黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版コロサイ書

コロサイ書第2章

分類
3 教理の部 1:13 - 2:23
3-2 パウロとコロサイの教会 1:24 - 2:7
3-2-ロ パウロの心労 2:1 - 2:5  

2章1節 (われ)なんぢら(およ)びラオデキヤに()人々(ひとびと)、その(ほか)すべて()肉體(にくたい)(かほ)をまだ()(ひと)のために、如何(いか)苦心(くしん)するかを(なんぢ)らの()らんことを(ほっ)す。[引照]

口語訳わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため、また、直接にはまだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい。
塚本訳君達に知ってもらいたいのは、君達や、ラオデキヤの人達や、(まだ)肉で私の顔を見たことのない皆の人達のために、私がどんなに苦労して、
前田訳知っていただきたいのですが、あなた方とラオデキアの人々とまだ肉にあってわが顔を見たことのない人々のために、どんなに苦労していることでしょう。
新共同わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。
NIVI want you to know how much I am struggling for you and for those at Laodicea, and for all who have not met me personally.
註解: 原文初頭に「何となれば」とあり、前章末尾の「(ちから)(つく)して(らう)する」ことの詳説である。パウロはコロサイの人々とは未知であり(ピレモンやエパフラスは他の場所でパウロと知り合いになった)、またその近くのラオデキヤにも赴いたことがなかった。それ故に、それらの地方およびその周囲にある信徒たちのことが常に気にかかり、幽囚の中にありながらそれらの人々のために苦しみ、祈りの中に苦闘していた。パウロはこのことを彼らに知ってもらいたかった。
辞解
[その他] 原文「および」。
[パウロの顔を見ない人々] これらの中にコロサイの人々やラオデキヤの人々を含むのであるか、またはこれらを除外するのであるかは原文からは確定することができず、何れとも解し得るのであるが、使徒行伝の記事および本書の調子より、パウロはコロサイに行かなかったと見るべきで、従って「顔を見ぬ人」の中に彼らをも含むと見るべきである。ただしかく解するにしても単に本節だけより見ればパウロの心中には「および肉において我が顔を見ぬ人々」と言った時は、コロサイやラオデキヤ以外の人を指したとも言い得るのである。その故はコロサイやラオデキヤの人々がパウロを知らないことは彼らには説明する必要がないからである。しかし次節に「彼ら」とあり、その中にコロサイの人々をも含んでいると見るべきである故、本節「我が顔を見ぬ人々」の中にもこれを含ませたのであると見るべきである。「我が肉体の顔を」は「肉において我が顔を」となっている。
[苦心す] 前節の「力を盡して」と同義、競技の用語。

2章2節 [かく苦心(くしん)するは、](かれ)らが(こころ)(なぐさ)められ、(あい)をもて(あひ)(つらな)り、(まった)穎悟(さとり)(すべ)ての(とみ)()て、(かみ)奧義(おくぎ)なるキリストを()らん(ため)なり。[引照]

口語訳それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。
塚本訳皆の心を励まし、愛によって教え、(かくて)豊富且つ完全なる凡ての聡明、(然り、)神の奥義すなわちキリストを知る知識に達せしめようとしているか、ということである。
前田訳それは彼らの心が励まされ、愛によって共に教えられて分別の確かさに富み、神の奥義すなわちキリストを知る英知に至るためです。
新共同それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。
NIVMy purpose is that they may be encouraged in heart and united in love, so that they may have the full riches of complete understanding, in order that they may know the mystery of God, namely, Christ,
註解: (▲伝道の目的は人々にキリストを知らせることである。パウロの伝道は徹底的にキリスト中心であった。本書においてもこの点を著しく見ることができる。)私訳「これ彼ら愛をもて相(つらな)り確実なる穎悟(さとり)の凡ての富を得、神の奥義なるキリストを知るの知識に至ることにより彼らの心慰められん為なり」。パウロの苦心の原因は彼らの間に入り込んで来た偽教師らが、彼らより正しき信仰を奪いて彼らの心より慰めを奪ってしまうことであった。それ故にパウロはここに、彼らがかかる状態に陥らざらんことを目的としているのである。そのために必要なのは第一に彼らが愛の中に一つに連結することである。愛の連結なき処、そこに異端邪説の侵入する隙がある。そして単に互に連結するのみならず穎悟(さとり)がなければならぬ。これはグノシス的偽教師らの重要視している事柄であるが、彼らに迷わされず、信仰に関する確かなる穎悟(さとり)を豊富に所有しなければならぬ。また神の奥義なるキリストに関する知識を得、これによりて明瞭にして不動なる信仰に立つことを得るようになってその心慰められなければならない。グノシス思想においても奥義の知識が重要視されたけれども、彼らの場合この奥義はキリストではない。奥義なるキリストを知るより外に真の心の慰めはない。
辞解
[神の奥義なるキリスト] また「キリストの神の奥義」と読むべしとの説(M0)あり、原文誤解し易き故無数の異本あり、現行訳を可とす。

2章3節 キリストには知慧(ちゑ)知識(ちしき)との(すべ)ての(たから)(かく)れあり。[引照]

口語訳キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。
塚本訳“知恵”と知識と“の宝は”悉くこのキリストの中に“隠されている”のである。
前田訳キリストにこそ知恵と知識とのすべての宝が隠されています。
新共同知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。
NIVin whom are hidden all the treasures of wisdom and knowledge.
註解: グノシス的偽教師の重視する智慧も知識も凡てみな不完全であり、迷妄に過ぎず、真の智慧と知識との宝は凡てみなキリストの中に蔵されている。奥義なるキリストを見出すことこそグノシス主義の偽教師らが思いも及ばざる智慧と知識とを供給するものである。
辞解
前節の穎悟(さとり) synesis および本節の智慧 sohpia と知識 gnôsis はみな幾分の差別あり、知識は真理または事実を知ること。他の二語につきてはコロ1:9辞解参照。

2章4節 (われ)これを()ふは、(たくみ)なる(ことば)をもて(ひと)(なんぢ)らを(あざむ)くこと(なか)らん(ため)なり。[引照]

口語訳わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。
塚本訳君達が誰からもうまい言で言いくるめられることのないように、このことを言っておく。
前田訳このことをいうのはだれもあなた方を甘いことばでだまさないためです。
新共同わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。
NIVI tell you this so that no one may deceive you by fine-sounding arguments.
註解: グノシス的偽教師らは理屈に巧なる人々であって、もっともらしき理屈をつけ、誤った結論を引き出して人を惑わす人々であった。パウロが1−3節のごとき注意を与えたのはコロサイの信徒がかくして欺かれることの無からんためである。
辞解
[これ] は1−3節。
[巧なる言] pithanologia は如何にももっともらしく思わせる言。
[欺く] paralogizomai は本来計算をごまかす意味より転じて、理屈をごまかして人を惑わすこと。

2章5節 われ肉體(にくたい)にては(なんぢ)らと(はな)()れど、(れい)にては(なんぢ)らと(とも)()りて(よろこ)び、また(なんぢ)らの秩序(ちつじょ)あるとキリストに(たい)する信仰(しんかう)(かた)きとを()るなり。[引照]

口語訳たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。
塚本訳私は肉でこそ離れて居れ、霊では(いつも)君達と一緒にいて、キリストに対する君達の信仰の秩序正しいことと、堅固なこととを見て喜んでいるのである。
前田訳たとえ肉にあって離れていても、わたしは霊にあってあなた方といっしょです。それで、あなた方のキリストへの信仰の秩序と堅さとを見てよろこんでいます。
新共同わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。
NIVFor though I am absent from you in body, I am present with you in spirit and delight to see how orderly you are and how firm your faith in Christ is.
註解: ローマに幽囚の身となっているパウロはコロサイの信徒とは肉体的には非常に離れていたけれども、彼らを愛するがゆえに霊においては常に彼らとともにいた、そして心に喜び、かつ霊の眼をもって彼らの信者としての共同生活において秩序があり、また容易に敵に犯されざる堅き信仰があることを見ていた。
辞解
[秩序] taxis は軍隊用語、軍隊の秩序正しき隊伍につき用う。
[堅き] stereôma は必ずしも軍隊用語ではないが(M0)前線の堅固なることに用いらる(L3)。パウロは獄中書簡において殊に軍隊的の用語を多く用いているのは、獄中にて兵士に守られていたからであろう(エペ6:1以下)。
要義 [智慧と知識の本体たるキリスト]世の人は自己の心の中に、またはこの世の先覚者の中に智慧と知識とを求めているけれども、そこには真の智慧も知識もない。キリストには智慧と知識の凡ての実が(かく)れており、そこに神の奥義としてのキリストがある。このキリストを信ずる者はそこに完全なる満足充実を見出すことができる。キリストのみがあらゆる完全さの具現であり、完全なる者の像である。

3-2-ハ コロサイ人へのすすめ 2:6 - 2:7  

2章6節 (されば)(なんぢ)らキリスト・イエスを(しゅ)として()けたるにより、()のごとく(かれ)()りて(あゆ)め。[引照]

口語訳このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。
塚本訳それで君達は(既に)主イエス・キリストを受け入れたのであるから、(ただ)彼において歩まなくてはいけない──
前田訳それで、あなた方はキリスト・イエスを主とお受け入れですから、彼にあって歩んでください。
新共同あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。
NIVSo then, just as you received Christ Jesus as Lord, continue to live in him,
註解: (▲キリスト者の生活態度はキリスト・イエスに在って歩むことに尽きている。)キリストに対する信仰の堅きことはまことに喜ぶべきことである故、それと同様に汝らの歩みすなわち行いもまたキリストに在るものとして、彼の御旨に叶えるごとくに行動すべきである。
辞解
[キリスト・イエスを主として受く] キリスト者の信仰の要約ともいうことができる。なおこの箇所を「キリストすなわち主イエスを受け」と読む説あれど(L3)適当ではない。

2章7節 また(かれ)()ざしてその(うへ)()てられ、かつ(をし)へられし(ごと)信仰(しんかう)(かた)くし、(あふ)るるばかり感謝(かんしゃ)せよ。[引照]

口語訳また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。
塚本訳彼の中に(深く)根を下ろし、彼の上に(いよいよ高く)建てられ、また教えられた通りに信仰に堅くなり、感謝に溢れながら!
前田訳彼によって根を張られ、建てられてください。教えられたように信仰が強められ、感謝にあふれてください。
新共同キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。
NIVrooted and built up in him, strengthened in the faith as you were taught, and overflowing with thankfulness.
註解: 信仰生活の基礎およびその発展につきて教う。「根ざし」は植物に例を取ったので、根をキリストに卸すことにより彼より養分を取りてキリストらしく成長する。「上に建てる」は建築に例を取ったのでキリストを基礎工事と見てその上に建築することである。その上に信仰を堅くして建物の崩壊を防ぎ、感謝に溢れて活ける喜びを持つ、これがキリスト者の生活である。最も憂うべく恐るべきはその反対の状態で、信仰が成長せず、その基礎が誤っており、建物は弱く歓喜なきことである。歩行、植物、建築等種々の比喩の混合はパウロにおいては稀ではない。
辞解
[信仰を堅くし] 「信仰によりて堅くなり」とも訳することができる(M0、L3)が、現行訳を採る。

3-3 この世の小学を離れよ 2:8 - 2:23
3-3-イ キリストによる充足 2:8 - 2:15  

2章8節 なんぢら(こころ)すべし、(おそ)らくはキリストに(したが)はずして(ひと)言傳(いひつたへ)()小學(せうがく)とに(したが)ひ、(ひと)(まどは)(むな)しき哲學(てつがく)をもて(なんぢ)らを(うば)()(もの)あらん。[引照]

口語訳あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。
塚本訳注意せよ、(いわゆる)哲学、すなわち空しい欺瞞をもって君達を奪い去る者があるかも知れない。この(人達の言う)哲学は(如何に巧みな説明があるにせよ、要するに)人間の言い伝えに拠るものであり、(地水火風というような)此世の元素の霊に拠るものであって、キリストに拠らないものである。
前田訳気をおつけなさい。人間のいい伝えと世の諸霊力とによっていてキリストによっていないむなしい偽りの哲学で、だれもあなた方を捕えないようになさい。
新共同人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。
NIVSee to it that no one takes you captive through hollow and deceptive philosophy, which depends on human tradition and the basic principles of this world rather than on Christ.
註解: これまで間接に注意を与えていたパウロはここにいよいよ偽教師の正体を明白にし、如何なる点に注意しなければならなぬかを示す。パウロの恐れたのは、彼らが偽教師から「奪い去られ」キリストより離されることであった。偽教師はその「空虚なる欺瞞の哲学」(私訳)によって彼らを信仰より引き離さんとしているのであった。すなわち彼らの所謂「哲学」は内容が無く真実を欠いている処のものであるとパウロは言う。そしてこの哲学たるやその起源はキリストによるのではなくして人間の言伝えに過ぎず、またその内容はキリストのプレーローマではなく、この世の小学すなわち極めて幼稚なる思想に過ぎないものである。
辞解
[奪ひ去る] sylagôgeô は誘拐の意味もあるが、ここでは掠奪の意味に取る方が適当であろう(Z0)。
[キリストに従はず] 彼らの教えは、キリストが起源でもなく内容をもなしていない。
[人の言傳(いひつたへ)] 彼らは言い伝えを非常に重んじていた。例えばユダヤ教または神秘主義、エツセネ派等における伝統のごときそれである。
[小學] stoicheia は種々の意味あり、(1)列、(2)ABC、(3)元素、(4)幽霊、(5)天体等であるがここでは2、3等より初歩の事柄を指し、飲食、季日、割礼等のごとき儀式的のことに関する教えを意味すと見るべきである。詳細は16節20−23節を見よ。▲口語訳がStoicheia を「霊力」と訳しているのは(4)に由ったものである。Uペテ3:12の「天体」は(5)に由っているが脚注は(3)に由る。
[人を惑わす虚しき哲学] 「空虚なる欺瞞の哲学」と私訳したのであるが、あるいはこれを「哲学と空虚なる欺瞞」と訳し、二つの部分に分ける説があるけれども冠詞が繰り返されない故上記のごとく訳すべきである。なお「哲学」は本来善き意味の語であるがここでは悪しき意味に用いられている。おそらく偽教師らはその主張を「哲学」の名をもって呼んでいたのであろう。

2章9節 それ(かみ)滿()()れる(とく)はことごとく形體(かたち)をなしてキリストに宿(やど)れり。[引照]

口語訳キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、
塚本訳(君達はこんなものに惑わされず、ただキリストに拠れ。)何故なら、彼の中には豊満なる神性が悉く形体を取って宿って居り、
前田訳キリストのうちにこそ神性のあらゆる充満が体として住んでいるからです。
新共同キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、
NIVFor in Christ all the fullness of the Deity lives in bodily form,
註解: 原文「何となれば」とあり、前節キリストに従わざることの非なる理由を示す。「神の満ち足れる徳」は直訳「神の本質のプレーローマ」で、グノシス的偽教師らは神の本質は多くの霊的存在(天使のごとき)の間に分たれていると主張するのに対し、パウロはこれが全部一体として具体的にキリストの中に宿っていることを主張している。すなわちキリストの中には、その受肉の時もその前後においても、神の本質が一つの体をなしてまとまった全体として定住しているというのである。換言すればキリストは神の本質を真似たものでもなく、その一部分を受けたのでもなく、またその全部を数量的にまたは機械的に受けているのでもなく、体をなして、まとまった統制ある全体として受けているのである。キリストが神に在し給う以上かくあらなければならない。
辞解
[神の] theotês は神の本質を指しており、「神性」 theiotês は神の属性を指す(ロマ1:20)。この二者は区別するを要す。
[形體(かたち)をなして] sômatikôs はあるいは(1)受肉のキリストに宿りての意に解し(L3)、または(2)天に在すキリストに身体の形をとりて宿ると解し(M0)すなわち天に在すキリストも体を有ち給うとの意味となる。あるいは(3)キリストは神の体であると解す(B1)、その他にも(4)「本質的に」(5)「実際的に」の意味に解し、またはこの体を(6)宇宙(7)教会等と解するなど種々の説あり。上記のごとく解す(ハウプト)。
[宿る] 現在動詞である故これを(1)のとごく受肉のキリストのみに限るのは不適当であり、またこれを(2)のごとく昇天後のキリストのみに限ることも同様に不適当である。

2章10節 (なんぢ)らは(かれ)()りて滿()()れるなり。(かれ)(すべ)ての政治(まつりごと)權威(けんゐ)との(かしら)なり。[引照]

口語訳そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、
塚本訳君達は彼によってこの豊満に与る者とされたのであるから──彼は凡ての(天使達、すなわち)「権威」「権力」(等)の頭であり給う。
前田訳そしてあなた方は彼にあって全うされています。彼はすべての支配と権威の頭で、
新共同あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。
NIVand you have been given fullness in Christ, who is the head over every power and authority.
註解: キリスト者は「キリストに在り」てキリストと霊の交りに生きる者であり、従って「満足れる者」である。何となればキリスト自身神の本質のプレーローマを宿しているからである。エペ3:19エペ4:13。それ故にキリストに在るものはもはや人の言伝えや世の小学に求むべきものは何もない。かつこのキリストは政治、権威等と称される天の使いたちの首に在し給う以上、もはや偽教師らの主張するごとく、これらを仲保として崇める必要はない。▲本節および次節の主眼はパウロが全く制度的教会のごときものを想像だにせず、各個人とキリストとの帰一と、そのキリストの絶対的完全とを主眼していたことを見ることができる。

2章11節 (なんぢ)らまた(かれ)()りて()をもて()ざる割禮(かつれい)()けたり、(すなは)(にく)(からだ)()()るものにして、キリストの割禮(かつれい)なり。[引照]

口語訳あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。
塚本訳君達はまた彼において手にてせざる(真の)割礼、すなわち(モーセ律法によりただ体の一部に施すものでなく、)肉の体を(悉く)脱ぎ去るキリストの割礼によって割礼された。
前田訳彼にあってあなた方は手によらぬ割礼を受けて肉の体を脱ぎ捨てました。これがキリストの割礼です。
新共同あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、
NIVIn him you were also circumcised, in the putting off of the sinful nature, not with a circumcision done by the hands of men but with the circumcision done by Christ,
註解: 異邦人は手をもって肉の一部に行う不完全な割礼は受けていないけれども、その反対に「手をもてせざる」完全なる割礼を受けている。しかもその範囲は肉の一部を切り取る割礼ではなく、「肉の体」すなわち「罪の体」(ロマ6:6)を「脱ぎ去り」全くそれを棄ててしまうこと、換言すれば罪につきて死んでしまうことである。かくして我らは「肉に居らで霊に居り」(ロマ8:9)「肉に従はず霊に従ひて歩む」(ロマ8:4)。この割礼こそは真の割礼であって、モーセの割礼ではなくキリストの割礼である。何となればキリストはその肉の体を十字架に()け給うたからである。このキリストの死が我らの死であり、手にて為さざる真の割礼である。
辞解
[手にて為さざる] 「手にて造れる」宮や偶像等(使7:48使17:24ヘブ9:11ヘブ9:24)の反対で、神より来たれることを暗示す。
[キリストの割禮] キリストに由りて為される割礼、すなわち回心によりて信仰に入ることを指す、これはキリストにより霊的に導かれ、キリストとの霊の交りに入ることである故、これをキリストの割礼と呼んだのであると解するのであるが(M0)、上記のごとくに解する方が強き表顕となる(L3、E0)。
[脱ぎ去ること] apekdusis(▲ apo(・・・から) ek(・・・の外に) dusis (投げ込む、棄てる)の複合詞、コロ3:9の「脱ぎて」も同語。割礼が男子の陽の皮を切り取って棄てるのであることと相対応する。)は(15節はその動詞)剥ぎ取りて外に棄てるというごとき強き意味あり、割礼と対照してこの場合に適当の表顕である。この二重の複合詞は稀有の用例なり。

2章12節 (なんぢ)らバプテスマを()けしとき、(かれ)とともに(はうむ)られ、(また)かれを死人(しにん)(うち)より(よみが)へらせ(たま)ひし(かみ)活動(はたらき)(しん)ずるによりて、(かれ)(とも)(よみが)へらせられたり。[引照]

口語訳あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。
塚本訳(然り、キリストの)洗礼(こそ真の割礼であって、君達はこれ)によって彼と共に(死んで)葬られ(たのである。そして)また彼を死人の中から甦らせ給うた神の力を信ずることによって、彼に於て共に甦ったのである。
前田訳あなた方は洗礼において彼とともに葬られ、また洗礼において彼とともによみがえらされました。それは死人の中から彼をお起こしの神の力の真実によるものです。
新共同洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。
NIVhaving been buried with him in baptism and raised with him through your faith in the power of God, who raised him from the dead.
註解: (▲9、10節は受肉のキリスト、11節はその十字架の死、12節はその復活に相当する。) ロマ6:3−11および註を参照すべし、パウロの解釈によればバプテスマを受けて水中に没するは死して葬られることを表徴し、再び水上に出て来るのは復活して新たなる生命に活きることを意味す。そしてこれはキリストに対する信仰によりてキリストを主と信じ、彼との霊の一致によりて受くるバプテスマであるから、キリストと共に葬られ、また彼と共に甦えらされる事を意味す。キリストを信ずると云わずして彼を甦らせ給える神の活動を信ずると言ったのは、この活動 energeia によりて彼もまた甦らせられるのであることを信ずる結果となるからである(ロマ10:9参照)。かくしてキリスト者はキリストと共に今すでに霊的に復活して肉の体を脱ぎ去り新たなる生命に生きる者であり、やがてキリスト再臨の時、この新生命に霊の体を与えられることの希望に生きる者である。
辞解
[神の活動(はたらき)を信ずるによりて] 直訳「神の活動の信仰によりて」であるがこれを「神の活動により与えられたる信仰によりて」の意味に解する説あり(B1、L1)、信仰が神の活動によりて与えられることは事実であるけれども(エペ2:5−8)本節をかく解する必要なし。

2章13節 (なんぢ)(まへ)には諸般(もろもろ)(とが)(にく)割禮(かつれい)なきとに()りて()にたる(もの)なりしが、[(かみ)は](なんぢ)らを(かれ)(とも)()かし、(われ)らの(すべ)ての(とが)(ゆる)し、[引照]

口語訳あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。
塚本訳(異教人たる)君達は(前には)咎と肉に割礼無きこととの故に死んだ者であったが、神は私達の凡ての咎を赦して、君達をもキリストと共に生かし給うた。
前田訳罪ゆえに、また肉の無割礼ゆえに死人であったあなた方を神はキリストとともに生かし、われらの罪をすべておゆるしでした。
新共同肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、
NIVWhen you were dead in your sins and in the uncircumcision of your sinful nature, God made you alive with Christ. He forgave us all our sins,
註解: 「我らの凡ての咎を赦して汝らを彼と共に生かし」と訳すべし、前節の復活につきさらにその経験、内容、および意義を示す。殊に異邦人キリスト者に対する意義を説明している。すなわちエペ2:1のごとく、異邦人たるコロサイの信徒らは信仰に入る前には諸般の咎に陥っていた。かつ11節に示せるごとき肉の体を脱ぎ去る割礼を受けず、すなわち新生の経験がないので、生きながら永遠の死の中に在るのであった。然るに神はその独り子を我らに与えこれを十字架に()け給い、これによりて我らの凡ての咎を赦し、彼を信ずる者を彼と共に甦えらしめ永遠の生命に生き返らせ給うた(エペ2:3−6)。
辞解
[肉の割禮] 殊更に「肉の」を加えたのは罪を代表する肉の意味であって、異邦人は本来の意味における割礼を受けていないのは勿論、肉の体を脱ぎ去る割礼を受けていなかった。
[死にたる者] 聖書は霊的意味において人間はすでに死んているものと見る。
[神は] 原文になし、充分意味の上で明瞭だからであろう。
[我らの] 第二人称から第一人称に移っているのはパウロの心理状態がこの場合咎の赦しにつき彼自身を除外する気になれなかったのであろう。この種の人称の転換はパウロの書簡には随所に見出すことができる。

2章14節 かつ(われ)らを()むる(のり)證書(しょうしょ)、すなはち(われ)らに(さから)證書(しょうしょ)塗抹(ぬりけ)し、これを中間(ちゅうかん)より()()りて十字架(じふじか)につけ、[引照]

口語訳神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。
塚本訳すなわち(厳しい)規則をもって私達に敵し私達を責める証文(すなわちモーセ律法)に棒を引き、これを十字架に釘づけて取り除き給うた。
前田訳神はわれらに不利な証文を規則もろとも取り消し、われらの邪魔であったそれを除き去って、十字架におつけでした。
新共同規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。
NIVhaving canceled the written code, with its regulations, that was against us and that stood opposed to us; he took it away, nailing it to the cross.
註解: (▲私訳「かつ我らに対立して我らを責める規定の証書を抹消し」)「これを中間より取り去りて十字架につけ」は「これを十字架につけて撤去し」と訳すべし。キリストの十字架の贖いによりて、我らはキリストと共に新生命に甦りたるのみならず、律法が完全に撤廃せられしことを示す。律法は「我らを責むる規の証書」あたかも借金の証書のごとく、それが効力を有する間は我らはこれによりて責められ、これを果すの義務を負わされるごとく、律法が効力を有する間我らはこれに対して義務を負わされ、これを完全に行わざる場合に詛いを受けなければならぬ(ガラ3:10)。然るにキリストは十字架の上において我らのために代りてこの詛いを受け給いしことにより我らを律法の詛いより解放し給うた(ガラ3:13)。かくして「キリストは凡て信ずる者の義とせられんために律法の終りとなり給うた」(ロマ10:4)。あたかも借金の証書を塗抹(ぬりけ)してこれを無効ならしめるごときものである。そして律法はキリストと共に十字架に()けられ、我らと神との中間にある邪魔物、またユダヤ人と異邦人との間の隔ての中籬(なかがき)は撤去された。かくしてキリストの贖いによりて異邦人も神と直接に交り、その救いに与ることを得るに至ったのである。
辞解
[證書] cheirographon は「手記」「手署」の意味で自ら書いた証文のことである。主として借金証書等を指す。律法を行なわぬものは詛わるべきことにつきて、ユダヤ人はこれに署名したとも言い得るけれども(申27:14−26)異邦人にはこのことがなかった。しかし異邦人も良心を与えられている以上、同様に律法に署名したと見ることができる(ロマ2:14、15)。
[(のり)] 律法の諸種の規定を指す。文法上問題の箇所であるが現行訳の通りにて可なり。
「我らを責むる」と「我らに逆ふ」と重複しているのは一層意味を強めるためで、前者は我らに反対している状態、後者は我らに逆う働きを示す。
[塗抹(ぬりけ)し] いわゆる帳消しにすること。
[中間より取り去り] 「撤去する」意味の熟語。十字架につけることによりて撤去したので、撤去してから十字架につけたのではない。なお「撤去す」は完了形の動詞で、現在もその存在を失ったことを示す。

2章15節 政治(まつりごと)權威(けんゐ)とを()ぎて(これ)公然(おほやけ)(しめ)し、十字架(じふじか)によりて凱旋(がいせん)(たま)へり。[引照]

口語訳そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。
塚本訳かくて(また)「権威」と「権力」とに武装を解かせて公然(これを)曝しものにし、キリストに於て彼らを捕虜として凱旋行列に引き廻し給うたのである。
前田訳神は支配と権威を丸腰にしてさらしものにし、キリストにあって凱旋なさって彼らをお従えでした。
新共同そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。
NIVAnd having disarmed the powers and authorities, he made a public spectacle of them, triumphing over them by the cross.
註解: キリストに従い彼の救いに与ることの最後の効果は神が天使に打ち勝ちこれをもキリストに従わしめ給うことであった。「政治と権威」はコロ1:16コロ2:10の場合と同じく天の使いである。彼らは善をも為すけれども悪をも為すものと考えられた。エペ2:2エペ6:12等はその場合の例である。本節もこの悪天使、少なくとも信者に対して悪しき影響を与うる場合を考えているのであって、神は彼らの「武装を解除し」て、彼らをしてもはや活動することを得ざらしめ、キリストによりて凱旋しつつ彼らを捕虜として大ピラに衆人の前に公示し、彼らの無力を知らしめ給うた。それ故にキリスト者が今さら律法に束縛されることの誤りであると同じく、天使礼拝を行うことも同様に誤りである。
辞解
本節は難解にして問題多き箇所である。「()ぐ」は捕虜の武装解除の場合に用う。本節にも軍隊用語多き故かく解すべきであろう(L2)。
[政治と権威] キリストの周囲に纏い付いている弱さまたは悪の力と解する説(L2)、またはこれを神の仲保者と見る説(E0)は採らない。
「十字架によりて」(L3、C1、M0)は「キリストによりて」と解する方が、9節以下の全体の中心思想と一致する(B1、L1、L2、Z0)。
[公然に] また「大胆に」の意味もあり、本節の場合は「大ピラに」の俗語が最も適当する。「示し」は公表すること。▲▲キリストの十字架によって罪を赦された者にとっては天のあらゆる悪霊は全く無力である。
要義1 [キリストのプレーローマ]キリストには智慧と知識の凡ての実が(かく)されているのみならず(3節)、さらにまた神の満足れる徳(プレーローマ)も体をなして彼に宿り(9節)、凡ての天使は彼の統御の下にある(10節)。それ故に律法、戒律、小学的規律等による諸徳はすでにその意義を失い、天使礼拝もまた全く意味なきものとなる。我らはキリストのプレーローマにより何らの欠ける処なき完全なる満足を有つことができる。
要義2 [キリストの救いの意義]9−15節においてキリストによる救いの諸相を見ることができる。すなわち彼自身の本性のプレーローマに在し給うが故に、彼を信ずる者は彼に在りて同じ神の本質をもって満たされることができ(10節)、そして彼(信者)は肉の体に割礼を受けてこれを脱ぎ去ることによりて罪より全く脱れることができ(11節)、またキリストのバプテスマを受けることによりてキリストと共に死し共に甦り彼と共に永遠に生き(12、13節)、そして律法の詛と束縛より解放(ときはな)たれてキリストにある自由を獲得し(14節)、空中の権を握る諸天使をして彼らの上に力を及ぼすことなからしめ給う。以上の諸点をパウロは他の書簡において類似のまたは異なりたる術語をもって論じている処であるが、ここではコロサイにおける偽教師の諸種の謬説を打破せんがために務めて彼らの思想に接近せる用語を用いて論じていることは注意すべきことである。要するにキリストの救いの完全さを明瞭確実に把握することが、偽教師のあらゆる謬説より自己を保護する最善の道である。▲聖書の福音にも特殊の用語があるが、他の異なった思想や信仰に対して説明する場合用語を注意することが必要である。

3-3-ロ この世の小学 2:16 - 2:19  

註解: 16、17節においては過度の形式主義と禁慾主義との誤りを正し、18節、19節において天使礼拝のごとき信仰の誤りを正している。

2章16節 ()れば(なんぢ)食物(くひもの)あるひは飮物(のみもの)につき、(まつり)あるいは月朔(ついたち)あるいは安息(あんそく)(にち)(こと)につきて、(たれ)にも(さば)かるな。[引照]

口語訳だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。
塚本訳(斯く証文に棒が引かれて私達は律法から全く自由となったの)だから、君達は(最早)食うことや、飲むことや、あるいは祭日、新月(の祭り)、安息日のことについて、人にかれこれ言われることはない。
前田訳それゆえ、あなた方は食物や飲み物、あるいは祭りや新月や安息日の問題でだれにも裁かれないようになさい。
新共同だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。
NIVTherefore do not let anyone judge you by what you eat or drink, or with regard to a religious festival, a New Moon celebration or a Sabbath day.
註解: モーセの律法においては食物は種類によりて禁止せられていた。飲み物すなわち飲酒につきては二三の特別の人と場合とにおいて禁止の規定または制限があるだけで一般には禁止されていなかった。然るにコロサイにおけるユダヤ教的傾向の強い教師、またはエツセネ派的傾向を受けている人々はこれら飲食物に関する規則を一層厳格にすることを主張したのであろう。(▲▲今日でもキリスト教の一派に、飲食と安息日について旧約の律法を守るべきであると主張するものがある。)これにつきてパウロは「何人も汝らを(さば)いてはならない」と教えている。なお詳細はロマ14:1以下および註。ヘブ9:10参照。またユダヤには年、月、週による祭日休日があった。これらにつきても、キリスト者となった以上はこれを守る必要なしとする者と、一層厳格にこれを守るべしと主張するものとがあった。偽教師は多分後者であろう。人間の目には一般に禁慾的なることや、厳格なる戒律主義等が価値あるように思われがちなものである。これにつきてもパウロは(さば)くべからずと教えている。これらの日に関してはガラ4:10参照。
辞解
[食物、飲物] 精確に訳せば「食うこと」「飲むこと」となるが、意味は結局差別がない。
[祭、月朔(ついたち)、安息日] 「祭」は年に一回祝われる各種の祭、「月朔(ついたち)」は月に一回、「安息日」は週に一度の休日である。
[誰にも(さば)かるな] 「誰も汝らを(さば)かざらんことを」である。

2章17節 (これ)()はみな(きた)らんとする(もの)(かげ)にして、()本體(ほんたい)はキリストに()けり。[引照]

口語訳これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。
塚本訳これらは(皆)来るべきものの影で、その本体はキリストである。(従って私達は本体を有っているのであるから、今更何で影の必要があろう!
前田訳これらは来たるべきものの影で、本体はキリストのものです。
新共同これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。
NIVThese are a shadow of the things that were to come; the reality, however, is found in Christ.
註解: (▲「キリストに属けり」は直訳「キリストの体である」。)影は実体に先行し、これに類似し、これを預示しているけれども、実物が顕われた以上は影は無意味であって用をなさない。おおよそモーセの律法は飲食に関すると季日に関するとまたは祭祀に関するとを論ぜず凡てキリストを預表する影であった。今やキリスト来たってその影の意味が明らかにせられその用が無くなった以上、なおもその影に固執するの誤謬を犯すことは愚かなことである。例えば燔祭罪祭その他の祭事はイエスの犠牲の死を預想し、過越はキリストの贖いを預想し、種なしパンは信者の団体を預想し、安息日は信者の安息を預想し、荒野の旅は信者の生涯を預想するがごときそれである。

2章18節 殊更(ことさら)謙遜(けんそん)をよそほひ御使(みつかひ)(はい)する(もの)に、(なんぢ)らの褒美(はうび)(うば)はるな。[引照]

口語訳あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、
塚本訳君達は謙遜と天使礼拝とを嬉しがっている者(など)から決して貶さられることはない。こんな人は自分が(異教の)奥義に入った時(親しく)観た(と思っている掴まえ所もない)ものを、肉の感念から訳もなく(ただ)威張っている(だけ)の(こと)で、
前田訳偽りの謙遜と天使崇拝にふける人がだれもあなた方を失脚させませんように。その人は見た幻をてらい、肉の思いによってむなしく誇っていて、
新共同偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、
NIVDo not let anyone who delights in false humility and the worship of angels disqualify you for the prize. Such a person goes into great detail about what he has seen, and his unspiritual mind puffs him up with idle notions.
註解: 私訳「謙遜と天使礼拝に耽る者に汝らの褒美を奪はるな」。コロサイの偽教師は自ら謙遜をもって任じていた。すなわち人間は神に近づくことを得ざる者ゆえ天使の仲保を求めて天使を礼拝しなければならぬと考えた。彼らはかくしてキリストを除外してしまうのであって、この謙遜は真の謙遜にあらず、かえって神の愛を蹂躙(じゅうりん)する不信の行為である。汝が当然得べき天国の褒美をかかる者の欺きのために失い、彼らに奪われてはならぬ。
辞解
[殊更に・・・・・よそほひ] 原語 thelôn en の訳としては適当ではない(L3)。「耽る」または「を喜ぶ」と訳すべきである(L3、L2)。▲▲23節の「みづから定めたる礼拝」は原語で ethelothrêskeia で本節の「殊更に謙遜を装い」 thelon en thrêskeia(i) と同じ。口語訳の「ひとりよがりの」や、俗に言う「自分免許の・・・・・」などに相当する。
[奪ふ] katabrabeuô は当然褒美を得るべき者の褒美を他者が妨害または反対して奪うこと。

かかる(もの)()(ところ)のものに(もとづ)き、

註解: 非常に難解の一句。私訳「かれらはその観し所のものを探究し」とでも訳すべきであるかもしれない(L2)。「探究し」 embateuô は「踏入る」という意味あり神託を受けんがために聖所に立入る場合などに用いる語である。偽教師らは、その直観をもって人の見ざるものを見ることができると考え、その観しものの何たるかを探究しているというごとき意味であろう。なおこの部分文字の誤写ありと推定しこれを改訂して「空中をさまよふ」と訳し、空しき空想に耽る意味に解せんとする説もある(L3、Z0)けれども勿論確定的ではない。

(にく)(おもひ)(したが)ひて(いたづ)らに(ほこ)り、

註解: 偽教師らはその念(nous 心)をもって特別の真理を悟り得るがごとくに思い、これを誇っていた。パウロはこれを「肉の心」であるとして「霊」と峻別(しゅんべつ)しており、「肉の念は死なり霊の念は生命なり平安なり」(ロマ8:6)故に彼らの誇っているその肉の心は結局何らの価値なきものであり、その誇りは虚しき誇りであることを喝破している。偽教師らの誤謬の中核を打砕いている。

2章19節 (かしら)()くことをせざるなり。[引照]

口語訳キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。
塚本訳(キリストなる)頭にくっついていない。体(なる教会)全体はこの頭から靭帯と腱とによって支えられ、結び合わされ、(かくして)神に育てられて成長するのである。
前田訳頭(キリスト)についていません。頭によってこそ全身が関節と筋で支えられ結ばれて、神による成長をとげるのです。
新共同頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。
NIVHe has lost connection with the Head, from whom the whole body, supported and held together by its ligaments and sinews, grows as God causes it to grow.
註解: 私訳「首を把握せざるなり」もっとも重要なるは首たるキリストを把握することである。単に自己の肉観に沈潜することも、肉の念につき空しき誇りをもつこともそれは何の役にもたたない。

全體(ぜんたい)は、この(かしら)によりて節々(ふしぶし)維々(すぢすぢ)(たす)けられ、(あひ)(つらな)り、

註解: エペ4:16参照。私訳「全体はこの首を本として節々維々(ふしぶしすぢすぢ)によりて供給を受けかつ結合せられ」。人体の節々(接ぎ目)は例えば頭と体、胴と脚のごとく各部が接ぎ合わされている部分で、これによりて各部に滋養やその他の必要の命令が伝達供給せられるのであり、また維々(すぢすぢ)は靭帯でこれによりて各部は結合せられて一体となる。この場合パウロはキリストと教会との関係を考えたのではなく、キリストと宇宙、およびその中の天使を始めすべてのものを眼中に置き、キリストがその万物の中心でありかつ本源であり、そのキリストより出でて万物が必要の供給を受け、かつ一体とせられ、それには種々の物の接ぎ目がありまたこれを結び付ける靭帯があることを言ったのである。そしてこれが教会に最もよく適合することは勿論である。
辞解
[節々] エペ4:16辞解参照。
[助けられ] epichorêgeô は供給を受くること。
[(あひ)(つらな)り] symbibazô 一つに固めること。

(かみ)(そだて)にて生長(せいちゃう)するなり。

註解: 全体は一体となりキリストと連なる事により彼よりすべての供給を受け、彼にありて一体となりて成長を発育する。これこそ「神の成育」と称せらるべきものである。
 
3-3-ハ この世の小学の空虚さ 2:20 - 2:23

2章20節 (なんぢ)()もしキリストと(とも)()にて()()小學(せうがく)(はな)れしならば、(なに)ぞなほ()()ける(もの)のごとく(ひと)誡命(いましめ)(をしへ)とに(したが)ひて[引照]

口語訳もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、
塚本訳もし君達が、(今言ったように洗礼によって)キリストと共に死に、此世の元素の霊(の支配)から離れたのなら、何故(なお)この世に生きている者のように、
前田訳もしあなた方がキリストとともに世の霊力から離れて死んだのならば、なぜ世に生きるもののように規制されますか−−
新共同あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、
NIVSince you died with Christ to the basic principles of this world, why, as though you still belonged to it, do you submit to its rules:

2章21節 (さは)るな、(あじは)ふな、()るな』と()(のり)(した)()るか。[引照]

口語訳「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。
塚本訳「手をつけるな、味わうな、触るな」という規則に縛られるのか。
前田訳さわるな、味わうな、手にするな、などと。
新共同「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。
NIV"Do not handle! Do not taste! Do not touch!"?
註解: キリスト者は(従ってコロサイの信徒も)キリストと共に死んだ者である。従って罪に対し(ロマ6:2)、自己に対し(Uコリ5:14、15)、律法に対し(ロマ7:6ガラ2:19)、世に対し(コロ3:3)死んだのである。これと同様この世の小学(8節辞解参照)に対しても死んでいるのである。然るを何故なおこの世に生きている人、すなわち信仰なく回心せざる人と同様に、人間の考え出した誡命や教えに迷わされて種々の些細な形式的な規定に支配されるのであるか、と言いてパウロは彼らを詰問している。この規定は「(さわ)るな、味ふな、()るな」というごとき消極的規定であって、おそらくモーセの律法のみならずエツセネ派の潔癖や禁慾的傾向より生じ来れる諸種の規定で、不潔なるものに触れまたはこれを掴むことを禁じまたは酒類その他肉類等を味うことを禁じたのであろう。この種の禁慾的態度が往々にして信仰上の重要なる問題のごとくに考えられることは、何時の時代にも有りがちなことである。
辞解
[小学] 口語訳「霊力」 コロ2:8辞解▲参照。
[世に生ける者] キリスト者はこの世に生きる者ではなく天国の民である。
[(さは)る] haptô は掴むこと。
[()る] thinganô は前者よりも軽くさわること。
この「(さは)る」「()る」は上記註のごとく飲食物や祭事に関することならん。性的行為と解するのはこの場合不適当である。
[(のり)の下にある] dogmatizômaiは、また「(のり)の下に置かれるか」と受動態にも訳することを得。この方は意味が一層強くなる。
[人の] キリスト者は人間の工夫せる規定に束縛せられてはならない。キリストの律法がその規定である。

2章22節 (これ)()はみな(もち)ふれば()くる(もの)なり)[引照]

口語訳これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。
塚本訳これら(禁断の物)は皆使えば消え失せるように出来ていて、“人間の訓戒と教え”によるものである(から、少しの心配もない)。
前田訳これらはすべて使えばなくなるもので、人間の規則や教えによるものではありませんか。
新共同これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。
NIVThese are all destined to perish with use, because they are based on human commands and teachings.
註解: 消費によりて壊滅すること、すなわち「(さわ)るな、味ふな、觸るな」と言われている飲食物等は、消費してしまえば(かわや)に落ちるだけで(マコ7:19)、何ら特別に問題とするほどのこともないのである。然るにかくもこれを重大問題としていることは、全く小学の初歩の思想に過ぎない。これに惑わされてはならない。
辞解
[人の誡命と教とに(したが)ひて] 日本訳では20節に入り、原文は本節の最後に来る。イザ29:13マタ15:9−20。マコ7:7マコ7:14−19参照。

2章23節 これら[の誡命(いましめ)]は、みづから(さだ)めたる禮拜(れいはい)謙遜(けんそん)()(をし)まぬ(こと)とによりて知慧(ちゑ)あるごとく()ゆれど、(じつ)(にく)(よく)放縱(ほしいまま)(ふせ)(ちから)なし。[引照]

口語訳これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。
塚本訳そして(また)これら(の訓戒や教え)はお手製礼拝と(いわゆる)謙遜と禁欲とで(如何にも)知恵があるように思われているが、(実は)ただ肉の(感情の)満足に役立つだけである。
前田訳これらは利己的礼拝と偽りの謙遜と体の苦行とのゆえに、知恵のあることのように見えても、肉欲の満足を押える力はありません。
新共同これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。
NIVSuch regulations indeed have an appearance of wisdom, with their self-imposed worship, their false humility and their harsh treatment of the body, but they lack any value in restraining sensual indulgence.
註解: 難解にして異説の多い一説であるが現行訳はおそらくもっとも適当であろう。すなわちこれらの偽教師の主張する多くの禁止的誡命は、智慧ある賢明なる誡命であるとの風評を得ているけれども、さらに一見肉慾を禁止してその身体を酷使し、また天使を礼拝するなどのことをなして自ら謙遜を装い、きわめて信仰的であるかのごとくに見えるのであるけれども、実は肉の放縦に対して何らの価値なきことであって、彼らは「外は美しく見ゆれども内は死人の骨と様々な穢れとにて満つ」る類である(マタ23:27)。
辞解
[自ら定めたる禮拜] ethelothrêskeia は「エセ礼拝」真の礼拝にあらず、敬虔らしく装う礼拝なり。
[謙遜] 勿論真の謙遜にあらず「エセ謙遜」なり。
[惜まぬ事] 酷使し鍛錬すること。
[あるごとく見ゆ] 「あるとの信用、または風評を得ている」こと。
[實は肉慾の放縱を防ぐ力なし] 難解にして種々の解あり。(1)「肉慾を適当に充すことを尊重せず」(2)「何らの価値なし、唯肉慾を充すのみ」何れも原文または原文の解釈上無理の点あり。
要義 [コロサイの偽教師と我ら]2:16−23に殊に明瞭に示されるごとく当時コロサイ地方においては、飲食物、季日、祭日等の厳守、天使礼拝、潔斎などの事柄を特に重視する教師あり、コロサイの教会内にも入り来たってキリスト教徒に少なからざる影響を与えた。これらの教理の中にはグノシス的なるもの、エツセネ派の影響を受けしもの、ユダヤ教的なるものが雑然として混合しており、当時の東洋(すなわち西アジヤ)に特有の密儀的気分がこれに加わったものであった。
 これらが如何にしてキリスト教に影響を与えたかは聖書には説明されていないけれども、おそらく第一にキリスト教そのものにこれらが欠如していると感じたることと、第二にこれらのものそれ自身に何らかの宗教的価値あるかのごとくに思われやすいからである。第一の点はキリストの価値に関する無理解より生じているのであってパウロは9−15節に極力キリストの完全無欠なる所以を強調して、キリスト者はかかる規律(ドグマタ)に支配される必要なきことを教え、これにより第二の点をも自然に消滅させることができるようにしたのである。
 しかしながら人間には本来このような禁慾的克己主義や、規律厳守の厳格主義や、物質的清浄を旨とする潔斎主義や、対象如何にかかわらず敬虔なる態度を持する敬虔主義を好みまたは尊敬する傾向がある。この傾向そのものは決して軽蔑すべきものではなく最も貴重なものであるけれども、これらの事柄はキリストによって完成されるまでの小学であって、キリストによる克己、キリストによる厳格、キリストによる潔め、キリストに対する礼拝が完成する場合、これらの諸小学は自ら消滅するはずのものである。今日といえどもキリスト者が禁酒禁煙や、日曜日厳守や、教会礼拝などに過度の重点を置くに至ることはこれらの小学への逆戻りであって、キリストに在る真の自由を破壊するものである。この種の偽教師の存在は決して昔の時代やコロサイとその付近の場所に限ったわけではない。

コロサイ書第3章

分類
4 実践の部 3:1 - 4:6
4-1 上にあるものを求めよ 3:1 - 3:4

3章1節 (されば)(なんぢ)()もしキリストと(とも)(よみが)へらせられしならば、(うへ)にあるものを(もと)めよ、キリスト彼處(かしこ)()りて(かみ)(みぎ)()(たま)ふなり。[引照]

口語訳このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
塚本訳だからもし君達が(洗礼によって)キリストと共に(死に、共に)甦ったのであるならば、キリストいまして“神の右に坐し給う”(天)上のものを求めよ。
前田訳それで、あなた方はキリストとともによみがえらされた以上、上のものをお求めなさい。そこにはキリストが神の右におすわりです。
新共同さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
NIVSince, then, you have been raised with Christ, set your hearts on things above, where Christ is seated at the right hand of God.
註解: 「もし・・・・・ならば」の原文は不確実な仮定ではなく、確定せる事実である故「・・・・・せる以上は」と訳すべし。コロ2:20にはキリストと共に死ねる方面のことを示し、本節には彼と共に甦えり、彼と共に生きる方面のことを示す。共にコロ2:12の思想の展開である。その節註参照。すなわちキリスト者は信仰によりバプテスマを受けし時、十字架のキリストと共に死にまた彼の復活と共に新生命に復活したものである。(▲ロマ6:3−14参照。)それ故にその死により肉とこの世とは彼と共に十字架につけられて滅びたのである(ガラ5:24ガラ6:14)。そしてこの新生命は、天につける生命である故、もはや地につけるもの、肉の眼に映ずる正義、聖潔(コロ2:16−23)等を求むべきでなく、「上のもの」すなわち神の国と神の義(マタ6:33)およびこれに伴って与えられる天における報償(マタ5:12等)、天の国籍(ピリ3:20)、天の嗣業(コロ3:24Tペテ1:4)、天の栄光(Tテサ2:12)を求むべきである。そしてキリストはそこに神の右に坐し給う。キリストと共に生きる者は当然彼の居給うところに己もいるべきである。
辞解
[神の右] 神に()ぐ最高の地位。摂政のごとく神の実権を把握す(ロマ8:34マコ14:62ヘブ1:3註参照)。

3章2節 (なんぢ)(うへ)にあるものを(おも)ひ、()()るものを(おも)ふな、[引照]

口語訳あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
塚本訳(常にただ天)上のものを思え。地上のものに気を取られるな。
前田訳地上のものをでなくて上のものをお考えなさい。
新共同上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
NIVSet your minds on things above, not on earthly things.
註解: 上にあるものを「求める」だけでは足らず、さらにこれを「(おも)ふ」 phroneô ことが必要である。「(おも)ふ」とはこれを念頭に置き、その方に心が向けられていることである(ロマ8:5マタ16:23)。この場合天の使いも「地にあるもの」と見るべきである。「上」または「天」といい、「下」または「地」というのは、空間または場所的に見たる区別にあらず、霊的の区別なり、故に我らは「地上」にありて「天上」の生活を送ることができる。キリストと共に甦えれる者はかくして上にあるもののみを求むべきである。コロサイの偽教師らの求むる処のものは、すべて地にあるものである。

3章3節 (なんぢ)らは()にたる(もの)にして、()生命(いのち)はキリストとともに(かみ)(うち)(かく)()ればなり。[引照]

口語訳あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
塚本訳君達は(既にこの世に)死んで、その生命はキリストと共に神の中に隠されているのだから。
前田訳あなた方は死んだもので、あなた方のいのちはキリストとともに神のうちに隠されています。
新共同あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
NIVFor you died, and your life is now hidden with Christ in God.
註解: 我らの旧き生命はすでにキリストと共に十字架に()けられて死んだものである(ガラ2:20Uコリ5:14)。しかし我らはキリストと共に新たなる生命に甦った。ただしこの新生命は未だその本来の姿においては顕われていない(Tヨハ3:2)。今は唯このすでに死にたる者なる旧き肉の体の幕屋に宿っているに過ぎず(Uコリ5:2)、生命の実体はキリストと共に神の中に隠れ、そこに我らの新生命そのものが存在し、神の守護の下に時至るまで保たれているのである。それ故に世は新生につきては何も知らず(ヨハ14:17−19。Tコリ2:8Tコリ2:14)、新生命はまたこの世のことにつき何をも念(おも)ってはならない。

3章4節 (われ)らの生命(いのち)なるキリストの(あらは)(たま)ふとき、(なんぢ)らも(これ)とともに榮光(えいくわう)のうちに(あらは)れん。[引照]

口語訳わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。
塚本訳(しかし今でこそ隠されているが、)私達の生命であるキリストが顯れ給う時には、君達もまた彼と共に栄光の裡に顯れるであろう。
前田訳われらのいのちにいますキリストがお現われのときには、あなた方も彼とともに栄光のうちに現われるでしょう。
新共同あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
NIVWhen Christ, who is your life, appears, then you also will appear with him in glory.
註解: 我らの生命がキリストと共に神のうちに隠れているのは、永遠に隠れんがためではなく、キリストの再臨の時(マタ24:3Tテサ2:19Tテサ3:13Uペテ1:16Uペテ3:4Tヨハ2:28)至れば、キリストにありて新たに生れしその新生命がキリストと偕に神の中に隠れていた者もまた、キリストと共に新天新地の栄光の中に現れ、而してキリストの栄光に等しき栄光を持つに至るのである。コロサイの偽教師らも、その奥義は隠されていることを主張しているけれども、その我らの生命たるキリストの奥義に比すべくもない。
要義1 [我らの生命なるキリスト]パウロの信仰においては一方キリストの生命との神秘的一致が強く表われていた。而してこれを(a)我らが天にあるキリストと一体であること(3:3ロマ6:3−5。ガラ2:20エペ2:5)を意味する場合と(b)キリストが地上にある我らの中に宿り給う場合(無数の実例あり)とに分つことができるけれども、パウロに在りてはこの二者は二つにして一つであり、唯その観点を異にしているにすぎなかった。而して他方キリストの再臨を待ち望み、その時に完全にキリストと共になること(Tテサ4:17)を終末的に望んでいた。共に在る者が(神秘的)さらに共ならんと欲すること(終末的)は一見矛盾のごとくであるけれども、本質において同一なる生命が、その現れ方において異なるにすぎない。すなわちキリストにある新生命は、現世においては神秘的一致の生命であり、来るべき世においては顕れ出づべき生命である(ロマ8:17)。
要義2 [上に在るものと地にあるもの]キリスト者は唯上にあるものを求むることによりて、世の小学と虚しき哲学より解放(ときはな)たれ、禁慾主義、厳格主義、潔斎主義、敬虔主義より自由にされる。しかしながらこれがために快楽主義、放縦主義に陥りまたは汚穢と不敬虔に堕落することはない。何となれば彼らは霊をもって肉の念を殺し、人間の自然の慾望をして聖霊の欲する処に(したが)わしめ、また戒律の厳守ではなくキリストの愛の律法を守るようになり、心はキリストによりて潔められ、キリストを通じて神を拝する真の敬虔を得るからである。世の小学はその求むる処を得ずしてかえって反対の結果を生じ、キリストの福音はその棄つる処を失わずして世の小学の求めて到達せざりし処のものを得る。

4-2 新しき人とその諸徳 3:5 - 3:17
4-2-イ 消極的諸徳 3:5 - 3:11  

3章5節 されば()にある肢體(したい)、すなはち淫行(いんかう)汚穢(けがれ)(じゃう)(よく)(あく)(よく)、また慳貪(むさぼり)(ころ)せ、慳貪(むさぼり)偶像(ぐうざう)崇拜(すうはい)なり。[引照]

口語訳だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
塚本訳だから、地上のものである(体の)肢の様々の慾、すなわち淫行、汚穢、情慾、邪慾、また偶像礼拝なる貪慾を(悉く)殺せ。
前田訳それで、地上の肢体、すなわち不身持ち、汚れ、欲情、悪欲、貧欲をお殺しなさい。貧欲は偶像崇拝です。
新共同だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
NIVPut to death, therefore, whatever belongs to your earthly nature: sexual immorality, impurity, lust, evil desires and greed, which is idolatry.
註解: 我らはすでにキリストと共に死んだものであるけれども、回心の後といえども我らの肢体に宿っている肉の力は未だ生きている。これを殺してしまわないならば、我らの新生命は発育することができずにかえって殺されてしまう(ロマ8:13)。パウロは「肉」なる語の中に神の御旨に反する原理を含めていると同様、「肢体」なる語も単に四肢五体を指すのではなく、その中に働く肉の原理、すなわち神に反して働く念を指す。ゆえに肢体を殺すとは手足を切断したり、去勢を行ったりすることではなく、また慾望そのものを殺す禁慾主義でもない。肢体を通じて現われる神に反する働きを殺すことである。それ故にパウロは肢体の同格名詞のごとき関係において淫行以下の諸悪を列挙している。これらの中、最初の三つは性慾に関するものと解する説もあるけれども、淫行以外は性慾に関するもののみならず他のあらゆる汚穢(心の不純さ)および激情(忿怒、嫉妬のごとき)をも含むと解す。慳貪(むさぼり)のみを他の四者と対立せしめているのは、淫行、汚穢のごとき性的不道徳と並立して人間の心の最も普遍的なる慾望は慳貪(むさぼり)であるからである。淫慾と貪慾とはある意味において人間の凡ての悪の根源であるとも言い得るのである。殊に慳貪(むさぼり)は神に依り頼まずして金銭や物質に依り頼む心であるから、神を神とせず金銀を神とする偶像崇拝である。
辞解
「淫行、汚穢、情慾」等の文字につきてはマコ7:21、22。ロマ1:24ロマ1:26、27。Tコリ6:9、10、Tコリ6:18参照。

3章6節 (かみ)(いかり)は、これらの(こと)によりて[()從順(じゅうじゅん)()らに](きた)るなり。[引照]

口語訳これらのことのために、神の怒りが下るのである。
塚本訳神の怒りはこれらのことのために臨むのである。
前田訳これらのために神の怒りが臨むのです。
新共同これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。
NIVBecause of these, the wrath of God is coming.
註解: 「不従順の子らに」はエペ5:6よりの混入として良き写本に基き除かるべきことを主張する学者が多い。5節のごとき悪徳の上には最後の審判の日において神の怒りが必ず来るのである。キリスト者たると然らざるとにおいて異なる処がない。否キリスト者において神の怒りは一層激しい。

3章7節 (なんぢ)らもかかる(ひと)(なか)()(おく)りし(とき)は、これらの()しき(こと)(あゆ)めり。[引照]

口語訳あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。
塚本訳君達もかつて(他の異教人と同様)これらの(罪の)中に生きていた時には、その中を歩いたのであった。
前田訳かつてあなた方がこれらのうちに生活なさったときは、これらを行なってお歩みでした。
新共同あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。
NIVYou used to walk in these ways, in the life you once lived.
註解: この訳は前節に「不従順の子ら」を挿入せる場合の訳である。然らざる場合は「汝らもかつてこれらの〔諸悪の〕中に生きし時は、その〔諸悪の〕中に歩みしなり」と訳す。悪の中に生きるとはそれを生活の原理とすること、悪の中に歩むとはその原理に従って行動すること(ガラ5:25)を意味す。
辞解
[日を送る] 原語「生きる」
「かかる人」も「悪しき事」も何れも代名詞で男性とも中性とも取り得る形故、自然問題を生ず。なお「不従順の子らに」を挿入する場合は現行訳のごとくに訳することが最も良く意味が通ずるけれども、文法的にやや困難なる点があるために多くの学者は、「汝らもこれらの悪しきことの中に生きる時はこれらの人々の中に歩めり(すなわちこれと行動を共にせりの意)」(M0)と訳す。ただし「人々の中に歩む」なる用例は聖書になし。

3章8節 されど(いま)は((なんじ)らも(また))(すべ)(これ)()のこと[(およ)び](いかり)憤恚(いきどほり)惡意(あくい)[を()て]、(そしり)[と]()づべき(ことば)[と]を(なんぢ)らの(くち)より()てよ。[引照]

口語訳しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。
塚本訳しかし今や君達もまた(キリストと共に死にまた甦ったのであるから、)凡てのものを棄てよ──(いま言った様々の慾はもちろん、なお)怒り、憤怒、悪意を、また君達の口から誹謗と悪口を!
前田訳しかし今は怒りも憤りも悪意も、あなた方の口から出るそしりも毒舌も、すべてお捨てなさい。
新共同今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
NIVBut now you must rid yourselves of all such things as these: anger, rage, malice, slander, and filthy language from your lips.
註解: 「凡て此等のこと及び」は原語「及び」を欠く。パウロはかく言いて5節の諸悪を脳中に描いたのであったと思われるのであるが、なおそれらのみにては足らないことを感じて、「怒云々」を附加したのであろう。今はキリスト者となりてこの世に対して死ねる以上、これらの諸悪を棄ててしまわなければならない。
辞解
「怒、憤恚(いきどおり)、惡意、(そしり)」等の語の意義および差別につきてはエペ4:31辞解参照。
[恥づべき言] 主として猥褻なる談義につき用いられているけれども、ここではそれに限らず広義に解すべきである。無礼な言、軽薄な言、乱暴な言等も含むと見て差支えない。

3章9節 (たがひ)虚言(いつはり)をいふな、(なんぢ)らは(すで)(ふる)(ひと)とその行爲(おこなひ)とを()ぎて、[引照]

口語訳互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
塚本訳互いに嘘をつくな。行為もろとも旧い人間を脱ぎ棄て、
前田訳互いに偽らないでください。あなた方は古い人をその行ないとともに脱ぎ捨て、
新共同互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
NIVDo not lie to each other, since you have taken off your old self with its practices

3章10節 (あたら)しき(ひと)()たればなり。[引照]

口語訳造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
塚本訳新しい人間を着よ。この新しい人間はいよいよ新しくされて、彼を創造り給うた御方の“像に肖って”(遂に完全なる)知識に達するのである。
前田訳新しい人を着たのです。この人はその造り主にかたどって彼を知るようにと、つねに新しくされています。
新共同造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
NIVand have put on the new self, which is being renewed in knowledge in the image of its Creator.
註解: (▲「新しき人を着たればなり」であって、「着ん為なり」でないことに注意すべし。ここに道徳と福音の差別がある。)前節までの諸悪にさらに虚言を加えている。「旧き人」は回心してキリストを信ずるに至る前の人で、その人の中に、またその行為の中に多くの虚偽が有った。旧き人は神を知らず、従って人を欺くことができても神を欺くことができないことを知らない。それ故に彼らは常に互に虚言を言う。キリスト者はこの旧き人を旧き衣のごとくに脱ぎ棄て、そしてキリストを着た者である故(ロマ13:14エペ4:24)、当然新しき人のごとくに歩み、虚言を避くべきである。
辞解
[脱ぎて・・・・・著たればなり] 「脱げ而して・・・・・を著よ」と訳すべしとする節あり(L3)、1節および5節の関係より見てこの説を採らない。
[新しき人] この場合 neos を用いている。性質の新しきよりむしろ年代の新しさを示す。新鮮溌剌たる人のこと、ただし性質の新しさは次に来る「いよいよ新たになり」によりて補足されている。

[この(あたら)しき(ひと)は、]これを(つく)(たま)ひしものの(かたち)(したが)ひ、いよいよ(あらた)になりて知識(ちしき)(いた)るなり。

註解: 新しき人の性質を説明する同格句である。すなわちこの新しき人はその性質も従来存在しなかった新しきものに新たにせられて発育して行く処の人であって決して固定せる死物ではない。そしてその発育更新の原則は益々神の像に似て来ることであり、その目的は「知識に至る」ことである。すなわち上に在るもの、神の御意に関する知識である。
辞解
[これを造り給ひしもの] 「キリスト」と解する説あれども神を見るを可とす。ただしキリストも神の像でるある故結局キリスト者はキリストの像に似るものなること勿論である。
[いよいよ新になる] anakainoômai日々新たになることを意味す。Uコリ4:16

3章11節 かくてギリシヤ(びと)とユダヤ(びと)割禮(かつれい)()割禮(かつれい)、あるひは夷狄(えびす)、スクテヤ(びと)奴隷(どれい)自主(じしゅ)(わかれ)ある(こと)なし、[引照]

口語訳そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。
塚本訳そして其処──(この新しい人間の住む世界)──には(最早)ギリシヤ人とユダヤ人、割礼(の者)と無割礼(の者、また)野蛮人、スキテン人、奴隷、自由人(の別)がなく、ただ凡てがキリスト、凡てにキリストである。
前田訳そこにはギリシア人もユダヤ人もなく、割礼も無割礼も、異人もスキュテア人も、奴隷も自由人もなく、キリストがすべてであり、すべてのうちにいますのです。
新共同そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
NIVHere there is no Greek or Jew, circumcised or uncircumcised, barbarian, Scythian, slave or free, but Christ is all, and is in all.
註解: いやしくもキリストに在りて新たにせられし者は、旧き人と全く異なっており、何れもみなキリストに似たものとなっている以上、ギリシャ人とユダヤ人のごとき人種的差別、割礼と無割礼のごとき宗教的区別、またギリシャ人ユダヤ人のごとき文明人と夷狄(えびす)、スクテヤ人のごとき野蛮人との区別、主人と奴隷のごとき身分の差別等は、新しき人たる点においては全く存在しない。
辞解
[夷狄(えびす)] ロマ1:14辞解参照。ギリシャ、ローマ人より見ればユダヤ人も夷狄(えびす)の中に数えられていた。
[スクテヤ人] 北方の獰猛(どうもう)な野蛮人、パレスチナに侵入したこともある。

それキリストは(よろづ)(もの)なり、(よろづ)のものの(うち)にあり。

註解: パウロの平等観の基礎をなしている思想である。キリストが萬物でありまた萬物の中にある以上、すべての人々の中にもキリスト在し給う、その結果、人間的に見たる諸種の差別は消滅する。勿論彼を信じない人々の中にキリストがあるというのではないが、パウロはここにキリスト絶対観を吐露して、パウロの祈念するごときキリストの支配し給う神の国がやがて実現する(あかつき)を想像したのである。キリストに叛ける人々および萬物は、この場合のパウロの眼中には無かった。

4-2-ロ 積極的諸徳 3:12 - 3:17  

註解: 5−11節は主として旧き人を脱ぎ棄てる意味においてキリスト者道徳の消極的方面を示し、12−17節は反対に新しき人としてのその積極的方面を示す。

3章12節 この(ゆゑ)(なんぢ)らは(かみ)選民(せんみん)にして(せい)なる(もの)また(あい)される(もの)なれば、慈悲(じひ)(こころ)仁慈(なさけ)謙遜(けんそん)柔和(にうわ)寛容(くわんよう)()よ。[引照]

口語訳だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。
塚本訳(斯く君達は新しい人間に創造られたの)だから、神に選ばれた者、聖い者、また(神に)愛される者として、心からなる同情、親切、謙遜、柔和、寛容を着よ。
前田訳それで、神に選ばれ、愛される聖徒らしく装いなさい。あわれみの心、親切、謙遜、柔和、寛容がそれです。
新共同あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
NIVTherefore, as God's chosen people, holy and dearly loved, clothe yourselves with compassion, kindness, humility, gentleness and patience.
註解: 「この故に」は、キリストが萬の物にして萬の物の中にあり、我らの生命の完全充足であることの原理を知った以上はの意。我らこのキリストに属することにより新しき人たることの自覚がいよいよ明瞭となる。そしてこの新しき人たるキリスト者は神が特に世の創めの前より選び給える者であり、またこれを潔めて聖別し、特にこれを愛し給う処の者である。かかる者であることの自覚だけでも、キリスト者をして他人に対して慈悲、仁慈(なさけ)、その他の諸徳を持たせるに充分であるのに殊にこれを着よと命ずることによりて、パウロは彼らをして自己の新生命に相応しき生活をさせようとすると同時に、彼らの信仰の真偽を反省させているのである。
辞解
[慈悲の心] splanchna oiktirmou なさけ深きこと(ピリ1:8)。
[仁慈(なさけ)] chrêstotês は親切さ。キリスト者は苦しむ者、悩む者、弱き者、圧迫される者、(ひく)き者に対してこの心を持つべきである。
[謙遜] 自ら高しとする者は神の前に(ひく)しとされる。
[柔和] 乱暴粗野無恥厚顔の反対で、殊に弱き人々に対する場合に必要なる徳である。
[寛容] makrothumia コロ1:11辞解参照。
[耐え] makrothumeô 自己に敵対しまたは害を加えまたは侮辱する者に対して寛容大度を示すこと。

3章13節 また(たがひ)(しの)びあひ、()(ひと)()むべき(こと)あらば(たがひ)(ゆる)せ、(しゅ)(なんぢ)らを(ゆる)(たま)へる(ごと)(なんぢ)らも(しか)すべし。[引照]

口語訳互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。
塚本訳互いに我慢して、たとい誰かに対して不平があっても、互いに赦し合え。主が君達を赦し給うたように、君達も赦せ。
前田訳互いに忍び、だれかに苦情があればゆるしあいなさい。主があなた方をおゆるしのようにあなた方もそうなさい。
新共同互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
NIVBear with each other and forgive whatever grievances you may have against one another. Forgive as the Lord forgave you.
註解: 前節の柔和と寛容とをさらに強めたものは忍耐と宥恕(ゆうじょ)とである。「互に忍び合ふ」ことはキリスト者の共同生活の要諦である。同様に互に(ゆる)し合うこともまた必要である。キリスト者の生活といえども、そのまま神の国の生活ではない。肉に伴える多くの欠点を具備している。それ故に互に忍び合い(ゆる)し合うことが必要である。かくして始めてそこに不完全さを(おお)うて余りある美しき社会を造り出すことができる。そしてこの徳を実行することはなかなか容易なことではないが、キリストが我らのごときものをも(ゆる)し給えることを思うならば、如何なる場合でも(ゆる)し得ないことはないはずである(エペ4:32)。
辞解
「互に忍び」の「互に」と「互いに(ゆる)せ」の「互に」とは異なる語で前者は「互に忍べ」後者は「みなで(ゆる)し合え」という意味。
[忍ぶ] anechomaiは相手に対して確固不動の態勢を取ること、如何なることがあってもそのために自己の態度を乱さぬこと、コロ1:11の辞解 hupomenô 参照。
[(ゆる)す] charizomai なさけ深き態度を取ること。
[責むべき事] 文句を言うべき事の意、コロ1:22の「責むべき所なく」とは別の語。

3章14節 (すべ)(これ)()のものの(うへ)(あい)を[(くは)へよ、](あい)(とく)(まった)うする(おび)なり。[引照]

口語訳これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。
塚本訳しかしこれら一切のものに愛を加えよ。愛は(凡ての徳をしめくくり、これを)完成する帯である。
前田訳これらすべてに愛を加えてください。愛はすべてを結んで全うするものです。
新共同これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
NIVAnd over all these virtues put on love, which binds them all together in perfect unity.
註解: パウロは12、13節に七つの徳を掲げ、これを衣服のごとく着るべきことを命じたのであるが、本節においてさらにその上に愛を帯のごとくに締めることを命じている。「愛は完全の帯なり」(私訳)とは完全を来たらしむる帯であるとの意味であって、愛なくば以上の諸徳も不完全であり、愛によりて結合されなければ以上の諸徳も一体としての存在とならないことを示す。すなわち慈悲の心、仁慈(なさけ)、謙遜、柔和、寛容、忍耐、宥恕(ゆうじょ)など凡て唯一つの愛の動機より行わるべきであって、愛なしにはこれらは一つ一つ独立の徳目となり、これを実行する場合に自然愛なき形式的道徳と化してしまい、また相互に連絡なく一つの精神によりて支配されないこととなる。然るに愛をもってその共通の動機となし、愛をもってこれを一つに結合する場合には、これらの諸徳がここに一つの完全なる一体となるのである。
辞解
本節は文法上種々に訳される可能性あり、「加へよ」は原文になし、12節の「()よ」を略したものと解すべきである。
[完全の帯(私訳)] (1)完全を来たらしむる帯、(2)完全なる帯、(3)完全を一つにまとめる帯、(4)完全が結ぶ帯、(5)帯すなわち完全さ、(6)完全の総計等種々に訳される。現行訳は(1)による。
[徳を全うする] teleiotês は「完全」を意味する。以上をもってパウロが掲げし衣服の喩えは終りとなる。

3章15節 キリストの平和(へいわ)をして(なんぢ)らの(こころ)(つかさ)どらしめよ、(なんぢ)らの()されて一體(いったい)となりたるはこれが(ため)なり、[引照]

口語訳キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。
塚本訳またキリストの平和に君達の心を心配せよ。君達もまた一体としてこの平和に召されたのである(から)。また(神に対し)感謝深くあれ。
前田訳キリストの平和があなた方の心を支配しますように。このためにあなた方はひとつ体として召されたのです。そして感謝するものにおなりなさい。
新共同また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
NIVLet the peace of Christ rule in your hearts, since as members of one body you were called to peace. And be thankful.
註解: 本節は幾分12−14節の思想を受継いでいるものと解すべきであって(L3)、愛をもって互に忍び合い、(ゆる)し合い、柔和、寛容その他の諸徳を全うするためには先ず第一に自己の心がキリストによりて与えられる平和(平安)によりて支配されなければならない。キリストが我らの罪を赦し給うたために我らの心に平和が臨んだのであった。この心が我らの行動を指揮監督する場合、我らの間に不平不満があってもそれが争い事となることがなく、凡てが円満に解決される。キリスト者は神に召された者であり、キリストを首とせる体であって、一体の関係にあるのはかかる平和を実現せんがためであった。
辞解
[キリストの平和] 「キリストの賜う平和」の意味(ヨハ14:27)。
[(つかさ)どる] brabeuô は競技等において指揮監督することより転じて一般的の意味にも用う。brabeus は競技の審判官で賞品(brabeion Tコリ9:24ピリ3:14)を授与する役目を有す。本節の場合当事者間の争いを背景としているのでこの語が特に適切である。

(なんぢ)感謝(かんしゃ)(こころ)(いだ)け。

註解: 感謝深き者となれとの意味で、キリストの平和が心に宿る時、また同時に彼より来る恩恵に対し感謝の心に満されるに至ることが当然である。

3章16節 キリストの(ことば)をして(ゆたか)(なんぢ)らの(うち)()ましめ、(すべ)ての知慧(ちゑ)によりて、()讃美(さんび)(れい)(うた)とをもて、(たがひ)(をし)(たがひ)訓戒(くんかい)し、恩惠(めぐみ)(かん)じて(こころ)のうちに(かみ)讃美(さんび)せよ。[引照]

口語訳キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
塚本訳キリストの言をして豊かに君達の間に住ませよ。あらゆる知恵をもって互いに教えまた諭せ。感謝の心に溢れて、聖歌と讃美歌と霊の歌を神にうたえ。
前田訳キリストのことばがあなた方のうちに豊かに宿りますように。知恵をつくして互いに教えいましめてください。詩と讃美と霊の歌で感謝のうちに心から神をおたたえなさい。
新共同キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
NIVLet the word of Christ dwell in you richly as you teach and admonish one another with all wisdom, and as you sing psalms, hymns and spiritual songs with gratitude in your hearts to God.
註解: 感謝の次に来るものは讃美であるが、パウロは先ず内容の空虚なる讃美の無意味なることをさとらしめんがために、コロサイの信徒の(うち)にキリストの言が豊かに宿り、それが讃美の言となることの必要を示している。神の言を有たない教会は如何に多くの讃美歌が(うた)われてもそれは空なる音に過ぎない。そしてパウロは凡ての智慧により詩と讃美と霊の歌とをもって、互に教え、かつ訓戒し合うべしというのである。すなわちこれらの歌は、単に音楽的の美しさを享楽せんがためではなく、信仰上の教訓たらしめんがために用いられなければならない。それ故に殊に必要なことは、神の恩恵に感じて心の中に神を讃美することであって、心中に讃美の心なしに如何に多くの讃美歌を(うた)っても、それは無意味である。パウロはここに讃美歌の最も根本的意義を示しているということができる。なおエペ5:19参照。
辞解
[キリストの言] この表顕は他になし、「神の言」という場合多し。キリストの語り給える言に限らず、一般に福音の言を指すと見て可なり(M0)。
[汝らの(うち)] (1)心の中(L3、B1)(2)教会の中(M0、Z0)等と解せらる。(1)を可とす。
[凡ての智慧によりて] 前文と関連せしむる説あり(L3)現行訳を採る。
[詩、讃美、霊の歌] これらの区別につきては、エペ5:19辞解を見よ。
「恩恵に感じて」を前文に関連せしむる説あり(L3)また「感謝して」と読む説あり(M0)。現行訳を採る。当時のユダヤ教の集会においては讃美歌は多く用いられた。その習慣がキリスト教会に伝わったのである。パウロはこの習慣をも利用しつつこれを教会の教訓に役立てんとしたのであった。

3章17節 また()(ところ)(すべ)ての(こと)、あるひは(ことば)あるひは行爲(おこなひ)、みな(しゅ)イエスの()()りて()し、(かれ)によりて(ちち)なる(かみ)感謝(かんしゃ)せよ。[引照]

口語訳そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。
塚本訳凡て言うこと為ることは、皆主イエスの名において為よ。彼によって父なる神に感謝せよ。
前田訳ことばにせよ行ないにせよ、あなた方のなさることはすべて主イエスの名によってし、彼によって父なる神に感謝なさい。
新共同そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
NIVAnd whatever you do, whether in word or deed, do it all in the name of the Lord Jesus, giving thanks to God the Father through him.
註解: 教訓と讃美に次いで最も重大なること、すなわち行為に関する注意を与えている。すなわちキリスト者の言行はキリストの名に()りて為さなければならない。「名に()りて」または「名において」とは祈祷の終結の場合などにほとんど習慣的に用いられるに至っているけれども、これを形式化することは大なる堕落である。キリストの名において行うとは、自己をイエス・キリストの前に置きて、彼に対して責任を負うて行動することである。キリストとの霊的一致の生命に生きるものは当然かく有るべきである。そしてまたキリストの名により(名を通して)すなわち彼を神との間の仲保として神に感謝をささげなければならぬ。
要義1 [キリストにある新人の生活]第三章においてはキリストに在る新生命に甦りし者の道徳的生活の様相を概論的(1−4節)消極的(5−11節)および積極的(12−17節)方面より論じている。これによりて明らかなるごとく、キリスト者には旧き人すなわち世の人の生活と全然異なる世界があることを知らなければならない。旧き人は自己が主であるのに大し、新しき人はキリストがその主となり、旧き人は自己の情慾に支配されるに対して新しき人はキリストにある愛を基とし、キリストによりて支配せられ、旧き人は多くの罪によりて暗黒と滅亡と悲哀の中に没して行くのに対し、新しき人は感謝と歓喜とをもって神を讃美しつついよいよ新たになって行くのである。「外なる人は壊るれども内なる人は日々に新たなり」(Uコリ4:16)。かかるものたらしめられしことに対して我らは深き感謝をささげなければならぬ。
要義2 [新生命とその戦]すでにキリストと共に死に、旧き人とその行為とを脱ぎて新しき人を着たる者(9、10節)に対し、パウロは「淫行、汚穢、情慾・・・・・を殺せ」と言い、またすでにキリストと共に新生命に甦えれる者に対し、「慈悲の心、仁慈(なさけ)、謙遜・・・・・を着よ」云々ということは、一見無用の注意のごとくであるけれども実は然らず、この旧生命はすでに死んだけれども、その生命の下に支配せられこれに(したが)っていた肉とその肢体はなおその余力を存しており、新生命は今まさにこの肉の中に宿ったのである。それ故にこの新生命はこれらの旧き肉の力を征服してしまわなければならず、そこに新生命の戦いがある。あたかも占領せられし区域内においても匪賊(ひぞく)の討伐が必要であるのと同様である。そしてこの戦闘は、キリストに在りて為されなければならぬ。かくしてついに完全なる勝利に帰するのである。新生命を獲得したる上は最早この戦いの必要なしと思うのは誤りであり、また新生命はこの戦いに勝つことによりて始めて得られると思うのも誤りである。

4-3 家庭の諸関係 3:18 - 4:1

註解: 18−4:1は家族関係におけるキリスト者としての態度を教えている。この点につきてはエペ5:22−6:9。Tペテ2:18−3:7。テト2:1−10参照。

3章18節 (つま)たる(もの)よ、その(をっと)(したが)へ、これ(しゅ)にある(もの)のなすべき(こと)なり。[引照]

口語訳妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。
塚本訳妻達よ、主にある者らしく夫に従え。
前田訳妻たちよ、夫に従いなさい。それは主にあってふさわしいことです。
新共同妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。
NIVWives, submit to your husbands, as is fitting in the Lord.
註解: (▲「(したが)へ」の口語訳「仕えなさい」についてはエペ5:22脚注参照)エペ5:22参照。何故にパウロは獄中書簡に特に家族関係の道徳を教えているかにつき確定的の理由は発見されないけれども、おそらく2節に示されるごとき平等観が、この世における社会関係、家族関係の秩序をも無視すべきもののごとくに誤解され、従来の家族関係、社会関係が破壊される憂いが有ったからであろう。常に第一に服従すべき者を訓戒しているのも、この秩序の維持を主としたからであろう。夫婦の間は第一に妻の従順であることが主に在る者に最も相応しき状態である。神によりて新生せる新しき人として神の前に立つ場合に、男女、夫婦の間に価値の差別は存しないけれども、地上において家族生活を送る場合においてそこに差別が生ずる。
辞解
[主にある者の] 原語「主にありて」で「(したが)へ」に懸けることも可能であるが、20節と比較して現行訳のように訳すべきであろう(M0、L3、B1その他)。

3章19節 (をっと)たる(もの)よ、その(つま)(あい)せよ、(にがき)をもて(これ)(あしら)ふな。[引照]

口語訳夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない。
塚本訳夫達よ、妻を愛し、辛くあたるな。
前田訳夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たらないでください。
新共同夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。
NIVHusbands, love your wives and do not be harsh with them.
註解: エペ5:25以下にこの関係をキリストと教会との関係に当てはめて美しく録している故参照すべし。妻は夫の愛をその生命とする。かつ夫より外に頼るべきものなき故「苦きをもて」意地悪く残酷にこれを扱ってはならぬ。

3章20節 ()たる(もの)よ、(すべ)ての(こと)みな兩親(ふたおや)(したが)へ、これ(しゅ)(よろこ)びたまふ(ところ)なり。[引照]

口語訳子たる者よ、何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。
塚本訳子達よ、何事によらず親の言うことを聴け。これは主において喜ばれることであるから。
前田訳子たちよ、何につけても両親に従いなさい。それは主によろこばれることです。
新共同子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。
NIVChildren, obey your parents in everything, for this pleases the Lord.
註解: エペ6:1−3註参照。「凡ての事みな」といいて絶対的服従を命じている所以は、この服従の態度そのものが子たる者の両親に対する本来の関係だからである。両親に対する従順は神の目に最も喜ばしき態度である。神の喜び給うことを為すより以上の善はない。従って主の喜び給わざることは、両親の命令でもこれに(したが)うことができない。
辞解
多くの信頼すべき写本は「主の喜びたまふ所なり」の代わりに「主にある者に喜ばれる所なり」とあり、信者の眼に美しく見えることを示す。多くの学者はこの読み方による。なお妻の場合の「(したが)ふ」と子の場合の「(したが)ふ」とは異なる文字を用う。エペ6:1辞解参照。

3章21節 (ちち)たる(もの)よ、(なんぢ)らの子供(こども)(いか)らすな、(あるひ)落膽(きおち)することあらん。[引照]

口語訳父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。
塚本訳父達よ、子を怒らせて、いじけさせるな。
前田訳父たちよ、子どもをいらだてないでください。彼らがいじけないためです。
新共同父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。
NIVFathers, do not embitter your children, or they will become discouraged.
註解: エペ6:4参照。愛なき叱責、過度の要求、青年の心理を理解せざる厳格さは子供をいら立たせる。その結果悲観的になり憂鬱となる。
辞解
エペ6:4の「怒らすな」と本節のとは原語を異にす、前者は怒りの心を起させること、後者はいら立たしき心を起させること。

3章22節 (しもべ)たる(もの)よ、(すべ)ての(こと)みな(にく)につける主人(あるじ)にしたがへ、(ひと)(よろこ)ばする(もの)(ごと)く、ただ()(まへ)(こと)のみを(つと)めず、(しゅ)(おそ)れ、眞心(まごころ)をもて(したが)へ。[引照]

口語訳僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。
塚本訳奴隷達よ、何事によらずこの世の主人の言うことを聴け。御機嫌取りのように(主人の)眼の前だけでなく、主を畏れて真心で為よ。
前田訳僕たちよ、この世での主人に何につけても従ってください。人の気に入るようにと、うわべの奉仕をせず、主をおそれて、ひたすらな心でなさい。
新共同奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。
NIVSlaves, obey your earthly masters in everything; and do it, not only when their eye is on you and to win their favor, but with sincerity of heart and reverence for the Lord.
註解: (▲「したがへ」は hupakouô、「聞いて従う」こと。)エペ6:5、6とやや前後せる部分があるだけで、一字一句ほとんど同一なり。詳細の註はその部分を参照すべし。キリストを主と仰ぐことが、肉につける主人を無視することであると思うのは誤りである。主イエスに仕うるごとき態度をもって主人に仕うべきである。単に主人の眼前においてのみ主人の卑しき要求を充たしてこれを喜ばすごときは主イエスに仕うる所以ではない。

3章23節 (なんぢ)何事(なにごと)をなすにも(ひと)(つか)ふる(ごと)くせず、(しゅ)(つか)ふる(ごと)(こころ)より(おこな)へ。[引照]

口語訳何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。
塚本訳何をするにも心から(これを)行え、人間でなく主を相手にして。
前田訳あなた方のすることは、人にでなく主にするように魂を打ち込んでなさい。
新共同何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
NIVWhatever you do, work at it with all your heart, as working for the Lord, not for men,

3章24節 (なんぢ)らは(しゅ)より(むくい)として嗣業(しげふ)()くることを()ればなり。(なんぢ)らは(しゅ)キリストに(つか)ふる(もの)なり。[引照]

口語訳あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。
塚本訳その報いとして主から「相続分」を戴くことを知っているではないか。君達は主キリストに仕えているのである。
前田訳ご存じのとおり主から世継ぎという報いをお受けになるでしょう。あなた方は主キリストに仕えておいでです。
新共同あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
NIVsince you know that you will receive an inheritance from the Lord as a reward. It is the Lord Christ you are serving.
註解: エペ6:7、8および註参照。僕はその主人を主イエス・キリストと思って(つか)うべきである。肉の主人に(つか)うる道としてこれにまされる道はない。そして嗣業は子の受くべきものであって、僕の受くべきものではないけれども、僕もキリストに(つか)うる場合、神の子として嗣業を受くる以上、大なる希望を持ちつつその置かれし地位におり、その与えられし職務を尽くすことができる。なおパウロと奴隷解放問題につきてはTコリ7:21、22。エペ6:5註参照。「汝らは主に(つか)ふる者なり」は一面において主の僕たる身分を自覚せしめ、自重せしめんがためであり、一面において次節の主の報につきて畏れ(おのの)くべきためである。
辞解
[(むくい)] antapodosis 新約聖書に唯一回用いらる。

3章25節 不義(ふぎ)(おこな)(もの)はその不義(ふぎ)(むくい)()けん、(しゅ)(かたよ)()(たま)ふことなし。[引照]

口語訳不正を行う者は、自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない。
塚本訳何故なら、(善い事をする者はその善い事に対して報いを受け、)悪い事をする者はその為た悪い事の報いを受けるのであって、主には決して依怙が無いのだから。
前田訳不正をなすものは、なした不正を報われます。それに不公平はありません。
新共同不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。
NIVAnyone who does wrong will be repaid for his wrong, and there is no favoritism.
註解: 本節の不義を行う者を主人と見る説(M0、A1)と僕と見る説(B1)、双方または不明と見る説(L3、L2)とあり、22−24節は僕につきての教訓である関係上本節を僕に対して言えるものと見るを可とす(E0)。たしかにパウロが夫婦、親子、主人に対する教訓に比して僕に対するものを特に詳細に述べし所以はオネシモのことが眼中に浮んで来たからであって、オネシモのごとくたとい僕であるからとて、主は不義を見逃し給わないことを教え。主に(つか)うるもののごとく畏敬をもって主人に(つか)うべきことを教えたものであると解すべきである。
辞解
[偏り見たまふ] prosôpolêmpsia につきてはロマ2:11を見よ。