黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版第1ペテロ書

第1ペテロ書第4章

分類
3 キリスト者のこの世における生活に関する教訓 2:11 - 4:6
3-8 苦難の意義 4:1 - 4:6

4章1節 (されば)キリスト(にく)[(たい)]にて苦難(くるしみ)()(たま)ひたれば、(なんぢ)らも(また)おなじ(こころ)をもて(みづか)(よろ)へ。[引照]

口語訳このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。
塚本訳かくキリストは肉体で受難し給うたのであるから、君達も同じ考えで自分を武装せよ──(罪なくして)肉体で受難した者は(既に)罪(の生活)を断ったのであるから──
前田訳キリストが肉にあってお苦しみでしたので、あなた方も同じ心で武装なさい。肉にあって苦しんだものは罪をのがれます。
新共同キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。
NIVTherefore, since Christ suffered in his body, arm yourselves also with the same attitude, because he who has suffered in his body is done with sin.
註解: 2:11以下の薦奨の続きで6節に至っている。すなわちキリストすらもその肉体は人類の罪を負って死の苦難を受け給うた。ゆえに罪の肉を持てる我らは安逸に肉の生活を送るべきではなく、キリストと同じ苦難を受ける心掛けを必要とする(コロ1:24)。
辞解
[されば] Tペテ3:18を受ける

――(そは)(にく)[(たい)]にて苦難(くるしみ)()くる(もの)(つみ)()む[る](れば)なり――

註解: 肉が安逸の中にいる時ほど罪の力は我らを捉える。罪から離れる最もよき方法の一つは肉体に苦難を受けることである。それ故に苦難は我らを罪より離れしめんがための神の恩恵である。
辞解
[止むる] 停止の意味で根絶の意味ではない。ゆえに苦難の中における聖潔または信仰は苦難の去ると共に警戒を有する。

4章2節 これ(いま)よりのち、(ひと)(よく)(したが)はず、(かみ)御意(みこころ)(したが)ひて、肉體(にくたい)(やど)れる(のこり)(とき)(すご)さん(ため)なり。[引照]

口語訳それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである。
塚本訳これは君達が最早人間の情欲によらず、神の御心によって肉体の残りの時を生きるためである。
前田訳それは肉にある余生を、もはや人の欲でなく、神のみ心のために過ごすためです。
新共同それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。
NIVAs a result, he does not live the rest of his earthly life for evil human desires, but rather for the will of God.
註解: 私訳「かくして肉にある残りの時を決して人の慾に生きず神の御意(みこころ)に生くるに至るなり」。肉体に苦難を受け罪を止めたる余生を送るならばその結果その生活の原理、方針、規範はもはや人間的慾求ではなく神の御意にあるようになる。すなわち生活そのものが神の意思に支配されるに至る。前節は肉につける死を示し、本節は霊につける生を示す。
辞解
本節は前節の「自ら(よろ)へ」との命令の目的を示すと見る説がある(英、日改訳、A1)。けれども文法上は「罪を止むる」の結果と見る方が正しい(M0、B1、I0、E0、C1)。註はこれによった。

4章3節 なんぢら()ぎにし()は、異邦人(いはうじん)(この)(ところ)をおこなひ、好色(かうしょく)(よく)(じゃう)酩酊(めいてい)宴樂(えんらく)暴飮(ばういん)律法(おきて)にかなはぬ偶像(ぐうざう)崇拜(すうはい)(あゆ)みて、もはや()れり。[引照]

口語訳過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。
塚本訳というのは君達は過去を(神の御意ならぬ)異教人の意欲を行いながら放埒、情欲、大酒、酒宴、酒乱と禁断の偶像礼拝とに過ごしたが、(もう)充分だからである。
前田訳あなた方は思う存分、過去に異教徒の心を行なったのです。すなわち、放縦、欲情、酔酒、宴楽、暴欲、悪質な偶像崇拝をしていました。
新共同かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。
NIVFor you have spent enough time in the past doing what pagans choose to do--living in debauchery, lust, drunkenness, orgies, carousing and detestable idolatry.
註解: 私訳「そはなんぢらが異邦人の望む処を行い、好色・・・・・・偶像崇拝に歩みしは過ぎし日にて充分なればなり」。すなわち享楽生活と不信仰生活は過去だけですでに充分であって将来は前節のごとく神の御意(みこころ)に生きなければならない。
辞解
[異邦人の好む所] 直訳「異邦人の旨または意思」の意。ここではユダヤ人に対する異邦人の国籍的区別よりも、キリスト者に対する未信者の道徳的区別を言えるものと解すべきであろう。
[律法にかなはぬ] athemitos は「律法を蹂躙(じゅうりん)する」というごとき強き意味。
[おこなひ、歩む] 共に完了形分詞を用い凡て過去の事実であることを示す。

4章4節 (この(ゆゑ)に)(かれ)らは(なんぢ)らの(おのれ)とともに放蕩(はうたう)(きはみ)(はし)らぬを(あや)しみて(そし)るなり。[引照]

口語訳今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている。
塚本訳(しかしかつては共にこれらのふしだらな生活をしていた)彼ら(異教人達)は、君達が(最早)同じ放蕩(生活)の流れに共に身を投じないので、そのことを(驚き)異しみ、(君達を譏るばかりか、遂に)主と神とを冒涜する。
前田訳今はあなた方が同じ放縦の流れで行動を共になさらないので、彼らがいぶかってののしるのです。
新共同あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。
NIVThey think it strange that you do not plunge with them into the same flood of dissipation, and they heap abuse on you.
註解: 享楽主義者がキリスト者を(そし)る理由は、キリスト者がその旧き生活と絶縁して享楽主義者と行動を共にせざるを見て驚異の念に打たれるが故である。ゆえに彼らに(そし)られることはむしろ光栄である。
辞解
[(きはみ)] anachusis 聖書中ここのみに用いられている文字で洪水において水が溢れる(すがた)、噴火において溶岩が流出する(すがた)等に用いられる語。ゆえに放蕩の「(きはみ)」は糜爛(びらん)せる放蕩生活を意味する。
[怪しむ] xenizô は「驚く」の意。▲奇異、稀有、不可思議なるに驚くこと。
[(そし)る] blasphêmeô は「涜神」の意味と「誹謗」の意味とあり。本節の場合は後者である(I0)。

4章5節 (かれ)らは()ける(もの)()にたる(もの)とを(さば)準備(そなへ)をなし(たま)へる(もの)(おのれ)のことを()ぶベし。[引照]

口語訳彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない。
塚本訳(もちろんそれについて)彼らは生者と死者とを審く準備をしてい給う方に勘定を払わねばならない。──(然り、死者もまた審かれねばならない。)
前田訳しかし彼らは生者と死者とを裁く用意のある方に申し開きせねばなりません。
新共同彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。
NIVBut they will have to give account to him who is ready to judge the living and the dead.
註解: キリストはすでに死ねる者も今生きている者も一人残らず(さば)かんがために再び来り給うであろう(今彼は神の右に在して凡ての準備は整っている)。その時彼らはその享楽的行為および我らを(そし)る行為につき(ただ)されるであろう。我らは今苦難に遭い、彼らは今勝誇っているけれども彼らはその全生涯につき終りの日にその責任を問われるであろう。
辞解
[生ける者、死ぬる者] 霊的の意味ではなく肉体上の生死。
[己のことを()ぶべし] 訊問に答えて弁解すること。マタ12:36使19:40ヘブ13:17

4章6節 (その(ゆゑ)は)福音(ふくいん)()にたる(もの)宣傅(のべつた)へられしは、(かれ)らが肉體(にくたい)にて(ひと)のごとく(さば)かれ、(れい)にて(かみ)のごとく()きん(ため)な(ればな)り。[引照]

口語訳死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。
塚本訳何故なら、肉体では人間的に(既に罪人として)審かれ(て死んだが、)霊では神に倣って(永遠に)生きるため、(陰府に在る)死者にも(キリストによって)福音が宣べ伝えられたからである。
前田訳このためにこそ死者にも福音が説かれたのです。すなわち、彼らが肉にあっては人間として裁かれ、霊にあっては神に従って生きるためです。
新共同死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。
NIVFor this is the reason the gospel was preached even to those who are now dead, so that they might be judged according to men in regard to the body, but live according to God in regard to the spirit.
註解: 前節のごとく享楽放蕩の生活を為しキリスト者らを非難しつつ生活する人は現世における成功者であり、また勢力家であるかもしれないけれども、彼らはやがてその死後に至り再臨のキリストによりて(さば)かれなければならない。従って彼らの行為は死して後も神に対して責任があり神より審判を受けなければならない。たしかにTペテ3:19にノアの例をもって示したように、今は霊によりて凡ての死者に福音が宣伝えられているのであって、その目的はたとい彼らが肉においては人間一般と同様に(さば)かれて死に入っているけれども、霊においては神のごとくに霊的生命に入るを得んがためである。ゆえに現在においてキリスト者を非難する享楽主義者、偶像崇拝者たちはこの世における行為につきて(ただ)さるべきは勿論、死者にすら福音が宣伝えられている以上、生きてこれに接しつつこの福音を非難する彼らは言い(のがれ)るべき途がないであろう。また現在において肉に苦難を受けているキリスト者は霊にて神のごとくに生くることを得るの幸福を今より享有するのである。(附記)本節はTペテ3:19と同じく福音が死者にも宣伝えられ、この世において福音を信ぜずに死したる者も救われる見込みがあるという思想を含むために、神学上この思想に反対なる人々より多く異なれる解釈が与えられ、ルーテルもこれを不可解なる一節と称している。或は「死にたる者」を前節の意味によらずして「死にたるキリスト者」(B1、Z0)と解し、または「生時に福音に接せる者」等と解し、「宣伝えられ」を過去における事実と解しているけれどもいずれも原文になき意味を追加したのであり、またかく解することにより前後の連絡を失ってしまう。なおTペテ3:19に関する3章末尾の附記参照。
要義 [肉の苦難は罪を止む]苦難のもたらす多くの恩恵の中、その最大なるものは苦難の中にある者をして罪を止めさせる点にある。殊に享楽、肉慾の罪は安佚(あんいつ)の中において最も力強く働くのであって、苦難を受けることなしにこれらの罪に打勝つことは至難のことに属する。ゆえに人の慾に従わず神の御意(みこころ)に従って生きるためには苦難は最良の友であり教師である。ゆえに霊に生きんとするものは肉の苦難を喜ぶべきである。

分類
4 教会の信仰の生活 4:7 - 5:11
4-1 信仰生活の要諦 4:7 - 4:11

4章7節 (よろづ)(もの)のをはり(ちか)づけり、()れば(なんぢ)(こころ)(たしか)にし、(つつし)みて(いのり)せよ。[引照]

口語訳万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。
塚本訳(今や)万事の終わりが近づいた。だから考え深くあれ、また真面目に折れ。
前田訳すべての終わりが近づきました。祈りのために良識と分別の生活をなさい。
新共同万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
NIVThe end of all things is near. Therefore be clear minded and self-controlled so that you can pray.
註解: 7−11節にペテロは信徒相互の関係につき薦めをなす。そしてその大前提として5、6節を受けてキリストの再臨と万物の滅亡の近きことを示し、かかる場合霊に生きるキリスト者はまず第一に「心を(たしか)にし」己を制して真面目にして乱れざる心を持つようにしまた「慎みて」感情のために動揺せず、かくして祈りを事としなければならないことを教えている。これが世の終りにおけるキリスト者の必要なる態度である。
辞解
[心を(たしか)にし] sôphronêo は自制力あり思慮ある心を持つこと。
[慎み] nêphô は感情に支配されないこと。

4章8節 何事(なにごと)よりも()(たがひ)(あつ)(あひ)(あい)せよ。(あい)(おほ)くの(つみ)(おほ)へばなり。[引照]

口語訳何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。
塚本訳何はさて措き、互いに対し強き愛を持て。“愛は”多くの“罪を蔽う”のだから。
前田訳何よりも互いに堅い愛をお持ちなさい。愛は多くの罪をおおいます。
新共同何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
NIVAbove all, love each other deeply, because love covers over a multitude of sins.
註解: マタ18:22)神に対して祈りが第一の務めであるごとく(7節)、人に対しては何よりもまず互に熱愛することが信徒相互における第一の務めである。そして熱き愛はその愛するものの罪を(おお)いてこれを赦し、これをいたわり、罪に目を留めず、他人にもこれを(おお)いかくし、あたかもこれを己の罪のごとくに見て唯神に祈りてその罪を赦されて汚れより潔められんことを祈るのみである。そしてこの愛は必ずよき結果を来し、反対に憎悪は益々罪を重ねさせるに至る。箴10:12
辞解
[罪を(おほ)ふ] 他に異った解釈があるが取らず。

4章9節 また(をし)むことなく(たがひ)(ねんご)ろに(もてな)せ。[引照]

口語訳不平を言わずに、互にもてなし合いなさい。
塚本訳呟かず互いに接待せよ。
前田訳つぶやかず、互いにもてなしてください。
新共同不平を言わずにもてなし合いなさい。
NIVOffer hospitality to one another without grumbling.
註解: 私訳「(つぶや)くことなく互に歓待せよ」。心より喜んで未知の訪客をも接待することは当時の最も尊重せられし美風の一つであった。ヘブ13:2註参照。なおマタ25:35ロマ12:13Tテモ3:2テト1:8使16:15。その他。
辞解
[(をし)むことなく] 原語「(つぶや)くこと gongusmos なく」であって、単に接待の費用を(おし)みて(つぶや)くことのみではなく、その労を厭うことその他の(つぶや)きをも含む故にこれを「(つぶや)くことなく」と訳すべきである。

4章10節 (かみ)のさまざまの恩惠(めぐみ)(つかさ)どる()(いへ)(つかさ)のごとく、各人(おのおの)その()けし賜物(たまもの)をもて(たがひ)(つか)へよ。[引照]

口語訳あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。
塚本訳神の様々な恩恵の(依託をうけた)善い番頭のように、一人々々が受けた恩恵(の賜物)を以て互いに奉仕せよ。
前田訳おのおのが受けた賜物によって、神のさまざまな恵みの良い管理人として互いにお仕えなさい。
新共同あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
NIVEach one should use whatever gift he has received to serve others, faithfully administering God's grace in its various forms.
註解: 愛の働きの第二は信徒の各々が神より受けし賜物をもて互に(つか)えることである。信徒は各々聖霊によりて賜物の分与を受けており(Tコリ12:7)、これらが相合して完全なる教会の賜物となる故にこれを私することは大なる罪である。善き家司ら(複数)はその托せられし主家の財貨を私することをしない。キリスト者はその与えられし賜物につき善き家司たることを必要とする。
辞解
[恩惠(めぐみ)] charis 単数でこれに「様々」なる形容詞を附してその表顕の多様性を示す。この恩恵(めぐみ)が各人に与えられて賜物(複数)charismata となる。

4章11節 もし(かた)るならば、(かみ)(ことば)をかたる(もの)のごとく(かた)り、[引照]

口語訳語る者は、神の御言を語る者にふさわしく語り、奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである。栄光と力とが世々限りなく、彼にあるように、アァメン。
塚本訳(例えば)もし或る人が(預言の賜物を与えられて)語るならば、(自分の言をまじえず、ただ)神の言として(語れ。)もし(また)或る人が(職務を行う賜物を与えられそれを以て)奉仕するならば、(自分の力を以てせず、)神が授け給うた力によって(これを行え。)これはイエス・キリストにより何事においても神が栄光を受け給わんためである。栄光と権力とは代々限りなく彼のものである、アーメン。
前田訳語る人は神のことばを話るごとくしてください。仕える人は、神がお与えの力によるごとくしてください。それは何につけても神がイエス・キリストによって栄光をお受けのためです。彼にこそ栄光と力が世々とこしえにありますように。アーメン。
新共同語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。
NIVIf anyone speaks, he should do it as one speaking the very words of God. If anyone serves, he should do it with the strength God provides, so that in all things God may be praised through Jesus Christ. To him be the glory and the power for ever and ever. Amen.
註解: 前節における賜物の例として本節に語ることと(つか)えることとを掲げている。「語る」は集会等において語る場合を主として指す。すなわち預言し、教え、勧める等の凡てを含む。これを為すには自己の思想や感情によらず神の黙示を受けたる者のごとくに語るべきである。かくして神のみが崇められなければならぬ。この語、牧師長老等の職制(G1)とは関係がない(M0)。
辞解
[神の言] 「言」logia は古代は神の託宣に用い、旧新約聖書には神の黙示につきて用う(使7:38ロマ3:2)。

(つか)ふるならば、(かみ)(あた)へたまふ能力(ちから)()けたる(もの)のごとく(つか)へよ。

註解: (つか)える」diakoneô とは貧民を救い、病者を見舞い、幽囚の中にある者を訪う等の行為であって、これを為すものはこれを為し得るだけの力を必要とする。しかしながらこれを自己の力より為さず、神より与えられし力をもって行い、自己よりも神の崇められることを求めなければならない。

(これ)イエス・キリストによりて(こと)(こと)(かみ)(あが)められ(たま)はん(ため)なり。

註解: 何故に前節のごとくに行うべきかの理由を示す。すなわち神は凡ての能力と智慧と言葉との本源に在し給うが故に、教会においてこの神が崇めら給うべきである。然るにもし人の智慧、能力、財貨、地位、雄弁が崇められるに至るならば禍である。そして神が崇められ給うことはイエス・キリストによらなければならない。これ我らを神と(やわら)がしめ神より聖霊の賜物を与えられるに至るのはイエス・キリストの仲保(なかだち)によるからである。

榮光(えいくわう)權力(ちから)とは世々(よよ)(かぎ)りなく(かれ)()するなり、アァメン。

註解: もし信徒相互の間に7節以下のごとき状態が実現するならば如何ばかり神の栄光が揚げられ神の権力が発揮せられることであろうかを思い、ついにこのような頌栄の辞となってあらわれたのである。
辞解
[彼] 神を指す。
要義 [祈りと愛と奉仕]教会生活、信徒の団体生活の要諦はここにこの三点に要約されている。この三者なくしていかに聖書知識に富み神学の造詣深く制度組織完備するも、真の信徒の団体生活と称することができない。

4-2 迫害による苦難に対する教訓 4:12 - 4:19

4章12節 (あい)する(もの)よ、(なんぢ)らを(こころ)みんとて(きた)れる()[のごとき試煉(こころみ)]を(こと)なる(こと)として(あや)しまず、[引照]

口語訳愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、
塚本訳愛する者よ、試練のため君達に起こった烈火の苦難を(何か)異常なことが臨んだかのように(驚き)異しむな。
前田訳親しい方々、あなた方を誘惑する火の試練がどんなにいぶかしくてもいぶからず、
新共同愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。
NIVDear friends, do not be surprised at the painful trial you are suffering, as though something strange were happening to you.
註解: この書簡は全篇を通じて迫害に対する教訓に充ちている。これ当時信仰の迫害が烈しかったからである。我らは迫害と苦難の火焔の中にある場合にあたかもこれを案外なことが起ったごとくに驚き怪しむべきではなく、これは我らを試煉し、我らを潔めんがための火であるが故に当然のことと思うべきことを教えている。愛の神の子に迫害苦難が臨むことは一見不合理なるがごとくに見えるけれども、実はこれがかえって神の子の当然の運命である。

4章13節 (かへ)つてキリストの苦難(くるしみ)(あづか)れば、(あづか)るほど(よろこ)べ、なんぢら(かれ)榮光(えいくわう)(あらは)れん(とき)にも(よろこ)(たの)しまん(ため)なり。[引照]

口語訳むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。
塚本訳むしろキリストの苦難に与れば与るだけ喜べ。(最後の日)その栄光の顕るる時にも歓びに喜ぶ(ことが出来る)ためである。
前田訳キリストの苦難にあずかるものとしておよろこびなさい。それはあなた方が、彼の栄光が啓示されるときにも歓呼しておよろこびのためです。
新共同むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。
NIVBut rejoice that you participate in the sufferings of Christ, so that you may be overjoyed when his glory is revealed.
註解: 世はキリストを迫害したと同じ精神をもってキリスト者をも迫害し、キリストは今も我らと共にこの苦しみを苦しみ給う。しかしながら我らいよいよこれを喜ぶべきである。これキリストやがて栄光の中に再臨し給う時一層大なる歓喜を味わうことを得んがためである。ゆえにキリスト者は今すでに喜び、永遠にはさらに大なる喜びの中に入ることができる。
辞解
本節後半が前半の理由 hoti ではなくその目的 hina であることに注意せよ。すなわち苦難の中に喜ぶものはさらに大なる喜びを得、苦難の中に悲しむ者はキリストの再臨の時恥を受けるに至るであろう。

4章14節 もし(なんぢ)()キリストの()のために(そし)られなば幸福(さいはひ)なり。榮光(えいくわう)御靈(みたま)すなはち(かみ)御靈(みたま)なんじらの(うへ)(とど)まり(たま)へばなり。[引照]

口語訳キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。
塚本訳もし君達がキリストの名において罵られるならば幸福である、(それは、その時)栄光の霊と“神の霊が”君達の上に“留まっている”(証拠である)から。
前田訳キリストのみ名ゆえに恥かしめられるならば、あなた方はさいわいです。それは栄光の霊すなわち神の霊があなた方の上に宿るからです。
新共同あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
NIVIf you are insulted because of the name of Christ, you are blessed, for the Spirit of glory and of God rests on you.
註解: マタ5:11マコ8:35等の主の御言をペテロは深く心に銘じたことであろう。(そし)られてもなお幸福を感謝し得るはキリスト者の特権であるこれ人の(そし)りが彼の上にあること多ければ多きほど神は彼を憐み、彼を恵み、神の御霊は益々多く彼を(おお)い彼の上に留まるからである。(そし)りは人より来り、御霊は神より来る。
辞解
[栄光の御霊] 「栄光の御霊」なる呼称を用いし所以は「(そし)り」の恥辱と相対応せんがため、さらにこれを「神の御霊」なる語をもって説明せる所以は「人」の(そし)りに相対応せんがためであろう。

4章15節 (なんぢ)()のうち(たれ)にても(あるひ)殺人(ひとごろし)、あるひは盜人(ぬすびと)、あるひは(あく)(おこな)(もの)(たるをもて)、あるひは(みだり)他人(たにん)(こと)干渉(かんせふ)する(もの)[となりて](たるをもて)苦難(くるしみ)()ふな。[引照]

口語訳あなたがたのうち、だれも、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者として苦しみに会うことのないようにしなさい。
塚本訳君達のうち誰も人殺し、あるいは泥坊、あるいは悪者として、あるいはおせっかい屋として受難してはならない。
前田訳あなた方のだれも人殺し、盗びと、悪人、干渉者としてお苦しみなく。
新共同あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。
NIVIf you suffer, it should not be as a murderer or thief or any other kind of criminal, or even as a meddler.
註解: キリスト者は自由を得るの結果、普通人の悪とする処を平気で行うことは有り勝ちなることである。そのために迫害されることは(すこし)も光栄ではなくかえって神の御名を汚す。これをキリストの御名の故の迫害と誤認して誇るごときは甚だしき悪である。
辞解
[殺人(ひとごろし)盜人(ぬすびと)] かかる悪事も絶無とは言われない。
[者となりて] hôs は次節のごとく「者たるをもて」と訳する方が統一的である。
[他人の事に干渉せる者] allotriepiskopos 直訳「他人の物事の監督」でキリスト者は自己の信仰に誇るの余り、その地位に在らざるして他人の行為事件を自己の思いのままに処理せんとして人々の嫌う処となる場合がある。

4章16節 されど()しキリステアンたるをもて苦難(くるしみ)()けなば、(これ)()づることなく、(かへ)つて()()によりて(かみ)(あが)めよ。[引照]

口語訳しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい。
塚本訳しかしもしクリスチャンとして(受難するの)ならば恥じるな、むしろこの(クリスチャンたる)名において神の栄光を顕せ。
前田訳しかしクリスチャンとして苦しむ人は恥じることなく、この名によって神に栄光を帰してください。
新共同しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。
NIVHowever, if you suffer as a Christian, do not be ashamed, but praise God that you bear that name.
註解: 世の人はキリステアンたることだけで他に理由なくともキリスト者を嫌いこれを迫害し苦難に陥れる。そして多くの世の人に歓迎される時はこれを光栄と感じ、彼らに擯斥(ひんせき)(=排斥:広辞苑)される時これを恥辱と感ずるは普通の人情であるけれども、ペテロはキリスト者を戒めてかかる苦難を恥ずることなく、かえってキリストの名をもって神を崇め、かかる苦難と悔辱とを受けることに対して神に感謝し、彼に栄光を帰すべきであることを教えている。
辞解
[キリステアン] Christianos 使11:26参照。「キリストの者」の意味で反対者より与えられし軽蔑の名称である。

4章17節 (すで)(とき)いたれり、審判(さばき)(かみ)(いへ)より(はじめ)るべし。まづ我等(われら)より(はじめ)るとせば、(かみ)福音(ふくいん)(したが)はざる(もの)のその結局(はて)如何(いか)にぞや。[引照]

口語訳さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。
塚本訳審判が神の家“から始まる”時(は既に近づいているの)だから。しかしもし(審判が)まず(神の家すなわちキリストを信ずる)私達から(始まる)とすれば、神の福音に従わぬ者の最後はどうであろう!
前田訳今や裁きが神の家から始まる時です。もしそれがまずわれらのところからならば、神の福音に従わぬものの終わりはどうでしょう。
新共同今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。
NIVFor it is time for judgment to begin with the family of God; and if it begins with us, what will the outcome be for those who do not obey the gospel of God?
註解: ペテロはキリスト者の現在の苦難をもって神の審判(さばき)が始まっているのであると言っている。勿論この審判(さばき)は滅亡に至らしむる審判(さばき)ではなく、神は神の家すなわち教会を特に愛し給うが故にこれを鍛煉し、これを潔めやがてこれを救わんがために下し給う審判(さばき)である。そしてキリストの者たる我らにおいてすらすでにかかる審判(さばき)が始まっているとすれば、最後の審判における不信仰の者の状態は如何ばかりであろうか。これを思うてキリスト者はむしろ現在におけるその苦難を喜び、これを感謝すべきである。

4章18節 義人(ぎじん)もし(から)うじて(すく)はるるならば、()敬虔(けいけん)なるもの、(つみ)ある(もの)何處(いづこ)にか()たん。[引照]

口語訳また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。
塚本訳そして“もし義人すら辛うじて救われるとすれば、不敬虔な者や罪人は”(一体)どうなるのであろう”。
前田訳「もし義人がかろうじて救われるならば、不信のものや罪びとはどうなりましょうか」。
新共同「正しい人がやっと救われるのなら、/不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。
NIVAnd, "If it is hard for the righteous to be saved, what will become of the ungodly and the sinner?"
註解: 本節においてペテロは神の義を高調し、不信なるもの罪あるものの滅亡を示してキリスト者をその苦難の中に慰む。神の恩恵を高調せるロマ5:20と対比せよ。
辞解
本節は箴11:31の七十人訳の引用。
[義人] 神との義しき関係にある者すなわち信者。
[辛うじて] 種々の苦難によりて試煉せられ、多くの困難を経て救いに達する。
[何處にか立たん] 直訳「何處に顕われん」、滅亡すること。

4章19節 されば(かみ)御意(みこころ)(したが)ひて苦難(くるしみ)()くる(もの)は、(ぜん)(おこな)ひて(おの)靈魂(たましひ)眞實(まこと)なる造物主(つくりぬし)にゆだね(まつ)るべし。[引照]

口語訳だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。
塚本訳だから(君達の中で)神の御心により受難する者もその霊魂を誠実なる造物主に委ねよ、善を行いながら!
前田訳それゆえ、神のみ心に従って苦しむ人々も善をなして、その魂をまことに満ちた創造主(つくりぬし)におゆだねなさい。
新共同だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。
NIVSo then, those who suffer according to God's will should commit themselves to their faithful Creator and continue to do good.
註解: 15節の原因によるにあらずして16節の理由により苦難を受くる者は神の御意(みこころ)による苦難である(12、13節)。この場合この苦難を逃れんと焦るべきではない。たとい肉体は如何なる迫害に遭うも霊魂はこれを神に委ね奉りて絶対に安全である。ただしその生活は「善を行う」ことに終始しなければならない。迫害を受くる時、心は往々にして復讐心に燃え、愛を失いて悪を行うに至るが故に慎まなければならぬ。
辞解
[真実なる] 偽りを語らず約束を必ず成就すること、神は救いの約束を必ず成就し給う。ゆえに肉体はよし迫害の中に死ぬるとも恐れる必要はない。
[造物主(つくりぬし)] すなわち神、彼は我らの朽つべき肉体を変えて栄光の体に像らせ給う。
要義 [義人の苦難]神に絶対に信頼しているキリスト者にとって、苦難は歓喜を与うる原因となり、また益々善行にいそしむ動機となり、さらに進んで益々その信頼を強むる理由となることは、キリスト者の最も著しき特徴の一つである。而して義しき者が患難多きこと(詩34:19)は一見不合理なるがごとくであるけれども、もし前述の事実を経験するならば、これ全く神の御旨による大なる恩恵であることを知ることができるであろう。

第1ペテロ書第5章
4-3 長老と青年に対するすすめ 5:1 - 5:6

註解: ペテロはさらに進んで教会内部における秩序について注意を与え(1−6節)、またその中に侵入せんとする悪魔を(ふせ)ぐべきことを教えている(7−11節)。

5章1節 われ(なんぢ)らの(うち)なる長老(ちゃうらう)たちに(すす)む((われ)(なんぢ)らと(おな)じく長老(ちゃうらう)たる(もの)、またキリストの苦難(くるしみ)證人(しょうにん)(あらは)れんとする榮光(えいくわう)(あづか)(もの)なり)[引照]

口語訳そこで、あなたがたのうちの長老たちに勧める。わたしも、長老のひとりで、キリストの苦難についての証人であり、また、やがて現れようとする栄光にあずかる者である。
塚本訳だから、(君達と)同じ長老(であり)、キリストの苦難の証人(であり)、またまさに顕れんとする栄光の共有者(である)私は、君達の中の長老達に勧告する、
前田訳あなた方のうちの長老にお勧めします。わたしも同じく長老で、キリストの苦難の証人であり、やがて示される栄光をも共にするものです。
新共同さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。
NIVTo the elders among you, I appeal as a fellow elder, a witness of Christ's sufferings and one who also will share in the glory to be revealed:
註解: ペテロはここに自己の資格を述べつつまず教会の長老たちに訓示し(1−4節)次にその若者に及んでいる(5、6節)。
辞解
[長老] presbyteros 年寄りという文字、多くの学者はこれをユダヤ教の長老と同じく職名なりと解するけれども、当時の教会内には今日の教会の長老のごとき意味における長老は一般的には未だ存在せず、唯多くの信徒の中比較的年()けたるまたは信仰と思慮と経験に富める者(5節と対比せよ。なお年齢の多少のみが唯一の標準であったと見る必要はない)が、衆望自ら彼らに帰して教会の管理、統制、事務に当ったものであろう。すなわち未だ法制度としての形態を完全に具えない時の自然の秩序に対して与えた名称である(例えばHasting's. Dictionary of the Bible のGwatkinの説参照)。そしてこれ聖霊の働きの豊かであった初代教会に相応しい状態であった。
[汝らと同じく長老たる者] sumpresbyteros ペテロは使徒の首班たるにも関らず自己を他の長老らと同列に置いているのを見てもこの文字が「先輩」というごとき意味であることがわかる。また彼がローマ法王の祖先にあらざる確証である。
[苦難の証人] キリストの苦難の目撃者であると共にまたこれを宣伝する者。
[顕れんとする栄光] 世の終末においてキリストの再臨とその際における新天新地の栄光。そしてペテロは他の長老たちも彼と同じくこの証人であり栄光に与るものたることを暗示している。

5章2節 (なんぢ)らの(うち)にある(かみ)群羊(むれ)()へ。[引照]

口語訳あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。
塚本訳君達の中の神の群れを飼え。不承不承でなく、神のように心から、また汚い金儲けのためでなく、献身的に(せよ。)
前田訳神の羊の群れを牧してください。強いられず、神に従って進んでし、恥ずべき欲によらず心からし、
新共同あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。
NIVBe shepherds of God's flock that is under your care, serving as overseers--not because you must, but because you are willing, as God wants you to be; not greedy for money, but eager to serve;
註解: 羊を牧することは彼らを政治的に支配する意味ではなく神の言の糧をもって霊的に彼らを養い導くの意である(I0)。「神の群羊」であって自己のものではない。ゆえに自己の利益や便宜のために群羊を犠牲にすべきではない。教会の中の年輩者はかくして群羊を牧するの義務を負うているのであって一牧師の専門の仕事とするべきではない。
辞解
[汝らの中にある] 汝らと偕にある群羊。

()むを()ずして()さず、(かみ)(したが)ひて(こころ)より()し、

註解: 牧者の注意すべき三つの事項をここに列挙している。その第一は強いられてせず心より悦びて為すことである。強いられて為す善は無価値である(ピレ1:14)。また心よりするも「神に従」わざる心、自己の嗜好のために心より為す行為は真の牧者の行為ではない。

()(むさぼ)るために()さず、(よろこ)びてなし、

註解: 宗教商売は唾棄すべきことである。神の群羊のためよりも自己の生活につき考えるものはこの宗教商売であり、宗教が堕落する時必ずかかる寄食者が生ずる。牧することは心の奥底より溢れ出でて為す行為でなければならぬ。
辞解
[利を貪る為] aischrokedrôs 「恥ずべき利慾の為」を意味する。
[悦びて] prothumôs 「心の底より」(L1)。

5章3節 (ゆだ)ねられたる(もの)(しゅ)とならず、群羊(むれ)模範(もはん)となれ。[引照]

口語訳また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。
塚本訳また(自分の)持ち分たる群れの支配者のようでなく、その群れの手本となれ。
前田訳ゆだねられたものを牛耳ろうとせず、群れの模範になってください。
新共同ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。
NIVnot lording it over those entrusted to you, but being examples to the flock.
註解: 自己の分に属する信徒すなわち自己の世話し監督すべき範囲の信徒に対して強圧的態度、倨傲(きょごう)なる振舞いを為すべきではない。殊に神の名において信徒に圧迫を加えることは僧侶階級が勢力を得るに至って往々行われる事実である。我らはその絶頂をローマ法王に見る。長老が信徒を支配する方法は彼ら自ら謙遜、無私、犠牲の精神をもってその模範となるにある。
辞解
[委ねられたる者] klêroi は自己の分け前に属する資産、職務等をいい、ここでは自己の分け前に属する信徒をいう。信徒が長老間に分配されたというのではなく、住居、職業等の関係より自然にその区分が生ずるその状態を指したのであろう。

5章4節 さらば大牧者(だいぼくしゃ)(あらは)(たま)ふとき、(しぼ)まざる光榮(くわうえい)冠冕(かんむり)()けん。[引照]

口語訳そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。
塚本訳そうすれば大牧者(キリスト)の顕れ給う時、凋まぬ栄光の冠を獲るであろう。
前田訳そうすれば、大牧者の現われるとき、しおれぬ栄光の花冠をお受けでしょう。
新共同そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。
NIVAnd when the Chief Shepherd appears, you will receive the crown of glory that will never fade away.
註解: 羊の大牧者イエス(ヘブ13:20)の再臨の時に与えらるべき栄冠を思うならば現今において人の主となりて自己に栄えを帰するの必要はない。自ら卑しとするものにして始めて高しとされるであろう。
辞解
[大牧者] archipoimên 「牧者長」の意。
[(しぼ)まざる] amarantinos 「アマラントの」の意で、アマラントは(しぼ)まない花の名詞。
要義 [先輩たる信徒の道]教会の先輩たるべき人々(必ずしも選挙されて公職としての長老となりたる人に限る必要はない)の第一の義務は群の羊を牧すること、これに霊の糧を与えまた必要なる霊肉の世話をすることである。そしてペテロは5:1-4に彼らの陥り易き弊害を最も適切に指示しているのであって、すなわち(1)不熱心にして渋々ながらこれを為すこと、(2)自己を利せんがためすなわち自己中心の心よりこれを為すこと、(3)支配慾、優越感を満足せんがためにこれを為すことである。事実この三者がいかに教会の空気を支配しているかを見よ。

5章5節 (同様(どうやう)に)(わか)(もの)よ、なんぢら長老(ちゃうらう)たちに(したが)へ、[引照]

口語訳同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。
塚本訳同じく、若者達よ、(君達にも勧告する、)長老達に服従せよ。また皆互いに謙遜を着よ、“神は横柄な者に抵抗し、謙遜な者には恩恵を賜う”からである。
前田訳同じように、若い方々、長老に従いなさい。皆が互いに謙遜を身につけなさい。「神は高ぶるものをしりぞけ、へりくだるものに恵みを与えたもう」からです。
新共同同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。
NIVYoung men, in the same way be submissive to those who are older. All of you, clothe yourselves with humility toward one another, because, "God opposes the proud but gives grace to the humble."
註解: 青年信徒の陥りやすき欠点は不従順である。ペテロは3節において老年者たちに謙遜を教えたので、ここに転じて青年を従順の美徳に訓練せんとしたのである。人生の経験に乏しく思慮の不完全なる青年にとりて不従順は一種の自殺である。
辞解
[同様に] 原文にあり3節に対比す。
[若き者] 「長老」すなわち「年寄」の反対、ゆえに長老を職名と解せんとする者はこの対照を解するに苦しんでいるけれども、1−4節註のごとくに解するならばこの困難は除かれる。

かつ(みな)たがひに謙遜(けんそん)をまとへ『(かみ)(たか)ぶる(もの)(ふせ)ぎ、へりくだる(もの)恩惠(めぐみ)(あた)(たま)ふ』

註解: 青年信徒に従順を教えると共にペテロは一般の信徒相互の間にも謙遜の必要なることを痛感した。ゆえに「皆」と言いて信徒一般にこれを薦めている。引用は箴3:34よりでヤコ4:6にも同一の引用がある。
辞解
[まとへ] enkomboomai は「飾る」「緊く結ぶ」「奴隷の印なる前垂を締める」等の意味あり、多分謙遜に関して最後の意味に用いたのであろう。

5章6節 この(ゆゑ)(かみ)能力(ちから)ある御手(みて)(した)(おのれ)(ひく)うせよ、さらば(とき)(およ)びて(かみ)なんぢらを(たか)うし(たま)はん。[引照]

口語訳だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。
塚本訳だから神の強き御手の下に謙遜れ。時到って君達を高うし給わんためである。
前田訳それゆえ神の強いみ手のもとにへりくだりなさい。時が来ればあなた方をお高めですから。
新共同だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。
NIVHumble yourselves, therefore, under God's mighty hand, that he may lift you up in due time.
註解: 謙遜の根本はまず神を(おそ)れその力ある御手に服従してその下に己を(ひく)くするにある。この謙遜ありて始めて信徒相互の間の謙遜を実現することができる。そして神は適当の時、殊に最後の審判の時に卑下(へりくだ)る者を高くし給うであろう。
辞解
[能力(ちから)ある御手] 旧約聖書にしばしば用いられ、殊にエジプトより導き出し給う神を指す場合に多く用いられる。これより本節を神の与え給う苦難に対して服従するの意味に限る解釈があるけれどもかく限るに及ばない。
[時に及びて] 適当の時で最後の審判の時に限らない。

4-4 外敵内憂に対する注意 5:7 - 5:11

5章7節 (また)もろもろの心勞(こころづかひ)(かみ)(ゆだ)ねよ、(かみ)なんぢらの(ため)(おもん)ぱかり(たま)へばなり。[引照]

口語訳神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。
塚本訳“君達の心配を”悉く彼に“投げかけよ”。(いつも)君達のことを心にかけて居られるのだから。
前田訳あなた方の心配をみな神にゆだねなさい。神はあなた方のことをご心配です。
新共同思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
NIVCast all your anxiety on him because he cares for you.
註解: 神の能力に信頼して我らは謙遜となり得ると同じく(前節)神が我らのために(おもん)ぱかり給うその配慮に信頼して、我らはあらゆる憂慮より免れることができる。
辞解
[もろもろの] 原語「凡ての」。かくして我らには一片の心労も残らない。
[委ねよ] epiriptô は「投げかけよ」という強い語。本節の憂慮も迫害による苦難のみでなく、その他あらゆる憂慮をも含む。

5章8節 (つつし)みて()(さま)しをれ、(なんぢ)らの(あた)なる惡魔(あくま)、ほゆる獅子(しし)のごとく歴迴(へめぐ)りて()むべきものを(たづ)ぬ。[引照]

口語訳身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。
塚本訳真面目であれ、目を覚まして居れ。君達の敵なる悪魔が“獅子のように哮えながら”、呑む者を探しつつ歩きまわっている。
前田訳冷静にし、目をさましていてください。あなた方にさからう悪魔が、吠える獅子のようにだれかを食いつくそうとして歩き回っています。
新共同身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
NIVBe self-controlled and alert. Your enemy the devil prowls around like a roaring lion looking for someone to devour.
註解: 神に信頼すと称して往々気を弛めまたは惰眠を貪っている者があるのでペテロはここに「慎め、目を覚せ」(直訳)との警戒を与えたのである。悪魔はほゆる獅子のごとくに恐るべきものであり、またその餌食に飢えている。そして各地を歴廻(へめぐ)りてかかる怠惰者の餌を狙っている。我らは一刻も油断することができない。
辞解
[慎む] nêphô は情慾、感情、心配、苦痛のために盲目とならず常に心の安定を保つこと。
[呑む] katapinô 従って全き破滅に陥らしむること。

5章9節 なんぢら信仰(しんかう)(かた)うして(かれ)(ふせ)げ、なんぢらは()にある兄弟(きゃうだい)たちの(おな)苦難(くるしみ)()ふを()ればなり。[引照]

口語訳この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。
塚本訳信仰を堅くして彼に立ち向かえ。全世界に在る君達の教友にも同じ苦難が臨むことを君達は知っている。
前田訳信仰に堅く立って彼をしりぞけてください。ご承知のように、世にあるあなた方の兄弟も同じ苦しみにあったのです。
新共同信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。
NIVResist him, standing firm in the faith, because you know that your brothers throughout the world are undergoing the same kind of sufferings.
註解: キリストに堅く信頼して動かないならば悪魔は施すに術ないであろう。そしてこの不動の信仰は他のキリスト者たちが同様の苦難に遭うことを知ることによりて堅くされる。その故はもし自分だけが例外的に苦難に遭うならば神を疑うこともあり得るであろう。しかしながらキリスト者は常に悪魔に狙われ彼より種々の苦難を与えられるのであって、この点において何人も例外たり得ないからである。
辞解
本節後半は難解の字句で種々に訳することができるけれども結局意味において大差はない。
[世にある] キリスト者は本来世より選び出されたものでもはやこの世のものでない。唯この世に遣わされて存在するものである。
[遭ふ] epiteleisthai 「成就する」「完成する」「支払済となる」「終局となる」等種々の意味あり。

5章10節 もろもろの恩惠(めぐみ)(かみ)、すなはち永遠(とこしへ)榮光(えいくわう)()けしめんとて、キリストによりて(なんぢ)らを()(たま)へる(かみ)は、(なんぢ)らが(しばら)苦難(くるしみ)をうくる(のち)、なんぢらを(まった)うし、(かた)うし、(つよ)くして、その(もとゐ)(さだ)(たま)はん。[引照]

口語訳あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。
塚本訳しかしキリストにおいて君達を永遠の栄光へと召し給うたあらゆる恩恵の神は、暫く受難せねばならぬ君達を自ら武装し、強め、力づけ、堅く立て給うであろう。
前田訳すべてのお恵みの神は、あなた方をキリストにある永遠の栄光にお招きです。あなた方はしばらくはお苦しみですが、神ご自身いやし、強め、力づけ、支えてくださるでしょう。
新共同しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。
NIVAnd the God of all grace, who called you to his eternal glory in Christ, after you have suffered a little while, will himself restore you and make you strong, firm and steadfast.
註解: 前節まで信徒の取るべき態度につきて録したる後、本節において神が何を信徒に対して為し給うかを示している。
辞解
[恩惠(めぐみ)の神] かく言える所以は苦難の中にこの神を呼ぶことにより慰めを得んがためであり、さらに「永遠の栄光を受けしめんとてキリストによりて汝らを召し給える神」と言える所以はかかる神なるが故に現在の苦難も無意味に与え給うことなく必ず善き結果に導き給うことを信ぜしめんがためである。
[全うし] katartizô Tコリ1:10註参照。完備して欠点なきことにも用う。
[堅うし] stêrizô 動揺せざること。
[強くし] sthenoô 精力旺盛なること。
[その(もとゐ)を定め] themelioô 地固めをすること(あたかも建築の基礎工事におけるごとく)本節の場合は「基礎を固め給わん」等と訳するを可とす。

5章11節 (ねが)はくは權力(ちから)世々(よよ)(かぎ)りなく(かみ)にあれ、アァメン。[引照]

口語訳どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン。
塚本訳権力、代々限りなく彼にあれ、アーメン。
前田訳神にこそ世々とこしえに力がありますように。アーメン。
新共同力が世々限りなく神にありますように、アーメン。
NIVTo him be the power for ever and ever. Amen.
註解: 前節においてペテロは神の宏大なる力に思い及ぼして永遠にこの能力を持ち給う神に讃美をささげざるを得なかった。永遠にこの能力の持主に在し給う神を信頼して我らは如何なる敵にも打勝ち、如何なる苦難にも耐えることができる。
辞解
[権力] kratos は6節の「能力」と同語で同じく能力と訳するを可とす。
要義 [苦難の中における信仰生活]神が能力の神(6節)また恩恵の神に在し、また我らに永遠の栄光を受けしめんとて召し給える神に在すこと(10節)は、苦難の中にある者に対する絶大の慰めである。もし以上の条件の一を欠くならば、我らは神に信頼を献ぐることができない。そうしてかかる神に信頼し得る者は幸福である。何となれば、いかなる憂慮も神我らのためにこれを負い給い、いかなる悪魔も神は我らのためにこれを防ぎ給い、そしていかなる苦難も神は我らをその中より救い出して我らの信仰をさらに一段の堅固なる基礎の上に置き給うが故である。彼に信頼して、弱き我らも絶対に安全であり無限に強くされることができる。

分類
5 結尾の挨拶 5:12 - 5:14

5章12節 われ忠實(ちゅうじつ)なる兄弟(きゃうだい)なりと(おも)ふシルワノに()りて、簡單(かんたん)に((なんぢ)らに)()(おく)りて[引照]

口語訳わたしは、忠実な兄弟として信頼しているシルワノの手によって、この短い手紙をあなたがたにおくり、勧めをし、また、これが神のまことの恵みであることをあかしした。この恵みのうちに、かたく立っていなさい。
塚本訳忠実な兄弟と私が確信しているシルヴァノによって手短に君達に(この手紙を)書き、勧告し、且つ君達が(今)いるこの恩恵こそ神の真の恩恵であることを証明する。
前田訳忠実な兄弟と信じるシルワノによって短くお書きし、お勧めをし、これが神のまことの恵みであることの証をしました。この恵みのうちに堅く立ってください。
新共同わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。
NIVWith the help of Silas, whom I regard as a faithful brother, I have written to you briefly, encouraging you and testifying that this is the true grace of God. Stand fast in it.
辞解
[シルワノ] 使徒行伝のシラスと同人、彼については使15:22以下、使15:40使16:19以下、使17:4以下、使18:5Uコリ1:19参照。
[なりと思ふ] hôs logizomai は一見シルワノに対する信頼の不足を示すがごとくに見ゆる故「簡単に」を形容すると解する説あり、すなわち「われ忠実なる兄弟シルワノに由りて簡単と思わるるが汝らに書き贈れり」(Z0、M0)となりシルワノに対する信頼の不確かさを示さない長所がある。しかし文法上はこの方がやや不自然の感ありいずれとも確定し難い(M0)。予はむしろシルワノがこの書簡を代筆せる関係上自分のことを記す場合に至って自らこの語を附加したのであろうと思う。
[に由りて] は単に書簡の持参者を意味するか、またはその筆記者、翻訳者を意味するかにつきて異説あり、後者を取る(緒言参照)。

(なんぢ)らに(すす)め、かつ(これ)(かみ)(まこと)恩惠(めぐみ)なることを(あかし)す、

註解: 勧めと証しはこの書簡の内容を為している。伝道者の使命もまたこの二者にある。
辞解
[(これ)は] この書簡に録されし苦難の際における神の恩恵を指す。
[(まこと)恩惠(めぐみ)] 真の恩恵(めぐみ)は苦難の際に著しく顕わる。

(なんぢ)()この恩惠(めぐみ)()て。

註解: 苦難に打勝つ最良の方法はこの恩恵(めぐみ)の中に立つことである。パウロは罪の赦しの恩恵(めぐみ)を高調し、ペテロは苦難の中における神の恩恵(めぐみ)を高調した。

5章13節 (なんぢ)らと(とも)(えら)ばれてバビロンに()教會(けうくわい)、なんぢらに安否(あんぴ)()ふ、[引照]

口語訳あなたがたと共に選ばれてバビロンにある教会、ならびに、わたしの子マルコから、あなたがたによろしく。
塚本訳(君達と)共に選ばれたバビロンの人達と私の子マルコスから君達によろしく。
前田訳バビロンに住む共に選ばれたものとわが子マルコからよろしく。
新共同共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。
NIVShe who is in Babylon, chosen together with you, sends you her greetings, and so does my son Mark.
辞解
[バビロン] ローマ市を指す風刺的称呼(緒言参照)。「教会」なる語は原語になく唯「共に選ばれし者(単数女性名詞)」とあるのみであるため、これをペテロの妻(B1)と解する説がるけれどもこれを教会と見る方が優っている。

わが()マルコも安否(あんぴ)()ふ。

辞解
[子] 霊の子、マルコについては使12:12使13:5使15:37参照。

5章14節 なんぢら(あい)接吻(くちつけ)をもて(たがひ)安否(あんぴ)()へ。[引照]

口語訳愛の接吻をもって互にあいさつをかわしなさい。キリストにあるあなたがた一同に、平安があるように。
塚本訳愛の接吻をもって互いに宜しくを言え。キリストにある君達一同に平安あれ!
前田訳互いに愛の口づけによってあいさつしてください。キリストにある皆さんに平安がありますように。
新共同愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。
NIVGreet one another with a kiss of love. Peace to all of you who are in Christ.
註解: 接吻をもって挨拶することは当時の習慣であった。ロマ16:16Tコリ16:20Uコリ13:12等。愛の接吻、信徒相互の愛の重要なることを示す。

(ねが)はくはキリストに()(なんぢ)(すべて)に、平安(へいあん)あらんことを。

註解: 苦難の中における信徒に送れる書簡の結尾として最も相応しい祈りである。恩恵については12節にすでに記しているのでパウロのごとくこの二者を併記しなかったのであろう。