黙示録第19章
分類
4 サタンの滅亡
19:1 - 20:10
4-(1) 序曲
19:1 - 19:10
4-(1)-(イ) 天の群衆の讃美
19:1 - 19:3
註解: 前章において第七の金の鉢の審判、すなわち第三の禍害は終りを告げこれによりて七つの封印は全部終った。かくして地上のあらゆるものの上に審判が臨んだけれども、サタンおよびその臣僕たる獣および偽預言者たちは未だ
審 かれずして残っていた。これらはキリスト御自身の出馬によって審判 かれることとなるのであって本章11節以下および20:10までそのことにつき録されている。そして本章1−10節はこの最後の大審判の序曲であってその中1−5節は全部の審判の結末を讃美し6−10節は来るべき新なる世界の予告的讃美をなしているのである。その点に注意してこれを読むことが必要である。
19章1節 この
口語訳 | この後、わたしは天の大群衆が大声で唱えるような声を聞いた、「ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものであり、 |
塚本訳 | この後私は多くの群衆の大声のようなものを天に聞いた、曰く、ハレルヤ! 救いと栄光と権能とは我らの神のものである。 |
前田訳 | その後、わたしは天に多くの群衆の大声のようなものを聞いた。いわく、「ハレルヤ、救いと栄光と力とはわれらの神のもの、 |
新共同 | その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。 |
NIV | After this I heard what sounded like the roar of a great multitude in heaven shouting: "Hallelujah! Salvation and glory and power belong to our God, |
註解: 地上の審判は終りを告げて光景は天に移る。キリスト御自身が来給いサタンの審 きを行い給う前には天に讃美の声が挙がるのは当然である。あたかも七つの封印の開かれる前の4、5章の光景のごとくである。そして前章の終りまでの審判はキリスト再臨の準備であるのでまずそれにつきて讃美をかなでる。この讃美が黙4:11の讃美に類似していることに注意すべし。
▲1945年原子爆弾は広島に投下され、その後全世界がこの原子爆弾の審判の下に立たされる脅威に不安を禁じ得ない状態にある。千八百年前にヨハネに啓示された神の御告がこの予言となったのであった。
辞解
[大なる群衆] 多分天の御使を指しているのであろう(5節参照)。
[ハレルヤ] 「神を讃めよ」の意味のヘブル語で、これがキリスト教に入りギリシャ語となり、ついには全世界中にこのままで行われる結果となつた。新約聖書にはこの部分にあるのみであるが旧約詩篇にはしばしば用いられた(詩104篇、詩105篇、詩116篇、詩117篇の終り、詩111篇、詩112篇の始め、詩106篇、詩113篇、詩135篇、詩146篇−150篇の始めと終り)。
19章2節 (そは)その
口語訳 | そのさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を彼女になさったからである」。 |
塚本訳 | その審判は真実にして義しく、彼は淫行によって地(の人々)を滅ぼした大淫婦を審き、彼の(忠実な)僕達の(流した)血を彼女の手に復讐し給うたからである。 |
前田訳 | 彼の裁きは真また義であるゆえに。姦淫で地を荒らした大きな淫婦を裁き、彼の僕らの血を彼女に復讐なさったゆえに」と。 |
新共同 | その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、/御自分の僕たちの流した血の復讐を、/彼女になさったからである。」 |
NIV | for true and just are his judgments. He has condemned the great prostitute who corrupted the earth by her adulteries. He has avenged on her the blood of his servants." |
註解: 前節のごとき讃美を神にささぐる理由は(第一の hoti)神の審判が真正でありかつ正義に叶うが故であり、そして神の審判がかくも誤りなくかつ義しき所以は(第二の hoti)当然審 かるべき大淫婦バビロンを審 き給い、かつ不義を受けし神の僕の復讐を為し給いし故である。
辞解
[真にして義なる故なり] 黙15:3。黙16:7参照。
[復讐] 黙6:10註参照。
19章3節 また
口語訳 | 再び声があって、「ハレルヤ、彼女が焼かれる火の煙は、世々限りなく立ちのぼる」と言った。 |
塚本訳 | 再び彼らは(繰り返して)言うた、「ハレルヤ! 彼女の(焼かれる)煙は永遠より永遠に立ち上る(であろう)。」 |
前田訳 | そしてふたたび彼らはいった、「ハレルヤ。彼女の煙は世々とこしえに立ちのぼる」と。 |
新共同 | また、こうも言った。「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」 |
NIV | And again they shouted: "Hallelujah! The smoke from her goes up for ever and ever." |
註解: 神に叛ける文化は永遠の審判の下に苦しまなければならない。ここに御使はバビロン(ローマ)の焼かれる有様を見て深き感嘆を洩している貌。ローマの焼かれることについては 黙17:16。黙18:8。
19章4節
口語訳 | すると、二十四人の長老と四つの生き物とがひれ伏し、御座にいます神を拝して言った、「アァメン、ハレルヤ」。 |
塚本訳 | すると二十四人の長老と四つの活物とが平伏し、玉座に坐し給う神を拝んで言うた、「アーメン、ハレルヤ!」 |
前田訳 | すると二十四人の長老と四つの生きものがひれ伏し、王座に座したもう神を拝んで、「アーメン、ハレルヤ」といった。 |
新共同 | そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。「アーメン、ハレルヤ。」 |
NIV | The twenty-four elders and the four living creatures fell down and worshiped God, who was seated on the throne. And they cried: "Amen, Hallelujah!" |
註解: 神の御座の周囲にいる二十四人の長老と四つの活物 とが自ら神の御前に平伏して讃美を唱えることは、黙5:8以来全く無かった( 黙4:10。黙5:14。黙11:16 には長老のみ平伏している)。各々黙示録中の最も重大なる場合である。それを見ても今ささげつつある讃美が重大なる性質を有っていることが判明 る。すなわち19:1−5は19:11以下にサタンがまさに審 かれんとする場合の前であり、4、5章は6章以下にキリストによりて七つの封印が展 かれんとする直前であり、何れも最も重大なる場合と見なければならない。アアメン、ハレルヤは1−3節の大群衆の讃美に共鳴して共に神を拝する意味である。教会と自然界とを代表するこれらのものの讃美はこの際まことに相応 しい。
19章5節 また
口語訳 | その時、御座から声が出て言った、「すべての神の僕たちよ、神をおそれる者たちよ。小さき者も大いなる者も、共に、われらの神をさんびせよ」。 |
塚本訳 | すると玉座から(一つの)声が出て言うた──(汝ら)凡て神の僕達、神を懼れる者達、小なる者も大なる者も(皆)我らの神を讃美せよ! |
前田訳 | すると王座から声がした。いわく、「われらの神をたたえよ、彼をおそれるすべての僕らよ、小なるものも大なるものも」と。 |
新共同 | また、玉座から声がして、こう言った。「すべて神の僕たちよ、/神を畏れる者たちよ、/小さな者も大きな者も、/わたしたちの神をたたえよ。」 |
NIV | Then a voice came from the throne, saying: "Praise our God, all you his servants, you who fear him, both small and great!" |
註解:御座 よりの声は「我らの神」とある以上神の声にもあらず羔羊 の声にもあらず、御使または長老あるいは生物の中の一つより出でしものであって、全教会、神の国の凡ての民に神を讃美すべきことをすすめる声である。このすすめに応じて6−8節の讃美がささげられる。これは来らんとする羔羊 の婚姻に対する讃美である。
辞解
[僕] 全聖徒を指す使徒、預言者もその中にある。「神を畏れる者」はその説明として附加されしもの。
[小なるも大なるも] 神の民全体という意味、羔羊 の婚姻は全教会の歓喜でなければならない。
[神を讃め奉れ] ハレルヤの訳語。
19章6節 われ
口語訳 | わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。 |
塚本訳 | また私は多くの群衆の声のような、また大水の轟きのような、また烈しい雷の轟きのようなものを聞いた、曰く、ハレルヤ(今や)主なる我らの神、全能者が王となり給うた(から)! |
前田訳 | そしてわたしは多くの群衆の声のようなものと、多くの水の音のようなものと、強い雷のひびきのようなものを聞いた。いわく、「ハレルヤ、主なるわれらの全能の神が王となりたもうたゆえに。 |
新共同 | わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、/全能者であり、/わたしたちの神である主が王となられた。 |
NIV | Then I heard what sounded like a great multitude, like the roar of rushing waters and like loud peals of thunder, shouting: "Hallelujah! For our Lord God Almighty reigns. |
19章7節 われら
口語訳 | わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。 |
塚本訳 | (さあ、)喜ぼうではないか、小躍りしようではないか。彼に栄光を帰し奉ろうではないか。仔羊の婚姻の時が来、その(新)妻は(既に)身支度をしたのだから! |
前田訳 | いざ、よろこび、歓呼し、栄光を彼にささげよう。小羊の結婚は成り、花よめは身仕度をし終えた。 |
新共同 | わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。 |
NIV | Let us rejoice and be glad and give him glory! For the wedding of the Lamb has come, and his bride has made herself ready. |
註解: この讃美も 黙11:15。黙14:8 等の場合と同じく未来に実現すべき光景を今眼前に髣髴して、すでに実現せるもののごとくにこれに関して神を讃美する。群衆の声は全教会、全神の国の声である。讃美の理由は、神が統治し給えることと羔羊 の婚姻とである。これまでこの世はサタンとその臣僕たりし獣とに従って神に叛きつつあったが、サタンがキリストの軍勢に亡ぼされるに及んでこの世の支配は凡て神に帰してしまった。これほど喜ばしき事実は他に有り得ない。「我ら喜び楽しまん」ということは至当である。また神の国における最も喜ばしき事実として羔羊 の婚姻がまさに行われんとしているのであって、これまた全教会の歓喜でなければならない。黙11:15−19と対照して観察するならばその間の関係が明かとなる。
辞解
[大なる群衆] 全聖徒が天に集える姿を予見したものである。
[統治すなり] 原文「統治し給えり」不定過去形で、すでにサタンを亡ぼして統治権を把握し給いし事実を指す。その後もこれを継続し給うことは勿論である。
[新婦] 原語は「妻」とあり、妻たるべき婦人をもかくいうことがある(黙21:9参照。なお創29:21。申22:24。マタ1:20)。
[婚姻] 旧約時代以来神とその民との関係が婚姻関係に譬えられ、これが新約に継承された(ホセ2:21。イザ51:1−6。エレ31:32。エゼ16:8。 マタ25:1−10。マコ2:19。ヨハ3:29。Uコリ11:2。エペ5:22 以下)。羔羊 の婚姻により神の国は完成し神と人との家族関係が成立し、キリストとキリスト者との一体の関係が実現する。
19章8節
口語訳 | 彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。 |
塚本訳 | そして彼女は輝いた細布の衣を与えられて(これを)纏うた。──細布は聖徒達の義しい行為である。 |
前田訳 | 彼女は輝く清い麻布を着せられた。麻布は聖徒らの正しい行ないである」と。 |
新共同 | 花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」 |
NIV | Fine linen, bright and clean, was given her to wear." (Fine linen stands for the righteous acts of the saints.) |
註解:羔羊 の新婦の装いは天の教会の姿であり、その貞潔と勝利とに相応しきものであった。白く輝ける細布は天的の姿である (黙3:4。黙4:4。黙6:11。黙7:9、黙7:13。マコ16:5。ルカ9:29。使1:10)。 そしてこの輝ける細布は取りもなおさず聖徒の義しき業績であって、聖徒を義とするその信仰やまたこの信仰より出づる行為等である。
辞解
[細布] 黙3:4註参照。主としてエジプトより産する麻の細糸をもって織れる布。
[正しき行為] dikaiômata 正しき事柄、義しくあることの表顕されし種々の事柄の意味で、行為もその中にあるけれどもそれよりも一層広い意味である。これを単にパウロの所謂神により与えられる義と同一視することができない。
要義1 [三人の女]黙示録には三人の女性が現われている。その一は黙12:1の女であって旧約新約を貫ける神の国または神の教会の姿である。ゆえに「日を著 、その足の下に月あり、その頭に十二の星の冠冕 」をいただく荘厳無比の姿である。その二は黙17:1−6の大淫婦でローマの都市とその文化とを示す。その三は19:8の新婦の姿でこの白き美しく輝ける姿を大淫婦の姿と比較して見るならば、この二者の著しき差別を見ることができる。羔羊 の花嫁たる我らとこの世の民との間にかかる大なる差別があることを注意しなければならない。
要義2 [羔羊 の婚姻]キリストと教会との関係は最もよく婚姻関係をもって表示される(エペ5:22以下)ことあたかも旧約時代においてイスラエルと神との関係が夫婦関係をもって譬えられしと同様である。キリストはその妻たる教会を選び、これを贖い取らんがために己が宝血を注ぎ、己の生命をも棄て給うた。この愛に感じて教会はその凡てをキリストにささげ、キリストのために貞潔を守り、キリストがやがて再び来り給い羔羊 の婚姻が成立つ時を待っているのである。ゆえにこの世において教会はキリストに対して許嫁 の関係にある(Uコリ11:2)。従って羔羊 の婚姻によりて神の選びが完成し、キリストの十字架の贖いの目的が達成せられ、人類の罪によりて起りし神に対する反逆の関係は全く消失してここに新天新地が実現するに至るのである。
19章9節 [
口語訳 | それから、御使はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」。またわたしに言った、「これらは、神の真実の言葉である」。 |
塚本訳 | するとかの天使が私に言う、「書け『幸福なる哉、仔羊の婚宴に招かれた者!』と。」また私に言う、「これらの(異象における凡ての)言は神の真実の言である。」 |
前田訳 | 天使はわたしにいう、「書きしるせ。さいわいなのは小羊の婚宴に招かれたもの」と。さらにいう、「これらは神の真実のことばである」と。 |
新共同 | それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。 |
NIV | Then the angel said to me, "Write: `Blessed are those who are invited to the wedding supper of the Lamb!'" And he added, "These are the true words of God." |
註解: 黙示録中の七福の第四である(黙1:3註参照)。羔羊 の宴席に招かれたる者は、黙17:14の「召されたるもの、選ばれたるもの、忠実なるもの」と同一であって全キリスト者である。従って羔羊 の新婦と同一物であることとなる。殊に「書き記せ」との命を与えたのはこの事柄が特に重大なることを示すためである。そしてこの御使は黙17:1の御使でこれまでの長き説明を終えてここにその結尾を与えているのである。
また
註解: 黙17:1以下に語れる凡ての言は御使の言ではあるが実は真正なる神の言であって、毫 も疑いを挿むべきものではなく、そのまま信ぜらるべきものである。かく言いてその語りし処に千鈞 の重さを加えている。
辞解
[これ神の真の言なり] 原文に文法的疑問あり、種々に訳を試み得るけれども意味に重要なる差異がない。
19章10節
口語訳 | そこで、わたしは彼の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」。 |
塚本訳 | 私はその足下に平伏して彼を拝もうとした。すると彼は(それを遮って)私に言う、「(いけない)するな! 私はお前やイエスの証明を立てているお前の兄弟達と同輩である。(私を拝んではならぬ。)神を拝め。──イエスの証明とは預言の霊で(あり、お前も私も共にこれを有っているので)ある(から)!」 |
前田訳 | そこでわたしは彼を拝もうとその足もとにひれ伏した。しかし彼はいう、「それはやめよ。わたしもイエスの証を守るなんじとなんじの兄弟と同じ僕仲間である。神を拝め。イエスの証とは預言の霊である」と。 |
新共同 | わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」 |
NIV | At this I fell at his feet to worship him. But he said to me, "Do not do it! I am a fellow servant with you and with your brothers who hold to the testimony of Jesus. Worship God! For the testimony of Jesus is the spirit of prophecy." |
註解: この一節(および黙22:9も同様)によりて御使によりて示されし黙示の実に宏大無辺にしてヨハネをして思わず御使の前に平伏せさせることを示すと同時に、この黙示を与え給う神のさらに遙かに偉大なることを知らしめんために我らの拝すべきは唯神のみに在し給うことを示す。そして凡ての天使は神の僕たる点においてキリスト者と同じくまた凡てのキリスト者は結局みな預言の霊を有つ預言者である点において、天の御使との間に何らの径庭 (=へだだり:広辞苑)なきことを示してキリスト者の偉大さを示しその自重を促している。あるいは当時小アジア地方においてキリスト者の中にも行われ、その信仰を害しつつあった天使礼拝の不可なる所以を風刺したものとも見ることができる(L3)。
辞解
[イエスの証を保つ汝の兄弟] この場合イエスの証は黙1:2の場合と異なり、イエスを証する証、すなわちイエスを信じ、彼を告白する者でキリスト者の全体を指す。「イエスの証はすなわち預言の霊なり」は前文に「イエスの証を保つ者」につきて述べしことの説明であって、イエスの証を保つことすなわち彼を証することは預言の霊を持つことであり、従って御使と同一であることをここに附加して前文の説明とすると同時に、さらに進んでキリスト者の偉大さと御使を拝することの無意味なる所以を教えている。
註解: 序曲終っていよいよキリストの出馬となる。キリスト凡てのサタンを滅ぼしてそこに新天新地が生じ、やがて
羔羊 の婚姻とならんがためである。この世の審判、バビロンの審判は神直接に行い給わず神の命によりサタンの軍勢がこれを行うように仕向けられた。しかしサタンそのものをばキリストの軍勢が直接にこれを滅ぼすに至るのである。
19章11節
口語訳 | またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。 |
塚本訳 | また私は天が開いているのを見た。すると視よ、白い馬が顕れて、それに乗り給う者は「忠実且つ真実なる者」と呼ばれ、義をもって審きまた戦い給う。 |
前田訳 | そしてわたしは天が開けるのを見た。すると見よ、白い馬がいる。それに乗るものは「忠また真」と呼ばれ、義で裁き、また戦いたもう。 |
新共同 | そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。 |
NIV | I saw heaven standing open and there before me was a white horse, whose rider is called Faithful and True. With justice he judges and makes war. |
註解: 第1章において輝ける姿においてヨハネに現われ、第5章において屠られ給える羔羊 として現われ給えるイエスは、ここには万軍の主、天の軍勢の将軍として顕れ給う。その中間における顕現 (黙14:1、黙14:14) は何れも挿景の場合であって、未来を予想せる光景である。白き馬は勝利を示す。「忠実また真」なる名称はすでに 黙1:5。黙3:7、黙3:14 においてもイエスを指していることを知った。また「義をもて審 きかつ戦う」ことはメシヤの来り給う場合の主要の特質であり、メシヤの預言として有名なるイザ11:4、5においてメシヤすなわちキリストの特質として掲げられている処である。この騎士がキリストであることは疑うの余地はない。
辞解
[審き、戦ふ] 現在動詞を用いたのはこれがすでに開始せられし姿において彼を見たこととして録したのである(S3)。
口語訳 | その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。 |
塚本訳 | その目は焔(のようであり)、頭には多くの冠があり、自分でなければ、誰も(その意味を)知らない名が(それに)書いてある。 |
前田訳 | その目は火の炎で、その頭には多くの王冠がある。彼には彼のほかだれも知らぬ名が書かれている。 |
新共同 | その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。 |
NIV | His eyes are like blazing fire, and on his head are many crowns. He has a name written on him that no one knows but he himself. |
註解: 黙1:14註及辞解参照。
その
註解: この冠冕 は diadêma すなわち王者の冠で彼は「諸王の王」(16節)として王冠をいただき、またその数の多いことは世界の諸国を統治し給うからである。なおサタンもこの点において自己をキリストに似せており頭に王冠を戴いていることについては 黙12:3。黙13:1 を見よ。
また
註解: 神との直接の交りにおける状態は各人特有の境地であって他よりこれを窺い知ることができない(黙2:17参照)。イエスの場合においてはなおさらこの神との交りの本質を知る者は人間の中には無い。彼はかくも高く在し給う。マタ11:27には父のみ知り給うことが記されているのもこれがためである。なお黙2:17。黙3:12参照。神秘なる名称は力の源であるとの思想が当時行われていたこともこの記載の形式に影響を及ぼしたものであろう。
19章13節
口語訳 | 彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。 |
塚本訳 | 彼は血で染められた(真赤な)衣を纏い、その名は「神の言」と呼ばれる。 |
前田訳 | 彼は血染めの衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれる。 |
新共同 | また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。 |
NIV | He is dressed in a robe dipped in blood, and his name is the Word of God. |
註解: この血は十字架上に流されし彼の血であるともまたはイザ63:1−3によれば彼が打破れる敵の血であるとも見られる。前後の数節より判断すれば後者と解すべきであろう。「神の言」をイエスに適用するはヨハネ独特の思想である。また本節後半を前節と矛盾するがごとくに考える学者があるけれども皮相の見 である。
19章14節
口語訳 | そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。 |
塚本訳 | そして天の軍勢が真白な潔い細布の衣を着、白い馬に乗って彼に従っていた。 |
前田訳 | 天の軍勢は白く清い麻布を着、白い馬に乗って彼に従った。 |
新共同 | そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。 |
NIV | The armies of heaven were following him, riding on white horses and dressed in fine linen, white and clean. |
註解: 黙17:14に記されるごとき聖徒の大軍はキリストに従ってキリストの敵と戦う、しかしながらその武装は鉄の鎧ではなく聖徒の義しき信仰や徳行を示す美わしき細布であり(8節)、その色は白くして勝利を示し、潔くして罪より洗われしことを示す。花婿たるべき聖徒はそれまでは主の兵卒である。なおこの軍勢を主の護衛としての天使の一軍と見(B3、S3)または聖徒と天使との混合軍(A1)と見る説等あれどむしろ上記のごとくに解するを可とする。
19章15節
口語訳 | その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。 |
塚本訳 | 彼の口からは、諸国の民を撃つために鋭い剣が突き出ている。彼自ら鉄の杖を以て彼らを牧し給うであろう。且つ彼自ら全能者なる神の怒りの憤怒酒の酒槽を踏み給う。 |
前田訳 | 彼の口から鋭い剣が出ている。諸国民を打つためである。彼は鉄の杖で彼らを牧しよう。彼は全能の神の怒りの酒ぶねを踏む。 |
新共同 | この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。 |
NIV | Out of his mouth comes a sharp sword with which to strike down the nations. "He will rule them with an iron scepter." He treads the winepress of the fury of the wrath of God Almighty. |
註解: キリストの審判とその支配を示す。そして諸国の民を打つには鉄の剣をもってせずしてその口より出づる剣すなわち神の言 (黙1:16。ヘブ4:12) をもってし、また詩2:9のメシヤ預言のごとく鉄の杖をもってもろもろの民を牧し給う。すなわち彼は牧者のその羊に対するごとくに諸々の民を牧し、しかも鉄の杖をもってその羊の敵を打ち砕き給う。
辞解
[諸国の民] 「もろもろの民」と訳すべし。
[治め] 原語「牧する」(黙2:27辞解参照)。
また
註解: 黙14:20註参照、キリストは神の怒の審判を実行し給う。キリストの再臨はこれを実行せんがためである。
19章16節 その
口語訳 | その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。 |
塚本訳 | そして彼の衣と股とには「王の王、主の主」と書いた名がある。 |
前田訳 | その衣と腰に「王の王、主の主」との名が書かれている。 |
新共同 | この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。 |
NIV | On his robe and on his thigh he has this name written: KING OF KINGS AND LORD OF LORDS. |
註解: キリストは諸王の王、諸主の主に在し給うが故に彼来りてもろもろの民を支配し給うことは当然である。彼の再臨の時はこの名は何人にも見得る処に記され、何人にも明かにせられる故何人もこれを認めずにいることができない。
辞解
[衣と股とに] 直訳「衣の上に而して股の上に」でイエスの乗馬姿の「股の上を掩ふ部分の衣に」というごとき意味である(B3、S3)。
要義 [再臨のキリスト]黙示録はキリストの再臨を録せる書であるにかかわらず、どの部分よりキリストの再臨を録しているかは必ずしも明瞭ではない。しかしよく注意して本書を読むならば4−18章は一大区分をなし、この部分において七つの封印が開かれるのであって、これを開く者はイエスに在し給うが故にイエスの再臨は未だ実現せず、19章に至りその1−10節にキリスト再臨の準備の宣言あり、11節以下において始めてキリストの再臨の光景が描かれているものと見るのが最も当を得ている見方であろう。すなわち19:11以下においていよいよキリストの再臨があり、その結果全世界の上に一大変化が起らんとしているのである。ただし19:11乃至 20章の終りまでの光景は天と地とが交錯せる光景であって何れとも定め難い。キリストの再臨というもおそらくかかるものであろう。そしてこの最後の決戦を経過してそこに新天新地が実現するに至るのである(21章以下)。
19章17節
口語訳 | また見ていると、ひとりの御使が太陽の中に立っていた。彼は、中空を飛んでいるすべての鳥にむかって、大声で叫んだ、「さあ、神の大宴会に集まってこい。 |
塚本訳 | また私は一人の天使が太陽の中に立っているのを見た。彼は中空を飛んでいる凡ての鳥に大声で叫んで言うた、「さあ、神の大宴会に集まって来い。 |
前田訳 | そしてわたしは見た。ひとりの天使が太陽の中に立ち、大声で叫んで中空に飛ぶすべての鳥にいう、「来たれ、神の大饗宴に集まれ、 |
新共同 | わたしはまた、一人の天使が太陽の中に立っているのを見た。この天使は、大声で叫び、空高く飛んでいるすべての鳥にこう言った。「さあ、神の大宴会に集まれ。 |
NIV | And I saw an angel standing in the sun, who cried in a loud voice to all the birds flying in midair, "Come, gather together for the great supper of God, |
註解: この御使も黙15:1の七人の一人ならん(黙17:1参照)。「太陽のなか」は「中空」よりも一層高き処の意ならん(黙8:13。黙14:6)。
19章18節
口語訳 | そして、王たちの肉、将軍の肉、勇者の肉、馬の肉、馬に乗っている者の肉、また、すべての自由人と奴隷との肉、小さき者と大いなる者との肉をくらえ」。 |
塚本訳 | そして(死んだ)王達の肉、将軍の肉、権力者の肉、馬とそれに乗る者との肉、また凡ての自由人と奴隷と、小なる者と大なる者との肉を(悉く)食え。」 |
前田訳 | 王たちの肉、将軍の肉、勇士の肉、馬とそれに乗るものの肉、小なるもの大なるものすべての自由人と奴隷の肉を食べるために」と。 |
新共同 | 王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ。」 |
NIV | so that you may eat the flesh of kings, generals, and mighty men, of horses and their riders, and the flesh of all people, free and slave, small and great." |
註解: 19−21節のハルマゲドンの戦(黙16:16にその予告を見しもの)の序言でその戦において死ぬべき人々の肉をもってする大宴席(大ふるまい)に対する招集の号令である。これはエゼ39:17−20よりその想を取ったものであって、神の民に敵するものはついに神の審判を受けて空の鳥の餌食となることの形容である。神に敵する者の末路の如何に惨憺たる有様なるかを示す、ここではこれを表徴的に解すべきこと勿論である。
辞解
「王たち」以下はイエスの軍に敗られる凡ての人々を指す(エゼ39:17。黙6:15註参照)。殊に高位高官等の権力者を多く挙げたのは、現在その権勢に誇っているこれらの人々の末路の憐むべき姿を示さんがためである。なおサタンを征服する場合に同時にその部下の残れるものをも征服することとなる。
19章19節
口語訳 | なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。 |
塚本訳 | また私は獣と地の王達とその軍勢とが、(かの白い)馬に乗り給う者とその軍勢とに対し戦争をするために集まって来るのを見た。 |
前田訳 | そしてわたしは見た。獣と地の王たちとその軍勢とが、馬に乗るものとその軍勢と戦うために集められた。 |
新共同 | わたしはまた、あの獣と、地上の王たちとその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦うために、集まっているのを見た。 |
NIV | Then I saw the beast and the kings of the earth and their armies gathered together to make war against the rider on the horse and his army. |
註解: すでに黙16:13−16に録されしごとき三つの悪霊の働きにより王たちとその軍勢(複数)がハルマゲドンと称える処に集められキリストとその軍勢(単数、聖徒の一隊)に向いて戦わんとしているのである。これは神とサタンとの戦闘なる故、霊的事実として考えるべきであろう。これが如何なる形において実現するかにつきては要義三を見よ。
辞解
[相集りて・・・・・戦闘を挑むを見たり] 「戦闘を為さんとて集められしを見たり」。
19章20節 かくて
口語訳 | しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。 |
塚本訳 | すると(たちまち)その獣は捕えられ(た。また)彼の前で(不思議な)徴を行って、獣の印を帯ぶる者、その像を拝む者達を惑わした偽預言者も(また)彼と共に捕らえられ、二人とも活きながら硫黄の燃えている火の池に放り込まれ(てしまっ)た。 |
前田訳 | 獣は偽預書者とともに捕えられた。彼は獣の前で徴を行ない、それによって獣のしるしを受けて獣の像を拝んだものを惑わしたのである。両方とも生きたまま硫黄で燃える火の池に投げ込まれた。 |
新共同 | しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。 |
NIV | But the beast was captured, and with him the false prophet who had performed the miraculous signs on his behalf. With these signs he had deluded those who had received the mark of the beast and worshiped his image. The two of them were thrown alive into the fiery lake of burning sulfur. |
註解: 黙12:3の赤き龍(サタン)、黙13:1の第一の獣、黙13:11の第二の獣すなわち偽預言者の三つは神の敵の三位一体である。この中獣と偽預言者とがまず捕えられて火と硫黄の池の中に永遠の苦痛を受ける。すなわち神に敵する地上の権力と、神を拝するごとくに見せてサタンを拝せしむる偽宗教とは遂にキリストによりて根本的に打砕かれる。
辞解
[その前に不思議を行ひ云々] 黙13:13-14の反覆。
[硫黄の燃ゆる火の池] 「底なき所」とは異なる。後者は (黙9:1。黙11:7。黙20:1) サタンおよびその配下の一時の寓居 で前者はその永遠の苦痛を受ける場所である (黙20:10、黙20:14。黙21:8。マタ25:41) 。おそらく創19:24より来れる思想なるべく旧約聖書にも神の審判の具としてしばしば火と硫黄とが用いられる (詩11:6。イザ30:33。エゼ38:22) 。
19章21節 その
口語訳 | それ以外の者たちは、馬に乗っておられるかたの口から出るつるぎで切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた。 |
塚本訳 | そして残る者は(かの白い)馬に乗り給う者の口から出ている剣にて殺された。そして凡ての鳥は彼らの肉によって満腹した。 |
前田訳 | 残りのものは馬に乗るものの口から出る剣で殺された。そしてすべての鳥が彼らの肉で食べ飽きた。 |
新共同 | 残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。 |
NIV | The rest of them were killed with the sword that came out of the mouth of the rider on the horse, and all the birds gorged themselves on their flesh. |
註解: 獣と偽預言者以外のものは神の言によりて殺され、鳥の餌食となる。すなわち最も憫むべき状態に陥る。そしてこれらもやがては火と硫黄の燃ゆる池に投入れられる時が来るのである(黙20:14)。ハルマゲドンの戦においてはかくしてキリストとその白衣の軍勢の大勝に帰し、その敵将は火の池に投ぜられその軍勢は鳥の餌食となる。キリスト再臨し給う時、この世界の姿は一変してサタンの力は敗れ神の栄光があがる時が来るというのである。
要義1 [キリスト再臨の第一の結果]この世は多くの人々の考えるごとく、次第に進歩発達して神の国となるのではない。否むしろサタンの力が次第に増し加わリ遂に大淫婦バビロンとなりて聖徒の血に酔うに至り獣と偽預言者、すなわちこの世の権力とその宗教すらも、みな神の民に敵対する偉大なる力となる。しかしながら神この憤恚の鉢を傾け給うに及び、この獣はかえって大淫婦を殺し、サタンの僕らは互に相殺戮して自己の破滅を招き、世は益々暗黒と化するに至る。この時キリストの再臨ありてサタンとその一味を火の池に投じ給うに及びて、ここに始めてこの世が神の国となるに至り、遂にそれが完成して新天新地を生ずるに至る。
要義2 [ハルマゲドンの戦]この世の王たちの連合軍とキリストを主将とするキリスト者の軍勢とがハルマゲドンなる地において具体的の決戦を為すものと考えられるべきではない。唯キリストの力によってサタンの凡ての力が敗られる時が必ず有ることの信仰をもって希望を保つべきことを示したに過ぎない。これが如何なる具体的形式において実現するかは黙示録の文字の通りに決定し得ざること、他の部分と同様である。
要義3 [サタンの滅亡の実際の姿]黙示録の諸表徴は何れも難解ではあるが、殊にキリストとサタンとの戦はこれを具体的に表現することは困難である。大体次のごとくに想像することが可能である。
(1)文字通りキリストの軍とサタンの軍とがハルマゲドンにて会戦する。
(2)全然霊的の出来事と解し一方にサタンの力が強くなると同時に他方にキリストに対する信仰の力が強くなり、この両者の間の無形の戦が行われ後者の勝利に帰すること。
(1)のごとくに解することは霊の国がこの世の戦争によって成立すと考えるごとき大錯誤に陥るのみならずキリストの敵を殺すことは「その口より出づる剣」すなわち神の言によること故、この戦争は霊の戦争であって、(2)のごとく時至りてキリスト自ら来り給い彼に対する信仰勃然として起り、サタンに対する臣従の心をことごとく打滅す時が来ると考えるべきであろう。鳥来りて肉を食うことのごときも滅ぶべきものの滅ることを言えるものと解すべきであろう。
黙示録第20章
4-(3) サタンの滅亡と千年王国
20:1 - 20:10
4-(3)-(イ) サタンの捕囚
20:1 - 20:3
註解: 最後に1−10節においてサタンの捕囚およびその末路と千年王国の状態とを示す。
20章1節
口語訳 | またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。 |
塚本訳 | また私は、(一人の)天使が奈落の鍵と大きな鎖とを手に持って天から下りて来るのを見た。 |
前田訳 | そしてわたしは見た。天使が天から下った。手に奈落の鍵と大きな鎖とを持っていた。 |
新共同 | わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。 |
NIV | And I saw an angel coming down out of heaven, having the key to the Abyss and holding in his hand a great chain. |
20章2節
口語訳 | 彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、 |
塚本訳 | 彼は竜、すなわち悪魔またサタンである(かの)古い蛇を掴まえて、千年の間それを縛り、 |
前田訳 | 彼は竜を捕えた。古い蛇で、悪魔またサタンである。彼はそれを千年の間縛った。 |
新共同 | この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、 |
NIV | He seized the dragon, that ancient serpent, who is the devil, or Satan, and bound him for a thousand years. |
20章3節
口語訳 | そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。 |
塚本訳 | 奈落(の底)に放り込み、錠をかけてその上に(固く)封印した。千年が終わるまで(このサタンが)なお諸国の民を惑わすことのないためである。(しかし)その後彼は(また)暫くの間釈放されねばならなぬ。 |
前田訳 | 彼はそれを奈落へ投げ入れ、閉じ込めてその上に封印した。千年が満ちるまで諸国民を迷わさぬためである。その後、少しの間釈放されることになっていた。 |
新共同 | 底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。 |
NIV | He threw him into the Abyss, and locked and sealed it over him, to keep him from deceiving the nations anymore until the thousand years were ended. After that, he must be set free for a short time. |
註解: 神および、キリストの敵たるサタンの三位一体の中、獣と偽預言者とはすでに火の池に投げ入れられたけれども(黙19:20)その首位を占むるサタンは容易に亡ぼされず、まず千年の間捕えられて底なき所に投込まれる。その結果サタンは地上にその活動を為すことを得ず、従って人を誘惑しまたは欺くことが無いために地上に正義と平和の支配する神の国が出現する。これは所謂千年王国である。その間の有様は4−6節に詳記せらる。
辞解
[龍(黙12:3)、悪魔、サタン、古き蛇] みなサタン彼自身を指す。サタンの名称の総動員。
[古き蛇] 昔アダムとエバとを欺いた蛇のこと。
[千年] 「附記」参照。
[捕え、繋ぎ、閉ぢ込め、封印し] その幽閉の堅固なることを示す、サタンの力の大なるが故である。
[解き放さるべし] 「解き放されなければならない」で神の定めによりかかる運命になっているとの意。
20章4節
口語訳 | また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。 |
塚本訳 | また私は数々の座を見た。人々がそれに坐り、その人達に審判の権が与えられた。またイエスの証明のためと神の言のために馘られた(殉教)者の霊を私は見た。彼らは獣をもその像をも拝まず、またその額と手とに印を受けなかった(者である。)彼らは生き返って、キリストと共に千年の間王となった。 |
前田訳 | そしてわたしは見た。多くの王座があり、その上に座す人々に裁きがゆだねられた。イエスを証し、神のことばを語ったゆえに首をはねられた人々の魂をも見た。彼らは獣もその像も拝まず、額や手にしるしを受けなかった人々である。彼らは再生してキリストとともに千年の間、王であった。 |
新共同 | わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。 |
NIV | I saw thrones on which were seated those who had been given authority to judge. And I saw the souls of those who had been beheaded because of their testimony for Jesus and because of the word of God. They had not worshiped the beast or his image and had not received his mark on their foreheads or their hands. They came to life and reigned with Christ a thousand years. |
註解: サタンの繋がれし後の世界は神の御旨の完全に行われる世界であり、この世の権力に迫害せられ、その文化に誘惑されるごとき世界とは全く異なっている。そこに多くの座位ありて、これに坐する者がある。これらの者は神またはキリストより審判の権を与えられている故、ある学者の言うごとく(S3、H0)神およびキリストにあらざることは明かである。おそらく次に録される殉教者および、キリスト者を指すならん。ただし神およびキリストの御座もそこに有りしものと想像することは何ら差支えがない。審判は支配者の権に属し、キリスト者はキリストと共に審判の座に坐することを得るものと信ぜられていた (Tコリ6:2。マタ19:28。ルカ22:30) 。なおこの光景はダニ7:9−11を連想せしめる。
註解: ある学者はこれを単に殉教者のみを指していると解し後半すなわち「また獣をも」以下はその説明であるとしているけれども(黙13:15を見よ、B3、H0。ただし黙13:16以下に注意すべし)前半は殉教者、後半は迫害にも屈せずして獣をもその像をも拝せざりし勇敢なるキリスト者および売買をも禁じられるごとき不便をも忍んで(黙13:17)その信仰を明瞭に告白せる聖徒を指すものと見なければならない。すなわちキリスト・イエスに在る凡ての聖徒を指す。彼らはその多くの座位に坐している人々である。彼らはこの世に生存せる間は最も苦しき立場に立たせられ世の迫害と軽侮 との下に在った。然るにキリスト再び来給うに及びて彼らはこの栄光の座位に即 かせられるというのである。神が真に実在し給う以上はこれこそ当然のことと言わなければならぬ。
辞解
[イエスの証および神の言] 黙1:9辞解参照。
[馘 られし] 原語斧をもって切断すること、古代の刑罰の方法であつた。
20章5節 (その
口語訳 | (それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。 |
塚本訳 | しかし残りの死人達は千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である。 |
前田訳 | その他の死人は千年が満ちるまで再生しなかった。これが第一の復活である。 |
新共同 | その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。 |
NIV | (The rest of the dead did not come to life until the thousand years were ended.) This is the first resurrection. |
註解: キリスト再臨の時、まずキリストに属する聖徒が甦ることは初代キリスト者の信仰であり (Tテサ4:17、Tコリ15:23、Tコリ15:52) 。而して彼らはキリストと共に支配すべきものと考えられていた (黙3:21。黙5:10。黙22:5。Uテモ2:11-12) 。これらが今実現したのである。これすなわち第一の復活であって、第二の復活に相対している。その他の死人はキリストを信ぜざりし人々に相当し、その復活は11節以下に記さる。「その他の死人」を殉敬者以外の聖徒および非聖徒と解し(B3)または滅ぼさるべき不義者と解することは第一の復活の解釈如何による結果である。
辞解
[生きかえり] A2は霊的復活と解し、その後この解釈を取る学者が多いけれども(S3)前後の関係よりその然らざることは明かである。
[王となれり] 「支配せり」とも訳することを得。
20章6節
口語訳 | この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。 |
塚本訳 | 幸福なる哉、聖なる哉、第一の復活に与(り得)る者! この人達に対しては第二の死も権威が無く、彼らは神とキリストとの祭司となって、千年の間彼と共に王となるであろう。 |
前田訳 | さいわいで聖なのは第一の復活にあずかる人。彼らに第二の死は何ら力なく、神とキリストの祭司となり、彼とともに千年の間、王となろう。 |
新共同 | 第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。 |
NIV | Blessed and holy are those who have part in the first resurrection. The second death has no power over them, but they will be priests of God and of Christ and will reign with him for a thousand years. |
註解: 第一の復活に干 る凡ての聖徒は永遠に死ぬることが無い。 黙1:6。黙5:10 に言えるごとく彼らは祭司であって常に神とキリストとに事 え、また地の上に王となりて人々を支配する(Tペテ2:9)、第二の死は永遠の死であって14節に記されている。
附記 [千年王国について]千年王国または千福年の思想は聖書中唯本章にのみ存しておリ、これを種々に曲解して教会史上種々の事態を生ずる原因となり信仰の動揺を来した処のものである。本来ユダヤ思想においてはメシヤの国は永遠なるものと考えられていた(ダニ2:44、ダニ7:13、14、ダニ7:27。ヨハ12:34註参照)。然るに永遠のメシヤ王国の実現が中々遼遠 に思われたので紀元前後各一世紀位の間に現われし多くの外典偽典等の黙示文学中に一時的メシヤ王国の実現につき録されるようになった(第二エズラ書7:26以下。12:34以下。バルクの黙示録30:1、40:1−3。エノク書91、93)。その期間は種々に考えられ 四十年、百年、六百年、千年、二千年、七千年等種々の差異がありまたあるいは人類の歴史を十週に分ちて毎週を千年とし(エノク書91)或は世界歴史を七日に分ち一日を千年とし第八日を永遠の日とするごとき(スラブ版エノク書)ものがあった。またペルシャの終末観にもこれに類似せるものがあった。
然らば新約聖書の他の部分にはこれに相当する思想は全く存在せずやというに然らず、(1)キリストに在る者がキリストの再臨の時彼と共に栄光のうちに現れること (コロ3:4。Tテサ3:13) 、(2)キリスト聖徒と共に支配し給うこと (Uテモ2:12。Tペテ2:9) 、(3)聖徒が地を嗣ぐこと (マタ5:5) 、(4)聖徒が世を審くこと (Tコリ6:2。マタ19:28。ルカ22:30) 、そして(5)これらはみな甦りてキリストの許に携挙せられし者が彼と共に来れる場合 (Tテサ4:17) に関すと見るべきである故、これを総合すれば千年王国に類似せる結果を生ずることとなる。それ故にヨハネはこれらの一般的思想を採用してこれを少しく変更し自己の鋳型に鋳込んだものであろう。しかしながら聖書殊に新約聖書の他の部分に全く存在せざる「千年」云々の思想およびサタンの一時釈放の思想を何故にヨハネは採用したのであろうか。軽々しくかつ無意味にかかる重大なる思想を採用するごときことはヨハネとして考え難き点である。(▲「千」という数も他の数と同じく表徴的意味に取るべきで「永い年月」という意味である。)
予思うにヨハネは徹頭徹尾サタンを非キリスト Antichrist として描くことをその方針としたものであろう。それ故にキリストも一度死して陰府に下り再び復活して地上を歩み給えるごとく、光の子のごとくに装い得るサタンも一度は繋がれて底なき所に下りここに千年の王国が実現し、サタンの勢力地を払いて神の国の実現かと思はれる時が、ある期間継続する。しかしながらサタンはかくも容易に亡ぶべくもあらず、後再び現われてさらにキリストに敵するものと考えられたものであろう(ネロの場合も同様である)。そしてキリストは甦りて永遠に生き給うにかかわらずサタンは死して永遠の火の池に投入せられるのである。ここに大なる正反対の現象を見ることができる。そしてこれがヨハネに与えられた黙示であって、具体的に如何なる形においてこれが実現するかは人間の思索によりて決定することはできない。
事実問題として千年王国は何処に如何なる姿において実現するかは困難な問題である。四世紀頃までの学者の中にはエルサレムを中心とする地上の支配であると考える人もあった。アウグスチヌスは千年王国を全部霊的に解し、サタンの捕縛はルカ11:22に相当し、千年はキリストの初臨より世の終までの全期間、聖徒の支配は天国の全経過、審判の権は地上において解きまた繋ぐ権、第一の復活は信者の心が復活のキリストと共に復活すること(コロ3:1)と解し、その後これに依る解釈が多いけれども、ヨハネの実際意味せる処はこれと異なり地上におけるキリストおよび聖徒の実際の支配を意味していた。その実際の姿は21章以下の新天新地および新しきエルサレムの実際の姿と共に、その実現を見て始めて知り得る底のものであろう。その時までは我らは唯信じてこれを待つよリ外にない。サタンの存在せざる世界として千年王国の平和と正義に満てる姿を想像することだけでも幸福の絶頂である。前章末要義三参照。なおこの思想が難解であるためにこれをキリスト御在世中の事件の表徴であると解し(ミリガン)またはその他の意味に取らんとする学者があるけれども良き解釈ではない。
20章7節
口語訳 | 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。 |
塚本訳 | 千年(の期間)が終わった時、サタンはその牢から釈放され、 |
前田訳 | 千年が満ちるとサタンは牢から解放され、 |
新共同 | この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、 |
NIV | When the thousand years are over, Satan will be released from his prison |
20章8節
口語訳 | そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。 |
塚本訳 | 出でて地の四隅にいる諸国の民──ゴグとマゴグとを惑わし、(メシヤとの)戦争のため彼らを集めるであろう。その数は海の砂のよう(に沢山であった)。 |
前田訳 | 出かけて地の四隅の諸国民を、すなわちゴグとマゴグを惑わして戦いへと集めよう。民の数は海の砂のようである。 |
新共同 | 地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。 |
NIV | and will go out to deceive the nations in the four corners of the earth--Gog and Magog--to gather them for battle. In number they are like the sand on the seashore. |
註解: 7−10節はサタンの最後の関ケ原の戦である。千年間幽閉せられしサタンは解放されるや否やたちまち以前のごとくに惑わすことをその仕事とし始めた (3、10節。黙12:9。黙13:14。黙19:20) 。ハルマゲドンの戦においては獣と偽預言者とがその同盟者とも云うべき諸国の王(黙17:12)とその軍勢とを集めたに過ぎなかった。然るに今やサタンは地の四隅よりすなわち全世界の隅々より神の民の敵たるものすなわち言わばゴグとマゴグとを惑わし集めた。
辞解
[地の四方] 「地の四隅」と訳すべきで、かくして意味が明瞭となる。すなわちサタンは最後に全世界より神に叛ける全人類を動員して神に敵対し、そのあらゆる手段を用い尽して神を打破らんとする。
[ゴグとマゴグ] エゼ38章−39章にあり、前者は王の名、後者はその領地の地名または人名である。彼らは大挙して神の民を襲い来るけれどもエホバこれを滅亡 ぼし給うことを記す。然るにその後ユダヤ人の終末観にはこの双方ともメシヤに敵する国民の名として解せられるに至り、ヨハネもこれをそのまま応用したのである。
20章9節
口語訳 | 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。 |
塚本訳 | 彼らは地の面に上って、聖徒の陣営と(神に)愛された都(エルサレム)とを取り囲んだ。すると天から火が降って彼らを焼き尽くした。 |
前田訳 | 彼らは地の平らなところへ上り、聖徒らの陣営と愛される町を囲んだ。すると天から火が下って彼らをなめ尽くした。 |
新共同 | 彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。 |
NIV | They marched across the breadth of the earth and surrounded the camp of God's people, the city he loves. But fire came down from heaven and devoured them. |
20章10節
口語訳 | そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。 |
塚本訳 | そして彼らを惑わす悪魔は火と硫黄との池に放り込まれた。其処には獣も偽預言者も(放り込まれて)いた。彼らは昼となく夜となく永遠より永遠に苦しめられるであろう。 |
前田訳 | 彼らを惑わす悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。そして彼らは昼も夜も世々とこしえに苦しめられよう。 |
新共同 | そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。 |
NIV | And the devil, who deceived them, was thrown into the lake of burning sulfur, where the beast and the false prophet had been thrown. They will be tormented day and night for ever and ever. |
註解: サタンを主将とせる全世界の隅々より召集せる大軍はキリストを信ずる聖徒たちの陣営とその都エルサレムとを囲む。然るに神は天より火を下して彼らを焼尽し給い、聖徒らは戦わずして彼らに勝つ。そしてキリストに敵するものの首魁たるサタンもついに火と硫黄の池に永遠の苦しみを受け、再び立つ能わざるに至る。新天新地、新エルサレムはこの後に至って始めて成立つのである。
辞解
[全面に] 「広がりの上に」で地球を平面と見てその全体を指す。
[上りて] 地平線下より上り来るごとき貌。
[陣営] parembolê は特にイスラエルが荒野を進む時の陣営に用いられている語で、神の民の陣営といふごとき意味となる(出16:13。申23:15)。
[愛せられたる都] エルサレムの別名のごとくに用いられる(詩78:68。詩87:2)。千年王国の首府はエルサレムである。ただしここでもこれを表徴的に用いていることは明かで、サタンはその全勢力を動員して地上に成立せる神の国の中心を衝くことを示したものである。如何なる姿においてこの預言が実現するかは今よりこれを明かにすることはできないけれども、さりとてこれを純霊的に解して個人の霊の世界における内面的事実と見るは当らない。
[火天よりくだり] U列1:10、12のごとく神の直接の審判を意味す。サタンを滅ぼすためには神自らその御手を下し給うことに注意すべし。
ここは
註解: 「火と硫黄との池」は「悪魔とその使らとのために備えられたる永久の火」(マタ25:41)であって、獣と偽預指者は黙19:20にすでにこの中に投げ込まれ、今またサタンがこの中に入れられたのである。彼らはここで亡び失せるものでなく永遠に昼夜の別なく苦しむのである。そして最後に凡て生命の書に記されぬ者はこの中に投げ入れられる(14、15節)。
附記 [ゴグ、マゴグの戦]黙19:19−21のハルマゲドンの戦とゴグ、マゴグの戦とは相類似しているけれども、ハルマゲドンの戦は獣とその角なる地の王たちおよび偽預言者の軍とキリストの軍との間の戦であり、ゴグ、マゴグの戦は全世界のサタン軍とキリストの陣営との対陣である。前者はヨハネの生活と直接の関係ある世界を眼中に置きたるもの、後者は全世界の支配者としてのサタンの地位より、当然に起る処の出来事である。サタンとその使とを滅ぼさずしては神の国は完成しない。
分類
5 全人類の審判
20:11 - 20:15
20章11節
口語訳 | また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 |
塚本訳 | また私は大きな白い玉座とそれに坐し給う者とを見た。地と天とはその御顔(の前)から逃げ、跡形も無くなっ(てしまっ)た。 |
前田訳 | そしてわたしは見た、大きな白い王座とそれに座したもうものを。彼の前から地と天が逃れて居所もなかった。 |
新共同 | わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。 |
NIV | Then I saw a great white throne and him who was seated on it. Earth and sky fled from his presence, and there was no place for them. |
註解: 11−15は「最後の審判」または「白き御座の審判」と称される処のもので凡ての人類の処置はこれによりて決定される。この御座は「大にして」唯一つであり四節の座位と異なり「白くして」その正義純真を示し審判者に相応しき貌を示す。「之に坐し給ふもの」は 黙4:2−9。黙5:1、黙5:7、黙5:13。黙6:16。黙7:10、黙7:15。黙19:4。黙21:5 等より「神」であると解する学者が多いけれども(A1、B3、S3、H0、E0)、ここでは特に「大なる白き御座」と称して4、5章の御座と区別せる点より見て、これは特別の審判の御座であると解すべく、そして ヨハ5:22。マタ25:31以下。使10:42。Uコリ5:10。Uテモ4:1 等よりこれに坐し給う者をキリストと見るべきである。
註解: Uペテ3:10−13。新天新地の出現の準備として天も地もその存在を失い、唯大審判の御座と復活せる全人類とが見えるだけである。
20章12節
口語訳 | また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。 |
塚本訳 | また私は死人が大なる者も小なる者も(悉く)玉座の前に立っているのを見た。すると(人の業を記した)数多の書が開かれた。また(もう一冊)他の書が開かれた。それは生命の書である。死人達は前の(数多の)書に書いてあることにより、(すなわち)彼らの業に応じて審判された。 |
前田訳 | そしてわたしは見た。大小の死人が王座の前に立っていた。数々の書物が開かれた。もうひとつの書物が開かれた。それはいのちの書である。数々の書物に書かれたことによって、死人たちはそのわざに応じて裁かれた。 |
新共同 | わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。 |
NIV | And I saw the dead, great and small, standing before the throne, and books were opened. Another book was opened, which is the book of life. The dead were judged according to what they had done as recorded in the books. |
註解: これ第二の復活で第一の復活に与らざる全死人の復活である。中には名義のみのキリスト者もあるべく、または福音に接せざる古今東西の死人、または神を信ぜずキリストを拒みたる死人等あらゆる人々がことごとくみな復活してキリストの審判の台前に立つ。これによりて全世界の全人類が神より公平なる審判を受け得るに至る。
註解: キリストの最後の審判は二つの材料による。その一つは全人類がその生時に自己の意思をもって行える凡ての行為を記録せる多くの書であって、人間の凡ての行為は一つも神の前に隠れることができない。他の一つは神の選び給える者の名を録せる生命の書であって、この中に録される者のみ永遠の生命を得るの資格がある。すなわちこれによれば人間は一面自己の行為によりて審 かれ他面神の予定によりて神の国に入るもののごとくに見える。事実は、神が人々の行為によりてこれに相当する報いを与え給い、その中永遠の生命に相応しきものをばこれを生命の書に記入し給うのであろう。行為に随 いて審 かれることにつきてはロマ2:6−16および要義2参照(編者追加:Uコリ5:10の要義2も参照)。
20章13節
口語訳 | 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。 |
塚本訳 | 海はその中にあった死人を出し、死も陰府もその中にあった死人を出し、各々その業に応じて審判された。 |
前田訳 | 海はその中の死人たちを引き渡した。死も黄泉もその中の死人たちを引き渡した。そして彼らはおのおのそのわざに応じて裁かれた。 |
新共同 | 海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。 |
NIV | The sea gave up the dead that were in it, and death and Hades gave up the dead that were in them, and each person was judged according to what he had done. |
註解: 甦りて審判の座に坐るものは墓より出でし人々だけではなく(ヨハ5:28)海中に没して墓なき死人、死と陰府 に捕えられてもはや復活すべくも思われなかった人々も凡て甦って来る。そして彼らはその行為に随 いて審 かれる。その行為は神の目に映れる行為である故その心中の動機をも見貫き給う。ゆえに人間の審 きのごとくに外面的ではない。
20章14節
口語訳 | それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 |
塚本訳 | そして死と陰府とは火の池に放り込まれた。これが第二の死、(最後の)火の池の死である。 |
前田訳 | そして死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池は第二の死である。 |
新共同 | 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 |
NIV | Then death and Hades were thrown into the lake of fire. The lake of fire is the second death. |
註解: 「死」「陰府 」等を人格化し実在物と見てその終焉を形容したのである。死も陰府 も全部その必要が無くなるのでサタンとその使と共に 黙19:20。黙20:10 の火の池に投げ入れられる。火の池に投げ入れられることが第二の死であって、もはや復活の見込みがない。
20章15節 すべて
口語訳 | このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。 |
塚本訳 | 生命の書に(その名を)書かれていない者は(悉くこの)火の池に放り込まれた。 |
前田訳 | いのちの書に書かれていないとなると、だれでも火の池に投げ込まれた。 |
新共同 | その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。 |
NIV | If anyone's name was not found written in the book of life, he was thrown into the lake of fire. |
註解: 如何なる人が生命の書に記されているかは人間がこれを憶測することを許されない。
要義1 [最後の審判について]大なる白き御座における審判は、最後の審判の中の最後の審判であって、これによリ宇宙間に審かれずに残るものは絶無となる。自然界が審かれ、不信者と、大淫婦が審かれ、サタンとその獣らが審かれ、そして最後に死にたる者が墓より出でて審かれるのである。そして復活するこの大群は永遠の生命を得るものと、火の池に投げ入れられるものとの二種に分たれる。マタ25:31以下の審判がこの場合に相当すと見ることも有力なる見方である。そしてこの死者の中には全く福音を知らざりし国民、聞きて信じるに至らざりし人々等が凡て含まれているのであって、神はこれらのものをその行為の如何と、生命の書に録されているや否やによりて審くのである。この審判を殉教者以外のキリスト者の審判と見または悪人のみの審判と見るは不適当である。
要義2 [生命の書と行為の書]審判の基礎として生命の書と行為の書の二種があり、これによりて各人が審かれるとすればこの二者の間に矛盾なきやを疑うことは道理あることである。生命の書に録される者の中には世の創の前より選ばれしもの(エペ1:3、4)もあることならんも、その不信によりてその名をこの書より消されるものもある以上は(黙3:5)またこれに書き加えられるものも有ろう。「すべて生命の書に記されぬ者はみな火の池に投げ入れられ」る以上(15節)この生命の書が結局永生を得るか亡びに至るかの分岐点である。そして神によりてこの生命の書に録される名は、神の自由の選択によるのであって、我らその理由を知ることができないけれども、神は各人の行為を見て善を行う者をばこれを生命の書に記入し給うと考えることは道理に叶える事実である(ロマ2:7参照)。かかる者が第二の死を免れるのであろう。そして同じく生命の書に録される者の中にもまたその以外にもその行為の点より見て種々の差異あり、これらの差異は最後の審判においてそれぞれ適当の報を与えられるのである。Tコリ3:10−17もこの思想に近い。ゆえにこの二種の書の中には矛盾は無い。
要義3 [如何なる人が生命の書に録されるや]これは全く我らの憶測によりて決定することができない。しかしながらもしある想像が許されるならば釈迦、孔子、ソクラテスその他有名無名の聖賢や、また終始真実と正直とをもって立派な生涯を送った多くの無名の士らにして未だ福音に接せざる人々などもこの中に在るのではないかと思う。神は彼らの名を生命の書に、彼の行為を行為の書に録して彼らの霊に適当の導きを与え、彼らをして永生に相応しきものとなし給うのであろう。
要義4 [生命の書について]不思議にも聖書には生命の書があって「死の書」が無い。これ本註解書ロマ9:33附記「予定説について」の(六)(八)等に録せる事実、すなわち神は人を滅亡に予定し給うことなしとの事実を裏書するもののごとくに思われる。永遠の生命は神の与え給う処であり、これに反し永遠の火の池に投入れられることは人間自らその原因を造り出した処である。神は彼らをその行為の書によりて審き、これを永遠の滅亡に入らしめ給う。
要義5 [再び万人救済説について]ロマ11:36要義1参照。黙示録20:11−15の記事は全く万人救済の希望を破壊するがごときも、仔細 にこれを見る時は行為に随 う審判は必ずしも火の池に投げ入れられることを意味しない以上、この審かるべき全人類の中幾何 が火の池に投入れられるかは明かではない。明かに火の池に投入れられるものは死と陰府 とである(14節)。そして生命の書に記される者と他の行為の書に録される者とが如何なる程度に齟齬 しているかはこれらの聖句よりはこれを判断することができない。そして一方に「生命の書」あるに関らず他方に「死の書」なきことは、あくまでも人をしてその救いの希望を放棄せしめざらんとする神の配慮であると見るべきである。