第1テモテ書第2章
分類
2 テモテに対する諸種の注意 1:3 - 6:21
2-2 社会一般に対する態度 2:1 - 2:15
2-2-イ 王ならびに一般に対する態度 2:1 - 2:7
口語訳 | そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。 |
塚本訳 | だから何よりも先に勧める、凡ての人のために祈願、祈祷、代願、感謝を(神に)捧げよ、 |
前田訳 | そこで何よりもまず勧めます。願い、祈り、とりなし、感謝を、すべての人のために、 |
新共同 | そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。 |
NIV | I urge, then, first of all, that requests, prayers, intercession and thanksgiving be made for everyone-- |
註解: パウロは本節よりテモテの牧する教会が全体として何を為すべきかを示している。すなわち教会が幾分団体的存在として固定し始めたと見ることができる。ただしこれをもって本書の成立の時代が第二世紀であるとするには充分な理由とはならない。教会がそれほど固定したものとするには理由が不充分である。
註解: キリスト者は往々にして教会のためにのみ特に祈っており教会以外の人を忘れることがあり、また神のことのみを思う結果、政治行政上の主権者主脳者等の恩を忘れる者もあった。殊にキリスト者が迫害に遭うごとき場合は往々彼らを無視しあるいは邪魔視することがあった。しかしパウロはキリスト者が凡ての人を愛し、殊に国家や社会を支配する責任を有する人々のためには、それらの人々の霊肉の幸福を祈り、また執成 しの祈りをなし、またそれらの人々の上に下る神の恩恵につきて感謝すべきである。
辞解
[王たち] ローマの王のみを指したのではなく一般に王たちとの意味である。ロマ13:1。テト3:1。Tペテ2:13、14。ただし各人は自己の上に立つ王のために祈るべしとの意味であること勿論である。
[願い、祈祷、とりなし、感謝] みな祈祷の種類である。
2章2節
口語訳 | それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。 |
塚本訳 | 特に王達及び凡ての高官達のために。これは私達が一生を穏やかに静かに、全き敬虔と謹厳とをもって過ごす(ことの出来る)ためである。 |
前田訳 | 王たちとすべて高い地位の人のためになさい。それはわれらが静かでおだやかな人生を全き敬虔と品位の中にすごすようにです。 |
新共同 | 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。 |
NIV | for kings and all those in authority, that we may live peaceful and quiet lives in all godliness and holiness. |
註解: 凡ての人および在上者のために祈ることによりて、それらの人々との間に心の平和ができ、それらの人々を敵視せざるに至る。すなわちあらゆる敬虔と謹厳とをもって生活することにより、静粛に、平静に(他より混乱されることなしに)一生を過すことができるようになる。
辞解
[「敬虔」「謹厳」] 「敬虔」「謹厳」等は牧会書簡特愛の語、謹厳 semnotês は威厳に充てる態度を意味す。
[「安らかに」「静かに」] 「安らかに」êremos は幽寂 なる処に独静にいる意味であり、「静かに」 hêsykios は他より撹乱されることなき平静を意味す。前者は内的平静、後者は外的平静。
2章3節
口語訳 | これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。 |
塚本訳 | (かく凡ての人のために祈ること、)これは私達の救い主なる神の御前に善いこと、また御意に適うことである。 |
前田訳 | これはわれらの救い主にいます神のみ前によいことでみ旨にかないます。 |
新共同 | これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。 |
NIV | This is good, and pleases God our Savior, |
註解: 「斯くするは」は第1節を主として指しているけれども、第2節の結果をも含むものと見て差支えがない。第1節のごとくに行うことは決して単なる儀礼でもなく、また社会生活上の妥協でもなく、それ自身善事であり、かつ神の前に嘉納される処である。ゆえにこれを行わなければならぬ。
辞解
[神の] 直訳「神の前に」。「美事 にして」にも「神の前に」を懸けようとする説あれど(M0)その必要なし。
2章4節
口語訳 | 神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。 |
塚本訳 | 神は凡ての人が救われ、真理の知識に達せんことを欲し給うのである。 |
前田訳 | 神はすべての人が救われて真理を知るにいたることをお望みです。 |
新共同 | 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 |
NIV | who wants all men to be saved and to come to a knowledge of the truth. |
註解: 神は万人の救われること、そして神の真理を悟るに至らんことを欲し給う。それ故に凡ての人のために祈ること(1節)、殊にその救いにつきて祈ることは、神の御意にかなうことである。
2章5節 それ
口語訳 | 神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。 |
塚本訳 | (しかし何故凡ての人が救われるか。)それは(天上天下、)神はただ一柱であり、神と人との(間の)仲介者もただ一人、(すなわち)人なるキリスト・イエス、 |
前田訳 | 神はひとりにいまし、神と人との仲立ちもひとり、すなわち人にいますキリスト・イエスです。 |
新共同 | 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 |
NIV | For there is one God and one mediator between God and men, the man Christ Jesus, |
註解: 4節の理由を掲げると共にキリストの福音の唯一性を示す、万人救済の根拠は神が唯一であるからである。多くの神々ありと考うる者は、他の人々の救いは他の神々に委せることとなる。また神と人との間の仲保(ガラ3:19、20。ヘブ8:6。ヘブ9:15)も唯一である。すなわち人間なるキリスト・イエスである。キリスト・イエスは神より見れば人間は神に対し彼のごとき者たるべきであり、人間より見れば神は人間に対して彼のごときものたらんことを理想とする。すなわち人となり給える神であり、神に等しき人である。それ故に彼のみ神と人との仲保となることができる。仲保の必要は、神は人間に対してあまりに聖であり、人は神に対してあまりに罪深いからである。神は唯一にして仲保も唯一なるが故に、キリスト・イエスに由らずして何人も神に至ることができない。
2章6節
口語訳 | 彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない。 |
塚本訳 | 凡ての人のために身代金として自分を与え給うた彼(だけ)であるからである。そして(今や定められた)その時が来てこのことが(神によって)証明され、 |
前田訳 | 彼は自らを万人のためにあがないとしてお与えでした。それは定められた時での証です。 |
新共同 | この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。 |
NIV | who gave himself as a ransom for all men--the testimony given in its proper time. |
註解: 私訳「彼は凡ての人のための贖價 として己を与え給えり」。イエスはその全生涯を与え、ついに十字架上にその生命をも付し給うた。これは凡ての人を愛したからである。この生涯とこの死との代価により、罪の下に囚われていた凡ての人類は罪の束縛より贖い出されて神のものとなったのである。唯これを信ぜざる者のみがその不信によりて神に敵しているのである。
辞解
[己を與 へて] 「己を付 す」と同じ意味であるが、「付 す」 paradidômi は死に付 すことの狭き意味に用い「與 ふ」 didômi は広き意味に用う。また「己を與 ふ」は「己が生命を與 ふ」マタ20:28。マコ10:45よりも広き意味なり。
[凡ての人のため] 万人救済説の根拠となる。初めよりある人を滅亡に予定したと唱うる予定説は成立たない。また凡ての人のために祈る理由および必要はここにある。
[贖價 ] antilutron は「贖價 」と訳されし lutron よりも対価の観念が強い。
註解: 私訳「これ己が時における証なり」「己が時」は神の定め給える時であって、キリストのために備えられていた時を指す。「証」は神の愛と人類の救いに関する証である。
2章7節
口語訳 | そのために、わたしは立てられて宣教者、使徒となり(わたしは真実を言っている、偽ってはいない)、また異邦人に信仰と真理とを教える教師となったのである。 |
塚本訳 | 私はそのための宣教者また使徒、異教人の信仰と真理の教師とされたのである──私は本当のことを言うので、虚言をつかない! |
前田訳 | このためにわたしは宣教者また使徒として立てられたのです。わたしは真実を語るのでして、偽ってはいません。わたしは信仰と真理のための異邦人の教師です。 |
新共同 | わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。 |
NIV | And for this purpose I was appointed a herald and an apostle--I am telling the truth, I am not lying--and a teacher of the true faith to the Gentiles. |
註解: パウロは神の救いの唯一性を述べて後、その救いの福音とパウロ自身との関係を陳ぶ、すなわちパウロはその福音の宣伝者、使徒、しかも異邦人の教師として立てられたのである。パウロが使徒たることを記して後「我は真を言いて偽らず」と特に付加えている所以は、反対者はパウロの使徒たることを承認しない者があるからである。なおテモテのごとき、言わば子飼いの弟子に対してわざわざかくも堂々と使徒職を主張することは必要なきこと故、これも本書のパウロの作にあらざる理由として主張されているけれども、この書簡は教会全体の前に読まるべきものであり、これによりて会衆の前にテモテの権威を大ならしめんとするパウロの親心であった(なお万人救済説についてはロマ11:36の要義1参照)。
要義 [主権者に対する忠順と祈願]1節の教訓は主権者を神の立て給えるものと見ることの当然の結果である。主権者を人民の立てたるものとなし、人民が自由にこれを左右し得るもののごとくに考えるのは聖書の立場ではない。その他権力を持つ者に対しても同様であって、服従と従順はキリスト者が神に対する態度の一部である。民主主義的思想の影響の下にこの考えが薄弱となりつつある事実は、聖書の教うる処に一致しない。
2章8節 これ
口語訳 | 男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。 |
塚本訳 | だから男子達は、何処ででも、怒らず争わず、潔い手をあげて祈ってもらいたい。 |
前田訳 | 男性はどこでも怒りや争いを避けて聖らかな手をあげて祈ってください。 |
新共同 | だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。 |
NIV | I want men everywhere to lift up holy hands in prayer, without anger or disputing. |
註解: 「この故に」は第1節の思想に立帰っている。本節は男子につき、9−15節は女子につき教会生活の要諦を示している。すなわち男子は「何れの處にても」、教会にても家庭または野天の下の集会においても潔き手をあげて祈るべきである。そして「怒り」と「争い」とはこの祈りを妨げる心の状態であり、かつ男子の陥り易き罪である故これを慎まなければならない。
辞解
[われ望む] 「われ欲す」とも訳されパウロの使徒的権威をもってする要求である。
[祈る] この場合公の会合における祈りを指す。
[争はず] また「疑わず」とも訳することができるけれども、本節の場合「争わず」又は「争論せず」が適当である。
[手をあげ] ユダヤ人より初代キリスト者に伝わった祈りの態度で手の掌を天に向けて上げ、天より受けんとするごとき態度を取る。なお誓い(創14:22)、祝福(レビ9:22)、祈り(詩28:2。詩44:20等)の場合に手をあぐるを常とした。
[潔き手] 罪を犯さぬ手、また内心が神にささげられない場合、その手は潔き手となり得ない。
2章9節 また
口語訳 | また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。 |
塚本訳 | 同じく婦人達も身嗜みよく、貞淑と慎みをもって身を飾り、編んだ頭髪や金や真珠や高価な着物でなく、 |
前田訳 | 女性も身なりをつつしみ、廉恥と良識で身なりをし、編んだ髪や金や真珠や高価な衣服を身につけないでください。 |
新共同 | 同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。 |
NIV | I also want women to dress modestly, with decency and propriety, not with braided hair or gold or pearls or expensive clothes, |
註解: 女子の陥り易き弊害、殊に集会等においては、派手な装飾、髪飾り、衣服等をもって人目を引くことを好むことであり、しかも厚顔無恥にして、自己の感情や慾求を制し得ないものが多い。それ故にパウロは集会における女子に対して本節のごとき注意を第一に与えている。
辞解
[恥を知り] aidôs は主として他に対して自己の状態を恥ずかしく思う心。
[宜しきに合う] 俗にキチンとしたというごとき心持。
[衣] katastolê 衣装というごとき意味の語、Tペテ3:3にも類似の描写あり。
2章10節
口語訳 | むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。 |
塚本訳 | 神信心を告白する婦人に似つかわしい立派な業をもって身を飾ってもらいたい。 |
前田訳 | よいわざで装うことが信仰を告白する女性にふさわしいのです。 |
新共同 | むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。 |
NIV | but with good deeds, appropriate for women who profess to worship God. |
註解: 私訳「敬神をもって任ずる女に相応しきごとく、善き業をもて〔飾りとせん〕ことを」。信仰を有する女子に最も相応しき装飾はその善行である。
辞解
[飾とせんことを] 原文に無き故前節より補充す。ただし他に種々の訳し方あれど現行訳を可とす。
2章11節
口語訳 | 女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。 |
塚本訳 | 婦人は(教会ではただ)静かに聴き、絶対の服従をもって(道を)学ばねばならぬ。 |
前田訳 | 女性は静かにして全き従順のうちに学ぶべきです。 |
新共同 | 婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。 |
NIV | A woman should learn in quietness and full submission. |
註解: 従順、静粛、真理を学ぶことの熱心がキリスト者婦人の典型的な態度である。
辞解
[凡てのこと従順にして] 「凡ての従順において」と直訳さるべき句で、「従順を尽くして」の意。
[学ぶ] 御言を学ぶ、真理を学ぶ等の場合に用う(Uテモ3:7)。この場合夫 より学ぶ意味(Tコリ14:35)を含むことは勿論であるが、静かに教師より学ぶこともこの中に含まる。
2章12節 われ
口語訳 | 女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。 |
塚本訳 | (教会で)婦人が教えたり、男子の上に立ったりすることは許さない。ただ静かにして居れ。 |
前田訳 | わたしは女性が教えたり男性を押えたりすることを許しません。むしろ静かにすべきです。 |
新共同 | 婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。 |
NIV | I do not permit a woman to teach or to have authority over a man; she must be silent. |
註解: 集会において女子は教師の地位に立ちまたは男子の上に立ちて権を握ることをパウロは許さなかった。これは男尊女卑にあらず、男女の造られし本性の差異、およびこれに伴うその使命の差異より来る。静かにすることは自然の結果から生じて来るのであって、日本における理想の婦人に近い点に注意すべし。▲欧米キリスト教国においてこの教えが守られず婦人が大臣、社長、議員、技師、監督等の職につき男子の上に権を取っていることは、事実である。これは教育制度の発達や社会組織の変遷の結果、聖書の教えに従い得なくなったためであった。これが果して最上の状態であるかどうかは問題である。
2章13節 それアダムは
口語訳 | なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。 |
塚本訳 | (このことは天地創造の由来からでも、エデンの話を見ても明らかである。)何故なら、アダムがまず造られ、次いでエバが造られたのであり、 |
前田訳 | アダムがまず第一に造られ、それからエバです。 |
新共同 | なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。 |
NIV | For Adam was formed first, then Eve. |
註解: Tコリ11:2以下参照。創2:18、創2:21−24の記事は男子が女子の光栄であり、女子は男子のために造られたことを示す。これが女子は男子の上に権を取るべきでなく男子に服従すべきものであることの理由である。換言すれば女子の本来の使命が従順にあったことの意味である。
2章14節 アダムは
口語訳 | またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。 |
塚本訳 | またアダムは惑わされず、女なる(エバ)が(蛇に)惑わされて罪に落ちたからである。 |
前田訳 | また、アダムが迷わされたのではなく、女性が迷わされてまちがいをしたのです。 |
新共同 | しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。 |
NIV | And Adam was not the one deceived; it was the woman who was deceived and became a sinner. |
註解: ゆえに女は男を教うる権利なく静かに道を学ぶべきものである。「女子は一度教えて万事を破滅に帰せしめた」(C2)。なおパウロのこの場合の見方によれば、アダムが罪に陥ったのは聖書の記事によれば惑わされたのではなく(創3:17)、エバの言に聴従したのであると見ているのである。ゆえに「惑わされず」と断言している。それ故にある学者の為すごとくここに「始めに」を補する必要がない。またロマ5:12以下にアダムが罪を犯したことを記しているのであるが、これは一見本節と矛盾するがごときもこれはアダムとエバを区別せず、アダムとを全人類の代表と見たのであった。
2章15節
口語訳 | しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。 |
塚本訳 | しかしもし婦人が慎みをもって信仰と愛と聖潔とを保っているならば、子を産むこと(、これを育てて母の務めを果たすこと)によって救われるであろう。(婦人は教会でなく家の中で働くべきである。) |
前田訳 | しかし女性は良識をもって信仰と愛と聖潔のうちにとどまれば、子を生むことで救われましょう。 |
新共同 | しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。 |
NIV | But women will be saved through childbearing--if they continue in faith, love and holiness with propriety. |
註解: 前節までの記事によれば女子はキリスト者として何らの活動も為し得ず、果して女子は救われるや否やを疑わしむるものがあるのであるが、パウロはそれに対して肯定的解決を与え、そして女子の為すべきことは社会的に教会的に活動することではなく、むしろ子を生むことすなわち家庭の母としての責務を全うするに在ることを教えている。ただし勿論子を生むことが条件の全部ではなく「慎みて信仰と愛と潔とに居る」ことを要することは当然である。また子無き女子が救われないというのでもない。女子として普通一般の場合を指しているのである。
辞解
[子を生むことに因りて] 救いの条件としてはあまりに奇抜に聞ゆるが故に(1)「子を生む場合にその危険より救われん」、(2)「子をよく育てることによりて救われん」、(3)「マリヤがその子イエスを生める事実の功徳によりて救われん」その他種々の解あり、何れも適当ではない。
要義1 [パウロの婦人観]11−15節より見れば、パウロは婦人の地位を卑 く見ており、教会においては全く男子に対する隷属的地位にあるもののごとくであって、欧米キリスト教国の実情とは異なるものがあり、かえって我が国古来の婦徳に近きものあるを思わしめる。そしてこれは実は婦人を卑 く見たり、また奴隷視しているのではなくかえって婦人の本性を重視しこれに最も相応しい処の態度を教えたのであって、神はかかるものたらしめんとて婦女子を造り給うたのである。そしてこれが東洋においては往々男子の横暴を来す結果となっているけれども、これは男子の方の愛と義とによりて矯正せらるべきであって、女子の方よりの反抗または自己主張によりて男子に対抗すべきではない。欧米模倣を事とするキリスト者が我が国の婦徳を棄てて、聖書に違反せる欧米諸国の婦人の態度を真似んとするは、甚だしき軽薄である。
要義2 [アダムとエバ]13、14節におけるアダムとエバの例は、今日の我らにとりて甚だ納得し難き論法のごとくに思われる。その故は単なる創造の前後、殊に歴史性に乏しきアダム、エバの創造の前後をもって今日の男女の関係を律することは甚だ無理であり、またアダムも同じく惑わされて罪を犯したからである。ただかかる場合パウロはユダヤ人の信仰や思想を中心として、当時の聖書解釈法をそのまま採用したのであって、その手段方法は今日の我らに納得し難いけれども、その言わんと欲する処はこれによりて明瞭であり、説明法の不完全さをもって真理そのものの価値を軽視してはならない。
第1テモテ書第3章
2-3 役員の選任 3:1 - 3:16
2-3-イ 監督たるべき人の資格 3:1 - 3:7
3章1節 『
口語訳 | 「もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである」とは正しい言葉である。 |
塚本訳 | 「監督の職にあこがれる者は善い仕事を欲しがる者」という(言があるが、)この言は信ずべきである。(監督は尊い職であるからである。) |
前田訳 | 「監督になりたい人はよい仕事を求めている」とは信ずべきことばです。 |
新共同 | この言葉は真実です。「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」 |
NIV | Here is a trustworthy saying: If anyone sets his heart on being an overseer, he desires a noble task. |
註解: この格言は当時行われている処のものであった。すなわち監督の職を慕うことは、善き仕事を求めることであるというのであって、当時の監督とは今日の教会の職制における監督とは程度を異にし、専門的の職業としてではなく、その霊の賜物に循 い「世話方」ともいうべき仕事を掌 っていたのである。殊に教会は未だなお小さき存在であったので、この職を得んと欲する者は少なく、たまたま有ってもそれは野心家の類であったことと思われる。それ故に「これ善き業を願ふなり」と言いて、一面正当に監督の職に即 かんとする者を奨励すると共に、他面、空しき野心によりてこれを求むることを避けしめんとしているのである。
辞解
[信ずべき言なり] Tテモ1:15参照、「本当である」というごとき意。
[監督] episkopos は、当時は今日のごとき完備せる職制として考えるべきではない。「世話方」という程度なり。なお新約聖書においては監督と長老とは同一人の別称なり(使20:17、使20:28。ピリ1:1参照)。
口語訳 | さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、 |
塚本訳 | だから監督(たる者)は一点非難の打ち処のない(者でなければならない。すなわち)一人の妻の夫であり、真面目で、思慮があり、端正で、接待好きで、教え上手で、 |
前田訳 | 監督は非の打ちどころなく、ひとりの妻の夫、節制家で冷静、礼儀正しく、もてなしがよく、教え上手で、 |
新共同 | だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。 |
NIV | Now the overseer must be above reproach, the husband of but one wife, temperate, self-controlled, respectable, hospitable, able to teach, |
註解: 第一に監督たるべき者の条件として一般的に「非難すべき点の無き」ことを掲げている。これはキリスト者のみならず社会一般の人からも非難されない人であることを意味する。キリストを信ずる信仰の故に非難されることは止むを得ないことであるが、社会一般の常識または徳義の点より非難されることは宜しくない。従ってかかる人は監督の位置につかしむべきではない。
註解: 難解の一句で種々の解あり、(1)多妻主義を実行する者にあらざること(S2)、(2)妻の死後再婚をせずにいる者たること(A1、E0、L2)、(3)一人の妻に対し節操を守り不品行、蓄妾 等を為さざる人たること(M0、I0)等の解あり。第一は同時のユダヤ人および異邦人間には多妻主義が実行されていたけれども(S2)、一般的ではなく、キリスト教徒の中には全く行われなかったと見るべき故、特に監督にのみこれを禁ずる必要なく、もし監督にのみこれを禁止する場合一般信者にはこれを許していることとなり不適当である。またかく解する場合Tテモ5:9は一妻多夫主義ということとなり事実に反す。第二は死せる妻に対する思い出を純潔に保つ上において、また継母子の関係の困難を避くる点において美しい行為とされていたことはキリスト教社会に限らず、非キリスト教社会においても事実であり、殊に夫を失える妻の場合がそうであった。古代教父にこの意見を取っている者が多い。しかしながらTテモ5:9に寡婦の籍に記すべき女は「一人の夫の妻たりし者」とあり、もしこれを再婚せざりし女と解すれば、パウロはTテモ5:14およびTコリ7:9に若き寡婦の再婚をすすめておりながら、もしその後再び夫に死別せる際教会が真の寡婦として取扱わないこととなり、かえって不幸をすするめるごとき矛盾を来すのみならず、再婚が監督の職に相応しからざるごとき何らかの悪を含みおるならば女子の場合はなおさらこれをすすめないはずである。かつこの思想の中には多分に禁慾主義を含み、またこの世と神の国との混同あり、パウロの思想と思われない。従って第三がこの場合の真の解釈であるとみるべきで、当時の社会、殊にギリシャ文化の下にある異邦人の社会においては全く罪と見られなかった性的放蕩と、蓄妾 のごとき行為が、キリスト者の間にも行われたことはTコリ5:1、2。Tコリ6:15−20等を見れば明かである。キリスト者中にもかかる罪に陥りし者または陥りつつある者は絶無ではなかったので、かかる人を監督とすべからずとの意味である。「一人の妻の夫」なる話法はおそらく「不品行ならざる男」という意味の婉曲話法であろう。Tテモ5:14も同様である。
註解: 大酒を慎む意味に多く用いる語であるがここでは肉の慾情によって支配されないこと。
註解: 前者は内心の慎み深きこと、後者は外部に表われる態度の立派であること。
註解: 当時の社会における大切なる道徳であった。隣人愛の表われである。
註解: 監督たる人は信仰について教えうる役目をも行わなければならなかった。これを好まない者は監督たり得ない。
口語訳 | 酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、 |
塚本訳 | 酒好き喧嘩好きでなく、むしろ優しく、喧嘩嫌いで、金銭を欲しがらず、 |
前田訳 | 酒に酔わず、けんか好きでなく、寛大で争わず、貧欲でなく、 |
新共同 | また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、 |
NIV | not given to drunkenness, not violent but gentle, not quarrelsome, not a lover of money. |
註解: テト1:7 paroinos は飲酒の上その度を失い乱暴なる言動に及ぶことであり、パウロは監督にかかることの無き者を任ずべきことを薦めている。
註解: テト1:7.酒癖の悪い人と密接な関係があるが、夫に限られず、怒って人を打擲 するごときことの無き人。
註解: epieikês 柔和にして節制あり、従って濫りに怒らない。
註解: テト3:2。争闘せざること。
註解: 「金 を愛せず」と訳すべき文字であるが、その結果貪慾の観念も含まれるに至る。本節は主として社会一般に対する態度の如何を示す。かかる人は社会の信用ができ、監督たるに適す。
註解: 本節および次節は家庭人としての監督の資格を陳ぶ。
口語訳 | 自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。 |
塚本訳 | 自分の家をよくおさめ、きわめて謹厳で、その子女達が従順な者でなければならぬ。 |
前田訳 | おのが家をよく治め、厳格に子どもらを従わせる人であるべきです。 |
新共同 | 自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。 |
NIV | He must manage his own family well and see that his children obey him with proper respect. |
註解: 家庭の不和、乱脈、不潔はその家長の責任である。
辞解
[理 め] 「主宰する」意味の語、教会の主宰と関係があるのでかかる語を用いたのであろう。
註解: 自らは放縦にして子女の不従順なる者は監督たるの資格がない。
辞解
[従順ならしむる者] 「従順に保つ者」の意。
3章5節 (
口語訳 | 自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。 |
塚本訳 | 【自分の家を(すらよく)おさめることを知らない者に、どうして神の(家である)教会の世話が出来ようか。】 |
前田訳 | おのが家を治めえぬものがどうして神の集会(エクレシア)の世話ができましょう。 |
新共同 | 自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。 |
NIV | (If anyone does not know how to manage his own family, how can he take care of God's church?) |
註解: 修身、齋家、治国、平天下は結局同一の原理に支配されると同じく己が家を治むることを知らざるものは教会を治むる資格がない。
3章6節 また
口語訳 | 彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。 |
塚本訳 | なお(信仰の)新入生でないこと(が必要である。)そうでないと、(直に)思い上がって悪魔の審判に落ちるであろう。 |
前田訳 | 新参者もいけません。うぬぼれて悪魔の裁きを受けないためです。 |
新共同 | 監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。 |
NIV | He must not be a recent convert, or he may become conceited and fall under the same judgment as the devil. |
註解: 新に信仰に入った者はその当時は異常に熱心であって、他を凌ぐがごとくに見えるものであるが、往々にして時と共にその熱心が冷却し普通の信仰以下に堕落することが有り易いものである。しかのみならず新に入信せるのみにて儕輩 (=同輩:広辞苑)の上に立つことは高慢の心をいだき易く、その結果サタンに乗ぜられて非常に大なる罪に陥ることがある。その場合悪魔の受くる審判と同一の審判を受けなければならない。すなわち未熟なる者を重用することはかえってその人に対する不親切となる。
辞解
[新に教に入りし者] neophytos は若樹のこと、すなわち一見盛んに発育繁茂するけれども、真の強さはない。ここでは異教より新に改宗せる者。
[傲慢になる] typhoô は「煙る」の意味あり自己に対して明確なる判断を下し得ないこと。
[悪魔と同じ審判] 原語「悪魔の審判」でこれを「悪魔(または誹謗者)が為す判断」と解する説あれど(L2)、現行訳のごとく解するを可とす(M0、B1、E0、A1)。
3章7節
口語訳 | さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。 |
塚本訳 | また外の者の評判も好くなければならぬ。そうでないと悪口を言われて、悪魔の羂に落ちるであろう。 |
前田訳 | 監督は集まりの外での評判のよい人であるべきです。そしりを受けて悪魔のわなにかからないためです。 |
新共同 | 更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。そうでなければ、中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです。 |
NIV | He must also have a good reputation with outsiders, so that he will not fall into disgrace and into the devil's trap. |
註解: 外の人すなわちキリスト者以外の人の判断のごときは歯牙に懸くるに足らずと考えるキリスト者があり、殊に異教国を軽蔑する宣教師等にこの種の態度が多い。しかしパウロはかかる態度を取らなかった。キリスト者以外の社会にも道徳がありこれを尊重すべきものと考えた。たといそれがキリスト教の道徳的標準より低いとしても、その低い標準から非難されるごときことはなおさらキリスト者の恥である。それ故に監督たる人はそれらの人々にも令聞 ある人でなければならぬ。然らざれば彼の上に誹謗が加えられ、その誹謗が悪魔の羂 となりてあるいは彼を排斥するの声が起り、あるいは教会に分裂を生ずる等のことが起るのである。
註解: 本節以下は執事の職に関する注意。最初に執事を選任したのは使6:1−6のエルサレム教会の七人の執事であった。貧民救済、病者慰問等がその職務であった。
3章8節
口語訳 | それと同様に、執事も謹厳であって、二枚舌を使わず、大酒を飲まず、利をむさぼらず、 |
塚本訳 | 執事も同様に謹厳で、二枚舌を使わず、大酒を飲まず、汚い金儲けをせず、 |
前田訳 | 同様に、世話人も高潔で、裏表なく、大酒飲みでなく、貧欲でなく、 |
新共同 | 同じように、奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、 |
NIV | Deacons, likewise, are to be men worthy of respect, sincere, not indulging in much wine, and not pursuing dishonest gain. |
註解: 謹厳にあらざれば信用を得ることができず、言を二つにする者は多くの人々の間に公平をもって処することができない、従って多くの人々より信用を博し得ない。
註解: 大酒は正当なる判断を失うに至る。
註解: 執事は教会の財産を管理し、金銭の出納を掌 るが故に、この間に不正の利を取るの誘惑に陥り易い(W2)。
3章9節
口語訳 | きよい良心をもって、信仰の奥義を保っていなければならない。 |
塚本訳 | 潔い良心に信仰の奥義を有っている者でなければならぬ。 |
前田訳 | 清い良心で信仰の奥義を持つべきです。 |
新共同 | 清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません。 |
NIV | They must keep hold of the deep truths of the faith with a clear conscience. |
註解: 信仰の奥義はイエス・キリストによりて啓示せられし福音の内容である。これを潔き良心をもって保持することが必要である。潔き良心なき者はこれを保持することができない。
3章10節 まづ
口語訳 | 彼らはまず調べられて、不都合なことがなかったなら、それから執事の職につかすべきである。 |
塚本訳 | (監督と同じく)この人達もまず(これらの点をよく)調べた上で、(少しも)非難すべき所が無ければ、執事の職に就かせよ。 |
前田訳 | 彼らもまず試験期を経、欠点がないものとしてはじめて世話をすべきです。 |
新共同 | この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい。 |
NIV | They must first be tested; and then if there is nothing against them, let them serve as deacons. |
註解: 「試みて」は「試験して」の意味であるが、必ずしも今日の教会にて行われるごとき口答または筆答による試験のごときものと解する必要はない。むしろテモテを始め監督、長老、執事等の主脳者は勿論、一般信者の観察や判断をもって試験する意味である。教理的試験よりもその行状の実際的検討である。ただし欧米の学者は多くこの反対の解釈を為す。
3章11節
口語訳 | 女たちも、同様に謹厳で、他人をそしらず、自らを制し、すべてのことに忠実でなければならない。 |
塚本訳 | 女執事も同様に謹厳で、(人の)悪口を言わず、真面目で、何事にも忠実でなければならぬ。 |
前田訳 | 女性も同様に高潔で、ひとをそしらず、冷静で何につけてもまめであるべきです。 |
新共同 | 婦人の奉仕者たちも同じように品位のある人でなければなりません。中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません。 |
NIV | In the same way, their wives are to be women worthy of respect, not malicious talkers but temperate and trustworthy in everything. |
註解: 女執事に関する一節を加う。「人を譏 らず」を特に女に対する注意に加えているのは(テト2:3)、女にこの種の罪に陥る者が多いからである。
辞解
「女」を妻と訳して(1)執事の妻(M0、B1、L2)と解する説、(2)一般に婦女子と解する説等あれど、(3)女執事と解するを可とす。現行訳は単に「女」とあり(2)の説によれるもののごとくに見えるけれどもおそらく(3)の意味に取ったのであろう。
3章12節
口語訳 | 執事はひとりの妻の夫であって、子供と自分の家とをよく治める者でなければならない。 |
塚本訳 | 執事は一人の妻の夫で、子女達と自分の家とをよくおさめねばならぬ。 |
前田訳 | 世話人はひとりの妻の夫で、子どもとおのが家とをよく治めるものであるべきです。 |
新共同 | 奉仕者は一人の妻の夫で、子供たちと自分の家庭をよく治める人でなければなりません。 |
NIV | A deacon must be the husband of but one wife and must manage his children and his household well. |
註解: 2、4節における監督の場合に同じ。
3章13節
口語訳 | 執事の職をよくつとめた者は、良い地位を得、さらにキリスト・イエスを信じる信仰による、大いなる確信を得るであろう。 |
塚本訳 | よく執事の職を務める者は、(教会にて)善き地位と、またキリスト・イエスに対する信仰による大なる確信とを獲る(ことが出来る)であろう。 |
前田訳 | よい世話人はよい地位に達して、キリスト・イエスにある信仰についてはばかることがないものです。 |
新共同 | というのも、奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになるからです。 |
NIV | Those who have served well gain an excellent standing and great assurance in their faith in Christ Jesus. |
註解: 「良き地位」は教会内における信用とか立場とかを指したるならん。「大なる勇気」はここでは「大なる確信」の意ならん。自己の職務を忠実に尽すこと、殊に教会のために尽すことは教会内に良き地歩を占める原因となり、また信仰上には益々確信が加わって来る。それ故に執事の職を善く果すことは人のためであるけれども結局己のためとなる。
要義1 [教会職員の徳性]信仰によりて義とせられ神に喜ばれる者は必ずしもここに列挙されるごとき数々の特性を具備する者とは限らない。人の目には大なる罪人と見ゆる者でも神の目には最も喜ばれる者である場合がある。しかしながら教会の職員となることは特殊の職務を遂行することである故、これに必要なる各種の条件があり、この条件を充たすだけの賜物の所有者たることを要する。ゆえに教会の職員たることはそれだけの多くの賜物を賜っていることの証拠であるけれども、天国において大なる者である意味ではない。
要義2 [教会の職員]牧会書簡には監督、執事、長老等に対する態度および彼らの資格、責任等につきて述べられているけれども、使徒時代においては今日のごとき法律的意味の職制が有ったわけではなく、実際上の必要に応じ、各人の霊の賜物により、種々の職務に従事したのであった。それ故に名称も互に相共通しており、職権の分離等も明瞭でなかった。しかしそれだけ霊的の世界が広かったということができる。学者も大体において当時の教会の職制が今日のそれとは異なることを認めておりながら、なお往々にして今日の教会制度の観念をもって当時の職制を考えんとすることは、多くの誤謬を生ずる基となることを注意しなければならない。
口語訳 | わたしは、あなたの所にすぐ行きたいと望みながら、この手紙を書いている。 |
塚本訳 | これらのことを君に書くのは、直に君の所に行こうと思っているが、 |
前田訳 | 早くそちらに行くことを望みながらこれらのことを書いています。 |
新共同 | わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。 |
NIV | Although I hope to come to you soon, I am writing you these instructions so that, |
註解: この望みが必ず実現し得るならば所感を認 める必要がないのであるが、あるいは実行不可能のことも無きにあらずと考えたのがパウロがこの書簡を認 めた理由であり、そしてその目的は次節のごとくであった。
註解: 「これらの事」はこの書簡の全内容を指す。
3章15節
口語訳 | 万一わたしが遅れる場合には、神の家でいかに生活すべきかを、あなたに知ってもらいたいからである。神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。 |
塚本訳 | 万一延引した場合、(皆が)神の家で如何に振舞うべきかを君(だけ)に(でも)知らせたいためである──神の家は活ける神の教会、真理の柱、また礎である。 |
前田訳 | 遅れる場合、神の家でいかにふるまうべきかを知ってもらうためです。神の家は生ける神の集会(エクレシア)で、真理の柱と礎です。 |
新共同 | 行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。 |
NIV | if I am delayed, you will know how people ought to conduct themselves in God's household, which is the church of the living God, the pillar and foundation of the truth. |
註解: キリスト者が教会に対し(そしてキリスト者そのものが教会である故、相互に対して)取るべき態度、すなわちあるいは教会の礼拝、統治、救済等に関して教えるためであった。これがパウロのエペソ訪問が後 れる場合に対する用意であった。
辞解
[人の] 原文になき故これを「テモテの」と解する人あれど、現行訳を採る。
註解: 教会をここで特に神の家と呼んだ訳は活ける神がその中に住み給うが故である。活ける神なるが故に、教会に関するその命令や規定は充分に行われることを要求し給う。
辞解
[神の家] 本来エルサレムの宮(マタ21:13)を指したのであるが旧約の聖徒(ヘブ3:2、5)新約の聖徒(ヘブ3:6。Tペテ4:17)にも用う。
註解: 前掲教会の同格的説明。教会によりて真理が支えられ、基礎を置かれる。あたかも家が柱と基礎とによりて支えられると同じである。すなわち教会は神の家であり神の住家(エペ2:22)また神の宮(Tコリ3:16)である故神その中に住み給い、真理がその中に宿っているのであるが、同時に教会はその真理を支えているのである。教会の破滅は同時に真理の破滅であり、同時に神の臨在の喪失である。ただしこの「教会」はカトリック教会を指すにあらず、ゆえにこの二句を強いて次節に結付ける(B1)必要はない。また組織と制度とを指すのでもなく、神の住み給う処、キリストを首 とせる体そのものである。
口語訳 | 確かに偉大なのは、この信心の奥義である、「キリストは肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた」。 |
塚本訳 | そして確かに(私達の)信仰の奥義は偉大である。(讃美歌にうたう通りである──)彼(キリスト)は肉にて顕され、霊にて義とされ、御使いたちに見られ、諸国の民に宣べ伝えられ、世に信ぜられ、挙げられて栄光に入り給うた。 |
前田訳 | まことにわれらの信仰の奥義は偉大です。「(キリストは)肉にあって現われ、霊にあって 義とされ、天使たちに見られ、諸民にのべ伝えられ、世を通じて信ぜられ、栄光のうちに高められたのです」。 |
新共同 | 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、/キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた。 |
NIV | Beyond all question, the mystery of godliness is great: He appeared in a body, was vindicated by the Spirit, was seen by angels, was preached among the nations, was believed on in the world, was taken up in glory. |
註解: 「敬虔」は牧会書簡においては「信仰」とほとんど同義に用いらる。次に来る六行詩は当時の讃美歌の一節であろう。これを引用してキリスト教的信仰の偉大さをたたえ、4:1以下の偽教師の誤謬を指摘する前提を為す。
辞解
[實 に] 「承認せられているごとく」の意味で「たしかに」というがごとし。
[奥義] すなわち啓示されるまでは顕われざる真理。
『[キリストは]
註解: 原文「キリストは」を欠き関係代名詞「彼は」(または異本「神は」)とあるが「キリストは」と解すべきことは明かである。「肉にて顕され」は受肉のこと、ヨハ1:14。ロマ8:3。Tヨハ4:2。
註解: 対句的に肉と霊とを対照す。キリストはその受肉よりその復活に至るまで常に神の喜び給う処であり(マタ3:17。Uペテ1:17)神は彼を義なる者と認め給うた(使3:14。使22:14。Tヨハ2:1)。これは彼の霊性に関することである。なおこれを人類の罪を負うて死に、人類に代って義とせられ給えり(B1)と解する必要はない。
註解: キリストの顕現は宇宙的である。ゆえに肉にて顕わされて人間の目に見得しのみならず、御使たちにも顕現し給うた(エペ3:10)。これは復活の後(A1、B1)と見る必要はない。
もろもろの
註解: 「もろもろの国人」は異邦人を指す。キリストは全世界に宣伝えられた。
註解: 「世」は「世界」キリストが全世界に信ぜられるに至った。
註解: 栄光の中に昇天し給いその中に居り給うことを意味す、この六句が二句ずつ三連をなすか、三句ずつ二連をなすか等種々に論じられているけれども、むしろ並列的であり、ほぼ歴史的順序によると見ることができる。