ヘブル書第9章
分類
1 教理の部 1:1 - 10:18
1-5 新約の大祭司の優越 8:1 - 10:18
1-5-ハ 旧約の祭事および犠牲の不完全 9:1 - 9:10
註解: 本章においては前章の比較と相関連しかつさらに一歩を進めて旧約の祭事およびその犠牲は共に不完全にして真のものの型に過ぎず、その実物はキリストにおいて凡て
完 うされることを示している。
9章1節
口語訳 | さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。 |
塚本訳 | さて、(前に言ったように、)最初の契約にも、礼拝の定めとこの世的の聖所とがあった。 |
前田訳 | たしかにはじめの契約にも礼拝の規則とこの世的な聖所がありました。 |
新共同 | さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。 |
NIV | Now the first covenant had regulations for worship and also an earthly sanctuary. |
註解: 旧約すなわち「第一の契約」(直訳)の特徴は二つある。その一は規則正しき礼拝の規定があったこと(6、7節に詳述されている)その二は「この世に属する聖所」即ち荒野における幕屋を持っていたこと(2−5節に詳述されている)であった。この双方とも新約において全く一変した。
辞解
[世に属する] kosmikon は天上に対する地上の意味を持つと同時に霊的に対する物質的肉的の意味をも含んでいる。▲「この世的の」で「天的の」の反対。
9章2節
口語訳 | すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンとが置かれていた。これが、聖所と呼ばれた。 |
塚本訳 | (その構造はつぎのとおり。)すなわち(聖所は二つの幕屋に分れ、前方に)第一の幕屋が設けてあって、その中には燭台と机と供えのパンとがあった。この幕屋を聖所と呼んだ。 |
前田訳 | すなわち、第一の幕屋が設けられ、そこには燭台と机と供えのパンとがありました。それが聖所と呼ばれたものです。 |
新共同 | すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。 |
NIV | A tabernacle was set up. In its first room were the lampstand, the table and the consecrated bread; this was called the Holy Place. |
註解: (▲私訳「第一の幕屋は設けられ、その中に燈台と案 と供のパンとあり、これは聖所と称えられる」)2−5節にイスラエルがモーセの指示に遵 い荒野において設けたる幕屋の簡単なる説明が与えられている。
辞解
[前なるを] 前の部分のこと、幕屋は前後の二部に分かれていた。前部は聖所、後部は至聖所である。各その入口に幕が下されていた。「燈臺」「案 」「供のパン」については引照を見よ、燈臺は純金製、案 はパンを置くためのもので純金をもって掩 われていた。引照参照。
9章3節 また
口語訳 | また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。 |
塚本訳 | また第二の幕のうしろには、至聖所と呼ばれる(第二の)幕屋があった。 |
前田訳 | 第二の幕の後に至聖所と呼ばれる幕屋がありました。 |
新共同 | また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。 |
NIV | Behind the second curtain was a room called the Most Holy Place, |
註解: 第一の幕は聖所の入口にあり、第二の幕は聖所と至聖所とを隔てている。
9章4節 その
口語訳 | そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、 |
塚本訳 | そこには金の香壇と、ぐるりと金を張った契約の箱とがあって、箱の中にはマナのはいっている金の壷と、芽を出したアロンの杖と、(十戒の書かれた)契約の(石)板とがあった。 |
前田訳 | そこには金の香壇と、すっかり金でおおわれた契約の箱とがあり、その中にマナのはいっている金のつぼと芽を出したアロンの杖と契約の石板とがあり、 |
新共同 | そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、 |
NIV | which had the golden altar of incense and the gold-covered ark of the covenant. This ark contained the gold jar of manna, Aaron's staff that had budded, and the stone tablets of the covenant. |
註解: 香壇は出30:1−10によれば至聖所の中にあるのではなく聖所の中にある。ヘブル書の著者がかかる重大なる誤りを犯した所以はおそらく七十人訳の本文の誤解し易きより生じたのであろう(例えば出26:35および出25:23−40には聖所に燈臺と案 とのみを配し、出30:6。出40:5、出40:26等は香壇が至聖所にあるかのごとくにも見え、また七十人訳には出35:15。出37:25−28。出39:38以下のごとき香壇に関する記事が除かれている)(C1、M0、I0、S2)またT列6:22等より見てそれが至聖所と密接の関係あることよりかく言ったと解する人もあり(E0、デヴィドソン)また学者によりてはその原語 thumiatêrion は香壇の意味にも用いられるけれども七十人訳においては凡て香爐の意味に用いられているのでレビ16:12により大祭司が年に一回至聖所に持ち込む火盤(ひざら)を意味すと解す(A1、B1、L1、Z0)。何れの解釈にも各重大なる困難あり。只本章の主旨に影響するところ少なければ詳論を略す。
この
註解: イスラエルに対する神の守護の証拠たるマナ(引照3、黙8:3)、アロンの祭司職を保証する芽ざしたる杖(引照4、5)、旧約の中心たる十誡を記せる石碑(引照6、黙11:19)はこの契約の櫃の中に蔵せられて至聖所の中心をなしていた。これらのものはみなキリストによりて成就さるべき表徴であった。(注意)「この中に」とあるはヘブル書著者がラビの伝説によったので(M0、Z0等、反対はS2)、聖書によれば(T列8:9。出16:33。民17:25)「その前」に置かれたのであった。
9章5節
口語訳 | 箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。これらのことについては、今ここで、いちいち述べることができない。 |
塚本訳 | 箱の上には、(翼で)贖罪所をおおう栄光のケルビムがあった。これらのことについては、今一々述べることはできない。 |
前田訳 | その上に栄光のケルビムがいて贖罪所をおおっていました。それについて、今はいちいち申せません。 |
新共同 | また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。 |
NIV | Above the ark were the cherubim of the Glory, overshadowing the atonement cover. But we cannot discuss these things in detail now. |
辞解
[ケルビム] 翼のある動物で贖罪所の両側に各一つずつ相対して置かれ、面は贖罪所に向けられていた。おそらくそこに上り給う神の栄光を負うもののごとくに考えたのであろう(引照、エゼ10:1以下)。なおケルビムの姿についてはこれを明らかにすることができない(エゼ10:14)。
[贖罪所 ] hilastêrion は契約の櫃の蓋を示すのであってそこに大祭司は年に一回贖罪のために血を灌ぐ例であった。
これらの
註解: この一々の物につきての型としての意義をここに詳論するのが著者の目的ではない。ただ至聖所と聖所における祭事とキリストとの関係を述べんとしているのである。
9章6節
口語訳 | これらのものが、以上のように整えられた上で、祭司たちは常に幕屋の前の場所にはいって礼拝をするのであるが、 |
塚本訳 | このように、これらが設けられると、第一の幕屋には祭司たちが絶えず入っていって、(燭台を整え、香をたき、供えのパンを替える)礼拝を行うのである。 |
前田訳 | これらがこのように備わってから、祭司たちはつねに第一の幕屋にはいって礼拝を行なうのですが、 |
新共同 | 以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。 |
NIV | When everything had been arranged like this, the priests entered regularly into the outer room to carry on their ministry. |
9章7節 されど
口語訳 | 幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。 |
塚本訳 | しかし(その奥の)第二の幕屋には、大祭司だけが年にただ一度(七月十日の贖罪の日に入ることを許され)、しかも自分と民との過失のために捧げる血なしでは、許されないのである。 |
前田訳 | 第二の幕屋には大祭司だけが年にただ一度はいります。しかも自らと民との過ちのためにささげる血を持たずにではありません。 |
新共同 | しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。 |
NIV | But only the high priest entered the inner room, and that only once a year, and never without blood, which he offered for himself and for the sins the people had committed in ignorance. |
註解: 幕屋、聖所、至聖所およびその中の器具が設けられた結果、そこに人々の間に階級的差別ができ、普通の人間はこの幕屋に入ることができず、聖所には出30:7以下に示すごとく日に二回祭司ここに入り香を焚き燈火を整え、また週に一度パンを供え(レビ24:8)、至聖所には年に一度大祭司が動物の血を携えて入り自己および民の罪を贖う(レビ16:12以下)、祭司は至聖所に入ることができない。この礼拝の定めによりて神の御前に出づることが如何に至難なるものであるかを示している。
9章8節
口語訳 | それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している。 |
塚本訳 | これは、第一の幕屋がなお存在しているかぎり、(至)聖所への道がまだ現われていないことを、聖霊が明らかにしているのである。 |
前田訳 | これによって聖霊が明らかにしているとおり、第一の幕屋が立っているかぎり、聖所への道はまだ開かれていません。 |
新共同 | このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。 |
NIV | The Holy Spirit was showing by this that the way into the Most Holy Place had not yet been disclosed as long as the first tabernacle was still standing. |
註解: 幕屋の聖所が人民と至聖所とを隔てるがごとくに、地上の幕屋すなわち「前なる幕屋」は天の至聖所に入る道が開かれるまで、その型として存在しているに過ぎない、すなわち地上の幕屋の至聖所は天の至聖所の型である。今やキリストの死によりて至聖所の幕は上より下まで裂けて二つとなり(マタ27:51)聖所と至聖所との間の境界が撤去された。我らはイエスの肉体の幕が裂かれしその路より至聖所に入ることができる(ヘブ10:20)。地上の幕屋の形式や礼拝の方法は神の言によりてモーセに示された。そしてこの幕屋の有つ霊的意義は聖霊によりて示されなければこれを解することができない。
辞解
[前なる幕屋] 直訳「第一の幕屋」で天の幕屋に対する世に属する聖所の意味に解する事ができる。
[至聖所] ここでは原語「聖所」とあるけれどもヘブ8:2。ヘブ9:12、ヘブ9:24、25。ヘブ10:19。ヘブ13:11等と同じくその意味は天にある真の幕屋、真の至聖所を指している。日本語改訳聖書には以上の諸箇所をあるいは「聖所」あるいは「至聖所」となし訳語が一定していない。
9章9節 こ[の
口語訳 | この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない。 |
塚本訳 | ──この第一の幕屋は現在の比喩である。──従って供物や犠牲は捧げられるが、礼拝する人の良心を完全にすることはできない。 |
前田訳 | これは今の世に対してのたとえです。それによってささげられた供え物といけにえとは礼拝者の良心を全うできません。 |
新共同 | この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。 |
NIV | This is an illustration for the present time, indicating that the gifts and sacrifices being offered were not able to clear the conscience of the worshiper. |
註解: この地上の幕屋は一つの比喩すなわち真のものを示さんがための型であって、この比喩の真意義がキリストによりて実現せられし現時のためのものである。ゆえにキリスト来り給いし今はこの第一の幕屋はもはや存在の必要がない。
辞解
[その時] ho kairos ho enestêkôs は「現時」の意味であるけれども二種の解あり、一つは地的幕屋が存在している間の全時期を指すとなし(M0、B1、E0、C1)、他はこれをキリストの来臨によりて生じたる新たなる時代と解している(A1、I0、Z0、W2、デリッチ)。「その時」と訳したのは第一説によりたるものなるべく、予は第二説を優れるものと思う。
註解: 礼拝をなすものすなわち祭司はもちろん、祭司を通じて供え物や、犠牲をささぐる者も、地上の幕屋における礼拝の定による供え物や犠牲だけではその罪が消されてしまはないのでその良心に満足を得ることができない。神との自由な霊の交わりは旧約の祭事によりてこれを得ることができない。
9章10節
口語訳 | それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いごとに関する行事であって、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない。 |
塚本訳 | (これらは)食物と飲物、また種々なる洗いごとに関する(もので、キリストの来臨による)完成の時まで有効な、肉体の定めに過ぎない。 |
前田訳 | それはたんに食物と飲物と種々な清めについてで、革正の時まで課せられた肉の規則にすぎません。 |
新共同 | これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。 |
NIV | They are only a matter of food and drink and various ceremonial washings--external regulations applying until the time of the new order. |
註解: 私訳「是らは食物、飲物さまざまの濯事 などと共に、改革の時まで負わされし肉的の定 に過ぎず」。この一節は種々の訳し方があるけれども私訳のごとくに解するを可とする(M0、Z0、B1等、なおI0、A1、E0、C1等は改訳に近き訳し方を採る)。上のごとくに訳する場合その意味は「是ら」すなわち供物や犠牲は、同じく律法によりて定められし食物(引照1)、飲物(引照2、レビ10:9。レビ11:34)、濯事 (引照3。マコ7:4。出29:4。レビ14:6−9、レビ15:5以下、レビ16:4、レビ16:24以下。民8:7。マコ7:3以下)等に関する規定等と相並んで肉的なる規定に過ぎない。すなわちこれらを行う事によりてイスラエル人はその民籍に属し、エホバの民たる資格を得るのであって、地上の問題この世的問題に過ぎない。ゆえにキリスト来り給いて凡てを新たにし給う時までこの規定に束縛される必要があり、その以後はもはやその必要を失ってしまう。なお改訳本文のごとくに訳する場合には供物や犠牲が食物、飲物、濯事 等より成っていることを意味する。
辞解
[に係り] epi なる前置詞を基礎、条件、成立要素等の意味に取る場合の訳で、私訳はこれを「共に」「相並びて」「その上に」(ルカ3:20。Uコリ7:13。コロ3:14のごとく)の意味に取りたるもの。
9章11節
口語訳 | しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 |
塚本訳 | しかしキリストは来るべき善いことの大祭司として(ついに地上に)あらわれ、手で造らない、すなわち、この世界に属しない、より大なる、より完全な幕屋を通って、 |
前田訳 | キリストは来られました。人の手で造られず、この世の被造物でなく、よりよくより完全な幕屋を経て、来たるべきよいものの大祭司としてです。 |
新共同 | けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、 |
NIV | When Christ came as high priest of the good things that are already here, he went through the greater and more perfect tabernacle that is not man-made, that is to say, not a part of this creation. |
註解: 1−10節に記されしモーセよりの旧き契約の定とこの世の聖所の不完全なる点をキリストが完成し給えることを11−22節に述べている、従ってキリストの死がこの点の中心をなしている。「来たらんとする善き事」は現世の汚穢と無常とに反し永遠にして聖なる物を指す。すなわち神との不断の霊交とその救いを永遠に確保することであり「永遠の嗣業」(15節)とも言われている。そしてこの事実は信者が現世においてすでにその前味を味わっており(ヘブ6:4)、後にキリストの再臨に際して完全に実現するところのものである。そしてキリストはこのことの大祭司として来り給うた。
註解: イスラエルの大祭司は神の被造物を材料として人の手にて造れる幕屋の聖所を経て至聖所に入った。キリストの通過し給える幕屋はこれよりも「一層大にして完全なるもの」であった、そして人間が造ったのではなく主の設けたまう所(ヘブ8:2)であり、また「この創造に属せぬもの」(直訳)であって、すなわち天地間のあらゆる被造物にあらざるものから成る幕屋である。この幕屋は諸 の天を指す(ヘブ4:14。ヘブ8:1、2。ヘブ7:26。ヘブ9:24等参照)
辞解
この「幕屋」が何を指すかにつき異説あり、古代のギリシャ教父B1、C1等はキリストの受肉を指すと解し(ヘブ10:20)、その他種々の解釈がある。予はこれを諸 の天と解する説を取った(A1、I0、E0、M0、Z0、G2)、これ本節の場合最も適当なる解釈である。
[この世に属せぬ] ou tautês tês ktiseôs は「この創造に非ざる」との意味であらゆる被造物と無関係なることを示す。
9章12節
口語訳 | かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。 |
塚本訳 | また、雄山羊や小牛の血をもってでなく、自分の血をもって、ただ一度かぎり(至)聖所に入り、永遠のあがないを得られたのである。 |
前田訳 | 彼は山羊や小牛の血によらず、ご自身の血でただ一度聖所におはいりになり、永遠のあがないを全うされました。 |
新共同 | 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。 |
NIV | He did not enter by means of the blood of goats and calves; but he entered the Most Holy Place once for all by his own blood, having obtained eternal redemption. |
註解: 前節はキリストの仕え給う幕屋の場所、本節はその祭事の内容を示す。旧約の大祭司は年に一回至聖所に入る際に贖罪の血を持たずしてはこれを為すことができなかった(レビ16:14、15)。このことはキリストにおいても同様であった。ただその用いし血は、前者は動物の血であり後者は神の子キリスト御自身の宝血であって、無限に永遠に罪を贖うの力を有つものであった。大祭司は年に一度至聖所に入り、キリストはこの血をもって只一度のみ至聖所に入りてその救いの御業を完成し給うたのである。「血」は「死」を意味する。
辞解
[只一たび] ephapax は一度ありて二度無きこと、およびこの一度ありしことの効果の永続することを示す(ヘブ7:27。ヘブ10:10)。
「終へたまへり」と訳されし heuriskô はこの場合「見出したまえり」または「獲得し給えり」の意。
9章13節 もし
口語訳 | もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、 |
塚本訳 | なぜなら、もし雄山羊や雄牛の血や(水にまぜた)雄牛の灰を、けがされた人々に注ぐことによって、肉体をきよめて、清潔にする(くらい)ならば、 |
前田訳 | もし山羊や牡牛の血や雌牛の灰がそそがれて汚れた人々の肉体をきよめて聖化するならば、 |
新共同 | なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、 |
NIV | The blood of goats and bulls and the ashes of a heifer sprinkled on those who are ceremonially unclean sanctify them so that they are outwardly clean. |
9章14節 まして
口語訳 | 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。 |
塚本訳 | まして永遠の御霊の力によって傷のない自分自身を神に捧げたキリストの血が、わたし達の良心を死ぬ行いから清めて、生ける神を礼拝させないことがあるだろうか。 |
前田訳 | まして永遠の霊によって自らを無きずのまま神におささげのキリストの血はわれらの良心をきよめて、死んだわざを去って生ける神に仕えるように向かわせるものです。 |
新共同 | まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。 |
NIV | How much more, then, will the blood of Christ, who through the eternal Spirit offered himself unblemished to God, cleanse our consciences from acts that lead to death, so that we may serve the living God! |
註解: 12節の真理をさらにこの二節において詳しく説明を施し、旧約の献物なる犠牲と新約の犠牲との差別を示す、(1)旧約の祭司は自己の願いによらず律法の規定に遵 いて犠牲をささげ、キリストは己の心の願いより犠牲を献げ給うた。(2)山羊、犢 、牡牛、牝牛等は理智を具えざる動物でその意思によらずして強制的に犠牲とせられ、キリストは永遠の御霊により己の自由の意思より自ら犠牲となり給うた。(3)動物は無人格の被造物に過ぎざるにキリストは神の独り子、神の愛子に在し給い、この間に価値の絶対的差別がある。(4)動物はその肉体に瑕なきものが献げられたに過ぎず、キリストは全く罪なくして心に少しの瑕もなき完全なる御方であった。(5)動物の血はこれをそそぐことによって肉体の穢 を除き(牝牛の灰の場合《民19:9、民19:17、18》、その他祭司が日毎にささぐる犠牲の場合のごとく)またはイスラエルの罪を外部的、形式的に潔めて(大祭司が年に一回ささげる犠牲のごとく)イスラエルの民籍に属する資格すなわち外部的特権を保たしめているに過ぎないのに反し、キリストの血は心の穢 を除き、良心を「死にたる行為(引照3)」すなわち神を離れし行為より潔めて「活ける神に事 へ」神との直接の霊交に入らしめる。前者は凡て肉的地的であり後者は凡て霊的天的である。▲旧約の「いけにえ」の動物の不完全なるに比較して新約のイエスの「いけにえ」は完全である。
辞解
「山羊および牡牛」と言いて前節(12節)のごとく「山羊および犢 」と言わざる理由は「山羊および牡牛」は一般的称呼で一般の犠牲を意味しているからである(イザ1:11。詩50:13)。
「牝牛の灰」によりて死人に関する汚れより潔められることにつきては民19:1−22を見よ、ここでは死人に関する汚れより潔められることと「死にたる行為」より潔められることとを対応せしめている。
[永遠の御霊] ヘブ7:15の「朽ちざる生命」と同じくイエスの中に宿れる不朽不死の霊を指す、これはイエスの肉体の一時的性質に対して永遠であり、永遠の贖罪(12節)に対照する。
[死にたる行為] ヘブ6:1註参照。
口語訳 | それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。 |
塚本訳 | このゆえに、彼(キリスト)は新しい契約の仲介者である。彼は最初の(旧い)契約の下に犯された違反をあがなうために死なれたのであるから、(そのあとは神に)召された者が(すべて)永遠の相続財産の約束をいただくのである。 |
前田訳 | それでこそ彼は新しい契約の仲保者です。それは、はじめの契約の下に犯された罪のあがないのために死がなしとげられて、召された人々が永遠の世継ぎの約束を受けるためです。 |
新共同 | こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。 |
NIV | For this reason Christ is the mediator of a new covenant, that those who are called may receive the promised eternal inheritance--now that he has died as a ransom to set them free from the sins committed under the first covenant. |
註解: 「この故に」は11−14節を受くる語、すなわち旧約の祭事と犠牲に比しはるかに優れる祭事と、犠牲とがキリストによりて完了せられし故にヘブ8:8−12は実現しキリストは新約の仲保者(ヘブ8:6註解および辞解参照)で、神と人との間に立ちて人を神に和らがしめ給う(Tテモ2:5)。
これ
註解: イスラエルは「初の契約」すなわち旧約の下に罪を犯し神の戒めに違反した(ヘブ8:9)。ゆえにエレミヤの預言なる新約の罪の赦しすなわち贖いが必要である(ヘブ8:10−12)。そしてエレミヤは単にこれを預言し宣言したのみでその方法を示さなかったのに、キリストはその方法としてその死を味わい給うた。この死が事実として発生したがために罪の贖いが成就し、召されし者は永遠の嗣業(ヘブ6:12。エペ1:12その他)すなわち神の国を嗣ぐの約束を事実自分のものとして受取ることができる。このためにキリストは新約の仲保となり給うた。
辞解
[死あるによりて] 原文「死が事実生ぜしによりて」の意。
[約束の永遠の嗣業] 原文「永遠の嗣業の約束」であって受けるものは嗣業でなく約束である。嗣業はキリストの再臨の時事実としてこれを受け、約束は旧約時代には単にこれを聴かされたのみであるけれども、キリストの死によりて事実その約束を自分の者として受取る、その保証は我らの受けし聖霊である(エペ1:14)。
口語訳 | いったい、遺言には、遺言者の死の証明が必要である。 |
塚本訳 | なぜなら、遺言[契約]には、遺言者の死んだこと(の証拠)を必ず提出せねばならない。 |
前田訳 | 遺言(という契約)は遺言者の死の確認が必要です。 |
新共同 | 遺言の場合には、遺言者が死んだという証明が必要です。 |
NIV | In the case of a will, it is necessary to prove the death of the one who made it, |
9章17節
口語訳 | 遺言は死によってのみその効力を生じ、遺言者が生きている間は、効力がない。 |
塚本訳 | 遺言は遺言者が生きている間は決して価値がないので、死によって効力を生ずるからである。 |
前田訳 | 遺言は死によって効力を生じ、遺言者が生きているうちは効力がありません。 |
新共同 | 遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。 |
NIV | because a will is in force only when somebody has died; it never takes effect while the one who made it is living. |
註解: キリスト新約の仲保者なりとすれば何故にその死を必要とするかにつき遺言の例をもって説明す。ここに「遺言」と訳されし原語 diathêkê はこれまで「契約」と訳せられしものと全く同文字で(遺言者と契約者とも同文字)これに二種の意味があること、および聖書においては一方の意思表示による契約を意味し遺言とその性質を同じくすることについてはヘブ7:22辞解参照。遺言の効力が遺言者の死によりて発生することは当然である。15節前半によればキリストは新約の仲保にして遺言者(契約者)自身は神であるけれども、キリストは神の像、神の子、神の本質に在す意味において遺言者自身と同一視せられている。ゆえにキリストの死は新約の効力発生の原因であった。
9章18節 この
口語訳 | だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではない。 |
塚本訳 | それゆえ最初の契約も、血なくしては清められなかった。 |
前田訳 | したがってはじめの契約も血なしにはじまったのではありません。 |
新共同 | だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。 |
NIV | This is why even the first covenant was not put into effect without blood. |
註解: 一見契約者(遺言者)の死とは無関係なるがごとくに見ゆる旧約すら血(すなわち死)と無関係に成立したのではない。その証拠は次の三節に示さる。
9章19節 モーセ
口語訳 | すなわち、モーセが、律法に従ってすべての戒めを民全体に宣言したとき、水と赤色の羊毛とヒソプとの外に、子牛とやぎとの血を取って、契約書と民全体とにふりかけ、 |
塚本訳 | というのは、律法による掟がことごとくモーセから民全体に語られたのち、彼は小牛と雄山羊との血を、水と緋色の羊毛とヒソプと一しょに取り、(これを)律法の書自体と民全体とにそそいで、 |
前田訳 | すべてのいましめが律法どおりモーセによって民全体に告げられたとき、彼は水と赤い羊毛とヒソプとともに小牛と山羊との血をとって書きものと民全体にふりかけ、 |
新共同 | というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、 |
NIV | When Moses had proclaimed every commandment of the law to all the people, he took the blood of calves, together with water, scarlet wool and branches of hyssop, and sprinkled the scroll and all the people. |
9章20節 『これ
口語訳 | そして、「これは、神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言った。 |
塚本訳 | こう言ったからである、“これは神があなた達に命じられた契約の血”と。 |
前田訳 | 「これは神があなた方とお立ての契約の血です」といいました。 |
新共同 | 「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。 |
NIV | He said, "This is the blood of the covenant, which God has commanded you to keep." |
9章21節 また
口語訳 | 彼はまた、幕屋と儀式用の器具いっさいにも、同様に血をふりかけた。 |
塚本訳 | そして幕屋にも礼拝用の器具全体にも、同じく血をそそいだ。 |
前田訳 | そして幕屋と礼拝の器すべてにも同じように血をそそぎました。 |
新共同 | また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。 |
NIV | In the same way, he sprinkled with the blood both the tabernacle and everything used in its ceremonies. |
註解: 初の契約も血をもって立てられしことの証拠として出24:3−8その他の部分に録される事実を掲げ、その中心事実は血を灑 ぐこと、すなわち死であって、この血は「神の命じたまふ契約の血」であり、契約の効力発生の確証であることを示している。そして「血」は「死」を示す以上この初の契約(遺言)の効力が発生するについても「死」の表徴をもってその印としたのを見ることができる。キリストの最後の晩餐において「是れ新約の我が血なり」(マタ26:28。Tコリ11:25)と言い給いしもこれとその意義を同じうしている。(注意)19−21節の記事と出24:3−8に記されるモーセが律法を民に告げし場合の事実との間には少なからず相違があるけれどもこれは説明を与えて解決することができる。出24章の記事に「山羊」については記されていないけれども燔祭(出24:5)の記事がある以上山羊をも用いたこととなり(レビ11:10)、「水と緋色の毛とヒソプ」とについても記されていないけれども血を灑 ぐ以上(出24:6)これらのものを用うる必要があったはずであり(民19:6、民19:17以下。レビ14:2以下)、また「書 」に血を灑 ぎしことも記されていないけれども「壇の上」に灑 ぎし以上(出24:6)その上にある「書 」にも灑 がれしはずであり、また「幕屋と祭の器」については記されず唯出30:26−29。出40:9。レビ8:10にこれらに油を注ぎて聖むることが記されているに過ぎない、唯血は檀のまわりに灑 がれたのみであった(レビ8:15、レビ8:19、レビ8:24)。只当時の伝説に幕屋と祭器に血を灑 ぎしことが言い伝えられていたのであろう。ヨセフスの古代史にもこの記事がある(M0)。
辞解
[ヒソプ] 一種の草。
9章22節 おほよそ
口語訳 | こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。 |
塚本訳 | こうして律法にしたがえば、ほとんどすべてのものが血で清められ、血を流すことなしには(罪の)赦はない。 |
前田訳 | そして律法によれば、ほとんどすべてが血によってきよめられ、血を流すことなしにゆるしはありえません。 |
新共同 | こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。 |
NIV | In fact, the law requires that nearly everything be cleansed with blood, and without the shedding of blood there is no forgiveness. |
註解: 旧約の律法によれば、ほとんどあらゆるものが19−21節にも言えるごとく、神の前に出づるには血をもて潔められることが必要である。その故は神の前には如何なる罪も穢 も生命を犠牲にするにあらざれば赦されず、すなわち生命を以てにあらざれば贖われず、そして血は生命の表徴であり、血を流すことは死すなわち犠牲を意味するからである(レビ17:11)。ゆえにキリストの死は新約の効力の発生の原因である。
9章23節 この
口語訳 | このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。 |
塚本訳 | だから、天上のものの模型が必ずこんなにして清められねばならない(くらい)なら、(原形である)天上のこと自体は、これら(地上)のものにまさる犠牲で清められねばならない。 |
前田訳 | さて、天のものの型がこれらによってきよめられるならば、天のもの自体はそれらよりすぐれたいけにえによってきよめられる必要があります。 |
新共同 | このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。 |
NIV | It was necessary, then, for the copies of the heavenly things to be purified with these sacrifices, but the heavenly things themselves with better sacrifices than these. |
註解: イスラエルが有ちし地上の幕屋すなわち聖所は天の聖所に象 ったものであった。そして地上の幕屋なる聖所およびその器具を潔めて神に近付くのに山羊、犢 その他の動物の血を用うるとすれば、天の幕屋なる聖所を潔めるにはこれに勝りたる犠牲すなわちキリストの血が必要である。天の幕屋および聖所は「人の設くるものにあらず主の設け給ふ所」(ヘブ8:2)であってこれを潔むる必要なきがごとくであるけれどもこの聖所に入るべき者は凡てのキリスト者でありこれらの人々は潔められたるものとしてそこに入らなければならぬ。これキリストの血によりて潔められれることが必要なる所以である。
9章24節 キリストは
口語訳 | ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。 |
塚本訳 | というのは、キリストは手で造った、本当の聖所の模型の聖所でなく、天そのものに入って、今わたし達のために神の御顔のまえに現れてくださったのである。 |
前田訳 | キリストは真のもののひな形である手で作った聖所にではなくて、天そのものに入って、今やわれらのために神のみ顔の前に現われてくださいました。 |
新共同 | なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。 |
NIV | For Christ did not enter a man-made sanctuary that was only a copy of the true one; he entered heaven itself, now to appear for us in God's presence. |
註解: 前節は一般的提言であり本節にこれをキリストに適用している。旧約の大祭司と新約の大祭司なるキリストとの差が、ここにも明らかにせられている。真の天とこれに象 れる幕屋(ヘブ8:5)、神との直接の面接と、単に神の御座なる贖罪所とケルビム(しかも香の煙をもってこれを掩 いつつ、レビ16:2、レビ16:13)との前に立つこととの間に絶大なる相違がある。
辞解
[象 れる] antitypa はヘブ8:5および前節 hupodeigma 「象 りたる」とほとんど同意義に用いられ、モーセに示されし型に則 って造れるもの。
9章25節 これ
口語訳 | 大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。 |
塚本訳 | また、大祭司が自分のものでない血をもって毎年(至)聖所に入るように、彼は幾度も自分を捧げるために入られたのでもなかった。 |
前田訳 | 大祭司が年ごとに他のものの血を持って聖所に入るようには、キリストはたびたび自らをおささげではありませんでした。 |
新共同 | また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。 |
NIV | Nor did he enter heaven to offer himself again and again, the way the high priest enters the Most Holy Place every year with blood that is not his own. |
註解: 旧約の大祭司とキリストとの差は前節の差のみではなく、さらにその犠牲をささぐる回数において、およびその犠牲の性質において差異があった。旧約の大祭司は毎年一回これをささげ、そして自己の血にあらざる他の動物の血であった。キリストは然らず、彼にはこの犠牲の反復の必要がなかった。
9章26節 もし
口語訳 | もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。 |
塚本訳 | そうでなければ、世の始から(罪人はあったのだから)、彼は幾度も苦しみをうけねばならなかったのである。しかし今や世の終に、キリストは(人々の)罪を除くため、自分の犠牲によって、ただ一度自分を現わされたのである。(彼の犠牲は空前絶後である。) |
前田訳 | それならばキリストは、世のはじめからたびたびお苦しみになるはずでした。しかし今や自らのいけにえによって罪を除くために、世々の終わりにただ一度お現われでした。 |
新共同 | もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。 |
NIV | Then Christ would have had to suffer many times since the creation of the world. But now he has appeared once for all at the end of the ages to do away with sin by the sacrifice of himself. |
註解: もしキリストの犠牲が旧約の大祭司のそれのごとくに不完全で一時代または一部の人の罪を贖い得るに過ぎないものであるならば、キリストは世の創 より、すなわち罪人が起りし以来幾度も死の苦を受けなければならぬはずである。「己を献ぐる」ことと「死の苦難を受くる」こととは同一事を意味する(ヘブ2:9。ヘブ13:12)。
註解: 然るにキリストの現われ給うたのは、世の始 よりではなく、世の季 に至りてであり、また「他の血」を犠牲とせずして己を犠牲とし給い、人類の一部の罪にあらずして世の創 以来のあらゆる人類の凡ての罪(単数定冠詞)を除かんがためであり、しばしばではなくして唯一度であった。
9章27節
口語訳 | そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、 |
塚本訳 | そして、ただ一度死ぬことと、そのあとで(神の前に出て)裁きを受けることとが人間にきまっていると同様、 |
前田訳 | およそ人はただ一度死に、その後に裁きがありますが、 |
新共同 | また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、 |
NIV | Just as man is destined to die once, and after that to face judgment, |
註解: 凡ての人間は一度は必ず死ななければならず、また死後に(その時期につきここに示されていないけれども)審判を受けなければならないことは人間の定めであって、如何なる人もこれを免れることができない。
辞解
[如 く] kath' hoson(ヘブ3:3。ヘブ7:20。出22:16)には「故に」の意味を含む、すなわち本節は単に次節と類似しているだけではなく次節の原因または理由となる。
9章28節 キリストも
口語訳 | キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。 |
塚本訳 | キリストも、ただ一度“多くの人の罪を負う”ために捧げられ、(それから)二度目に、(しかし今度は)罪と関係なく、救のため、彼を待っている者に自分をあらわされるのである。 |
前田訳 | そのようにキリストも多くの人々の罪を負うためにただ一度自らをおささげになり、二度目には自らを待ち受ける人々を救いに導くよう、罪を負うためでなくお現われになるでしょう。 |
新共同 | キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。 |
NIV | so Christ was sacrificed once to take away the sins of many people; and he will appear a second time, not to bear sin, but to bring salvation to those who are waiting for him. |
註解: これによりキリストにおいて万人の死と審判とがすでに成就せられた。その故はキリスト多くの人の罪を負うて十字架にかかり、彼らに代りて罪の審判を受け給いしが故に、凡ての人類が一度は必ず経なければならない死と審判はキリスト一たび己を献げ給いしことによりてすでに成就したからである。キリストの唯一度の死の効果は実に無限である。
註解: 私訳「二度目には己を待望む者を救いに導かんために罪を負わずして現れ給ふべし」。キリストの贖罪の死は唯一度現われてこれを完成し給うた(26節)。第二回に現われ給う場合には(すなわち再臨の場合には)すでに罪を贖われて神の子とせられ、再び来給うキリストを待望んでいる者(すなわちキリスト者)を救わんがためである。この場合にはこれらの人々はすでに罪を贖われ罪なきものとせられているのでキリストはもはや人類の罪を負い給う必要がない。従ってモーセ以来千余年間イスラエルに行われた祭事と幕屋はキリストの一たびの犠牲により完成し、もはやその必要を失ったのである。
辞解
[救 ] 二義あり、罪の赦しも救であり、赦されし者が復活栄化せしめられることも救である。本節の救およびロマ5:9−10の救のごときは後者の場合である。
要義1 [一たびの意義]ヘブル書は好んで「一たび」 hapax 又はephapaxの文字を用いている。これらの文字は多くの場合一度であってその効果が永続し、従って二度ある必要なきことを意味しているのであって、キリストの顕現(26節)も、その犠牲の死も(27節)唯一度で永遠にその効果があることを示さんがためにこの文字を繰返し用いたのである。実にキリストの顕現とその死は人類歴史の上に千九百年前に唯一回起った事実に過ぎなかった。ゆえにもしこれが普通の人間の生と死であったならば、そこに特別の意義が有り得ない。然るに預言者に優りモーセに優り天の使に優り、神の像に在し給うキリストが一度現われて一度己を献げ、一度天の至聖所に入り給えることは深き意義があることであって、これによりて人類は永遠より永遠にわたって贖われ、その罪を赦され神の子とせられたのである。この「一たび」の意義を充分に理解することによりてキリストの顕現と死とが宇宙の歴史における最大最要の事実であり旧約の律法に比して如何に優っているかを知り、また旧約の完成であることをも知ることができる。
要義2 [罪の赦しと血]ヘブル書においては罪の赦しと血すなわち生命を犠牲とすることとの密接なる関係を記しているけれどもその理由はこれを記さない。たしかに人間の罪の値は死である以上(創3:19。ロマ6:23)罪を贖うがためには同じく死をもってしなければならない。この事実が旧約の祭事と犠牲において表徴せられ、キリストの死によりて成就せられたのである。ゆえにキリストの死が罪の贖いであることは、近代の神学者の説明するがごとくにパウロ等が旧約の思想に支配せられしに過ぎないものではなく、人間の罪と神の審判との本質上当然の必要であり、神はこのことを表徴をもってイスラエルに示し、そしてキリストにおいて始めて人類の罪の贖いを完全に成就したのである。
ヘブル書第10章
註解: 前章23節以下の継続としてキリストの犠牲とイスラエルの犠牲との区別を示し、前者は唯一度にて足り、後者は年々繰返すもなお完全に罪を潔め能わざることを示す。
10章1節 それ
口語訳 | いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。 |
塚本訳 | つまり(モーセ)律法には、(ただキリストがもたらす)来るべき幸福の影があるばかりで、その事の(まことの)姿それ自身がないのである。毎年たえず捧げる同じ(雄牛や雄山羊の)犠牲では、(神に)近づく者[祭司と一般の人](の罪)を(永久に清めて)完全にすることは、決して出来ないからである。 |
前田訳 | そもそも律法は来たるべきよいことの影を持つだけで、ことの像(すがた)自体を持ちません。それで、(律法によって)年ごとに絶えずささげるいけにえでは、み前に近づくものたちをけっして全うしえません。 |
新共同 | いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。 |
NIV | The law is only a shadow of the good things that are coming--not the realities themselves. For this reason it can never, by the same sacrifices repeated endlessly year after year, make perfect those who draw near to worship. |
註解: 「来たらんとする善き事」につきてはヘブ9:11註参照。そうして律法は単にその影であって来たらんとする善きことの大体の輪郭を示すに過ぎず、かつ実物が来る時影は存在の必要を失う。「真の形」 eikôn tôn pragmatôn は「実物の像」と訳すべきで実物はすなわち来るべき善き事であり(Z0)、神と共に永遠に生きて神の嗣業を嗣ぐことである。像はその実物の生き写しであって鋳型に対する鋳物のごときものを言うのである。この場合はキリストを指しているのでキリストは「神の像」(コロ1:15)また凡ての善き事の具体化である(コロ1:27。コロ2:3、コロ2:9)。ゆえに律法とキリストとを対照する時、前者は実在性なく一時的でありその形もまた動揺するけれども後者は実在であり永久不変である。故に律法に従って大祭司は「毎年々々」年に一回づつ「たえず」人民の罪の為に犠牲を神に献げているけれどもこれをもっては「神に来る者」すなわち礼拝者を「何時までも」永遠に「全うし」て「神との正しき関係に立たしむること」(Z0)ができない。すなわち律法とこれによって行われし祭事犠牲の目的はキリストを予告するにあった。
10章2節 もし
口語訳 | もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。 |
塚本訳 | もしそうでなければ、捧げることをやめてしまったはずではないか、(犠牲を捧げて)礼拝する者は(それによって)ただ一度清められ、もはやいかなる罪の自覚も持たないわけだから。 |
前田訳 | もし全うしうるならば、礼拝するものは、一度清められて全く罪の意識がなくなりますから、いけにえをやめたはずではありませんか。 |
新共同 | もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。 |
NIV | If it could, would they not have stopped being offered? For the worshipers would have been cleansed once for all, and would no longer have felt guilty for their sins. |
註解: 律法に遵 って犠牲を献げることは罪の意識を消滅させるのに足りない、人が年々犠牲を献げることを止め得ないことはこれを証明する。キリストは全くこれと異なる(9、10節)。ここでは勿論個々の罪につき言っているのではなく全体として神との義 しからざる関係を言っている(Z0)。
辞解
[復 心に罪を憶 えねば] 私訳「もはや罪の意識を有せざれば」。
10章3節
口語訳 | しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。 |
塚本訳 | しかし(事実は反対で)、この犠牲によって(むしろ)毎年罪の記憶が呼びさまされるのである。 |
前田訳 | しかしこれらいけにえによってこそ年ごとに罪の記憶が生まれるのです。 |
新共同 | ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。 |
NIV | But those sacrifices are an annual reminder of sins, |
註解: 第一節と相対立しており、年ごとに献げる犠牲は罪を除き得ざるのみならず反対にかえって年々罪を憶 い起す原因となるのである。律法によりては罪は除かれず益々罪の罪たることを示されるに過ぎない。「憶 ゆる」は各人の心に憶 ゆること、記憶を呼び起すことであって、公けに民の罪を告示すること(B1)ではない。
10章4節 これ
口語訳 | なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。 |
塚本訳 | 雄牛や雄山羊の血は罪を取去ることが出来ないからである。 |
前田訳 | 牡牛や山羊の血は罪を除きえないからです。 |
新共同 | 雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。 |
NIV | because it is impossible for the blood of bulls and goats to take away sins. |
註解: 山羊と牡牛との血は唯やがて来り給うキリストの十字架上の血の表徴に過ぎなかった。キリストの血こそは我らの罪を全く除くことができるのであって、これに比し動物の血は全く何らの力がない。ゆえに年々繰返される犠牲は唯罪を憶 えてこれを除くキリストを待望ましむる力たるにすぎない。
10章5節 この
口語訳 | それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。 |
塚本訳 | だからキリストは、(血肉の人として)この世に入ってきたときに言われる、“犠牲や捧げ物を、あなたは好まれず、ただ体をわたしのためにお備えになった。 |
前田訳 | それゆえ、彼はこの世に来られてこう仰せです、「なんじはいけにえとささげものを欲したまわず、体をばわがためにそなえたもうた。 |
新共同 | それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。 |
NIV | Therefore, when Christ came into the world, he said: "Sacrifice and offering you did not desire, but a body you prepared for me; |
註解: ヘブル書の著者は詩40:6その他を引用し、これをキリストの言として掲げたのである。すなわち神の求め給う処のものは犠牲と供物、すなわち儀式礼典ではない(詩50:7−15。イザ1:11−15。エレ6:20。エレ7:21−23。ホセ6:6。アモ5:21−24)、愛をもって己を犠牲とすることである。これがためにキリスト肉体を与えられてこの世に来り給うた。かくしてキリストの受肉は律法による犠牲の為し能わざることを成して(ロマ8:3)律法に対する革命を成就し給うた。
辞解
[世に来る時] (1)公生涯に入り給う時、(2)成年に達し給える時等の解釈があるけれども、(3)キリスト肉体を取ってこの世に来り給える時と見るを可とする。
[わが為に體を備へたまへり] 七十人訳によったのでヘブル語旧約聖書には「我が耳を穿ち給えり」とあり、この差異はあるいは結局意味に大差なく共に神の意思に服従することを意味すとするもの(B1、I0、E0、Z0)と写字の誤りによるとするものとあり(M0、A1)何れとするもヘブル語の著者は七十人訳をそのまま引用し、最も適切なるキリストの預言を見出したのである。
[言ひ給ふ] 現在動詞を用いてこのイエスの言の現在にも適用されることを示す。ただし詩40篇は全体としてメシヤの預言の詩ではない。▲パウロ始め新約時代のユダヤ人には旧約聖書の語句を前後の関係より分離して独立の預言としてこれを利用する習慣があった。一書となって出来上っている聖書そのものを神の言と見る態度である。当時代の人にはこれが強い証明力を有ったのであるが、これを濫用すれば不真理を真理として証明するごとき結果を来たさないとも限らない。我らは聖書が書かれたその信仰的内容を重視しなければならぬ。
口語訳 | あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。 |
塚本訳 | 燔祭や罪祭を、あなたは喜ばれなかった。 |
前田訳 | 燔祭や罪祭はお気に召さなかった。 |
新共同 | あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。 |
NIV | with burnt offerings and sin offerings you were not pleased. |
辞解
[燔祭] レビ1章に詳しく記載されている。全身全霊をことごとく神に献げることの型、種々の場合に燔祭はささげられた(出29:38−42。民18:3−8。民28:9、10。レビ8:18。レビ9:12。レビ12:6、レビ12:8。レビ14:19。レビ15:15、レビ15:30等)。
[罪祭] レビ4章−6章に詳記せらる、罪の贖いのためにささぐる犠牲で種々の場合にささげられた。
10章7節 その
口語訳 | その時、わたしは言った、『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」。 |
塚本訳 | その時わたしは言った、「見よ、わたしは来ました、──聖書の巻物に、わたしについて書いてある──神よ、御心を行うために!」と。” |
前田訳 | そのときわたしはいった、『見よ、わたしは来た、聖書の巻物にわたしについて書かれているとおり、神よ、み心を行なうために』」と。 |
新共同 | そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」 |
NIV | Then I said, `Here I am--it is written about me in the scroll-- I have come to do your will, O God.'" |
註解: 詩40:7、8の引用の続きで、これをキリストの言と見、キリストの来り給えるは神の好み給わざる燔祭、罪祭のごとき空しき儀式を行わんがためではなく、神の御旨に従いかれの体を犠牲として献げんがためであった。
辞解
[神よ] idou で「視よ」と訳すべきもの。
[書 の卷 ] 聖書のことと解する学者あれどこの詩の作られし時おそらく聖書は完成せざれば、旧約聖書の中その当時に於て存在せし部分を指すものであろう。本文七十人訳と些少 の差異あり、本文の場合に適合するように変更せるもの。▲▲あるいは七十人訳の訳者が原文を見誤ったのか。
10章8節
口語訳 | ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、 |
塚本訳 | 初めには“犠牲や献げ物や燔祭や罪祭を、あなたは好まれず、また喜ばれなかった”と言い──これらは律法にしたがって捧げられるものである── |
前田訳 | まず、「律法に従ってささげられるいけにえとささげものと燔祭と罪祭とをなんじは欲しも好みもしたまわなかった」とあり、 |
新共同 | ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、 |
NIV | First he said, "Sacrifices and offerings, burnt offerings and sin offerings you did not desire, nor were you pleased with them" (although the law required them to be made). |
10章9節
口語訳 | 次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。 |
塚本訳 | “その時、見よ、わたしは来ました、御心を行うために!”と言われたのである。(これは)第二のものを立てようとして、第一のものを廃止されるのである。(すなわち律法による捧げ物が御心にかなわないので、キリストは御自身を捧げ物にされた。) |
前田訳 | 次に、「見よ、わたしはみ心を行なうために来た」とあります。彼は第二のものを立てるために第一のものを廃止なさるのです。 |
新共同 | 次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。 |
NIV | Then he said, "Here I am, I have come to do your will." He sets aside the first to establish the second. |
註解: 5−7節における詩40:6−8の引用をここに二つの部分に区別し前半を旧約の祭事に当て後半をキリストの生涯に当てている。すなわちキリスト来りて神の御旨に循 いその体を犠牲とし給えるは旧約の律法による犠牲の撤廃とキリストによるその完成とのためであった。前者は神の悦び給わざるもの、後者は神の悦び給うものである。
10章10節 この
口語訳 | この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。 |
塚本訳 | この(神の)“御心”によって、イエス・キリストの“体が捧げられること”により、わたし達はただ一度かぎりで、きよめられているのである。 |
前田訳 | 神のみ心に従ってわれらはただ一度のイエス・キリストの体というささげものによって清められています。 |
新共同 | この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。 |
NIV | And by that will, we have been made holy through the sacrifice of the body of Jesus Christ once for all. |
註解: キリストの十字架の死は完全なる犠牲であった。これによりて我らの罪は凡て赦され洗い潔められた。ゆえに一度をもって我らは凡ての罪より完全に潔められたのである。旧約の犠牲が毎年繰返されてしかも我らを潔め得ないのとは天地の差異がある。たしかにこのキリストの十字架は神の御意の実現であった。
辞解
[一たび] 「潔められ」と関連し「一度に潔められ」と訳すべしとする説がある(M0、Z0)けれども、旧約の犠牲の反復に対しキリストの死の一度限りなることを示すと見る方が優っている(E0、A1)。
10章11節 すべての
口語訳 | こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。 |
塚本訳 | そして──(くどいが、もう一度くり返して言う)──祭司(という祭司)は皆、(聖所に)立って毎日務をし、決して罪を取除くことの出来ない同じ犠牲を幾たびも捧げているのに反して、 |
前田訳 | すべて祭司は日ごと立って礼拝し、たびたび同じいけにえをささげますが、それらはけっして罪を除きえません。 |
新共同 | すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。 |
NIV | Day after day every priest stands and performs his religious duties; again and again he offers the same sacrifices, which can never take away sins. |
註解: (▲本節の訳は口語訳が優っている。)ここに祭司とキリスト(次節)とを比較してその差異を種々の方面より示している、次節註を見よ。
辞解
[日毎に] ヘブ7:27註および辞解参照。
[立ちて] エホバに仕えることは神の前に立ちてこれを行う(申10:8、申17:12 )。
10章12節
口語訳 | しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、 |
塚本訳 | 彼(キリスト)は罪のために(ただ)一つの犠牲(として御自身)を捧げ、(天に入って)たえず“神の右に座っておられ”、 |
前田訳 | しかし彼は罪のためにひとつのいけにえをささげて、とこしえに神の右に座し、 |
新共同 | しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、 |
NIV | But when this priest had offered for all time one sacrifice for sins, he sat down at the right hand of God. |
註解: ▲▲口語訳では「多くの罪」としてあるのは原語の「罪」が複数形であるため。
10章13節
口語訳 | それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。 |
塚本訳 | そのあとは、“彼の敵がその足台にされるまで、”(ただ)待っておられるのである。 |
前田訳 | その後、彼の敵がみ足の台にされるまでお待ちです。 |
新共同 | その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。 |
NIV | Since that time he waits for his enemies to be made his footstool, |
註解: これを前節と比較すれば、(1)祭司はしばしば犠牲をささげるに反してキリストは唯一たびこれをささげ給い、(2)祭司の犠牲は罪を除き得ざるに反しキリストの十字架は完全に人の罪を除き、(3)祭司は日毎に神の前に立ちて仕うに反しキリストは永遠に神の右に坐して支配し給い、(4)祭司の犠牲は「いつまでも」罪を除く見込みなきに反しキリストは凡ての敵を征服してその足台となすのを待ち給う(ヘブ1:13註参照。詩110:1。Tコリ15:22-28)。かかる完全なる救いはこれをキリストの外に見出すことができない。ここにキリストの受肉、十字架、復活、栄化の凡ての方面がこの数節の中に記されることに注意せよ。
10章14節 そは
口語訳 | 彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。 |
塚本訳 | なぜなら、彼は(ただ)一つの捧げ物をもって、(その)きよめられた人々を永久に完全にされたからである。 |
前田訳 | 彼はひとつのささげものによって、聖められるものたちをとこしえに全うされました。 |
新共同 | なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。 |
NIV | because by one sacrifice he has made perfect forever those who are being made holy. |
註解: キリストがその犠牲を繰返す必要なしに永遠に神の右に坐し給う理由は本節のごとく「一つの供物」すなわちキリストの十字架上に一度死に給えることによりて「罪より潔められる者」すなわちキリスト者を永遠に全うして罪なき瑕なき者となし神との完全なる霊交に入らしめ給うからである。
口語訳 | 聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、 |
塚本訳 | しかし(このことは)聖霊もわたし達に証しをして、 |
前田訳 | このことは聖霊もわれらに証します。まずいわく、 |
新共同 | 聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。 |
NIV | The Holy Spirit also testifies to us about this. First he says: |
10章16節 『「この
口語訳 | 「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」と言い、 |
塚本訳 | “「これこそわたしが”彼らと“結ぶ契約である、かの日の後に」と主は言われる、「わたしは彼らの心にわたしの律法を与え、彼らの悟りにそれを書きしるすであろう。」”と言われたあとで、 |
前田訳 | 「『これはかの日の後にわが彼らと立てよう契約』と主はのたもう。わが律法を彼らの心に与え、それを彼らの思いに書きしるそう、 |
新共同 | 「『それらの日の後、わたしが/彼らと結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、/彼らの思いにそれを書きつけよう。 |
NIV | "This is the covenant I will make with them after that time, says the Lord. I will put my laws in their hearts, and I will write them on their minds." |
10章17節 『この
口語訳 | さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べている。 |
塚本訳 | 「“もはや絶対に彼らの罪”と彼らの不法と“を記憶しないであろう”」とつけくわえられたからである。 |
前田訳 | そしてもはや彼らの罪と不法を思い出すまい」とあります。 |
新共同 | もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」 |
NIV | Then he adds: "Their sins and lawless acts I will remember no more." |
註解: 以上のごとくキリストの贖罪が一度にて完全に永遠に成就せられしことは唯自己一人の私見ではなく旧約聖書中に(エレ31:33、34)すでに預言せられている処で、神はすでに予めこのことを預言者の口を通して聖霊をして語らしめ給うたのである。ゆえに著者はこの預言を一層詳しく曩 に引用した(ヘブ8:10−12註参照)のをここに再び掲げたのであって、新約の内容なる霊的信仰と罪の赦しとを強調し、これあるが故にキリストの贖いが完全なるものなることを示している。(注意)この三節は主なる写本によれば次のごとくに訳すべきである(M0、Z0、I0)。「聖霊もまた我らに証せり、そは『この日の後、われ彼らと立つる契約は是なり』と言い給いて後主は『われわが律法を彼らの心に置き彼らの念 に記さん、この後また彼らの罪と不法とを思い出でざるべし』と云い給いたればなり。」異本もあり異説もある。
10章18節 かかる
口語訳 | これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない。 |
塚本訳 | (すでに)こんな(罪の)赦しがある以上、もはや罪のための捧げ物(の必要)はない。(旧約による祭司制度も礼拝の行われる聖所も、全然必要がなくなったのである。) |
前田訳 | これらへのゆるしがある以上、もはや罪のためのささげものはありえません。 |
新共同 | 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。 |
NIV | And where these have been forgiven, there is no longer any sacrifice for sin. |
註解: キリストの十字架の贖いによりて旧約の形式的儀式的宗教は終りを告げ、キリストによる霊の自由の福音が心に録されたのである。ゆえに形式的に神に犠牲を献ぐる必要は消滅している。
要義 [キリストによる完全なる罪の赦し]ヘブ4:13以下ここに至るまで、著者は凡ての方面よりキリストの贖いの完全性を示し、これによりて旧約の祭司制度と犠牲と形式的礼拝とを無効に帰せしめているのである。キリストの贖いにより、凡ての信者は何人の中介もなく何らの形式なく如何なる制度の下に属する必要もなしに完全に永遠に直接に神との交わりに入ることができる。これ実に世界の凡ての宗教に対する革命的宣言であった。しかしこれがキリストの精神に外ならない。ユダヤ人のごとくに先天的に制度と形式との下に訓練せられし人々にとってはこの真理は最も受納れ難き真理であったろう。しかしながらそれは唯ユダヤ人のみではない。カトリック教会もプロテスタント教会もなおこの真理に到達していない。
分類
2 薦奨の部 10:19 - 13:17
2-1 信仰持続の必要 10:19 - 10:39
2-1-イ 信望愛のすすめ 10:19 - 10:25
註解: 以上において著者はキリストの福音の中心的真理すなわちキリストについてその本質、その働き、その効果を詳述したる後ここに進んで信者に対する種々の薦奨を与えている。勿論これまでも教理に
挿 んで種々の薦奨を与えていた(ヘブ2:1−4。ヘブ3:1、ヘブ3:12−4:1。ヘブ5:11−14。ヘブ6:1−12)。これらと併せてヘブル書は全体にわたって豊かなる教訓の書であることを見ることができる。唯その用語の特異なるがためにこのことに心付かざる者が多い。
口語訳 | 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、 |
塚本訳 | (わたし達は今や旧約の律法から解放されて、新約の時代に入った。)だから、兄弟たちよ、わたし達はイエスの血により、安心して聖所に入ることができるのである。 |
前田訳 | それで、兄弟たちよ、われらはイエスの血によって、はばからず聖所に入りえます。 |
新共同 | それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。 |
NIV | Therefore, brothers, since we have confidence to enter the Most Holy Place by the blood of Jesus, |
10章20節 その
口語訳 | 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、 |
塚本訳 | それは(イエスが)わたし達のために開かれた新しい生きた道である。わたし達は(彼自身である)幕、すなわち彼の肉体を通るのである。 |
前田訳 | それは彼の肉体である幕を経て、彼がわれらにお開きの新しい生きた道を通ってです。 |
新共同 | イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。 |
NIV | by a new and living way opened for us through the curtain, that is, his body, |
註解: イエス十字架上にその血を流し給いてこれによりて我らの罪は凡て赦された(ヘブ9:22)、またイエスの肉体は裂かれしことによりて聖所と至聖所とを隔てし幕は裂かれて(マタ27:51)神と人とを隔てし障壁は撤廃せられキリストなる新しき活ける道を通して神と自由に霊の交わりに入るの途が開けた。すでに凡ての罪が赦されて神の前に懼 れをいだくべき原因が除かれ(ロマ8:15)また神に近づく途が開かれし以上我らは、もはや動物の犠牲の血を要せず人間なる祭司の中立 を要せず、直接に個人的に憚 ることなく(自由に)確信して至聖所に入って神に近づくことができる。
辞解
[然れば] ヘブ4:14−10:18を受く。
[兄弟よ] ヘブ3:1以後ここに始めてまたこれを用う。著者の態度の新たまったことを示す。
[肉〔体〕たる幕] 我らの神に近付くことを妨げる者は我らの肉である。キリスト肉となって降り給い、その肉を十字架につけ給うことによって我らの肉も死んだのであって(ロマ5:3)すなわち神との間の障壁が裂かれて通行の自由を得たのである。
[開き給える] enkainizein は開通式、献堂式のごとく始めてこれを使用してその後継続的に使用する場合、例ヘブ9:18。
[新しき] prosphatos は殺したての動物のこと。
[活ける路] 種々の解釈あれど(Z0、M0参照)復活して今も活き給うキリストが路であるとの意と見るべきことと思う(ヨハ14:6)。
[憚 らずして] parrêsia はあるいは「喜ばしき確信」と解し(M0、I0)または「権利または自由」と解す(Z0)。予はこの両者より生ずる大膽さを意味すると解する。
10章21節 かつ
口語訳 | さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、 |
塚本訳 | そして、(わたし達には)“神の家をつかさどる偉大な祭司”があるのである。 |
前田訳 | そして神の家を治める偉大な祭司が、われらにあります。 |
新共同 | 更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、 |
NIV | and since we have a great priest over the house of God, |
註解: 神に近づき得る第二の条件は神の家なるキリスト者の全体の上に支配権を握り給う大祭司キリストが神の右に坐して我らのために執成 し給うことである。キリストの血も肉も(すなわちその死も)その栄光もみな我らをして神に近づかしむる原因である。
辞解
[大なる祭司] 大祭司に同じ唯これに加うるにヘブ7:1−25のごとく王たるキリストの権威をも含む、ヘブ4:14(Z0)。
[神の家] ヘブ3:6(Z0、B1、I0)。
10章22節
口語訳 | 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。 |
塚本訳 | だからわたし達は誠実な心と、堅い信仰をもって、(神に)近づこうではないか、心は(イエスの血で)洗い浄められて良心の呵責なく、体は(洗礼の)清い水で洗われて。 |
前田訳 | われらは真実の心をもって、信仰にあふれてみ前に進みましょう。われらの心は悪い心がけからすすがれ、体は清い水で洗われています。 |
新共同 | 心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 |
NIV | let us draw near to God with a sincere heart in full assurance of faith, having our hearts sprinkled to cleanse us from a guilty conscience and having our bodies washed with pure water. |
註解: 19−21節は神に近づく外的条件で、本節はその内的条件である。すなわちイエスの十字架の血によりて罪の赦しを得ることにより良心は罪の苦悩より解放せられ、またその結果心の不潔は除かれ、肉もまた聖霊(C1)の水によりて潔められ(エゼ36:25)肉と霊の凡ての穢 を去ってしまったのが(Uコリ7:1)キリスト者である。かかる者となった上に少しも虚偽なき誠実なる心と不安を挿 まざる充分なる信仰とをもって我らは神に近づかなければならぬ。
辞解
[濯 ぐ] rantizo 祭壇等に血を振りかけることの意。
[清き水] 多くバプテスマの意味に解するけれども(M0)、むしろ旧約の潔めの式を指すと見るべきである(C1、エゼ36:25)。
[良心の咎 ] 直訳「悪しき良心」。
「身は清き水にて洗わはれ」を次節の「堅く守り」に関係せしむる説あれど(M0)予は取らない(Z0)。
10章23節 また
口語訳 | また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、 |
塚本訳 | また、わたし達は(洗礼のとき)告白した(主の再臨の)希望を、動かさずに守っていようではないか。──(これを)約束された方は忠実であるから。── |
前田訳 | そして希望の告白を堅く保ちましょう、約束なさる方はまことにいましますから。 |
新共同 | 約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。 |
NIV | Let us hold unswervingly to the hope we profess, for he who promised is faithful. |
註解: 霊をもって神に近付くことを得る者は、この世の生活が如何に困難であり、また希望が薄くなり行かんとする場合でも、やがてキリスト再臨し給いてその救いを完成し給い、目のあたりに彼を見奉ることの希望を堅く保持することがその大切なる仕事である。そして約束し給いし者すなわち神は忠実に在せばこの希望が虚しきに帰するごときことはない。必ずその約束を実行し給う、来生の希望なき者、この希望の告白を確保せざる者は神の忠実さを疑う者である。
辞解
[言いあらはす希望] homologia tês elpidos 直訳「希望の告白」
[忠実] pistos は「信仰」の原語 pistis の形容詞、この忠実なる約束に対して人の信仰が成立つ、すなわち誠実と誠実の合致である。
口語訳 | 愛と善行とを励むように互に努め、 |
塚本訳 | また、わたし達は愛と善い業とを励まし合うように互に心掛けようではないか。(堅い信仰と動かぬ希望と愛の励み、この三つこそ最も尊い神の賜物である。) |
前田訳 | そして愛とよいわざに励むよう、互いに心がけましょう。 |
新共同 | 互いに愛と善行に励むように心がけ、 |
NIV | And let us consider how we may spur one another on toward love and good deeds. |
註解: 前節において神に対する信仰による希望の確保を教え、本節以下において人に対する愛につき教えている。本節の原語は「互に注視しつつ愛心を発揮し善き業を行うように刺激し合う」という意味で、孤立独善主義に陥らざるよう、互に刺激し合いて愛心と善行とにおいて秀 づるようにし、そのために互に顧み合うべきことを教えているのである。愛は心の中の状態であり、善行は愛の外部へ対する発顕である。
辞解
[励まし] paroxusmos は「刺激」の意。また「激情」「憤激」等悪しき意味にも用うる(使15:39。申29:27。エレ32:37)けれどもここでは善き意味に用いている。
[相顧み] 「注視する」意味。
10章25節 (われらの)
口語訳 | ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。 |
塚本訳 | (また、)ある人々がするように、集会を怠けず、むしろ互に勧め(合って出席す)るようにしなくてはいけない。その日が近づいていることをあなた達は知っているから、いよいよそうしなくては! |
前田訳 | ある人々がいつもするように集まりを去ることをせずに、互いに励ましましょう。あなた方はかの日が近づくのを見るだけに、ますますそうしてください。 |
新共同 | ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。 |
NIV | Let us not give up meeting together, as some are in the habit of doing, but let us encourage one another--and all the more as you see the Day approaching. |
註解: 前節に薦められし愛と善行とに刺激し合うことの正反対は集会をやめる習慣であった。ユダヤ人のキリスト者の中にはキリストの大祭司たること、その血によりて我ら神に近付くことを得ることの信仰およびこれに伴う望(19−23節)が明らかになっていないために、ユダヤ人の集会以外にキリスト者としての集会を持つことの意義を見失い、自然集会をやむる者もあったことであろう。また他方かかるキリスト者を見て不満を覚え、愛をもってこれを励ますことをせずして集会をやめる者もあったことであろう、または自らキリスト教の真理を学び尽くせりと信じ、愛をもってこれを他人に分たずして他の教えを求むるごとき者もあったろう。またキリスト教徒が迫害せられ、その教勢の不振なるにもかかわらず愛をもって慰め合う者なきを見て意気沮喪 して集会をやめる者もあろう(Z0、I0)。何れの場合においても愛をもって互に勧め、力付け合うことがキリスト者の大切な義務である。
辞解
[勧め] parakalein コロ2:2註参照。
[集会] episynagogê なる文字を用いてユダヤ人の集会と区別す。なおこれには「我ら自身の」なる語が附加されており特にキリスト者の集会たることを示す。
かの
註解: 「かの日」はキリスト再臨の日であって、その時にもしキリスト者同士間に愛の結合がなかったならば、キリストは彼らを否み給うであろう、ゆえにこれを思いて益々愛と善行とを奨励し合いて集会を力付け合うべきである。殊にキリストの体なる教会より離れている者は再臨の主を迎うること(Tテサ4:17)はできない。再臨の信仰は信者の愛と善行と一致とを増進する有力なる原因である。
10章26節
口語訳 | もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。 |
塚本訳 | なぜなら、わたし達が(キリストの)真理の知識を受けた後、故意に罪を犯すならば、その罪のために、もはや(これをあがなうべき)犠牲は残っていない。 |
前田訳 | もしわれらが真理の知識を受けた後、ことさらに罪を犯しているならば、もはや罪のためのいけにえは残りません。 |
新共同 | もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。 |
NIV | If we deliberately keep on sinning after we have received the knowledge of the truth, no sacrifice for sins is left, |
註解: ここに「真理」というは本書にこれまで論ぜられしキリストとその贖罪の意義を指すと見るべきである(なお29節の恩恵と併せてヨハ1:14参照)。これを知る知識は信仰の中心で(コロ2:2)神より賜りしものである(マタ16:16。Tヨハ5:20)。この賜物を受けし後故意に罪を犯すの状態を続けて行く者は、キリストの恩恵を空しくし、彼に対して真正面より反逆を犯している者である。何となればキリストによりて真に贖われし者はキリストの僕であって、常にキリストに従う者であるから。(従って故意ならざる罪、偶然の過ちによる罪はこの限りではない。レビ4:2、レビ4:13、レビ4:22、レビ4:27。レビ5:15。民15:25−31)そしてキリストの贖いは唯一度をもって永遠に完成せられしが故に(ヘブ9:25以下。ヘブ10:4。ヘブ10:18)彼に叛く者はその以外に彼の罪を贖うべき犠牲はない。
辞解
[ことさらに] ekousiôs は過失によることの反対すなわち自己の意思の承認の下にの意味、「わざと」の意味にあらず。
[止めずば] 原語にないけれども「罪を犯す」の現在分詞形はこの意味を持っている。
[知識] epignôsis 理解と経験とによりて知ること。
[罪を犯す] これを25節の集会をやむる罪と解する説があるけれども(C1)一般的の罪と見るべきである。
[もはや無し] 原語「遺 らず」で次節に関係す。
10章27節 ただ
口語訳 | ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。 |
塚本訳 | ただ、恐れて刑罰を待っていることと、“(神に)反抗する者を食いつくそ”うとしている“(裁きの)火の熱心(だけ)が”残っている。 |
前田訳 | 残るものは裁きを、すなわち神に逆らうものを食いつくす火をおそれつつ待つことだけです。 |
新共同 | ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。 |
NIV | but only a fearful expectation of judgment and of raging fire that will consume the enemies of God. |
註解: キリストに在る者は彼の来臨を慕い(Uテモ4:8)、反対に彼に叛く者には審判の恐ろしき期待(直訳)と、叛逆者に対する神の怒り(▲+の恐ろしき期待)とが遺 されるのみである。イザ26:11(七十人訳)参照。
辞解
[烈しき火] 火は往々神の怒りに譬えられる(ヘブ12:29。申4:24。詩79:5。イザ26:11。イザ30:27。エゼ38:19。ゼパ1:18)。
10章28節 モーセの
口語訳 | モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、 |
塚本訳 | モーセの律法をないがしろにする者があれば、憐れみなく、”“二人もしくは三人の証人(の証言)によって死ぬのである。” |
前田訳 | モーセの律法を無視するものが、二人か三人の証言によって容赦なく死に処せられるならば、 |
新共同 | モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。 |
NIV | Anyone who rejected the law of Moses died without mercy on the testimony of two or three witnesses. |
註解: 本節において著者はモーセの律法に違反する者の受くべき刑罰を例示し(申17:2−7)これに比較してキリストに叛く者の受くべき刑罰の一層大なるべきことを次節に示すことによりて27節の審判および神の怒りの証拠としている。
辞解
[慈悲を受くることなく] 容赦なくの意。
10章29節 まして
口語訳 | 神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。 |
塚本訳 | まして神の子を踏みつけ、きよめられた“約束の血を”けがれた(人間の血と同じ)と考え、恩恵の御霊を侮辱する者は、どんなひどい刑罰に価すると、あなた達は思っているのか。 |
前田訳 | 神の子を踏みつけ、自らが聖められた契約の血を汚れたものと考え、恩恵の霊をあなどるものは、どんなひどい罪に値するとお思いですか。 |
新共同 | まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。 |
NIV | How much more severely do you think a man deserves to be punished who has trampled the Son of God under foot, who has treated as an unholy thing the blood of the covenant that sanctified him, and who has insulted the Spirit of grace? |
註解: 26節のごとくにしてことさらに罪を犯して止めざる者は、第一に己が罪のために十字架に釘 き給いし神の子を崇めずしてこれを足下に踏みにじり、第二にこれによりて己が罪を潔められしキリストの新約の血(引照3)を普通の罪人の血と同視し、第三に神の恩恵を心にさとらしめしその聖霊(ゼカ12:10)を侮りてこれを軽蔑する三重の罪を犯している。モーセなる人間を通して与えられし神の律法を蔑することと、神の子およびその御業と功績とを蹂躙 することとの罪の軽重は極めて明らかである。いわんや一度凡てこれらの真理を知るの知識を与えられて後かかる状態に陥った者は最悪の叛逆者であって再び立帰る見込みがない(ヘブ6:6)。
辞解
[潔からずとなし] koinos は本来「普通一般の」の意味で「聖別せられしもの」 hagios 以外のものを意味す、従って聖からざる意味となる。
[恩恵の御霊] 恩益を与える御霊の意味ではなく、ここでは恩恵を示す聖霊を意味す(ヨハ14:26、Z0)。
10章30節 『
口語訳 | 「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。 |
塚本訳 | わたし達はこう言われた方を知っているからである。“仕返しはわたしのもの、”わたしが、“報いをする”、さらに“主はその民を罰される”と。 |
前田訳 | われらはこういわれた方を知っています、「復讐はわがもの、われが報いる」と。また、「主はその民を裁きたもう」と。 |
新共同 | 「復讐はわたしのすること、/わたしが報復する」と言い、また、/「主はその民を裁かれる」と言われた方を、わたしたちは知っています。 |
NIV | For we know him who said, "It is mine to avenge; I will repay," and again, "The Lord will judge his people." |
註解: 前節の重き罰が彼らに降るべき証拠として著者は申32:35、36をここに引用している。神の子を辱しむる者をば神は必ず復讐しこれに相応せる報いを与え給う。また民の功罪に対し神は必ず賞罰を与え給う、これ不動の真理である。(注意)。この第一の引用はヘブル語原典とも七十人訳とも異なっているにかかわらずロマ12:19と全く同一であることは特異なる事実であってその理由は種々に説明せられている(M0参照)。また「審 かん」 krinei は申命記においては恩恵を与える意味においてその民を正しく取扱うことを意味しているけれどもここではこれを他の意味に用いている。
口語訳 | 生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。 |
塚本訳 | 生きた神の御手に落ちることのなんと恐ろしいことであろう。 |
前田訳 | おそるべきは生ける神のみ手に落ちることです。 |
新共同 | 生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。 |
NIV | It is a dreadful thing to fall into the hands of the living God. |
註解: 26節以下の結論であって、信仰をもって神の御手にいだかれることの幸福とは正反対に不信のまま神の御手に陥ることは最も恐るべき事柄である。何となればかかる者は審判を免れることができないから。このことを畏れざるものは神を知らざる者である(詩53:1−4)。
要義 [真の背教者]今日のごとくキリスト教会において真の福音が宣伝えられざる場合には背教者が起ること、すなわち教会を脱する者の多きことは当然である。しかし真の福音に接し、その奥義を知るの知識を受けて後に背教者となる者も少なくはない。かかる者の受くる審判は最も畏るべきものであることは確かである。神は侮るべきものではない。
10章32節 なんぢら
口語訳 | あなたがたは、光に照されたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。 |
塚本訳 | あなた達が(前に聖霊に)照らされ(てキリストを信じ)た(すぐ)あとで、苦しみの激しい戦を耐え忍んだ前の日のことを思出しなさい。 |
前田訳 | 過ぎた日々を思い出してください。あのころあなた方は光を受けて苦しみの激しい戦いにお耐えでした。 |
新共同 | あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。 |
NIV | Remember those earlier days after you had received the light, when you stood your ground in a great contest in the face of suffering. |
註解: 33、34節に記されるごとき状態において彼らは最も美わしき信仰を示した。これは入信の当初であり、過去のことであった。回心の当時の美わしき信仰の状態を持続し得ざる者は少なくないことは今日も同様である。この苦難が何れの史実を指したかは明らかではない、ローマにおける一般的迫害の事実をいうものであろう(緒言参照)。
辞解
[光を受けし後] キリストを救い主と仰ぐに至りし後のこと。
10章33節
口語訳 | そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。 |
塚本訳 | それは、あるいは罵りや苦難のうちに(多くの人に)見世物にされたり、あるいは、こんな目に会っている人々の仲間になったりすることであった。 |
前田訳 | あなた方は、あるいは侮辱と苦難の中にさらしものにされ、あるいはこのようにあしらわれた人々の仲間におなりでした。 |
新共同 | あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。 |
NIV | Sometimes you were publicly exposed to insult and persecution; at other times you stood side by side with those who were so treated. |
註解: キリスト者は凡てこの二種中何れかに属する。すなわち自ら衆人環視の中に誹謗と患難とに遭うか、またはかかる人を助け慰める地位に立つことによりて多くの苦難を嘗める、そして彼らは信仰によりてかかる苦難と闘ってこれに打勝った。
辞解
[誹謗 ] 名誉に対する襲撃。
[患難 ] 人体またはその所有に対する襲撃の結果を意味す。
[觀物 にせられ] 当時においては公けの場所においてキリスト者を迫害した。
10章34節 また
口語訳 | さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。 |
塚本訳 | しかり、あなた達は(信仰のための)囚人たちと苦しみをわかち、また自分がもっとまさった、いつまでもなくならない持物を持っていることを知っているので、自分の財産の奪われるのを喜んで忍んだではないか。 |
前田訳 | じつに囚人とも苦しみを共になさり、あなた方の財産の没収をよろこびをもってお迎えでした。あなた方はよりよい永続的な持ちものがあることをご存じでした。 |
新共同 | 実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。 |
NIV | You sympathized with those in prison and joyfully accepted the confiscation of your property, because you knew that you yourselves had better and lasting possessions. |
註解: 初代キリスト者の同情と、その無慾とを示す。(本節前半は前節後半の理由の説明である)キリスト者はその同志が信仰のために迫害され獄牢に投ぜられる時、自己にも同じ危険が臨むをも顧みずして彼らを助けまた慰めた。かくして迫害される者の友となった。また当時キリスト者は何らかの罪名の下に(Z0)処罰されその財産を没収されることがあった。しかも彼らには天において永遠の嗣業(使20:32引照)を受けることができることを信じていたのでこの世の財宝はこれを無視することができ、喜んでその没収を甘受した(使4:32−35。使2:44、45)。
辞解
[忍びたり] prosdechomai は「進んで受ける」ことを意味す(ヘブ11:35参照)。
10章35節 されば
口語訳 | だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。 |
塚本訳 | だからあなた達は(この堅い)信頼をすててはならない、それは大きな報いを持っている。 |
前田訳 | それで、あなた方の確信をお捨てのないように。それには大きな報いがあります。 |
新共同 | だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。 |
NIV | So do not throw away your confidence; it will be richly rewarded. |
註解: 「確信」はキリストの完全なる救いに対する喜ばしき確信であって、回心の当初はこれをもっており、神はこれに対して大なる報賞を与え給う、ゆえにこれを放棄することはこの大なる報賞をも失う所以である。信仰が薄くなり、未来の報賞に対する望みが不確実になるに従ってついに人はその確信を無用のものとして投げすてるに至る。「されば」すなわち前述のごとく初めはこの確信を持っていたこと故これを放棄してはならない。
辞解
[確信] parrêsia は「大胆なる告白」の意にも用いられる文字であるけれどもここでは確信の意味に取るをよしとする。
10章36節 なんぢら
口語訳 | 神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。 |
塚本訳 | あなた達が神の御心を行って約束のものを受けるには、忍耐の必要があるからである。 |
前田訳 | あなた方が神のみ心を行なって約束のものを得るには忍耐が必要です。 |
新共同 | 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。 |
NIV | You need to persevere so that when you have done the will of God, you will receive what he has promised. |
註解: 前節の実行に必要なる点を述ぶ。32−34節におけるがごとき態度は神の御意を行う状態である。将来も(M0)かかる態度を継続して行くことによって始めて約束すなわち神の嗣業を嗣ぐことができる。そしてかかる信仰状態を継続するがために必要なるは忍耐持続であって迫害を耐え忍び試誘 に打勝ちて信仰を持続し、信仰の堕落を不断に警戒しなければならない。
10章37節 『いま
口語訳 | 「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。 |
塚本訳 | なぜなら、もう“ほんのしばらくすると”、“来るべき方が来られる、おそくなることはない。 |
前田訳 | 聖書にあります、「もうほんのしばらくすれば、来たるべき方がお見えで、遅くおなりではあるまい。 |
新共同 | 「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。 |
NIV | For in just a very little while, "He who is coming will come and will not delay. |
註解: 本節は次節と共にハバ2:3、4の七十人訳よりの自由なる引用で、前節の証拠たるべき聖句を示したのである。すなわち主の再臨はきわめて接近している、主は決して遅延し給わない。ゆえに我らの忍耐を要する期間も決して長くはない故に忍耐して信仰を持続せよとの意味である。
辞解
[いま暫くせば] イザ26:20にある文字で原語は「極めて小時間の後」の意味。
「来るべきもの」以下はハバ2:3の七十人訳を少しく変更したものでヘブル語とは全く意味を異にしている。「来るべきもの」は当時のラビの間にもこれをメシヤの意に解する者あり、マタ11:3、ルカ7:19によるも一般にその意味に用いられていたことがわかる(ダニ7:13。ゼカ9:9。マラ3:1参照)。ここでは初臨のキリストではなく再臨のキリストを意味する。(「来るべきもの」とハバクク自身は幻について言っているのである。)
10章38節
口語訳 | わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。 |
塚本訳 | 信仰によるわたしの義人は生きる。しかしもしあとに退くならば、わたしの心にかなわない。” |
前田訳 | 信仰によりわが義人は生きよう。もししりごみするならば、わが心は彼をよろこばない」と。 |
新共同 | わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、/その者はわたしの心に適わない。」 |
NIV | But my righteous one will live by faith. And if he shrinks back, I will not be pleased with him." |
註解: ハバ2:4の引用、ただし原文はこの順序が転倒している。おそらく原文ではこの節の主語が不明瞭なためと、不信仰に対する神の御旨を明らかにせんがためとであろう(Z0)。すなわち「我が義人」(直訳)換言すれば神より義人と認められる者は信仰を持続することによりて生命に達するのであって(ロマ1:17。ガラ3:11)もし「退きて」信仰より離れてしまうならば神の心は彼に対して喜びを覚えず悲しみと怒りとを覚えるであろう。
辞解
[我に屬 ける] 原語「我の」。
[退 かば] hupostellô は臆病の心より畏縮退却する姿をいう。35節の確信の反対。
[これを] 「彼を」。
10章39節
口語訳 | しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。 |
塚本訳 | しかしながら、わたし達は“あとに退いて”滅びに行く(臆病)者でなく、“信仰によって”命を救う者である。 |
前田訳 | しかしわれらはしりごみして滅びに至らず、信じて魂の保全に至るものです。 |
新共同 | しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。 |
NIV | But we are not of those who shrink back and are destroyed, but of those who believe and are saved. |
註解: 著者はこの書の読者の失望すること無からんために、救わるべき確信を彼らに与えんとしているのである。文意は「退却」と「信仰」とを対比し「滅亡」と「霊魂を得ること」すなわち永生を獲得することとを対比しているのであって、退きて信仰を離れるものは神の心喜び給わず、従って滅亡はその運命であり、反対に信仰を持続する者は約束のものすなわち永生を獲得することができる。ヘブル書の著者ならびに読者は勿論後者に属する者故これを失ってはならないことをここに示している。
要義 [信仰持続の必要]26節以下に信仰持続の必要と、信仰より堕落せる者の受くべき審判につきて各々聖句を引用してこれを説明している。そして信仰持続の方法は一つはキリスト・イエスの血による贖いの意義を充分に弁 え、彼に従うの生活を送ること、一つは信仰の初めの回心の経験とそのよろこびとを忍耐をもって継続することである。これがためには信仰と(32、33節a)愛と(33節b、34節a)望みと(34節b)においてますます成長することが必要であって、何時までも信仰の初歩に止まるものは信仰より堕つる危険の中に在るのである。