黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版マタイ伝

マタイ伝第7章

分類
3 山上の垂訓 5:1 - 7:29
3-6 裁くなかれ 7:1 - 7:5
(ルカ6:37、38)(ルカ6:41、42) 

7章1節 なんぢら(ひと)(さば)くな、(さば)かれざらん(ため)なり。[引照]

口語訳人をさばくな。自分がさばかれないためである。
塚本訳(人を)裁くな、自分が(神に)裁かれないためである。
前田訳裁くな、裁かれないために。
新共同「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
NIV"Do not judge, or you too will be judged.

7章2節 (おの)がさばく審判(さばき)にて(おのれ)もさばかれ、(おの)がはかる(はかり)にて(おのれ)(はか)らるべし。[引照]

口語訳あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
塚本訳(人を)裁く裁きで、あなた達も裁かれ、(人を)量る量りで、あなた達も量られるからである。
前田訳あなた方がひとを裁くように自らも裁かれ、ひとをはかるように自らもはかられる。
新共同あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
NIVFor in the same way you judge others, you will be judged, and with the measure you use, it will be measured to you.
註解: 霊的に高所に達せる者の最も陥り易き誘惑は霊的高慢であって、これにより人を審くこと、殊に充分の愛と同情と知識とを有たずして審くことである。かくして他人を審く者をば同様に世の終末において神は同じ審判をもってさばき給うであろう。いかなる人も審かるべき点なきまでに完全ではない。ただし愛をもって、殊にキリストに対する愛をもって審くべき場合あることを忘れてはならない (Tコリ5:3Tコリ5:12Tコリ6:1-4) 。この場合ならば同じ量りをもって量られることは幸いなことである。又この戒めは善悪の判断を喪失すべしとのことではない。▲唯、人は皆−キリスト者さえも−他を審くに急であって、自己を顧みることが少ないことを注意されたのである。

7章3節 (なに)ゆゑ兄弟(きゃうだい)()にある(ちり)()て、おのが()にある梁木(うつばり)(みと)めぬか。[引照]

口語訳なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
塚本訳なぜあなたは、兄弟の目にある塵が見えながら、自分の目に梁があるのに気付かないのか。
前田訳なにゆえ兄弟の目にあるちりが見えて、あなたの目にある梁(はり)に気づかないか。
新共同あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
NIV"Why do you look at the speck of sawdust in your brother's eye and pay no attention to the plank in your own eye?

7章4節 ()よ、おのが()梁木(うつばり)のあるに、いかで兄弟(きゃうだい)にむかひて、(なんぢ)()より(ちり)をとり(のぞ)かせよと()()んや。[引照]

口語訳自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
塚本訳また、どうして兄弟にむかって、『あなたの目の塵を取らせてくれ』と言うのか。そら、自分の目に梁があるではないか。
前田訳どうして兄弟に向かって、あなたの目からちりを取ってあげよう、といえるか、相変わらずあなたの目に梁があるのに!
新共同兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
NIVHow can you say to your brother, `Let me take the speck out of your eye,' when all the time there is a plank in your own eye?
註解: 塵は道徳的欠点又は教理上の欠点であって、梁木(うつばり)は愛なき欠点である。偽善者は他を審くに厳であって己を責むるに寛である。愛なしに人の小過を責めてこの己の大過を見逃している。これを改めて先ず己を正しくし、殊に愛をもって他人に対することをしなければならない。ここにイエスはすべての人に共通なる欠点を指摘し、殊にこの欠点が自らを義とする者に起り易き欠点であるのを見て弟子等を戒め給うたのである。

7章5節 僞善者(ぎぜんしゃ)よ、まづ(おの)()より梁木(うつばり)をとり(のぞ)け、さらば(あきら)かに()えて、兄弟(きゃうだい)()より(ちり)()りのぞき()ん。[引照]

口語訳偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
塚本訳偽善者!まず自分の目の梁を取ってのけよ。その上で、兄弟の目の塵を(取ってやれるなら、)取ってやったらよかろう。
前田訳偽善者よ、まず自らの目から梁を取れ。見えたうえで兄弟の目からちりを取るようにせよ。
新共同偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
NIVYou hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother's eye.
註解: 自己の欠点を除き去ったもの、すなわち偽善も傲慢も無知も無慈悲もこれを除き去って、唯愛心に支配される場合に始めて真の意味において兄弟を審き、兄弟の目より塵を取り除くことができる。要するに人を審き得るものは神及び神の心をもって心としている人より外にない。その以外のものは自己の目に尚取り除くべき梁木(うつばり)を持っている。
要義 [他人を審くことについて] 「人を審くな」との聖言は我らの重大なる欠点に触れていることは事実である。しかしながらこれがために我ら他人の善悪を無視混合して可なりやというにそうではない。預言者も、イエス・キリストも使徒等も最も強烈に世の人の不信、偽善、涜神を責めた。この意味において彼らは最も激しき審判を下したのである。この点において我らもまた彼らに倣うべきである。ゆえに彼らがいかなる立場において世を審いたのであるかを見なければならない。彼らは(1)自己の趣味、嗜好、主義によりて人を審かず、唯神の言と神の律法とに従って審いた。(2)彼らは自己の名誉や悪意、嫉妬、徒党によりて人を審かず、愛と正義の観念より審いた。(3)彼らは人を滅亡に至らしめんとして審かずこれを救わんとして審いた。要するに神は愛なるがゆえに人の罪を悲しみ、これを叱責矯正せんがためにこれを審き給う、我らの審きもまたかくのごとくでなければならない。要するに神の御旨に従って審き、これに反して審かないのがキリスト者の常住の態度でなければならない。

3-7 犬豚に聖物を与えるなかれ 7:6

7章6節 (せい)なる(もの)(いぬ)(あた)ふな。[引照]

口語訳聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
塚本訳(とはいえ、正しい判断は出来ねばならない。神に供えた肉など)神聖な物を犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。豚はそれを足で踏みつけ、向き直ってあなた達を噛み裂くかも知れない。
前田訳聖なるものを犬にやるな。真珠を豚の前に投げ与えるな。さもないと、彼らはそれを足で踏みつけ、向き直ってあなた方を噛み裂こう。
新共同神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
NIV"Do not give dogs what is sacred; do not throw your pearls to pigs. If you do, they may trample them under their feet, and then turn and tear you to pieces.
註解: 前数節において(みだ)りに審くべからざることを教え、ここにはその反対の場合すなわちあまりに無差別に陥ることなきように戒めを与えている。「聖なる物」は神のもの、すなわち神より我らに与えられし福音の真理である。この真理は貴きこと真珠のごときものである。この真理を托されし者は、己の預っているものの極めて貴重なるものであることの自覚がなければならぬ。伝道が必要であるとの考えの下にこの貴重なる真理を、あたかも紙屑を投げ与えることくに人を選ばず(みだ)りに与うることは聖物冒涜である。「犬」「豚」いずれも汚物をもって生きている動物であって、神の聖なるものを好まず、汚穢の中に喜んで生活している不信者を意味している。かかる者の中に「聖なる物」に対して全く無感覚なる者があるゆえ、かかる者に対して「聖なる物」を(みだ)りに与えてはならぬ。勿論犬豚と然らざるものとの区別が常に明瞭にこれを知ることができるというのではない。唯自己の所持している宝の貴重さを自覚しているならば、これをある程度まで見分けることができるであろう。

また眞珠(しんじゅ)(ぶた)(まへ)()ぐな。(おそ)らくは(あし)にて()みつけ、()(かへ)りて(なんぢ)らを()みやぶらん。

註解: 彼らは福音を受けざるのみならず、かえってこれに対して冒涜を敢てし、又この福音の使者に害を与えることがある。これによりて(ただ)に彼らを救うことができないのみならず自らも損害を蒙り、殊に福音が汚され神の御栄えが(けが)されることは許すべからざる事柄である。ゆえによく人を見分け、かつ自己の(もたら)すものの貴重さを敬重しなければならぬ。▲外国人宣教師が日本人に伝道する際に本節の注意が殊に必要である。

3-8 祈り求めよ 7:7 - 7:12
(ルカ2:9-13) 

7章7節 (もと)めよ、さらば(あた)へられん。(たづ)ねよ、さらば見出(みいだ)さん。(もん)(たた)け、さらば(ひら)かれん。[引照]

口語訳求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
塚本訳(ほしいものはなんでも天の父上に)求めよ、きっと与えられる。さがせ、きっと見つかる。戸をたたけ、きっとあけていただける。
前田訳求めよ、さらば与えられよう。たずねよ、さらば見いだそう。戸をたたけ、
新共同「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
NIV"Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be opened to you.
註解: 「求め」「尋ね」「門を叩く」ことは、その求むる熱心の度合いのいよいよ切なることを示す。神はその子等にその賜物を与えることを欲し給う。唯これを求めざる者の懐中(ふところ)に強いてこれを押込み給わず、求むる者にのみ与え給う。これ犬や豚に聖きものを与えてかえってこれを(けが)すことなからんがためである。それゆえにすべての人、神より聖き賜物を得んがためには先ず求むる心を起さなければならない。ここに何を求むるべきかにつきて述べられていない。従って求むるものに制限はない。唯マタ6:33。7:6等より「先ず神の国と神の義」とを求むべきことを暗示しているものとみることができよう。ルカ11:13に「求むるものに聖霊を与えざらんや」とあるのを参照すべし。

7章8節 すべて(もと)むる(もの)()、たづぬる(もの)()いだし、(もん)をたたく(もの)(ひら)かるるなり。[引照]

口語訳すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
塚本訳だれであろうと、求める者は受け、さがす者は見つけ、戸をたたく者はあけていただけるのだから。
前田訳さらば開かれよう。すべて求めるものは受け、たずねるものは見いだし、戸をたたくものには開かれる。
新共同だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
NIVFor everyone who asks receives; he who seeks finds; and to him who knocks, the door will be opened.
註解: この世における普通の現象を示して神の国においてもこれと異ならざることを示す。創32:23-29、ルカ11:5-9参照。

7章9節 (なんぢ)()のうち、(たれ)かその()パンを(もと)めんに(いし)(あた)へ、[引照]

口語訳あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
塚本訳あなた達のうちには、自分の子がパンを求めるのに、石をやる者がだれかあるだろうか。
前田訳あなた方のうちにおのが子がパンを求めるのに石を与え、
新共同あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
NIV"Which of you, if his son asks for bread, will give him a stone?

7章10節 (うを)(もと)めんに(へび)(あた)へんや。[引照]

口語訳魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
塚本訳また魚を求めるのに、蛇をやる者があるだろうか。
前田訳魚を求めるのに蛇を与える人があろうか。
新共同魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
NIVOr if he asks for a fish, will give him a snake?
註解: 石はパンに似ていてもパンの役に立たない、蛇は魚に近くとも有毒である。

7章11節 さらば、(なんぢ)()しき(もの)ながら、()賜物(たまもの)をその()らに(あた)ふるを()る。まして(てん)にいます(なんぢ)らの(ちち)は、(もと)むる(もの)()(もの)(たま)はざらんや。[引照]

口語訳このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
塚本訳してみると、あなた達は悪い人間でありながらも、自分の子に善い物をやることを知っている。ましてあなた達の天の父上が、求める者に善い物を下さらないことがあるだろうか。
前田訳そのように、あなた方が悪人であってもおのが子らによいものを与えることを知るならば、まして天にいますあなた方の父は求めるものによいものを与えられよう。
新共同このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
NIVIf you, then, though you are evil, know how to give good gifts to your children, how much more will your Father in heaven give good gifts to those who ask him!
註解: 不完全なる人間の父すらその子を愛する以上、これと天の父の愛とを比較するならば、求むる者の必ず与えられることを確信することができる。この確信をもって父に祈り求むることを得る者は幸いである。ただし父は「善きもの」より外に与え給わない。悪しきものを求めても与えられることはできない。ルカ11:13以下。
辞解
[悪しき者] 特別に悪人という意味ではなく、生れながら罪性を有する人間という意味。

7章12節 さらば(すべ)(ひと)()られんと(おも)ふことは、(ひと)にも(また)その(ごと)くせよ。これは律法(おきて)なり、預言者(よげんしゃ)なり。[引照]

口語訳だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
塚本訳だから、何事によらず自分にしてもらいたいと思うことを、あなた達もそのように人にしなさい。これが律法と預言書と([聖書]の精神)である。
前田訳それゆえすべて自分にしてもらいたいことは、あなた方もそのように人々にせよ。それが律法であり預言書である。
新共同だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
NIVSo in everything, do to others what you would have them do to you, for this sums up the Law and the Prophets.
註解: 神の愛はその子の求めに応じてよきものを与え、その子の幸福を専ら願い、遂には人の心の求めを知りてその独り子をすら与え給う、人の愛ももしそれが聖愛であるならばこれと同じであるはずである。而してもしかくして与えられることの幸福を思うならば汝らもまた己のことのみを思わず、人にかくのごとく行うべしとの命令である。これいわゆる金条であってすべての行為の基準となるべきものである。而してこれ律法と預言者すならち旧約聖書の精神に外ならぬ。
辞解
この節はルカ6:31には前後の関係が明瞭であるけれども、ここではやや不明瞭で、従って種々の説が起り得るのである。マタイは恐らく、神の賜物と神の愛とを思い、又かくのごとくに行う人を考え、自己もまたかくのごとくに行わざるべからざることに想到したのであろう。ヨハ3:16Tヨハ4:10、11。
要義 [求むるものは必ず与えられる]求むる者が必ず与えられるとの信仰をもって祈ることができることは幸いである。而して主これを約束し給う以上、このことに誤りあるべきはずがない。ゆえに我らはすべての求めを必ず与えられるの確信をもって祈るべきである。しかしながら事実として我ら祈って与えられない場合がある、愛する者の病の癒されんことを熱祷したにもかかわらず聴かれずして召されることもある。経済的困難その他の艱難を脱せんことを節に祈り求めてもこれを脱することができないこともある。その理由は、(1) 自己の慾を基としたる祈りである場合(病を癒されんことすら、自己の慾を基とせざることが必要である)であって「御意の成らんことを」祈るキリスト者は、自己の慾を基としたる祈りを為すべきではない(ヤコ4:3)。(2) 求むる処のものが彼に害を与うることを神が認め給う時、例えば小児がナイフを求めるも、父がこれを与えないと同様である(マタ20:22)。(3) 神が彼が求むるものよりもさらによきものを与えんとし給う時、例えば肉の生命を求むる者に永遠の生命を与えんがためその病を癒し給わざるがごとき。(4) 又神が人の求むるものを他日与えんとし今与うるは時機にあらずと見給う時。これらの場合においては祈り求むるものが直ちに与えられないけれども結局与えられない方が幸福であるか、又はさらによりよきものが与えられるか、又はやがては与えられるのである。ゆえに「求むる者によきものを与え給う」神は我らの祈りを必ず何らかの形において、聴き給うことを確信すべきである。

3-9 生命に至るの路 7:13 - 7:14
(ルカ13:23、24) 

7章13節 (せま)(もん)より()れ、(ほろび)にいたる(もん)(おほ)きく、その(みち)(ひろ)く、(これ)より()(もの)おほし。[引照]

口語訳狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
塚本訳狭い門から入りなさい。滅びに至る道は大きく、かつ広く、ここから入る者が多いのだから。
前田訳狭い門から入れ、滅びに至る道は大きく広く、そこから入る人が多いから。
新共同「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
NIV"Enter through the narrow gate. For wide is the gate and broad is the road that leads to destruction, and many enter through it.

7章14節 生命(いのち)にいたる(もん)(せま)く、その(みち)(ほそ)く、(これ)()(いだ)(もの)すくなし。[引照]

口語訳命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
塚本訳命にいたる門はなんと狭く、道は細く、それを見つける者の少ないことであろう!
前田訳いのちに至る門は狭く、道は細く、それを見いだす人は少ない。
新共同しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
NIVBut small is the gate and narrow the road that leads to life, and only a few find it.
註解: 「我は門なり、おおよそ我によりて入る者は救わる」(ヨハ10:9)。「我は道なり・・・・・我に由らでは誰にても父の御許にいたる者なし」(ヨハ14:6)。このイエスの門、イエスの道のみ人を救いに至らしむるにも関わらず、これを見出しこれに入る人は極めて少数である(いわゆるキリスト教国においても然り)。然るに財宝、名誉、快楽、地位、学問を求めて進む人は非常に多い。世の多くの人は後者を求めて馳駆(ちく)し、極めて少数者のみ前者の路を取らんとしている。これ前者は細く狭く、後者は広く大きいからである。ゆえに熱心に生命に至らんことを求めることが必要である。唯漠然他人の歩むを見てその後に従って行くならば必ず滅亡に至るであろう。
辞解
[狭き] stenos は又「真直ぐなる」の意味もあり。

3-10 偽牧師に対する警戒 7:15 - 7:23
(ルカ6:43-46)(ルカ13:26、27) 

註解: 山上の垂訓が人生のすべての方面を網羅していることは感謝すべきであって、(ただ)に自己の問題のみならず、自己に対して危険を与うる偽教師に対する注意をも与えている。

7章15節 (にせ)預言者(よげんしゃ)(こころ)せよ、(ひつじ)扮裝(よそほひ)して(きた)れども、(うち)(うば)(かす)むる豺狼(おほかみ)なり。[引照]

口語訳にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。
塚本訳偽預言者に用心せよ。(やさしい)羊の皮をかぶって来るが、内側は強盗の狼である。
前田訳偽(にせ)預言者に気をつけよ、彼らは羊の衣を着て来るが、内側は強盗の狼である。
新共同「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。
NIV"Watch out for false prophets. They come to you in sheep's clothing, but inwardly they are ferocious wolves.
註解: 偽の教師は羊を自己の餌食にせんがために来り、真の預言者(教師)は羊のために己の生命を棄つ(ヨハ10:11)。ゆえに前者はたとい羊のごとく装うとも実は奪い(かす)むる豺狼(おおかみ)のごとく、羊の群れを自己のものとせんとし、後者は反対に自己を羊のものとせんとする。
辞解
[偽預言者] イエスは教師を預言者と呼び給うた。神に代りて神の旨を語るものであるからである。

7章16節 その()によりて(かれ)らを()るべし。(いばら)より葡萄(ぶだう)を、(あざみ)より無花果(いちぢく)をとる(もの)あらんや。[引照]

口語訳あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。
塚本訳(結ぶ)実で偽預言者はわかる。茨から葡萄が、薊から無花果がとれようか。
前田訳彼らの実でわかる。茨(いばら)からぶどうが、あざみからいちじくが取れようか。
新共同あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
NIVBy their fruit you will recognize them. Do people pick grapes from thornbushes, or figs from thistles?
註解: たといその教理は正しく又その態度は信仰的であり、またその行為が霊的に見えてもこれによりて教師の真偽を分つの標準とすることができない。主要の問題は心がキリストに連なり彼の御旨に従っているかどうかにある。その人の行為はその心から自然に流れ出るのであって、この点において彼は欺くことができない、ゆえに果を見てその樹を知ることができる。

7章17節 ()く、すべて()()()()をむすび、()しき()()しき()をむすぶ。[引照]

口語訳そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
塚本訳(そのように、)善い木は皆良い実を結び、わるい木は悪い実を結ぶ。
前田訳そのように、よい木は皆よい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
新共同すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
NIVLikewise every good tree bears good fruit, but a bad tree bears bad fruit.

7章18節 ()()()しき()(むす)ぶこと(あた)はず、()しき()はよき()(むす)ぶこと(あた)はず。[引照]

口語訳良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。
塚本訳善い木に悪い実がなることは出来ず、わるい木に良い実がなることも出来ない。
前田訳よい木に悪い実がなることはできず、悪い木によい実がなることもできない。
新共同良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
NIVA good tree cannot bear bad fruit, and a bad tree cannot bear good fruit.
註解: 善き樹とは内に信仰による真理と光と愛の充てる心をいい、善き果とはこれより流れ出づる聖き生活、愛と犠牲の生涯、要するにキリストのごとき生涯を指す。悪しき樹とは内に虚偽と貪慾と暗黒とを蔵し、これより流れ出づる徒党、私慾、罪悪の生活を指す。一見信仰的に見ゆる業(22節のごとき)ももしこれが愛と真理とより出づるにあらざれば悪しき果である。
辞解
[むすぶ] 原語 ポイエオー poieô は又「行う」「為す」等の意味を持っており内に充てるものが外部に溢れ出づる形を表わしている。「詩」「詩人」等もこの語源から来ている。すなわち偽預言者の行為とはその学問や教理ではなくその心の奥底から流れ出づる行為を指す。

7章19節 すべて()()(むす)ばぬ()は、()られて()()()れらる。[引照]

口語訳良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。
塚本訳良い実を結ばない木はどんな木でも、切られて火の中に投げ込まれる。
前田訳よい実を結ばぬ木は皆切られて火に投げ込まれる。
新共同良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
NIVEvery tree that does not bear good fruit is cut down and thrown into the fire.

7章20節 さらばその()によりて(かれ)らを()るべし。[引照]

口語訳このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。
塚本訳それだから、(結ぶ)実で、偽預言者はわかるのである。
前田訳それゆえ、彼らの実でわかる。
新共同このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
NIVThus, by their fruit you will recognize them.

7章21節 (われ)(むか)ひて(しゅ)(しゅ)よといふ(もの)、ことごとくは天國(てんこく)()らず、ただ(てん)にいます()(ちち)御意(みこころ)をおこなふ(もの)のみ、(これ)()るべし。[引照]

口語訳わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
塚本訳わたしに『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではない。わたしの天の父上の御心を行う者(だけ)が入るのである。
前田訳天国に入るのは、わたしに『主よ主よ』というだれでもではなく、天にいますわが父のみ心を行なうものである。
新共同「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
NIV"Not everyone who says to me, `Lord, Lord,' will enter the kingdom of heaven, but only he who does the will of my Father who is in heaven.
註解: 神は人の外部の行為によらず心の奥底を見給う。ゆえに天国に入る者は外観信者らしく見ゆる者ではなく、父の御意をおこなう者(この「おこなう」はポイエオーにして、果を「結ぶ」と同文字)、すなわち父の御意に従う心から行為を生むものである。この聖句は「信仰によりて義とされること」(ロマ3:28)を否定するにあらず、むしろこれを確かめる力を有っている。何となれば真の信仰は行為を生むからである。▲そして同時に信仰を口だけで告白している者の中に、真の信者でない者があることは、その生活や行為によってこれを知ることができる。

7章22節 その()おほくの(もの)われに(むか)ひて「(しゅ)よ、(しゅ)よ、(われ)らは(なんぢ)()によりて預言(よげん)し、(なんぢ)()によりて惡鬼(あくき)()ひいだし、(なんぢ)()によりて(おほ)くの能力(ちから)ある(わざ)()ししにあらずや」と()はん。[引照]

口語訳その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
塚本訳(最後の裁きの)かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、(入れてください。)“わたし達はあなたの名で伝道し、”あなたの名で悪鬼を追い出し、あなたの名で奇蹟を沢山行ったではありませんか』と言うであろう。
前田訳多くの人がかの日にわたしにいおう、『主よ主よ、あなたの名でわれらは預言し、あなたの名で悪霊を追い出し、あなたの名で多くの奇跡をしたではありませんか』と。
新共同かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。
NIVMany will say to me on that day, `Lord, Lord, did we not prophesy in your name, and in your name drive out demons and perform many miracles?'
註解: 「その日」は終りの審判の日であって、すべての人キリストの台前に立たなければならない (ロマ2:16Tコリ3:13使10:42) 。その時キリストに向って右の言を述べて天国に入ることを主張するのである。「汝の名によりて」を三度繰返してその行為のキリストの御名によりて為されしことを示し、またその行為の内容はいずれも熱烈なる信仰の結果にあらざれば生じ得ざるごとき行為であって、キリストが十二人の弟子を伝道に派遣せる際も、彼らにこれらの行為を為すの能力を与え給うた(マタ10:7、8)。▲▲これらの実例が非常に宗教的な行為であることに注意すべし。イエスはこれらよりむしろ一層多く神を愛し隣人を愛する行為を求め給う。

7章23節 その(とき)われ明白(あらは)()げん「われ()えて(なんぢ)らを()らず、()(はう)をなす(もの)よ、(われ)(はな)れされ」と。[引照]

口語訳そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
塚本訳その時わたしは、はっきり彼らに言おう、『かってお前たちを弟子にした覚えはない。“この不届者、わたしを離れよ!”』と。
前田訳そのときわたしは彼らに宣言しよう、『わたしはあなた方を知らない。不法をはたらくものはわたしを離れよ』と。
新共同そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
NIVThen I will tell them plainly, `I never knew you. Away from me, you evildoers!'
註解: これらの行為は形は主の名によりて行われ、又内容は極めて信仰的なる使徒的行為であるごとくに見えているにも関らず、キリストは彼らを裁き給うことは一見不可解のごとくである。しかしながらキリストは心を見給う、心がキリストに連なり、キリストの力を受くるにあらざれば善き果を結ぶことができない。ゆえに果の善悪すなわち預言者の真偽を区別する標準はその心がキリストに連なって父の御意を行っているか、又はキリストより離れて自己につける利害、名誉等のためにこれを為すかにある(ヨハ15:4−6)。後者は「不法をなす者」である。
要義 [教師の真偽をいかにして区別するや]羊のごとき装束をしていても必ずしも真の教師ではない。又使徒のごとき立派なる行為をなし能力ある業をしても、必ずしも真の教師ではない。又主よ主よと呼びても必ずしも真の預言者の証拠ではない。以上の三者は普通善き信仰の証拠と見られている事柄であるけれどもこれすら教師の真偽を区別するの標準とならないとイエスは言い給う。ゆえに信者は充分に心して偽預言者を避けなければならぬ。而してその区別の標準は父の旨を行うや否やに在るのである。例えば自己の宗派をのみ思いて他派を顧みず、キリストの代りて死に給える兄弟を悲しませるごときは父の御意ではない。又心は父を離れ愛を欠いていながら唯口のみをもって、正しき教理を説くのは父の御意ではない。これらの点が教師の真偽を区別するの標準である。

3-11 結論、磐上の家 7:24 - 7:29
(ルカ6:47-49) 

7章24節 さらば(すべ)()がこれらの(ことば)をききて(おこな)(もの)を、(いは)(うへ)(いへ)をたてたる(さと)(ひと)(なずら)へん。[引照]

口語訳それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
塚本訳だから、以上のわたしの話を聞いてそれを行う者は皆、岩の上に家を建てた賢い人に似ている。
前田訳だれでもこれらわがことばを聞いてそれを行なうものは、おのが家を岩の上に建てた賢い人にたとえられよう。
新共同「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
NIV"Therefore everyone who hears these words of mine and puts them into practice is like a wise man who built his house on the rock.
註解: 単にキリストの言を聞くだけでは足りない。これを行うことによりて始めて山上の垂訓全体が意義を持つに至るのである。山上の垂訓はあまりに高き理想であってこれを行うことができず、又キリストはこれを行わしめんがために教えたのではないと唱うるものは、この一節によりてその誤りを発見しなければならない。キリストは磐である、我らはその上に建てなければならない(Tコリ3:10)。

7章25節 (あめ)ふり(ながれ)みなぎり、(かぜ)ふきてその(いへ)をうてど(たふ)れず、これ(いは)(うへ)()てられたる(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。
塚本訳雨が降って、大水が出て、風が吹いて、その家に襲いかかったが、倒れなかった。岩の上に土台があったからである。
前田訳雨が降り、川が流れて来、風が吹いてその家に当たっても倒れなかった。岩の上に基礎があったからである。
新共同雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
NIVThe rain came down, the streams rose, and the winds blew and beat against that house; yet it did not fall, because it had its foundation on the rock.
註解: 雨は上より、風は横より、流れは下よりその家を襲うても微動だにしない。キリストの言を聞きて行う者はいかなるサタンの働き、いかなる迫害、またいなかる偽の教師が彼を四方より襲っても彼を滅ぼすことができない。彼は岩なるキリストの上に堅く立ち、キリストとの霊の交わりによりて力を得、彼より力を受けてその言を行うことを得るのである。

7章26節 すべて()がこれらの(ことば)をききて(おこな)はぬ(もの)を、(すな)(うへ)(いへ)()てたる(おろか)なる(ひと)(なずら)へん。[引照]

口語訳また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
塚本訳また、わたしの話を聞くだけでそれを行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
前田訳だれでもこれらわがことばを聞いてそれを行なわないものは、おのが家を砂の上に建てた愚かな人にたとえられよう。
新共同わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
NIVBut everyone who hears these words of mine and does not put them into practice is like a foolish man who built his house on sand.

7章27節 (あめ)ふり(ながれ)みなぎり、(かぜ)ふきて()(いへ)をうてば、(たふ)れてその顛倒(たふれ)はなはだし』[引照]

口語訳雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
塚本訳雨が降って、大水が出て、風が吹いて、その家にうちつけると、倒れてしまった。ひどい倒れ方であった。」
前田訳雨が降り、川が流れて来、風が吹いてその家に当たると、倒れた。そしてその倒れ方はひどかった」。
新共同雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
NIVThe rain came down, the streams rose, and the winds blew and beat against that house, and it fell with a great crash."
註解: キリストの教えを聞きて行わない者はキリストに従わない者、すなわちキリストを愛しない者である(ヨハ14:23)。キリストより離れている者はいかにキリスト者の名があり外観は同一であっても、試練、試誘(こころみ)、迫害、偽教師より襲われる時直ちに破滅に帰してしまうのである。キリストのこの教えを行わないキリスト教国の末路を見るならば、この言の真理を知ることができよう。

7章28節 イエスこれらの(ことば)(かた)りをへ(たま)へるとき、群衆(ぐんじゅう)その(をしへ)(をどろ)きたり。[引照]

口語訳イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
塚本訳イエスがこれらの話を終えられた時、一しょに聞いていた群衆はその教えに感心してしまった。
前田訳そして、イエスがこれらのことばを終えられたとき、群衆は彼の教えにおどろいた。
新共同イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。
NIVWhen Jesus had finished saying these things, the crowds were amazed at his teaching,

7章29節 それは學者(がくしゃ)らの(ごと)くならず、權威(けんゐ)ある(もの)のごとく(をし)(たま)へる(ゆゑ)なり。[引照]

口語訳それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
塚本訳自分たちの聖書学者のようでなく、権威を持つ者のように教えられたからである。
前田訳それは、彼らを教えること権威あるもののごとくであり、彼らの学者らのごとくでなかったからである。
新共同彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
NIVbecause he taught as one who had authority, and not as their teachers of the law.
註解: 群衆は驚きに充たされてイエスの教えを聞いた。この語は最もよくイエスの御言を聞ける者の心を表わしている(マタ22:33)。学者は律法と預言者に精通しているけれども権威がない、権威なるものは上より与えられし力である(マタ21:23−27)。ゆえに上より力を与えられし者は無学者いえども権威がある。イエスはこの権威を溢れるばかり有ち給うた。今日この山上の垂訓を読む者すらなおこの権威に打たれるのである。
要義1 [山上の垂訓について](1) 山上の垂訓はトールックも言えるごとく神の国のマグナ・カルタ(大憲章)である。神の国の民が地上において肉の生命を()け、悪魔の支配しつつある世に生存を続くる間の道徳的生活の理想である。これをもって単に天国に入りて後に始めて到達し得べき理想に過ぎずとするのは誤っている、何となれば天国においては悲しみも涙もなく (マタ5:4黙21:4) 、キリスト者の迫害もなく (マタ5:10、11) 、すべての律法は充たされ、悪魔の我らを誘うものなく、偽善の必要もなく又財宝を貯うるの要もなく、偽預言者に対する警戒も必要なく、これらすべてが完全に充たされ不要に帰せるがごとき状態に達するがゆえである。それゆえに山上の垂訓はあくまでも天国の民のこの世における道徳の標準であって、これをすべて実行するのが天国の民の務めである。  
(2) 而して山上の垂訓は我らを殺し又我らを活かす両刃の剣である。この垂訓の標準に照らして我ら自己を審く時、我らの心の中の罪はすべて明瞭に眼前に露出せられ、我らは到底これに耐えることができない。この教訓をすべて守らんと努力するに従い、ますます自己の罪の深さと無力とを感ぜしめられるのであり、遂には神の前に自己のすべての罪を懺悔して、その赦しを乞うに至らしめられるのである。もし道徳の標準が世間普通の標準をもって満足しているならば、我らには心よりの悔改めは有り得ない。儒教の程度の標準をもってしても尚罪の意識が深甚であり得ない。然るにこの山上の垂訓の程度を基準として我ら自らを裁くとき、何人もこれに耐えることができないのである。かくして窮極まで追いやられて悩める魂はキリストの十字架にすべての罪の赦しを見出し、新たに上より生れ出づることによりて新生命を獲得するに至るのである。ゆえに山上の垂訓は我らを殺し、また我らを生かすの力を持っている。
(3) 而して新たに生れし者にとって山上の垂訓はその行為の基準となるのである。前に自己の無力によりてこの教訓を実行し得ざりし者も、キリストによりて新たに生れることによりて、聖霊の賜物を受け、この力によりてこれらを実行し得るに至るのである。それゆえに山上の垂訓は律法以上の律法であり福音の心髄であって、決してイスラエルに与えられし新たなる律法ではなく、すべての神の民に宣伝へられし福音である。何となればそこに霊的自由の世界の光景が完全に描き出されているからである。山上の垂訓を遵守し、律法の一点一画をも成就することは決して律法的精神をもってはこれを為すことができない。唯霊による自由を得、愛によりて働く者のみこれを為すことができる。
要義2 [我らはこれを実行し得るや]然り、我らはこれを実行し得る。勿論生来のままなる我らは到底これを実行することができない。しかしながら新たに与えられし神の霊により神に信頼しキリストに服従することによりて、この教訓を実行することができる。神は我らに行う能わざることを命じ給わない。我らに命ずると共に又必ず我らにこれを行うの力をも与え給う。ただ我らこの教訓を文字的に解釈してその真意を失わざらんことを努めなければならぬ。文字的に見るならば主イエスすら山上の垂訓の違反者であった。
要義3 [これを遵守するの結果]は人々をして天の神を崇むるに至らしむるであろう。而してもしすべての人が福音を信じてこの山上の垂訓を行うことができるならば、この世がそのまま天国と化し去るであろう。しかしながらキリスト再び来て悪魔を縛し給うまで、我らこれを期待することができない。我らは唯迫害と苦難の中にありてキリストと偕に苦しみつつ、キリストと共にこの教訓を実現することができるだけである。

マタイ伝第8章

分類
4 ガリラヤにおけるイエスの御業 8:1 - 10:42
4-1 イエスの奇蹟と伝道 8:1 - 9:38
4-1-イ らい病人潔めらる 8:1 - 8:4
(マコ1:40-44) (ルカ5:12-14)  

註解: 山上の垂訓を述べ給える主イエスは、いわゆる学者教法師らのごとく口に真理を語りてその実行はこれを他人に託するがごときことはなかった。山上に高く神の預言者たりしことを示し給いしイエスは、直ちに山を下りて悩める者の友となり病める者を癒し給うた。この両面を具備して始めてイエスの救い主に在し給うことを信ずることができる。

8章1節 イエス(やま)(くだ)(たま)ひしとき、(おほい)なる群衆(ぐんじゅう)これに(したが)ふ。[引照]

口語訳イエスが山をお降りになると、おびただしい群衆がついてきた。
塚本訳イエスが山を下りてこられると、多くの群衆がついて来た。
前田訳彼が山をおりられると多くの群衆が従った。
新共同イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。
NIVWhen he came down from the mountainside, large crowds followed him.

8章2節 ()よ、一人(ひとり)癩病人(らいびゃうにん)みもとに(きた)り、(はい)して()ふ『(しゅ)よ、御意(みこころ)ならば、(われ)(きよ)くなし(たま)ふを()ん』[引照]

口語訳すると、そのとき、ひとりのらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。
塚本訳すると一人の癩病人が近寄ってきて、しきりに願って言った、「主よ、(清めてください。)お心さえあれば、お清めになれるのだから。」
前田訳するとひとりのらい者が近よって彼に伏していった、「主よ、お心さえ向けばわたくしをお清めになれます」と。
新共同すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
NIVA man with leprosy came and knelt before him and said, "Lord, if you are willing, you can make me clean."
註解: イエスの愛は多くの群衆よりも一癩病人の上に注がれた(ルカ15:4)。癩病はその不治なるの病なる点、遺伝病(▲・・・その後医学の進歩により癩病が不治の病にもあらず又遺伝性でもないことが知られるようになった)と思われすべての人に忌み嫌われる点、又必ずこの病によりて死ぬる点等が、人間の罪に極めて類似しているのであって罪の型と考えられている。而して癩病人を取扱うのは祭司の職務であった。然るにこの不治の病をイエスは容易に癒し給うた。これイエスが人間の力をもって潔め得ざる罪をも潔め得給うことの徴と見ることができる。「御意ならば」と言いてすべてをイエスの御旨に委せし謙遜の態度を示し「我を潔くなし給うを得ん」と言いてイエスの万能を信ずる信仰を表わしている。信仰とはかくのごとき態度を指していうのである。

8章3節 イエス()をのべ、(かれ)につけて『わが(こころ)なり、(きよ)くなれ』と()(たま)へば、癩病(らいびゃう)ただちに(きよま)れり。[引照]

口語訳イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、らい病は直ちにきよめられた。
塚本訳イエスは手をのばしてその人にさわり、「よろしい、清まれ」と言われると、たちまち癩病が清まった。
前田訳そこでイエスは手をのばして彼にさわっていわれる、「よろしいとも、清くおなり」と。たちまちらい病は清くなった。
新共同イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。
NIVJesus reached out his hand and touched the man. "I am willing," he said. "Be clean!" Immediately he was cured of his leprosy.
註解: 御言をもって万物を創造し給える神は、又御言をもって直ちに病を癒し癩病を潔め給う。手を彼に触れしは彼の穢れを身に受け給い、イエスの力を彼に注ぎし(すがた)であり「わが(こころ)なり」云々はその癩病人の信仰に対するイエスの反響である。第一の奇蹟をば「ただちに」これを為し給うた。これ人を信ぜしめんがためであった。

8章4節 イエス()(たま)ふ『つつしみて(たれ)にも(かた)るな、ただ()きて(おのれ)祭司(さいし)()せ、モーセが(めい)じたる供物(そなへもの)(ささ)げて、人々(ひとびと)(あかし)せよ』[引照]

口語訳イエスは彼に言われた、「だれにも話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた供え物をささげて、人々に証明しなさい」。
塚本訳イエスはその人に言われる、「だれにも言わないように気をつけよ。ただ(全快したことを)世間に証明するため、(エルサレムの宮に)行って体を“祭司に見せ、”モーセが命じた供え者を捧げよ。」
前田訳イエスはいわれる、「気をつけて、だれにもいわないように。ただ行って体を祭司に見せ、モーセが命じたささげものをしなさい、人々への証(あかし)のために」と。
新共同イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」
NIVThen Jesus said to him, "See that you don't tell anyone. But go, show yourself to the priest and offer the gift Moses commanded, as a testimony to them."
註解: イエスはその行い給える奇跡を多くの場合に人に語るなと命じ給うた(引照参照)、その所以はイエスは人に見られん為に之を行い給うのでは無い事は勿論、更に深き理由としてイエスは人々が単に彼を地的メシヤと見、肉的利益を与えるものとの誤解を受けん事を憂い給うたのである。唯イエスは律法の破壊者にあらざる事を示さんが為に律法の命ずる如く行う事を薦め給うた。
要義 [奇蹟について] 奇蹟は全然有り得ないと信ずるもの、又は今日説明し又は経験し得る範囲内においてのみ可能であって、それ以上には有り得ないと信ずるもの、病気治癒の奇蹟は有り得るもパンの増加の奇蹟(マタ14:18−21。マタ15:34−38)、水上歩行の奇蹟(マタ14:25)等は有り得ないとするもの等、種々の思想が行われている。しかしながらキリスト者は神の万能を信じ、人間の発見せし宇宙の法則以上、又その以外の法則を神は造り給い、これに従って行動し給うことがあることを信じている。ゆえに奇蹟は有り得るのみならず、もし神の万能に在し給うことを信ずるならば奇蹟はむしろ当然の出来事となるのである。科学は今日すべての奇蹟を説明することができない。しかし説明は後より伴い来るのであって、説明ができない理由により事実そのものを否定することができない。もし奇蹟を否定するならばこれと同時に聖書の記者を虚偽者と認めなければならない。かかる大胆なる結論は容易にこれを引出してはならない。何となれば虚偽者の宗教が数千年の間多くの祝福を人類に与え、多くの正義の士を生むはずがないからである。キリストの降誕は宇宙的出来事である。かかる神の子に奇蹟を行う力が付与されしとするも決してこれを怪しむに足らない。

4-1-ロ 百卒長の信仰 8:5 - 8:13
(ルカ7:1-10)   

8章5節 イエス、カペナウムに()(たま)ひしとき、百卒長(ひゃくそつちゃう)きたり、[引照]

口語訳さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、
塚本訳カペナウムに帰られると、一人の百卒長がそばに来て願って
前田訳彼がカペナウムに入られると、百卒長が彼のところに来て
新共同さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
NIVWhen Jesus had entered Capernaum, a centurion came to him, asking for help.

8章6節 ()ひていふ『(しゅ)よ、わが(しもべ)中風(ちゅうぶ)()み、(いへ)()しゐて(いた)(くる)しめり』[引照]

口語訳「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。
塚本訳言った、「主よ、うちの下男が中風で家にねていて、ひどく苦しんでおります。……」
前田訳願っていう、「主よ、わが子が中風で家に寝ています、ひどく苦しんでいます」と。
新共同「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
NIV"Lord," he said, "my servant lies at home paralyzed and in terrible suffering."

8章7節 イエス()(たま)ふ『われ()きて(いや)さん』[引照]

口語訳イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。
塚本訳彼に言われる、「(ユダヤ人の)このわたしが、(異教人のあなたの家に)行ってなおすのか。」
前田訳いわく、「わたしが行ってなおしてあげよう」と。
新共同そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
NIVJesus said to him, "I will go and heal him."
註解: この百卒長は極めて善良なる信心深き人であった(ルカ7:4参照)。
辞解
[百卒長] ローマ軍人の隊長でローマ人である。日本の侍に類する一階級であった。

8章8節 百卒長(ひゃくそつちゃう)こたへて()ふ『(しゅ)よ、(われ)(なんぢ)をわが屋根(やね)(した)()れまつるに()らぬ(もの)なり。ただ御言(みことば)のみを(たま)へ、さらば()(しもべ)はいえん。[引照]

口語訳そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。
塚本訳百卒長は答えた、「主よ、わたしはあなたを、うちの屋根の下にお迎えできるような者ではありません。(ここで)ただ一言、言ってください。そうすれば下男は直ります。
前田訳百卒長は答える、「主よ、わが屋根の下に来ていただく資格はありません。ただことばでおっしゃってください。すればわが子はいやされましょう。
新共同すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。
NIVThe centurion replied, "Lord, I do not deserve to have you come under my roof. But just say the word, and my servant will be healed.
註解: これが信仰的態度の最も美わしきものである。信仰は理論(神学)でもない、神秘的神人交通(神秘主義)でもない、又信者の団体に加入すること(教会)でもない、神に対する謙遜と、神の能力に対する絶対信頼である。この百卒長はこの二つを持っていた。そしてキリストに対し神の子たるの崇敬と信頼とを献げた。同一の心持が時に異なった形式において表われることもある。マタ9:18マタ9:20

8章9節 (われ)みづから權威(けんゐ)(した)にある(もの)なるに、()(した)にまた兵卒(へいそつ)ありて、(これ)に「ゆけ」と()へば()き、(かれ)に「きたれ」と()へば(きた)り、わが(しもべ)に「これを()せ」といへば()すなり』[引照]

口語訳わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
塚本訳というのは、わたし自身も指揮権の下にある人間であるのに、わたしの下にも兵卒がいて、これに『行け』と言えば行き、ほかのに『来い』と言えば来、また僕に『これをしろ』と言えば(すぐ)するからです。(ましてあなたのお言葉で、病気が直らないわけはありません。)」
前田訳それはわたくしも権威に服する人間で、わたくしの下に兵卒がいます。これに『行け』といえば行き、かれに『来い』といえば来、僕(しもべ)にこれをせよといえばします」。
新共同わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
NIVFor I myself am a man under authority, with soldiers under me. I tell this one, `Go,' and he goes; and that one, `Come,' and he comes. I say to my servant, `Do this,' and he does it."
註解: 権威ある者がその権威の下にあるものに命ずれば、直ちにその命のままに実行されることを百卒長は経験していた。彼「みづから権威の下にある者なるに」尚然り、いわんや最高の権威に在すダビデの子イエスにおいておや。彼はイエス命じ給えば病はこれに従うことを確信していた。

8章10節 イエス()きて(あや)しみ、(したが)へる人々(ひとびと)()(たま)ふ『まことに(なんぢ)らに()ぐ、かかる(あつ)信仰(しんかう)はイスラエルの(うち)一人(ひとり)にだに()しことなし。[引照]

口語訳イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。
塚本訳イエスは聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた、「アーメン、わたしは言う、イスラエル人の中でも、こんなりっぱな信仰をもっている者を一人も見たことがない。
前田訳聞いてイエスはおどろき、従う人々にいわれた、「本当にいう、こんな信仰はイスラエルのうちでも見たことがない。
新共同イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
NIVWhen Jesus heard this, he was astonished and said to those following him, "I tell you the truth, I have not found anyone in Israel with such great faith.
註解: 最も信仰的国民であるイスラエルの中にも見ざる信仰をこの百卒長が持っていた。イエスが百卒長の信仰をかくまでも賞賛し給えることに注意しなければならぬ、かかる信仰こそイエスの喜び給う信仰であって、我らもまたかかる信仰を持つべきである。
辞解
[怪しみ] thaumazô サウマゾーは日本語訳にはすべて「怪しみ」と訳されているけれども、「驚異」の意味であって「奇怪」の意味は微弱である。

8章11節 (また)なんぢらに()ぐ、(おほ)くの(ひと)(ひがし)より西(にし)より(きた)り、アブラハム、イサク、ヤコブとともに天國(てんこく)(えん)につき、[引照]

口語訳なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、
塚本訳わたしは言う、(最後の日には、このような信仰のあつい)大勢の人が“東から西から”来て、天の国でアブラハムやイサクやヤコブと共に宴会につらなり、
前田訳わたしはあなた方にいう、多くの人が東と西から来てアブラハムとイサクとヤコブとともに天国の宴につこう。
新共同言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。
NIVI say to you that many will come from the east and the west, and will take their places at the feast with Abraham, Isaac and Jacob in the kingdom of heaven.

8章12節 御國(みくに)()らは(そと)(くら)きに()()され、そこにて哀哭(なげき)切齒(はがみ)することあらん』[引照]

口語訳この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。
塚本訳(かんじんのイスラエル人、すなわち)御国の子供たちは外の真暗闇に放り出され、そこでわめき、歯ぎしりするであろう。」
前田訳しかし(いわゆる)み国の子らは外の闇に投げ出されよう。そこではなげきと歯ぎしりがあろう」。
新共同だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
NIVBut the subjects of the kingdom will be thrown outside, into the darkness, where there will be weeping and gnashing of teeth."
註解: イエスは神の選民イスラエルを特に愛し給うた (マタ10:5マタ15:24マタ23:37以下) 。しかし信仰の前には民籍の区別がなかった。この百卒長のごとき信仰あるものは、たといイスラエル人(彼らは神の選びと約束により御国の子らであった)ではなくともイスラエルの始祖アブラハム等と共に天国に招かれ、不信仰なるイスラエル人は神の国以外に放逐されるに至ることを預言し給うた。イエスは今日の教会についてもかく言い給うであろう。
辞解
[外の暗] 明るい天国の祝宴場の外の暗闇のこと、これを霊界に譬えしもの、不信者は心に暗黒を有っている。ゆえに暗黒界はその住居として相応しい。
[哀哭、切歯] 自責の念に駆られて弱者は哭き、強者は切歯する。

8章13節 イエス百卒長(ひゃくそつちゃう)に『ゆけ、(なんぢ)(しん)ずるごとく(なんぢ)になれ』と()(たま)へば、このとき(しもべ)いえたり。[引照]

口語訳それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。
塚本訳それからイエスは百卒長に言われた、「お帰り。あなたの信じたとおりに成れ。」するとちょうどその時に、下男は直った。
前田訳そしてイエスは百卒長にいわれた、「お帰り、あなたが信じたようになるように」と。すると子はちょうどそのときいやされた。
新共同そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
NIVThen Jesus said to the centurion, "Go! It will be done just as you believed it would." And his servant was healed at that very hour.
註解: イエスが病を癒し給うがためには「言」だけで充分であって(8節)距離は何らの妨害にもならなかった。すなわち患者との接触を要しなかった。百卒長の僕の癒されしは百卒長の信仰の結果であった。ゆえに心理療法とは同一ではない。
要義 [信仰の本質]イエスはしばしば信仰を賞揚し給う場合があった (マタ9:9マタ9:22マタ15:28ルカ17:19ルカ18:42等) 。而してこのいずれの場合においても、イエスの嘉納し給う信仰は極めて単純なものであった。百卒長の信仰のごときはその最も良き実例である。かかる信仰を摑得(かくとく)するがためには神学研究や、座禅瞑想の必要はさらにない。又洗礼を受けて教会員となる必要もない。直截(ちょくせつ)簡明、唯イエスに対し神の子としての信頼と崇敬とを捧ぐるをもって足りるのである。しかしながら我らかかる信頼を要求し得る者は、キリストにより他には有り得ないのであって、その他のものにかかる信頼をもって臨む場合には、我らは偶像崇拝の誤謬に陥るのである。信仰礼拝すべき対象と、その信仰礼拝の態度とが(ふた)つながら完全である場合にそこに真正なる宗教が成立するに至るのである。百卒長の場合はすなわちそれであった。今日信仰をもって何らか思弁的のもの、又は活動的事業(▲又は特別の形式や制度を必要とするもの)のごときものと解される傾向がある際に、この百卒長の単純なる信仰は充分にこれを玩味(がんみ)しなれければならない。尚イエスは異邦人の信仰の例をもって暗にユダヤ人の不信を責め給うた。

4-1-ハ 多くの病癒さる 8:14 - 8:17
(マコ1:29-34) (ルカ4:38-41)  

8章14節 イエス、ペテロの(いへ)()り、その外姑(しゅうとめ)(ねつ)()みて()しをるを()[引照]

口語訳それから、イエスはペテロの家にはいって行かれ、そのしゅうとめが熱病で、床についているのをごらんになった。
塚本訳イエスはペテロの家に行って、その姑が熱病でねているのを御覧になった。
前田訳そして、イエスはペテロの家へ来られて、その姑(しゅうとめ)が熱病で伏しているのを見られた。
新共同イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。
NIVWhen Jesus came into Peter's house, he saw Peter's mother-in-law lying in bed with a fever.

8章15節 その()(さは)(たま)へば、(ねつ)()り、(をんな)おきてイエスに(つか)ふ。[引照]

口語訳そこで、その手にさわられると、熱が引いた。そして女は起きあがってイエスをもてなした。
塚本訳その手におさわりになると、熱が取れ、彼女は起き上がってイエスをもてなした。
前田訳彼がその手にふれられると、熱は去った。そこで彼女は起きて彼に給仕した。
新共同イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
NIVHe touched her hand and the fever left her, and she got up and began to wait on him.
註解: 罪より救われし者のイエスに仕うる有様もこれと同じ。

8章16節 (ゆふべ)になりて、人々(ひとびと)惡鬼(あくき)()かれたる(もの)をおほく御許(みもと)につれ(きた)りたれば、イエス(ことば)にて(れい)()ひいだし、()める(もの)をことごとく(いや)(たま)へり。[引照]

口語訳夕暮になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった。
塚本訳夕方になると、人々は悪鬼につかれた者を大勢イエスのところにつれて来た。イエスは言葉をもって霊どもを追い出し、また一人のこらず病人をなおされた。
前田訳夕になったので彼のところに悪霊つきが大勢連れて来られた。そこで彼は諸霊をことばで追い出し、すべて病むものをいやされた。
新共同夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。
NIVWhen evening came, many who were demon-possessed were brought to him, and he drove out the spirits with a word and healed all the sick.
註解: イエスの言はかかることを為すの力を有っていた。「言」によりて天地はなり、又この「言」によりて天地は滅ぼされるのである以上(Uペテ3:5−7)、言にて病を癒し給うことは何ら怪しむに足らない。
辞解
[悪鬼に憑かれた者] 一種の精神病者を新約聖書においてはかく呼んでおり、また実際悪鬼が憑いているとの思想を持っていた(マタ8:31等)。この思想は今日の医学者はこれを嘲笑しているけれども必ずしも無視すべき思想ではない。将来医学の発達と共に、或はかえってこれがこの種の精神病の真の原因であることを証明し得るであろう。

8章17節 これは預言者(よげんしゃ)イザヤによりて『かれは(みづか)(われ)らの疾患(わずらひ)をうけ、(われ)らの(やまひ)()ふ』と()はれし(ことば)成就(じゃうじゅ)せん(ため)なり。[引照]

口語訳これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。
塚本訳“彼はわたし達の煩いを除き、病気を取り去るであろう”と、預言者イザヤをもって言われた言葉が成就するためであった。
前田訳これは預言者イザヤによっていわれたことの成就するためであった、いわく、「彼はわれらの弱さを身に受け、われらの病を負うた」と。
新共同それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」
NIVThis was to fulfill what was spoken through the prophet Isaiah: "He took up our infirmities and carried our diseases."
註解: この病気治癒の奇蹟も、イエスのメシヤに在し給うことの証拠であってイザヤが既にこれを預言していた(引照参照)。この預言は罪を負う贖い主としてのイエスを指し、又疾患を負う治癒者としてのイエスを示していた。而して治癒の奇蹟をもって単にイエスがその力を自由に用い給えるの結果に過ぎないと思うならば、それはこの御業の重要なる一面を見逃したのである。イエスは事実我らの疾患を御自身に負い給うた。彼はその同情より病者の苦しみに等しき苦しみを感じ給うた。この愛なしに病を癒すことができない。

4-1-ニ イエスに従うものの種々 8:18 - 8:22
(ルカ9:57-60)   

8章18節 さてイエス群衆(ぐんじゅう)(おのれ)(めぐ)れるを()て、[ともに]彼方(かなた)(きし)()かんことを[弟子(でし)たちに](めい)(たま)ふ。[引照]

口語訳イエスは、群衆が自分のまわりに群がっているのを見て、向こう岸に行くようにと弟子たちにお命じになった。
塚本訳イエスは自分のまわりの群衆を見ると、向う岸に行くようにと(弟子たちに)命じられた。
前田訳イエスは、囲む群衆を見ると、指図して向こう岸へ去ろうとされた。
新共同イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。
NIVWhen Jesus saw the crowd around him, he gave orders to cross to the other side of the lake.
註解: 群衆の中に見出すことができないものを人は寂寞(せきばく)の中に見出すことができる。殊に祈りにおいてそうである。イエスは恐らく静かに祈らんことを求め給うのであろう。

8章19節 一人(ひとり)學者(がくしゃ)きたりて()ふ『()よ、何處(いづこ)にゆき(たま)ふとも、(われ)(したが)はん』。[引照]

口語訳するとひとりの律法学者が近づいてきて言った、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」。
塚本訳すると一人の聖書学者が進み出て言った、「先生、どこへでもおいでになる所へお供をします。」
前田訳するとひとりの学者が近づいていった、「先生、どこへでもお供します」と。
新共同そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。
NIVThen a teacher of the law came to him and said, "Teacher, I will follow you wherever you go."
註解: ▲「従う」とは弟子となって随行すること。

8章20節 イエス()ひたまふ『(きつね)(あな)あり、(そら)(とり)(ねぐら)あり、されど(ひと)()(まくら)する(ところ)なし』[引照]

口語訳イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。
塚本訳イエスはその人に言われる、「狐には穴がある、空の鳥には巣がある。しかし人の子(わたし)には枕する所がない。(その覚悟があるか。)」
前田訳そこでイエスは彼にいわれる、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし人の子には枕するところがない」と。
新共同イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
NIVJesus replied, "Foxes have holes and birds of the air have nests, but the Son of Man has no place to lay his head."
註解: 軽卒にして燥急(そうきゅう)なる決心をなせる者に対しては、イエスは彼に従う途の定めなき険阻(けんそ)なるものなることを示して、彼をして尚熟慮せしめ給うた。燥卒なる決心は半途にて挫折し易いからである。ここに彼の愛と人を見るの力とを窺うことができる。
辞解
[狐、空の鳥] 「狐」は悪人、「空の鳥」は悪魔に譬えられる場合がある(ルカ13:32マタ13:32)。ここではかく解する必要なきにしても、かく解することによりて一層「人の子」との対照を活かすことができよう。
[人の子] キリストが自ら呼んで「人の子」と称し給うた。彼以外に何人もこの名称をもって呼ばれることはなく、又何人も自己をこの名称をもって呼んだ人はなかった。ダニ7:13より出で「神より出でて人となり給えるメシヤ」の意味であって、現在の卑下と将来の栄光とを示し、最もキリストに相応しき称呼であった。又ユダヤ人はこの称呼がメシヤすなわち神の子を意味することを知っていた(ヨハ12:34ルカ22:69、70)。

8章21節 また弟子(でし)一人(ひとり)いふ『(しゅ)よ、()づ、()きて、()(ちち)(はうむ)ることを(ゆる)したまへ』[引照]

口語訳また弟子のひとりが言った、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。
塚本訳またほかの一人の弟子が言った、「主よ、(お共をする)その前に、父の葬式をしに行かせてください。」
前田訳いまひとりの弟子が彼にいった、「主よ、おゆるしください、まずわが父を葬りに行くことを」と。
新共同ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
NIVAnother disciple said to him, "Lord, first let me go and bury my father."

8章22節 イエス()ひたまふ『(われ)(したが)へ、()にたる(もの)にその()にたる(もの)(はうむ)らせよ』[引照]

口語訳イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。
塚本訳イエスはその人に言われる、「(今すぐ)わたしについて来なさい。死んだ者の葬式は、死んだ者にまかせよ。」
前田訳イエスは彼にいわれる、「わたしに従いなさい。死人に自分たちの死人を葬らせておきなさい」と。
新共同イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」
NIVBut Jesus told him, "Follow me, and let the dead bury their own dead."
註解: 前節の学者とは反対にキリストはこの弟子の心中に、イエスに従うことを躊躇する心を認め給うた。そして父を葬ることをもってイエスに従うことよりも重大なることと考うる程、イエスに従うことを軽視しているのを(さと)り給うた。それゆえにイエスはかかる強き語気をもって彼を戒め給うたのである。国家の危急存亡に際し戦場に出征しつつある者は、父の埋葬を為さんがために帰宅することができない。イエスに従うことは神の兵士として戦場に出づることに外ならない。ゆえにこの覚悟なしにキリストに従うことができない。
辞解
[死にたる者] 第一は霊的死者 (エペ2:1Tテモ5:6黙3:1) 、第二は一般的意味の死者を意味する。
要義 [適切なる教訓]イエスの教訓の最も驚異すべき点は、イエスがその相手方の心の奥底を洞察してその弱点の急所を衝き給うことである。福音書中のすべての教訓は皆この特徴を有っているのであって、この点を考えずして文字の外形のみより、イエスの教訓の内容を決定することは大なる誤りを生ずるのである。この二人の場合においても学者の決心は、イエスに従うことのいかに困難であるかを考えない決心であり弟子の場合は、イエスに従うことの重要さを知らない心であった。ゆえに燥急なる学者に対してイエスはその勝利の確実なることと未来の栄光の耀きとを示し給わずして(マタ26:64)、その行く手の困難と十字架とを示し給い、躊躇する弟子に対してはイエスに従うことが、人生の最大の義務なる父を葬ることよりも以上に重大なる事柄であることを示し給うたのである。(まこと)に適切なる教訓である。

4-1-ホ イエス暴風を静め給う 8:23 - 8:27
(マコ4:35-41) (ルカ8:22-25)  

8章23節 かくて(ふね)()(たま)へば、弟子(でし)たちも(したが)ふ。[引照]

口語訳それから、イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
塚本訳舟に乗られると、弟子たちも従った。
前田訳彼が舟に乗られると、弟子たちが従った。
新共同イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
NIVThen he got into the boat and his disciples followed him.

8章24節 ()よ、(うみ)(おほい)なる暴風(あらし)おこりて、(ふね)(なみ)(おほ)はるるばかりなるに、イエスは(ねむ)りゐ(たま)ふ。[引照]

口語訳すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。
塚本訳するとにわかに湖に激しい嵐がおこって、ついに舟は波をかぶった。しかしイエスは眠っておられた。
前田訳すると見よ、大嵐が海におこり、舟は波をかぶるに至った。しかし彼は眠っておられた。
新共同そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。
NIVWithout warning, a furious storm came up on the lake, so that the waves swept over the boat. But Jesus was sleeping.
註解: ガリラヤの湖上には突風が起って船を覆すことがしばしばある。これもその一つの場合であった。神に対する絶対の信頼を持ち給うイエスは最大の危機に際しても尚(いささか)の恐れもなかった、かえって弟子が恐れるのを見て驚き給うた。神に信頼する者には恐れがない(マコ5:36)。

8章25節 弟子(でし)たち御許(みもと)にゆき、(おこ)して()ふ『(しゅ)よ、(すく)ひたまへ、(われ)らは(ほろ)ぶ』[引照]

口語訳そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。
塚本訳弟子たちがそばに来て、「主よ、お助けください、溺れます」と言って起した。
前田訳そこで彼らは近づいて彼を起こしていう、「主よ、お助けを、おぼれます」と。
新共同弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
NIVThe disciples went and woke him, saying, "Lord, save us! We're going to drown!"
註解: 人生の嵐に際して我らもまた主に対してこの叫びを揚げなければならない時が来る。

8章26節 (かれ)らに()(たま)ふ『なにゆゑ(おく)するか、信仰(しんかう)うすき(もの)よ』(すなは)()きて、(かぜ)(うみ)とを(いやし)(たま)へば、(おほい)なる(なぎ)となりぬ。[引照]

口語訳するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。
塚本訳彼らに言われる、「なんでそんなに臆病なのか、信仰の小さい人たちよ!」それから起き上がって風と湖とを叱りつけられると、(たちどころに)大凪になった。
前田訳するといわれる、「何と臆病な君たちか、信仰の小さい人たちよ」と。そこで立ちあがって風と海とをたしなめられると、大凪(おおなぎ)になった。
新共同イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
NIVHe replied, "You of little faith, why are you so afraid?" Then he got up and rebuked the winds and the waves, and it was completely calm.
註解: イエスは自然をも支配するの力を()ち給うた。我ら罪の重荷と世の暴風の中に亡びんとする時も同じく、このイエスの御声を聴くことができ(ヨハ14:1)、これによりて我らの心は静まり世の暴風もその暴威を失ってしまう、弟子たちは「不信仰」ではなかったけれども「うすき信仰」であった。この両者には大差がある。

8章27節 人々(ひとびと) あやしみて()ふ『こは如何(いか)なる(ひと)ぞ、(かぜ)(うみ)(したが)ふとは』[引照]

口語訳彼らは驚いて言った、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」。
塚本訳人々は驚いて、「この方はどうした人だろう、風も湖も、その言うことを聞くのだが」と言った。
前田訳人々はおどろいていう、「これはどういう人か、風も海も従うとは」と。
新共同人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。
NIVThe men were amazed and asked, "What kind of man is this? Even the winds and the waves obey him!"
註解: 普通の人でないことは明らかである。けれども神の子に(いま)すことを彼らは信じなかった。
要義 [イエスと偕なるものの幸福]キリスト者及びキリストの教会はこの世の荒波と暴風の中に置かれているけれども、キリストは「世の終りまで汝らと偕に在るなり」(マタ28:20)と宣いて、決して我らを離れ給うことはない。我ら彼に乞い、彼に祈りてこの世の暴風と荒波とに打ち勝つことができる。彼こそこれを静むるの力を有ち給うがゆえである。

4-1-ヘ イエス悪魔を逐い給う 8:28 - 8:34
(マコ5:1-20) (ルカ8:26-39)  

8章28節 イエス彼方(かなた)にわたり、ガダラ(ひと)()にゆき(たま)ひしとき、惡鬼(あくき)()かれたる二人(ふたり)のもの、(はか)より()できたりて(これ)()ふ。[引照]

口語訳それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。
塚本訳かくて向う岸、ガダラ人の地にお着きになると、悪鬼につかれた者が二人、墓場から出てきてイエスを迎えた。彼らは非常に狂暴で、だれもその道を通ることが出来なかった。
前田訳彼が向こう岸のガダラ人の国へ来られると、墓から出て来たふたりの悪霊つきが彼を出迎えた。彼らがあまりものすごいのでだれもその道を通れなかった。
新共同イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。
NIVWhen he arrived at the other side in the region of the Gadarenes, two demon-possessed men coming from the tombs met him. They were so violent that no one could pass that way.
註解: 彼らは墓の中に住んでいた[ユダヤの墓は石の中に穿(うが)った穴である]。我らも罪の奴隷となっている場合には、たとい金殿玉楼(きんでんぎょくろう)の中に住んでいても墓の中にいるようなものである。
辞解
[ガダラの地] マルコ、ルカには「ゲラセネの地」とあり、いずれも今日その地点を確定することができないが、デカポリスの地方に属し、ガリラヤ湖の東岸であることだけは確かである。

その(たけ)きこと(はなは)だしく、其處(そこ)(みち)(ひと)()()ぬほどなり。

註解: 悪鬼は非常に力強く、我らの心を支配している場合には道徳も社会的制裁もこれに打ち勝つことができない。この狂人の力はその中に宿れる悪鬼の力であった。ゆえに鎖や足枷(あしかせ)を断ち切ることができた。

8章29節 ()よ、かれら(さけ)びて()ふ『(かみ)()よ、われら(なんぢ)(なに)關係(かかはり)あらん、(いま)(とき)いたらぬに、(われ)らを()めんとて此處(ここ)にきたり(たま)ふか』[引照]

口語訳すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。
塚本訳彼らはいきなり叫んだ、「神のお子様、“放っておいてください。”まだ時でもないのに、わたしどもを苦しめるためにここに来られたのか。」
前田訳すると見よ、彼らは叫んでいう、「何のご用ですか、神の子よ。まだ時でないのにここに来て、われらを苦しめるおつもりですか」と。
新共同突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」
NIV"What do you want with us, Son of God?" they shouted. "Have you come here to torture us before the appointed time?"
註解: 悪鬼は不信者よりもよくキリストを知って彼を恐れている(ヤコ2:19)。ゆえに「神の子よ」と呼んだ。悪鬼はやがてはキリストに亡ぼさるべきものであることを知っていたけれども、キリストの来り給うことがあまりに早いように感じた。キリストの再臨を待ち(れる)れる者にとっては主の来り給うことが遅いように思われる。
辞解
[我らと汝と何の関係あらん] 干渉されることを拒絶する意味の慣用語である。

8章30節 (はるか)にへだたりて(おほ)くの(ぶた)(いち)(むれ)(しょく)しゐたりしが、[引照]

口語訳さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。
塚本訳折から、はるかかなたに多くの豚の群が草を食っていた。
前田訳彼らから離れたところに多くの豚の群れが飼われていた。
新共同はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。
NIVSome distance from them a large herd of pigs was feeding.

8章31節 惡鬼(あくき)ども()ひて()ふ『もし(われ)らを()()さんとならば、(ぶた)(むれ)(つかは)したまへ』[引照]

口語訳悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。
塚本訳悪鬼どもは、「わたしどもを追い出されるなら、あの豚の中にやってください」と願った。
前田訳悪霊は彼を呼んでいう、「もしわれらを追い出されるなら、豚の群れへつかわしてください」と。
新共同そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。
NIVThe demons begged Jesus, "If you drive us out, send us into the herd of pigs."
註解: ユダヤ人は豚を食うことを禁じられていた。ゆえにこの豚の所有主は異邦人か又は売却を目的として飼育せるユダヤ人であったろう。悪鬼は人間に入ると同様動物にも入ることができる。ゆえに住家を失わないように豚に入ることの許可をイエスに乞うた。

8章32節 (かれ)らに()(たま)ふ『ゆけ』惡鬼(あくき)いでて(ぶた)()りたれば、()よ、その(むれ)みな(がけ)より(うみ)()(くだ)りて、(みづ)()にたり。[引照]

口語訳そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。
塚本訳イエスが「行ってよろしい」と言われると、悪鬼どもは(二人から)出ていって豚に入った。すると群は皆(気がちがったように)けわしい坂をどっと湖へなだれこみ、水の中で死んでしまった。
前田訳そこでいわれる、「行け」と。彼らは出て行って豚に入った。すると見よ、群れ全体が崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。
新共同イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。
NIVHe said to them, "Go!" So they came out and went into the pigs, and the whole herd rushed down the steep bank into the lake and died in the water.
註解: 悪鬼の支配を脱せる二人は常態に復し、悪鬼は豚に入りてやがて水中に(おちい)りてその審判を受けた。世の終りにおけるサタンの審判もかくのごとくであろう。

8章33節 ()(もの)ども()げて(まち)にゆき、すべての(こと)惡鬼(あくき)()かれたりし(もの)(こと)とを()げたれば、[引照]

口語訳飼う者たちは逃げて町に行き、悪霊につかれた者たちのことなど、いっさいを知らせた。
塚本訳豚飼たちは逃げ出して町に行き、ことの一部始終、ことに悪鬼につかれていた者に起ったことを知らせた。
前田訳豚飼いたちはのがれた。彼らは町へ行って、すべてのこと、ことに悪霊つきに関することを告げた。
新共同豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。
NIVThose tending the pigs ran off, went into the town and reported all this, including what had happened to the demon-possessed men.

8章34節 ()よ、(まち)(ひと)こぞりてイエスに()はんとて()できたり、(かれ)()て、この地方(ちはう)より()(たま)はんことを()へり。[引照]

口語訳すると、町中の者がイエスに会いに出てきた。そして、イエスに会うと、この地方から去ってくださるようにと頼んだ。
塚本訳すると町中(の者)がイエスに会いに出てきて、イエスに会うと、その土地を去られるようにと頼んだ。
前田訳すると見よ、町じゅうが出かけてイエスに会いに来、彼を見ると、彼らの地方を去られるよう願った。
新共同すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。
NIVThen the whole town went out to meet Jesus. And when they saw him, they pleaded with him to leave their region.
註解: 豚を飼う者は非常に驚いた。町人殊にその豚の所有者はこれがために非常の損害を受けた。ゆえにイエスを町外に放逐せんとしたのである。
要義1 [このイエスの奇蹟は罪にあらざるか]イエスが多数の豚を、しかも他人の所有に属する豚を水中に殺し給えることは果して正しき行為なりや否やが論争の問題となっている。而して或は豚を飼育する者は利益を得んがために汚れし動物を飼う罪あるユダヤ人なるべしと想像し、それゆえにイエスの行為は正当の罰なりと説明するものもあり、又は豚そのものが汚れている動物ゆえ、これを殺すも差支えなしと説明するものもある。しかしこの奇蹟はかかる功利的立場から解釈せらるべきものではなく、イエスが悪魔の上にいかに偉大なる力を有ち給うかを示さんとしたものと解すべきである。然のみならず人の霊を救わんがためには物質的損害を他人に与うることは有り得るのであって、パウロはその伝道によりて、エペソの銀(がん)(=細工棚:広辞苑)細工人の多数を失業せしめ(使19:27)、今日も信仰に入れるために、罪深き職業を廃業することによりて損失を招くごときは多くの実例がある。これらを普通の利害関係において他人に損害を与うることと同一視し、同一の道徳的標準をもって裁くのは明らかに誤っている。
要義2 「この奇蹟の性質」イエスの奇蹟はほとんどすべては恩恵によるものであった。唯この奇蹟の中、豚を死なせしめし事柄と無花果の木の奇蹟とは恩恵によるものではなく、未来の審判を示す処のものであった。イエスも父なる神と同じく愛と同時に義の神であった。ゆえに恩恵を施し給うと同時に又怒り給うた。唯怒り給うこと遅く、短きに反して恩恵を施し給うことは千代に及ぶの差異があるのみである。