黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ピリピ書

ピリピ書第1章

分類
1 冒頭の挨拶 1:1 - 1:11
1-1 挨拶 1:1 - 1:2

1章1節 キリスト・イエスの(しもべ)たる[(われ)ら、]パウロとテモテと、[引照]

口語訳キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。
塚本訳キリスト・イエスの奴隷でるパウロとテモテ(の二人)から、キリスト・イエスに在るピリピの凡ての聖徒達、並びに取締りと世話役達にこの手紙を遺る。願わくは
前田訳キリスト・イエスの僕パウロとテモテから、ピリピに住む、キリスト・イエスにあるすべての聖徒、とくに監督と執事の方々へ。
新共同キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。
NIVPaul and Timothy, servants of Christ Jesus, To all the saints in Christ Jesus at Philippi, together with the overseers and deacons:
註解: テモテをも発信人の中に加えたのはUコリ、コロ、ピレ、Tテサ、Uテサであるが、これは書簡に一般的性格を与えるのみならず、テモテと親密なる関係を有する諸教会には殊に効果的である(なお書簡の冒頭の形式および「僕」の意味につきてはロマ1:1−7註参照)。本書に「僕」を用いて「使徒」(エペ1:1コロ1:1)と言わないのはピリピの教会との親密さのためであろう。

[(ふみ)を]ピリピにをるキリスト・イエスに()(すべ)ての聖徒(せいと)、および監督(かんとく)たちと執事(しつじ)たちとに[(おく)る]。

註解: 受信人を指示している点においてパウロの他の書簡と同一であるけれども監督と執事とを加えてあることが本書簡の特徴である。ピリピの教会が特にパウロに金銭上の援助を為すことに熱心であったのは、監督や執事たちの愛心によることが多かったためであろう。

1章2節 [(ねが)はくは](われ)らの(ちち)なる(かみ)および(しゅ)イエス・キリストより[(たま)ふ]恩惠(めぐみ)平安(へいあん)(なんぢ)らに[()らんことを]。[引照]

口語訳わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
塚本訳私達の父なる神及び主イエス・キリストからの恩恵と平安、君達にあれ!
前田訳われらの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安があなた方にありますように。
新共同わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
NIVGrace and peace to you from God our Father and the Lord Jesus Christ.
註解: ロマ1:7註参照。

1-2 感謝と祈願 1:3 - 1:11

1章3節 われ(なんぢ)らを(おも)ふごとに、()(かみ)感謝(かんしゃ)し、[引照]

口語訳わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、
塚本訳私は(祈りの中で)君達のことを述べる毎に私の神に感謝している──
前田訳あなた方を思い出すごとにわが神に感謝します。
新共同わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、
NIVI thank my God every time I remember you.
辞解
[汝らを憶うごとに] 「汝らを憶うごとに」(L1、C1)は多くの学者は「汝らを思う凡てにおいて」と訳すべしと主張する。文法上はこの方が正しい(M0、E0、I0、L3)。またこれを「汝らが我を思う凡ての点につき」と訳すべしとの説あり(Z0)、前後の連絡は宜しけれど用例なきことが欠点なり。

1章4節 (つね)(なんぢ)(すべて)のために、(ねがひ)のつどつど(よろこ)びて(ねがひ)をなす。[引照]

口語訳あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、
塚本訳私はいつも祈りの度毎に喜びをもって君達皆のために祈るのであるが──
前田訳皆さんのために祈るたびに、いつもわたしはよろこびをもって祈ります。
新共同あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
NIVIn all my prayers for all of you, I always pray with joy
辞解
[喜びて] 本書簡の基調をなす(B1)。

1章5節 (これ)なんぢら(はじめ)()より(いま)(いた)るまで、福音(ふくいん)を[(ひろ)むること]に(あづか)るが(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。
塚本訳それは(信仰に入った)始めの日から今まで、君達が福音(の恩恵)に(深く)与っているからで、
前田訳それはあなた方がはじめの日から今まで絶えず福音にご協力だからです。
新共同それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
NIVbecause of your partnership in the gospel from the first day until now,
註解: 原文の連絡は3節の「感謝す」が主となり、4節はその感謝の態度を示し、5節には感謝の対象目的たる事柄を記す。すなわちパウロはピリピの凡ての信徒を思い浮べ、そのために溢れる歓喜をもって祈願を為しつつ、彼らの始めより今日に至るまでの福音のための交わりにつきて、感謝に溢れているのである。ピリピの信徒のことを思うとき、パウロにとりて唯感謝あるのみであった。それは彼らが、その入信の当初より今日に至るまで、福音のためにパウロとの交わりを続けこれと共力しこれに対し金銭的援助を与えることを努めたからであった。それ故にパウロは常に彼らのために祈願することを止めなかった。彼らがパウロの念頭を去らなかったからである。
辞解
[福音を弘むることに与る] 原語「福音への交わり koinônia 」でその「交わり」は時に共力となり時に金銭的助力となりて表わる。本書の場合主として後者を指しているのであろう。
[初の日] 初めてパウロに送金せる時(ピリ4:15、16)と見る(L3)よりも、信仰に入りし初めと見るべきである。

1章6節 (われ)(なんぢ)らの(うち)()(わざ)(はじ)(たま)ひし(もの)の、キリスト・イエスの()まで(これ)(まった)うし(たま)ふべきことを確信(かくしん)す。[引照]

口語訳そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。
塚本訳私は君達の間に善い仕事を始め給うたお方が、キリスト・イエスの(来臨の)日までに(必ずそれを)成し遂げ給うことを確信している。
前田訳わたしはじつに次のことを確信しています−−あなた方のうちによいわざをお始めの方がキリスト・イエスの日までにそれを全うされようことを。
新共同あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
NIVbeing confident of this, that he who began a good work in you will carry it on to completion until the day of Christ Jesus.
註解: 神はピリピの信徒の心の中に神を信ずる新たなる人を創造する善き業を始め給うた。彼らがパウロに対して福音のことに与っているのは(5節)その結果である。そうして神はこの創造の御業を中止し給うことなく、キリスト・イエスの再臨により凡ての人の(さば)かれる時には、ピリピの信徒をして完成せられし神の国の民としてキリストの台前に立たしめ給うであろう。これはパウロが信じて疑わない処であった。神はいたずらには御業を創め給わない(B1)。
辞解
[善き業] ピリピの信徒がパウロを支援する業と解する説があるけれども(M0、L3)、上記のごとく解するを可とす(E0、B1、Z0)。
[イエス・キリストの日] キリストの再臨とこれによる審判および万物復興の日、パウロはこの日が速やかに至ることを信じていた。
[全うす] キリストの審判の座の前に完全と認められることを意味している(L3)。なお「確信す」は「確信して」で3節の「感謝す」に懸る。

1章7節 わが()くも(なんぢ)(すべて)(おも)ふは當然(たうぜん)(こと)なり、()縲絏(なはめ)にある(とき)にも、福音(ふくいん)辯明(べんめい)して(これ)(かた)うする(とき)にも、(なんぢ)らは(みな)われと(とも)恩惠(めぐみ)(あづか)るによりて、()(こころ)にあればなり。[引照]

口語訳わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。
塚本訳そしてこんなに君達皆のことを考えているのは、私には(むしろ)当然だ。というのは、縄目に在る時も、福音を弁護し証明する時も、君達は皆私と(苦難の)恩恵を共にする者として(いつも)心に在るのだから。
前田訳皆さんについてこう思うわたしには、しかとわけがあります−−あなた方はわたしを心にかけ、わたしが捕われたときも、福音の弁明と論証をしたときも、こぞってわたしの恵みを共にしてくれるからです。
新共同わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。
NIVIt is right for me to feel this way about all of you, since I have you in my heart; for whether I am in chains or defending and confirming the gospel, all of you share in God's grace with me.
註解: 3節の感謝、4節の祈願、6節の確信等はみなこの「斯くも」の中に含まれる。パウロはかくもピリピの信徒のことにつき念頭に置いているのは偶然ではない、否これは正しき態度である。何となれば彼らは、パウロの幽囚に逢った時もこれを捨てず、またパウロが福音の弁護(反対論に対する)をなし、また相手を説得し反対を克服してこれを堅うする時も彼を放置せず、すなわちパウロの動静如何にかかわらず如何なる場合もピリピの信徒はパウロを捨てずこれを忘れずして、パウロと一身同体となり、神の恩恵をパウロと共有し(そうしてこの恩恵の喜びの印、感謝の印としてパウロに献金をなし)たので、いつもパウロの念頭を去らなかったからである。
辞解
[斯くも思ふ] この意義につき多くの解あり、6節のみを受くると解する説(M0)、好意を持つ(Z0)等のごとし。
[我と共に恩恵に与る] 原語「恩恵の共有者(sunkoinônos)」で神の恩恵をパウロと共に受けていること、すなわちパウロの困難やその活動を、彼ら自身のことと思うことであり、その結果パウロに物質的支援を与えることである。この行為は結局パウロと同じ恩恵に(あずか)ることとなる。

1章8節 (われ)いかにキリスト・イエスの(こころ)をもて(なんぢ)(すべて)()(した)ふか、その(あかし)をなし(たま)(もの)(かみ)(なれば)なり。[引照]

口語訳わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるかたは神である。
塚本訳実際、神が私の(ために)証人になって下さるように、私は(いつも)キリスト・イエスの愛情をもって君達皆を慕っているのである。
前田訳わたしが皆さんをいかにキリスト・イエスのまごころをもって慕っているか、神がわが証人です。
新共同わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。
NIVGod can testify how I long for all of you with the affection of Christ Jesus.
註解: 3−7節のパウロの感情の切実さの証人としてパウロは神を呼び上げている。これを見ても如何にその情の切にして真実であるかがわかる。かつ「キリスト・イエスの心をもて」としているのはパウロの心中にキリスト・イエスが生きて支配し給うことを示す。人間的の愛情にあらず、いわんやさらに低き慾情にあらず、彼の中に生き給うキリストの心によったのであった。
辞解
[心] splanchna 人体の臓腑の中の高等なるもの、心臓、肺臓、肝臓等を指す語であるがそれらの臓腑が人間の心、主として感情の方面を司っていると思われていた。この意味における「心」を意味す。

1章9節 ((かつ))(われ)(いの)る、(なんぢ)らの(あい)知識(ちしき)ともろもろの(さとり)とによりて(いや)(うへ)にも()(くは)はり、[引照]

口語訳わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、
塚本訳そして私が(絶えず)祈っているのは、君達の愛がなおもますます(成長することによって)知識と凡ての(道徳的)知覚を増し、
前田訳そしてこのことを祈ります。あなた方の愛がますます知識とあらゆる洞察に富み、
新共同わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、
NIVAnd this is my prayer: that your love may abound more and more in knowledge and depth of insight,
辞解
[汝らの愛] 神、キリスト、パウロ等特定の相手に対する愛ではなく、相互の間の愛である(M0、E0)。
[知識] epignôsis は完全なる知識。「悟」aisthēsisは感触、感受性につき用いらる。「知識と・・・・・・とによりて」は「知識と・・・・・・において」とも訳される。この方が本節の場合に適す。

1章10節 善惡(よしあし)(わきま)()り、[引照]

口語訳それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、
塚本訳君達が本質的なものの判別が出来るようになり、斯くしてキリスト(来臨)の日に潔くして非難すべき点なく、
前田訳大切なことを見分けうるように、キリストの日に純粋無垢であるように、
新共同本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、
NIVso that you may be able to discern what is best and may be pure and blameless until the day of Christ,
註解: 上記の願いや感謝に加えてさらに9−11節に祈りを附加す。祈りの内容はまず第一にピリピの信徒の愛心が知識と悟の点において増し加わることであった。すなわち盲目的の愛ではなく、感情的の愛でもなく、神の御心の何たるかを知るの知識と、道徳的の事柄に対する感受性とを豊かに(そな)える愛となり、そしてこの知識と感受性とをもって善悪を弁別することである。
辞解
[善惡(よしあし)(わきま)()り] 「知識と悟」とに懸っており、「善悪を弁別するための知識と悟」の意味となる。また「優れたるものを弁別し」とも訳す(M0、B1、I0)、現行訳にて差支えなし(ロマ2:18)。

キリストの()(いた)るまで(いさぎ)よくして(つまづ)くことなく、

辞解
[(いさぎ)よく] 純潔真摯なること。
[躓くことなく] 「人を躓かすることなく」とも訳し得るけれども(M0、I0)現行訳を採る(L3)。

1章11節 イエス・キリストによる()()(みた)して、(かみ)榮光(えいくわう)(ほまれ)とを(あらは)さん(こと)を。[引照]

口語訳イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。
塚本訳イエス・キリストによる義の果実に満ちて、(凡ての)栄光と誉れが神に帰せんことである。
前田訳イエス・キリストによる義の実に満ち、神の栄光と讃美になるように、と。
新共同イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
NIVfilled with the fruit of righteousness that comes through Jesus Christ--to the glory and praise of God.
註解: 10節後半は9節の祈りの第二の点であり11節後半はその潔く躓くことなきことの有様または内容を示し、後半はその目的を示す。すなわちパウロの言わんとする処は「人生の最終最大の目的たる神の栄光と誉れとのために(エペ1:6エペ1:12エペ1:14参照)ピリピの信者はみな、律法の義にあらず、イエス・キリストによりて与えられし義の果をもって充たされ、豊かに正義の果を結ぶものとなり、キリスト再臨の日まで純潔を全うし、躓きなきものとして過ごさんことを切に祈る」とのことである。
辞解
[イエス・キリストによる義の果] イエス・キリストの贖いによりて神との間に平和が生じ、義なるものとされ、この神との関係が自然に義の果を結ぶ(E0)。律法による義と区別するためにかく言ったのである。
[神の栄光] その救いの御業の栄光においてその頂点に達し、これを誉むることは信徒の生涯の最高の目的である(エペ1:3−14註および要義参照)。本書にも他の獄中書簡と類似の思想および文章が存在することに注意すべし。
要義1 [神の御業の初]神はわれらの中に働きかけ給う。その結果神をもとめる心を起こし、遂には神を信じ、善き行をなす事を得るに至るものである。そして神はいたずらにその善き業に着手し給うものではない。必ず充分の用意と予定とを以てこれを為し給う。故に神の御業が我らの中に始められた事は、我らの将来のための偉大なる事実である。もし我らにしてこの事実の前に畏れ(おのの)くならば神は必ずこれを成就し、完全に導き給うであろう。
要義2 [福音への交わり(コイノーニア)]「福音を弘むることに(あずか)る」(5節)は「福音へのコイノーニア」であり「われと共に恩恵に(あずか)る」は「恩恵のスゅンコイノーノス(sunkoinônos)」である(7節)。元来コイノーニアは有無相通ずることであり、有てる者は有たぬ者に分け与え、喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむことであり、また「凡ての善きものを共にし」(ガラ6:6)重荷を分担することである。そしてこの交わりは霊的意味においては、霊的一体の状態を指し(ピリ2:1Tコリ1:9Tヨハ1:3Tヨハ1:6、7)これが具体的に表わされる場合ピリピの信徒がパウロに対して為せる如き愛の贈物となる。従って「福音への交わり」は福音を宣伝うることに対する共同一致の態度であって、パウロは言をもってこれを宣伝え、ピリピの信徒は彼の生活を助けて間接に福音を宣伝うることとなるのであり、「恩恵への共同コイノーニア」は、パウロがキリストによって与えられし恩恵にピリピの信徒も共に与ることであり、従ってパウロがその恩恵に対する感謝より全身全霊をキリストに献ぐるその生活に対し、彼らもこれと一体たる生活をなし、パウロと共に共同にその恩恵に(あずか)らんとするのである。そして彼らとしてこの際取るべき態度はパウロのごとく自ら陣頭に立って口をもって福音を宣伝えることではなく(これには神の特別の召命と神より与えられし賜物とが必要である)、パウロの生活を支えてパウロをしてその使命を全うさせることである。キリストに在りて一体たるキリストの教会は、この意味においてみな「共に恩恵に(あずか)る者」でなければならぬ。
要義3 [知識と悟りと愛]愛(アガペー)は人間の本能的愛とは異なっている。唯濫りに感情的に熱愛することは、往々にして正しき神の道にかなわない。それ故に何が善であるかを知る知識と悟りとを伴える愛、即ち神の愛でなければならない。それ故に信仰より出づる愛は落着いた愛であり、正義に叶える愛である。愛、愛と称して善悪無差別となるごときは注意してこれを避けなければならぬ。

分類
2 パウロの縲絏(なわめ)とその意義 1:12 - 1:30
2-1 我が縲絏(なわめ)を恥とすな 1:12 - 1:20

1章12節 兄弟(きゃうだい)よ、(われ)はわが()にありし(こと)(かへ)つて福音(ふくいん)進歩(しんぽ)[の(たすけ)]となりしを(なんぢ)らが()らんことを(ほっ)するなり。[引照]

口語訳さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。
塚本訳兄弟達よ、(何はさて置き)君達に知ってほしいのは、私(が因われの身であるそ)のことが、(伝道の妨げにならないばかりか、)むしろ福音を発展させる結果になったことである。
前田訳兄弟よ、わたしにおこったことがむしろ福音の促進になったことを知ってください。
新共同兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。
NIVNow I want you to know, brothers, that what has happened to me has really served to advance the gospel.
註解: おそらくピリピの人々には(他の諸教会においても同様)パウロの投獄は福音宣伝の大障碍(しょうがい)となり、福音の将来は悲観的であるとの心持または風説が行われていたのであろう。しかるに事実はその全く反対であって、かえってそれが福音の進歩を来らしむる結果となった。この事実をピリピの信徒に示してその心を安んぜしめ、益々その信仰を高めんとするのがパウロの目的であった。

1章13節 (すなは)()縲絏(なはめ)のキリストの(ため)なることは、近衞(このゑ)全營(ぜんえい)にも、(ほか)(すべ)ての(ひと)にも(あらは)れ、[引照]

口語訳すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、
塚本訳すなわち私の縄目がキリストのためであることが(遂に)近衛兵全体と他の凡ての人々に知れ、
前田訳わが捕われが近衛全体とその他すべてにキリストにあって知れわたり、
新共同つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、
NIVAs a result, it has become clear throughout the whole palace guard and to everyone else that I am in chains for Christ.
註解: 原文は「我が縲絏(なわめ)はキリストにありて(あきらか)となり」(直訳)でパウロの投獄は他の囚徒と趣を異にし「キリストに在る者たる点において」顕著なるものとなった。すなわち彼のキリストに対する信仰が近衛の全営にも他の人々にも知られるに至ったのである。
辞解
[キリストの爲なること] 訳として不適当なり。
[近衛の全營] 「全プライトーリオン」でこの語は(1)ローマの王宮、(2)地方総督その他この種の顕官(けんかん)(高官)の官邸、(3)近衛兵の兵営、(4)近衛兵、(5)裁判官など種々の解あり。(3)を採る。すなわち現行訳が適当である。そしてその意味するところは兵営内の兵卒であること勿論である。
[他の凡ての人] 勿論「多くの他の人々」の意。

1章14節 かつ兄弟(きゃうだい)のうちの(おほ)くの(もの)は、わが縲絏(なはめ)によりて(しゅ)(しん)ずる(こころ)(あつ)くし、(おそ)るる(こと)なく、ますます(いさ)みて(かみ)(ことば)(かた)るに(いた)れり。[引照]

口語訳そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった。
塚本訳(そのため)主に在る多数の兄弟達は私の縄目に(神の力が働いていることを深く)信頼して、一層大胆に、恐れることなく神の言を語るようになった。
前田訳主にある兄弟の多くがわが捕われを信頼し、ますます大胆に神のことばを語る勇気を持ちました。
新共同主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。
NIVBecause of my chains, most of the brothers in the Lord have been encouraged to speak the word of God more courageously and fearlessly.
註解: 前半「かつ兄弟たちの多数は、主にありて我が縲絏(なわめ)に信頼し」と私訳するを可とす(M0、L3、Z0)。すなわち以前よりパウロの兄弟たる信者たちも大多数は「主に在りて」すなわち信仰によりてパウロの縲絏(なわめ)の何らパウロの罪にあらざること、またその将来は必ず信仰の勝利に帰すべきことを確信して、何物をも懼れず、ローマの強大な権力をもおそれずして勇敢に神の言を語り、福音を伝えた。ここでもパウロの縲絏(なわめ)は福音の妨害とはならずかえって福音を助長した。福音は迫害によりてかえってその力を増大する。
辞解
現行訳のごとく、「わが縲絏(なわめ)によりて主を信ずる心を厚くし」とも訳することができ、また「主にある兄弟たちはわが縲絏を信頼し」(A1)とも訳されるけれども、上記のごとくに私訳する方が適当である。

1章15節 (ある)(もの)嫉妬(ねたみ)分爭(ぶんさう)とによりてキリストを宣傳(のべつた)へ、あるものは()(こころ)によりて(これ)宣傳(のべつた)ふ。[引照]

口語訳一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。
塚本訳なるほど嫉妬と争いの心からキリスト(の福音)を伝える者もあるが、また善意からする者もある。
前田訳あるものは妬みと争いの心で、あるものは善意でキリストをのべ伝えています。
新共同キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。
NIVIt is true that some preach Christ out of envy and rivalry, but others out of goodwill.
註解: 前節のごとく兄弟たちの大多数はパウロの縲絏(なわめ)によりて益々伝道心が燃え上がり、勇敢に福音を語るようになったのではあるが、他に少数パウロの縲絏(なわめ)に信頼せず、パウロに対してはむしろその伝道の成功に対して嫉妬を有ち、分争すなわち競争気分をもってキリストを宣伝えるものがあった。しかし他の者は善意をもってキリストを宣伝えているものもある(次節を見よ)。パウロに対して嫉妬と分争の心をいだいているのは、或は(1)ユダヤ的キリスト教徒(ガラテヤの教会を撹乱し、或は到る処パウロに反対せるごときもの)であるとなし(M0、L3、A1)、或は(2)パウロ的キリスト者の中にありてパウロに個人的に反感を持てるもの等となしているけれども(E0、I0)、むしろペテロの影響を受け、ペテロを尊敬しているキリスト者たちがパウロの勢力を(ねた)み、同じキリストを宣伝えつつパウロに反対しているのであると見るべきであろう。党派心は禍害なるかな。▲伝道者の最も多く陥る誘惑は他の伝道者の成功を(ねた)むことである。パウロは完全にこれに超越していた。
辞解
[とによりて] 「との故に」とするを可とす。

1章16節 これは福音(ふくいん)辯明(べんめい)するために()()てられたることを()り、(あい)によりて[キリストを()べ]、[引照]

口語訳後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、
塚本訳(すなわち)後の人達は、私が福音を弁護するため(神に)立てられて(今こうして)いることを知り、(私に対する)愛からキリストを宣べ、
前田訳愛によるものは福音の弁明のためにわたしが今あることを知り、
新共同一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、
NIVThe latter do so in love, knowing that I am put here for the defense of the gospel.

1章17節 かれは()縲絏(なはめ)患難(なやみ)(くは)へんと(おも)ひ、誠意(せいい)によらず、徒黨(とたう)によりて(これ)()ぶ。[引照]

口語訳前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。
塚本訳また前の人達は縄目の私を苦しめようと思って、純な心でなく利己心からキリストを宣べ伝えるのである。
前田訳対立感によるものはキリストを伝えても純粋でなく、わが捕われに苦しみを加えようとしています。
新共同他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。
NIVThe former preach Christ out of selfish ambition, not sincerely, supposing that they can stir up trouble for me while I am in chains.
註解: 15節の二種の伝道者の心情をさらに詳しく述べる。順序は逆となっている。善意よりする伝道者はパウロを愛し、パウロの使命を理解し、パウロを助けんがために伝道する人々であり、嫉妬と分争とより伝道する者はパウロを苦しめんために徒党心より伝道をなす人々である。如何にしてこの伝道がパウロを苦しめるやにつきては(1)伝道によりてキリスト者が増加すればローマ官憲はこれを恐れてパウロを迫害するであろうとする説、(2)キリスト者の増加はユダヤ人の憎悪心を増すとする説、(3)パウロ反対者の伝道成功はパウロをして嫉妬心を起さしむるとする説あれど、むしろ(4)彼らはパウロに対して個人的非難を向けつつキリストを宣伝うるが故に、これによりてパウロの弟子たちの間にも分離を生ずるものもあるべく、パウロの縲絏(なわめ)の上に苦痛を与えたことであろうと解すべきである。すなわち伝道そのものおよびその結果よりも(この伝道についてはパウロは喜んでいる、18節)伝道の態度がパウロを苦しめたのであろう(Z0)。

1章18節 さらば如何(いかん)外貌(うはべ)にもあれ、(まこと)にもあれ、(結局(けっきょく))(いづれ)()ぶる(ところ)はキリストなれば、(われ)これを(よろこ)ぶ、また(これ)(よろこ)ばん。[引照]

口語訳すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。
塚本訳でもそれが何だろう!とにかく(福音に)かこつけ(て私を苦しめようとするの)であろうと、真実(の心)から(するの)であろうと、どの途キリストが宣べ伝えられるのだから、私はそれを喜ぶ。いや、これからも喜ぼう。
前田訳それが何でしょう。いずれにせよ、うわべでも真実でも、キリストが伝えられています。それをわたしはよろこびます。またさらによろこぶでしょう。
新共同だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。
NIVBut what does it matter? The important thing is that in every way, whether from false motives or true, Christ is preached. And because of this I rejoice. Yes, and I will continue to rejoice,
註解: パウロは彼に対する人身攻撃や、彼の伝道の成功を(ねた)んで為す伝道について少しもこれを排斥せず、結局キリストが宣伝えられるが故にこれを喜び、また将来もこの心持を変えざらんことを主張している。パウロにとりては一身の毀誉褒貶(きよほうへん)は問題ではなく、その利害はこれを顧みるの(いとま)がなかった。唯キリストの宣伝えられることのみを求めたのであった、何という宏大なる心であろう。この反対者をユダヤ的キリスト者またはパウロと異なれる信仰を所有している者であるとみる時は、このパウロの言葉は不可解となる。パウロにとりてはキリストが無視されることのみが忍び難いことであり、その他のことは忍んでいた。真の忠臣の態度である。ただしかかる卑劣なる動機をもって伝道する者は神よりそれぞれ審判を受けることは勿論である。
辞解
[外貌(うはべ)] 口実、申し訳等を意味する語 plên hoti「・・・・・・に過ぎず」の訳語を欠く故、「結局」と補充して読むべし。

1章19節 そは()のことの(なんぢ)らの(いのり)とイエス・キリストの御靈(みたま)賜物(たまもの)とによりて、()(すくひ)となるべきを()ればなり。[引照]

口語訳なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。
塚本訳何故なら、君達の祈りとイエス・キリストの御霊の助けとによって、(今私が因われの身となっている)“このことが、結局私の救いとなる”ことを知っているからだ。
前田訳それがあなた方の祈りとイエス・キリストの霊の支えによって、結局わたしの救いとなることを知っているからです。
新共同というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。
NIVfor I know that through your prayers and the help given by the Spirit of Jesus Christ, what has happened to me will turn out for my deliverance.
註解: 「かれらは斯くのごとく我に対して嫉妬の念をいだき、我を妨げ非難するけれども、このことは決して我のためにも不幸とはならず、かえって我が救い ─ 救いの完成 ─ に役立つこととなる。その故はこのことあるが故に汝らは我がために祈願を怠らず、また御霊は我に必要なる力の補給と援助とを与え我を支え給うが故である。それ故に我は喜び続けるであろう。」
辞解
[このこと] キリストを宣伝うる口実の下にパウロに対する敵対行為が為されること。
[御霊の賜物] 「御霊の賜う助け」の意。原語は epichorêgia これを「御霊を賜うこと」と解することもできるけれども本節の場合適しない。
[救いとなる] 「救いに転化する」というごとき意、この「救い」は罪より救われることにあらず、これはすでにパウロにおいて完成している。唯キリストの日に完全なる救いに入り得るや否やが残された問題であり、これがためには多くの苦難を経ることを要する。本節の場合はこの「救い」を指すと解すべきで、従って幽囚よりの救い、敵よりの救い、死よりの救い等と解することは不適当である。

1章20節 これは()何事(なにごと)をも()ぢずして、(いま)(つね)のごとく(いささ)かも(おく)することなく、()くるにも、()ぬるにも、()()によりてキリストの(あが)められ(たま)はんことを(せつ)(ねが)ひ、また(のぞ)むところに(かな)へるなり。[引照]

口語訳そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。
塚本訳そして私の切なる期待と望みは、私が何事にも恥をかかされず、かえって、いつものように今度も、キリストが正々堂々と私の体で、(私の)生によっても死によっても、(勝を得て)崇められ給わんことである。(然り、私の死によっても!)
前田訳わがあこがれと望みによれば、わたしは何にも恥を受けず、いつものように今もまた、全く公然と、生によれ死によれ、わが身によってキリストがあがめられましょう。
新共同そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。
NIVI eagerly expect and hope that I will in no way be ashamed, but will have sufficient courage so that now as always Christ will be exalted in my body, whether by life or by death.
註解: 最後の「(かな)へるなり」は「(かな)いて」なる前置詞句で、前節の「我が救となる」に懸る。すなわちパウロに反対なる伝道者たちの嫉視(しっし)がかえってパウロの救いに転化する所以はパウロの切願と希望のとおりに実現するのであって、この切願また希望は、彼が万事につき恥しめられることなく、従前のごとく今も臆せず語り、生にも死にも彼の身によりてキリストの崇められんことであった。この切願と希望とを有つが故に敵の嫉妬も妨害も彼には救いに転化するのである。
辞解
[何事をも恥ぢず] 「何事にも恥しめられず」と訳すべきである。「失敗せず」「馬鹿を見ず」のごとき意、「わが身」というは生、死につき考えているからである。21節以下を見よ。
[崇められんこと] 「キリストを崇めんこと」と言わないのはパウロの謙遜の心持からである。
[切に願ひ] apokaradokia は「首を長くして待望すること」と意味す。ロマ8:19
要義1 [凡ての事益をなす]普通の人にとりては非常なる屈辱と考えられる縲絏(なわめ)も、パウロにとりては、それが福音の進歩の助けとなりさえすれば、一つの光栄であった。彼は神の誉れを求めるけれども、人の誉れを求めないからである。それ故に我らは唯神の義のみを求めてその他を顧みず、この世の誉れを眼中に置かざることを要する。かくすることは一見福音の進歩に反し、福音の前途に希望を失うごとくに見えるけれども、然らず、かえって神の栄光はこれによりて揚げられ、福音はこれによりて進む。
要義2 [妨害は福音の推進者なり]官憲の圧迫、異教徒の迫害、同信の友の嫉視(しっし)等、あらゆる妨害がパウロの伝道の途上に投げかけられたけれども、これらがかえって福音を弘むるに役立つ結果となった。一見福音の妨害者と思われるこれらの事実も、神がこれを用いて我らの中に益々強き信仰を起し給う時、これらはかえって福音を進むる推進機となったのである。ゆえに我らは外部よりの妨害を恐れてはならない、唯我らの中に真の信仰の力を養うべきである。
要義3 [伝道者の嫉妬]伝道者の最も陥り易き誘惑(まどわし)は嫉妬である。すなわち伝道の成功、人気、名声等の多少が嫉妬の原因となり、他に地位や金銭等の慾望においての誘惑(まどわし)の比較的に少なき伝道者はこの嫉妬によって捕えられる。パウロのローマ幽囚の時代にもこの種の人々が存在したのであろう。我らの彼らに対して取るべき態度は、唯彼らがキリストを宣伝えるや否やによって定むべきであって、その他を凡て眼中に置かず、我らの利害を全く考慮の外に置くべきである。パウロもこの態度をもって彼らに対し、自己の受くる種々の苦痛を度外視して唯キリストの宣伝えられることを喜んだ。これこそ真に唯キリストのみを眼中に置きて他を顧みない態度である。他の伝道者の成功如何を眼中に置きて嫉視(しっし)するものはパウロのこの態度に対して恥じなければならぬ。

2-2 死生の意義 1:21 - 1:26

1章21節 (われ)にとりて、()くるはキリストなり、()ぬるもまた(えき)な(ればな)り。[引照]

口語訳わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。
塚本訳何故なら、私にとって生きることはキリスト(を生きること、彼が私に生き給うことである。否、彼が私の生命)である。そして死ぬることは(完全にキリストと共に生きることであるから、私にはむしろ)利益である。
前田訳わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことも益です。
新共同わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
NIVFor to me, to live is Christ and to die is gain.
註解: 前節に「生くるにも死ぬるにも」とあり、すなわちパウロの願いは生きんことにあらず、さらばとてまた死することにもあらず、唯キリストが崇められることの一事のみであることを述べたのに対し、その説明としてパウロの死生観ともいうべきものを叙ぶ。パウロにとりては生きているということはキリストであり、キリストが彼に乗り移ったことであるという。この境地においてはもはや人格的対立を克服して人格的融合一致の極致に達している。然らば死は如何、パウロは死もまた益なり結構なことであるという(その理由は23節を見よ)。生死何れも結構なりとする以上、もはや彼にはいわゆる生死の問題はない。なおパウロは「生くるはキリストのため」とか「生くるはキリストに在りて」とか言わざることに注意すべし。これらよりも以上の境地なり。
辞解
[我にとりて] 文章の初頭にあり、強調されている。

1章22節 されど()肉體(にくたい)にて()くる(こと)わが勤勞(はたらき)()となるならば、(いづれ)(えら)ぶべきか、(われ)これを()らず。[引照]

口語訳しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。
塚本訳しかしもし肉体で生きることが私の役目であるなら、(それは)私にとっては(福音のために)活動き、その果実(を結ばせること)である。だから(生と死と)どちらを選ぶべきか、私は知らない。
前田訳肉に生きることがわたしにとってわざの実ならば、どちらをとるべきかわかりません。
新共同けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。
NIVIf I am to go on living in the body, this will mean fruitful labor for me. Yet what shall I choose? I do not know!
註解: 「死は私自身にとりては益であり願わしきことであるが、もし肉体にて生きて、福音の働きを為すことができ、その果を結ぶこととなるならば、それもまた望ましきことである故、生と死との間に何れを選ぶべきか、自分でも迷っている次第である。」生も苦、死も苦である者も生死の間に迷い、生も死もいずれも可なるパウロもまたこの選択に困っている。前者は絶望的昏迷であり、後者は希望に満てる選択である。
辞解
本節は原文非常に簡潔であるために他の読み方あり、「若し肉體にて生くる事(我が分または益)となるとすれば、これ我が勤労の結果にして・・・」「若し我が肉體にて生くる事、勤労の果を結ぶとせば(如何)」(L3)「我が肉體にて生くる事につきてはこれ勤労の果にして」(Z0)のごとし。現行訳を採る。なお「知らず」の gnôrizô は新約聖書の他の箇所においては「知らす」「示す」の意味に用いられており、本節もかく訳す人もあるけれども(M0、B1、E0)本節の場合は古き用法に従い「知る」の意味に解する方可ならん(L3)。

1章23節 (われ)はこの(ふた)つの(あひだ)(はさ)まれたり。わが(ねがひ)は[()を]()りてキリストと(とも)()らんことなり、これ(はるか)(まさ)るなり。[引照]

口語訳わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。
塚本訳私は(今)この二つの板挟みになっている。すなわち一方では(一日も早く悩みの)この世を去ってキリストと共にいたいという願いがあって──もちろんこの方が遥かにずっと勝れているのに──
前田訳わたしはふたつの間にはさまれています。欲をいえば、おさらばをしてキリストとともにあることです。そのほうがはるかによろしい。
新共同この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。
NIVI am torn between the two: I desire to depart and be with Christ, which is better by far;
註解: パウロをしてもし彼自身の偽らざる心持を言わしめるならば現世におけるその縲絏(なわめ)の苦痛、徒党の不愉快等を思い、これを死してキリストと偕にいることの歓喜と比ぶる時、彼は死の方が遥かに勝っていることと考えた。生きて勤労の果を結ぶことと死してキリストと共に居ることとの二つの善きことの間に(はさ)まれて彼は動きが取れなくなった。
辞解
[(はさ)まれたり] sunechomai (つか)まえられて動きが取れなくなること(Uコリ5:14)。
[世を去る] analuô 「離れる」「解体する」の意で「死ぬること」を意味す(Uテモ4:6)。
[願は・・・・・・居らんことなり] 「…居らんことの願いを持ちて」となり、本節前半の「(はさ)まれたり」を修飾す。死後「キリストと共に居る」ことについては要義参照。

1章24節 されど(われ)なほ肉體(にくたい)(とどま)るは(なんぢ)らの(ため)に(一層(いっそう))必要(ひつえう)なり。[引照]

口語訳しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。
塚本訳他方では肉体で止まって(活動いて)いることの方が君達のために必要なのだ。
前田訳しかし肉にとどまることのほうがあなた方のために必要です。
新共同だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
NIVbut it is more necessary for you that I remain in the body.
註解: パウロはピリピの信徒のことを思う時、彼の生存が一層必要であることを知り、死に対する彼の熱望を抑えるより外なかった。生くるも死ぬるも彼は自己のためにせず、唯キリストのため、人のためであった。

1章25節 (われ)これを確信(かくしん)する(ゆゑ)に、なほ(ながら)へて(なんぢ)らの信仰(しんかう)進歩(しんぽ)喜悦(よろこび)とのために、(なんぢ)()すべての(もの)(とも)(とどま)らんことを()る。[引照]

口語訳こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。
塚本訳そして斯く(生きていることが君達のために必要であると)確信するから、私は(きっと)生存えて君達皆の所に留まり、君達の進歩と信仰の喜びとのために(何かの)役に立つことが出来ると思っている。
前田訳わたしは確信しています。わたしはとどまって、あなた方の前進と信仰のよろこびのために皆さんの側にいましょう。
新共同こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。
NIVConvinced of this, I know that I will remain, and I will continue with all of you for your progress and joy in the faith,
註解: 使命の終了と共に死を予見し、使命の未完了を感じて生を予見することは哲人に有り得ることである。パウロは彼のピリピ人に対する使命がなお残存することを知って、彼はなお生存するであろうことを確信し、死刑の宣告は下らないであろうと感じていた様子である(ピリ2:24参照)。
辞解
(ながら)ふ」 menô 「偕に留る」 paramenô で相関連す、前者は単に生き残ること、後者は相並んで生き残ること。
[信仰の進歩と喜悦] 「進歩と信仰の喜悦」と読む説あり、現行訳を採る。

1章26節 これは()(ふたた)(なんぢ)らに(いた)ることにより、(なんぢ)らキリスト・イエスに()りて(われ)にかかはる(ほこり)()さん(ため)なり。[引照]

口語訳そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、あなたがたはわたしによってキリスト・イエスにある誇を増すことになろう。
塚本訳そしてこれは私において──私が(放免されて)もう一度君達を訪問することによって──キリスト・イエスにおける君達の誇りが(一層)増し加わらんためである。
前田訳それは、わたしによって、すなわちわたしがまたごいっしょしうることによって、キリスト・イエスにあるあなた方の誇りが、いや増すためです。
新共同そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。
NIVso that through my being with you again your joy in Christ Jesus will overflow on account of me.
註解: パウロは生死を超越していながら、自分は死なずにまたピリピを訪ねることができると直感し確信した。そしてこのごとが実現すればピリピの信徒が、キリスト・イエスに在るその信仰によりパウロにかかわる誇(すなわち彼が縲絏(なわめ)の中にもよき福音の働きをなし、今また無罪として放免せられ益々元気に伝道しつつあることの誇)を増すことができることとなる。パウロが生き(ながら)えることを許されるであろうと思ったのも、このことのためであった。
要義1 [生くるはキリスト]パウロは他の場合「キリストと共に生く」「キリストに在りて生く」「キリストのために苦しむ」「キリストに導かる」等の思想を述べているけれども、「生くるはキリスト」とはこれらの全体を一括せるごとき思想であって、彼の外にキリストなく、キリストの外に彼なく、彼とキリストとの完全なる合一を意味するものと解すべきである。パウロのキリストに対する神秘的結合は、ここにその頂点に達したのであって、彼はかかる特異の表顕によるより以外にその心境を吐露する途を知らなかったのであった。
要義2 [生と死の意義]人間の創造せられし目的は神を崇め、神に栄光を帰することである。この目的さえ達成されるならば、生も可、死もまた可である。「生くるはキリスト」なるが故に、キリストと共に働くことの果を結び、死ぬることは「キリストと偕に在る」ことなるが故に、そこに無上の歓喜がある。かくしてキリスト者にとりては、この世の生活、サタンとの戦いの中に多くの苦難を伴っているけれども、その中にありて生くることはその務めを行うことであり、死ぬることは使命を終えてキリストの中に安息することである。いずれも可能である。生死を超越せる至上の幸福を彼は把握していたのである。普通の人間は生活苦の極点に陥る時、生と死との選択に迷う、彼にとりては生くることは死ぬることと同じように苦しいことだからである。パウロはこれに反し、生くることも喜びであったけれども、死ぬることは生くること以上に喜ばしきことであったためにこの両者の間の選択に迷った。同じく取捨選択に迷ったのであるけれども、この両者の間に天地の差異あるを見るべきである。
要義3 [死後の状態]23節にパウロは「死してキリストと偕にいる」ことを考えている。すなわちキリスト者は死後にその霊は肉体を離れてキリストの許へ行くという考えである。然るにまた他の個所(例えばTコリ15:51、52。Tテサ4:14Tテサ4:16等)においては、死ぬることはキリストに在りて「眠る」ことであり、終りのラッパの鳴る時、甦るのであると考えている。また旧約時代においては死者は暗黒なる「陰府」(よみ)に下り神との関係が断絶すると考えていた(詩6:5)。これらの凡てを必ずしも強いて調和せしむる必要はないけれども(キリストもパウロも死後の状態如何につき明示せず、またこれに対して好奇的探究を為さず、当時の一般の思想に立っていた)必ずしも矛盾しているとはいうことができない。「眠る」なる語を「死」の美的表顕と見るならば、死後の霊がキリストと偕に在ることと矛盾せず、復活はその霊に体を与えられることとすれば、死後直ちに復活せずとも、そこに矛盾はない。そしてキリストに在る者以外はその霊は全く暗黒の中に在りと考えることができる。
要義4 [死期の直感]古来自己の死期を直感せる名僧、賢哲は少なくない。そしてこれは生死を超越せる人においてのみ見得る現象である。パウロもかくして彼の死なざることを直感した。人はその使命の終るまでは死ぬことはなく、使命が終ればいつでも死ぬのであるから、死につきて心を労するは愚かなことである。唯何時召されても狼狽せざるようにすべきである。それには生死を超越し、唯神の栄光のみを考えて生くれば足る。

2-3 キリスト者の信仰生活 1:27 - 1:30

1章27節 (なんぢ)()ただキリストの福音(ふくいん)相應(ふさは)しく()(すご)せ、[引照]

口語訳ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、
塚本訳(何れにせよ、)ただ一つの(ことが大切である。)キリストの福音(を信ずる者たる)に相応しく歩け。そうすれば行って会うにせよ、離れていて君達のことを聞くにせよ、君達が心を一つにして確り立ち、一致して福音の信仰のために戦い、
前田訳ただ、キリストの福音にふさわしくふるまってください。お会いしに行こうと離れていようと、わたしはあなた方のことを聞いています。あなた方はひとつ霊に立ち、ひとつ心で福音の信仰のために戦いを共にし、
新共同ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、
NIVWhatever happens, conduct yourselves in a manner worthy of the gospel of Christ. Then, whether I come and see you or only hear about you in my absence, I will know that you stand firm in one spirit, contending as one man for the faith of the gospel
註解: パウロは確かに再びピリピに到り得るの予感を持っていた。しかしピリピの信徒はかかることに心を労すべきではない。パウロの彼らに要求する処は唯一つであった。すなわち彼らの日常生活が福音すなわち救われて神の子とせられしことに相応しくあることである。極めて平凡であるが重要な教訓である。Tペテ2:11、12。Tペテ3:8−17参照。
辞解
[日を過す] politeuomai は本来市民として行動することであって、本節の場合も幾分その心持を含有すると見て可なり(L3)。すなわちキリスト者としてその社会生活を送る際に対外的に如何なる行動を取るべきかの問題が論じられているのである(28節)。

さらば()()きて(なんぢ)らを()るも、(はな)れゐて(なんぢ)らの(こと)をきくも、(なんぢ)らが(れい)(ひと)つにして(かた)()ち、(こころ)(ひと)つにして福音(ふくいん)信仰(しんかう)のために(とも)(たたか)ひ、

1章28節 (すべ)ての(こと)において(さから)(もの)(をどろ)かされぬを[()ることを()ん]。[引照]

口語訳かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神から来るのである。
塚本訳何事においても敵に嚇かされないことを知ることが出来よう。そして(決して敵に嚇かされないという)このことは、(敵対する)彼らにとっては(遂に)滅び(ること)の兆である、君達には救いの兆であって、これは(何れも)神から賜わったものである。
前田訳敵から何ごとにもおどかされません。これは彼らには滅びの徴、あなた方には救いの徴で、これは神からのものです。
新共同どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。
NIVwithout being frightened in any way by those who oppose you. This is a sign to them that they will be destroyed, but that you will be saved--and that by God.
註解: 福音に相応しく日を送るべきことを命ずる目的は、パウロがピリピに赴くと否とを問わず、彼らが信仰にある一団として一致共力信仰の戦いを闘い、彼らに逆らい、敵対、非難、妨害、迫害する者があっても驚かされず、泰然自若としていることをパウロが知りたいためであった。教会には内部には分離、外部には敵対の危険が存在しないことはない。
辞解
原文はそのままに訳せば「是れ往きて汝らを見るも、また離れ居るも、われ、汝らが一つ霊に堅く立ち、一つ心をもって福音の信仰のために共に戦い、凡てのことにおいて逆らう者に驚かされぬを聴き得んがためなり」となる。現行訳は若干の変更と補充とを行いて訳したのであるが(L3、C2)かくする必要はない。「逆らう者」はユダヤ人か異邦人かにつき諸説あれど双方とも含んでいると見て差支えがない。「霊」と「心」とはこの場合前者は信仰の方面、後者は常識的方面に関するものと見るべきである。「共に戦い」は普通パウロと共に戦う意味に解されているけれども、むしろピリピの信徒相共に戦うことと解して可なり。「逆らう者」が誰であるかは不明であるが、到る処に福音に反対するユダヤ人や異邦人があったことは推察ができる。現にパウロもピリピにおいて大なる反対に遭った(使16:19以下)。「驚く」は急に驚く形。

その(をどろ)かされぬは、(かれ)らには(ほろび)(しるし)、なんぢらには(すくひ)(しるし)にて、(これ)(かみ)より()づるなり。

註解: 救いと亡びの分かれる処は実生活における生活態度の如何によるのであって議論や理論の勝敗によるのではない。福音に相応しく生活し、霊と心の一致をもって信仰のために戦い、如何なる強敵があらわれても少しも驚かないならば、それですでに戦いに勝っているのであり、神より出づる救いに(あずか)っているのである。敵にとりては、それは亡びの(しるし)に過ぎない。
辞解
[なんぢらには] 重要なる写本には「なんぢらの」とあり。
[(しるし)] endeixis は法律上の用語で、掲示とかまたは事実に基く証拠というごとき意味。

1章29節 (なんぢ)()はキリストのために(ただ)(かれ)(しん)ずる(こと)のみならず、また(かれ)のために(くる)しむ(こと)をも(たま)はりたればなり。[引照]

口語訳あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。
塚本訳君達はキリストのために──ただ彼を信ずるばかりでなく、また彼のために苦しむことをも恵まれたからである。
前田訳あなた方にキリストのためにということが恵まれていますが、それはただ彼を信じることばかりでなく、また彼のために苦しむこともです。
新共同つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
NIVFor it has been granted to you on behalf of Christ not only to believe on him, but also to suffer for him,
註解: 神は我らに信仰を賜うた、信仰は神の賜物である(エペ2:8)。しかし神はさらにこれに加えて、キリストのために苦しむことをも賜った。これはキリスト者にとりての大なる恩恵である。キリストのために苦しむことを得るほど感謝すべく喜ぶべきことはない(使5:41Tペテ4:14Tペテ4:16)。これはキリスト者の誇りであり名誉である。ゆえに苦しみに遭うとも驚くべきではない、当然のこととして泰然自若としてこれに対すべきである。
辞解
初めの「キリストのために」で文勢中絶して後にこれを再び繰り返している。

1章30節 (なんぢ)らが()戰鬪(たたかひ)は、(さき)(われ)(うへ)()しところ、(いま)また(われ)()きて()くところに(おな)じ。[引照]

口語訳あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである。
塚本訳(然り、)君達はかつて私に於て(目のあたり)見、今また私に就いて聞いているのと同じ戦いをしているのだ!
前田訳あなた方にはかつてわたしのうちに見、また今わたしについて聞くのと同じ戦いがあります。
新共同あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。
NIVsince you are going through the same struggle you saw I had, and now hear that I still have.
註解: 文章としては前節の「彼のために苦しむ」を説明する。すなわち「汝らがかつて我につきて見、今また我につきて聞くところと同一の戦いをなしつつ彼のために苦しむこと・・・・・・」となる。パウロはピリピにいた時、苦しめられて獄に投ぜられ、今また同様の苦痛に遭っている。そしてピリピの信者もこれと同一の戦いを持たなければならないことを示している。弟子は師のごとくならば足れりであるから。
要義1 [亡びの兆しと救いの兆し]同一の事実が一方に善であり救いであるならば、その反対の方面にとりては悪であり亡びである。神に従う世界と神に叛く世界とが相対立している以上、この双方に善であり救いであるものは存しない。キリスト者の生活態度が立派であり敵の攻撃に驚かされないこと、如何なる苦難の中にも歓喜と希望とを失わないことは、(ただ)にキリストによる救いの偉大さを示すのみならず、同時にキリスト者に敵する者の亡びの兆しとなる。「この人には死より出づる馨となりて死に至らしめ、かの人には生命より出づる馨となりて生命に至らしめる」(Uコリ2:16)キリスト者の福音に相応しき生活は一面キリスト者自身の栄光たるのみならず、他面キリスト者に逆らう者の滅亡の標式となる。ゆえにキリスト者は特に敵を攻撃する必要がなく、自ら正しく活き、敵の攻撃に泰然としていることだけですでに敵は亡びているのである。
要義2 [キリストのために苦しむことは恩恵なり]キリストを信じ、彼を神の子と崇むる者は、この世の人の知り得ざる世界を知り、見得ざる世界を見る。それ故に世がキリストを憎むことの当然であるを知ると共に、彼らをも憎むこともまた当然なるを知る。それ故にキリストの御名のために苦しむことは彼らに示されし偉大なる福音の当然の結果である。キリストは決して好んで我らを苦しめ給わない、苦しめることが救いのために止むを得ないからである。このキリストの愛を思い、我らの苦しみをキリスト御自身も苦しみ給うを思う時、我らはこの苦しみを感謝をもって受けることができる。かくして我らはキリストのために苦しむことの光栄に(あずか)ったのである。あたかも国家のことにおいて国君のために苦難を冒すことが臣民にとりて最上の栄誉であると同じく(▲永年の間忠君を中心として訓練された日本国民は、最も忠誠なる神の民となるために準備されたものと見ることできよう。)霊の国のことにつきてはキリストのために苦しむことは、キリスト者の最大の栄誉であり、神よりの恩恵の賜物である。

ピリピ書第2章

分類
3 教訓 2:1 - 4:9
3-1 謙遜によりて 2:1 - 2:11

2章1節 この(ゆゑ)()しキリストによる(すすめ)(あい)による慰安(なぐさめ)御靈(みたま)交際(まじはり)、また憐憫(あはれみ)慈悲(じひ)とあらば、[引照]

口語訳そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、
塚本訳(斯く君達は心を一つにして敵と戦うの)だから、もしキリストにおける勧めなるものが(あって君達にそれを受ける心が)あるのなら、もし(神の)愛による励ましなるものが(あって何かの役に立つもので)あるのなら、もし霊の交わりなるものがあ(って私たちが一つに結ばれてい)るのなら、もし同情と憐れみなるものがあるのなら、
前田訳さて、いやしくもキリストにあるなぐさめがあり、愛のいたわり、霊の連帯、同情と思いやりがあるならば、
新共同そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
NIVIf you have any encouragement from being united with Christ, if any comfort from his love, if any fellowship with the Spirit, if any tenderness and compassion,
註解: 1−11節は教会の一致と、そのために最も必要なる謙遜の徳を教えている。本節にはキリストの体たる教会一致の生活の四原則ともいうべきものを掲げる。すなわち教会の中に過誤に陥らんとする者がある場合、または信仰が衰えんとする者のある時はキリストに在る「(すすめ)」を与え、悩める者がある場合には「愛をもってこれに慰安激励」を与え、互に孤立せずして「霊の交際」を保ち、互に私利私慾に陥らず冷淡無関心に堕せずして「憐憫と慈悲」とを有することが、キリスト者の団体生活の根本的要請である。
辞解
[・・・・・・とあらば] 「・・・・・・とが何らかの喜悦を与うるものならば」(B1)とか、「・・・・・・とが何らかの結果を来すものならば」(E0)等と読む説もある。

2章2節 なんぢら(おもひ)(おな)じうし、(あい)(おな)じうし、(こころ)(あは)せ、(おも)ふことを(ひと)つにして、()喜悦(よろこび)(みた)しめよ。[引照]

口語訳どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。
塚本訳どうか私を心一杯喜ばせてもらいたいのである──すなわち思いを同じうし、同じ愛をもち、心を共にし、思いを一つにし、
前田訳ひとつ思いで同じ愛を持ち、心を合わせ、同じことを考えてわたしのよろこびを満たしてください。
新共同同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
NIVthen make my joy complete by being like-minded, having the same love, being one in spirit and purpose.
註解: ピリピのキリスト者の意見も、愛心も、感情もみな一つになっていることを聴くほどパウロにとりて大なる喜悦はない。
辞解
四ヶ条の一致を息つく暇もなしに列挙せるはパウロの心の燃えていたことを示す。ただしこの四つは原文並列的ではなく或は第二以下第四を第一の詳説と見(L3)または第二、第三を第一の説明とし、第四を第三の詳説と見(M0)または第二は第一、第四は第三を説明し、第一と第三は並列すと見る(B1 、Z0)等種々あり。最後の訳が最も適当なるがごとし。「念を同うする」ことは徒党や自己に関する誇りの正反対であり、「同じ愛を持つ」ことはキリストと神とに向けられたる愛を持つことであって、その他のものに心を奪われざること。「心を合せ」は「同じ情をもつこと」であって、喜怒哀楽を共にすること。「念を同うし」と、「思うことを一つにし」とは同じ語であり意味も異ならない。

2章3節 何事(なにごと)にまれ、徒黨(とたう)また虚榮(きょえい)のためにすな、おのおの謙遜(けんそん)をもて(たがひ)(ひと)(おのれ)(まさ)れりとせよ。[引照]

口語訳何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。
塚本訳何事も(決して)利己心や虚栄心からせず、謙遜をもって互いに(他人を)自分よりも勝れていると考え、
前田訳利己や虚栄によらず、謙遜に互いを自らに勝ると思い、
新共同何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
NIVDo nothing out of selfish ambition or vain conceit, but in humility consider others better than yourselves.
註解: 徒党心は排他的となりて分立を生ぜしめ、虚栄または自己に誇ることは他を賤しめることとなりて不和を来す。徒党は前節の一致の反対であって自己の益を主とし、虚栄は愛の反対であって自己の誉れを求める。この二つの弊害を防ぐ根本的の道徳は謙遜である。互に他を己より勝れりとする処に徒党や不和は存し得ない。己の益を考えず、己の価値を考えずして他人の益、他人の価値を考える者には徒党と虚栄との入るべき場所がない。

2章4節 おのおの(おの)(こと)[のみ]を(かへり)みず(おのおの)(ひと)(こと)をも(かへり)みよ。[引照]

口語訳おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。
塚本訳各々自分のことだけでなく、各々他人のことをも顧みよ。
前田訳おのおのが自らのことだけでなく、他人のことをも求めなさい。
新共同めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
NIVEach of you should look not only to your own interests, but also to the interests of others.
註解: 前節は自己および自党に対する内心の誇りより生ずる弊害を訓戒し、本節は自己の利益のみに対する関心を訓戒し、他人のことをも顧み、関心を有つべきことを教えている。前節は積極的の徒党分離を警戒し、本節は他人に対する冷淡なる無関心を(いまし)む。我らは他人が如何に我らにつきて考うかにつきては無関心であってよいのであるが、他人の喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しみ、他人の苦難につき関心を有つべきである。なおピリピの信徒の間に3、4節のごとき弊害が実在せりや否やは不確かであるが、ピリ1:27ピリ4:2等より幾分かかる傾向の存在を憂慮したのであろう。
辞解
「己の事のみ」の「のみ」は原文になし。ただし「人の事をも」の「をも」がある故かく訳することも止むを得ないが原文は前半殊に意味強し。

(▲1−5節の教訓を一々自己に当てはめて自己反省、自己批判することは必要である。少しも新奇な点がない当然の教訓でありながら実行はなかなか困難である。)

2章5節 (なんぢ)らキリスト・イエスの(こころ)(こころ)とせよ。[引照]

口語訳キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。
塚本訳キリスト・イエスに在る思いで互いを思え。
前田訳このことをあなた方の間で心がけなさい。それはまたキリスト・イエスにあってのことです。
新共同互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
NIVYour attitude should be the same as that of Christ Jesus:
註解: キリストは我らの救い主たると同時にまた我らの模範である。

2章6節 (すなは)(かれ)(かみ)(かたち)にて居給(ゐたま)ひしが、(かみ)(ひと)しくある(こと)(かた)(たも)たんとは(おも)はず、[引照]

口語訳キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
塚本訳彼は(先には)神の姿であり給うたが、神と等しくあることを棄て難いことと思わず、
前田訳彼は神の形にいましつつも、神とならぶことに捕われず、
新共同キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
NIVWho, being in very nature God, did not consider equality with God something to be grasped,
註解: (▲6−11節は1−5節の正反対である。イエスの心を心として1−5節の問題は解決する。)パウロはキリストの受肉の謙遜につきて考えた。すなわちキリストは受肉以前にも神でありロゴス(言)であって(ヨハ1:1ヨハ17:5コロ1:15−17)人の目には見えないけれども、神の栄光を有ち神の(かたち)にてい給うた(この(かたち)morphê の如何なるものなりやにつきてはパウロは詳細の穿鑿(せんさく)をなさず、また明確なる観念もなかったものと思われる)。然るに彼はこの状態を継続することをば固執せず、狩猟の際の獲物のごとく固く保って決して手放してはならないものと考え給わなかった。すなわちこの栄光を所有することに対して執着を持ち給わなかった。これキリストは、己の栄光を誇らず、また己がことを顧みなかったからである。
辞解
難解の一節にして異解、異訳多し。困難の理由は「神の貌に居る」ことは何を意味するや、これと「神と等しくある事」との異同または関係、殊に「固く保たんと思はず」と訳されし原語「harpagmos と思わず」の意味如何が難解なるが故である。多数の異説異訳を列挙することをばこれを略して、唯「固く保たんと思わず」の代わりに「掠奪と思わず」「奪い取るべきものと思わず」と訳さんとする説(E0、M0、B1)が有力であることに注意すべし。ただし現行訳の方が適当と思わる(L3)。なお harpagmos (正確に言えば harpagma )は猛獣の餌食、戦争の分捕り物、盗人の強奪物等に用いる語。▲▲すなわちしっかり掴まえて手放し難いもの。

2章7節 (かへ)つて(おのれ)(むな)しうし、(しもべ)(かたち)をとりて(ひと)(ごと)くなれり。[引照]

口語訳かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
塚本訳かえって自分を空しうして人と同じ形になり、奴隷の姿を取り給うたのである。そして人の様で現れた彼は、
前田訳おのれをむなしゅうして僕の形をとり、人の姿になり、様子は人のようでした。
新共同かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
NIVbut made himself nothing, taking the very nature of a servant, being made in human likeness.
註解: 神に等しくある場合は、神の権力、神の栄光、神の永遠性がキリストに充ちていた(コロ1:15−19)のに、彼はこれを凡て棄て去り己を空虚ならしめ給うた。その方法としては「僕の(かたち)を取り」完全に僕たる者すなわち神のごとく天にありて世界を支配する者ではなく、地上にありて人に仕うる者たる僕の(かたち)を取り、「人間のごときものとなりて」生れ給うた。勿論キリストは完全に人間であったけれども、同時に神たる点において人間と異なり給うた。ゆえに「人の如きもの」であった。人たる点においては他の人間と同一であった。
辞解
[(かたち)] morphê は本質実体が形を為して表われること。
[如く] homoiôma は「類似形」の意味、次節の「(さま)」 schêma は表面的の変遷流行する外形。
[僕] 誰の僕なりや(M0)を問うを要しない(E0)。

2章8節 (すで)(ひと)(さま)にて(あらは)れ、(おのれ)(ひく)うして()(いた)るまで、十字架(じふじか)()(いた)るまで(したが)(たま)へり。[引照]

口語訳おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
塚本訳自ら謙り、死に至るまで、(然り、)十字架の死に至るまで(父なる神に)従順であり給うた。
前田訳彼はおのれを低くして死に至るまで、然り十字架の死に至るまで従順でした。
新共同へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
NIVAnd being found in appearance as a man, he humbled himself and became obedient to death-- even death on a cross!
註解: かくしてキリストは人間の風采をして人々に現れ(見出され)給えるのみならず、己を(ひく)うし、謙遜のかぎりを尽くし、神に対して全く従順なる者になり給うた。その従順の頂点は死であり、死をも辞せずしてその従順を全うし給うた。しかも(de)その死は最も悲惨にして最も恥辱とされる奴隷の刑罰なる十字架の死であった。
辞解
[既に人の(さま)にて現れ] 「人の(さま)にて見出され」で他人が見れば人間の風采と少しも変っていなかったこと、これを前節に附属せしむる読み方もあれど(M0)その必要なし、6節の神の(かたち)より僕の(かたち)にまで己を(ひく)うし、ついに死に至り給える下降の事実を見よ。

2章9節 この(ゆゑ)(かみ)(かれ)(たか)()げて、(これ)諸般(もろもろ)()にまさる()(たま)ひたり。[引照]

口語訳それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
塚本訳それ故に神も彼を至高く上げ、凡ての名に優る(「主」なる)名を与え給うた。
前田訳このゆえに神も彼を高めてすべての名にまさる名をお与えでした。
新共同このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
NIVTherefore God exalted him to the highest place and gave him the name that is above every name,
註解: 「この故に」はイエスが己を(ひく)くし給える故にとの意(ルカ14:11ルカ18:14)。「己を(ひく)うする者は高うされるなり」はキリストの場合は全く事実であった。かくして神はキリストを復活昇天せしめて神の右に坐せしめ、万物を支配する最高の位置につかしめ、彼に(よろず)の被造物にまされる名、すなわち資格、稜威、地位を与え給うた。
辞解
[高く上げ] hyperhypsoô は「非常に高く上ぐる」意。
[名] 何であるかにつき「主」「神」「神の子」「イエス・キリスト」等種々の説が主張されているが、パウロはかかる名称を考えたのではなくヘブル人の間において「名」はその実体を指す故(例えば「神の御名を崇む」は神を崇むること)、この場合も「キリストを万物の支配者たらしめた」ことを意味すと見るべきである。
[賜い] charizomai は恩恵として与えること、キリストを僕の地位に置きて考えたのである。

2章10節 これ(てん)()るもの、()()るもの、()(した)にあるもの、(ことご)とくイエスの()によりて(ひざ)(かが)め、[引照]

口語訳それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
塚本訳これはイエスの(この尊い)名の前に、天の上、地の上、地の下にある“万物が膝を屈め、
前田訳それはイエスの名によって天と地と地下のすべての膝がかがみ、
新共同こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
NIVthat at the name of Jesus every knee should bow, in heaven and on earth and under the earth,

2章11節 (かつ)もろもろの(した)の『イエス・キリストは(しゅ)なり』と()ひあらはして、榮光(えいくわう)(ちち)なる(かみ)()せん(ため)なり。[引照]

口語訳また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。
塚本訳凡ての舌が”「イエス・キリストは主なり」と“告白して”父なる“神に”、栄光を帰せんためである。
前田訳すべての舌が「イエス・キリストこそ主」と告白して栄光を父なる神に帰するためです。
新共同すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
NIVand every tongue confess that Jesus Christ is Lord, to the glory of God the Father.
註解: イザ45:23を少し改変したもの。神がイエスを万物の上に坐させ給える目的は一は万物をしてイエスを主として崇めさせるためであり、その二はその結果として栄光を父なる神に帰させるためであった。
辞解
[天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの] 宇宙間の凡ての被造物を指す意味であって、一々これに「天使、人間、死人」とか、「天使、人間、悪魔」とか、「死人の霊、生ける人、煉獄における霊」等を当てはめることはかえって文意を狭くするに過ぎない。
[イエスの名によりて] イエスを崇めてというごとき意味(T列8:44T列18:24−26の七十人訳)。
[膝を(かが)め] 礼拝、讃美、驚嘆の(かたち)
[主なり] 「神なり」というに同じ。
要義1 [徒党と虚栄]この二者は何れも自己中心の思想の結ぶ果実である。自己の勢力を増大しようとしたり、自己の名声を維持拡張しようとすれば自己一人にては不足を感じて徒党を結ぶ結果となり、自己をその実際以上に認めさせようとすれば虚栄を得ることに汲々となるに至る。何れも己を空しくして隣人に仕えようとする心の正反対である。キリスト者の間の一致と平和を害するものにしてこの徒党と虚栄のごとくに甚だしきはない。我らは謙遜をもってこれらに打勝たなければならない。
要義2 [キリストの謙遜]九天の上より九地の下に降り給えるキリストの謙遜に比すべき偉大なる謙遜はない。謙遜とは自己の価値または能力を自己の虚栄または利益のために用いようとせず、他人に仕えるためにこれを用いることを意味す、いたずらに謙卑(へりくだり)を装いて他人の好評を博そうとするがごときは謙遜の正反対である。また自己に与えられし能力や価値を他人のためにも用うることに躊躇するがごときは謙遜のごとくにして然らず、かえって自己のために謙遜の栄誉を()ち得んとする虚栄心に過ぎない。隣人のために自己の凡ての能力や価値をささげ尽くして自己のためには何ものも得ずとも(すこし)も悔いない心持が真の謙遜である。キリストの謙遜はかかる謙遜であった。
要義3 [キリストの従順]神に対する従順は徹底的絶対的でなければならない。自己の慾求に左右せられ、または自己の判断に動かされて神の御旨を曲げてはならない。神の御旨であったために十字架の死まで従い給いしイエスを見よ。神の子イエスですらかくのごとくであるのに、全く価値なき我らにとりては、凡てにおいて唯神に従うより外に他意あるべきではない。また我らとしてはこれより外に神を喜ばしめ奉るべき途がない。そして神は必ずこの従順を喜びこれに報い給うであろう。
要義4 [イエス・キリストは主なり]我らはキリストを直接に主として礼拝し讃美すべきである。そしてこの礼拝讃美は直ちに神に通ずるのである。その故は神は我らをしてかくせしめんがためにキリストを立て、彼を万物の首として万物を支配せしめ(エペ1:20−22)、彼によりて万物を己と和らがしめ給いしが故である(コロ1:19、20)。我らは彼を神とし主として拝することにより、神はその御子を我らに賜える御旨が達成せられ、キリストはこの礼拝讃美をうけてこれを神に献ぐることによって凡てが神の栄光に帰されるに至るのである。

3-2 己が救いを全うせよ 2:12 - 2:18

2章12節 されば()(あい)する(もの)よ、なんぢら(つね)(したが)ひしごとく、()()(とき)のみならず、()()らぬ(いま)[も](は)ますます[(したが)ひ、](おそ)(おのの)きて(おの)(すくひ)(まった)うせよ。[引照]

口語訳わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
塚本訳だから、愛する者達よ、(今まで)何時も従順であったように、(従順であってもらいたい。)私が(一緒に)居る時ばかりでなく、居ない今こそ却つてなお一層、畏れと戦きをもって、自分の救いを得よ。
前田訳それゆえ、わが愛する人々よ、あなた方がつねに従順であったように−−それはわたしがいたときばかりでなく、いない今も、ますますそうですが−−おのが救いを全うするにおそれとおののきをもってなさい。
新共同だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
NIVTherefore, my dear friends, as you have always obeyed--not only in my presence, but now much more in my absence--continue to work out your salvation with fear and trembling,
註解: 「汝らは常に神に従順であり、従ってまたパウロの福音の教えに従順であった。そのように我が汝らと共に居りし時のみならず、共に居らぬ今は一層戦々競々として熱心に努力し注意して己が救いをその終局まで完成しなければならぬ」。
辞解
[されば] キリストすらかくも従順なる以上はとの意。
[常に(したが)ひし] 誰に(したが)える意味なりやにつきパウロに(M0)、神に(L3、E0)、双方に(B1)等種々の見方あり、最後の解釈による。
[ますます] 「全うせよ」を修飾すと見るを可とす。従って「(したが)ひ」は除くべきである。パウロがピリピにいた時も彼らピリピの信徒は従順であり、戦々競々としてその救いのために努力していた故、その不在の時はなおさらその必要がある訳である。
[畏れ(おのの)きて] 神に対して畏れ(おのの)く意味と見るよりも、自己の内心に強き反省と恐惶(きょうこう)と慎みとを持ち、救いの完成の容易ならざることを考えて畏れ(おのの)くこと。
[全うせよ] katergazesthe は救いに必要なるあらゆる事柄を欠くることなく具備すること、すなわち信者の信仰のみならずその道徳的生活、教会一致の生活、謙遜、従順等において完備せるものとなれとの意。「己が」は強調されている。

2章13節 (そは)(かみ)(こそ)は御意(みこころ)()さんために(なんぢ)らの(うち)にはたらき、(なんぢ)()をして志望(こころざし)をたて、(わざ)(おこな)はしめ(たま)[へば](ふ(もの)なれば)なり。[引照]

口語訳あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
塚本訳(しかしもちろんこれは君達の力では出来ない。)何故なら、(救いに関わる)御旨を成し遂ぐるため、君達のうちに働いて、(救いの)願望を起こさせ、これを成就せしめ給う者は、神であるからである。
前田訳あなた方のうちに働いて、み心のままに意志し活動なさるのは神だからです。
新共同あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
NIVfor it is God who works in you to will and to act according to his good purpose.
註解: 前節にパウロは畏れ(おのの)きて己が救いを全うすべきことを命じた。その理由は救いが我らの中に行われるは神御自身の御業だからである。すなわち神は我らを救うことを喜び給いてその御意を成さんために、我らの心の中に働きかけ、我らをして意思せしめ行動せしめ給うのである。すなわち我らの心の中に救われんとの意識を起し給うのも神であり、またこの要求に従って我らを行動せしめ給うのも神の働きである。救いは凡て神の働きであり、我らはこの神の働きかけを拒まずこれに従い、その神の力をもって敵と戦う時(エペ6:10以下、ガラ5:17ガラ5:17以下)我らは「己が救いを全うする」ことができる。ここにパウロにおいては自力による救いと他力による救いとが渾然として一つに帰しているのを見る。
辞解
[御意を成さんため] 「喜び給うことのために」で神は人の救いを喜び給うことを意味す。
[志望をたて] 「意思を起す」こと。
[業を行う] 「活動する」ことである。人間の心の働きは、まず意思が決定し、次にこれによりて行動する。救いの問題につきては(G1)神は我らの中に働きかけてその御意を成就し給う。救いは神の賜物である所以はここにある。

2章14節 なんぢら(つぶや)かず(うたが)はずして、(すべ)ての(こと)をおこなへ。[引照]

口語訳すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。
塚本訳何事をするにも呟くな、躊躇うな。
前田訳すべてを不平と口論なしでなさい、
新共同何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。
NIVDo everything without complaining or arguing,
註解: 「疑はず」はむしろ「ためらはず」と訳すべし。神が我らの中に救いの御業を始めこれを成就し給う以上、我らは畏れ(おのの)いてこれに対すべきであって、たとい如何なる困難や反対が起ろうとも、神に向って呟かず、また躊躇(ちゅうちょ)せずに神の御旨を行わなければならぬ。然らざれば困難に襲われる時、躊躇(ちゅうちょ)(つぶや)くに至るものである。
辞解
[(つぶや)く、躊躇(ためら)う(疑う)] 人間同士の間の関係と解する説があるけれども(E0、B1)むしろ神に対するものと解すべきである。

2章15節 (これ)なんぢら()むべき(ところ)なく素直(すなほ)にして、()(まが)れる邪惡(よこしま)なる時代(じだい)()りて(かみ)(きず)なき()とならん(ため)なり。[引照]

口語訳それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。
塚本訳これは君達が非難すべき所でなく、純真であって、“曲ったねじくれた(この)時代”の真中にあって“瑕なき神の子”とならんためである。(まことに)君達はこの時代にあって、生命の言を堅く守りながら、この(暗い)世に星のように輝いているのである。
前田訳それはあなた方が傷なく、しみなく、曲がってゆがんだ世代の真ん中で、申し分のない神の子らとなるためです。この世で星のように輝いて、
新共同そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、
NIVso that you may become blameless and pure, children of God without fault in a crooked and depraved generation, in which you shine like stars in the universe
註解: パウロは申32:5(七十人訳)を思い浮べつつ滅ぼされぬように注意を与えているものと思われる。この時代は曲がってかつ邪悪である。正義と純潔とは存在しない。その中にありて、これに感化せられずこれに妥協せずして、責むべき所なく、素直にして単純誠実であることは、容易のことではない。しかしかくしてのみ神の(きず)なき子となることができるのであって、このために前節のごとくに行動しなければならない。
辞解
[素直] akeraios 純粋にして混合物なきこと、素誠(そせい)の語が相当す。

(なんぢ)らは生命(いのち)(ことば)(たも)ちて、()(ひかり)のごとく()時代(じだい)(かがや)く。

註解: 時代は邪曲にして暗黒であるが汝らは生命の言たるキリストの福音を高く掲げて世の光のごとくに輝いている。これはまことに喜ぶべき事実であり我が誇りである。
辞解
[世の光のごとく・・・・・・] 本文前節の一部をなしている。
[生命の言を保ちて] キリストは生命でありまた言である。ここではキリストの福音を指すと見て可なり。「保ちて」はまた「捧げて」とも訳す。
[輝く] 「見る」「あらわる」と訳すべしとする説が多いけれども(M0、L3)必ずしもその必要は絶対的ではない。殊にこの場合は「光のごとく」とある故輝くと訳して可ならん(B1、E0)。

2章16節 かくて()(はし)りしところ((むな)しからず、)(らう)せしところ(むな)しからず(して)、キリストの()にわれ(ほこ)ることを()ん。[引照]

口語訳このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。
塚本訳かくて私の走ったことが無駄にならず、”苦労したことが無駄に”ならずに、キリストの日に名誉が私に帰するであろう。
前田訳いのちのことばを確保なさい。それはキリストの日へのわが誇りになります。わたしが走ったのもむだでなく、わたしが労したのもむだにならないからです。
新共同命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。
NIVas you hold out the word of life--in order that I may boast on the day of Christ that I did not run or labor for nothing.
註解: 「われ誇ることを得ん」は「わが誇りとならん」と訳する方が原文に近い。「もし汝らが神の(きず)なき子となり生命の言を掲げ持ちて光のごとくに輝くならば、我が伝道の労苦が凡て果を結んだこととなる故キリストの再臨の日に、その台前に立つ時、汝らは我が誇りとなるに至るであろう(Uコリ1:14)。パウロはその伝道の結果につきキリストの前に誇ることを楽しみとしていた。

2章17節 さらば(なんぢ)らの信仰(しんかう)供物(そなへもの)(まつり)とに(くは)へて、()()(そそ)ぐとも(われ)(よろこ)ばん、なんぢら(すべて)(とも)(よろこ)ばん。[引照]

口語訳そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。
塚本訳否、(ただに苦労だけでなく、)たとい私が君達の信仰を供え物として(神に)献ぐる時(潅奠としてそれに)血をも注がねばならぬとしても、私は喜ぶ。君達皆と共に喜ぶ。
前田訳さらに、たとえあなた方の信仰のいけにえと礼拝にわたしが血を流しても、わたしはよろこび、皆さんとよろこびを共にします。
新共同更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。
NIVBut even if I am being poured out like a drink offering on the sacrifice and service coming from your faith, I am glad and rejoice with all of you.
辞解
[さらば] alla は「反対に」の意、下掲註のごとき意味ならん。
[信仰の祭] パウロが祭司として為すごとくに解することは不可なり。万人を祭司と見、ピリピの信徒が自ら祭司として神に仕うること意味す。
[共に喜ばん] 「祝賀せん」と訳する説あり(L3、M0)。

2章18節 かく(なんぢ)()もよろこべ、(われ)とともに(よろこ)べ。[引照]

口語訳同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。
塚本訳同じように君達も喜んでくれ。私と共に喜んでくれ。
前田訳同じくあなた方もよろこび、わたしとよろこびを共にしてください。
新共同同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。
NIVSo you too should be glad and rejoice with me.
註解: 走りしところ労せしところ空しからざる場合は勿論であるが、反対に、よし自分が殉教の死を遂げて汝らの信仰と共に神の前に供えらることとなるとも、自分には少しも遺憾なきのみならずかえって大に喜ぶであろう。汝らと共に喜ぶであろう。信仰の供物はロマ12:1のごとく信者がその身を神の悦び給う潔き活ける供物として神にささげることであり、信仰の祭はかくして神に奉仕することである。またユダヤ人の行う灌祭において肉と共に濃き酒を祭壇の下に灌ぐ例であるがパウロはここに自己のの血を流すことを指しているのである。すなわち殉教の死は一つの祭である(民28:7Uテモ4:6)。
要義 [他力教と自力教]真宗のごとき絶対他力教は救いは絶対に弥陀の本願によることを主張するが故に、人間は何ら善行を要せず、罪業如何に深甚なりとも、否罪が深ければ益々弥陀の本願によりて救われることを信じ、従って救いに対する大なる歓喜がある反面に道徳的に堕落し易く、修養努力を欠くの結果となる。反対に禅宗のごとき自力教は徹頭徹尾努力修養によりて悟りを開くことを主眼とする故に、修養に対する勇猛心は非常に強い半面に救われしものの感謝と歓喜とがない。聖書の福音は自力とか他力とかの一方の範疇に閉じ込め得ざる性質を有っている。すなわち律法の行為によりて義とせられず信仰のみによる点(ロマ3:28)、また信仰は神の賜物にして己によるにあらざる点(エペ2:8)においては完全に絶対他力であり、また他方畏れ(おのの)きて己が救いを全うせざるべからざる点においては(ピリ2:12)自力主義に等しい。しかしながら聖書の福音は、この矛盾を矛盾としないのであって、完全に神にささげられし自己は、神の所属なるが故に自己にして自己にあらず、神のものとして益々大切なる自己であり、戦々競々としてこれを神の御心に叶うものと為すの義務を有し、しかも自力によらず神の力に導かれてこれを完成するのである。ゆえにキリスト者にあっては自力は神によりて動かされる自己の力であり、他力は我らの中にまた我らによりて働く神の力である。キリスト教の神は超越神にして同時に内在神である。従って自力、他力の問題はここに存在しない。

3-3 エパフロデトとテモテのこと 2:19 - 3:1

2章19節 (されど)われ(なんぢ)らの(こと)()りて慰安(なぐさめ)()んとて、(すみや)かにテモテを(なんぢ)らに(つかは)さんことを(しゅ)イエスに()りて(のぞ)む。[引照]

口語訳さて、わたしは、まもなくテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって願っている。それは、あなたがたの様子を知って、わたしも力づけられたいからである。
塚本訳(ところで)私は早くテモテを君達の所に遺りたいと主イエスにあって望んでいる。君達の(元気な)ことを知って私も元気になりたいためである。
前田訳主イエスにあって望んでいることですが、テモテを間もなくそちらに送りましょう。それはわたしもあなた方のことを知って励まされるためです。
新共同さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。
NIVI hope in the Lord Jesus to send Timothy to you soon, that I also may be cheered when I receive news about you.
註解: パウロはローマの獄中にあってもおそらく放免されることの確信を有し、その時期が解らないので躊躇していたが、大体の目安がつき次第テモテを遣すことの希望を持っていた。その目的はピリピの教会の状態につき知りたいためであった。
辞解
[されど] 原文にあり、12節にパウロの不在中のことにつき教訓を与えたのであるが「されど」との意、他に種々の解あれど適切ではない。
[慰安(なぐさめ)] eupsychô は、元気付けられ、良い気持ちになること。
[汝らに] 「汝らのために」。

2章20節 そは[(かれ)のほかに(われ)と](おな)(こころ)をもて眞實(まこと)(なんぢ)らのことを(おもん)ぱかる(もの)なければなり。[引照]

口語訳テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない。
塚本訳(そして特に彼を選んだのは、)彼と同じ心で、真実に君達のことを心配してくれそうな者が(私の周囲に)誰一人いないからである。
前田訳彼ほどあなた方のことをまちがいなく心がける人は、わたしのところにいません。
新共同テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。
NIVI have no one else like him, who takes a genuine interest in your welfare.
註解: ピリピの信者のことをパウロと同じ心持で親身になって心配してくれる者はテモテ以外になかった。パウロの周囲の弟子の間にすらすでに人物の払底(ふってい)することかくのごとくであったことは驚くべき事実であるといわなければならない。コロ4:10−14にある多くの錚々(そうそう)たる弟子たちは、この頃如何にしていたのであろう。或はパウロと共にいたとしてもルカ以外はピリピのことにあまり関心を持たなかったのかもしれない。
辞解
[彼のほかに] 意義を補充するもの、「我と」も同様なり。従って「同じ心」をテモテと同じ心と解する学者(L3)もあるが適当ではない。
[真実に] 「親身になって」の意。
[(おもん)ぱかる] 「思い煩う」と同一の語、深く心配すること。

2章21節 (ひと)(みな)イエス・キリストの(こと)(もと)めず、(ただ)おのれの(こと)のみを(もと)む。[引照]

口語訳人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。
塚本訳何故というのか。(他の者は)皆自分のこと(だけ)を求めて、(誰も)キリスト・イエスのことを求めないのだ!
前田訳人々は皆キリスト・イエスのことをでなく、おのがことを求めています。
新共同他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。
NIVFor everyone looks out for his own interests, not those of Jesus Christ.
註解: 勿論テモテその他若干の例外はあったのであろうが、ピリピに遣わすべき可能性のある人々を見渡した処一人もイエス・キリストのことを求める人がなく、唯おのれのことのみを求めていた。パウロの弟子たちにつき、このような記事が残されたことは彼らにとって大なる恥辱であり、また後代の信者にとっての警戒である。反省しなければならない。
辞解
[皆] 上記のごとくに解すべきで他に種々の附加的条件が試みられているけれども適切ではない。ルカはおそらくこの時ローマにいなかったのであろう。

2章22節 されどテモテの錬達(れんたつ)なるは(なんぢ)らの()(ところ)なり、(すなは)()(ちち)()ける(ごと)(われ)とともに福音(ふくいん)のために(つと)めたり。[引照]

口語訳しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。
塚本訳しかしテモテは、君達も知っているように、親と子のようにして私と一緒に福音のために尽くし、(既に)試験ずみ(の男)である。
前田訳しかし彼(テモテ)の練達はご承知のとおりで、子が父につくすようにして、わたしとともに福音に奉仕しました。
新共同テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。
NIVBut you know that Timothy has proved himself, because as a son with his father he has served with me in the work of the gospel.
註解: テモテはパウロを父のごとくに思い、父のごとくに彼に仕えた。そしてこのことはパウロの個人のためではなく、福音のために奉仕しつつあるパウロに仕えることより、結局パウロと共に福音に奉仕したことになるのである。直接に口をもって福音を宣伝えることのみが福音への奉仕ではない。
辞解
[錬達] 試験を経て合格すること、検査に合格すること、鉱物の精錬により金属が吹き分けられること等の意。
[子の父に於ける如く] 次に「我に仕うることにより」を附加すれば意味が明瞭となる。
[勤め] 僕として仕えること。

2章23節 この(ゆゑ)(われ)わが()成行(なりゆき)()ば、(ただ)ちに(かれ)(つかは)さんことを(のぞ)む。[引照]

口語訳そこで、この人を、わたしの成行きがわかりしだい、すぐにでも、そちらへ送りたいと願っている。
塚本訳それで彼を、私の身の成り行きを見極めた上で、(前に言ったように)早速(君達の所に)遺りたいと望んでいる。
前田訳そこで彼を、わたしのことがわかり次第すぐに送りたく思います。
新共同そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。
NIVI hope, therefore, to send him as soon as I see how things go with me.
註解: パウロの幽囚が如何になるかの見当がつけば直ちにテモテを遣わすことがパウロの希望であった。

2章24節 (われ)もまた(すみや)かに()くべきを(しゅ)によりて確信(かくしん)す。[引照]

口語訳わたし自身もまもなく行けるものと、主にあって確信している。
塚本訳しかし(彼ばかりでなく)わたし自身も早く行けることと、主にあって確信している。
前田訳わたし自身も間もなく行けることを主にあって確信しています。
新共同わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。
NIVAnd I am confident in the Lord that I myself will come soon.
註解: パウロはやがて幽囚より放免されるであろうことの確信を持っていた。パウロはこの確信をピリピの信徒に伝えて彼らにも希望を持たせんとしているのである。

2章25節 されど(いま)(さき)われと(とも)(はたら)(とも)(たたか)ひし兄弟(きゃうだい)、すなはち(なんぢ)らの使(つかひ)として()窮乏(ともしき)(おぎな)ひしエパフロデトを、(なんぢ)らに(つかは)すを必要(ひつえう)のことと(おも)ふ。[引照]

口語訳しかし、さしあたり、わたしの同労者で戦友である兄弟、また、あなたがたの使者としてわたしの窮乏を補ってくれたエパフロデトを、あなたがたのもとに送り返すことが必要だと思っている。
塚本訳しかし、(とりあえず今は)私と共に働き、共に戦い、また君達の使いとして私の窮乏を助けてくれた兄弟エパフロデトを君達の所に遺ることが必要だと考えた。
前田訳わが兄弟、同労者、戦友であるエパフロデトをそちらへ送る必要を感じます。彼はあなた方の使者としてわが窮乏に際して奉仕しました。
新共同ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、
NIVBut I think it is necessary to send back to you Epaphroditus, my brother, fellow worker and fellow soldier, who is also your messenger, whom you sent to take care of my needs.
註解: 間もなくテモテとパウロとがピリピを訪問するとしても、それまで待っていられない切なる感情に動かされたのであった。その理由は26、27節にあり。
辞解
[われと共に働き、共に戦ひし兄弟] 原文「わが兄弟、また同労者、また戦友」で次第に共力の程度において高まっている。
[すなわち汝らの使として我が窮乏を補ひし] 「されど汝らの使者にして我が必要なる奉仕者なる」と訳すことができ、前の「我が」と対応して「汝らの」を強調し、エパフロデトがパウロにもピリピの信徒にも重大なる意義あることを示す。エパフロデトは新約聖書中他に録されず、コロ1:7コロ4:12ピレ1:23のエパフラスとは別人なり、「窮乏を補ひし」は「必要の奉仕者」でパウロに対する献金をエパフロデトをして持参させたことを指す。「奉仕者」 leitourgos は祭司の職を行う者を指す語であって、ピリピの信徒はパウロの必要を満たすことによって神に仕えているのである。Uコリ9:12にはこの語を「施済(ほどこし)」と訳し、ロマ15:27はこの語と同源の動詞を「(つか)う(仕える)」と訳す。

2章26節 (かれ)(なんぢ)()すべての(もの)()ひしたひ、(また)おのが()みたることの(なんぢ)らに(きこ)えしを(もっ)(かな)しみ()るに()りてなり。[引照]

口語訳彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているからである。その上、自分の病気のことがあなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている。
塚本訳彼は君達を皆慕って居り、自分が病気をしたことが君達の耳に入ったのを気に病んでいるのだから。
前田訳彼は皆さんに会いたがっていまして、あなた方が彼が病んだとお聞きのことを苦にしていました。
新共同しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。
NIVFor he longs for all of you and is distressed because you heard he was ill.
註解: エパフロデトの心中を叙述し、これをもって彼を遣わす必要がある理由とする。その一はピリピの兄弟たちを恋い慕っていること、その二はピリピの兄弟たちが、エパフロデトの病めるを知って心配していることを聞いてエパフロデトの心が憂慮困惑していたからであった。
辞解
彼の疾病が如何にしてピリピに聞えたかは不明であるが、交通の便の多かった当時としては、かかる事実は少なくなかったであろう。またピリピ人の心配につきてはピリ4:10にあるごとく、この度またまたパウロのために金銭を送りし故、その使者よりこれを聴いたのであろう。

2章27節 (かれ)()(やまひ)にかかりて()ぬばかりなりしが、(かみ)(かれ)(あはれ)みたまへり、(ただ)(かれ)のみならず、(われ)をも(あはれ)み、(うれひ)(うれひ)(かさ)ねしめ(たま)はざりき。[引照]

口語訳彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。
塚本訳(実際)彼は病気で死にそうであったが、神は彼を憐れみ給うたのである。否、彼ばかりでなく私をも憐れんで、悲しみに悲しみを重ねさせ給わなかった。
前田訳実際、彼は死にそうなほど病みました。しかし神は彼を、否、彼ばかりでなくわたしをもおあわれみでした。それはわたしが悲しみに悲しみを重ねないためにでした。
新共同実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。
NIVIndeed he was ill, and almost died. But God had mercy on him, and not on him only but also on me, to spare me sorrow upon sorrow.
註解: ピリピ人の憂慮の杞憂にあらざりしことを叙ぶ、そして神はその憐みによりて彼を癒し給えることを感謝している。かつこの憐みは同時にパウロにとっても憐みであって、エパフロデトの回復によってパウロはその幽囚の憂にさらに彼の憂を重ねるの不幸を免れたのであった。

2章28節 この(ゆゑ)(いそ)ぎて(かれ)(つかは)す、なんぢらが(ふたた)(かれ)()(よろこ)ばん(ため)なり。(また)わが(うれひ)(すくな)うせん(ため)なり。[引照]

口語訳そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、心配を和らげることができよう。
塚本訳それで君達が彼に会って再び喜ぶよう、私も(それによって少し)気が楽になるように、特に大急ぎで彼を(君達に)返す(ことにした)。
前田訳それでますます切に彼を送りたいのです。あなた方は彼と再会してよろこび、わたしの悲しみもやわらぐことでしょう。
新共同そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。
NIVTherefore I am all the more eager to send him, so that when you see him again you may be glad and I may have less anxiety.
註解: エパフロデトの活動は福音のために非常に重要であった(30節)。されどパウロはピリピ人をも喜ばせんとの人情より彼を帰らせた。福音のためには人情を犠牲にしなければならぬことは当然であるが、これは後者を重視することによって前者が危殆(きたい)に瀕する場合を言うのであって、然らざる場合、自然の人情にも充分の同情を持つことは必要である。この自然の人情もまた神の造り給うたものだからである。
辞解
[急ぎて] 速力よりも気持ちに関係す。
[再び] 「見る」に懸るとみるよりも「喜ぶ」に関連す。
[憂を(すくな)うす] 憂を全部除くことができるわけではない故かく言う。

2章29節 されば(なんぢ)(しゅ)にありて歡喜(よろこび)(つく)して(かれ)(むか)へ、かつ()くのごとき(ひと)((びと))を(たふと)べ。[引照]

口語訳こういうわけだから、大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊重せねばならない。
塚本訳だからどうか主に在って大いに彼を歓迎してくれ。且つこのような人達を尊敬せよ。
前田訳それで、主にあって全きよろこびをもって彼を迎えてください。そして彼のような人々を尊敬してください。
新共同だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。
NIVWelcome him in the Lord with great joy, and honor men like him,
註解: エパフロデトが汝らに至れば彼を大いに歓迎すべし。ただし「主に在りて」であって、信仰的にすなわち信仰を基調とすべし。キリストを離れし喜びは一時的でかつ肉的である。かつこの歓迎は単に彼に対する個人的の心持からであってはならず、福音のために献身せる兄弟たちに対しても同様の尊敬を払うべきである。

2章30節 (かれ)(なんぢ)らが(われ)(たす)くるに(あた)り、(なんぢ)らの()らぬを(おぎな)はんとて、(おの)生命(いのち)()け、キリストの(こと)(わざ)のために()ぬばかりになりたればなり。[引照]

口語訳彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである。
塚本訳彼は生命賭けで、君達に私の世話の出来ない所を補おうとして、キリストの仕事のためにほとんど死のうとしたのである。
前田訳彼はキリストのための働きのために、死の一歩前でした。わたしへの奉仕についてあなた方ができなかったことを彼はいのちをかけて全うしてくれたのです。
新共同わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。
NIVbecause he almost died for the work of Christ, risking his life to make up for the help you could not give me.
註解: 私訳「そは彼は我への奉仕につきての汝らの欠陥を補わんとてキリストの事業のためにその生命を賭けし死ぬるばかりになりたればなり。」前節末尾、すなわち「かかる人々を尊ぶ」べき理由を掲ぐ、すなわちエパフロデトはキリストの事業 ─ 福音伝播の事業 ─ のためにパウロの助手となり、その過労のために病にかかるをも辞せずついに死を眼前に見るまでに至った。これパウロに対する奉仕(25節の「補ひ」と同じく leitourgia、その節辞解を見よ)におけるピリピ人の不足(不在による欠陥のこと)を補充せんがためであった。要するにエパフロデトは主キリストに対する熱愛より、主の使徒たるパウロに仕え、かつピリピ人の代理としてパウロに全心、全力を尽くして仕え、これによりてピリピ人の不足分をも充たさんとしたのであった。この熱心のために彼は瀕死の病にかかったのである。
要義1 [人情と信仰]パウロがエパフロデトの快癒を喜び、また彼のピリピ人を恋慕う心に同情し、彼をピリピに送って彼および彼らを喜ばそうとしたことは、パウロが如何に人情に篤かったかを示している。福音のためには父母、妻子、己が生命をも捨てなければならない場合がある。しかしながら平日父母に孝に、妻子を愛し、己の生命を大切に保つことは、福音に反する事柄ではない。人情は自然のままに働く場合、それ自身善でも悪でもない。そしてそれが神の御旨の中に在りて働く場合、その喜びは感謝をもって受くべき神の賜物である。しかしながら場合によりこの二者が両立し得ない立場に立つことがある。かかる際には我らは喜んで福音のために人情を犠牲にしなければならぬ(マタ10:34−37)。あたかも出征軍人が戦時においては家族の死に際しても帰還しないごときこれである。福音のためと称してエパフロデトをピリピに帰らしめないというごときことはパウロの態度ではなく、またその重病よりの恢復につき少しも喜ばないごときことはストイック的であるかもしれないけれども福音的ではない。福音は人情を聖化し、神に従いてこれを正しく働かせるものである。
要義2 [奉仕即礼拝]leitourgia leitourgeô は祭司が神の御前に立ちて礼拝の務め、すなわち祭りを為す意味に用いられる語であって、神に奉仕 service することである(使13:2ヘブ10:11ルカ1:23ロマ13:6ヘブ8:2ヘブ8:6)。そしてこの語が同時に「施済(ほどこし)」(Uコリ9:12)または「贈与」「寄附」(ロマ15:27ピリ2:25)の意に用いられることは注意すべき点であって、この種の善行を為すことは結局において神の最も悦び給う処であり、神に対する最善の礼拝であることを示す。形式的礼拝が真の礼拝なるがごとくに考えるのは誤りである。