黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ロマ書

ロマ書第3章

分類
2 罪悪論 1:18 - 3:20
2-(1)-(2) ユダヤ人の罪 2:1 - 3:8
2-(1)-(2)-(ニ) ユダヤ人の優越は神の審判を不義とせず 3:1 - 3:8

3章1節 さらば[引照]

口語訳では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。
塚本訳それでは、ユダヤ人の特権はどうなるのか、また何が割礼の利益でるか。あらゆる点において多くの特権がある。まず第一には、神の言葉が彼らにまかせられた。
前田訳それなら、ユダヤ人の長所は何ですか。割礼の取柄は何ですか。
新共同では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。
NIVWhat advantage, then, is there in being a Jew, or what value is there in circumcision?
註解: 以上の如く、ユダヤ人と異邦人との間に何等の差異がないならば、

ユダヤ(びと)(なに)(すぐ)るる(ところ)ありや、また割禮(かつれい)(なに)(えき)ありや。

註解: これはユダヤ人の側より当然に起こり来るべき第一の疑問であった。パウロはこれに対して自己の答弁を与えている。

3章2節 (すべ)ての(こと)に[(えき)]おほし、()第一(だいいち)(かれ)らは(かみ)(ことば)(ゆだ)ねられたり。[引照]

口語訳それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。
塚本訳すると、どうなるのだろうか。もしある人たちが(神の言葉に)不忠実であったら、その不忠実が神の忠実を無にするのではなかろうか。
前田訳あらゆる点に多々あります。まず彼らは神のことばをゆだねられました。
新共同それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。
NIVMuch in every way! First of all, they have been entrusted with the very words of God.
註解: 直訳「色々沢山あり」で「優るる所」と「益」と双方に関係す。「先ず第一に」は「就中(なかんずく)最も主要なるものは」の意味と見るよりも(G1)後に第二以下を述べんとして果さざる中に結論に急いだものと見るべきである(M0)。尚その他の優越点についてはロマ9:4以下參照。神の言 ta logia はすなわち旧約聖書殊にそのメシヤの預言に関する部分であって、この言を委ねられた事はユダヤ人の大なる特権であった。若し彼らがこれを信じたならば、その預言の如く万国の民はユダヤ人を通して祝福を受くるに至ったであろう。然るに彼らは不信の結果、メシヤを拒んだが為に彼らはこの優越せる特権を無駄にした。

3章3節 されど如何(いか)ん、ここに(しん)ぜざる(もの)ありとも、その()(しん)(かみ)眞實(まこと)()つべきか。[引照]

口語訳すると、どうなるのか。もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、神の真実は無になるであろうか。
塚本訳もちろん、そうではない。”人間を皆嘘つき”にしても、神を真実とせねばならない。(聖書に)
前田訳それはどういうことでしょう。あるものが不信であったとしても、その不信は神のまことを無にしますか。
新共同それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
NIVWhat if some did not have faith? Will their lack of faith nullify God's faithfulness?
註解: 第二に問題となる事は、ユダヤ人の或者(大多数)は不信仰によりイエスのキリストなる事を拒んだが、この不信仰は神の真実を無効ならしめ、神の約束は解除せられユダヤ人の特権は失われてしまうのでは無いだろうか、と云う事である。
辞解
[()つ] katargeô 結果を生じない様にする事即ち亡ぼす事、廃止する事、解除する事等に用う。
[べきか] ()てるであろうかとの意、未来形。

3章4節 (けっ)して(しか)らず、(ひと)をみな虚僞(いつはり)(もの)とすとも(かみ)誠實(まこと)とすべし。[引照]

口語訳断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。
塚本訳“これは、御言葉によってあなた[神]が正しいとされ、あなたがさばかれる時、勝利を得られるためである。”と書いてあるとおりである。
前田訳断じて否です。人はすべて偽りでも神は真実とすべきです。これは、聖書にあるとおりです、「みことばによってあなたが正しいとされ、み裁きによって勝ちたもうため」と。
新共同決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。
NIVNot at all! Let God be true, and every man a liar. As it is written: "So that you may be proved right when you speak and prevail when you judge."
註解: 詩116:11 に云う如く人はたとい人皆が虚偽者であっても神は絶対に真実に在し給う。原文は命令形で「神をして誠実ならしめよ、されど几ての人をして虚言者ならしめよ」とあり強き言い表し方である。

(しる)して『なんぢは()(ことば)にて()とせられ、(さば)かるるとき(かち)得給(えたま)はん(ため)なり』とあるが(ごと)し。

註解: 詩51:4の七十人訳による引用、罪に悩めるダビデが神の絶対の正義をたたえし語。神の言は絶対に義しく、神は如何なる反対にも打勝ち給う絶対の正義である。ユダヤ人の不信はこの神の義と勝利とが顕われん為であった。
辞解
[その言によりて] ヘブル語法で「語り給う時」の意
[審かるるとき] krinesthai は彼と言い争う事ある時との意(B1,M0,G1)と解するを可とす。

3章5節 ()れど()(われ)らの不義(ふぎ)(かみ)()(あらは)すとせば(なに)()はんか、(いかり)(くは)へたまふ(かみ)不義(ふぎ)なるか[引照]

口語訳しかし、もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。怒りを下す神は、不義であると言うのか(これは人間的な言い方ではある)。
塚本訳しかしもしわたし達の不道徳が神の義を明らかにするならば、どういうことになるのだろうか、お怒りになる神の方が──これは人間的に言うのだが──間違っているのではなかろうか。
前田訳もしわれらの不義が神の義を明らかにするならば、何というべきでしょう。これは人間的にいうのですが、怒りをおくだしの神は不義ですか。
新共同しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。
NIVBut if our unrighteousness brings out God's righteousness more clearly, what shall we say? That God is unjust in bringing his wrath on us? (I am using a human argument.)
註解: 前節の引用句に於てユダヤ人の罪は却て神の義の顕われん為なりとの真理を論述せるパウロは、これに対してユダヤ人の中の理屈好きの人々より提出さるべき第三疑問を想像して、ここに自問自答の形式を以てこれを論述している。即ち若しユダヤ人(は勿論凡ての人も)の不義が却て神の義の顕われる機会となったと云うならば、これらの人々は却て神より褒めらるべきで罰せられる筋合が無いではないか、若し神がこれに怒を加え給うならば神が却て不義な神となるではないかと云うのである。
辞解
[(あらわ)す] sunistanai は種々の意味があるがここでは並列、比較によりて明かにすること。

(こは(ひと)の[()ふ]ごとく()ふなり)

註解: 前文はパウロ自身の疑問ではなく、一般の人の言いそうな事を言ったに過ぎないので、パウロはかく断って置いたのである。

3章6節 (けっ)して(しか)らず、()(しか)あらば(かみ)如何(いか)にして()(さば)(たま)ふべき。[引照]

口語訳断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。
塚本訳もちろん、そうではない。もしそうだとすれば、どうして神はこの世をお裁きになることができよう。
前田訳断じて否です。もしそうならどうして神はこの世をお裁きになれましょう。
新共同決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。
NIVCertainly not! If that were so, how could God judge the world?
註解: 神が不義であると云う如き事は、敬虔なる心を以てはこれを口にする事すら恐ろしい事であった。かかる事は決して有り得ないからである、神の栄光は人類の罪によりていよいよあらわれる。この事は歴史上に於て常に起った事であった。併し乍らそれだからとて罪が罪でなくなった訳ではない。従ってその上に審判が下る事は当然である。故に如何なる場合に於ても世界万民の上に、最後の審判を行い給う処の神、この場合も彼らの上に怒りを加え給うべきである。

3章7節 わが虚僞(いつはり)によりて(かみ)誠實(まこと)いよいよ(あらは)れ、その榮光(えいくわう)とならんには、いかで(われ)なほ罪人(つみびと)として(さば)かるる(こと)あらん。[引照]

口語訳しかし、もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれるのだろうか。
塚本訳しかしもしわたしの(説いた福音が嘘であっても、その)嘘によって神の真実がいよいよ明らかになり、その栄光があらわれるとすれば、なぜそのわたしが、罪人としてなおも罰されねばならないのか。
前田訳けれども、もしわたしの偽りによって神の真実が増して彼の栄光になるならば、なぜそのわたしがなおも罪びととして裁かれねばなりませんか。
新共同またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。
NIVSomeone might argue, "If my falsehood enhances God's truthfulness and so increases his glory, why am I still condemned as a sinner?"

3章8節 また『(ぜん)(きた)らせん(ため)(あく)をなすは()からずや』((ある)(もの)われらを(そし)りて(これ)(われ)らの(ことば)なりといふ)(かか)(ひと)(つみ)(さだ)めらるるは(ただ)し。[引照]

口語訳むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。彼らが罰せられるのは当然である。
塚本訳そして──これをわたし達の言葉だと考えて中傷する者があるそうだが──「善いことを出かすために悪いことをしようではないか」ということにならないだろうか。この連中が罰されるのは当然である。
前田訳これは、ある人々がわれらのいうこととして中傷するのですが、「善を来させるために悪をしましょう」とならないですか。このような人が罰せられるのは当然です。
新共同それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。
NIVWhy not say--as we are being slanderously reported as saying and as some claim that we say--"Let us do evil that good may result"? Their condemnation is deserved.
註解: 第五節には神の審判の正常なりや否やに対する疑問を述べ、ここでは第四に同一の前提の下に、我ら虚偽を行う者は果して罪人なりや否やの疑問につき論じ、更に進んで第五に悪を為す事が却て善事であると主張する者に対し審判を下している。即ち神の経綸と自己の罪の恐ろしさとを認識せざる者は、自己の罪により神の栄光いよいよ増し加われりと聞きて、これを以て自己の罪人にあらざる理由と為さんとし、叉自己の悪行を擁護する理由とせんとしている者があった。且つパウロ等がかく教えていると讒謗(ざんぼう)する者もあった。この思想の誤っているは勿諭云わずもがなの事であり、且つかかる思想を持ち又これを実行する者が、神の審判を受ける事は正当の事である。
辞解
[いよいよ(あらわ)れ] 「いよいよ豊かになり」との事。
[我が] パウロはこの一般的真理を自己を以て代表せしめている。パウロはかかる場合主格には非常に無頓着であった(ガラ4:5-7)。
[(かか)る人] 7、8節の如くに主張し実行する人。
[罪に定めらる] krima は審判かるる事。
要義1 [神の経綸による罪の利用と罪の審判] 神はその知恵とその経綸とによりて人類の罪を利用してこれを神の栄光に変化し給う。アダムの堕落はキリストの救を来らしむる原因となり、ユダヤ人の叛逆がキリストの十字架の贖の御業となり、ユダヤ人の不信が異邦人の救の原因となった。併し乍らこれは罪を罪ならざるものとしたのではなく、罪を神が自由にその栄光の為に用い給うたのである。従って罪は同じく罪であってその審判かるべき事は少しも変わりはない、この事は神の智慧の如何と、自己の罪の如何とを知っている者に取っては極めて明らかな事実である。
要義2 [ユダヤ人の地位] 1-8節の教うる処によればユダヤ人は神の言を委ねられし特種の地位に置かれ、又彼らに対する神の約束は決して変わる事無きにも関らず、尚彼らは罪人として審かれなければならず、叉この神の審きは正当である事を知るのである。これ凡て彼らの罪の結果であって、ユダヤ人は自らその罪によりてその特権を放棄している事となるのである。

2-(1)-(3) 全人類の罪 3:9 - 3:20

3章9節 さらば如何(いか)ん、(われ)らの(まさ)(ところ)ありや、()ることなし。[引照]

口語訳すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。
塚本訳それでは、どうなるのだろうか。(ユダヤ人である)わたし達には、(異教人より)優れたところがあるのか。全然ない。わたし達が前から強く主張してきたように、ユダヤ人も異教人もことごとく、罪の(支配の)下にいるからである。
前田訳それならどうでしょう。われらに特権がありますか。全くありません。われらが前から主張してきましたように、ユダヤ人もギリシア人も皆罪のもとにいます。
新共同では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
NIVWhat shall we conclude then? Are we any better ? Not at all! We have already made the charge that Jews and Gentiles alike are all under sin.
註解: 私訳「さらば如何ん、我ら劣れりや、全く然らず」多くの点に於いて優っているユダヤ人(1、2節)さえも不信(3節)不義(5節)虚偽(7節)等の非難を受けなければならないとするならば、今度はユダヤ人は異邦人よりも劣っている事となるのであるか。全く然らず。
辞解
[勝る所ありや] proechometha は解釈上の難関で(1)勝れりや(A1,B1,Z0、改訳)、(2)劣れりや(L3、E0、I0)等と訳す以外に、(3)「保護する為に何物かを前に置くこと」の意味に取る説もある(G1、M0、W1)。(1)は1、2節と矛盾し、(3)は思想があまりに突然の変化をなし且つ文法上目的を欠く故に不適当であり、従て(2)の我らをユダヤ人と見る解釈を取り異邦人に劣るやとの意味と解す。

(われ)(すで)にユダヤ(びと)もギリシヤ(びと)もみな(つみ)(した)()りと()げたり。

註解: ユダヤ人に就てはロマ2:1-3:8、ギリシャ人即ち異邦人に就てはロマ1:18-31 に既にこの事を弁論した。これによるも全人類が神の審判を免れられないことは明かである。
辞解
[罪の下に在り] 単に罪深き状態を示すに止まらず罪に支配せられこれに服従している有様を表わす。
[既に告げたり] proaitiaomai の告げるは法廷に於て論告する如き楊合に用うる語。

3章10節 (しる)して[引照]

口語訳次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。
塚本訳(聖書に)こう書いてある。──“正しい人がいない、一人もいない、
前田訳聖書にあるとおり、
新共同次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
NIVAs it is written: "There is no one righteous, not even one;
註解: 10-18節にパウロは詩篇及びイザヤ書の処々を引用し、人類はその心に於て(11-12節)、その言葉に於て(13-14節)、その行動に於て(15-17節)、又その信仰に於て(18節)如何に罪深きかを示している。これ等の引用は凡て七十人訳よりの引用であるけれども尚その用語を適宜に取捨変更している。引照により參照せよ。

義人(ぎじん)なし、一人(ひとり)だになし、

註解: (この部分は18節迄の総諭を形成する)。キリストを除いて神の前に完全に義しきものは一人も無い。若し一人でもあったならば、キリストの十字架の意義は失われ、基督教はその存在の理由を失う。

註解: 11、12節は人の心につき論じている、即ち

3章11節 (さと)(もの)なく、[引照]

口語訳悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
塚本訳物のわかる人がいない、神をさがし求める人がいない。
前田訳良識の人はない。神を求める人はない。
新共同悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。
NIVthere is no one who understands, no one who seeks God.
註解: 人性につき神につき深き理解を持っている者はない。

(かみ)(もと)むる(もの)なし。

註解: 神を求むる如くに見ゆる者も実は己の安心や利益を求めているのである。

3章12節 みな(まよ)ひて[引照]

口語訳すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。
塚本訳だれもかれも迷って、みんな堕落してしまった。善をする人がいない、ただの一人もいない。”
前田訳皆が迷い、皆ともに身をもちくずした。善をする人はない。ただひとりもない。
新共同皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
NIVAll have turned away, they have together become worthless; there is no one who does good, not even one."
註解: 正道より迷い出づる事即ち道徳的堕落、

(あひ)(とも)(むな)しくなれり、

註解: 誰も彼も皆無益の存在となってしまった。

(ぜん)をなす(もの)なし、一人(ひとり)だになし。

註解: 人間の心の奥底に潜む利己的心情を見るならばその処から一の善行すら生れ出でない事を知るであろう。
辞解
[善] chrêstotêsは親切なる行為。

註解: 13、14節に於て言語を発する凡ての機関を以て言語に関する罪を示す。

3章13節 (かれ)らの(のど)(ひら)きたる(はか)なり、[引照]

口語訳彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、
塚本訳“彼らの咽は口のあいた墓のよう、その舌であざむき、”“蝮の毒が唇の下にある。”
前田訳彼らの喉は開いた墓のよう、その舌であざむき、唇の下にはまむしの毒がある。
新共同彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。
NIV"Their throats are open graves; their tongues practice deceit." "The poison of vipers is on their lips."
註解: その処より発散する腐敗と汚穢(けがれ)の臭気に何人も耐える事が出来ない。

(した)には詭計(たばかり)あり、

註解: 他人を欺かんが為、

口唇(くちびる)のうちには(まむし)(どく)あり、

註解: 他人を害せんが為。

3章14節 その(くち)(のろひ)(にがき)とにて滿()つ。[引照]

口語訳彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。
塚本訳“口には呪いと苦い言葉とがいっぱいである。”
前田訳口にはにがい呪いが満ちている。
新共同口は、呪いと苦味で満ち、
NIV"Their mouths are full of cursing and bitterness."
註解: 他人に対する凡ての悪意と怨恨の表れである。

註解: 15-17節は人の歩み即ち行為に関する罪で、足を以てこれを表す。

3章15節 その(あし)()(なが)すに(はや)し、[引照]

口語訳彼らの足は、血を流すのに速く、
塚本訳“その足には血を流すにすばしこく、
前田訳足は血を流すに速く、
新共同足は血を流すのに速く、
NIV"Their feet are swift to shed blood;
註解: 殺戮と戦争とはこの罪の発露である。

3章16節 破壞(やぶれ)艱難(なやみ)とその(みち)にあり、[引照]

口語訳彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
塚本訳その行く所には破壊と悲惨とがある、
前田訳その道には破壊と悲惨がある。
新共同その道には破壊と悲惨がある。
NIVruin and misery mark their ways,
註解: 彼らの歩む処皆荒廃に帰し、残るものは唯災禍のみである人類の社会的国家的闘争の跡を見よ。

3章17節 (かれ)らは平和(へいわ)(みち)()らず。[引照]

口語訳そして、彼らは平和の道を知らない。
塚本訳彼らは平和の道を知らない。”
前田訳平和の道を彼らは知らず、
新共同彼らは平和の道を知らない。
NIVand the way of peace they do not know."
註解: 人は皆争闘を好む、人はキリストに在りてのみ真に平和を愛好する者となる。

3章18節 その眼前(めのまへ)(かみ)をおそるる(おそれ)なし』とあるが(ごと)し。[引照]

口語訳彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。
塚本訳“その目の前には神をおそれる恐れがない。”
前田訳その目の前には神へのおそれがない」。
新共同彼らの目には神への畏れがない。」
NIV"There is no fear of God before their eyes."
註解: 以上の凡ての悪の根本は神を畏れざる事より来る。個人的罪悪も社会的罪悪も皆各人が神を無視するより起こるのであって、ここに至って義人一人も無しとの断言の真実なる事を知ることが出来る。「畏敬の念は人の眼に(あらわ)れる」(B1)

3章19節 それ律法(おきて)()ふところは((すべ)(みな))律法(おきて)(した)にある(もの)(かた)ると(われ)らは()る。[引照]

口語訳さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。
塚本訳ところでわたし達が知っているように、(右の)律法[聖書]が言うことはみな、律法に生きる者(すなわちユダヤ人)に対して語られるものである。(しかし)こうして(ユダヤ人だけでなく)すべての(人の)口がふさがり、世界中の人が、神に対して罪なしと言うことはできないのである。
前田訳さて、われらの知るように、すべて律法のいうことは律法の下にあるものに語られています。それはすべての口がふさがって全世界が神に対して罪びととなるためです。
新共同さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
NIVNow we know that whatever the law says, it says to those who are under the law, so that every mouth may be silenced and the whole world held accountable to God.
註解: 10節以下に引用せらる諸節の中の多くは本来異邦人に関する節であるけれども、実は律法(即ち旧約聖書)の中の言は「律法の中に居る者」即ちユダヤ人に対して語られているのであって、凡ての言が彼らに適用せられ、彼らはこれを免れんとして免れる事が出来ない。故に前掲の諸節は皆ユダヤ人にも当てはまるのである。
辞解
[律法] 旧約聖書の最初の最も重要なるモーセの五書を律法(トーラー)と称していた。ゆえに往々全聖書を律法と呼ぶ事がある。
[律法の下に] 原語「律法の中に」

これは(すべ)ての(くち)ふさがり、(かみ)審判(さばき)全世界(ぜんせかい)(ふく)せん(ため)なり。

註解: 前掲旧約聖句の言を適用されるならば、異邦人は勿論の事ユダヤ人も同様、即ち全人類はこれに対して一言の反対をも言う(あた)わずして畏怖の念を以て沈黙し、全世界の人々は神の判決に服せざるを得ないであろう。聖書はこれが為に与えられのである。
辞解
[審判に服す] hupodikos 即ち判決を受けた人となる事で罰さるべきものとの決定を受けてしまう事である、最後の審判の意味ではない。
本節に「凡て皆」「凡ての口」「全世界」等、包括的文字を多く用いている事に注意せよ。

3章20節 (この(ゆえ)に)律法(おきて)行爲(おこなひ)によりては、一人(ひとり)だに(かみ)のまへに()とせられず、(そは)律法(おきて)によりて(つみ)()らる[る](れば)なり。[引照]

口語訳なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
塚本訳というのは、律法が命ずる行いによっては“だれ一人神の前に義とされる者はない。”律法によって(は)罪を知る(ことができるだけで、人を罪から救うことはできない)からである。
前田訳律法の行ないによってはだれひとり神の前に義とされません。律法によっては罪を知るばかりです。
新共同なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
NIVTherefore no one will be declared righteous in his sight by observing the law; rather, through the law we become conscious of sin.
註解: 前述の如く全人類が罪の下に在るが故に、ユダヤ人が如何にその律法の命令に従って忠実にこれを実行しても、神は人の心の中の罪を見給うが故にこれによりて神の前に義人と認められる者は一人として無い。(いわ)んや異邦人をや(これにより ロマ2:6-13 の原則は事実によりてその不可能が証拠立てられた)。蓋し律法によりて唯人の心の罪が示されるのみでこれに打勝つ力は律法から生れて来ないからである。
辞解
[律法の行為] erga nomou パウロがロマ書及びガラテヤ書に屡々(しばしば)用いている重要なる用語で、信仰と対立せしめられていて、律法を自已の努力を以て行う事を指す。即ち神の霊によらず自己の肉の力を以て律法を成就せんとする努力を云う。
[一人だに] pasa sarka、 all flesh は直訳「凡ての肉」で全人類一人残らずの意であると同時に「肉」なる語によりて神に対する罪深き自然人の状態をも意味している。
要義 [人類の罪] 全人類一人の例外なしに罪人であると云うパウロの所論は、一つはアダムの堕落に対して神の詛が与えられし事を明示する旧約聖書の教理であると同時に、又パウロの深き信仰的体験であった。人間は自己の努力により神の前に罪なきものとなり得るや否や、換言すれば人間の中一人たりとも自ら神の前に義人たり得るや否やは基督教の存否の運命が懸っている重要なる点である。もし自己の努カにより、律法の行為によりて神の前に義とせられ得る事が実証せられるならば、キリストの十字架の贖の意義がこれによりて全く消滅してしまうであろう。然るに律法の行為によりて全人類例外なしに神の前に義とせられ得ないとするならば、キリストの十字架は絶対に必要なる唯一の救の途である事となる。故にパウロのこの断定は極めて重要なる断定である。

分類
3 救拯論 3:21 - 11:36
3-(1) 個人の救い 3:21 - 8:39
3-(1)-(1) 義とせらるる事 3:21 - 5:21
3-(1)-(1)-(イ) 神の義は顕れたり 3:21 - 3:26

3章21節 (しか)るに(いま)律法(おきて)(ほか)(かみ)()(あらは)れたり、[引照]

口語訳しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
塚本訳しかしながら今、律法に関係なく、神の義は現わされた。しかし律法と預言書と[聖書]によって(すでに)証しされているものである。
前田訳しかし今や律法に関係なく神の義が示されました。今や、といっても、それは律法と預言書によって証されているものです。
新共同ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
NIVBut now a righteousness from God, apart from law, has been made known, to which the Law and the Prophets testify.
註解: 九地の底に投げ入れられし人類はここに九天の上に挙げらるる道が開かれた。即ち律法とは全く無関係に律法を行う事によりて到達せんとする人間の義とは全く異れる神の義がキリストとその十字架によりて天より顕示されたのである。この神の義の何たるかは本節後半より31節に於て詳述されている処により明かである。
辞解
[今や] 時を示すよりも状態の更新を示す、「茲に」と訳してやや原意に近い(M0、G2、Z0)。
[神の義] 神の愛は義の形を以て顕れる。
[顕れたり] pephanerôtai でロマ1:17の「顕れ」apokaluptetai と文字を異にしているけれども意味に大差ない。前者は不明なものが明かにされる事、後者は隠れているものが露現される事である。本節に完了形の動詞を用いたのはイエス・キリストなる歴史的に完了せる事実と、その永遠の効果を指すが為である。

これ律法(おきて)預言者(よげんしゃ)とに()りて(あかし)せられ、

註解: この神の義は第一に旧約聖書に証明せられている事で、旧約の祭事、その宗教制度、その預言等は皆神の義のあらわれであるキリスト及び新約の時代を指示している。(ヨハ5:39ヨハ5:45ルカ24:27及びその引照。ヘブ8:13-13)故に福音はキリスト及びその弟子たちの新しい発明ではない。
辞解
[律法と預言者] 旧約聖書の事、前に「律法の外に」と云いしは我らを義とすべき行為の基準としての律法を云い、ここに「律法と預言者とにより」と云う場合は神の約束としての律法を云っている、前後矛盾するが如くにして然らず。イザ33:24イザ53:5以下。エレ32:31-44。エゼ34:16等はこの証明と見る事を得。

3章22節 イエス・キリストを(しん)ずるに()りて(すべ)(しん)ずる(もの)に[(あた)へたまふ](かみ)()なり。[引照]

口語訳それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
塚本訳この神の義は、イエス・キリストを信ずる信仰(だけ)によって、これを信ずるすべての者にあたえられる。(すべてというのは、そこに人間的の)なんの差別もないからである。
前田訳すなわち、イエス・キリストのまことによる神の義で、信ずるものすべてのためのものです。そこに差別はありません。
新共同すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
NIVThis righteousness from God comes through faith in Jesus Christ to all who believe. There is no difference,
註解: 第二に神の義が如何にして与えられるかに就きては「イエス・キリストに対する信仰による」事を示している。神の前には人間の努力による律法の行偽は空しいものであり唯神の遣し給えるイエス・キリストを信ずる心のみを神は(よみ)し給いて彼を義なる者と認め給い、神の義を彼の上に被らせ給う。而してその与えられる範囲はユダヤ人とか異邦人とかの範囲に限られる事なく「信ずる凡てのものに及ぶ」のである。
辞解
異本に「信ずる凡ての者の中に又凡ての者の上に」とあり神の義が万人に及び万人を(おお)う有様を示すものとして適当なる文句である。

[(これ)には](なに)()差別(わかち)あるなし。

註解: 私訳「そは差別なければなり」、信仰によりて神の義が与えらるる事に於いては人種的、階級的、宗派的、道徳的その他の区別は全くなく万人に共通である。ユダヤ人にさえ何等の優越権はない。

3章23節 (そは)(すべ)ての(ひと)(つみ)(をか)したれば(かみ)榮光(えいくわう)()くるに()らず、[引照]

口語訳すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
塚本訳なぜか。すべての人が罪を犯したため、いまだれ一人、(かつて持っていた)神の栄光をもたない。
前田訳すべての人は罪を犯したため、神の栄光を欠いています、
新共同人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
NIVfor all have sinned and fall short of the glory of God,
註解: 全人類無差別に信仰によるに非ざれば神の義を受け得ざる理由は、万人皆アダムに在るその罪の故に各々罪を犯しているので、神の栄光に相応しからざるものとなっているからである。
辞解
[罪を犯したれば] 不定過去形を用い、過去の事実として取扱い
[受くるに足らず] 「欠く」の意で現在動詞を用い現実の有様を示す。
[神の栄光] 種種の解あれど、神御自身の栄光にして又同時に彼を信ずる者に賜う処の栄光と解すべきである。

3章24節 (こう)なくして(かみ)恩惠(めぐみ)により、キリスト・イエスにある贖罪(あがなひ)によりて()とせらる[る](れば)なり。[引照]

口語訳彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
塚本訳(さりとて失った栄光を回復する力はないので、何一つ)代価を払わず、(ただ)神の恩恵によって、キリスト・イエスによるあがないの力で、(神に)義とされる(道が設けられた)のである。
前田訳しかし、代償なしに、神の恩恵によって、キリスト・イエスのあがないのおかげで、義とされるのです。
新共同ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
NIVand are justified freely by his grace through the redemption that came by Christ Jesus.
註解: 神の栄光を受くるに足らざる彼らは救われん為には唯神によりて義と認められるより外に途がない。而して義とされる方法はキリスト・イエスにある贖であって、(あたか)も代償を払って奴隷を自由人とする如くキリストはその宝血を贖代金として与えて人類を罪より贖い取り給うた。我ら自身に於ては全く救わるべき権利や価値なきにも関わらず、「功なくして」「値なしに」全く「神の恩恵」のみにより義とされる事が出来るに至ったのである。
辞解
[贖罪] apolutrosis値を払って奴隷を買取る事より来れる文字(マタ20:28Tテモ2:6Tペテ1:18等)
[功なくして] dôrean は「賜物として」「只で」「値なしに」等の意。
[義とせらるる] 神が「それでよろし」として満足すること。

3章25節 (すなは)(かみ)忍耐(にんたい)をもて過來(すぎこ)しかたの(つみ)見遁(みのが)(たま)ひしが、(おのれ)()(あらは)さんとて、キリストを()て、その()によりて信仰(しんかう)によれる(なだめ)供物(そなへもの)となし(たま)へり。[引照]

口語訳神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
塚本訳すなわち神は御自分の義を示すために、宥めの供え物としてキリストを提供された。これはキリストの血でなされたものであり、(人は)信仰によ(ってこの恩恵にあずか)るのである。このことは──神が(長いあいだ)忍耐をもって過ぎし日に犯した罪を罰せずにおられたので──
前田訳神はキリストを宥めの供え物として差し出されました。これは血を流すまでの彼のまことによるものです。このようなことは、人々の過去の罪を神ならではの忍耐で見のがしてご自身の義を示すためであり、
新共同神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
NIVGod presented him as a sacrifice of atonement, through faith in his blood. He did this to demonstrate his justice, because in his forbearance he had left the sins committed beforehand unpunished--
註解: ▲口語訳「信仰をもって受くべきあがないの供物」は原語からは全く離れているが意味はよく通じる。

3章26節 これ(いま)おのれの()(あらは)して、(みづか)()たらん(ため)、またイエスを(しん)ずる(もの)()とし(たま)はん(ため)なり。[引照]

口語訳それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
塚本訳今の世において、御自分の義を示そうとされたのである。すなわち御自分が義であること、またイエスを信ずる者を義とするお方であることを、(この世に)示されたのである。
前田訳さらに、今の世でご自身の義を示すためでもあります。すなわち、ご自身が義にいますとともに、イエスのまことによるものを義とする方であるためです。
新共同このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
NIVhe did it to demonstrate his justice at the present time, so as to be just and the one who justifies those who have faith in Jesus.
註解: この二節は前節神の恵み、キリストの贖の一層深き説明であり、キリストに顕れし神の義、神の智慧の要約、福音の精髄である。従って訳解の上に種々の異説が多い。改訳本文は文法上の構造は原文と離れているけれども大体に於て正しき意味を伝えている。原文に於ては「神は彼を立てて(なだめ)の供物となし給えり」の文句が最初にあり、これが全文の眼目である。パウロは24節に述べし贖によりて義とせられるの途が如何にして、何時、何の為、如何なる内容を以て開かれしかを25、26節に述べて居り、簡単なる文章の中に宇宙の画期的大事実が盛られている。(1)如何にして神は人を義とし給うか。答、(25節後半、原文では前半)それはキリストをその十字架の死によりて「公けに万人の前に提示し」て「彼の血を以て」する犠牲となし、人は「信仰により」て彼を受くる事により、神と人との間に和らぎが成就する。この意味に於て旧約時代に於ける犠牲の供物と同じくキリストは「(なだめ)の供物となり給うた」。(2)何の目的を以て神はこれを為し給いしか。答、(25節前半、原文では後半)その義を示さんが為、即ち従来神はその義を完全に示し給わず、忍耐を以て人類の罪を放任し給うた。これ全く彼の愛心の発露であって、若し神が罪を見遁し給う事が無かったならば人類は神の義の故に凡てが直ちに亡ぼされてしまったであろう。神はかくして従来保留し給いし義を示さんが為にキリストを十字架上にて審判(さば)き給うた。(3)何時この事が行われたか。答、(26節前半)「今の時に於て」神はキリストを遣し給い、彼を十字架に釘ける事によりてこれを為し給うた。故にキリストの十字架は人類の歴史の画期的出来事である。(4)而してキリストの十字架により、神がその義を顕示し給うたのは何の為であったか。答、(26節後半、この部分は25、26aの全体の理由の説明である、G1)動機目的は二重である。その一は神自ら義であり給わんが為である。即ち人の罪を見遁し給う事は、神の義の停止である。然るに今や神は十字架上の犠牲たりしイエス・キリストを罪ある全人類の代表者として、彼を罰する事によりて神の義を実現し給うたのである。その二はこのイエスを信ずる者を義とせんが為である。即ち神はイエスに於て凡ての人類の罪を罰し給いしが故に、イエスを信ずるものは自己に何等の功なくともその信仰の故に、神の前に義しき者と認められる。かくして神は自らの義を(むな)しくする事なしに而も義ならざるものを義とし給う。神の智慧の量り難き深さがここにある。
辞解
[過来(すぎこ)しかたの罪] その後の罪は凡てキリストの十字架の上に審かれている。
[見遁(みのが)し] paresis は罪の赦しと異る、これを混同してはならない。
[(あらわ)す] endeixsis 公表する事。
[立て] protithêmi 「前に置く」即ち公けに提示する事。
[(なだめ)の供物] hilastêrion 難解の文字。(▲ヒラステーリオンは神の幕家の至聖所にある贖罪所のことで大祭司は年に一回いけにえの血を携えて其処に入り神に見える場所である。之が「(なだめ)の供物」の意味に用いられる様になった。)(1)贖罪所(C1、L1)(2)(なだめ)の手段(G1、Z0)、(3)キリストを形容する形容詞(E0、I0)、(4)(なだめ)の供物(A1、M0、改訳)その他の解あれど(4)を採る。
[今] 直訳「今の時に」。
「自ら義たらん為」 以下は全文の結論と見る。

3-(1)-(1)-(ロ) 信仰によりてのみ義とせらるる 3:27 - 3:31

3章27節 さらば(ほこ)るところ何處(いづこ)にあるか。[引照]

口語訳すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。
塚本訳それでは(ユダヤ人の)誇りはどうなるのか。誇ることは出来なくなった。なんの法則によって(出来ないの)か。行いの(完全を要求するモーセ律法の)法則によってか。そうではない、信仰の法則によってである。
前田訳それなら誇りはどうなりますか。もう誇れません。それはどの律法によってですか。行ないの律法によってですか。否、まことの律法によってです。
新共同では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
NIVWhere, then, is boasting? It is excluded. On what principle? On that of observing the law? No, but on that of faith.
註解: 上述の如く(21-26節)彼らの義とされる事は凡て神より出ずる御業であるとするならば、我らには誇るべき何ものも無い。従って我らが誇る事は誤りである。ユダヤ人はその法律に誇っていた。この誇すら虚しとすれば(いわ)んや異邦人をや。

(すで)(のぞ)かれたり、

註解: 錠を(かえ)して締出しを喰わせる事。恩恵によりて義とされる以上は誇りの入り来るべき場所は何処にも無い訳である。

(なに)律法(おきて)()りてか、行爲(おこなひ)律法(おきて)か、(しか)らず、信仰(しんかう)律法(おきて)()りてなり。

註解: ユダヤ人の優越の誇が上述の如くにして全く排斥されてしまったのは、行為を規定しこれを要求するモーセの律法によるのではない。モーセの律法も実を云えばこの誇りを排除し得べきであったのに(19節)事実それが出来なかった。これが出来たのは全く信仰の法則(律法)によったのである。即ち次節にその理由を示す如く、信仰によりて義とされる事の原則は自己に誇るべき何物も無き事を前提とするからである。
辞解
[律法] nomos はここでは二種の意味に用いられている。

3章28節 (われ)らは(おも)ふ、(ひと)()とせらるるは、律法(おきて)行爲(おこなひ)によらず、信仰(しんかう)()るなり。[引照]

口語訳わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
塚本訳わたし達の信ずるところでは、(すでに言ったように、)人は律法の命ずる行いに関係なく、(ただ)信仰(だけ)で、義とされるからである。
前田訳われらの考えでは、律法の行ないとは別に、人はまことによって義とされます。
新共同なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
NIVFor we maintain that a man is justified by faith apart from observing the law.
註解: 私訳「蓋し我ら思うに人は律法の行為なしに信仰によりて義とされるなり」信仰のみによりて凡ての人間は義とされる。神の前に義とされる為には律法の行為による自己の功を神の前に誇るべきではない。誇は即ち除かれたり。唯信仰のみを以て神の前に出づべきである。この信仰とは次章に示すが如く、全心を以てキリストに依り頼む信頼である。

3章29節 ((また)は)(かみ)はただユダヤ(びと)のみの(かみ)なるか、また異邦人(いはうじん)(かみ)ならずや、(しか)り、また異邦人(いはうじん)(かみ)なり。[引照]

口語訳それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。
塚本訳それとも神はユダヤ人だけの神であろうか。また異教人の神ではなかろうか。もちろん異教人の神でもある、
前田訳それとも、神はユダヤ人だけの神ですか。また異教徒の神でもありませんか。もちろん異教徒の神でもある、
新共同それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
NIVIs God the God of Jews only? Is he not the God of Gentiles too? Yes, of Gentiles too,
註解: 前節の理由の外更に本節及び次節に於てユダヤ人の誇の排除せられしを付加している。その理由はユダヤ人の神は同時に異邦人の神なる点である。これ一神教の当然の結論であり、聖書にもこの事を示している(詩96篇-98篇エレ10:7等)。原文に「又は」とあり、「前節の議論にて不充分ならば」との意。

3章30節 (かみ)唯一(ゆゐいつ)にして、割禮(かつれい)ある(もの)信仰(しんかう)によりて()とし、割禮(かつれい)なき(もの)をも信仰(しんかう)によりて()とし(たま)へばなり。[引照]

口語訳まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。
塚本訳神がただお一人である以上は。すなわち神は、割礼のある者を信仰により、割礼のない者をも信仰によって、義とされる。
前田訳神がひとりにいますかぎりは。神は、割礼あるものをまことによって、無割礼のものをもまことによって、義とされます。
新共同実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
NIVsince there is only one God, who will justify the circumcised by faith and the uncircumcised through that same faith.
註解: 神は唯一にして而も偏り視給う事なく、従って義とされる理由として割礼無割礼の別が無い。パウロに取りては神の前に万人が平等であった。故に異邦人は勿論ユダヤ人さえも、その誇の排除されるべきは当然である(エペ2:8-9)。ロマ2:6-16に於て律法を行う者はユダヤ人と異邦人との区別なく義とせされる点に於て神の公平を論じたるパウロはここに亦信仰のみによりて義とされる意味に於ても、この両者の無差別を示している。当時のユダヤ人に取ってこれが如何に多くの躓となったかは想像に余りある。

3章31節 (しか)らば(われ)信仰(しんかう)をもて律法(おきて)(むな)しくするか、(けっ)して(しか)らず、(かへ)つて律法(おきて)(かた)うするなり。[引照]

口語訳すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。
塚本訳それではわたし達は、信仰(による救いの道)によって(モーセ)律法を廃止することになるのか。もちろん、そうではない。(結果から見ると、)むしろ律法の効力を発揮させるのである。
前田訳まことのためにわれらは律法を無にするのでしょうか。断じて否です。むしろ律法を強化するのです。
新共同それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。
NIVDo we, then, nullify the law by this faith? Not at all! Rather, we uphold the law.
註解: 律法の行為によりて義とせられず(28節)、割礼すらも無割礼と異らずとせば(30節)福音を唱うるパウロ等は旧約聖書の律法を全く廃止し無効に帰したのであるかと云うに決して然らず。寧ろその反対に律法をしてその地位に堅く立たしめる。即ち人々をして神の前にその罪の審判に服せしむる働きを為すと共に、信仰によりて義とされる事によりて潔められて律法の要求を完うする事が出来るに至るのである(C1)。マタ5:17のイエスの御言もこの意味である。本節は2:1以下の結尾である。
要義1 [神の義は顕はれたり] 3:21-27に於てパウロは何故に神の義と云いて一言も神の愛と云わなかったのであろうか。その故は神は義にして愛に在し給う、而して神の愛は始めから比較的明かであった。何となれば若し神が愛に在し給わざりしならば、過去の罪を忍耐を以て見遁し給うこと(25節)なく、罪は直ちに審かれてしまったであろうから。神がかく忍耐して罪人を滅ぼし給わなかった理由は神の愛が彼らを救わんとの熱望に燃え一人の亡ぶるをも望み給わなかったからである(Uペテ3:9)。最大の困難は神が如何にしてその義を顕わし給うかに在った。神は御自身の義を放棄し給う事は出来ない。併し乍らその義を顕わさんとせば当然凡ての人類の罪の上にその審判が下らなければならない。ここに於て愛の神はその計るべからざる智慧をもて、「自ら義たり、叉イエスを信ずる者を義とし」かくして自己の義を(いささか)も毀損する事なしに、義ならざる者をも義とし給う道を開き給うたのである。
要義2 [(なだめ)の供物] 罪に対する神の怒は、その罪が審かれ終る迄は永遠に止む時がない。十字架上に於けるキリストの死はこの神の怒が(なだめ)られ和げられる為に必要であった。罪に対する神の怒は聖なる神の必然である。これを愛の神に相応わしからずと考えるのは、神の義の性質を認識せざる誤である。故に聖にして義なる神の怒は罪に対する当然の処置である。故にキリストの十字架は我らにとりて罪の贖であり神にとりて(なだめ)の供物であり、何れに取っても必要欠くべからざる救の途であった。
要義3 [信仰の義] 「信仰のみによりて義とせらる」とは神に対する我らの態度が信仰、信頼、服従、帰依そのものであるならば神はこの理由にのみより――他に何等の功も行為も要求せず、我らの過去の罪の深さ如何に関せず――我らを義なるものと認め給い、神との間に親子の関係が成立する事を云うのである。「律法の行為によらず」とは律法の行為そのものの無価値、不必要を云うのではなく、神より義とせらるべき理由としては全く無価値なる事を云うのである。
要義4 [義と認められる事と義となる事] 我らは義となり罪を犯さなくなって後に義と認められるのではなく、先づ信仰によりて神より義と認められ、然る後神の霊の導きによりて次第に義しき者とせられるのである。後者はこれを潔めと云い、各人の信仰の程度とその肉の性質如何によりて種々の程度と期間に於て行われ一様ではない。

ロマ書第4章
3-(1)-(1)-(ハ) アブラハムの信仰 4:1 - 4:25
3-(1)-(1)-(ハ)-(a) アブラハムは信仰によりて義とせられた 4:1 - 4:12

註解: パウロは前章21節以下に於て論ぜし信仰のみによりて義とされることの真理を旧約聖書の中に探し、遂にアブラハムの信仰に於いてこれを見出した。旧約によりて証明する事はユダヤ人に取って殊に有効、必要であった。

4章1節 さらば(われ)らの先祖(せんぞ)アブラハムは(にく)につきて(なに)()たりと()はんか。[引照]

口語訳それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。
塚本訳それでは、わたし達(ユダヤ人の)肉の先祖アブラハムが得たものは、どういうことになるのだろうか、(何も得なかったことになるではないか、とある人は言うかも知れない。
前田訳それでは、われらの肉の父祖アブラハムが得たものは何であるといいましよう。
新共同では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。
NIVWhat then shall we say that Abraham, our forefather, discovered in this matter?
註解: アブラハムはユダヤ人の先祖であるが、彼は果して「肉につきて」即ち性来(うまれつき)のままの人間として何か誇るべきものを見出したと云い得るであろうか、「実は全くない」との意味を補充すべし、従ってアブラハムの肉の子孫たるイスラエルも肉につきて何の得る処もありえない。
辞解
[肉につきて] 新生の「霊につきて」の反対で、その「人間の本性のままで」の意、即ちアブラハムが自己の血統や又は修養努力によりての意。
[得たり] 原語「見出したり」、ここでは何か誇るべきものを見出す事。

4章2節 アブラハム()行爲(おこなひ)によりて()とせられたらんには(ほこ)るべき(ところ)あり、()れど(かみ)(まへ)には()ることなし。[引照]

口語訳もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。
塚本訳わたしは答える、)もし実際アブラハムが(りっぱな)行いによって義とされたのならば、(たしかに)誇る理由がある。しかし(誇ると言っても、人間に対してであって、)神に対してではない。
前田訳もしアブラハムが行ないによって義とされたなら、誇っていいわけです。しかし神に対してではありません。
新共同もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。
NIVIf, in fact, Abraham was justified by works, he had something to boast about--but not before God.
註解: 文章簡単なるが故に種種の解釈を生み種種の文字を挿入する事が試みられている。大意は若しアブラハムは行為によりて(この場合前節の肉につきてと同義)義とせられたとすれば、それは彼の功績として彼の誇るべき事柄である。然れど『彼は行為によりて義とせられなかった』夫故に神の前には何ら誇るべき事有る事なし。『』内の文字の意味を補充すれば意味明瞭である(B1)。而してパウロがかく断定せる理由として次節に聖書の言を引用してこれを証明している。
辞解
原文には本節の始めに「何となれば」とあり、前節の註と本節の註の『』内の文字を本文に補充して読めばこの「何となれば」の意味は明らかである。

4章3節 聖書(せいしょ)(なに)()へるか『アブラハム(かみ)(しん)ず、その信仰(しんかう)()(みと)められたり』と。[引照]

口語訳なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
塚本訳では聖書は何と言っているか。“アブラハムは神を信じて、そのことが彼の義と見なされた”とある。(アブラハムが義とされたのは行いのゆえではなく、恩恵である。)
前田訳聖書は何といいますか。「アブラハムは神を信じ、それが彼の義と認められた」とあります。
新共同聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
NIVWhat does the Scripture say? "Abraham believed God, and it was credited to him as righteousness."
註解: 原文にもここにも「何となれば」とあり前節末尾殊にその省略せられし意味の部分の理由として聖言を引用した事がわかる。本節は創15:6の七十人訳よりの引用で、アブラハムが神の約束を信じこれが為に神は彼を義と数え給いし事の記事に基いている。即ちユダヤ人の最も尊敬せる始祖アブラハムが神に義と認められし理由がその行為にあらず、その信仰によった事に注意すべきである。これがパウロの主張の根本に対する聖書の証明であった。
辞解
[信ず] 神の約束に対し、換言すれば神に対し絶対の信頼と服従とをささげる事、故に本質に於て基督者の信仰と同一である。キリストに関する事柄や又キリストに対する信仰は皆この神に対するアブラハムの信仰の中に含まれている。
[認めらる] logizomai は数えられる。勘定に払込まれる等の意味。尚ガラ3:6參照。

4章4節 それ(はたら)(もの)への報酬(むくい)恩惠(めぐみ)といはず、負債(おひめ)(みと)めらる。[引照]

口語訳いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。
塚本訳いったい、仕事をする者に対しては、報酬は債務であって、恩恵とみなすべきではない。
前田訳行ないをするものにとっては、報酬は恩恵ではなくて義務とみなされます。
新共同ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。
NIVNow when a man works, his wages are not credited to him as a gift, but as an obligation.
註解: 直訳「働く者には報酬は恩恵として勘定されず、債務として勘定される」社会の常識と霊界の事実に適用して信仰によりて義とされる事の真理の逆の反面を示す。若し人が律法の行為によりて義とされるならば、人の善行が神に対する債権となり神は人間に対して債務者の如き地位に立つ事となる。かかる事は有り得べからざる事である。
辞解
[働く者] ergazomenos 「行為を為す者」を意味し、自己の行為の価値を以て神の前に立たんとする者を指す。▲「働く者」とは「律法の行為を為す者」の意。「働く」ergazomaiは「行為」ergaを為す者の意。5節も同様なり。単なる労働者の意味ではない。
[認めらる] 前節の「義と認めらる」の場合と同語を用い、その本来の「勘定される」意味を兼ねている。

4章5節 されど(はたら)(こと)なくとも、敬虔(けいけん)ならぬ(もの)()としたまふ(かみ)(しん)ずる(もの)は、その信仰(しんかう)()(みと)めらるるなり。[引照]

口語訳しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。
塚本訳反対に、仕事をしない者、すなわち(善い行いは出来ずとも、信ずれば)どんな悪人でも義とするお方(神)を信ずる者に対しては、その信仰が義と見なされるのである。
前田訳行ないをしないものにとってはすなわち不信のものを義となさる方を信ずるものにとっては、その信仰が義と認められます。
新共同しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。
NIVHowever, to the man who does not work but trusts God who justifies the wicked, his faith is credited as righteousness.
註解: ロマ3:23-24節は神の恩恵の方面を示し、本節は人の信仰の方面を示す。同一事実の両面である。神は人の行為に対する誇を嫌い、神の能力とその恩恵とに信頼し、敬虔ならぬ者をも義とする事を得給う神を信ずるの絶対的信仰を最も(よみ)し給いてこれを義と認め給う。義と認むることは神の御心がそれを以て完全に満足し給う事を指す。

4章6節 ダビデもまた行爲(おこなひ)なくして(かみ)()(みと)めらるる(ひと)幸福(さいはひ)につきて()()へり。[引照]

口語訳ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、
塚本訳同じようにダビデ(王)も、行いに関係なく、(ただ信仰のゆえに)神が義と見なされる人の幸福を讃美して、こう言っている。
前田訳同じようにダビデも、行ないに関係なく神が義と認められる人のさいわいを讃美します、
新共同同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。
NIVDavid says the same thing when he speaks of the blessedness of the man to whom God credits righteousness apart from works:
註解: 信仰によりて義とされることのアブラハムの例を更に強めるために6-8節に旧約中の第二の主要人物ダビデを連れてきてその経験を以て第5節の真理を裏書していることは、パウロの(さと)き戦術である。
辞解
[幸福につきてかく云えり] 「幸福を祝して[次の如く]云えり」の意。

(いは)く、

4章7節 ()(はう)(ゆる)され、(つみ)(おほ)はれたる(もの)幸福(さいはひ)なるかな、[引照]

口語訳「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。
塚本訳“幸いである、その不法をゆるされ、その罪をおおわれた人たちは。
前田訳「さいわいなのは不法をゆるされ、罪をおおわれた人。
新共同「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。
NIV"Blessed are they whose transgressions are forgiven, whose sins are covered.

4章8節 (しゅ)(つみ)(みと)(たま)はぬ(ひと)幸福(さいはひ)なるかな』[引照]

口語訳罪を主に認められない人は、さいわいである」。
塚本訳幸いな人である、主がその罪を認められない人は。”
前田訳さいわいなのは主が罪を認められぬ人」と。
新共同主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」
NIVBlessed is the man whose sin the Lord will never count against him."
註解: 詩32:1以下七十人訳の引用で、ダビデがその罪を赦されし歓喜の経験を記す。悔改と信仰とにより神の心は和らぎて我らの不法を(ゆる)しこれを審き給わず、キリストの十字架の血(ダビデの場合はこれが神の予定の中に在った)によりて罪は覆われて神の目に見えざるに至り、神はその罪人を義と認むる事によりてその罪をば心に留め給わない。かかる者こそ真に幸福なる者である。▲マタ1:1参照。

4章9節 されば()幸福(さいはひ)はただ割禮(かつれい)ある(もの)にのみあるか、また割禮(かつれい)なき(もの)にもあるか、[引照]

口語訳さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。
塚本訳それではこの幸福の讃美は、割礼のある者(だけ)についてか、それとも割礼のない者にも及ぶのか。わたし達は(くりかえして)言う、“アブラハムの信仰が義と見なされた”と。
前田訳さて、この讃美は割礼あるものについてですか、無割礼のものについてもですか。われらはいいます、「アブラハムの信仰が義と認められた」と。
新共同では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。
NIVIs this blessedness only for the circumcised, or also for the uncircumcised? We have been saying that Abraham's faith was credited to him as righteousness.
註解: 「働く者」につきてのみ論じつつあったパウロは、読者が陥り得る誤解に心付いた。それは宗教的形式の具備が神に義とされる事に対する必要条件なりや否やの問題である。ユダヤ人と異邦人との間に差異なき事は既に諭じた(ロマ2:12ロマ2:25-29。ロマ3:29-30)。唯ユダヤ人が救の要件として非常に重要視したる割礼に就てはユダヤ人の基督者の間にすら尚かかる形式無しに果たして義とせられ得るや否やの疑義があった(使15:1)。パウロは本節に先ずこの疑義を提出して12節までその答えを与えている。

(われ)らは()ふ『アブラハムはその信仰(しんかう)()(みと)められたり』と。

註解: 直訳「その故は『』と我らは言えばなり」『』内の文言のみにては割礼の必要の有無は不明瞭であり、従って本節前半の疑義が生ずる訳である。

4章10節 (()らば)如何(いか)なるときに()(みと)められたるか、割禮(かつれい)ののちか、()割禮(かつれい)のときか、割禮(かつれい)(のち)ならず、()割禮(かつれい)(とき)なり。[引照]

口語訳それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。
塚本訳それではどんな場合に義とみなされたのか。割礼を受けた後か、それとも(まだ)割礼をうけない時か。割礼を受けた時でなく、割礼をうけない時である。
前田訳どんな場合にそう認められましたか。割礼されてからですか、無割礼のときですか。割礼されてからではなく、無割礼のときです。
新共同どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。
NIVUnder what circumstances was it credited? Was it after he was circumcised, or before? It was not after, but before!
註解: さらば前節後半の語を尚詳しく検討して見よう。アブラハムは如何なる状態に於いて義と認められたか。割礼の前後どちらであったか、創15章に於て義と認められ、その後約14年を経て創17章に於て割礼を受けたのであれば、彼が義と認められたのは割礼を受けない状態に於てであった。
辞解
[如何なる時に] pôs は「如何なる状態の時に」

4章11節 (しか)して()割禮(かつれい)のときの信仰(しんかう)によれる()(いん)として割禮(かつれい)(しるし)()けたり、[引照]

口語訳そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、
塚本訳そしてアブラハムが(あとで)“割礼なる徴を”受けたのは、(まだ)“割礼をうけない”時、信仰によって義とされたことの証拠としてである。これは彼が、(一方ではユダヤ人でない信者、すなわち)割礼なしで信じて義とみなされるすべての人の父になるためであり、
前田訳彼が割礼という徴を受けたのは、無割礼のときの信仰の義の保証としてです。それは彼が無割礼で信じて義と認められるものすべての父となるためです。
新共同アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。
NIVAnd he received the sign of circumcision, a seal of the righteousness that he had by faith while he was still uncircumcised. So then, he is the father of all who believe but have not been circumcised, in order that righteousness might be credited to them.
註解: (あたか)も洗礼が信仰の徴であると同じく割礼も亦信仰による義の印であった。創17:11によれば割礼はヱホバとの間の契約の徴であると録されているけれども、この契約はアブラハムの信仰の義に対して神が与え給うた意味に於て信仰の義の徴であるとも云う事が出来る。

これ()割禮(かつれい)にして(しん)ずる(すべ)ての(もの)()(みと)められん(ため)に、その(ちち)となり、

4章12節 また割禮(かつれい)のみに()らず、(われ)らの(ちち)アブラハムの()割禮(かつれい)のときの信仰(しんかう)(あと)をふむ割禮(かつれい)ある(もの)(ちち)とならん(ため)なり。[引照]

口語訳かつ、割礼の者の父となるためなのである。割礼の者というのは、割礼を受けた者ばかりではなく、われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさすのである。
塚本訳また(他方ではユダヤ人の信者、すなわち)割礼があるだけでなく、わたし達の父アブラハムが割礼をうけない時(に信じて義と見なされたそ)の信仰の足跡を踏む、(まことの)割礼のある人たちの父になるためであった。
前田訳そしてまた、割礼があるだけでなく、われらの父アブラハムの無割礼のときの信仰の跡に従う人々の父になるためです。
新共同更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。
NIVAnd he is also the father of the circumcised who not only are circumcised but who also walk in the footsteps of the faith that our father Abraham had before he was circumcised.
註解: 以上の如くアブラハムの割礼の歴史にはニ重の意味がある。その一は無割礼即ち異邦人に対するものであって、アブラハムが無割礼の時に信仰に入りこれによりて義とせられし事は、無割礼にして信仰に入る者も彼と同様、義とせられ彼が彼らの信仰上の父たらん為であった。その二はアブラハムが義とせられて後、割礼を受けし事はアブラハムの信仰の跡を歩む割礼者、即ちユダヤ人にして而もアブラハムと同一の信仰を持つものの父とならんが為であった。ここに神の微妙なる智慧がある事をパウロは認めたのである。若しアブラハムが割礼を受けて後に信仰によりて義とせられたならば、無割礼の異邦人が信仰のみによりて義とせられる事の証拠とならなかった、若し又アブラハムが義とせられて後割礼を受けなかったならば、割礼ある者が果して信仰によりて義とせらるるや否や不明であった。
辞解
第12節を上記の如くに訳解する場合には、原文に文法上の誤謬(或は写字上の誤謬か―ホルト)があると見なければならない。かく見るのが至当であろう(M0,Z0,G1等参照)。

3-(1)-(1)-(ハ)-(b) アブラハムは約束を信じた 4:13 - 4:16

4章13節 アブラハム世界(せかい)世嗣(よつぎ)たるべしとの約束(やくそく)を、アブラハムとその(すゑ)とに(あた)へられしは、律法(おきて)()らず、信仰(しんかう)()()れるなり。[引照]

口語訳なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。
塚本訳(このように義とされるのは割礼に関係がない。)なぜなら、アブラハムとその子孫とが世界の相続人になるという約束(が与えられたの)は、(モーセ)律法(を行ったこと)によるのではなく、信仰の義によるからである。
前田訳世界の相続人になるとの約束がアブラハムまたその末になされたのは、律法によらず、信仰の義によるものです。
新共同神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。
NIVIt was not through law that Abraham and his offspring received the promise that he would be heir of the world, but through the righteousness that comes by faith.
註解: 前節の理由(gar)。未だ律法が与えられず、律法の行為として誇るべきものを持たなかった時に、神はアブラハムとその裔とに対してカナンの土地を約束し給うた。これアブラハムの信仰の故であり(創12:2、3)、神はこの信仰を義と認め給うたからである。故に信仰なくば勿論この約束に(あずか)る筈がない(創12:7創13:14-17。創15:18創17:8創22:16-18。創26:3)。
辞解
[世界の世嗣(よつぎ)] アブラハムはカナンの土地またはその周囲の土地に対する約束をエホバより受けたに過ぎなかった、しかしこれが全世界の支配を意味することとして古くより解せられていた。すなわちイサクの子孫は増し加わり、その中の一人によりて全世界の支配が実現するというメシヤ思想であった。キリストも(マタ5:5マタ19:28マタ28:18マタ25:31ルカ22:30ヨハ17:2)パウロも(ピリ2:9、10。コロ1:17ロマ8:32)豊かにこの思想をもっていた。

4章14節 もし律法(おきて)による(もの)ども世嗣(よつぎ)たらば、信仰(しんかう)(むな)しく約束(やくそく)(すた)るなり。[引照]

口語訳もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。
塚本訳律法を行う人たちだけが(世界の)相続人(になるの)であるなら、信仰はむだなものになり、約束は無になるのである。
前田訳律法によるものが相続人ならば、信仰はむなしく、約束は無になります。
新共同律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。
NIVFor if those who live by law are heirs, faith has no value and the promise is worthless,
註解: 前節の理由(gar)。ガラ3:15以下にパウロは歴史的に約束と律法の前後を諭じ、嗣業を受くる事が律法によらずして約束による事を諭じ、ここではこれを教理的本質的に諭じ、世嗣として嗣業を受くるには神の恩恵と自由の賜物とに対する「信仰」と、神の変わらざる「約束」に依り頼むべきであって、若し自己の律法の行為によらんとするならば、結局嗣業を受くる確実なる希望を失う事を示す。もし律法の行為によると云うならば信仰も約束も無益にして無意味となる。何となれば律法の行為は自己の力であり、信仰と約束は神の恩恵より出づるが故である。

4章15節 それ律法(おきて)(いかり)(まね)く、律法(おきて)なき(ところ)には(つみ)(をか)すこともなし。[引照]

口語訳いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。
塚本訳律法(の目的)は、(人に罪を犯させ、神の)怒りをもたらす(ことにある)からである。律法のない所には、その違反もあり得ない。
前田訳律法は怒りをおこします。律法のないところには違反もありません。
新共同実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。
NIVbecause law brings wrath. And where there is no law there is no transgression.
註解: 律法は恩恵と異りその違反に対し神の怒を惹起す事は当然である。もし律法が無いならばこれに違反すると云う事も無い。律法あればその違反あり、違反あれば神の怒その上に注がれ従って世嗣たる事が出来ない。
辞解
[律法] 始めの方には冠詞ありモーセの律法を指す。
[怒を招く] katergazomai で怒を「生み出す」「造り出す」如き意。
[律法] 後の方は冠詞なく一般の律法を指す。
[罪を犯す事] 原語 parabasisで「律法違反」の意、罪と云えば一層広義となる。

4章16節 この(ゆゑ)に[世嗣(よつぎ)たることの]恩惠(めぐみ)(あづか)らんために信仰(しんかう)()るなり、(これ)かの約束(やくそく)のアブラハムの(すべ)ての(すゑ)、すなわち律法(おきて)による(すゑ)のみならず、(かれ)信仰(しんかう)(なら)(すゑ)にも(かた)うせられん(ため)なり。[引照]

口語訳このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、
塚本訳そうであるから、(相続人にされるのは)信仰のゆえである。これは恩恵によらせるためであり、(アブラハムの)子孫全体に対して──ただ律法の子孫[ユダヤ人]だけでなく、アブラハムの信仰の(足跡を踏む)子孫[異教人]に対しても──(神の)約束が不動であるためである。彼はわたし達すべての者の(信仰の)父である。
前田訳それゆえ、この約束は(律法によらず)信仰によります。恩恵によって、彼の末すべてに、すなわち、律法による末だけでなく、アブラハムの信仰の末にも、約束が確保されるためです。彼はわれらすべての父です。
新共同従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。
NIVTherefore, the promise comes by faith, so that it may be by grace and may be guaranteed to all Abraham's offspring--not only to those who are of the law but also to those who are of the faith of Abraham. He is the father of us all.
註解: 私訳「この故に恩恵に与らんが為に信仰によりて〔世嗣たるなり〕」。律法による者は神の恵を受け世嗣たる事が出来ない故に、反対に信仰によるものは、神の恩恵を受けて世嗣たる事が出来るのである。その目的は世界の世嗣たるべき約束が、信仰のみを標準として与えられんが為である。従ってアブラハムの信仰の子孫(肉の子孫にあらず)には凡てこの約束が堅うせられるのであって、律法による裔即ちユダヤ人(中の信仰ある者)に限らず信仰さえあれば異邦人もこの嗣業の約束に(あずか)る事が出来る。
辞解
[アブラハムの凡ての裔] ここでは信仰による事を前提とし、信仰によらざるものをアブラハムの裔と見ない。
[律法による裔] ユダヤ人の事、但しその中の信仰あるものを指すと見なければならない。
[信仰に(なら)う裔] 「信仰による裔」と訳すを可とす。

3-(1)-(1)-(ハ)-(c) アブラハムの信仰の特質 4:17 - 4:25

4章17節 (かれ)はその(しん)じたる(ところ)(かみ)、すなはち死人(しにん)(いか)し、()きものを()るものの(ごと)()びたまふ(かみ)(まへ)にて、我等(われら)すべての(もの)(ちち)たるなり。(しる)して『われ(なんぢ)()てて(おほ)くの國人(くにびと)(ちち)とせり』とあるが(ごと)し。[引照]

口語訳「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。
塚本訳“わたしはあなたを多くの国の人の父に決めた”と書いてあるとおりに。(ただし)それは、彼が信じた神、すなわち、死人を生かし、また無から有を呼び出される神の前においてである。
前田訳聖書に、「わたしはあなたを多くの民の父に定めた」とあるとおりです。それは、彼が信じた神、すなわち、死人を生かし、無いものを有るものとしてお呼び出しになる方の前においてです。
新共同「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。
NIVAs it is written: "I have made you a father of many nations." He is our father in the sight of God, in whom he believed--the God who gives life to the dead and calls things that are not as though they were.
註解: (▲口語訳「無から有を呼び出される神」は適訳ではない。)前節アブラハムの信仰の説明。12節及び16節の主要問題即ちアブラハムが我ら凡ての基督者の父たる事の内容の説明である。この事は神がアブラハムに対して為し給いし御業であって不動の約束であり、未だ実現せられざる中に既に確定せる処のものであった(父とせり)。而してアブラハムが信頼をささげし神は、アブラハムがイサクを献げし場合の信仰の如く(ヘブ11:19創22:1以下)死人を活し給う神であり、又未だ子あらざるにその子孫の天の星の如くなるべき事を示し給う神であった(創15:5)。これが信仰の本質である。今日我らの信仰も死者を甦らしめ、且つ義ならざるものを義人と呼び給う神を信ずる信仰であって、この信仰により我らもアブラハムの子となることが出来る。
辞解
[死人を活し] アブラハムとサラが年老いて死人の如くであったのをイサクを生ましめた事に相当すると見る説もあり(G1)。又単にこれを神に対する一般的の称呼であると解する説(M0)。その他これを霊的意義のみに取らんとする説があるけれども採らず。
[国人] ユダヤ人のみならず万国民の事。

4章18節 (かれ)(のぞ)むべくもあらぬ(とき)になほ(のぞ)みて(しん)じたり、(これ)なんぢの(すゑ)はかくの(ごと)くなるべしと()(たま)ひしに(したが)ひて、(おほ)くの國人(くにびと)(ちち)とならん(ため)なりき。[引照]

口語訳彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。
塚本訳(まことに)アブラハムは(神の力を確信して、)望み得ないことを望んで信じたので、“あなたの子孫はあのように、(空の星のように多く)なるであろう”と言われた言葉のとおり、“多くの国の人の父”になったのである。
前田訳彼は望みえないことを望みつつ信じました。それで、「あなたの末はかくも多かろう」といわれたとおり、多くの民の父になりました。
新共同彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。
NIVAgainst all hope, Abraham in hope believed and so became the father of many nations, just as it had been said to him, "So shall your offspring be."
註解: 直訳「彼は望に反して望を信じたり」。「望に反して」は19節「望を信じたり」は20、21節に詳述せらる。意味は本文の如くアブラハムは望むべき理由が絶対になきにも関らず神の約束に希望を置きこれを確信せる事であって、かくの如くに絶対に信頼を注ぎたる目的は、神の約束に(したが)いこの信仰によりて、多くの国人の信仰の父とならんが為であった。
辞解
[斯の如くなるべし] 創15:5の省略、即ち空の星の如くなるべしとの意、尚創13:16

4章19節 かくて(おほよ)百歳(ひゃくさい)(およ)びて(おの)()()にたるがごとき(さま)なると、サラの(たい)()にたるが(ごと)きとを(みと)むれども、その信仰(しんかう)よわらず、[引照]

口語訳すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。
塚本訳すなわち彼は信仰が弱らずに、ほとんど百歳であったので、自分の体が死んでしまっており、(妻)サラの胎も死んでいるのをよく知っていながら、
前田訳百歳ほどであったので体が死んでおり、サラの胎も死んでいることを知りながら、信仰においては弱りませんでした。
新共同そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。
NIVWithout weakening in his faith, he faced the fact that his body was as good as dead--since he was about a hundred years old--and that Sarah's womb was also dead.

4章20節 ()(しん)をもて(かみ)約束(やくそく)(うたが)はず、[引照]

口語訳彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、
塚本訳不信仰をもって神の約束を疑わないばかりか、かえって信仰が強くなり、神に栄光を帰した、
前田訳不信をもって神の約束を疑わないばかりか、信仰において力づけられ、神に栄光を帰しました。
新共同彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。
NIVYet he did not waver through unbelief regarding the promise of God, but was strengthened in his faith and gave glory to God,
註解: 直訳「而してその信仰弱らずして約百歳に及べる己が死にたる体と、サラの胎の死にたるとを観取しても尚不信によりて神の約束を疑わず・・・」アブラハムはその信仰強くして性的に死せる老夫婦に子を与えられるとの神の約束をすら疑わずに信じ続けた。偉大なる信仰である。この信仰によりて彼はイサクを与えられた。「疑う」diakrithê 原語は二つの意見、思想、判断の間に差異あり相反する場合を指す、ここでは自己の中に二つの考がありて動揺する事、アブラハムはかかる事が無かった。

((かえっ)て)信仰(しんかう)により(つよ)くなりて(かみ)榮光(えいくわう)()し、

4章21節 その(やく)(たま)へることを、()得給(えたま)ふと確信(かくしん)せり。[引照]

口語訳神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。
塚本訳神は約束を果たす力を持っておられる(ので、子をお授けになる)と確信することによって。
前田訳神はお約束のことをなす力がおありと確信していたのです。
新共同神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。
NIVbeing fully persuaded that God had power to do what he had promised.
註解: 反対にアブラハムは信仰によりて強くせられた、その状態は一はかかる不可能事を約束し給える神を軽蔑せず、これに服従する事によりて栄光を神に帰する事、その二はその約束せられしをば、神は又必ずこれを為し得給うと確信する事であった。かかる美わしき信頼は何処にありや。
辞解
[強くなり] を生理的に若返りたる事と解する説(I0,ヘブ2:11、12註参照)あれどもこの場合をかく解する事は却て不適当であろう。

4章22節 (これ)()りて()信仰(しんかう)()(みと)められたり。[引照]

口語訳だから、彼は義と認められたのである。
塚本訳このゆえに、“そのことが彼の義と見なされた”のである。
前田訳それゆえ、彼は義と認められました。
新共同だからまた、それが彼の義と認められたわけです。
NIVThis is why "it was credited to him as righteousness."
註解: 神の目にはこの信仰さえあれば他に何が無くとも充分であると思われた。神との義しき関係はかかる信仰より外にない。

4章23節 ()く『[()と](みと)められたり』と(しる)したるは、アブラハムの(ため)のみならず、また(われ)らの(ため)なり。[引照]

口語訳しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、
塚本訳しかし(“彼の義と)みなされた”と書いてあるのは、彼だけのためではなく、
前田訳聖書に「認められた」とあるのは、彼だけのためではなく、われらのためでもあります。
新共同しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、
NIVThe words "it was credited to him" were written not for him alone,

4章24節 (われ)らの(しゅ)イエスを死人(しにん)(うち)より(よみが)へらせ(たま)ひし(もの)(しん)ずる(われ)らも、[その信仰(しんかう)()と](みと)められん。[引照]

口語訳わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。
塚本訳わたし達のためでもある。主イエスを死人の中から復活させられたお方[神]を信ずるわたし達も、(信仰によって義と)みなされねばならないからである。
前田訳われらの主イエスを死人たちから復活させられた方を信ずるわれらも、そう認められねばなりません。
新共同わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。
NIVbut also for us, to whom God will credit righteousness--for us who believe in him who raised Jesus our Lord from the dead.
註解: アブラハムも我らも同じ信仰によりて義と認められる。而してアブラハムは未来に実現すべき約束を望み、我らは既に実現せるイエスの復活の事実を握りこれを基礎として我等の復活を望んで居る。唯この二者何れもこの事実や約束の内容に信頼を置くにあらずして、この約束を与えこの事実を実現せしめ給いし神即ち「イエスを甦えらせ給いし者」を信仰の対象とする点に於いて同一である。

4章25節 (しゅ)(われ)らの(つみ)のために(わた)され、(われ)らの()とせられん(ため)(よみが)へらせられ(たま)へるなり。[引照]

口語訳主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。
塚本訳このイエスこそ、わたし達の過ちのために死に引き渡され、またわたし達を義とするために復活された方である。
前田訳イエスはわれらの過ちのために死に渡され、われらが義とされるために復活させられた方です。
新共同イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
NIVHe was delivered over to death for our sins and was raised to life for our justification.
註解: 私訳「主は我らの罪の故に付され、我ら義と認められし故に甦えらせられ給えり」(G1に依る)前節「我らの主イエス」の意義の説明で、我らの信仰の対象たる神が、かくイエスを甦らせ給える理由は、イエスの死は我らの罪に対する罰であり、イエスの復活は我らの義と認められし事の証拠である(ロマ6:4Tコリ15:17)からで、かかる神を信ずる事は又我らの罪の赦しと義認とを信ずる事である。
辞解
[義とせられん為に] 直訳「義の故に」で註の如き意味に取るを可とす。
要義 [信仰とは何ぞや] 本章に於てアブラハムの例により信仰の何たるかが明かにせられている。即ちそれはアブラハムがユダヤ人に属し律法を与えられている事でもなく(13-16節)割礼を受けている事でもない(9-12節)。唯(1)死人を活し給う神を信ずる事(17節a)。(2)無きものを有るものの如く呼び給う神を信ずる事(5節、17節b)。(3)望むべくもあらぬ時になお望みて信ずる事(18節)。(4)約束を必ず実行し給うと信ずる事(21節)である。即ち洗礼、教会所属等が信仰の本質ではなく、(1)イエスと共に我らをも復活せしめ給う神を信ずる事(24節)。(2)我らに功なくとも信仰により義人と認め給う神を信ずる事。(3)キリストの再臨による身体の救、新天新地の実現を信ずる事。(4)これ等の凡ての約束は一見不可能、不合理に見えるけれどもこれを必ず実現し得給うと信ずる事、換言すればかかる神を信ずる事である。従て信仰とは、今日考えられている如き神秘的見神の実験や、社会的活動や、宗派所属等の如きものではない。これ等は信仰の結果の一表題であり得るけれども信仰そのものではない。信仰は飽く迄も霊の問題であり、理智を超越せる神に対する絶対的信従の態度である。