黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ヨハネ伝

ヨハネ伝第14章

分類
4 受難週 12:1 - 19:42
4-2 イエスの決別説教 14:1 - 16:33
4-2-1 イエスに対する信仰 14:1 - 14:31
4-2-1-イ 父の家に於ける準備 14:1 - 14:4

註解: これよりイエスは16章の終りに至るまで、その袂別(べいべつ)の説教を為し給うた。これはイエスがその伝道の始めに為し給える山上の垂訓に相対応して福音書中の二大説教ともいうべきものである。 

14章1節 『なんぢら(こころ)(さわ)がすな、(かみ)(しん)じ、また(われ)(しん)ぜよ。[引照]

口語訳「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。
塚本訳(あなた達の来られない所にわたしが行くからとて、)心を騒がせるな。神を信ぜよ、またわたしを信ぜよ。
前田訳「あなた方の心を騒がせるな。神を信ぜよ、そしてわたしを信ぜよ。
新共同「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
NIV"Do not let your hearts be troubled. Trust in God ; trust also in me.
註解: イエスの接近せる死の予告(ヨハ13:33)、ペテロの叛逆の預言、イエスの死後の弟子たちの運命等を考うる時、彼らの心は(はなは)だしき憂いに沈まざるを得なかった。弟子たちにとって最大の幸福はイエスと共におることであり、最大の不幸は彼と別れることであった。キリストはこれに対し慰めに充てる訓戒を与え給う。我らをして絶大の不幸の中にも動揺せしめざるものは知識財産健康地位のごときものにあらず、神とキリストとに対する信仰である。而して神のみを信ぜんとして我らは往々自己の観念を信ずるに過ぎず、真の信仰を得ることができない。然るに神の像(コロ1:15)に在し給うキリストを信じて始めて真に神を見、また彼を信ずることができる故に我らの信仰は単に神に対するのみならず、またキリストに向けられなければならない。これキリストの神に在し給う当然の結果である(A2 )。
辞解
[信ぜよ] これを「信ず」と叙述法にも読むことができる(C1、L1)。意味の上に大差なきことなるけれども命令法として読む方が優っている(B1、G1、M0)。

14章2節 わが(ちち)(いへ)には住處(すみか)おほし、(しか)らずば(われ)かねて(なんぢ)らに()げしならん。われ(なんぢ)()のために(ところ)(そな)へに()く。[引照]

口語訳わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
塚本訳父上のお家には、沢山住居がある。(あなた達は一人のこらず、そこに住むことが出来る。)もしそうでなかったら、『あなた達のために場所の準備に行く』と言うわけがないではないか。
前田訳わが父の家には住まいが多い。そうでなければ、あなた方のところをそなえに行こう、といったろうか。
新共同わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
NIVIn my Father's house are many rooms; if it were not so, I would have told you. I am going there to prepare a place for you.
註解: キリスト独り父の御許に往き給いて弟子たちを淋しくこの世に残し給うのではない。天の父の家には多くの弟子たちをも迎え入るべき場所がある。もし然らずして唯イエスのみ父の家に行き得るに過ぎないものであるならば、イエスはこのことを弟子たちにかくし給うはずがない。而して事実は反対であって今キリストはまず父の家に往き弟子たちを迎うべき場所を準備し給うのである。ゆえにイエスの死は一層大なる希望の国への門出であり序幕である。▲口語訳「のだから」 hoti はシナイ写本は欠けているけれど他の重要な写本に入っているゆえ採用すべきである。

14章3節 もし()きて(なんぢ)らの(ため)(ところ)(そな)へば、(また)きたりて(なんぢ)らを()がもとに(むか)へん、[引照]

口語訳そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。
塚本訳(間もなく出かけるが、)行って場所の準備ができたら、もどって来て、あなた達をわたしの所に連れてゆく。わたしのおる所にあなた達もおるためである。
前田訳行ってところをそなえる以上また来てあなた方を迎えよう、わたしのいるところにあなた方もいられるように。
新共同行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
NIVAnd if I go and prepare a place for you, I will come back and take you to be with me that you also may be where I am.
註解: イエスは父の御許にありて弟子や信徒のために各々永遠の住家を備え給う。而して時満ちてその再臨の際(Tヨハ2:28Tテサ4:16以下。黙22:20等)に彼らを御許に迎え給う、そこに彼らは復活の体をもって永遠にイエスと共にいることができ、尽きざる栄光と幸福を享有することができる。「復きたりて汝らを我がもとに迎へん」とは弟子たちの死(T0、L2)について言ったのではなく、また聖霊降りてイエスと弟子たちとが霊の交わりに入ること(G1)でもなく、その再臨を意味する(C1、B1.L1)。

わが()るところに(なんぢ)らも()らん(ため)なり。

註解: イエスは父の選び給えるものを一人も失い給うことはない。再び父の御許において永遠の団欒に入らんがために再び来りて彼らを受け給う。キリストと共にいることは弟子たちの最大の幸福、その望みである。

14章4節 (なんぢ)らは()()くところに(いた)(みち)()る』[引照]

口語訳わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。
塚本訳(今)あなた達はわたしがどこへ行くか、その道がわかったはずだ。」
前田訳わたしがどこへ行くかはあなた方にわかっている」と。
新共同わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
NIVYou know the way to the place where I am going."
註解: 神の国に至る道はイエス彼自身である(6節。ヘブ10:19−20)。イエスによらずして神の御許に行かんとするとも、人はその罪のために神の前に(さば)かれなければならないであろう。このことは弟子たちがすでに知っているはずであった(10:9)。この道を踏む者であらざれば、イエスは再び来給うとき彼に迎えられることができない。

4-2-1-ロ 父の家に入るの道はイエスを信ずるにあり 14:5 - 14:11

14章5節 トマス()ふ『(しゅ)よ、何處(いづこ)にゆき(たま)ふかを()らず、いかでその(みち)()らんや』[引照]

口語訳トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。
塚本訳トマスが言う、「主よ、どこへ行かれるのか、わたし達にはわかりません。どうすればその道がわかるでしょうか。」
前田訳トマスがいう、「主よ、どこへおいでか、われらにはわかりません。どうしたらその道がわかりますか」と。
新共同トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
NIVThomas said to him, "Lord, we don't know where you are going, so how can we know the way?"
註解: 地上の国と地的メシヤについてのみ考え、凡ての事柄を現実的に考え易きトマスにとってはイエスの往き給う父の家なるものを明らかに意識することができなかった。目的地がすでに不明である以上そこに達する道を知らないのは当然である。イエスの直弟子にしてなおイエスの御言を解し得なかったことを思いて我ら自らを顧みなければならぬ。

14章6節 イエス(かれ)()(たま)ふ『われは(みち)なり、眞理(まこと)なり、生命(いのち)なり、[引照]

口語訳イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
塚本訳イエスは言われる、「わたしが道である。また真理であり、命である。(手段であると同時に目的であるから。)わたしを通らずには、だれも父上の所に行くことはできない。
前田訳イエスはいわれる、「わたしが道であり、真理であり、いのちである。わたしによらずして父に行くものはない。
新共同イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
NIVJesus answered, "I am the way and the truth and the life. No one comes to the Father except through me.
註解: イエスは道や真理や生命を教うる教師、またはこれを示す模範にはあらずして自ら道そのもの真理生命そのものに在し給うた。イエスに非ずしてだれかかかる大胆なる断言を為すことができよう。ゆえに我らは単にイエスより学び、イエスに(なら)うだけでは足らない。彼との間に人格的一致がなければならぬ。「道」は神に到達する経路の方面より見たるキリストで、我ら彼の肉体の(まく)を経てのみ神に到達することができる(ヘブ10:20)。「真理」は内容の方面より見たるキリストで、彼はあらゆる真理の体現者であり(▲コロ2:9参照)彼の中には一つの虚偽もない。「生命」は活動の方面より見たるキリストで、彼は不死の生命そのものに在し給う。

(われ)()らでは(たれ)にても(ちち)御許(みもと)にいたる(もの)なし。

註解: イエスは道、真理、生命そのものに在し給う以上、彼に由らざるもの、すなわち彼を離れるものは父なる神に至る道を離れて迷い入り、神の真理に背きて虚しきを求め、神の生命を()けずして死に至る者である。イエスを離れる者はすなわち神を離れる者である。古今のあらゆる聖賢は単に道、真理、生命を指示したに過ぎなかった。ゆえに彼らはみなキリストを指しているのである。父の御許に至る唯一の道はキリストとの霊的生命の一致より外にない。

14章7節 (なんぢ)()もし(われ)()りたらば、()(ちち)をも()りしならん。[引照]

口語訳もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。
塚本訳しかしあなた達はわたしがわかったのだから、わたしの父上もわかるにちがいない。いや、いますでに父上がわかっており、また父上を見たのである。」
前田訳あなた方はわたしを知ればわが父をも知ろう。今やあなた方は彼を知り、彼を見たのである」と。
新共同あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
NIVIf you really knew me, you would know my Father as well. From now on, you do know him and have seen him."
註解: 第五節のトマスの質問は順逆転倒である。トマスの質問を換言すれば「我父を知らず(いか)で汝イエスを知らんや」と言うに等しい。これに対しイエスは本節の答を与え給い、逆に、「汝ら我と霊的に連なることにより我をさえ充分に理解していたならば、父なる神をも知り奉ったであろう、我は父に至るの道であり、父の本質なる真理と生命そのものであるから」と述べ給うたのである。このことは(さき)にイエスはしばしばこれを述べ給うた(ヨハ8:19を見よ)けれども、今また新たにこれを語り給うことが必要であった。

(いま)より(なんぢ)(これ)()る、(すで)(これ)()たり』

註解: 「今より」 aparti は未来のみならず今すでにとの意味であって(ヨハ13:19黙14:13)イエスが己の父と等しく在すことの奥義を示し給える以上(6節、M0)もはや父なる神を知っているわけである。否すでに父を見奉っていたのである。▲イエスの神の子たることの自覚が強烈にこれらの諸節およびその以下に現れていることに注意すべし。
辞解
[今より] 或はキリストの昇天と聖霊の降臨よりと解し、またはイエスの洗足およびその以後の出来事および教訓(G1)よりと解する説もあるけれども予はM0の説を採用した。
[(これ)] 「彼」すなわち神を意味す。

14章8節 ピリポ()ふ『(しゅ)よ、(ちち)(われ)らに(しめ)(たま)へ、さらば()れり』[引照]

口語訳ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。
塚本訳ピリポが言う、「主よ、どうかわたし達に父上を見せてください。それでたくさんです。」
前田訳ピリポが彼にいう、「主よ、父をわれらにお示しください。それで十分です」と。
新共同フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、
NIVPhilip said, "Lord, show us the Father and that will be enough for us."
註解: 「既に彼を見たり」とのイエスの御言は、ピリポの信仰の欠乏のためになお彼を満足せしめ得なかった。ピリポはモーセがエホバに乞いしごとく(出33:18)神の直接の顕現に接せんことを欲し、これさえあればその心は満足するであろうと考えた。しかしたとい神が彼自身を顕現し給うともイエス以上にも以下にもあらず、人はみなイエスに在りて満足であることをピリポは未だ覚らなかった。

14章9節 イエス()(たま)ふ『ピリポ、(われ)かく(ひさ)しく(なんぢ)らと(とも)()りしに、(われ)()らぬか。(われ)()(もの)(ちち)()しなり、如何(いか)なれば「(われ)らに(ちち)(しめ)せ」と()ふか。[引照]

口語訳イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
塚本訳イエスは言われる、「ピリポ、こんなに長い間一しょにいるのに、あなたはまだわたしがわからなかったのか。(父上とわたしとは一つである。)わたしを見た者は父上を見たのだ。どうして『父上を見せてください』と言うのか。
前田訳イエスはいわれる、「これほど長らくいっしょにいるのにわたしがわからないのか、ピリポよ。わたしを見たものは神を見たのである。どうしてあなたは父をお示しをというのか。
新共同イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
NIVJesus answered: "Don't you know me, Philip, even after I have been among you such a long time? Anyone who has seen me has seen the Father. How can you say, `Show us the Father'?
註解: イエスの御言の中にはその神の子の自覚とおよび弟子たちがこれを解せざることに対する驚きと失望との口調が溢れている。久しくキリストと共にありてなお彼が神の子に在すことを知らず、彼を見ることが最も完全に父を見るのであることを知らないことは大なる愚かさである。しかし人間の肉は本来からも愚かなのであって、御霊によりて示されるにあらずばこの大真理をさとることはできないのである。神秘的なる見神の実験、心理的特異現象としての見神、禅の直覚的悟りのごときは真に神を見たものということができない。

14章10節 (われ)(ちち)()り、(ちち)(われ)居給(ゐたま)ふことを(しん)ぜぬか。[引照]

口語訳わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。
塚本訳わたしが父上の中に、父上がわたしの中におられることを、あなたは信じないのか。わたしがあなた達に言う言葉は、自分で勝手に話すのではない。(またわたしがする業は、)いつもわたしの中におられる父上が御業をされるのである。
前田訳わたしが父におり、父がわたしにいたもうことを信じないのか。わたしがあなた方にいうことばは自分から話すのではない。わたしにとどまりたもう父がみわざをされるのである。
新共同わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
NIVDon't you believe that I am in the Father, and that the Father is in me? The words I say to you are not just my own. Rather, it is the Father, living in me, who is doing his work.
註解: 前節の理由としてイエスは父との霊の交わりについて語り給う。すなわち神とイエスとは二つの人格でしかも一つである。その故はイエスの全人格は父の愛の中に包擁せられ、またイエスは己を虚しくして父の御心をもってこれを充たしているからである。ゆえに二つにして一つであり、イエスを見る者はそのまま父なる神を見るのである。このことを信ぜぬかとピリポを叱責し給うた。我らもこれを信ずるべきである。

わが(なんぢ)()にいふ(ことば)は、(おのれ)によりて(かた)るにあらず、(ちち)われに(いま)して(その)御業(みわざ)をおこなひ(たま)ふなり。

註解: 「もし汝ら我が言と業とを見るならば父と我との一つなることを知るであろう。すなわち我父に居るが故に我が言う言は我が言にあらずして父の言であり、父また我が中に留まり給うが故に我を動かして種々の奇蹟を行わしめ給う。」それ故にイエスの御言は力あり真理と光輝とに充ち、イエスの御業は人の為し能わざる能力ある御業であった。

14章11節 ()[が()ふこと]を(しん)ぜよ、(われ)(ちち)にをり、(ちち)(われ)居給(ゐたま)ふなり。もし(しん)ぜずば、()(わざ)によりて(しん)ぜよ。[引照]

口語訳わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
塚本訳(だから)あなた達は、わたしが父上の中に、父上がわたしの中におられることを信ぜよ。しかしもしそれができないなら、(わたしがする)業そのものによって信ぜよ。
前田訳わたしが父におり、父がわたしにいたもうというわたしを信ぜよ。さもなくば、わざ自体によって信ぜよ。
新共同わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
NIVBelieve me when I say that I am in the Father and the Father is in me; or at least believe on the evidence of the miracles themselves.
註解: イエス彼自身を信ずるならばその御言を疑わずして信受するであろう。もし彼をその御言によりて信ずることができないならば、その業を見て彼の神と一体に在すことを信ずべきである。
辞解
[居給ふなり] 「居給ふ故なり」と訳することができる(B1)けれども適当ではない(M0)。

4-2-1-ハ イエスにある者の死から 14:12 - 14:14

14章12節 (まこと)にまことに(なんぢ)らに()ぐ、(われ)(しん)ずる(もの)()がなす(わざ)をなさん、かつ(これ)よりも(おほい)なる(わざ)をなすべし、われ(ちち)()けばなり。[引照]

口語訳よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。
塚本訳アーメン、アーメン、わたしは言う、わたしを信ずる者は、わたしがするのと同じ業をすることができる。いや、それよりももっと大きな業をすることができる。わたしが父上の所に行って、
前田訳本当にいう、わたしを信ずるものはわたしがなすわざをしよう。否、それよりも大きなわざをしよう。わたしが父に行くからである。
新共同はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
NIVI tell you the truth, anyone who has faith in me will do what I have been doing. He will do even greater things than these, because I am going to the Father.
註解: 前節までイエスは父とイエスとの関係を述べ、これより14節に至るまでイエスと彼を信ずる者との関係を述べ給う。この二つの関係は同一であって、キリストを信ずる者にはキリスト宿り給いて、キリストの為し給えるごとき奇蹟を行うことを得(使徒行伝に記載せらる)るのみならず、「之よりも大なる業」すなわち使徒たちの伝道によって地上の万人が救われる大なる業が行われるのである。而してその原因はイエス、父の御許に在して信者の祈りに応えて父より受けし力を彼らに注ぎ給うからである。人としてのイエスにこの力はなかった。

14章13節 (なんぢ)らが()()によりて(ねが)ふことは、[(われ)みな](これ)()さん、(ちち)()によりて榮光(えいくわう)()(たま)はんためなり。[引照]

口語訳わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
塚本訳あなた達がわたしの名で願えば、なんでもかなえてあげるからだ。これは父上が子によって栄光をお受けになるためである。
前田訳あなた方がわが名によって求めることはわたしがしよう、父が子によって栄化されるために。
新共同わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
NIVAnd I will do whatever you ask in my name, so that the Son may bring glory to the Father.
註解: 前節の継続で甚大なる約束である。信徒はキリストに居りキリストは信徒の中に住む故に、使徒らが「イエスの名において」すなわちキリストと一体をなせる霊的生命において祈り求むることは、キリストは凡てこれを成し給うであろう。何となればかかる霊的一致に在りて求むる処は、みな神の御心に叶うことであり、かつ子なるキリストがこれを成就し給うことによりて父なる神の栄光が掲げられるからである(ヨハ15:7ヨハ15:16)。
辞解
[我が名によりて] en tô onomati mou 「我が名において」「我が名に在りて」とも訳することができ、パウロの「イエス・キリストに在りて」と同じくキリストとの霊の交わりの状態に在ることを示す。すなわちキリストによりて罪を赦されし聖徒はキリストの名によりて神に受け入れられているのであって、キリストによらずして神に近付くことも神に祈ることも、また願うこともできない。この句に対して学者間に種々の解釈があるけれども、これらはみな右の源より発する諸方面中のあるものを見たに過ぎない。また「キリストの名によって」なる語を形式的に祈りに附加すべしとの意味ではなく心と内容の問題である。

14章14節 (()し)何事(なにごと)にても()()によりて(われ)(ねが)はば、(われ)[これを]()すべし。[引照]

口語訳何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。
塚本訳(繰返して言う、)わたしの名でわたしに何か求めれば、(かならず)それをかなえてあげる。
前田訳あなた方がわが名によって求めることはわたしがしよう。
新共同わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
NIVYou may ask me for anything in my name, and I will do it.
註解: 前節前半とほぼ同一事の反復であるけれども、前節は「之を」すなわち内容に重きを置き、本節は「我」すなわち行為者に重きを置いている。キリストが己を信じ、彼の名によって祈る者に対しては、凡ての願いを自ら聴入れ給うことは驚くべき約束である。我らこれを確信することができなければならない。

4-2-1-ニ 聖霊の内住 14:15 - 14:17

14章15節 (なんぢ)()もし(われ)(あい)せば、()誡命(いましめ)(まも)らん。[引照]

口語訳もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。
塚本訳あなた達は(皆別れを悲しんでいるが、本当に)わたしを愛するなら、わたしの掟を守り(互に愛し)なさい。
前田訳わたしを愛するなら、あなた方はわがいましめを守れ。
新共同「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
NIV"If you love me, you will obey what I command.
註解: 本節を前節の祈りの条件と見るものと(C2)後節の聖霊降下の準備と見るものと(A2)この前後の中間に介在してその思想の連絡を取るものと見る説(B1)とがある。最後の解釈が優っている。すなわち、キリストとの霊の交わりに在りて祈ることは換言すればキリストを愛しつつ祈ることである。かかる愛の関係に立つ場合においてはキリストは彼を愛してその祈りを聴き給い、信徒はキリストの誡めを守るの態度となる。而してこれを守る力は聖霊によって与えられるのである。それ故に「キリスト者とはキリストを愛してその誡命を守る者である」ということができる。
辞解
[守らん] 異本に「守れ」とある。

14章16節 われ(ちち)()はん、(ちち)(ほか)助主(たすけぬし)をあたへて、永遠(とこしへ)(なんぢ)らと(とも)()らしめ(たま)ふべし。[引照]

口語訳わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
塚本訳そうすればわたしも父上に願って、(わたしに代わる)ほかの弁護者をおくっていただき、いつまでもあなた達と一しょにおるようにしてあげる。
前田訳わたしも父にお願いしようし、父は別の助け主をあなた方にお与えになって、いつまでもあなた方とともにあるようにされよう。
新共同わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
NIVAnd I will ask the Father, and he will give you another Counselor to be with you forever--
註解: 「助主」 paraklêtos は元来代言人、弁護人を意味し、裁判官の前に被告の側に立ちて弁護する人をいう。これと同じく、助主は我らのために我らの側に立ちて父なる神の前に我らを弁護し、我らを助け、また強め給う。キリストはこの地上に生活し給う間この務めを行い給うた。今この世を去らんとするにあたり「他の助主」すなわち聖霊(17節)を父に請いて信徒のために送り給い永遠に信徒と共に居らしめ、再び彼らを離れることなからしめ給う。ゆえにキリストの死後も弟子たちはなお神の愛の中にいるの幸福を有つことができる。ゆえに聖霊の内住は神の恩恵によるものであることを忘れてはならない。
辞解
[助主] ヨハネの福音書および書簡にのみ用いられる語であって聖霊またはキリストの別名である (ヨハ14:26ヨハ15:26ヨハ16:7Tヨハ2:1) 。

14章17節 これは眞理(まこと)御靈(みたま)なり、()はこれを()くること(あた)はず、これを()ず、また()らぬに()る。[引照]

口語訳それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
塚本訳これは真理の霊である。この世(の人)には見えもせず、わかりもしないから、これを受けいれることが出来ない。(しかし)あなた達にはこの霊がわかる。いつもあなた達のところをはなれず、また、あなた達の中におるのだから。
前田訳それは真理の霊である。世は彼を見も知りもしないので受けえない。しかしあなた方は彼を知る、彼はあなた方にとどまり、あなた方のうちにあろうから。
新共同この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
NIVthe Spirit of truth. The world cannot accept him, because it neither sees him nor knows him. But you know him, for he lives with you and will be in you.
註解: 弟子たちの受くべきものは聖霊であった。聖霊はその本質および働き共に神の真理そのものである故に「真理の御霊」と呼ばれている。「世」はキリストを信ぜざる人々、すなわち新生を経験せざる人々を総称する。而して世を支配するものは「迷謬(まよい)の霊」(Tヨハ4:6)であって従って、真理の霊を見る目がなくこれを理解する智慧を有たない(ヨハ9:41Tコリ2:14)。

なんぢらは(これ)()る、(かれ)(なんぢ)らと(とも)()り、また(なんぢ)らの(うち)居給(ゐたま)ふべければなり。

註解: 世の人が聖霊を知らないのに反しキリスト者は彼を知っている。その故は聖霊来り給いて現に彼らの間に住み、また後にペンテコステの日に至り彼らの心に宿り給うべきが故である。聖霊の内住はキリスト者たるの証拠でありまた条件である。

4-2-1-ホ キリストの内住 14:18 - 14:21

14章18節 (われ)なんぢらを(つかは)して孤兒(みなしご)とはせず、(なんぢ)らに(きた)るなり。[引照]

口語訳わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
塚本訳わたしは父上の所に行くけれども、あなた達を孤児にはしておかない。(すぐ)かえって来る。
前田訳わたしはあなた方を孤児(みなしご)のままではおかない。またあなた方のところに来る。
新共同わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
NIVI will not leave you as orphans; I will come to you.
註解: イエスと聖徒は二つにして一つに在し給うゆえに、イエスはその見得べき貌においては間もなくこの世を去り給うけれども、見えざる貌においてまた来り給い、我らを孤児の状態に置き給わない。「我は世の終まで常に汝らと偕に在るなり」(マタ28:20)と言い給えるはこの霊的イエスである。ゆえにこの節は復活し給えるキリストとの交わり(C2)を意味せず、また凡ての人に見ゆべきキリストの再臨(A2、Z0)をも意味しない。20、21、23節等を見ればこの点を明らかにすることができる。

14章19節 (しばら)くせば()(また)われを()ず、されど(なんぢ)らは(われ)()る、[引照]

口語訳もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
塚本訳もう少しするとこの世(の人)はもはやわたしを見ることができなくなるが、あなた達は(間もなく)わたしを見ることができる。わたしは(死んでまた)生き、(それによって)あなた達も生きるからである。
前田訳今しばらくすると世はわたしをもはや見まいが、あなた方はわたしを見よう、わたしは生き、あなた方も生きようから。
新共同しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
NIVBefore long, the world will not see me anymore, but you will see me. Because I live, you also will live.
註解: イエスの死によって世の人の目にはイエスは失われてしまうけれども、聖霊を受けし弟子たちは霊的臨在のキリストを霊の眼をもって見ることができる。イエスはここに将来の事実を現在の事実のごとくに語り給う。

われ()[くれば](き)(なんぢ)らも()くべければなり。

註解: この原文は次の二つのいずれかに訳すべきである。(1)「われ活くれば汝らも活きん」(G1)、(2)「われ活き汝らも活くべければなり」(C1、M0)。いずれにしても結局同一の内容に帰着するけれども、文勢の上よりは後者が優っている。すなわちキリストは死に給いて後も霊的に永遠に生き給い、弟子たちもまた彼の生命に与って永遠に生くべきものである(未来動詞)。かく弟子たち、またキリスト者はキリストと共通の生命を有つがゆえに霊のキリストを見ることができ、世はこの生命を有たず従って霊のキリストを見ることができない。

14章20節 その()には、(われ)わが(ちち)()り、なんぢら(われ)()り、われ(なんぢ)らに()ることを(なんぢ)()らん。[引照]

口語訳その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。
塚本訳その時あなた達は、わたしが父上の中に(おるように)、あなた達がわたしの中に、わたしがあなた達の中におることを知るであろう。
前田訳その日にあなた方は知ろう、わたしがわが父に、あなた方がわたしに、わたしがあなた方にあることを。
新共同かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
NIVOn that day you will realize that I am in my Father, and you are in me, and I am in you.
註解: 「その日」は聖霊降下の日すなわち五旬節以後を指す(使2:1以下、M0)。聖霊を与えられて始めて神とキリスト、キリストと信徒の間に完全なる霊の一致があり、キリストと信徒との関係は神とキリストとの関係(10節ヨハ10:38コロ3:3)に等しく、キリストはその愛をもって我らをいだきて我らはキリストの中に生き、而して我らはキリストを信じてキリストは我らの中に生き給うこと(ガラ2:20)を知るであろう。我らには聖霊の内住があり(17節b)これによりてまたキリストの内住があることを知る。而してこの二つは一つである。

14章21節 わが誡命(いましめ)(たも)ちて(これ)(まも)るものは、(すなは)(われ)(あい)する(もの)なり。(われ)(あい)する(もの)()(ちち)(あい)せられん、(われ)(これ)(あい)し、(これ)(おのれ)(あらは)すべし』[引照]

口語訳わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。
塚本訳わたしの掟をたもち、これを守る者、それがわたしを愛する者である。わたしを愛する者はわたしの父上に愛され、わたしもその人を愛して、その人に自分を現わすであろう。(だからわたしを愛する者だけが、わたしを見ることができるのだ。)」
前田訳わがいましめを保って守るものがわたしを愛するものである。わたしを愛するものはわが父に愛されよう。わたしもその人を愛してその人にわたし自身を現わそう」と。
新共同わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
NIVWhoever has my commands and obeys them, he is the one who loves me. He who loves me will be loved by my Father, and I too will love him and show myself to him."
註解: キリスト者とキリストと父なる神との美わしき愛の関係がここに描き出されている。霊的一致といい、内住というもみなこの愛の関係に外ならぬ。而してキリストを愛する者とは15節に言えるごとくその誡命を堅く保ち、凡てこれを遵守し自己の要求や欲求を放棄する者であって、然らざるものは真に御霊によりてイエスを愛する者ではない。而して神はかくその独り子を愛する者をばその愛の故にこれを愛し給い、キリストはかかる者に益々多く御自身を示し、彼との霊の交わりを深くし高くし給う。ゆえに最も多く彼の誡命を守るものは最もよくキリストを知る者となるのである。キリストについて読み、また考うるのみにては彼を知ることができない。

4-2-1-へ 神の内住 14:22 - 14:24

14章22節 イスカリオテならぬユダ()ふ『(しゅ)よ、(なに)(ゆゑ)おのれを(われ)らに(あらは)して、()には(あらは)(たま)はぬか』[引照]

口語訳イスカリオテでない方のユダがイエスに言った、「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」。
塚本訳イスカリオテでない方のユダが言う、「主よ、いったいどういうわけで、わたし達だけに御自分を現わし、この世(の人)にはそうしようとされないのですか。」
前田訳イスカリオテでないほうのユダがいう、「主よ、どうしたことですか、あなたご自身をわれらにだけ現わされて世には現わされないのは」と。
新共同イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。
NIVThen Judas (not Judas Iscariot) said, "But, Lord, why do you intend to show yourself to us and not to the world?"
註解: ユダはなおもキリストがメシヤとして世に顕われ、不信の民を(さば)き給うものと考えていた。それ故に少数の者のみに己を顕わし給うことの意義をさとることができなかった。
辞解
[イスカリオテならぬユダ] 十二使徒の一人、マタ10:3マコ3:18にはタダイの名にて揚げられている。殊に「イスカリオテならぬ」と明示する必要はなきがごとくであるが(ヨハ13:30)或はユダに対するヨハネの強き反感のためか(M0)、またはユダが再び帰りそこにいるごとくに想像されることを防ぐがため(G1)であろう。

14章23節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『(ひと)もし(われ)(あい)せば、わが(ことば)(まも)らん、わが(ちち)これを(あい)し、かつ我等(われら)その(もと)(きた)りて住處(すみか)(これ)とともにせん。[引照]

口語訳イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。
塚本訳イエスは答えられた、「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。するとわたしの父上はその人を愛され、わたし達は(父上もわたしも)、その人のところに行って、同居するであろう。
前田訳イエスは答えられた、「わたしを愛するものはわがことばを守ろう。わが父もその人を愛されよう。そしてわれらは彼のところへ行って居を共にしよう。
新共同イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
NIVJesus replied, "If anyone loves me, he will obey my teaching. My Father will love him, and we will come to him and make our home with him.
註解: イエスは例のごとくユダの質問に直接に答へ給わず、メシヤの国は彼らの思うごときものにあらず、神とキリスト(「我ら」とあるに注意せよ)がイエスを愛する者の許に降り給いて住居を彼らの許に造り給うその幸いなる姿である。あたかも(いにし)え神がイスラエルの中に住み給えると同じである(出25:8出29:45レビ26:11、12。エゼ37:26、27、なお引照3参照)。すなわちイエスの死によりて弟子たちは不安の状態に置かれるのではなく聖霊の内住、イエスの内住、神の内住ありて、三位の神が一体をなして我らの中に住み給うことを示す。キリスト者はこの状態に置かれた者である(ルカ17:20黙3:20)。いかで心を騒がすの必要があろうか。

14章24節 (われ)(あい)せぬ(もの)は、わが(ことば)(まも)らず。(なんぢ)らが()くところの(ことば)は、わが(ことば)にあらず、(われ)(つかは)(たま)ひし(ちち)(ことば)なり。[引照]

口語訳わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。
塚本訳(しかし)わたしを愛しない者は、わたしの言葉を守らない。(だからわたしを見ることができない。)あなた達が(わたしから)聞く言葉はわたしの言葉ではない、わたしを遣わされた父上の言葉である。
前田訳わたしを愛さぬものはわがことばを守らない。あなた方が聞くことばはわたしのでなく、わたしをつかわされた父のものである。
新共同わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
NIVHe who does not love me will not obey my teaching. These words you hear are not my own; they belong to the Father who sent me.
註解: 世の人はかかる態度をもってキリストに叛き、父の言なるイエスの誡命(いましめ)を拒む。従ってイエスはかかる者とは偕に住むことができない。彼らに己を示し給わないのはこの故である。

4-2-1-ト イエスの与える平安 14:25 - 14:31

14章25節 (これ)()のことは(われ)なんぢらと(とも)にありて(かた)りしが、[引照]

口語訳これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。
塚本訳わたしはこれだけのことを、(まだ)あなた達と一しょにおるあいだに話した。(これ以上のことは話してもわからないからだ。)
前田訳これらを語ったのは、あなた方とともにいるうちであった。
新共同わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
NIV"All this I have spoken while still with you.

14章26節 助主(たすけぬし)すなはちわが()によりて(ちち)(つかは)したまふ(せい)(れい)は、(なんぢ)らに(よろづ)(こと)ををしへ、(また)すべて()(なんぢ)らに()ひしことを(おも)()さしむべし。[引照]

口語訳しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
塚本訳(わたしが去ったあとで、)父上がわたしの名で遣わされる弁護者、すなわち聖霊が、あなた達にすべてのことを教え、またわたしが言ったことをすべて思い出させるであろう。
前田訳しかしのちに助け主、すなわち父がわが名で送られる聖霊があなた方にすべてを教え、わたしがいったことすべてを思い出させよう。
新共同しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
NIVBut the Counselor, the Holy Spirit, whom the Father will send in my name, will teach you all things and will remind you of everything I have said to you.
註解: これよりイエスは以上の語を結び給う。すなわち以上(14:1−24)においてイエスが直接に語り給いしことすら弟子たちはその時は凡てこれを覚ることができないであろうけれども、やがて聖霊降下するに及びてイエスの従来語り給いし御言や教訓は勿論、その他の万の事が始めてその意義が明らかにせられるであろう。聖霊はかくも驚くべき働きを為し給うのであって、聖霊の降臨によりて人々は全く新たなる能力を得るにいたるのである(Tヨハ2:27)。
辞解
[我が名によりて] 13節註および辞解参照。ここでは神が「イエスの願いによりイエスとの霊の交わりにおいて」遣わし給うことの意味である。

14章27節 われ平安(へいあん)(なんぢ)らに(のこ)す、わが平安(へいあん)(なんぢ)らに(あた)ふ。わが(あた)ふるは()(あた)ふる(ごと)くならず、[引照]

口語訳わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
塚本訳(今別れにのぞんで)平安をあなた達にのこしておく。わたしの平安をあなた達に与える。わたしが与える平安は、この世の人が『平安あれ』といのるような(言葉だけの)ものではない。(だから)心騒がせるな、気を落すな。
前田訳わたしはあなた方に平和を残す、わが平和をあなた方に与える。しかしわたしが与えるのは世の与えるようにではない。あなた方の心を騒がせるな、気落ちするな。
新共同わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
NIVPeace I leave with you; my peace I give you. I do not give to you as the world gives. Do not let your hearts be troubled and do not be afraid.
註解: ここにイエスはいよいよ立ち上がりて最後の袂別(べいべつ)を為さんとするかのごとくに、ユダヤ人の別れの挨拶なるシャローム(平安)を利用して、これを一層意味深きものとなし給うた。すなわちイエスが弟子たちとの袂別(べいべつ)に際して形見として「平安」を遺し給うた。この平安は世の与うる家内安全延命息災のごとき平安ではなく「わが平安」であって、神に対する良心の平安(ロマ5:1)、神の審判を免れし永遠の平和(ロマ8:1)神とキリストとの霊の交わりに在るもののその愛によりて受くる平安(ロマ8:31−39)である。この真の平安はキリストによるにあらざれば与えられることができない。

なんぢら(こころ)(さわ)がすな、また(おそ)るな。

註解: 14:1の前提がここに結論として繰返されている。以上に述べられしごとき数々の賜物を聖霊によりて弟子たちに賜うことの約束が与えられた以上、キリスト死に給うとも彼ら心騒がし懼れる必要はない。むしろ喜ぶべきであることを教え給う。

14章28節 「われ()きて(なんぢ)らに(きた)るなり」と()ひしを(なんぢ)(すで)()けり。もし(われ)(あい)せば、(ちち)にわが()くを(よろこ)ぶべきなり、(ちち)(われ)よりも(おほい)なるに()る。[引照]

口語訳『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。
塚本訳『わたしは離れてゆくが、すぐかえって来る』と言ったのを、あなた達は聞いたであろう。(もし本当に)あなた達がわたしを愛しているなら、わたしが父上の所に行くのを喜ぶはずである。父上はわたしよりもえらい(ので、行けば栄光をいただける)からである。
前田訳『わたしは去ってまた来る』といったのをあなた方は聞いた。わたしを愛するなら、わたしが父に行くのをよろこぶはずである。父はわたしよりも偉大であるから。
新共同『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
NIV"You heard me say, `I am going away and I am coming back to you.' If you loved me, you would be glad that I am going to the Father, for the Father is greater than I.
註解: 18節にイエスはその霊的臨在を予告し給うた、すなわちイエスが父の御許に行き給うことを弟子たちはみな知っていた。このことにについてもし弟子たちに愛があるならば心を騒がすことなく、反対に喜ぶべきである。その故は、イエスは己よりも大なる父の御許に往きこの僕の貌を棄てて父の栄光を受け給い、また弟子たちに来り、彼らと偕に居給うからである。イエスを愛する者にとりてこれにまされる喜びはないはずである。
辞解
[父は我よりも大なり] キリストの神性を否定するがごとくに見え、多くの神学上の論争を生める語であるけれども、イエスは子として常に父をあがめ給い、常を己を父より(ひく)くし給うたに過ぎない(ヨハ17:3ロマ9:5Tコリ15:28)。

14章29節 (いま)その(こと)()らぬ(まへ)に、これを(なんぢ)らに()げたり、(こと)()らんとき(なんぢ)らの(しん)ぜんためなり。[引照]

口語訳今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。
塚本訳今事のおこらぬさきにこれを言うのは、事がおこった時、あなた達がそのことを信じ得るためである。
前田訳ことの成る前に今これをいったのは、成ったときにあなた方が信ずるためである。
新共同事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。
NIVI have told you now before it happens, so that when it does happen you will believe.
註解: ヨハ13:19ヨハ16:14に類似せる一節である。もしこの言が予め与えられていなかったならば、イエスの死と復活と昇天と聖霊の降下に接しても弟子たちはそのことの真実の霊的意義を解することができないであろう。

14章30節 (いま)より(のち)われ(なんぢ)らと(おほ)(かた)らじ、この()(きみ)きたる(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。
塚本訳もはやあなた達と多く話さない。(間もなく)この世の支配者(悪魔)が来るからだ。あれはわたしに指一本触れることはできない。
前田訳わたしはあなた方ともはや多くを語るまい、この世の君が来るから。彼はわたしに何もできない。
新共同もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。
NIVI will not speak with you much longer, for the prince of this world is coming. He has no hold on me,
註解: この世の君は悪魔の別名(マタ4:1−10註。ヨハ12:31引照3参照。および註参照)である。彼はユダを使嗾(しそう)してまさにイエスを捕えんとしているのをイエスは感受し給うた。ゆえにこの御言は「我が死期近付けり」と言い給うのと同意義である。その結果弟子たちと語る時も残り少なきことを告げ給うた。

(かれ)(われ)(たい)して(なに)[の(けん)]もなし、

14章31節 されど[()くなるは、](われ)の、(ちち)(あい)し、(ちち)(めい)(たま)ふところに(したが)ひて(おこな)ふことを、()()らん(ため)なり。()きよ、いざ此處(ここ)()るべし。[引照]

口語訳しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。
塚本訳だが、わたしが父上を愛し、父上の命令のとおり行うことをこの世に知らせるために(わたしはあれに身をまかせる。)──立て。さあ出かけよう!
前田訳しかし、わたしが父を愛し、父が命じられたとおりにわたしがすることを世が知るために−−立て、出かけよう。
新共同わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」
NIVbut the world must learn that I love the Father and that I do exactly what my Father has commanded me. "Come now; let us leave.
註解: キリストはその一生を通じて完全に神の子に在し給い、悪魔に従い給えることは(かつ)て一回もなかった。ゆえに彼は絶対の道徳的自由を持ち給うたのである。ゆえに悪魔はキリストに対して何らの権力もない。しかしサタン来りてイエスを十字架に()くる所以は、キリストの父を愛することとその命に随い給うこと、すなわち父の御旨に従い世の罪を負いて自ら十字架につき給うことを世が知りて、これによりてキリストの救い主なることを認め彼を信ずるに至らんためである。そのためイエスはサタンの為すままに委せ給うたのである。かく言いてイエスは弟子たちを促し起ちてそこを去り給うた。
辞解
[斯くなるは] 原文になし。
[知らん為] (1)「起きよ」に関連せしむる説(M0、G1、Z0)、(2)改訳本文のごとく「斯くなれり」「サタンの為すに任せん」等の意味が略されているとする説(A1)、(3)「此の世の君きたる」に関係せしむる説(B1)。いずれも意義に大差なし、文勢上は(1)が最も適当ならんと思わる。(▲31節を口語訳のごとくに訳することは kai があるのでやや困難であると思われる。)(注意)この御言に従いてイエスおよび弟子たちは直ちにここを去り15、16、17章を途中にて語りまたは祈り給いしか、または直ちに去らずして食事の室以外において語り給いしか、または立ちつつ語り給いしかなどにつき多くの想像説あり確定し難し。唯ヨハ18:1よりみればおそらくその場所または外庭等においてなお追加としてこれを語りまた祈り給うたのであろう。

ヨハネ伝第15章
4-2-2 キリストに在りて果を結ぶ事 15:1 - 16:4
4-2-2-イ 我に居れ 15:1 - 15:11

註解: イエスは前章においてその死に関する弟子たちの心の動揺を戒め、たとい彼死に給うとも聖霊は彼らに与えられて彼らの心に住み、キリストもまた霊をもって彼らに内住し、神も彼らの中にその住家を(とも)にし給うことを告げ、而してその条件として信徒がキリストを愛すべきこと、キリストの誡命に従うべきことをもってし給うた。本章においてイエスはさらに進んで、我ら信徒の方よりキリストに連なり霊の交わりの生涯を送るべきこと(1−11節)、これによりて愛の生活を送るべきこと(12−17節)、弟子たちは主と同じく迫害さるべきこと(18−27)を語り給う。

15章1節 (われ)(まこと)葡萄(ぶだう)()、わが(ちち)農夫(のうふ)なり。[引照]

口語訳わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
塚本訳わたしがまことの葡萄の木、父上は栽培人である。
前田訳わたしはまことのぶどうの木、父はぶどうつみである。
新共同「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
NIV"I am the true vine, and my Father is the gardener.
註解: 葡萄は橄欖(オリブ)や無花果と共にユダヤ地方の特産であり(民13:23)、旧約聖書においてもイスラエルの譬えとしてしばしば用いられ(詩80:8以下。イザ5:1−7。エレ2:21エゼ15:1エゼ19:10)、またキリストもしばしばこれを用い給うた(マタ20:1−16、マタ21:33−46等)。ここにイエスは、さらに葡萄の樹の譬喩をもって彼と弟子との関係を示し給い、父をば農夫に喩えてその審判を示し給う。イエスが突然ここに葡萄の樹の譬喩をもって語り給いし理由について種々の想像を巡らし、或はその場所の附近に葡萄樹があったのであろうとか、または葡萄酒より思い付き給うたのであろう等種々の説を為しているけれども、これらは不可能ではないにしても必ずしもそうであったと確定することはできない、またその必要もない。

15章2節 おほよそ(われ)にありて()(むす)ばぬ(えだ)は、(ちち)これを(のぞ)き、()(むす)ぶものは、いよいよ()(むす)ばせん(ため)(これ)(きよ)めたまふ。[引照]

口語訳わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
塚本訳わたしについている蔓で実を結ばないものは、父上が皆それを切り取ってしまわれる。また実を結ぶものは、より多く実を結ぶように、皆それを奇麗に刈り込まれる。
前田訳わたしの蔓(つる)で実らぬのは皆お切りになる。実るのは皆より多く実を結ぶようにとお清めになる。
新共同わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
NIVHe cuts off every branch in me that bears no fruit, while every branch that does bear fruit he prunes so that it will be even more fruitful.
註解: 葡萄の枝にしてその幹に連なりこれより養分を自由に吸収するものは必ずよき果を結ぶ。これに反し幹に連なるごとく見えてもその連絡不完全にして、妨害物があるために養分の流通自由ならざる枝は果を結ぶことができない。農夫は後者をばこれを切り取り前者をばさらにこれより害虫を除き、不潔物を去りて豊かに果を結ばしめる。キリスト者とキリストの間もこの幹と枝との関係であって(5節)、この間に自由なる霊の交わりがある場合には豊かに善き行為となりて果を結び、たとい外部的にキリスト者のごとくであっても、この霊交が己の慾やサタンのために妨げられる時は善行の果実を結ばない。父なる神はこの前者をば聖霊の力によりてその肉の穢れを益々潔め、後者をばこれを誘惑によりまたは彼ら自身の惰眠によりてキリストより離してサタンに付し給う。而してこの霊の交わり、キリストとの連絡をパウロは信仰と呼んでいる。▲▲「潔む」 kathairô はまた「剪定」する意味もある。

15章3節 (なんぢ)らは(すで)(きよ)し、わが((なんぢ)らに)(かた)りたる(ことば)()りてなり。[引照]

口語訳あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
塚本訳あなた達はわたしが語った言葉(を受け入れること)によって(汚れを除かれ)、すでに奇麗になっている。
前田訳あなた方はわたしが語ったことばのゆえにすでに清い。
新共同わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
NIVYou are already clean because of the word I have spoken to you.
註解: イエスの言には人の心を潔める力がある。弟子たちはこの言により潔められて、イエスとの霊の交わりに入っている者である(ヨハ13:10)。

15章4節 (われ)()れ、さらば(われ)なんぢらに()らん。[引照]

口語訳わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
塚本訳わたしに留っておれ。そうすればわたしもあなた達に留っている。ちょうど蔓が葡萄の木に留っていなければ、自分で実を結ぶことが出来ないように、あなた達もわたしに留っていなければ、実を結ぶことは出来ない。
前田訳わたしにとどまれ、わたしもあなた方にとどまる。ちょうど蔓がぶどうの木にとどまらねば自分では実を結べないように、あなた方もわたしにとどまらねば同様である。
新共同わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
NIVRemain in me, and I will remain in you. No branch can bear fruit by itself; it must remain in the vine. Neither can you bear fruit unless you remain in me.
註解: イエスは前節の断定を為し給える後、さらに弟子たちが常にキリストの中におり、寸時もこれより離るべからざることを教え給うた。蓋し人の罪や怠慢は人をキリストより離れしむるからである。而してこれがキリストが彼らの中に留まり給うの前提である。注意。「さらば我汝に居らん」を「而して我をも汝らに居らしめよ」と訳することもできるけれども、かくする必要はない。▲4−10節に十二回(原語は九回)「居る」と訳されてある menô は「止る」ことで永続的状態を意味するのであるが口語訳では「つながって居る」「とどまって居る」「居る」と三種に訳されていることは、意味は判り易いが原語の一貫性を知り得ないことは重大な欠陥である。

(えだ)もし()()らずば、(みづか)()(むす)ぶこと(あた)はぬごとく、(なんぢ)らも(われ)()らずば(また)(しか)り。

註解: キリストなしに自ら善行を為し得ると信ずる者は、ついに自己の誤りを発見するの苦き経験を嘗めなければならない時が来るであろう。イエスのこの御言は永遠に真理である。

15章5節 (われ)葡萄(ぶだう)()、なんぢらは(えだ)なり。(ひと)もし(われ)にをり、(われ)また(かれ)にをらば、(おほ)くの()(むす)ぶべし。(なんぢ)(われ)(はな)るれば、何事(なにごと)をも()(あた)はず。[引照]

口語訳わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
塚本訳わたしが葡萄の木、あなた達は蔓である。わたしに留っており、わたしもその人に留っている人だけが、多くの実を結ぶのである。あなた達はわたしを離れては、何一つすることは出来ないのだから。
前田訳わたしはぶどうの木、あなた方は蔓である。わたしにとどまり、わたしもとどまるその人が多くの実を結ぶ。あなた方はわたしなしでは何もできないから。
新共同わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
NIV"I am the vine; you are the branches. If a man remains in me and I in him, he will bear much fruit; apart from me you can do nothing.
註解: イエスはついに弟子たちに向いイエスとの間に樹と枝との関係が立派に成立していることを告げ給うた。キリスト者はこの関係に今後入らんとしている者ではなく、すでにこの関係に入っている者である。キリストは神を離れて全く無力に在ししと同じく(ヨハ5:19の引照参照)キリストを離れて全く無力であるのが真の弟子である。極端なる言のごときも深き真理である。而して宇宙間に真に価値ある行為はかかる行為である。「善行を多く為し能わずとも言い給わずして、何事も為し能わずと言い給うたことに注意せよ。すなわち多かれ少なかれキリストなしには善行は行われない、そは彼なしには何事も為し能わないからである」(A2)。

15章6節 (ひと)もし(われ)()らずば、(えだ)のごとく(そと)()てられて()る、人々(ひとびと)これを(あつ)()()()れて()くなり。[引照]

口語訳人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
塚本訳人はわたしに留っていなければ、蔓のように投げ出されて枯れる。すると集められ、火の中に投げ込まれて焼かれる。
前田訳わたしにとどまらぬものは蔓のように外に投げ出されて枯れる。そして集めて火に投げ込まれて焼かれる。
新共同わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
NIVIf anyone does not remain in me, he is like a branch that is thrown away and withers; such branches are picked up, thrown into the fire and burned.
註解: 名義上の信者であっても事実においてキリストの中に生きないものの最後の審判の時における運命はかくのごとくである。かかる者はキリストより霊の養いを受くること能わずして枯渇し、キリストを首とする霊的教会の外に捨てられ、ついに永遠の亡びに入るであろう(マタ13:39−43)。

15章7節 (なんぢ)()もし(われ)()り、わが(ことば)なんぢらに()らば、(なに)にても(のぞみ)(したが)ひて(もと)めよ、さらば()らん。[引照]

口語訳あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
塚本訳もしあなた達がわたしに留まっており、わたしの言葉があなた達に留まっておれば、なんでもほしいものを願いなさい。かならずかなえられる。
前田訳あなた方がわたしにとどまり、わがことばがあなた方にとどまれば、欲するものを求めよ。それはかなえられよう。
新共同あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
NIVIf you remain in me and my words remain in you, ask whatever you wish, and it will be given you.
註解: キリストとの生命の交通を有つものはその結果としてまずその求むる処ことごとく与えられることができるのであって、己の欲する処ことごとく成るは人間の考え得る最大の幸福であり、人間が罪に陥らざりし以前の自然の状態に近い姿である。キリストとの完全なる霊交を有つものはかかる状態に達することができる。
辞解
[望に随ひて] また「欲する処のものを」と訳することができる。

15章8節 なんぢら(おほ)くの()(むす)ばば、わが(ちち)榮光(えいくわう)()(たま)ふべし、(しか)して(なんぢ)()わが弟子(でし)とならん。[引照]

口語訳あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
塚本訳あなた達が多くの実を結んで、わたしの弟子たることを示すならば、父上はこれによって、栄光を受けられるであろう。
前田訳あなた方が多くの実を結んでわが弟子となれば、わが父は栄化されよう。
新共同あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
NIVThis is to my Father's glory, that you bear much fruit, showing yourselves to be my disciples.
註解: キリストに連なる第二の結果は多くの良き果を結ぶことによりて父栄光を受け給うことである。これ多くの果を結べば農夫(1節)の栄えとなると同じである。キリストは凡てにおいて父の栄光を揚げ給うた。これと同じく弟子も父の栄光となる場合に始めて真にキリストの弟子と称することを得るであろう。異本「なんぢら多くの果を結びわが弟子となることによりてわが父は栄光をうけ給わん」意味はこの方が明瞭である。▲口語訳はこの異本によっている。

15章9節 (ちち)(われ)(あい)(たま)ひしごとく、(われ)(なんぢ)らを(あい)したり、わが(あい)()れ。[引照]

口語訳父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。
塚本訳父上がわたしを愛されたように、わたしもあなた達を愛した。わたしの愛に留っておれ。
前田訳父がわたしを愛されたように、わたしはあなた方を愛した。わが愛にとどまれ。
新共同父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
NIV"As the Father has loved me, so have I loved you. Now remain in my love.
註解: まことに幸福なる宣言また命令である。父がキリストを愛し給いしと同じ無限宏大なる愛をもってキリストも我らを愛し給いその愛に居れと宣う。我らキリストの中に生き、1−8節に示せるごとき彼との霊交を有つことは、とりもなおさずこの愛の中に懐かれることである。しかもイエスはこのことを切に望み給うとは何たる奇しき事実であろうか。我らはこの愛を離れてはならない。

15章10節 なんぢら()しわが誡命(いましめ)をまもらば、()(あい)にをらん、(われ)わが(ちち)誡命(いましめ)(まも)りて、その(あい)()るがごとし。[引照]

口語訳もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。
塚本訳わたしの掟を守っておれば、わたしの愛に留っているであろう。わたしが父上の命令を守って、その愛に留っているのと同じである。
前田訳わがいましめを守れば、あなた方はわが愛にとどまろう、ちょうど、わたしが父のいましめを守って彼の愛にとどまるように。
新共同わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
NIVIf you obey my commands, you will remain in my love, just as I have obeyed my Father's commands and remain in his love.
註解: 前節においてその愛の中に懐かるべきことを命じ給えるイエスは、それに対して必要なる条件をここに示し給うた。それはモーセの十誡ではなく彼の誡命(12節)を守ることである(Tヨハ2:5)。「誡命を守る」ことは「律法の行為」を為すことではない(ロマ3:20ガラ2:16)。「我ら互に相愛すること」である。(▲▲12節を見よ。)かかる者にはイエスの愛が注がれその愛は永らく彼を離れない。(この誡命を守ることは守らんとする意思がそこに有るや否やの問題であって、完全に守り得しや否やの問題ではない、C1。)イエスはその父との関係を例としてこれに倣うべく薦め給う。

15章11節 (われ)これらの(こと)(かた)りたるは、()喜悦(よろこび)(なんぢ)らに()り、かつ(なんぢ)らの喜悦(よろこび)滿(みた)されん(ため)なり。[引照]

口語訳わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
塚本訳このことを話したのは、わたしのもっている喜びが(また)あなた達のものとなり、あなた達のその喜びが完全なものとなるためである。
前田訳このことをいったのは、わがよろこびがあなた方の中にあって、あなた方のよろこびが満たされるためである。
新共同これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
NIVI have told you this so that my joy may be in you and that your joy may be complete.
註解: しかしながら神の誡めを守ることは決して重荷ではなくイエスにとりて絶大の喜悦であった(詩1:2)。イエスはこの喜悦と同じ喜びが信徒の心にも宿りかつこれに満されんことを望み給うた。而して枝としてキリストに連なり、その誡命を守ることをもって喜びとすることはいかに幸福なる生活であろうか。

4-2-2-ロ 互に相愛せよ 15:12 - 15:17

15章12節 わが誡命(いましめ)(これ)なり、わが(なんぢ)らを(あい)せしごとく(たがひ)(あひ)(あい)せよ。[引照]

口語訳わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
塚本訳わたしがあなた達を愛したように、互に愛せよ。──これがわたしの掟である。
前田訳わたしがあなた方を愛したように互いに愛せよ、これがわがいましめである。
新共同わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
NIVMy command is this: Love each other as I have loved you.
註解: イエスの誡命は個々別々の律法のごとくではなく、唯信仰の兄弟姉妹が互にイエスの愛と同じ愛(すなわち自己犠牲の愛。なおマタ22:39と比較せよ、律法はこのイエスの福音以下である)をもって相愛することである。自らはこの誡命をば無視しながら唯イエスの愛のみ受けんとするも、それは不可能である(10節)。またかかる者は偽の信者である(Tヨハ2:4Tヨハ2:9)。

15章13節 (ひと)その(とも)のために(おのれ)生命(いのち)()つる、(これ)より(おほい)なる(あい)はなし。[引照]

口語訳人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
塚本訳(わたしはあなた達のために命を捨てる。)友人のために命を捨てる以上の愛はないのだ。
前田訳友のためいのちを捨てるにまさる愛はだれも持てない。
新共同友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
NIVGreater love has no one than this, that he lay down his life for his friends.
註解: 前節の互に相愛することの極致は友のために生命を棄てることで、最大の愛はこれである。イエスが我らに要求し給う処はかかる愛以下のものではない。何となれば彼自身我らの友(次節)として我らのために生命を棄て給いしが故である。ロマ5:6以下に矛盾せずやとの問題が起り得るけれども、ロマ書の場合と異なり、イエスはこの場合弟子相互の間および彼と弟子との間の関係について語り給うたからであって、敵についてはこの場合問題になっていない。

15章14節 (なんぢ)()もし()(めい)ずる(こと)をおこなはば、()(とも)なり。[引照]

口語訳あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
塚本訳あなた達はわたしの命ずることを行ってさえおれば、わたしの友人である。
前田訳わたしがあなた方に命ずることを行なえば、あなた方はわが友である。
新共同わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
NIVYou are my friends if you do what I command.
註解: イエスの誡命に背きつつその友とならんとするも不可能である。而してイエスの誡命は困難ではない(マタ11:30)。これを守ることによって我ら「神の友」となり得ることの幸福を思うべきである。「我も汝らのために生命を棄てん」なる一句を本節に含蓄しているものとして解するならば、前節との連絡が一層明らかとあるであろう。本節が信仰のみによりて義とされる思想に反せずやとの疑問が起り得るけれども、次節によりイエスの命を行うことがその恩恵によりて神の御旨を示されるが故なることを知ることができる。すなわち信仰を予想している。

15章15節 (いま)よりのち(われ)なんぢらを(しもべ)といはず、(しもべ)主人(あるじ)のなす(こと)()らざるなり。(われ)なんぢらを(とも)()べり、()(ちち)()きし(すべ)てのことを(なんぢ)らに()らせたればなり。[引照]

口語訳わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
塚本訳わたしはもはやあなた達を僕と言わない。僕は(命じられたことをするだけで、)主人が何をしようとしているか知らないのだから。わたしはあなた達を友人と言ったが、これは父上から聞いたことを何もかも知らせたからだ。
前田訳もはやわたしはあなた方を僕と呼ばない。僕は主人のなすことを知らないから。あなた方を友といったのは、わが父から聞いたことを皆知らせたからである。
新共同もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
NIVI no longer call you servants, because a servant does not know his master's business. Instead, I have called you friends, for everything that I learned from my Father I have made known to you.
註解: イエスは(さき)に弟子たちを僕として取扱い給うた(ヨハ12:26ヨハ13:13ヨハ13:16)。而してこれは正常なる名称であり、イエスと弟子たちとの関係の本体である。それにもかかわらずイエスは彼らをさらに友として取扱い、その父より聴き給いし人類救済の経綸を凡て弟子たちに示し給うた。この意味において彼らは単にイエスの命に機械的に服従する奴隷ではなく、イエスの御心を知りてこれを行う友のごときものである。それ故に我らがイエスの友たる所以は我らの価値によるにあらず、凡てイエスの恩恵によるのである。ただしイエスがかかる態度をもって臨み給えば、彼らは益々イエスに対して僕たる心と態度に出づべきは当然である(ロマ1:1ガラ1:10ピリ1:1その他)。注意「今よりのち」ルカ12:4にすでに「友」と呼び給うたのはイエスのこの心持の自然の発露であって本節はその意識的発表であるとみるべきであろう。「友と呼べり」は前節を指す。「凡てのこと」は一見ヨハ16:12と矛盾するがごときも然らず、現在において弟子たちの解し得べきすべてのことを意味す。

15章16節 (なんぢ)(われ)(えら)びしにあらず、(われ)なんぢらを(えら)べり。[引照]

口語訳あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
塚本訳(しかも)あなた達がわたしを選んだのではなく、わたしがあなた達を(使徒に)選んで、あなた達が出かけていって(善い)実を結び、その実がいつまでものこるように、また(その必要のために)あなた達がわたしの名で父上にお願いすれば、なんでもかなえてくださるようにしてやったのである。
前田訳あなた方がわたしを選んだのではなく、わたしがあなた方を選んだ。そして、あなた方が前進して実を結び、実がいつまでも残るように導いた。わが名によってあなた方が父に求めるものを皆かなえていただくためである。
新共同あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
NIVYou did not choose me, but I chose you and appointed you to go and bear fruit--fruit that will last. Then the Father will give you whatever you ask in my name.
註解: 使徒の職に彼らを選び給いしはイエスであった。これ必ずしも彼らがイエスを師と選んだからでもなく、また彼らの才能功績に報いんためでもなく、唯キリストの自由なる恩恵によったのである。彼らがイエスを求むる心すらもイエスがこれを起し給うたのである。本節は使徒の選任の問題であるけれども、一般の信徒が選ばれることはなおさら神の自由の選びによること勿論である(C1)。全く価値なき我らが選ばれて神の子とされる恩恵を思うべきである。

(しか)して(なんぢ)らの()きて()(むす)び、(かつ)その()(のこ)らんために、(また)おほよそ()()によりて(ちち)(もと)むるものを、(ちち)(たま)はんために(なんぢ)らを()てたり。

註解: 使徒を選び給いし目的を示す。すなわち(1)「往きて」伝道すること、(2)果を結びて信徒が増加すること、(3)その果が永続して「教会が世の終りまで存立すること」(C1)、(4)祈りが聴かれることである。これらはみな神の望み給う処である故必ず実現する。而してこの最後のものは伝道生涯に伴う種々の困難に際して最も重要なものである。この必要なる祈りの聴かれんがために彼らを使徒職に任じ給うた。

15章17節 これらの(こと)(めい)ずるは、(なんぢ)らの(たがひ)(あひ)(あい)せん(ため)なり。[引照]

口語訳これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。
塚本訳(つまるところ、)わたしの命令はこれである、──互に愛せよ!
前田訳わたしは命ずる、互いに愛せよ。
新共同互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
NIVThis is my command: Love each other.
註解: 12節以下の総括と見ることができる。キリスト者相互の愛がいかに大切なことであるかをこれにより知ることができる。

4-2-2-ハ 世は汝らを憎まん 15:18 - 16:4

15章18節 ()もし(なんぢ)らを(にく)まば、(なんぢ)()より(さき)(われ)(にく)みたることを()れ。[引照]

口語訳もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
塚本訳(しかしわたしに愛される時、あなた達はこの世から憎まれる。だが)もしこの世があなた達を憎んだら、あなた達よりも先にわたしを憎んだと思え。
前田訳もし世があなた方を憎めば、世はあなた方より先にわたしを憎んだことを知れ。
新共同「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
NIV"If the world hates you, keep in mind that it hated me first.
註解: 前節に至るまでイエスは弟子たち一団の中の愛の関係を述べ、本節以下、16:4に至るまでこの世の人が弟子の一団に対する憎悪の関係を示している。蓋し神とサタンとは光と暗とのごとく相反目しているのであって、神に属する信徒とサタンに属する世の人とは正反対の立場に立っているからである。唯イエスは弟子たちのこの運命に対しても慰めの途の存することを教え給う、すなわち彼らの受くべき迫害も困難もみなイエスが彼らに先立ちてこれを受け給うたことである。このことを思うならば彼らは容易にその困難に打勝つことができるであろう。

15章19節 (なんぢ)()もし()のものならば、()(おの)がものを(あい)するならん。(なんぢ)らは()のものならず、(われ)なんぢらを()より(えら)びたり。この(ゆゑ)()(なんぢ)らを(にく)む。[引照]

口語訳もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
塚本訳もしあなた達がこの世のものであったら、この世は自分のもの(であるあなた達を)愛するはずである。しかしあなた達は(もはや)この世のものではなく、わたしがこの世から選び出したのだから、この世はあなた達を憎むのである。
前田訳もしあなた方が世の出ならば、世はおのがものを愛したろう。しかし、あなた方が世の出でなく、わたしが世から選んだので、世はあなた方を憎む。
新共同あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。
NIVIf you belonged to the world, it would love you as its own. As it is, you do not belong to the world, but I have chosen you out of the world. That is why the world hates you.
註解: 世がキリストの弟子を憎む理由は弟子たちが悪を行うからではなく、彼らが世の主義に服従せず世の所属とならずしてキリストによりて世より選び出され聖別せられてキリストの信徒となり、その命に従っているからである。而してサタンはキリストの敵であって、キリストを憎むと同じくサタンの子らはキリストの弟子たちを憎む。キリスト者は世より憎まれることがその当然の運命でありまた真の弟子たるの証である。▲口語訳「この世からでたもの」は同訳の次の「この世のものではない」と一致しない。双方とも所属を示す ek であるから訳語も双方とも「この世のもの」に一致させる必要がある。

15章20節 わが(なんぢ)らに「(しもべ)はその主人(あるじ)より(おほい)ならず」と()げし(ことば)をおぼえよ。[引照]

口語訳わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。
塚本訳『僕はその主人よりもえらくはない』と言ったわたしの言葉を忘れないように。人々は(わたしにしたと同じことをあなた達にするであろう。)わたしを迫害したなら、あなた達をも迫害し、わたしの言葉を守ったなら、あなた達の言葉をも守るであろう。
前田訳『僕は主人にまさらない』といったわたしのことばを覚えていよ。人々は、わたしを迫害したらあなた方も迫害し、わがことばを守ったらあなた方のことばも守ろう。
新共同『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
NIVRemember the words I spoke to you: `No servant is greater than his master.' If they persecuted me, they will persecute you also. If they obeyed my teaching, they will obey yours also.
註解: ヨハ13:16においては愛の行為においてイエスの範に従うべきことを教え、ここにはイエスと運命を共にすべきことと忍耐の必要とを教えている。共に信徒の当然の義務である。

(ひと)もし(われ)()めしならば、(なんぢ)()をも()め、わが(ことば)(まも)りしならば、(なんぢ)らの(ことば)をも(まも)らん。

註解: 世はキリストに対せしと全く同一の態度をもって弟子たちに対するであろう。而して事実そのごとくに実現した(使5:41コロ1:24)。
辞解
[守りしならば] 事実ユダヤ人がイエスの御言を守ることを言えるにあらず(3節)、またその中の少数につき(G1)言えるにもあらず、またこの場合これを「監視する」意味に取る必要もなく(マタ27:36b)または反語でもない。ユダヤ人がイエスに対しいかなる態度を取るも、これと同じ態度を弟子たちに対して取ることを言い給えるに過ぎない。

15章21節 (されど)すべて(これ)()のことを()()(ゆゑ)(なんぢ)らに()さん、それは(われ)(つかは)(たま)ひし(もの)()らぬに()る。[引照]

口語訳彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。
塚本訳ところが、彼らはあなた達がわたしの弟子であるために、(憎み、迫害など)すべてこれらのことを、あなた達にするであろう。わたしを遣わされた方を知らないからである。
前田訳しかし、わが名のゆえに人々はあなた方にこれらのことをしよう。わたしをつかわされたものを知らないからである。
新共同しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。
NIVThey will treat you this way because of my name, for they do not know the One who sent me.
註解: イエスおよび弟子たちの受くべき迫害の原因がユダヤ人の不信に在ることをイエスは21−27節において詳述し給う。すなわちこの迫害は「我が名の故に」であって、イエスの御名は悪魔にとってもまたこの世の人にとっても「毒であり死であった」(L1、引照1参照)。かくのごとくイエスを拒むユダヤ人は神の選民たることを誇っていながら実は神を知らないのである。キリスト者と称して誇りつつキリストを知らない者はいかに多いことであろうか。

15章22節 われ(きた)りて(かた)らざりしならば、(かれ)(つみ)なかりしならん。されど(いま)はその(つみ)いひのがるべき(やう)なし。[引照]

口語訳もしわたしがきて彼らに語らなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし今となっては、彼らには、その罪について言いのがれる道がない。
塚本訳もしわたしが(この世に)来て(何も)語らなかったら、(父上を知らぬことについて)彼らに罪はなかったが、(すでにわたしからそれを聞いた)今は、(父上に対し)その罪の弁解はできない。
前田訳もしわたしが来て人々に語らなかったなら彼らに罪はなかったろう。しかし今は彼らの罪にいいわけはない。
新共同わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。
NIVIf I had not come and spoken to them, they would not be guilty of sin. Now, however, they have no excuse for their sin.
註解: イエスの降臨と教訓は人類全体、殊に彼の来臨を約束せられしユダヤ人にとっては革命的事実であった。彼らはイエスを受けてその名を信ずべきであった(ヨハ1:12)。然るに彼らはイエスを信ぜず彼とその弟子とを迫害したのであって、その罪はもはや弁解の余地がない。

15章23節 (われ)(にく)むものは()(ちち)をも(にく)むなり。[引照]

口語訳わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む。
塚本訳わたしを憎む者は父上をも憎むのであるから。
前田訳わたしを憎むものはわが父をも憎む。
新共同わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。
NIVHe who hates me hates my Father as well.
註解: イエスを憎むことによりて単に彼を憎むだけでなく、ユダヤ人にとって全く思いがけなくも彼らの信仰の対象である神をも憎むこととなるのである。不信なるユダヤ人はことのとを悟らない。

15章24節 (われ)もし(たれ)もいまだ(おこな)はぬ(こと)(かれ)らの(うち)(おこな)はざりしならば、(かれ)(つみ)なかりしならん。[引照]

口語訳もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て、憎んだのである。
塚本訳もしわたしがほかのだれもしたことのない業を彼らの間でしなかったら、彼らに罪はなかった。しかし今彼らは(わたしの言葉と業とによって)わたしをも父上をも見て、しかも憎んだのである。
前田訳ほかのだれもしなかったわざを、わたしが人々の間でしなかったならば、彼らに罪はなかったろう。しかし今は彼らはわたしをもわが父をも見て憎んだ。
新共同だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
NIVIf I had not done among them what no one else did, they would not be guilty of sin. But now they have seen these miracles, and yet they have hated both me and my Father.
註解: イエスの能力ある御業すなわち奇蹟についてはヨハ5:36註および引照参照。本節は22節と相対照し、22節は来臨と説教、本節は奇蹟につき記している。
辞解
[行はぬ事] 「行はぬ業」と訳すべきである。

されど(いま)ははや(われ)をも()(ちち)をも()たり、また(にく)みたり。

註解: イエスの御業を見し者は父を見たのである(ヨハ10:37、38)。然るに彼らは父をも子をも憎んだ。

15章25節 これは(かれ)らの律法(おきて)に「ひとびと(ゆゑ)なくして(われ)(にく)めり」と(しる)したる(ことば)成就(じゃうじゅ)せん(ため)なり。[引照]

口語訳それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。
塚本訳しかしこれは、彼らの律法[聖書]に〃彼らはゆえなくわたしを憎んだ〃と書いてある言葉が成就するためである。
前田訳これは、『彼らはゆえなくわたしを憎んだ』と彼らの律法にあることばが成就するためである。
新共同しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
NIVBut this is to fulfill what is written in their Law: `They hated me without reason.'
註解: 詩69:4詩35:19等に歌われし詩の作者に対する理由なき憎悪の感情がすなわちイエスに対するユダヤ人の態度の預言たることをイエスは看取し給うた。
辞解
[律法] ヨハ10:34と同じく旧約聖書全体を指す

15章26節 (ちち)[の(もと)]より()(つかは)さんとする助主(たすけぬし)、すなはち(ちち)より()づる眞理(まこと)御靈(みたま)のきたらんとき、(われ)につきて(あかし)せん。[引照]

口語訳わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。
塚本訳(また)わたしが父上のところからあなた達に遣わす弁護者、すなわち父上のところから出てくる真理の霊が来る時、それがわたしのことを(すべて)証明するであろう。
前田訳わたしが父からあなた方へ送る助け主、すなわち父から出て行く真理の霊が来るとき、彼がわたしについて証しよう。
新共同わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
NIV"When the Counselor comes, whom I will send to you from the Father, the Spirit of truth who goes out from the Father, he will testify about me.
註解: 以上においてイエスはイエスの死とこれに伴って来るべき聖霊の降臨と、父なる神およびイエスの内住と誡命の遵守と世の迫害とについて語り給うた。しかしながらもしかくキリストに反して彼を憎む世が、彼を拒みて信じないならば、彼らは全き絶望の中にその苦難の生活を送らなければならないであろう。しかしながらこれは杞憂に過ぎない。何となれば(さき)に弟子たちに約束し給える聖霊(ヨハ14:16、17)は、やがてこの世に来り給うて直接に、または聖霊の宿れる弟子たちその他の人々を通してキリストにつき証を人々の心の中に与え給い、彼らを導きてキリストを信ぜしむるに至るであろう。かくして信ずるものには弟子たちと同じくこの聖霊が内住し給うのである(エペ1:13、14)。而してこの聖霊は「助主」(ヨハ14:16註参照)であり、また「真理の御霊」であって、キリストと同じく(ヨハ14:16)真理そのものすなわち神に在し給う。而してこの聖霊はキリストが父に請いて遣わし給えるものであって、父の許より出て来り給える霊であり、三位の神の一柱である。注意。本節は学者間の大なる争論の目的となったのであって、聖霊が父のみより出づるや父と子とより出づるやの問題について、東部教会と西部教会との間に意見の相異が行われた。しかしながらかかる問題はこの一節のみによりて解せず全体の真理より解すべきである。この一節は聖霊の神性を示してその証の確実なることを示したのである。なお para を「の許より」と訳すならば、同様に「父の許より出づる真理の御霊」と訳することを要する。

15章27節 (なんぢ)()もまた(はじめ)より(われ)とともに()りたれば(あかし)するなり。[引照]

口語訳あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。
塚本訳またあなた達も、始めからわたしと一しょにいたのだから、わたしの証人である。
前田訳そしてあなた方も証しよう、あなた方ははじめからわたしといっしょであったから。
新共同あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
NIVAnd you also must testify, for you have been with me from the beginning.
註解: 弟子たちはキリストの証人として特別の地位と責任と権威とを持っていた。何となれば彼らは唯聖霊の内住を有つのみならず、初めよりイエスと偕に在りて歴史的イエスの目撃者(ルカ1:1使1:21、22)であって、イエスについて完全なる証を為すの資格を有っていたからである。ゆえに弟子たちの証(今日新約聖書として我らに残されている)は聖霊の証と相並んで重要なる証である(使5:32使15:28に弟子たち自らこのことを言っている)。