黙示録第22章
分類
6 新天新地
21:1 - 22:5
6-(2) 新エルサレム
21:9 - 22:5
6-(2)-(ホ) 新エルサレムの飲食物および薬種
22:1 - 22:5
註解: 1−5節は新エルサレムをエデンの園になぞらえて、回復せられし楽園として記載し神の民の飲食物を示している。
22章1節
口語訳 | 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、 |
塚本訳 | 天使はまた神と仔羊の玉座から(流れ)出ている水晶のように輝いた生命の水の河を私に示した。 |
前田訳 | 彼(天使)は神と小羊のみ座から出て水晶のように輝くいのちの水の川をわたしに示した。 |
新共同 | 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。 |
NIV | Then the angel showed me the river of the water of life, as clear as crystal, flowing from the throne of God and of the Lamb |
註解: 生命の水は聖霊である(ヨハ7:38、39)。この生命の水の河は神と羔羊 の御座(単数)より出で都の大路の中央を流れて凡ての人の飲むにまかせている。神と羔羊 の御座より出づるが故に神の霊であり、都の大路の中央を流れるが故に何人もこれを飲むことを得ることがその特徴である。
辞解
この描写は創2:9以下とエゼ47:1−12との光景に類似しているけれどもこの何れとも同一でない。全く新しき神の特別の光景である(詩46:4)。
[生命の水] 黙7:17。黙21:6。黙22:17。ヨハ4:14 。なお旧約にも同一の思想あり(ヨエ4:18。ゼカ14:8。エゼ47:9)。
[都の大路の真中] これを次節に入れて読む読み方あり、次節辞解参照。
22章2節
口語訳 | 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。 |
塚本訳 | 都の大通りの真中と河の此方彼方に生命の樹があって、(一年に)十二度実を結ぶ、すなわち月毎に実が生るのである。そしてその樹の葉は諸国の民(の凡ての病と傷と)を医す。 |
前田訳 | それは都の大通りの真ん中を流れていた。川の両側にいのちの木がある。それは十二たび実り、ひと月ごとにその実をむすぶ。その木の葉は諸国民のいやしに役だつ。 |
新共同 | 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。 |
NIV | down the middle of the great street of the city. On each side of the river stood the tree of life, bearing twelve crops of fruit, yielding its fruit every month. And the leaves of the tree are for the healing of the nations. |
註解: 創2:9。創3:22、24にあり、ケルビムと自ら旋転 る焔の剣をもって守られていた生命の樹はここでは自由に各人の食うに任されている。その数は神の都に相応しく十二であり、その果実も毎月その種類を異にする十二種の果実を生じ、これによりて養われる生命の豊富さを示している。かつその樹葉は病を醫す効果があり、かくして新エルサレムの住民はこの生命の樹の実によりてその霊の生命を養い霊の病を醫す。神の都の住民といえども生きる以上霊的の病があり得ると考えられていることが判る。
辞解
前節の「都の大路の真中」を本節に入れて読む読み方が多い。すなわちあるいは「都の大路の真中に河の両側に生命の樹あり」と読むかまたは「都の大路と河との間に此岸にも彼岸にも生命の樹あり」(S3、S1、H0)と読む、何れにしても事実上の差異はなく、文法的には何れも難点あり。
[十二種の実] 「十二の実」であるけれども十二種と解すべきであろう。
[樹] xulon 創2:9に従い単数形を用いているけれどもここでは集合名詞的に用いられている。
「醫す」ことを現在における教会の機能と見るは(S3)前後の調和が取れない。
22章3節
口語訳 | のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、 |
塚本訳 | 最早凡ての呪詛が無いであろう。そして神と仔羊の玉座が都の中にあって、その僕達は(其処で)彼に仕え、 |
前田訳 | もはやいかなる呪いもなかろう。神と小羊のみ座がそこにあり、彼の僕らは彼に仕えよう。 |
新共同 | もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、 |
NIV | No longer will there be any curse. The throne of God and of the Lamb will be in the city, and his servants will serve him. |
22章4節
口語訳 | 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。 |
塚本訳 | (おおけなくも目のあたり)御顔を拝し、その御名が彼らの額に(書いて)あるであろう。 |
前田訳 | 彼らはみ顔を見、額にみ名をしるされよう、 |
新共同 | 御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。 |
NIV | They will see his face, and his name will be on their foreheads. |
註解: 神の都の民は凡てイエスの血に贖われて義とせられし者なる故、もはや詛わるべき者がいるはずがない。すなわち全市民みな聖 きものとして神の御前に立つことができる。そして都の中には神と羔羊 との御座(単数)あり、かつては天にありしこの御座は今や新エルサレムの中にあるようになる。そしてその僕らはこれに事 えこれを礼拝する。これかつては至聖所の中において年に一回大祭司にのみ許されし処であった。この全市民の礼拝こそ真の永遠なる、完全なる礼拝である。黙7:15に予示せられし事実がここに実現するのである。そしてこれらの僕たちはモーセすらも許されなかったこと(出33:20、23)すなわち神の御顔を見ることを許されるのである。かつては神の顔を見る者は死ぬべきものとなされていた(出33:20。創32:31。申5:24。士6:22、23。イザ6:5)。然るにこの都においては歓喜と平和との中に神の顔を見ることを得るに至るであろう。詩17:15の約束の実現である。額に神の名があることは黙7:3において印せられしが故である。神に対する全き献身を意味する。
22章5節
口語訳 | 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。 |
塚本訳 | また(昼夜の別が消え失せ)最早夜が無いであろう。(其処では)燈火の光も太陽の光も必要がない。主なる神が彼らを照らし給うから。そして彼らは永遠より永遠に王となるであろう。 |
前田訳 | 夜はもはやなく、燈火の光も日の光も無用である、主なる神が彼らを照らしたもうから。そして彼らは世々とこしえに王者となろう。 |
新共同 | もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。 |
NIV | There will be no more night. They will not need the light of a lamp or the light of the sun, for the Lord God will give them light. And they will reign for ever and ever. |
註解: 新エルサレムの民は燈火をも日光をも要せず、神の光の中にありて完全に凡てのものを見ることができる。神の光をもって見ることは最も正しき見方である。また彼らは彼らに与えられし約束に従い(黙2:26、27)キリストと共に王となり支配することができる。この支配は神の子らに与えられし特権であり、永遠に絶ゆることがない。ゆえに黙20:4の千年王国における有限の支配とはその趣を異にする。なお本節と黙21:23、24と重複するがごときも黙21:23、24は神の都の光景であり本節はその人民の心持である。
要義1 [楽園恢復]黙示録は凡ての点において創世記に対応しており、聖書の最後に置かれたことは寔 に意義深きことである。次にこれを列挙すれば
(創世記) (黙示録) 天地の創造 新天新地の創造 人類の創造 新人類の創造(復活) サタンの活動の始 サタンの活動の終焉 神と人との分離(罪、詛) 神と人との共存(義、救) 楽園の喪失 楽園の恢復 キリスト支配の預言 キリスト支配の実現
等であり黙示録は寔 に善く天地の終末と新天新地の出顕の光景とを叙述しているのである。創世記によりて罪が起り人類世界にその根本の問題を提出したのであるが、これがキリストの十字架によりて根底的原則的に解決され、さらにその再臨によりて完全に解決し尽されているのである。これがすなわち黙示録であって、もし聖書中に黙示録が無かったならば、聖書は首尾一貫せざる不具者のごとき形を為すに至るのである。本書の存在によりて聖書は実に完全なる一幅の画となったのである。
要義2 [新天新地の実質]人類の復活、新天新地の出現等今日の科学や、人類の経験以内において理解説明し得ざる事柄を如何ように考えるべきかは困難なる問題である。しかしながら罪の苦悩の中にある現在の人類が神の力によりて新しき人類に復活することの事実は人類の最高至深の要求であるのみならず、また万能の神の御業に相応しきことである。そして人間そのものが全く新たなるものとなる場合、その眼に映ずる天地もまた全く新なるべきは極めて当然のことである。黙示録の全体は表徴的記載である故、これを文字通りに解すべきではない。さりとてこれを単に人間の霊界の問題の具体的表顕とも解すべきではない。黙示録の全体は新しき人類(むしろ神類とも称すべき復活の人類)とその住むべき世界における全く特異なる天地の光景を現在の世界において黙示によりて示された範囲の表徴的記述であると見るべきである。ゆえに今よりその実際の有様如何を好奇的に論議すべきではなく、また如何にこれを研究するも今よりその実体を把握することは不可能である。我らは唯これを信仰をもって待望むべきである。
分類
7 結尾
22:6 - 22:21
7-(1)-(イ) 本書の価値
22:6 - 22:7
22章6節
口語訳 | 彼はまた、わたしに言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。 |
塚本訳 | 彼が私に言うた、「(凡て)これらの言は信ずべくまた真実である。預言者達の霊の主なる神がその使いを遣わして、(必ず)直に起こるべき(これらの)ことをその僕達に示し給うたのである。」 |
前田訳 | 彼はわたしにいった、「これらのことばは信ずべく、まことである。預言者の霊の主なる神が、僕たちに間もなくおこるべきことを示すためにみ使いをつかわされた。 |
新共同 | そして、天使はわたしにこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。 |
NIV | The angel said to me, "These words are trustworthy and true. The Lord, the God of the spirits of the prophets, sent his angel to show his servants the things that must soon take place." |
註解: 本節以下は本書の結尾であって、本書の序言黙1:1−20に相対応する。すなわち本節後半は黙1:1に近い。
辞解
[彼] 恐らく黙21:9、黙21:15の御使ならん。
[これらの言] 黙示録の全体。
[信ずべきなり真なり] 私訳「真実なり真正なり」、そこに一つの虚偽なく誤謬がない。
[預言者たち] 以下をヨハネの挿入と見る説あれど、必ずしもかく解する必要はない。
[預言者たちの霊〔魂〕の神たる主] 神は預言者たちの霊を支配して彼らをして預言せしめ給う。ゆえにこの御使に示されてこれを書き録せるヨハネもこの神の支配の下にある預言の霊によりて動かされたのであつた。
22章7節
口語訳 | 見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」。 |
塚本訳 | (イエスが言い給うた、)「そして視よ、私は直に来る。幸福なる哉、この書の預言の言を守る者!」 |
前田訳 | 見よ、わたしはすみやかに来る。さいわいなのはこの書の預言のことばを守るもの」と。 |
新共同 | 見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」 |
NIV | "Behold, I am coming soon! Blessed is he who keeps the words of the prophecy in this book." |
註解: 前半は明かにイエスの御言であり、後半は「この書」とあるを見れば此書を録し終れるヨハネの言のごとくにも思われる。しかし聖書は「往々エホバ言い給う」を省略してエホバの言を引用する場合ある故(イザ61:8。イザ16:10)およびかつ9節にも「此の書」とあるを見れば本節の始めに「イエス言い給う」を入れ、「この書」以下を天使の言の続きと見れば最も自然にこれを理解することを得。すなわちイエスがかく言い給う故にこの書の言を守ることは益々必要なりとの意味の天使の言である。ゆえに6−7節には(1)本書の内容の真実たること。(2)本書の預言の真正なること。(3)これを守ることの必要が高調せられている。「幸福なり」は本書の七福の第六(黙1:3参照)。
22章8節 これらの
口語訳 | これらのことを見聞きした者は、このヨハネである。わたしが見聞きした時、それらのことを示してくれた御使の足もとにひれ伏して拝そうとすると、 |
塚本訳 | これらのことを聞きまた見たのはわたしヨハネである。そして(これを)聞きまた見た時、私はこれらのことを示してくれた天使を拝もうと、その足下に平伏した。 |
前田訳 | わたしヨハネは、これらを聞き、また見た。聞き、また見たとき、これらをわたしに示した天使の足もとに伏して拝もうとした。 |
新共同 | わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。聞き、また見たとき、わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。 |
NIV | I, John, am the one who heard and saw these things. And when I had heard and seen them, I fell down to worship at the feet of the angel who had been showing them to me. |
22章9節 かれ
口語訳 | 彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書の言葉を守る者たちと、同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい」。 |
塚本訳 | すると彼は(遮って)私に言う、「(いけない、)するな! 私はお前や、お前の兄弟である預言者達や、この書の言を守っている人達の同輩である。(私を拝むな。)神を拝め。」 |
前田訳 | すると彼はいう、「それはいけない。わたしはあなたやあなたの兄弟である預言者ら、この書のことばを守る人々と同じ仲間の僕である。神をこそ拝みなさい」と。 |
新共同 | すると、天使はわたしに言った。「やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。」 |
NIV | But he said to me, "Do not do it! I am a fellow servant with you and with your brothers the prophets and of all who keep the words of this book. Worship God!" |
註解: 黙示の全部が終了せし時のヨハネの心持とその能度とを示す。ヨハネはこの新エルサレムの光景のあまりにも壮大雄渾 であったために黙19:10の天使の警戒を忘れて再びその天使の前に平伏してこれを拝せんとした。天使がこれを拒み、自己をヨハネ、預言者および一般の信徒と全く同列に置いたのは、ヨハネの預言者たる資格を強調せんがためと見るよりも(B3)、むしろ一般キリスト者が天使と同じ資格を有ち、天使が見しこれらの光景をやがて見ることができることの確信と希望とを与え、そして拝すべきものはこれらのことを造り給う神御自身のみであることを知らしめんがためであったろう。
口語訳 | またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。 |
塚本訳 | 彼はまた私に言う、「この書の預言の言を封ずるな。(審判の)時期が近いから。 |
前田訳 | また彼はいう、「この書の預言のことばを封じるな。時は近い。 |
新共同 | また、わたしにこう言った。「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。 |
NIV | Then he told me, "Do not seal up the words of the prophecy of this book, because the time is near. |
註解: 10−15節は誰の言なるかにつきて意見が分れる。(1)これを全部イエスの言と見るもの(H0、ローマイヤー)。(2)10、11を天使、12、13をキリスト、14、15をヨハネの言と見るもの(B3)、(3)12、13はキリスト、その他を御使の言と見るもの(S3)等である、第一説を取る。
『この
註解: ダニエルの預言は衆多くの日の後にあるべきことでこれを秘しおくように命じられているのに反し、この書の預言はその実現すべき「時近き」故これを封ぜずにできるだけ多くの人にこれを示すべきである。然るに今日この書はその難解なるがためにこれを封ぜられたる書としてこれに触れずにいることは甚だしき誤りである。
22章11節
口語訳 | 不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。 |
塚本訳 | 不義をする者はなおも不義をして居れ。穢れた者はなおも穢れて居れ。(しかし)義なる者はなおも行って居れ。聖い者はなおも聖くして居れ。」 |
前田訳 | 不義者はなお不義を行なえ、汚れのものはなお汚れを行なえ、義者はなお義を行なえ、聖徒はなお聖徒であれ」。 |
新共同 | 不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。 |
NIV | Let him who does wrong continue to do wrong; let him who is vile continue to be vile; let him who does right continue to do right; and let him who is holy continue to be holy." |
註解: 不義不浄なるものに悔改めを説かずしてかえってその中に留るべき命令を下していることは一見甚だ無慈悲なるがごとくであるけれども、これは黙示文学慣用の語法であって(ダニ12:10。エゼ3:27)、これだけ懇切に注意を与えてもなお悔改めない以上は勝手にするがよいというごとき心持である。愛と憐憫に慣れて神を蔑 する者には最後にかくのごとくして彼らを衝き出すことがかえって彼らをして反省せしむる機会となるのである。これによりて時の切迫せることと、人の心の驚くべき頑固さとをここに示していると見ることができる。
辞解
[いよいよ] eti は「なお」と訳する方が適当ならん。
[清き] 「聖き」と訳す。
22章12節
口語訳 | 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。 |
塚本訳 | (イエスが言い給う、)「視よ、私は直に来る。行為に応じて各人に与える私の報酬も私と共に来る! |
前田訳 | 「見よ、わたしはすみやかに来る。わたしは報いをたずさえ、それぞれのわざによってそれを与える。 |
新共同 | 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。 |
NIV | "Behold, I am coming soon! My reward is with me, and I will give to everyone according to what he has done. |
註解: 私訳「視よ我速に到らん、我が報は我と共にあり、・・・・・」黙2:23。黙20:12。ロマ2:6以下等にあるごとく行為に随 いて報いを与えられることは聖書の大原則であり、殊に旧約聖書においてこの点著明である(詩62:12。ヨブ34:11以下。エレ32:19。エゼ33:20)。なお信仰によりて義とされることとの関係につきてはロマ2:16要義二参照、本節および次節のみをキリストの言と解する見方もある(S3)。
22章13節
口語訳 | わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。 |
塚本訳 | 私はアルパまたオメガ、最初また最後、初また終である。 |
前田訳 | わたしはアルパまたオメガ、最初また最後、初めまた終わりである。 |
新共同 | わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。 |
NIV | I am the Alpha and the Omega, the First and the Last, the Beginning and the End. |
註解: キリストに対して神と全く同一の資格を認めていることの事実がここに最も著しく表われている。黙1:8、黙1:17。黙21:6参照。
辞解
[最先 なり、最後 なり] 存在をその時期の前後の点より見、「始、終」はその原因、結果の点より見る。
22章14節 おのが
口語訳 | いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。 |
塚本訳 | 幸福なる哉、生命の樹に行き(その実を食い)、また(聖なる)都の門を入る権を得るために、その上衣を洗う者! |
前田訳 | さいわいなのはおのが衣を洗う人たち、彼らはいのちの木への特権を持ち、都への門を入りうるから。 |
新共同 | 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。 |
NIV | "Blessed are those who wash their robes, that they may have the right to the tree of life and may go through the gates into the city. |
註解: 本節には報いを得て祝福を受けるもの、次節には審 かれて詛を受ける者につきて録さる。「衣を洗う」「生命の樹」「都」「門」等につきては 黙7:14。黙2:7。黙22:2。黙21:10 −25等参照。
22章15節
口語訳 | 犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。 |
塚本訳 | (しかし都の)外には(この権を有たぬ穢れた)犬、魔術を行う者、淫行の者、殺人者、偶像礼拝者、すべて虚偽を愛しまた行う者がいるであろう。 |
前田訳 | 外には犬、魔術者、不身持ち、殺人者、偶像礼拝者、すべてうそを好み、行なうものどもがいる。 |
新共同 | 犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。 |
NIV | Outside are the dogs, those who practice magic arts, the sexually immoral, the murderers, the idolaters and everyone who loves and practices falsehood. |
註解: 黙21:8、黙21:27等と同じく外の暗きに投出され、火と硫黄の燃ゆる池にてその報いを受けるものはこの種のものである。かくのごとくキリスト来り給う時、全人類は明かに二つに区別されるに至る。
辞解
[犬] 下劣にして獰悪 なる人間を指す (申23:19。詩22:16、詩22:20。マタ7:6。マコ7:27)。
「虚偽を愛す」ることはこれを「行う」ことよりも一層悪の度が強い。
[外にあり] 「外に出でよ」と命令的に解する説あれど採らず。その他の語の意義については黙21:8を見よ。
22章16節 われイエスは
口語訳 | わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。 |
塚本訳 | 私イエスが(諸)教会についてこれらのことをお前達に証明するために、私の使いを遣わしたのである。私はダビデの根また裔、輝く暁の明星である。」 |
前田訳 | わたしイエスは、諸集会のためにこれらをあなた方に証するよう、わが使いをつかわした。わたしはダビデの根また若枝、輝く明けの明星である」。 |
新共同 | わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」 |
NIV | "I, Jesus, have sent my angel to give you this testimony for the churches. I am the Root and the Offspring of David, and the bright Morning Star." |
註解: イエスの自己紹介とイエスに遣されし御使に関するイエスの証明とを記す。本書はイエスの遣し給える御使の証を録せるものなる故に真正の黙示であり、そしてこのイエスこそはダビデの根より生ぜる萌蘖 (イザ11:10。イザ53:2)であって神の約束による救い主、預言者たちの預言せるメシヤである。そしてこのイエスは曙の明星として輝いており、神の国の義の太陽が昇る時の近きを予告している(黙2:28註参照)。このイエスの再臨とこれによる新天新地の支配こそは人類は勿論あらゆる被造物の切に望んでいる処の事柄である(ロマ8:19)。
辞解
[われイエス] 非常に強い言い方。
[諸教会のために] 「・・・・・のために」 の epi は「諸教会につきて」と読む説あり(S3、ヴィーナー、セーヤー)(黙10:11。ヨハ12:16)。文法的にはこれが優っている様であるが意味の点よりはこれを本文のごとくに解する方可なり、かつ文法的にも可能である。
[萠蘗 ] rhiza は根または根より生ぜる芽生 えを意味す。
22章17節
口語訳 | 御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。 |
塚本訳 | すると御霊と新婦とが(答えて)言う、「来たり給え」と。聞く者も(また)「来たり給え」と言え。渇く者は来い。望む者は無代で生命の水を受けよ。 |
前田訳 | 霊と花よめとがいう、「来たりたまえ」と。聞くものもいえ、「来たりたまえ」と。渇くものは来たれ。欲するものは価なしでいのちの水を受けよ。 |
新共同 | “霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。 |
NIV | The Spirit and the bride say, "Come!" And let him who hears say, "Come!" Whoever is thirsty, let him come; and whoever wishes, let him take the free gift of the water of life. |
註解: 前節の主イエスの御言に対して三つの口より答があった、御霊と新婦なる教会全体とヨハネとである。御霊は黙14:13のごとく自ら声を発し、新婦なる教会と共に主イエスの来り給わんことを切に望む心をもって「来りたまえ」と呼び、ヨハネはさらにこの書の読まれるを「聞く者」すなわち黙1:3にある一般の信徒にも主イエスの来臨を切に祈るべきことを教え、そして渇きて生命の水を飲まんと欲する者には価なくして生命の水が与えられることが約束されていることを告知している。「渇く者」は義に飢渇く者で生命を求めて未だこれに到らざる者、ヨハネはかかる者に対してその救いの手を差し伸べている。
22章18節 われ
口語訳 | この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。 |
塚本訳 | 私(ヨハネ)が凡て聞く者にこの書の預言の言を証明する。もし誰かがこれに(何かを)加えるならば、神はこの書に書いてある災厄を彼に加え給うであろう。 |
前田訳 | わたしはこの書の預言のことばを聞くすべてのものに証する。もしだれかこれにつけ加えるなら、神はその人にこの書に書かれているわざわいをつけ加えられよう。 |
新共同 | この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。 |
NIV | I warn everyone who hears the words of the prophecy of this book: If anyone adds anything to them, God will add to him the plagues described in this book. |
22章19節
口語訳 | また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。 |
塚本訳 | またもし誰かがこの預言の書の言(から何か)を省くならば、神はこの書に書いてある生命の樹と聖なる都から彼の(受くべき)分を省き給うであろう。 |
前田訳 | もしだれかこの預言の書のことばから取り除くなら、神はこの書に書かれているいのちの木と聖なる都とにあるその人の分け前から取り除かれよう。 |
新共同 | また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。 |
NIV | And if anyone takes words away from this book of prophecy, God will take away from him his share in the tree of life and in the holy city, which are described in this book. |
註解: この黙示録の教える預言の絶対的真理にしてそれ自身一つの完璧であることを示し、そしてこれに対して濫りに他の思想を附加しまたはこの書の中に録される真理を除かんとする者に対し各々これに相当する詛を約束している。そしてその詛は不信者とその軌 を一 にしているのであって、不信者の受くべき苦難を加えられ、信者の受くべき祝福を取去られるのである。加える者には詛が加えられ、除く者には祝福が除かれる所に言葉の章 があることに注意すべし。
辞解
[彼の受くべき分] 神の都の凡ての祝福はその中に入り来る者に頒 たれる故、各々その分け前に与ることができ、この分け前を除かれる場合、これに与かり得ざる者ができることとなる。なおこの二節は申4:2。申13:1。エレ26:2の思想より来る処であり、当時一般に聖書に対して取っていた態度であつた。
22章20節 これらの
口語訳 | これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。 |
塚本訳 | これらのことを証明する者が言い給う、「然り、私は直に来る。」アーメン、主イエスよ、来たり給え! |
前田訳 | これらを証する方がいわれる、「然り、わたしはすみやかに来る」と。然り、主イエスよ、来たりたまえ。 |
新共同 | 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。 |
NIV | He who testifies to these things says, "Yes, I am coming soon." Amen. Come, Lord Jesus. |
註解: 17節にある「来り給え」との熱祷に対し主イエスはここにこれに応えて速かに到らんことを約束し給い、これに応じて全教会も声を合せて、「アァメン主イエスよ来り給え」と答えた。速かに到らんとする主イエスの御心と、彼を熱心に待望む全教会の祈りとはここに完全に一致して本書の結末を形成しているのである。
辞解
[これらのことを証する者] キリスト(黙1:5)。
[然り] 原語 nai。
[アァメン] ロマ1:25辞解参照。
22章21節
口語訳 | 主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。 |
塚本訳 | (願わくは、)主イエスの恩恵凡ての者と共にあらんことを! |
前田訳 | 主イエスの恵みがすべての人々とともにあるように。 |
新共同 | 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。 |
NIV | The grace of the Lord Jesus be with God's people. Amen. |
註解: 書簡の結尾の形式であって、パウロはその凡ての書簡にこれと類似の形式を用いている。本書のごとき黙示文学にてはこの形式を用いないのが普通であるけれども、本書は冒頭より書簡の形式を為しているので(黙1:4−6)結尾にこの挨拶を附加したのである。
要義 [黙示録と現代]黙示録が著されてより現代に至るまで、黙示録が多くの場合軽視せられ、また時にこれを重要視するものある場合は極端にこれを文字的に機械的に解釈することによりて多くの禍を教会史上に残した。その原因は黙示録を正しく解釈することの困難なるによるのである。殊に近代において科学的文明が発達し、凡て超自然的事実が否定されるに至ったために、黙示録は一の封ぜられたる書として敬遠されていることは自然の結果である。しかしながら黙示録の思想は旧新約を一貫せる神の黙示に完全に一致する処のものであり、しかもこれによりて聖書の示す人間観世界観は完全にその終局の姿を示されている故、本書は科学的文明の発達せる今日において一層重視せらるべき書であると云わなければならぬ。
本書は一見難解なるがごときも、神、サタン、社会、人間、自然の姿をその絶対的の立場において眺める時、換言すればこの宇宙、人生の凡てを神の御座より眺める時やがて万物はこの書に示されるごとき運命に立たなければならないことを知ることができる。そしてかかる絶対的境地より万物を観察することは迫害と苦難の下にありて最も真実なる心持となれるキリスト者において始めて可能である。ゆえにキリスト者はその最も真実なる心持に生きる場合において、黙示録に示される凡ての預言の真理であることを知ることができる。この点においては古今東西は論ずる処ではない。
附記 [22:6−21について]全黙示録の結尾をなすこの部分に関する大なる困難は、言を出す主体が混雑しており判然と区別し難いことである。これは整然たる黙示録の結尾として一見不似合なるごとくに思われる。しかしながらそれがためにこれをもって後よリの追加挿入と解釈することも甚だ拙なる説明法である。恐らくヨハネは最後に神とキリストと聖霊と預言者と聖徒との一大合唱をもって本書の結尾となすべく態 と声の主体を一々明瞭にせずして自然に感得するようにしたものではあるまいかと思う。