黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ロマ書

ロマ書第4章

分類
3 救拯論 3:21 - 11:36
3-(1) 個人の救い 3:21 - 8:39
3-(1)-(1) 義とせらるる事 3:21 - 5:21
3-(1)-(1)-(ハ) アブラハムの信仰 4:1 - 4:25
3-(1)-(1)-(ハ)-(a) アブラハムは信仰によりて義とせられた 4:1 - 4:12

註解: パウロは前章21節以下に於て論ぜし信仰のみによりて義とされることの真理を旧約聖書の中に探し、遂にアブラハムの信仰に於いてこれを見出した。旧約によりて証明する事はユダヤ人に取って殊に有効、必要であった。

4章1節 さらば(われ)らの先祖(せんぞ)アブラハムは(にく)につきて(なに)()たりと()はんか。[引照]

口語訳それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。
塚本訳それでは、わたし達(ユダヤ人の)肉の先祖アブラハムが得たものは、どういうことになるのだろうか、(何も得なかったことになるではないか、とある人は言うかも知れない。
前田訳それでは、われらの肉の父祖アブラハムが得たものは何であるといいましよう。
新共同では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。
NIVWhat then shall we say that Abraham, our forefather, discovered in this matter?
註解: アブラハムはユダヤ人の先祖であるが、彼は果して「肉につきて」即ち性来(うまれつき)のままの人間として何か誇るべきものを見出したと云い得るであろうか、「実は全くない」との意味を補充すべし、従ってアブラハムの肉の子孫たるイスラエルも肉につきて何の得る処もありえない。
辞解
[肉につきて] 新生の「霊につきて」の反対で、その「人間の本性のままで」の意、即ちアブラハムが自己の血統や又は修養努力によりての意。
[得たり] 原語「見出したり」、ここでは何か誇るべきものを見出す事。

4章2節 アブラハム()行爲(おこなひ)によりて()とせられたらんには(ほこ)るべき(ところ)あり、()れど(かみ)(まへ)には()ることなし。[引照]

口語訳もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。
塚本訳わたしは答える、)もし実際アブラハムが(りっぱな)行いによって義とされたのならば、(たしかに)誇る理由がある。しかし(誇ると言っても、人間に対してであって、)神に対してではない。
前田訳もしアブラハムが行ないによって義とされたなら、誇っていいわけです。しかし神に対してではありません。
新共同もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。
NIVIf, in fact, Abraham was justified by works, he had something to boast about--but not before God.
註解: 文章簡単なるが故に種種の解釈を生み種種の文字を挿入する事が試みられている。大意は若しアブラハムは行為によりて(この場合前節の肉につきてと同義)義とせられたとすれば、それは彼の功績として彼の誇るべき事柄である。然れど『彼は行為によりて義とせられなかった』夫故に神の前には何ら誇るべき事有る事なし。『』内の文字の意味を補充すれば意味明瞭である(B1)。而してパウロがかく断定せる理由として次節に聖書の言を引用してこれを証明している。
辞解
原文には本節の始めに「何となれば」とあり、前節の註と本節の註の『』内の文字を本文に補充して読めばこの「何となれば」の意味は明らかである。

4章3節 聖書(せいしょ)(なに)()へるか『アブラハム(かみ)(しん)ず、その信仰(しんかう)()(みと)められたり』と。[引照]

口語訳なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
塚本訳では聖書は何と言っているか。“アブラハムは神を信じて、そのことが彼の義と見なされた”とある。(アブラハムが義とされたのは行いのゆえではなく、恩恵である。)
前田訳聖書は何といいますか。「アブラハムは神を信じ、それが彼の義と認められた」とあります。
新共同聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
NIVWhat does the Scripture say? "Abraham believed God, and it was credited to him as righteousness."
註解: 原文にもここにも「何となれば」とあり前節末尾殊にその省略せられし意味の部分の理由として聖言を引用した事がわかる。本節は創15:6の七十人訳よりの引用で、アブラハムが神の約束を信じこれが為に神は彼を義と数え給いし事の記事に基いている。即ちユダヤ人の最も尊敬せる始祖アブラハムが神に義と認められし理由がその行為にあらず、その信仰によった事に注意すべきである。これがパウロの主張の根本に対する聖書の証明であった。
辞解
[信ず] 神の約束に対し、換言すれば神に対し絶対の信頼と服従とをささげる事、故に本質に於て基督者の信仰と同一である。キリストに関する事柄や又キリストに対する信仰は皆この神に対するアブラハムの信仰の中に含まれている。
[認めらる] logizomai は数えられる。勘定に払込まれる等の意味。尚ガラ3:6參照。

4章4節 それ(はたら)(もの)への報酬(むくい)恩惠(めぐみ)といはず、負債(おひめ)(みと)めらる。[引照]

口語訳いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。
塚本訳いったい、仕事をする者に対しては、報酬は債務であって、恩恵とみなすべきではない。
前田訳行ないをするものにとっては、報酬は恩恵ではなくて義務とみなされます。
新共同ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。
NIVNow when a man works, his wages are not credited to him as a gift, but as an obligation.
註解: 直訳「働く者には報酬は恩恵として勘定されず、債務として勘定される」社会の常識と霊界の事実に適用して信仰によりて義とされる事の真理の逆の反面を示す。若し人が律法の行為によりて義とされるならば、人の善行が神に対する債権となり神は人間に対して債務者の如き地位に立つ事となる。かかる事は有り得べからざる事である。
辞解
[働く者] ergazomenos 「行為を為す者」を意味し、自己の行為の価値を以て神の前に立たんとする者を指す。▲「働く者」とは「律法の行為を為す者」の意。「働く」ergazomaiは「行為」ergaを為す者の意。5節も同様なり。単なる労働者の意味ではない。
[認めらる] 前節の「義と認めらる」の場合と同語を用い、その本来の「勘定される」意味を兼ねている。

4章5節 されど(はたら)(こと)なくとも、敬虔(けいけん)ならぬ(もの)()としたまふ(かみ)(しん)ずる(もの)は、その信仰(しんかう)()(みと)めらるるなり。[引照]

口語訳しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。
塚本訳反対に、仕事をしない者、すなわち(善い行いは出来ずとも、信ずれば)どんな悪人でも義とするお方(神)を信ずる者に対しては、その信仰が義と見なされるのである。
前田訳行ないをしないものにとってはすなわち不信のものを義となさる方を信ずるものにとっては、その信仰が義と認められます。
新共同しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。
NIVHowever, to the man who does not work but trusts God who justifies the wicked, his faith is credited as righteousness.
註解: ロマ3:23-24節は神の恩恵の方面を示し、本節は人の信仰の方面を示す。同一事実の両面である。神は人の行為に対する誇を嫌い、神の能力とその恩恵とに信頼し、敬虔ならぬ者をも義とする事を得給う神を信ずるの絶対的信仰を最も(よみ)し給いてこれを義と認め給う。義と認むることは神の御心がそれを以て完全に満足し給う事を指す。

4章6節 ダビデもまた行爲(おこなひ)なくして(かみ)()(みと)めらるる(ひと)幸福(さいはひ)につきて()()へり。[引照]

口語訳ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、
塚本訳同じようにダビデ(王)も、行いに関係なく、(ただ信仰のゆえに)神が義と見なされる人の幸福を讃美して、こう言っている。
前田訳同じようにダビデも、行ないに関係なく神が義と認められる人のさいわいを讃美します、
新共同同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。
NIVDavid says the same thing when he speaks of the blessedness of the man to whom God credits righteousness apart from works:
註解: 信仰によりて義とされることのアブラハムの例を更に強めるために6-8節に旧約中の第二の主要人物ダビデをつれてきてその経験を以て第5節の真理を裏書していることは、パウロの(さと)き戦術である。
辞解
[幸福につきてかく云えり] 「幸福を祝して[次の如く]云えり」の意。

(いは)く、

4章7節 ()(はう)(ゆる)され、(つみ)(おほ)はれたる(もの)幸福(さいはひ)なるかな、[引照]

口語訳「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。
塚本訳“幸いである、その不法をゆるされ、その罪をおおわれた人たちは。
前田訳「さいわいなのは不法をゆるされ、罪をおおわれた人。
新共同「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。
NIV"Blessed are they whose transgressions are forgiven, whose sins are covered.

4章8節 (しゅ)(つみ)(みと)(たま)はぬ(ひと)幸福(さいはひ)なるかな』[引照]

口語訳罪を主に認められない人は、さいわいである」。
塚本訳幸いな人である、主がその罪を認められない人は。”
前田訳さいわいなのは主が罪を認められぬ人」と。
新共同主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」
NIVBlessed is the man whose sin the Lord will never count against him."
註解: 詩32:1以下七十人訳の引用で、ダビデがその罪を赦されし歓喜の経験を記す。悔改と信仰とにより神の心は和らぎて我らの不法を(ゆる)しこれを審き給わず、キリストの十字架の血(ダビデの場合はこれが神の予定の中に在った)によりて罪は覆われて神の目に見えざるに至り、神はその罪人を義と認むる事によりてその罪をば心に留め給わない。かかる者こそ真に幸福なる者である。▲マタ1:1参照。

4章9節 されば()幸福(さいはひ)はただ割禮(かつれい)ある(もの)にのみあるか、また割禮(かつれい)なき(もの)にもあるか、[引照]

口語訳さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。
塚本訳それではこの幸福の讃美は、割礼のある者(だけ)についてか、それとも割礼のない者にも及ぶのか。わたし達は(くりかえして)言う、“アブラハムの信仰が義と見なされた”と。
前田訳さて、この讃美は割礼あるものについてですか、無割礼のものについてもですか。われらはいいます、「アブラハムの信仰が義と認められた」と。
新共同では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。
NIVIs this blessedness only for the circumcised, or also for the uncircumcised? We have been saying that Abraham's faith was credited to him as righteousness.
註解: 「働く者」につきてのみ論じつつあったパウロは、読者が陥り得る誤解に心付いた。それは宗教的形式の具備が神に義とされる事に対する必要条件なりや否やの問題である。ユダヤ人と異邦人との間に差異なき事は既に諭じた(ロマ2:12ロマ2:25-29。ロマ3:29-30)。唯ユダヤ人が救の要件として非常に重要視したる割礼に就てはユダヤ人の基督者の間にすら尚かかる形式無しに果たして義とせられ得るや否やの疑義があった(使15:1)。パウロは本節に先ずこの疑義を提出して12節までその答えを与えている。

(われ)らは()ふ『アブラハムはその信仰(しんかう)()(みと)められたり』と。

註解: 直訳「その故は『』と我らは言えばなり」『』内の文言のみにては割礼の必要の有無は不明瞭であり、従って本節前半の疑義が生ずる訳である。

4章10節 (()らば)如何(いか)なるときに()(みと)められたるか、割禮(かつれい)ののちか、()割禮(かつれい)のときか、割禮(かつれい)(のち)ならず、()割禮(かつれい)(とき)なり。[引照]

口語訳それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。
塚本訳それではどんな場合に義とみなされたのか。割礼を受けた後か、それとも(まだ)割礼をうけない時か。割礼を受けた時でなく、割礼をうけない時である。
前田訳どんな場合にそう認められましたか。割礼されてからですか、無割礼のときですか。割礼されてからではなく、無割礼のときです。
新共同どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。
NIVUnder what circumstances was it credited? Was it after he was circumcised, or before? It was not after, but before!
註解: さらば前節後半の語を尚詳しく検討して見よう。アブラハムは如何なる状態に於いて義と認められたか。割礼の前後どちらであったか、創15章に於て義と認められ、その後約14年を経て創17章に於て割礼を受けたのであれば、彼が義と認められたのは割礼を受けない状態に於てであった。
辞解
[如何なる時に] pôs は「如何なる状態の時に」

4章11節 (しか)して()割禮(かつれい)のときの信仰(しんかう)によれる()(いん)として割禮(かつれい)(しるし)()けたり、[引照]

口語訳そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、
塚本訳そしてアブラハムが(あとで)“割礼なる徴を”受けたのは、(まだ)“割礼をうけない”時、信仰によって義とされたことの証拠としてである。これは彼が、(一方ではユダヤ人でない信者、すなわち)割礼なしで信じて義とみなされるすべての人の父になるためであり、
前田訳彼が割礼という徴を受けたのは、無割礼のときの信仰の義の保証としてです。それは彼が無割礼で信じて義と認められるものすべての父となるためです。
新共同アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。
NIVAnd he received the sign of circumcision, a seal of the righteousness that he had by faith while he was still uncircumcised. So then, he is the father of all who believe but have not been circumcised, in order that righteousness might be credited to them.
註解: (あたか)も洗礼が信仰の徴であると同じく割礼も亦信仰による義の印であった。創17:11によれば割礼はヱホバとの間の契約の徴であると録されているけれども、この契約はアブラハムの信仰の義に対して神が与え給うた意味に於て信仰の義の徴であるとも云う事が出来る。

これ()割禮(かつれい)にして(しん)ずる(すべ)ての(もの)()(みと)められん(ため)に、その(ちち)となり、

4章12節 また割禮(かつれい)のみに()らず、(われ)らの(ちち)アブラハムの()割禮(かつれい)のときの信仰(しんかう)(あと)をふむ割禮(かつれい)ある(もの)(ちち)とならん(ため)なり。[引照]

口語訳かつ、割礼の者の父となるためなのである。割礼の者というのは、割礼を受けた者ばかりではなく、われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさすのである。
塚本訳また(他方ではユダヤ人の信者、すなわち)割礼があるだけでなく、わたし達の父アブラハムが割礼をうけない時(に信じて義と見なされたそ)の信仰の足跡を踏む、(まことの)割礼のある人たちの父になるためであった。
前田訳そしてまた、割礼があるだけでなく、われらの父アブラハムの無割礼のときの信仰の跡に従う人々の父になるためです。
新共同更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。
NIVAnd he is also the father of the circumcised who not only are circumcised but who also walk in the footsteps of the faith that our father Abraham had before he was circumcised.
註解: 以上の如くアブラハムの割礼の歴史にはニ重の意味がある。その一は無割礼即ち異邦人に対するものであって、アブラハムが無割礼の時に信仰に入りこれによりて義とせられし事は、無割礼にして信仰に入る者も彼と同様、義とせられ彼が彼らの信仰上の父たらん為であった。その二はアブラハムが義とせられて後、割礼を受けし事はアブラハムの信仰の跡を歩む割礼者、即ちユダヤ人にして而もアブラハムと同一の信仰を持つものの父とならんが為であった。ここに神の微妙なる智慧がある事をパウロは認めたのである。若しアブラハムが割礼を受けて後に信仰によりて義とせられたならば、無割礼の異邦人が信仰のみによりて義とせられる事の証拠とならなかった、若し又アブラハムが義とせられて後割礼を受けなかったならば、割礼ある者が果して信仰によりて義とせらるるや否や不明であった。
辞解
第12節を上記の如くに訳解する場合には、原文に文法上の誤謬(或は写字上の誤謬か―ホルト)があると見なければならない。かく見るのが至当であろう(M0,Z0,G1等参照)。

3-(1)-(1)-(ハ)-(b) アブラハムは約束を信じた 4:13 - 4:16

4章13節 アブラハム世界(せかい)世嗣(よつぎ)たるべしとの約束(やくそく)を、アブラハムとその(すゑ)とに(あた)へられしは、律法(おきて)()らず、信仰(しんかう)()()れるなり。[引照]

口語訳なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。
塚本訳(このように義とされるのは割礼に関係がない。)なぜなら、アブラハムとその子孫とが世界の相続人になるという約束(が与えられたの)は、(モーセ)律法(を行ったこと)によるのではなく、信仰の義によるからである。
前田訳世界の相続人になるとの約束がアブラハムまたその末になされたのは、律法によらず、信仰の義によるものです。
新共同神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。
NIVIt was not through law that Abraham and his offspring received the promise that he would be heir of the world, but through the righteousness that comes by faith.
註解: 前節の理由(gar)。未だ律法が与えられず、律法の行為として誇るべきものを持たなかった時に、神はアブラハムとその裔とに対してカナンの土地を約束し給うた。これアブラハムの信仰の故であり(創12:2、3)、神はこの信仰を義と認め給うたからである。故に信仰なくば勿論この約束に(あずか)る筈がない(創12:7創13:14-17。創15:18創17:8創22:16-18。創26:3)。
辞解
[世界の世嗣(よつぎ)] アブラハムはカナンの土地またはその周囲の土地に対する約束をエホバより受けたに過ぎなかった、しかしこれが全世界の支配を意味することとして古くより解せられていた。すなわちイサクの子孫は増し加わり、その中の一人によりて全世界の支配が実現するというメシヤ思想であった。キリストも(マタ5:5マタ19:28マタ28:18マタ25:31ルカ22:30ヨハ17:2)パウロも(ピリ2:9、10。コロ1:17ロマ8:32)豊かにこの思想をもっていた。

4章14節 もし律法(おきて)による(もの)ども世嗣(よつぎ)たらば、信仰(しんかう)(むな)しく約束(やくそく)(すた)るなり。[引照]

口語訳もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。
塚本訳律法を行う人たちだけが(世界の)相続人(になるの)であるなら、信仰はむだなものになり、約束は無になるのである。
前田訳律法によるものが相続人ならば、信仰はむなしく、約束は無になります。
新共同律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。
NIVFor if those who live by law are heirs, faith has no value and the promise is worthless,
註解: 前節の理由(gar)。ガラ3:15以下にパウロは歴史的に約束と律法の前後を諭じ、嗣業を受くる事が律法によらずして約束による事を諭じ、ここではこれを教理的本質的に諭じ、世嗣として嗣業を受くるには神の恩恵と自由の賜物とに対する「信仰」と、神の変わらざる「約束」に依り頼むべきであって、若し自己の律法の行為によらんとするならば、結局嗣業を受くる確実なる希望を失う事を示す。もし律法の行為によると云うならば信仰も約束も無益にして無意味となる。何となれば律法の行為は自己の力であり、信仰と約束は神の恩恵より出づるが故である。

4章15節 それ律法(おきて)(いかり)(まね)く、律法(おきて)なき(ところ)には(つみ)(をか)すこともなし。[引照]

口語訳いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。
塚本訳律法(の目的)は、(人に罪を犯させ、神の)怒りをもたらす(ことにある)からである。律法のない所には、その違反もあり得ない。
前田訳律法は怒りをおこします。律法のないところには違反もありません。
新共同実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。
NIVbecause law brings wrath. And where there is no law there is no transgression.
註解: 律法は恩恵と異りその違反に対し神の怒を惹起す事は当然である。もし律法が無いならばこれに違反すると云う事も無い。律法あればその違反あり、違反あれば神の怒その上に注がれ従って世嗣たる事が出来ない。
辞解
[律法] 始めの方には冠詞ありモーセの律法を指す。
[怒を招く] katergazomai で怒を「生み出す」「造り出す」如き意。
[律法] 後の方は冠詞なく一般の律法を指す。
[罪を犯す事] 原語 parabasisで「律法違反」の意、罪と云えば一層広義となる。

4章16節 この(ゆゑ)に[世嗣(よつぎ)たることの]恩惠(めぐみ)(あづか)らんために信仰(しんかう)()るなり、(これ)かの約束(やくそく)のアブラハムの(すべ)ての(すゑ)、すなわち律法(おきて)による(すゑ)のみならず、(かれ)信仰(しんかう)(なら)(すゑ)にも(かた)うせられん(ため)なり。[引照]

口語訳このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、
塚本訳そうであるから、(相続人にされるのは)信仰のゆえである。これは恩恵によらせるためであり、(アブラハムの)子孫全体に対して──ただ律法の子孫[ユダヤ人]だけでなく、アブラハムの信仰の(足跡を踏む)子孫[異教人]に対しても──(神の)約束が不動であるためである。彼はわたし達すべての者の(信仰の)父である。
前田訳それゆえ、この約束は(律法によらず)信仰によります。恩恵によって、彼の末すべてに、すなわち、律法による末だけでなく、アブラハムの信仰の末にも、約束が確保されるためです。彼はわれらすべての父です。
新共同従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。
NIVTherefore, the promise comes by faith, so that it may be by grace and may be guaranteed to all Abraham's offspring--not only to those who are of the law but also to those who are of the faith of Abraham. He is the father of us all.
註解: 私訳「この故に恩恵に与らんが為に信仰によりて〔世嗣たるなり〕」。律法による者は神の恵を受け世嗣たる事が出来ない故に、反対に信仰によるものは、神の恩恵を受けて世嗣たる事が出来るのである。その目的は世界の世嗣たるべき約束が、信仰のみを標準として与えられんが為である。従ってアブラハムの信仰の子孫(肉の子孫にあらず)には凡てこの約束が堅うせられるのであって、律法による裔即ちユダヤ人(中の信仰ある者)に限らず信仰さえあれば異邦人もこの嗣業の約束に(あずか)る事が出来る。
辞解
[アブラハムの凡ての裔] ここでは信仰による事を前提とし、信仰によらざるものをアブラハムの裔と見ない。
[律法による裔] ユダヤ人の事、但しその中の信仰あるものを指すと見なければならない。
[信仰に(なら)う裔] 「信仰による裔」と訳すを可とす。

3-(1)-(1)-(ハ)-(c) アブラハムの信仰の特質 4:17 - 4:25

4章17節 (かれ)はその(しん)じたる(ところ)(かみ)、すなはち死人(しにん)(いか)し、()きものを()るものの(ごと)()びたまふ(かみ)(まへ)にて、我等(われら)すべての(もの)(ちち)たるなり。(しる)して『われ(なんぢ)()てて(おほ)くの國人(くにびと)(ちち)とせり』とあるが(ごと)し。[引照]

口語訳「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。
塚本訳“わたしはあなたを多くの国の人の父に決めた”と書いてあるとおりに。(ただし)それは、彼が信じた神、すなわち、死人を生かし、また無から有を呼び出される神の前においてである。
前田訳聖書に、「わたしはあなたを多くの民の父に定めた」とあるとおりです。それは、彼が信じた神、すなわち、死人を生かし、無いものを有るものとしてお呼び出しになる方の前においてです。
新共同「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。
NIVAs it is written: "I have made you a father of many nations." He is our father in the sight of God, in whom he believed--the God who gives life to the dead and calls things that are not as though they were.
註解: (▲口語訳「無から有を呼び出される神」は適訳ではない。)前節アブラハムの信仰の説明。12節及び16節の主要問題即ちアブラハムが我ら凡ての基督者の父たる事の内容の説明である。この事は神がアブラハムに対して為し給いし御業であって不動の約束であり、未だ実現せられざる中に既に確定せる処のものであった(父とせり)。而してアブラハムが信頼をささげし神は、アブラハムがイサクを献げし場合の信仰の如く(ヘブ11:19創22:1以下)死人を活し給う神であり、又未だ子あらざるにその子孫の天の星の如くなるべき事を示し給う神であった(創15:5)。これが信仰の本質である。今日我らの信仰も死者を甦らしめ、且つ義ならざるものを義人と呼び給う神を信ずる信仰であって、この信仰により我らもアブラハムの子となることが出来る。
辞解
[死人を活し] アブラハムとサラが年老いて死人の如くであったのをイサクを生ましめた事に相当すると見る説もあり(G1)。又単にこれを神に対する一般的の称呼であると解する説(M0)。その他これを霊的意義のみに取らんとする説があるけれども採らず。
[国人] ユダヤ人のみならず万国民の事。

4章18節 (かれ)(のぞ)むべくもあらぬ(とき)になほ(のぞ)みて(しん)じたり、(これ)なんぢの(すゑ)はかくの(ごと)くなるべしと()(たま)ひしに(したが)ひて、(おほ)くの國人(くにびと)(ちち)とならん(ため)なりき。[引照]

口語訳彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。
塚本訳(まことに)アブラハムは(神の力を確信して、)望み得ないことを望んで信じたので、“あなたの子孫はあのように、(空の星のように多く)なるであろう”と言われた言葉のとおり、“多くの国の人の父”になったのである。
前田訳彼は望みえないことを望みつつ信じました。それで、「あなたの末はかくも多かろう」といわれたとおり、多くの民の父になりました。
新共同彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。
NIVAgainst all hope, Abraham in hope believed and so became the father of many nations, just as it had been said to him, "So shall your offspring be."
註解: 直訳「彼は望に反して望を信じたり」。「望に反して」は19節「望を信じたり」は20、21節に詳述せらる。意味は本文の如くアブラハムは望むべき理由が絶対になきにも関らず神の約束に希望を置きこれを確信せる事であって、かくの如くに絶対に信頼を注ぎたる目的は、神の約束に(したが)いこの信仰によりて、多くの国人の信仰の父とならんが為であった。
辞解
[斯の如くなるべし] 創15:5の省略、即ち空の星の如くなるべしとの意、尚創13:16

4章19節 かくて(おほよ)百歳(ひゃくさい)(およ)びて(おの)()()にたるがごとき(さま)なると、サラの(たい)()にたるが(ごと)きとを(みと)むれども、その信仰(しんかう)よわらず、[引照]

口語訳すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。
塚本訳すなわち彼は信仰が弱らずに、ほとんど百歳であったので、自分の体が死んでしまっており、(妻)サラの胎も死んでいるのをよく知っていながら、
前田訳百歳ほどであったので体が死んでおり、サラの胎も死んでいることを知りながら、信仰においては弱りませんでした。
新共同そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。
NIVWithout weakening in his faith, he faced the fact that his body was as good as dead--since he was about a hundred years old--and that Sarah's womb was also dead.

4章20節 ()(しん)をもて(かみ)約束(やくそく)(うたが)はず、[引照]

口語訳彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、
塚本訳不信仰をもって神の約束を疑わないばかりか、かえって信仰が強くなり、神に栄光を帰した、
前田訳不信をもって神の約束を疑わないばかりか、信仰において力づけられ、神に栄光を帰しました。
新共同彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。
NIVYet he did not waver through unbelief regarding the promise of God, but was strengthened in his faith and gave glory to God,
註解: 直訳「而してその信仰弱らずして約百歳に及べる己が死にたる体と、サラの胎の死にたるとを観取しても尚不信によりて神の約束を疑わず・・・」アブラハムはその信仰強くして性的に死せる老夫婦に子を与えられるとの神の約束をすら疑わずに信じ続けた。偉大なる信仰である。この信仰によりて彼はイサクを与えられた。「疑う」diakrithê 原語は二つの意見、思想、判断の間に差異あり相反する場合を指す、ここでは自己の中に二つの考がありて動揺する事、アブラハムはかかる事が無かった。

((かえっ)て)信仰(しんかう)により(つよ)くなりて(かみ)榮光(えいくわう)()し、

4章21節 その(やく)(たま)へることを、()得給(えたま)ふと確信(かくしん)せり。[引照]

口語訳神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。
塚本訳神は約束を果たす力を持っておられる(ので、子をお授けになる)と確信することによって。
前田訳神はお約束のことをなす力がおありと確信していたのです。
新共同神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。
NIVbeing fully persuaded that God had power to do what he had promised.
註解: 反対にアブラハムは信仰によりて強くせられた、その状態は一はかかる不可能事を約束し給える神を軽蔑せず、これに服従する事によりて栄光を神に帰する事、その二はその約束せられしをば、神は又必ずこれを為し得給うと確信する事であった。かかる美わしき信頼は何処にありや。
辞解
[強くなり] を生理的に若返りたる事と解する説(I0,ヘブ2:11、12註参照)あれどもこの場合をかく解する事は却て不適当であろう。

4章22節 (これ)()りて()信仰(しんかう)()(みと)められたり。[引照]

口語訳だから、彼は義と認められたのである。
塚本訳このゆえに、“そのことが彼の義と見なされた”のである。
前田訳それゆえ、彼は義と認められました。
新共同だからまた、それが彼の義と認められたわけです。
NIVThis is why "it was credited to him as righteousness."
註解: 神の目にはこの信仰さえあれば他に何が無くとも充分であると思われた。神との義しき関係はかかる信仰より外にない。

4章23節 ()く『[()と](みと)められたり』と(しる)したるは、アブラハムの(ため)のみならず、また(われ)らの(ため)なり。[引照]

口語訳しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、
塚本訳しかし(“彼の義と)みなされた”と書いてあるのは、彼だけのためではなく、
前田訳聖書に「認められた」とあるのは、彼だけのためではなく、われらのためでもあります。
新共同しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、
NIVThe words "it was credited to him" were written not for him alone,

4章24節 (われ)らの(しゅ)イエスを死人(しにん)(うち)より(よみが)へらせ(たま)ひし(もの)(しん)ずる(われ)らも、[その信仰(しんかう)()と](みと)められん。[引照]

口語訳わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。
塚本訳わたし達のためでもある。主イエスを死人の中から復活させられたお方[神]を信ずるわたし達も、(信仰によって義と)みなされねばならないからである。
前田訳われらの主イエスを死人たちから復活させられた方を信ずるわれらも、そう認められねばなりません。
新共同わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。
NIVbut also for us, to whom God will credit righteousness--for us who believe in him who raised Jesus our Lord from the dead.
註解: アブラハムも我らも同じ信仰によりて義と認められる。而してアブラハムは未来に実現すべき約束を望み、我らは既に実現せるイエスの復活の事実を握りこれを基礎として我等の復活を望んで居る。唯この二者何れもこの事実や約束の内容に信頼を置くにあらずして、この約束を与えこの事実を実現せしめ給いし神即ち「イエスを甦えらせ給いし者」を信仰の対象とする点に於いて同一である。

4章25節 (しゅ)(われ)らの(つみ)のために(わた)され、(われ)らの()とせられん(ため)(よみが)へらせられ(たま)へるなり。[引照]

口語訳主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。
塚本訳このイエスこそ、わたし達の過ちのために死に引き渡され、またわたし達を義とするために復活された方である。
前田訳イエスはわれらの過ちのために死に渡され、われらが義とされるために復活させられた方です。
新共同イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
NIVHe was delivered over to death for our sins and was raised to life for our justification.
註解: 私訳「主は我らの罪の故に付され、我ら義と認められし故に甦えらせられ給えり」(G1に依る)前節「我らの主イエス」の意義の説明で、我らの信仰の対象たる神が、かくイエスを甦らせ給える理由は、イエスの死は我らの罪に対する罰であり、イエスの復活は我らの義と認められし事の証拠である(ロマ6:4Tコリ15:17)からで、かかる神を信ずる事は又我らの罪の赦しと義認とを信ずる事である。
辞解
[義とせられん為に] 直訳「義の故に」で註の如き意味に取るを可とす。
要義 [信仰とは何ぞや] 本章に於てアブラハムの例により信仰の何たるかが明かにせられている。即ちそれはアブラハムがユダヤ人に属し律法を与えられている事でもなく(13-16節)割礼を受けている事でもない(9-12節)。唯(1)死人を活し給う神を信ずる事(17節a)。(2)無きものを有るものの如く呼び給う神を信ずる事(5節、17節b)。(3)望むべくもあらぬ時になお望みて信ずる事(18節)。(4)約束を必ず実行し給うと信ずる事(21節)である。即ち洗礼、教会所属等が信仰の本質ではなく、(1)イエスと共に我らをも復活せしめ給う神を信ずる事(24節)。(2)我らに功なくとも信仰により義人と認め給う神を信ずる事。(3)キリストの再臨による身体の救、新天新地の実現を信ずる事。(4)これ等の凡ての約束は一見不可能、不合理に見えるけれどもこれを必ず実現し得給うと信ずる事、換言すればかかる神を信ずる事である。従て信仰とは、今日考えられている如き神秘的見神の実験や、社会的活動や、宗派所属等の如きものではない。これ等は信仰の結果の一表題であり得るけれども信仰そのものではない。信仰は飽く迄も霊の問題であり、理智を超越せる神に対する絶対的信従の態度である。

ロマ書第5章
3-(1)-(1)-(ニ) 義とされる事の効果 5:1 - 5:21
3-(1)-(1)-(ニ)-(a) 平安、歓喜、希望の生涯 5:1 - 5:5

註解: 前節の結果を受けてパウロは進んで、義とされれる結果として現在及び将来に於て享有すべき基督者の祝福を論じている。

5章1節 ()(われ)信仰(しんかう)によりて()とせられたれば、(われ)らの(しゅ)イエス・キリストに()り、(かみ)(たい)して平和(へいわ)()たり。[引照]

口語訳このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
塚本訳だから、わたし達は信仰のゆえに義とされたのであるから、わたし達の主イエス・キリストによって、いま神と平和ができた。
前田訳かく、信仰によって義とされて、われらは神に対して平和を得ています。これは主イエス・キリストのおかげです。
新共同このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
NIVTherefore, since we have been justified through faith, we have peace with God through our Lord Jesus Christ,
註解: 罪人は神に対して不和敵対の状態にあり神の怒りの下にある。然るに信仰により義とされ罪を赦されしものは、神の前に義人として恐れる事なしに立つ事が出来る。これ神との間に平和の関係が成立しているからである。而してこの関係の更新はその結果として内心の主観的平和を来す。これ凡てイエス・キリストの死とその復活とによるのであって、十字架の上に死にて今も生き給う彼によりてのみ我ら恐れる事なく神に近づく事が出来る。現在に於けるこの心の平和こそ義とされる者の無上の幸福である。
辞解
[得たり] echomen は異本「我らをして……平和を得しめよ」 echômen とありこの方を採用する説が多いが強てその必要を認めない。

5章2節 また(かれ)により信仰(しんかう)によりて、[(いま)]()つところの恩惠(めぐみ)()ることを()[引照]

口語訳わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
塚本訳そうだ、キリストにより、信仰で、わたし達はいまいるこの恩恵の状態に入ることができ、また(最後の日に)神の(子になることを信じて、その)栄光にあずかる希望を誇っているのである。
前田訳彼のおかげでわれらは今立つところのこの恩恵へ信仰によって入れました。そして神の栄光への希望を誇りにしています。
新共同このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
NIVthrough whom we have gained access by faith into this grace in which we now stand. And we rejoice in the hope of the glory of God.
註解: 前節が現在の状態を叙しているに対し、本節前半は過去に遡ってその原因を探り、後半「神の栄光を望みて喜ぶなり」はそれが現在に及ぼせる結果を叙述している。即ちキリストの贖罪によりて人類の罪が贖われ、自分はこれを信仰を以て受け、斯して過去に於て神の恩恵の中に導き入れられ今日に至っている。「平和は恩恵の中に永く留っている状態を云う」(B1)
辞解
[今立つ] hestêkamen は文法上過去に於てその中に置かれて今現にその処にいる事を意味する。
[入る事を得] 原語「導き入れられた」「接近を持った」等過去完了形で、過去に於て入り現在もその処にいる事、日本語はこれ等の時法による意味を示さないことは遺憾である。
[入ること] prosagôgê 「導き入れられる事」「接近する事」等の意味あり他動的に前者の意味に取る方可ならん(M0)。

(かみ)榮光(えいくわう)(のぞ)みて(よろこ)ぶなり。

註解: 私訳「神の栄光の希望に就て誇るなり」未来に関する心持を云って居り、これにより前節及び本節に於て基督者の過去現在未来の心の状態を簡単に言い尽している。神に属する栄光はやがて神の子たる基督者たちにも与えられるのであって、これが即ち基督者の希望であり、彼らはこの希望につき誇りと喜びとを有っているのである。
辞解
[喜ぶ] kauchaomai は又「誇る」「栄める」等よき意味の誇りを示す語で、確信を持ちつつ力強くこれを表白する事を云う(G1)。Uコリ1:12註參照。

5章3節 (しか)のみならず患難(くわんなん)をも(よろこ)ぶ、[引照]

口語訳それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
塚本訳そればかりではない。苦難をも誇る。苦難は忍耐を、
前田訳そのうえ、苦難にあっても誇ります。苦難は忍耐を、
新共同そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
NIVNot only so, but we also rejoice in our sufferings, because we know that suffering produces perseverance;
註解: 基督者は神の栄光の望につきて喜ぶのみならず患難をすら喜ぶ(誇る)。単に患難に耐えるだけならば異教徒にすら可能であるけれども、これをも喜びと誇りとを以て受ける事は基督者にのみ可能である(その故は次にこれを示す)、基督者となりても患難を免れる事は出来ない。否却て多くの患難に襲れる(ヘブ12:1-12)

そは患難(くわんなん)忍耐(にんたい)(しゃう)じ、

註解: 「忍耐は患難なしにこれを学ぶ事が出来ない」(B1)。
辞解
[生じ] katergazomai は造り上げる事。

5章4節 忍耐(にんたい)練達(れんたつ)を[(しゃう)じ]、[引照]

口語訳忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
塚本訳忍耐は鍛錬を、鍛錬は希望を生むことを知っているからである。
前田訳忍耐は訓練を、訓練は希望を生むことを承知ですから。
新共同忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
NIVperseverance, character; and character, hope.
註解: 患難を忍耐してこれに打勝つ者は練達せる者であり、試練に合格せる者である。
辞解
[練達] dokimê は dokimion 即ち試金石(ヤコ1:3)を以て試験せられて合格せる者の状態を云う、Uコリ13:5-7註参照。

練達(れんたつ)希望(のぞみ)(しゃう)ずと()ればなり。

註解: 希望に対する熱求とこれを握れる確信は患難を経て練達せる者に与えられし冠である。希望がその最も美わしき姿に於てあらわれ最も多くの慰となるはかかる人である。故に患難を喜ぶ事は結局この希望の喜び(2節)の中に患難が呑まれてしまうからである。

5章5節 希望(のぞみ)(はぢ)(きた)らせず、(われ)らに(たま)ひたる(せい)(れい)によりて(かみ)(あい)われらの(こころ)(そそ)げばなり。[引照]

口語訳そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
塚本訳そしてこの“希望は(必ず実現して、わたし達を)失望させることはない。”神はわたし達に聖霊を授け、それによって愛をわたし達の心の中に(いつも豊かに)注いでいてくださるからである。
前田訳この希望は恥をかかせません。われらに与えられる聖霊によって神の愛がわれらの心に注がれるからです。
新共同希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
NIVAnd hope does not disappoint us, because God has poured out his love into our hearts by the Holy Spirit, whom he has given us.
註解: 前節に確言せられし希望は必ず実現するのであって、決して空頼みに終る事はない。この事は神が我らを愛し給うその愛が我らの心に尽くる事なく注がれる事によって明かに知る事が出来る(而して神の愛の注入の仲介者は我らに与えられし聖霊に外ならない)。かく神が我らを愛し給う以上その栄光(2節)を我らに拒み給う筈が無い。これによりてパウロが1、2節に述べし平和も希望も皆この神の愛より出づる事を明かにしている事に注意すべし。而して次節以下にこの愛が如何にして(あらわ)れしかを叙述する。尚1-5節の中に信、望、愛、神、キリスト、聖霊の三位、平安、恩恵、希望、歓喜等の重要なる真理につき録されている事に注意すべし。
辞解
[注げばなり] 「注がれたればなり」で過去に於て注がれその状態が今も継続する完了形の動詞。

3-(1)-(1)-(ニ)-(b) かかる生涯はキリストの賜物なり 5:6 - 5:11

5章6節 我等(われら)のなほ(よわき)かりし(とき)、キリスト[(さだま)りたる]()(およ)びて、敬虔(けいけん)ならぬ(もの)のために()(たま)へり。[引照]

口語訳わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。
塚本訳なぜなら、わたし達がまだ弱くあったとき、当時まだ不信心者の(わたし達の)ために、キリストは死んでくださったからである。
前田訳キリストは、われらがなお弱かったときに、時をたがえず、不信のものたちのために死んでくださいました。
新共同実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
NIVYou see, at just the right time, when we were still powerless, Christ died for the ungodly.
註解: キリストの愛はかくも深く又神の御旨によるものであった。彼は弱くして罪を犯す我らをも捨て給わず、かかる不敬虔にして神に叛く者をも愛し、その為に神の定め給いし日に十字架につき給うた。
辞解
[なほ] eti は原本に混乱あり、
[定りたる日に及び] kata kairon は直訳「時に及びて」となり「神の定め給いし日」叉は「適当なる日」を意味す。この二つの意味を含むと見る事を得べし。

5章7節 それ義人(ぎじん)のために()ぬるもの(ほとん)どなし、仁者(じんしゃ)のためには()ぬることを(いと)はぬ(もの)もやあらん。[引照]

口語訳正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
塚本訳(驚くべき神の愛!人間の世界では、)義人のために命をすてる者はほとんどあるまい。善人のためならば、惜しげもなく命をすてる者が、あるいはあるかも知れない。
前田訳義人のために死ぬものはほとんどありません。善人のためには、あるいはいのちを惜しまぬものがあるでしょう。
新共同正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
NIVVery rarely will anyone die for a righteous man, though for a good man someone might possibly dare to die.
註解: 他人の為に死ぬる事はそれがたとい正義の士の為でも殆んど絶無であり、それが善人且つ親切なる人である場合すら稀にあるに過ぎない。これを見ても次節のキリストの死の意義が如何に特異であるかを知る事が出来るであろう。
辞解
本節の義人 dikaiou と仁者(直訳善人) tou agathou との間に、(1)意味の差別ありや、(2)差別ありとすれば如何なる意味に差異ありや、(3)男性か中性か、(4)何故後者にのみ冠詞ありや等について種々の解釈あり。ここに詳論をさけて改訳の解釈をそのまま採用した(I0、Z0、E0)。
[▲(いと)わぬ] tolmaôは「敢えてする」の意。

5章8節 ()れど我等(われら)がなほ罪人(つみびと)たりし(とき)、キリスト我等(われら)のために()(たま)ひしに()りて、(かみ)(われ)らに(たい)する(あい)をあらはし(たま)へり。[引照]

口語訳しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
塚本訳しかしわたし達が(義人でも善人でもなく、)まだ罪人(神の敵)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。このことによって、神はわたし達に対する愛をお示しになったのである。
前田訳しかし、まだわれらが罪びとであったときに、キリストがわれらのために死なれたことによって、神はわれらに愛を示されました。
新共同しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
NIVBut God demonstrates his own love for us in this: While we were still sinners, Christ died for us.
註解: ヨハ3:16。罪の為に死の罰を受くべき我らの為に却ってキリストは死に給うた。これこそ空前絶後の愛であり真の愛そのものである(Tヨハ4:9)。敵をも愛しその為に死に得ざるものは真の愛ではない。ここにキリストの愛と神の愛とが混同せられている処にパウロの信仰の姿を見る事が出来る。パウロに取りては神とキリストは分離し得ざる信仰の対象であった。
辞解
[あらわし給えり] のあらわす sunistêmi は「薦める」「示す」等の意、
[給えり] 「給う」とすべし、現在動詞。

5章9節 ()(いま)その()()りて(われ)()とせられたらんには、まして(かれ)によりて(いかり)より(すく)はれざらんや。[引照]

口語訳わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
塚本訳それならばキリストの血で義とされている今、わたし達がキリストによって(最後の日の神の)怒りから救われるのは、もちろんである。
前田訳まして、彼の血で義とされた今、彼によって怒りから救われるはずです。
新共同それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
NIVSince we have now been justified by his blood, how much more shall we be saved from God's wrath through him!
註解: キリストの死は我らを義とする原因であり、これによりて既に義とせられし以上は活きて神の右に在し給うキリストは世の終りに於て我らの上に降るべき審判につき我らを護り神の怒より我らを救い給うであろう。キリストの愛は永遠に及ぶ(ロマ8:34)故に我らはこの愛に在りて絶対に安全であり平安である。
辞解
[怒] 最後の審判に際して神の発し給う怒(ロマ2:5、6。Tテサ1:10Uテサ1:8、9)。
[救ふ] 救の意義に種種あり、罪の支配より救出される事(現在)、神の怒によりて滅ぶべき場合より救出される事(未来)。本節の場合はこの後者に属す。

5章10節 我等(われら)もし(てき)たりしとき御子(みこ)()()りて(かみ)(やわら)ぐことを()たらんには、まして(やわら)ぎて(のち)その生命(いのち)によりて(すく)はれざらんや。[引照]

口語訳もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。
塚本訳なぜなら、(神の)敵であったのに、その御子の死によって神と和睦ができたくらいならば、すでに和睦をしたわたし達が、御子の(復活の)命によって救われるのは、もちろんである。
前田訳敵でありながらみ子の死によって神と和解したのならば、まして和解したわれらはみ子のいのちによって救われるはずです。
新共同敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
NIVFor if, when we were God's enemies, we were reconciled to him through the death of his Son, how much more, having been reconciled, shall we be saved through his life!
註解: 我ら罪にいる間は神と敵対関係に立っていて、神の怒りの下にある。然るにこの関係を脱して神と和らぐ事が出来、神の怒が和らげられたのは(第1節)キリストの死の結果であった。キリストの死がかくも神の心を和らげて敵をも味方たらしめる力があるならば、(いわ)んやキリストの生(活きて神の右に在し、我らの為に執成(とりな)し給う事)は既に神との間に平和が成立せる我らを更に最後の救の完成に到達せしむる力が無い筈はない。救はキリストの死と生とによりて階段的に完成に至る。
辞解
「敵」「和らぎ」等の語が人間の方の心持を云うか神の心持を云うかにつき論争あり。敵となりしはアダムの罪に始まる故、人が始めであり和らぎしはキリストの死による故、神に始まる。併し相互の関係より見れば一方のものにあらず双方の事実である(E0)。10節は9節の詳述である(G1)。
[▲生命によりて] 「生命にありて」で神の生命と一つになっている事。

5章11節 (しか)のみならず(いま)われらに和睦(やはらぎ)()させ(たま)へる(われ)らの(しゅ)イエス・キリストに()りて(かみ)(よろこ)ぶなり。[引照]

口語訳そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。
塚本訳そのことばかりではない。主イエス・キリストによって今すでにこの和睦を得たわたし達は、彼によって神を誇るのである。(自分を誇らない。キリストを誇り、神を誇る。)
前田訳そのうえ、主イエス・キリストによって今和解を受けたわれらは、彼によって神を誇るのです。
新共同それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
NIVNot only is this so, but we also rejoice in God through our Lord Jesus Christ, through whom we have now received reconciliation.
註解: ただに将来に於て救を得るのみならず(10節)今現に我ら神にありて誇りつつ生きる事が出来る偉大なる特権の所有者である(Tコリ1:31)。而してこの歓喜に充てる誇りは、キリストによりてのみ与えられる処のものであって、彼によりて今我らは神との和らぎを得ているからである。
辞解
[喜ぶ] に就ては2節辞解参照。

3-(1)-(1)-(ニ)-(c) アダムとキリスト 5:12 - 5:21

5章12節 それ一人(ひとり)(ひと)によりて(つみ)()()り、また(つみ)によりて()()()り、(すべ)ての(ひと)(つみ)(をか)しし(ゆゑ)に、()(すべ)ての(ひと)(およ)べり。[引照]

口語訳このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
塚本訳(この救いはキリストとアダムとを比較する時に、はっきりする。)すなわち、一人の人(アダム)によってこの世に罪が入ってき、罪によって死が入ってき、こうして、(この人において)人は一人のこらず罪を犯したので、全人類に死が行き渡ったように──([一八節ニツヅク]一人の人キリストの正しい行いによって、全人類に命を与える義が臨んだのである。)
前田訳それで、こういえます。ひとりの人によってこの世に罪が入り、罪によって死が入りました。こうして、すべての人が罪を犯したので、すべての人に死が行きわたりました。
新共同このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
NIVTherefore, just as sin entered the world through one man, and death through sin, and in this way death came to all men, because all sinned--
註解: 私訳「それ故に一人の人によりて罪は世に入りまた罪によりて死〔は世に入り〕、かくして死は凡ての人に及び、かかる事情の下に凡ての人罪を犯したり」。12-21節に於てパウロはアダムとキリストとを対照して、前者によりて罪と死が世に入り反対に後者によりて義と永生が世に来り、全人類に及べる事を説明して、イエスによりて義とせられ救われる事の意義を明かにしているのである。「一人の人」はアダムで(エバはアダムの中に含まれしものと見る)彼の罪によりて罪なるものが世界に始めて入り来り、又その結果として死が同時にこの世に入って来た。若しアダムが罪を犯さざりしならば、彼の肉体は或はそのまま不死であるか又は不死の体とされたであろう。人間に取りて死は本来変態である。而してアダムの罪の結果は、全人類に死を来らしめたのである(これが当時の一般の信念であった)。而してかかる状態の下に於て人は皆罪を犯した。これがアダムの子孫たる全人類の実状である。この一節は註解学上の最難関である。
辞解
[それ故に] 前数節を受けているけれどもこの数節は救に関する重要問題の要約故、思想としては1:18以下の全体を受けていると見る事が出来る。
[入る(eiserchomai)、及ぶ(dierchomai)] 前者は進入する事、後者は浸潤する事を意味す。
[凡ての人罪を犯しし故に] 私訳「かかる事情の下に凡ての人罪を犯したり」(Z0、私訳)は註解学上の難関で無数の学説あり、eph'hô を「故に」と訳する時は人々の死が過去に於て各々が犯した(不定過去形)罪の結果となる如くに解せられ、全体の論理に違反し且つ嬰児等に当てはまらず、その他これと大同小異の種々の解釈あれど皆幾分の困難あり、夫故にZ0の説に従い、且つこの二語(eph'hô)が用いられし他の個所(Uコリ5:4ピリ3:12ピリ4:10)をも考察して「かかる事情の下に」又は「これに加えて」と訳し凡ての人の罪を犯すより以前に既に死の支配の下にある事を示す。
[罪を犯したり] 不定過去形で、これを「罪性を有せり」等の如き意味(C1)に取る事は出来ない。
[死] 聖書に於て(1)肉体的の死、(2)道徳的の死、(3)永遠の死を意味するけれども、これらの凡ては結局に於て相関連せる一体の事実であると云う事が出来る。

5章13節 律法(おきて)の[きたる](まへ)にも(つみ)()にありき、されど律法(おきて)なくば(つみ)(みと)めらるること()し。[引照]

口語訳というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。
塚本訳なぜか。(律法のない時代、つまりアダム以後モーセ)律法(のできる)までの間にも、罪はこの世にあったが、律法がないので、(たとえ罪に当たることをしても、)罪はその人の責任に帰せられ(ず、死の罰は受け)ないはずである。
前田訳律法以前にも罪はこの世にありましたが、律法がなければ罪は数えられません。
新共同律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
NIVfor before the law was given, sin was in the world. But sin is not taken into account when there is no law.

5章14節 (しか)るにアダムよりモーセに(いた)るまで、アダムの(とが)(ひと)しき(つみ)(をか)さぬ(もの)(うへ)にも()(わう)たりき。[引照]

口語訳しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。
塚本訳それにもかかわらず、アダムからモーセまでの間に、アダムと同じ(律法)違反の罪を犯さなかった(その時代の)人たちの上にも、死が王として支配したからである。(従ってこの罪と死とがアダムによるものでなくてなんであろう。そして一人の人の行いが全人類に影響を及ぼす点において、)アダムは来るべき者(である新約のアダム、すなわちキリスト)の型である。
前田訳しかし、アダムからモーセまで、アダムの背きと同じ罪を犯さなかった人々の上にも、死は王でした。アダムは来たるべきものの型なのです。
新共同しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
NIVNevertheless, death reigned from the time of Adam to the time of Moses, even over those who did not sin by breaking a command, as did Adam, who was a pattern of the one to come.
註解: 原罪説の証拠たるべき箇所で難解にして議論多き節である。大意は、モーセの律法が与えらる前、即ちアダムよりモーセに至る迄の期間にも歴史上の事実として罪は世の中に存在していた。この事は旧約聖書の歴史がこれを証明する。併し乍ら神は律法なき時の罪をば、律法を与えられし後の罪と同様の意味の罪として(即ち神の命令の積極的違反、アダムの罪の如き罪として)数え給わない。従って律法なき場合の罪は死を以て報いらるべきではない。然るに(14節)事実はこれと反対で、アダムよりモーセに至る迄の無律法の期間に、アダムの咎に等しき積極的の神の命令違反の罪を犯さぬ者の上にも死は一様に支配していた。この事実は何を示すか、取りも直さずアダム一人の罪によりて死が万人に及び、万人が罪人と認められた事の証拠である。この原理がキリスト一人の義によりて生命が万人に及ぶ事の論拠となる。
辞解
[認めらる] ellogeomai は logizomai と同意義、「数えらる」「帳溥に記入せらる」との意、この場合「人が罪として数えない」(C1)との意味に解する説と「神が罪として数えない」との意味に解する説とあり後者を取る。
[等しき] 「類似せる」意。
[王たりき] 「支配したり」

アダムは(きた)らんとする(もの)(かた)なり。

註解: 来らんとする者はキリスト第二のアダム(Tコリ15:45)であって、第一のアダムはその型である。即ち12-14節は15節以下のキリストの救を証明する型となる(型タイプに就てはTコリ10:13要義2参照)

5章15節 されど恩惠(めぐみ)賜物(たまもの)は、かの(とが)(ごと)きにあらず、一人(ひとり)(とが)によりて(おほ)くの(ひと)()にたらんには、まして(かみ)恩惠(めぐみ)一人(ひとり)(ひと)イエス・キリストによる恩惠(めぐみ)賜物(たまもの)とは、(おほ)くの(ひと)(あふ)れざらんや。[引照]

口語訳しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。
塚本訳しかし(神の)賜物は(アダムの)過ちと同じではない。なぜなら、一人の人(アダム)の過ちによってすら多くの人が死んだくらいであるから、まして神の恩恵と一人の人イエス・キリストによる恩恵の賜物とが、多くの人に満ちあふれるのはもちろんである。
前田訳しかし(神の)賜物は過ちのごとくではありません。ひとりの人の過ちによってさえ多くの人が死んだのなら、まして神の恩恵とひとりの人イエス・キリストによる恩恵の賜物とが多くの人々に満ちあふれるわけです。
新共同しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
NIVBut the gift is not like the trespass. For if the many died by the trespass of the one man, how much more did God's grace and the gift that came by the grace of the one man, Jesus Christ, overflow to the many!
註解: これよりアダムとキリストとを対比してその同一点と後者の優越点を示す、即ちアダムの咎すらも全人類に及び死が万人を支配するに至ったとすれば、まして咎とは比すべくもなき神の恩恵の賜物、即ちキリストを賜える神の恩恵とキリストの恩恵による罪の赦しの賜吻とは全人類の上に溢れない筈はない。かくの如く咎と恩恵とは何れも一人の人より全人類に及ぶ点に於て同一である。けれども、その豊富さに於て恩恵は遥に咎にまさる。
辞解
[恩恵の賜物] charisma は聖霊によりて人々に与えられる種々の能力才能を指す場合あれど、(ロマ12:6Tコリ12:4Tコリ12:31等)ここではキリストによりて与えられる罪の赦し永生等を指す。
[イエス・キリストによる恩恵の賜物] 「イエス・キリストの恩恵による賜物」と訳すべきである。
[多くの人] 「凡ての人」と云うに同じく一人と相対立する。
[溢れる] 水が器物を溢れ出づる姿。
[まして] 咎は小にして有限なる行為、恩恵は神より来りて無限であるから。

5章16節 (また)この賜物(たまもの)(つみ)(をか)しし一人(ひとり)より(きた)れるものの(ごと)きにあらず、審判(さばき)一人(ひとり)よりして(つみ)(さだ)むるに(いた)りしが、恩惠(めぐみ)賜物(たまもの)(おほ)くの(とが)よりして()とするに(いた)るなり。[引照]

口語訳かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の結果とは異なっている。なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、罪に定めることになったが、恵みの場合には、多くの人の罪過から、義とする結果になるからである。
塚本訳なお、(キリストの)賜物と一人の罪を犯した人の場合とは、同じではない。なぜなら、一人の人(の罪)に対する(神の)裁きは、(多くの人に)死の宣告を下したのであるが、(神の)賜物は、多くの(人をその)過ちから(救い出して)義とするからである。
前田訳賜物はひとりの人が罪を犯した場合のごとくではありません。ひとりの人への裁きは処刑になりましたが、賜物は多くの過ちを義(無罪)にしました。
新共同この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。
NIVAgain, the gift of God is not like the result of the one man's sin: The judgment followed one sin and brought condemnation, but the gift followed many trespasses and brought justification.
註解: 又神及キリストの恩恵の賜物と、アダムより出づる罪の(のろい)とはその効果の及び方に重大なる差がある事に注意しなければならない。即ち神が人を義とし給う賜物は罪を犯した一人より(のろい)が全人類に及んだ場合の如く不吉不幸なものではない。その故は審判の場合に於ては一人の罪が全人類に及んで全人類が罪に定められ、滅亡の宣告を受けるけれども、恩恵の場合に於ては多くの人の罪が取除かれて義の宣告を受くるに至るからである。即ち前者の場合は多くの罪が附加えられ後者の場合は多くの罪が取除かれる。かくの如く罪と恩恵とはその影響の及ぼし方とその結果とを異にする、即ち罪は伝染病の如く一人より全人類に悪が蔓延し、反対に恩恵は全人類より罪を取去る。而して罪は死の宣告を来し恩恵は義の宣告を与える。
辞解
[審判は一人より] を「一つの咎より」と読む説あり、「多くの咎より」を「多くの人の咎より」と読む説あり、これによりて種々の解を生ずるけれども、その差異は重大ではない。唯パウロが本節に如何なる点を対照、コントラストの中心としたかについては諸説あり、15節は一人より全人類に及ぶ点を中心として両者の異同を論じ、本節は罪の宣告と義の宣告とを中心としてこれを為したるものと見るべきであろう。即ち15節はアダムとキリストの影響の範囲、本節はその影響の性質を対比したものである。
[義とする] dikaiôma は「義の宣告」の意。尚本節には krima と katakrima 、 charisma とdikaiôma との如き同義語尾による対比あり、簡潔にして強き文章である。

5章17節 もし一人(ひとり)(とが)のために一人(ひとり)によりて()(わう)となりたらんには、まして恩惠(めぐみ)()賜物(たまもの)とを(ゆたか)()くる(もの)は、一人(ひとり)のイエス・キリストにより生命(いのち)()りて(わう)たらざらんや。[引照]

口語訳もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。
塚本訳一人の人によって、すなわち一人の人(アダム)の過ちによってすら死が支配するようになったくらいであるから、ましてあふれるばかりの恩恵と義とされる賜物とを戴いた者が、一人の人イエス・キリストにより(永遠の)命をもって支配するのは、もちろんであるからである。──
前田訳ひとりの人によって、すなわちひとりの人の過ちによってさえ死が王となったのなら、ましてあふれる恩恵と義の賜物とを受けるものは、ひとりのイエス・キリストによっていのちのうちに王となるわけです。
新共同一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
NIVFor if, by the trespass of the one man, death reigned through that one man, how much more will those who receive God's abundant provision of grace and of the gift of righteousness reign in life through the one man, Jesus Christ.
註解: 15、16節を受け更にそこに対比せられし二者の差異が本節に於て高調せられている。即ち一人の人アダムの罪のためにアダムと同じ罪を犯さない人でも皆死の奴隷となり、死は彼らを支配した位である。(いわ)んやキリストの贖によりて信仰を以て恩恵と義の賜物とを豊に(15節末尾)受くる者は、死の奴隷たる状態より解放せられ、やがて来るべきキリストの国に於ては永遠の生命にありて支配するであろう。アダムの場合に於ては人類の上に死が支配し、キリストの場合は彼によりて人類は生命にありて支配者となる。この重大なる変化に注意しなければならない。
辞解
[王となる] 支配する事。「死が王となる」に対し「生命が王となる」と云うべきが如くに見え乍ら「生命にありて又は生命によりて(21節参照)王たらざらんや」と云える所以は信仰による新生命を得し者はこの偉大なる変化を受けて支配力を得、本節前半に思想上含まれる観念、即ち人は死の下に奴隷となっていた事に対する対照をなしていると見るべきである。
[義の賜物] 神は信ずる者にその義を与え給う。

5章18節 されば(ひと)つの(とが)によりて(つみ)(さだ)むることの(すべ)ての(ひと)(およ)びしごとく、(ひと)つの(ただ)しき行爲(おこなひ)によりて()とせられ生命(いのち)()るに(いた)ることも、(すべ)ての(ひと)(およ)べり。[引照]

口語訳このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。
塚本訳従って、一人の人の過ちによって全人類に死の宣告が下されたと同じに、一人の人の正しい行いによって、全人類に命を与える義が臨んだのである。
前田訳したがって、ひとりの人の過ちによってすべての人が処刑されたように、ひとりの人の義によってすべての人にいのちの義が与えられました。
新共同そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
NIVConsequently, just as the result of one trespass was condemnation for all men, so also the result of one act of righteousness was justification that brings life for all men.
註解: 18、19節によりて12節以下の全体を要約している故「されば」は12節以下を受けている。本節の大意はアダムの罪によりて全人類が死ぬべき罪人と宜告せられしと同じく、キリストの一の義(なる行為)によりて全人類が生命に至る義を与えられたとの意味である。即ち全人類の救に関する嘉信である。但しこれを受くるや否やは各人の信仰によるのであって、人はその不信仰の故にこの神の恩恵を失う事は勿諭である。
辞解
[一つの] を「一人の」と読むべしとの説あり、又かく読む事も出来るけれども本節の場合、次節との対比上「一つの」が適当であろう。
[正しき行為] dikaiôma は16節の場合と同じく「義の宣告」の意味に解する学者があるけれども(M0、I0)本節では「咎」 paraptôma に対して「義しき事柄」即ちイエスの従順の全生涯と見るべきである(G1、Z0、A1、B1)。dikaiôma は邦訳聖書に種々の訳を持っているけれども(ルカ1:6ロマ1:32ロマ2:26ロマ5:16ロマ8:4ヘブ9:1ヘブ9:10黙15:4黙19:8)何れの場合でも「神が正しと認め給う事柄」を意味する事に於て共通である。

5章19節 それは一人(ひとり)()從順(じゅうじゅん)によりて(おほ)くの(ひと)罪人(つみびと)とせられし(ごと)く、一人(ひとり)從順(じゅうじゅん)によりて(おほ)くの(ひと)義人(ぎじん)とせらる[る](れば)なり。[引照]

口語訳すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。
塚本訳すなわち、一人の人の不従順によって多くの人が罪人になったように、一人の人の従順によっても多くの人が義人になるのである。
前田訳すなわち、ひとりの人の不従順によって多くの人が罪びとになったように、ひとりの人の従順によって多くの人が義人になりましょう。
新共同一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
NIVFor just as through the disobedience of the one man the many were made sinners, so also through the obedience of the one man the many will be made righteous.
註解: 神に対しては不従順は罪の別名、従順は義の別名とも見る事を得(ロマ1:5辞解参照)本節は前節の理由の詳述であって、アダムの罪の為に多くの人、罪人の資格を得る如く(その証拠は万人が死の奴隷となっている事を以て知る事が出来る、12節)一人の人キリストの従順の生と従順の死(ピリ2:8)とによりて多くの人、義人の資格を得るに至ったのである。アダムは旧き人の初祖、キリストは新しき人の初祖である。何故に又如何にしてかくなるかについてはパウロは説明を与えて居ない。これ信仰による知識である。
辞解
[罪人−義人とせらる] のせらるはkathistêmi なる語を用い「指定する」「任命する」等の如き意味の語である。その資格を獲得する事。
[多くの人] 前節の「凡ての人」と同義。

5章20節 律法(おきて)(きた)りしは(とが)()さんためなり。されど(つみ)()すところには恩惠(めぐみ)彌増(いやま)せり。[引照]

口語訳律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。
塚本訳(それなら律法は人を義として永遠の命を与えるためには役立たないのか。その通り。)律法は、過ちを増し強めるために第二義的に来たのである。しかし(神に感謝する、人の犯す)罪が増し強まれば、恩恵は豊かにあふれる。
前田訳律法が入ってきたのは過ちが増すためです。しかし、罪が増すところ恩恵が満ちあふれました。
新共同律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
NIVThe law was added so that the trespass might increase. But where sin increased, grace increased all the more,
註解: アダムとキリストとの関係を諭じ終って当然問題となり得べき事は、その間に与えられしモーセの律法の意義であった。若しキリストの贖によりて功なしに義とされるならば、律法を厳格に守る事の努力は空しき労であり、律法を与えられし事は無意味であった事となるやと云うに然らず、パウロの解釈によれば律法が与えられたのはアダムの咎の上に更に各人にその罪業を増し、自己の罪の(はなは)だしき事を自覚せしめんが為であった。併し乍らこれ結局神の愛の御旨であって罪が増すに従い、これを赦さんとするの恩恵もその以上に増加して来た、故に律法の為に苦しんだ事は決して無益ではなく恩恵による罪の赦を知る上に一層必要であった事がわかる。
辞解
[来りしは] の原語 は「更にこれに加わり来りしは」との意。
[咎] paraptôma は個々の罪の行為を指し「罪業」と訳す事を得。
[罪] hamartia 個々の具体的の罪行のみならず抽象的根本的罪念にも用う。

5章21節 これ(つみ)()によりて(わう)たりし(ごと)く、恩惠(めぐみ)()によりて(わう)となり、(われ)らの(しゅ)イエス・キリストに()りて永遠(とこしへ)生命(いのち)(いた)らん(ため)なり。[引照]

口語訳それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。
塚本訳これは罪が死を持って支配したように、恩恵も義をもって支配し、わたし達の主イエス・キリストによって、(わたし達を)永遠の命に入れるためである。
前田訳それは、罪が死をもって王であったように、恩恵も義をもって王となり、われらの主イエス・キリストによって永遠のいのちへ導くためです。
新共同こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。
NIVso that, just as sin reigned in death, so also grace might reign through righteousness to bring eternal life through Jesus Christ our Lord.
註解: 神の恩恵によりて義とされるまでは罪が人類を死を以て支配した、即ち人類は罪の奴隷となり死を脱する事が出来ず、死の中に幽閉されていた。然るに神の恩恵が義によりて支配するに及び、換言すれば恩恵によりて人類は罪が赦されてキリストにある義人とされて、キリストの義が彼らを支配するに及び、彼らは死に打勝ちその範囲を脱して永遠の生命に人る事が出来るのである。これ恩恵の支配の目的であった。
辞解
[死によりて] en は「死を用いて」(M0)と見るよりも「死の範囲に於て」と見るを可とす(G2、Z0、B1)。
[王たり] 支配する事。
要義1 [アダムの原罪説に就て] アダムの罪の為に万人が死ぬべきものとなり、万人が罪を犯すに至ったと云う原罪説には種々の困難がある。(1)人類が完全の状態より堕落せりと云うは進化論と調和しない。(2)他人の罪の結果を引受ける事は人は自己の行為のみに対して責を負う事の倫理学上の原則に反する。(3)アダムの罪の為に凡ての人罪を犯さざるべからざるに至つたと云うのは意思の自由の原則に反する。(4)死は生理的普遍現象にして罪の結果にあらず、等の反対論を予想する事が出来る。併し乍ら(1)人類は智的方面の進化があるにしても人間性の本質に於ては進化を証明する事が出来ず。(2)人間社会の連帯関係は非常に密接であって、望むと望まざるとに関らず他人の行為叉は生活の結果を自已に引受けざるべからざる場合は無数に存在し、(3)意思の自由と云うも決して絶対に自由にあらず、我らの遺伝、環境、教育、時代等に支配せられ、その範囲内の自由に過ぎない。而して(4)人間の精神と肉体との密接不離の関係を見るならばアダムの不従順により生じたる精神的大欠陥は本来不死なりし肉体に死を及ぼしたと考える事も大なる不合理ではない。何れにしても人類が一人として死なざるものなく、罪なきものなきに関らず、一人としてその中に神性を蔵せざるものなき事実の証明としてアダムの原罪説は最も事実に即したるこれも深き人性の解釈である。
要義2 [キリストの贖罪の普遍的効果に就て] 一人の人イエス・キリストによりて万人罪を赦されるのは如何なる理由によるか、答(1)神の御心に変化が起ったからであって、キリストの十字架上の死によりて人類の罪に対する神の怒は凡て解消して神は人類の罪を凡て赦し給える事。(2)これを信ずる者は何人たるを論ぜずその生活に全き変化を生ずる事。(3)人間の能力価値の差異が全く問題とならずして凡て一様に罪の赦を得る事。(4)罪の赦がイエスの思想に基礎を置かずしてその十字架なる事実に基礎を置く事等を挙げる事が出来る。