黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ヘブル書

ヘブル書第2章

分類
1 教理の部 1:1 - 10:18
1-1 キリストの優越を示して信仰固持をすすむ 1:1 - 2:18
1-1-ハ 信仰固持のすすめ 2:1 - 2:4  

註解: 以上の説明を終るや否や、著者はさらに2:5以下においてキリストと天使との関係について述ぶる前に2:1−4において本書の特質たる信仰保持の奨励をなし、キリストを離れんとする危険を警戒している。

2章1節 この(ゆゑ)(われ)()きし(ところ)をいよいよ(あつ)(つつし)むべし、(おそ)らくは(なが)()ぐる(こと)あらん。[引照]

口語訳こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。
塚本訳(御子はこのように天使たちにまさっておられる。)だからわたし達は(御子に)聞いたことに一層(深く)耳をかたむけ、押流されないようにせねばならない。
前田訳それゆえ、われらは聞いていることにますます心を向けて、道をそらさないようにしましょう。
新共同だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。
NIVWe must pay more careful attention, therefore, to what we have heard, so that we do not drift away.
註解: 「この故に」すなわちイエスが預言者よりも天の使よりもいたく優り給うが故に、イエスおよびその弟子たち(3節)より聞きし新約の福音に一層を意を留めてこれより離れざらんことを勉めなければならぬ、然らざればキリストの救いに与ることができず、その幸福の前を空しく通り過ぎてしまうであろう。
辞解
[▲愼む] 「心に留める」「注意する」等の意味。口語訳参照。
[流れ過ぐる] そこに止まらずにその側を流れ逝ってしまう形、堕落、滅亡等の意味にも用う。

2章2節 ()御使(みつかひ)によりて(かた)(たま)ひし(ことば)すら(かた)くせられて、(とが)()從順(じゅうじゅん)とみな(ただ)しき(むくい)()けたらんには、[引照]

口語訳というのは、御使たちをとおして語られた御言が効力を持ち、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な報いが加えられたとすれば、
塚本訳というのは、もし天使たちによって語られた(神の)言葉(モーセ律法)ですら効力をもっていて、(その)違反と不従順とがすべて相当の罰を受けたならば、
前田訳もし天使たちによって語られたことばに力があって、あらゆる違法と不従順がそれ相応の報いを受けたならば、
新共同もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、
NIVFor if the message spoken by angels was binding, and every violation and disobedience received its just punishment,
註解: ユダヤの伝説によればモーセがシナイ山において十誡を受くる時千万の天使が神の周囲に集りて十誡を語ったとのことである。その場合の天地の異象や声は天使によりて起されたものであると信じられていた(申4:12。5:22以下。出19:16、19以下)この十誡は神の権威とこれより生ずる刑罰とによりて堅く動かすべからざるものとせられ、その律法に反して為すべからざることをなせるもの(咎)および為すべきことを行わざるもの(不従順)はみな相当の報いを受くべきものとせられていた。
辞解
[▲▲堅くせられ] 「確固不動となる」こと egeneto bebaios。

2章3節 (われ)()くのごとき(おほい)なる(すくひ)等閑(なほざり)にして(いか)でか(のが)るることを()ん。[引照]

口語訳わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、
塚本訳(まして)こんなに大きな救の福音を(聞いた)わたし達は、(これを)なおざりにしてどうして(神の裁きを)免れ(ることができ)よう。この救の福音こそ主(キリスト)によって初めて語られ、聞いた人々からわたし達に確かにされ、
前田訳われらはかくも大きな救いを無視して、どうして報いを逃れえましょうか。この救いは主によって語られたのにはじまり、それを聞いた人たちによってわれらのために力あるものとされ、
新共同ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、
NIVhow shall we escape if we ignore such a great salvation? This salvation, which was first announced by the Lord, was confirmed to us by those who heard him.
註解: 天使よりも遙かに優れる御子によりて伝えられし大なる救いを等閑(なおざり)にしてこれを流れ過ぎしめるならばいかでこれに対する正当なる厳しき審判を免れることができようか。「大なる救」なる所以は内容としてはシナイの律法が神の「命令」であるに反し福音は神の救の「恩恵」である点と、その宣伝えられし方法においてもまた次に述ぶるごとく大に異なるがためである。キリストすでに万人のために死に給いたれば、万人はすでに罪に対して死んだものと見られている。唯この救いを等閑(なおざり)にする者は、その罪のために審判に遭う(Uテサ1:7−9、ヘブ10:28−31)。△口語訳「報を」は訳者補充。

この(すくひ)(はじ)(しゅ)によりて(かた)(たま)ひしものにして、

註解: 最初にこれを語りしものは天使にあらずして天使よりも凡ての点において優り給える御子キリスト(1:5−14)であった。

()きし(もの)ども(これ)(われ)らに(かた)うし、

註解: 「聞きし者ども」は十二使徒ならびにキリストの直弟子、彼の目撃者であり「我ら」はヘブル書の著者およびこの書を読むべき信者らであって、これらの人々にとっては刑罰によらず信仰と聖霊の賜物によりてこの救いが堅くせられたのである(2節)。

2章4節 (かみ)また(しるし)不思議(ふしぎ)とさまざまの能力(ちから)[ある(わざ)]と、御旨(みむね)のままに(わか)(あた)ふる(せい)(れい)とをもて(あかし)(くは)へたまへり。[引照]

口語訳さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである。
塚本訳神も徴と不思議(なこと)とさまざまの奇跡と、御心のままに聖霊を分け与えることとによって、賛成の意を表されたのである。
前田訳神が徴と不思議と多くの偉力とみ旨による聖霊の賦与とによって、ともに証をなさいました。
新共同更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。
NIVGod also testified to it by signs, wonders and various miracles, and gifts of the Holy Spirit distributed according to his will.
註解: キリストおよび弟子たちの証に加うるに神の証があった。神はキリストおよび弟子たちをして種々の奇蹟やその他の偉大なる能力を示す業を行わしめ、また人の意思や要求によらず神の御旨のままに聖霊を分ち与うることによりて、この救いにつき証拠を与え給うたのである。
辞解
[徴と不思議] ヨハ4:48辞解参照。
[能力(ちから)ある業] 原語「能力」の複数、ここでは奇蹟以外種々の能力の表顕。
[證を加ふ] sunepimartyrein 新約聖書中ここにのみ用いられ、「共にかつその上に証す」との意、重ね重ねの証しがある以上、疑う余地がない。

1-1-ニ キリストの受難と受肉の意義 2:5 - 2:18  

註解: 5節以下18節までは、キリストが肉体を取り天使以下に卑下(へりくだ)り給える所以とその必要とを述べている。キリストの受肉は一見1:5−14に録しし所と矛盾するがごときも然らず、人類を神と和らがしむる大祭司たるがために必要なる経過であった。而してこれは空なる神学的論争ではなく、著者の救いの実験を基礎とせるものであることに注意せよ(Z0)。

2章5節 それ(かみ)(われ)らの(かた)るところの(きた)らんとする世界(せかい)を、御使(みつかひ)たちには(したが)はせ(たま)はざりき。[引照]

口語訳いったい、神は、わたしたちがここで語っているきたるべき世界を、御使たちに服従させることは、なさらなかった。
塚本訳というのは、神はわたし達が(いま)語っている来るべき世界を、天使たちには屈服させられなかった。
前田訳神は、われらが語っている来たるべき世界を、天使たちに従わせることをなさらなかったのです。
新共同神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。
NIVIt is not to angels that he has subjected the world to come, about which we are speaking.
註解: 「来たらんとする世界」とは「この世」の反対で、「キリストの降臨と聖霊の降下によりて始まり、その再臨の時に完成せらるべき未来の世界」である(C1、M0)。然るに神はかかる世界(または代とも訳することができる)をば天使に服従せしめ給わなかった、これ1−4節に示せるごとく御子を信ぜざる者が審判を畏れなければならぬ点である、然らば誰にこの来るべき世界を(したが)わせ給いしかについては6節以下にこれを論じている。
辞解
[それ] 原語「そは・・・・・なればなり」。

2章6節 (ある)(へん)(ひと)(あかし)して()ふ『(ひと)如何(いか)なる(もの)なれば、(これ)御心(みこころ)にとめ(たま)ふか。(ひと)()如何(いか)なる(もの)なれば、(これ)(かへり)(たま)ふか。[引照]

口語訳聖書はある箇所で、こうあかししている、「人間が何者だから、これを御心に留められるのだろうか。人の子が何者だから、これをかえりみられるのだろうか。
塚本訳(詩篇の)ある所で、ある人がこう言って証している。“人間は何者であれば、あなたは記憶されるのであるか。また人の子は何者であれば、心にかけられるのであるか。
前田訳聖書のどこかがこう証しています、「み心にとめたもうとは、人は何であるのか、顧みたもうとは、人の子は何であるのか。
新共同ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。
NIVBut there is a place where someone has testified: "What is man that you are mindful of him, the son of man that you care for him?
註解: ▲「或篇に人」は原文「或る処に、ある人」で、何故「ダビデが詩篇第8篇に」と言わなかったかについて種々の推測が行われている。おそらくその必要がないほど周知の詩であったためであろう。なお、4:2参照。

2章7節 (なんぢ)これを御使(みつかひ)よりも()しく(ひく)うし、光榮(くわうえい)尊貴(たふとき)とを(かむ)らせ、[引照]

口語訳あなたは、しばらくの間、彼を御使たちよりも低い者となし、栄光とほまれとを冠として彼に与え、
塚本訳(神よ、)あなたは彼を少しのあいだ(だけ)天使たちよりも小さくされた。(しかし)栄光と栄誉との冠をさずけ、
前田訳彼をしばし天使たちより低くし、栄光と誉れで彼に冠りし、
新共同あなたは彼を天使たちよりも、/わずかの間、低い者とされたが、/栄光と栄誉の冠を授け、
NIVYou made him a little lower than the angels; you crowned him with glory and honor

2章8節 (よろづ)(もの)をその(あし)(した)(したが)はせ(たま)へり』と。[引照]

口語訳万物をその足の下に服従させて下さった」。「万物を彼に服従させて下さった」という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。
塚本訳万物をその足の下に屈服させられた。”しかし人は抗議して言うかもしれない。一体“万物を屈服させた”と(言う以上)は、彼に屈服しない何者をも残されなかったというのである。しかし今、わたし達はまだ彼に“万物が屈服しているのを”見ない(ではないか、と。然り、この預言はまだ実現していない)。
前田訳すべてを彼の足もとに従えさせたもうた」と。すべてを彼に従えさせたもうたとあるがゆえに、彼に不服従のものは何もお残しにならなかったのです。しかし今なお、われらはすべてが彼に従っているのを見ていません。
新共同すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。
NIVand put everything under his feet." In putting everything under him, God left nothing that is not subject to him. Yet at present we do not see everything subject to him.
註解: 詩篇8:4−6の七十人訳の引用である。この詩は万物に対する人間の地位について語っているのであって、「人」および「人の子」は一般の世の人、アダムの子を意味する。神が人類を創造し給える所以は人類を非常に高き地位に置き、神の像に似せて創造し給い、神に属する光栄と尊貴とを人類に与え、人類をして万物を支配せしむるに在った。創世記一、二章の記事はこのことを録し、一見取るに足らざる極めて小なる人類の偉大なる地位を示しているのである。然るにアダムの堕落の結果人類はこのすべての光栄と尊貴と支配権を失ってしまった。これがためにこの詩は一見不可解なものとなったけれどもキリストによってこの詩が成就されたのである。このことは次節以下に記さる。
辞解
[少しく] 「暫時の間」とも訳することができる。
(注意)ヘブル語聖書には「御使よりも」は「神よりも」とあり(日本訳を見よ)、また七十人訳には7節と8節との間に「彼をその御手の業の上に置き」とあり、1:10との関係上これを略したものであろう(Z0)。異本および日本元訳聖書は8節前半の代りにこの句を挿入している。

(すで)(よろづ)(もの)(これ)(したが)はせ(たま)ひたれば、(したが)はぬものは(ひと)つだに(のこ)さるる(こと)なし。されど(いま)もなほ(われ)らは(よろづ)(もの)(これ)(したが)ひたるを()ず。

註解: 神の御旨は人類が万物を支配する位置に立つべきことであって、従って一物もその支配を洩れること無かるべきはずであったけれども事実においては今もなお万物が人類に服従しているのを見ることができない。これ我らが現に目撃して動かすことのできない事実である。

2章9節 ただ御使(みつかひ)よりも()しく(ひく)くせられし((もの)(すなわち))イエスの、()苦難(くるしみ)[を()くる]によりて榮光(えいくわう)尊貴(たふとき)とを(かむ)らせられ(たま)へるを()る。[引照]

口語訳ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。
塚本訳ただわたし達は、このイエスが“少しのあいだ(だけ)天使たちよりも小さくされ(て地上に遣わされ)た”が、死の苦しみのゆえに“栄光と栄誉との冠をさずけられた”のを見るのである。(そしてここに預言の実現がある。)彼が死ぬことは、神の恩恵によって、万人の(救の)ためであった。
前田訳われらが見るのは、しばし天使たちより低くされ、死の苦しみを経て栄光と誉れで冠りされたイエスです。それは神の恵みによってすべての人のために死を味わわれるためでした。
新共同ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
NIVBut we see Jesus, who was made a little lower than the angels, now crowned with glory and honor because he suffered death, so that by the grace of God he might taste death for everyone.
註解: 以上のごとく詩8:4−6の引用は人類の地位を示しておりながらその事実が全く成就していないけれども、ここに唯一つイエスにおいてこの詩の言が成就しているのを見ることができる。すなわちイエス本来御子に在し天使よりも優れる御方に在し給いしにもかかわらず、肉体を取って人となり給いしことによりて天使よりも少しく(ひく)き地位に立ち給い、十字架の死に至るまで服従し給いしがために(ピリ2:6−11参照)神は彼を高く挙げて凡ての名に優る名を給い、復活昇天せしめて栄光と尊貴とを与え給うた。而して天の上、地の下にある一切の権を保ち給う(マタ28:18)。キリスト我らのために肉体を取り給えることの大なる恩恵を我ら深く思うべきである。

これ(かみ)恩惠(めぐみ)によりて萬民(ばんみん)のために()(あぢは)(たま)はんとてなり。

註解: 前文「死の苦難〔を受くる〕によりて」の理由の説明として加えられたのであって、イエスの受け給いし死の苦難は、ユダヤ人らの考うるごとく彼自身の涜神的行為のためではなく、神の恩恵によりて(ヨハ3:16。Tヨハ4:10。ロマ5:8)万民を救わんがために、キリスト自ら万民に代りて死を味わい、その贖いとなり給わんがためであった(マタ20:28)。イエスが天使よりも(ひく)きに下り給い恥ずべき死を味わい給いし意味はかかる大なる神の恩恵の発露であって、これを思う時我らの心は深き感謝に溢れるのである。而してイエスの天使に優りて栄光と尊貴とを受け給える所以を一層明らかにすることができる。この一句を「御使よりも少しく(ひく)くせられし」ことの理由として解する人もあるけれども(ブラウン)説明としては優れているけれども文法上やや無理である。
辞解
[死を味ふ] 多く用いられる熟語で(マタ16:28等。ヨハ8:52)「死す」という外面的事実よりも一層深く死の苦痛なる内面的経過を表示するに適している語である。イエスは実にこの死の苦難を極度まで味わい給うた(マタ27:34註参照)。

2章10節 それ(おほ)くの()光榮(くわうえい)(みちび)くに、その(すくひ)(きみ)苦難(くるしみ)によりて(まった)うし(たま)ふは、(よろづ)(もの)()するところ、(よろづ)(もの)(つく)りたまふ(ところ)(もの)相應(ふさは)しき(こと)なり。[引照]

口語訳なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。
塚本訳なぜなら、多くの子たちを栄光に導くため、彼らの救の創始者(であるイエス)を苦しみによって完成することは、万物が彼のため、また万物が彼によ(って存在す)る神に、(いかにも)ふさわしいことであった。
前田訳すべてが彼のためにあり、すべてが彼によって成ったその方にとって、多くの子らを栄光に導くようにと、彼らの救いの君を苦しみによって全うなさることはふさわしいことでした。
新共同というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。
NIVIn bringing many sons to glory, it was fitting that God, for whom and through whom everything exists, should make the author of their salvation perfect through suffering.
註解: 人類はみなサタンの下に捕われている故、キリスト者がこの中より(のが)れて救いの栄光の中に入るがためにはサタンとの激しき闘いを経、多くの苦難を味わわなければならない。而してこの救いの戦闘の将軍(救の君)はキリストである。而してサタンに捕われしものはこの苦難のみならず一度死してサタンの束縛から(のが)れなければならぬ(ロマ6:1−11)。ゆえに凡てのキリスト者がこの苦難や死を味わいつつキリストのみこれらを免れ給うことは不可能なことである。ゆえに神はその独り子キリストをして多くの苦難殊に死の苦しみを味わしめこの救いの君たる職務を全うせしめて後彼に栄光を与え給うた。キリストは救いの君としてその苦難なしには不完全であったのである。キリストが唯一の救い主に在し給う所以もここにある。またキリスト者もキリストにのみ苦難と死を味わしめて自ら安閑として生くべきではない。キリストのなやみの欠けたるを補い(コロ1:24)、彼と共に十字架に()けれられるべきである(ガラ2:20)。かくしてキリスト栄光を受け給いしごとく救いと栄光は彼らに与えられるであろう。
辞解
[多くの子] 神の栄光を受くべき多くのキリスト者を指す。
[救の君] 「救いの先導者」「救いの将軍」の意で、軍隊の先頭に立ちて進む将校(12:2の「導師」も同文字)すなわちキリストを指す。
「萬の物の帰するところ、萬の物を造り給うところの者」は神である。而して単に「神」と言わずして特に「萬の物の帰することころ、萬の物を造り給うところの者」と言いし所以は万物の創造者であり、万物の帰着点である神にとっては罪が罰せられずに残されることは相応しからざることだからである。

2章11節 (きよ)めたまふ(もの)も、(きよ)めらるる(もの)も、(みな)ただ(ひと)つより()づ。この(ゆゑ)(かれ)らを兄弟(きゃうだい)(とな)ふるを(はぢ)とせずして()(たま)ふ、[引照]

口語訳実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。
塚本訳というのは、(人を)聖別する者(なるイエス)も、聖別される彼ら(人類)も、皆一つ(の本現たる神)から出た者であるからである。それゆえに、彼は彼ら(人類)を“兄弟”と呼ぶことを恥じられない。
前田訳きよめるものもきよめられるものも、皆ひとりからの出です。そのために彼は彼らを兄弟と呼ぶことを恥となさいません。
新共同事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
NIVBoth the one who makes men holy and those who are made holy are of the same family. So Jesus is not ashamed to call them brothers.
註解: キリストと信徒とは密接にして不可離の関係にある(11−13節)。これ救いの君に必要なる条件であった。すなわち「潔め給う」キリストは神より生れ「潔められる」信者もまた聖霊によって神より生れたのであって、この点においてその源を一つにしている。キリスト者の身分の高さを思うべきである。而して人間としてのキリスト者はなお血肉を具えて多くの不完全さを有っているのにもかかわらず、完全に潔き神の子は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とし給わなかった。実に大なる謙遜と愛である。
辞解
[潔め給う者] キリストであり、「潔められる者」は信徒である。何れも「聖別する」「聖別される」の意味を有し、従来サタンに(したが)い、罪の下にありしものが聖別せられて神の民となることを意味する。
[一つ] 「一人」(男性と解する説が通説である)と訳すべきで、種々に解される「神」(A1、M0、I0、E0、G2)、「アダム」(Z0)、アブラハム(B1、W2)等、ここでは「神」と解するを可とする。

2章12節 『われ御名(みな)()兄弟(きゃうだい)たちに()げ、集會(つどひ)(うち)にて(なんぢ)()(うた)はん』[引照]

口語訳すなわち、「わたしは、御名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ、教会の中で、あなたをほめ歌おう」と言い、
塚本訳いわく──“わたしはお名前をわたしの兄弟たちに告げ、集会の中であなたをほめ歌うであろう。”
前田訳こういわれています、「わたしはみ名を兄弟に告げ知らせ、集まりの中であなたをほめうたおう」と。
新共同「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、/集会の中であなたを賛美します」と言い、
NIVHe says, "I will declare your name to my brothers; in the presence of the congregation I will sing your praises."
註解: 詩22:22よりの引用。この詩はキリストの受難とその勝利との預言である。ゆえに「われ」はキリストに相当し、キリストがキリスト者を兄弟と呼び給うことの証拠としてここに掲げられている。
辞解
[▲集会] 原語は ekklesia で、口語訳のごとく普通「教会」と訳されているが、本節は旧約聖書の引用故、原ヘブル語 qahal に当り旧約の「集会」を指す。ゆえに「教会」と訳すのは適当ではない。

2章13節 また『われ(かれ)依頼(よりたの)まん』(また)()よ、(われ)(かみ)(われ)(たま)ひし()()とは……』と。[引照]

口語訳また、「わたしは、彼により頼む」、また、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子らとは」と言われた。
塚本訳またさらに“わたしは彼[神]にたよるであろう。”またさらに“見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子らとは…”
前田訳また、「わたしは彼により頼む」といい、また、「見よ、わたしとそして神がわたしにお与えの子らと」ともいわれています。
新共同また、/「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、/「ここに、わたしと、/神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。
NIVAnd again, "I will put my trust in him." And again he says, "Here am I, and the children God has given me."
註解: イザ8:17、18より引用し、前者はキリストが神に対し礼拝者の地位に立ちて自ら信者と等しきものとなり給うこと、後者は「子等」と同等のものとして見給うことの例として掲げられている。(この預言の記者元来の意味とは全く独立してこれを神の言と見、キリストの預言として解することは当時一般に行われていた処である。)我らキリストの贖罪の死を理解せんがためにはまずキリストの取り給えるこの態度を知らなければならない。

2章14節 ()()はともに血肉(けつにく)(そな)ふれば、(しゅ)もまた(おな)じく(これ)(そな)(たま)ひしなり。[引照]

口語訳このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、
塚本訳だから、“子らは”血と肉とを共有しているので、(イエス)彼自身も、(全く)同じようにこれを保たれた。(これはその)死によって、死の権力をもっている者、すなわち悪魔をほろぼし、
前田訳さて、子らが血と肉を共に分かち合うので、彼も同じくそれらをお持ちです。それは死の力を持つもの、すなわち悪魔を自らの死によって滅ぼし、
新共同ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、
NIVSince the children have flesh and blood, he too shared in their humanity so that by his death he might destroy him who holds the power of death--that is, the devil--
註解: 子等の自然性は彼らみな同じく血肉を具有する点に存する。この点においてもキリストは完全に同じ血肉を子等と偕にし給うた。単に12節におけるごとく「兄弟と呼び」給うのみではなく、また13節におけるごとく、兄弟として同様の態度と心持とを持ち給うのみではなく、実にその肉体に至るまで全く同じ肉体となり給うた。あらゆる肉体的慾望、あらゆる感覚がみな我らと同じくしかも完全にこれを具有し給うた。かくまでになり給える必要は次の数節において説明されるごとくである。

これは()權力(ちから)()つもの、(すなは)惡魔(あくま)()によりて(ほろぼ)し、

2章15節 かつ()(おそれ)によりて生涯(しゃうがい)奴隷(どれい)となりし(もの)どもを解放(ときはな)(たま)はんためなり。[引照]

口語訳死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。
塚本訳死を恐れ、全生涯(その)奴隷になっている彼ら(人類)を(のこらず)釈放するためであった。
前田訳死の恐れのために一生奴隷となっていたものをすべて解放するためです。
新共同死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
NIVand free those who all their lives were held in slavery by their fear of death.
註解: 悪魔は人を誘いて罪を犯さしめ、人類を捕虜としてその上に権を握っている(創3:1以下)。而して「罪の値は死なる」が故に悪魔は死の権力を握っているのである。ゆえに神はキリストを罪ある肉の形にて罪のために遣わし、これを十字架につけて肉において罪を処罰し給うた(ロマ8:3)。これにてサタンの活動の目的物は終局となった。それ故にイエス・キリストに在る者はその罪の値なる死をキリストによりて弁済し終わったので、彼らをばサタンはもはや死に付すことができない。すなわち死の権力を持つ者なる悪魔はキリスト者にとって全く亡びて無権力者となってしまった。それ故にイエスの贖罪復活昇天を信ずる者は全く死の恐怖より解放され、死はその刺を失い(Tコリ15:54−57)、死より生命に移され(ヨハ5:24)キリスト再臨の時、すでに眠れる者は甦り、なお生残れる者は霊の体に化されるのである。それ故にキリストが肉体を取りて来り給える所以は、決して彼の地位が天使より低きことを証明するものではなく、かかる偉大なる神の救いを実現するがための必要から起ったのである。

2章16節 ()(しゅ)御使(みつかひ)(たす)けずしてアブラハムの(すゑ)(たす)けたまふ。[引照]

口語訳確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。
塚本訳然り、イエスは天使たちを世話(しようとは)されない。“彼は(人類を)、アブラハムの子孫を世話される”。
前田訳実に彼は天使たちをお助けにならず、アブラハムの末をお助けです。
新共同確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
NIVFor surely it is not angels he helps, but Abraham's descendants.
註解: 肉体を持たない天使をば(たす)け給わず、肉を持てるアブラハムの裔、すなわち人間を主は(たす)け給う。「アブラハムの子孫」とは創12:7。ガラ3:29。ロマ4:16に示されるごとく約束によりて祝福を()ぐべき人類を総称し、ユダヤ人も異邦人もこの中に含まれている。要するに栄光を()ぎて来たらんとする世界を(したが)わする者はこの人類であって天使ではない。

2章17節 この(ゆゑ)(かみ)(こと)につきて憐憫(あはれみ)ある忠實(ちゅうじつ)なる(だい)祭司(さいし)となりて、(たみ)(つみ)(あがな)はんために、(すべ)ての(こと)において兄弟(きゃうだい)(ごと)くなり(たま)ひしは(うべ)なり。[引照]

口語訳そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。
塚本訳そのため、彼はどの点からしても“兄弟”(である人間)に似ざるを得なかったのである。彼は(人間に対して)憐れみぶかい、神に関することについては忠実な大祭司となられた。それは民の罪を贖うためであった。
前田訳それゆえイエスは何につけても兄弟に似る必要がおありでした。それは民の罪をあがなうよう、神の前にあわれみ深い忠実な大祭司におなりのためです。
新共同それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
NIVFor this reason he had to be made like his brothers in every way, in order that he might become a merciful and faithful high priest in service to God, and that he might make atonement for the sins of the people.
註解: キリストが人類の大祭司に在すことはヘブル書において特に繰返して示されている真理である(4:14。5:9以下。6:19以下。7:24−26。8:4。9:24)而して大祭司は他の祭司に対し特別の地位を有し(出28)頭に油を注がれ(レビ8:12)特別の服装をなし、一年に一度唯一人至聖所に入りて凡ての民のために罪の贖いをなし(レビ16)神の怒りを宥めなければならない。而してキリストは民に対しては憐憫に充ち、民の凡ての苦痛を知り給い、神に対して忠実にその職務を果し給うた(「贖はんため」とはこの意味である。Tヨハ4:10)。これがためにキリストは「凡ての事において」すなわちあらゆる点において例外なしに兄弟たる人類と同じ性質のものとなり、あらゆる弱さに対し同情し得る者となり給うことは必要なことであった。

2章18節 (しゅ)(みづか)(こころ)みられて(くる)しみ(たま)ひたれば、(こころ)みられるる(もの)(たす)()るなり。[引照]

口語訳主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。
塚本訳というのは、みずから誘惑にあって苦しみをうけたので、(同じく)誘惑にあう者を助けることが出来るからである。
前田訳彼自ら試みられてお苦しみでしたので、試みられるものたちをお助けになれるのです。
新共同事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
NIVBecause he himself suffered when he was tempted, he is able to help those who are being tempted.
註解: キリスト神の子に在し給うと言いて決して神のごとくに誘惑を超越し給える方ではない。凡ての点において兄弟すなわち人間のごときものとなり給い、色慾、食慾、名誉慾、権勢慾、生命慾など凡て人間の味わい得るあらゆる誘惑のために苦しみ給うた。ゆえにキリストは我ら人類の凡ての試誘につき同情を持ち我らを助くることを得給う。我らはこの主イエス・キリストに対し無限の親愛を感ずる。而してかく誘われて罪を犯し給わざりし彼を神として仰ぐより外はない(4:15)。
要義1 [キリストの受難の意義]ベンゲルは2章10節を下のごとくに分解している。
「(1)イエスは()いの君(キャプテン)である
(2)苦難(○○)によりて救いを遂ぐることが必要であった
(3)イエスは苦難によりて全うせられ(○○○○○)給うた
(4)子等の栄光(○○)はこのキリストの完成と関連している
(5)子等の数は多い(○○)
(6)この全経綸は最も神に相応しき(○○○○)ことであった、たとえ不信仰はこれを汚辱と思うとも
(7)キリスト苦難をうけて子等を救うことが神に相応しき所以は神が万物の帰する(○○○○○○)処であるから
(8)キリストが全うせられ子等が栄光に導かれることが神に相応しき所以は、神が万物の創造者(○○○○○○)に在し給うから」

以上の各項を深く考慮することによりて、キリスト受難の意義の如何に深きかを知ることができる。キリストの苦難はサタンに捕われ罪の奴隷となっている全人類の受くべき当然の苦難を代りて受け給うのであって、人類はその罪のために当然に死すべきであったけれどもキリストは罪無きが故に当然に死すべきではなかった。ゆえにキリストの死によりて一方人類の凡ての罪は贖われ、人類の罪の問題は片付き、他方キリストは「死に繋がれ居るべき者ならぬ故」(使2:24)神は彼を甦らしめてサタンに対して勝誇り給うた。キリストの苦難は人類を「サタンの権威より神に立ち帰らする」(使26:18)がための苦難であった。この世はサタンの支配下にある、キリストこの世に降り給い人類をこの世より神の国に救出さんがためにはこの苦難は当然であった。死はサタンに属する凡てのものに当然来らなければならない。而してその中より神に属する霊のみ新たなる生命に甦えらせられて永遠の国を()ぐことを得るのである。

要義2 [キリストの受肉の意義]キリストの受肉の一つの意義はその肉において罪の審判を受け給い人類の罪を贖わんがためであった。而してその第二の意義は、我らと同じ心を持ち我らの凡ての罪に同情し給うことによって神の前に大祭司の職を執り給うことであった。前者としてキリストは我らのために悪魔と戦い給い、後者として彼は我らのために神の前に執成し給う。神の経綸の深さを思うべきである。
要義3 [キリストの身分および活動の諸相]本章にキリストの身分および活動の諸相が極めて多方面より観察せられていることに注意すべきである。すなわち、御使いよりも少しく(ひく)くせられて肉体を取りて来り給い(6節、14節)、我ら万民のために死を味わい給い(9節)、多くの子等を光栄に導き給い(10節)、苦難によりて全うせられ給い(同)、潔め給い(11節)、卑下(へりくだ)り給い(11−13節)、サタンを亡ぼし給い(14節)、サタンの奴隷たる状態より人類を解放ち給い(15節)、大祭司となりて試みられる者を助け給い(17、18節)、光栄と尊貴とを冠せられ給う(9節)。我らこの一章にキリストの万全の御姿を仰ぐことができる。

ヘブル書第3章
1-2 イスラエルの民との比較により不信仰を戒む 3:1 - 4:13
1-2-イ モーセに優れるキリスト 3:1 - 3:6  

註解: 前章においてキリストの受肉と受難の意義を明らかにしたる後さらに彼の地位をモーセのそれと比較し、イスラエルの民の不信仰の歴史とその結果を引証して不信仰を戒めている。まず1−6節においてモーセとキリストとの比較をなし、モーセの言に従わざることと、キリストに従わざることとが如何に大なる差があるかを示す前提たらしめんとしている。

3章1節 されば(とも)(てん)(めし)(かうむ)れる(せい)なる兄弟(きゃうだい)よ、[引照]

口語訳そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。
塚本訳それゆえ、聖なる兄弟たちよ、天の選択にあずかった者よ、わたし達が告白する使徒また大祭司(である)イエスに心を向けよ。
前田訳それゆえ、天の召しにあずかる聖なる兄弟よ、われらが告白する使徒であり大祭司であるイエスをお思いなさい。
新共同だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
NIVTherefore, holy brothers, who share in the heavenly calling, fix your thoughts on Jesus, the apostle and high priest whom we confess.
註解: 第一、二章によりキリストの地位と職務が明らかにせられし後改めて読者に呼びかけてその注意を促している。而して読者たるキリスト者らは著者に対して信仰による霊的兄弟であり、また世の人に対しては「聖別せられし者」即ち「聖なる兄弟」であった。而して彼らも著者もみな共に天の召しを蒙り天国の民として招かれし者であってこの世の誘惑と戦いこれに打勝つべきものである。

(われ)らが()ひあらはす[信仰(しんかう)]の使徒(しと)たり(だい)祭司(さいし)たるイエスを(おも)()よ。

註解: キリスト者の第一に為すべきことは預言者、使者たり大祭司たるこの「イエスを思い見ること」すなわち充分にイエスに意を注ぎ彼を熟視することである。これが不信仰に陥ることを防ぐ唯一の途である。
辞解
[我らが言ひあらわす信仰] 原語「我らの告白」であって、旧約的信仰告白と対立せる新約の信仰を意味する。
[使徒] (ここでは「使者」と訳して十二使徒と区別する方がよい)モーセのごとく神より遣わされて神の事を民に述ぶる預言者の職務を帯びし人。
[大祭司] アロンのごとく民の代表者として民の事を神に述べる職を帯し者をいうので、キリストはこの二つの職を兼ね給うた(B1)。

3章2節 (かれ)(おのれ)()(たま)ひし(もの)忠實(ちゅうじつ)なるは、モーセが(かみ)全家(ぜんか)忠實(ちゅうじつ)なりしが(ごと)し。[引照]

口語訳彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。
塚本訳彼は“モーセが神の全家に”忠実であったように、彼を創造された方に対して“忠実”であった。
前田訳彼が彼をお立ての方に忠実であったことは、モーセが神の家にそうであったごとくです。
新共同モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。
NIVHe was faithful to the one who appointed him, just as Moses was faithful in all God's house.
註解: この節は前節の「見よ」に関連しているのであって(▲「イエス」の同格句である。)、「使者たり大祭司たるイエス、すなわちモーセが神の全家に忠実なりしがごとく己を立て給いしものに忠実なる彼を思い視よ」とのことである。モーセが神の全家に忠実なることは民12:7に記され、それがためにモーセは旧約の仲保者として全イスラエルに尊敬せられ、天使にも優れるものと認められた。イエスはこの点においてモーセと同じく己を立て給える神に忠実であった。ここに著者はまずキリストとモーセの同一なることを述べ、次にキリストの優越を論じ(3−6節)これによりて不信仰を戒むる前提となしている。

3章3節 (いへ)(つく)(もの)(いへ)より(まさ)りて(たふと)ばるる(ごと)く、(かれ)もモーセに(まさ)りて(おほい)なる榮光(えいくわう)()くるに相應(ふさは)しき(もの)とせられ(たま)へり。[引照]

口語訳おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。
塚本訳家を造った者が家(そのもの)より大きな尊敬を受けると同様、彼はモーセ以上に大きな栄光に価する者にされたのである。(モーセは神の家、すなわちイスラエル人の一員であったが、イエスはその家を造られた方であるから。)
前田訳彼はモーセより大きい栄光に値しました。それは家を造るものが家よりも大きな誉れを持つごとくです。
新共同家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。
NIVJesus has been found worthy of greater honor than Moses, just as the builder of a house has greater honor than the house itself.
註解: キリストはここに神の家の家造りとして考えられている。何となれば神は万物を創造(つく)り給いしがごとくにキリストはその聖霊をもって神の家なる教会を建て給うたからである。而してイスラエル人に最も崇敬せられしモーセすら、神の家の一員に過ぎない。ゆえに神の家の建築者たるキリストははるかにモーセに優りて栄光を受くるに相応しき者とせられ給うた。ユダヤ人はこのことを明らかにすることが殊に必要であった。然らざればキリストの真の価値を見失うであろう。

3章4節 (いへ)(すべ)(これ)(つく)(もの)あり、(よろづ)(もの)(つく)(たま)ひし(もの)(かみ)なり。[引照]

口語訳家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。
塚本訳[(一体)家はみな人によって造られる。(従って神の家にもこれを造った人があり、それはイエスである。)しかし万物を造られた方は(もちろん)神である。]
前田訳どの家もだれかに造られています。すべてをお造りになった方は神です。
新共同どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。
NIVFor every house is built by someone, but God is the builder of everything.
註解: 家があればこれを建てし者があると同じく、萬の物従ってここに今論じつつあるイスラエルの全家も、神の教会もみな神が建て給うたのである。(注意)教会は前節においてキリストによりて建てられしものとして観察されており、ここには別の立場より神によりて建てられしものと見、その立場より見てキリストとモーセとを対立の地位に置きてこの両者を比較している(5、6節)。

3章5節 モーセは(のち)(かた)(つた)へられんと()ることの(あかし)をせんために、(しもべ)として(かみ)全家(ぜんか)忠實(ちゅうじつ)なりしが、[引照]

口語訳さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、
塚本訳なお“モーセは”、(将来預言者たちにより、また御子によって)語られるべきことを証するために、“(一人の)僕”として、“神の全家に忠実”であったが、
前田訳モーセは神の全家に奉仕者として忠実でした。それは後に語られるべきことどもへの証のためでした。
新共同さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、
NIVMoses was faithful as a servant in all God's house, testifying to what would be said in the future.
註解: これがモーセの忠実とキリストの忠実(6節)との異なる第二の点である。すなわち僕たることと而してその任務が「後に語り伝えられんとすること」すなわちキリストの福音(9:19)の証を為さんための僕であったことがモーセの忠実の内容であった。

3章6節 キリストは()として(かみ)(いへ)忠實(ちゅうじつ)(つかさ)どり(たま)へり。我等(われら)もし確信(かくしん)希望(のぞみ)(ほこり)とを(をはり)まで(かた)(たも)たば、(かみ)(いへ)なり。[引照]

口語訳キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。
塚本訳キリストは“神の家”の御子として忠実であった。そして(キリストを信ずる)わたし達は、そのキリストの家(の者)である。もしわたし達が(大胆な)信頼と、希望の誇りとを最後まで堅く守っているならば。
前田訳しかしキリストは子として忠実であり、神の家の上にお立ちでした。もしわれらが望みの確信と誇りをあくまで持ち続けるならば、われらは神の家です。
新共同キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。
NIVBut Christ is faithful as a son over God's house. And we are his house, if we hold on to our courage and the hope of which we boast.
註解: 原文の順序に近く直訳すれば「キリストは子として神の家の上に〔忠実に在し給えり〕この神の家は我らなり。もし確信と希望の誇とを終りまで堅く保たば」であって、モーセは僕であるに反し、キリストは神の家の主に在し、モーセは神の家の中の一員であったのに(en)キリストは神の家の上に(epi 10:21参照)君臨し給う。同じ忠実であってもモーセは仕うる忠実であり、キリストは治め給う忠実である。而してキリストの(つかさど)り給う神の家とはイスラエルではなく、キリスト者の教会すなわち「我ら」である。ただしキリスト者なるものも、信仰後退の危険に(さら)されているのであって、もし贖い主キリストの救いに対する確信と、キリストに在りて持つ永遠の国の希望の誇りとを終りまで堅く維持しないならば、たとい一時は熱心なる信者であってもまた名義上のキリスト者であっても、神の家の一員と称することができない。

1-2-ロ 心を頑固にするなかれ 3:7 - 3:19  

3章7節 この(ゆゑ)(せい)(れい)()(たま)ふごとく『今日(けふ)なんぢら(かみ)(こゑ)()かば、[引照]

口語訳だから、聖霊が言っているように、「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、
塚本訳だから、聖霊が言う通りである。──“今日、あなた達は御声を聞いたら、
前田訳それゆえ、聖霊がいいます、「きょう、あなた方がお声を聞いたなら、
新共同だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
NIVSo, as the Holy Spirit says: "Today, if you hear his voice,

3章8節 その(いかり)()きし(とき)のごとく、荒野(あらの)嘗試(こころみ)()のごとく、(こころ)頑固(かたくな)にするなかれ。[引照]

口語訳荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。
塚本訳心を頑固にするな、荒野における誘惑の日に(わたしに)反抗した時のように。
前田訳荒野での試みの日にそむいたときのように心を頑にするな。
新共同荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。
NIVdo not harden your hearts as you did in the rebellion, during the time of testing in the desert,
註解: (▲「荒野の嘗試(こころみ)の日」は「荒野の試誘の日に神を怒らせた時のように」と訳すべきである。口語訳「神にそむいた時」は訳語として不充分である。)今はモーセよりもはるかに優れるキリストによりて神は語り給う以上(1:2)、一層の度において心を頑固にせぬように注意しなければならぬ。蓋しイスラエルがモーセに従ってアラビヤの荒野を通過していた際に水が無かりしためにエホバに対し不信と反抗とをもってエホバを試み、その怒りを惹(まね)いた(出17:7)。これよき前車の覆轍(ふくてつ)である。
辞解
7−11節は詩95:7−11、七十人訳の引用であり聖書は凡て「聖霊の言」である。Uペテ1:21。この詩はダビデがモーセの時代の不信の事実とその結果たる神の審判とを顧みてその当時のイスラエルを戒ちょくせしものである。これを著者は今日に応用した。
[怒を惹く] ヘブル語メリバの訳。
[嘗試(こころみ)] ヘブル語マサの訳、詩95:8の日本語訳と対照せよ。

3章9節 彼處(かしこ)にて(なんぢ)らの先祖(せんぞ)たちは(われ)をこころみて(ため)し、かつ四十(しじふ)(ねん)(あひだ)わが(わざ)()たり。[引照]

口語訳あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みためし、
塚本訳そこであなた達の先祖は(わたしを)こころみ試し、しかもわたしの業を見たのである、
前田訳荒野であなた方の先祖はわたしを試みためし、わがわざを見て
新共同-10節 荒れ野であなたたちの先祖は/わたしを試み、験し、/四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して/憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、/わたしの道を認めなかった。』
NIVwhere your fathers tested and tried me and for forty years saw what I did.

3章10節 この(ゆゑ)(われ)この()(ひと)(いきど)ほりて()へり、[引照]

口語訳しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった。
塚本訳四十年の間。”だからその“時代(の人)をわたしは憤って言った、「絶えず彼らは心に迷っており、わたしの道がわからなかった」と。
前田訳四十年を過ごした。それゆえわたしはその世代の人々に怒り、こういった、『つねに彼らの心は迷い、彼らはわが道をわきまえなかった』。
新共同
NIVThat is why I was angry with that generation, and I said, `Their hearts are always going astray, and they have not known my ways.'
註解: 彼処(かしこ)」すなわち荒野においてイスラエルの先祖らは神を試み、神果して彼らを救い得るやを(ため)してその不信の心をあらわし、しかも四十年間もエホバの為し給える種々の「御業」すなわち多くの奇蹟を目撃しつつなおこの不信を改めなかった。彼らの罪は実に重い。ゆえに「エホバはこの代の人に対して憤激の念を発せざるを得なかった。」これと同様にキリスト以後約四十年の間キリストや使徒らの業を目撃したその当時の信者がなおキリストに対する確信と希望の誇りとが無く、常にキリストを試み(ため)すごとき不信の態度を取るならば同じく神の憤りを免れないであろうとの意を偶している。
辞解
[四十年] 七十人訳の原文および次の17節では「憤り」に関連し「この故に」は原文になく、「この代」は原文に「かの代」となっている。ヘブル書の著者はその当時の読者にこの詩を適応せんがためにこれを変更したものであろう(M0)。なお詩95:9、10、日本語訳を見よ。

(かれ)らは(つね)(こころ)まよい、わが(みち)()らざりき」と。

註解: エホバは荒野を通してカナンの地にイスラエルを導かんとし給うた。これ「わが途」である。然るにイスラエルはこの途を知らず、すなわち彼を信ぜず、常に心迷いてその途を失った。キリストの救いの途につきても同様であって、我らは唯一筋に彼に従い、如何なる苦難の中においても彼を離れ、彼を試みてはならない。然らざれば我らも不信仰により心迷い途を失うであろう。

3章11節 われ(いかり)をもて「(かれ)らは、()(やすみ)()るべからず」と(ちか)へり』[引照]

口語訳そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。
塚本訳そこで、わたしは怒って誓った、「彼らは絶対にわたしの休みに入るべからず」と”。
前田訳わが怒りのうちに誓ったように、『彼らはわがいこいに入らせない』」と。
新共同そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と。」
NIVSo I declared on oath in my anger, `They shall never enter my rest.'"
註解: 「我が休」はエホバの賜う休みでイスラエルが約束の地カナンに入ることを指す(申12:9、10)。神怒りてイスラエルにこの特権を拒絶し給うた(民14:21以下)、このことを「誓ひ」給えることはその怒りの如何に甚だしかりしかを示す。神は不信なる者に対してはその約束をも拒み給う。
辞解
「安息」がキリスト者に取って何を意味するかは次章に示されている処によりてこれを知ることができる。

3章12節 兄弟(きゃうだい)よ、(こころ)せよ、(おそ)らくは(なんぢ)()のうち()ける(かみ)(はな)れんとする()信仰(しんかう)()しき(こころ)(いだ)(もの)あらん。[引照]

口語訳兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。
塚本訳気をつけよ、兄弟たちよ、あなた達のどの一人にも、悪い、不信仰の心がおこって、生ける神から離れ(おち)るようにならないとは限らない。
前田訳兄弟たちよ、心して、あなた方のだれも不信の悪い心を持って生ける神から離れることのないようになさい。
新共同兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。
NIVSee to it, brothers, that none of you has a sinful, unbelieving heart that turns away from the living God.
註解: 7−11節の引用はこの訓戒を与えんがためであった。而して訓戒の要点は不信仰に陥ることを誡めたのであって、不信仰はすなわち活ける神を離れ彼に対する信頼を失い神を死せる偶像となすことである。ゆえに必ずしもキリスト教を棄てて異教徒に改宗することを意味するのではなく(Z0)、活ける神をもって死ぬるもののごとくに見てこれを試み(ため)す態度に出づることである。またかかる不信仰こそ「悪しき心」(エレ4:14。16:12。17:9。18:12)でありまた罪そのものである。当時のキリスト者の中にもすでにかかる堕落の危険に瀕している者があった。
辞解
[不信仰] apistia とはモーセおよびキリストの忠実 pistos なること(5節)の反対の文字であって、忠実に対する不忠実を示している。故に弱き信仰と同一ではない。

3章13節 (なんぢ)()のうち(たれ)(つみ)誘惑(まどはし)によりて頑固(かたくな)にならぬやう、今日(けふ)(とな)ふる(うち)日々(ひび)(たがひ)(あひ)(すす)めよ。[引照]

口語訳あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
塚本訳あなた達のうちどの一人も、罪に惑わされて“頑固になる”ことのないように、“今日”という(日のつづく)うちに、日々互に励まし合わねばならない。
前田訳日ごと互いに励まし合って、「きょう」といわれるうちに、あなた方のだれかが罪に迷わされて頑にならないようになさい。
新共同あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――
NIVBut encourage one another daily, as long as it is called Today, so that none of you may be hardened by sin's deceitfulness.
註解: 罪は不信仰と同一である。不信仰が人を惑わす場合には神の忠実を疑い神の言を信ぜず、神に逆らい神を試むる頑固なる心と化するのであってイスラエルが荒野における態度もみな罪の惑わしであった。それ故に「今日と称ふる間」すなわち救いに招き給う神の声が聞かれ、神の審判が始まらぬ間キリスト者は互に愛をもって相勤めて信仰を持続しなければならぬ。もし信仰を離れている時にキリスト来り給うならば、荒野におけるイスラエルと同じく神の審判を免れることができないであろう。

3章14節 もし(はじめ)確信(かくしん)(をはり)まで(かた)(たも)たば、(われ)らはキリストに(あづか)(もの)とな(る)なり。[引照]

口語訳もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
塚本訳というのは、わたし達は(信仰に入った)当初にもっていた確信を最後まで堅く守っているならば、(ただその時にのみ、)キリスト(の栄光)にあずかる者となったのである。
前田訳もしわれらがはじめの確信をあくまで堅持するならば、われらはキリストの同志になるのです。
新共同わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。――
NIVWe have come to share in Christ if we hold firmly till the end the confidence we had at first.
註解: 「始めの確信」は信仰に入りし当時の熱烈なる希望に充てる心持を意味している。この確信は往々にしてその後の試誘や苦難のために薄らぎ易いのであって、もしこの確信を持続し得ないならば、如何にキリスト者の名称が有ってもキリストに与る者3:1。6:4。12:8となることができない。反対にもしこの始めの確信を終りまで(すなわちその死まで、而して結局キリストの再臨の時まで)持続するならば、かかる人こそキリストの「義と聖と贖い」とに与り(Tコリ1:30)、またキリストの苦難に与り(コロ2:14)彼と共に死に、また彼と共に生き(IIテサ2:11。ロマ6:8)、キリストと共に甦り(エペ2:6。コロ2:12)、キリストと共に世嗣となって(ロマ8:17)いるのである。
辞解
[なるなり] 原語「なれるなり」で現になっているいるのであるとの意。
[確信] ヘブ11:1。

3章15節 それ『今日(けふ)なんじら(かみ)(こゑ)()かば、その(いかり)()きし(とき)のごとく、こころを頑固(かたくな)にするなかれ』と()へ。[引照]

口語訳それについて、こう言われている、「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。
塚本訳こう言われている。──“今日、あなた達は御声を聞いたら、心を頑固にするな、(わたしに)反抗した時のように。”
前田訳こういわれています、「きょう、あなた方がお声を聞いたなら、神にそむいたときのように心を頑にするな」と。
新共同それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」
NIVAs has just been said: "Today, if you hear his voice, do not harden your hearts as you did in the rebellion."
註解: 7節後半および8節の反復で12−14節の勧めを与えて後再び7−11節の歴史的事実に立帰り、これを現在に適用して彼らを訓戒する。(▲本章の全体を通じてキリスト者の神に対する信頼と従順との必要を強調している。)

3章16節 ()れば()きてなほ(いかり)()きし(もの)(たれ)なるか、モーセによりてエジプトを()でし(すべ)ての(ひと)にあらずや。[引照]

口語訳すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。
塚本訳というのは、だれが(神の命令を)聞きながら、“反抗した”のであるか。(それは)モーセに率いられてエジプトから出てきたすべての人ではなかったか。
前田訳聞いてそむいたのはだれでしたか。モーセによってエジプトを出たものすべてではありませんでしたか。
新共同いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。
NIVWho were they who heard and rebelled? Were they not all those Moses led out of Egypt?
註解: 前節すなわち詩篇95:7、8は誰を指して言えるかを注意せよ。それは神を知らざる異教徒ではなく始めに非常なる確信をもってモーセに率いられてエジプトを出でしイスラエルしかもその全体であった(出12:33以下)。(少数の例外としてヨシュアとカレブその他があったけれどもここではこれを無視している)ゆえにキリスト者すなわちキリストに従ってこの世を出でし人々も今日神の声を聞きつつその心を頑固にするならば、なお一層甚だしき罪であってキリストに与ることを得ず、神の国に入ることを得ずしてキリストの怒りを受けるであろう。キリスト者であることの外部的形式的資格に安心している者は自ら顧みなければならない。キリストのモーセに優り、その約束せられし安息がカナンの安息に優るだけそれだけキリストに対する不信の罪は恐るべき刑罰を伴うであろう。

3章17節 また四十(しじふ)(ねん)のあひだ、(かみ)(たれ)(たい)して(いきど)ほり(たま)ひしか、(つみ)(をか)してその死屍(しかばね)荒野(あらの)(よこ)たへし人々(ひとびと)にあらずや。[引照]

口語訳また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。
塚本訳また、だれに対して神は“四十年の間憤られた”のであるか。罪を犯し、“屍を荒野に横たえた”(イスラエルの)人々に対してではなかったか。
前田訳四十年間、神がお怒りになったのはだれに対してでしたか。罪を犯して死体を荒野に横たえたものたちにではありませんか。
新共同いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。
NIVAnd with whom was he angry for forty years? Was it not with those who sinned, whose bodies fell in the desert?
註解: 9、10節に引用せられし詩および民14:29、32以下に示されし神の憤りは、決して神が好んで、気侭にこれを起し給うたのではなく、みなイスラエルの罪の結果であった。罪ある処必ず神の憤りを受けなければならぬ、殊に不信の罪は罪の最も大なるものである。ゆえにキリスト者はこの前車の覆轍(ふくてつ)を見て、深く警戒しなければならぬ。然らざれば彼らは世より救出されつつ安息の地に入らずして荒野に滅亡してしまうであろう。

3章18節 (また)かれらは()安息(あんそく)()るべからずとは、(たれ)(たい)して(ちか)(たま)ひしか、()從順(じゅうじゅん)なる(もの)にあらずや。[引照]

口語訳また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。
塚本訳また、(一体)だれに対して神が“その休みに入るべきでないと誓われた”のであるか。信じようとしなかった彼らに対してではなかったか。
前田訳彼のいこいに入らぬようお誓いになったのは、不従順の人々でなくてだれですか。
新共同いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。
NIVAnd to whom did God swear that they would never enter his rest if not to those who disobeyed ?

3章19節 (これ)によりて()れば、(かれ)らの()ること(あた)はざりしは、()信仰(しんかう)によりてなり。[引照]

口語訳こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。
塚本訳すると、わたし達はみとめる、彼らが(約束の地に)入ることの出来なかったのは、不信仰のゆえであったことを。
前田訳われらにわかるのは、彼らが不信のゆえに入りえなかったことです。
新共同このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。
NIVSo we see that they were not able to enter, because of their unbelief.
註解: さらに11節の誓いにつきてその理由を求むれば、イスラエルのエホバに対する不従順がその原因であった。而して信仰は従順であり(ロマ1:5。5:19。16:26)、不従順は不信仰である。ゆえにイスラエルに対してエホバが安息に入るべからずと、誓い給いし理由は要するにイスラエルの不信仰のためであった。キリスト者ももし不信仰の心(12、13節)をいだくならば同じくその安息を失うであろう。