黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版使徒行伝

使徒行伝第1章

分類
1 イエスの昇天より聖霊降下まで 1:1 - 2:47
1-1 序言 1:1 - 1:2

1章1節 テオピロよ、[引照]

口語訳テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして、イエスが行い、また教えはじめてから、
塚本訳テオピロよ、(さきに)わたしは(本書の)第一巻[ルカ福音書]を著わして(あなたにささげた。それには)イエスが行われたことまた教えられたことを、ことの始めからことごとく書きしるし、
前田訳テオピロ様、最初の本をわたくしが作りましたのは、イエスが行ないかつ教えはじめられたすべてのことについてでした。
新共同-2節 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
NIVIn my former book, Theophilus, I wrote about all that Jesus began to do and to teach
註解: ルカは(さき)に第三福音書即ちルカ伝を著して之をテオピロに献げた、今又その継続事業として本書を著して、之を彼にささげんとしているのである。テオピロの如何なる人物なりやに就てはルカ1:4参照。

(われ)さきに(まへ)(ふみ)をつくりて、

註解: ルカ伝福音書を指す。原語を直訳すれば「我第一の言をつくり」となる。「言を造る」は物語を著す事、「第一」prôtos とあるを「前の」proteros の意味と解する説と、之を第一とし、本書を第二とし更に第三の書を著さんとしたのであると解する説(Z0その他)とあれど、前者を可とす。

(おほよ)そイエスの(おこな)ひはじめ(をし)へはじめ(たま)ひしより、

1章2節 その(えら)(たま)へる使徒(しと)たちに、(せい)(れい)によりて(めい)じたるのち、()げられ(たま)ひし()(いた)るまでの(こと)(しる)せり。[引照]

口語訳お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。
塚本訳お選びになった使徒たちに、聖霊によって(全世界への伝道を)命令されたのち、(天に)あげられた日に及んだ。(わたしは今ここに、その第二巻をあなたにささげようと思う。)
前田訳それは彼がお選びの使徒たちに聖霊によってお命じになってから天に高められた日に及びました。
新共同
NIVuntil the day he was taken up to heaven, after giving instructions through the Holy Spirit to the apostles he had chosen.
註解: 以上がルカ伝福音書の範囲である。即ちイエスの活動と教訓はその初より福音書に録され、弟子たちには福音を宣伝うべき事を命じ(マコ16:15参照)遂に昇天し給う時までに及んで居る(ルカ24:51)。使徒行伝は更に之を継続する意味を以て之を著す事がルカの腹案であった。
辞解
以上の如くに訳する場合は、この二節の意味は明瞭であるけれども原文は(やや)不明で、之を直訳すれば「その選べる使徒たちに、聖霊によりて命じたるのち挙げられ給いし日に至るまで、イエスの行い且つ教へ始め給いし凡ての事柄につきて前の書をつくれり」となる。従って「始め」の意味が不明となるので種々の解釈を生ずる。(1)福音書にあるイエスの全生涯は一の「始」であり、使徒行伝はイエスの行為及教訓の継続であると解す(A1、R0)。(2)「始め給いしより・・・・・の日に至るまで継いで行い且つ教へ給いし凡てのこと」と文字を補充して解す(ヴヰーナー)。(3)「行ひ且つ教へ始め給いし」を「始めより行ひ且つ教へ給いし」と解す(B1)。改訳は (2)によりたるもの、最も適当なる解釈である。「凡ての事」は「凡そ」の意。

1-2 復活のイエスとその約束 1:3 - 1:8

1章3節 イエスは苦難(くるしみ)をうけしのち、[引照]

口語訳イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。
塚本訳イエスは(十字架の)苦しみを受けて(死なれ)た後も、多くの証拠をもって使徒たちに御自分が生きていることを示し、四十日の間彼らに現われて、神の国のことをお話になった。
前田訳彼は受難ののち多くの証拠をもって自らが生きておいでのことを彼らに示し、四十日にわたって彼らに現われて神の国についてお話しでした。
新共同イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
NIVAfter his suffering, he showed himself to these men and gave many convincing proofs that he was alive. He appeared to them over a period of forty days and spoke about the kingdom of God.
註解: 苦難の中には死の意味をも含む。

(おほ)くの(たしか)なる(あかし)をもて、(おのれ)()きたることを使徒(しと)たちに(しめ)し、四十(しじふ)(にち)(あひだ)、[しばしば](かれ)らに(あらは)れて、(かみ)(くに)のことを(かた)り、

註解: イエスはその復活より昇天に至る間に(しばしば)彼ら弟子たちに顕れ給い(マタ28:9マタ28:17マコ16:9マコ16:12マコ16:14ヨハ20:1-18、ヨハ20:19-25、ヨハ20:26-29。ルカ24:1以下。Tコリ15:5-7)神の国に就て語り給うた。尚上記多くの引用の中にその生き給う事の証拠の数々が掲げられている。このイエスの復活の事実が弟子たちをして奮起せしめし所以であった。
辞解
[(たしか)なる証] tekmêrion 確証の意。間違無き証拠。「四十日」につきては福音書その他に録されて居ない。四十はユダヤ人特愛の数字で旧新約ともにその例が多い(創7:4出24:18マタ4:2)。復活のイエスが地上に顕れ給ひし日数に関する伝説も自然この特愛の数字に引寄せられるに至ったのであらう。「しばしば」は原語になし。ただ「現る」が現在分詞故この心持を含む。

1章4節 また(かれ)()とともに(あつま)りゐて(めい)じたまふ『エルサレムを(はな)れずして、(われ)より()きし(ちち)約束(やくそく)()て。[引照]

口語訳そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。
塚本訳そして一緒に食事をしておられたとき、彼らに命じられた、──エルサレムを離れずにいて、「あなた達がわたしから聞いた」父上のお約束のものを待つように。
前田訳そして食事を共にされたとき、彼らにお命じでした、「エルサレムを去らずに、あなた方がわたしから聞いた父の約束を待つように。
新共同そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
NIVOn one occasion, while he was eating with them, he gave them this command: "Do not leave Jerusalem, but wait for the gift my Father promised, which you have heard me speak about.
註解: エルサレムは新なる契約の発祥地たるべきであった(ルカ24:47イザ2:3)。聖霊降下がエルサレムに於て起ったのはその為である。故に弟子たちはエルサレムに留って父の約束、即ち聖霊賜与を待つべきであった。真の伝道は聖霊の賜物なしには出来ない。
辞解
[ともに集りゐて] 「共に食し居て」とも解し得る語でかく解する学者もあるけれども(M0)、その必要は無い。「父の約束」はルカ伝には録されて居ない。ヨハ7:39ヨハ14:16ヨハ15:26ヨハ16:17-11参照。聖霊の降下はキリストの昇天後に起るべきであった。

1章5節 ヨハネは(みづ)にてバプテスマを(ほどこ)ししが、(なんぢ)らは()ならずして(せい)(れい)にてバプテスマを(ほどこ)されん』[引照]

口語訳すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。
塚本訳「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなた達は幾日もたたぬうちに、聖霊で洗礼を授けられるであろうから」と。
前田訳それは、ヨハネは水で洗礼したが、あなた方は幾日もせぬうちに聖霊で洗礼されようから」と。
新共同ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
NIVFor John baptized with water, but in a few days you will be baptized with the Holy Spirit."
註解: マタ3:11の洗礼者ヨハネの語を殆んどそのまま要約して引用せる如き句、水のバプテスマは罪の悔改と死とを示し聖霊のバプテスマはキリストに在る新生を意味す。人は聖霊によりて全く新なる生活に入り、新なる霊的理解を得るに至る(ヨハ16:7-11)。▲本節の始めにhoti(何となれば・・・に故に)とあり、前節の理由を示す。
要義1 [イエスの行為と教訓]イエスの行為はその教訓と相並んで福音の基礎を形成している。行為のみで教訓の伴はざるものは行為の意義不明となり、教訓のみにて行為の伴はざるものはその教訓に権威がない。
要義2 [聖霊に就て]1-5節にニ回聖霊に就て繰返されている事に注意すべし。本書は全体を通じて聖霊の働きにつきて録される事多く、全篇聖霊の活動の記録であると言う事が出来る。もし福音書を地上に於けるイエスの歴史であるとすれば、使徒行伝は昇天せるイエスの聖霊としての歴史であると言う事が出来る。▲▲そしてこの聖霊の活動は今日に及んでいる。

1章6節 弟子(でし)たち(あつま)れるとき()ひて()ふ『(しゅ)よ、イスラエルの(くに)回復(くわいふく)(たま)ふは()(とき)なるか』[引照]

口語訳さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。
塚本訳さて彼らは集まっていたとき、こう言ってイエスに尋ねた、「主よ、(聖霊で洗礼を授けられる)その時に、あなたはイスラエルのために(約束の)国を回復されるのですか。」
前田訳彼らが集まったとき、イエスにたずねた、「主よ、イスラエルのため国を回復なさるのはこの時ですか」と。
新共同さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
NIVSo when they met together, they asked him, "Lord, are you at this time going to restore the kingdom to Israel?"
註解: 弟子たちは聖霊が与へられて居なかったので神の国の真の意義を解する事が出来ず、一般のユダヤ人と同じく、メシヤの来臨によるユダヤ国の恢復と萬物の復興が行われるとの考えが尚念頭を去らず、イエスをこのメシヤならんかと考えたけれどもその予想は外れて彼は十字架に釘き給うた。夫故に約束の聖霊降下の近き事をきき、弟子たちはこの時こそイスラエルの国が回復せられるのであらうかとの質問を発したのであった。△すなわち肉のイエスは一人のキリスト者をも造り得なかった。
辞解
[集れる] 4節の集合とは別の場合と見るべきである。その場所はオリブ山であった(12節)。

1章7節 イエス()ひたまふ『(とき)また()(ちち)おのれの權威(けんゐ)のうちに()(たま)へば、(なんぢ)らの()るべきにあらず。[引照]

口語訳彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。
塚本訳彼らに言われた、「(その時ではない。回復の)時と、(それまでの)期間とは、父上が御自分の権力で決めておられるのであって、あなた達の知るべきことではない。
前田訳彼らにいわれた、「父が自らの権威のうちにお置きの時と期間はあなた方の知るべきことではない。
新共同イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
NIVHe said to them: "It is not for you to know the times or dates the Father has set by his own authority.
註解: マタ24:36参照。キリストの再臨によりて萬物が改まる時又は期は唯神のみの権威の中にあり、キリストさへも之に関与し給はなかった。之を知る事は弟子たちの分ではない。「神の権内に留保せられし時について詮索する事は単なる好奇心であり、反対に啓示せられし事柄に対して無関心で居る事は小人にして眠れる心である」(B0)。充分に之を確信してその時期につきては唯神を信頼する態度が正しき態度である。
辞解
[時] chronos はある長さを有する時であり、「期」kairos は何事かの起るべき一定の時期を言う。「汝らの」は原文において節の初頭にあり意味強し。

1章8節 ()れど(せい)(れい)、なんぢらの(うへ)(のぞ)むとき、(なんぢ)能力(ちから)をうけん、(しか)してエルサレム、ユダヤ全國(ぜんこく)、サマリヤ、(およ)()(はて)にまで()證人(しょうにん)とならん』[引照]

口語訳ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
塚本訳ただ聖霊があなた達にくだるとき、あなた達は力を戴いて、エルサレムをはじめユダヤ全体、またサマリヤ、さては世界の果てまでも、わたしの証人になるであろう。」
前田訳ただ、聖霊があなた方に下るとき力を受けて、エルサレムと全ユダヤ、サマリア、さらに地の果てまでわが証人となろう」と。
新共同あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
NIVBut you will receive power when the Holy Spirit comes on you; and you will be my witnesses in Jerusalem, and in all Judea and Samaria, and to the ends of the earth."
註解: 弟子たちの質問に対してイエスはその時期につき彼らの知るべき事にあらざる事を示し、イスラエルの国の回復に就ては何をも答へたまはず、唯聖霊降臨によりて起るべき事実につき示し給うた。即ち聖霊の降臨によりて始めてイエスがメシヤ即ちキリストである事が判明り(Tヨハ4:2、3。Tコリ12:3)、彼ら弟子たちは全世界に向ってその証人として立つであらうとの事である。而してそれが事実となり弟子たちはイエスの証人として活動した。それを録したのが本書である。エルサレム伝道は 3-7 章、ユダヤ、サマリヤは 8-10 章、その他は地の極までの伝道史である。この地名の列挙は大体本書の区分に相当する。

1-3 イエスの昇天 1:9 - 1:11

1章9節 (これ)()のことを()(をは)りて、(かれ)らの()るがうちに()げられ(たま)ふ。(くも)これを()けて()えざらしめたり。[引照]

口語訳こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。
塚本訳イエスはこう言って、彼らの見ている前で(天に)上げられ、雲が彼を迎えて見えなくなった。
前田訳こういいつつ彼らの見ているうちに高められ、雲が彼を迎えて彼らの目から離した。
新共同こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
NIVAfter he said this, he was taken up before their very eyes, and a cloud hid him from their sight.
註解: 復活のイエスはその栄光の体を以て昇天し給うた。雲は王者の乗物と称せられ、荘厳なる光景を示す(マタ24:30マタ26:64)。イエスの復活昇天の光景は以前に変貌の山に於てその片鱗を示されたのであった。(マタ17章Uペテ1:16-18)

1章10節 その(のぼ)りゆき(たま)ふとき、(かれ)(てん)()(そそ)ぎゐたりしに、()よ、(しろ)(ころも)()たる二人(ふたり)(ひと)かたはらに()ちて()ふ、[引照]

口語訳イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて
塚本訳イエスがのぼって行かれる時、彼らが天をじっと見つめていると、突然、白い着物を着た二人の人が彼らのそばに立って
前田訳彼が進み行かれるとき彼らが天を見つめていると、見よ、白い装いのふたりの人がそばに立って
新共同イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
NIVThey were looking intently up into the sky as he was going, when suddenly two men dressed in white stood beside them.

1章11節 『ガリラヤの人々(ひとびと)よ、(なに)ゆゑ(てん)(あふ)ぎて()つか、(なんぢ)らを(はな)れて(てん)()げられ(たま)ひし()のイエスは、(なんぢ)らが(てん)(のぼ)りゆくを()たるその(ごと)(また)きたり(たま)はん』[引照]

口語訳言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。
塚本訳言った、「ガリラヤ人たちよ、なぜ(ぼんやり)立って天を見ているのか。あなた達の所から天にあげられたあのイエスは、(いま)天にのぼって行かれるのを見たと同じようにして、(また下って)来られるであろう。」
前田訳いった、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見て立っているのですか。あなた方のところから天に高められたあのイエスは、天に行かれるのを見たのと同じ様子で来られるでしょう」と。
新共同言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
NIV"Men of Galilee," they said, "why do you stand here looking into the sky? This same Jesus, who has been taken from you into heaven, will come back in the same way you have seen him go into heaven."
註解: 弟子たちはイエスの昇天を見て茫然自失の有様であった。彼らその為す処を知らなかったたからである。之に対して二人の天使は、彼らを戒め、主イエスは同様の姿にて再び来給う(マタ26:64)故に(いたずら)に天を仰いで立つべきでは無く、その命ぜられし如く主イエスの証人となるべき事を示す。この再来の希望によりて彼らは再び力を回復する事が出来る。然らざれば彼らは絶望に陥った事であろう。
辞解
[白衣の人] 天の使ならん(マタ28:3ルカ24:4)。
[ガリラヤの人々よ] 「弟子たちよ」と言はざりし所以は、今やイエスとの人間的関係は全く失せて一介のガリラヤ人に返りし事を示し、之が更に聖霊を新に受けて始めて使徒としての活動を始むるに至ったのである事を意味するものと見るべきであらら。イエスを失った弟子はもし聖霊が与へられないならば単なるガリラヤ人に過ぎない。
[その如く復きたる] ゼカ14:4にメシアの来臨は橄欖(オリブ)山の上にある事を預言している。又イエスの再臨の時は雲に乗りて来り給う事が預言せられている。(マタ26:64その他)。それらを合わせ考える時イエスの昇天を目撃せる弟子たちに取りてその光景はまことに意義深きものであったに相違ない。

1-4 使徒の補欠選挙 1:12 - 1:26
1-4-1 使徒団の生活 1:12 - 1:14

1章12節 (ここ)(かれ)()オリブといふ(やま)よりエルサレムに(かへ)る。この(やま)はエルサレムに(ちか)く、安息(あんそく)(にち)道程(みちのり)なり。[引照]

口語訳それから彼らは、オリブという山を下ってエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に許されている距離のところにある。
塚本訳それから彼らは、(このことのあった)いわゆるオリブ山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日の旅行距離[八百八十メートル]ほど)であった。
前田訳それから彼らはオリブという山からエルサレムへ帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に行ける道のりである。
新共同使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。
NIVThen they returned to Jerusalem from the hill called the Mount of Olives, a Sabbath day's walk from the city.
註解: これによりてイエスの昇天はオリブ山に於て起った事が判るけれどもその何れの部分であるかは不明である。安息日の道程はヨシ3:4によれば二千キュビトであるが、ラビ達は仮定によりて之を四千キュビトまで延長した、一キュビトは約50センチ即ち約1尺6寸5分に当る。マタ24:20註参照。ルカはユダヤ人の口伝により大略の距離を示したものである。故に本節よりイエスの昇天の地点を決定する事が出来ず又それが安息日に起こったものとする事が出来ない(3節より見るも然り)。

1章13節 (すで)()りてその(とどま)りをる高樓(たかどの)(のぼ)る。[引照]

口語訳彼らは、市内に行って、その泊まっていた屋上の間にあがった。その人たちは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダとであった。
塚本訳(都に)入ると、彼らはいつも泊まっている二階の部屋に上がった。それはペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダ(の十一人)であった。
前田訳彼らは町に入って、いつも泊まる階上の間にあがった。それはペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党のシモンとヤコブの子ユダであった。
新共同彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。
NIVWhen they arrived, they went upstairs to the room where they were staying. Those present were Peter, John, James and Andrew; Philip and Thomas, Bartholomew and Matthew; James son of Alphaeus and Simon the Zealot, and Judas son of James.
註解: 「入りて」はエルサレムの町に入りての意ならん(M0)。高楼は神殿の高楼を意味すと見るよりも、ヨハ20:19ヨハ20:26に記される室で平常弟子たちが集合する場所であったと見るべきである。高楼は屋根裏の室で祈祷や黙想に用いられる場所である。この高楼はエルサレムの初代教会の揺籃(ようらん)の場所として意味深き場所である。

ペテロ、ヨハネ、ヤコブ(およ)びアンデレ、ピリポ(およ)びトマス、バルトロマイ(およ)びマタイ、アルパヨの()ヤコブ、熱心(ねっしん)(たう)のシモン(およ)びヤコブの()ユダなり。

註解: イエス昇天後の弟子の一団の中心をなしているものは勿論この十一使徒であった。本書中にはこの中の三人以外は再び現はれないけれども、彼等が信徒団の中心であった事は動かない。尚十二使徒の名称及班別、重要さの程度等についてはマタ10:2-4註参照。「ヤコブの子」は又「ヤコブの兄弟」とも読む事が出来、かく訳する事によりて之を主イエスの兄弟と解し、ユダ書のユダと同一視せんとする人あれども不可。ユダ1:1、本文及び註參照

1章14節 この人々(ひとびと)はみな(をんな)たち(およ)びイエスの(はは)マリヤ、イエスの兄弟(きゃうだい)たちと(とも)に、(こころ)(ひと)つにして只管(ひたすら)いのりを(つと)めゐたり。[引照]

口語訳彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。
塚本訳この人々は皆、女たち、とりわけイエスの母マリヤや、イエスの兄弟たちと、心を一つにして祈りに余念がなかった。
前田訳彼らは皆、女たちとイエスの母マリヤと彼の兄弟たちと心を合わせてひたすら祈っていた。
新共同彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。
NIVThey all joined together constantly in prayer, along with the women and Mary the mother of Jesus, and with his brothers.
註解: 使徒団の外にマグダラのマリヤ、サロメ、ヨハンナ、スザンナその他の女子の一団もまた初期の信徒の重要なる部分であった。彼等はイエスの伝道旅行に従って之を助けた。殊にイエスの母マリヤはその淑徳の故に弟子団に尊敬された(▲マリヤは使徒ヨハネの家に受け入れられた。ヨハ19:27)。この箇所はマリヤにつき記される最後の箇所である。「女たち」を妻たちと読むべしとの説あれど(C1)適当ではない。「イエスの兄弟たち」はかつてはイエスを信じなかった(ヨハ7:5)。然るに今弟子の中に加はっている事は恐らくイエスの復活を目撃して信仰に入ったのであろう。
要義1 [イスラエルの回復とキリストの再臨]1:6の弟子たちの質問に対してイエスは単にその時期を知り得ざる事を答へ給えるのみにて、イスラエルの回復と言う如きユダヤ的メシヤ思想が果して真理なりや否やに就ては何の答をも与へ給はなかった。その故は恐らくイスラエルの回復は或意味に於て真理であるけれども(ロマ11:26ロマ11:31の如く)、それは信仰による霊のイスラエルの回復である点に於て(ロマ9:8の如く)地的、政治的イスラエルの回復と異る事を暗示しているのである。而して真のイスラエルの回復はキリストの再臨の時に完成せられるのであって(11節)、その時と期とは神より他に何人も之を知る事が出来ない(7節)。而して、キリスト再臨の時までの間は基督者は地上に於て主イエスの証人となるべきである(8節)。
要義2 [信徒の一団の状態]主イエスを失えるガリラヤ人の一団はエルサレムの一家屋の高楼に集い、心を一つにして祈に努力していた。この姿こそはまことに尊い姿であると言はなければならない。彼らはイエスを失い失意の中に淋しく過していた。しかし彼らの心には名状すべからざる力が湧き出でていた。イエスの復活を見たからである。而してこの力が祈となリ心の一致となった。この一団に女子が加はっていた事は当時の東洋の習價としては破天荒の事であり、殊にかつて不信仰なりしイエスの兄弟が之に加はっていた事はまことに思いがけなき有効なる証であった。而してその周囲に集りたる人々の数は百二十名の少数ではあり(15節)又この団体には一定の限界なく又一定の制度も無く唯漠然たる一団ではあったれども、その中に霊による「心の一致」があった事は著しき事実である。

1-4-2 ユダの死と補欠選挙 1:15 - 1:26

1章15節 その(ころ)ペテロ、百二十(ひゃくにじふ)(めい)ばかり(とも)(あつま)りて(むれ)をなせる兄弟(きゃうだい)たちの(なか)()ちて()ふ、[引照]

口語訳そのころ、百二十名ばかりの人々が、一団となって集まっていたが、ペテロはこれらの兄弟たちの中に立って言った、
塚本訳そのころのこと、ペテロは兄弟たちの中に立って言った。──これは百二十名ばかりの人々が集まっている一団であった。──
前田訳そのころペテロが兄弟の中に立っていった。いっしょになった人々の群れはおよそ百二十名であった。
新共同そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。
NIVIn those days Peter stood up among the believers (a group numbering about a hundred and twenty)
註解: 「その頃」は主の昇天後聖霊降下以前の漠然たる日時、「百二十名」は当時の一団の総数であったか否やは不明である。従ってTコリ15:6の五百人をガリラヤの出来事と決定する理由とはならない。ペテロはマタ26:69-75の失敗の後、悔改めて再び立上った、今や使徒の首班たる態度を以て現れている。

1章16節 兄弟(きゃうだい)たちよ、[引照]

口語訳「兄弟たちよ、イエスを捕えた者たちの手びきになったユダについては、聖霊がダビデの口をとおして預言したその言葉は、成就しなければならなかった。
塚本訳「兄弟の方々、イエスを捕らえる者たちを手引したユダについては、聖霊がダビデ(王)の口をもって預言された聖書の言葉が成就しなければならなかった。
前田訳「兄弟方、イエスを捕えたものどもの手引きとなったユダについては、聖霊がダビデの口をとおして預言した聖書が成就せねばなりませんでした。
新共同「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。
NIVand said, "Brothers, the Scripture had to be fulfilled which the Holy Spirit spoke long ago through the mouth of David concerning Judas, who served as guide for those who arrested Jesus--
註解: 原文は「人々、兄弟たちよ」で一層の荘重さを有す。

イエスを(とら)ふる(もの)どもの手引(てびき)となりしユダにつきて、(せい)(れい)ダビデの(くち)によりて(あらか)じめ()(たま)ひし聖書(せいしょ)は、(かなら)成就(じゃうじゅ)せざるを()ざりしなり。

註解: ユダの自殺と之に伴う使徒の補充は、聖書に預言せられている処である故、必ず実現せらるべきものであるとのペテロの信念であった。聖書の預言は詩41:9ヨハ13:18)等も念頭に在ったと想像し得ない事は無いけれども、寧ろ20節の引用を指したものであらう。
辞解
[手引] 原語「道案内者」。
[ダビデ] 詩篇の作者と考えられていた。

1章17節 (かれ)(われ)らの(うち)(かず)へられ、()(つとめ)(あづか)りたればなり。[引照]

口語訳彼はわたしたちの仲間に加えられ、この務を授かっていた者であった。
塚本訳というのは、彼はわたし達(と共に使徒)の一人に数えられ、この職務を授かっていたからである。──
前田訳彼はわれらの仲間にされ、この奉仕の役を受けていました。
新共同ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。
NIVhe was one of our number and shared in this ministry."
註解: ユダの使徒職の補欠を必要とする理由を掲ぐ。
辞解
[我らの中] 十二使徒の中
[この務] 使徒職
[与りたればなり] 原文「(くじ)を獲たればなり」であるけれども、この語は転じて単に「務を獲得する」意味にも用いらる。但し本節に於ては、幾分後数節の(くじ)引の問題と関聯せしめている。

1章18節 (この(ひと)は、かの不義(ふぎ)(あたひ)をもて地所(ぢしょ)()、また俯伏(うつぶし)()ちて直中(ただなか)より()けて臓腑(はらわた)みな(なが)()でたり。[引照]

口語訳(彼は不義の報酬で、ある地所を手に入れたが、そこへまっさかさまに落ちて、腹がまん中から引き裂け、はらわたがみな流れ出てしまった。
塚本訳ところでこの人は、(主を売って得た)不道徳の報酬で地所を手に入れたところ、(高い所から)さかさまに落ちて腹が真中から裂け、はらわたがすっかり流れ出てしまった。
前田訳彼は不義の報酬で地所を手に入れましたが、さかさに落ちて腹が真ん中から裂け、はらわたが皆流れ出ました。
新共同ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。
NIV(With the reward he got for his wickedness, Judas bought a field; there he fell headlong, his body burst open and all his intestines spilled out.
註解: ユダの末期の惨状を示す。18、19の二節は括弧の中に置かれてあるけれども原文には括弧なし、括弧はルカの挿註と見る説によりたるものならん。尚マタ27:5によればユダは縊死(いし)を遂げたのであり、又不義の価なる銀三十は之を聖所に投げすて、祭司長等がその銀を以てアケルダマ、血の畑を購入した事となっている。この両記事の矛盾につきては之を二つの異れる伝説の流と見る説(M0)と、この二者を調和せん為に、或は地所はユダに払ひし銀を以て祭司長等が購入せるもの故之をユダの地所とも言う事が出来、又縊死(いし)して後その綱が切断し墜落して俯伏(うつぶせ)に伏し、腹破れ臓腑を露出して死にたるなり等と説明する説(A2、E0、R0)とがあるけれども、ユダの裏切前後の行動につきては種々の伝説が混合していたものと見る方が事実に近い事であらう。
辞解
[俯伏(うつぶせ)に墜ちて] 原語は必ずしも墜落を意味せず俯伏(うつぶせ)に伏す事を言う。
[裂け] 太鼓を破りし時の如く音を立てて裂ける事。

1章19節 この(こと)エルサレムに()(すべ)ての(ひと)()られて、その地所(ぢしょ)國語(くにことば)にてアケルダマと(とな)へらる、()地所(ぢしょ)との()なり)[引照]

口語訳そして、この事はエルサレムの全住民に知れわたり、そこで、この地所が彼らの国語でアケルダマと呼ばれるようになった。「血の地所」との意である。)
塚本訳するとこのことがエルサレムに住む人全体に知れわたって、その地所を国語[ヘブライ語]でアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ぶようになった。──
前田訳そしてこれがエルサレムに住む人すべてに知れわたり、その地所は国語でアケルダマ、すなわち血の地所と呼ばれるようになりました。
新共同このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。
NIVEveryone in Jerusalem heard about this, so they called that field in their language Akeldama, that is, Field of Blood.)
註解: 括弧内をもペテロの演説の一部と見る説によるも「国語にて」と「血の」以下はルカが異邦人たるテオピロ及びその他の読者に対して説明せるものである事に異議は無い。アケルダマの名称の由来もマタ27:8との間に矛盾あれど、名称の発生は往々にして自然に出来上り二つ以上の理由を有する事は必ずしも不可能ではない(E0)。強て一を取りて他を捨つる必要もなく又強て之を調和せしむる必要も無い。

1章20節 それは()(へん)(しる)して「(かれ)住處(すみか)()()てよ、(ひと)その(なか)(すま)はざれ」と()ひ、[引照]

口語訳詩篇に、『その屋敷は荒れ果てよ、そこにはひとりも住む者がいなくなれ』と書いてあり、また『その職は、ほかの者に取らせよ』とあるとおりである。
塚本訳詩篇に“彼の屋敷は荒れ果てよ、そこに住む人はなかれかし。”また、“彼の務めはほかの人に得させよ。”と書いてあるから(この言葉が成就しなければならなかったの)である。
前田訳詩篇に、『彼の屋敷は荒れ果てよ、そこに住むものはいなくなれ』とあり、また、『彼の務めはよそものが得よ』とあるとおりです。
新共同詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』/また、/『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』
NIV"For," said Peter, "it is written in the book of Psalms, "`May his place be deserted; let there be no one to dwell in it,' and, "`May another take his place of leadership.'
註解: 詩69:25の七十人訳を適宜に変更せる引用である。即ち「かれらの住処」はユダを指さんが為に「かれの住処」となり「その中に」は「かれらの幕屋の中に」の変更である。「住家」はこの場合18節の地所を指すと解する学者が多い。反対説もあるけれどもペテロは恐らくこの意味を以て引用したのであろう。之を使徒職と解する事は(M0、E0)やや不適当である。

(また)「その(つとめ)はほかの(ひと)()させよ」と()ひたり。

註解: イスカリオテの詩篇と称される詩109:8よりの引用、その如くユダの使徒職は他人によりて代らるべきものである事は聖言によりて定められていたと見るのである。
辞解
[職] この処では episcopê を用い、監督、見付役等の意味であり、現代の教会の監督 bishop の如くに截然たる職名では無かったけれども、使徒の職はある意味に於いて監督職であった。

1章21節 ()れば(しゅ)イエス我等(われら)のうちに往來(ゆきき)(たま)ひし(あいだ)[引照]

口語訳そういうわけで、主イエスがわたしたちの間にゆききされた期間中、
塚本訳だから、主イエスがわたし達と行き来された全期間を通して、
前田訳それゆえ、主イエスがわれらの間で行き来されたすべての期間に、
新共同-22節 そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
NIVTherefore it is necessary to choose one of the men who have been with us the whole time the Lord Jesus went in and out among us,
註解: 原語「我等の処に出入りし給ひし間で「出入する」」は親密に交際する事又は生活する事を意味す(ヨハ10:9註参照。詩121:8

1章22節 (すなは)ちヨハネのバプテスマより(はじま)り、[引照]

口語訳すなわち、ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち、だれかひとりが、わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」。
塚本訳すなわち、ヨハネの洗礼(の時)以来イエスがわたし達の所から(天に)あげられた日までの間、いつもわたし達と一緒にいた者の一人が、わたし達と共に主の復活の証拠にならねばならない。」
前田訳すなわち、ヨハネの洗礼から始まって、イエスがわれらのところから高められた日まで、つねにわれらといっしょにいたもののひとりが、われらとともに復活の証人になるべきです」と。
新共同
NIVbeginning from John's baptism to the time when Jesus was taken up from us. For one of these must become a witness with us of his resurrection."
註解: イエスの公生涯はこの時より始っている。マルコ伝を見よ。

(われ)らを(はな)れて()げられ(たま)ひし()(いた)るまで、

註解: イエスの地上の生涯はここに終わった。

(つね)(われ)らと(とも)()りし()人々(ひとびと)のうち一人(ひとり)

註解: 十二使徒に、選ばるべき条件はイエスの公生涯の始めより他の弟子たちと共にイエスの弟子であった人たる事であった。

われらと(とも)(しゅ)復活(よみがへり)證人(しょうにん)となるべきなり』

註解: 主の復活を証する事が使徒の第一の任務であった(Tコリ15:1-6。使2:24使2:31、32。使3:15使3:26使4:2使4:10使4:33使10:40、41。使13:30-34、使13:37使17:3使17:18使17:31、32。使23:6使24:15使24:21使25:19使26:8使26:23)。夫故に「復活の証人」と言う事は「使徒」と言うに同じ、「復活を信ずる者は凡ての信仰を得たものである、使徒はキリストの復活の証人である故に之を信ずる者は基督者である」(B1)
辞解
21、22節の区分は文章の構造上原文の節の区分とは一致しない。

1章23節 (ここ)にバルサバと(とな)へられ、またの()をユストと()ばるるヨセフ(およ)びマツテヤの二人(ふたり)をあげ、[引照]

口語訳そこで一同は、バルサバと呼ばれ、またの名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立て、
塚本訳そこで(この提案によって、)人々は、バルサバと呼ばれたユストとも言ったヨセフと、マッテヤとの二人を(候補者に)立て、
前田訳そこで彼らはバルサバと呼ばれ、またの名をユストというヨセフとマッテヤとのふたりを立てた。
新共同そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、
NIVSo they proposed two men: Joseph called Barsabbas (also known as Justus) and Matthias.
註解: 21、22節の条件に当てはまる人はこの二人だけであったのであらう。この二人ば七十人の弟子(ルカ10:1)の中のものであったとの伝説あり、恐らく然らん。ただしこの二人につきては聖書中には他に、全く記事が無い。
辞解
バルサバは使4:36のヨセフ・バルナバとも異り、又使15:12のユダ・バルサバとも異る。バルサバはサバの子の意、ユストはローマ名で「正義」の意。

1章24節 - 25節 (いの)りて()ふ『(すべ)ての(ひと)(こころ)()りたまふ(しゅ)よ、[引照]

口語訳祈って言った、「すべての人の心をご存じである主よ。このふたりのうちのどちらを選んで、[25節]ユダがこの使徒の職務から落ちて、自分の行くべきところへ行ったそのあとを継がせなさいますか、お示し下さい」。
塚本訳こう言って祈った、「主よ、あなたはすべての人の心を御存じであります。この二人のうちのどちらを選んでおられるか、示してください。[25節]ユダが自分の行くべき所に行くために捨ててしまったこの使徒職を継ぐものとして。」
前田訳そして祈っていった、「すべての人の心をご存じの主よ、このふたりのどちらをお選びかお示しください。[25節]それはユダがその行くベきところへ行くために去ったこの奉仕と使徒の務めを受けるためです」と。
新共同次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。[25節]ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」
NIVThen they prayed, "Lord, you know everyone's heart. Show us which of these two you have chosen [25節]to take over this apostolic ministry, which Judas left to go where he belongs."
註解: 二人を選び出す事は人間の智慧によりても可能であった。それより以上は祈りによりて之を神に問はなければならない。神は人の心を知り給う。ここにはペテロは神としてのキリストに祈っているのである。
辞解
[主] 神と解すべしとする説あり、
[人の心を知りたまふ] 事は神に関して用いられ、又神が使徒を選ぶとも言はれるが故(使15:7、8。Uコリ1:1エペ1:1Uテモ1:1)にかく解すべしと論じているけれども(M0)主キリストに対して祈る事は新約聖書に多く録され(Tテサ3:11、12。Uテサ2:16)等、かつ十二使徒は本来キリストの選任によるもの故、ここではキリストに関すと解するを可とす(B1、A1、E0)。

ユダ(おの)(ところ)()かんとて()(つとめ)使徒(しと)(つとめ)とより()ちたれば、その(あと)()がするに、()二人(ふたり)のうち(いづれ)(えら)(たま)ふか(しめ)したまへ』

註解: ペテロは(くじ)によりて神の御旨を知り得るものと信じた。故に斯く祈ったのである。ユダが主キリストを敵に付し、自分勝手な所に行き、十二使徒職の一人たる地位から外れてしまったので、この二人の中の一人をしてこの場所に立たしめんとしたのである。
辞解
[己が所] (1)ゲヘナ、(2)自分の家、(3)死んだ場所、(4)パリサイ人との会合、(5)イエスを捕ふる者の案内者、(6)自分勝手な所等種々の解あり、最後の解(E0)を採る。ゲヘナと解する説最も多し。
[墜ちる] parabainô は外れる事。
[その後を継ぐ] 「その務と使徒職の所を取る」で「己が所」と相対立す。

1章26節 (かく)(くじ)せしに、(くじ)はマツテヤに(あた)りたれば、(かれ)(じふ)(いち)使徒(しと)(くは)へられたり。[引照]

口語訳それから、ふたりのためにくじを引いたところ、マッテヤに当ったので、この人が十一人の使徒たちに加えられることになった。
塚本訳そして人々が二人のために籤を引いたところ、籤はマッテヤに当たって、十一人の使徒に加えられた。
前田訳彼らはふたりにくじを与え、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒に加えられた。
新共同二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。
NIVThen they cast lots, and the lot fell to Matthias; so he was added to the eleven apostles.
註解: 「使徒たちが主と偕に居りし時は彼らは(くじ)を用いず、又助主降下の後もこの方法を用いなかった、唯この中間の期間に於て、又この事柄についてのみ彼らは最も適当なる方法として之を用いた」とベンゲルは言っている。恐らく彼らは、この他の方法を見出し得なかったのであらう。尚要義2参照。
辞解
[(くじ)せしに] 「彼ら彼らに(くじ)を与へしに」とあり又異本に「彼らは彼らの(くじ)を与へしに」とあり如何なる抽選法によりしや不明なり。
要義1 [復活の信仰に就て]イエスが復活し給える事は使徒たちの信仰の中心であり、又その宣教の基礎であった。これが使徒たちの伝えし福音であり(Tコリ15:1-8)又之なくばその信仰も宣教も皆空しきものであった(Tコリ15:14)。使徒行伝が如何に主の復活に関する説教に満ちているかは、之を通読するものの等しく認め得る事実である。もしこの事実を否定するものがあるならばそれは基督教そのものを否定するものである事は、使徒行伝に於ける使徒たちの態度より之を知る事が出来る。
要義2 [(くじ)を引く事の意義]十二使徒の一人の欠員は是非これを補充すべきものなりや否やは必ずしも明かでは無い。十二なる数に対する特別の愛着と、イスラエルの十二の支族に十二使徒を配した事(マタ19:28)とは、ペテロその他をして欠員を補充せんと欲するに至らしめた重大なる理由であったに相違ない。而して彼らはこの願望を裏書するものとして詩109:8の語を引用したのであらう。しかしながらこれ必ずしも適正の態度なりしや否やは疑はしい。又(くじ)を引く如き手段を用いた事も、旧約時代には往々行われた事であったけれども(民26:52以下。ヨシ7:14Tサム10:20等)新約時代に於ては行はるべきでない。要するに十二使徒の補充の事実はイエスの選任の事実を非常に重視せるペテロの取りし態度として、その誠実さを尊重すべきであると同時に、キリスト無く聖霊なき一の空しき行為の如くに見ゆる事もまたやむを得ざる事実である。
要義3 [十二使徒の業績に就て]歴史上には十二使徒中のあるものは全然顕れて居らず伝説にすら残らない者もあるのである。何故にイエスはかかる無能なる伝道者を選み給へるのであるかの疑問は自然に起って来るのである。しかしながら神の前に於ける各人の価値は我らの眼に映ずる処と必ずしも同一ではない。我らは十二使徒の価値をその外観のみより判断してはならない。

使徒行伝第2章
1-5 聖霊の降下 2:1 - 2:36
1-5-1 聖霊降下の状況 2:1 - 2:4

2章1節 五旬節(ごじゅんせつ)()となり、[引照]

口語訳五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
塚本訳五旬節の祭の日(すなわち五旬節最後の日)になって、(使徒たちが)皆一緒に集まっていると、
前田訳五旬節の日になったので皆がひとところに集まっていた。
新共同五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
NIVWhen the day of Pentecost came, they were all together in one place.
辞解
[五旬節] ペンテコステ即ち第五十を意味し、過越の日(ニサンの十四日)を終わって種無しパンの節の第一日より起算して第五十日目を言う、過越節、仮廬節と共に三大節として祝はれる。この日は収穫の祝(出23:16)又は初生子献納の日(レビ23:15、16)として記念せられ、申16:10には後世に至りてシナイ山に於ける律法授与の記念日として祝はれるに至った。尚ヨハネ伝によりイエスの十字架がニサンの月の十四日金曜日であったとすれば、この五旬節は日曜日に当り弟子たちは主の復活の記念として集っていたのであろう。
[日となり] 原語「日満ちて」で意味稍不明であるが恐らくその日の来るまでは日が満ちないと考える意味の考へ方であらう(M0)。

(かれ)らみな一處(ひとつところ)(つど)()りしに、

註解: 「彼ら」即ち十二弟子等のみならず使1:15の百二十人その他の多くの弟子たちも共に集っていた。(▲この多くの人たちが皆ガリラヤ人(7節))であったという証拠は無い。)単に十二使徒のみを意味せざる事は16節以下以下のヨエルの預言を引用せる点より見て之を知る事が出来る。神が何故にこの日を聖霊降下の日として選び給ひしかに就きて聖書に明示せられて居ないけれども、之をシナイ山の律法授与の日に相当すと見る説(A2、出12:1以下と出19:1とを比較せよ)とこの日は当時の世界の各地よりユダヤ人がエルサレムに集る日に相当する為、聖霊降下の証拠をこれ等の凡ての人に示さんが為であると見る説(C1)とがある。

2章2節 (はげ)しき(かぜ)()ききたるごとき(ひびき)、にはかに(てん)より(おこ)りて、その()する(ところ)(いへ)滿()ち、[引照]

口語訳突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
塚本訳突然、天から激しい風が吹いてきたようなざわめきがしてきて、座っていた家中にひびきわたった。
前田訳すると突然天から激しい風が吹いてきたようなひびきがして、彼らがすわっていた家全体を満たした。
新共同突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
NIVSuddenly a sound like the blowing of a violent wind came from heaven and filled the whole house where they were sitting.
註解: 2-4節は聖霊降下の場合の異常なる現象の記録である。その第一は「烈しき風の吹ききたるがごとき響」なる形容を以て表示せられ、聴覚に訴えし不思議なる音響であった。之によりて人々の心に畏懼の念が生じた。これが普通の烈風の如き自然現象にあらざりし事は「如く」hosei なる語が用いられる事を以て知る事が出来る。
辞解
[風] 一般に pneuma 即ち「霊」と同文字を用いているけれども(ヨハ3:8)ここでは pnoê なる文字を用いているのは特にその現象の異常なる事を示さんが為注意して混同を避けたものであろう。神の臨在を風を以て示せる場合は少くない(詩104:3T列19:11)。
[家] 神殿に附属している建物(之を「家」と称し、三十ばかり有ったとの事)と見る説(B0)と、単に弟子たちの集合の場所なる個人の住宅と見る説とあり(M0、E0、A0)後説を採る。この家は恐らく使1:13使1:15の家ならん。マコ14:12以下の家なりとの説あれど確証はない。

2章3節 また()(ごと)きもの(した)のやうに(あらは)れ、(わか)れて各人(おのおの)(うへ)にとどまる。[引照]

口語訳また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
塚本訳そして火のようなかずかずの舌が、分れ分れに自分たちひとりびとりの上に留まるのが彼らに見えた。
前田訳そして炎のような分かれ分かれの舌が彼らに現われ、ひとりひとりの上にとどまった。
新共同そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
NIVThey saw what seemed to be tongues of fire that separated and came to rest on each of them.
註解: 原文は直訳すれば「火の如きものの分裂せる舌が現れ」となる。前節は聴覚に対する徴でありこれは視覚に訴えし徴であった。火も亦聖霊を示すに最も相応しきものであって、「人の心に火を点じ、この世の虚栄を焼き尽し、萬物を潔め新にする」処のものである(C1)。之が多くの枝に分れて舌となりたるは、一つの聖霊が多くの人に分与せられ、従って多くの基督者が合して一のキリストの体である事を示し、「舌J glôssa は「言語」と同文字で、バベルの塔以来言語相通ぜざる諸国民が聖霊の言語によりて一つに帰される事を表徴せるものと見る事が出来る。聖霊を受けしものは皆キリストにありて一体である。

2章4節 (かれ)らみな(せい)(れい)にて滿(みた)され、御靈(みたま)()べしむるままに異邦(ことくに)(ことば)にて(かた)りはじむ。[引照]

口語訳すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
塚本訳すると彼らは皆聖霊に満たされ、御霊に言わせられるままに、いろいろな外国語で話し出した。
前田訳そして皆が聖霊に満たされて、霊が語らせるとおりに別なことばで話しはじめた。
新共同すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
NIVAll of them were filled with the Holy Spirit and began to speak in other tongues as the Spirit enabled them.
註解: 音と光との外部的徴の外に最後に内部的徴が与えられ、彼等は皆聖霊に満された。而してこの御霊は彼らを動かし彼らは異れる国語を以て語り姶めた。以上の如くしてこの五旬節の出来事は最も特別なる奇蹟的現象であった。之によりて聖霊降下の事実は凡ての人に明かに示された。地上に於けるキリストの体たる教会はこの時より始まったのである。かゝる画期的出来事故、特別なる奇蹟的現象が之に伴ったのである。
要義1 [聖霊降下の意義]旧約時代に於ても御霊はしばしば人を動かして神の業を為し神の言を語らしめた。しかしながら一人格として御霊御自身が地上に下りて我らの中に住み給うに至ったのはこの五旬節に始まるのである。即ちある特定の人が特別に御霊に動かされたと言うのではなく、これ迄神の御許に在りし御霊が、キリストの昇天と共に、この地上に下りて我らと共に住み給う様になったのである。(ヨハ16:7、8)。この一つの霊が分れて各人の上に止まる時、その人はキリストの体たる教会の一員たらしめられる。
要義2 [聖霊降下に伴へる奇蹟的現象]風の吹くが如き音、火の如き裂けたる舌、聖霊の満溢(まんいつ)と他国語を語れる事等何れも普通に目撃し得ざる特別の現象である。その後コリントの教会に於ても、その他の場合に於ても「異言を語る」場合は有ったけれども(使10:46使19:6)、五旬節に於ける如き特別の現象は再び起らなかった。これは聖霊降下はしばしば起るべき現象ではなく、この一回を以て完了せられし現象なるが故である。夫故にこの特別の奇蹟を今日も繰返さん事を欲し、之無くしては聖霊を受けざるかの如くに考える事は聖霊降下の意義の誤解である。五旬節に於て降り給いし聖霊は今日も尚我らと共に在し給う。
附記 [異邦の言を語る事]本章の記事によれば「異邦の言を語る」とは人々聖霊に充されて、恍惚状態となり己の知らざる異国の言に於て語り、異国の民は之を聞けばその意味を了解する如き状態を指していると見なければならぬ(使2:7-11参照)。この現象は使10:466。使19:6及びTコリ12章の「異言を語る」事とは幾分差異ある事はTコリ12章Tコリ14章等より之を知る事が出来る。即ち之を聞く者が通訳無しには解し得なかったのであった(Tコリ14:13Tコリ14:26-28)故に五旬節に於ける現象は全然特別のものと見なければならぬ。かかる事が可能なりやにつきては科学的に答うる事は出来ない。唯凡ての他の奇蹟と共に不可能事が神によりて可能たらしめられたのであると考えるべきである(一種の催眠状態に於て聖霊より暗示せられて異邦の言を語る事が不可能ではないと言い得るであろう)。
この事実の不可思議なるが為に、之を説明を以て変更せんとし、或は(1)古き預言者の語を解釈する新なる方法を意味すとなし、或は(2)彼らの故郷の言語を用いたので、あまりに熱心に語った為に宗教上の用語とは異るものとなったと解し、或は(3)普通日常語と異れる詩的又は他の稀なる語を用いたと解し、或は(4)彼等の常用語とは異れるアラミ語を用いし意味とし、又は(5)観念を発表したのであって言語を用いたのではないと解し、又は(6)聴者の方に奇蹟が行われ、自己の国語にあらざる言語を自国語の様に聴く事が出来たのであると解し、又は(7)ユダヤの伝説にモーセがシナイ山に於て律法を受くる時一つの声が七十の国民に各々別の声の如くに聞えた事が伝えられ、本章はその焼き直しであると解し、又は(8)最も多く行はれる説は、之は「異言を語る」事と同一の事実であったのを、後年の伝説を之に加えてルカが物語化したものであると解する説等である。しかしこれ等の凡ては聖書の原文に多かれ少かれ変更を加えなければならぬ欠点があり、又かく解するとしても必ずしも凡ての困難が除かれたのではなく、その処には又夫々の奇蹟的現象の説明を必要とするのである。故に予は前述の如く、この文字のままの奇蹟が行われたものと解するを可なりと信ず。けだしルカはこの事実につきその目撃者に就きて聴き(ただ)すべき多くの機会を有していた筈であると信ずるからである。▲2:1の「一つ処に集った」人々は1:15の120人も加わったと解すれば、この群集はガリラヤ人だけでなく、世界の各地から集ったユダヤ人と見るべきで2:7は異言をきいた人々の誤解であり、2:4のheterai glossai(異邦の言葉)は、この人々が聖霊に充たされ、特別の心理状態となり、各自がその生れ故郷の国語で語り始めたものと解するのも一つの解釈であろう。

1-5-2 群集のおどろき 2:5 - 2:13

2章5節 [(とき)に]敬虔(けいけん)なるユダヤ(びと)天下(てんか)國々(くにぐに)より(きた)りてエルサレムに()()りしが、[引照]

口語訳さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、
塚本訳そのときエルサレムには、天下のあらゆる国々から来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
前田訳さて、エルサレムには天下のすべての国民の中からの敬虔な人々であるユダヤ人が住んでいた。
新共同さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
NIVNow there were staying in Jerusalem God-fearing Jews from every nation under heaven.
註解: 信仰に熱心なるユダヤ人は、エルサレムに憧れていた。彼らは来りてその処に住居を定め又は一時の仮寓を有っていた。
辞解
[住む] katoikeô は仮寓の意味に用いる場合少いけれども、この処では五旬節の祭の為エルサレムに上り来れるユダヤ人をもこの中に含むと見て差支が無い(M0、A0、E0)。好期節に相当するので過越節よりも、五旬節の方が却って都上りが多かったとの事である(シューラー)。
[国々] ethnos は「民」「国民」の意。

2章6節 この(おと)おこりたれば群衆(ぐんじゅう)あつまり(きた)り、おのおの(おの)國語(くにことば)にて使徒(しと)たちの(かた)るを()きて(さわ)()ひ、[引照]

口語訳この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
塚本訳この(大きな)物音がすると、大勢の者が集まってきた。彼らはそれぞれ、自分の国語で使徒たちが話しているのを聞くと、びっくりした。
前田訳この音がすると、大勢が集まってきて、めいめいが自分たちの国ことばで使徒たちが語るのを聞いておどろいた。
新共同この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
NIVWhen they heard this sound, a crowd came together in bewilderment, because each one heard them speaking in his own language.
註解: 大風の如き音は家の外にも聞えたので多人数その家に集まって来た。そして各自国語、又は自己の方言にて使徒たちの語るのを聞きその異常の光景に全く心が混乱した。
辞解
[音] phônê で「声」と訳し、使徒たちの語る声と解する説あれど不可。
[国語] dialektos で「方言」の意味をも含む。集っていた多くの人は単に方言の程度の差異を有するに過ぎないものもあった。
[騒ぎ合ひ] 「心が混乱する」との意味もある。この場合この意味が却って適当であろう。
[使徒たち] ▲本文は「彼ら」で群集の全部であるから使徒たちと訳するのは誤りであろう。註解の中にも必要の訂正を施した。

2章7節 かつ(をどろ)(あや)しみて()ふ『()よ、この(かた)(もの)(みな)ガリラヤ(ひと)ならずや、[引照]

口語訳そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。
塚本訳そして驚きあきれて言った、「見よ、話しているあの人たちはみんな、ガリラヤ人ではないか。
前田訳彼らはいぶかりあきれていった、「これら話しているのは皆ガリラヤ人ではありませんか。
新共同人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
NIVUtterly amazed, they asked: "Are not all these men who are speaking Galileans?
註解: ▲▲これは群集の誤解で語っている者はガリラヤ人だけではなかったと見るべきであろう。

2章8節 如何(いか)にして我等(われら)おのおのの(うま)れし(くに)(ことば)をきくか。[引照]

口語訳それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。
塚本訳それだのにどうしてわたし達は、それぞれ自分の生まれ故郷の国語(でこの人たちが話しているの)を、聞くのだろうか。
前田訳しかるにどうしてわれらはめいめいが生まれ故郷の国ことばを聞くのでしょう。
新共同どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
NIVThen how is it that each of us hears them in his own native language?
註解: 言語を異にするガリラヤ人の一団が各人の国語を以て語るをきき、彼らの驚駭は一方ではなかった。語る者は主に使徒たちであったろうけれども、必ずしもそれに限られて居ない。唯ガリラヤ人が多数を占めていた事は明かである。

2章9節 我等(われら)はパルテヤ(ひと)、メヂヤ(ひと)、エラム(ひと)[引照]

口語訳わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
塚本訳わたし達は(世界中から来ている。)パルテヤ人とメジヤ人とエラム人とがあり、メソポタミヤ、ユダヤとカパトキヤ、ポントとアジヤ、
前田訳われらはパルテア人とメジア人とエラム人、また、メソポタミア、ユダヤとカパドキア、ポントとアジア、
新共同わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
NIVParthians, Medes and Elamites; residents of Mesopotamia, Judea and Cappadocia, Pontus and Asia,
註解: 以上はバビロン系ユダヤに属し、パルテヤはインドよりチグリスに至る部分、メヂヤはその南、エラムはその南でチグリス、ユーフラテス川の下流ペルシャ湾に接せる地方。

またメソポタミヤ、ユダヤ、

註解: ユダヤ地方の人はガリラヤ地方のユダヤ人とは方言を異にしていた。

カパドキヤ、

註解: 小アジヤの東部。

ポント、

註解: カパドキヤの北、

アジヤ、

註解: 小アジヤの西部海岸地方。

2章10節 フルギヤ、[引照]

口語訳フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、
塚本訳フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネ(の町)に近いリビヤの部分とに住んでいる者、またここに来て仮住いしているローマ人があって、
前田訳フルギアとパンフリア、エジプトとクレネに近いリビアの部分とに住むもの、また、当地在留のローマ人、
新共同フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
NIVPhrygia and Pamphylia, Egypt and the parts of Libya near Cyrene; visitors from Rome
註解: 小アジヤの中部山地。

パンフリヤ、

註解: 小アジヤの南部地中海岸。

エジプト、リビヤのクレネに(ちか)地方(ちはう)

註解: クレネはその地方の主都でこの地方人民の四分の一はユダヤ人なりし由、

などに()(もの)、ロマよりの旅人(たびびと

註解: 寧ろ「仮寓のロマ人」と直訳すべきで或は(1)他地方生れのユダヤ人にしてロマに仮寓するもの或は(2)ロマ生れのユダヤ人にしてエルサレムに来って仮寓するものと解せられる。後者が適当である。

)――ユダヤ(びと)および改宗者(かいしゅうしゃ)――

註解: 以上に列挙せる各種の人々の中には本来のユダヤ人と他人種にしてユダヤ数に改宗せる改宗者 prosêlytoi とがあった。改宗者に二種あり、「義の改宗者」と称されるは割礼を受けてユダヤ教に入りたる人々、即ちユダヤ人と略同一の宗教的生活をなす人、「門の改宗者」と言うは割礼を受けず律法の全体を守る義務が無いけれどもユダヤ教の信仰を尊敬し集会に加っている人。

2章11節 クレテ(びと)およびアラビヤ(びと)なるに、()國語(くにことば)にて(かれ)らが(かみ)(おほい)なる御業(みわざ)をかたるを()かんとは』[引照]

口語訳ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。
塚本訳ユダヤ人と(異教からの)改宗者、クレテ人とアラビヤ人であるのに、そのわたし達が、(いま)自分の言葉で、あの人たちが神の大きな御業を話しているのを聞くというのは、どうしたことだろう。」
前田訳ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビア人ですのに、彼らがわれわれのことばで神の偉大なみわざを語るのを聞くとはなぜでしょう」と。
新共同ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
NIV(both Jews and converts to Judaism); Cretans and Arabs--we hear them declaring the wonders of God in our own tongues!"
註解: 当時世界の各地から多数の人がエルサレムに集っていた。五旬節を祝わんが為である。当時の全世界を代表せるこれ等の人々が皆自国語を以て使徒たちが語るのを聞いた事は取りも直さず福音が全世界の人々に宣伝えらるべきものである事を示す。神はこの事実を明かならしめんが為にこの奇蹟を行い給うたのである。

2章12節 みな(をどろ)(まど)ひて(たがひ)()ふ『これ何事(なにごと)ぞ』[引照]

口語訳みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。
塚本訳皆が呆気にとられ、すっかり不安になって互に言った、「これはいったいどうしたというのだ。」
前田訳皆はいぶかり惑って、互いにいった、「これは一体どういうことでしょう」と。
新共同人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
NIVAmazed and perplexed, they asked one another, "What does this mean?"
註解: 彼らは敬虔なるユダヤ人らであったけれども(5節)、この現象の意味を解する事が出来なかった。彼らに取りて非常に大なる事件が起ったのである事に彼らは心付かなかったからである。

2章13節 (ある)(もの)どもは(あざけ)りて()ふ『かれらは(あま)葡萄酒(ぶだうしゅ)にて滿(みた)されたり』[引照]

口語訳しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。
塚本訳しかし「あの人たちは新酒に酔っぱらっている」と言って、嘲弄する者もあった。
前田訳しかし、あざけって、「彼らは酒に酔っている」というものもあった。
新共同しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
NIVSome, however, made fun of them and said, "They have had too much wine. "
註解: 聖霊降下の現象を解せざるものはそのあまりに不可解なるが為に彼らを酒に酔えるが為と解した。神の御業を謙遜なる心を以て解せざるものは、之を非難する事によりて自らの滅亡を招く。▲聖霊が一の人格(persona)である以上、独自の活動をなし給うことは当然である。聖霊が力強く各人の上に降るとき、各人は無意識的に平生用いない故国語を語ることは有り得ることである。
辞解
[或者] 原語「他の者」で、7-10節に掲げられし人々以外の人を指すと解する説あれど(M0)、むしろ彼らの中の或者と見るを可とす、如何に敬虔なる人といえども必ずしも神の事を解するとは限らない。
要義1 [異常現象とその意義]神はその霊を以て、時に全く異常なる現象を顕し給う、奇蹟もその一種である。しかしながらモーセの杖の奇蹟に対しエジプトの法術士が同様の奇蹟を行いしと同じく、神の為し給う奇蹟に類似する現象が往々にしてサタンによって行われる事がある故、我らはこの区別を注意しなければならぬ。我らは「霊の神より出づるや否やを(わきま)へ」なければならぬ。この種の異常現象が何等の人為的作為によらずして起れる時は之を神の御業によるものと見るべきである。もしその処に何等か人為的分子が介在する時それはサタンの業であると信ずべきである。
要義2 [聖霊降下の表徴的意義]創1:1-9によればかつてバベルの住民は高楼を造リて自ら天に達せんと企てた為、神は之に向って怒を発し給い、その言語を混淆(こんこう)して彼らの意思の疏通を欠くに至らしめ、かくして彼らは多くの異れる語の民となり彼らを全地の面に散らしめたとの事である。これがセム、ハム、ヤペテの子孫が全世界に散布せる事実の説明となっている。之に反し五旬節の出来事の記事に於ては9-11節の地方名の列挙はセム、ヤペテ、ハムの子孫の順序となって居り、創10章の複写の如くに見え、而してバベルの記事とは正反対に、多くの異なれる国語の民が、互に聖霊の言を以て意思を通じ得るに至ったとの事である。ここに明かにバベルの記事とペンテコステ(五旬節)の記事との対照を見得るのであって、前者は人力と人間の計画による社会的統一の不可能を示し、後者は神の霊の力によって如何に言語人情を異にする人々の間にも理解と一致とを来し得る事を示す。この真理は今日の国際間題の解決に対する唯一の指針である。

1-5-3 ペテロの説教 2:14 - 2:36

2章14節 (ここ)にペテロ(じふ)(いち)使徒(しと)とともに()ち、(こゑ)()()べて()[引照]

口語訳そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。
塚本訳するとペテロは十一人(の使徒)と共に進み出て、声高らかに雄弁をふるった。──「ユダヤ人諸君、ならびにエルサレムに住む皆さん、このことを知ってください。わたしの言葉に耳を傾けてください。
前田訳そこでペテロは十一人とともに立ち上がり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤ人の方々、エルサレムにお住まいの皆さん、このことを知ってください。わたしのいうことをよく聞いてください。
新共同すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。
NIVThen Peter stood up with the Eleven, raised his voice and addressed the crowd: "Fellow Jews and all of you who live in Jerusalem, let me explain this to you; listen carefully to what I say.
註解: 異邦の言を語る特別の現象は一時的であり、之が終ってペテロは静かに十一使徒と共に会衆に向って語った。「声を揚げ」は殊にその演説の重要性を強調する事に役立つ、マタ5:2参照。

『ユダヤの人々(ひとびと)および(すべ)てエルサレムに()める(もの)よ、(なんぢ)()わが(ことば)(みみ)(かたむ)けて、この(こと)()れ。

註解: ペテロの強き確信がこの語の中に表われている事に注意すべし、この時のペテロは曾て主を否める時の如き弱きペテロではなく、聖霊に満されて立上った勇ましいペテロであった。

2章15節 (いま)(あさ)九時(くじ)なれば、(なんぢ)らの(おも)ふごとく(かれ)らは()ひたるに(あら)ず、[引照]

口語訳今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。
塚本訳今は(まだ)朝の九時であるから、あなた達が想像するように、、この人たちは酒に酔っているのではありません。
前田訳今は朝の九時ですから、この人たちはあなた方がお考えのように酔っているのではありません。
新共同今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。
NIVThese men are not drunk, as you suppose. It's only nine in the morning!
註解: (いず)れの国民でも余程の放逸者に非ざる以上朝より酒に酔う如き者は無い(Tテサ5:7)。ペテロは斯く言いて先づ評者の非常識と不真面目さとに対して一撃を加へた。
辞解
[朝の九時] 原語「第三時」、日出より起算して日中を十二分する方法による。

2章16節 これは預言者(よげんしゃ)ヨエルによりて()はれたる(ところ)なり。[引照]

口語訳そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、
塚本訳これは(神が)預言者ヨエルをもって言われたこと(が成就して、神の霊に酔っているの)です。
前田訳これは預言者ヨエルによっていわれたことなのです。
新共同そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
NIVNo, this is what was spoken by the prophet Joel:
註解: ヨエ3:1の七十人訳より自由に引用せるもの。ヨエルはイスラエルに関しメシヤの出現の時に必ず伴うべき異象につき預言したのであるが、ペテロは之を霊のイスラエルに摘用し、改宗者のみならず一般の異邦人にも(使2:39使3:26)及ぶものと解したのである(M0)。 但し之をユダヤ人及改宗者に限る事が当時のペテロの思想であると解する節あれど(E0)必ずしも、かく限定する必要は無い。
辞解
[これは] 以上の如き現象はの意。

2章17節 (かみ)いひ(たま)はく、(すゑ)()(いた)りて、[引照]

口語訳『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。
塚本訳神が仰せられる、──最後の日に、“わたしはすべての人にわたしの霊を注ごう。するとあなた達の息子と娘とは預言し、青年は幻を見、老人は夢をゆめみる。
前田訳すなわち、神いいたもう、『終わりの日に、わたしはすべての人にわが霊を注ごう。するとあなた方の息子と娘は預言し、若者は幻を見、年寄りは夢を見よう。
新共同『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。
NIV"`In the last days, God says, I will pour out my Spirit on all people. Your sons and daughters will prophesy, your young men will see visions, your old men will dream dreams.
註解: 直訳「終の日に於て」七十人訳にもヘブル原典にも「この後」とありペテロは之を転化したのである。但し双方とも実質上には差異なく、(いず)れもメシヤ出顕の直前を指す。

()(れい)(すべ)ての(ひと)(そそ)がん。

註解: 原語「我が霊の中より apo 凡ての肉 pasa sarx に注がん」で神の霊の分与を意味す、「凡ての肉」は「凡ての人」と同義なるヘブル語法なれど、この場合は之に加うるに「人間の弱さ」なる意味をも含むものと解すべきである。かかる者に神の霊が注がれる時彼らは別人となる。

(なんぢ)らの子女(むすこむすめ)預言(よげん)し、(なんぢ)らの若者(わかもの)幻影(まぼろし)()、なんぢらの老人(としより)(ゆめ)()るべし。

註解: 男女老若即ち性と年齢との如何を問わず凡ての人に聖霊が注がれる事を示す。而してその結果彼らは預言し神の言を語る能力を賦与せられ、又肉の目を以て見る事を得ざる幻影を見、又、神の託宣とも言うべき夢を見る。神の霊が注がれる時人々は全く別人となる事を示す。「汝らの見るこれらの人にもこの預言が成就したのである」との意。

2章18節 その()(いた)りて、[引照]

口語訳その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。
塚本訳またその日には、わたしの僕と婢とにわたしの霊を注ごう、”すると彼らは預言する。
前田訳その日には、わが僕とはしためにわが霊を注ごう。すると彼らは預言しよう。
新共同わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
NIVEven on my servants, both men and women, I will pour out my Spirit in those days, and they will prophesy.
註解: 原語「その日には」で終りの日を意味す。

わが(しもべ)婢女(はしため)に、わが(れい)(そそ)がん、(かれ)らは預言(よげん)すべし。

註解: 神を信ずる者はその僕であり婢女(はしため)である。原文はイスラエルの民につき述べているのであるが、茲では之を基督者に適用している。聖霊を受けし時始めて真の意味の神の僕となり婢女(はしため)となるのであるが、神の目には彼らは既に僕、婢女(はしため)である。預言する事は神の言を代って語る事である。▲聖霊が人の心に宿りこれを動かし語らしめるときそこに預言が生ずる。
辞解
[わが] ヘブル原典になし、従って僕、婢女は卑賤の人を意味すと見る事を得。ここでもこの意味を加味すれば一層適切となるけれども、「わが」とある以上一般に信者を指すと見るべきである。但し B1 は主として之を文字通りの僕婢の意味と解す。
[わが霊を] 前節と同じく「わが霊より」。

2章19節 われ(うへ)(てん)不思議(ふしぎ)を、(した)()(しるし)(あらは)さん、(すなは)()()(けむり)()とあるべし。[引照]

口語訳また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。
塚本訳“また”上は“天に不思議なことを、”下は“地に”徴を、“わたしは示そう、すなわち血と火と立ちのぼる煙とを。
前田訳また、わたしは、上には天に不思議を、下には地に徴を、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを示そう。
新共同上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。
NIVI will show wonders in the heaven above and signs on the earth below, blood and fire and billows of smoke.
註解: 一方に聖霊降下によりて預言の賜物が与えられると共に、他方著しき天変地異が起り、之によりてメシヤの来臨とその審きとが天下に告知せられ、人々の心に恐怖と戦慄とを来さしむるに至るであろう。本節後半は地上の徴、次節は天上の不思議である。血、火、煙の気につきては黙16:3-6、黙16:8黙14:11参照
辞解
[不思議と徴] 異同についてはヨハ4:48註解参照。

2章20節 (しゅ)(おほい)なる顯著(いちじる)しき()のきたる(まへ)に、()(やみ)(つき)()(かは)らん。[引照]

口語訳主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。
塚本訳主の(恐ろしい)大いなる、輝きの日が来る前に、日は暗闇に月は血にかわるであろう。
前田訳主の大いなる輝きの日が来る前に、日は闇に、月は血に変わろう。
新共同主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。
NIVThe sun will be turned to darkness and the moon to blood before the coming of the great and glorious day of the Lord.
註解: 「主の日」は旧約聖書に於てエホバの審判の日につき用いられていたのを新約に於てはキリスト再臨の日につきて用う。ペテロはここにキリストの再臨の時の事をも併せて考慮に入れたのである。この日は「大にして顕著(いちじる)しき」日であり何人もその前を避くる事が出来ない、天上の異変の記載につきてはマタ24:29イザ13:10エゼ32:7参照。この審判の警告の前に凡ての人は戦慄しなければならぬ。

2章21節 すべて(しゅ)御名(みな)()(たのみ)(もの)(すく)はれん」[引照]

口語訳そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』。
塚本訳そして主の名を呼ぶ者はすべて救われる。”
前田訳そして主の名を呼ぶものは皆救われよう』と。
新共同主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
NIVAnd everyone who calls on the name of the Lord will be saved.'
註解: 「呼び頼む」 epikaleôは「呼び掛くる」事で感謝祈祷の態度を指す。即ち信仰的態度を意味す。主の名はキリスト・イエスの名でキリストを救主として信ずる者は救われて神の国の民とせられ永遠の生命に入れられる。たとい前二節の如き天変地異が到る処に起っても主を信ずる者には絶対の平安がある
要義1 [まぼろしを見よ]基督者の信仰は一の幻影である。罪の赦し、身体の復活、キリストの再臨、最後の審判、新天新地の復興等、一として現実的なるはなく皆まぼろしである。しかもこれ等のまぼろしを現実として把握するのは信仰であって、これ等のまぼろしを否定する如き信仰は信仰ではない(ヘブ11:1)。
要義2 [ヨエルの預言] 聖霊が凡ての人に注がれ、凡ての人が主の名を呼び掛けるに至る事は著しき出来事である。その如く基督者は一人一人聖霊を受け一人一人主の御名を呼び掛ける者でなければならない。この事には男女老幼貴賤貧富の区別が無い、この点に於て旧約時代イスラエルが一国民として選ばれし事と、新約時代各個人々々の上に聖霊が注がれし事とは根本的に相違がある事に注意しなければならぬ。但し個人々々の上に注がれし聖霊はその枝であり根本は一に帰している点に於て(3節)東洋的神秘的見神悟入と異る。故に基督者は極めて個人的であると共に全体として極めて堅き一体を為す、これが真の教会の姿である。

2章22節 イスラエルの人々(ひとびと)よ、これらの(ことば)()け。ナザレのイエスは、(なんぢ)ら(自身(じしん))の()るごとく、(かみ)かれに()りて(なんぢ)らの(うち)(おこな)(たま)ひし能力(ちから)ある(わざ)不思議(ふしぎ)(しるし)とをもて(なんぢ)らに(あかし)(たま)へる(ひと)なり。[引照]

口語訳イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。
塚本訳イスラエル人諸君、(わたしの)この言葉をお聞きなさい。──あのナザレ人イエスは、神が彼によってあなた達の中でかずかずの奇蹟や不思議なことや徴を行い、(救世主であることを)あなた達に証明された人であります。このことはあなた達自身が知っているとおり。
前田訳イスラエル人の方々、このことばをお聞きください、ナザレ人イエスは、神があなた方に力と不思議と徴によって認証なさった方です。これら神が彼によってあなた方の間でなさったことは、あなた方自らご存じのとおりです。
新共同イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。
NIV"Men of Israel, listen to this: Jesus of Nazareth was a man accredited by God to you by miracles, wonders and signs, which God did among you through him, as you yourselves know.
註解: ペテロは普通の言語を以て厳粛に彼らに語り始め、先づ彼らの知り居る事実を挙げて彼らをして反駁の余地なからしめた。即ちイエスが彼らの中に行い給える奇蹟を指摘し、之を以て神がイエスの何たるかを明白にし給うたと云う事である。之に対しては彼らも之を否定する事が出来ない訳である。
辞解
[不思議、徴、能力ある業] (いず)れも奇蹟の別名であり、同一の奇蹟をその見方の相違より名付けし別名である。
[証す] apodeiknumi(▲「示す」の意味) 確かにそうであるとする事。
[人なり] ペテロは先づイエスを人間として彼らに示し次第に之を神の子として示すの途を取った。

2章23節 この(ひと)(かみ)(さだ)(たま)ひし御旨(みむね)と、(あらか)じめ()(たま)(ところ)とによりて(わた)されしが、(なんぢ)()(はう)(ひと)()をもて釘磔(はりつけ)にして(ころ)せり。[引照]

口語訳このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。
塚本訳このイエスを、神は一定の御計画と予見とによってくれてやられたところ、あなた達は律法を知らぬ(異教の)人々の手で磔にして殺してしまった。
前田訳彼は神の慎重なご意志と予知によって引き渡され、あなた方が不法の者どもの手ではりつけにして殺しました。
新共同このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
NIVThis man was handed over to you by God's set purpose and foreknowledge; and you, with the help of wicked men, put him to death by nailing him to the cross.
註解: イエスがその敵たるユダヤ人の祭司長学者らに付されしは神が預定し給いし処又預知し給いし所であった。神の側より云えばかくなるべく定っていたのである。しかし汝らユダヤ人は不法者即ち律法なき異邦人なるロマの兵卒の手をもて彼を十字架につけたのである。ここにキリストの十字架の意義が神の側と人間の側の双方より明かにせられているのを見る。キリストの十字架は決して神の意思に反したのでもなく又神の知らざる間に行われたのでもなかった。それにも関らずユダヤ人の罪の罪たる事に変りはない。
辞解
[不法の人] 異邦人を指すと見るべきである(ロマ2:14Tコリ9:21)。イエスの場合はそれはロマの兵卒であった。ユダヤ人が崇むべきメシヤを異邦人の手にて殺す事は、ユダヤ人に取りて最大の罪である。

2章24節 ()れど(かみ)()苦難(くるしみ)()きて(これ)(よみが)へらせ(たま)へり。(かれ)()(つな)がれをるべき(もの)ならざりしなり。[引照]

口語訳神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。
塚本訳しかし神は彼を死の苦痛から解いて復活させられた。死に捕らえられていることが出来なかったからです。
前田訳その彼を神はよみがえらせて死の苦しみから解放なさいました。彼は死に捕えられていることはありえなかったのです。
新共同しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
NIVBut God raised him from the dead, freeing him from the agony of death, because it was impossible for death to keep its hold on him.
註解: 彼には罪なく、従って罪の値たる死に把握されているべきではなかったので、神は彼を復活せしめ給うた。彼の復活は死よりの新生であり、死の中にある事が一の生みの苦しみ ôdin である。即ちイエスの復活は死よりの凱旋である(Tコリ15:54以下。Uテモ1:10)。この場合死の苦難は肉体の死なんとする刹那の苦難を言うのではなく、死なる世界を一の苦痛の世界と観じ之を新生への生みの苦しみと見たのであろう、辞解を見よ。
辞解
[死の苦難] ôdin は産の苦痛を意味す、この場合はむしろ「死の繋ぎ」又は「死の(わな)」と読む方が適切である。 ôdin にはこの意味は無いけれども。 ôdin と訳されしヘブル原語 chebel は網又は(わな)の意もあり(詩18:4、5参照)七十人訳が之をôdin と訳せるものを(M0)上記の如き意味にルカが用いたものであろう。

2章25節 ダビデ(かれ)につきて()ふ、「われ(つね)()(まへ)(しゅ)()たり、()(うご)かされぬ(ため)()(みぎ)(いま)せばなり。[引照]

口語訳ダビデはイエスについてこう言っている、『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、わたしの右にいて下さるからである。
塚本訳現にダビデは彼についてこう言っています。“わたしは絶えず目の前に(神なる)主を見あげた、わたしがぐらつかないように、わたしの右側にいてくださるから。
前田訳ダビデは彼についていっています『わたしは主をたえず目の前に見ていた。彼はわたしがゆらめかぬようにわが右にいたもう。
新共同ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。
NIVDavid said about him: "`I saw the Lord always before me. Because he is at my right hand, I will not be shaken.
註解: 本節より28節までは詩16:8以下よりの引用、ペテロはこの詩を以てキリストに関する預言と解した。パウロも亦然り(使13:35)。蓋しこの詩はその完き信頼の態度が極めてイエスの生涯に類するのみならず、その中にある復活の預言はダビデに於て実現せざりし故に之は当然キリストに関するものと解したのである。ダビデは常に主なる神との親き霊交に生き、神は(あたか)も法廷に於ける弁護人と被告との関係の如く常にダビデの右に在りて彼を助け給う、この状態はイエスの生涯と同一である。
辞解
詩16篇は多くの異論あるにも関らず多分にダビデの作らしさがある。復活の思想(26、27節、詩16:10)はバビロン捕囚以前には存在しなかったとの理由の下にダビデの作たる事を否定する説があるけれども、絶対的信頼の心を以てエホバに対する時、何人も不死の希望を直感する事が出来る事は否定が出来ない、復活はダビデの如き偉大なる信仰の心の切なる願であり、又之を示されしは霊的啓示であったと見る事が出来る。
[右に坐す] 助けとなる事。

2章26節 この(ゆゑ)()(こころ)(たの)しみ、()(した)(よろこ)べり、[引照]

口語訳それゆえ、わたしの心は楽しみ、わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。
塚本訳それゆえにわたしの心は楽しく、舌は(歌をうたって)喜んだ、そればかりか肉体も、(墓にあって)希望のゆえに安らうであろう、
前田訳それゆえわが心はたのしみ、わが舌はよろこびを語った。さらに、わが肉も希望の中に安らおう。
新共同だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
NIVTherefore my heart is glad and my tongue rejoices; my body also will live in hope,
註解: 神に対する絶対的信頼を有つ場合、その人の心は歓喜に溢れ、その舌は喜びて讃美の歌となる。
辞解
[心] kardia 感情を主としているけれども理性的意志的要素をも含み得る。
[舌] ヘブル語には「我が栄」とあり、「我が魂」を意味す、七十人訳は自由なる意訳なり。

かつわが肉體(にくたい)もまた(のぞみ)(うち)宿(やど)らん。

註解: 心は楽しみ舌は喜ぶ。肉体も亦影響せられずに居る筈はない、神と共に生くるものの肉体は結局に於て滅亡に定められし絶望的存在ではなく、何等かの希望−不死か、復活か−の中に安住するであろう。かく言いて詩人はその信仰の深き体験を通して神の御心の片鱗を窺い知る事が出来た。ペテロは之を以てイエスの復活の預言と見たのである。
辞解
[宿る] kataskênoô 天幕の中に安全に住む貌を示す。
[望] ダビデはこの希望の内容を明瞭に意識しなかったろうけれども、ペテロは之を以て復活の希望を示すと解した。ヘブル語の原詩は「我が身もまた平安に居らん」とあり、平安の生活を意味す。

2章27節 (なんぢ)わが靈魂(たましひ)黄泉(よみ)()()かず、(なんぢ)聖者(しゃうじゃ)朽果(くちは)つる(こと)(ゆる)(たま)はざればなり。[引照]

口語訳あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう。
塚本訳あなたはわたしの魂を黄泉に捨ておくことはなく、あなたの聖者(救世主)を朽ち果てさせることもないから。
前田訳あなたはわが魂を黄泉(よみ)に捨ておかず、あなたの聖者が朽ちるのを見殺しになさらぬがゆえに。
新共同あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。
NIVbecause you will not abandon me to the grave, nor will you let your Holy One see decay.
註解: 詩人は自己の霊魂(生命 psychê )が神との深き交りに生くる事、又神が深く彼を愛し、彼を聖なるものとして取扱い給う事を意識しつつこの確信の呼声を掲げた。彼は神が決して彼を黄泉の中に放置し給う筈がなく又腐朽に帰せしむる事無しと信じたのである。然るに詩人ダビデは事実死してその墓すら残っている故ペテロはこの詩を以て、キリスト復活の預言と解したのである。まことに適当な解釈である。蓋しかかる霊的高潮に際して人類の至深の願望を表白するのが預言であり、従って預言は人間の念願の頂点であり、之が凡てイエスに於て実現さるべきものなるが故である。故に詩人(ダビデ)が必ずしもメシヤに就て意識しつつこの詩を作ったのであると言う事は出来ず又かくある必要はないが、彼自身に就て言った事が取りも直さずメシヤの預言となったのである。
辞解
[黄泉] hadês 死者の住家、地下の深所(ふかみ)にありと考えられていた、墓の意味に非ず。
[朽果つること] 即ち「腐朽を見ること」はヘブルの原詩では「坑を見る事」即ち墓の中に入る事と読むべきで「坑」又は「墓」と訳すべき shachath を七十人訳が往々 diaphthora 「腐朽」と訳しているのは異る語根より出でしものとして解したのである。

2章28節 (なんぢ)生命(いのち)(みち)(われ)(しめ)(たま)へり、御顏(みかほ)(まへ)にて(われ)勸喜(よろこび)滿(みた)(たま)はん」[引照]

口語訳あなたは、いのちの道をわたしに示し、み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであろう』。
塚本訳(朽ち果てさせぬばかりか、死から)命(への復活)の道をわたしに知らせてくださった、あなたのそばでわたしの楽しみを満たしてくださるであろう。”
前田訳あなたはいのちの道をわたしに示し、お顔の前でわたしをよろこびで満たしたもう』と。
新共同あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
NIVYou have made known to me the paths of life; you will fill me with joy in your presence.'
註解: 原詩の意味は神が詩人に信仰に由りて生くべき生命の途を示し給いし事、而してこの道を歩む者はエホバの御前に歓喜に満されるであろう事の意味である。ペテロは之をキリストに適用してキリストが死より生命に復活し給い、かくして神の御顔の前にて、歓喜の中に生き給う事の意味に解した。この両方面は実は同一の事実の両面であるとも云う事が出来る。

2章29節 兄弟(きゃうだい)たちよ、先祖(せんぞ)ダビデに()きて、われ(はばか)らず(なんぢ)らに()ふを()べし、(かれ)()にて(はうむ)られ、()(はか)今日(こんにち)(いた)るまで(われ)らの(うち)にあり。[引照]

口語訳兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。
塚本訳兄弟の方々、(この預言をした)祖先ダビデについては、彼は死んで葬られて、その墓は今日までわたし達の間にあると、あなた達にざっくばらんに言ってもよかろう。(彼はすべての人と同じように朽ち果てた。)──
前田訳兄弟たちよ、父祖ダビデについてはあからさまにあなた方にいいえます、彼は死にもし葬られもし、その墓は今日までわれらのところにある、と。
新共同兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。
NIV"Brothers, I can tell you confidently that the patriarch David died and was buried, and his tomb is here to this day.
註解: ペテロはダビデに対する尊敬の心を保持しつつ彼の死後の肉体に関する事実を事実として叙べなければならなかった。即ちダビデは上述の詩を作ったけれども、その詩の内容は彼に於て実現せず、彼の肉体は腐朽に帰した事はその墓が現存するの事実を以ても知る事が出来る。夫故にこのダビデの詩はキリストに関する預言と解してのみ意味を為す事となる。
辞解
[兄弟たちよ] 「人々兄弟よ」で14節22節に比して一層親しみがあり、使3:17の「兄弟たちよ」は一層その度を高めている(E0)。
[先祖] patriarchês は主としてアブラハム以下ヤコブの十二の子等を指している尊称である。ダビデも王として充分にこの尊称に値していた。
[ダビデの墓] 称するもの今もエルサレムの東南にあり。

2章30節 (すなは)(かれ)預言者(よげんしゃ)にして、(おのれ)()より()づる(もの)をおのれの座位(くらゐ)()せしむることを、(ちかひ)をもて(かみ)(やく)(たま)ひしを()り、[引照]

口語訳彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、
塚本訳だから(この言葉はダビデ自身に関するものでなく、救世主に関するものであることは明らかです。すなわち)彼は預言者であって、神が“彼に、その子孫の一人を王位につかせようと”誓いを“立てられた”のを見て、
前田訳彼は預言者であって、神が彼にその子孫のひとりを王座にすえようと誓われたのを見て、
新共同ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。
NIVBut he was a prophet and knew that God had promised him on oath that he would place one of his descendants on his throne.
註解: Uサム7:12、13に神はダビデに誓いその子孫よりメシヤ出でて彼の王位に即くべき事を約束し給うた。
辞解
[己の身より出づる者] 「已の腰の果よりの者」で子孫の事。
[誓をもて…約し] 「誓をもて誓い」で強きヘブル語調

2章31節 先見(せんけん)して、キリストの復活(よみがへり)()きて(かた)り、その黄泉(よみ)()()かれず、その肉體(にくたい)朽果(くちは)てぬことを()へるなり。[引照]

口語訳キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。
塚本訳これは救世主の復活のことであると前から知っていて、こう語ったのです、“彼は黄泉に捨ておかれもせず、”彼の肉体の“朽ち果てることもない”と。
前田訳それがキリストの復活についてであることを予知しつつ『黄泉に捨ておかれず、その肉が朽ちることもない』と語ったのです。
新共同そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。
NIVSeeing what was ahead, he spoke of the resurrection of the Christ, that he was not abandoned to the grave, nor did his body see decay.
註解: ペテロの解釈によれば前節の如くダビデの位に坐するものは永遠の位に坐することゆえ、必ず不死の体を有すべき事を先見して、キリストとして来るべき者は必ず復活して黄泉より出で不朽の体を持つに至る事を預言し、この預言がイエスに於いて実現したのであると云うのである。必ずしもダビデが精確に未来の出来事を先見したと云う意味に解する必要がない。
辞解
本節後半は不定過去動詞を用い既に過去れる事実として録している。

2章32節 (かみ)はこのイエスを(よみが)へらせ(たま)へり、(われ)らは(みな)その證人(しょうにん)なり。[引照]

口語訳このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。
塚本訳神は(救世主である)このイエスを(預言どおりに)復活させられました。わたし達は皆このことの証人です。(イエスの復活を目の当り見たのだから。)
前田訳このイエスを神はよみがえらせたまいました。われらは皆その証人です。
新共同神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。
NIVGod has raised this Jesus to life, and we are all witnesses of the fact.
註解: 24節の思想が再びここに取出され、ダビデの預言せるキリストがこのイエスであった事をその復活によりて証明し、而して使徒たちが取りも直さず復活の証人である事を述べている。
辞解
[このイエス] 強き語調、文の首にあり。
[その証人] 「その」は「神の」(B1)「キリストの」(E0)「この事柄の」等と解する事を得。最後の解釈が最も適当である(M0)

2章33節 ()くて)イエスは(かみ)(みぎ)()げられ、約束(やくそく)(せい)(れい)(ちち)より()けて(なんぢ)らの()(きき)する()のものを(そそ)(たま)ひしなり。[引照]

口語訳それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。
塚本訳こうして彼は神の右に挙げられ、父上から約束の聖霊を受けて、(いま)あなた達が見もし聞きもするこの聖霊を、(わたし達に)注いでくださったのです。──
前田訳かくて彼は神の右に高められ、父から聖霊という約束のものを受け、あなた方が見もし聞きもするこの聖霊をお注ぎでした。
新共同それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
NIVExalted to the right hand of God, he has received from the Father the promised Holy Spirit and has poured out what you now see and hear.
註解: 復活の当然の結果は昇天である。イエスは神の力強き御手を以て神の右手に挙げられ、父より約束せられし聖霊(ヨハ15:26ヨハ16:7)を受けて之をその会衆に注ぎし為にこの汝らが見聞する如き音響、火の舌、異邦の言等となったのである。
辞解
原文に oun 「斯くて」「故に」あり。
[神の右に挙げられ] 35節との関係より見れば適訳なるが如きも文法上かく訳する事は困難なりとして「神の右手にて」即ち「神の偉大なる力にて」の意と解すべきであるとする説が多い(A1、B1、C1、E0、M0)。但し「右に」と訳して可なりと主張する学者もある故、この方を採る事とする。
[このもの] 直接に「聖霊」を指すと解する説と漠然と「眼前の事実を起さしめし原因たるもの」と解する説とあり、後者を採る。

2章34節 それダビデは(てん)(のぼ)りしことなし、()れど(みづか)()ふ、「(しゅ)わが(しゅ)()(たま)ふ、[引照]

口語訳ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、『主はわが主に仰せになった、
塚本訳なぜなら、ダビデ(自身)は天に上ったのではなく、自分でこう言っているからです。“(神なる)主はわが主(救世主)に仰せられた、『わたしの右に坐りなさい、
前田訳なぜなら、ダビデは天に上ったのではなく、自らこういっています、『主はわが主に仰せられた、わが右にすわりなさい、
新共同ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。
NIVFor David did not ascend to heaven, and yet he said, "`The Lord said to my Lord: "Sit at my right hand

2章35節 (われ)なんぢの(てき)(なんぢ)足臺(あしだい)となすまでは、わが(みぎ)()せよ」と。[引照]

口語訳あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい』。
塚本訳わたしがあなたの敵を(征服して)あなたの足台にしてやるまで』と。”
前田訳あなたの敵をあなたの足台にするまでは』と。
新共同わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』
NIVuntil I make your enemies a footstool for your feet."'
註解: 詩110:1。主イエス自らマタ22:44に、この詩を引用してキリストのダビデの子にあらずしてダビデの主たる事を論じ給うた。ペテロも亦この詩を以てダビデがキリストを主と仰ぎし事を証明しているのを見る。この詩をダビデの詩とすれば彼は主として仰ぐべき人が神の右に坐する事を神が命じ給うた事を知った事となる。従ってキリストの復活は当然の事実であり、ダビデの預言はいよいよその意義を増すこととなる。
辞解
詩110篇はメシヤ預言と考えられ新約聖書に最も多く引用される詩である(マタ22:44マコ12:36ルカ20:42Tコリ15:25ヘブ10:13Tペテ3:22詩45:6、7)。イエスの時代には之をダビデの詩と一般に信ぜられていた。今日は之を他の作者の作と見るもの多く「わが主」はその作者の王又は主たる人と見られている。もしこれが事実であるとしてもこの詩がその霊的意義に於て一の預言たる事を妨げない。ダビデとメシヤとの上下を証明し得ないにしてもメシヤにも比すべき「主」たる人を至高の地位に崇むる事実のみにてもメシヤの至高的存在たる事の預言として解するに差支は無い。この「わが主」はダビデを指したるものならんとする学者が多い、但しこの説によればダビデの詩ではない事となる。

2章36節 ()ればイスラエルの全家(ぜんか)(しか)()るべきなり。(なんぢ)らが十字架(じふじか)()けし()のイエスを(かみ)()てて(しゅ)となし、キリストとなし(たま)へり』[引照]

口語訳だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。
塚本訳だからイスラエルの家全体ははっきり知らねばならない、神はイエスを(立てて)主とし、救世主とされたのに、(人もあろうに)この方を、あなた達は十字架につけてしまったことを!」
前田訳それゆえ、イスラエルの全家ははっきり知るべきです、神はイエスを主とし、キリストとなさったのに、その彼をあなた方は十字架につけたことを」。
新共同だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
NIV"Therefore let all Israel be assured of this: God has made this Jesus, whom you crucified, both Lord and Christ."
註解: 原語の文勢は「さればイスラエルの全家よ確と知れ、神は彼を主又キリストとなしし事を、[然り]汝らが十字架につけしこのイエスを」と言う如き調子で、最後にイスラエル全家の罪を指摘して彼らの心を刺し透した。ペテロの論法は25-35節に於て詩篇によりてダビデがキリストの復活すべき事を預言せる事と、このキリストはダビデの主であり全人類の救主キリストである事とを証明し、而してナザレのイエスを神は主としキリストとし給える事はその復活し給える事で明かである以上、このイエスを十字架に釘けしイスラエルの罪は赦すべからざるものとなるとの論法である。メシヤの来臨を期待していたイスラエルにとりて、このペテロの演説が、大問題を投げかけた事は当然である。
要義1 [詩16篇とキリストの復活]もし詩16篇が明かにダビデの作であり、それが復活の預言であるとすれば問題は無いけれども、もし多くの学者の唱える如くこの中に復活に関する思想はないとするならば如何。答、たとい明瞭に肉体の復活を預見したのでは無いとしても、真にエホバに対する絶対信頼の生涯に生くる者は、この肉体なる外なる幕屋は日々に衰え行くとも内なる神に依れる人は日々に新なる事は誰しも経験する処の信仰の事実である。真に信仰によって生くるものは不死の予感を有し復活の予告を受ける。この意味に於てこの詩は詩人の主観に示されし復活の啓示であると見るべきである。次にもしこの詩がダビデの作にあらずとせば如何。答、預言は神に代って神の言を語る事である。故にその何人なるかは問題ではない、ダビデたると他の何人たるとを論ぜずこの詩の作者はこの希望をいだいて墓に下った。
要義2 [詩110篇とメシヤの預言]詩110篇がダビデ自身の作詩で、メシヤの預言であるかどうかについては多くの議論があり、学者は多く之を他の一詩人がダビデ又は他の王に対してささげし讃美の詩であると解している。もし然りとすれば之をメシヤ預言と解する事が出来ないかと言うに然らず、この詩人の詩想に映ぜし理想の王は、彼の期待し得る最高の王者の姿であって、たといある現実の王者を思い浮べつつこの詩を作ったとしてもその王は理想化せられ居るのであって、この理想の姿は取りも直さずメシヤの姿に相当するのである。その意味に於てこの詩はメシヤ預言であり、従ってその詩人がダビデであると否とを問わない。ダビデも当然メシヤを主と呼ぶべきである。

1-6 エルサレム教会の成立 2:37 - 2:47
1-6-1 三千人バプテスマを受く 2:37 - 2:42

2章37節 人々(ひとびと)これを()きて(こころ)()され、[引照]

口語訳人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
塚本訳人々はこれを聞いて心をえぐられ、ペテロとほかの使徒たちとに言った、「兄弟の方々、わたし達は(大変なことをしたわけです。)いったいどうすればよいのですか。」
前田訳人々はこれを聞いて心をえぐられ、ペテロと他の使徒たちにいった、「兄弟たちよ、われらは何をなすべきですか」と。
新共同人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。
NIVWhen the people heard this, they were cut to the heart and said to Peter and the other apostles, "Brothers, what shall we do?"
註解: 彼らはイエスを十字架に釘けしことが斯くも重大なる犯罪である事にこれ迄は心付かずにいた、今この罪を新に感じて彼らの心は刺される如き苦痛を感じたのである。

ペテロと(ほか)使徒(しと)たちとに()ふ『兄弟(きゃうだい)たちよ、(われ)(なに)をなすべきか』

註解: 彼らは砕かれし心を以て使徒たちに向い、その態度を決せんとした。真面目なる心を以て救を求むるものは何を為すべきかを問う。
辞解
[兄弟たちよ] 直訳「人々兄弟よ」は「兄弟諸君」と言う如く親密を表す言。ペテロの説教の効果を示す(B1)。

2章38節 ペテロ(こた)ふ『なんぢら悔改(くいあらた)めて、[引照]

口語訳すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
塚本訳ペテロがこたえた、「悔改めなさい。そしてあなた達ひとりびとり、罪を赦されるために、イエス・キリストの名において洗礼を受けなさい。そうすれば(わたし達と同じ)聖霊の賜物を戴くことができる。
前田訳ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そしてめいめいが罪のゆるしのためイエス・キリストの名において洗礼をお受けなさい。そうすれば聖霊の賜物を受けるでしょう。
新共同すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
NIVPeter replied, "Repent and be baptized, every one of you, in the name of Jesus Christ for the forgiveness of your sins. And you will receive the gift of the Holy Spirit.
註解: 信仰生活に入るには悔改 metanoia を以て始めなければならない。悔改は単なる後悔ではなく心の態度の全き変革である。これまでの心の態度を打砕きて新なる心を以て出発する事、バプテスマのヨハネも(マタ3:2マタ3:8)キリストも(マタ4:17)同様皆悔改の説教を以てその伝道生活を始めた。

おのおの(つみ)(ゆるし)()んために、イエス・キリストの()によりてバプテスマを()けよ、

註解: 悔改めし上、その表徴及び表白としてバプテスマを受くべきである。人は皆かくして罪の赦を獲る事が出来る。而してこのバプテスマはイエス・キリストの名、即ちイエスをキリストと信ずる信仰の告白の基礎の上に epi 行われるものたるを要す。既に神を信じていたユダヤ人に取りてはイエスをメシヤ(即ちキリスト)と信ずる事が要点であった。
辞解
[おのおの] 「バプテスマを受けよ」に懸れる語、
[罪の赦のために] (直訳)は「悔改めよ」「バプテスマを受けよ」の二つの命令に関連する。
[罪の赦しを得んために] ▲「罪の赦しまでに」で「罪の赦しのバプテスマ」のこと。
[名によりて] ここでは epi を用い、「名の基礎の上に」と云う如き意味となる。マタ28:19に三位の神の名を以てバプテスマを施す事をイエスが命じ給えるものとして録される事と矛盾するが如くであるけれども、これ等の聖句は何れも之を以て一定の形式を規定せるものと解する事は正しくない。又ユダヤ人は既に神を信じている事故、イエス・キリストの名を信ずる事を表白する事を以て足るのである。

(しか)らば(せい)(れい)賜物(たまもの)()けん。

註解: ヨエルによりて預言せられし如く聖霊の賜物はかくの如くに悔改めてバプテスマを受けしものに与えらる。尚要義参照。本節は基督教の根本を要約せるものとも云うべく(C1)悔改むる事、バプテスマを受くる事、罪の赦を得る事、聖霊を受くる事が信者と未信者との差別の全体である。勿論この四者が原因結果の関係があるのではなく、又この順序に循って順次に起るのでもなく、一が他の條件となるのでもない。同一の事実を四方面より見たのである。悔改は人より神に対する関係、バプテスマは旧き自己の死と新しい自己への新生、罪の赦は神より人に対する関係、聖霊の賜物は神の恩恵である。

2章39節 この約束(やくそく)(なんぢ)らと(なんぢ)らの()らと(すべ)ての(とほ)(もの)、すなはち(しゅ)なる(われ)らの(かみ)()(たま)(もの)とに()くなり』[引照]

口語訳この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。
塚本訳この(聖霊の賜物の)約束は、わたし達の神なる“主が御許に召されるほどの人、”すなわちあなた達と、あなた達の子孫と、”遠くの国々に住む”すべての人とに対するものであるから。」
前田訳この約束は、われらの神である主がお召しのすべての人々、すなわちあなた方とあなた方の子孫と、遠くにいる皆のもののためです」と。
新共同この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
NIVThe promise is for you and your children and for all who are far off--for all whom the Lord our God will call."
註解: 救われて聖霊を注がれる事の約束はユダヤ人及その子孫(この中にはデイアスポラ即ち各地に散り居るユダヤ人をも含む)のみならず遠き者なる異邦人(エペ2:13)にも約束されている処である(イザ32:15イザ44:3エレ31:31-34。エゼ36:25-27)。神の召し給う処の者は何人たるを論ぜずこの約束の恩恵に与る事が出来る。
辞解
[遠き者] ユダヤ人のデイアスポラを指すと解する学者があるけれども(M0)上記の如く異邦人と解するを可とす(B1、C1、A1、E0)。

2章40節 この(ほか)なほ(おほ)くの(ことば)をもて(あかし)し、[引照]

口語訳ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。
塚本訳なお多くのほかの言葉をもって(その確かなことの)証しをし、「曲ったこの時代から救われよ」と言って警告した。
前田訳彼はなお多くのことばで証をし、「この曲がった時代から救われなさい」といって勧めをした。
新共同ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
NIVWith many other words he warned them; and he pleaded with them, "Save yourselves from this corrupt generation."
註解: 以上はペテロの演説の要旨に過ぎないのであるが、彼はこの他多くの語を以て論証してイエスのキリストなる事を告げた。
辞解
[証し] Uテモ2:14Uテモ4:1等に「厳かに命ず」と訳されて居り、聴者に対する反駁(はんばく)的の心持が含まれている、この心持を示すに適する不定過去を用う。

かつ(すす)めて『この(まが)れる()より(すく)()されよ』と()へり。

註解: この世は悪によって曲り歪められているのであるが、殊にその時代の人はイエスを拒みその復活を嘲る事により(13節)曲れる代である事を示す。罪を赦されて神の子とされる事は同時にこの世とこの時代より救われる事を意味す。

2章41節 (かく) てペテロの(ことば)聽納(ききい)れし(もの)はバプテスマを()く。[引照]

口語訳そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。
塚本訳ここに神の話を受け入れた者は(その場で)洗礼を受け、三千人ばかりの者がその日(集まりに)加えられた。
前田訳彼のことばを受け入れたものは洗礼を受け、その日に三千人ほどが加わった。
新共同ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
NIVThose who accepted his message were baptized, and about three thousand were added to their number that day.
註解: ペテロの説教により、彼らの見聞せしイエスの事を思い出し、その復活の事実を信じてイエスのキリストなる事を知るに至った者は、ユダヤ人の待ち望んでいたメシヤの来臨を知って心の目が開かれその罪を悔改めて新なる人に更生した。この意味に於て彼らとユダヤ人とは全く異れる信仰を持って居り、之を表明する為にバプテスマを受けた。「聴納れ」は「受納れ」る事でイエスを拒みし事を悔改めて、始めてペテロの説教を受納れる事が出来る。

この()弟子(でし)(くは)はりたる(もの)、おほよそ(さん)(せん)(にん)なり。

註解: 「この場合一回の説教を以て数千人がキリストに回心しているにも関らず、百回の説教も我らの中の数人を辛うじて動かし得るに過ぎない」(C1)。尚この三千人が同時にその場所でペテロ一人よりバプテスマを受けしや否や等につき学者間に意見の相違あり、学者の想像に任せる。

2章42節 (かれ)らは使徒(しと)たちの(をしへ)()け、交際(まじはり)をなし、パンを()祈祷(いのり)をなすことを只管(ひたすら)つとむ。[引照]

口語訳そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。
塚本訳彼らは使徒たちの教えを固く守り、(信者の)交わりと、(一緒に)パンを裂くことと、祈りとに余念がなかった。
前田訳彼らはひたすらに使徒たちの教えを守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
新共同彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
NIVThey devoted themselves to the apostles' teaching and to the fellowship, to the breaking of bread and to prayer.
註解: 信仰に入りし者はその入信後に之に相応しく又之に必要なる生活を送る事が緊要である。最初の基督者の信仰生活がここに四つの項目を以て代表的に示されて居り(1)彼らは使徒たちより新なる福音、イエス・キリストの福音を熱心に学んだ、この福音は聖書(今の旧約聖書)によりて証明せられ、之を完成する処のものであった。(2)交際 koinônia 即ち心を以てする愛の一致、行動、思想の一致のみならず(ガラ2:9ピリ2:1Tヨハ1:3Tヨハ1:7)、物質を以てする相互扶助を熱心に行った(ロマ15:26Uコリ8:3Uコリ9:13)。(3)共同の食事(愛餐と称せらる)又は家庭の食事(46節參照)の際に主イエスの死を記念した、これが聖餐式の始めである。(4)祈祷はユダヤ教に規定せられし定時の祈祷の外に基督者としての自由な祈祷を行ったものと思はれる。「教」なしに信仰は空虚となり「交際」なしに相互の愛は冷却し、聖餐なしにキリストに対する望と、相互一体の意識が消え、祈なしに神との関係は冷却する。
辞解
[教] 教理や神学ではなく、福音書に示される如きイエスを信ずる信仰を基礎とする実際的教訓。
[交際] 単に物質的の相互扶助に限る事又は単に霊的の一致に限る事は何れも正しくない。両者一体たるを要す。
[パンを()く] ルカ24:30には普通の食事の事を云うけれども、本節及び46節は基督者の共同の食事を意味す、而してこれは当然イエスの最期を想起す食事となり聖餐式の起源となった。
要義1 [バプテスマに就て]キリスト時代以前より、異邦人がユダヤ教に回宗せる際、之にバプテスマを授ける習慣があった。バプテスマのヨハネはこの形を套襲して悔改のバプテスマを施し、基督教徒も亦聖霊の降下と結付ける事により更にその意義を深めて之を行った。ユダヤ教との区別を明かにする上に特に必要であったからである。キリストはヨハネよりバプテスマを受け給うたけれども自らは之を弟子に施し給わなかった。又イエスが之を弟子たちに命じ給ひしや否やは、マタ28:19マコ16:16によりて確定し得ない事は多くの学者の説である。パウロはバプテスマの意義を一層深いものにしたけれども(ロマ6:1以下)自らは強て之を施さなかった(Tコリ1:14-17)。又バプテスマの授与は必ず聖霊降下を伴うものでも無かった(使8:16使19:1-5)。又パウロの諸書簡に表われる如く、バプテスマを信仰と共に救の条件の一と考えるべきではない。以上の諸点より考うる時、バプテスマは新なる信仰の告白と、新に信徒の一団に加わる事を告白する儀式であって、基督者がキリストと共に死し共に甦りて新なる生命に歩む事(ロマ6:1-4)を表明するに最も相応しき形式として今日に至るまで行われている。
要義2 [イエス・キリストの名に由るバプテスマ]初代教会に於ては多く主イエスの名によるバプテスマが行われた(使8:16使10:48使19:5使22:16ロマ6:3)。これはユダヤ人には神の名を以てバプテスマを施す必要が無かったから(B1)との理由のみではなく、異邦人と雖もイエスを神の子と信ずる事が信仰の中心であり、又その特徴であった為である。
要義3 [信仰生活の四綱領]「彼らは使徒たちの教と、交り(コイノーニア)と、パンを()く事と、祈祷とに専念せリ」(42節直訳)とあるは信仰生活の必要なる四方面を示して極めて適切である。この大切なる四方面が今日凡て形式と化し去りつつある事は懼るべき堕落である。形式的に説教や聖餐式や祈祷会を行って行く事は無益である。これ等が凡て信仰の生命として躍動しなければならない。初代教会の溌刺たる生命を見よ。
要義4 [交り] koinônia 「共通」を意昧しキリストに在りて一体たる基督者相互、及びキリストと基督者、神と基督者との間の一体の関係を示すに最も適当なる言葉である。之は単なる聖餐式の如き儀式を云うにあらず、霊的物質的の凡てのものの共通を云う。従って霊の交りの意味ともなり(Tヨハ1:3Tヨハ1:6、7。ガラ2:9ピリ2:1)又物質の施与の意味ともなり(ロマ15:26Uコリ8:3-4。Uコリ9:13ヘブ13:16)行動の共通の意味ともなる(ピリ4:15Tテモ5:22Tペテ4:13)。凡ての意味に於て基督者の対人対神関係を示す最も適当なる語である。
要義5 [パンを()く事]この語は本来食事をする事の意味であるけれども、もしそれだけの事であるならば42節46節に特に之を記す必要はない。この語は、当時信徒が相会して食事をする場合に主の最後の晩餐を回想し、主の体としてのパンを()き、主の血としての葡萄酒を飲む事の意味となった。即ち常食のパンと葡萄酒は基督者の会食に於て特別の意義を持ったのである。この会食即ち愛餐(アガペー)はキリストを想起すに絶好の機会であり、又方法であった。後に至って愛餐と聖餐式とが分離するに至り、前者は廃れ後者は益々一の形式と化するに至った(Tコリ11:17-22註。Uペテ2:13ユダ1:12参照)。

1-6-2 使徒団の生活状態 2:43 - 2:47

2章43節 ここに(ひと)みな敬畏(おそれ)(しゃう)じ、(おほ)くの不思議(ふしぎ)(しるし)とは使徒(しと)たちに()りて(おこな)はれたり。[引照]

口語訳みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。
塚本訳恐れをいだかぬ者とてはなかった。使徒たちによって、多くの不思議なことや徴が行われたのである。
前田訳すべてのものがおそれをいだいた。多くの不思議や徴が使徒たちによってなされたのである。
新共同すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。
NIVEveryone was filled with awe, and many wonders and miraculous signs were done by the apostles.
註解: 使徒たち及びその他の弟子たちの上記の如き厳粛なる信仰生活により、一般の人々の心に彼らに対する尊敬と畏怖の念を生ぜしめた。之によりて教会は最初より迫害を受けずに居る事が出来たのであろう。基督者の生活はその如く人をして自ら襟を正さしむるものでなければならぬ。又使徒たちは多くの奇蹟を行った。その中のあるものは後に録される如きものである。聖霊の異常なる働きにより異常なる事が行われる事は当然である。
辞解
[敬畏] phobos で畏怖の心持、但しここでは神を畏れる心ではない。

2章44節 (しん)じたる(もの)はみな(とも)()りて諸般(すべて)(もの)(とも)にし、[引照]

口語訳信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、
塚本訳そして信者になった者は皆一緒に集まっていて、一切の物を共有し、
前田訳信仰に入ったものは皆いっしょになってすべてを共有し、
新共同信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
NIVAll the believers were together and had everything in common.
註解: 非常に親密なる生活を送った事を示す。「偕に居る」と云うも必ずしも皆一軒の家に住んだと云う意味ではなく(使12:12を見よ)「諸般の物を共にし」た事も凡ての信者が凡ての財産を皆投出して共有にしたとの意味でもない(使5:4使6:1)。彼らは互に相愛した結果互に一家族の如くに親しく往来し、自己の財産を全く自分の私物と思わない為に必要に応じて(45節)之を他人の為に費す事恰も自己の為に費す如き態度であった事を示す。尚47節要義1参照。
辞解
[偕に居り] 原語「一つ処に居り」(使2:1)であるが之を「心を一にし」と解する説(C1)もある。尚47節の「かれらの中に」も同一の語を用う。

2章45節 資産(しさん)所有(もちもの)とを()り、各人(おのおの)(よう)(したが)ひて()(あた)へ、[引照]

口語訳資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。
塚本訳土地や持ち物を売っては、必要に応じてそれを皆に分配した。
前田訳財産や持ち物を売っては必要に応じてそれを皆に分けた。
新共同財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
NIVSelling their possessions and goods, they gave to anyone as he had need.
註解: 凡ての信者がその凡ての財産を売却して分配したと云うのではなく、信者の間に貧しき者があり之等を助くる必要ある場合に之を扶助せんが為に(使6:1)自己の資産を売却して之を助けたものと解すべきである。尚47節要義1参照。
辞解
[資産] ktêmata は主として不動産、huparxeis は動産に用う。尚この二節はその精神に主眼を置きて解すべきであって、之を文字の外面より形式的に解すべきではなく、又之を一の律法の如くに見るべきではない。前節の「共にし」本節の「売り」「分け与え」等皆未完了動詞で一時的ならずしばしば繰返される行為につき用う。

2章46節 日々(ひび)(こころ)(ひと)つにして(たゆ)みなく(みや)()り、[引照]

口語訳そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、
塚本訳また毎日、心を一つにして(熱心に)宮に詣で、家々で(一緒に)パンを裂き、喜びと純な心とで食事をして、
前田訳そして日ごと心をひとつにして欠かさず宮に行き、家々でパンを裂き、よろこびと真心とで食を共にし、
新共同そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
NIVEvery day they continued to meet together in the temple courts. They broke bread in their homes and ate together with glad and sincere hearts,
註解: 彼らはキリストをメシアとして受ける事は宮の礼拝と断絶する事ではなく、之を完成成就する事と考えたので益益熱心に日々宮に居ってその敬虔の態度を示した(ルカ22:53参照)。エルサレム教会の基督者の態度としてこの点を特筆する必要があった位である。

(いへ)にてパンをさき、

註解: kata を用いている故之を使15:21マタ24:7ルカ8:1の場合と同じく「家々にて」と訳す方が適当である。即ち集会を家庭毎に行い、その処にて会食をなし、その機会に主イエスを記念するパンと葡萄酒とを用いた。かくして彼らの間に主にある一体たる親密さとキリストを記念する心とが愈々増すに至った。三千人が皆同時にかく行ったのでは無い事勿論である。

勸喜(よろこび)眞心(まごころ)とをもて食事(しょくじ)をなし、

註解: 会食によりて彼らは貧富貴賎の別を超越して一同食事に与り、欠乏を感じなかった。その処に何等の苦痛なくして唯歓喜があり又何等の虚栄なく唯純朴なる心持があるのみであった。まことに美わしき信徒の社会である。

2章47節 (かみ)讃美(さんび)して一般(すべて)(たみ)(よろこ)ばる。[引照]

口語訳神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。
塚本訳神を讃美し、世間の人全体に好意を持たれていた。主は救われた者を日ごとに(増し)加えて一つにされた。
前田訳神をたたえ、民全体に好意を持たれていた。そして主は救われるものを日ごと加えていっしょにされた。
新共同神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
NIVpraising God and enjoying the favor of all the people. And the Lord added to their number daily those who were being saved.
註解: 彼らは歓喜と感謝に充ち言葉に又歌に神を頌めたたえた。又彼らの平和にして正しき生活は一般の民の喜ぶ処となった。イエスの場合と同じく彼らに迫害が及ぶ様になったのは職業宗教家の嫉視による事が多かった。

()くて(しゅ)(すく)はるる(もの)日々(ひび)かれらの(うち)(くは)(たま)へり。

註解: 彼らの信仰とその生活状態とを見て基督教の信仰に入りて救われる者が多くあった。而してこれは皆主イエスの御業であった。かくして初代基督教会の濫觴(らんしょう)たるエルサレム教会は静かに而も力強く発達して進んで行った。
要義1 [信仰的共産生活]「信じたる者はみな・・・諸般の物を共にし、資産と所有とを売り各人の用に従いて分け与え」とあるは、一見近代人の主張する共産主義社会を形成せるが如くに見えるけれども、今日の経済学上の共産主義とは(やや)趣を異にする事に注意しなければならぬ。即ちエルサレム教会の共産生活は信仰による自由なる自然的奉仕の結果であって、法律的政治的の強制によったものではなかった。即ち(1)エルサレム以外には行われし形跡なく(タビタの慈善は之を証明する(使9:36)。又使11:29も財産不平等の事実を示す)、(2)資産の売却は強制せられず、私有財産制は認められて居リ(使5:4使12:12)、(3)財産の平等は実現せず(使6:1)、(4)財産の没収等の事なく、(5)又エルサレム以外にこの種の社会的変革を強要又は薦奨せる形跡が無い。要するにエルサレムに於ける共産的生活は信仰をその主体とし原動力とした生活であって、恰も一の家族の如く、各人は各自己の所有を有し乍ら之を自己のものと考へず(使4:32)、兄弟中に必要を生ずる場合喜んで自己の所有を売却して之を分け与えたものと解すべきである。真の幸福なる共産生活は心の共産である、法律的、政治的共産社会に真の幸福は有り得ない。尚エルサレム教会の貧困の原因をこの共産生活に帰している学者があるけれども、之をその全部の原因として説明する事は必ずしも妥当ではない。
要義2 [共産主義と基督者]政治問題として共産主義を考うる場合は、人間を「肉的なるもの」との前提の下に考えなければならない。従って共産的社会はその長所と共に之に伴う短所を発揮する事が当然の帰結である。例えば自由の喪失、個人の発達の停滞、企業心の消失、能カの不平等の無視、怠惰の奨励等である。之を信仰問題として考うる時、あらゆる財産は神より托せられし者であり神の欲し給う処に循って之を使用する。故にいわゆる共有財産にあらず神有財産主義となる。もし基督者相互の交りが完全であるならば政治的に共産社会を強制せずとも、共産主義以上に祝福せられし社会を実現し得る筈である。個人主義の思想があまりに強調せられし結果今日の基督教会に初代エルサレム教会の如き精神が喪失せる事は(はなは)だしき遺憾である。