黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ヘブル書

ヘブル書第11章

分類
2 薦奨の部 10:19 - 13:17
2-2 信仰とは何ぞや 11:1 - 11:40
2-2-イ 信仰の定義 11:1  

註解: 前章において信仰持続の必要を高調せる著者は、12章においてさらにその薦奨を継続する前に、本章を(はさ)みて、そこに信仰とは如何なることなりやを説明している。

11章1節 それ信仰(しんかう)(のぞ)むところを確信(かくしん)し、()(もの)眞實(まこと)とするなり。[引照]

口語訳さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
塚本訳(では信仰とは何であるか。)信仰とは、希望することの実現であり、(目に)見ぬ事の確信である。
前田訳信仰は望むことの実体、見えぬものの証拠です。
新共同信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
NIVNow faith is being sure of what we hope for and certain of what we do not see.
註解: この定義は必ずしも信仰の全内容を示したものではないが、その重要なる一面を示しており、殊に本書の読者の信仰上の欠陥を指摘したものであって、何れの時代の信者にも適切なる定義である。すなわち一般に信仰とは(冠詞なし)、一は希望の目的物に対し必ずこれを得べきことを確信して疑わないことであってこの目的物は未だ現在の所有とならず、未来に所有し得るに過ぎないにもかかわらず(ロマ8:24)あたかもこれを現実に所有すると同様にこれを確信すること。その二は目に見えざるもの(未来は勿論過去、現在においても我らの目をもって目撃するを得ざるもの)をも確かに実在するものと同様にその真実性を認識することである。我らの罪の赦し、体の復活、永遠の生命、未来の嗣業、キリストの再臨等は我らの希望であると同時に目に見えざることまた未だ目に見ざることであり、また神の創造(3節)その支配、その約束、すなわち7、8、27節等に示される如き事実は見えざる事柄である。この両者を現実的に確信し保持するのが信仰である。ゆえに信仰は神秘的法悦、教会員の資格、信仰箇条の承認、ローマ法王に対する服従等ではない。
辞解
この一節は難解の一節で多くの異なれる解釈を生んでいる。
[確信] hupostasis は「本質」、「基礎」、「実在」等の意味もあるけれども確信の意味が適当である(L1、A1、M0、Z0、Tプレーク)。
[真実とする] elenchos(名詞)も「証拠」「証明」「確信」等の意味あり、心中に確信する有様を指す故「真実とする」と訳して誤っていない。
[望むところ] 「見ぬ物」の一部分をなしている(B1)。

2-2-ロ アブラハム以前の祖宗の信仰 11:2 - 11:7  

11章2節 (いにし)への(ひと)(これ)によりて(あかし)せられたり。[引照]

口語訳昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
塚本訳実際、(昔の偉大な)先祖たちは、この信仰において(神から聖書で)有名にされた。
前田訳信仰のゆえに昔の人々は確かな証人とされました。
新共同昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
NIVThis is what the ancients were commended for.
註解: 古老は上述のごとき信仰を(いだ)いたがために神より(ほま)れの証言を得た(聖書の記事により、および彼らの神より受けし恩恵により)。
辞解
[古の人] presbyteroi 老人のこと、すなわちイスラエルの父祖を指す

11章3節 信仰(しんかう)によりて我等(われら)は、もろもろの世界(せかい)(かみ)(ことば)にて(つく)られ、()ゆる(もの)(あらは)るる(もの)より()らざるを(さと)る。[引照]

口語訳信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
塚本訳(まず、)信仰によって、わたし達はこの世界が神の言葉で造られたことを知る。すなわち、見えるものは、現われぬものからできているのである。
前田訳信仰によってわれらは世界が神のことばで造られ、見えるものができたのは現実にあるものからではないことを悟るのです。
新共同信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
NIVBy faith we understand that the universe was formed at God's command, so that what is seen was not made out of what was visible.
註解: 前節の事実を例によりて説明せんがために聖書を開きてその開巻第一天地創造の記事がこの信仰によるにあらざれば解し得ざるものなることに著者は気が付いたのであろう。従って第1節の説明と見ることができる。すなわちこの世界の見ゆる物質は「顕れる物」すなわち外部にその形体を表顕して五感をもって感得し得る物より成ったのではなく見えざる神の言によりて無より創造せられたのである。このことは1節の信仰によるに非らざれば信じ得ない点である。信仰なしには宇宙構成の第一原因をすら知ることができない。
辞解
[造られ] katêrtisthai は「構成される」「準備される」「各部分が完全に組立てられ」等の意(ヘブ10:5Tコリ1:10註参照)。
[(あらは)るる物] phainomenon 現象。

11章4節 信仰(しんかう)()りてアベルはカインよりも(まさ)れる犧牲(いけにへ)(かみ)(ささ)げ、(これ)によりて(ただ)しと(あかし)せられたり。(かみ)その供物(そなへもの)につきて(あかし)(たま)へばなり。[引照]

口語訳信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。
塚本訳信仰によって、アベルは(兄の)カインよりもすぐれた犠牲を神に捧げ、その信仰のゆえに、義人であることを(神に)証しされた。“神は彼の供え物について、”(これを嘉納されたことを)証しされたのである。そしてその(信仰の)ゆえに、死んでいながら、(今日まで)まだ語っている。
前田訳信仰によってアベルはカインにまさるいけにえを神にささげ、そのゆえに義人と証明されました。神が彼の供え物をよみせられたからです。それゆえ、彼は死んでも今なお語っています。
新共同信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
NIVBy faith Abel offered God a better sacrifice than Cain did. By faith he was commended as a righteous man, when God spoke well of his offerings. And by faith he still speaks, even though he is dead.
註解: 創4:4の人類最初の争闘史の中にも信仰を認めることができる。兄のカインは努力の人であって自己の功績に誇るべぐ土地の産物を献げ、アベルは信仰の人であって自己の無に等しきを知り罪の贖いを求めて自己の力によらざる羊の初生を犠牲として献げた。神の目には信仰による献物が優っていたのでその信仰のために神はアベルを義と証し給うた。「アベルとその供物とを眷顧(かえり)みたまひし」ことがすなわち神の証である。▲「証せられたり」 emartyrêthê(martyreô) を口語訳は「認められた」と訳しているけれども、ロマ4:3−24の「認められる」 logizomai と混同せぬよう注意すべし。
辞解
[之によりて] 「犠牲によりて」の意に解する学者があるけれどもここでは「信仰によりて」と解すべきである(B1、M0、Z0等)。

(かれ)()ぬれども、信仰(しんかう)によりて(いま)なほ(かた)る。

註解: アベルの信仰を神が悦び給いしこと(創4:4)および、アベルの死後も神はなお彼を(かえり)み給いしこと(創4:10)は、信仰が如何に神を悦ばしめ奉るかを語っている。しかしてこのことは今日の我らにも語られているのである。またかかる信仰を世が迫害して血を流すに至ることもまた今日においても真理である(ヘブ12:24)。本節を「彼は信仰によりて死にたれば今なお語る」と読む説もあり(B1)。また「犠牲によりて今なお語る」と読む説もある。改訳本文が最も正しい。

11章5節 信仰(しんかう)()りてエノクは()()ぬように(うつ)されたり。(かみ)これを(うつ)(たま)ひたれば見出(みいだ)されざりき。[引照]

口語訳信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。
塚本訳信仰によって、エノクは死なずに(天に)移された。“神が彼をお移しになったのだから、(地上で)見つけ出されなかった”(と聖書は言う)。というのは、天に移される前、彼は“神のお気に入ったことを”証しされたのである。
前田訳信仰によってエノクは死を見ないよう移され、神がお移しなので彼は見えなくなりました。移される前に彼は神によろこばれることが証明されていたのです。
新共同信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。
NIVBy faith Enoch was taken from this life, so that he did not experience death; he could not be found, because God had taken him away. For before he was taken, he was commended as one who pleased God.
註解: (▲口語訳「天に」は原文になし、意訳である。)創5:21−24によれば、エノクは神と偕に歩みし人、すなわち信仰の人であった。この信仰を神は悦び給い彼をして死を味わせざらんがために彼を携え行き給うた。何人もエノクの行方を知らない。(このエノクはキリスト再臨の時地上に生き残っている信者の型でかかる信者はエノクのごとく生けるままに携擧される。(Tテサ4:17

その(うつ)さるる(まへ)(かみ)(よろこ)ばるることを(あかし)せられたり。

註解: 創5:24の「エノク神と偕に歩み」を七十人訳には「エノク神に喜ばれ」と訳されている。結局同一の意味であって神と偕に歩むことは信仰を意味し、信仰は神に喜ばれる所以である。たしかにエノクの移されたのはその前にすで信仰を有ちて神に喜ばれたからであったことをこの聖句が証している。▲▲「喜ばれること」は「喜ばれたこと」。

11章6節 信仰(しんかう)なくしては(かみ)(よろこ)ばるること(あた)はず、[引照]

口語訳信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
塚本訳信仰がなければ“(神の)お気に入ることは”出来ない。神に近づく者は、神がいますことと、彼をさがし求める者に報いを与える者であることを、信ずべきだからである。
前田訳信仰なしでは神によろこばれえません。神に近づくものは、彼がいますことと彼を求めるものに報いたもうことを信ずべきだからです。
新共同信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
NIVAnd without faith it is impossible to please God, because anyone who comes to him must believe that he exists and that he rewards those who earnestly seek him.
註解: 偉大なる行為を見れば神はこれを悦び給うであろうと感ずるけれども「人の心の内部の純潔のみを見給う神は行為の外面に拘泥し給わない」(C1)。神は唯信仰のみを喜び給う。

そは(かみ)(きた)(もの)は、(かみ)(いま)すことと(かみ)(おのれ)(もと)むる(もの)(むく)(たま)ふこととを、(かなら)(しん)ずべければなり。

註解: (△「べければなり」は「べきものなればなり」とすべし。)「神に来る者」神を拝しこれに仕える者であって、神と共に歩む者というに等しい。かかる者は当然に見えざる神の実在を信ずる、これ見ぬ物を真実とするからである(1節後半)。また彼らは神を熱心に求むる者に対して「神はその報償者となり給うこと」(直訳)を信ずる、これその望むところを確信しているからである(1節前半)。この態度はすなわち信仰であってエノクの場合のごとく神これを悦び給う。

11章7節 信仰(しんかう)()りてノアは、(いま)()ざる(こと)につきて御告(みつげ)(かうむ)り、(おそれ)みてその(いへ)(もの)(すく)はん(ため)方舟(はこぶね)(つく)り、かつ(これ)によりて()(つみ)(さだ)め、また信仰(しんかう)()()世嗣(よつぎ)となれり。[引照]

口語訳信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。
塚本訳信仰によって、ノアはまだ見ないもの[洪水]について(神の)お告げを受け、自分の家族を救うために恐れかしこんで箱船を造った。この信仰(の行い)のゆえに(残りの)世界の罪は決まり、彼は信仰による義の相続人となった。
前田訳信仰によってノアはまだ見ぬことのお告げを受け、かしこまって家族の救いのために箱舟をつくり、それゆえに世を裁き、信仰による義の相続人となりました。
新共同信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。
NIVBy faith Noah, when warned about things not yet seen, in holy fear built an ark to save his family. By his faith he condemned the world and became heir of the righteousness that comes by faith.
註解: 創6:6創6:13−22。ノアは来るべき大洪水と人類の滅亡とにつき神の御告を受けた。そしてこれらは1節に所謂「見ぬ物」であって、この世の人はこれを信ぜずこれを軽蔑した。然るにノアはこれを信じ、その信仰によりて神の御旨を畏れかしもみ、家族の救いのために方舟を造った。そしてやがて洪水来りて全人類を亡ぼしてノアの一家のみ救われしことによりてこの世の不信の罪が明らかに定められ、また彼はその信仰の故に神より義と認められ信仰の義を賜与(しよ)せられた(ロマ3:22ロマ4:5)。即ち彼は信仰による義の後継者となった(引照5、ロマ4:13
辞解
[信仰によりて] 御告(みつげ)(かうむ)り」に関連せず「(おそれ)みて方舟を造り」に関連する。
[(おそれ)みて] eulabêtheis は神に対する崇敬の意にも用いられるけれどもここではむしろ神の御告を受けて「恐れ、憂うる」姿である。
[之によりて] 「信仰によりて」。
[罪を定め] katakrinein は永遠の滅亡に定むる意味に用いられ、また一つの例によりてこれと反対の場合が一層明らかにされる場合にも用いられる。この場合は後者に属する。
[信仰による義] パウロの所謂「信仰による義」(ロマ4:13その他)と意義を同じうする(A1、B1、Z0)。創6:9にノアは義人と称せられ聖書中に第一にかく呼ばれているので殊更(ことさら)に彼を「信仰による義の世嗣」と称したのであろう。
[世嗣] 本来神に属するものを継承する故に世嗣と称せらる。

2-2-ハ アブラハムの信仰 11:8 - 11:19  

11章8節 信仰(しんかう)()りてアブラハムは()されしとき嗣業(しげふ)として()くべき()()()けとの(めい)(したが)ひ、その()(ところ)()らずして()()けり。[引照]

口語訳信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。
塚本訳信仰によって、アブラハムは財産として戴くべき(カナンの)場所に“出てゆけ”とのお召しを受け、(素直に)言うことを聞いた。そしてどこへ行くともわからず、“出ていった”。
前田訳信仰によってアブラハムは継ぐべき所へ出てゆくよう召されたとき、それに従い、どこへ行くか知らずに出てゆきました。
新共同信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。
NIVBy faith Abraham, when called to go to a place he would later receive as his inheritance, obeyed and went, even though he did not know where he was going.
註解: (▲8−10節、信仰は無を有と信じ、無より有が生ずることを確信する。)8−19節はアブラハムおよびその妻サラの信仰について述べている。創12:1−4によれば全く未知なる約束の地カナンに旅立すべくその住みなれし家郷および家庭を棄つべしとの命を受けてアブラハムはその父の許を出立(しゅったつ)した。これすなわち望むところを確信し見ぬ物を真実とする信仰であった(1節)。ゆえに神はアブラハムの信仰を義と認め給うた(創15:6)。キリスト者の信仰もこれと同じく来世に関する神の約束を信じてこの世を棄つべしとの神の命令に従う信仰でなければならない。

11章9節 信仰(しんかう)により異國(ことくに)()るごとく約束(やくそく)()(やど)り、(おな)約束(やくそく)()ぐべきイサクとヤコブと(とも)幕屋(まくや)()めり、[引照]

口語訳信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。
塚本訳信仰によって、彼は約束の地に他国人として“宿った”。彼は同じ約束の(ものの)共同相続人(である子)イサクおよび(孫)ヤコブと一しょに、天幕に住んだのである。
前田訳信仰によって彼は約束の地によそものとして宿り、同じ約束を継ぐべきイサクとヤコブとともに幕屋に住みました。
新共同信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。
NIVBy faith he made his home in the promised land like a stranger in a foreign country; he lived in tents, as did Isaac and Jacob, who were heirs with him of the same promise.

11章10節 これ(かみ)(いとな)(つく)りたまふ基礎(もとゐ)ある(みやこ)(のぞ)めばなり。[引照]

口語訳彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。
塚本訳(どうしてこんな生活に甘んじたか。)彼は(堅固な)土台を持つ(天の)都を待ちのぞんでいたからである。その建設者また創造者は神である。
前田訳彼は土台のすわった都を待ちのぞんでいたのです。その施工者また造営者は神です。
新共同アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。
NIVFor he was looking forward to the city with foundations, whose architect and builder is God.
註解: アブラハムの信仰の第二の場合は、彼は神の約束によりて与えられしカナンの地に住むのに、あたかも異国に在るごとくに寄寓(きぐう)の生活を送り、自らそこに永住のための住居を築造せずして、流浪人のごとくに天幕の中に住んでいたことである。これアブラハムが目に見ゆるカナンの土地や、人の造れる基礎なき天幕にその希望を置かずして、目に見えざる未来の天の都を望んだからである。まさしくこの天の都は人によりて造られずして神自らその建築家営造家である点において、および基礎なき動き易き天幕にあらずして基礎ある永遠の都なる点において優っていたからである。この天の都はキリスト者の望みであり、今すでにその前味を持っている(引照3、およびガラ4:26黙3:12黙21:2以下および黙21:10以下)。
辞解
[(やど)り] paroikeô は市民権も財産所有権もなく、他国人として寄寓(きぐう)すること(創17:8創20:1創21:23創21:34創24:37創35:27。七十人訳)。
[同じ約束を嗣ぐべき] sunklêronomoi は「共同相続人」の意味で子のイサクも孫のヤコブも天国の市民権を直接に神より継承したので親より譲り受けたのではないことを示す。
[幕屋] 天幕で遊牧の民の住居、基礎工事なしに建てられる。
[営み造り] technitês kai dêmiourgos 前者は「建築家」または「製造者」のごとく建築製造の技術的方面をいい、後者は建築、製造の「力」の方面をいう語(T0。この二語に「設計家」と「築造家」とのごとき区別を立てる学者があるけれども本来かかる意味の差別はない)。
[都] 天のエルサレムを意味しキリスト者全体の住むべき未来の場所およびその住民の全体を指す。

11章11節 信仰(しんかう)()りてサラも約束(やくそく)したまふ(もの)忠實(ちゅうじつ)なるを(おも)ひし(ゆゑ)に、(とし)()ぎたれど(たね)をやどす(ちから)()けたり。[引照]

口語訳信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。
塚本訳信仰によって、アブラハムはまた(その妻)サラと共に、子孫をつくる力を受けた、(すでに年齢が)盛りを過ぎていながら。彼は約束された方を誠実であると考えたのである。
前田訳信仰によってサラ自身も年が過ぎていたのに種を宿す力を受けました。約束なさった方がまことでありたもうと信じていたからです。
新共同信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。
NIVBy faith Abraham, even though he was past age--and Sarah herself was barren--was enabled to become a father because he considered him faithful who had made the promise.
註解: (▲11−15節は約束を信ずる信仰であり、不可能を可能ならしめる。)創17:19創18:11−14によれば、アブラハムの妻サラは、子無くしてすでに老年となった。このサラに対して神は子を与うることを約束し給い、サラはその神の忠実に在すことを信じたがために(たね)を宿す力を得た。すなわち人間の理性によりて知り得ざることをも真実とするの信仰である。(注意)。本文のごとくに訳するには次のごとき重大なる困難がある、(1)「サラも」の原語は autê Sara で殊更(ことさら)に autê「彼女自身」を附加した意味が不明なること、(2)「(たね)を宿す」と訳せられし katabolê spermatos は交媾(こうこう)の際における男性の所動的行為についていう語であって女性の受動的行為については決して用いられないこと、(3)創世記にはサラに信仰がありしことを記していないこと(ロマ4:18−21も同様)、(4)次節の「一人」は男性なること、この困難を除くがために autê Sara を第三格として読むことにより「信仰により〔彼は ─ すなわちアブラハムは〕約束し給う者の忠実なるを思いし故に、年過ぎたれどサラに添うて(たね)を宿らしむる能力を受けたり」と訳する説がある(Z0、ホルト等)。文字上より言うも、意味の上より言うもこの解釈が優っている。

11章12節 この(ゆゑ)()にたる(もの)のごとき一人(ひとり)より(てん)(ほし)のごとく、また海邊(うみべ)(かず)へがたき(すな)のごとく夥多(おびただ)しく(うま)()でたり。[引照]

口語訳このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。
塚本訳だからまた、(たった)一人から、しかも(老いぼれて)死んだような者から、“天の星のように数多く、また数えきれぬ海岸の砂のように子孫ができたのである。”
前田訳それで、ただひとりの、しかも死んだような人から天の星のように、海べの無数の砂のように多くのものが生まれたのです。
新共同それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
NIVAnd so from this one man, and he as good as dead, came descendants as numerous as the stars in the sky and as countless as the sand on the seashore.
註解: 私訳「この故に一人、殊に死にたる者より云々」にしてアブラハムを指す。「死にたる者」はロマ4:19と同じく生殖能力より見て言えるものであって老年となれるアブラハムを指す。このアブラハムより無限の数の子孫が生れ出でたのである。これアブラハムの信仰の結果であった。信仰は必ず果実を結ぶものであることをこれによりて知ることができる。
辞解
「星」「砂」の比喩については引照および創13:16創36:4出32:13申1:10等を見よ。

11章13節 (かれ)()はみな信仰(しんかう)(いだ)きて()にたり、(いま)約束(やくそく)(もの)()けざりしが、(はるか)にこれを()(むか)へ、()にては旅人(たびびと)また(やど)れる(もの)なるを()ひあらはせり。[引照]

口語訳これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
塚本訳信仰に従い、これらの人たちは皆、(地上では)約束のものを受けずに死んだのである。彼らはただ遠くからそれを眺めて歓迎し、自分たちは、“この地上では外国人であり、旅の者”であると認めた。
前田訳信仰のうちにこれらの人々は死にました。彼らは約束のものを得ませんでしたが、はるかにそれらを見てよろこび、地上ではよそものまた旅びとと告白しました。
新共同この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
NIVAll these people were still living by faith when they died. They did not receive the things promised; they only saw them and welcomed them from a distance. And they admitted that they were aliens and strangers on earth.
註解: 私訳「彼らはみな未だ約束の物を受けざりしがはるかにこれを見て迎え、地にては旅人また(やど)れる者なるを言いあらわしつつ信仰をいだきて死にたり」。「彼ら」はアブラハム、イサク、ヤコブを指す。彼らは死に至るまで信仰を確保し、死に際しても信仰にかなえる kata pistin 死に方をした、信仰にかなえる所以は彼らは神の約束を現実に把握しなかったけれどもその望む処を確信し、遙かに未来において与えらるべき神の約束のもの、すなわち天にある(もろもろ)の栄光を望見しこれを歓迎した(ヨハ8:56)ことがその一つ、その二は彼らの国籍は天にあることを信じ(ピリ3:20)この世においては定住処なき旅人、市民権なき寄寓者なることを告白しつつ(創28:4創47:9)地上において何らの名誉も権力も財産をも求めずに生活したことであった。かかる生活は信仰なくしてこれを為すことはできない。キリスト者は凡てこの信仰をもって死すべき者である。
辞解
[迎え] aspazesthai 人を歓迎し挨拶する(かたち)で「手を握って人を引きよせてこれを擁く」のがその様式であった。彼らは未だ受けざる約束の物にたいしてかかる態度を取った(Tペテ1:8)。

11章14節 ()()ふは、(おの)故郷(ふるさと)(もと)むることを(あらは)すなり。[引照]

口語訳そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。
塚本訳このように(自分を外国人、旅の者と)言う人々は、(ほかにある)自分の国を追及していることを現わしているからである。
前田訳こういう人々はおのがふるさとを求めていることを示しています。
新共同このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。
NIVPeople who say such things show that they are looking for a country of their own.
註解: アブラハムその他が自らを旅人また寄寓者と言える所以は切にその故郷(すなわち天の都)を求めたことの証拠に外ならない。すなわち見ぬ物を真実とし望む処を確信せるがためであった。

11章15節 ()しその()でし(ところ)(おも)はば、(かへ)るべき(をり)ありしなるべし。[引照]

口語訳もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。
塚本訳もしも彼らが出てきた所、(すなわちカルデヤのウル)のことを思ったのであったら、(いくらも)引き返す機会があったはずである。
前田訳もし出て来た所を考えたのならば、そこに帰るおりがあったでしょう。
新共同もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。
NIVIf they had been thinking of the country they had left, they would have had opportunity to return.

11章16節 されど(かれ)らの(した)(ところ)(てん)にある(さら)(まさ)りたる(ところ)なり。[引照]

口語訳しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。
塚本訳しかし今や彼らは(地上のものに)まさる天の国を熱望しているのである。だから神も、彼らの神と言われることを恥とされない。彼は彼らのために(天に)都を用意されたのであるから。
前田訳しかし実際彼らはよりよい、すなわち天にある国にあこがれているのです。それゆえ神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。そして彼らに都をご用意でした。
新共同ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
NIVInstead, they were longing for a better country--a heavenly one. Therefore God is not ashamed to be called their God, for he has prepared a city for them.
註解: 彼らの求めし故郷はこの地上における故郷ではなく、これよりもはるかに勝れる限りなき栄光の天の都であった。信仰なきものはこの地上の故郷に立帰り地的の快楽を味わんことを欲する(出16:3)。キリスト者はこの世より選び出されたるもの故、この世の故郷に還らんことを求めてはならない。
辞解
[慕う] oregeô 手を伸ばして取らんと欲する意味。Tテモ3:1Tテモ6:10

この(ゆゑ)(かみ)(かれ)らの(かみ)(とな)へらるるを(はぢ)とし(たま)はず、そは(かれ)()のために(みやこ)(そな)(たま)へばなり。

註解: 彼らの信仰を喜び給いて神は御自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼び給い(引照2)、神と彼らとの間の親しき関係を表示し給い、人のかく呼ぶことをも恥とし給わなかった(マタ22:32)。たしかに信仰の人々を住まわしむべき都を彼らのために備え給うことが神の御旨なるが故に(ヨハ14:2)この都を望まずして地上の故郷を望む者は神これを憎み給い、反対に信仰によりてこの天にある勝れる都を望む者をば神はこれを愛してその神と呼ばれ給うのである。

11章17節 信仰(しんかう)()りてアブラハムは(こころ)みられし(とき)イサクを(ささ)げたり、(かれ)約束(やくそく)(よろこ)()けし(もの)なるに、その獨子(ひとりご)(ささ)げたり。[引照]

口語訳信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。
塚本訳信仰によって、“アブラハムは(神に)試されたとき、(燔祭として)イサクを捧げた。その独り子を”捧げようとしたのである。彼は(神の)約束を受け、
前田訳信仰によって、アブラハムは試みにあったときイサクをささげました。約束を受けていたのに彼はひとり子をささげたのです。
新共同信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
NIVBy faith Abraham, when God tested him, offered Isaac as a sacrifice. He who had received the promises was about to sacrifice his one and only son,

11章18節 (かれ)(たい)しては『イサクより()づる(もの)なんぢの(すゑ)(とな)へらるべし』と()(たま)ひしなり。[引照]

口語訳この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。
塚本訳“イサクから生まれる者が、あなたの子孫となるべきである”と語られた者であった。
前田訳すなわち、その子について、「イサクの出がなんじの子孫と呼ばれよう」といわれていたものでした。
新共同この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。
NIVeven though God had said to him, "It is through Isaac that your offspring will be reckoned."
註解: (▲17−19節は死よりの甦りの信仰。)アブラハムの信仰の最も著しき表顕はその独り子イサクを献げし時であった。これにより神はアブラハムの信仰を試み給うたのである(引照1)。この試錬の特に困難なりし所以は霊肉共にこれに反対したからであった。すなわち霊的にはイサクは約束の子であって、神の約束によればアブラハムの裔はイサクより生るべきであった。ゆえに彼を献げることは神の約束を空しくすることとなるのである。第二にイサクは独り子であり彼の最愛の者であった、彼を献げることはアブラハムの堪え得ざる苦痛であった。この試みに打勝ったのは彼の信仰である。
辞解
17節の中間にある kai は特に意を強むるための文字であって「然も彼は約束を云々」と訳すべきである。

11章19節 かれ(おも)へらく、(かみ)死人(しにん)(うち)より(これ)(よみが)へらすることを得給(えたま)ふと、(すなは)()より(これ)()けしが(ごと)くなりき。[引照]

口語訳彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。
塚本訳神は死人の中からでも生きかえらせる力があると考えたからであった。そのため(この信仰に対する報いとして、)彼はその子を(キリストの死と復活との)比喩として返してもらったのである。
前田訳彼は神に死人の中からよみがえらせる力がおありと信じていました。それで彼はイサクをふたたび得たのですが、それは復活のたとえでもあります。
新共同アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
NIVAbraham reasoned that God could raise the dead, and figuratively speaking, he did receive Isaac back from death.
註解: アブラハムは前二節のごとき試みに打勝ってイサクを献げし所以は、神は死人の中より人を復活せしむる力を持ち給うと考えたからであった。彼は神には不可能事なく、またその約束を破り給うことなきことを信じた結果この結論に達したのである。それ故にイサクを再び取戻した時にはあたかも死より取戻したと同様であった。すなわちアブラハムの場合においてはすでに復活の信仰があったのであってキリストの復活も型としてはすでにアブラハムによりて信ぜられていたのである。
辞解
[受けし] komizô は「取返す」「取戻す」の意。
[如くなりき] en parabolê は種々の意味に解せられている。その一は「己を捨てて」「冒険によりて」(M0)の意であるが名詞にはかかる用法はほとんどない(A1)。その二は最も多くの学者の解釈で「比譬的に」の意味で事実死して復活せるにあらずあたかもかくありしがごときことを意味す。

2-2-ニ アブラハム以後ヨシュアまでの信仰の実例 11:20 - 11:31  

11章20節 信仰(しんかう)()りてイサクは(きた)らんとする(こと)につきヤコブとエサウとを祝福(しくふく)せり。[引照]

口語訳信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。
塚本訳信仰によって、(イサクも)将来のことに関してヤコブとエサウとに(神の)祝福を祈った。
前田訳信仰によって、イサクは来たるべきことについてヤコブとエサウを祝福しました。
新共同信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。
NIVBy faith Isaac blessed Jacob and Esau in regard to their future.
註解: 盲なるイサクがその次男のヤコブと(創27:28、29)と長男エサウとに(創27:40)与えし祝福は未だ事実とならざる将来のことについてであった。すなわち見ぬ物を真実とするイサクの信仰が彼をしてこの行為を為すに至らしめたのである。また弟を先にして兄を後にしたのも神の旨に(したが)いし信仰的行為であった。

11章21節 信仰(しんかう)()りてヤコブは()ぬる(とき)ヨセフの()()をおのおの祝福(しくふく)し、その(つゑ)(かしら)によりて禮拜(れいはい)せり。[引照]

口語訳信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。
塚本訳信仰によって、ヤコブは死のうとするとき、ヨセフの子たちにひとりびとり祝福を祈った。そして“彼の杖の先によりかかって(神を)おがんだ”。
前田訳信仰によって、ヤコブは死にぎわにヨセフの子をひとりひとり祝福し、杖の頭によりかかって礼拝しました。
新共同信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。
NIVBy faith Jacob, when he was dying, blessed each of Joseph's sons, and worshiped as he leaned on the top of his staff.
註解: ヤコブまさに死なんとせし時(創47:29)ヨセフの二児マナセとエフライムとを己が子として祝福した(創48:5創48:15−16)。そして弟のエフライムをマナセの上に置きて祝福を与えたのは彼の肉の念によったのではなく、全く信仰の結果であった。何となれば彼が態々(わざわざ)右手を左方のエフライムの上に置き左手を右方のマナセの上に置いたのは(創48:12−14)その偶然にあらざることを示しているからである。またヤコブは自ら現実に所有せざるカナンの土地を彼らに分配したことも信仰の結果である。杖の頭によりて礼拝せることは(創47:31)老年のヤコブが杖をもってその体を支えし(すがた)を示す。かかる態度をもって彼はその信仰を示したのである。
辞解
[杖の頭によりて] 七十人訳によったので、ヘブル語聖書には「床の頭にて」とあり臥床上に坐して床の頭の方に平伏せる(すがた)をいっている。この差異はヘブル語の読み方(母音の付け方)の差異より生ず。

11章22節 信仰(しんかう)()りてヨセフは[生命(いのち)の](をは)らんとする(とき)、イスラエルの()らの()()つことに()きて(かた)り、(また)おのが(ほね)のことを(めい)じたり。[引照]

口語訳信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。
塚本訳信仰によって、ヨセフは臨終のとき、(将来)イスラエルの子孫が(エジプトを)脱出することを思い、自分の骨(をいかに葬るべきか)について命令した。
前田訳信仰によって、ヨセフは臨終にイスラエルの子らの出エジプトを思い、自らの骨について指図しました。
新共同信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。
NIVBy faith Joseph, when his end was near, spoke about the exodus of the Israelites from Egypt and gave instructions about his bones.
註解: ヨセフはエジプトにおいて富貴を極めたけれども、彼の心はかかるものに囚われず、その死に際してイスラエルの子らが必ずエジプトを出で立ちて約束の地カナンに還るべきことを語り、またその骨をカナンの地に持還るべきことを命じたのは(引照1)神がアブラハムに与え給いし約束(創15:13−16)を堅く信じていたからであった。
辞解
[出で立つこと] exodos エジプトより逃れ出づることを意味す。

11章23節 信仰(しんかう)()りて兩親(ふたおや)はモーセの(うま)れたる(とき)、その(うるわ)しき()なるを()て、(わう)(めい)をも(おそ)れずして三月(みつき)(あひだ)これを(かく)したり。[引照]

口語訳信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。
塚本訳信仰によって、モーセは生まれて“三か月のあいだ”、両親によって“隠された”。彼らは幼児の“奇麗なのを見て”(神に選ばれたことを知り)、王の命令を恐れなかったからである。
前田訳信仰によって、モーセは生まれて三か月間、両親の隠すところとなりました。彼らは子が美しいのを見たのです。そして王の命令をおそれませんでした。
新共同信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。
NIVBy faith Moses' parents hid him for three months after he was born, because they saw he was no ordinary child, and they were not afraid of the king's edict.
註解: モーセを三ヶ月の間(かく)したのは両親がその美わしき子なるを見、その姿の中にイスラエルを救うべき神の約束の実現者を認めたのであろう(C1)。決して美わしき子なる故をもって肉の愛に支配せられたのではなかった。そしてこの信仰により彼らはパロの命(イスラエルの男子はみなこれを河に投じて殺すべしとの命、出1:22)をも畏れなかった。モーセの両親もおそらく信仰の人であり、イエスの場合のマリヤ、ヨセフのごとくその子につき神の御告を受けたことであろう。

11章24節 信仰(しんかう)()りてモーセは(ひと)()りしときパロの(をんな)()(とな)へらるるを(いな)み、[引照]

口語訳信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、
塚本訳信仰によって、“モーセは成長したとき”パロの王女の子と言われることを拒み、
前田訳信仰によって、モーセは成人したときパロの王女の子といわれるのを拒み、
新共同信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、
NIVBy faith Moses, when he had grown up, refused to be known as the son of Pharaoh's daughter.

11章25節 (つみ)のはかなき歡樂(たのしみ)()けんよりは、(むし)(かみ)(たみ)とともに(くる)しまんことを()しとし、[引照]

口語訳罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、
塚本訳一時的の罪の享楽をするよりは、むしろ神の民と一しょに虐待されることを選んだ。
前田訳罪のはかない楽しみよりはむしろ神の民とともに苦しめられることを選び、
新共同はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、
NIVHe chose to be mistreated along with the people of God rather than to enjoy the pleasures of sin for a short time.

11章26節 キリストに()(そしり)はエジプトの財寶(たから)にまさる(おほい)なる(とみ)(おも)へり、これ(むくい)(のぞ)めばなり。[引照]

口語訳キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。
塚本訳彼は“キリストの(受けられる)罵りを(受けることは)”、エジプトの宝にまさる大なる富と考えたのである。(来るべき天からの)報いに目を向けていたからである。
前田訳キリストのそしりをエジプトの宝にまさる富と考えました。それは彼が報いに目を向けていたからです。
新共同キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。
NIVHe regarded disgrace for the sake of Christ as of greater value than the treasures of Egypt, because he was looking ahead to his reward.
註解: 25、26節は24節の原因の説明である。すなわちモーセは「成人して」充分健全なる判断をなし得る時に達してエジプト王の娘の子と称えられることを拒んだのを見ればそれは一時の感情からでもなく、また青年の粗忽(そこつ)からでもなく全く信仰によってであった。彼はイスラエルが神に選ばれ神の約束を受けて永遠に祝福せらるべき民であることを信じたので、神に背きてエジプトの民となり、その快楽を(ほしいまま)にするよりもイスラエルの民と共に虐待されることを選んだ。また人の最も忌み嫌う(そし)りすらもしそれがキリストのため、神の御旨のためであるならば、人の最も欲するエジプトの財産にもまさる富であると考えた。たしかにモーセは神のためキリストのために受くるこの世の凡ての苦難は、やがて天国において報いられることを信じこれを望んでいたからである(第1節)。この希望なきものは、かかる信仰的行為に出づることができない。
辞解
[罪の歓楽] 神の御旨によらざる凡ての歓楽。
[ともに苦しむ] sunkakouchesthai は「共に虐待される」の意味。
[善しとし] これを選び。
[キリストに因る(そしり)] 原語「キリストの(そしり)」であって、キリストがこの世において受け給いし(そしり)は凡てのキリスト者凡ての神の民はみなこれを受くべきものである(ヘブ13:12、13。コロ1:24)。

11章27節 信仰(しんかう)()りて(かれ)(わう)憤恚(いきどほり)(おそ)れずしてエジプトを()れり。これ()えざる(もの)()るがごとく()ふる(こと)をすればなり。[引照]

口語訳信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。
塚本訳信仰によって、彼は王の憤りを恐れず、エジプトを去った。彼は見えない神をあたかも(目で)見ているようにして、我慢したのである。
前田訳信仰によって、彼は王の怒りをおそれずにエジプトを去りました。彼は見えぬ方を見るかのようにして耐えしのびました。
新共同信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。
NIVBy faith he left Egypt, not fearing the king's anger; he persevered because he saw him who is invisible.
註解: モーセがイスラエルを率いてエジプトを去り、荒野に出でしことは人間の計画として見るならば全く不可能事を企てる冒険であった。数十万の民を不毛の荒野に導き出したことは、唯彼が見えざる神の臨在を信じその約束を信じてその困難に耐えたからに外ならない。彼はこの信仰によって行動せしが故にエジプト王が如何に怒るとも(この怒りはパロ軍勢の追跡によりあらわれた)これを(おそ)れず、その(おもて)(おか)してこの行動を敢えてしたのである。キリスト者の信仰の旅路に立出つ場合は常にこれに類似している。(注意)この一節はモーセがエジプトよりミデアンに単独にて(のが)れしことを指すとする説が多い(A1、B1、M0、I0、E0)、27−29節を時の順に記せるものと見ればこの解釈が正しいけれども出2:14との矛盾よりみてこれをイスラエルの出エジプトの記事と見る説(C1、Z0、W2)に従った。そして次の二節をその詳説と見る。

11章28節 信仰(しんかう)()りて(かれ)過越(すぎこし)()(そそぎ)ぐこととを(おこな)へり、これ初子(うひご)(ほろび)(もの)(かれ)らに()れざらん(ため)なり。[引照]

口語訳信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。
塚本訳信仰によって、彼は“過越の食事”と、(門に)“血を”そそぐことを実行した。“殺す者が”(イスラエルの)初子たちに(手を)触れないためである。
前田訳信仰によって、彼は過越と血のそそぎを行ないました。それは滅ぼすものが長子らに手を触れないためでした。
新共同信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。
NIVBy faith he kept the Passover and the sprinkling of blood, so that the destroyer of the firstborn would not touch the firstborn of Israel.
註解: 疵なき当歳(とうさい)の羔羊を屠りその血を家の門の柱と鴨居とに灌ぐべしとの命を神より受けてモーセがイスラエル全民衆と共にこれを実行したことは(出12章)、唯神の言を信じたからであって、その結果如何は事実未だ目撃せず唯信仰によりてこれを把握したに過ぎなかった。そしてその結果は初子を滅す神の使いが彼らの門前を過越して彼らの初子に触れないということであった。

11章29節 信仰(しんかう)()りて[イスラエル(ひと)は]紅海(こうかい)(かわ)ける()のごとく(わた)りしが、エジプト(ひと)(しか)せんと(こころ)みて(おぼ)()にたり。[引照]

口語訳信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。
塚本訳信仰によって、イスラエル人たちは陸地のように紅海を歩いて通ったが、エジプト人たちは、これを試みて溺れた。
前田訳信仰によって、人々は紅海を乾いた地のように渡りましたが、エジプト人はそれを試みておぼれました。
新共同信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。
NIVBy faith the people passed through the Red Sea as on dry land; but when the Egyptians tried to do so, they were drowned.
註解: 出14:13−31の記事のごとく信仰は不可能事を可能ならしめ、神の力を信ずることによりて生命の冒険をもこれを敢えてすることができる。
辞解
[イスラエルは] 原文になし、唯複数動詞を始めて用いている故、イスラエルがその主格なることは明らかである。

11章30節 信仰(しんかう)()りて七日(なぬか)のあいだ(まは)りたればエリコの石垣(いしがき)(くづ)れたり。[引照]

口語訳信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。
塚本訳信仰によって、エリコの城壁は七日間取り囲まれて崩れた。
前田訳信仰によってエリコの城壁は七日間取り巻かれて落ちました。
新共同信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。
NIVBy faith the walls of Jericho fell, after the people had marched around them for seven days.
註解: モーセおよび出エジプトの記事は前節で終り本節および次節はカナンの征服について記されている。すなわちイスラエルはヨシュアに率いられてヨルダンを渡るや否や堅牢なるエリコの城壁を乗取らなければならず、彼らの力はこれを為すことができなかった。然るに彼らはエホバの言(ヨシ6:2−6)に従い七日の間毎日一回ずつエリコの石垣の周囲を廻り七日目に七次(ななたび)(まち)(めぐ)喇叭(らっぱ)を吹き閧声(ときのこえ)を挙げた時この石垣は崩れた。これラッパや声によって崩れたのではなく彼らの信仰に因ったのである。

11章31節 信仰(しんかう)()りて遊女(あそびめ)ラハブは平和(へいわ)をもて間者(かんじゃ)()けたれば、()從順(じゅうじゅん)(もの)とともに(ほろ)びざりき。[引照]

口語訳信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。
塚本訳信仰によって、遊女ラハブは(イスラエルの)間諜を平和をもって歓迎したので、不従順な(国)人と一しょに滅びなかった。
前田訳信仰によって遊女ラハブはスパイを平和に迎えたので、不従順な人々とともには滅びませんでした。
新共同信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。
NIVBy faith the prostitute Rahab, because she welcomed the spies, was not killed with those who were disobedient.
註解: ヨシ2章ヨシ6:17ヨシ6:22以下異邦婦人でかつ遊女である点より言えば、最も神に遠きがごときラハブもイスラエルが神の選民であり神はイスラエルのために大なる御業を為し給い、また将来も為し給うであろうことを確信して、イスラエルの間者(かんじゃ)を平和に接待して彼らを殺さなかった。これ彼女の信仰であった。神の目にこの信仰が最も貴きものに見え、不従順なりしエリコ市民が亡ぼされて彼女のその一族のみ救われた。信仰の如何なるものなりやまた神の目に如何に貴きものなりやを見ることができる。

2-2-ホ ヨシュア以後の信仰の実例 11:32 - 11:40  

11章32節 この(ほか)なにを()ふべきか、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル(およ)預言者(よげんしゃ)たちに()きて(かた)らば、(とき)()らざるべし。[引照]

口語訳このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。
塚本訳なおわたしは何を言おうか。ギデオン、バラク、サムソン、エフタ(等の士師)、ダビデ(王)とサムエルと(多くの)預言者たちとについて話すには、わたしに時が足りない。
前田訳このうえ何を申しましょう。ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデとサムエルそして預言者たちについて語るには時間が足りますまい。
新共同これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。
NIVAnd what more shall I say? I do not have time to tell about Gideon, Barak, Samson, Jephthah, David, Samuel and the prophets,
註解: 著者は創世記からヨシュア記に至るまでの歴史中の主要の信仰的人物につき叙述したる後、士師、諸王および預言者につきて一々詳述することはあまりに冗長にわたるが故に本節以下40節に至るまでこれを略述している。引照を参照せば叙述の内容は明らかである。

11章33節 (かれ)らは信仰(しんかう)によりて[引照]

口語訳彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、
塚本訳これらの人たちは、信仰のゆえに、(あるいは敵の)国々を征服し、(あるいは)正義を行い、(あるいは神から)約束のものを得、(あるいは)獅子の口を閉じ、
前田訳彼らは信仰によって国々を征服し、義を実践し、約束のものを受け、獅子の口をふさぎ、
新共同信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、
NIVwho through faith conquered kingdoms, administered justice, and gained what was promised; who shut the mouths of lions,
註解: 「信仰によりて」は38節までの凡ての叙述に冠せられているものと見るべきである。33、34節にある九ヶ条の信仰的働きはこれを三部に分ち各部三つづつより成るものと見るべきであろう(Z0)。第一部は信仰の公的発露、第二部はその私的発露、第三部はその戦争または争闘における発露である。

國々(くにぐに)(したが)へ、

註解: ダビデのペリシテ人における、ギデオンのミデアン人における、バラクのカナン人における、サムソンのペリシテ人における、エフタのアンモン人におけるごとき場合(士4章士7章士11章士14章Uサム5:17Uサム8:2Uサム10:12)みな信仰による征服であった。

()をおこなひ、

註解: 諸王や預言者たちが信仰によって義を行いし場合(Uサム8:15Tサム12:4T歴18:14U歴9:8)。

約束(やくそく)[のもの]を()

註解: 「約束を得」と訳するを可とする。すなわち彼らは預言者の口を通じて神の約束を得た。約束のものは未だこれを得なかった(1339節)。あるいはこれをダビデが王位を得しことを指すと解する説もある(Uサム7:11、12)。

獅子(しし)(くち)をふさぎ、

註解: ダニエル、サムソン、ダビデの場合(ダニ6:23士14:5、6。Tサム17:34、35)。

11章34節 ()勢力(いきほひ)()し、[引照]

口語訳火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。
塚本訳(あるいは)火の力を消して(害を受けず、あるいは)剣の刃を免れ、(あるいは霊肉の)弱い状態から強くされ、(あるいは)戦に強くなり、(あるいは)敵軍を打ち負かした。
前田訳火の力を消し、剣の刃をのがれ、弱さから強められ、戦いに雄々しくなって他国の軍を打ち破りました。
新共同燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。
NIVquenched the fury of the flames, and escaped the edge of the sword; whose weakness was turned to strength; and who became powerful in battle and routed foreign armies.
註解: シャデラク、メシャク、アベデネゴの場合(引照1)。

(つるぎ)()をのがれ、

註解: ダビデ、エリヤ、エリシャ等の場合(出18:4Tサム18:11Tサム19:10詩144:10T列19章U列6章)。

(よわき)よりして(つよ)くせられ、

註解: サムソンの場合を指すならん(士16:28以下)。

戰爭(いくさ)(いさ)ましくなり、

註解: ギデオン、サムソン、ダビデ等の場合(士7:21士15:8士15:15、16。Tサム17:51、52。Uサム8:1−6。Uサム10:15−18)。

異國人(ことくにびと)軍勢(ぐんぜい)退(しりぞ)かせたり。

註解: ダビデの場合のごとき(Tサム17:52)またユダス、マガベウスの勝利のごとき(A1)。

11章35節 (をんな)()にたる(もの)復活(よみがへり)()[引照]

口語訳女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。
塚本訳婦人たちはその死んだ者を復活させてもらった。しかしほかの(男の)人々は、それにまさる復活に達するため、釈放を願わずに、車裂きにされた。
前田訳女性は死別した人々を復活させてもらい、他の人々はよりよい復活を得るために、ゆるしを願わずに拷問されました。
新共同女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。
NIVWomen received back their dead, raised to life again. Others were tortured and refused to be released, so that they might gain a better resurrection.
註解: 信仰によりザレパテの寡婦の息子は、エリヤによりて復活せしめられ、シュナミ婦の子はエリシャによりて甦らされた(T列17:23U列4:36、37)。

ある(ひと)(さら)(まさ)りたる復活(よみがへり)()んために、(ゆる)さるることを(ねが)はずして極刑(きょくけい)(あま)んじたり。

註解: 外典マカベー書に記される祭司エレアザルとその妻および七人の子の殉教の死について言っているのである(外典第二マカベー書6、7章参照)。
辞解
[更に勝りたる復活] この世の生命を(まぬが)されることに比して勝れる復活の意。
[極刑に甘んじたり] etumpanisthêsan は tumpanon なる車輪状の刑器に磔り付けて死刑に処すること。

11章36節 その(ほか)(もの)嘲笑(あざけり)(むち)と、また縲絏(なはめ)牢獄(ひとや)との試錬(こころみ)()け、[引照]

口語訳なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。
塚本訳また他の人々は、嘲りや鞭打ちや、そのほか縄目や牢の試みを受けた。
前田訳また他の人々はあざけりと笞打ち、さらに逮捕と投獄を経験しました。
新共同また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。
NIVSome faced jeers and flogging, while still others were chained and put in prison.
註解: 主としてマカベー書の記事を背景として(第一マカベー書9:26。第二マカベー書7:7、10、13、15。6:30等)殉教の死にまで至らざるも信仰のため非常なる患難を嘗めし人々を指す。また、エレ37、38章などもこの例と見ることができる。

11章37節 (ある)(もの)(いし)にて()たれ、[引照]

口語訳あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、
塚本訳石で打ち殺され、鋸で引かれ、剣で殺されて死に、羊の皮や山羊の皮を着てうろつき回り、見捨てられ、悩まされ、虐待され、
前田訳彼らは石打ちされ、さいなまれ、鋸で引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着てさまよい、無一物になり、悩まされ、苦しめられました。
新共同彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、
NIVThey were stoned ; they were sawed in two; they were put to death by the sword. They went about in sheepskins and goatskins, destitute, persecuted and mistreated--
註解: ゼカリヤ、ナボテ等はこの運命に遭った。また伝説によればエレミヤも石にて打たれたとのことである。

(こころ)みられ、

註解: 如何なる事実を指すか不明、前後との対照上この一句が甚だしく不釣合なのであるいはこれを除かんとし、またはこれを誤字と認めて他の文字をこれに当てんとする試みが多くあるけれども確定的ではない。

鐵鋸(のこぎり)にて()かれ、

註解: イザヤはユダの王マナセによりて(のこぎり)刑に処せられたとの伝説がある。

(つるぎ)にて(ころ)され、

註解: エリヤの時代の預言者たちおよびウリヤの場合のごとき(T列19:10エレ26:23)。

(ひつじ)山羊(やぎ)(かは)(まと)ひて()あるき、

註解: これより以下一層程度の低き苦難の例である。エリヤおよびエリシャはかかる姿にて()廻っていた。

(とぼ)しくなり、(なやま)され、(くる)しめられ、

註解: 特定の人または場合を指したのではなく、信仰の生涯を送らんとする人に臨む一般的患難をいう。

11章38節 ()(かれ)らを()くに()へず)[引照]

口語訳(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。
塚本訳──この世は(純潔な)彼らにふさわしくなかった──彼らは荒野と山と洞穴と地の割れ目とをさまよい歩いたのである。
前田訳この世は彼らに値しなかったのです。彼らは荒野と山々とほら穴と地のくぼみをさまよっていました。
新共同荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。
NIVthe world was not worthy of them. They wandered in deserts and mountains, and in caves and holes in the ground.
註解: 直訳「世は彼らに値せざりき」であって、世より見ればこれらの人々はこの世に生活する価値なき塵芥(ちりあくた)のごときものである(Tコリ4:13)。けれども実はこの世のあらゆる富も栄華も名誉も権勢も、信仰を持てる彼らに値せず、彼らに相応しからざるものである(C1)。(注意)括弧は原文になし。

荒野(あらの)(やま)(ほら)()(あな)とに(さまよ)へり。

註解: 聖徒のこの世における運命である(T列18:4T列18:13T列19:9)。

11章39節 (かれ)()はみな信仰(しんかう)()りて(あかし)せられたれども約束(やくそく)のものを()ざりき。[引照]

口語訳さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。
塚本訳そしてこれらすべての人々は信仰のゆえに(その正しいことを)証しされたが、(地上にいる間には)約束のものを受けなかった。
前田訳彼らはみな信仰によって確かな証人とされましたが、約束のものを受けませんでした。
新共同ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。
NIVThese were all commended for their faith, yet none of them received what had been promised.
註解: 「彼ら」は4−38節に記されし諸々の聖徒たちであって、これらの人々はその信仰の故に聖書に彼らについて証せられているにもかかわらず、彼ら自身は「約束のもの」すなわちメシヤの救いの実現を見ずして死んだ。そは故あることであってその理由は次節に説明せられている。

11章40節 これ(かみ)(われ)らの(ため)(まさ)りたるものを(そな)(たま)ひし(ゆゑ)に、(かれ)らも(われ)らと(とも)ならざれば、(まった)うせらるる(こと)なきなり。[引照]

口語訳神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。
塚本訳神がわたし達のために、(地上の幸福でなく、何か)これにまさる(偉大な)ことを計画されて(いて)、わたし達を抜きにしては、それは完成されないからである。
前田訳神はわれらのためによりよいものをお備えです。それはわれらをさしおいて彼らが全うされることがないためです。
新共同神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。
NIVGod had planned something better for us so that only together with us would they be made perfect.
註解: 私訳「そは神は我らのために勝れるものを予め備え給いて彼らも我らと偕ならずして全うせられざらしめたればなり」。本節は前節の理由であって、旧約の聖徒殊にその信仰の英雄らが「全うせられ」て完全なるメシヤ的救拯に与らなかった理由は、彼らの信仰が不完全だからではなく、それは「我ら」すなわち新約の聖徒らのためであった。すなわち神は我らのためにヨリ善きものを予め備え給うたからである。この「ヨリ善きもの」(本文 ─ 勝れるもの)とは旧約の聖徒と新約の聖徒とがみな一体となりてキリストの救いに与ることである。そして人はみなキリストの救いに与ることによりて全うせられることができる。このことを思いて新約の聖徒の地位と責任の重大であることが明らかにせられるであろう。
要義1 [信仰の内容]第十一章全体を通して信仰の内容が明瞭に説明されている。(1)信仰は現実の事実に関せず未来の希望に懸っている(1節)。ゆえに信仰の中心は我らの理智をもって把握し得ざる未来の事実、すなわち救拯(7節)復活(19節)永生(16節)約束(8節)を信ずることであって、我らの理智、経験より見て不可能と断ぜられるべき事実(11、12、19節。29−31節)をも信ずることである。(2)信仰はまた目に見ゆる事柄に関せず見えざる物を対象とする。すなわち見ゆる現象界を信ぜずしてこれを造り給える神を信じ(3節)見ゆる供物よりも見えざるその心の如何を重んじ(4−6節)、見えざる信仰によりて行動する(20−23節)。(3)従って信仰はこの世をもって一時的なる仮の存在と見(13、14節)、来世をもって永遠の実際的存在と見る(15、16節)、それ故に如何なる現世の困難にも耐え(25−27節。35−38節)喜んでこれを甘受する。(4)かかる信仰はその結果として偉大なる業績を顕わし(29−34節)、また人智の為し能わざることをも為す(5:11、35節)。(5)そしてかかる信仰をいだく者は神の約束を信ずるが故に神の報賞を受くる事を確信する(6、26節)。以上のごとくして聖書に所謂信仰の内容およびその効果を大観することができる(なおロマ4章参照)
要義2 [報賞について]27節にモーセが報いを望みしが故にエジプトの富もパロの女の子たる地位をも捨てたのであるとすれば、彼は神の恩恵のみに頼ったものでないように見えるかも知れない。これに対してカルヴィンは言う「ここに問題として論じていることは義すなわち救いの原因についてではなく一般に信仰に属するものを包含している。たしかに神の前に義とされる信仰は報いを眺めずして唯神の恩恵のみを眺め、我々の行為を眺めずして唯キリストのみを眺める。しかしながら信仰は一般に神の凡ての御言に関連している故義とされることの問題を離れて考える時は約束せられし報いにも関連することとなるのである。然り我らは信仰によりて神の約束し給える凡てのものを抱くのである。そして神は行為に対する報いを約束し給い、信仰はこれを把握するのである。しかしながらこの凡ては神が自由に信仰によりて義とし給うこととは関係がない、何となれば神の恩恵により義とされることが前に在るにあらざれば行為に関する如何なる報いも望み得ないからである」。なおマタ5:12要義二参照。

ヘブル書第12章
2-3 忍耐と清潔と恭敬の必要 12:1 - 12:29
2-3-イ 忍耐のすすめ 12:1 - 12:13  

註解: 前章において信仰の人々を凡て網羅せる著者はここに再び立帰って読者に信仰による忍耐をすすめ、これによりて困難に耐え、また潔きに至らんことを薦めている(1−17節)。

12章1節 この(ゆゑ)(われ)らは()(おほ)くの證人(しょうにん)(くも)のごとく(かこ)まれたれば、(すべ)ての重荷(おもに)(まと)へる(つみ)とを(のぞ)け、忍耐(にんたい)をもて(われ)らの(まへ)()かれたる馳場(はせば)をはしり、[引照]

口語訳こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
塚本訳それゆえ、わたし達も、こんなに雲のような(大勢の)証人に囲まれているのであるから、(信仰の障害となる)すべての煩わしさと、すぐにからみつく罪とをぬぎすてて、わたし達の前に置かれている競走を、忍耐をもって走ろうではないか。
前田訳それゆえわれらも、このような雲なす証人たちに囲まれていますから、すべてのからみつく邪魔物と罪とを捨て、忍耐をもってわれらの前に置かれた走り場を走りましょう。
新共同こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、
NIVTherefore, since we are surrounded by such a great cloud of witnesses, let us throw off everything that hinders and the sin that so easily entangles, and let us run with perseverance the race marked out for us.

12章2節 信仰(しんかう)導師(みちびきて)また(これ)(まった)うする(もの)なるイエスを(あふ)()るべし。[引照]

口語訳信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。
塚本訳(かの)信仰の創始者また完成者であるイエスを見上げて!彼は自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわず十字架を耐え忍んで、(いまや)神の御座の“右に坐られているのである”。
前田訳信仰の手ほどきまた仕上げをなさるイエスを仰ぎ見て走りましょう。彼は、自らの前に置かれたよろこびの代わりに、恥をいとわず十字架を忍び、神のみ座の右におすわりでした。
新共同信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
NIVLet us fix our eyes on Jesus, the author and perfecter of our faith, who for the joy set before him endured the cross, scorning its shame, and sat down at the right hand of the throne of God.
註解: この全文の四つの部分の連絡は原文によれば次のごとくである。「・・・・・証人に囲まれたれば・・・・・イエスを仰ぎ見て・・・・・重荷と罪を除きつつ・・・・・馳場を走るべし」。「この故に」すなわちヘブ11:39、40のごとく我らの使命は重大であり、かつ前章に示されしごとく信仰は偉大なることを成し()げし故に、我らは惰眠を貪らず、また困難に辟易せずに、旧約の聖徒らの持ちしごとき忍耐をもって我らの走るべき競争を走り続けなければならぬ。そして我らをしてこれを為すの勇気を得しむる原因は二つある。その一は11章に掲げられしごとき多数の旧約の証人が我らを囲繞(いにょう)しその信仰について証を与えていること、その二は信仰の指揮者大将軍またその完成者として神の右に坐し給うキリストを仰ぎ見ることである。かくして我らは我らの周囲にもまた我らの行先にも信仰の証者および模範を充分に有っているのであって、我らが競争を行うべき外的条件は充分に(そな)わっているのである。唯我ら自身に必要なる条件は競技の場合のごとくに重荷(肉慾、名誉、財産、権勢、世の憂慮等に支配される場合、これらは重荷となる、C1)を除き、かつその重荷の中にて最も執拗に我らに纏いつく罪(神をはなれて自己に生きんとする心、およびこれより生ずる凡ての悪行)を除かなければならぬ。然ざれば到底この競争に堪えることができない。しかしながらこれには大なる忍耐を要する。▲信仰について我らに要求されるものは生活そのものである。イエスを仰ぎ見て信仰の馳場を走ることがそれである。
辞解
[雲のごとく] 聖書にも、聖書以外の古典にも大なる群衆を雲にたとえし場合は多くある。
[証人] ヘブ11:2ヘブ11:4、5、ヘブ11:39と関係す。ただしこれらの場合は神が彼らにつき証し給えることを意味し、この場合は彼らが自己の信仰につき証することを意味する。
[重荷、罪] 重荷は総称、罪はその最も重要なる一部(M0、Z0、B1)。
[(まと)へる] euperistatos は用例少なき文字で意味も従って種々に解せられているけれども手足に「纏いつく」衣の意味が最も適当である。
[導師また之を全うするもの] achêgos kai teleiôtês はあるいは(1)「創始者また完成者」と読み、「我らの心に信仰を始めて造り給い、またこれを終りに至って完成せしめ給うイエス」(ピリ1:6)の意に解し(M0)、または(2)「信仰の大将軍また完成者」と読み、イエスは信仰の点において11章の諸聖徒の上に立つ指揮者大将軍でありかつ完全無欠の信仰の模範であることを意味する(Z0、B1、I0、E0、A1)。邦訳はこの二説の混合のごとくに見える。本節の場合においては第2節後半より、神の右に坐し給うイエスにつき語っているいる故(2)の説が適当であって、註はこれによった。

(かれ)はその(まへ)()かれたる歡喜(よろこび)のために、(はぢ)をも(いと)はずして十字架(じふじか)をしのび、(つい)(かみ)御座(みくら)(みぎ)()(たま)へり。

註解: イエスが信仰の指揮者大将軍でありまたその完成者である所以は希望と忍耐の模範であるからである。すなわちイエスは天国の栄光に与ることの歓喜のために(ヨハ17:5)最も恥ずべき十字架の死をさえ甘受し給うたのである。そこに恥辱をも軽侮し去るところの勇気があったのは、この世の栄誉が彼の重荷とならなかったためであり、また十字架の苦痛を忍び給いしは彼の忍耐によるのである。ゆえに彼は我らの最高の模範である。
辞解
[前に置かれたる歓喜] 上掲の意義の外に「イエスの前に置かれしこの世の快楽」(C1)、「彼がかつてロゴスとして持ちし歓喜」「彼の罪なき結果地上において苦難に遭い給う必要なきことの歓喜」等種々の解釈があるけれども採らない。

12章3節 なんじら()(つか)れて(こころ)(うしな)ふこと(なか)らんために、罪人(つみびと)らの()(おのれ)(さから)ひしことを(しの)(たま)へる(もの)をおもへ。[引照]

口語訳あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。
塚本訳あなた達も倦怠し、無気力になることがないように、彼が(御子でありながら、)“罪人どもの自分に対する”あんな敵対を耐え忍ばれたことを考えなくては。
前田訳お考えなさい、あなた方が心疲れてくじけないように、罪びとらによって自らに向けられたこのような反抗をお忍びの方のことを。
新共同あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。
NIVConsider him who endured such opposition from sinful men, so that you will not grow weary and lose heart.
註解: 私訳「意気沮喪(そそう)して疲れ果つることなからんために罪人らの己に対する斯くのごとき反対を忍び給える者を思い比ぶべし」。競争に多くの苦難が伴う、もし終りまで忍ぶ忍耐(1節)が無かったならばあるいは誘惑や反対や苦難のために途中で挫折してしまうであろう。これ信仰の危機である。これより免れるの方法は唯忍耐あるのみであって、この忍耐力は大なる忍耐(Uテサ3:5)を有ち給えるイエスを自己と比較することによってこれを保つことができる。たしかに罪なきイエスは罪人らよりあらゆる反対を受け(その神の子たること、そのメシヤに在すことをも受けいれられず、ついに十字架に()けられ給うた)てもなおこれを終りまで忍び給うたからである。

12章4節 (なんぢ)らは(つみ)(たたか)ひて(いま)()[を(なが)す]まで抵抗(てむかひ)しことなし。[引照]

口語訳あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。
塚本訳あなた達はまだ、罪と戦って血を流すまでに抵抗したことがない。
前田訳あなた方は罪に向かって戦いつつ血を流すまで抵抗したことはまだありません。
新共同あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。
NIVIn your struggle against sin, you have not yet resisted to the point of shedding your blood.
註解: 信仰の後退しつつあったヘブル書の読者は迫害、困難、反対に遭うや忍耐力を失って意気沮喪(そそう)してしまう者が生じたのであろう。これ彼らの心中の罪(信仰を離れんとする心)と徹底的に闘争し反抗したことがないからである。キリストは己の罪ならぬ世の罪を滅ぼさんがために血を流すまで忍び給うた。我らも彼のごとく自己の罪と闘い迫害を受けて血を流すまでに至らなければならぬ。些少(さしょう)の迫害や苦難のために信仰を棄つるごときは、キリストは勿論多数の殉教者に対しても恥ずべきである。なお迫害や苦難と闘うは自己の罪と闘う所以であることを注意すべきである。

12章5節 また()に[()ぐる]ごとく(なんぢ)らに()(たま)ひし勸言(すすめ)(わす)れたり。(いは)く『わが()よ、(しゅ)懲戒(こらしめ)(かろ)んずるなかれ、(しゅ)(いまし)めらるるとき()むなかれ。[引照]

口語訳また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。
塚本訳また、(親がその)子に話すようにして話される(神の)励ましを忘れてしまっている。──“わが子よ、主の訓練を軽んずるな、処罰されるときに、ひるむな。
前田訳あなた方は子たちへのように語られた勧めをお忘れです。そのことばはこうです、「わが子よ、主のしつけを軽んずるな、主にこらしめられてくじけるな。
新共同また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。
NIVAnd you have forgotten that word of encouragement that addresses you as sons: "My son, do not make light of the Lord's discipline, and do not lose heart when he rebukes you,

12章6節 そは(しゅ)、その(あい)する(もの)(こら)しめ、(すべ)てその()(たま)()(むち)うち(たま)へばなり』と。[引照]

口語訳主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
塚本訳なぜなら、主は愛する者を訓練し、好きな子をすべて懲らしめられる。”
前田訳主は愛するものをしつけ、受け入れる子をみな笞打ちたもうゆえに」と。
新共同なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」
NIVbecause the Lord disciplines those he loves, and he punishes everyone he accepts as a son."
註解: 箴3:11(七十人訳)のソロモンの教訓は神が我らに向い子として告げ給いし勧告である。すなわちキリスト者に下る苦難は主の愛の証拠であるということである。このことを知るならば如何なる苦難もこれに耐えて血を流すに至るもなお罪を犯さず信仰を持続することができるであろう。もしこの主の愛を知らないならば苦難に際しあるいはこれを軽視しまたはこれがために意気沮喪(そそう)して罪に陥るであろう。
辞解
[忘れたり] 「忘れたるか」と読む説もある(C1、ブレーク、W2等)。叱責の程度がやや緩和されるの差があるに過ぎない。
[()む] 3節の「沮喪(そそう)」と私訳せし ekluomai でここでもその意味。

12章7節 (なんぢ)らの(しの)ぶは懲戒(こらしめ)(ため)なり、[引照]

口語訳あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。
塚本訳(神の)“訓練”を受けるために、(迫害を)耐え忍べ。神はあなた達を(自分の)“子”のように取り扱われるのである。なぜなら、父の“訓練し”ない“子が”どこにかあるのか。
前田訳しつけのためにお忍びなさい。神はあなた方を子としてお扱いです。父がしつけない子がありますか。
新共同あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。
NIVEndure hardship as discipline; God is treating you as sons. For what son is not disciplined by his father?
註解: 汝らが非常なる苦難に遭いてよくこれを耐え忍ぶならば結局それは汝らの懲戒(こらしめ)となり汝らを陶冶(とうや)するに至るものである(A1、E0、I0)。(注意)この一文は「懲戒(こらしめ)のために忍べ」と読む説、また「懲戒(こらしめ)」を「訓戒(くんかい)」の意味に取る説。その他少数の異本により eis を ei と読むことによりて「もし汝ら懲戒(こらしめ)のために忍ばば」と読む説もあり、何れも劣っている。
辞解
[懲戒(こらしめ)] paideia は本来「教育」の意味であるけれども聖書においては双方の意味に用いられている(エペ6:4Uテモ3:16)、まさしく神の教育は苦難による懲戒(こらしめ)をもって行われることが多いからである。

(かみ)(なんぢ)らを()のごとく(あしら)ひたまふ、(たれ)(ちち)(こら)しめぬ()あらんや。

12章8節 (すべ)ての(ひと)()くる懲戒(こらしめ)、もし(なんぢ)らに()くば、それは私生兒(かくしご)にして(まこと)()にあらず、[引照]

口語訳だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。
塚本訳もし皆が受ける“訓練が”ないとすれば、それこそあなた達は私生児で、(ほんとうの)“子”ではない。
前田訳だれでも受けるはずのしつけがあなた方にないならば、あなた方は私生児であって、実子ではありません。
新共同もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。
NIVIf you are not disciplined (and everyone undergoes discipline), then you are illegitimate children and not true sons.
註解: キリスト者に下る苦難は父の愛の顕れである。その故は患難によりて我らの信仰は益々陶冶(とうや)せられ「患難は忍耐を生じ、忍耐は錬達、錬達は希望を生ずるに至る」からである(ロマ5:3)。ゆえに患難多ければ多いほど、父に愛せられていることの証拠であって、この懲戒(こらしめ)なき者はあたかも父の薫陶を充分に受くることを得ざる私生児のごときものである。「汝らに患難多き所以は汝らを神が子としてあしらい給う証拠である」と著者は叫んでいるのである。苦難の中に在りてこれを聞く者は如何に多くの慰安と力とを得ることであろうか。
辞解
[凡ての人の受くる懲戒(こらしめ)] 第11章に記されし聖徒らおよびこの種の凡ての人が懲戒(こらしめ)の共受者 metochoi となれる意味で、懲戒(こらしめ)は凡ての聖徒に共通なる神の訓練であることを示す。

12章9節 また(われ)らの肉[體](にくたい)(ちち)は、(われ)らを(こら)しめし(もの)なるに(なほ)これを(うやま)へり、()して靈[魂](たましひ)(ちち)(したが)ひて()くることを()ざらんや。[引照]

口語訳その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。
塚本訳かつまた、わたし達は訓練をする者として肉の父を尊敬した(とするならば)、まして霊魂の父に服従して、(永遠に)生きないことがあるだろうか。
前田訳さらに、われらにしつけ手である肉の父があって尊敬したのならば、ましてわれらは霊の父に従って生きようとしないわけがないでしょう。
新共同更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。
NIVMoreover, we have all had human fathers who disciplined us and we respected them for it. How much more should we submit to the Father of our spirits and live!
註解: 5節以下において肉の父子の関係と霊の父子の関係を示せる著者は本節および次節においてその差異を示し二つの点より後者の特に重んずべきことを説明している。その第一の点は神は我らを霊によりて新生せしめて我らの霊の父となり給える神であることである。この世の一時的関係に過ぎざる肉の父であって、しかも我らを懲戒(こらし)めし者なる父をも敬うくらいであるならばまして天国における永遠的関係である霊の父をばたとい我らを懲戒(こらし)めたとてこれに服従しこれを敬うのが当然であり、かくして我らはたとい患難のために殉教の死をとげるにしても真の意味において永遠に生くることができる(ヘブ10:38申5:16)。
辞解
[肉の父] 「肉体」と訳されし sarx は「肉」と訳するを可とする。「肉」は「自然人」というと同じく肉体と精神との総称で神より出でし「霊の人」と相対立している。
[霊の父] 広義においては神は我らの霊肉を創造(つく)り給うた、狭義においては肉の父は我らの肉体と精神との父であり、神は霊により我らを新たに生むことによりて霊の父であり給う(C1)。

12章10節 そは肉[體](にくたい)(ちち)(しばら)くの(うち)その(こころ)のままに(こら)しむることを()しが、靈[魂](たましひ)(ちち)(われ)らを(えき)するために、その聖潔(きよき)(あづか)らせんとて(こら)しめ(たま)へばなり。[引照]

口語訳肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。
塚本訳というのは、肉の父は(ほんの)少しの日数(だけ)、自分の考えに従って訓練したのに反して、神はわたし達を益するため、わたし達をその聖さにあずからせるために、訓練されるのであるから。
前田訳肉の父は短い間、自らの考えでしつけましたが、霊の父はわれらを益して彼の聖さにあずかるようになさいます。
新共同肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。
NIVOur fathers disciplined us for a little while as they thought best; but God disciplines us for our good, that we may share in his holiness.
註解: 肉の父の懲戒(こらしめ)には種々の欠点がある。すなわちそれは「暫くの間」であって我らの一生涯を通して継続しない。またそれは「心のままに」であって従ってあるいは目的や手段において過り、時には自己の気ままの処置に陥ることが有り得る。ゆえに極めて不完全なる懲戒(こらしめ)である。然るに霊の父の懲戒(こらしめ)の目的は我らの益のためでありこの益たるやこの世の栄達や利益のためではなく、神の聖潔に与らしむることであって我らにとって永遠の益を得しむる処のものである。それ故に9節に示されし教訓の全く真理であることがわかる。

12章11節 (すべ)ての懲戒(こらしめ)(いま)(よろこ)ばしと()えず、(かへ)つて(かな)しと()ゆ、されど(のち)これに()りて練習(れんしゅう)する(もの)に、()平安(へいあん)なる()(むす)ばしむ。[引照]

口語訳すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
塚本訳あらゆる訓練(というもの)は、その当座は喜びとは見えず、かえって悲しみと見えるが、しかしあとで、それで鍛えた者に(まことの)義の実である平安を与えるのである。
前田訳しつけはすベて、その時にはよろこびでなく悲しみに見えますが、後にはそれで練られたものに義の平和な実を与えます。
新共同およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
NIVNo discipline seems pleasant at the time, but painful. Later on, however, it produces a harvest of righteousness and peace for those who have been trained by it.
註解: 「凡ての懲戒(こらしめ)」すなわち肉の父のも霊の父のも共にこの中に含まれてはいるけれども、著者は主として神の懲戒(こらしめ)につき言っているのであることは明らかである。「今は」すなわちその懲戒(こらしめ)の存続している間(M0)肉の心にとってそれは決して喜びとは見えず苦痛である。しかしこの患難によりて訓練する場合においては義の果実を得、神との間の関係は(ただ)しくなりまた神の御旨に(したが)(ただ)しき行為を為すに至るのである。そしてこの状態は真に平和なる状態であって如何なる患難の中にも平和を喜ぶことができるのは(ロマ5:3)そのためである。
辞解
[悲し] lupê は他の場合ほとんど「憂」と訳せられている。「悲痛」または「憂苦」等の文字がこれに相当しているであろう。
[練習する] gymnazô 肉体の運動(体操)より転じて精神の訓練にも用いられる。

12章12節 されば(おとろ)へたる()(よわ)りたる(ひざ)(つよ)くし、[引照]

口語訳それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。
塚本訳だから、“力の抜けた手と、しびれた膝をまっすぐに伸ばしなさい。”
前田訳それゆえ、無力の手と弱った膝とをまっすぐにし、
新共同だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。
NIVTherefore, strengthen your feeble arms and weak knees.

12章13節 足蹇(あしな)へたる(もの)(あゆ)(はづ)すことなく、(かへ)つて(いや)されんために(なんぢ)らの(あし)(すぐ)なる(みち)(そな)へよ。[引照]

口語訳また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。
塚本訳そしてあなた達の“足で、まっすぐな道を歩きなさい”。足なえが脱臼することなく、むしろそれが直るように。
前田訳足にまっすぐな道をそなえなさい。それは足なえが踏みはずさず、むしろいやされるためです。
新共同また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。
NIV"Make level paths for your feet," so that the lame may not be disabled, but rather healed.
註解: 「されば」は1−11節に教えられしごとくキリスト者には忍耐の責任があり、かつ患難は父の愛の懲戒(こらしめ)であるのみならず、これによりて陶冶(とうや)される場合に義の平安なる果を得るのである以上、我ら患難に遭遇するも力を落さず、元気を振り起して汝らの足にて一直線に進むべきである(かく読むべきである。辞解参照)。かくするならば、足()えたる者(すなわち信者の中にて患難に遭遇して為す処を知らず信仰動揺して正道を()み外さんとする者、なお辞解参照)さえも汝らの善き模範に(したが)い真直に進むことによりて正道を踏み外さず、かえって(いや)されるに至るであろう故に忍耐は自己のためのみならず全教会のために必要である。
辞解
[衰えたる手、弱りたる膝] この語はイザ35:3申32:35、智慧書25:23等に用いられし文字で俗語の「グッタリした手、ヒョロヒョロの膝」というに相当し手には力なく足はよろめく姿を示している。信仰なき者は患難に遭えばかかる有様となる。
[強くし] 「真直ぐにし」「もとのごとくにし」等の意。
[汝らの足に直なる途を備へよ(B1、I0)] むしろ「汝らの足をもて真直ぐに歩め」の意に解するを適当とする(M0、Z0、C1、E0。箴4:26、七十人訳)。
要義 [神の懲戒(こらしめ)]キリスト者となることは決してこの世において無事息災、平穏安楽の生涯を送ることではなく、むしろ世の人よりもはるかに多くの患難に遭遇することを覚悟しなければならぬ。また多くの事実はその然ることを証拠立てている。しかしながらこれ凡て神の懲戒(こらしめ)であって、我らを愛する父の愛の顕われであり、我らはこれによりて義の果を得ることができるのである。ゆえに神の懲戒(こらしめ)はますます多くこれを受けるに従ってますます幸福であるということができる。このことを思う時我々の忍耐力は強められる。

2-3-ロ 聖潔のすすめ 12:14 - 12:17  

12章14節 (つと)めて(すべ)ての(ひと)(やわら)ぎ、[(みづか)ら](きよ)からんことを(もと)めよ。もし(きよ)からずば、(しゅ)()ること(あた)はず。[引照]

口語訳すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。
塚本訳すべての人との“平和を追い求めよ”、また聖潔を。聖潔がなければ、だれも主にまみえることはできない。
前田訳すべての人との平和と聖さとを求めなさい。聖さなしにはだれも主を見ることができますまい。
新共同すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。
NIVMake every effort to live in peace with all men and to be holy; without holiness no one will see the Lord.
註解: キリスト者の特徴は神の懲戒(こらしめ)を受けてこれを耐え忍ぶことの外は平和と聖潔である。如何に懲戒(こらしめ)患難を忍耐する力があっても、不和争闘を事として不浄不潔なる者は神の子たる資格がない、すなわちキリストを見、彼と交わることができず、また彼の世において目のあたり彼を拝することができない(詩11:7詩17:15マタ5:7Tヨハ3:2)。▲信仰によって罪が赦されたことのみを強調して聖潔を求めないキリスト者は真の信仰を有たない人である。神の御意に順わないのは信仰ではない。
辞解
[凡ての人] キリスト者の全体を指すか、または人類全体を指すかにつき二説あり、この場合は前者であろう。
[主を見る] 現在においては霊の交わりによりて主を見、かの世においては目のあたりに彼を見る。

12章15節 なんじら(つつし)め、(おそ)らくは(かみ)恩惠(めぐみ)(いた)らぬ(もの)あらん。(おそ)らくは(にが)()はえいでて(なんぢ)らを(なやみ)し、(おほ)くの(ひと)これに()りて(けが)されん。[引照]

口語訳気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。
塚本訳よく注意して、神の恩恵に入ることができぬ者が(一人も)ないように、(また、)“(一本の)苦い(毒草の)根が生え出てやっかいをかけ”、それによって多くの人が(罪に)よごされ(るものが一つも)ないように、
前田訳心がけて、だれも神の恵みからもれないように、にがい根が生えて悩まし、それによって多くの人々が汚されないようになさい。
新共同神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。
NIVSee to it that no one misses the grace of God and that no bitter root grows up to cause trouble and defile many.
註解: 「神の恩恵」はキリストによる救いの全体を意味する。そして人は非常に注意深き態度をもって聖潔を慕い求むるにあらずば、この恩恵を完全に把握し得ない。なお詳言すれば聖潔を求むる心を(おろそ)かにする場合においては一旦採伐してキリストを接がれし木の根本より古き芽が生え出づるがごとくこれまで神の聖霊の働きによりて征服せられていた罪の苦き有毒なる根が再び芽を出し、これが我らの新たに生れし霊性を悩まし、(ただ)に我らを悩ますのみならず同じ信仰の兄弟姉妹をこの毒をもって汚すに至るのである。道徳的不潔の生涯は(ただ)に自己に与えられし恩恵を失い、自ら苦悩に陥るのみならず他をも毒する恐るべき罪である。この一節は申29:17、七十人訳を少しく変化せる引用であって、ヘブル原典とも異なる。

12章16節 (おそ)らくは淫行(いんかう)のもの、(あるひ)一飯(いっぱん)のために長子(ちゃうし)特權(とくけん)()りしエサウの(ごと)(みだり)なるもの(おこ)らん。[引照]

口語訳また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。
塚本訳(また、たった)一杯の食べ物のために自分の“長子相続権を売り渡したエサウ”のような、不品行の者、野卑な者が(一人も)ないように、せねばならない。
前田訳一杯の食のために自らの長子権を売ったエサウのように不身持ちな俗物にならないようになさい。
新共同また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。
NIVSee that no one is sexually immoral, or is godless like Esau, who for a single meal sold his inheritance rights as the oldest son.
註解: 色食の慾のため(すなわち物質的慾望のために)信仰を失いキリスト者として神の子、神の世嗣たる特権をも犠牲にするごときものが起るであろう。エサウが(引照1)一杯の(あつもの)のためにその家督の権を売ったのはその善き(かがみ)である。(注意)この「淫行のもの」 pornos 本来男子の売淫者または淫行者を意味する語であるけれども、ここではこれを性的意味に解せずして、これを単に利慾のためにその節操を売る意味に解し、「恐らく一飯のために長子の権を売りしエサウのごとく邪淫にして汚俗なるもの起らん」と読む説もある(I0、Z0)。文法上は後者優り、意味上は前者が優っている。またこの淫行をユダヤ教に逆戻りする意味に解する説もあるけれども、やや附会(ふかい)に過ぎる。
辞解
[(みだり)なるもの] bebêlos = profane 聖別せられしものの反対卑俗(ひぞく)

12章17節 (なんぢ)らの()るごとく、(かれ)はそののち祝福(しくふく)()けんと(ほっ)したれども()てられ、(なみだ)(なが)して(これ)(もと)めたれど回復(くわいふく)(をり)()ざりき。[引照]

口語訳あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。
塚本訳なぜなら、彼はあとから(その相続権である神の)祝福を相続しようと願ったが、排斥されたことを知っているではないか。涙を流しながら求めたにもかかわらず、悔改めの余地がなかったのである。
前田訳ご承知のように、彼は後になって祝福を継ごうと願いつつも拒否されました。彼は涙をもって求めても悔い改めのおりを得なかったのです。
新共同あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。
NIVAfterward, as you know, when he wanted to inherit this blessing, he was rejected. He could bring about no change of mind, though he sought the blessing with tears.
註解: エサウはその肉慾に支配せられて、長子の権を売ったことを後悔し、後にさらに父イサクより祝福を受けようと切願したけれども無効であった(引照1)。このことは我らキリスト者の戒めとなるのであって、キリスト者たることの極めて大なる特権を、極めて些細なる肉の慾のために犠牲にしてはならない。(注意)この一節の原文は種々に訳解せられ、何れとも決定し難い。すなわち「回復の機」は原語「悔改めの場所」topos metanoias で「回復の機」はその適当なる意訳である(A1)。唯この悔改めがエサウの悔改めなりとする説(A1、Z0、I0)とイサクまたは神の後悔なりとする説あり(M0)、その他「之を求む」の「之」は邦訳本文のごとく「祝福」を指すとする説と、「悔改め」を指すとする説とあり。これらが種々に結合して多くの訳解を生じている。
要義1 [聖潔の必要]キリスト者に患難が来ると共に誘惑が襲来する。前者に対しては父なる神の愛を思うて忍耐すべきであり(1−13節)、後者に対しては父の聖を思うて聖潔を保つべきである。もしキリスト者にして汚穢の中にその身を投じているならば彼らは神の国を()ぐことはできない(Tコリ6:9−11)。
要義2 [悔改めの無効なる場合ありや]如何なる罪でも(ヘブ6:8要義二の場合を除き)悔改めるに遅過ぎるということなく、また悔改めることによりて神はその罪を赦し給う。故に悔改めることが無効に終る場合はない。唯罪を犯せるがために失える祝福は悔改めによりても回復することができない場合がある。エサウのごときその場合であった。

2-3-ハ 新約の福音を拒むなかれ 12:18 - 12:29  

註解: 著者は忍耐と聖潔とを信徒に薦めし後さらに進んで再び旧約と新約との差異の一面を高調し、旧約の恐るべき啓示に対し恩恵に充てる新約の啓示を示し、これを拒むことの罪とこれを持続することの幸福を教えている。18−19節。

12章18節 (なんぢ)らの(ちか)づきたるは、()()ゆる(さは)()べき(やま)(くろ)(くも)黒闇(くらやみ)(あらし)[引照]

口語訳あなたがたが近づいているのは、手で触れることができ、火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、
塚本訳なぜであるか。(いま)あなた達があゆみ寄っている所は、(手で)さわることのできる山ではない、また“燃えている火、また黒雲、また暗やみ、また暴風、
前田訳あなた方が近づいたのは、手で触れうる山にではありません。そこには火が燃え、黒雲、暗闇、竜巻きがあり、
新共同-19節 あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。
NIVYou have not come to a mountain that can be touched and that is burning with fire; to darkness, gloom and storm;

12章19節 ラッパの(おと)(ことば)(こゑ)にあらず、この(こゑ)()きし(もの)()(うへ)(ことば)(くは)へられざらんことを(ねが)へり。[引照]

口語訳また、ラッパの響や、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉がひびいてきた山ではない。
塚本訳またラッパの響、また(神の)言葉の声”ではない。この声を聞いた者は(みな恐れおののいて、これ以上)自分たちに一言もつけたして与えられないようにと、断ったのである。
前田訳ラッパの音や、聞き手がひとことも加えられたくないと思ったことばのひびきがありました。
新共同
NIVto a trumpet blast or to such a voice speaking words that those who heard it begged that no further word be spoken to them,
註解: モーセがシナイ山において神より十誡を授けられし時の光景を叙べて新約の光景と対比す。それは引照の各節が示すがごとく畏るべき光景で、場所は天のエルサレム(22節)ならざるこの地上の山(25節)で、また燃ゆる火の中においてであり、その場合には23節のごとき美わしき光景はなく、天変地異起りて人々を恐れしめ、また24節のごとき言ではなくラッパの音が響き渡りて(引照4。マタ24:31)人々を驚かし、また神の言が聞えて人々を畏れしめ(引照6)、人々恐れて神の声を再び聴かざらんこと願った。

12章20節 これ『(けもの)すら(やま)()れなば、(いし)にて(うた)るべし』と(めい)ぜられしを、(かれ)らは(しの)ぶこと(あた)はざりし(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳そこでは、彼らは、「けものであっても、山に触れたら、石で打ち殺されてしまえ」という命令の言葉に、耐えることができなかったのである。
塚本訳というのは、“たとい獣がこの山に触れても石で打ち殺される”という(神の)命令に堪えられなかったのである。
前田訳彼らは「獣でも山に触れれば石で打ち殺されよう」と命ぜられたことに堪えなかったのです。
新共同彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。
NIVbecause they could not bear what was commanded: "If even an animal touches the mountain, it must be stoned."
註解: 19節より21節に連絡する中間に介在して19節の末尾の理由を説明したのが本節である。人民の恐怖と緊張は極度に達した有様をこれによりて想像することができる。心なき獣すらかかる罰を受けるほどであるならば心ある人間は如何ばかりであろうか。これ彼らの恐れし所以であった。

12章21節 その(あらは)れしところ(きは)めて(おそろ)しかりしかば、モーセは『われ(いた)(おそ)(おのの)けり』と()へり。[引照]

口語訳その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」と言ったほどである。
塚本訳そしてその光景があまり恐ろしかったので、モーセ(すら)も、「“自分は怯え”かつ震える」と言ったほどであった。
前田訳その光景があまりおそろしかったので、モーセはいいました、「わたしはおそれおののきました」と。
新共同また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。
NIVThe sight was so terrifying that Moses said, "I am trembling with fear."
註解: シナイ山における律法の賜与は人民は勿論モーセをも恐怖をもって支配した。(注意)モーセがこの語を発したことは旧約聖書に記されていない。あるいは伝説によったか、または申9:19を記憶の誤りよりここに転記せるものであろう。聖書に特記されずともモーセも恐怖に支配されたであろうことは想像ができる。人民の声をその代表者なるモーセの声として記せりとする説(C1)は疑わしい。

12章22節 されど(なんぢ)らの(ちか)づきたるはシオンの(やま)()ける(かみ)(みやこ)なる(てん)のエルサレム、[引照]

口語訳しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、
塚本訳(これは旧い約束が与えられた時のシナイ山であるが、)しかし(今キリストを信ずる)あなた達があゆみ寄っている所は、(目に見えない、喜びと平安の)シオンの山、(然り、)生ける神の都、天のエルサレム、また数かぎりない天使、
前田訳あなた方が近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、何万という天使の会合、
新共同しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、
NIVBut you have come to Mount Zion, to the heavenly Jerusalem, the city of the living God. You have come to thousands upon thousands of angels in joyful assembly,
註解: たといB1のごとく七つの細目にわたりて旧約と新約との対比を示していると見るを得ないにしても18節以下と本節以下とは大体において相対応している。すなわち新約の世界は神の住居、エホバの王座の存するシオンの山およびこれを囲繞(いにょう)する活ける神の都すなわち天のエルサレムであって、これらはみな霊の眼に見えるのみで肉の眼で見、手で触れることができない、そしてここに新約の優越さがある。
辞解
[シオン] 旧約聖書においてシオンはしばしば神の住居、エホバの王座として解せられ(詩74:2イザ8:18ヨエ4:17ヨエ4:21詩2:6詩48:2詩50:2詩110:2詩132:13)。またイスラエルに対する救いと祝福の源と解せられている(詩50:2イザ2:3イザ28:16)。

千萬(ちよろづ)御使(みつかひ)集會(つどひ)

註解: 火、黒雲、黒闇、嵐等の凄愴(せいそう)なる光景に比してここは実に輝ける有様を呈している。その一は神の御座の周囲に集う幾千万の天の使である。天国の有様を形容する最も相応しき美わしき語である。
辞解
[集会] panêgyris は祭のために全民衆が集う会、この文字が何れに連関するかにつき異論(M0、E0、A1)あれど邦訳は正しい(B1、Z0、I0)。

12章23節 (てん)(しる)されたる長子(ちゃうし)どもの教會(けうくわい)[引照]

口語訳天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、
塚本訳また、天に登録された(神の)長男たちの祝いの集いまたその集会、またすべての(ものの)裁判官である神、また完成された(天にある)義人たちの霊、
前田訳天にしるされた 長子たちの集会、すべてのものの裁き主なる神、全うされた義人の霊、
新共同天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、
NIVto the church of the firstborn, whose names are written in heaven. You have come to God, the judge of all men, to the spirits of righteous men made perfect,
註解: キリストにありて救われしキリスト者の現にこの世に生存している者の全体を指す。彼らの名は天に録されている(A1、デリッチ、引照1)。
辞解
[長子] 選ばれし者を「初子」と呼ぶ例は旧約聖書に多い(出4:22エレ31:9)。ただしこの語は種々の意味に解せらる(1)旧約の聖徒殊に父祖(M0、B1、C1)、(2)天使、(3)初代キリスト者、(4)新約の聖徒一般その他多くある。

萬民(ばんみん)審判(さばき)(ぬし)なる(かみ)

註解: 新約の恩恵の国においても審判の神は在したまう。そして万民を正しきに従って審判きたまう。ゆえに殊更に「審判主」kritêsを救助者と訳する(Z0)必要はない。

(まった)うせられたる義人(ぎじん)靈魂(たましひ)

註解: アベル以後の凡ての死せる聖徒の霊をいう。彼らはキリストの故に信仰により神より義人と認められその霊(魂は霊と訳することを可とす)は肉の弱さを脱ぎて全うせられて神と共にある(A1、デリッチ等)。

12章24節 新約(しんやく)仲保(なかだち)なるイエス[引照]

口語訳新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。
塚本訳また新約の仲介者であるイエス、また、(地の中から神に復讐を叫ぶ)アベルの血よりも雄弁に語る(イエスの)注ぎの血である。
前田訳新しい契約の仲保者イエス、アベルの血にまさって強く語るそそがれた血です。
新共同新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。
NIVto Jesus the mediator of a new covenant, and to the sprinkled blood that speaks a better word than the blood of Abel.
註解: キリスト者も旧約の聖徒もみな神の御前に立つことを得る所以は、そこにキリストなる仲保(なかだち)者が在すからである。そしてモーセが旧約の仲保(なかだち)であったと同じくキリストは新約の仲保(なかだち)である。
辞解
「新約」の「新」は他の場合には(ヘブ8:8ヘブ8:13ヘブ9:15)kainê を用いているけれどもここでは nea を用いている。旧約に比して時期より見て新たに起りし契約なることを示さんがためであろう(ヘブ8:13辞解参照)。

(およ)びアベルの()(まさ)りて(もの)()(そそぎ)()なり、

註解: キリストの仲保(なかだち)はその血を流すことによりて為された。この血は(そそぎ)の血であって、前に至聖所において祭司が犠牲の血を(そそ)いで聖められしと同じくキリストの血を(そそ)がれることにより(すなわちキリストの十字架の贖いを信ずることにより)て凡ての罪は赦され良心は潔められるのである。アベルの血は復讐を求めて叫んでいる(創4:10。また伝説によればアベルの血は神の許に在りて殺人者を訴えているとのことである)。然るにキリストの血は万人の罪を赦すことを宣伝えている点において前者に優っているのである。以上は旧約に対比して新約が如何に異なれる時、場所、および人をもって成るか、またその時の光景が如何に異なっているかを明かにしている。すなわち旧約は恐るべき冬の嵐のごとき律法であり、新約は(やわら)かなる春風のごとき恩恵である。

12章25節 なんじら(こころ)して(かた)りたまふ(もの)(こば)むな、もし()にて(しめ)(たま)ひし(とき)これを(こば)みし(もの)ども(のが)るる(こと)なかりしならば、()して(てん)より(しめ)(たま)ふとき、(われ)(これ)退(しりぞ)けて(のが)るることを()んや。[引照]

口語訳あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。
塚本訳あなた達は(キリストをもって)語られるお方をしりぞけないように気をつけよ。なぜなら、もし彼ら(イスラエル人)ですら地上でお告げを下されるお方をしりぞけて罰を免れなかったくらいならば、ましてわたし達が天からお告げを下されるお方にそむいたら、なおさらのことである。
前田訳語りたもうものを拒まないよう気をおつけなさい。もしみ旨を告げる方を拒んだものが地上で逃れえなかったならば、天から語りたもう方を拒むわれらはなおさらです。
新共同あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。
NIVSee to it that you do not refuse him who speaks. If they did not escape when they refused him who warned them on earth, how much less will we, if we turn away from him who warns us from heaven?
註解: 「地にて示し給いし時これを」「天にして示し給う時これを」はそれぞれ「地にて示し給いし者を」「天にて示し給いし者を」と訳すべきである。そして双方とも神を意味するけれどもその啓示の態様および程度において異なっていた。旧約の黙示は全く地的であり、新約の黙示は凡て天的であった。前者を拒む者(即ち結局旧約を啓示し給える神を拒むこととなる)すら罰を免れないとすれば、キリストを拒み、信仰より離れ、聖潔の徳を失い患難のために背教する者は新約の神を拒むものであってその罰はさらに一層甚だしいであろう。かく言いて新約の聖徒を警戒している。
辞解
[示し] chrêmatizô は「黙示を与うる」「警告を与える」等の意味あり。
[拒む] paraiteomai は「御免を蒙る」という俗語に相当する。
[退け] apostrephô 後向きになること、すなわち神を拒み神より離れること。
[(のが)れる] 神の罰を(のが)れること。

12章26節 その(とき)、その(こゑ)()(ふる)へり、されど(いま)(ちか)ひて()ひたまふ『(われ)なほ(ひと)たび()のみならず、(てん)をも(ふる)はん』と。[引照]

口語訳あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。
塚本訳その時、そのお声は地を震わせた。しかし今彼は約束をして言われた、“わたしはもう一度、地”ばかりでなく“天を”も“揺り動かす”と。
前田訳かつてそのみ声は地を震わせましたが、今はお約束でした、「もう一度わたしは地ばかりでなく、天をも震わせよう」と。
新共同あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」
NIVAt that time his voice shook the earth, but now he has promised, "Once more I will shake not only the earth but also the heavens."
註解: エホバがモーセに十誡を授け給う時地は震動した(引照1)。然るに神はなお約束(ハガ2:6)を与えて今一度天をも震わんと宣うた。この聖句を引用せる所以は次節の説明を与えんがためである。
辞解
[誓ひて] 「約束して」と訳すべきで新天新地出現についての神の約束を言う。
[地を震えり] 七十人訳には「民甚だしく驚けり」とあり、ゆえに多く七十人訳より引用せる著者もここにはヘブル原典より引用している。
[なほ一度] ヘブル語原典は「今暫くして」の意、七十人訳によった。

12章27節 ()の『なほ一度(ひとたび)』とは(ふる)はれぬ(もの)(のこ)らんために、(ふる)はるる(もの)すなはち(つく)られたる(もの)()(のぞ)かるることを(あらは)すなり。[引照]

口語訳この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。
塚本訳しかし、この“もう一度”とは、造られたものとして、震われるものの変更されることを意味する。これは震われることのないものが(永遠に)のこるためである。
前田訳「もう一度」とは、造られたものが震われて除かれることを意味します。それは震われないものが残るためです。
新共同この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。
NIVThe words "once more" indicate the removing of what can be shaken--that is, created things--so that what cannot be shaken may remain.
註解: ハガ2:6の預言の意味は神は地のみならず天をも震い給いて、震われるものすなわち一時的の存在を有する無常なる被造物を凡て一掃し給いてそこに永遠に震うことなく動くことなき新しき国を建て給うことを意味している。ゆえにモーセが十誡を授けられし時地が震動したことはその一時的存在であることの証拠であって、やがては新しき約束が完成する時天も震い動かされて新天新地が実現し(黙21:1、2)そこに凡ての希望が成就し、凡ての栄光が輝き出でるであろう。ゆえに新約の福音をすててユダヤ教に帰ること、患難のために信仰を失うこと、罪のためにキリスト者たる特権を失うことは、この無限の栄光をすてて地的、一時的生命を得ることに過ぎない。

12章28節 この(ゆゑ)(われ)らは(ふる)はれぬ(くに)()けたれば、感謝(かんしゃ)して恭敬(うやうやしき)畏懼(おそれ)とをもて御心(みこころ)にかなふ奉仕(つとめ)(かみ)になすべし。[引照]

口語訳このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。
塚本訳だからわたし達は(永遠に)揺り動かぬ国を授かったのだから、(神に)感謝しようではないか、それによって敬虔と畏怖とをもって、お気に入るように神を礼拝しようではないか。
前田訳かくて、われらは震われぬ国を受けたのですから、感謝をいだき、かしこみおそれて、神のよろこばれるよう奉仕しましょう。
新共同このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。
NIVTherefore, since we are receiving a kingdom that cannot be shaken, let us be thankful, and so worship God acceptably with reverence and awe,
註解: 我らキリスト者は現在すでに永遠不変の国を握っていること故(その完全なる実現は勿論新天新地の顕現、キリストの再臨の時にある)、そのキリスト者の取るべき態度は第一に感謝を捧ぐることと第二に神に仕えることである。そして神に仕える方法は少しも神の御旨に違わざるように慎み畏れ(「恭敬」 eulabeia )、神の審判を畏れかしこみて神の御旨に叶うように神に仕えることである。すなわち神に仕えるの方法は外形の恭敬畏懼(いく)にあらずして心の恭敬畏懼(いく)であり、神の与え給いしキリストの十字架の恩恵を虚しうせず、神の御旨に従って己を潔くし神の審判を畏れて罪より遠ざかることである。
辞解
[受けたれば] 現在動詞なるに注意すべし。
[畏懼(おそれ)] deos 新約聖書中唯ここにのみ用いらる。恐怖の意味で天地を滅ぼし給う神の稜威に対して我らの取るべき態度を示す。

12章29節 (われ)らの(かみ)()(つく)()なればなり。[引照]

口語訳わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。
塚本訳わたし達の“神は焼きつくす火”であるからである。
前田訳われらの神は焼き尽くす火にいまします。
新共同実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。
NIVfor our "God is a consuming fire."
註解: 申4:24その他に示されるごとく神の審判は焼尽す火に譬えられている。そして新約の神は(ただ)に恩恵の神であるのみならず、また審判の神であって、このことを忘れて新約の福音は真の福音たる力を失う。我らはこの審判を畏れて自ら慎まなければならない。
要義 [新約の福音と信者の態度]新約の福音は最も完全に神の愛(12:1−13)と義(14−17)と審判(18−29)とを示している。我らの信仰はかかる神に対する絶対の信頼でなければならない。愛の神に在し給うが故にキリストの十字架によりて我らの罪を凡て赦し給うた。それ故に我らはこの福音より離れて空論や儀式やまたユダヤ教の古き伝統に逆戻りしてはならない。また神は愛に在すが故に患難もその懲戒(こらしめ)であり、神は義に在すが故に我らも自らを潔くしなければならず、また神は審判の神に在すが故に我らは畏れて彼の御旨に(したが)う生涯を送らなければならぬ。この三要素(換言すれば忍耐・聖潔・確信)を確保することがこの著者の読者に対する薦めであった。