしたのと相似ている。もしマルタが堅くイエスの約束を信じこれを望んでいたならば、彼女はその兄弟の屍体について考えなかったであろう。アブラハムの信仰を見よ(ロマ4章)、彼は望むべくもあらぬ時になおその望みをすてなかった。彼はエホバを信じたからである。もしマルタも生命の主に在し給うイエスを信じたならば、彼女はこの場合その屍体を見ることをせずにイエスを仰ぎ見、彼の御言を信じたであろう。我らも我らの肉を見る時その状態に絶望する。しかしながら我らイエスを仰ぎてその約束を信じ、そこに生命を見出すことができるのである。「信仰は望むところを確信することである」(ヘブ11:1)。
要義3 [見ずして信ずべし]「もし信ぜば神の栄光を見ん」40節。「信仰は見ぬ物を真実とするなり」ヘブ11:1。我らももし神の栄光を見んと欲するならば、信仰によりて見ぬものを真実として受けなければならない。これ神に対する絶対の信頼によりてのみ為し得る勇敢なる行為である。しかしながら神はこの信仰を嘉し給いて必ずこれに対してその栄光を顕わし給う。復活に対する信仰も、もし我らあらゆる科学の反対、理性の不承知を顧みず勇敢にこれを信ずるならば神の栄光を見ることができるであろう。アブラハムはイサクの復活を信じて彼を殺さんとした。而して彼は小羊が後ろに備えられているのを見出したのである。
11章45節 かくてマリヤの
口語訳 | マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。 |
塚本訳 | すると、マリヤの所に来てイエスのされたことを見たユダヤ人のうち、多くの者は彼を信じた。 |
前田訳 | マリヤのところに来てイエスのなさったことを見たユダヤ人の多くが彼を信じた。 |
新共同 | マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。 |
NIV | Therefore many of the Jews who had come to visit Mary, and had seen what Jesus did, put their faith in him. |
註解: 36、37節に比して一層明らかなる分離が彼らの間に起った。「信ずる」なる語はパウロのいわゆる信仰にまで到達せざるもの、すなわちイエスの弟子たらんとする心持を指す場合にも用いられるのであって、本節はその例である。なおヨハ2:11参照。
11章46節
口語訳 | しかし、そのうちの数人がパリサイ人たちのところに行って、イエスのされたことを告げた。 |
塚本訳 | しかし中には(彼を信ぜず、)パリサイ人の所に行って、イエスのされたことをあれこれと報告した者もすこしあった。 |
前田訳 | しかし中にはパリサイ人のところに行ってイエスのなさったことを告げるものもあった。 |
新共同 | しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。 |
NIV | But some of them went to the Pharisees and told them what Jesus had done. |
註解: パリサイ人らがイエスに極端に反対しているのを知り、この奇蹟が彼らに対する大事件として警戒を要することを注進した。不信の心の前にはいかなる神の御業も蹂躙 せられてしまう。豚に真珠である。
11章47節 ここに
口語訳 | そこで、祭司長たちとパリサイ人たちとは、議会を召集して言った、「この人が多くのしるしを行っているのに、お互は何をしているのだ。 |
塚本訳 | そこで大祭司連とパリサイ人は最高法院を召集して言った、「どうすればよいだろう、あの男はたくさん徴[奇蹟]をしているのだが。 |
前田訳 | そこで大祭司やパリサイ人は会議(サンヘドリン)を開いていった、「あの男が多くの徴をしているのをどうしよう。 |
新共同 | そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。 |
NIV | Then the chief priests and the Pharisees called a meeting of the Sanhedrin. "What are we accomplishing?" they asked. "Here is this man performing many miraculous signs. |
註解: 議会(サンヘドリム)についてはマタ5:22辞解参照。重大なる問題がある場合にこの議会(衆議所とも訳されている)が開かれるのであって、イエスなる人物をいかに処置すべきかは彼らの目下の大問題であったことがわかる。
『われら
辞解
[▲われら如何に為すべきか] 口語訳「お互いは何をしているのだ」が正しい。
11章48節 もし
口語訳 | もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう。そのうえ、ローマ人がやってきて、わたしたちの土地も人民も奪ってしまうであろう」。 |
塚本訳 | もしこのまま放っておけば、皆があれを信じ(て王に祭り上げ)るであろう。すると騒動が起り、ローマ人が来て、われわれから(エルサレムの)都も国民も、取ってしまうにちがいない。」 |
前田訳 | 彼を、このままにしておけば、皆が彼を信じよう。そしてローマ人が来てわれらから土地も国民も奪おう」と。 |
新共同 | このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」 |
NIV | If we let him go on like this, everyone will believe in him, and then the Romans will come and take away both our place and our nation." |
註解: パリサイ人らの心にはイエスが真のメシヤに在すや否やを、または彼は真理を語り給うや否やを問うだけの正義慾がない。彼らの求むるものは自己の宗教的特権と勢力とを維持すること、および彼らに従来与えられし政治的権力を保持することであった。ゆえに彼らの最も懼れる処は、多くの人のイエスを信ぜんことと、ローマ人らが(議会に秩序維持の能力なきものとして)彼らよりその土地(エルサレム)とユダヤ人とに対する政権を奪うであろうことであった。彼らの動機のいかに卑しきかを見よ、宗教を商売とするものはいずれの時代においてもかくのごとき心情を有する。
11章49節 その
口語訳 | 彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った、「あなたがたは、何もわかっていないし、 |
塚本訳 | するとそのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが言った、「諸君は何もお解りにならない。 |
前田訳 | 彼らのひとりのカヤパは、その年の大祭司であったが、彼らにいった、「あなた方は何もご存じない。 |
新共同 | 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。 |
NIV | Then one of them, named Caiaphas, who was high priest that year, spoke up, "You know nothing at all! |
註解: 「此の年の」は「此の年だけ」という意味ではなく「此の世界歴史における最も重要な年」のという意味である。カヤパは紀元二十五年より三十六年まで大祭司であった。本来モーセの律法によれば終身職たりし大祭司も、ローマ政府の下には短日月で交替せしめられた。
『なんぢら
11章50節 ひとりの
口語訳 | ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だということを、考えてもいない」。 |
塚本訳 | また、一人の人が民(全体)に代って死んで全国民が滅びない方が、諸君にとって得であることも考えておられない。」 |
前田訳 | ひとりの人が民のために死んで全国民が滅びないほうが、あなた方に有利だとも考えておられない」と。 |
新共同 | 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」 |
NIV | You do not realize that it is better for you that one man die for the people than that the whole nation perish." |
註解: カヤパは議員共の優柔不断にして、いかにすべきかを知らないのを見て憤りその無智を非難し、もし国人すべてを救うためならば無辜 なる一人が死ぬことも彼らの益であることを唱えて、イエスを殺さんことを主張した。愛国の美名の下に隠れて彼らの利益特権を擁護せんとする最も賎しき心情の発露である。
11章51節 これは
口語訳 | このことは彼が自分から言ったのではない。彼はこの年の大祭司であったので、預言をして、イエスが国民のために、 |
塚本訳 | しかしこれは、カヤパが自分から言ったのではない。その年の大祭司であった彼は、イエスが国民のために死なねばならぬことを、(自分ではそれと気付かずに、神の預言者として)預言したのである。 |
前田訳 | これは自分からいったのではなく、その年の大祭司であったので、預言して、イエスが民のために死なれようということ、 |
新共同 | これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。 |
NIV | He did not say this on his own, but as high priest that year he prophesied that Jesus would die for the Jewish nation, |
11章52節
口語訳 | ただ国民のためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっていると、言ったのである。 |
塚本訳 | ──ただ、(ユダヤ)国民のためだけでなく、(世界中に)散らばっている(今はまだ異教人である)神の子たちを、一つに集めるために。 |
前田訳 | それは民のためだけでなく、散っている神の子らをひとつに集めるためであることをいったのである。 |
新共同 | 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。 |
NIV | and not only for that nation but also for the scattered children of God, to bring them together and make them one. |
註解: カヤパの言はその一面は己より言えるのであって自分の意見であった。しかし「カヤパにはこの際二枚の舌があったとも言い得る」(C1)のであって、彼自身の悪意より出でしこの言を神は用い給いて、キリストの十字架の贖罪の死の預言となし給うた。本来大祭司は神託を受けてこれを宣言する役目であったので、神はカヤパの口を用いてその預言を語らしめ給うたのである。「散りたる神の子ら」は異邦人中の神を信ずべく選ばれし者を意味する。イエスの死は国人の罪の贖いのみならず、これらの散りたる神の子らをもこの贖われし民の中に加えてこれを一つに集めんがためであった。
11章53節
口語訳 | 彼らはこの日からイエスを殺そうと相談した。 |
塚本訳 | そこで彼らはその日以来、イエスを殺す決意をしていた。 |
前田訳 | その日から彼らはイエスを殺すことに決めた。 |
新共同 | この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。 |
NIV | So from that day on they plotted to take his life. |
註解: 神の栄光を顕わし給えるこの奇蹟がかえってイエスを殺すの動機となった。虚偽は真理を迫害せずにいることができない。
要義1 [パリサイ主義の真相]パリサイ人らがイエスを殺さんと図りし動機は、彼らをして言わしむれば、その信者を愛してこれらがイエスに惑わされることを防ぐため、またその教権所在地の聖なるエルサレムと神の選民なるユダヤ人とを愛して、これをローマの政府の圧迫より救うためであると言うであろう。而してこのためにはイエスの教えの真理なるや否やは第二の問題であると言うであろう。しかしながら彼らの動機は、その内心に立入って考うる時、唯その教権の保持と彼らの利益の擁護以外の何物でもない。もし今日の教会も真理そのものよりもその伝統や教権や利益を重んじ、これを擁護せんがために真理に耳を藉 さないならば、彼らもこのパリサイ主義に陥っているのである。
要義2 [無意識的預言]預言者が預言する場合は、必ずしも自己の語りつつある言が未来において実現せらるべき事柄の預言であることを意識することを必要としない。イザヤが「処女みごもりて子を生まん」(イザ7:14、マタ1:23)と言いし時、イザヤ自身はアハズの子ヒゼキヤに関することを言ったのであると言われているけれども、しかもこのことが彼の意識とは無関係にイエスの降誕に関する預言たるを妨げなかった。カヤパの言もこれと同じであって、神は彼をして彼の意識とは無関係にキリストの贖罪の死を預言せしめたのである。この意味において四福音書の記者が旧約聖書の文字を前後の関係より切断して、これをキリストの預言と解釈することは誤りではなく、聖霊の指導によることである。
11章54節 されば
口語訳 | そのためイエスは、もはや公然とユダヤ人の間を歩かないで、そこを出て、荒野に近い地方のエフライムという町に行かれ、そこに弟子たちと一緒に滞在しておられた。 |
塚本訳 | それでイエスは、もはや公然とユダヤ人の中を歩きまわることをせず、そこを去って荒野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちと一しょにそこにおられた。 |
前田訳 | それで、イエスはもはや公にはユダヤ人の中を歩かずに、そこを去って荒野に近い地方のエフライムという町に行って、弟子たちとともにそこにとどまられた。 |
新共同 | それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。 |
NIV | Therefore Jesus no longer moved about publicly among the Jews. Instead he withdrew to a region near the desert, to a village called Ephraim, where he stayed with his disciples. |
註解: エフライムが何處なりやは確定し難い。エウセビウスはエルサレムの北東八哩の地なりと言い、ヒエロニムスは同二十哩の処なりと言う。イエスはこの淋しき地において、来るべき死についてで弟子たちを準備し給うた。
11章55節 ユダヤ
口語訳 | さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、多くの人々は身をきよめるために、祭の前に、地方からエルサレムへ上った。 |
塚本訳 | ユダヤ人の過越の祭が近づいた。多くの人が(律法に従って)身を清めるため、過越の祭の前(すこし早目)に、地方からエルサレムに上ってきた。 |
前田訳 | ユダヤ人の過越の祭りが間近かった。多くの人が身を清めに諸地方から祭りの前にエルサレムヘ上った。 |
新共同 | さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。 |
NIV | When it was almost time for the Jewish Passover, many went up from the country to Jerusalem for their ceremonial cleansing before the Passover. |
註解: 祭において献物を為すがためには身を潔むる必要があった。「田舎」はエルサレムに対し、各地方を指す、これがイエスの最後の過越であり彼自身人類の過越の小羊となり給うた。
11章56節
口語訳 | 人々はイエスを捜し求め、宮の庭に立って互に言った、「あなたがたはどう思うか。イエスはこの祭にこないのだろうか」。 |
塚本訳 | 彼らはイエスをさがし、(いつものように宮に姿が見えないので、)宮(の庭)に立って語り合った、「どう思うか、あの人はとてもこの祭には来ないだろう。」 |
前田訳 | 彼らはイエスを探し、宮に立って互いにいった、「どう思うか。もう宮には来ないであろうか」と。 |
新共同 | 彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」 |
NIV | They kept looking for Jesus, and as they stood in the temple area they asked one another, "What do you think? Isn't he coming to the Feast at all?" |
註解: 一方田舎者の好奇心と他方イエスを見出さんとする間謀 の動静(次節)を示している。いずれにしてもイエスの問題が人々の注意の中心点をなしていたことを見ることができる。イエスはその身辺の危険を知り、おそらくエルサレムに来ないだろうとの推測が多くあった有様をも想像することができる。
11章57節
口語訳 | 祭司長たちとパリサイ人たちとは、イエスを捕えようとして、そのいどころを知っている者があれば申し出よ、という指令を出していた。 |
塚本訳 | 大祭司連とパリサイ人たちは、イエスの居所を知っている者は届け出るようにと、命令を出していた。イエスを捕えるためであった。 |
前田訳 | それは、大祭司とパリサイ人がふれを出して、彼のありかを知るものは届けよといっていたからである。彼を捕えるためであった。 |
新共同 | 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。 |
NIV | But the chief priests and Pharisees had given orders that if anyone found out where Jesus was, he should report it so that they might arrest him. |
註解: イエスが捕えられて殺さるべきことはかくして予め告知せられ、その注進が命令せられていた。この場合にエルサレムに向って進み給えるイエスの勇気こそ、神より出でしものでなければならない。
附記 [ラザロの復活について]ラザロの復活についてこれが事実であらざることを主張する学者が少なくない。従ってこの記事をもって(1)或はラザロは仮死の状態に入りたるに過ぎずとなし(パウルス)、(2)或はこれを神話となし(シトラウス)、(3)或はこれを説話となし(パウル)、(4)或はこれを比喩となして(ヴイゼ)説明し去らんとする多くの学者がいる。しかしながら彼らは何れも復活をもって有り得べからざる事実なりとの前提の下にこれらの説を発明しているのであって、復活を否定することそのことがすでに大胆なる独断である以上、これらの説明は重要なる意義を有しない。殊に復活を可能なる事実と認むるならばこれらの説明法はみな無用に帰するのである。
以上の学説よりもさらに一層重要にして困難なる問題は、かかる大事実をなぜに他の三福音書に記して置かないのかの問題である。これについては種々の説明があるけれども、最も首肯し得る説明は、マルタ、マリヤの一家はベタニヤにおける名家であって、三福音書が記載される頃にはなお衆議所の議員とキリスト者との間にその当時の記憶が明らかに残っており、ラザロもなお生存していたために、この記事を記すことはこの家族とパリサイ人、祭司長らとの間の関係をまた再び険悪ならしむる恐れがあったためか(ヨハ12:10を見よ)、またはこの家族をしてあまりに高ぶる心を起さざらしめんがためであったのであろう。この種の沈黙または匿名は、これを聖書に多く見出すことができる。ゲッセマネにおいて大祭司の僕の耳を切り落せる人の名は三福音書に記されずして、ヨハネ伝が始めてそのペテロなることを記し(マタ26:51等。ヨハ18:10)、マタイ伝マルコ伝は(マタ26:6以下。マコ14:3以下)ベタニヤの村名を記して姉妹の名を略し、ルカ伝は反対に(ルカ10:38)姉妹の名を記して村名を隠している。これらの事実より見てラザロの復活のごとき大事実を記さずに置くことが必要であったのであろう。而して聖霊はヨハネを導きて後に至りこれらの障害が除去せられて後にこのことを記さしめた。
ヨハネ伝第12章
分類
4 受難週
12:1 - 19:42
4-1 受難前の出来事
12:1 - 13:38
4-1-1 マリヤの塗油
12:1 - 12:8
12章1節
口語訳 | 過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。 |
塚本訳 | イエスは過越の祭の六日前に(また)ベタニヤに行かれた。ここにはイエスが死人の中から生きかえらせたラザロがいた。 |
前田訳 | さてイエスは過越の六日前にベタニアに来られた。そこはイエスが死人の中から起こされたラザロのいたところである。 |
新共同 | 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。 |
NIV | Six days before the Passover, Jesus arrived at Bethany, where Lazarus lived, whom Jesus had raised from the dead. |
註解: この日はニサンの月の十日(日曜日)であった。イエスの終末いよいよ近付き来りて、多くの意味深き光景があらわれた。ヨハネはその中よりマリヤの塗油(1−11)と、エルサレム入城(12−19)と、宮における最後の光景(20−36)とを記している。エルサレムにはイエスの敵の本拠があった。それ故に彼はその愛し給えるラザロの家をもってその死に先立てる一時の宿所となし給うた。幸福なる一家族なるかな。イエスは元来り給えるペレア地方を経てエリコに至り(ルカ18:35以下)ザアカイの家に宿り給い、そこよりベタニヤに行き給うた。(注意)この日が何日に当るかにつきて多くの異論あり。イエスの死の日を計算する上に重要である。ヨハ19:42(十九章末尾)附記1「イエスの死に給いし日の計算」参照。
12章2節
口語訳 | イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。 |
塚本訳 | するとそこでイエスのために宴会が催され、マルタは給仕をし、ラザロは相伴客の一人であった。 |
前田訳 | そこにイエスのために夕食がそなえられた。マルタは給仕し、ラザロはイエスの相客のひとりであった。 |
新共同 | イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。 |
NIV | Here a dinner was given in Jesus' honor. Martha served, while Lazarus was among those reclining at the table with him. |
註解: 「此處 」はラザロの家を意味せず、ベタニヤの村を指す。饗宴の場所はユダヤ人の嫌忌する癩病人シモンの家であった(Z0、マタ26:6等)。マルタは接待掛り、ラザロは客の中の一人であった。復活せるラザロの出席はイエスの大なる栄光であり、ユダヤ人の嫉視 の原因であった。
12章3節 マリヤは
口語訳 | その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。 |
塚本訳 | そのときマリヤは混ぜ物のない、非常に高価なナルドの香油一リトラ(三百二十八グラム)をイエスの足に塗り、髪の毛でそれをふいた。香油の薫が家に満ちた。 |
前田訳 | マリヤはというと、純粋で高価なナルドの香油一リトラをイエスのみ足にぬり、髪でそれをふいた。家は香油のかおりに満たされた。 |
新共同 | そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 |
NIV | Then Mary took about a pint of pure nard, an expensive perfume; she poured it on Jesus' feet and wiped his feet with her hair. And the house was filled with the fragrance of the perfume. |
註解: マタ26:7註参照。ナルドはインド産の植物の名で、これより採った貴重の香油である。マリヤのイエスに対する崇敬と親愛は、彼女をしてその最も貴重なる宝を彼にささげしめた。彼女はまずイエスの頭にこの油を塗り(マタ、マコ)、なおその全心全霊をもってイエスを崇めんとしてついにその御足にこれを塗った。
註解: ユダヤにては頭髪を解くことは婦人の恥辱と考えられていた。マリヤはこれによりて飽くまでもイエスの御前に己を卑 くしたのである。我らは慈善事業、社会事業等のごとき我らの行為を傲然 として神の前に持ち出すごとき場合がある。マリヤの態度を見てつつしまねければならぬ。
註解: イエスを崇め彼に仕え彼の御前に卑下 る行為のかをりは、天において神の家に満つるであろう。「このかをりはユダを怒らしめた」(B1)。
12章4節
口語訳 | 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、 |
塚本訳 | 弟子の一人で、イエスを売るイスカリオテのユダが言う、 |
前田訳 | 弟子のひとりで彼を裏切るイスカリオテのユダはいう、 |
新共同 | 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。 |
NIV | But one of his disciples, Judas Iscariot, who was later to betray him, objected, |
註解: ユダはイエスに対する反逆心の化身とも見るべきもので、ユダの心は凡ての人がこれを有っている。この言を発したのは彼であったけれども、他の弟子も同じ思いを有っていた(マタ26:8。マコ14:4参照)。
12章5節 『
口語訳 | 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。 |
塚本訳 | 「なぜこの香油を三百デナリ(十五万円)に売って、貧乏な人に施さないのだろうか。」 |
前田訳 | 「なぜこの香油を三百デナリに売って貧しい人に与えないのですか」と。 |
新共同 | 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 |
NIV | "Why wasn't this perfume sold and the money given to the poor? It was worth a year's wages. " |
註解: 功利的にまたは道徳的に考うるならば、この考えは最も正しき考えであると言わなければならぬ。しかしながら天国における価値判断は功利主義の原則によらない。一デナリは約三十五銭、三百デナリは百円余の価値を有す。▲▲この邦貨の価値は1930年頃の邦貨の価値で今日(1956年)の価値ではない。一デナリはイエスの当時の労働者一日の賃金であった。従って三百デナリはその約一年分の収入に匹敵する。このナルドの香油は労働者の一年の全収入に匹敵することとなる。
12章6節 かく
口語訳 | 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。 |
塚本訳 | ユダがこう言ったのは、貧乏な人のためを考えたのではなく、(会計係であった)彼は泥坊で、あずかっている金箱の中に入るものをごまかしていたからであった。 |
前田訳 | こういったのは貧しい人を思ったからではなく、盗びとで金入れをあずかりながら中身を取っていたからである。 |
新共同 | 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。 |
NIV | He did not say this because he cared about the poor but because he was a thief; as keeper of the money bag, he used to help himself to what was put into it. |
註解: ユダは会計係であって、人々がイエスおよび弟子たちの必要に供うるために喜捨せる金銭を預っていた。他の弟子たちは真に貧者を思って前節の考えを懐いたけれども、ユダはこれによりてその金額を盗み取らんがためであった。貪慾の罪ほど恐るべきものはない。宗教的特権を利用して自己を利せんとする者は必ずイエスを売る者である。なぜにキリストはかかる者を十二使徒の一人となし、また会計係となし給いしか。キリストはユダについて無知ではなかった。従ってこれ神の御旨に従いてこれを用い給いしものであって、その目的はおそらく彼によりて神の経綸が実現せんがため、また最も優れたる人間といえども罪に陥る可能性あることを示めさんがため、またこの世においては聖徒の群中にすらサタンの侵入を免れることができないことを示すがためであろう。▲「思う」 melei は「気にかける」こと。
12章7節 イエス
口語訳 | イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。 |
塚本訳 | イエスは言われた、「構わずに、わたしの埋葬の日のためにそうさせておきなさい。 |
前田訳 | イエスはいわれた、「構うな。わが葬りの日までそうさせなさい。 |
新共同 | イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。 |
NIV | "Leave her alone," Jesus replied. "[It was intended] that she should save this perfume for the day of my burial. |
註解: マタ26:10−12註参照。我ら自己のために貯うる時我らの魂はそのために腐敗するけれども、キリストのために貯うる時、我らはこれを最もよき機会に用うることができる。マリヤはこれを貧民に施す代りにキリストのために貯えた。キリストに対する愛の発露である。マリヤが葬りのためにこれを注いだということは、マリヤ自身がキリストの死を明らかに意識せるものと解する必要がない。潜在意識の中にかかることを覚ったものであろう。女子はこの種の感応力に富み、殊にマリヤは主イエスを愛していたために、その死の予感によりて動かされたことであろう。
12章8節
口語訳 | 貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。 |
塚本訳 | 貧乏な人はいつもあなた達と一しょにいるが、わたしはいつも一しょにいるわけではないのだから。」 |
前田訳 | 貧しい人はいつもあなた方といっしょにいるが、わたしはいつもいっしょではないから」と。 |
新共同 | 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」 |
NIV | You will always have the poor among you, but you will not always have me." |
註解: イエスはまさにこの世を去らんとし給うに、弟子たちはこれに対して無関心であった。キリストに対する愛が足らなかったのである。キリストを愛せずしていかで貧民を愛することができようか。いと小さき一人に対する愛の行為をも重視し給うイエスが、貧民に施すことを軽視し給うたのではない。唯マリヤの己の凡てを献ぐる態度を愛し給うたのである。なおマタ26:13要義[愛の神秘]参照。▲唯物主義者はこのイエスの言に反対するであろう。しかし愛と物質とを同価値と考え、または物質が愛以上であると考えることは決して永遠の真理ではない。
12章9節 ユダヤ(
口語訳 | 大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。 |
塚本訳 | するとイエスがそこに来ておられることを知って、大勢のユダヤ人があつまって来た。それはイエスのためばかりでなく、イエスが死人の中から生きかえらせたラザロをも見ようとしたのであった。 |
前田訳 | 多くのユダヤ人がイエスがそこにおられると知って集まって来た。それはイエスのゆえだけでなく、彼が死人の中から起こされたラザロを見るためであった。 |
新共同 | イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。 |
NIV | Meanwhile a large crowd of Jews found out that Jesus was there and came, not only because of him but also to see Lazarus, whom he had raised from the dead. |
註解: ヨハ11:55、56節に記されし人々の多くはイエスを見んことを望み、さらに一層イエスと共にいるラザロを見んことを望んだ。
辞解
[民] 「群衆」と訳される場合が普通である。
12章10節 かくて
口語訳 | そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。 |
塚本訳 | そこで大祭司連はラザロをも殺す決意をした。 |
前田訳 | 大祭司らはラザロをも殺すことに決めた。 |
新共同 | 祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。 |
NIV | So the chief priests made plans to kill Lazarus as well, |
12章11節
口語訳 | それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである。 |
塚本訳 | 彼のことで多くのユダヤ人がだんだん離れていって、イエスを信じたからである。 |
前田訳 | 彼のために多くのユダヤ人が離れ去ってイエスを信ずるようになったからである。 |
新共同 | 多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。 |
NIV | for on account of him many of the Jews were going over to Jesus and putting their faith in him. |
註解: 祭司長らはその教権を維持せんがためにはいかなる手段たるを問わずしてこれを行う。その動機の不純、その行為の不正憎むべきである。宗教的特権階級の心理は常にかくのごときである。
12章12節
口語訳 | その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、 |
塚本訳 | あくる日、祭に来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞くと、 |
前田訳 | あくる日、祭りに来た多くの群衆はイエスがエルサレムヘ来られると聞いて、 |
新共同 | その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、 |
NIV | The next day the great crowd that had come for the Feast heard that Jesus was on his way to Jerusalem. |
12章13節
口語訳 | しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。 |
塚本訳 | (手に手に)棗椰子の枝を持って、(町から)迎えに出てきた。彼らは叫んだ。──〃ホサナ!、主の御名にて来られる方に祝福あれ、〃イスラエルの王に!、 |
前田訳 | 棕梠(しゅろ)の葉を手にして彼を迎えに出た。そして叫んだ、「ホサナ、祝福あれ、主のみ名によって来たるもの、イスラエルの王に」と。 |
新共同 | なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」 |
NIV | They took palm branches and went out to meet him, shouting, "Hosanna! " "Blessed is he who comes in the name of the Lord!" "Blessed is the King of Israel!" |
註解: (イエスのエルサレム入城につきてはマタ21:1−11註参照)エルサレムにおいては凡ての人イエスの来り給うのを待ちつつあったので、その入城の報伝わるや異常なる光景を呈した。彼らは国王や凱旋将軍の帰国に際して用いられる棕梠の枝をとりて、詩118篇、詩25篇、詩26篇を歌いつつ彼を迎えた。▲「讃むべきかな」 eulogêtos は「祝福されるべきかな」の意。
辞解
[民] 「群衆」のこと。
[ホサナ] ヘブル語「救い給えかし」の意。マタ21:9辞解参照。
[主の御名によりて来る者] 主より遣わされし者との意。
[イスラエルの王] イエスは霊的イスラエルの王に在し給う。ヨハ19:19。マタ27:42。
口語訳 | イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは |
塚本訳 | イエスは小さな驢馬を見つけて、それに乗られた。(預言書に)書いてあるとおりである。── |
前田訳 | イエスは子ろばを見つげてそれに乗られた。聖書に、 |
新共同 | イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。 |
NIV | Jesus found a young donkey and sat upon it, as it is written, |
註解: 驢馬は平和と謙遜の貌 (ゼカ9:9、10)。国王は軍馬または騾馬に乗りて入城する(T列1:38)のに反しイエスはこの賤しめられる驢馬に乗りて入城し給うた。
これは
12章15節 『シオンの
口語訳 | 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」と書いてあるとおりであった。 |
塚本訳 | 〃恐れるな、〃〃シオンの娘よ、見よ、あなたの王が来られる、驢馬の子に乗って。〃 |
前田訳 | 「おそれるな、シオンの娘、見よ、あなたの王がろばの子に乗って来られる」とあるように。 |
新共同 | 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」 |
NIV | "Do not be afraid, O Daughter of Zion; see, your king is coming, seated on a donkey's colt." |
註解: 「シオンの娘」はエルサレムの市またはその住民を指す。この世の王は裁き、キリストは救い給う。この世の王者が他国を征服し威儀堂々として入城する場合には人々の心に恐れをいだかしむるけれども、驢馬の子に乗りて来り給うイエスの御姿に対しては唯親愛の心が起るのみである。ゼカリヤは(引照1)このことを預言したのである。
辞解
[懼るな] ゼカ9:9には「大いに踊れ(文語訳:喜べ)」とあり、意味に差はない。
12章16節
口語訳 | 弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起した。 |
塚本訳 | 弟子たちは初めこのことがわからなかったが、イエスが(復活して)栄光を受けられた時にはじめてこれはイエスのことを書いたもので、人々がこれを(預言どおり)彼にしたのであることに気づいた。 |
前田訳 | 弟子たちにははじめこのことがわからなかったが、イエスが栄化されてから、これがイエスについて書かれていて、人々がこのとおり彼にしたことに思い当たった。 |
新共同 | 弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。 |
NIV | At first his disciples did not understand all this. Only after Jesus was glorified did they realize that these things had been written about him and that they had done these things to him. |
註解: イエスが驢馬を見出し、これに乗りてエルサレムに入り給い、群衆が彼を迎えしことをもって弟子たちは始めは別に意義深き事実とは考えなかった。後にイエスの復活昇天の後に、彼らは霊を受け(ヨハ14:26)てその目開かれこの事実を思い起し、これが預言に叶える事実であり、イエスが真にシオンの娘の王に在し給う証であることを覚った。なお ヨハ2:22、ヨハ13:7、ヨハ13:36、ヨハ16:4、ヨハ20:9 にも同様の無智の場合が記されている。人は霊の眼が真に開かれるまでは重大なる事実をすら見ることができない。ルカ9:45参照。
12章17節 ラザロを
口語訳 | また、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたとき、イエスと一緒にいた群衆が、そのあかしをした。 |
塚本訳 | また、イエスがラザロを墓から呼び出して死人の中から生きかえらせた時に居合わせた人々は、そのことを証しした。 |
前田訳 | 証したのは群衆であった。彼がラザロを墓から呼んで死人の中から起こされたときいあわせたのである。 |
新共同 | イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。 |
NIV | Now the crowd that was with him when he called Lazarus from the tomb and raised him from the dead continued to spread the word. |
註解: 本節はイエス、エルサレムに入り給う時群衆が彼を迎えし理由の説明であって、すなわちラザロ復活の目撃者がこのことをエルサレムに言いふらしたことを意味する。「墓より呼び起し云々」は「大なる奇蹟が易々 と為されしことを巧みに言い表わしている」(B1)。
12章18節
口語訳 | 群衆がイエスを迎えに出たのは、イエスがこのようなしるしを行われたことを、聞いていたからである。 |
塚本訳 | (今)群衆が出迎えたのは、イエスがこんな徴[奇蹟]をされたことを(その人たちに)聞いたからである。 |
前田訳 | それゆえ群衆は彼を出迎えもした。彼が徴を行なわれたことを聞いていたからである。 |
新共同 | 群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。 |
NIV | Many people, because they had heard that he had given this miraculous sign, went out to meet him. |
註解: 私訳「この故に群衆はイエスを迎えたりそは斯る徴を・・・・・・」この群衆は前節の群衆からラザロの復活につきて聞きたる人々である。而してヨハ11:45の人々と同じくこれらの人もイエスを信じて彼を迎えた。この17節、19節の事実がゼカリヤの預言を実現するの機会として神の用いるところとなったのである。▲すなわちゼカ9:9の預言(15節)が17節、19節のごとき形をもって実現した。
12章19節 パリサイ
口語訳 | そこで、パリサイ人たちは互に言った、「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」。 |
塚本訳 | そこでパリサイ人が互に言った、「見ろ、何もかもだめだ。世界中があんなに、あの男のあとについて行ってしまった。」 |
前田訳 | そこでパリサイ人が互いにいった、「見たことか、何をしてもむだだ。あのとおり世の人は彼について行ってしまった」と。 |
新共同 | そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」 |
NIV | So the Pharisees said to one another, "See, this is getting us nowhere. Look how the whole world has gone after him!" |
註解: ラザロの復活は多くの群衆に17、18節の影響を与え、パリサイ人らにとりては本節のごとき影響を及ぼした。その結果イエスを殺すに至ったのである。
辞解
[汝らの謀ることの益なきを] 原語「とても駄目な事を」のごとき絶望的調子あり。
[彼に従へり] 「彼に随 って去り行けり」と訳すべきで、パリサイ人らのみ取り残されて切歯扼腕 、復讎 せずには止まざる気勢を示している。
要義 [ラザロの復活よりイエスのエルサレム入城に至るまで]イエスはラザロを復活せしめて神の子としての力を示し給い、マリヤの愛の塗油を受けてその死を預示し給い、群衆の歓呼の下にエルサレムに入ることによりて、そのメシヤたることを示し給うた。その死を近くに控えしイエスの行動には、非常に緊張せるものがあったことを見逃すことができない。我々の罪を負うて死に給わんためにエルサレムに赴き給うまでのイエスのこの御姿は、やがて神の国において真の光榮の中に拝すべき彼の御姿の型である。ヨハネもこの意味においてこの記事を認 めたことは明らかである。
12章20節
口語訳 | 祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。 |
塚本訳 | この祭にお参りするため上ってきた人たちの中に、数人の(改宗した)異教人があった。 |
前田訳 | 祭りに礼拝のため上って来た人々の中に何人かのギリシア人がいた。 |
新共同 | さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 |
NIV | Now there were some Greeks among those who went up to worship at the Feast. |
註解: 異教徒にして今はエホバの神を信じユダヤ教の祭礼の一部に加わる者(半改宗者、Z0)を意味する。「神の国がユダヤ人より異邦人に移ることの序曲ともいうべきものであった」(B1)。
12章21節 ガリラヤなるベツサイダのピリポに
口語訳 | 彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。 |
塚本訳 | ガリラヤのベッサイダの人ピリポの所に来て、こう言って頼んだ、「君、イエスにお会いしたいのですが。」 |
前田訳 | 彼らはガリラヤはベツサイダ出のピリポのところへ来て頼んだ、「お願いします。イエスにお会いしたいのですが」と。 |
新共同 | 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。 |
NIV | They came to Philip, who was from Bethsaida in Galilee, with a request. "Sir," they said, "we would like to see Jesus." |
註解: 彼らの切なる願いはイエスに逢いて彼と語ることであった。悩める人類の凡ての願望はこの一句に尽きている。彼らがピリポに紹介の労を依頼せる所以は、彼らがおそらくベツサイダの附近の住民であったからであろう。(例えばデカポリスの地方は全くギリシャ人の地方であった)。十二使徒中ピリポとアンデレのみギリシャ語源の名を持っていることもこの節の説明を助ける。
12章22節 ピリポ
口語訳 | ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。 |
塚本訳 | ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレはピリポと行ってイエスに話した。 |
前田訳 | ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行ってイエスに話した。 |
新共同 | フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。 |
NIV | Philip went to tell Andrew; Andrew and Philip in turn told Jesus. |
註解: ピリポの注意深き性質として、ユダヤ人の反対を受けつつあるイエス、また従来ユダヤ人のみに道を伝えしイエスに対して、ギリシャ人と語られんことを要求するは、如何ならんかと躊躇したのであろう。同郷の友アンデレに相談した。そして二人は共に往きてイエスにこのことを告げた。
12章23節 イエス
口語訳 | すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。 |
塚本訳 | するとイエスは(非常に感動して)二人に答えられる、「人の子(わたし)が栄光を受ける時がついに来た。 |
前田訳 | イエスは答えられる、「人の子が栄化される時が来た。 |
新共同 | イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。 |
NIV | Jesus replied, "The hour has come for the Son of Man to be glorified. |
註解: イエスはギリシャ人らに面会を許し給うたことであろうけれども、そのことは省かれている。ゆえにこの答は二人の弟子とギリシャ人と群衆とに向って語り給うたのである。イエスはギリシャ人らが熱心に彼に面会を望むことと、反対にその選民ユダヤ人の不信とを見ていたく心を動かし給い、このことが己の死の近きことを示す一事実であることを感じ、異邦人の救われんがためにまずイエスが十字架上に死に給うことが必要であることを(ヨハ10:15−17)彼らに示し、また彼らもまたこの死を経ることが必要なることを教え給うた。「栄光を受くべき時」とは死を経て復活昇天し給う時を言う。(注意)この答は二人の弟子のみになされしものとする学者もあり(A1、G1、M0、H0、Z0)またはギリシャ人も共にいたことを認める学者もある(E0)。▲ギリシャ人はおそらく智慧や知識、すなわち哲学をイエスから学ぼうとしたのであろうがイエスはこれに対して自分の十字架の死を示し給うた(Tコリ1:22−23)。
12章24節
口語訳 | よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。 |
塚本訳 | アーメン、アーメン、わたしは言う、一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでもただの一粒である。しかし死ねば、多くの実を結ぶ。(だからわたしは命をすてる。) |
前田訳 | 本当にいう、一粒の麦は、地に落ちて死なねば、いつまでも一粒にすぎない。死ねば多くの実を結ぶ。 |
新共同 | はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 |
NIV | I tell you the truth, unless a kernel of wheat falls to the ground and dies, it remains only a single seed. But if it dies, it produces many seeds. |
註解: 福音が異邦人にも伝わり世界万民を救うためには、キリストがまず十字架につきて死に給い、後復活して神の右に坐し給うことが必要である。キリストの死は多くの人に生命を与うる原因である。このことはあたかも麦一粒地に落ちて死滅するかのごとくに見えながら、その中の生命が発育して多くの果を結ぶことに類似している。かく言いてイエスはその死がユダヤ人のみならずギリシャ人すなわち万民のための贖いの死であることを暗示し給うた。
12章25節
口語訳 | 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。 |
塚本訳 | (この世の)命をかわいがる者は(永遠の)命を失い、この世で命を憎む者は、命を守って永遠の命にはいるであろう。 |
前田訳 | おのがいのちを愛するものはそれを失い、この世でいのちを憎むものは永遠のいのちへとそれを保とう。 |
新共同 | 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 |
NIV | The man who loves his life will lose it, while the man who hates his life in this world will keep it for eternal life. |
註解: 前節に己の死を預言し給えるイエスは、この節に弟子たちやギリシャ人らもまた彼に倣いてその生命を棄つべきこと、而してこれによりてのみ永遠の生命に至ることを教え給うた。このことは曩 にしばしば弟子たちにも教え給える御言であって(マタ10:39、マタ16:25。等)、イエスに謁 えんことを乞えるギリシャ人にもこのことを要求し給い、ここに異邦人のキリストの弟子たるべき要件を示し給うた。ゆえにキリストに面会を求むることは嘉 すべきではあるけれども、それは単に師弟の関係に入るごとき程度のものではなく、イエスまず死に給い、弟子たちもまたその生命を憎まなければならない。キリストの弟子たることは至難であることを示している。「生命を憎む」とは己が生命を愛することの反対であって、神に仕えんとする者はこの世におけるその生命が、いかに多くの妨害を与うるかを知るが故にこれを憎むに至るのである。▲▲ギリシャ人は本来自己を愛しこれを完成しようとした。ヒューマニズムはこの点において福音と対立する。
12章26節
口語訳 | もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。 |
塚本訳 | わたしに仕えようとする者は、わたしに従い(わたしと同じ道を歩き)なさい。そうすれば、わたしに仕える者もわたしがおる所におることができる。父上はわたしに仕える者に、(そんな)栄誉をくださるのである。] |
前田訳 | わたしに仕えるものはわたしに従え。そうすれば、わたしに仕えるものもわたしがいるところにいよう。わたしに仕えるものを、父は尊ばれよう。 |
新共同 | わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 |
NIV | Whoever serves me must follow me; and where I am, my servant also will be. My Father will honor the one who serves me. |
註解: キリストの弟子たらんとする者はユダヤ人たるとギリシャ人たるとを問わず、イエスの進み給う十字架への途に、彼の後に従って進まなければならぬ。キリストに仕うる者はキリストの居給う処にいるのであって、従って彼とその苦難を共にしなければならぬ。しかしながら同時にその栄光も、これをキリストと共にすることができるのである(黙14:4)。ゆえにこの道は苦難の途であると共に栄光の途であって、イエスより離れて苦難の途を避くる者はこの栄光に達することができない。この御言によりイエスに従わんとするギリシャ人らにその困難について教え給う。▲キリスト者はイエスを信ずるだけでなくイエスに仕える者でなければならぬ。イエスを自己の救いに利用しようとする者は真のキリスト者ではない。
註解: キリストに事 うる者はユダヤ人と異邦人との差別なく、父なる神はこれを貴び敬い、これにキリストの栄光に等しき栄光を与え給うであろう。父の目に最も喜ばしきことは人がキリストに事 うるのを見ることである。父が貴び敬い給うことは、いかにそのことが大切であるかがわかる。我ら父の御心を思い畏れつつキリストに事 えなければならぬ。▲▲世人は仕える人を賤しめるけれども神はイエスに事 える人を貴び給う。
口語訳 | 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。 |
塚本訳 | 今、わたしは胸がどきどきしてならない。ああ、なんと言っ(て祈っ)たらよいだろう。『お父様、この(試みの)時からわたしを救ってください』(と祈ろうか。)いやいや、わたしはこのため、この時のために(この世に)来たのだ。 |
前田訳 | 今、わが心はさわぐ。何といおうか。父上、この時から救い出してください。否、このため、この時にこそわたしは来たのです。 |
新共同 | 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。 |
NIV | "Now my heart is troubled, and what shall I say? `Father, save me from this hour'? No, it was for this very reason I came to this hour. |
註解: ここまで語り来ってイエスの御心はその死の苦痛に対する予感と、その使命に服従せんとする御心との間に非常なる苦闘を味わい給い、またこれと同じ運命に陥るべき信徒のことを思いて心を乱し給うた。ロマ8:26のごとくにいかに祈るべきかに迷い給うた。
辞解
[心騒ぐ] 心が撹乱される貌。
註解: まずイエスの人間性(ヘブ4:15)はその予見せる死の苦痛のために「父よ、この時(苦難の時)より我を救い給え」との祈りとなって顕われた。マタ26:39の祈りの前半に類似している。而して後イエスの御心は父の御旨を思いて「されど云々」の告白となり、「それ故に我はこの苦杯を飲み干さん」との決心を示し給うた(マタ26:39後半を見よ)。イエスはその自然の情を掩 い給わなかった。しかしながらたとい大なる苦悩の後にても、神の御旨に対する服従が常にその自然の情を支配することができたのである。「この時より我を救い給え」は「救い給えと言うべきか」との意味に解する学者もある(G1)けれどもその必要を認めない。
口語訳 | 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。 |
塚本訳 | 『お父様、(どうかわたしを御心のままになさって、)あなたの御名の栄光をあらわしてください!』」すると天から声がひびいた、「わたしは(あなたの業で)すでに(わたしの)栄光をあらわした。(今)また(あなたの苦しみによって)栄光をあらわすであろう。」 |
前田訳 | 父上、あなたのみ名を栄化してください」と。すると天から声がした、「わたしは栄化したし、また栄化しよう」と。 |
新共同 | 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」 |
NIV | Father, glorify your name!" Then a voice came from heaven, "I have glorified it, and will glorify it again." |
註解: 死の苦痛を免れることもイエスの願いであった。されどさらに大なる願いはイエスにとっていかに苦痛であっても、これによりて父の御名の栄光が顕わされることであった。この願いが彼を支配して彼の心の撹乱は静まった。
辞解
[御名の栄光] 「神の栄え」というに同じ。
ここに
註解: ヨハ17:1−5。イエスの過去における御業はみな父の栄光となった。これ父がイエスをしてその栄光を顕わさしめ給うたのである。而して将来はイエスの死とその復活によりて異邦人をも救うことによりて、さらに父はその栄光を顕わし給うであろう。イエスはそのバプテスマと変貌の際にも天よりの証を受け給い(引照1)、今またここに父よりこの証を受け給うた。これらはみなイエスの生涯における重大なる機会であって、バプテスマはその公生涯に入り給う時を示し、変貌は律法時代の終りと福音時代の初めとを示し、この場合は福音が異邦人に及ぶことを示している。
12章29節
口語訳 | すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。 |
塚本訳 | そこに立っていてこれを聞いた群衆は、雷が鳴ったと言った。「天使がイエスと話した」と言う者もあった。 |
前田訳 | そこに立っていてそれを聞いた群衆は「雷が鳴った」といった。ほかに、「天使がイエスに話した」というものもあった。 |
新共同 | そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。 |
NIV | The crowd that was there and heard it said it had thundered; others said an angel had spoken to him. |
註解: 神の御声が事実天より響いたのであったけれども、信仰の程度によりてこれを聞き分くる力にも差異があった。あたかも人間が動物に向って語る時、動物の知識の程度によりて、或はこれを無意味の音響と解し、或は意味ある命令と解するがごときこの類である。ゆえに群衆すなわち大多数のものは雷霆の響きと解し、少数の人々はこれを天の使いの語と解した。▲この神の声がユダヤ人とギリシャ人とが共にいた時に聞こえたことは福音の全世界に及ぶことを示す。
12章30節 イエス
口語訳 | イエスは答えて言われた、「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである。 |
塚本訳 | イエスは答えて言われた、「あの声がきこえてきたのは、わたしのためではない。あなた達のため(あなた達の信仰を強くするため)である。 |
前田訳 | イエスは答えられた、「あの声がしたのはわたしのためではなく、あなた方のためである。 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。 |
NIV | Jesus said, "This voice was for your benefit, not mine. |
註解: 人々は御使いがイエスに語れるものと思ったのは誤りであって、この声はイエスの祈りが聴かれしことを示すにあらず、人々のイエスに対する不信を戒め信仰に立ち帰らしめんがために、神がイエスによりて崇められ給うことを彼らに教えんとし給う声であった。
口語訳 | 今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。 |
塚本訳 | 今こそ、この世の裁きがおこなわれる。今こそ、この世の支配者(〔悪魔〕)が(この世から)放り出される。(今わたしが天に挙げられるからである。) |
前田訳 | 今、この世の裁きがある。今、この世の君が外へ投げ出されよう。 |
新共同 | 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。 |
NIV | Now is the time for judgment on this world; now the prince of this world will be driven out. |
註解: 今キリスト十字架上に死に給うことによりて、従来完全に悪魔に従っていたこの世に対し審判が行われる。すなわちこの世は神の子キリストを十字架に釘 けしことによりて神に対する反逆の罪に定められる。而して最後の審判はこの時に始まりし審判の完全なる実現である。▲▲イエスはこの世の司から審 かれて死なれたように見えるけれども、その復活により永遠に世に勝ち、かえってイエスを殺した世が神の子の上に無力であること、サタンの力が支配力を失ったことが証明された。これによって世は審 かれたのであった。
註解: キリスト十字架につきて死に給うことによりて、死の権力を有つ者なるこの世の君なる悪魔はその使命を終えた。而してキリスト死に打勝ちて甦り給うが故に、もはやキリストを信じキリストと共に甦る者の上に悪魔はその力を振るうことができない。すなわちキリストは「十字架より凱旋し給い」(コロ2:15)「悪魔を死によりて亡ぼし」給うた(ヘブ2:14)。ゆえにキリストの死によりて悪魔は逐い出されたのである。ただし悪魔はこの時この世の完全なる支配を失ったけれども、悪魔が最後に完全に逐い出されるのはこの世の終末においてである(黙20:10)。従ってその時迄は悪魔はなおその働きを息 めない(Uコリ4:4。エペ2:2、エペ6:12。ロマ16:20)。
辞解
[この世の君] マタ4:1-10註参照。引照3参照。悪魔を指す。
12章32節
口語訳 | そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。 |
塚本訳 | (しかし)わたしは地から挙げられた時、みんなをわたしの所に引き寄せるであろう。」 |
前田訳 | そして、わたしが地から挙げられるとき、皆をわたしに引きよせよう」と。 |
新共同 | わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 |
NIV | But I, when I am lifted up from the earth, will draw all men to myself." |
註解: キリスト「地より擧げられて」十字架に死して復活昇天し給う場合には、「凡ての人」すなわちユダヤ人のみならずギリシャ人も(20節)その他あらゆる民族もこれをキリストの御許に引きよせ、サタンの支配する罪のこの世より救い出し給うであろう。かくしてサタンはその位より逐い出されるのである。「凡ての人」なる文字をもって万人救済説を証明する理由とする学者もある(M0)けれども、やや牽強のように思われる(C1、C2 )。ただし聖書に万人救済の思想の閃きがあることは事実であって、本節もその一つである。
辞解
[擧げられ] 直接には十字架の死を示し(33節)、而してその中に復活昇天の意を含ましめている。ヨハ3:14、ヨハ8:28参照。殊に「地より」と言いてこのことを明らかにしている。
12章33節 かく
口語訳 | イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである。 |
塚本訳 | このように(「挙げられる」と)言われたのは、自分がどんな死に方で死なねばならぬかを、(すなわち十字架による死を)暗示されたのである。 |
前田訳 | こういわれたのは、どんな死に方で死ぬべきかを示されたのである。 |
新共同 | イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。 |
NIV | He said this to show the kind of death he was going to die. |
註解: キリストの十字架上の死は世の審判、悪魔の追放、万民の救済の原因となるのであって、イエスは前節のごとくに語り給うことによりてその死の有様が十字架に擧げられることでありその結果が世の審判、悪魔の追放、万民の救済であることを示し給うたのである。
12章34節
口語訳 | すると群衆はイエスにむかって言った、「わたしたちは律法によって、キリストはいつまでも生きておいでになるのだ、と聞いていました。それだのに、どうして人の子は上げられねばならないと、言われるのですか。その人の子とは、だれのことですか」。 |
塚本訳 | すると群衆が答えた、「われわれは律法[聖書]で、救世主は〃永遠に〃(地上に)生きながらえると聞いていたのに、あなたはどういう訳で、人の子は(死んで天に)挙げられねばならぬと言われるのですか。その人のことはいったいだれのことです。」 |
前田訳 | そこで群衆が答えた、「われらは律法でキリストは永遠に生きながらえると聞いている。それなのにあなたはどうして人の子は挙げられねばならぬというのか。人の子とはだれなのか」と。 |
新共同 | すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」 |
NIV | The crowd spoke up, "We have heard from the Law that the Christ will remain forever, so how can you say, `The Son of Man must be lifted up'? Who is this `Son of Man'?" |
註解: 「律法」は旧約聖書全体の総称。旧約聖書にはメシヤの地上の位は永遠であることを教うる個所が多くある (詩16:10、詩45:6、詩72:5、詩89:29、詩110:4。イザ9:6。ダニ7:13、14) 。群衆はこれを読んで知っていた。それ故にイエスが「我もし地より擧げられなば」と言い給いしに対してその矛盾の解決を求め、かつもし人の子なるメシヤが聖書の教うるところと異なり死ぬべきものであるならば、いったい人の子の任務と本質はいかなるものであるかを問うている。▲イエスは23節に「人の子」と言い、32節に「我」と言ったのであるから群衆はイエスが人の子であることを知ったはずであるが、本節の質問のごとく人はイエスの復活まではこのことがわからなかった。
12章35節 イエス
口語訳 | そこでイエスは彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。 |
塚本訳 | するとイエスは(それには答えず、)彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなた達のところにある。光のある間に(早く)歩いて、暗闇に追い付かれないようにせよ。暗闇を歩く者は、自分がどこへ行くのか知らない。 |
前田訳 | イエスは彼らにいわれた、「いましばらく光はあなた方のところにある。光のある間に歩いて、闇が追い越さぬようにせよ。闇の中を歩むものは自分がどこへ行くか知らない。 |
新共同 | イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。 |
NIV | Then Jesus told them, "You are going to have the light just a little while longer. Walk while you have the light, before darkness overtakes you. The man who walks in the dark does not know where he is going. |
註解: (▲▲光はイエス自身を指す。)イエスは彼らの問に直接に答え給わなかった。而してイエスは光として短時日彼らの間に居り給うに過ぎざることを示し、この切迫せる場合における彼らの覚悟につき語り給うた。イエスの態度は常にかくのごとくであって、彼らの虚しき好奇心のごときに対しては何らの答をも与え給わなかった。
、
註解: 彼らの為すべきことは空なる神学論聖書論を闘わすことではなく、この光のある間に直ちに為すべきことを為し終ることであった。光なしに人は歩むことができない。もしキリストの光がある中に歩まないならば暗黒が彼らを捕え、彼らを迷路の中に陥れるであろう。キリストの光なしに凡ての人は暗黒なる迷路の中にいるのである。
12章36節
口語訳 | 光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。 |
塚本訳 | 光のある間に光を信じて、光の子になりなさい。」、こう話すと、イエスは(そこを)立ち去って、彼らから姿をお隠しになった。(イエスの伝道はこれで終ったのである。) |
前田訳 | 光のある間、光を信ぜよ、光の子らになるために」と。こう話してからイエスは立ち去って彼らから姿を隠された。 |
新共同 | 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。 |
NIV | Put your trust in the light while you have it, so that you may become sons of light." When he had finished speaking, Jesus left and hid himself from them. |
註解: 而して光のある間に為すべきことは光の源なるイエスを信ずることである。この信仰によりてイエスの光を身に受けて自ら光り輝くもの、すなわち「光の子」となることができる(ヨハ8:12。マタ5:14)。この数節においてイエスが特にその死の以前に彼に来ることを薦め給うたのは、イスラエル全体を問題とし給うたのであって(G1)、異邦人はその死後一般に救われるけれども、イスラエルは一国民として彼をメシヤとして受入れるべきはずであったので、このことを特に力をこめて主張し給うたのである。
要義 [サタンの逐放とその後]イエスの死によりてサタンなるこの世の君は放り出された。すなわちキリストの死によってサタンはこの世におけるその主権を失ったのである。彼はもはやその絶対権を行使すること能わず、キリストを信じて彼に属する者はもはやサタンの権威より脱出したのである(使26:18。コロ1:13)。しかしながらサタンはあたかも位を奪われし王のごとくキリストに属する反逆者の立場に立ち、その部下を率いてその暴威を逞 しくし、殊に激しくキリストに属する者を攻める。ゆえにキリスト者は今日もなおサタンおよびその軍勢と闘わなければならぬ(エペ6:10−17)。
イエス
註解: あたかも太陽が没したようにイエスはこの時を限りとしてユダヤ人の目より離れ給い、今後は唯弟子たちのみに語り給うた。▲20−36節はイエスの死と復活に関する大宣言であった。
12章37節 かく
口語訳 | このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。 |
塚本訳 | (以上のように、)イエスはこんなに多くの徴[奇蹟]を人の見ている前で行われたが、人々は彼を信じなかった。 |
前田訳 | これほど徴を彼らの前で行なわれたのに彼らはイエスを信じなかった。 |
新共同 | このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。 |
NIV | Even after Jesus had done all these miraculous signs in their presence, they still would not believe in him. |
註解: イエスの徴はヨハネ伝に記される六つの奇蹟に限られていなかった(ヨハ7:30、ヨハ20:30)。これをもなお信ぜざりしユダヤ人の不信の罪は大であった。▲▲病を医 されパンを与えられることをば熱心に求めながら、イエスを信じ彼に事 えようとする者は少ない。
12章38節 これ
口語訳 | それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。 |
塚本訳 | 預言者イザヤの言葉が成就するためであった。──〃主よ、だれがわたし達に聞いたことを信じましたか。だれが主の御腕(の偉大な力)を認めましたか。〃 |
前田訳 | それは預書者イザヤのことばが成就するためであった。いわく、「主よ、だれがわれらに聞いたことを信じましたか。だれに主のみ腕が示されましたか」と。 |
新共同 | 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」 |
NIV | This was to fulfill the word of Isaiah the prophet: "Lord, who has believed our message and to whom has the arm of the Lord been revealed?" |
註解: イスラエルの不信は神の預言し給える処であり、これが成就せんがためであった。すなわち一方ユダヤ人の自由意思によりイエスを拒んだことが、すなわち他方より見れば神の予定の成就となったのである。イザ53:1のこの引用はイエスに関する大預言(イザ53:1−12)の前置であって、ここでは「我らに聞きたる言」は使徒らの言を示し、「主の御腕」はイエスの力によるその奇蹟を示す。すなわち使徒等の言をイスラエルは信ぜず、主の奇蹟を彼らは受けなかった。
口語訳 | こういうわけで、彼らは信じることができなかった。イザヤはまた、こうも言った、 |
塚本訳 | (そして)人々が信じ得なかったのは、イザヤがさらにこう言っているからである。── |
前田訳 | それゆえ彼らは信じえなかった。またイザヤはいった、 |
新共同 | 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。 |
NIV | For this reason they could not believe, because, as Isaiah says elsewhere: |
註解: 彼らは信ぜざりのみならず、信じ得なかったのである。「此の故」は前を受けて次に、その理由を詳述する意。ヨハ10:17辞解を見よ。
12章40節 『
口語訳 | 「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。 |
塚本訳 | 〃主は彼らの目を見えなくし、その心を頑なにされた。これは彼らが目で見、心で解り、心を入れかえて、わたし(主キリスト)に直されないようにするためである。〃 |
前田訳 | 「主は彼らの目を目しいにし、彼らの心を頑にされた。これは彼らが目で見ず、心で悟らず、心を転ぜず、わたしが彼らをいやすことのないためである」と。 |
新共同 | 「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」 |
NIV | "He has blinded their eyes and deadened their hearts, so they can neither see with their eyes, nor understand with their hearts, nor turn--and I would heal them." |
註解: 彼らの信じ得なかったのは神がこれを預言し給えるのみならず(38節)、またこれを予定し給えるがためであった。すなわちイザヤの言えるごとく神は彼らの霊の眼を暗くし、心を頑固にし給うた。キリストによりて(M0)醫されざらんがためである。予定と個人の自由意思の関係につきてはロマ9−11章殊にロマ9:14−33註参照。▲37−40節はイザヤの預言を多く引用し、神に対する人間の反逆の執拗さを示す。神は人間のこの反逆心をその赴くままに放任し給うた。これが予定説の意味である。神が好んで人をかく為したのではない。40節はこれを強意的に表示したものである。
辞解
この引用はイザ6:9、10よりの引用であってヘブル語の原書とは異なり、七十人訳とも少しく異なっている。ヨハネはこれを自由に引用したのである。
12章41節 イザヤの
口語訳 | イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。 |
塚本訳 | イザヤがこう言ったのは、(ウジヤ王の死んだ年に)彼[主キリスト]の栄光を見たからである。すなわちイザヤはキリストのことを言ったのである。 |
前田訳 | こうイザヤがいったのは、彼(キリスト)の栄光を見て彼について語ったのである。 |
新共同 | イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。 |
NIV | Isaiah said this because he saw Jesus' glory and spoke about him. |
註解: 神はイザヤに受肉前のイエス(ヨハ8:56。Tコリ10:4。ピリ2:6>)を示し、イザヤは彼を見、彼について語ったのである。神にとっては凡ての過去も凡ての未来も現在の事実である。
12章42節 されど
口語訳 | しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。 |
塚本訳 | とは言え、(最高法院の)役人たちのうちにも、彼を信じた者が多かった。ただパリサイ人をはばかって、(公然)それを告白しなかった。礼拝堂追放にされるのをおそれたのである。 |
前田訳 | それにもかかわらず、司たちの中にも彼を信じたものが多かった。しかしパリサイ人をおそれて告白しなかった。会堂から追放されないためであった。 |
新共同 | とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。 |
NIV | Yet at the same time many even among the leaders believed in him. But because of the Pharisees they would not confess their faith for fear they would be put out of the synagogue; |
註解: 全国民としてはイスラエルはイエスを拒んだけれども個人としては彼を信ずる者あり、また「司たちの中にも」有った。ただし最も有力者なる司たちは、その地位を失わんことを恐れてこの信仰を告白しなかった。意気地なき人々よ、彼らの良心は常にこれがために責められていたことであろう。されどイエスはなお彼らを赦し容れ給うた(ヨハ19:38、39参照)。
辞解
[司] 衆議所の議員で多くはパリサイ派に属していた。
12章43節
口語訳 | 彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。 |
塚本訳 | 彼らは神からの名誉よりも、人間からの名誉の方を愛したのである。 |
前田訳 | 彼らは神の誉れよりも人の誉れを好んだのである。 |
新共同 | 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。 |
NIV | for they loved praise from men more than praise from God. |
註解: 神より誉められることよりも人より誉められることを好むキリスト者は今日も多く存在する。同様に神の栄光を求めずして己の安逸を求め、神の喜びを求めずして人の好意を求め、神の審判を恐れずして人の批難を恐れることは愚かなことである。もし人常に神を見つめるならばその心はかかる弱さに陥らないであろう(マタ10:32、33。使4:19、使5:29)。
要義 [イスラエルの不信と神の経綸]ヨハネ伝記者はここに以上十二章の要約としてイスラエルの不信につきて論じ、これをギリシャ人の求道者(20節)に対立せしめて、福音が異邦人に及ぶことを示した。この問題はパウロが論じている問題であって(ロマ書9-11章)、ユダヤ人の不信はかえって福音が異邦人に及ぶ原因となったのである(使13:46−48、使18:6。ロマ11:11)。ここに使徒ヨハネはこの問題に深く立入らないけれど、大体においてこれと同一の思想をここに陳述しているのである(ヨハネとパウロの一致はここにも明らかにこれを認めることができる。)ゆえにこの問題についてはさらにパウロの諸書簡、使徒行伝等を参照すべし。
12章44節 イエス
口語訳 | イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、 |
塚本訳 | (つまり)イエスはこう言って叫ばれた、「わたしを信ずる者は、わたしを信ずるのではない、わたしを遣わされた方を信ずるのである。 |
前田訳 | イエスは叫んでいわれた、「わたしを信ずるものは、わたしをでな<、わたしをつかわされた方を信じ、 |
新共同 | イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。 |
NIV | Then Jesus cried out, "When a man believes in me, he does not believe in me only, but in the one who sent me. |
12章45節
口語訳 | また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。 |
塚本訳 | また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。 |
前田訳 | わたしを見るものはわたしをつかわされた方を見る。 |
新共同 | わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。 |
NIV | When he looks at me, he sees the one who sent me. |
註解: 本節以下50節に至るまでをイエスが大声にて叫び給える所以は、ユダヤ人の不信または薄信を責めて、強くイエスの何たるかを聴く者の心に印象せしめんがためであって、従来種々の場合にイエスの言い給いしことの反復要約である。イエスは最も重要なる結論としてこれを彼らに与え給うたのである。すなわちイエスを信ずることは一人の人間を信ずるに非ずして神を信ずることであり、イエスを見て真に彼を知る者は単に一人の人を知るにあらずして神を知るのである。イエスは実に神に在し給う。イエスによらずして我ら神を信じ、また彼を見ることができない。かくして神がイエスにおいて完全に御自身を示し給いしことは感謝すべきことである。なお引照の外44節についてはヨハ7:16、ヨハ5:19、ヨハ8:42参照。45節についてはヨハ8:19、ヨハ14:10参照。(注意)この場合このイエスの言を聴き居る者はだれなるやにつきて諸説あり。(1)ユダヤ人が36節においてまさに去らんとする時彼らに向って呼び給えりとする説(B1、Z0)、(2)ヨハネがイエスの従前の御言の大体の要約をここに為せりとする説(M0)、(3)弟子たちに対するとする説などあり。第一の説を採る。
12章46節
口語訳 | わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。 |
塚本訳 | わたしが光として世に来たのは、わたしを信ずる者はだれも、暗闇の中に留っていないようにするためである。 |
前田訳 | わたしが光として世に来たのは、わたしを信ずるものがだれも闇の中にとどまらないためである。 |
新共同 | わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。 |
NIV | I have come into the world as a light, so that no one who believes in me should stay in darkness. |
註解: ヨハ8:12註および引照の箇所参照。44、45節がイエスの父と一つなる実体を示すとすれば、本節は光としてのその属性を示すものである。
12章47節
口語訳 | たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。 |
塚本訳 | しかしわたしの言葉を聞いて守らぬものがあっても、わたしはその人を罰しない。なぜなら、わたしは世を罰するために来たのでなく、世を救うために来たのだから。 |
前田訳 | わがことばを聞いて守らぬものをも、わたしは裁かない。わたしが来たのは世を裁くためでなく、世を救うためであるから。 |
新共同 | わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。 |
NIV | "As for the person who hears my words but does not keep them, I do not judge him. For I did not come to judge the world, but to save it. |
註解: 本節はキリストの使命を示す。キリストは現世においては彼らを審 き給わない(世の終末においては彼らを審 き給うことは勿論であるが)。ヨハ3:17a参照。▲31節に示すごとくイエスの死がかえって世を審 くこととなる。
12章48節
口語訳 | わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。 |
塚本訳 | (だが、)わたしを排斥し、わたしの言葉を受け入れない者を罰する者が(ほかに)ある。わたしが話した言葉、それが最後の日にその人を罰するのである。 |
前田訳 | わたしをしりぞけ、わがことばを受けぬものには、それを裁くものがある。わたしが語ったことばこそ終わりの日に彼を裁く。 |
新共同 | わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。 |
NIV | There is a judge for the one who rejects me and does not accept my words; that very word which I spoke will condemn him at the last day. |
註解: イエスは専ら世を救わんがために専心に働き給い、そのために十字架にさえ釘 き給うた。しかしながらこれを見て人類は終末の審判を免れたと思ってはならない。イエスの語り給える言すなわち福音そのものが彼らを審判 くに充分である。その故は次節の説明によりて明らかである。ゆえにイエスの言を信ぜざるものはこれによりて審 かれる。ヨハ5:45、46には旧約聖書によりて不信者は審 かるべきことを示し、ここにはイエスの御言すなわち新約聖書が終りの日に我らを審判 くことを教え給うた。我ら顧みなければならない。
12章49節
口語訳 | わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。 |
塚本訳 | わたしは自分勝手に話したのではない。わたしを遣わされた父上が、何を言い、何を話すべきかを命じられたのである。 |
前田訳 | わたしは自分から語ったのではない。わたしをつかわされた父ご自身がわたしに何をいい、何を語るべきかをいいつけられた。 |
新共同 | なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。 |
NIV | For I did not speak of my own accord, but the Father who sent me commanded me what to say and how to say it. |
註解: ヨハ7:16、ヨハ8:28、ヨハ8:38。ヨハ14:24参照。父の命によりてイエスの語り給える言を受けざる者はすなわち父の命に背くものであって、当然審判 かれなければならない。ゆえにイエスを信ぜざるものは単にイエスなる一人の人を信ぜざるにあらず神を信じないのであって、恐るべき運命に陥らなければならない。
口語訳 | わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。 |
塚本訳 | わたしは父上のこの命令が永遠の命であることを知っている。だからわたしが話していることは、父上の言われたことと寸分ちがわないのである。」 |
前田訳 | わたしは知る、彼のいいつけは永遠のいのちと。わが語ることは、父がわたしにいわれたとおりに語るそのことにほかならない」と。 |
新共同 | 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」 |
NIV | I know that his command leads to eternal life. So whatever I say is just what the Father has told me to say." |
註解: 神の言には生命あり(ヨハ1:4。Tヨハ1:2)。イエスはこの永遠の生命の言をもち給う(ヨハ6:63、ヨハ6:68。ヨハ8:51)。
されば
註解: イエスの御言は父の御言のままである。ゆえにこれを受けぬ者はこの言によりて審 かれ(48節)、これを受くるものはこの言によりて永遠の生命を獲得する。
要義 [イエスの「我れ」]44節以下においてイエスは「我」なる語を殊に多く繰返し給うた。完全なる権威をもって自己を他人の前に呈出し得る者は唯イエスのみである。イエスはその本質においても(44、45節)その属性においても(46節)、その使命においても(47節)、その言においても(48−50節)みな父なる神の代表であった。ゆえにイエスが「我」と言い給いし時、我らは神自ら語り給うことを信ずることができる。このイエスに完全なる神の御姿を見得る者は幸いである。