黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ガラテヤ書

ガラテヤ書第2章

分類
2 教理の部 1:6 - 5:12
2-1 パウロの福音の真実性と独立性 1:6 - 2:21
2-1-ニ 使徒会議における事情及活動 2:1 - 2:6  

2章1節 その(のち)十四年(じふよねん)()て、バルナバと(とも)にテトスをも()れて、(また)エルサレムに(のぼ)れり。[引照]

口語訳その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒に、テトスをも連れて、再びエルサレムに上った。
塚本訳その後十四年たって、わたしはバルナバと一緒に、テトスをも連れて、ふたたびエルサレムにのぼった。
前田訳その後十四年して、またエルサレムヘ上りました。バルナバといっしょで、テトスも連れてゆきました。
新共同その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。
NIVFourteen years later I went up again to Jerusalem, this time with Barnabas. I took Titus along also.
註解: 十四年の間エルサレムの使徒や信徒と直接の交渉がなかったことは、前章の論法と同じく、彼の使徒職と福音との独立性を証明している。このエルサレム上りは使15:1以下に相当する第三回目の上京でいわゆるエルサレム会議のための上京であろう。この以前に使11:29、30.および使12:25に記されし第二回の上京についてはパウロはここに沈黙している。その理由は不明であるけれどもおそらくその時パウロは単に飢饉救済の資金を持参する一片の使者に過ぎなかったためであろう。テトスを伴いしは異邦人の信者の標本を示さんがためであったろう。
辞解
[その後] ガラ1:18−24の出来事の後の意味、回心の後とする説もあれど不適当である。すなわち回心から最短足掛け16年を最長と見て満17年経過したこととなる。
[バルナバと共に] パウロとバルナバとの位置の上下はこれにより知り得ない(Z0)。

2章2節 ()(のぼ)りしは默示(もくし)()りてなり。[引照]

口語訳そこに上ったのは、啓示によってである。そして、わたしが異邦人の間に宣べ伝えている福音を、人々に示し、「重だった人たち」には個人的に示した。それは、わたしが現に走っており、またすでに走ってきたことが、むだにならないためである。
塚本訳しかし、のぼったのは(神の)啓示によったので、異教人のあいだで説いている福音を(そこの)人々に、名士たちには特別に、示した。(これは、)わたしが(現に福音のために力を尽くして)走っており、また(過去において)走ったことを、無駄にしないためであった。
前田訳わたしが上ったのは黙示によってです。そして彼らにわたしが異邦人の間に伝えている福音を紹介しました。内輪でお偉方にしたのです。それはわたしが走りまた走ったのがむだにならないためです。
新共同エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。
NIVI went in response to a revelation and set before them the gospel that I preach among the Gentiles. But I did this privately to those who seemed to be leaders, for fear that I was running or had run my race in vain.
註解: 使15:2にはアンテオケの兄弟たちより遣わされたように録されているけれども、これは外面的事実であって、パウロは唯機械的に彼らに動かされたのではなく、かかる明瞭な事実につき態々(わざわざ)エルサレムまで行くべきか否かにつき深く考慮したことであろう。而して直接に黙示を受けてこのエルサレム行きを決行したのである。この二つの記事に少しも矛盾がない。

かくて異邦人(いはうじん)(なか)()ぶる福音(ふくいん)(かれ)らに()げ、また()ある(もの)どもに(ひそか)()げたり、

註解: パウロはエルサレムに至り、彼がその当時は勿論今もなお宣伝えて変わらざる福音(現在動詞)、すなわち信仰のみによりて義とせられ律法の行為によらずとの福音を「彼ら」エルサレムの信徒の前に提示し、またヤコブ、ペテロ、ヨハネらの使徒たちには個人的にこれを提示した。而してパウロは単にこれを彼らに「告げし」ことを主張する所以は、彼らと合議の上彼らの認可を得しものとの誤解を防がんがためである。而してパウロの宣伝うる福音は直接にキリストの黙示によるものであるけれども、また決して自分一個だけで秘密に宣伝えているのではなく、エルサレムの母教会や、使徒の柱石たちにも充分に了解があるのである。─ かくいいてパウロの福音を非難する偽教師らに答えている。
辞解
[宣ぶる] 現在動詞。
[彼ら] エルサレムの一般の信者。
[名ある者ども] 首なる使徒たち。
[(ひそか)に] kat’ idian は秘密にという意味ではなく、「個人的に」との意。問題は同一でも一層深く説明する必要があるので特に個人的に会合したのであろう。これによりてパウロと彼らとの間に充分な了解があったことの証拠となる。

これは()(はし)ること、(また)すでに(はし)りしことの(むな)しからざらん(ため)なり。

註解: もしパウロの福音が誤りでかえって偽教師らの主張がヤコブ、ペテロ、ヨハネやエルサレムの信徒たちの信仰と同一であるように誤解される場合には、パウロの過去、現在および将来の伝道は空しきに帰してしまうであろう。パウロは自分の宣伝えし福音が正しきや否やについて疑問を持っていたのではない。他人がパウロの福音について誤解することを憂いたのである。
辞解
[走る] 競技の用語でここでは熱心に伝道することに応用している。

2章3節 (しか)して(われ)(とも)なるギリシヤ(びと)テトスすら割禮(かつれい)()ひられざりき。[引照]

口語訳しかし、わたしが連れていたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼をしいられなかった。
塚本訳それで(彼らはわたしの福音がどんなものかを知ったので、わたしの異教伝道を否認せず、そればかりか、)わたしが連れていたテトスすら、異教人であるのに、割礼を強いられなかった。
前田訳しかしわたしといっしょにいたテトスさえもギリシア人でありながら割礼を強いられませんでした。
新共同しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。
NIVYet not even Titus, who was with me, was compelled to be circumcised, even though he was a Greek.
註解: 私訳「されど我と偕なるテトスすらギリシヤ人なるに割礼を強いられざりき」。弟子たちはパウロの福音を了解したのみならず、一般の人々の中にはテトスに割礼を施すべきことを主張せる者があったにもかかわらず、このことがテトスの上に強制されなかった。これ割礼が異邦人の救いの必要条件にあらざることが承認された証拠である。パウロがここにテトスのことを引用せるは使16:3にユダヤ人のためにテモテに割礼を施した事実がガリラヤに知れており、これを偽教師らが利用して、パウロの福音の本質を不明確にせんとする者があったので、この度は彼の態度を明らかにする必要があったからであろう。パウロの自由なる態度を学ぶべきである。

2章4節 これ(ひそか)()りたる(にせ)兄弟(きゃうだい)あるに()りてなり。[引照]

口語訳それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので—彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。
塚本訳すなわち忍び入った偽兄弟がいて、(わたし達の中に)忍び込み、わたし達がキリスト・イエスによって持っている自由を待伏せして、奴隷にしようとしていたので、
前田訳ことは、しのび込んだ偽兄弟のしわざです。彼らこそ、われらがキリスト・イエスによって得ている自由をねらって、われらを奴隷にしようと入り込んだのです。
新共同潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。
NIV[This matter arose] because some false brothers had infiltrated our ranks to spy on the freedom we have in Christ Jesus and to make us slaves.
註解: テトスが割礼を強いられなかった理由を示す。すなわち割礼を施すこと、そのことは格別差支えがないにしても偽兄弟がもしこれを利用して「割礼を受けずば救われない」(使15:1)ことを主張するに至るならば、福音の自由の放棄である故、かかる偽兄弟があるがために、パウロはこの際断然テトスの割礼に反対した。エルサレムの信徒や使徒たちの中にはこの際テトスに割礼を施すことによりて妥協せんと欲したものもあるかもしれないけれども、パウロの主張を容れて割礼をテトスに強いなかった。これはパウロらにとり又キリストの福音にとり危機一髪の場合であってパウロの明瞭なる態度によりてキリスト教の福音は律法主義への堕落から救われた。
辞解
[偽兄弟] ユダヤ的キリスト者、律法主義的キリスト者はキリストの十字架を虚しくするゆえキリストにある真の兄弟ではない。
[(ひそか)に入る] 探偵等の行動についていう語。(注意)この句は前後の関係不明瞭なるため種々に解せられ、また種々の語を補充せられているけれども上述のごとくに解すべきであろう。A2、A1、B1、M0等の解釈はやや上述する処に近い。

(かれ)らの(しの)()りたるは、(われ)らがキリスト・イエスに()りて()てる自由(じいう)(うかが)ひ、(かつ)われらを奴隷(どれい)とせん(ため)なり。

註解: 偽兄弟らはパウロの福音に反対し、あたかも探偵のごとくに忍び入りてパウロらの行動を探り出し、パウロらがキリスト・イエスに在る自由の故に律法を形式的に遵守せざるを見てこれを非難し、パウロ始め異邦人のキリスト者らを再び律法の下に奴隷たらしめんとしている輩である。もし彼らの術数に陥り律法の遵守を救いの条件として信仰と並立せしむるならば、キリストの福音はこれによりて亡びてしまう恐るべき結果を来すであろう。
辞解
[忍び入る、窺う] みな探偵に関して用うる語。律法主義者は律法に照らして他人の欠点を探偵することを好む。
[キリスト・イエスに在りて有てる自由] 霊の自由というに同じ、肉の自由とは全く別物で、肉に死して霊に生き、自己に死してキリストに活くる者の持つ自由、かかる人はもはや律法によりて束縛せられない。
[奴隷とする] katadouloô は奴隷として圧伏することで強き語。

2章5節 ()れど福音(ふくいん)眞理(まこと)(なんぢ)らの(うち)(とどま)らんために、(われ)(いち)(とき)(かれ)らに(ゆず)(したが)はざりき。[引照]

口語訳わたしたちは、福音の真理があなたがたのもとに常にとどまっているように、瞬時も彼らの強要に屈服しなかった。
塚本訳わたし達は片時も彼らに服従し譲歩しなかった。真の福音があなた達の所に保存されるためでる。
前田訳しかしわたしたちは一時といえども彼らに譲歩して屈伏しませんでした。それは福音の真理がいつまでもあなた方のところにとどまるためです。
新共同福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。
NIVWe did not give in to them for a moment, so that the truth of the gospel might remain with you.
註解: この時もしパウロが一時でも彼らに服従して譲歩したならば、信仰のみによりて義とせられ律法の行為によらずとの福音の根本真理は倒れてしまっただろう。パウロがここに立ちて頑として動かなかったのは我意を通さんがためではなく「汝ら」すなわち異邦人のキリスト者の間に福音の真理が永遠に存続せんがためであった。ルーテルのウォルムスの会議における態度を連想せしめられる。
辞解
[汝ら] 一般の異邦人のキリスト者、従ってガラテヤ人にも適用される。
[留る] diamenô は永遠に存続すること。menô よりも一層強き語。
[譲り従う] 原語は「服従によりて譲歩する」で愛によりて譲歩する場合はあっても服従によりて譲歩する場合はない。

2章6節 (しか)るに、かの()ある(もの)どもより――(かれ)らは如何(いか)なる(ひと)なるにもせよ、(われ)には關係(かかはり)なし、(かみ)(ひと)外面(うはべ)()(たま)はず――()にかの()ある(もの)どもは(われ)(なに)をも(くは)へず、[引照]

口語訳そして、かの「重だった人たち」からは—彼らがどんな人であったにしても、それは、わたしには全く問題ではない。神は人を分け隔てなさらないのだから—事実、かの「重だった人たち」は、わたしに何も加えることをしなかった。
塚本訳しかし名士たちからは──その人たちがどんな(に偉い)人たちであったにもせよ、わたしはそんなことに頓着しない。“神は”人に“わけ隔てをされない”。──ほんとうにこの名士たちは、わたしに(これ以上)何も要求しなかった。
前田訳お偉方については、彼らがどれほどであろうとかまいません。神は人のうわべを区別なさいません。わたしにはお偉方は何も指図しませんでした。
新共同おもだった人たちからも強制されませんでした。――この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。――実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。
NIVAs for those who seemed to be important--whatever they were makes no difference to me; God does not judge by external appearance--those men added nothing to my message.
註解: パウロはここに盛名ある大使徒らに関する彼の評価と、彼らが彼の福音をいかに評価せしかを示して彼らとの関係を明らかにしている。すなわちたといいわゆる大使徒らはイエスの直弟子であり、また教会の創始者である等、外面的には多くの優越を持っていたとしても、これらは外面的のことであってパウロにとっては何らの関心を持たない事柄である、神は人の心を見てその外面を見給わないからである。かくいいてパウロは自己の福音が大使徒らより伝承せるものでなくとも差支えないことを明らかにしているのである。故にたとい大使徒らと異なれる考えを持っていてもパウロはその主張を曲げなかったことであろう。しかるに事実彼らはパウロの使徒職にもまたその福音にも何をも加えず、そのままこれを承認した。これを見てもパウロの使徒職および福音は他の使徒たちの福音と共に神より出でし同一のものであること、またパウロがいかなる意味においても他の使徒の下に立つものにあらざることが解るであろう。
辞解
[名ある者ども] カトリック学者がこの「名ある者ども」を偽兄弟と解せんとするがごときは素よりペテロの優越権を擁護せんがための曲解に過ぎない(B2)。
[然るにかの名ある者どもより] 直訳「価値ありと見ゆる人々より」この「より」がいずれに関係するやは文勢上不明である。おそらく「何物をも受けざりき」のごとき文章を補充すべきものであろう。パウロはこの部分を(したた)むるに先立ちまずこれらの「名声ある人々」の価値如何を明示する必要を感じて「彼らは云々」を附加し、終って前文の中断せることを忘れて新たに「実に云々」の文章を起したのであろう(M0、L3)。他に異なる数種の解あり。
[如何なる人なるにもせよ] 「かつて如何なる人なりしにもせよ」とも読むことを得、イエス御在世の当時のことをいいしものと解す(L3)。
[何をも加えず] 「加う」prosanatithêmi はガラ1:16の「(はか)る」と同語、自己のものを持出して他人に付加えることを意味する。なお使15:20使15:29使21:25と本節との矛盾せずやとの疑問は起り得るけれども、これらにおいて録される事柄はパウロの信仰に制限を付せるものにあらず、信仰の当然の結果または人間の自然性を損なうごときことを殊更に明示したまでで、パウロの「信仰のみによりて義とされる」福音に何物かを附加したのではない。

2-1-ホ 他の使徒との了解及分業 2:7 - 2:10  

2章7節 (かへ)つてペテロが割禮(かつれい)ある(もの)(たい)する[福音(ふくいん)(ゆだ)ねられたる](ごと)く、()割禮(かつれい)なき(もの)(たい)する福音(ふくいん)(ゆだ)ねられたるを(みと)め、[引照]

口語訳それどころか、彼らは、ペテロが割礼の者への福音をゆだねられているように、わたしには無割礼の者への福音がゆだねられていることを認め、
塚本訳むしろ反対に、ペテロが割礼の人[ユダヤ人]への福音を(神から)まかせられたように、わたしも割礼のない人[異教人]への福音をまかせられていることを、彼らは知ったので、
前田訳それどころか、わたしが割礼のないものの福音を、ペテロが割礼のあるものの福音をゆだねられたことを認めました。
新共同それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。
NIVOn the contrary, they saw that I had been entrusted with the task of preaching the gospel to the Gentiles, just as Peter had been to the Jews.
註解: 同一の福音であって唯その伝道の範囲を異にし、ペテロとパウロは各々異なれる範囲に福音を伝うべきことを神に委ねられた。故に第二義以下の事柄においては適用を異にすべきは当然である。
辞解
[割礼ある者] ユダヤ人。
[割礼なき者] 異邦人。
[認め] idontes は「見て」で9節に連絡する。なお本節はペテロとパウロの主要の職務をいったので、パウロもユダヤ人に福音を伝え、ペテロも異邦人に福音を伝えたことは勿論である(使15:7Tペテ1:1)。また本節より使徒たちの中におけるペテロの首位を推定することができる。

2章8節 (ペテロに能力(ちから)(あた)へて割禮(かつれい)ある(もの)使徒(しと)となし(たま)ひし(もの)は、(われ)にも異邦人(いはうじん)のために能力(ちから)(あた)(たま)へり)[引照]

口語訳(というのは、ペテロに働きかけて割礼の者への使徒の務につかせたかたは、わたしにも働きかけて、異邦人につかわして下さったからである)、
塚本訳──というのは、ペテロに働いて割礼の人の使徒にされたお方[神]が、わたしにも働いて異教人の使徒にされたのであるが──
前田訳ペテロに働きかけて割礼あるものの使徒になさった方がわたしにも働きかけて異邦人へおつかわしでした。
新共同割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。
NIVFor God, who was at work in the ministry of Peter as an apostle to the Jews, was also at work in my ministry as an apostle to the Gentiles.
註解: 原文には gar 「そは・・・・・・給いたればなり」とあり、前節の理由を述ぶ、すなわちペテロとパウロとは使命を異にしているけれども共に神によりて動かされし点において同一であって彼と我との間に何らの甲乙径庭(けいてい)がない。
辞解
[能力を与え] energeô は「働きかける」または「作用を及ぼす」の意、ゆえに「そはペテロを動かして割礼あるものの使徒となし給いしものは、また我をも動かして異邦人の〔使徒となし〕給いたればなり」と解すことを得。この原動者は勿論神である(Tコリ12:6ピリ2:13コロ1:29)。

2章9節 また(われ)(たま)はりたる恩惠(めぐみ)をさとりて、(はしら)(おも)はるるヤコブ、ケパ、ヨハネは、交誼(まじはり)(しるし)として(われ)とバルナバとに握手(あくしゅ)せり。これは(われ)らが異邦人(いはうじん)にゆき、(かれ)らが割禮(かつれい)ある(もの)()かん(ため)なり。[引照]

口語訳かつ、わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである。
塚本訳こうして彼らは(神が)わたしに下さった恩恵をみとめたので、(エルサレム集会の)柱石と思われているヤコブとケパ[ペテロ]とヨハネとは、わたしとバルナバとに協同の(伝道をする)握手をした。わたし達は異教人に、あの人たちは割礼の人に(福音を伝えることにして)。
前田訳そして、わたしに与えられた恩恵がわかって、柱と思われているヤコブとケパとヨハネはわたしとバルナバとに協力の握手をし、われらが異邦人に、彼らが割礼あるものに向かうようにしました。
新共同また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。
NIVJames, Peter and John, those reputed to be pillars, gave me and Barnabas the right hand of fellowship when they recognized the grace given to me. They agreed that we should go to the Gentiles, and they to the Jews.
註解: 他の使徒たちはパウロの使命を認識せるのみならず(7節)、また神が彼にその能力活動成功において豊かなる恩恵を与え給えることを悟ってパウロ、バルナバに「交誼(まじわり)の右手を与えた」(直訳)。すなわちヤコブ、ペテロ、ヨハネらの使徒中の中心人物はパウロと彼らとの間の性格や傾向や教育の差異をばこれを無視して神の使命と恩恵とが彼に与えられしことのみを見かつ知りて交誼(まじわり)の握手を為した(これ今日我らも取るべき態度である)。而してかかる交誼(まじわり)の目的は、一の団体を組織して共同に活動せんがためではなく、むしろ別々の天地に活動せんがためであった。
辞解
[柱] 建物を支うるものは柱である。首要の人物を指す。
[さとりて] 直訳「知りて」で7節の「見」と相対応している。
[ヤコブ] 主の兄弟ヤコブ、ここにガラ1:18と異なりペテロよりも先にヤコブを挙げしは彼がエルサレムの教会において首長の地位と声望とを有したがためである。一般伝道に関する場合にはペテロが首位に置かれる。
[交誼(まじはり)] koinônia 新約聖書においては主に在るものの一体としての交わりに多く用いられる語(使2:42Tコリ1:9ピリ2:1Tヨハ1:3−7)。
[握手せり] 直訳「右手を与えたり」で契約または和解の意に用いられる熟語、ペルシャより始まりギリシャ語ヘブル語に輸入された。

2章10節 (ただ)その(ねが)ふところは(われ)らが(まづ)しき(もの)(かへり)みんことなり、(われ)(もと)より()(こと)(はげ)みて(おこな)へり。[引照]

口語訳ただ一つ、わたしたちが貧しい人々をかえりみるようにとのことであったが、わたしはもとより、この事のためにも大いに努めてきたのである。
塚本訳ただ貧しい人たちだけは忘れないようにとのことだが、そのことならば、わたしもまた(常に)しようと努めていたのである。(かくしてエルサレム集会は、わたしが使徒たることを認めざるを得なかった。)
前田訳ただ願わくはわれらが貧しい人々を顧みるようにということでしたが、ひたすらこのことをするようわたしも努めてきたのです。
新共同ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。
NIVAll they asked was that we should continue to remember the poor, the very thing I was eager to do.
註解: エルサレムの使徒たちはパウロに伝道上の完全なる独立を承認した、唯ユダヤ地方の貧しきキリスト者を顧みることを忘れないようにとの希望があった。すなわち制度組織による一致ではなく愛による霊の一致を彼らは要求したのである。而してパウロは勿論このことに充分努力していた。
辞解
[貧しき者] ユダヤ地方は当時頻々(ひんぴん)たる飢饉のために非常に貧困に陥っており、就中(なかんずく)キリスト者は最も困難な立場にあった、これがために異邦のキリスト者よりしばしば救助金が送られた (この書簡の前には使11:29、30.後にはロマ15:26、27。Tコリ16:3Uコリ9:1以下。使24:17等あり) 。本節においてパウロが努力したことをいっているのはTコリ16:1の事実を指しているのであろう。本節の「貧しき者」は文法上必ずしもユダヤにおける貧困者に限る理由はないけれどもかく解することにより前後の関係一層明瞭となる。
要義1 [パウロの苦闘]パウロは律法主義のキリスト者に対して一歩も譲歩しなかった。信仰のみによりて義とされることの根本的真理は一歩も妥協を許さなかったからである。もしこれに対してわずかでも譲歩するならばそれはこの真理そのものの否定を意味しているからである。割礼を受けずば救われないということはあたかも今日教会に入会せずば救われないとか、洗礼を受けずば救われないというと同じく、信仰のみによりて救われることの大真理を否定することである。
要義2 [独立のパウロ]パウロは他の使徒からその使徒職を授与されたのでもなく、またこれを継承したのでもなかった。故に彼らはこの世の人の目にいかなる人であってもパウロは別段これを問題にしなかった(6節)、また大使徒らはパウロに何も加えず、パウロの使徒職も福音も人間たる使徒より伝承せるものは一つもなかった。而してもしパウロと大使徒との間に一致が存したとすれば、それは双方とも神より出づるが故であった。そこに霊による真の一致がある。而してこのことは単にパウロと彼の使徒職のみに関したことではなく、神によりて選ばれてキリスト者となる凡ての人に適用される真理である。
要義3 [独立と共同]大使徒らは交誼(まじわり)すなわち一致の印として右手をパウロに差出した。しかしながらこの一致はパウロをペテロの配下に属せしめたのでもなく、またパウロをエルサレム教会の一員たらしめたのでもなかった。かえってペテロもパウロも各々独立して自分の与えられし天職に進むことと(8節)、愛によりて互いに顧みることとにおいて一致協同の実があげられたのである(10節)。真の一致は各人が神に在りて独立し愛によりて相交わる処にのみ存在する。真に貴く美わしき一致である。

2-1-ヘ ペテロとも争論せり 2:11 - 2:14  

2章11節 されどケパがアンテオケに(きた)りしとき、()むべき(こと)のありしをもて面前(まのあたり)これと(あらそ)ひたり。[引照]

口語訳ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。
塚本訳またわたしはケパがアンテオケに来た時、彼が(良心に)責められることをしたので、面と向かって反対したことがあった。
前田訳しかしケパがアンテオケに来たとき、彼がまちがっていたので面と向かってなじりました。
新共同さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。
NIVWhen Peter came to Antioch, I opposed him to his face, because he was clearly in the wrong.
註解: パウロとペテロとの間には何ら上下の関係なく、パウロの使徒職もその福音もペテロより継承したものではない。その証拠の一つとしてパウロはアンテオケにおける一つの出来事をここに紹介している。聖霊に導かれる場合パウロはペテロの上に立ち彼を叱責した。法王至上権または無謬権のごときはいかなる条件の下にも成立たないことの証拠である。
辞解
[アンテオケ] 当時においては異邦人キリスト教徒の中心であった。ペテロがここに来たのは上述使徒会議(使15:1以下)の直後であったろう。

2章12節 その(ゆゑ)はある人々(ひとびと)のヤコブの(もと)より(きた)るまでは、かれ異邦人(いはうじん)(とも)(しょく)しゐたるに、かの人々(ひとびと)(きた)りてよりは、割禮(かつれい)ある(もの)どもを(おそ)れ、退(しりぞ)きて異邦人(いはうじん)(わか)れたり。[引照]

口語訳というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。
塚本訳彼はヤコブのところから(割礼の)人々が来る前は、異教人(クリスチャン)と一緒に食事をしていたのに、彼らが来ると、この割礼の人々を恐れ、離れて身を引いたからである。
前田訳彼はヤコブのもとからある人々が来るまでは異邦人と食を共にしていたのに、彼らが来ると、割礼ある人々をおそれて引きさがって離れてゆきました。
新共同なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
NIVBefore certain men came from James, he used to eat with the Gentiles. But when they arrived, he began to draw back and separate himself from the Gentiles because he was afraid of those who belonged to the circumcision group.
註解: ペテロはかつて幻影(使10:9−28)によりて異邦人を潔からざるものと認むべからざることを示され、この黙示に従って行動し彼らと交わりかつ食事を共にした。かつ前数節に叙述される使徒会議においてもペテロはパウロの立場に同意した。然るに今ペテロはアンテオケに来りて始めの程は異邦人と交際を続けていたが後に至りてヤコブの許より来れる人々を畏れこれを継続するの勇気を失い、彼らとの間を自然に遠ざかってしまった。パウロはペテロのこの偽善を叱責したのである。
辞解
[ヤコブの許より] 何人が何の目的で来たのであるかは不明である。
[退き、別れたり] 未完了過去形なので種々に説明せられているけれどもおそらくこの事件は一回の会食についていったのではなくペテロが始めの間は異邦人と親密に交遊していたのを後に到りて徐々に疎遠の態度を取り、遂に全く彼らを離れるに至ったのであろう。「退き」は軍事用の用語として多く用いらる。
[共に食す] 愛餐は当時のキリスト者の間の交際の印であった。

2章13節 (ほか)のユダヤ(びと)(かれ)とともに僞行(いつはりごと)をなし、バルナバまでもその僞行(いつはりごと)(さそ)はれゆけり。[引照]

口語訳そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。
塚本訳そしてほかのユダヤ人(クリスチャン)たちも彼と一緒に偽善をやり、ついにはバルナバまでが彼らの偽善にさらわれたからである。
前田訳そしてほかのユダヤ人も彼と偽善を共にし、バルナバも彼らの偽善に引きずりこまれました。
新共同そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。
NIVThe other Jews joined him in his hypocrisy, so that by their hypocrisy even Barnabas was led astray.
註解: ペテロの行為は偽善であった。何となれば神に対する確信をもって正直に人の前に行動せず、彼の信念と異なれる行動を取ったからである。然るにこの行動はユダヤ人の異邦人に対する優越感を満足し、また彼らの律法によりて義とせられんとする心に叶い、また律法を破れりとの非難を受くることの恐怖のために、アンテオケにおける多くのユダヤ人のキリスト者 ─ しかもパウロと共に異邦人の信仰の自由のために戦えるバルナバまでもが ─ この偽善的行為に誘われていった。パウロの悲憤はいかばかりであったろうか。
辞解
[僞行(いつはりごと)] hypocrisis 「偽善」の意、本心に異なる行動を為すこと。

2章14節 されど(われ)かれらが福音(ふくいん)眞理(まこと)(したが)ひて(ただ)しく(あゆ)まざるを()て、會衆(くわいしゅう)(まへ)にてケパに()[引照]

口語訳彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。
塚本訳しかし彼らが福音の真理に従って正直に行動しないのを見て、わたしはみんなの前でケパに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人のようでなく、異教人のように生活するではないか。それだのに、どうして異教人(クリスチャン)を強要してユダヤ人のように生活させるのか。」
前田訳しかし彼らが福音の真理にそって正しく歩まないのを見て、わたしは皆の前でケパにいいました、「あなたがユダヤ人でありながらユダヤ人のようでなく異邦人のように生活するのに、どうして異邦人にユダヤ人のようにせよと強いるのですか」と。
新共同しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」
NIVWhen I saw that they were not acting in line with the truth of the gospel, I said to Peter in front of them all, "You are a Jew, yet you live like a Gentile and not like a Jew. How is it, then, that you force Gentiles to follow Jewish customs?
註解: 使徒の首班と目せられしペテロを公衆の前にて面責せるパウロの真実さを思うべきである。またペテロの後継者と称するローマ法王が今日主張しつつある無謬論がいかなる牽強付会(けんきょうふかい)をなすも結局大なる誤謬であることをも知ることができる。
辞解
[福音の真理] 律法の行為によりて義とせられず信仰によることの真理
[正しく歩む] orthopodeô 真直ぐな足をもって堂々と闊歩する姿。
[会衆の前] 原語「凡ての人の前に」

『なんぢユダヤ(びと)なるにユダヤ(びと)(ごと)くせず、異邦人(いはうじん)のごとく生活(なりはひ)せば、(なに)()ひて異邦人(いはうじん)をユダヤ(びと)(ごと)くならしめんとするか』

註解: 始めペテロは異邦人中に交わり、彼らと共に肉を食し、異邦人のごとくに生活した。然るに今また翻ってユダヤ人の生活に逆戻りするならば、彼の行動を見て異邦人の信者もまた彼に倣うべきものであると誤解する者が生ずるに至るであろう、何となればペテロは彼らと共に食事をせず、彼らとキリスト者としての交際を為さざるに至ったからである。パウロのペテロを責めし所以はペテロのこの撞着(どうちゃく)せる生活であった。
辞解
[『・・・・・・』] 本文に『 』がないので何節までがペテロに対する叱責の言であるかは明瞭でない。21節までをペテロに対する論駁(ろんばく)となす説もあり(M0)、その他の異説もあれど改訳の見解可なるがごとし。
[強いて] ペテロの実例とその態度とにより間接に異邦人のキリスト者にユダヤ人のごとき生活を強うることとなるであろう。
要義1 [ペテロの宗主権]カトリック教会はペテロが十二使徒団の首班であり従って全キリスト教会の地上における主長でありイエスより神の国の鍵を預けられており、彼によらざれば神の国に入ることができなことを主張しているけれどもパウロにおいては全然かかる考えがなかったことは本文の場合を見ても明らかである。ペテロも一人の誤り易き人間であった。いわんや彼の後継者と称するものをや。パウロはあくまでも人に由らず、直接に聖霊の指導によって働いた。かかる人にとって法王ペテロは不必要である。
要義2 [ペテロの偽善]ペテロがかかる偽善を行い、また多くの人々彼の偽善に誘われるに至った事情を考えてみるならば、その根本においてユダヤ人を恐れたからであった。しかしながら彼らにも相当の理由はあったのであろう。彼らは或はかくすることによって多くのユダヤ人を福音に導き、または多くの異邦人を潔き生涯に導き得るだろうというごとき理屈を心の中に描きて自己を弁護していたかもしれない。しかしながらペテロの心中には福音の真理は律法より自由となることであるとの確信があった、彼は周囲の事情に動かされてかかる偽善的行為に陥ったのである。サタンは巧みに罪を弁護する方法を我らに授ける。我らはサタンの詭計(たばかり)に陥らず、あくまでも福音の真理に従って行動しなければならない。
要義3 [無智と偽善]信仰の弱きこと、すなわち福音の真理とキリストに在る自由を完全に認識せざるより生ずる行為がある。例えば食物または月日に関する特殊の禁断のごとき(ロマ14:1−6。Tコリ8:1コロ2:16)、すなわちそれである。しかしながらかかる無智の結果肉を食わず、または日、月を守る者は固陋(ころう)と称すべきも偽善ではない。固陋(ころう)は避くべきであるけれども偽善はさらにこれを嫌悪すべきである。今日キリスト教会において神の御旨にあらざることを悟りつつも会衆の歓心を求めてこれに投ぜんとするごとき行為は、いずれも偽善としてこれを排斥しなければならない。もし会衆がかかる偽善に誘われるならば最も恐るべき結果を招来するであろう。

2-1-ト パウロの福音は斯の如し 2:15 - 2:21  

2章15節 (われ)らは生來(うまれながら)のユダヤ(びと)にして、罪人(つみびと)なる異邦人(いはうじん)にあらざれども、[引照]

口語訳わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、
塚本訳(言うまでもなく)わたし達は生まれながらのユダヤ人であって、罪の異教人ではない。
前田訳われらは生まれながらユダヤ人で、異邦人出の罪びとではありません。
新共同わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。
NIV"We who are Jews by birth and not `Gentile sinners'
註解: ユダヤ人は神の特別の選びの下にあり神より律法を授けられ神に最も近き民であった。異邦人はこれと異なり、神なく律法なく性来(うまれつき)にして怒りの子であり(ロマ1:24エペ2:3)、神より離れている意味において「罪人」であった。もし律法の行為によりて義とされるものならば、ユダヤ人と異邦人との間には根本的な差異があることとなるけれども幸いこの差別はそれ程根本的ではなく、ユダヤ人であっても律法の行為によっては義とせられない。然るにペテロはかかる差異を強調するごとき行為に出でんとしたのであった。これは福音の破壊であるが故にパウロは反対せざるを得なかった。
辞解
[罪人] ユダヤ人に罪がないというのではない、「罪人」とは「神なき人」というほどの意味で「異邦人」の別名のごとく用いられていた。

2章16節 (ひと)()とせらるるは律法(おきて)行爲(おこなひ)()らず、(ただ)キリスト・イエスを(しん)ずる信仰(しんかう)()るを()りて、キリスト・イエスを(しん)じたり。これ律法(おきて)行爲(おこなひ)()らず、キリストを(しん)ずる信仰(しんかう)によりて()とせられん(ため)なり。(そは)律法(おきて)行爲(おこなひ)によりては()とせらるる(もの)一人(ひとり)だにな[し](ければなり)。[引照]

口語訳人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
塚本訳けれども、人は(モーセ)律法を行うことによっては(神の前に)義とされない、ただキリスト・イエスを信ずる信仰によらねばならぬことを知ったので、わたし達も(ユダヤ人でありながら、)キリスト・イエスを信じたのである。律法を行うことによらず、キリストを信ずる信仰によって義とされるためである。というのは、律法を行うことによっては、人は“すべて義とされない”からである。
前田訳人が義とされるのは律法の行ないによるのでなく、ただキリスト・イエスのまことによると知って、われらもキリスト・イエスを信じました。それは律法の行ないによらずに、キリストのまことによって義とされるためです。律法の行ないによっては何びとも義とされないからです。
新共同けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
NIVknow that a man is not justified by observing the law, but by faith in Jesus Christ. So we, too, have put our faith in Christ Jesus that we may be justified by faith in Christ and not by observing the law, because by observing the law no one will be justified.
註解: 生れながらにして神の選民であり神の律法を賜っているユダヤ人すら、律法の行為によりて義とせられない以上、かかる律法を異邦人にまで強制することは全く無意味である。予(パウロ)がキリスト・イエスを信ずるに至った所以はこの信仰のみが予のみならず万民を神の前に義とすることができることを知ったからである。本節は同一の観念を三回も繰返しているように見えるけれどもこれを四段に分けて了解を助けることができる。第一段(「知りて」まで)はイエスを信ずるに至れる前提、第二段(「信じたり」まで)は全文の主体、第三段(「為なり」まで)は信ずるに至れる目的、第四段(私訳「そは」以下)は旧約聖書の事実をもってこの信仰の理由を確証したのである。
辞解
[義とせらる、律法の行為] これらの語につきてはロマ3:20註参照。

2章17節 ()しキリストに()りて()とせららんことを(もと)めて、なほ罪人(つみびと)(みと)められなば、キリストは(つみ)役者(えきしゃ)なるか、(けっ)して(しか)らず。[引照]

口語訳しかし、キリストにあって義とされることを求めることによって、わたしたち自身が罪人であるとされるのなら、キリストは罪に仕える者なのであろうか。断じてそうではない。
塚本訳しかしながら、キリスト(を信ずる信仰)によって義とされようとする結果、(モーセ律法を捨てるので)わたし達自身が罪人となるとすれば、キリストは罪の扇動者ではないか。とんでもない!
前田訳さて、キリストによって義とされるよう求めているからとて、われら自らも罪びとと認められるならば、キリストは罪の奉仕人ですか。断じて否です。
新共同もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。
NIV"If, while we seek to be justified in Christ, it becomes evident that we ourselves are sinners, does that mean that Christ promotes sin? Absolutely not!
註解: キリストは我らを義とせんがために義の役者としてこの世に来りその目的を果し給うた。我らは彼に在ることによりてのみ(すなわち信仰によりてのみ)義とされるのである。然るにペテロの態度のごとくこれでは不充分であるとしてさらに律法の行為を必要とするならば、我らユダヤ人はキリストを信ずること(彼に在ること)によりてかえって異邦人と同じ罪人(15節)と認められ、ユダヤ人よりもさらに以下のものとなった訳となる。もし然りとすればキリストは罪の役者、すなわち罪人を作るために働く者となる訳である。そんな馬鹿なことは有るはずがない。かく反語を用いてパウロは信仰のみによりて義とされることの絶対性を主張し、これに律法の行為を附加せんとせる者はキリストの教えを全く無意義とするのみならずかえって彼を罪の臣僕たらしむることとなることを示しているのである。(注意)なお本節を「キリストに在りて義とせられんことを求めて我らもまた〔異邦人と同じ〕罪人と認められる以上は」と訳し、これをパウロの説と見、その以下をばこれを利用してパウロを攻撃する敵の言と見る解釈あり(Z0、L3参照)。すなわち信仰によりて義とされることはユダヤ人も異邦人と同じく凡て罪人なることを意味すと解す。しかしこの解釈は可能であるが適切ではない。
辞解
[罪の役者] 罪そのものに仕えるという意味よりはむしろ罪を醸成、助長せんがために働く人を意味す。

2章18節 (われ)もし(まへ)(こぼ)ちしものを(ふたた)()てなば、(おのれ)みづから犯罪者(はんざいしゃ)たるを(あらは)す。[引照]

口語訳もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者であることを表明することになる。
塚本訳なぜなら、もしわたしが一旦こわした(律法なる)ものをふたたび建てるならば、それこそ自分自身が(律法を)犯す者であることを表わすからである。(ケパがしたことはこれではないか。)
前田訳もしこわしたものをふたたび建てるならば、わたしは自らを違反者といいあらわすことになります。
新共同もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。
NIVIf I rebuild what I destroyed, I prove that I am a lawbreaker.
註解: 前節の理由を述ぶ(gar)、すなわち「キリストに在る者は律法による義を(こぼ)ち去ったものであるが、自分はこれを決して罪とは思わない、然るにもし自分がこの律法を再び建てようとするならば、これは変節、無節操であって、それこそかえって破戒者というべきであ
辞解
[(こぼ)つ、建てる] いずれも家屋の例を取る。パウロは福音の真理を家屋に譬えたる場合多し、ロマ15:20Tコリ3:10その他。
[犯罪者] parabatês は破戒者、律法を破る者の意。ロマ2:25ロマ2:27ヤコ2:9ヤコ2:11のごとく一般的に律法の精神に反する意味にも用う。本節の場合は変節が破戒の内容をなすものと見るべきであろう。

2章19節 (われ)(かみ)()きんために、律法(おきて)によりて律法(おきて)()にたり。[引照]

口語訳わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。
塚本訳というのは、神に対して生きるために、わたしは律法によって律法(との関係)に(おいて)死んでしまったのである。キリストと一緒に十字架につけられたのである。
前田訳わたしは神に生きるために律法によって律法に死にました。わたしはキリストとともに十字架につけられました。
新共同わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
NIVFor through the law I died to the law so that I might live for God.
註解: 前節、律法を(こぼ)ったというのはいかなる意味であるかといえばそれは律法に対しては自分が死んでしまい律法とは無関係となり律法をしてその作用を失わしめたことである。律法に対して死ぬるに至った原因は律法であった。すなわち律法は我らの心に罪を示し(ロマ5:13ロマ7:7)、また罪の心を起し(ロマ7:8)、而してさらにこの罪を裁く(ロマ3:19)。かくして我らは我らの罪のため律法の審判に服し、次節のごとくキリストと共に十字架に釘けられることによりて死んだのである。而してキリストと共に復活し今は神のために生き神と共に生きているのであってこれ律法に死んだ目的でありまた結果である。この一節は実にキリスト教の頂点であり、またその核心である(B1)。
辞解
[律法によりて] 「信仰の律法」(B1)、「恩恵の律法」(L1)等と解する説あれど不適当である。我らを死に至らしめたのは律法そのものである。ただしここでは旧約聖書そのものを指すのではなく、一般的に道徳律と見るべきである(冠詞なきゆえ)。

2章20節 (われ)キリストと(とも)十字架(じふじか)につけられたり。最早(もはや)われ()くるにあらず、キリスト()(うち)()りて()くるなり。[引照]

口語訳生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
塚本訳わたしはもはや生きていない。キリストがわたしの中に生きておられる。いまわたしが肉体で生きるのは、わたしを愛し、このわたしのために自分をすてられた神の子を信ずる信仰によって生きているのである。
前田訳わたしはもはや生きているのでなく、わがうちにあるキリストが生きているのです。今わたしが肉にあって生きているのは、神の子のまことによって生きているのです。彼はわたしを愛してわたしのために自らをおささげでした。
新共同生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
NIVI have been crucified with Christ and I no longer live, but Christ lives in me. The life I live in the body, I live by faith in the Son of God, who loved me and gave himself for me.
註解: パウロの経験「律法によりて我が凡ての罪は裁かれ、我は十字架につけられて殺された。しかしそれはキリストが十字架につけられ給えることによるのであって我は唯信仰によりてキリストに連なり彼と一体となることによりて彼と共に十字架につけられたのである。キリスト我に代りて十字架につけられて死に給える時、我もまた十字架上に死んだのである。故にこのわれは最早生きているのではなく、それは過去のわれである。現在はキリストが我が内に在りて生き給うのであってキリストの生命が我に宿っているのである」。▲贖罪信仰の体験のエキスである。

(いま)われ肉體(にくたい)()りて()くるは、(われ)(あい)して()がために(おの)()()(たま)ひし(かみ)()(しん)ずるに()りて()くるなり。

註解: 「我は前述のごとく既に死んだものである。しかしなお今現に肉において生きている。というのは旧い自分が元のままに生きているのではなく、神の子イエスを信ずる信仰により新しき人として生きているのである。このイエスこそ我を愛し我がために十字架上に死に給うたのである」。なおガラ5:24ガラ6:14ロマ6:4−8。ピリ1:21コロ2:11参照。キリストの死は万人のためであった。然るにパウロはこれを「我がため」と言ったのは贖罪の経験の全く個人的にして社会的にあらざることを示す。キリスト我が内に生くることと我キリストを信ずる信仰に生くることとは同一事実の両面である。キリストに対する信仰に生くる時、キリスト我を支配し我が内に生き給う。

2章21節 (われ)(かみ)恩惠(めぐみ)(むな)しくせず、もし()[とせらるること]律法(おきて)()らば、キリストの()(たま)へるは徒然(いたづら)なり。[引照]

口語訳わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。
塚本訳わたしは神の恩恵をないがしろにしない。もし律法によって義が来るならば、それこそキリストの死は犬死である。
前田訳わたしは神の恩恵を無にしません。もし義が律法によるものならば、キリストが死なれたのはむだです。
新共同わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
NIVI do not set aside the grace of God, for if righteousness could be gained through the law, Christ died for nothing!"
註解: 「神は恩恵によりてその独子を我に賜い、その死によりて我ら唯信仰のみによりて義とされるに至ったのである。もしこの恩恵のみによりて義とせられず更に律法も必要なりとするならば、それは恩恵を無効に帰してしまう訳である。我は決してかかることをしない。もし義が律法によりて来るものならばキリストは無駄に、理由も必要もなしに死に給うたこととなるのである。そんな馬鹿らしいことは絶対に有り得ない」。
辞解
[空しくせず] ouk athetô 「無効に帰せしめない」とのこと。
[徒然(いたづら)なり] dôrean 「只で」「理由なしに」「必要なしに」等の意味。
要義1 [律法によりて義とせられんとする心]恩恵により、功績なしに義とされることの幸福を思うならば一旦福音に入りしものが今さら律法によりて義とせられんとするごときことは有り得べからざるがごとくに見える。然るに実際においてかかる現象が多いことは、人間がいかに自己の義、律法を遵守することによりて自己の功績として誇り得る義を欲するかを物語っている。信仰のみによって義とされることを知りて後にも往々にして律法の義に頼らんとする心の起ることはこの事実の顕れしものであって、ペテロの態度もその一つの発顕である。パウロが極力これを否定しているのは、信仰の義を高調せんがためであった。
要義2 [キリストと共なる生命]「最早われ生くるに非ず、キリスト我が内に在りて生くるなり」とはパウロの信仰の極致であって、いわゆるパウロの神秘主義とはこれである。この信仰ありて始めて信仰のみによりて義とされることの真の意義を知ることができ、またこの信仰ありて始めて真に人を愛することができ、律法を完全に行うことができるのである。パウロが律法の行為を全く排斥して唯信仰のみに立つことができたのも、かかる信仰を持っているからであった。この信仰こそ愛によりて働く信仰であり(ガラ5:6)、善行を生み出す信仰である。故に信仰のみによって義とされることを唱うるとも(すこし)も危険がない。この教理を否定するカトリックの立場、またはこの教理が善き業を滅ぼすであろうと恐れる人は、未だパウロのいわゆる信仰の何たるかを解しないものである。
要義3 [信仰の絶対性]絶対的なるものはこれに何ものをも附加することができない。人もしキリストに在らば(キリストを信じる信仰にいるのであれば)彼は新たに造られたものであって(Uコリ5:17)、そのまま神の前にキリストの義を着て立ち得るものである(ロマ13:14)。他に何物をも附加することを必要としない。もし何物かを附加することによりて始めて人を義とするを得るに過ぎないならば信仰そのものは人を義とするに足らざることとなり、キリストの死は無益のこととなる。無限なるものと有限なるものとの間には無限の差があるごとく、信仰のみによりて絶対に義とされるや否やによりて信仰の価値に無限の差を生ずる。パウロは信仰の絶対性を主張せんがために本書簡を(したた)めたのである。

ガラテヤ書第3章
2-2 信仰と律法との差別 3:1 - 4:11
2-2-イ 信仰と律法とを混同すべからず 3:1 - 3:6  

註解: ここにパウロはペテロに関する記事とこれに伴える自己の信仰の中心問題に関する記述より転じて再びガラテヤ人に向ってその非難を向けている。

3章1節 (おろか)なる(かな)、ガラテヤ(びと)よ、[引照]

口語訳ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。
塚本訳ああ、なんと物のわからぬガラテヤ人たちよ、だれがあなた達をたぶらかしたのか。(この前わたしがいった時、)十字架につけられたイエス・キリストがあなた達の目の前に(はっきりと)描き出されたのに!
前田訳わけわからずのガラテア人! だれがあなた方をたぶらかしたのですか。十字架につけられたイエス・キリストがあなた方の目の前ではっきり示されたではありませんか。
新共同ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。
NIVYou foolish Galatians! Who has bewitched you? Before your very eyes Jesus Christ was clearly portrayed as crucified.
註解: 原語「オー愚かなるガラテヤ人よ」。「愚かなる」anoêtos は真理に対する無理解を意味する。パウロは「愛する者よ」をもって始め得なかった。愛していたのではあるが叱らなければならなかったからである(B1)。

十字架(じふじか)につけられ(たま)ひし[ままなる]イエス・キリスト、(なんぢ)らの眼前(めのまへ)(あらは)されたるに、(たれ)(なんぢ)らを(たぶら)かししぞ。

註解: 憎むべきは(たぶら)かす者であるけれども、(たぶら)されし者を叱責しなければならない処にパウロの愛の労苦がある。(たぶら)かす者は至る処に跋扈(ばっこ)するから我らは(たぶら)かされないように注意しなければならない。殊にガラテヤの信徒の場合には純正の福音が彼らに伝えられたのであった。すなわち我らの罪のために十字架にかけられ給える神の子キリストこそ我らの救い主であることが公然に明瞭に彼らの眼前に掲示されたのであった。彼らはいかにしてもこの真理より迷い出るはずがなかったのである。然るにもかかわらず彼らが異なる福音に移ったのである。パウロの驚きと悲しみも察し得られ、人間の愚かさもこれによりて悟ることができる。
辞解
[顕さる] proegraphê はここでは官庁の命令や告示のごとく公に掲示されることを意味する(L3)。
[(たぶら)かす] baskainô 本来は魔術師その他が目にて人を魅惑することに用いる語。
[眼前に] 魔術師が目にて人を(たぶら)かすことに関連しガラテヤ人がその目をキリストの十字架より離して偽教師に向けしことを非難している。

3章2節 (われ)(なんぢ)()より(ただ)この(こと)()かんと(ほっ)す。(なんぢ)らが御靈(みたま)()けしは律法(おきて)行爲(おこなひ)()るか、()きて(しん)じたるに()るか。[引照]

口語訳わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。
塚本訳わたしはあなた達からこのことだけを聞かせてもらいたい、あなた達が御霊をいただいたのは、律法を行なうことによってか、それとも、信仰(の福音)を聞いて信じたことによってか。
前田訳お聞きしたいのは、ただこのことです−−あなた方が霊を受けたのは律法を行なうことによってですか、それとも信仰の伝達によってですか。
新共同あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。
NIVI would like to learn just one thing from you: Did you receive the Spirit by observing the law, or by believing what you heard?
註解: 最後の部分の私訳「信仰をもって聴きしに由るか」。パウロは前節の如く(たぶら)かされしガラテヤ人を覚醒せしめんがためにまず一つの質問を発した。而してこの質問は問題の中心に触れているのでこの質問一つで充分パウロの目的が達せられるくらいのものであった。曰く「汝ら御霊を受けてイエスを神の子と信じたのは(Tコリ12:3)汝らが精進して律法の行為を行ったためであったか、または宣伝えられし福音を信仰をもって聴いたためであったか」。勿論後者であったろう。すなわち律法の行為とは全然関係なく唯福音に対する心の態度いかんによって、御霊を受け得るや否やが定まるのである。そうして聖霊を受けることは罪を赦され神の子とされることを意味する以上、義とされるのは律法の行為によらないことは明らかである。
辞解
[聴きて信じたるによるか] ex akoês pisteôs は直訳「信仰の聴聞によるか」で種々の意味に解される。(1)「信仰の宣伝」(M0)、(2)「信仰を生む処の聴聞」(A1、改訳)、(3)「信仰」を「福音」と同意義に見る説「福音を聞くこと」(C1)、(4)「信仰をもって聴聞すること」(L3、Z0、E0)等である。(4)の説が最も可なるがごとし。

3章3節 (なんぢ)らは()くも(おろか)なるか、御靈(みたま)によりて(はじま)りしに、(いま)(にく)によりて(まった)うせらるるか。[引照]

口語訳あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。
塚本訳あなた達はこんなに物がわからないのか。(信仰、すなわち)霊で始めたのに、今、(律法の行い、すなわち)肉で完成しようとするのか。
前田訳あなた方はそれほどわけわからずですか。霊で始めたのに今は肉で仕上げるのですか。
新共同あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。
NIVAre you so foolish? After beginning with the Spirit, are you now trying to attain your goal by human effort?
註解: 信仰により肉に死し御霊を受けて新生に入ったのがキリスト者の新生命の始めである。故にあくまでも霊において発育すべきである。しかるにガラテヤ人は今に至ってまた新たに律法の行為によって義とせられんとしこれによりて霊による新生命を完成せんとするごときは「新生」に入らざる旧き人すなわち肉の思想である。実に愚かなることではないか。
辞解
[斯くも] houtôs は意味を強くする。
[肉] 肉体とか肉慾とかの意味ではなく新生せざる旧き人を意味する。

3章4節 斯程(かほど)まで(おほ)くの苦難(くるしみ)()けしことは徒然(いたづら)なるか、徒然(いたづら)にはあるまじ。[引照]

口語訳あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。
塚本訳あれほどまでの経験を(すっかり)無駄にするのか。まさか無駄にするのではあるまい。
前田訳あれほどの経験をしたのがむなしかったのですか。もしむなしかったといえるならば、
新共同あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。
NIVHave you suffered so much for nothing--if it really was for nothing?
註解: ガラテヤの信徒らはユダヤ人より多くの迫害を受けた(使13:44−52。使14:2使14:5使14:19等)もし今に至って律法を守ることによりて義とせられんとするくらいならば、(さき)にこれらの迫害を受ける必要もなかったのである。これもガラテヤの信徒の愚かな点である。
辞解
[苦難を受けし] 原語 paschô 「苦しむ」であるが或はこれを(1)忍耐をもってパウロの教えを受けしこと(B1)、(2)偽教師が律法をもって彼らを煩わせしこと(M0)、(3)益を受けること(かかる意味もあり)等種々に解されるけれども上述の解釈(L1、C1、L3、Z0、E0、A1、A2、C2)による。

3章5節 (しか)らば(なんぢ)らに御靈(みたま)(たま)ひて(なんぢ)らの(うち)能力(ちから)ある(わざ)(おこな)(たま)へるは、律法(おきて)行爲(おこなひ)()るか、()きて(しん)ずるに()るか。[引照]

口語訳すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。
塚本訳では(もう一度たずねるが)、神が御霊を授け、あなた達の中に(不思議な)力を働かせられたのは、(あなた達が)律法を行なうことによってか、それとも、信仰を聞い(て信じ)たことによってか。
前田訳あなた方に霊を送ってあなた方の間で力を働かせる方は、あなた方が律法を行なうことによってそうなさるのですか、信仰の伝達によってそうなさるのですか。
新共同あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。
NIVDoes God give you his Spirit and work miracles among you because you observe the law, or because you believe what you heard?
註解: 再び2節の質問の立場に還っている、私訳「さらば汝らに御霊を賜い汝らの内にもろもろの能力を働かせ給う者〔のこれを為し給う〕は律法の行為によるか信仰をもって聴くによるか」、神はガラテヤの信徒に御霊を豊かに賜い、また彼らの内に不思議なる能力を働かせ。彼らをして常人と異なる働きを為さしめた。しかしこれらは彼らが律法の行為を行ったからではなく、信仰的態度をもって福音に聴従したからであった。このことをパウロは彼らをして思い起さしめんとしたのである。
辞解
[賜う] epichorêgeô は「豊かに供給すること」。
[汝らの中に能力ある業を行い給える者] 「ガラテヤ人の間に奇蹟を行い給う者」との意味にも取ることができ、また「彼らの心の中に不思議なる諸々の能力を働かしむる者」との意味にも解することができる。後者を取る(マタ14:2)(M0、L3)。「給える」は不適当で「給う」とすべきである。原語現在分詞。現在における継続的状態を示す。

3章6節 (しる)して『アブラハム(かみ)(しん)じ、その信仰(しんかう)()とせられたり』とあるが(ごと)し。[引照]

口語訳このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。
塚本訳(聖書に)こう(書いて)ある、アブラハムは、“神を信じて、(その信仰を)彼の義とみなされた”と。
前田訳それは、「アブラハムが神を信じ、それが彼に義として数えられた」とあるのと同じです。
新共同それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。
NIVConsider Abraham: "He believed God, and it was credited to him as righteousness."
註解: 前節の答として「信仰的聴聞による」こと明らかであって、その理由として有名なる創15:6をここに引用している(七十人訳)。すなわちアブラハムに関するこの一節は有名なる一節であると共に、パウロはその信仰の祖先に立ち還って証明せんとしたのである。なおロマ4:3註参照。
要義 [十字架の贖罪を信じ通すことの困難]信仰は常に自力主義か、もしくは形式主義に陥り易い(この二者を総称して律法の行為という)。元来何人もその救いに入りし根本を考える時自己の行為や、形式の遵守によりて救われたと思う人はない。然るにもかかわらず一旦救いに入りし後再びもとの自力主義、形式主義に立還らんとする心が生じて来るのである。これ信仰のみに由る生活が容易ならざる生活であることを示している。しかしながらもし信仰に留まって動かないならば神は常に御霊を供給して不思議なる能力を我らの内に働かせ、我らをしてその救いを全うせしめ給うであろう。

2-2-ロ 律法の詛と信仰の祝福 3:7 - 3:14  

3章7節 されば()れ、信仰(しんかう)()(もの)(これ)アブラハムの()なるを。[引照]

口語訳だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。
塚本訳だから信仰の人は、アブラハムの子であることを、あなた達は知らねばならない。(ユダヤ人であると否とを問わない。)
前田訳それで、信仰によるものこそアブラハムの子であることがおわかりのはずです。
新共同だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。
NIVUnderstand, then, that those who believe are children of Abraham.
註解: ユダヤ人は自らアブラハムの裔をもって任じ、律法を行うことによりてアブラハムに約束せられし祝福を嗣ぐものと思っている。しかしながら肉によれるアブラハムの子孫はアブラハムの子ではない、かえって信仰より出づる者こそ、真の意味におけるアブラハムの子である。その故はアブラハムはその肉による系図のためではなくその信仰によりて神より義と認められたからである。
辞解
[信仰に由る者] 原語「信仰より〔出づる〕者」で「アブラハムより出づる者」すなわち「律法の行為より出でし者」(10節)に対応している。

3章8節 聖書(せいしょ)(かみ)異邦人(いはうじん)信仰(しんかう)()りて()とし(たま)ふことを()りて、((あらか)じ)め福音(ふくいん)をアブラハムに(つた)へて()ふ『なんぢに()りてもろもろの國人(くにびと)祝福(しくふく)せられん』と。[引照]

口語訳聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。
塚本訳すなわち聖書は、神が異教人をも信仰(のみ)によって義とされることを前から知っていたので、アブラハムにあらかじめ福音を伝えた、“お前によって、すべての異教人が祝福をうける”と。
前田訳聖書は神が異邦人を信仰によって義人となさることを予見して、アブラハムに、「あなたによってすべての異邦人が祝福されましょう」という福音を予告しました。
新共同聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。
NIVThe Scripture foresaw that God would justify the Gentiles by faith, and announced the gospel in advance to Abraham: "All nations will be blessed through you."
註解: 聖書はここに擬人的に用いられている。すなわちここに引用せるごとく創12:3創18:18に神がアブラハムに由りて(アブラハムの信仰と同じ信仰を持つ者は)諸国民すなわち異邦人も祝福されることを約束し給うのは神が異邦人をユダヤ人のごとく律法の行為によらず信仰のゆえに義とし給うことを予知して予め福音をアブラハムに伝え給うたのである。アブラハムに対する約束は福音の前の福音である。
辞解
[汝に由って] 原語 en soi 「汝の中に」「汝において」でアブラハムとの一致共通の状態においてというごとき意味。
[福音] キリストによる福音の前身である。

3章9節 この(ゆゑ)信仰(しんかう)による(もの)は、信仰(しんかう)ありしアブラハムと(とも)祝福(しくふく)せらる。[引照]

口語訳このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。
塚本訳だから信仰の人は、(ユダヤ人、異教人の別なく、)信仰のアブラハムと共に祝福される。
前田訳さればこそ信仰によるものは信仰の人アブラハムとともに祝福されるのです。
新共同それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。
NIVSo those who have faith are blessed along with Abraham, the man of faith.
註解: 祝福の約束は神の側から出づる純粋の恩恵である。ゆえに律法の行為より出づるものにではなく信仰より出づるものにこの祝福は与えられる。アブラハムが祝福せられたのも信仰の故にであった。従ってユダヤ人の肉体の先祖としてのアブラハムに祝福が与えられたのではなく信仰のアブラハムに与えられ、その後彼と信仰を共にする者にも彼と共に祝福が与えられる。
辞解
[信仰による者] 7節辞解参照。
[共に] 前節には「由りて」(おいて)とあり源泉を示し、本節の「共に」は状態を示す。

3章10節 されど(すべ)律法(おきて)行爲(おこなひ)による(もの)(のろひ)(した)にあり。(しる)して『律法(おきて)(ふみ)(しる)されたる(すべ)ての(こと)(つね)(おこな)はぬ(もの)はみな(のろ)はるべし』とあればなり。[引照]

口語訳いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。
塚本訳なぜか。律法の行いによる人は、呪の下にある。(聖書に)こう書いてあるからである、“律法の書に書いてある一切のことを行なうため、これを守らない者はみな呪われている”と。
前田訳律法の行ないに依存するものは皆呪いのもとにあります。聖書にいわく、「律法の書に記されたすべてのことを守って行ないつくさぬものは、皆呪われる」と。
新共同律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。
NIVAll who rely on observing the law are under a curse, for it is written: "Cursed is everyone who does not continue to do everything written in the Book of the Law."
註解: パウロの苦しき実験より(ほとばし)り出でし語であって聖句を法律的に適用したのではないけれども彼の実験は聖書の語により確認された。申27:26にエバル山における詛いの結末としてこの句が揚げられているので「凡ての」律法を「完全に」「常に」行うことが必要であるとすれば、それは事実人間には不可能のことであった。ゆえに律法の行為を基礎としている者は一人も例外なく詛いの下にあるのである。パウロは律法を完全に不断に充たさんとしてこの詛いをいたく経験した。
辞解
[凡ての事、みな] 七十人訳、サマリヤ人の五経などにあれどヘブル語の聖書にはこれを欠く、語勢において弱められているけれども意味に差異はない。

3章11節 律法(おきて)()りて(かみ)(まへ)()とせらるる(こと)なきは(あきら)かなり『義人(ぎじん)信仰(しんかう)によりて()くべし』とあればなり。[引照]

口語訳そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。
塚本訳しかし(人は一切の律法を守ることはできない。)律法によっては、だれ一人神の目に義とされないことは明白である。“信仰による義人は生きる”からである。
前田訳だれも律法によって神の前に義とされぬことは明らかです。「信仰による義人は生きる」とあるからです。
新共同律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。
NIVClearly no one is justified before God by the law, because, "The righteous will live by faith."
註解: このハバ2:4ロマ1:17ヘブ10:38にも引用せられ、ユダヤ人およびキリスト者の間に愛用せられている聖句であった。パウロはこれを引用して律法によりて義とされることの不可能を証明し、前節の詛いを確かめているのである。(附言)本節は原語の点よりいえば「律法によりて神の前に義とされることなき故、『義人は信仰によりて生くべきこと』明かなり」と訳す方が自然である(B1、エリコット等)。かく解する場合に前節との関係は解し易くなる。すなわち10節において律法の行為による者は詛いの下にあることを証明し、従って(11節)かかる者は神の前に義とされることなき故その当然の結果として義人は信仰によりて義とせられて永生を獲得することの聖句が真理であると主張したものと見るべきである。予はこの読み方が優れるものと思う。しかしほとんど凡ての有力なる学者はこの解釈に反対して改訳の読み方を取る。その故は主として引用の聖句を議論の論拠たらしめんとしているからである。また11節前半を直ちに13節に連結してその間を挿入の句と解する説もある(Z0)。いずれも一長一短の解釈である。なお「義人は信仰によりて生くべし」なる聖句はハバ2:4においてはカルデヤ人の侵入による災難に際して神に「信頼」するものは救わるべきことを述べたのであって律法の行為によりて義とされるや否やの問題について言われし言ではない。しかしながら神に対する信頼が救いの原因たることの意味において、パウロはここに引用したのである。またこれを『信仰による義人は生くべし』と読むべきことを主張する説があるけれども採らない。

3章12節 律法(おきて)信仰(しんかう)()るにあらず、(かへ)つて『律法(おきて)(おこな)(もの)(これ)()りて()くべし』[と()へり]。[引照]

口語訳律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。
塚本訳律法は(これを)信仰(すること)によって(人を生かすの)ではなく、“これを行なう人(だけ)がそれによって生きる”のである。
前田訳律法は信仰に依存せず、「それを行なうことによってその人が生きる」のです。
新共同律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。
NIVThe law is not based on faith; on the contrary, "The man who does these things will live by them."
註解: 律法は信ずることが主ではなく行うことが主である。ゆえにレビ18:5よりここに引用されるごとくに律法によりて義とせられ永生を獲得せんがためにはこれを行うことが必要条件であって信仰的態度のみでは不充分である。信仰は行為がこれに加わることによりて始めて神の前に義とされるのではなく、行為によらずして義とされ、律法は行為なしには義とされない。従って律法を完全に不断に行わない者は詛われる。

3章13節 キリストは我等(われら)のために(のろ)はるる(もの)となりて、律法(おきて)(のろひ)より(われ)らを(あがな)()(たま)へり。(しる)して『()()けらるる(もの)(すべ)(のろ)はるべし』と()へばなり。[引照]

口語訳キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。
塚本訳キリストはわたし達(ユダヤ人)のために(十字架にかけられ、みずから)呪となって、わたし達を律法の呪から贖い出してくださった。“木にかけられる者はみな呪われている”と書いてある。
前田訳キリストは自らわれらのために呪いとなってわれらを律法の呪いからあがなわれました。「木にかけられるものは、皆呪われる」と聖書にあるとおりです。
新共同キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。
NIVChrist redeemed us from the curse of the law by becoming a curse for us, for it is written: "Cursed is everyone who is hung on a tree."
註解: 律法の書に録されし凡てのことを常に行わぬ我ら(パウロは自己およびユダヤ人についていっているけれども広義においては全人類に適用し得る)は当然詛われるべきであるのに、律法を完うし給えるキリストが我らのために代って詛われ、我らの受くべき詛いを受けて十字架上に死に給い、これによりて我らを律法の詛いより贖い出し給うた。キリストが律法の詛いを受け給いし証拠は申21:23の聖句によりてこれを知ることができる。罪なきキリストは我らのために罪人となり(Uコリ5:21)神より詛われて神に()たれ給うた。(▲すなわちキリストは罪人が神に詛われて木に釘けられるのと同一の苦痛を嘗め給うた。すなわち詛われて死ぬべき我らに代って我らの死をその身に負い給うたのであった。ただし神がこの従順なる御子キリストを詛い給うと見ることは誤りである。それゆえこの点で本節註解を若干変更した。)その()たれし傷によりて我らは癒されるのである。申21:23には「エホバにより詛わる」とあるをパウロは省略している。律法の詛いを強調せんがためであろう▲▲と見るよりも、神がキリストを詛い給わなかったことをパウロは知って引用文に手心を加えたものと見るべきであろう。
辞解
[贖い出す] exagorazô 奴隷を買取るごとく買取りてこれを自由にすること。
[我等] 大多数の註解家はこれを「ユダヤ人」の意味に取る。しかしながらその精神においてはユダヤ人に限らず凡て律法の与えられている人々に及ぶのであって、全人類はその良心においてある種の律法を与えられている以上、キリストは全人類のために詛われるものとなり給えりと解すべきであろう(ロマ2:15)、なお14節の「われら」参照。

3章14節 これアブラハムの[()けたる]祝福(しくふく)の、イエス・キリストによりて異邦人(いはうじん)におよび、(かつ)われらが信仰(しんかう)()りて約束(やくそく)御靈(みたま)()けん(ため)なり。[引照]

口語訳それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。
塚本訳これは、(モーセ律法を知らぬ)異教人に、(律法を行なわずとも、)イエス・キリスト(につながっているというだけの理由)によってアブラハムの祝福が臨むため、(然り、キリストを信ずる)信仰によって、(アブラハムに対する)約束の御霊をわたし達がいただくためである。
前田訳それはアブラハムの祝福がイエス・キリストによって異邦人に及ぶためであり、われらが約束された霊を信仰によって受けるためです。
新共同それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。
NIVHe redeemed us in order that the blessing given to Abraham might come to the Gentiles through Christ Jesus, so that by faith we might receive the promise of the Spirit.
註解: もしキリストの十字架の贖いによりて律法の詛いより解き放たれなかったならばアブラハムに与えられし約束(8節)は実現し得ず、神の祝福はもろもろの国人におよび得なかったのである。然るにキリスト十字架に懸かり給いて律法の詛いは取去られ唯信仰のみによりて義とせられ神の祝福を受け得るに至り、ここに始めてかの約束がアブラハムの裔なるキリストによりて実現し、その祝福がユダヤ人は勿論万民に及んだのである。従って「われら」─ この場合は勿論ユダヤ人も異邦人も凡てキリスト者たる者 ─ は信仰によりて約束の御霊(引照参照)を受け得るに至り神の子たる証拠を獲得したのである。信仰による者はアブラハムの子たるの意義(7節)はこれによって明らかである。
辞解
[異邦人] ta ethnê で「民」 ethnos の複数。複数は専らユダヤ人に対する異邦人の意味に用いられるけれども、時には(8節のごとく)諸国民の意味に用いられる場合もある(マタ28:19マコ11:17のごとく)。本節の場合は「異邦人」を意味す。
[約束の御霊] 原語「御霊の約束」とあり旧約聖書に約束せられている御霊(ヨエ3:1使2:17)。
要義 [キリストの上に注がれし詛]神がその愛子なるキリストを詛い給うことは我らの理性をもって解し難き事実である。しかしながら律法に(そむ)き罪の奴隷となっている全人類を救わんがためには、キリストが全人類の罪を自己のものとなし、罪そのものとなりて神より詛われ給うより外に全く道がなかった。キリストはこのことを悟り、そのために世に来り給えることを感じ給うた(マタ20:28)。これは彼にとりて最も苦き杯であって、彼はでき得べくばこの詛より免れんとし給うた(マタ26:39その他)。しかし彼は父の御旨に従い、ついにこの杯を飲み給うたのである。我らの救いの喜ばしき音信はこの愛の悲劇によりて来れることを思わなければならない。

2-2-ハ 契約の永遠性と律法の一時性 3:15 - 3:22  

3章15節 兄弟(きゃうだい)よ、われ(ひと)(こと)()りて()はん、(ひと)契約(けいやく)すら(すで)(さだ)むれば、(何人(なんびと)も)(これ)(はい)しまた(くは)ふる(もの)なし。[引照]

口語訳兄弟たちよ。世のならわしを例にとって言おう。人間の遺言でさえ、いったん作成されたら、これを無効にしたり、これに付け加えたりすることは、だれにもできない。
塚本訳兄弟たちよ、人間的に言うのであるが、人間の遺言ですら、法律上有効に成立した以上は、いかなる人も(後から)無効にしたり、あるいは追加したりすることは(でき)ない。
前田訳兄弟よ、人間的に申します。人間の契約も有効であればだれも消したり加えたりできません。
新共同兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。
NIVBrothers, let me take an example from everyday life. Just as no one can set aside or add to a human covenant that has been duly established, so it is in this case.
註解: パウロはさらに進んで神がアブラハムに与え給いし契約は後に律法がモーセによりて与えられても、これによりて無効に帰してしまわないことを論じて神の信頼さるべきことと律法の一時的存在とを強調している。その例として人間の契約すら一旦定まれば第三者は(M0)何人といえどもこれを改廃することができなのは勿論、当事者(B1)といえども特別の意思表示なくしてこれを改廃することができない。
辞解
[契約] むしろ「遺言」のごとき意味を有す。この場合もかく解して差支えがない(一方的意思表示である点において)。なおヘブ7:22辞解参照。

3章16節 かの約束(やくそく)はアブラハムと()(すゑ)とに(あた)(たま)ひし(もの)なり。[引照]

口語訳さて、約束は、アブラハムと彼の子孫とに対してなされたのである。それは、多数をさして「子孫たちとに」と言わずに、ひとりをさして「あなたの子孫とに」と言っている。これは、キリストのことである。
塚本訳しかし(神の)約束は、アブラハムと、その“子とに”言われたのである。子たちとに、と多数の人を指して言うのでなく、一人を指すかのように“お前の子とに”と言う。この子はキリストである。
前田訳さて諸約束はアブラハムとその子孫になされました。それは大勢をさして「子孫たちに」でなく、ひとりをさして「あなたの子孫に」といわれています。これはキリストのことです。
新共同ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。
NIVThe promises were spoken to Abraham and to his seed. The Scripture does not say "and to seeds," meaning many people, but "and to your seed," meaning one person, who is Christ.
辞解
[約束] 複数で神は創世記においてアブラハムにしばしば約束を与え給いしが故に、それらを指したのである。創12:7創13:15創17:7創22:17創24:7等。

(おほ)くの(もの)()すごとく『裔々(すゑずゑ)に』とは()はず、一人(ひとり)()すごとく『なんぢの(すゑ)に』と()へり、これ(すなは)ちキリストなり。

註解: 神がアブラハムに与え給いし約束は彼とその裔とに与えられしものであった。而して「裔」なる語が他にも同意味の文字があるにもかかわらずこの単数名詞(ただし複数の意味にも用いられる文字、辞解参照)を用いているのを見れば彼の子孫の個々を指したのではなく、一人を指したものであるに相違ない。ゆえにこの一人はキリストを指したものであるとパウロは解しているのである。その結果この約束はキリストにおいて成就されるまでは効力を失うはずがない(次節)というのである。ただしここにキリストというもパウロはイエス一人(M)を意味したのではなく彼と一体たる教会(28節)をも眼中に置いたのであろう。(A1、C1、B1、L3)
辞解
[裔] sperma ヘブル語 Zerah は旧約聖書においては常に単数においてのみ用いられ、しかも複数をも意味することができる文字である(唯一回複数形に用いられているけれども意味が異なっている)。そのためにパウロは文法上の誤謬の上にこの論を立てていると唱うる学者があるけれども然らず。パウロは聖霊が特にこの種の単数名詞(集合名詞ともなり得る)を選びし処に特別の意義があることを発見したのである。すなわちキリストによりて祝福が万民に及び、アブラハムとその裔に対する約束がキリストおよびその体たるキリスト者に与えられることを発見して、始めて遡りて「裔」なる語を用いられし意義を発見したのである。

3章17節 ()れば(われ)いはん、(かみ)(あらか)じめ(さだ)(たま)ひし契約(けいやく)は、その(のち)四百三十年(しひゃくさんじふねん)()(おこ)りし律法(おきて)(はい)せらるることなく、その約束(やくそく)(むな)しくせらるる(こと)なし。[引照]

口語訳わたしの言う意味は、こうである。神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことはない。
塚本訳わたしの言う意味はこうである。──神によってあらかじめ有効に成立した遺言が、四百三十年後(モーセによって)律法が出来ても、反故にされて、その約束が無になるわけはない。
前田訳それはこうです。神によってあらかじめ有効にされた契約は、四百三十年後にできた律法がそれを無効にして約束をやめにすることはできません。
新共同わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。
NIVWhat I mean is this: The law, introduced 430 years later, does not set aside the covenant previously established by God and thus do away with the promise.
註解: 私訳「四百三十年後に起りし律法は神の予め固め給いし契約を廃して約束を空しからしめしにあらず」ここにパウロは律法と神とを対立せしめている(ヨハ1:17参照)。律法はユダヤ人にとって重大なる意義を持っているけれども、神の約束(16節)は既に固められており、しかもその約束がキリストをも指している以上たとい四百三十年後の長年月を経過せる後といえども、この律法がこの契約を廃止してその約束を空に帰せしむることができない。ゆえにその後ともその効力は継続しその約束は実現する。神の約束の信頼すべきことを思うべきである。
辞解
[四百三十年間] 創15:13使7:6出12:40(ヘブル語聖書)にはアブラハムが神の約束を受けてよりヤコブがエジプトに移住するまでの年代を計算に加えずしてエジプト居住の年数のみを四百年と称しており、本節および出12:40の七十人訳にはこれを加えて四百三十年(四百年を精密にいえるもの)と称している。ヨセフスはこの両方とも用いて自己撞着を示しているのを見ればこの二つの伝説が有ったのであろう。ただし実際の計算上本節および七十人訳が正しく、エジプトにおける年数は二百十五年であったろう(A1参照)。

3章18節 もし嗣業(しげふ)()くること律法(おきて)()らば、もはや約束(やくそく)には()らず、(しか)るに(かみ)約束(やくそく)()りて(これ)をアブラハムに(たま)ひたり。[引照]

口語訳もし相続が、律法に基いてなされるとすれば、もはや約束に基いたものではない。ところが事実、神は約束によって、相続の恵みをアブラハムに賜わったのである。
塚本訳というのは、(御国の)相続が律法によるのであるならば、それはもはや約束によらない。しかし神は約束によって、これをアブラハムに恩恵として賜わったのである。
前田訳もし相続が律法によるならば、約束によるのではありません。神がアブラハムを恵まれたのは約束によるのです。
新共同相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。
NIVFor if the inheritance depends on the law, then it no longer depends on a promise; but God in his grace gave it to Abraham through a promise.
註解: 神の賜う嗣業はいかにしてこれを受け得るや。もし律法の行為を完うすることによるならば約束とは無関係であり、もし反対に約束によって与えられるものならば律法とは無関係である。この両者は完全に相対立している。然るにアブラハムの場合は約束により嗣業を受けたのであった。ゆえに律法によらないことは明らかである。

3章19節 ()れば律法(おきて)(なに)のためぞ。[引照]

口語訳それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。
塚本訳それでは、律法は何のためにあるか。(わたしは答える。)律法は違反のため(、言いかえれば、罪を知らせてこれを犯させるために、あとから約束に)つけ加えられたものであり、しかも約束された子(なるキリスト)の来られる時まで(のもの)である。(かつ、これは神が直接につけ加えられたものでなく、)天使たちをもって、仲介者(モーセ)の手をもって規定されたに過ぎない。
前田訳さて律法が何でしょう。それは違反をさせるために加えられたのです。それは約束された子孫が来るまででした。子孫は天使たちに準備され、仲立ちの手の中にありました。
新共同では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。
NIVWhat, then, was the purpose of the law? It was added because of transgressions until the Seed to whom the promise referred had come. The law was put into effect through angels by a mediator.
註解: 前節のごとく律法によりて約束が廃止せられないとするならば律法は果していかなる物であり、何のために存するかとの自問を発している。原文は「さらば律法は一体何であるか」。

これ(つみ)(ため)(くは)(たま)ひしものにて、御使(みつかひ)たちを()中保(なかだち)()によりて()てられ、約束(やくそく)(あた)へられたる(すゑ)(きた)らん(とき)にまで(およ)ぶなり。

註解: パウロは本節前半において自ら律法の何たるかにつきて質問を発し、ここにその後半において自らそれに答えている。すなわち第一に律法を与えられし目的は「罪の為に」で、人をして罪の罪たることを知らしめ(ロマ3:20ロマ5:13ロマ7:7)、罪に対する神の怒りを明らかにし(ロマ4:15)、そうしてこれと同時に人をして律法によりてますます罪の心を起さしめ(ロマ7:8)遂に我ら凡てをして口塞がり神の審判に服せしめ罪の値が死なることを知らしめんがためであった(ロマ3:19ロマ7:13)。すなわち律法が人に与えられし目的は決してこれによりて祝福と嗣業を受けんがためではなく、それは罪のためであった。第二に律法を与えられる方法は御子によりて直接に我らに与えられる福音とは趣を異にし、天の御使たちにより(申33:2使7:53)て与えられモーセが神と人との間の中保としてこれをイスラエルの人々に伝達した(出20:19−21。申5:5)。第三に律法の有効なる期限は約束を与えられし裔、すなわちキリストの来り給う時までであった。キリスト来り給いて祝福は万人に与えられ、彼を信ずるものには聖霊が与えられ、これによりて永遠の嗣業の約束が実現した。キリスト来り給い、人々をキリストに導くことによりて律法はその任務を完うしたのである。
辞解
[罪のために] 罪を防がんがためと解する説あれどパウロの思想に反する。▲口語訳「違反を促すため」はやや行き過ぎている。「罪」 parabasis は「律法違反」のことで、律法以前に、唯漠然と「悪」または「罪」と感じていたものを、明白に「神の律法への違反」であることを知らしめるためとの意味である。
[御使] モーセがシナイ山において律法を授けられる際、御使がこれに加わったことは一般に信じられていた。申33:2等より来れる思想であろう。ゆえに強いてモーセやアロンを御使と解する必要はない。
[中保(なかだち)] Tテモ2:5よりキリストと解する説が古来多かったけれども(A2、C1、C2)、本節の場合は明らかにモーセを指していると見るべきである(A1、B1、M0、L3)。

3章20節 中保(なかだち)一方(いっぱう)のみの(もの)にあらず、()れど(かみ)唯一(ゆゐいつ)(いま)せり)[引照]

口語訳仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。しかし、神はひとりである。
塚本訳──仲介者は一方的のものではない。しかし(約束を与えられた)神はただ一人である。──
前田訳しかし仲立ちはひとりのものではなく、神がひとりにいますのです。
新共同仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。
NIVA mediator, however, does not represent just one party; but God is one.
註解: 律法と約束の対立に関する議論の継続である。仲保(なかだち)といえば当然少なくとも二つの当事者を意味する。従って中保(なかだち)によりて立てられ律法を唯一の神の一方的行為なる約束と比較するならば前者は相対的であり後者は絶対的である。この二者はかくして全く相反するがごとくに見え、従って律法と約束とは両立しないのではないだろうかと思われる。これ次節の質問の理由である。
辞解
本節は前後の関係明瞭を欠くために古来数百種の解釈ありと称せらる(ジョウェットは四百三十種を数う)。予は本節を前節の説明より当然起り来る次節前半の疑問を引出す意味において記されしものとして上記のごとく解した。

3章21節 さらば律法(おきて)(かみ)約束(やくそく)(もと)るか、(けっ)して(しか)らず。[引照]

口語訳では、律法は神の約束と相いれないものか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。
塚本訳それでは、律法は神の約束に矛盾するか。以てのほかである。もしも命を与える力をもつ律法が与えられたのであったら、(それこそ)本当に律法によって義たることがあるでもあろう。
前田訳しからば律法は神の約束に反しますか。断じて否です。もし律法が与えられていのちを作る力があったならば、じつに義は律法に依存したでしょう。
新共同それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。
NIVIs the law, therefore, opposed to the promises of God? Absolutely not! For if a law had been given that could impart life, then righteousness would certainly have come by the law.
註解: 前節のごとく一見両者相反するごとくに見えるとすれば、律法は神の約束に反対の立場に立ち、従って両立し得ないものではないかとの疑問が起り得る。しかしこれは決してそうではない。パウロはその理由として律法が約束のごとくに永遠の生命を与うることができない所以を本節後半に掲げ、さらに進んで律法の積極的能力を22節以下4:7に録している。

もし[(ひと)を]()かすべき律法(おきて)(あた)へられたらんには、()()とせらるるは律法(おきて)()りしならん。

註解: 罪の値は死であることが既知のこととして前提をなしている。すなわちもし律法が人の罪を除き、彼を死と滅亡より救い得るものであるならば律法によりて義とせられ、従って神の約束は不要に帰してしまうであろう。然るに実際は、律法は人を生かすことができず、かえって人を死に至らしめる(ロマ7:10)。ゆえに約束の使命は今なお存しているのであって律法と約束とが相反しないことを知ることができる。
辞解
[生かすべき] 「生かし得べき」。

3章22節 されど聖書(せいしょ)(すべ)ての(もの)(つみ)(した)()()めたり。これ(しん)ずる(もの)のイエス・キリストに(たい)する信仰(しんかう)()れる約束(やくそく)(あた)へられん(ため)なり。[引照]

口語訳しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。
塚本訳しかし(律法は命を与えるものでなく、人を罪に閉じこめる力をもつだけである。)聖書はすべての人を(律法によって)罪の下に閉じこめ、イエス・キリストを信ずる信仰によって、信ずる者に約束が与えられるのである。(律法は約束に矛盾しない。むしろこれに導く家庭教師である。)
前田訳しかし聖書はすべてを罪の下に閉じ込めました。それは約束がイエス・キリストのまことによって信ずるものに与えられるためです。
新共同しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。
NIVBut the Scripture declares that the whole world is a prisoner of sin, so that what was promised, being given through faith in Jesus Christ, might be given to those who believe.
註解: 私訳「されど聖書はすべてのものを罪の下に閉じ込めたり、これ約束がイエス・キリストに対する信仰に由り信ずる者に与えられんためなり」。前節と反対に生かし得べき律法が与えられていない証拠には、この律法を記載せる書である聖書が万物を罪の下に幽閉してしまい、人間もみなこの幽閉の下にありてこれより出づることができないのでも解る(詩143:2申27:26。なおロマ3:10−18にもこのことを録す)。そうしてかくのごとく凡てのものを幽閉せる目的は神の約束が律法の行為に由りて与えられず、信仰によりて与えられんがためである。かく言いて約束と律法とを比較し来れるパウロはここに23節以下に論ぜんとする「律法の行為」と「信仰」との比較にその思想を移していることに注意せよ、そうして約束に対するものは信仰であり、律法に対するものは律法の行為である。
辞解
[聖書] 単数名詞を用いている。多くの場合複数が用いられる。単数が用いられる場合には聖書中の特定の句を指す場合が多い(L3)。ただしこの場合擬人法を用いたのであって幽閉するものは聖書ではなく、それは律法である。
[凡ての者] 原語中性複数で万物を指す、人間がその中心であることは勿論であるが人間のみを指すと解する必要なし(ロマ8:20参照)。
[信ずる者] 「信ずる者」といえば信仰によること勿論なるがごときも、律法の行為によると主張する者ある故に特に「信仰による」と附加したのである。「信仰に由れる約束」と訳すべしとする説(改訳本文、A1)は適当ではない。
[閉じ籠める] 錠を卸すこと。
要義1 [律法と約束]神はアブラハムおよびその子孫に神の国の嗣業を継ぐべき約束を与え給うた。この約束がある以上さらにこれに律法を加うる必要なきがごときも然らず。律法が与えられて始めて人間の罪の子、怒りの子たる本質が明らかにせられ、その結果信仰によりて約束を与えられることの真の意義を悟ることができるのである。あたかもエデンの園において罪なき生活を送っていたアダムが一旦罪のためにエデンの園を逐われて始めてキリストによりて回復される天国の幸福を充分に知ることができるのと同様なる事実である。故に律法は約束に反対するものでもなく、またこれを無効に帰せしむるものでもなく、律法は律法として独特の使命があり、約束をして益々その意義を発揮せしむる使命を持っている。故に律法をもって約束を空しくすべきではなく、また律法と約束とを混合してはならない。かくするならば双方ともにその使命を完うし得ざるに至る。
要義2 [神の約束]聖書の信仰の中心が神の約束であることはそれが後日に至って旧約聖書、新約聖書と称されるに至った事実がこれを示している。而して誠実に在す神は永遠にその約束を破棄し給うことがない。この約束に信頼する者が真のキリスト者である。而してこの約束を信ずるが故にこの世の凡ての困難や不幸や危険に打勝つことができるのである。

2-2-ニ 律法は守役に過ぎず 3:23 - 3:29  

3章23節 信仰(しんかう)の[(いで)](きた)らぬ(まへ)は、われら律法(おきて)(した)(まも)られて、(のち)(あらは)れんとする信仰(しんかう)[の(とき)]まで()()められたり。[引照]

口語訳しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。
塚本訳しかし信仰が来る前には、わたし達は(みな)律法の下に閉じこめられ、監督されて、信仰が現れねばならぬ時にまで及んだ。
前田訳信仰が来る前にはわれらは律法の下に守られていて、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。
新共同信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。
NIVBefore this faith came, we were held prisoners by the law, locked up until faith should be revealed.
註解: パウロはここに律法を牢獄および家庭教師に譬えている。すなわちイエス・キリストに対する信仰に入る以前において、律法の下にある時の状態はあたかも鍵を卸して閉じ込められ、監守をもって警衛しているようなものである。そこでは罪より解放されず律法の圧迫の下に全く自由なき絶望的状態にいなければならない。しかしながらこれ人間の自己を義とする心を打ち砕かんがための神の経綸であって、従ってこれは永久的な状態ではなく、かえってこれによりて詛いより保護せられ逃亡より免れしめられて遂にその進路を信仰において見出す時までに至るのである。この意味において律法にもまた重大なる使命がある。本節ないし25節は律法の使命はキリストの来り給う時までであることを論じているけれども、これを個人々々に適用する場合には各人がキリストを見出し、その信仰に入る時までを意味する。
辞解
[守る] phroureô 看守をもって警衛すること。
[信仰] ここではキリストに対する信仰を意味し、旧約時代にありしアブラハムその他の信仰(ヘブ11章参照)に比して新約の信仰こそ完成せられし真の「信仰」であることを示す。パウロのいわゆる信仰はこれである。

3章24節 かく信仰(しんかう)によりて(われ)らの()とせられん(ため)に、律法(おきて)(われ)らをキリストに(みちび)守役(もりやく)となれり。[引照]

口語訳このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。
塚本訳だから(モーセ)律法は(わたし達を)キリストへつれて行く家庭教師となった。信仰によってわたし達を義とするためである。
前田訳それで、われらが信仰によって義とされるために律法はキリストへと導く後見人となったのです。
新共同こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
NIVSo the law was put in charge to lead us to Christ that we might be justified by faith.
註解: 前節のごとく律法には一面牢獄のごとき作用があると同時に他面また家庭教師のごとき作用を為す。家庭教師は一定期間家庭にありてその子弟を訓練し、その心身の健康を図るの務めをもっており、その子弟が我がままに陥り、放逸に流れることを防ぎ、またこれに文法の初歩を教授して上級に進むの準備をする。これと同様に律法も我らの肉の放縦を抑制して我らを堕落より防ぎ、道徳的教訓を与え我ら自身の力の程度を知らしめ、完全なる義を示して、これに到達するの欲望を我らの中に起さしめる。而して遂に我らをしてキリスト・イエスを信ずる信仰によるにあらざれば義とされること能わざることを知らしむるに至るのである。パウロは正にこの経験を通過して福音に到達した。家庭教師が子供に対して苦痛であり束縛であるがしかも彼らに必要欠くべからざるものであると同様に律法もまた我らを苦しめ我らの自由を束縛するけれども、信仰による真の自由を得んがための必要なる経路である。
辞解
[守役] paidagôgos Tコリ4:15辞解参照、子供に付き切ってこれを教育する家庭教師(多くは高級の奴隷)。▲「守役」を口語訳で「教育係」と訳したのは適当でない。paidagogos は pais (子ども)を agô (導く)する人の事で英語の pedagogue (先生、教育係)の言語である。

3章25節 されど信仰(しんかう)の[(いで)](きた)りし(のち)は、我等(われら)もはや守役(もりやく)(した)()らず。[引照]

口語訳しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。
塚本訳しかし(それは信仰が来るまでのことで、)信仰が来た以上は、わたし達はもはや家庭教師の下にはいない。
前田訳しかし信仰が来た今、われらはもはや後見人の下にはいません。
新共同しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。
NIVNow that faith has come, we are no longer under the supervision of the law.
註解: 信仰に入りて後にも律法によりて束縛されるものは、信仰の本質を没却しているものである。信仰にあって活くるものは霊に従って生き、儀文に従って生きない。もし霊に従って生きるならば肉の思いを成さんとせず、ゆえに律法をもって束縛されるの必要がなく、キリストの下に自由なる喜悦と平安とをもって生くることができる。

3章26節 (なんぢ)らは信仰(しんかう)によりキリスト・イエスに()りて、みな(かみ)()たり。[引照]

口語訳あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
塚本訳(なぜか。)あなた達はキリスト・イエスを信ずる信仰によって、みな神の子だからである。
前田訳イエス・キリストにある信仰のゆえにあなた方は皆神の子です。
新共同あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
NIVYou are all sons of God through faith in Christ Jesus,
註解: 私訳「そは汝らはイエス・キリストに在る信仰によりてみな神の子たればなり」、前節の理由を述ぶ。「子」はもはや「幼児」ではない。ゆえに信仰によりて神の子とせられし者はもはや守役の下に束縛せられず、独立自由の子となったのである。律法はもはや彼らを束縛せず彼らを裁かない。ゆえに彼らは律法の恐怖を脱して神の子の喜悦に入らなければならない。
辞解
[汝ら] 前節まで「我ら」であったのを本節より第二人称に移る。異邦人たるキリスト者もこの点においてユダヤ人のキリスト者と異なるところがない。
[キリストに在る] 改訳本文のごとくに見る説もある(L3)けれども「信仰」を形容する形容詞句と見るを可とす(M0、A1)。

3章27節 (おほよ)そバプテスマに()りてキリストに()ひし(なんぢ)らは、キリストを()たるなり。[引照]

口語訳キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。
塚本訳すなわちキリストへと洗礼を受け(て彼のものとなっ)たあなた達はみな、キリストを着たからである。
前田訳キリストへと清められたあなた方は皆キリストを着ています。
新共同洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
NIVfor all of you who were baptized into Christ have clothed yourselves with Christ.
註解: 悔改めてバプテスマを受けたる者はキリストの中に没入したものである、すなわちキリストと共に甦ったものである。ゆえに内にキリストに連なれる新生命あり、神および人の前にはキリストを衣たる新しき人として立っているのである(ロマ13:14コロ3:10エペ4:24)。かかる者は新たに造られし者であり、旧き律法の下に立てる旧き肉の人ではない(Uコリ5:17)。

3章28節 (いま)はユダヤ(びと)もギリシヤ(びと)もなく、奴隷(どれい)自主(じしゅ)もなく、(をとこ)(をんな)もなし、(なんぢ)らは(みな)キリスト・イエスに()りて一體(いったい)なり。[引照]

口語訳もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
塚本訳(神の子には、)もはやユダヤ人もなければ異教人もなく、奴隷もなければ自由人もなく、男もなければ女もない。あなた達はみなキリスト・イエスによって一つであるからである。
前田訳ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなた方は皆キリスト・イエスにあってひとつです。
新共同そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
NIVThere is neither Jew nor Greek, slave nor free, male nor female, for you are all one in Christ Jesus.
註解: 信仰によりてキリストに連なる者はキリストを首とせる一つの体である。一体なるが故にその間に人種的、社会的、性的差別がない。否同じ神の子でありキリストに在りて新たに造られし者である。ゆえにこの新しき生命に従って歩むべであって、今さらユダヤ人に特有なる律法をもってギリシャ人を束縛すべきでない。また「ユダヤ人」「自主」「男」たるをもて誇るべきでもない。
辞解
[ギリシャ人] ユダヤ人以外の異邦人の概称。
[男も女も] 原語「男と女も」とあり、創1:27の語法によれるものなるべし。

3章29節 (なんぢ)()もしキリストのものならば、アブラハムの(すゑ)にして約束(やくそく)(したが)へる世嗣(よつぎ)たるなり。[引照]

口語訳もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。
塚本訳そしてキリストのものである以上、それこそあなた達はアブラハムの子であり、約束による相続人である。
前田訳もしキリストのものならばあなた方はアブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
新共同あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
NIVIf you belong to Christ, then you are Abraham's seed, and heirs according to the promise.
註解: キリストがアブラハムの裔に在し給うが故に(16節)、たとい異邦人であってもキリストのものとなり、キリストと一体をなしているならばそれはアブラハムの裔であり、その当然の結果として、アブラハムに約束せられし嗣業を継ぐの世嗣である。反対にたとい人種的にアブラハムの子孫でありユダヤ人であっても、キリストのものでないならばアブラハムの裔ではなく約束に(したが)える世嗣ではない。ゆえに律法を与えられていることをもって誇っているユダヤ人は全く嗣業を受くることができないこととなる。
要義1 [守役の必要]厳格なる道徳律をもって訓練されることは、訓練される者にとりては苦痛である。しかしながらこれは必要なる訓練であって、これあるがために始めて自己の罪の深さとこれを脱せんとして能わざる自己の弱さとを知ることができるのである。かくして訓練がその任務を果しつくしてその結果そこに残るものは唯全き絶望と死とのみである場合に、始めてこの訓練はその効果を収めたということができる。この意味においてモーセの律法を与えられしユダヤ人は最も幸福なる民であるけれども、異邦人も何らかの形において律法に代るべきものを与えられていた。これが彼らにとりて律法の働きをなし、旧約のごとき任務を果しているものと見ることができる。この意味において異邦人にも彼らをキリストに導く守役があった。
要義2 [キリストを()たる人]軍服が軍人の資格を示すと同じく衣服はある資格を表徴する。故に「キリストを()る」ことは表面だけキリストらしく装うことではなく、「キリストに合い」キリストと霊的生命を一にすることによりてキリストと同一の資格を摑得(かくとく)することである。故に我らの罪の体が全部キリストと同じものとなったというのではない。唯我ら信仰によりてキリストと一体となりキリストのものとなることによりて神の子と認められ、かくしてキリストを()たるものとなり、神の前にキリストと同じき神の子として立つの資格を得るのである。かかる人がキリストを()たる人である。