黙示録第21章
分類
6 新天新地
21:1 - 22:5
6-(1) 新天新地
21:1 - 21:8
6-(1)-(イ) 新天新地の幻景
21:1 - 21:2
21章1節
口語訳 | わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。 |
塚本訳 | また私は新しい天と新しい地とを見た。初めの天と初めの地とは消え去ったのである。最早海も無い。 |
前田訳 | そしてわたしは新しい天と新しい地とを見た。先の天と先の地とは消えうせ、もはや海もない。 |
新共同 | わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。 |
NIV | Then I saw a new heaven and a new earth, for the first heaven and the first earth had passed away, and there was no longer any sea. |
註解: これより22:5までヨハネは新天新地(21:1)の光景を叙す。サタンはことごとく亡ぼされ、滅ぶべき罪人は滅び、永遠に生くべき人間は新たなる生命に甦らされし以上、これらのものは詛われし前の(「直訳「第一の」)天地の間にいることは相応しくない。ゆえに神はこの神の民を新しき天地に容れ給う。この天地は神の支配の下にあり、その首府は新しきエルサレムである。「海も亦なきなり」は当時海を恐怖の目的と見し思想の表われしものならん。
辞解
[新天新地] この思想は旧約聖書にも外典にもあり(イザ65:17。イザ66:22。外典エノク45:4以下。72:1。91:16。バルクの黙示録32:6。第四エズラ7:75)すなわちマタ19:28の「世あらたまる」時また使3:21の「万物の革まる時」である。
[過去り] 新天新地の出現が果して全然新たなる神の創造によるかまたは旧世界を全く新たに改造し給うのであるかについては聖書の文字のみより決定することは困難である。人間そのものが全く新たになる時、その眼に映ずる天地もまた全く新たであり得る。
[海も亦なきなり] 前の海も消滅したと解し、新天新地の海は有り得ると解する説あれど、現在動詞を用いている点より見てその然らざるを見る。海は昔より恐るべきものであり、殊に孤島に流されて海により取囲まれていたヨハネにこの感が強かったであろう。また外典にもこの思想を発見することができ、ヨハネはこれを利用したのであろう(B3参照)。
21章2節
口語訳 | また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。 |
塚本訳 | また聖なる都新しいエルサレムが、夫のために飾った新婦のように身支度をして、天から、神(の御許)から降って来るのを私は見た。 |
前田訳 | そして聖なる都、新しいエルサレムが、神のみもとを出て天から下るのを見た。それは夫のために着飾った花よめのように身仕度している。 |
新共同 | 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。 |
NIV | I saw the Holy City, the new Jerusalem, coming down out of heaven from God, prepared as a bride beautifully dressed for her husband. |
註解:羔羊 の新婦は天の教会であり、すでに黙19:7、8においてその準備をしていたものが、準備完成して天より下って来つつある光景である。その幸福に充てる心の状態は3、4節に録され、その美わしさは9−27節に録さる。新婦の飾 につきては黙19:8参照。
辞解
[新しきエルサレム] この思想は旧約聖書にもその預言を見ることができ(イザ54章。イザ60章。エゼ40章。エゼ48章等)新約にも ガラ4:26。ピリ3:20。ヘブ12:22。ヘブ13:14 にこの思想あり、外典にもこれを見出すことができる。地上のエルサレムが蹂躙 せられしユダヤ人は切に天のエルサレムを望むようになつた。
「神の許を出で」は apo 「天より」は ek なる前置詞を用いている。前者には使命の意味を含み後者は起源を示す(S3)。黙3:12。黙21:10も同様。
21章3節 また
口語訳 | また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 |
塚本訳 | そして私は玉座から大きな声が(出てこう)言うのを聞いた、「視よ、人と共に神の幕屋がある! 神が彼らと共に住み、彼らは神の民となり、神自ら彼らと共にいまして、 |
前田訳 | またわたしは王座から大声を聞いた。いわく、「見よ、神の幕屋が人とともにあり、神が彼らとともに住みたもう。彼らは彼の民となり、神自ら彼らとともにいます。 |
新共同 | そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 |
NIV | And I heard a loud voice from the throne saying, "Now the dwelling of God is with men, and he will live with them. They will be his people, and God himself will be with them and be their God. |
註解:御座 より出づる声は黙19:5と同じく天使の声である。神と人との共存は人類の理想でありまた神の目的であった。アダムの堕落以前においてパラダイスはこの神人共生の場所であった。アダムの罪により一時神と人との間が隔てられたのを、ここにキリストの再臨による新天新地の実現によりて再びパラダイスが回復せられ、神と人とが不離密接の関係において生きるに至るのである。
辞解
本節の光景も旧約聖書に預言されている処である(黙7:15。レビ26:11、12。エレ31:33。エゼ37:27。ゼカ2:14、15。ゼカ8:8)。
[神の幕屋] 神と人との相逢う場所は神の幕屋の中の至聖所であつた。
21章4節 かれらの
口語訳 | 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。 |
塚本訳 | 彼らの目から悉く涙を拭い取り給うであろう。最早死もなく、悲嘆も叫喚も疼痛も最早無いであろう。初めの(天と地にあった)ものが(すっかり)消え去ったからである。」 |
前田訳 | 彼はすべての涙を彼らの目からぬぐい、もはや死がなく、もはや悲しみも叫びも痛みもない。先のものが消えうせたからである」と。 |
新共同 | 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」 |
NIV | He will wipe every tear from their eyes. There will be no more death or mourning or crying or pain, for the old order of things has passed away." |
註解: この世界における凡ての不幸なる現象が全く消滅することをいう。18章の光景と全く正反対である。この世は涙の谷であり死は凡ての人を支配し、悲歎と苦痛は絶えることがない。
辞解
この光景も旧約聖書に預言せられている(イザ25:8。イザ35:10。イザ65:19。ホセ13:14)。まさしく万人の渇望する処であるから。
[苦痛] ponos は新約聖書においては主として肉体的苦痛に用いらる(黙16:10、11)。
21章5節
口語訳 | すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。 |
塚本訳 | すると玉座に坐し給う者が言い給うた、「視よ、われ凡てを新しくする」と。また言い給う、「書け、この言は信ずべくまた真実であるから。」 |
前田訳 | 王座に座したもうものがいわれた、「見よ、わたしはすべてを新しくする」と。またいわれる、「書きしるせ。これらのことばは信ずべく、まことである」と。 |
新共同 | すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。 |
NIV | He who was seated on the throne said, "I am making everything new!" Then he said, "Write this down, for these words are trustworthy and true." |
註解: これがおそらく神御自身が直接ヨハネに語り給うことの明かな場合としての最初のものであろう。一切を新にすることは神の第二の創造ともいうべきもので、これによりて全世界の状態が一変する重大なる出来事である。キリスト者の全希望はこれに懸るが故に神は新たにこれを宣言し給う(Uコリ5:17。イザ43:18以下)。
また
註解: 新天新地の出現に関するこれらの言(3−5a)は特にこれを記録し置くべきである。その故はこの言には虚偽なく誤謬が無いからである。
辞解
この命令は天使の言で、その前後の神の言と区別すべきである。その理由としてはこの言は黙19:9、黙22:6と相似ていること、および前後の eipen に対して legei を用いていることを掲げることができる。かく解するならば「言いたまう」を「言う」と訳すべきである。▲ただしかく区別することは絶対的必要もなく、また絶対的でもない。むしろ神の言のつづきと見る方が宜し、訂正する。
21章6節 また
口語訳 | そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。 |
塚本訳 | そして私に言い給うた、「(事は)成った。我はアルパまたオメガ、初また終である。渇く者には無代で生命の水の泉から我は飲ませるであろう。 |
前田訳 | またわたしにいわれた、「事は成った。わたしはアルパまたオメガ、初めまた終わりである。わたしは渇くものにいのちの水の泉から価なしに飲ませよう。 |
新共同 | また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。 |
NIV | He said to me: "It is done. I am the Alpha and the Omega, the Beginning and the End. To him who is thirsty I will give to drink without cost from the spring of the water of life. |
註解: 6−8節において神自らの御口より多くの善美なる約束が繰返される。これらの多くは前にも録されているけれどもここに神の御口より出でてその意味が一層新鮮となる。
辞解
[我はアルパなりオメガなり] 黙1:8註参照。なお黙22:13にはこの語がキリストに関して用いらる。
[始なり終なり] 神は創造者にして完成者に在し給う。
[渇く者には云々] イザ55:1により人間の心の切なる要求と代価なしにこれを満し給う神の恩恵とを示す有名なる聖句、本書の中にも 黙7:17。黙22:17に繰返されている。なお黙22:1。イザ44:3。詩42:1以下。詩63:1参照。
口語訳 | 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。 |
塚本訳 | 勝利者はこの幸福を相続し、我は彼の神となり、彼はわが子となるであろう。 |
前田訳 | 勝利者はこれらを受け継ごう。そしてわたしは彼の神、彼はわが子となろう。 |
新共同 | 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。 |
NIV | He who overcomes will inherit all this, and I will be his God and he will be my son. |
註解: 2、3章において七つの教会の各に勝を得る者に対しての約束が与えられた。本節はその総括と見ることができる。「此等のもの」は新天新地と新しきエルサレムであり、七つの教会への種々の約束はみなこの中に包含される。
辞解
[嗣ぐ] パウロにおいてしばしば用いられる語で(ロマ8:17。ガラ4:7その他)パウロとヨハネの思想の根本的一致を示す一例である。
註解: 3節の説明を神自ら約束し給う、旧約の預言の要点で(創17:7、8。Uサム7:14)、神人合一の極致である。なおこれは未来のこととして記されているのはその実現が未来にあるからである。ただし現在においてその一部の実現を持っていたことは勿論である(Tヨハ3:1)。
註解: 8節は偽の信者および不信者異教徒に対する宣言である。
口語訳 | しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。 |
塚本訳 | しかし臆病者、不信の者、嫌悪むべき者、(また)殺人者、淫行の者、魔術を行う者、(また)偶像礼拝者、凡ての虚偽者──彼らの運命は、火と硫黄の燃えている池に投げ込まれることである。これは第二の死、(すなわち最後の死)である。」 |
前田訳 | 卑怯もの、不信のもの、不潔のもの、人殺し、姦淫のもの、魔術師、偶像礼拝者、すべてのうそつき−−彼らの分け前は火と硫黄の燃える池にある。これが第二の死である」と。 |
新共同 | しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」 |
NIV | But the cowardly, the unbelieving, the vile, the murderers, the sexually immoral, those who practice magic arts, the idolaters and all liars--their place will be in the fiery lake of burning sulfur. This is the second death." |
註解: deiloi 臆病者で迫害に対してその信仰を棄て、または迫害を恐れて信仰に入り得ないもの。
註解: apistoi は不信者の意味の外また忠実ならぬものの意あり、その信仰に対して忠実ならず信仰を裏切る者をも含むことができる。本節はむしろこの後者を意味するならん。
註解: 異教徒の中に存せる偶像崇拝その他の不道徳に陥れるもの。
註解: これらはモーセの十戒の主要なる点の違反者で黙22:15。黙9:20、21等に記される処と同種の人々である。神に対する不信仰は必ずこの種の罪を伴う。
辞解
[偽る者] ヨハネは特に偽を嫌っていた (黙2:2。黙3:9。黙14:5。黙21:27。黙22:15)。
註解: 火と硫黄の燃ゆる池は神の永遠の審判の場所、なお黙19:20辞解参照。第二の死は一度死し甦りてさらにまた死ぬためにかく云う。以上のごときものはこの永遠の刑罰に入る。それ故にキリスト者たるものは如何なる迫害と苦難の下においてもかかる状態に陥ってはならない。第二の死は20章においてすでに完了せるものを再びここに繰返せるにあらず、新天新地に入り得る条件とそこより排斥される理由とを神の口より新に聞いたのである。
要義1 [新天新地に対する憧憬]「すべて造られたるものは今に至るまで共に嘆き共に苦しみ」つつあるけれども、これらのものにも「滅亡 の僕たる状 より解かれて神の子たちの光栄の自由に入る望は存 」っている(ロマ8:21、22)。美わしい自然、悠久なる天地の中にも我らはその奥底に深い呻吟 の声を聞くことができるのは何故であろうか、これサタンがその王座を占めて神に叛 いているからである。神の造り給いし天地の中にこの反逆の心が蔓 っている間は、そこに根本的の歓喜は有り得ない。それ故に人の心の底には全く新しい天地の出現を切望する心が潜んでいるのである。殊に復活完成せる新たなる人類にとりては、現存する不完全なる世界は相応しくない。それ故に完成せられし神の国について考える者は当然にこれに伴える新たなる天地について考えるのである。そして要求の存する処そこに必ずこれが充さるべきものが備えられることを思う時、この新天新地の出現は必ず実現すべきものであることを信ずることができる。
要義2 [神と人との家族的生活]聖書の理想とする神人合一は東洋的神秘思想における神人合一と異なる。後者は忘我的法悦の境地であって人格的対立は存在しない。然るに前者にあっては人格的の対立の中に愛による無我の一致を実現する家族的神人合一である。神の実在を信ずる者にとっては人格的関係を否定する神人合一は無い。しかしながら愛と信仰とによる二人格の一致はすでにその対立を超越している合一の姿である。ここに最も高き神人合一の姿がある。
要義3 [真に救われるもの]黙示録全体に漲 る著しき思想は、救われて神の国に入る者と、審かれて滅亡に入るものとの区別が、各人の表面の信仰如何とは全く関係がなく、唯神の選びと各人の実際の生活如何による点である。「臆病者、不実もの」等が第二の死の報を受けるがごとき事実も、名義上のキリスト者たると否とは問題とならない。問題となる点は唯真のキリスト者なりや否や、すなわち真にキリスト者たる信仰を生きるや否やにある。神の審判の前にはキリスト者たる外的名称は何らの効果も無い。
21章9節
口語訳 | 最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。 |
塚本訳 | すると最後の七つの災厄が盛られた七つの鉢を持つ七人の天使の一人が来て、私に語って言うた、「さあ(此処に来い。)仔羊の妻たる新婦をお前に示そう。」 |
前田訳 | 七つの最後のわざわいで満ちた七つの鉢を持つ七人の天使のひとりが来て、わたしに話しかけた。いわく、「来なさい、小羊の妻である花よめを見せよう」と。 |
新共同 | さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。」 |
NIV | One of the seven angels who had the seven bowls full of the seven last plagues came and said to me, "Come, I will show you the bride, the wife of the Lamb." |
21章10節
口語訳 | この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。 |
塚本訳 | そして霊にて私を大きな高い山の上に連れて行き、聖なる都エルサレムが神の栄光をもって天から、神(の御許)から降って来るのを私に示した。 |
前田訳 | 彼は霊に感じたわたしを大きな高い山に連れ、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て天から下るのを見せた。 |
新共同 | この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。 |
NIV | And he carried me away in the Spirit to a mountain great and high, and showed me the Holy City, Jerusalem, coming down out of heaven from God. |
註解: 2節に簡単に記せる新しきエルサレムの詳細を見せんために御使はヨハネを高き大なる山に連れて行った。この新しきエルサレムは羔羊 の妻なる新婦すなわち教会である。かくして天的教会は地上に実現するのである。この教会は神の栄光をもって輝く。
辞解
[七つの苦難の満ちたる七つの鉢を持てる七人の使の一人] 黙17:2 辞解参照。黙17:1とこことに特にこの御使の同一なることを記せるは、ローマとエルサレム、大淫婦と新婦とを対比せんがためならんと想像する学者が多い。
[御霊に感じたる我を] 「御霊の中に我を」。
[大なる高き山] 表徴的の意味で全都市を瞰下する意味。
[神の許、天より] 2節辞解参照。
[神の栄光をもて] 原文の区分では次節に入る。
註解: 11節以後にこの新エルサレムの説明あり。11−14節はその外形、15−17節はその
広袤 、18−21節はその材料、22−27節はその内部を示す。
21章11節 その
口語訳 | その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。 |
塚本訳 | その光輝は究めて高価な宝石に似て居り、水晶の如く透明な碧玉のようである。 |
前田訳 | それは神の栄光を帯びていた。その輝きは高価な宝石に似、透明な碧玉のようであった。 |
新共同 | 都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。 |
NIV | It shone with the glory of God, and its brilliance was like that of a very precious jewel, like a jasper, clear as crystal. |
註解: 新エルサレムは彼自身に光を発しておりあたかも宝玉のごとき美観を呈している。キリストがまことの光に在し給うごとくその花嫁もまた光り輝く発光体であり、その生活とその姿は尊貴と美と透明さとを具えている。
辞解
[光輝] phôstêr は光 phôs そのものよりも発光体を指す。
[碧玉] 黙4:3辞解参照。
21章12節
口語訳 | それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。 |
塚本訳 | (其処には)大きな高い城壁があり、十二の門があって、門には十二人の天使が居り、イスラエルの子らの十二族の名が書きつけてある。 |
前田訳 | その城壁は大きく高く、十二の門があり、門には十二人の天使がおり、イスラエルの子らの十二の族の名がしるしてあった。 |
新共同 | 都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。 |
NIV | It had a great, high wall with twelve gates, and with twelve angels at the gates. On the gates were written the names of the twelve tribes of Israel. |
21章13節
口語訳 | 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。 |
塚本訳 | (すなわち)東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門(がある)。 |
前田訳 | 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。 |
新共同 | 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。 |
NIV | There were three gates on the east, three on the north, three on the south and three on the west. |
註解: エゼ48:31以下の光景と相似ている。大なる高き石垣は神の保護と、これによる神の民の安全とを示し、十二の門は神の国の数なる十二に因めるもの、十二人の御使はこの都を守る門守であり(イザ62:6)、その各々にイスラエルの十二の族の名が記されているのはエゼ48:31以下のごとく各族に従ってその通用門を区別せんがためではなく、神の都なるエルサレムは真の意味のイスラエルであり、従って十二の族から成ることを示す(黙7:4−8)。黙示録においては神の国と霊のイスラエルとは常に同一として取扱われている。東西南北に各三つの門があるのはエゼ48:31以下と同様で恐らく全地の四方に等しく相通ずることを意味したものであろう。なお民2:3以下とも、またエゼ48:31以下とも東西南北の順序を異にしているのは故意の変更なるべく(S3)、おそらくヨハネは十二の族を特別の意義をもって取扱ったことを示さんがためであろう。
21章14節
口語訳 | また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。 |
塚本訳 | また都の城壁には十二の土台石があり、その上に仔羊の十二人の使徒の十二の名が(書いて)ある。 |
前田訳 | 都の城壁には十二の土台があり、その上に小羊の十二使徒の十二の名があった。 |
新共同 | 都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。 |
NIV | The wall of the city had twelve foundations, and on them were the names of the twelve apostles of the Lamb. |
註解: この神の都の基礎は十二使徒であり、各一人が一つの基礎をなしている。各々自己の個性とその天職とを保持しつつ相共に一致して神の都の石垣を支えている貌を為している。十二使徒と云うは具体的に特定の十二人を指したのではなく、これを一団の職名として用いたものと見るべきであって、パウロがこの十二人中にありや否や等を問題とすべきではない。また神の都、神の国の基礎は事実としては十二人に限るべきではない。 この点においてマタ16:18(ペテロ一人)。エペ2:20(使徒と預言者)。Tコリ3:10(パウロ)参照。 唯十二使徒なる名称の中にイエスの選びとその任命との観念および十二の族と共に神の国を表徴する数に因んでいることを注意すべきである。
21章15節
口語訳 | わたしに語っていた者は、都とその門と城壁とを測るために、金の測りざおを持っていた。 |
塚本訳 | 私に語る者は都とその門と城壁とを測るために金の間棹の尺度を持っていた。 |
前田訳 | わたしと語るものは金の測り竿を持っていた。都とその門と城壁をはかるためである。 |
新共同 | わたしに語りかけた天使は、都とその門と城壁とを測るために、金の物差しを持っていた。 |
NIV | The angel who talked with me had a measuring rod of gold to measure the city, its gates and its walls. |
21章16節
口語訳 | 都は方形であって、その長さと幅とは同じである。彼がその測りざおで都を測ると、一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、いずれも同じである。 |
塚本訳 | 都は真四角で、その長さは幅と同じである。彼は間棹で都を一万二千町と測った。長さと幅と高さとは(皆)同じでる。 |
前田訳 | 都は四角で長さは幅と同じであった。彼は都を竿ではかると一万二千スタデオであった。その長さと幅と高さはひとしい。 |
新共同 | この都は四角い形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。 |
NIV | The city was laid out like a square, as long as it was wide. He measured the city with the rod and found it to be 12,000 stadia in length, and as wide and high as it is long. |
21章17節 また
口語訳 | また城壁を測ると、百四十四キュビトであった。これは人間の、すなわち、御使の尺度によるのである。 |
塚本訳 | またその城壁を人間の尺度、すなわち、(この)天使の尺度で百四十四キュビットと測った。 |
前田訳 | 城壁をはかると百四十四ペキュスであった。これは人間の尺度であるが、天使の尺度でもある。 |
新共同 | また、城壁を測ると、百四十四ペキスであった。これは人間の物差しによって測ったもので、天使が用いたものもこれである。 |
NIV | He measured its wall and it was 144 cubits thick, by man's measurement, which the angel was using. |
註解: この3節は都の広袤 を示す。御使は金の間竿 をもって都と石垣とを測った。この都は正立方形であって、その各辺が1万2千スタデイアである。すなわち2千キロメートル余に当る。この尨大なる広袤 は神の都の大きさが殆んど人間の想像を超越することを示し、その正立方形なることは均整、安定、正義、完全等を示し、神の都の性質を表顕している。石垣は144ペークスで約65メートルに当り、都の高さ2千キロメートルに比して不釣合に低いのは神の都の霊的存在としての高さが非常に高く、また、これを囲んで他の襲撃を防禦しまたは他との区別を明示するの必要なきを示すためであろう。石垣を高くするのは、内部の虚弱を示す。そして神の都においては人の尺度は御使の尺度となるのであって、この世の人間の尺度とは全くその趣を異にしているのである。ゆえに我らはこれらの数字をこの世の観念をもって判断してはならない。
辞解
[門] これを測つたことは録されていないけれども石垣よりこれを想像することができる。
[方形] ソロモンの神殿の形(T列6:20)の正立方形なるに因みしものであろう。これを比喩的に四福音書と解しまたは長さ、幅、高さをそれぞれ信望愛にたとえるごときことはこの場合に適当しない。
[一千二百町] 「一万二千町」の誤訳、1町は原語1スタディオンで183メートル余。従って1万2千スタディアは2千2百キロの尨大なる長さとなる。表徴的意味であることは勿論である。ラビの想像の中で最も突飛なりしものといえどもエルサレムの大さはダマスコまでと考えられ、その石垣の高さは47キロと考えられたに過ぎなかつた。「石垣」の高さがこれに対して不釣合なる点より、これを石垣の厚さと解せんとする説あれど、特にこれを明示せざる故やはり高さと見るを可とすべく、この不釣合なる点に上記註のごとき意味あるものと解してかえって表徴の妙味が存する
[人の度 すなはち御使の度 ] 一般に御使の用いし尺度も普通の人間の尺度と同一であることを示すと解せられているけれども、予は上掲のごとくに解した。なおこの尺度は前二節に関するものと見るを可とす。
21章18節
口語訳 | 城壁は碧玉で築かれ、都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。 |
塚本訳 | 城壁の建築は碧玉、都は潔い玻璃に似た純金である。 |
前田訳 | 城壁の基は碧玉で、都は透明なガラスに似た純金であった。 |
新共同 | 都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。 |
NIV | The wall was made of jasper, and the city of pure gold, as pure as glass. |
註解: 神の都の美わしさ、貴さ、明朗透徹 にして隠れたる何物もなきこと、永遠に不汚不朽不変なること等を形容せるもの(イザ54:11、12)。
21章19節
口語訳 | 都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、 |
塚本訳 | 都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られている──第一の土台石は碧玉、第二は青玉、第三は玉髄、第四は緑玉、 |
前田訳 | 都の城壁の土台はあらゆる宝石で飾られている。第一の土台は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四は緑玉、 |
新共同 | 都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、 |
NIV | The foundations of the city walls were decorated with every kind of precious stone. The first foundation was jasper, the second sapphire, the third chalcedony, the fourth emerald, |
21章20節
口語訳 | 第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。 |
塚本訳 | 第五は赤縞瑪瑙、第六は赤瑪瑙、第七は貴橄欖石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十は緑玉髄、第十一は風信子石、第十二は紫水晶。 |
前田訳 | 第五は赤じまめのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉(おうぎょく)、第十は緑玉髄(りょくぎょくずい)、第十一は風信子(ヒアシンス)石、第十二は紫水晶である。 |
新共同 | 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。 |
NIV | the fifth sardonyx, the sixth carnelian, the seventh chrysolite, the eighth beryl, the ninth topaz, the tenth chrysoprase, the eleventh jacinth, and the twelfth amethyst. |
註解: 新エルサレム市の美観をこれによりて想像することができる。この各の宝石に一々表徴的意味を附けることは不可能でもあり、また著者の意思でもないであろう。唯神の都においてはその構成分子をなす各人は各々その特色を発揮しつつ神の都の市民となり、しかもこれ等が相合して一大美観を呈することを示すものと見ることを得、また神の都の構成分子はその一つ一つが非常に高貴にして宝玉のごとくであることを示していると考えることができる。
辞解
[十二種の宝石] この中、第三、五、十、十一の四種を除きその他の八種は祭司の胸牌(むねあて、出28:15−21)の十二の宝石中の八種に一致しているけれども順序は異なる。これおそらく祭司の胸牌と同一視せられざるようにとの用意であろう。ただしこの十二種の宝石が今日の何石に相当するかは明瞭ならざるものが多いので種々の説がある。(なおイザ54:11。出28:17以下、エゼ28:13参照)。
21章21節
口語訳 | 十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。 |
塚本訳 | また十二の門は十二の真珠で、門の一つ一つはそれぞれ一つの真珠であった。また都の大通りは透き徹る玻璃のような純金であった。 |
前田訳 | 十二の門は十二の真珠であり、それぞれの門はひとつの真珠でできていた。都の広場は透明なガラスのような純金であった。 |
新共同 | また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。 |
NIV | The twelve gates were twelve pearls, each gate made of a single pearl. The great street of the city was of pure gold, like transparent glass. |
註解: 門が一の真珠より成ることは当時のラビの文書にも存している。都の美しさを示し、大路の材料は18節註を見よ、かくして新しきエルサレムは全く純金と純宝石類とをもって造られていることがわかる。
辞解
[真珠] 旧約聖書においては宝石の中に数えられて居ないけれども新約においてはしばしば現われており (マタ7:6。マタ13:46。Tテモ2:9) 当時も貴重なるものと考えられていた。
21章22節 われ
口語訳 | わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。 |
塚本訳 | 都の中には宮を見なかった。全能者たる主なる神と仔羊とがその宮であるからである。 |
前田訳 | わたしは都で宮を見なかった。主なる全能の神と小羊がその宮である。 |
新共同 | わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。 |
NIV | I did not see a temple in the city, because the Lord God Almighty and the Lamb are its temple. |
註解: 宮 naos は聖所にしてその中で神と人とが相逢う場所である。神と羔羊 とが至聖所であるということは人はみな神の中におりまたキリストの中にいることおよび神および羔羊 が我らと共に在し給う処は凡てみな聖所であることを意味す。 ヨハ15:4。ヨハ14:20、ヨハ4:21−23 の思想と一致する。なお神および羔羊 を宮(至聖所)と称するを見ても本書の用語が如何に霊的に抽象的に用いられているかを見ることができる。
21章23節
口語訳 | 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。 |
塚本訳 | また都はそれを照らすのに太陽をも月をも必要としない。神の栄光がそれを照らし、仔羊がその燈火であるからである。 |
前田訳 | 都はそこを照らすために日も月も要しない。神の栄光が都を輝かせた。その明かりは小羊である。 |
新共同 | この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。 |
NIV | The city does not need the sun or the moon to shine on it, for the glory of God gives it light, and the Lamb is its lamp. |
註解: 神は光なり(Tヨハ1:5)キリストは真の光なり(ヨハ1:9)。然るにこの世の神なるサタンはこの光を覆うた(Uコリ4:4)。今やサタンのいなくなった神の都においては、この光が照さぬ隈なく輝くに至った。神の光を受けて凡てが明くなる(イザ60:19。なお黙22:5参照)。なお、日、月を栄光および燈火と変化したのはキリストを月にたとえることの不適当を感じたからであろう(S3)。
21章24節
口語訳 | 諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。 |
塚本訳 | 諸国の民はその光の中を歩むであろう。また地の王達は彼らの(有つ凡ての)光栄をここに持って来る。 |
前田訳 | 諸国民はその光の中を歩み、地の王たちはおのが栄光をそこにもたらす。 |
新共同 | 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。 |
NIV | The nations will walk by its light, and the kings of the earth will bring their splendor into it. |
註解: 新しきエルサレムにおいては、ユダヤ人と異邦人というごとき人種の区別がなく異邦人もみなその光の中を歩み、また各人の地上における栄光はこの都の中においても消失しない。ちなみにすでに18、19章において全世界が審判 かれ死ぬべきものは第二の死に入り、生くべきものは復活せること故、今また新に諸国民や地の王たちがここに入り来ることは不審であるけれども、これはヨハネがイザ60章のごとき旧約の預言の語法を用いたためであり、そしてその意味は現在新しきエルサレム以外にかかる民や王がいるというのではなく、かつて諸国民すなわち異邦人であった者、また地の諸王たちも今はそのまま新エルサレムの都に入りおることを示す。すなわちこの都の普遍性を明かにしたのである。新しきエルサレムはユダヤ人のみの専有でもなくまたその支配の下にあるのでもない。
21章25節
口語訳 | 都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。 |
塚本訳 | その門は一日中決して閉ざされないであろう、其処には夜が無いのである。 |
前田訳 | 都の門は終日閉ざされない。そこには夜がないからである。 |
新共同 | 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。 |
NIV | On no day will its gates ever be shut, for there will be no night there. |
註解: 出入りの自由なることを示す(イザ60:11、20。ヨハ10:9註参照)。もはやこの都に入り得ざるごとき民は無く、また外敵の侵入の憂いもなき故この都の門は終日閉じない、また門を閉じるのは夜であるが夜なき都故閉じる必要はない。夜はサタンの世界である(ロマ13:12。エペ5:11)。
辞解
[此処に夜あることなし] 「そはそこに夜なければなり」。
21章26節
口語訳 | 人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。 |
塚本訳 | 諸国の民はその光栄と栄誉とをここに持って来るであろう。 |
前田訳 | 諸国民の栄光と誉れがそこへもたらされよう。 |
新共同 | 人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。 |
NIV | The glory and honor of the nations will be brought into it. |
註解: 地の王たち(24節)のみならず諸国の民、異邦人もその光栄と尊貴とを携えてこの都に来る。ユダヤ人にも異邦人にもそれぞれ独特の栄光がありまた尊さがある。かくして新しきエルサレムは神の造り給い救い給える全人類の栄光と尊貴とその他のあらゆる美観とをもって充されるであろう。一人としてこの都の飾りに役立たない人間はない。
21章27節
口語訳 | しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。 |
塚本訳 | しかし凡ての穢れたもの、嫌悪むべきことと虚偽とをする者は、決してここに入れない。ただ仔羊の生命の書に(その名を)書かれている者だけがここに入るであろう。 |
前田訳 | およそ汚れたもの、いまわしいことや偽りを行なうものは、決してそこに入れない。入れるのは小羊のいのちの書にしるされているものだけである。 |
新共同 | しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。 |
NIV | Nothing impure will ever enter it, nor will anyone who does what is shameful or deceitful, but only those whose names are written in the Lamb's book of life. |
註解: 黙21:8。黙22:15と同じく新しきエルサレムに入り得ざる者の種類を示して読者を警戒している。この内容は黙20:11−15と同一事であって、これがかくしばしば繰返されることは、ヨハネがこれによりて読者を潔めんとする希望の顕われであり、本書の録されし根本の目的がここにあることが判る(イザ35:8。イザ52:1。エゼ44:9)。なお本節により、凡て悪を行う者は生命の書に録されていない者であることがさらに一層明かとなる。
辞解
[穢れ] 旧約における儀式的意義より新約において道徳的意義に進化した。
[憎むべきこと] 黙17:4辞解参照。
[虚偽] ヨハネの最も嫌える処、信仰の正反対、8節辞解参照。
要義1 [新しきエルサレムの実相]9−27節に録される新しきエルサレムの実相を想像するに、ここに掲げられる形状その大さ、その材料等は何れもみな表徴的であることは明かである。2千2百キロの高さに達する都市、一つの真珠をもって造れる門、透明なる金等何れも表徴的表顕法によることは明かである。それ故にこれを基礎として新しきエルサレムの実際を叙述するならば、その都は神およびキリストの完全なる支配の下にある一家族であり、神とその民との間には完全なる愛と霊の一致があり、その美しさは現在地上の最も美わしきものをことごとく一つに集めたよりもさらに美しく、その基礎は十二使徒によりて伝えられし信仰であり、その全体は霊のイスラエルであり、そして天下の万民にして生命の書に記されるものはみなこの都に入ることを得るごときものであるというのである。要するに人間の考え得る神人合一の至福境であり、回復せられし楽園であり、新天新地である。神と人との関係として人間の思考し得る最善の境地をヨハネはかかる表徴をもって表顕したものである。
要義2 [新エルサレムの実現は可能なりや]上記要義一のごとくに解する場合においては新エルサレムの実現は可能である。ただしこれは人間の努力によって実現するのではなくキリストの再臨により、サタンが征服されることによりて始めて可能である。故にこの凡ては神の御業と羔羊 の御業であり、唯信仰のみによって受納るべき事柄である。
黙示録第22章
6-(2)-(ホ) 新エルサレムの飲食物および薬種
22:1 - 22:5
註解: 1−5節は新エルサレムをエデンの園になぞらえて、回復せられし楽園として記載し神の民の飲食物を示している。
22章1節
口語訳 | 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、 |
塚本訳 | 天使はまた神と仔羊の玉座から(流れ)出ている水晶のように輝いた生命の水の河を私に示した。 |
前田訳 | 彼(天使)は神と小羊のみ座から出て水晶のように輝くいのちの水の川をわたしに示した。 |
新共同 | 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。 |
NIV | Then the angel showed me the river of the water of life, as clear as crystal, flowing from the throne of God and of the Lamb |
註解: 生命の水は聖霊である(ヨハ7:38、39)。この生命の水の河は神と羔羊 の御座(単数)より出で都の大路の中央を流れて凡ての人の飲むにまかせている。神と羔羊 の御座より出づるが故に神の霊であり、都の大路の中央を流れるが故に何人もこれを飲むことを得ることがその特徴である。
辞解
この描写は創2:9以下とエゼ47:1−12との光景に類似しているけれどもこの何れとも同一でない。全く新しき神の特別の光景である(詩46:4)。
[生命の水] 黙7:17。黙21:6。黙22:17。ヨハ4:14 。なお旧約にも同一の思想あり(ヨエ4:18。ゼカ14:8。エゼ47:9)。
[都の大路の真中] これを次節に入れて読む読み方あり、次節辞解参照。
22章2節
口語訳 | 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。 |
塚本訳 | 都の大通りの真中と河の此方彼方に生命の樹があって、(一年に)十二度実を結ぶ、すなわち月毎に実が生るのである。そしてその樹の葉は諸国の民(の凡ての病と傷と)を医す。 |
前田訳 | それは都の大通りの真ん中を流れていた。川の両側にいのちの木がある。それは十二たび実り、ひと月ごとにその実をむすぶ。その木の葉は諸国民のいやしに役だつ。 |
新共同 | 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。 |
NIV | down the middle of the great street of the city. On each side of the river stood the tree of life, bearing twelve crops of fruit, yielding its fruit every month. And the leaves of the tree are for the healing of the nations. |
註解: 創2:9。創3:22、24にあり、ケルビムと自ら旋転 る焔の剣をもって守られていた生命の樹はここでは自由に各人の食うに任されている。その数は神の都に相応しく十二であり、その果実も毎月その種類を異にする十二種の果実を生じ、これによりて養われる生命の豊富さを示している。かつその樹葉は病を醫す効果があり、かくして新エルサレムの住民はこの生命の樹の実によりてその霊の生命を養い霊の病を醫す。神の都の住民といえども生きる以上霊的の病があり得ると考えられていることが判る。
辞解
前節の「都の大路の真中」を本節に入れて読む読み方が多い。すなわちあるいは「都の大路の真中に河の両側に生命の樹あり」と読むかまたは「都の大路と河との間に此岸にも彼岸にも生命の樹あり」(S3、S1、H0)と読む、何れにしても事実上の差異はなく、文法的には何れも難点あり。
[十二種の実] 「十二の実」であるけれども十二種と解すべきであろう。
[樹] xulon 創2:9に従い単数形を用いているけれどもここでは集合名詞的に用いられている。
「醫す」ことを現在における教会の機能と見るは(S3)前後の調和が取れない。
22章3節
口語訳 | のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、 |
塚本訳 | 最早凡ての呪詛が無いであろう。そして神と仔羊の玉座が都の中にあって、その僕達は(其処で)彼に仕え、 |
前田訳 | もはやいかなる呪いもなかろう。神と小羊のみ座がそこにあり、彼の僕らは彼に仕えよう。 |
新共同 | もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、 |
NIV | No longer will there be any curse. The throne of God and of the Lamb will be in the city, and his servants will serve him. |
22章4節
口語訳 | 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。 |
塚本訳 | (おおけなくも目のあたり)御顔を拝し、その御名が彼らの額に(書いて)あるであろう。 |
前田訳 | 彼らはみ顔を見、額にみ名をしるされよう、 |
新共同 | 御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。 |
NIV | They will see his face, and his name will be on their foreheads. |
註解: 神の都の民は凡てイエスの血に贖われて義とせられし者なる故、もはや詛わるべき者がいるはずがない。すなわち全市民みな聖 きものとして神の御前に立つことができる。そして都の中には神と羔羊 との御座(単数)あり、かつては天にありしこの御座は今や新エルサレムの中にあるようになる。そしてその僕らはこれに事 えこれを礼拝する。これかつては至聖所の中において年に一回大祭司にのみ許されし処であった。この全市民の礼拝こそ真の永遠なる、完全なる礼拝である。黙7:15に予示せられし事実がここに実現するのである。そしてこれらの僕たちはモーセすらも許されなかったこと(出33:20、23)すなわち神の御顔を見ることを許されるのである。かつては神の顔を見る者は死ぬべきものとなされていた(出33:20。創32:31。申5:24。士6:22、23。イザ6:5)。然るにこの都においては歓喜と平和との中に神の顔を見ることを得るに至るであろう。詩17:15の約束の実現である。額に神の名があることは黙7:3において印せられしが故である。神に対する全き献身を意味する。
22章5節
口語訳 | 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。 |
塚本訳 | また(昼夜の別が消え失せ)最早夜が無いであろう。(其処では)燈火の光も太陽の光も必要がない。主なる神が彼らを照らし給うから。そして彼らは永遠より永遠に王となるであろう。 |
前田訳 | 夜はもはやなく、燈火の光も日の光も無用である、主なる神が彼らを照らしたもうから。そして彼らは世々とこしえに王者となろう。 |
新共同 | もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。 |
NIV | There will be no more night. They will not need the light of a lamp or the light of the sun, for the Lord God will give them light. And they will reign for ever and ever. |
註解: 新エルサレムの民は燈火をも日光をも要せず、神の光の中にありて完全に凡てのものを見ることができる。神の光をもって見ることは最も正しき見方である。また彼らは彼らに与えられし約束に従い(黙2:26、27)キリストと共に王となり支配することができる。この支配は神の子らに与えられし特権であり、永遠に絶ゆることがない。ゆえに黙20:4の千年王国における有限の支配とはその趣を異にする。なお本節と黙21:23、24と重複するがごときも黙21:23、24は神の都の光景であり本節はその人民の心持である。
要義1 [楽園恢復]黙示録は凡ての点において創世記に対応しており、聖書の最後に置かれたことは寔 に意義深きことである。次にこれを列挙すれば
(創世記) (黙示録) 天地の創造 新天新地の創造 人類の創造 新人類の創造(復活) サタンの活動の始 サタンの活動の終焉 神と人との分離(罪、詛) 神と人との共存(義、救) 楽園の喪失 楽園の恢復 キリスト支配の預言 キリスト支配の実現
等であり黙示録は寔 に善く天地の終末と新天新地の出顕の光景とを叙述しているのである。創世記によりて罪が起り人類世界にその根本の問題を提出したのであるが、これがキリストの十字架によりて根底的原則的に解決され、さらにその再臨によりて完全に解決し尽されているのである。これがすなわち黙示録であって、もし聖書中に黙示録が無かったならば、聖書は首尾一貫せざる不具者のごとき形を為すに至るのである。本書の存在によりて聖書は実に完全なる一幅の画となったのである。
要義2 [新天新地の実質]人類の復活、新天新地の出現等今日の科学や、人類の経験以内において理解説明し得ざる事柄を如何ように考えるべきかは困難なる問題である。しかしながら罪の苦悩の中にある現在の人類が神の力によりて新しき人類に復活することの事実は人類の最高至深の要求であるのみならず、また万能の神の御業に相応しきことである。そして人間そのものが全く新たなるものとなる場合、その眼に映ずる天地もまた全く新なるべきは極めて当然のことである。黙示録の全体は表徴的記載である故、これを文字通りに解すべきではない。さりとてこれを単に人間の霊界の問題の具体的表顕とも解すべきではない。黙示録の全体は新しき人類(むしろ神類とも称すべき復活の人類)とその住むべき世界における全く特異なる天地の光景を現在の世界において黙示によりて示された範囲の表徴的記述であると見るべきである。ゆえに今よりその実際の有様如何を好奇的に論議すべきではなく、また如何にこれを研究するも今よりその実体を把握することは不可能である。我らは唯これを信仰をもって待望むべきである。
分類
7 結尾
22:6 - 22:21
7-(1)-(イ) 本書の価値
22:6 - 22:7
22章6節
口語訳 | 彼はまた、わたしに言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。 |
塚本訳 | 彼が私に言うた、「(凡て)これらの言は信ずべくまた真実である。預言者達の霊の主なる神がその使いを遣わして、(必ず)直に起こるべき(これらの)ことをその僕達に示し給うたのである。」 |
前田訳 | 彼はわたしにいった、「これらのことばは信ずべく、まことである。預言者の霊の主なる神が、僕たちに間もなくおこるべきことを示すためにみ使いをつかわされた。 |
新共同 | そして、天使はわたしにこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。 |
NIV | The angel said to me, "These words are trustworthy and true. The Lord, the God of the spirits of the prophets, sent his angel to show his servants the things that must soon take place." |
註解: 本節以下は本書の結尾であって、本書の序言黙1:1−20に相対応する。すなわち本節後半は黙1:1に近い。
辞解
[彼] 恐らく黙21:9、黙21:15の御使ならん。
[これらの言] 黙示録の全体。
[信ずべきなり真なり] 私訳「真実なり真正なり」、そこに一つの虚偽なく誤謬がない。
[預言者たち] 以下をヨハネの挿入と見る説あれど、必ずしもかく解する必要はない。
[預言者たちの霊〔魂〕の神たる主] 神は預言者たちの霊を支配して彼らをして預言せしめ給う。ゆえにこの御使に示されてこれを書き録せるヨハネもこの神の支配の下にある預言の霊によりて動かされたのであつた。
22章7節
口語訳 | 見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」。 |
塚本訳 | (イエスが言い給うた、)「そして視よ、私は直に来る。幸福なる哉、この書の預言の言を守る者!」 |
前田訳 | 見よ、わたしはすみやかに来る。さいわいなのはこの書の預言のことばを守るもの」と。 |
新共同 | 見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである。」 |
NIV | "Behold, I am coming soon! Blessed is he who keeps the words of the prophecy in this book." |
註解: 前半は明かにイエスの御言であり、後半は「この書」とあるを見れば此書を録し終れるヨハネの言のごとくにも思われる。しかし聖書は「往々エホバ言い給う」を省略してエホバの言を引用する場合ある故(イザ61:8。イザ16:10)およびかつ9節にも「此の書」とあるを見れば本節の始めに「イエス言い給う」を入れ、「この書」以下を天使の言の続きと見れば最も自然にこれを理解することを得。すなわちイエスがかく言い給う故にこの書の言を守ることは益々必要なりとの意味の天使の言である。ゆえに6−7節には(1)本書の内容の真実たること。(2)本書の預言の真正なること。(3)これを守ることの必要が高調せられている。「幸福なり」は本書の七福の第六(黙1:3参照)。
22章8節 これらの
口語訳 | これらのことを見聞きした者は、このヨハネである。わたしが見聞きした時、それらのことを示してくれた御使の足もとにひれ伏して拝そうとすると、 |
塚本訳 | これらのことを聞きまた見たのはわたしヨハネである。そして(これを)聞きまた見た時、私はこれらのことを示してくれた天使を拝もうと、その足下に平伏した。 |
前田訳 | わたしヨハネは、これらを聞き、また見た。聞き、また見たとき、これらをわたしに示した天使の足もとに伏して拝もうとした。 |
新共同 | わたしは、これらのことを聞き、また見たヨハネである。聞き、また見たとき、わたしは、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。 |
NIV | I, John, am the one who heard and saw these things. And when I had heard and seen them, I fell down to worship at the feet of the angel who had been showing them to me. |
22章9節 かれ
口語訳 | 彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書の言葉を守る者たちと、同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい」。 |
塚本訳 | すると彼は(遮って)私に言う、「(いけない、)するな! 私はお前や、お前の兄弟である預言者達や、この書の言を守っている人達の同輩である。(私を拝むな。)神を拝め。」 |
前田訳 | すると彼はいう、「それはいけない。わたしはあなたやあなたの兄弟である預言者ら、この書のことばを守る人々と同じ仲間の僕である。神をこそ拝みなさい」と。 |
新共同 | すると、天使はわたしに言った。「やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。」 |
NIV | But he said to me, "Do not do it! I am a fellow servant with you and with your brothers the prophets and of all who keep the words of this book. Worship God!" |
註解: 黙示の全部が終了せし時のヨハネの心持とその能度とを示す。ヨハネはこの新エルサレムの光景のあまりにも壮大雄渾 であったために黙19:10の天使の警戒を忘れて再びその天使の前に平伏してこれを拝せんとした。天使がこれを拒み、自己をヨハネ、預言者および一般の信徒と全く同列に置いたのは、ヨハネの預言者たる資格を強調せんがためと見るよりも(B3)、むしろ一般キリスト者が天使と同じ資格を有ち、天使が見しこれらの光景をやがて見ることができることの確信と希望とを与え、そして拝すべきものはこれらのことを造り給う神御自身のみであることを知らしめんがためであったろう。
口語訳 | またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。 |
塚本訳 | 彼はまた私に言う、「この書の預言の言を封ずるな。(審判の)時期が近いから。 |
前田訳 | また彼はいう、「この書の預言のことばを封じるな。時は近い。 |
新共同 | また、わたしにこう言った。「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。 |
NIV | Then he told me, "Do not seal up the words of the prophecy of this book, because the time is near. |
註解: 10−15節は誰の言なるかにつきて意見が分れる。(1)これを全部イエスの言と見るもの(H0、ローマイヤー)。(2)10、11を天使、12、13をキリスト、14、15をヨハネの言と見るもの(B3)、(3)12、13はキリスト、その他を御使の言と見るもの(S3)等である、第一説を取る。
『この
註解: ダニエルの預言は衆多くの日の後にあるべきことでこれを秘しおくように命じられているのに反し、この書の預言はその実現すべき「時近き」故これを封ぜずにできるだけ多くの人にこれを示すべきである。然るに今日この書はその難解なるがためにこれを封ぜられたる書としてこれに触れずにいることは甚だしき誤りである。
22章11節
口語訳 | 不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。 |
塚本訳 | 不義をする者はなおも不義をして居れ。穢れた者はなおも穢れて居れ。(しかし)義なる者はなおも行って居れ。聖い者はなおも聖くして居れ。」 |
前田訳 | 不義者はなお不義を行なえ、汚れのものはなお汚れを行なえ、義者はなお義を行なえ、聖徒はなお聖徒であれ」。 |
新共同 | 不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。 |
NIV | Let him who does wrong continue to do wrong; let him who is vile continue to be vile; let him who does right continue to do right; and let him who is holy continue to be holy." |
註解: 不義不浄なるものに悔改めを説かずしてかえってその中に留るべき命令を下していることは一見甚だ無慈悲なるがごとくであるけれども、これは黙示文学慣用の語法であって(ダニ12:10。エゼ3:27)、これだけ懇切に注意を与えてもなお悔改めない以上は勝手にするがよいというごとき心持である。愛と憐憫に慣れて神を蔑 する者には最後にかくのごとくして彼らを衝き出すことがかえって彼らをして反省せしむる機会となるのである。これによりて時の切迫せることと、人の心の驚くべき頑固さとをここに示していると見ることができる。
辞解
[いよいよ] eti は「なお」と訳する方が適当ならん。
[清き] 「聖き」と訳す。
22章12節
口語訳 | 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。 |
塚本訳 | (イエスが言い給う、)「視よ、私は直に来る。行為に応じて各人に与える私の報酬も私と共に来る! |
前田訳 | 「見よ、わたしはすみやかに来る。わたしは報いをたずさえ、それぞれのわざによってそれを与える。 |
新共同 | 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。 |
NIV | "Behold, I am coming soon! My reward is with me, and I will give to everyone according to what he has done. |
註解: 私訳「視よ我速に到らん、我が報は我と共にあり、・・・・・」黙2:23。黙20:12。ロマ2:6以下等にあるごとく行為に随 いて報いを与えられることは聖書の大原則であり、殊に旧約聖書においてこの点著明である(詩62:12。ヨブ34:11以下。エレ32:19。エゼ33:20)。なお信仰によりて義とされることとの関係につきてはロマ2:16要義二参照、本節および次節のみをキリストの言と解する見方もある(S3)。
22章13節
口語訳 | わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。 |
塚本訳 | 私はアルパまたオメガ、最初また最後、初また終である。 |
前田訳 | わたしはアルパまたオメガ、最初また最後、初めまた終わりである。 |
新共同 | わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。 |
NIV | I am the Alpha and the Omega, the First and the Last, the Beginning and the End. |
註解: キリストに対して神と全く同一の資格を認めていることの事実がここに最も著しく表われている。黙1:8、黙1:17。黙21:6参照。
辞解
[最先 なり、最後 なり] 存在をその時期の前後の点より見、「始、終」はその原因、結果の点より見る。
22章14節 おのが
口語訳 | いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。 |
塚本訳 | 幸福なる哉、生命の樹に行き(その実を食い)、また(聖なる)都の門を入る権を得るために、その上衣を洗う者! |
前田訳 | さいわいなのはおのが衣を洗う人たち、彼らはいのちの木への特権を持ち、都への門を入りうるから。 |
新共同 | 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。 |
NIV | "Blessed are those who wash their robes, that they may have the right to the tree of life and may go through the gates into the city. |
註解: 本節には報いを得て祝福を受けるもの、次節には審 かれて詛を受ける者につきて録さる。「衣を洗う」「生命の樹」「都」「門」等につきては 黙7:14。黙2:7。黙22:2。黙21:10 −25等参照。
22章15節
口語訳 | 犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。 |
塚本訳 | (しかし都の)外には(この権を有たぬ穢れた)犬、魔術を行う者、淫行の者、殺人者、偶像礼拝者、すべて虚偽を愛しまた行う者がいるであろう。 |
前田訳 | 外には犬、魔術者、不身持ち、殺人者、偶像礼拝者、すべてうそを好み、行なうものどもがいる。 |
新共同 | 犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。 |
NIV | Outside are the dogs, those who practice magic arts, the sexually immoral, the murderers, the idolaters and everyone who loves and practices falsehood. |
註解: 黙21:8、黙21:27等と同じく外の暗きに投出され、火と硫黄の燃ゆる池にてその報いを受けるものはこの種のものである。かくのごとくキリスト来り給う時、全人類は明かに二つに区別されるに至る。
辞解
[犬] 下劣にして獰悪 なる人間を指す (申23:19。詩22:16、詩22:20。マタ7:6。マコ7:27)。
「虚偽を愛す」ることはこれを「行う」ことよりも一層悪の度が強い。
[外にあり] 「外に出でよ」と命令的に解する説あれど採らず。その他の語の意義については黙21:8を見よ。
22章16節 われイエスは
口語訳 | わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。 |
塚本訳 | 私イエスが(諸)教会についてこれらのことをお前達に証明するために、私の使いを遣わしたのである。私はダビデの根また裔、輝く暁の明星である。」 |
前田訳 | わたしイエスは、諸集会のためにこれらをあなた方に証するよう、わが使いをつかわした。わたしはダビデの根また若枝、輝く明けの明星である」。 |
新共同 | わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」 |
NIV | "I, Jesus, have sent my angel to give you this testimony for the churches. I am the Root and the Offspring of David, and the bright Morning Star." |
註解: イエスの自己紹介とイエスに遣されし御使に関するイエスの証明とを記す。本書はイエスの遣し給える御使の証を録せるものなる故に真正の黙示であり、そしてこのイエスこそはダビデの根より生ぜる萌蘖 (イザ11:10。イザ53:2)であって神の約束による救い主、預言者たちの預言せるメシヤである。そしてこのイエスは曙の明星として輝いており、神の国の義の太陽が昇る時の近きを予告している(黙2:28註参照)。このイエスの再臨とこれによる新天新地の支配こそは人類は勿論あらゆる被造物の切に望んでいる処の事柄である(ロマ8:19)。
辞解
[われイエス] 非常に強い言い方。
[諸教会のために] 「・・・・・のために」 の epi は「諸教会につきて」と読む説あり(S3、ヴィーナー、セーヤー)(黙10:11。ヨハ12:16)。文法的にはこれが優っている様であるが意味の点よりはこれを本文のごとくに解する方可なり、かつ文法的にも可能である。
[萠蘗 ] rhiza は根または根より生ぜる芽生 えを意味す。
22章17節
口語訳 | 御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。 |
塚本訳 | すると御霊と新婦とが(答えて)言う、「来たり給え」と。聞く者も(また)「来たり給え」と言え。渇く者は来い。望む者は無代で生命の水を受けよ。 |
前田訳 | 霊と花よめとがいう、「来たりたまえ」と。聞くものもいえ、「来たりたまえ」と。渇くものは来たれ。欲するものは価なしでいのちの水を受けよ。 |
新共同 | “霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。 |
NIV | The Spirit and the bride say, "Come!" And let him who hears say, "Come!" Whoever is thirsty, let him come; and whoever wishes, let him take the free gift of the water of life. |
註解: 前節の主イエスの御言に対して三つの口より答があった、御霊と新婦なる教会全体とヨハネとである。御霊は黙14:13のごとく自ら声を発し、新婦なる教会と共に主イエスの来り給わんことを切に望む心をもって「来りたまえ」と呼び、ヨハネはさらにこの書の読まれるを「聞く者」すなわち黙1:3にある一般の信徒にも主イエスの来臨を切に祈るべきことを教え、そして渇きて生命の水を飲まんと欲する者には価なくして生命の水が与えられることが約束されていることを告知している。「渇く者」は義に飢渇く者で生命を求めて未だこれに到らざる者、ヨハネはかかる者に対してその救いの手を差し伸べている。
22章18節 われ
口語訳 | この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。 |
塚本訳 | 私(ヨハネ)が凡て聞く者にこの書の預言の言を証明する。もし誰かがこれに(何かを)加えるならば、神はこの書に書いてある災厄を彼に加え給うであろう。 |
前田訳 | わたしはこの書の預言のことばを聞くすべてのものに証する。もしだれかこれにつけ加えるなら、神はその人にこの書に書かれているわざわいをつけ加えられよう。 |
新共同 | この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。 |
NIV | I warn everyone who hears the words of the prophecy of this book: If anyone adds anything to them, God will add to him the plagues described in this book. |
22章19節
口語訳 | また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。 |
塚本訳 | またもし誰かがこの預言の書の言(から何か)を省くならば、神はこの書に書いてある生命の樹と聖なる都から彼の(受くべき)分を省き給うであろう。 |
前田訳 | もしだれかこの預言の書のことばから取り除くなら、神はこの書に書かれているいのちの木と聖なる都とにあるその人の分け前から取り除かれよう。 |
新共同 | また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。 |
NIV | And if anyone takes words away from this book of prophecy, God will take away from him his share in the tree of life and in the holy city, which are described in this book. |
註解: この黙示録の教える預言の絶対的真理にしてそれ自身一つの完璧であることを示し、そしてこれに対して濫りに他の思想を附加しまたはこの書の中に録される真理を除かんとする者に対し各々これに相当する詛を約束している。そしてその詛は不信者とその軌 を一 にしているのであって、不信者の受くべき苦難を加えられ、信者の受くべき祝福を取去られるのである。加える者には詛が加えられ、除く者には祝福が除かれる所に言葉の章 があることに注意すべし。
辞解
[彼の受くべき分] 神の都の凡ての祝福はその中に入り来る者に頒 たれる故、各々その分け前に与ることができ、この分け前を除かれる場合、これに与かり得ざる者ができることとなる。なおこの二節は申4:2。申13:1。エレ26:2の思想より来る処であり、当時一般に聖書に対して取っていた態度であつた。
22章20節 これらの
口語訳 | これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。 |
塚本訳 | これらのことを証明する者が言い給う、「然り、私は直に来る。」アーメン、主イエスよ、来たり給え! |
前田訳 | これらを証する方がいわれる、「然り、わたしはすみやかに来る」と。然り、主イエスよ、来たりたまえ。 |
新共同 | 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。 |
NIV | He who testifies to these things says, "Yes, I am coming soon." Amen. Come, Lord Jesus. |
註解: 17節にある「来り給え」との熱祷に対し主イエスはここにこれに応えて速かに到らんことを約束し給い、これに応じて全教会も声を合せて、「アァメン主イエスよ来り給え」と答えた。速かに到らんとする主イエスの御心と、彼を熱心に待望む全教会の祈りとはここに完全に一致して本書の結末を形成しているのである。
辞解
[これらのことを証する者] キリスト(黙1:5)。
[然り] 原語 nai。
[アァメン] ロマ1:25辞解参照。
22章21節
口語訳 | 主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。 |
塚本訳 | (願わくは、)主イエスの恩恵凡ての者と共にあらんことを! |
前田訳 | 主イエスの恵みがすべての人々とともにあるように。 |
新共同 | 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。 |
NIV | The grace of the Lord Jesus be with God's people. Amen. |
註解: 書簡の結尾の形式であって、パウロはその凡ての書簡にこれと類似の形式を用いている。本書のごとき黙示文学にてはこの形式を用いないのが普通であるけれども、本書は冒頭より書簡の形式を為しているので(黙1:4−6)結尾にこの挨拶を附加したのである。
要義 [黙示録と現代]黙示録が著されてより現代に至るまで、黙示録が多くの場合軽視せられ、また時にこれを重要視するものある場合は極端にこれを文字的に機械的に解釈することによりて多くの禍を教会史上に残した。その原因は黙示録を正しく解釈することの困難なるによるのである。殊に近代において科学的文明が発達し、凡て超自然的事実が否定されるに至ったために、黙示録は一の封ぜられたる書として敬遠されていることは自然の結果である。しかしながら黙示録の思想は旧新約を一貫せる神の黙示に完全に一致する処のものであり、しかもこれによりて聖書の示す人間観世界観は完全にその終局の姿を示されている故、本書は科学的文明の発達せる今日において一層重視せらるべき書であると云わなければならぬ。
本書は一見難解なるがごときも、神、サタン、社会、人間、自然の姿をその絶対的の立場において眺める時、換言すればこの宇宙、人生の凡てを神の御座より眺める時やがて万物はこの書に示されるごとき運命に立たなければならないことを知ることができる。そしてかかる絶対的境地より万物を観察することは迫害と苦難の下にありて最も真実なる心持となれるキリスト者において始めて可能である。ゆえにキリスト者はその最も真実なる心持に生きる場合において、黙示録に示される凡ての預言の真理であることを知ることができる。この点においては古今東西は論ずる処ではない。
附記 [22:6−21について]全黙示録の結尾をなすこの部分に関する大なる困難は、言を出す主体が混雑しており判然と区別し難いことである。これは整然たる黙示録の結尾として一見不似合なるごとくに思われる。しかしながらそれがためにこれをもって後よリの追加挿入と解釈することも甚だ拙なる説明法である。恐らくヨハネは最後に神とキリストと聖霊と預言者と聖徒との一大合唱をもって本書の結尾となすべく態 と声の主体を一々明瞭にせずして自然に感得するようにしたものではあるまいかと思う。