マルコ伝第7章
分類
2 ガリラヤにおけるイエスの活動 1:21 - 7:23
2-6 イエスの活動の頂点 6:1 - 7:23
2-6-ト 手を洗う事について 7:1 - 7:23
(マタ15:1-20)
註解: 1−23節においてイエスは(1)神の誡命よりも人の言伝えを重視することの非と、(2)儀式的清浄の無意味と霊的清潔の重要なる所以とを示し給う。
7章1節 パリサイ
口語訳 | さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。 |
塚本訳 | パリサイ人とエルサレムから来た数人の聖書学者とがイエスの所に集まったとき、 |
前田訳 | パリサイ人と学者の数人がエルサレムから来て、彼のところに集まった。 |
新共同 | ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 |
NIV | The Pharisees and some of the teachers of the law who had come from Jerusalem gathered around Jesus and |
註解: 彼らはイエスを非難する材料を見出さんとして虎視眈々たるものがあった。由来宗教家、学者、思想家は最も嫉妬心徒党心に富む。エルサレムの学者は到る処に非常な尊敬を得ていた。
7章2節
口語訳 | そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。 |
塚本訳 | イエスの弟子のうちにけがれた、すなわち洗わない手で食事をする者があるのを見た。 |
前田訳 | そして彼の弟子たちにけがれた、すなわち洗わぬ手でパンを食べるものがあるのを見かけた。 |
新共同 | そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 |
NIV | saw some of his disciples eating food with hands that were "unclean," that is, unwashed. |
註解: イエスは勿論、弟子たちもまた最も根本的なる心の問題に注意を集注していたので、些細なる伝統は自然にこれを無視していた。然るに学者、パリサイ人らは、根本的なる心の問題を無視して形式的些事を重視していた。この両者の間に一致がないのは当然である。
註解: 3、4節はユダヤ人の習慣を知らざる人々に対する著者の解説。
7章3節 パリサイ
口語訳 | もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。 |
塚本訳 | ──いったいパリサイ人はもとより、ユダヤ人というユダヤ人は、先祖の言伝えをかたく守って、(きまった方式で)手を洗ってからでないと決して食事をせず、 |
前田訳 | パリサイ人はじめすべてのユダヤ人は先祖のいい伝えを守って手をよく洗わずには食事せず、 |
新共同 | ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 |
NIV | (The Pharisees and all the Jews do not eat unless they give their hands a ceremonial washing, holding to the tradition of the elders. |
辞解
「凡てのユダヤ人」というは「大体ユダヤ人は」というごとき意。
[古 への人] 「老人」とも訳し得る presbyteroi 。
[懇 ろに] 原語 pygmêi は意味不明の語で(1)手首まで、(2)拳を丸め手の掌の凹みでこすること。(3)水を手一杯に汲んで、(4)予め、(5)熱心に屡々 等種々に解せらる、改訳は(5)によれるものでむしろ異本の pykna によれるものならん。
7章4節 また
口語訳 | また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。 |
塚本訳 | 市場から帰ったときは(身を)洗い浄めねば食事をせず、このほかにも杯や壷や銅の器をすすぐことなど、かたく守っている仕来たりが沢山あるのである。── |
前田訳 | 市場から帰って身を清めずには食事しない。そのほか杯や鉢や銅の器の洗いなど、守っているしきたりが多い。 |
新共同 | また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― |
NIV | When they come from the marketplace they do not eat unless they wash. And they observe many other traditions, such as the washing of cups, pitchers and kettles. ) |
註解: 市場より帰りたる場合は全身を浴してこれを潔め、その他器物の洗滌等、彼らは一々伝統に従って行動し、かくすることを誇りとしていた。▲これらの習慣それ自身は衛生的に良習慣であるが、これは良心的善悪問題ではなく、神に対する関係の問題でもない。この両者を混同して形式だけで神に受納れられると考える点に対しイエスは反対し給うた。そのためには衛生的良習慣をさえも無視し給うた。
7章5節 パリサイ
口語訳 | そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。 |
塚本訳 | パリサイ人と聖書学者がイエスに尋ねた、「あなたの弟子はなぜ先祖の言伝えに従って歩かずに、けがれた手で食事をするのか。」 |
前田訳 | それでパリサイ人と学者は彼に問うた、「なぜあなたの弟子は先祖の伝統に従って歩まずにけがれた手でパンを食べますか」と。 |
新共同 | そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 |
NIV | So the Pharisees and teachers of the law asked Jesus, "Why don't your disciples live according to the tradition of the elders instead of eating their food with `unclean' hands?" |
註解: 質問の形式ではあるが実は弟子たちの行動に対する非難であり、而して間接にその師なるイエスに対する非難であった。
辞解
[古への人] 3節辞解参照。
7章6節 イエス
口語訳 | イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 |
塚本訳 | 彼らに言われた、「イザヤはあなた達偽善者のことを預言して、こう書いているが、うまいものである。“この民は口先でわたし[神]を敬いながら、その心は遠くわたしから離れている。 |
前田訳 | 彼はいわれた、「イザヤがあなた方偽善者のことを預言したのは当たっている。いわく、『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 |
新共同 | イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 |
NIV | He replied, "Isaiah was right when he prophesied about you hypocrites; as it is written: "`These people honor me with their lips, but their hearts are far from me. |
7章7節 ただ
口語訳 | 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。 |
塚本訳 | 彼らは(熱心に)わたしを拝むが無駄である、彼らが教えとして教えているのは、人間の(作った)規則であるから。” |
前田訳 | 彼らのわたしへの礼拝はむなしい、人の定めを教えとしているから』と。 |
新共同 | 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』 |
NIV | They worship me in vain; their teachings are but rules taught by men.' |
註解: イエスはイザヤの預言を引用して彼らの信仰の虚偽を叱責し給う。その鋒先は甚だ鋭くあった(イザ29:13)。すなわち彼らの口頭の信仰、形式的礼拝を非難し、その結果人の訓誡を神の言よりも重要なものと見ることを攻撃し給うた。
辞解
本節の引用は最後の部分ヘブル語の原典とも異なり、また七十人訳とも少しく異なる。イエスは自由に変更して教訓を垂れ給うたものと見るべきである。
[偽善者] マルコ伝にはここに一回用いられるのみ。
7章8節
口語訳 | あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。 |
塚本訳 | あなた達は神の掟をすてて、人間の言伝えをかたく守っている。」 |
前田訳 | あなた方は神の掟を捨てて人のいい伝えを守っている」と。 |
新共同 | あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 |
NIV | You have let go of the commands of God and are holding on to the traditions of men." |
註解: 宗教家の陥る普通の欠点は、事の大小を見分くる能力を失うことである。時の古今、洋の東西を問わずこの弊が常に宗教に固着して離れない。
7章9節 また
口語訳 | また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。 |
塚本訳 | また話しつづけられた、「あなた達は自分の言伝えを守ろうとして、神の掟をないがしろにしているが、うまいものだ! |
前田訳 | またいわれた、「よくもあなた方は神の掟をさし置いて自分らのいい伝えを守ろうとしている。 |
新共同 | 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 |
NIV | And he said to them: "You have a fine way of setting aside the commands of God in order to observe your own traditions! |
註解: イエスは皮肉をもって彼らに対し、彼らの言伝えの巧妙さを嘲り給うた。パリサイ人らはその言伝えを重視するの余り、神の誡命と矛盾するに至る時、言伝えを棄てずして神の誡命を棄てた。信仰の根本を把握しなかったからである。
7章10節
口語訳 | モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。 |
塚本訳 | モーセは、“父と母とを敬え、”また“父または母を罵る者はかならず死に処せられる”と言ったのに、 |
前田訳 | モーセは『父母を敬え』といい、『父または母をののしるものは死に処せられる』ともいった。 |
新共同 | モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。 |
NIV | For Moses said, `Honor your father and your mother,' and, `Anyone who curses his father or mother must be put to death.' |
註解: 出20:12。出21:17。申5:16。これらは十誡の第五誡で最も重要なる神の誡命である。
7章11節
口語訳 | それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、 |
塚本訳 | あなた達はこう言うのだから。──『もしある人が父または母にむかって、わたしがあなたに差し上げるはずのものはコルバン[すなわち(神への)供え物]にする、と言えば、 |
前田訳 | しかるにあなた方はいう、『ある人が父または母に向かって、差しあげるはずのものはコルバン、すなわち供え物ですといえば、 |
新共同 | それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、 |
NIV | But you say that if a man says to his father or mother: `Whatever help you might otherwise have received from me is Corban' (that is, a gift devoted to God), |
7章12節 そののち
口語訳 | その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。 |
塚本訳 | (扶養の義務をまぬかれて、)もはや父または母に何一つすることを許されない』と。 |
前田訳 | その人にはもはや父または母に何ひとつさせない』と。 |
新共同 | その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。 |
NIV | then you no longer let him do anything for his father or mother. |
註解: 単にコルバンなりと言うだけで父母扶養の義務をも免ぜらるというごときは考え難きことであるけれども、その初めは、「これは神に対する供物なり」といえる場合その供物を極端に神聖視し、犯すべからざるものと考えしことが起因となり、その誓言の前には凡ての他のものを軽視せることとなったのであろう。すなわち本来神を敬う心より出たのであるけれども、それが信仰の霊的本質を離れて徒 らに形式的となりついには孝養の義務をもこれを無視するに至った。かくして人の言伝えが神の誡命以上に重んぜられることとなったのである。
辞解
[コルバン] ヘブル語で、神に対する供物の意味。
[言はば] すなわち単に言うだけで、別に神に供うる必要がなかった。
7章13節 かく
口語訳 | こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。 |
塚本訳 | こうして、あなた達は自分で伝えてきた言伝えによって神の言葉を反故にしている。なお、これに似たことをあなた達は沢山している。」 |
前田訳 | あなた方が引きついだ自分のいい伝えで神のことばを無にしている。なおこれに類したことをたくさんしている」と。 |
新共同 | こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」 |
NIV | Thus you nullify the word of God by your tradition that you have handed down. And you do many things like that." |
註解: ユダヤ人らはこの種の言伝えを多く造りて、神の言を空しうしていた。すなわち彼らは神の言よりも、人の言伝えを重視したのである。
7章14節
口語訳 | それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。 |
塚本訳 | それからまた群衆を呼びよせて言われた、「皆、わたしの言うことを聞いて悟れ。 |
前田訳 | また彼は群衆を近くに呼んでいわれた、「皆わたしに耳傾けて理解せよ。 |
新共同 | それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 |
NIV | Again Jesus called the crowd to him and said, "Listen to me, everyone, and understand this. |
7章15節
口語訳 | すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。 |
塚本訳 | 人の(体の)外から入って、人をけがし得るものは何もない。人から出るものが、人をけがすのである。」 |
前田訳 | 人の外から中へ入って人をけがせるものはない。人から出るものが人をけがす」と。 |
新共同 | 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 |
NIV | Nothing outside a man can make him `unclean' by going into him. Rather, it is what comes out of a man that makes him `unclean.' " |
註解: 本節より以後においてイエスは手を洗う必要なきことの意義を明かにし給う。すなわち人の清きや否やの問題は、食物の問題でなく、心の問題であり、従って手を洗うことは重大なる必要ではない。「更に」は「再び」で他の機会においてイエスはこの説明を与え給うたのである。なおこの間にマタ15:12−14あり参照すべし。〔16なし〕
口語訳 | 〔聞く耳のある者は聞くがよい〕」。 |
塚本訳 | (無し) |
前田訳 | 〔「聞く耳あるものは聞け」〕。 |
新共同 | (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。 |
NIV |
7章17節 イエス
口語訳 | イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。 |
塚本訳 | 群衆を離れて家にかえられた時、弟子たちがこの譬(の意味)を尋ねた。 |
前田訳 | 群衆に別れて家へ帰られたとき、弟子たちは譬えについておたずねした。 |
新共同 | イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。 |
NIV | After he had left the crowd and entered the house, his disciples asked him about this parable. |
註解: 15節は一種の謎のごとき言い方であって弟子たちはこれを譬として解した。
辞解
[弟子たち] マタ15:15にペテロとあり、マルコ伝は往々ペテロの名を出すことを避くるもののごとくである。
7章18節
口語訳 | すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。 |
塚本訳 | 彼らに言われる、「あなた達までそんなに悟りが悪いのか。すべて外から人(の体)に入るものは、人をけがし得ないことが解らないのか。 |
前田訳 | するといわれる、「あなた方までそれほど無理解か。すべて外から人に入るものは人をけがせないことがわからないか。 |
新共同 | イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。 |
NIV | "Are you so dull?" he asked. "Don't you see that nothing that enters a man from the outside can make him `unclean'? |
7章19節 これ
口語訳 | それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。 |
塚本訳 | 心に入らず、腹に入って、便所に出てゆくからだ。」──イエスは(これによって、人は何を食べてもけがれないことを教えて、)すべての食物を清められたのである。 |
前田訳 | それは心には入らずに腹に入って、厠に出るから」と。こうして彼はすべての食べ物を清いとされた。 |
新共同 | それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」 |
NIV | For it doesn't go into his heart but into his stomach, and then out of his body." (In saying this, Jesus declared all foods "clean.") |
註解: イエスにとりて汚れの問題は外部的、儀式的汚れのことではなく、心のみの問題であった。心さえ汚されないならば、外部的儀式的の汚れは問題とするに足らない。手を洗わずにパンを食うとも、それは結局腹を通って厠 に落つるだけであって心とは全然没交渉である。「如何に手を潔めても結局穢き厠に落つるではないか」という辛辣な皮肉である。▲「厠におつる」を口語訳では「外に出て行く」と訳したのは、この下品な表顕はイエスに相応しくないと思ったためなのではあるまいか。RSVも同様である。もしそうならば無用の心配である。イエスは金襴の衣で着飾った上品な大僧正ではなく、一個の自由な自然人であった。イエスの自由さ自然さを示すこの原語 aphedrôn をわざわざ変更したのは口語訳の失敗である。
かく
註解: イエスはかくして食物の中に汚れしものと潔きものとの区別を立つることをも撤廃し給うた。
辞解
この一句は「凡ての食物を潔めて」と読むべき文字故、これを「厠」と関連せしむる解あれどやや晦渋 なり。
7章20節 また
口語訳 | さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。 |
塚本訳 | また言われた、「人から出るもの、そちらが人をけがす。 |
前田訳 | またいわれた、「人から出るものこそ人をけがす。 |
新共同 | 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。 |
NIV | He went on: "What comes out of a man is what makes him `unclean.' |
7章21節 それ
口語訳 | すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、 |
塚本訳 | 内から、つまり、人の心からは、邪念が出るからである。(すなわち)不品行、盗み、人殺し、 |
前田訳 | 内から、すなわち人の心から悪心が出る。不身持(ふみもち)、盗み、殺人、 |
新共同 | 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 |
NIV | For from within, out of men's hearts, come evil thoughts, sexual immorality, theft, murder, adultery, |
7章22節
口語訳 | 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。 |
塚本訳 | 姦淫、欲張り、悪意、悪巧み、道楽、妬み、悪口、高ぶり、愚かさ(など)。 |
前田訳 | 姦淫、貪欲、悪意、奸計(かんけい)、逸楽、妬み、悪口、倣慢(ごうまん)、ふしだら、 |
新共同 | 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 |
NIV | greed, malice, deceit, lewdness, envy, slander, arrogance and folly. |
7章23節 すべて
口語訳 | これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。 |
塚本訳 | これらの悪は皆、内から出て人をけがすのである。」 |
前田訳 | これらの悪はみな内から出て人をけがす」と。 |
新共同 | これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」 |
NIV | All these evils come from inside and make a man `unclean.'" |
註解: 心より悪念出で来ってこれらの種々の罪悪となりて我らを汚す、それ故に我らの注意すべきことは手を洗うことではなく、心を潔く保つことである。心をば種々の汚れに充しつつ手のみを洗うとも何の益あらんや、パリサイ人らは全く事の本末を転倒してイエスの弟子を非難したのであった。
要義 [内と外]外側の行為を潔くすることは困難のようであって実は容易であり、内側の心を潔くすることはその反対に容易のようであって困難である。人間の心の中を見得るものは自己と神とのみである故、人はその心の汚穢を他人の前に偽り隠し、これによって外側の行為を聖者のごとくならしむることができる。しかしながら人は神によらざれば自己の内心を潔めることができない。それ故に人は難行を忌避して易行に移り行き、従って宗教は常に外側の行為を喧 しく言う律法主義に陥る。イエスの粉砕せんとし給えるはこの外側のみを飾る律法主義であった。
分類
3 異邦におけるイエスの活動 7:24 - 8:26
3-1-イ スロ・フェニキヤの娘を醫し給う 7:24 - 7:30
(マタ15:21-28)
口語訳 | さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。 |
塚本訳 | そこを立って、ツロ地方に行かれた。ある家に入って、だれにも知られたくないと思っておられた。しかし隠れていることが出来ず、 |
前田訳 | そこを立ってツロの地方へ行かれた。ある家に入って、だれにも知られたくないとお考えであったが、隠れておいでになれなかった。 |
新共同 | イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。 |
NIV | Jesus left that place and went to the vicinity of Tyre. He entered a house and did not want anyone to know it; yet he could not keep his presence secret. |
註解: イエスはイスラエルの代表者ともいうべき学者、パリサイ人らの無理解による反対に遭い、心中悲憤の情を禁ずることができず、独り静かにその弟子たちを訓練せんがために(I0)ガリラヤ地方を去り給うた。
ツロの
註解: フェニキヤの海港にして地中海に面する海港ツロのある地方に往き給うた。
辞解
[地方] horia(異本 methoria)は境界または境界地方の意であるため、イエスはツロへの境界近きガリラヤの地方に行き給うたのであると解する説あれど(B1、M0)新約聖書の用法としてはむしろツロの地方に入り給えりと解すべきである(I0、E0、L2)。異本に「およびシドン」とあれど31節よりみて無い方が正し。
註解: イエスは伝道の目的をもってツロの地方に赴いたのではなく、しばらくユダヤ人を避けんがためであった。而してこれがかえって異邦人に対して自己を示し給う機となった。常に伝道、伝道と称して駆け廻ることが必ずしも最善の伝道ではない。隠れんとして隠れる能わざる者のみ真の伝道を為すことを得。▲イエスが特に「人に知られまいとし給うた」理由は、神との交わりが空虚にならないためである。
辞解
[家] 異邦人の家かユダヤ人の家かにつきては知ることができない(L2)あるいはこれをイエスを敬う人(M0)または未知の人(E0)等に限定せんとするのは単なる想像に過ぎない。
7章25節
口語訳 | そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。 |
塚本訳 | 汚れた霊につかれた小さい娘を持つ一人の女が、すぐイエスのことを聞きつけ、来て足下にひれ伏した。 |
前田訳 | ある女にけがれた霊につかれた娘があって、すぐ彼のことを聞きつけ、来てお足もとにひれ伏した。 |
新共同 | 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 |
NIV | In fact, as soon as she heard about him, a woman whose little daughter was possessed by an evil spirit came and fell at his feet. |
註解: 心に切に求めつつあるものは最も速やかにイエスを見出すことができる。娘の母が「直ちに」イエスのことを聞き付けたのは、切に娘が病より救われんことを求めていたからであった。求むる心なき者にとりてはイエスの存在は意味が無く、飽き足れる者にとりては山海の珍味も瓦礫に等しい。
7章26節 この
口語訳 | この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。 |
塚本訳 | この女は異教人で、スロフェニキア生まれであったが、娘から悪鬼を追い出してほしいとイエスに願った。 |
前田訳 | この女は異邦人で、スロフェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出すようお願いした。 |
新共同 | 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。 |
NIV | The woman was a Greek, born in Syrian Phoenicia. She begged Jesus to drive the demon out of her daughter. |
辞解
ユダヤ人以外の諸国民を漠然とギリシャ人と呼んでいた(使18:4。使19:10。ロマ3:9。ロマ10:12等)。それ故にこの女がカナン人であることと矛盾しない(マタ15:22)。スロ・フェニキヤはスリヤ地方のフェニキヤ領の意味で、北アフリカのリビヤ地方のフェニキヤすなわちリボ・フェニキヤと区別するための名称。
その
註解: イエスの御足の許に平伏し祈りの心をもってこれを嘆願した。イエスを受くべきイスラエルの民はかえって彼を拒み、彼と無関係なる異邦の女がかえって彼を信ずるを見て、イエスの淋しき心は一層その淋しさを増したことであろう。
7章27節 イエス
口語訳 | イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 |
塚本訳 | 女に言われた、「まず子供たち(イスラエル人)を満腹させなくてはいけない。子供たちのパンを取り上げて、(異教の)小犬どもに投げてやるのはよろしくない。」 |
前田訳 | するといわれた、「まず子らを満腹させよ。子らのパンを取って小犬に投げ与えるのはよくない」と。 |
新共同 | イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 |
NIV | "First let the children eat all they want," he told her, "for it is not right to take the children's bread and toss it to their dogs." |
註解: イエスはイスラエルと異邦人との関係を、家庭における子供とその愛犬との関係とに比較し給うた。子供を飢えしめて犬を飽かしむべきではない。ユダヤ人に救いを与えずして異邦人に救いを与うべきではない。イエスはこの女の苦悩に同情し給わなかったのではなく、この女の態度によりて一層切にイスラエルに対する愛心に燃え給い、その衷心の苦痛をこの女に向って吐露し給うた。
辞解
[まづ] 第一がユダヤ人第二が異邦人ということの意義で、ユダヤ人の普通の思想であった (使3:26。使13:46。ロマ1:16。ロマ2:9-10)。マタ15:24 は一層強くイスラエルのみに限定せるごとくに見ゆる故に、この「まづ」は編纂者の挿入なりとする説あれど(L2)かく見る必要はない。
[犬] ユダヤ人が異邦人を軽蔑して用うる言葉であるためイエスに相応しからずとする説あれど、イエスは神の国の経綸の中におけるユダヤ人と異邦人の地位を家庭における子供と小狗 に譬えたのであって、軽蔑の意味を含んでいない。
7章28節
口語訳 | すると、女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。 |
塚本訳 | しかし女は答えた、「主よ、是非どうぞ!食卓の下の小犬どもも、子供さんたちのパン屑をいただきます。」 |
前田訳 | 彼女は答えた、「主よ、それはそれでも、食卓の下の小犬も子どものパンくずを食べます」と。 |
新共同 | ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 |
NIV | "Yes, Lord," she replied, "but even the dogs under the table eat the children's crumbs." |
註解: 純真なる信仰は神の御言の中より、人の気付かざる真理を抽出 すことができる。熱心に求むるものは、他の人の顧みざる物をもって己の要求を充すことを得。贅沢なる求道者は結局如何に貴重なる真理を与えられるもこれをもって心が満ち足ることができない。この女にかかる軽妙なる答を与うるを得しめたのは、その切に求むる心とその純なる信頼の心とであった。
7章29節 イエス
口語訳 | そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。 |
塚本訳 | イエスは言われた、「それほど言うなら、よろしい、帰りなさい。悪鬼はもう娘から出ていった。」 |
前田訳 | 彼はいわれた、「それほどいえるなら、お帰りなさい。娘さんから悪霊は出た」と。 |
新共同 | そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 |
NIV | Then he told her, "For such a reply, you may go; the demon has left your daughter." |
註解: 「安んじ」は原文になし、直訳「この言の故に往け」で「この一言で充分だ、よろしい、往け」というごとき意でイエスはこの言の中に彼女の輝ける信仰を見出したのである。
註解: イエスはその娘の母の信仰を通じてその能力を娘に及ぼし、マタ8:13のごとく距離を超越して奇蹟をもって娘を癒し給うた。
7章30節
口語訳 | そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。 |
塚本訳 | 女が家にかえって見ると、子供は寝床にねており、悪鬼はもう出ていた。 |
前田訳 | 彼女が家へ帰ると、子は床に寝ていて、悪霊は出ていた。 |
新共同 | 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。 |
NIV | She went home and found her child lying on the bed, and the demon gone. |
註解: 寝台の上に平安に臥している姿は、悪鬼の去りたる証拠であった。
要義1 [淋しきイエス]イエスがスロ・フェニキヤの女の請に対してこれを一応拒絶し給える理由として種々の説が唱えられるけれども(マタ15:28要義二参照)むしろイエスの内心の淋しさの反影と見る方が適当であろう。イエスは神の選民イスラエルを心より愛し給うたにもかかわらず、イスラエルは彼を受けず彼を排斥した。イエスはそのままイスラエルの地に留ることの堪え得ざる苦痛を感じ給うたので、自然に異邦の地に身を隠さんとし給うたのであろう。而してこの異邦においてこの女の驚くべき信仰に接したるは、イエスをして一層その淋しさを増さしめたことであろう。パウロはユダヤ人の不信仰の故に「我ら転じて異邦人に向はん」(使13:46)と言いつつもなおユダヤ人に対し断ち難き執着を有っていた(使14:1。使17:1、2)。イエスは「先ずユダヤ人に」または「ユダヤ人のみに」遣され給えることを主張しつつ異邦の娘を醫し給うた。何れもユダヤ人と共に異邦人を愛することを示すと同時に何れもその愛するものに受納れられざる淋しさを物語っている。神による真の愛は、常にその国人に誤認せられ排斥せらる。
要義2 [スロフェニキヤの女の信仰]7:28における女の答は英知に充てるものであった。しかしながら単にこれを機智とのみ見るべきではなく、この中に重大なる真理を語っている。すなわち神の祝福は自らアブラハムの子なりとして誇れるイスラエルには与えられずして、自己の無価値を信じて、謙遜なる心をもって神の祝福を求むるものに与えられることである。而してこの女がこの重大なる真理を発見したのはその求むる心の切なるが故であった。渇して水を求むる者は岩間より流れ出づる糸のごとき細き水をも直ぐに発見する。
註解: 31−37節はマルコ伝特有である。ただし31,32節はマタ15:29−31において敷衍せられている。
7章31節 イエス
口語訳 | それから、イエスはまたツロの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤの海べにこられた。 |
塚本訳 | それからイエスはツロ地方を出て、シドンを通り、またガリラヤ湖の近く、デカポリス地方の真中に来られた。 |
前田訳 | それからイエスはツロの地方を去り、シドンを経、デカポリス地方を通ってガリラヤ湖へ行かれた。 |
新共同 | それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 |
NIV | Then Jesus left the vicinity of Tyre and went through Sidon, down to the Sea of Galilee and into the region of the Decapolis. |
註解: イエスはツロより北に赴きさらに東南に下りガリラヤ湖の東なるデカポリス地方に入り、ガリラヤ湖畔に来給うたのであろう。この旅程はやや難解であるため種々の変更を為さんとする説あり、而してこのイエスの旅行の目的は伝道のためではなかったけれども、彼の奇蹟を行い給う機会となった。
辞解
[シドンを過ぎ] 単に「フェニキヤを経て」の意味に解するは(L2)無理である。
7章32節
口語訳 | すると人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。 |
塚本訳 | 人々が聾で舌のまわらぬ人をつれて来て、手をのせて(直して)ほしいと願う。 |
前田訳 | 人々は耳しいで言語障害の人を連れて来て手をお置きくださるようお願いする。 |
新共同 | 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 |
NIV | There some people brought to him a man who was deaf and could hardly talk, and they begged him to place his hand on the man. |
註解: デカポリスの地方にはイエスの奇蹟につきすでに知れ渡っていた(マコ5:20)ので多くの人々病を醫されんがために集い来り(マタ15:30)その中の一人としてこの聾唖者があった。またこの人がユダヤ人なりしや異邦人なりしやは不明であるが、おそらく後者であろう。マルコが特に聾唖者をここに選び出したのは、異邦人の不信の表徴としてカナンの女の信仰的なりし場合と対立せしめたのかもしれない。手を按くことは治癒するため。
辞解
[物言ふこと難き] magilalos で唖者 alalos と同義に用いらる(七十人訳)。ただし本節の場合は35節の「正しく物言へり」より見て、若干言語に近き声を発し得る唖者であったように見える(I0。ただし単に唖者と訳する説あり、L2、M0)。
7章33節 イエス
口語訳 | そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、 |
塚本訳 | イエスはその人をただ一人、群衆の中から連れ出して、指をその両耳にさしこみ、次に(指に)唾をしてその舌にさわり、 |
前田訳 | 彼はその人ひとりを群衆から連れ出して、指を両耳に入れ、唾して舌にさわり、 |
新共同 | そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 |
NIV | After he took him aside, away from the crowd, Jesus put his fingers into the man's ears. Then he spit and touched the man's tongue. |
註解: イエスはその注意を彼に集中し、また彼をしてその信仰をイエスに向けしめんがために群衆より彼を離したのであろう(M0)。なおこれにつきては多くの理由が挙げられているけれども何れも想像説に過ぎず、学的根拠があるわけではない、すなわち(1)大量的治癒を行わされることを嫌い給えるため(E0)、(2)治療の方法を秘密にするため(L2)、(3)奇蹟をできるだけ人に知らせざるため(I0)、その他種々あり。
その
7章34節
口語訳 | 天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。 |
塚本訳 | 天を仰いで溜息をつき、その人に「エパタ!」[すなわち「開け!」]と言われる。 |
前田訳 | 天を仰いで溜息して彼にいわれる、「エパタ」と。開け、の意味である。 |
新共同 | そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 |
NIV | He looked up to heaven and with a deep sigh said to him, <"Ephphatha!"> (which means, "Be opened!"). |
註解: イエスが具体的の術を用い給うたのは、言のみにては聾者に聴えないので、イエスの心持をこの外部的手段によりて、彼に印象せんがためであったに相違ない。天を仰ぎて嘆じ給えるは、この聾唖者の心持に深く同情し給い、彼に代ってその悩める心を吐露し給うたのであろう。それ故にこの呻吟 は一種の祈りである。イエスはその全心の愛と力とを注ぎて未知の一病者を醫し給うた。
辞解
[唾し] 聾唖者の舌に唾したのか、イエスの手に唾して病者の舌に觸れたのか不明にして異本には数々の変更あり。
[エパタ] アラム語。
[嘆じ] 「呻吟 し」の意、これを治療の手段(L2)と見るは不可。
7章35節
口語訳 | すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。 |
塚本訳 | すると耳があき、すぐ舌のもつれが解けて、普通に物が言えるようになった。 |
前田訳 | すると聞こえるようになり、すぐ舌のもつれがほどけて、普通に話した。 |
新共同 | すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 |
NIV | At this, the man's ears were opened, his tongue was loosened and he began to speak plainly. |
註解: 彼は先天的聾唖者であらざりしもののごとし。幾分言語をも記憶していたのであろう。
口語訳 | イエスは、この事をだれにも言ってはならぬと、人々に口止めをされたが、口止めをすればするほど、かえって、ますます言いひろめた。 |
塚本訳 | イエスはだれにも言ってはならぬと人々に命じられたが、命ずれば命ずるだけ、ますます言いふらした。 |
前田訳 | 彼は人々にだれにもいうなと命じられた。しかし人々は命じられるとますます言いふらし、 |
新共同 | イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 |
NIV | Jesus commanded them not to tell anyone. But the more he did so, the more they kept talking about it. |
註解: イエスは自己の奇蹟の人に知られることを極端に嫌い給うた(マタ8:4引照参照)。彼の使命は肉体の病の治癒にあらず、人々の魂を神に導くに在ったからである。人々は霊魂の救われることを願わず、かえって肉体の病の醫されんことを願う。
註解: 人情の自然としても、戒められる程いよいよ言い広めたくなることであろう。イエスは山の上の邑のごとく人の目に隠れんとして隠れることができなかった。
7章37節 また
口語訳 | 彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。 |
塚本訳 | そして驚きはてて言った、「あの方のされたことは、何もかも良いことばかりだ。聾や唖に、聞かせたり、物を言わせたりされるのだから。」 |
前田訳 | 並々ならぬおどろきぶりでいった、「あの方のなさったことは皆いい。耳しいが聞こえ、唖者が話すようになる」と。 |
新共同 | そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」 |
NIV | People were overwhelmed with amazement. "He has done everything well," they said. "He even makes the deaf hear and the mute speak." |
註解: 異邦人はかえって単純にイエスの為し給えること、また現に為し給いつつあることを賞揚した。
辞解
[甚だしく] 原語 huperperissôs で「非常以上に」の意、他に用例なし。
[打驚き] ekplêssomai も強き語で打撃を受けて気が遠くなるがごとき意。
要義 [聾唖者の治癒]「耳ひらけ」「舌の縺 ただちに解け」「正しく物言ふ」この事実は奇しくも罪の中にある我らの救われし時の姿に髣髴せるものがある。我らの心の耳は我らの罪のために、真理の言を聴くことができない。従って我らの舌は不自由であって正しく語ることができない。然るにいったん我ら信仰によって新生命を得るに至れば、我らの耳は未だ曾て聴かざりし真理を聞き、我らの舌は自由となって正しき言葉を語ることができる。イエスによりて新生命に復活せしめられし者はみなかかる者となり得るのである。
マルコ伝第8章
3-1-ハ 四千人を養い給う 8:1 - 8:10
(マタ15:32-39)
口語訳 | そのころ、また大ぜいの群衆が集まっていたが、何も食べるものがなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、 |
塚本訳 | そのころ、また多くの群衆が(集まって)いて、何も食べるものを持っていなかったとき、弟子たちを呼びよせて言われる、 |
前田訳 | そのころ、また大勢の群衆がいて何も食べ物を持たなかったので、彼は弟子たちを呼んでいわれる、 |
新共同 | そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。 |
NIV | During those days another large crowd gathered. Since they had nothing to eat, Jesus called his disciples to him and said, |
註解: 前章よりの継続と見れば、デカポリス地方すなわちガリラヤの湖の東岸にての出来事となる。やや不明の点あり、マコ7:31註解を見よ。
また
註解: 「また」はマコ6:34−44の五千人を養い給える事実に照応す。大なる群衆の集り来れる所以はイエスの行い給える奇蹟につき聞き伝えたからであった(マコ7:36)。
イエス
8章2節 『われ
口語訳 | 「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。 |
塚本訳 | 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしをはなれずにいるので、何も食べるものを持っていない。 |
前田訳 | 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしのところにいて食べ物を持たない。 |
新共同 | 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。 |
NIV | "I have compassion for these people; they have already been with me three days and have nothing to eat. |
註解: マタ15:30の大なる群衆に相当し、彼らはその病者を醫されんとの希望に熱心にしてイエスの許を去らんとしなかった。イエスは凡てを忘れて彼に従う者を心より憫み給う。
8章3節
口語訳 | もし、彼らを空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱り切ってしまうであろう。それに、なかには遠くからきている者もある」。 |
塚本訳 | 空腹のままで家に帰したら、途中でへたばってしまうにちがいない。それに、中には遠くから来た者もある。」 |
前田訳 | 空腹のまま家へ帰したら、途中で弱り切ろう。それに、なかには遠くからのものもある」。 |
新共同 | 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」 |
NIV | If I send them home hungry, they will collapse on the way, because some of them have come a long distance." |
註解: イエスは単に霊魂の問題のみではなく、肉体の問題につきても御心を労し給う(ヤコ2:16)。
8章4節
口語訳 | 弟子たちは答えた、「こんな荒野で、どこからパンを手に入れて、これらの人々にじゅうぶん食べさせることができましょうか」。 |
塚本訳 | 弟子たちが答えた、「こんな荒野で、いったいどこからパンを買って来て、この人たちを満腹させることが出来ましょうか。」 |
前田訳 | 弟子たちは答えた、「この荒野でどこからパンを手に入れてこの人々を満腹させえましょう」と。 |
新共同 | 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」 |
NIV | His disciples answered, "But where in this remote place can anyone get enough bread to feed them?" |
註解: 第6章の場合はパンを求むるための金銭の不足が弟子たちの躊躇の原因であり今回はパンを求むべき場所の無きことがその理由であった。第一回のパンの奇蹟を目撃せる弟子たちが再びこの不信仰なる疑惑を繰返すことは不可解であるとされているけれども、群衆が相集うごとに必ずかかる奇蹟が行われるものと考え得ないことも無理もなきことである。非常に特別なる奇蹟なるが故にかえってその反復を期待し難きことがむしろ当然であろう。イエスが再びかかる奇蹟を行い得ないと考えたのではないが、この場合も行い給うならんと信じ得なかったとしても弟子たちを責むる理由はなく、またこの記事を否定する理由とはならない。
8章5節 イエス
口語訳 | イエスが弟子たちに、「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります」と答えた。 |
塚本訳 | 彼らに尋ねられた、「手許にいくつパンがあるか。」「七つ」とこたえた。 |
前田訳 | 彼らにたずねられた、「パンがいくつあるか」と。彼らはいった、「七つです」と。 |
新共同 | イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。 |
NIV | "How many loaves do you have?" Jesus asked. "Seven," they replied. |
註解: マタ15:34にはパンと魚とを一緒に取り扱っている。本書の記事の方がいっそう事実の目撃者らしさを有す。
8章6節 イエス
口語訳 | そこでイエスは群衆に地にすわるように命じられた。そして七つのパンを取り、感謝してこれをさき、人々に配るように弟子たちに渡されると、弟子たちはそれを群衆に配った。 |
塚本訳 | イエスは群衆に命じて地面にすわらせ、それからその七つのパンを(手に)取り、(神に)感謝して裂き、群衆に配るため弟子たちに渡されると、それを配った。 |
前田訳 | そこで彼は群衆に地にすわるよう命じ、七つのパンを手にし感謝して裂き、群衆に配るように弟子たちに渡された。彼らは配った。 |
新共同 | そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。 |
NIV | He told the crowd to sit down on the ground. When he had taken the seven loaves and given thanks, he broke them and gave them to his disciples to set before the people, and they did so. |
註解: イエスが平日家にて弟子たちと共に食事をし給う時の態度も、これと何ら異なる処がなかったであろう。イエスにとりては一人も千人のごとく、千人も一人のごとくである。
8章7節 また
口語訳 | また小さい魚が少しばかりあったので、祝福して、それをも人々に配るようにと言われた。 |
塚本訳 | また小魚が少しあったのをイエスは祝福して、これも配るように言われた。 |
前田訳 | 小さい魚も少しあった。それを祝福して、これも配るようにいわれた。 |
新共同 | また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。 |
NIV | They had a few small fish as well; he gave thanks for them also and told the disciples to distribute them. |
註解: 数尾の小魚を四千の群衆の前に置かしむるイエスの態度を見よ、イエスは数の観念を超越してい給えるもののごとくである。
8章8節
口語訳 | 彼らは食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七かごになった。 |
塚本訳 | 人々は食べて満腹した。そして余った(パンの)屑を拾うと、七篭あった。 |
前田訳 | 人々は食べて満腹した。余ったくずを拾うと、七籠あった。 |
新共同 | 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。 |
NIV | The people ate and were satisfied. Afterward the disciples picked up seven basketfuls of broken pieces that were left over. |
註解: 神を信ずる者にとりては不足が変じて過剰となる。如何に僅かなる物といえども、感謝をもってこれを受くる時、溢れて、無限に豊かなる賜物となるからである。
辞解
[籃 ] spuris とマコ6:43の「筺 」kophinos との区別につきてはマタ16:10辞解参照。▲口語訳、塚本訳はこの「籃 」と「筺 」とに同一の訳語を当てている。日本語の発音は同一であるがせめて漢字だけは区別しておくのが便利ではあるまいか。もし異なった適当の訳があれば一層よいであろう。例えば「ざる」と「かご」のごとく。
口語訳 | 人々の数はおよそ四千人であった。それからイエスは彼らを解散させ、 |
塚本訳 | それは四千人ばかりであった。イエスは人々を解散させられた。 |
前田訳 | それは四千人ほどであった。彼は人々を解散なさった。 |
新共同 | およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。 |
NIV | About four thousand men were present. And having sent them away, |
註解: 女と子供とを除きたる数としてマタ15:38に掲げられている。
イエス
8章10節
口語訳 | すぐ弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方へ行かれた。 |
塚本訳 | それからすぐ弟子たちと一しょに舟に乗って、ダルマヌタ地方に行かれた。 |
前田訳 | それからすぐ弟子たちと舟に乗ってダルマヌタの地方に行かれた。 |
新共同 | それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。 |
NIV | he got into the boat with his disciples and went to the region of Dalmanutha. |
註解: ダルマヌタなる地名は何処を指すか不明であり、マタ15:39にはマガダンとあり。また異本にマグダラとあり、マガダンも不明の地である。
附記 七つのパンをもって四千人を養える奇蹟はマコ6:30−44の奇蹟と相類似するのみならず、(1)「その頃」なる漠然たる時の指示、(2)場所の不明、(3)かかる多数の群衆の集り来れることは不可解なること、(4)全体として第一回のパンの奇蹟に類似しており、かかる事が二度も行われることは不思議なること、(5)および4節の弟子たちの不信が不可解なること等の理由により、これは同一事実が異なるもののごとくに記録せられて異なれる資料に掲げられていたために、二つの事実として記載されているのであると解する学者も多いけれども、前記各節註解に説明せるごとき理由により、かかる説はこれを採用する必要を認めない。かえってかかる類似の事実を同一の記者または同一の編者が二つとも収録することは、二つの事実が存在せることの充分なる確信が有るからであって、もしこの確信が無かったならば、学者の説を待つまでもなく、彼ら自らその中の何れか一つを除いたことであろう。なおマタ15:39附記参照。
口語訳 | パリサイ人たちが出てきて、イエスを試みようとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた。 |
塚本訳 | するとパリサイ人たちが出てきて、イエスを試そうとして議論を吹きかけ、(神の子である証拠に、)天からの(不思議な)徴を(示すようにと)彼に求めた。 |
前田訳 | するとパリサイ人が出て来て、議論をはじめ、天からの徴を求めた。彼を試みたのである。 |
新共同 | ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。 |
NIV | The Pharisees came and began to question Jesus. To test him, they asked him for a sign from heaven. |
註解: ダルマヌタ附近に住めるパリサイ人(マタ16:1はこれにサドカイ人をも加う)らイエスが久しく不在の後再び現れ給いしを聴きその家より(M0、I0)出で来り、イエスに向って挑戦した。彼らはイエスのメシヤに非ざることを暴露せんとの悪意に充ちていた。
イエスと
註解: パリサイ人らはイエスとは根本的に性が合わなかった。彼らはイエスを陥れこれを信ぜざらんとする心に充たされていたので、イエスの行い給える多くの奇蹟殊にそのパンの奇蹟も彼らを信ぜしむるに足らず、さらにイエスを陥れんとして天よりの徴を求めた。彼らには不信と悪意より外になかった。不信と悪意の前には神も自らその栄光をかくし給う。
辞解
[天よりの徴] マタ16:1辞解参照。
口語訳 | イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう。よく言い聞かせておくが、しるしは今の時代には決して与えられない」。 |
塚本訳 | イエスは心の中で大きく溜息をついて言われる、「この時代の人はなぜ徴を求めるのだろうか。アーメン、わたしは言う、この時代の人に徴が与えられるものか。」 |
前田訳 | 彼は心に深く溜息をついていわれる、「なぜこの世代は徴を求めるのか。本当にいう、この世代に徴は与えられまい」と。 |
新共同 | イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」 |
NIV | He sighed deeply and said, "Why does this generation ask for a miraculous sign? I tell you the truth, no sign will be given to it." |
註解: 直訳「霊にて深く呻吟 き」「霊の底より呻吟 き」との意で、イエスはパリサイ人らの不信と悪意とを深く悲しみ憤り給えることを示す。
『なにゆゑ
註解: もし純真なる心をもってイエスを仰ぐならば、イエスの為し給える不思議を見ただけで、充分に彼を信ずることができたはずである。神に対する信仰が真正ならば、その心はそのままイエスを信ずる心となる。これに反し神に対して「邪曲にして不義なる」心を持てる「代は徴を求む」(マタ12:39)かかる者はたとい徴を与えられてもこれを信ずることはできない。それ故にかかる者に向って神は徴を与え給わない。
辞解
[徴] sêmeion ある事柄のしるしで、イエスがメシヤたることを表示する何らかの現象を指す。これが天より来る場合は「天よりの徴」でありイエスの地上にて為し給える奇蹟は地上における徴である(ヨハ3:2。ヨハ4:54等)。▲イエスを信じない者は、その徴を見ても信じないであろう。不真面目な心でイエスに接する者はイエスの怒りを買うだけのこととなる。
8章13節
口語訳 | そして、イエスは彼らをあとに残し、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。 |
塚本訳 | イエスは彼らを(そこに)のこし、また(舟に)乗って向う岸へ立ち去られた。 |
前田訳 | 彼らに別れてまた舟に乗って向こう岸へ立ち去られた。 |
新共同 | そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。 |
NIV | Then he left them, got back into the boat and crossed to the other side. |
註解: イエスのパリサイ人に対する離反は益々甚だしくなった(15節参照)。パリサイ人らはイエスが天よりの徴を与え給わないのを見て、イエスの無能が証拠立てられしものと考え、勝ち誇ったことであろう。この世の人の思いは神の思いと異なる。
辞解
[彼方 ] たぶんベテサイダであろう(22節)。
要義 [イエスの呻吟 ]四千人を七つのパンをもって養い給いしイエスは、如何に頑固なるパリサイ人といえども、この事実を耳にしたならば彼を信ずるであろうと考え給うた。然るに彼らはなおもイエスを試験せんとし天よりの徴を求むるのを見て、イエスは心中悲哀と憤激との錯綜せる不思議なる感情に充たされ給うた。これが彼の呻吟 となってあらわれたのである。真実に充てる心は人の不信と不真実とに耐え得ない。また不真実なる心はイエスの真実さを理解することができない。信仰と不信仰とは水と油とのごとく永遠に一致し得ない。
8章14節
口語訳 | 弟子たちはパンを持って来るのを忘れていたので、舟の中にはパン一つしか持ち合わせがなかった。 |
塚本訳 | ところがパンを持ってくるのを忘れたので、舟にはたった一つしかパンがなかった。 |
前田訳 | さて彼らはパンを持って来るのを忘れ、舟にはただ一つのパンしかなかった。 |
新共同 | 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。 |
NIV | The disciples had forgotten to bring bread, except for one loaf they had with them in the boat. |
註解: イエスがパリサイ人らより試みられ、怒りてそこを去り給うたのは、緊張せる瞬間であった。弟子たちもおそらく主イエスの呻吟 の意味を理解しなかったであろう。唯イエスの憤慨し給える有様に心奪われてパンを求むることを忘れ、そのまま舟に乗った。而して彼ら心中にパンなきことの不安に充たされていた。
辞解
[舟] マタ16:5にはこの物語が上陸後の出来事として録されている。マルコの方が事実らしく思わる。
8章15節 イエス
口語訳 | そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた。 |
塚本訳 | するとイエスは弟子たちに、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに注意し、気をつけよ」と命じられた。 |
前田訳 | そこで彼は命じられた、「心せよ、パリサイ人のパン種とヘロデのパン種に注意せよ」と。 |
新共同 | そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。 |
NIV | "Be careful," Jesus warned them. "Watch out for the yeast of the Pharisees and that of Herod." |
註解: 弟子たちの心配がパンのことであったのとは正反対にイエスの御心はパリサイ人の不信に対する憤懣に充ちていた。またヘロデがバプテスマのヨハネを迫害した後であったのでその迫害がイエスおよびその弟子に及ばんことを感じ給うた。このパリサイ精神、ヘロデ精神こそ将来イエスおよび弟子たちを滅さんとする大敵であり、充分これに注意すべきである。イエスはこのことを弟子たちに強く印象付けんとした。
辞解
[パンだね] 善または悪、殊に悪の感化力すなわち腐敗作用の強烈なることに対する譬喩として用いらる。聖書においては主として世俗的思想による腐敗を示す。Tコリ5:6−8。ガラ5:9。なおマタ13:33辞解参照。パリサイ主義とは一般には神に対する不信、偽善(ルカ12:1)、形式主義、律法主義(マタ16:12)等の別名として取扱われているけれども、本節の場合はイエスの御心はその不信および敵意(W2)に集中していたことと思われる。
[ヘロデ] マタ16:6には「サドカイ人」とあり、ヘロデ党にはサドカイ人が多いと言われている。ただしこの場合はむしろイエスとその弟子の迫害者としてのヘロデを指すと見るを可とす。
8章16節
口語訳 | 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないためであろうと、互に論じ合った。 |
塚本訳 | 弟子たちは(その意味がわからず)、パンのないことを互に評議をしていた。 |
前田訳 | 弟子たちはパンのないことを互いに話しあっていた。 |
新共同 | 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。 |
NIV | They discussed this with one another and said, "It is because we have no bread." |
註解: 弟子たちの心はイエスの感じ給うことを感ぜず、イエスの思い給うことを思わなかった。イエスの心と彼らの心とは、あまりに甚だしく懸離れていた。イエスの淋しさは如何ばかりであったろう。
辞解
本節はまた「弟子たち互に彼らがパンを有たざることを思いなやみたり」とも訳す。
口語訳 | イエスはそれと知って、彼らに言われた、「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。 |
塚本訳 | イエスはそれと知って言われる、「なぜパンのないことを評議するのか。まだ解らないのか、悟らないのか。心が頑なになってしまったのか。 |
前田訳 | それに気づいて彼はいわれる、「なぜパンのないことを話しあうか。まだわからないのか、悟らないのか。あなた方の心は頑になってしまったのか。 |
新共同 | イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 |
NIV | Aware of their discussion, Jesus asked them: "Why are you talking about having no bread? Do you still not see or understand? Are your hearts hardened? |
註解: イエスは弟子たちの語り合うことの何たるかを知り給うた、而してイエスは彼らの不信を見抜き給うた。
『
8章18節
口語訳 | 目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。まだ思い出さないのか。 |
塚本訳 | “目があっても見えず、耳があっても聞えない”のか。覚えていないのか、 |
前田訳 | 目があっても見えず、耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか、 |
新共同 | 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。 |
NIV | Do you have eyes but fail to see, and ears but fail to hear? And don't you remember? |
註解: イエスの感情は非常に激していた。心中に蹲 れる鬱憤は大河の決するがごとくに迸 り出でて、あたかも機関銃の音のごとく七つの質問となりて弟子に向って発せられたのであった。パリサイ人の不信と敵意に対する鬱憤はここにその愛弟子らの無理解のために爆発したのであった。イエスは、せめては弟子だけでも彼のメシヤたることを理解しそうなものであると思い給うたのであろう。
8章19節
口語訳 | 五つのパンをさいて五千人に分けたとき、拾い集めたパンくずは、幾つのかごになったか」。弟子たちは答えた、「十二かごです」。 |
塚本訳 | わたしが五つのパンを五千人に裂いた時に拾った(パンの)屑は、篭に一ぱい、いくつあったか。」「十二」と弟子たちがこたえる。 |
前田訳 | パン五つをわたしが五千人に裂いたとき、拾ったくずでいっぱいの籠がいくつあったか」と。彼らはいう、「十二でした」と。 |
新共同 | わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。 |
NIV | When I broke the five loaves for the five thousand, how many basketfuls of pieces did you pick up?" "Twelve," they replied. |
8章20節 『
口語訳 | 「七つのパンを四千人に分けたときには、パンくずを幾つのかごに拾い集めたか」。「七かごです」と答えた。 |
塚本訳 | 「七つを四千人の時には、拾った(パンの)屑は篭に一杯いくつあったか。」「七つ」とこたえると、 |
前田訳 | 「七つを四千人にのときは、拾ったくずでいっぱいの籠がいくつあったか」。彼らはいう、「七つでした」と。 |
新共同 | 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、 |
NIV | "And when I broke the seven loaves for the four thousand, how many basketfuls of pieces did you pick up?" They answered, "Seven." |
註解: イエスはこの二度の奇蹟を弟子たちに思い起さしめ、しかも数千人を養いてもなお多くの余りのパンを集むることを得し事実を思い起さしむることにより、パンのことを思い煩うことの愚なることを示し給うと同時に、それよりも一層重要なること、すなわちイエスこそメシヤに在し給うことの事実を弟子たちに悟らしめんとし給うた。パリサイ人らの不信はなお忍ぶべし、弟子たちの無理解はイエスの大なる苦痛であった。それ故にイエスは次節をもって弟子たちの悟りを促した。
口語訳 | そこでイエスは彼らに言われた、「まだ悟らないのか」。 |
塚本訳 | 「まだ悟らないのか」と言われた。 |
前田訳 | そこで彼らにいわれる、「まだ悟らないのか」と。 |
新共同 | イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。 |
NIV | He said to them, "Do you still not understand?" |
註解: 弟子たちははたして悟ったであろうか、パリサイ人のパン種とヘロデのパン種すなわち不信と敵対の悪分子を弟子たちはは果たしてイエスのごとくに解していたであろろうか。
要義 [パリサイ人のパン種]マタ23章においてイエスは偽善なる学者、パリサイ人の諸罪悪を完膚 なきまでに痛撃し給うた。すなわち彼らの偽善、律法主義、形式主義に対する非難である。而して彼らのこの罪は彼らが神を信じていると思いつつ実は信ぜずして自己に誇っているからであり、この不信がそのままイエスに対する不信と迫害とになったのであった。弟子にとって最も警戒を要するものはこの不信である。イエスを神の子と信ぜざる心、これすなわちパリサイ人の心である。14−21節をこの意味に解すべきであって、これを単にイエスは少人数をも多人数と同じく養い給うことを教え給えるものと見るは(L2、Z0)適当ではない。
註解: 22−26節はこれに類似するマコ7:31−37と共にマルコ伝特有の記事である。
口語訳 | そのうちに、彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、ひとりの盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいとお願いした。 |
塚本訳 | 彼らはベッサイダに来る。人々が一人の盲人をイエスのところにつれて来て、さわって(直して)ほしいと願う。 |
前田訳 | 彼らはベツサイダに来ると、人々は目しいを連れて来て、さわっていただくようお願いした。 |
新共同 | 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。 |
NIV | They came to Bethsaida, and some people brought a blind man and begged Jesus to touch him. |
註解: ガリラヤ湖の東北のベテサイダ・ユリウスを指す。
註解: この盲人はベテサイダの人ではないようである(26節)。
8章23節 イエス
口語訳 | イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねられた。 |
塚本訳 | イエスは盲人の手を取って村の外につれ出し、その両方の目に唾をかけ、両手を(その目に)あてて尋ねられた、「何か見えるか。」 |
前田訳 | 彼は目しいの手を取って村の外に連れ出し、両目に唾し、両手をその上に置いてたずねられた、「何か見えるか」と。 |
新共同 | イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。 |
NIV | He took the blind man by the hand and led him outside the village. When he had spit on the man's eyes and put his hands on him, Jesus asked, "Do you see anything?" |
註解: マコ7:33の場合と同じくイエスはその奇蹟が一般に知られることを望み給わなかった。
その
註解: この場合もイエスは治療のために唾を用い給うた。弟子たちのみはおそらくイエスと共に村の外に出でこの治療を目撃したのであろう。
8章24節
口語訳 | すると彼は顔を上げて言った、「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」。 |
塚本訳 | 盲人は目をあげてこたえた、「人が見えます。木のようで、歩いているのがわかります。」 |
前田訳 | 目しいは見あげていった、「人が見えます。木のようで、歩いているのがわかります」と。 |
新共同 | すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」 |
NIV | He looked up and said, "I see people; they look like trees walking around." |
註解: 未だ完全に醫されない状態である。
辞解
[見ゆ] 「見ゆる故なり」となっている。
8章25節 また
口語訳 | それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。 |
塚本訳 | それから、かさねて両手を目にあてられると、よく見えてきてすっかり直り、なんでも遠くからはっきり見えるようになった。 |
前田訳 | そこでふたたび手を両目にあてられると、見えはじめてなおってき、何もかもはっきり見えるようになった。 |
新共同 | そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。 |
NIV | Once more Jesus put his hands on the man's eyes. Then his eyes were opened, his sight was restored, and he saw everything clearly. |
註解: 驚くべきイエスの治病力を見る。徐々に治癒せる例はこの一つなり。
8章26節
口語訳 | そこでイエスは、「村にはいってはいけない」と言って、彼を家に帰された。 |
塚本訳 | イエスは「村にも入るな(、まっすぐに帰りなさい)」と言って、その人を家にかえされた。 |
前田訳 | そこで「村にも入るな」といって家に帰された。 |
新共同 | イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。 |
NIV | Jesus sent him home, saying, "Don't go into the village. " |
註解: 彼が彼を伴い来れる人々に逢わんとてベテサイダの村に入ることを望んだに相違ないと思うがイエスはこれをも禁止してその家に帰し給うた。
要義 [弟子たちの目は次第に開かれた]この盲人の目がイエスの御手によって徐々に開かれしと同じく、弟子たちの目も14−21節においてあまりに明かに見えなかったものが、後に次第に明かに見えて29節にはペテロはついにイエスをキリストなりと告白するに至った。我らの信仰も必ずしも一度に凡てを見得る必要はない。イエスは必ずその御手をもって我らを明かに見得るように導き給う。
附記 8:1−26は6:30−7:37の重複記事と認むる学者多し。
分類
4 十字架に対って進み給う 8:27 - 9:50
4-1 受難の予告 8:27 - 9:32
4-1-イ ペテロの告白 8:27 - 8:30
(マタ16:13-20) (ルカ9:18-22)
8章27節 イエス
口語訳 | さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」。 |
塚本訳 | イエスは(そこから)弟子たちとピリポ・カイザリヤの(町に近い)村々に出てゆかれた。道すがら弟子たちにこう言って尋ねられた、「世間の人はわたしのことをなんと言っているか。」 |
前田訳 | イエスは弟子たちとピリポ・カイサリアの村々へと出で立たれた。道すがら彼は弟子たちにたずねられた、「人々はわたしのことを何といっているか」と。 |
新共同 | イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 |
NIV | Jesus and his disciples went on to the villages around Caesarea Philippi. On the way he asked them, "Who do people say I am?" |
註解: ピリポ・カイザリヤはガリラヤ湖の北五十キロ、ヘルモン山麓にあり、分封の国守ピリポがカイザル・アウグストの栄誉のために名付けた邑で、地中海に面するカイザリヤと区別するためにピリポ・カイザリヤという。イエスは遥々この地に来て弟子たちと共に静かに御自身の使命につき思いを廻らし給う。「自分は果してメシヤなのであろうか。内に溢れるこの力の自覚は、自分の普通の人間にあらざることを示すもののごとくにも思われるけれども、さればとてメシヤとしてはあまりに無力であり、世の迫害にさらされている。しかしながら予は腕力をもって世界を支配することを欲しない。唯神のみに依り頼んで行こう、たとい如何なる苦痛が来ようとも」というのがイエスの御心であった。而してイエスは心中にそのメシヤたることの意識が益々強くなりつつあったもののごとくである。
註解: これは次に来る弟子たちの信仰を試さんがための質問の前提であった。イエスは世人が如何なる程度まで彼を理解しているかを知ることを望み給うた。
『
8章28節
口語訳 | 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。 |
塚本訳 | 彼らが言った、「洗礼者ヨハネ。あるいはエリヤ、あるいは(昔の)普通の預言者と言う者もあります。」 |
前田訳 | 彼らはいった、「洗礼者ヨハネと申します。エリヤ、あるいは預言者のひとり、というものもいます」と。 |
新共同 | 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 |
NIV | They replied, "Some say John the Baptist; others say Elijah; and still others, one of the prophets." |
註解: 一般の世人すらイエスをもって彼らの最も尊敬すべき預言者のごとき人と見做 した。これは一人の人間に対して払い得る最高の尊敬であった。イエスはこの答を得て益々自己の中に満ちている力を感ぜざるを得なかった。
8章29節 また
口語訳 | そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。 |
塚本訳 | イエスは尋ねられた、「では、あなた達はわたしのことをなんと言うのか。」ペテロが答えて言う、「あなたは救世主であります!」 |
前田訳 | 彼はたずねられた、「あなた方はわたしのことを何というか」と。ペテロが答えた、「あなたはキリストです」と。 |
新共同 | そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 |
NIV | "But what about you?" he asked. "Who do you say I am?" Peter answered, "You are the Christ. " |
註解: イエスの最も憂い給う点は、その弟子らが果してイエスのメシヤたることを認めているかどうかの点であった。もし彼らにしてこれを認めないならばイエスの伝道は徒然であり、もしまた彼らにしてこれを認めているならば、来るべきイエスの苦難が彼らの躓きとなるであろう。
ペテロ
註解: キリストはメシヤのギリシャ語、ペテロは、イエスこそは全イスラエルの待ち望む救い主に在すことを直感した。これは実に神の示し給う処であった(マタ16:17)。他の弟子たちもまたペテロと同様の信仰を有っていたのであろう。而してこの問答は取りもなおさず従来イエスがメシヤとして御自身を示し給わなかったことをあらわす。
辞解
マタイ伝には「なんぢはキリスト活ける神の子なり」とあり。「神の子」なる文字はマルコ伝になし(マコ1:1註参照)。マタイ伝の場合はおそらく後日の弟子たちの信仰がイエスの口に遡って置かれたのであろう。マルコの方が一層自然らしい。またマタ16:17−19にペテロの信仰を賞讃せる一層詳しいイエスの御言があるけれどもマルコ伝にはこれが省略されている。孰 れが原形かにつき学者間に論議があるけれども、決定し難い。おそらくマルコはその師ペテロを賞揚することを遠慮してこれを略したのであろう。なおペテロと「教会の礎」の問題に関してはマタ16:17註および要義一を見よ。
8章30節 イエス
口語訳 | するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。 |
塚本訳 | イエスは自分のことをだれにも言ってはならないと、弟子たちを戒められた。 |
前田訳 | 彼は自分のことをだれにもいわぬよう弟子たちをいましめられた。 |
新共同 | するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。 |
NIV | Jesus warned them not to tell anyone about him. |
註解: 最も深い奥義に関することは濫 りにこれを語るべきではなく、語りてもこれを悟ることはできない。
要義 [イエスはキリストなり]この告白は、イエスに対して人間以上のもの、神に遣されて世界の救い主たるべき人としての称呼を奉ったのであった。弟子と共に村から村へと経巡っている一青年伝道者に対してかかる思い切った称呼を奉ることは決して尋常一様のことではない。弟子たちはイエスの中に真の神的なるものの存することを感ぜずにはいられなかったからであろう。単にイエスを偉人とか預言者とかとして解するだけでは足りない。彼を人間以上のものすなわち神として知ることによりて真に彼を知ったのであり、福音の基礎はここに存するのである。
8章31節
口語訳 | それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、 |
塚本訳 | (この時から、)イエスは、「人の子(わたし)は多くの苦しみをうけ、長老、大祭司連、聖書学者たちから排斥され、殺され、そして三日の後に復活せねばならない。(神はこうお決めになっている)」と弟子たちに教え始められた。 |
前田訳 | そして彼らに教えはじめられた、「人の子は苦しみを重ね、長老、大祭司、学者らに排斥され、殺されて、三日ののちに復活せねばならない」と。 |
新共同 | それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 |
NIV | He then began to teach them that the Son of Man must suffer many things and be rejected by the elders, chief priests and teachers of the law, and that he must be killed and after three days rise again. |
口語訳 | しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、 |
塚本訳 | しかもおおぴっらにこのことを話された。するとペテロはイエスをわきへ引っ張っていって、忠告を始めた。(救世主が死ぬなどとは考えられなかったのである。) |
前田訳 | しかもあからさまにこのことをいわれた。そこでペテロは彼をわきへ引いて制止しはじめた。 |
新共同 | しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 |
NIV | He spoke plainly about this, and Peter took him aside and began to rebuke him. |
註解: イエスがメシヤたることを告白するや否や、弟子たちは全く予想に反して、イエスの受難の予告を受けたのであった。メシヤはまずユダヤ人を異邦の圧迫より救うべきであった。然るにイエスにはこのことなくしてかえって自ら時の権力者のために殺されるとは、弟子たちの考え得ざる点であった。イエスをメシヤと信ずることと、彼が時の権力者の手に殺されることとは、同時に弟子の心を支配し得ざる事実であった。ゆえにイエスのこの告白は弟子たちの心には甚だ不可解なる謎のごときものとして残っていた(ルカ9:45)。然るにイエスの敵は、イスラエルを圧迫する異邦ではなくむしろ神の民を治むべき学者、長老、祭司長たちであった。その故は彼らが神に従っていなかったからである。神より遣されしイエスと神に反している彼らとは所詮対立するより外に無く、而してイエスはこの対立を意識しつつもこの世の権力や兵力を用いて真理を擁護することを欲し給わなかったために、結局において彼らに殺されることがその運命であることを悟り給うたのであった。三日の後に甦るべきことを予告し給うたのは、神はその遣し給えるイエスを永遠に陰府に捨て置き給うはずなく、ヨナの場合のごとく、三日目に甦らされるであろうことの確信から出て来た預言であった。一見不可思議なるこの預言も、イエスのメシヤたる意識と、その受難の予感との相乗積と見れば、決して解し得ないことではない。
辞解
[人の子] マタ8:20辞解参照。この語はイエス御自身のみ用い給える自己称呼で、キリスト教以前においても(ダニ7:13)メシヤを「人の子」と呼んだことは事実である。すなわちこの中に多分に終末的のもの、または終末審判の意義を含む。
長老、祭司長、学者の三者は衆議所の議員であり、ユダヤ人の最高幹部であった。
[三日の後] また「三日目」とも録さる。同一の意味。
[あらはに] 少しも隠すことをせず率直にとの意。
[語り給ふ] 未完了過去形で繰返し語り給えることを示す。
8章33節 イエス
口語訳 | イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。 |
塚本訳 | イエスは振り返って、弟子たちの見ている前でペテロを叱りつけられた、「引っ込んでろ、悪魔!お前は神様のことを考えずに、人間のことを考えている!」 |
前田訳 | イエスは振り返り、弟子たちを見ながら、ペテロをいましめられた、「引きさがれ、悪魔よ。おまえは神のことをでなく人間のことを考えている」と。 |
新共同 | イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 |
NIV | But when Jesus turned and looked at his disciples, he rebuked Peter. "Get behind me, Satan!" he said. "You do not have in mind the things of God, but the things of men." |
註解: イエスはその死に向って突進せんとしペテロはこれを引き留めんとした。イエスといえども死にたくはなかったに相違ない。しかし、これはあくまでも「人のこと」であった。イエスの死は神の御旨であった。イエスは神の御旨に従う場合死より外に途がなかったのである。ペテロにはこの神の御旨が全く解し得ず唯師を思う人間的の心持だけであり、この心が強くイエスを動かしたのでイエスにとりてはサタンの誘いであった。人間的親切も往々にしてサタンの声として退けなければならない。これを識別する唯一の方法は、唯神のみに従う生活より外にない。
辞解
マルコの記載は何時もながら当時の光景を生き生きとして髣髴せしむるものある。
[戒め] epitimaô ペテロがイエスを戒めしはペテロの感情が激していたことを示す。マタ16:20の「戒め」はこれよりも柔らかな言葉 diastellô を用う。
要義1 [受難の予告]如何にしてイエスはその受難を予知し給いしかは勿論記されていない。しかしながらイエスにとりては唯神の御旨を宣伝える以外に道なく、而して地上において神の御旨を行いまたは教うべき祭司長、長老、学者等が神の御旨に反していることはイエスにとりて明かであった。本質的に相反する二者が共に存在することはできない。イエスにおいては敵に降伏することもできずまた敵と妥協することもできずまた敵を倒すべき暴力を用うることができなかった以上、その当然の帰結が死より外になかった。この本質的差別を見破り得なかった弟子たちはこの予告の意味を解し得なかった。
要義2 [復活の予告]苦難の予告よりも一層不可思議とも言うべきは復活の予告である。イエスは如何にしてその復活を予知し給うたか。おそらくイエスの神との霊交が非常に親密であったがために、彼の地上の生活は肉体の中にある生活でありながら、すでに肉を離れて霊の世界に生き給うたのであった。かかる生活がそれ自身死を超越せるものであったことは想像に難くはない。かかる生命が肉体の死と共に永遠に滅亡するがごときこと、またそれが陰府の中に閉込められるごときことは考え得ざる事柄であった。それ故にイエスはその死を予感し給うと同時に新たに復活し給うこともまた彼の心に浮かんだに相違ない。これは決して考え得ないことではなく、詩16:8−11(使2:25−28)のごときもまたイエスを首肯せしめたことであろう。我らのごときアダムの裔に過ぎざる者も信仰によりて新たに生れる時、この新生命の不死たること、而してたとい肉体は死してもやがては復活すべきものであることを予感することができる。「三日め」というごとき確実なる期間まで予知し給えることはやや不可解であるけれども(ある学者は、それほど精確に預言し給うたのではあるまいと唱える)、ヨナの徴をイエスの預言として解し給うたのであろう。また最も鋭き感覚には、我らの想像し得ざる事実をも知り得る力がある。
8章34節
口語訳 | それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 |
塚本訳 | それから、群衆を弟子と一しょに呼びよせて言われた、「だれでも、わたしについて来ようと思う者は、(まず)己れをすてて、自分の十字架を負い、それからわたしに従え。 |
前田訳 | そして群衆を弟子たちとともに呼びよせていわれた、「わたしについて来ようと思うものはだれでも、自分を捨てておのが十字架を負ってわたしに従え。 |
新共同 | それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 |
NIV | Then he called the crowd to him along with his disciples and said: "If anyone would come after me, he must deny himself and take up his cross and follow me. |
註解: マタ16:24には群衆のことを記していない。おそらくイエスが弟子たちと共に人を避けてい給う処に、群衆はこれを聴きつけてイエスの御許に集り来ったのであろう。イエスは到る処磁石に集る鉄粉のごとくに人を引付けた。
『
註解: イエスの弟子たらんとする者はイエスと同一の態度に出ることと同一の運命に遭うこととの覚悟を要する。すなわちイエスと同じく自己放棄の態度を取り、己のことを求めず唯神の御旨のみを求め、己が十字架を負いて死に向って進まなければならない。
辞解
[従ふ] 弟子となることの意味に用う。
[己をすて] 「己を拒み」で、自己否定の意、自己なるものを保存しつつイエスの弟子となることはできない。
[己が十字架を負ふ] 罪人が十字架刑を受くる時は、自己の釘 くべき十字架を負わされる習慣があった。それ故に「己が十字架を負ふ」とは死につくこと。
8章35節
口語訳 | 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。 |
塚本訳 | (十字架を避けてこの世の)命を救おうと思う者は(永遠の)命を失い、わたしと福音とのために(この世の)命を失う者は、(永遠の)命を救うのだから。 |
前田訳 | おのがいのちを救おうと思うものはそれを失い、わたしと福音のゆえにいのちを失うものはそれを救おう。 |
新共同 | 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 |
NIV | For whoever wants to save his life will lose it, but whoever loses his life for me and for the gospel will save it. |
註解: ここに重要なる逆説がある。肉体の生命は自己である、これを全うせんとするものは永遠の生命を失い、前者を棄てて死につく者は永遠の生命を獲得する。大死一番始めて真の生命に達する。
辞解
マタイ伝ルカ伝には「福音のために」を欠く。
8章36節
口語訳 | 人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。 |
塚本訳 | 全世界をもうけても、命を損するのでは、その人になんの得があろう。 |
前田訳 | 全世界をかち得ても、おのがいのちを取られれば何の役に立とう。 |
新共同 | 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 |
NIV | What good is it for a man to gain the whole world, yet forfeit his soul? |
口語訳 | また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。 |
塚本訳 | また、人は(一度失った永遠の)命を受けもどす代価として、何か(神に)渡すことができようか。 |
前田訳 | おのがいのちの代価に何を与ええようか。 |
新共同 | 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 |
NIV | Or what can a man give in exchange for his soul? |
註解: 大切なのは生命であって、物質ではない。人は自己の生命のために物質を要求する。しかしながら所有慾満足の絶頂は全世界の所有であるけれども、これによるもその生命の損失を補うことはできない。一旦失われし生命は代償をもってこれを買戻すことはできない。それ故に我らの求むべきは不死の生命であって、死ぬべき生命に宿れる慾望の満足ではない。而して不死の生命を獲得することは、己を棄て、己が十字架を負いてイエスに従うことである。
辞解
[損する] 最後の審判の際において死の宣告を受くることを指す。
8章38節
口語訳 | 邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。 |
塚本訳 | (わたしを信ずると言いながら、)神を忘れた、罪のこの時代において、わたしとわたしの福音(を告白すること)とを恥じる者があれば、人の子(わたし)も、父上の栄光に包まれ、聖なる天使たちを引き連れて(ふたたび地上に)来る時、その(臆病)者を(弟子と認めることを)恥じるであろう。」 |
前田訳 | この邪悪な罪の世でわたしとわがことばを恥じるものがあれば、人の子も、父の栄光を受けて聖なるみ使いらとともに来るときに、そのようなものを恥じよう」と。 |
新共同 | 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」 |
NIV | If anyone is ashamed of me and my words in this adulterous and sinful generation, the Son of Man will be ashamed of him when he comes in his Father's glory with the holy angels." |
註解: この世において今の時代に、その不義と罪悪との生活に調子を合せていくことは極めて容易であり、反対に主イエスを信じその御言を守る者はこの世の人々よりは偏屈、固陋 、潔癖として排斥せられ辱められる運命に置かれている。それ故に極めて強き決心をもってイエスに従うにあらざれば、人はこの侮辱にたえることができない。イエスすらこの辱しめを受け給うた。況 してその弟子をや。この侮辱にたえ得ずして福音を恥とする者は(ロマ1:1ロマ1:166)、世の終りにおいてイエスが世を審 かんがために再び来り給う時、イエスは彼を見ることを恥とし給うであろう。
辞解
[不義なる] moichais は「姦淫の」で神を離れて神ならざるものを拝すること、不信仰の時代をいう。
[人の子] 審判または再臨に関する場合に多く用いらる。
[父の栄光をもて云々] キリスト再臨の時の光景。