黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ロマ書

ロマ書第2章

分類
2 罪悪論 1:18 - 3:20
2-(1)-(2) ユダヤ人の罪 2:1 - 3:8
2-(1)-(2)-(イ) ユダヤ人に対する神の審き 2:1 - 2:5

註解: 異邦人の罪を数え上げたパウロは、ここに転じて2:1-3:8にユダヤ人の罪を数え上げている。

2章1節 されば(すべ)(ひと)(さば)(もの)よ、なんぢ()(のが)るる(てだて)なし、(ほか)(ひと)(さば)くは、(ただ)しく(おのれ)(つみ)するなり。[引照]

口語訳だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。
塚本訳だから、ああ人[ユダヤ人]よ、あなたは(人を)裁いているが、あなたがだれであろうと、言い訳は立たない。あなたは人を裁いて、実は自分の罪を定めている。裁きながら、同じことをしているからである。
前田訳それゆえ、すべて裁く人よ、いいわけはできません。他人を裁くというその点で、あなたは自らを裁いています、裁くあなたが同じことをしていますから。
新共同だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
NIVYou, therefore, have no excuse, you who pass judgment on someone else, for at whatever point you judge the other, you are condemning yourself, because you who pass judgment do the same things.
註解: パウロがロマ1:18以下に於いて異邦人の罪を指摘するのを聞いていたユダヤ人は、心の中に彼らは実に罪人である、我らは彼らの如くならざるを謝すと云って誇っていた事であろう。その時突然パウロはその鋒先を彼らの面前に突付けた。曰く異邦人を罪人として審く汝凡てのユダヤ人よ、汝らも異邦人と同様(ロマ1:20)弁解の(ことば)が無いであろう、その故は他人を審く事その事が汝自身を罪に定むる結果となるからである。かく云いてパウロは万人が罪の下にある事を明かにせんとしているのである。
辞解
[審く] krinô
[罪する] 「罪に定むる」とも訳せられる(ロマ8:1) Katakrinô 

(ひと)をさばく(なんぢ)もみづから(おな)(こと)(おこな)へばなり。

註解: ユダヤ人の中にも異邦人の如き罪が有った、しかも彼らは自己の優越感に陶酔してこの事実を無視していた。今日の基督教国が異教国を審くのもこれと同じ態度である。

2章2節 かかる(こと)をおこなふ(もの)(つみ)する(かみ)審判(さばき)眞理(まこと)(かな)へりと(われ)らは()る。[引照]

口語訳わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。
塚本訳わたし達が知っているように、(いま言った)こんなことをする者を、神は真理によってお裁きになる。
前田訳われらは知っています、真理に従って神の裁きはそのようなことをする人々に及ぶことを。
新共同神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
NIVNow we know that God's judgment against those who do such things is based on truth.
註解: 人の審判と異なり神の審判は真理に合うが故に、罪を行うものは全てこれを免れる事が出来ない。
辞解
[審判] krima は判決の内容を意味し、審判する行為 krisis と異なる。
[我ら] パウロ初め誰でも一般にと云う如き意味。

2章3節 かかる(こと)をおこなふ(もの)(さば)きて自己(みづから)これを(おこな)(ひと)よ、なんぢ(かみ)審判(さばき)(のが)れんと(おも)ふか。[引照]

口語訳ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。
塚本訳ああ人よ、あなたはこんなことをする者たちを裁きながら、自分で同じことをしているが、それで自分(だけ)は神の裁きを免れると思っているのか。
前田訳お考えなさい、このようなことをする人々を裁き、自ら同じことをする人よ、あなたは神の裁きをのがれるでしょうか。
新共同このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
NIVSo when you, a mere man, pass judgment on them and yet do the same things, do you think you will escape God's judgment?
註解: ユダヤ人はその割礼の故に、又はその律法的行為の故に、神の審判を免れるものと自信し安心して異邦人を審いていた。しかも彼ら自らもかかる行為に陥っていたのである。彼ら(いか)で神の審判を免れる事が出来ようか。前節が真理であるならば本節の結論はこれを免れんとして免れる事が出来ない。

2章4節 ((また))(かみ)仁慈(なさけ)なんぢを悔改(くいあらため)(みちび)くを()らずして、その仁慈(なさけ)忍耐(にんたい)寛容(くわんよう)との(ゆたか)なるを(かろ)んずるか。[引照]

口語訳それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
塚本訳それとも、神の豊かな慈愛と忍耐と寛容とを誤解し、憐れみ深いこのお方があなたを悔改めさせようとしておられることが、わからないのか。
前田訳それとも、彼の善意と寛容と忍耐との豊かさをあなどって、神のあわれみがあなたを悔い改めに導くのがわかりませんか。
新共同あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
NIVOr do you show contempt for the riches of his kindness, tolerance and patience, not realizing that God's kindness leads you toward repentance?
註解: 前節に於いては神の審判を遁れ得るかの如くに考えて、(すこし)もこれを畏れざる心に対して警戒を与え、本節に於いては又神がその審判を差し控え給う寛忍の態度は一日も早く彼らを悔改めしめんが為なるにも関わらずこれに対して感謝せず、恐惶(きょうこう)せず、悔改むる事もなしに却てこれを軽蔑する者に対する叱責を与えている。若し何時迄も悔改めないならば神は遂にその大なる怒を注ぎ出し給うであろう。
辞解
[仁慈(なさけ)] chrêstotês は神がユダヤ人に賜える種々の恩恵、その愛護等を指し、
[忍耐] anochê は抑制の意味で、当然注がるべき神の怒と審判とを抑えて直ぐにはこれを下さざる事(Z0,T0)。
[寛容] makrothumia は当然罪せらるべき多くの罪を一々攻め立てない事。ユダヤ人の歴史を見れば神がかくの如くに彼らを扱い給える事は著しき事柄であった。単にこれをキリストの十字架以後のユダヤ人の罪のみに限る(G1)必要はない。

2章5節 なんぢ頑固(かたくな)悔改(くいあらた)めぬ(こころ)とにより、(おのれ)のために(かみ)(いかり)()みて、その(ただ)しき審判(さばき)(あらは)るる(いかり)()(およ)ぶなり。[引照]

口語訳あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。
塚本訳こうしてあなたは頑固な悔改めない心によって、神の正しい裁きの現われる怒りの日に望む(神の)怒りを、自分のために貯蓄している。
前田訳頑固な、悔い改めない心によって、あなたは神の正しい裁きの現われる怒りの日のお怒りを自らに貯えています。
新共同あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。
NIVBut because of your stubbornness and your unrepentant heart, you are storing up wrath against yourself for the day of God's wrath, when his righteous judgment will be revealed.
註解: 頑固にして悔改めざる心を以て神の仁慈(なさけ)、忍耐、寛容の豊かなる富を軽蔑する結果、彼らは如何なる富を蓄積しているのであるか、彼らの貯蓄する財宝は実は神の怒である。この怒は最後の審判の日に彼の上に注がれるであろう。故に汝ユダヤ人と(いえど)もこれを免れる事が出来ない。
辞解
[頑固] 神の仁慈(なさけ)、忍耐、寛容に対して無感覚である事。
[悔改めぬ心] 神の仁慈(なさけ)の目的を蹂躙する事で、前節の悔改に対応する。
[神の怒を積む] 積むは財宝を蓄える事を意味し、彼らは神の怒を貯蓄している恐るべき状態にいる。
[正しき審判の顕わるる日] 最後の審判の日、その審判は6-16節に示される如くユダヤ人たると然らざると又基督者たると然らざるとを論ぜず、その行によりて公平に正当に審かれる。
[怒の日] その日神の怒は凡ての不虔不義に向って顕れる。ロマ1:18には神の怒が異邦人に対し既に顕れていることを述べ、本節にユダヤ人には未来に於て顕れることを示す。勿論最後の審判に於ても異邦人が審判かれる事、現在に於いても神の怒りがユダヤ人に及ぶことを否定したのではない。唯それが異邦人に対しては現在既に著しく顕われし事、ユダヤ人に対しては将来その自負心に反して著しく顕れるであろう事を示しているに過ぎない。
要義 [審判は基督教の要素なり] 近来最後の審判なる思想を軽蔑する傾向が非常に多い。その理由はその非科學的なる事、神は愛にして審判と云う如き事は有るべからざる事、単に人を威嚇して恐怖せしむる手段に過ぎざる事等を掲げ、而してイエスは最後の審判につき語り給うたけれどもこれは単にその当時の思想を借り来れるに過ぎずとしている。併し乍ら神に対する背反は即ち罪であり神の本質上かかるものの存在は放置せらるべきではない。義なる神はこの世界中に存するあらゆる不義を焼尽くし給うまでは決して()む事が出来ない。最後の審判はこの神の本質と罪の性質との結合せる必然の結果である。

2-(1)-(2)-(ロ) 異邦人とユダヤ人との間に差別なし 2:6 - 2:16

2章6節 (かみ)はおのおのの所作(しわざ)(したが)ひて(むく)い、[引照]

口語訳神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。
塚本訳神は“ひとりびとりの行いに応じて報いられる”(と聖書は言う。)
前田訳神は各人にそのわざによって報われましょう。
新共同神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
NIVGod "will give to each person according to what he has done."
註解: 人間が行える凡ての行為はそれがユダヤ人たると基督者たると異邦人たるとを問わず、神よりそれに相当する報を受けなければならない。この事は事理の当然であり宇宙の根本法則であって旧約は勿論(箴24:12詩62:12。134:11<編者:当該箇所なし>)新約聖書に於ても屡々(しばしば)繰返されている処である(マタ16:27及その引照参照)。行為に対する報と信仰によって義とせられる事との関係に就てはUコリ5:10要義2参照。
辞解
[所作(しわざ)] erga行為。

2章7節 ()(しの)びて(ぜん)をおこない光榮(くわうえい)尊貴(たふとき)()ちざる(こと)とを(もと)むる(もの)には、永遠(とこしへ)生命(いのち)をもて(むく)い、[引照]

口語訳すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、
塚本訳すなわち、忍耐して善を行うことによって栄光と栄誉と不滅とを求める者には、神は永遠の命をおあたえになるが、
前田訳忍耐をもってよいわざをし、栄光と誉れと不滅を求める人には永遠のいのちを、
新共同すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
NIVTo those who by persistence in doing good seek glory, honor and immortality, he will give eternal life.
註解: 多くの誘惑と試練の中に忍耐を以て善行を継続して行く事は至難であるが、かくして天国に於ける光栄と神より与えられる尊貴と永遠に朽つる事なき嗣業とを求むるものは永遠の生命を与えられる。パウロはここには如何なる人がこれに値しているかの点に触れる事なく唯これを当然の真理として叙述している。
辞解
[光栄 尊貴 朽ちざるもの] これら凡てはこの世には存在しない。皆神の国に属する処のものである。

2章8節 徒黨(とたう)により眞理(まこと)(したが)はずして不義(ふぎ)にしたがう(もの)には、(いかり)憤恚(いきどほり)とをもて(むく)(たま)はん。[引照]

口語訳他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。
塚本訳自分本意で、真理に従わず偽りに従う者には、怒りと憤りとが待っている。
前田訳私欲にかられ、真理に従わず、不義に従うものには怒りといきどおりをお与えになります。
新共同反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
NIVBut for those who are self-seeking and who reject the truth and follow evil, there will be wrath and anger.
註解: 前節と反対の状態にある人は自己の為に神の怒と憤恚(いきどおり)とを招かざるを得ない。神の当然の報は善悪何れの場合でもこれを(のがれ)る事が出来ない。
辞解
[徒党] eritheia は本来傭兵(ようへい)又は賃銀による雇用労働者を意味し、自己に関し利已心のみを働かせる事を含む、従ってその結果、自派擁護に汲々たる徒党心を意味する。パウロは雇人の如きユダヤ人のラビを想起した事であろう(G1)。かかる人は「真理」に従う事が出来ないで自然「不義」に従う。然しながら神は必ず彼らの上に「怒」 orgê (心のみならず行為動作をも含む)と「憤恚(いきどおり)」 thumos (心の中が忿怒に燃ゆる事)をもて臨み給うであろう。
[7、8節の「を以て報い」] 原語によれば次の9、10節の如く「とあり」と訳するを可とす。

2章9節 すべて(あく)をおこなふ(ひと)には、ユダヤ(びと)(はじ)めギリシヤ(びと)にも患難(なやみ)苦難(くるしみ)とあり。[引照]

口語訳悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、
塚本訳(つまり、)苦しみと悩みとは悪を働くすべての人、まずユダヤ人、次に異教人に、
前田訳苦しみとなやみはすべて悪をするもの、ユダヤ人をはじめギリシア人に、
新共同すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
NIVThere will be trouble and distress for every human being who does evil: first for the Jew, then for the Gentile;

2章10節 (すべ)(ぜん)をおこなふ(ひと)には、ユダヤ(びと)(はじ)めギリシヤ(びと)にも光榮(くわうえい)尊貴(たふとき)平安(へいあん)とあらん。[引照]

口語訳善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。
塚本訳また栄光と尊敬と平安とは善を行うすべての人、まずユダヤ人、次に異教人に、のぞむであろう。
前田訳栄光と誉れと平和はすべて善を行なうもの、ユダヤ人をはじめギリシア人に及びます。
新共同すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
NIVbut glory, honor and peace for everyone who does good: first for the Jew, then for the Gentile.
註解: 7、8節の順序を逆にして6節に示されしと同一の真理を述べ、且つこの真理の適用が万人共通であって神の選民たるユダヤ人と(いえど)も、この応報を免れる事が出来ない事を示す。
辞解
[「悪をおこなふ」katergazesthaiと「善をおこなふ」ergazesthai] とは「おこなふ」の原語を異にす。前者は「遂行する」の意、後者は「為す」の意でここに適切に使い分けられている。
[ユダヤ人を始め] は応報が時問的にユダヤ人に先に与えられる意味(C1、G1,M0)ではなく、又程度に於てユダヤ人に強い(G1)と云うのでもない。ここでは「ユダヤ人は勿論」と云う如き意味(Z0)に取るを可とす。
[患雖] 外より来るもの
[苦難] stenochôria は内心の状態
「患難」の反対は神より賜わる「光栄」と「尊貴」(栄誉)、「苦難」の反対は「平安」。この二節は勿論現世のみの事を言えるにあらず、永遠の相に於ける事実を云う。

2章11節 そは(かみ)には(かたよ)()(たま)ふこと()ければなり。[引照]

口語訳なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。
塚本訳神にはえこ贔屓がないからである。
前田訳神には偏見がないからです。
新共同神は人を分け隔てなさいません。
NIVFor God does not show favoritism.
註解: 前節の理由は神はユダヤ人とかギリシャ人とか云う如き外面(うわべ)の事によりて判断せず人の心の内部、その実際の如何によりて判断し給うからである。この事は旧約聖書によりて充分に高調せられている点で(レビ19:15申10:17ヨブ13:8ヨブ34:19U歴19:7等)ユダヤ人はこれに対して反対し得ない。
辞解
[偏り見る] ガラ2:6と同じく人の外面によりて不公平に取り扱わない事。名義上の基督者たると否とも同様に神の前では問題ではない。▲基督者となる場合の形式如何やその所属教会の如何等は神の審判の前には意味をなさない。彼を救うものはその信仰のみである。神は人の上辺を見ない。

2章12節 (おほよ)律法(おきて)なくして(つみ)(をか)したる(もの)律法(おきて)なくして(ほろ)び、律法(おきて)ありて(つみ)(をか)したる(もの)律法(おきて)によりて(さば)かるべし。[引照]

口語訳そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。
塚本訳すなわち、律法なしに罪を犯した者[異教人]はみな、律法なしに滅び、律法の下に罪を犯した者[ユダヤ人]はみな、律法によって罰される。
前田訳律法なしに罪を犯したものは、みな律法なしに滅び、律法の下に罪を犯したものは、みな律法によって裁かれましょう。
新共同律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
NIVAll who sin apart from the law will also perish apart from the law, and all who sin under the law will be judged by the law.

2章13節 (そは)律法(おきて)()くもの(かみ)(まへ)()たるにあらず、律法(おきて)をおこなふ(もの)のみ()とせらるべ[し](ければなり)。――[引照]

口語訳なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。
塚本訳なぜなら、律法を聞く者が神の目に義であるのでなく、律法を行う者が義とされるからである。
前田訳それは、律法を聞くものが神の前に義人ではなく、律法を行なうものが義とされるからです。
新共同律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
NIVFor it is not those who hear the law who are righteous in God's sight, but it is those who obey the law who will be declared righteous.
註解: 最後の審判の日至れば、律法の下にあるユダヤ人も、律法なき異邦人も差別なく皆その犯したる罪のために或は滅ぼされ(異邦人の場合)或は律法に照して審判かれる(ユダヤ人の場合)。蓋し各人の行為によりて報いられる事は根本原則であって、ユダヤ人と(いえど)もこの点に何等の特典もない。彼らが毎安息日に律法が読まれるのを聞いているにしても、それだけで彼ら神に対して義しいと云う事が出来ない。唯律法を行う者のみ神によりて義とせられるからである。この点は一見信仰によりて義とせられる事と矛盾するが如きも然らず、実はこれが却て福音に到るの道であると同時に又福音によりてのみ完全に実現し得る処である。

2章14節 (そは)律法(おきて)()たぬ異邦人(いはうじん)、もし本性(うまれつき)のまま律法(おきて)()せたる(ところ)をおこなふ(とき)は、律法(おきて)()たずともおのづから(おの)律法(おきて)[たる](たれば)なり。[引照]

口語訳すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。
塚本訳すなわち、律法を持たない異教人が、その天性によって律法の命ずるところと同じことを行えば、律法を持たなくても、彼ら(の心)が彼らにとっては律法なのである。
前田訳すなわち、律法を持たぬ異邦人が自然に律法のことを行なえば、律法はなくても、彼らにとって自らが律法です。
新共同たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
NIV(Indeed, when Gentiles, who do not have the law, do by nature things required by the law, they are a law for themselves, even though they do not have the law,
註解: 前節の如く、云うならば、律法を聞かざる異邦人はこれを行い得る筈なきゆえ、その結果当然義とせられ得ざる不公平の結果となりはせずやと云うに、然らず、その理由は異邦人と(いえど)も生れ乍らにして良心を持っていて、ユダヤ人の如く、外部から与えられた律法は無いけれども、その代りに彼ら自身の良心が自分に取って律法となりこれを行っているからである。従って彼らも律法を聞きし事なしと云う事が出来ず、従ってこれを行う義務ある事ユダヤ人と異る処がない。
辞解
本節は12節a又は13節bのみに連絡せしめんとの説あれど13節全体に連絡せしむる説を可とす(G1)
[本性のまま] physei は人間の罪性を指せるにあらず、自然のまま即ち「外部より律法を加えられずとも」との意。
[自ら己が律法たればなり] 直訳「彼らは彼ら自身に取って律法なればなり」。
[律法に載せたる所] 直訳「律法の事ども」。

2章15節 (すなは)律法(おきて)(めい)ずる(ところ)のその(こころ)(しる)されたるを(あらは)し、おのが良心(りゃうしん)もこれを(あかし)をなして、その(おもひ)、たがひに(あるひ)(うった)(あるひ)辯明(べんめい)す。――[引照]

口語訳彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。
塚本訳それは取りも直さず、律法の命ずる行いが彼らの心に書きつけられていることを彼らが示すのであり、彼らの良心も(同じく)これを証明し、また彼らの考えが互に咎めあるいは弁明することも、これを証明してくれる。
前田訳彼らは律法の行ないがその心に書かれていることを示しており、彼らの良心もそれを証し、彼らの考えも互いに訴え、または弁明もしてそれを示しています。
新共同こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
NIVsince they show that the requirements of the law are written on their hearts, their consciences also bearing witness, and their thoughts now accusing, now even defending them.)
註解: 私訳「かかる人々は、その心に録されし律法の業を顕わし、その良心も共に証をなし又相互の間にその(おもい)或は非議し或は弁明す」異邦人の良心が自らに取って律法となっている証拠は三つある。その一は彼らがその自然の行為によりて、彼らの心に自然に録されている律法の働きを神と人の前に表明する事、その二はこの自然の行為に対して彼らの良心も共に証しを為してそれに賛否の意を表する事、その三は彼ら相互の間にその行動につきその思想を以て、或はこれを非難し、或はこれに対して弁明する事、これ等は皆彼らが外より与えられし律法を有たずして、しかも自らがこの律法となっている証拠である。ここにパウロは人間の自然の状態を何等の偏見なしに叙述して、ユダヤ人との間の差異なき事を示す。
辞解
[律法(おきて)の命ずる所] 原語「律法(おきて)の働き」、又は「律法(おきて)の業」、律法(おきて)の生む結果の総称。
[(しる)さる] 石の板に(しる)されし十戒に(ちな)める語、エレ31:33以下 エゼ36:26以下等の状態の型。
[その(おもい)たがひに] 「たがひの間にその(おもい)云々」と読むべきである。本節に就いては心の中に二つの反対なる理念が互に非難し合う事と解する説(B2、Z0、A1等)と、異邦人同志互にその理念を以て非難弁明し合う事と解する説(I0、M0)とがある、改訳は前者によれるものの如くに見え、この註解と私訳は後者による。

2章16節 (これ)わが福音(ふくいん)()へる(ごと)く、(かみ)のキリスト・イエスによりて人々(ひとびと)(かく)れたる(こと)(さば)きたまふ()に[()るべし]。[引照]

口語訳そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。
塚本訳そしてこれらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスをもって人の隠れたことを裁かれる(最後の)日に、すべて明らかになるであろう。
前田訳これらは、わが福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをお裁きの日に明らかになるでしょう。
新共同そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。
NIVThis will take place on the day when God will judge men's secrets through Jesus Christ, as my gospel declares.
註解: 6節より前節までに述べし思想は今日は完全に実現せず、従ってユダヤ人も異邦人も同様に滅ぼされ(12節)又は同様に報いられ(6-11節)又同様に義とせられる事(13-15節)は今日一般に殊にユダヤ人には信じられないであろうが、これらの事は最後の審判の時、即ち人間の律法的行為や割礼、無割礼と云う如き外面的の問題ではなく、人間の心の中に隠れている事が凡てキリストに依りて神に審かれる日が来た時には皆明かにせられる事であろう(2629節参照)。パウロが「我が福音」と云うのはかかる福音であって信仰によって異邦人もユダヤ人も何等の差別なしに救われる事を教える福音である。
辞解
この一節は極めて難解で殊に前文との連絡が不明である。従て(1)5節、(2)10節(A1)、(3)12節、(4)13節即ち14、15節を括弧に入れて見る(I0、M0、G1、改訳)、(5)15節の「顕す」(B1)、(6)15節の末尾(Z0、T0)、(7)1-16節の主なる動詞(E0)等に連絡せしめんとする説あれど、予はE0を更に敷衍して6節以下の全思想に関連せるもの、即ち一見これと予盾する如きパウロの福音との関係を示したるものと解す(詳細はZ0、G1、M0等參照)。▲文脈及び意味の上より(6)のZ0、T0の節の由る事が最も適当ならん。本註解著者の現在の意見としては、斯く改訂する方に傾いている。
[わが福音] 他の使徒らの伝うる福音を排斥する意味ではなく、彼が直接にキリストより啓示せられし福音で、而も異邦人の救については異邦人の使徒として彼に独特の啓示があった事の自信を以てかく云つたのであろう(引照參照)。
[隠れたる事] 従って「律法をおこなう者」と云うもその心から行うものにあらずば真におこなう者では無い事となる。故に結局信仰によらざれば義とせられざるの結果に立至るのである。
要義1 [神は外面を見給わず] ユダヤ人たると異邦人たると教会員たると然らざると、基督教徒たると異教徒たると、有神論者たると無神論者たると、カトリックたるとプロテスタントたるとの如き人間の目に映じ得る部分は神の前に何等の意味を為さない。最後の審判の日至らば神は凡てこれらの表皮を剥ぎ去り深く各人の心の中に隠れたる処を明かにし、これによりて各人を審き給うであろう。
要義2 [行為によって義とせらる]神は「行為に(したが)いて報い」(6節)善を行う者には「永遠の生命をもて報い」(7節)又「律法をおこなう者のみ義とされる」(13節)事をこれに示す事によリパウロは信仰のみによりて義とされるの原則と相反する事をここに述べているかの如くに見えるけれども然らず、律法を行わば永遠に生くべき事は神の定め給える法則であり(申5:33)宇宙の根本原則である。併し乍ら隠れたる処を見給う神の前に義とされる行為は外部の行為即ち律法の行為ではなく、愛によりて働く信仰より生れ出づる行為(ガラ5:6)でなければならない。律法の行為によりて義とせられ得ざる所以がここにある。パウロが2:1-16に論じ来れる点は信仰のみによりて義とされるの真理と矛盾するものにあらず、却てここに至らしむる大前提である。

2-(1)-(2)-(ハ) 肉のユダヤ人は真のユダヤ人にあらず 2:17 - 2:29

2章17節 (もし)(なんぢ)ユダヤ(びと)(とな)へられ、[引照]

口語訳もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、
塚本訳しかしもしあなたが自分はユダヤ人だと言い、律法を頼りにし、神との(特別の)関係を誇るならば、
前田訳しかし、もしあなたがユダヤ人を名のり、律法に頼り、神を誇り、
新共同ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、
NIVNow you, if you call yourself a Jew; if you rely on the law and brag about your relationship to God;
註解: その名の意味する如く()められる者たる事を誇り

律法(おきて)(やす)んじ、

註解: 律法を持てる事を以て救いの確証であるとして安心し、

(かみ)(ほこ)り、

註解: ユダヤ人のみが特に神を有っているものとして誇り、

2章18節 その御意(みこころ)()り、[引照]

口語訳御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、
塚本訳またあなたが律法によって教えられて(神の)御心を知り、何が大切であるかが分り、
前田訳律法から教えられてみ心を知り、何が大切かをわきまえ、
新共同その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。
NIVif you know his will and approve of what is superior because you are instructed by the law;
註解: 神は特にユダヤ人に御意を示し給うたと信じ

律法(おきて)(をし)へられて善惡(よしあし)(わきま)へ、

註解: 彼らは幼児より律法を学び、これによりて他の国民よりも善悪の差別を弁別する事を知ると思っていた。
辞解
[善悪] diapheronta 差別の意。

2章19節 また律法(おきて)のうちに知識(ちしき)眞理(まこと)との(かた)()てりとして、[引照]

口語訳
塚本訳- 20節 かつ律法の中に具体化した知識と真理とを持っているので、「盲人の手引」、「暗やみに迷う者の光り」、「無知な人の教育者」、「児童の教師」をもってみずから任じているならば、──
前田訳自ら任じて目しいの案内、闇の中のものの光、
新共同- 20節 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。
NIVif you are convinced that you are a guide for the blind, a light for those who are in the dark,
註解: 即ち律法を有つ事だけで知識と真理を有つ事と自任して、

盲人(めしひ)手引(てびき)暗黒(くらき)にをる(もの)光明(ひかり)

2章20節 (おろか)なる(もの)守役(もりやく)幼兒(をさなご)教師(けうし)なりと(みづか)(しん)ずる[(もの)よ](ならば)、[引照]

口語訳さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら、
塚本訳
前田訳無知なものの導き手、幼子の教師として、律法の中に形をとった知識と真理を持つとするならば、
新共同
NIVan instructor of the foolish, a teacher of infants, because you have in the law the embodiment of knowledge and truth--
註解: ユダヤ人は他の国民に対してかかる誇りを持っていた。
辞解
以上のごとくなるゆえ、原文は17節よりここまでを「もし汝ら……と信ずるならば」とあり。

2章21節 (なに)ゆゑ(ひと)(をし)へて(おのれ)(をし)へぬか、(ぬす)(なか)れと()べて(みづか)(ぬす)むか、[引照]

口語訳なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。
塚本訳それで、人を教えながら、あなたは自分を教えないのか。盗んではならないと説きながら、盗むのか。
前田訳人を教えて自らを教えないのですか。盗むなと説いて盗むのですか。
新共同それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。
NIVyou, then, who teach others, do you not teach yourself? You who preach against stealing, do you steal?

2章22節 姦淫(かんいん)する(なか)れと()ひて姦淫(かんいん)するか、偶像(ぐうざう)(あく)みて(みや)(もの)(うば)ふか、[引照]

口語訳姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。
塚本訳姦淫をしてはならないと言いながら、姦淫をするのか。偶像を忌みきらいながら、宮荒しをするのか。
前田訳姦淫するなといって姦淫するのですか。偶像を忌みきらって宮荒しをするのですか。
新共同「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。
NIVYou who say that people should not commit adultery, do you commit adultery? You who abhor idols, do you rob temples?

2章23節 律法(おきて)(ほこ)りて律法(おきて)(やぶ)(かみ)(かろ)んずるか。[引照]

口語訳律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。
塚本訳(要するに、)あなたは律法を誇りながら、律法を破って神を辱しめている。
前田訳あなたは律法を誇りながら、律法を破って神をはずかしめています。
新共同あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。
NIVYou who brag about the law, do you dishonor God by breaking the law?
註解: 17-20節に於けるユダヤ人の誇りにも関わらず、彼らの実際の生活は全くその反対なる事を指摘してパウロはここに激しき義憤の念を爆発せしめている。即ち彼らは全く十戒の違反者であり、神を汚す者である事を絶叫し、偽善、窃盗、姦淫、聖物盗取、涜神等の罪を以て彼らを責めている。当時のユダヤ人の実生活が如何に堕落していたかを知ると共に、パウロは彼らを単にその外見を以て判断せず、深く彼らの心に入り、マタ5:22マタ5:28の如き標準を以て彼らを見たのである、従ってこの非難は決して言い過ぎではない。
辞解
[偶像を悪み] の「悪み」は甚しく忌み嫌う事。
[宮の物を奪う] 「宮」を偶像の宮と解する場合は使19:37やヨセフス古事記四の八の十にある如き聖物盗取を意味しユダヤ人は偶像をば忌み嫌いつつその宮の物を利用し又はこれを売買して利を得る事を指し、又「宮」をエルサレムの宮とすれば或は納金を誤魔化し犠牲の不完全なるものをささぐる等の事を意味し(G2、M0、Z0)又は「神の稜威を汚す事」(B1、C1)を意味すと解す。最後の解を採る。即ちユダヤ人は神に帰すべき栄を彼に帰せず、自已に奪取る事によりて聖物盗取を行い、神を偶像扱いにしている事となる。

2章24節 (しる)して『(かみ)()(なんぢ)らの(ゆゑ)によりて異邦人(いはうじん)(なか)(けが)さる』とあるが(ごと)し。[引照]

口語訳聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。
塚本訳“神の御名はあなた達のために異教人の中で冒涜される”と書いてあるとおりである。
前田訳「神のみ名はあなた方によって異邦人の間でけがされる」と聖書にあるとおりです。
新共同「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。
NIVAs it is written: "God's name is blasphemed among the Gentiles because of you."
註解: イザ52:5、七十人訳、神の名を掲ぐべき彼らが却てこれを涜すとは由々しき大事である。

2章25節 なんぢ律法(おきて)(まも)らば割禮(かつれい)(えき)あり、律法(おきて)(やぶ)らば(なんぢ)割禮(かつれい)()割禮(かつれい)となるなり。[引照]

口語訳もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。
塚本訳なぜか。律法をまもれば、割礼も役に立つが、律法を犯せば、あなたの割礼は割礼がないと同じである。
前田訳律法を守れば割礼は役立ちますが、律法を破ればあなたの割礼は無割礼になります。
新共同あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。
NIVCircumcision has value if you observe the law, but if you break the law, you have become as though you had not been circumcised.
註解: ユダヤ人は割礼さえ受けていれば審かれる事なく、割礼そのものが彼らの特権の保護であると信じていた。然るにパウロは律法を遵守して始めて割礼は益あり、レビ18:5申27:26ガラ5:3。律法破壊者となるならば割礼は無効なる事を論じている。ユダヤ人の迷える誇に対する覚醒の巨弾である。
辞解
[無割礼] ユダヤ人が卑しめていたユダヤ人以外の人々を指す。

2章26節 割禮(かつれい)なき(もの)律法(おきて)()(まも)らば、その()割禮(かつれい)割禮(かつれい)とせらるるにあらずや。[引照]

口語訳だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。
塚本訳反対に、割礼のない者が律法の要求することを守れば、割礼はなくても、割礼があると同様にみなされるではないか。
前田訳無割礼のものが律法の条項を守れば、無割礼は割礼と認められませんか。
新共同だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。
NIVIf those who are not circumcised keep the law's requirements, will they not be regarded as though they were circumcised?
註解: 前節の正反対の方面を示す。故にこの二節より結論すれば、律法の遵守が重要であって割礼は有るも無きも全く同一である事となり、ユダヤ人の誇は全く粉砕された。
辞解
[せらるるにあらずや] 未来形で最後の審判の時を指す。
[義] dikaiôma は個々の「義しき事柄」の事。

2章27節 本性(うまれつき)のまま割禮(かつれい)なくして律法(おきて)(まった)うする(もの)は、[引照]

口語訳かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。
塚本訳従って、肉に割礼のない者が律法を全うすれば、彼の方があなたを──(律法の)文字に通じ、割礼を受けていながら律法を犯すあなたを──裁くであろう。
前田訳したがって、肉において無割礼のものが律法を全うすれば、彼のほうがあなたを裁くでしょう、あなたは律法の文字と割礼がありながら律法を破っていますから。
新共同そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。
NIVThe one who is not circumcised physically and yet obeys the law will condemn you who, even though you have the written code and circumcision, are a lawbreaker.
註解: 14節の場合の如く(M0)解すべきで、基督者となりたる者を指すと見る説(G1)は不可。

儀文(ぎぶん)割禮(かつれい)とありてなほ律法(おきて)をやぶる(なんぢ)(さば)かん。

註解: 儀文即ち律法の文字を与えられこれによりて神の御旨を教育せられ、割礼なる外的標示を以てその特権を保護せられている汝であり乍ら、律法を破る場合には律法を全うする異邦人が却て神に嘉納せられ世の終に於て(B1、G1、I0)汝を審き、非議するの立場に立つであろう。かかる事はユダヤ人の思いもよらざる事で、その誇を傷つける事大であったろう。尚マタ3:9マタ8:11マタ12:41マタ12:43ルカ10:33等のイエスの教と対照せよ。

2章28節 それ表面(うはべ)のユダヤ(びと)はユダヤ(びと)たるにあらず、(にく)()表面(うはべ)割禮(かつれい)割禮(かつれい)たるにあらず。[引照]

口語訳というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。
塚本訳なぜなら、みかけだけのユダヤ人はユダヤ人ではなく、みかけだけの肉的な割礼は割礼ではない。
前田訳それは、うわべのユダヤ人はユダヤ人でなく、肉によるうわべの割礼も割礼ではないからです。
新共同外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。
NIVA man is not a Jew if he is only one outwardly, nor is circumcision merely outward and physical.

2章29節 (ひそか)なるユダヤ(びと)はユダヤ(びと)なり、儀文(ぎぶん)によらず、(れい)による(こころ)割禮(かつれい)割禮(かつれい)なり、その(ほまれ)(ひと)よりにあらず、(かみ)より(きた)るなり。[引照]

口語訳かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。
塚本訳隠れた(心の中の)ユダヤ人こそ(まことのユダヤ人、)また(律法の)文字によらない、霊的な心の割礼こそ(まことの割礼であり、こんなユダヤ人が、)人間からでなく、神からの栄誉をうけるのである。
前田訳隠れたところにあるユダヤ人こそ、また、文字によらず霊による心の割礼こそ、人からでなく神からの誉れを受けるのです。
新共同内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。
NIVNo, a man is a Jew if he is one inwardly; and circumcision is circumcision of the heart, by the Spirit, not by the written code. Such a man's praise is not from men, but from God.
註解: 神は人の外面を見ずその心を見給う(Tサム16:7)。神の目に真のユダヤ人は心に律法を持ちてこれを行い心に割礼を受けてその汚を去りたる者である。かく云いてパウロはユダヤ人と異邦人との外面的区枠を完全に撤廃してしまった。ユダヤ人としては非常なる英断である。而してかかる真のユダヤ人こそ神よりの誉に与るものである。血統によるユダヤ人の誇は人よりの誉に過ぎない。▲パウロがユダヤ人に迫害されたのは、此の恩恵が大きい原因であった。此の点は特に注意しなければならない事実である。
辞解
[表面の] 「あらわなる」との意。
[(ひそか)なる] 心の中に於ける状態。
[儀文] 「文字」で律法に命ぜられて行う割礼。
要義1 [ユダヤ人の誇と基督者の誇] 17-29節に於てパウロはユダヤ人がその血統、律法、神意識、割礼等に有する誇りの全く無意味なる事、而して神は唯その心の中を見、律法を行うや否やのみを以て審き給い、異邦人とユダヤ人とが全く同一の立場に置かるる事を強調している。今日の基督者につきてもパウロは同一の事を言うであろう。即ち基督者の教会所属、その信仰告白、その聖書、その洗礼、晩餐等の表面の事は最後の審判に於て何等の力もなく、彼らは他の未信者、異教徒と同一の立場に立たしめられ、その心の中の状態如何によりて審かるるであろう。神は実に公平に在し給う、而してキリスト御在世中にも既にこの態度を示し給うた事に注意しなければならぬ(27節註参照)。
要義2 [パウロの非宗派的態度] 宗教家は自己の宗派に属する者のみを義とし、一人にても多く自己の宗派に引入れんとするのが普通一般である。然るにパウロに於てはイエスと同じくかかる宗派根性、宗教家根性は絶無であった。義か不義か、愛か憎か唯人々の心の中の隠れたる処に於てのみ神は審き給う事を信じ、この隠れたる処が神の御心に叶う事がその根本の問題であった。故にイヱスと同じくパウロに於ても、その所属宗派、儀式礼典等を救の要件なるが如くに数うる事を為さなかった。この精神はパウロの書簡の全体を貫いて居り、その後の基督教会の態度とは著しく異っている点である。

ロマ書第3章
2-(1)-(2)-(ニ) ユダヤ人の優越は神の審判を不義とせず 3:1 - 3:8

3章1節 さらば[引照]

口語訳では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。
塚本訳それでは、ユダヤ人の特権はどうなるのか、また何が割礼の利益でるか。あらゆる点において多くの特権がある。まず第一には、神の言葉が彼らにまかせられた。
前田訳それなら、ユダヤ人の長所は何ですか。割礼の取柄は何ですか。
新共同では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。
NIVWhat advantage, then, is there in being a Jew, or what value is there in circumcision?
註解: 以上の如く、ユダヤ人と異邦人との間に何等の差異がないならば、

ユダヤ(びと)(なに)(すぐ)るる(ところ)ありや、また割禮(かつれい)(なに)(えき)ありや。

註解: これはユダヤ人の側より当然に起こり来るべき第一の疑問であった。パウロはこれに対して自己の答弁を与えている。

3章2節 (すべ)ての(こと)に[(えき)]おほし、()第一(だいいち)(かれ)らは(かみ)(ことば)(ゆだ)ねられたり。[引照]

口語訳それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。
塚本訳すると、どうなるのだろうか。もしある人たちが(神の言葉に)不忠実であったら、その不忠実が神の忠実を無にするのではなかろうか。
前田訳あらゆる点に多々あります。まず彼らは神のことばをゆだねられました。
新共同それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。
NIVMuch in every way! First of all, they have been entrusted with the very words of God.
註解: 直訳「色々沢山あり」で「優るる所」と「益」と双方に関係す。「先ず第一に」は「就中(なかんずく)最も主要なるものは」の意味と見るよりも(G1)後に第二以下を述べんとして果さざる中に結論に急いだものと見るべきである(M0)。尚その他の優越点についてはロマ9:4以下參照。神の言 ta logia はすなわち旧約聖書殊にそのメシヤの預言に関する部分であって、この言を委ねられた事はユダヤ人の大なる特権であった。若し彼らがこれを信じたならば、その預言の如く万国の民はユダヤ人を通して祝福を受くるに至ったであろう。然るに彼らは不信の結果、メシヤを拒んだが為に彼らはこの優越せる特権を無駄にした。

3章3節 されど如何(いか)ん、ここに(しん)ぜざる(もの)ありとも、その()(しん)(かみ)眞實(まこと)()つべきか。[引照]

口語訳すると、どうなるのか。もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、神の真実は無になるであろうか。
塚本訳もちろん、そうではない。”人間を皆嘘つき”にしても、神を真実とせねばならない。(聖書に)
前田訳それはどういうことでしょう。あるものが不信であったとしても、その不信は神のまことを無にしますか。
新共同それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
NIVWhat if some did not have faith? Will their lack of faith nullify God's faithfulness?
註解: 第二に問題となる事は、ユダヤ人の或者(大多数)は不信仰によりイエスのキリストなる事を拒んだが、この不信仰は神の真実を無効ならしめ、神の約束は解除せられユダヤ人の特権は失われてしまうのでは無いだろうか、と云う事である。
辞解
[()つ] katargeô 結果を生じない様にする事即ち亡ぼす事、廃止する事、解除する事等に用う。
[べきか] ()てるであろうかとの意、未来形。

3章4節 (けっ)して(しか)らず、(ひと)をみな虚僞(いつはり)(もの)とすとも(かみ)誠實(まこと)とすべし。[引照]

口語訳断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。
塚本訳“これは、御言葉によってあなた[神]が正しいとされ、あなたがさばかれる時、勝利を得られるためである。”と書いてあるとおりである。
前田訳断じて否です。人はすべて偽りでも神は真実とすべきです。これは、聖書にあるとおりです、「みことばによってあなたが正しいとされ、み裁きによって勝ちたもうため」と。
新共同決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。
NIVNot at all! Let God be true, and every man a liar. As it is written: "So that you may be proved right when you speak and prevail when you judge."
註解: 詩116:11 に云う如く人はたとい人皆が虚偽者であっても神は絶対に真実に在し給う。原文は命令形で「神をして誠実ならしめよ、されど几ての人をして虚言者ならしめよ」とあり強き言い表し方である。

(しる)して『なんぢは()(ことば)にて()とせられ、(さば)かるるとき(かち)得給(えたま)はん(ため)なり』とあるが(ごと)し。

註解: 詩51:4の七十人訳による引用、罪に悩めるダビデが神の絶対の正義をたたえし語。神の言は絶対に義しく、神は如何なる反対にも打勝ち給う絶対の正義である。ユダヤ人の不信はこの神の義と勝利とが顕われん為であった。
辞解
[その言によりて] ヘブル語法で「語り給う時」の意
[審かるるとき] krinesthai は彼と言い争う事ある時との意(B1,M0,G1)と解するを可とす。

3章5節 ()れど()(われ)らの不義(ふぎ)(かみ)()(あらは)すとせば(なに)()はんか、(いかり)(くは)へたまふ(かみ)不義(ふぎ)なるか[引照]

口語訳しかし、もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。怒りを下す神は、不義であると言うのか(これは人間的な言い方ではある)。
塚本訳しかしもしわたし達の不道徳が神の義を明らかにするならば、どういうことになるのだろうか、お怒りになる神の方が──これは人間的に言うのだが──間違っているのではなかろうか。
前田訳もしわれらの不義が神の義を明らかにするならば、何というべきでしょう。これは人間的にいうのですが、怒りをおくだしの神は不義ですか。
新共同しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。
NIVBut if our unrighteousness brings out God's righteousness more clearly, what shall we say? That God is unjust in bringing his wrath on us? (I am using a human argument.)
註解: 前節の引用句に於てユダヤ人の罪は却て神の義の顕われん為なりとの真理を論述せるパウロは、これに対してユダヤ人の中の理屈好きの人々より提出さるべき第三疑問を想像して、ここに自問自答の形式を以てこれを論述している。即ち若しユダヤ人(は勿論凡ての人も)の不義が却て神の義の顕われる機会となったと云うならば、これらの人々は却て神より褒めらるべきで罰せられる筋合が無いではないか、若し神がこれに怒を加え給うならば神が却て不義な神となるではないかと云うのである。
辞解
[(あらわ)す] sunistanai は種々の意味があるがここでは並列、比較によりて明かにすること。

(こは(ひと)の[()ふ]ごとく()ふなり)

註解: 前文はパウロ自身の疑問ではなく、一般の人の言いそうな事を言ったに過ぎないので、パウロはかく断って置いたのである。

3章6節 (けっ)して(しか)らず、()(しか)あらば(かみ)如何(いか)にして()(さば)(たま)ふべき。[引照]

口語訳断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。
塚本訳もちろん、そうではない。もしそうだとすれば、どうして神はこの世をお裁きになることができよう。
前田訳断じて否です。もしそうならどうして神はこの世をお裁きになれましょう。
新共同決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。
NIVCertainly not! If that were so, how could God judge the world?
註解: 神が不義であると云う如き事は、敬虔なる心を以てはこれを口にする事すら恐ろしい事であった。かかる事は決して有り得ないからである、神の栄光は人類の罪によりていよいよあらわれる。この事は歴史上に於て常に起った事であった。併し乍らそれだからとて罪が罪でなくなった訳ではない。従ってその上に審判が下る事は当然である。故に如何なる場合に於ても世界万民の上に、最後の審判を行い給う処の神、この場合も彼らの上に怒りを加え給うべきである。

3章7節 わが虚僞(いつはり)によりて(かみ)誠實(まこと)いよいよ(あらは)れ、その榮光(えいくわう)とならんには、いかで(われ)なほ罪人(つみびと)として(さば)かるる(こと)あらん。[引照]

口語訳しかし、もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれるのだろうか。
塚本訳しかしもしわたしの(説いた福音が嘘であっても、その)嘘によって神の真実がいよいよ明らかになり、その栄光があらわれるとすれば、なぜそのわたしが、罪人としてなおも罰されねばならないのか。
前田訳けれども、もしわたしの偽りによって神の真実が増して彼の栄光になるならば、なぜそのわたしがなおも罪びととして裁かれねばなりませんか。
新共同またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。
NIVSomeone might argue, "If my falsehood enhances God's truthfulness and so increases his glory, why am I still condemned as a sinner?"

3章8節 また『(ぜん)(きた)らせん(ため)(あく)をなすは()からずや』((ある)(もの)われらを(そし)りて(これ)(われ)らの(ことば)なりといふ)(かか)(ひと)(つみ)(さだ)めらるるは(ただ)し。[引照]

口語訳むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。彼らが罰せられるのは当然である。
塚本訳そして──これをわたし達の言葉だと考えて中傷する者があるそうだが──「善いことを出かすために悪いことをしようではないか」ということにならないだろうか。この連中が罰されるのは当然である。
前田訳これは、ある人々がわれらのいうこととして中傷するのですが、「善を来させるために悪をしましょう」とならないですか。このような人が罰せられるのは当然です。
新共同それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。
NIVWhy not say--as we are being slanderously reported as saying and as some claim that we say--"Let us do evil that good may result"? Their condemnation is deserved.
註解: 第五節には神の審判の正常なりや否やに対する疑問を述べ、ここでは第四に同一の前提の下に、我ら虚偽を行う者は果して罪人なりや否やの疑問につき論じ、更に進んで第五に悪を為す事が却て善事であると主張する者に対し審判を下している。即ち神の経綸と自己の罪の恐ろしさとを認識せざる者は、自己の罪により神の栄光いよいよ増し加われりと聞きて、これを以て自己の罪人にあらざる理由と為さんとし、叉自己の悪行を擁護する理由とせんとしている者があった。且つパウロ等がかく教えていると讒謗(ざんぼう)する者もあった。この思想の誤っているは勿諭云わずもがなの事であり、且つかかる思想を持ち又これを実行する者が、神の審判を受ける事は正当の事である。
辞解
[いよいよ(あらわ)れ] 「いよいよ豊かになり」との事。
[我が] パウロはこの一般的真理を自己を以て代表せしめている。パウロはかかる場合主格には非常に無頓着であった(ガラ4:5-7)。
[(かか)る人] 7、8節の如くに主張し実行する人。
[罪に定めらる] krima は審判かるる事。
要義1 [神の経綸による罪の利用と罪の審判] 神はその知恵とその経綸とによりて人類の罪を利用してこれを神の栄光に変化し給う。アダムの堕落はキリストの救を来らしむる原因となり、ユダヤ人の叛逆がキリストの十字架の贖の御業となり、ユダヤ人の不信が異邦人の救の原因となった。併し乍らこれは罪を罪ならざるものとしたのではなく、罪を神が自由にその栄光の為に用い給うたのである。従って罪は同じく罪であってその審判かるべき事は少しも変わりはない、この事は神の智慧の如何と、自己の罪の如何とを知っている者に取っては極めて明らかな事実である。
要義2 [ユダヤ人の地位] 1-8節の教うる処によればユダヤ人は神の言を委ねられし特種の地位に置かれ、又彼らに対する神の約束は決して変わる事無きにも関らず、尚彼らは罪人として審かれなければならず、叉この神の審きは正当である事を知るのである。これ凡て彼らの罪の結果であって、ユダヤ人は自らその罪によりてその特権を放棄している事となるのである。

2-(1)-(3) 全人類の罪 3:9 - 3:20

3章9節 さらば如何(いか)ん、(われ)らの(まさ)(ところ)ありや、()ることなし。[引照]

口語訳すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。
塚本訳それでは、どうなるのだろうか。(ユダヤ人である)わたし達には、(異教人より)優れたところがあるのか。全然ない。わたし達が前から強く主張してきたように、ユダヤ人も異教人もことごとく、罪の(支配の)下にいるからである。
前田訳それならどうでしょう。われらに特権がありますか。全くありません。われらが前から主張してきましたように、ユダヤ人もギリシア人も皆罪のもとにいます。
新共同では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
NIVWhat shall we conclude then? Are we any better ? Not at all! We have already made the charge that Jews and Gentiles alike are all under sin.
註解: 私訳「さらば如何ん、我ら劣れりや、全く然らず」多くの点に於いて優っているユダヤ人(1、2節)さえも不信(3節)不義(5節)虚偽(7節)等の非難を受けなければならないとするならば、今度はユダヤ人は異邦人よりも劣っている事となるのであるか。全く然らず。
辞解
[勝る所ありや] proechometha は解釈上の難関で(1)勝れりや(A1,B1,Z0、改訳)、(2)劣れりや(L3、E0、I0)等と訳す以外に、(3)「保護する為に何物かを前に置くこと」の意味に取る説もある(G1、M0、W1)。(1)は1、2節と矛盾し、(3)は思想があまりに突然の変化をなし且つ文法上目的を欠く故に不適当であり、従て(2)の我らをユダヤ人と見る解釈を取り異邦人に劣るやとの意味と解す。

(われ)(すで)にユダヤ(びと)もギリシヤ(びと)もみな(つみ)(した)()りと()げたり。

註解: ユダヤ人に就てはロマ2:1-3:8、ギリシャ人即ち異邦人に就てはロマ1:18-31 に既にこの事を弁論した。これによるも全人類が神の審判を免れられないことは明かである。
辞解
[罪の下に在り] 単に罪深き状態を示すに止まらず罪に支配せられこれに服従している有様を表わす。
[既に告げたり] proaitiaomai の告げるは法廷に於て論告する如き楊合に用うる語。

3章10節 (しる)して[引照]

口語訳次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。
塚本訳(聖書に)こう書いてある。──“正しい人がいない、一人もいない、
前田訳聖書にあるとおり、
新共同次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
NIVAs it is written: "There is no one righteous, not even one;
註解: 10-18節にパウロは詩篇及びイザヤ書の処々を引用し、人類はその心に於て(11-12節)、その言葉に於て(13-14節)、その行動に於て(15-17節)、又その信仰に於て(18節)如何に罪深きかを示している。これ等の引用は凡て七十人訳よりの引用であるけれども尚その用語を適宜に取捨変更している。引照により參照せよ。

義人(ぎじん)なし、一人(ひとり)だになし、

註解: (この部分は18節迄の総諭を形成する)。キリストを除いて神の前に完全に義しきものは一人も無い。若し一人でもあったならば、キリストの十字架の意義は失われ、基督教はその存在の理由を失う。

註解: 11、12節は人の心につき論じている、即ち

3章11節 (さと)(もの)なく、[引照]

口語訳悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
塚本訳物のわかる人がいない、神をさがし求める人がいない。
前田訳良識の人はない。神を求める人はない。
新共同悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。
NIVthere is no one who understands, no one who seeks God.
註解: 人性につき神につき深き理解を持っている者はない。

(かみ)(もと)むる(もの)なし。

註解: 神を求むる如くに見ゆる者も実は己の安心や利益を求めているのである。

3章12節 みな(まよ)ひて[引照]

口語訳すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。
塚本訳だれもかれも迷って、みんな堕落してしまった。善をする人がいない、ただの一人もいない。”
前田訳皆が迷い、皆ともに身をもちくずした。善をする人はない。ただひとりもない。
新共同皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
NIVAll have turned away, they have together become worthless; there is no one who does good, not even one."
註解: 正道より迷い出づる事即ち道徳的堕落、

(あひ)(とも)(むな)しくなれり、

註解: 誰も彼も皆無益の存在となってしまった。

(ぜん)をなす(もの)なし、一人(ひとり)だになし。

註解: 人間の心の奥底に潜む利己的心情を見るならばその処から一の善行すら生れ出でない事を知るであろう。
辞解
[善] chrêstotêsは親切なる行為。

註解: 13、14節に於て言語を発する凡ての機関を以て言語に関する罪を示す。

3章13節 (かれ)らの(のど)(ひら)きたる(はか)なり、[引照]

口語訳彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、
塚本訳“彼らの咽は口のあいた墓のよう、その舌であざむき、”“蝮の毒が唇の下にある。”
前田訳彼らの喉は開いた墓のよう、その舌であざむき、唇の下にはまむしの毒がある。
新共同彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。
NIV"Their throats are open graves; their tongues practice deceit." "The poison of vipers is on their lips."
註解: その処より発散する腐敗と汚穢(けがれ)の臭気に何人も耐える事が出来ない。

(した)には詭計(たばかり)あり、

註解: 他人を欺かんが為、

口唇(くちびる)のうちには(まむし)(どく)あり、

註解: 他人を害せんが為。

3章14節 その(くち)(のろひ)(にがき)とにて滿()つ。[引照]

口語訳彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。
塚本訳“口には呪いと苦い言葉とがいっぱいである。”
前田訳口にはにがい呪いが満ちている。
新共同口は、呪いと苦味で満ち、
NIV"Their mouths are full of cursing and bitterness."
註解: 他人に対する凡ての悪意と怨恨の表れである。

註解: 15-17節は人の歩み即ち行為に関する罪で、足を以てこれを表す。

3章15節 その(あし)()(なが)すに(はや)し、[引照]

口語訳彼らの足は、血を流すのに速く、
塚本訳“その足には血を流すにすばしこく、
前田訳足は血を流すに速く、
新共同足は血を流すのに速く、
NIV"Their feet are swift to shed blood;
註解: 殺戮と戦争とはこの罪の発露である。

3章16節 破壞(やぶれ)艱難(なやみ)とその(みち)にあり、[引照]

口語訳彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
塚本訳その行く所には破壊と悲惨とがある、
前田訳その道には破壊と悲惨がある。
新共同その道には破壊と悲惨がある。
NIVruin and misery mark their ways,
註解: 彼らの歩む処皆荒廃に帰し、残るものは唯災禍のみである人類の社会的国家的闘争の跡を見よ。

3章17節 (かれ)らは平和(へいわ)(みち)()らず。[引照]

口語訳そして、彼らは平和の道を知らない。
塚本訳彼らは平和の道を知らない。”
前田訳平和の道を彼らは知らず、
新共同彼らは平和の道を知らない。
NIVand the way of peace they do not know."
註解: 人は皆争闘を好む、人はキリストに在りてのみ真に平和を愛好する者となる。

3章18節 その眼前(めのまへ)(かみ)をおそるる(おそれ)なし』とあるが(ごと)し。[引照]

口語訳彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。
塚本訳“その目の前には神をおそれる恐れがない。”
前田訳その目の前には神へのおそれがない」。
新共同彼らの目には神への畏れがない。」
NIV"There is no fear of God before their eyes."
註解: 以上の凡ての悪の根本は神を畏れざる事より来る。個人的罪悪も社会的罪悪も皆各人が神を無視するより起こるのであって、ここに至って義人一人も無しとの断言の真実なる事を知ることが出来る。「畏敬の念は人の眼に(あらわ)れる」(B1)

3章19節 それ律法(おきて)()ふところは((すべ)(みな))律法(おきて)(した)にある(もの)(かた)ると(われ)らは()る。[引照]

口語訳さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。
塚本訳ところでわたし達が知っているように、(右の)律法[聖書]が言うことはみな、律法に生きる者(すなわちユダヤ人)に対して語られるものである。(しかし)こうして(ユダヤ人だけでなく)すべての(人の)口がふさがり、世界中の人が、神に対して罪なしと言うことはできないのである。
前田訳さて、われらの知るように、すべて律法のいうことは律法の下にあるものに語られています。それはすべての口がふさがって全世界が神に対して罪びととなるためです。
新共同さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
NIVNow we know that whatever the law says, it says to those who are under the law, so that every mouth may be silenced and the whole world held accountable to God.
註解: 10節以下に引用せらる諸節の中の多くは本来異邦人に関する節であるけれども、実は律法(即ち旧約聖書)の中の言は「律法の中に居る者」即ちユダヤ人に対して語られているのであって、凡ての言が彼らに適用せられ、彼らはこれを免れんとして免れる事が出来ない。故に前掲の諸節は皆ユダヤ人にも当てはまるのである。
辞解
[律法] 旧約聖書の最初の最も重要なるモーセの五書を律法(トーラー)と称していた。ゆえに往々全聖書を律法と呼ぶ事がある。
[律法の下に] 原語「律法の中に」

これは(すべ)ての(くち)ふさがり、(かみ)審判(さばき)全世界(ぜんせかい)(ふく)せん(ため)なり。

註解: 前掲旧約聖句の言を適用されるならば、異邦人は勿論の事ユダヤ人も同様、即ち全人類はこれに対して一言の反対をも言う(あた)わずして畏怖の念を以て沈黙し、全世界の人々は神の判決に服せざるを得ないであろう。聖書はこれが為に与えられのである。
辞解
[審判に服す] hupodikos 即ち判決を受けた人となる事で罰さるべきものとの決定を受けてしまう事である、最後の審判の意味ではない。
本節に「凡て皆」「凡ての口」「全世界」等、包括的文字を多く用いている事に注意せよ。

3章20節 (この(ゆえ)に)律法(おきて)行爲(おこなひ)によりては、一人(ひとり)だに(かみ)のまへに()とせられず、(そは)律法(おきて)によりて(つみ)()らる[る](れば)なり。[引照]

口語訳なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
塚本訳というのは、律法が命ずる行いによっては“だれ一人神の前に義とされる者はない。”律法によって(は)罪を知る(ことができるだけで、人を罪から救うことはできない)からである。
前田訳律法の行ないによってはだれひとり神の前に義とされません。律法によっては罪を知るばかりです。
新共同なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
NIVTherefore no one will be declared righteous in his sight by observing the law; rather, through the law we become conscious of sin.
註解: 前述の如く全人類が罪の下に在るが故に、ユダヤ人が如何にその律法の命令に従って忠実にこれを実行しても、神は人の心の中の罪を見給うが故にこれによりて神の前に義人と認められる者は一人として無い。(いわ)んや異邦人をや(これにより ロマ2:6-13 の原則は事実によりてその不可能が証拠立てられた)。蓋し律法によりて唯人の心の罪が示されるのみでこれに打勝つ力は律法から生れて来ないからである。
辞解
[律法の行為] erga nomou パウロがロマ書及びガラテヤ書に屡々(しばしば)用いている重要なる用語で、信仰と対立せしめられていて、律法を自已の努力を以て行う事を指す。即ち神の霊によらず自己の肉の力を以て律法を成就せんとする努力を云う。
[一人だに] pasa sarka、 all flesh は直訳「凡ての肉」で全人類一人残らずの意であると同時に「肉」なる語によりて神に対する罪深き自然人の状態をも意味している。
要義 [人類の罪] 全人類一人の例外なしに罪人であると云うパウロの所論は、一つはアダムの堕落に対して神の詛が与えられし事を明示する旧約聖書の教理であると同時に、又パウロの深き信仰的体験であった。人間は自己の努力により神の前に罪なきものとなり得るや否や、換言すれば人間の中一人たりとも自ら神の前に義人たり得るや否やは基督教の存否の運命が懸っている重要なる点である。もし自己の努カにより、律法の行為によりて神の前に義とせられ得る事が実証せられるならば、キリストの十字架の贖の意義がこれによりて全く消滅してしまうであろう。然るに律法の行為によりて全人類例外なしに神の前に義とせられ得ないとするならば、キリストの十字架は絶対に必要なる唯一の救の途である事となる。故にパウロのこの断定は極めて重要なる断定である。

分類
3 救拯論 3:21 - 11:36
3-(1) 個人の救い 3:21 - 8:39
3-(1)-(1) 義とせらるる事 3:21 - 5:21
3-(1)-(1)-(イ) 神の義は顕れたり 3:21 - 3:26

3章21節 (しか)るに(いま)律法(おきて)(ほか)(かみ)()(あらは)れたり、[引照]

口語訳しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
塚本訳しかしながら今、律法に関係なく、神の義は現わされた。しかし律法と預言書と[聖書]によって(すでに)証しされているものである。
前田訳しかし今や律法に関係なく神の義が示されました。今や、といっても、それは律法と預言書によって証されているものです。
新共同ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
NIVBut now a righteousness from God, apart from law, has been made known, to which the Law and the Prophets testify.
註解: 九地の底に投げ入れられし人類はここに九天の上に挙げらるる道が開かれた。即ち律法とは全く無関係に律法を行う事によりて到達せんとする人間の義とは全く異れる神の義がキリストとその十字架によりて天より顕示されたのである。この神の義の何たるかは本節後半より31節に於て詳述されている処により明かである。
辞解
[今や] 時を示すよりも状態の更新を示す、「茲に」と訳してやや原意に近い(M0、G2、Z0)。
[神の義] 神の愛は義の形を以て顕れる。
[顕れたり] pephanerôtai でロマ1:17の「顕れ」apokaluptetai と文字を異にしているけれども意味に大差ない。前者は不明なものが明かにされる事、後者は隠れているものが露現される事である。本節に完了形の動詞を用いたのはイエス・キリストなる歴史的に完了せる事実と、その永遠の効果を指すが為である。

これ律法(おきて)預言者(よげんしゃ)とに()りて(あかし)せられ、

註解: この神の義は第一に旧約聖書に証明せられている事で、旧約の祭事、その宗教制度、その預言等は皆神の義のあらわれであるキリスト及び新約の時代を指示している。(ヨハ5:39ヨハ5:45ルカ24:27及びその引照。ヘブ8:13-13)故に福音はキリスト及びその弟子たちの新しい発明ではない。
辞解
[律法と預言者] 旧約聖書の事、前に「律法の外に」と云いしは我らを義とすべき行為の基準としての律法を云い、ここに「律法と預言者とにより」と云う場合は神の約束としての律法を云っている、前後矛盾するが如くにして然らず。イザ33:24イザ53:5以下。エレ32:31-44。エゼ34:16等はこの証明と見る事を得。

3章22節 イエス・キリストを(しん)ずるに()りて(すべ)(しん)ずる(もの)に[(あた)へたまふ](かみ)()なり。[引照]

口語訳それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
塚本訳この神の義は、イエス・キリストを信ずる信仰(だけ)によって、これを信ずるすべての者にあたえられる。(すべてというのは、そこに人間的の)なんの差別もないからである。
前田訳すなわち、イエス・キリストのまことによる神の義で、信ずるものすべてのためのものです。そこに差別はありません。
新共同すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
NIVThis righteousness from God comes through faith in Jesus Christ to all who believe. There is no difference,
註解: 第二に神の義が如何にして与えられるかに就きては「イエス・キリストに対する信仰による」事を示している。神の前には人間の努力による律法の行偽は空しいものであり唯神の遣し給えるイエス・キリストを信ずる心のみを神は(よみ)し給いて彼を義なる者と認め給い、神の義を彼の上に被らせ給う。而してその与えられる範囲はユダヤ人とか異邦人とかの範囲に限られる事なく「信ずる凡てのものに及ぶ」のである。
辞解
異本に「信ずる凡ての者の中に又凡ての者の上に」とあり神の義が万人に及び万人を(おお)う有様を示すものとして適当なる文句である。

[(これ)には](なに)()差別(わかち)あるなし。

註解: 私訳「そは差別なければなり」、信仰によりて神の義が与えらるる事に於いては人種的、階級的、宗派的、道徳的その他の区別は全くなく万人に共通である。ユダヤ人にさえ何等の優越権はない。

3章23節 (そは)(すべ)ての(ひと)(つみ)(をか)したれば(かみ)榮光(えいくわう)()くるに()らず、[引照]

口語訳すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
塚本訳なぜか。すべての人が罪を犯したため、いまだれ一人、(かつて持っていた)神の栄光をもたない。
前田訳すべての人は罪を犯したため、神の栄光を欠いています、
新共同人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
NIVfor all have sinned and fall short of the glory of God,
註解: 全人類無差別に信仰によるに非ざれば神の義を受け得ざる理由は、万人皆アダムに在るその罪の故に各々罪を犯しているので、神の栄光に相応しからざるものとなっているからである。
辞解
[罪を犯したれば] 不定過去形を用い、過去の事実として取扱い
[受くるに足らず] 「欠く」の意で現在動詞を用い現実の有様を示す。
[神の栄光] 種種の解あれど、神御自身の栄光にして又同時に彼を信ずる者に賜う処の栄光と解すべきである。

3章24節 (こう)なくして(かみ)恩惠(めぐみ)により、キリスト・イエスにある贖罪(あがなひ)によりて()とせらる[る](れば)なり。[引照]

口語訳彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
塚本訳(さりとて失った栄光を回復する力はないので、何一つ)代価を払わず、(ただ)神の恩恵によって、キリスト・イエスによるあがないの力で、(神に)義とされる(道が設けられた)のである。
前田訳しかし、代償なしに、神の恩恵によって、キリスト・イエスのあがないのおかげで、義とされるのです。
新共同ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
NIVand are justified freely by his grace through the redemption that came by Christ Jesus.
註解: 神の栄光を受くるに足らざる彼らは救われん為には唯神によりて義と認められるより外に途がない。而して義とされる方法はキリスト・イエスにある贖であって、(あたか)も代償を払って奴隷を自由人とする如くキリストはその宝血を贖代金として与えて人類を罪より贖い取り給うた。我ら自身に於ては全く救わるべき権利や価値なきにも関わらず、「功なくして」「値なしに」全く「神の恩恵」のみにより義とされる事が出来るに至ったのである。
辞解
[贖罪] apolutrosis値を払って奴隷を買取る事より来れる文字(マタ20:28Tテモ2:6Tペテ1:18等)
[功なくして] dôrean は「賜物として」「只で」「値なしに」等の意。
[義とせらるる] 神が「それでよろし」として満足すること。

3章25節 (すなは)(かみ)忍耐(にんたい)をもて過來(すぎこ)しかたの(つみ)見遁(みのが)(たま)ひしが、(おのれ)()(あらは)さんとて、キリストを()て、その()によりて信仰(しんかう)によれる(なだめ)供物(そなへもの)となし(たま)へり。[引照]

口語訳神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
塚本訳すなわち神は御自分の義を示すために、宥めの供え物としてキリストを提供された。これはキリストの血でなされたものであり、(人は)信仰によ(ってこの恩恵にあずか)るのである。このことは──神が(長いあいだ)忍耐をもって過ぎし日に犯した罪を罰せずにおられたので──
前田訳神はキリストを宥めの供え物として差し出されました。これは血を流すまでの彼のまことによるものです。このようなことは、人々の過去の罪を神ならではの忍耐で見のがしてご自身の義を示すためであり、
新共同神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
NIVGod presented him as a sacrifice of atonement, through faith in his blood. He did this to demonstrate his justice, because in his forbearance he had left the sins committed beforehand unpunished--
註解: ▲口語訳「信仰をもって受くべきあがないの供物」は原語からは全く離れているが意味はよく通じる。

3章26節 これ(いま)おのれの()(あらは)して、(みづか)()たらん(ため)、またイエスを(しん)ずる(もの)()とし(たま)はん(ため)なり。[引照]

口語訳それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
塚本訳今の世において、御自分の義を示そうとされたのである。すなわち御自分が義であること、またイエスを信ずる者を義とするお方であることを、(この世に)示されたのである。
前田訳さらに、今の世でご自身の義を示すためでもあります。すなわち、ご自身が義にいますとともに、イエスのまことによるものを義とする方であるためです。
新共同このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
NIVhe did it to demonstrate his justice at the present time, so as to be just and the one who justifies those who have faith in Jesus.
註解: この二節は前節神の恵み、キリストの贖の一層深き説明であり、キリストに顕れし神の義、神の智慧の要約、福音の精髄である。従って訳解の上に種々の異説が多い。改訳本文は文法上の構造は原文と離れているけれども大体に於て正しき意味を伝えている。原文に於ては「神は彼を立てて(なだめ)の供物となし給えり」の文句が最初にあり、これが全文の眼目である。パウロは24節に述べし贖によりて義とせられるの途が如何にして、何時、何の為、如何なる内容を以て開かれしかを25、26節に述べて居り、簡単なる文章の中に宇宙の画期的大事実が盛られている。(1)如何にして神は人を義とし給うか。答、(25節後半、原文では前半)それはキリストをその十字架の死によりて「公けに万人の前に提示し」て「彼の血を以て」する犠牲となし、人は「信仰により」て彼を受くる事により、神と人との間に和らぎが成就する。この意味に於て旧約時代に於ける犠牲の供物と同じくキリストは「(なだめ)の供物となり給うた」。(2)何の目的を以て神はこれを為し給いしか。答、(25節前半、原文では後半)その義を示さんが為、即ち従来神はその義を完全に示し給わず、忍耐を以て人類の罪を放任し給うた。これ全く彼の愛心の発露であって、若し神が罪を見遁し給う事が無かったならば人類は神の義の故に凡てが直ちに亡ぼされてしまったであろう。神はかくして従来保留し給いし義を示さんが為にキリストを十字架上にて審判(さば)き給うた。(3)何時この事が行われたか。答、(26節前半)「今の時に於て」神はキリストを遣し給い、彼を十字架に釘ける事によりてこれを為し給うた。故にキリストの十字架は人類の歴史の画期的出来事である。(4)而してキリストの十字架により、神がその義を顕示し給うたのは何の為であったか。答、(26節後半、この部分は25、26aの全体の理由の説明である、G1)動機目的は二重である。その一は神自ら義であり給わんが為である。即ち人の罪を見遁し給う事は、神の義の停止である。然るに今や神は十字架上の犠牲たりしイエス・キリストを罪ある全人類の代表者として、彼を罰する事によりて神の義を実現し給うたのである。その二はこのイエスを信ずる者を義とせんが為である。即ち神はイエスに於て凡ての人類の罪を罰し給いしが故に、イエスを信ずるものは自己に何等の功なくともその信仰の故に、神の前に義しき者と認められる。かくして神は自らの義を(むな)しくする事なしに而も義ならざるものを義とし給う。神の智慧の量り難き深さがここにある。
辞解
[過来(すぎこ)しかたの罪] その後の罪は凡てキリストの十字架の上に審かれている。
[見遁(みのが)し] paresis は罪の赦しと異る、これを混同してはならない。
[(あらわ)す] endeixsis 公表する事。
[立て] protithêmi 「前に置く」即ち公けに提示する事。
[(なだめ)の供物] hilastêrion 難解の文字。(▲ヒラステーリオンは神の幕家の至聖所にある贖罪所のことで大祭司は年に一回いけにえの血を携えて其処に入り神に見える場所である。之が「(なだめ)の供物」の意味に用いられる様になった。)(1)贖罪所(C1、L1)(2)(なだめ)の手段(G1、Z0)、(3)キリストを形容する形容詞(E0、I0)、(4)(なだめ)の供物(A1、M0、改訳)その他の解あれど(4)を採る。
[今] 直訳「今の時に」。
「自ら義たらん為」 以下は全文の結論と見る。

3-(1)-(1)-(ロ) 信仰によりてのみ義とせらるる 3:27 - 3:31

3章27節 さらば(ほこ)るところ何處(いづこ)にあるか。[引照]

口語訳すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。
塚本訳それでは(ユダヤ人の)誇りはどうなるのか。誇ることは出来なくなった。なんの法則によって(出来ないの)か。行いの(完全を要求するモーセ律法の)法則によってか。そうではない、信仰の法則によってである。
前田訳それなら誇りはどうなりますか。もう誇れません。それはどの律法によってですか。行ないの律法によってですか。否、まことの律法によってです。
新共同では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
NIVWhere, then, is boasting? It is excluded. On what principle? On that of observing the law? No, but on that of faith.
註解: 上述の如く(21-26節)彼らの義とされる事は凡て神より出ずる御業であるとするならば、我らには誇るべき何ものも無い。従って我らが誇る事は誤りである。ユダヤ人はその法律に誇っていた。この誇すら虚しとすれば(いわ)んや異邦人をや。

(すで)(のぞ)かれたり、

註解: 錠を(かえ)して締出しを喰わせる事。恩恵によりて義とされる以上は誇りの入り来るべき場所は何処にも無い訳である。

(なに)律法(おきて)()りてか、行爲(おこなひ)律法(おきて)か、(しか)らず、信仰(しんかう)律法(おきて)()りてなり。

註解: ユダヤ人の優越の誇が上述の如くにして全く排斥されてしまったのは、行為を規定しこれを要求するモーセの律法によるのではない。モーセの律法も実を云えばこの誇りを排除し得べきであったのに(19節)事実それが出来なかった。これが出来たのは全く信仰の法則(律法)によったのである。即ち次節にその理由を示す如く、信仰によりて義とされる事の原則は自己に誇るべき何物も無き事を前提とするからである。
辞解
[律法] nomos はここでは二種の意味に用いられている。

3章28節 (われ)らは(おも)ふ、(ひと)()とせらるるは、律法(おきて)行爲(おこなひ)によらず、信仰(しんかう)()るなり。[引照]

口語訳わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
塚本訳わたし達の信ずるところでは、(すでに言ったように、)人は律法の命ずる行いに関係なく、(ただ)信仰(だけ)で、義とされるからである。
前田訳われらの考えでは、律法の行ないとは別に、人はまことによって義とされます。
新共同なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
NIVFor we maintain that a man is justified by faith apart from observing the law.
註解: 私訳「蓋し我ら思うに人は律法の行為なしに信仰によりて義とされるなり」信仰のみによりて凡ての人間は義とされる。神の前に義とされる為には律法の行為による自己の功を神の前に誇るべきではない。誇は即ち除かれたり。唯信仰のみを以て神の前に出づべきである。この信仰とは次章に示すが如く、全心を以てキリストに依り頼む信頼である。

3章29節 ((また)は)(かみ)はただユダヤ(びと)のみの(かみ)なるか、また異邦人(いはうじん)(かみ)ならずや、(しか)り、また異邦人(いはうじん)(かみ)なり。[引照]

口語訳それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。
塚本訳それとも神はユダヤ人だけの神であろうか。また異教人の神ではなかろうか。もちろん異教人の神でもある、
前田訳それとも、神はユダヤ人だけの神ですか。また異教徒の神でもありませんか。もちろん異教徒の神でもある、
新共同それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
NIVIs God the God of Jews only? Is he not the God of Gentiles too? Yes, of Gentiles too,
註解: 前節の理由の外更に本節及び次節に於てユダヤ人の誇の排除せられしを付加している。その理由はユダヤ人の神は同時に異邦人の神なる点である。これ一神教の当然の結論であり、聖書にもこの事を示している(詩96篇-98篇エレ10:7等)。原文に「又は」とあり、「前節の議論にて不充分ならば」との意。

3章30節 (かみ)唯一(ゆゐいつ)にして、割禮(かつれい)ある(もの)信仰(しんかう)によりて()とし、割禮(かつれい)なき(もの)をも信仰(しんかう)によりて()とし(たま)へばなり。[引照]

口語訳まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。
塚本訳神がただお一人である以上は。すなわち神は、割礼のある者を信仰により、割礼のない者をも信仰によって、義とされる。
前田訳神がひとりにいますかぎりは。神は、割礼あるものをまことによって、無割礼のものをもまことによって、義とされます。
新共同実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
NIVsince there is only one God, who will justify the circumcised by faith and the uncircumcised through that same faith.
註解: 神は唯一にして而も偏り視給う事なく、従って義とされる理由として割礼無割礼の別が無い。パウロに取りては神の前に万人が平等であった。故に異邦人は勿論ユダヤ人さえも、その誇の排除されるべきは当然である(エペ2:8-9)。ロマ2:6-16に於て律法を行う者はユダヤ人と異邦人との区別なく義とされる点に於て神の公平を論じたるパウロはここに亦信仰のみによりて義とされる意味に於ても、この両者の無差別を示している。当時のユダヤ人に取ってこれが如何に多くの躓となったかは想像に余りある。

3章31節 (しか)らば(われ)信仰(しんかう)をもて律法(おきて)(むな)しくするか、(けっ)して(しか)らず、(かへ)つて律法(おきて)(かた)うするなり。[引照]

口語訳すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。
塚本訳それではわたし達は、信仰(による救いの道)によって(モーセ)律法を廃止することになるのか。もちろん、そうではない。(結果から見ると、)むしろ律法の効力を発揮させるのである。
前田訳まことのためにわれらは律法を無にするのでしょうか。断じて否です。むしろ律法を強化するのです。
新共同それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。
NIVDo we, then, nullify the law by this faith? Not at all! Rather, we uphold the law.
註解: 律法の行為によりて義とせられず(28節)、割礼すらも無割礼と異らずとせば(30節)福音を唱うるパウロ等は旧約聖書の律法を全く廃止し無効に帰したのであるかと云うに決して然らず。寧ろその反対に律法をしてその地位に堅く立たしめる。即ち人々をして神の前にその罪の審判に服せしむる働きを為すと共に、信仰によりて義とされる事によりて潔められて律法の要求を完うする事が出来るに至るのである(C1)。マタ5:17のイエスの御言もこの意味である。本節は2:1以下の結尾である。
要義1 [神の義は顕はれたり] 3:21-27に於てパウロは何故に神の義と云いて一言も神の愛と云わなかったのであろうか。その故は神は義にして愛に在し給う、而して神の愛は始めから比較的明かであった。何となれば若し神が愛に在し給わざりしならば、過去の罪を忍耐を以て見遁し給うこと(25節)なく、罪は直ちに審かれてしまったであろうから。神がかく忍耐して罪人を滅ぼし給わなかった理由は神の愛が彼らを救わんとの熱望に燃え一人の亡ぶるをも望み給わなかったからである(Uペテ3:9)。最大の困難は神が如何にしてその義を顕わし給うかに在った。神は御自身の義を放棄し給う事は出来ない。併し乍らその義を顕わさんとせば当然凡ての人類の罪の上にその審判が下らなければならない。ここに於て愛の神はその計るべからざる智慧をもて、「自ら義たり、叉イエスを信ずる者を義とし」かくして自己の義を(いささか)も毀損する事なしに、義ならざる者をも義とし給う道を開き給うたのである。
要義2 [(なだめ)の供物] 罪に対する神の怒は、その罪が審かれ終る迄は永遠に止む時がない。十字架上に於けるキリストの死はこの神の怒が(なだめ)られ和げられる為に必要であった。罪に対する神の怒は聖なる神の必然である。これを愛の神に相応わしからずと考えるのは、神の義の性質を認識せざる誤である。故に聖にして義なる神の怒は罪に対する当然の処置である。故にキリストの十字架は我らにとりて罪の贖であり神にとりて(なだめ)の供物であり、何れに取っても必要欠くべからざる救の途であった。
要義3 [信仰の義] 「信仰のみによりて義とせらる」とは神に対する我らの態度が信仰、信頼、服従、帰依そのものであるならば神はこの理由にのみより――他に何等の功も行為も要求せず、我らの過去の罪の深さ如何に関せず――我らを義なるものと認め給い、神との間に親子の関係が成立する事を云うのである。「律法の行為によらず」とは律法の行為そのものの無価値、不必要を云うのではなく、神より義とせらるべき理由としては全く無価値なる事を云うのである。
要義4 [義と認められる事と義となる事] 我らは義となり罪を犯さなくなって後に義と認められるのではなく、先づ信仰によりて神より義と認められ、然る後神の霊の導きによりて次第に義しき者とせられるのである。後者はこれを潔めと云い、各人の信仰の程度とその肉の性質如何によりて種々の程度と期間に於て行われ一様ではない。