黙示録第20章
分類
4 サタンの滅亡
19:1 - 20:10
4-(3) サタンの滅亡と千年王国
20:1 - 20:10
4-(3)-(イ) サタンの捕囚
20:1 - 20:3
註解: 最後に1−10節においてサタンの捕囚およびその末路と千年王国の状態とを示す。
20章1節
口語訳 | またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。 |
塚本訳 | また私は、(一人の)天使が奈落の鍵と大きな鎖とを手に持って天から下りて来るのを見た。 |
前田訳 | そしてわたしは見た。天使が天から下った。手に奈落の鍵と大きな鎖とを持っていた。 |
新共同 | わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。 |
NIV | And I saw an angel coming down out of heaven, having the key to the Abyss and holding in his hand a great chain. |
20章2節
口語訳 | 彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、 |
塚本訳 | 彼は竜、すなわち悪魔またサタンである(かの)古い蛇を掴まえて、千年の間それを縛り、 |
前田訳 | 彼は竜を捕えた。古い蛇で、悪魔またサタンである。彼はそれを千年の間縛った。 |
新共同 | この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、 |
NIV | He seized the dragon, that ancient serpent, who is the devil, or Satan, and bound him for a thousand years. |
20章3節
口語訳 | そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。 |
塚本訳 | 奈落(の底)に放り込み、錠をかけてその上に(固く)封印した。千年が終わるまで(このサタンが)なお諸国の民を惑わすことのないためである。(しかし)その後彼は(また)暫くの間釈放されねばならなぬ。 |
前田訳 | 彼はそれを奈落へ投げ入れ、閉じ込めてその上に封印した。千年が満ちるまで諸国民を迷わさぬためである。その後、少しの間釈放されることになっていた。 |
新共同 | 底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。 |
NIV | He threw him into the Abyss, and locked and sealed it over him, to keep him from deceiving the nations anymore until the thousand years were ended. After that, he must be set free for a short time. |
註解: 神および、キリストの敵たるサタンの三位一体の中、獣と偽預言者とはすでに火の池に投げ入れられたけれども(黙19:20)その首位を占むるサタンは容易に亡ぼされず、まず千年の間捕えられて底なき所に投込まれる。その結果サタンは地上にその活動を為すことを得ず、従って人を誘惑しまたは欺くことが無いために地上に正義と平和の支配する神の国が出現する。これは所謂千年王国である。その間の有様は4−6節に詳記せらる。
辞解
[龍(黙12:3)、悪魔、サタン、古き蛇] みなサタン彼自身を指す。サタンの名称の総動員。
[古き蛇] 昔アダムとエバとを欺いた蛇のこと。
[千年] 「附記」参照。
[捕え、繋ぎ、閉ぢ込め、封印し] その幽閉の堅固なることを示す、サタンの力の大なるが故である。
[解き放さるべし] 「解き放されなければならない」で神の定めによりかかる運命になっているとの意。
20章4節
口語訳 | また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。 |
塚本訳 | また私は数々の座を見た。人々がそれに坐り、その人達に審判の権が与えられた。またイエスの証明のためと神の言のために馘られた(殉教)者の霊を私は見た。彼らは獣をもその像をも拝まず、またその額と手とに印を受けなかった(者である。)彼らは生き返って、キリストと共に千年の間王となった。 |
前田訳 | そしてわたしは見た。多くの王座があり、その上に座す人々に裁きがゆだねられた。イエスを証し、神のことばを語ったゆえに首をはねられた人々の魂をも見た。彼らは獣もその像も拝まず、額や手にしるしを受けなかった人々である。彼らは再生してキリストとともに千年の間、王であった。 |
新共同 | わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。 |
NIV | I saw thrones on which were seated those who had been given authority to judge. And I saw the souls of those who had been beheaded because of their testimony for Jesus and because of the word of God. They had not worshiped the beast or his image and had not received his mark on their foreheads or their hands. They came to life and reigned with Christ a thousand years. |
註解: サタンの繋がれし後の世界は神の御旨の完全に行われる世界であり、この世の権力に迫害せられ、その文化に誘惑されるごとき世界とは全く異なっている。そこに多くの座位ありて、これに坐する者がある。これらの者は神またはキリストより審判の権を与えられている故、ある学者の言うごとく(S3、H0)神およびキリストにあらざることは明かである。おそらく次に録される殉教者および、キリスト者を指すならん。ただし神およびキリストの御座もそこに有りしものと想像することは何ら差支えがない。審判は支配者の権に属し、キリスト者はキリストと共に審判の座に坐することを得るものと信ぜられていた (Tコリ6:2。マタ19:28。ルカ22:30) 。なおこの光景はダニ7:9−11を連想せしめる。
註解: ある学者はこれを単に殉教者のみを指していると解し後半すなわち「また獣をも」以下はその説明であるとしているけれども(黙13:15を見よ、B3、H0。ただし黙13:16以下に注意すべし)前半は殉教者、後半は迫害にも屈せずして獣をもその像をも拝せざりし勇敢なるキリスト者および売買をも禁じられるごとき不便をも忍んで(黙13:17)その信仰を明瞭に告白せる聖徒を指すものと見なければならない。すなわちキリスト・イエスに在る凡ての聖徒を指す。彼らはその多くの座位に坐している人々である。彼らはこの世に生存せる間は最も苦しき立場に立たせられ世の迫害と軽侮 との下に在った。然るにキリスト再び来給うに及びて彼らはこの栄光の座位に即 かせられるというのである。神が真に実在し給う以上はこれこそ当然のことと言わなければならぬ。
辞解
[イエスの証および神の言] 黙1:9辞解参照。
[馘 られし] 原語斧をもって切断すること、古代の刑罰の方法であつた。
20章5節 (その
口語訳 | (それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。 |
塚本訳 | しかし残りの死人達は千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である。 |
前田訳 | その他の死人は千年が満ちるまで再生しなかった。これが第一の復活である。 |
新共同 | その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。 |
NIV | (The rest of the dead did not come to life until the thousand years were ended.) This is the first resurrection. |
註解: キリスト再臨の時、まずキリストに属する聖徒が甦ることは初代キリスト者の信仰であり (Tテサ4:17、Tコリ15:23、Tコリ15:52) 。而して彼らはキリストと共に支配すべきものと考えられていた (黙3:21。黙5:10。黙22:5。Uテモ2:11-12) 。これらが今実現したのである。これすなわち第一の復活であって、第二の復活に相対している。その他の死人はキリストを信ぜざりし人々に相当し、その復活は11節以下に記さる。「その他の死人」を殉敬者以外の聖徒および非聖徒と解し(B3)または滅ぼさるべき不義者と解することは第一の復活の解釈如何による結果である。
辞解
[生きかえり] A2は霊的復活と解し、その後この解釈を取る学者が多いけれども(S3)前後の関係よりその然らざることは明かである。
[王となれり] 「支配せり」とも訳することを得。
20章6節
口語訳 | この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。 |
塚本訳 | 幸福なる哉、聖なる哉、第一の復活に与(り得)る者! この人達に対しては第二の死も権威が無く、彼らは神とキリストとの祭司となって、千年の間彼と共に王となるであろう。 |
前田訳 | さいわいで聖なのは第一の復活にあずかる人。彼らに第二の死は何ら力なく、神とキリストの祭司となり、彼とともに千年の間、王となろう。 |
新共同 | 第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。 |
NIV | Blessed and holy are those who have part in the first resurrection. The second death has no power over them, but they will be priests of God and of Christ and will reign with him for a thousand years. |
註解: 第一の復活に干 る凡ての聖徒は永遠に死ぬることが無い。 黙1:6。黙5:10 に言えるごとく彼らは祭司であって常に神とキリストとに事 え、また地の上に王となりて人々を支配する(Tペテ2:9)、第二の死は永遠の死であって14節に記されている。
附記 [千年王国について]千年王国または千福年の思想は聖書中唯本章にのみ存しておリ、これを種々に曲解して教会史上種々の事態を生ずる原因となり信仰の動揺を来した処のものである。本来ユダヤ思想においてはメシヤの国は永遠なるものと考えられていた(ダニ2:44、ダニ7:13、14、ダニ7:27。ヨハ12:34註参照)。然るに永遠のメシヤ王国の実現が中々遼遠 に思われたので紀元前後各一世紀位の間に現われし多くの外典偽典等の黙示文学中に一時的メシヤ王国の実現につき録されるようになった(第二エズラ書7:26以下。12:34以下。バルクの黙示録30:1、40:1−3。エノク書91、93)。その期間は種々に考えられ 四十年、百年、六百年、千年、二千年、七千年等種々の差異がありまたあるいは人類の歴史を十週に分ちて毎週を千年とし(エノク書91)或は世界歴史を七日に分ち一日を千年とし第八日を永遠の日とするごとき(スラブ版エノク書)ものがあった。またペルシャの終末観にもこれに類似せるものがあった。
然らば新約聖書の他の部分にはこれに相当する思想は全く存在せずやというに然らず、(1)キリストに在る者がキリストの再臨の時彼と共に栄光のうちに現れること (コロ3:4。Tテサ3:13) 、(2)キリスト聖徒と共に支配し給うこと (Uテモ2:12。Tペテ2:9) 、(3)聖徒が地を嗣ぐこと (マタ5:5) 、(4)聖徒が世を審くこと (Tコリ6:2。マタ19:28。ルカ22:30) 、そして(5)これらはみな甦りてキリストの許に携挙せられし者が彼と共に来れる場合 (Tテサ4:17) に関すと見るべきである故、これを総合すれば千年王国に類似せる結果を生ずることとなる。それ故にヨハネはこれらの一般的思想を採用してこれを少しく変更し自己の鋳型に鋳込んだものであろう。しかしながら聖書殊に新約聖書の他の部分に全く存在せざる「千年」云々の思想およびサタンの一時釈放の思想を何故にヨハネは採用したのであろうか。軽々しくかつ無意味にかかる重大なる思想を採用するごときことはヨハネとして考え難き点である。(▲「千」という数も他の数と同じく表徴的意味に取るべきで「永い年月」という意味である。)
予思うにヨハネは徹頭徹尾サタンを非キリスト Antichrist として描くことをその方針としたものであろう。それ故にキリストも一度死して陰府に下り再び復活して地上を歩み給えるごとく、光の子のごとくに装い得るサタンも一度は繋がれて底なき所に下りここに千年の王国が実現し、サタンの勢力地を払いて神の国の実現かと思はれる時が、ある期間継続する。しかしながらサタンはかくも容易に亡ぶべくもあらず、後再び現われてさらにキリストに敵するものと考えられたものであろう(ネロの場合も同様である)。そしてキリストは甦りて永遠に生き給うにかかわらずサタンは死して永遠の火の池に投入せられるのである。ここに大なる正反対の現象を見ることができる。そしてこれがヨハネに与えられた黙示であって、具体的に如何なる形においてこれが実現するかは人間の思索によりて決定することはできない。
事実問題として千年王国は何処に如何なる姿において実現するかは困難な問題である。四世紀頃までの学者の中にはエルサレムを中心とする地上の支配であると考える人もあった。アウグスチヌスは千年王国を全部霊的に解し、サタンの捕縛はルカ11:22に相当し、千年はキリストの初臨より世の終までの全期間、聖徒の支配は天国の全経過、審判の権は地上において解きまた繋ぐ権、第一の復活は信者の心が復活のキリストと共に復活すること(コロ3:1)と解し、その後これに依る解釈が多いけれども、ヨハネの実際意味せる処はこれと異なり地上におけるキリストおよび聖徒の実際の支配を意味していた。その実際の姿は21章以下の新天新地および新しきエルサレムの実際の姿と共に、その実現を見て始めて知り得る底のものであろう。その時までは我らは唯信じてこれを待つよリ外にない。サタンの存在せざる世界として千年王国の平和と正義に満てる姿を想像することだけでも幸福の絶頂である。前章末要義三参照。なおこの思想が難解であるためにこれをキリスト御在世中の事件の表徴であると解し(ミリガン)またはその他の意味に取らんとする学者があるけれども良き解釈ではない。
20章7節
口語訳 | 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。 |
塚本訳 | 千年(の期間)が終わった時、サタンはその牢から釈放され、 |
前田訳 | 千年が満ちるとサタンは牢から解放され、 |
新共同 | この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、 |
NIV | When the thousand years are over, Satan will be released from his prison |
20章8節
口語訳 | そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。 |
塚本訳 | 出でて地の四隅にいる諸国の民──ゴグとマゴグとを惑わし、(メシヤとの)戦争のため彼らを集めるであろう。その数は海の砂のよう(に沢山であった)。 |
前田訳 | 出かけて地の四隅の諸国民を、すなわちゴグとマゴグを惑わして戦いへと集めよう。民の数は海の砂のようである。 |
新共同 | 地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。 |
NIV | and will go out to deceive the nations in the four corners of the earth--Gog and Magog--to gather them for battle. In number they are like the sand on the seashore. |
註解: 7−10節はサタンの最後の関ケ原の戦である。千年間幽閉せられしサタンは解放されるや否やたちまち以前のごとくに惑わすことをその仕事とし始めた (3、10節。黙12:9。黙13:14。黙19:20) 。ハルマゲドンの戦においては獣と偽預言者とがその同盟者とも云うべき諸国の王(黙17:12)とその軍勢とを集めたに過ぎなかった。然るに今やサタンは地の四隅よりすなわち全世界の隅々より神の民の敵たるものすなわち言わばゴグとマゴグとを惑わし集めた。
辞解
[地の四方] 「地の四隅」と訳すべきで、かくして意味が明瞭となる。すなわちサタンは最後に全世界より神に叛ける全人類を動員して神に敵対し、そのあらゆる手段を用い尽して神を打破らんとする。
[ゴグとマゴグ] エゼ38章−39章にあり、前者は王の名、後者はその領地の地名または人名である。彼らは大挙して神の民を襲い来るけれどもエホバこれを滅亡 ぼし給うことを記す。然るにその後ユダヤ人の終末観にはこの双方ともメシヤに敵する国民の名として解せられるに至り、ヨハネもこれをそのまま応用したのである。
20章9節
口語訳 | 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。 |
塚本訳 | 彼らは地の面に上って、聖徒の陣営と(神に)愛された都(エルサレム)とを取り囲んだ。すると天から火が降って彼らを焼き尽くした。 |
前田訳 | 彼らは地の平らなところへ上り、聖徒らの陣営と愛される町を囲んだ。すると天から火が下って彼らをなめ尽くした。 |
新共同 | 彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。 |
NIV | They marched across the breadth of the earth and surrounded the camp of God's people, the city he loves. But fire came down from heaven and devoured them. |
20章10節
口語訳 | そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。 |
塚本訳 | そして彼らを惑わす悪魔は火と硫黄との池に放り込まれた。其処には獣も偽預言者も(放り込まれて)いた。彼らは昼となく夜となく永遠より永遠に苦しめられるであろう。 |
前田訳 | 彼らを惑わす悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。そして彼らは昼も夜も世々とこしえに苦しめられよう。 |
新共同 | そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。 |
NIV | And the devil, who deceived them, was thrown into the lake of burning sulfur, where the beast and the false prophet had been thrown. They will be tormented day and night for ever and ever. |
註解: サタンを主将とせる全世界の隅々より召集せる大軍はキリストを信ずる聖徒たちの陣営とその都エルサレムとを囲む。然るに神は天より火を下して彼らを焼尽し給い、聖徒らは戦わずして彼らに勝つ。そしてキリストに敵するものの首魁たるサタンもついに火と硫黄の池に永遠の苦しみを受け、再び立つ能わざるに至る。新天新地、新エルサレムはこの後に至って始めて成立つのである。
辞解
[全面に] 「広がりの上に」で地球を平面と見てその全体を指す。
[上りて] 地平線下より上り来るごとき貌。
[陣営] parembolê は特にイスラエルが荒野を進む時の陣営に用いられている語で、神の民の陣営といふごとき意味となる(出16:13。申23:15)。
[愛せられたる都] エルサレムの別名のごとくに用いられる(詩78:68。詩87:2)。千年王国の首府はエルサレムである。ただしここでもこれを表徴的に用いていることは明かで、サタンはその全勢力を動員して地上に成立せる神の国の中心を衝くことを示したものである。如何なる姿においてこの預言が実現するかは今よりこれを明かにすることはできないけれども、さりとてこれを純霊的に解して個人の霊の世界における内面的事実と見るは当らない。
[火天よりくだり] U列1:10、12のごとく神の直接の審判を意味す。サタンを滅ぼすためには神自らその御手を下し給うことに注意すべし。
ここは
註解: 「火と硫黄との池」は「悪魔とその使らとのために備えられたる永久の火」(マタ25:41)であって、獣と偽預指者は黙19:20にすでにこの中に投げ込まれ、今またサタンがこの中に入れられたのである。彼らはここで亡び失せるものでなく永遠に昼夜の別なく苦しむのである。そして最後に凡て生命の書に記されぬ者はこの中に投げ入れられる(14、15節)。
附記 [ゴグ、マゴグの戦]黙19:19−21のハルマゲドンの戦とゴグ、マゴグの戦とは相類似しているけれども、ハルマゲドンの戦は獣とその角なる地の王たちおよび偽預言者の軍とキリストの軍との間の戦であり、ゴグ、マゴグの戦は全世界のサタン軍とキリストの陣営との対陣である。前者はヨハネの生活と直接の関係ある世界を眼中に置きたるもの、後者は全世界の支配者としてのサタンの地位より、当然に起る処の出来事である。サタンとその使とを滅ぼさずしては神の国は完成しない。
分類
5 全人類の審判
20:11 - 20:15
20章11節
口語訳 | また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 |
塚本訳 | また私は大きな白い玉座とそれに坐し給う者とを見た。地と天とはその御顔(の前)から逃げ、跡形も無くなっ(てしまっ)た。 |
前田訳 | そしてわたしは見た、大きな白い王座とそれに座したもうものを。彼の前から地と天が逃れて居所もなかった。 |
新共同 | わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。 |
NIV | Then I saw a great white throne and him who was seated on it. Earth and sky fled from his presence, and there was no place for them. |
註解: 11−15は「最後の審判」または「白き御座の審判」と称される処のもので凡ての人類の処置はこれによりて決定される。この御座は「大にして」唯一つであり四節の座位と異なり「白くして」その正義純真を示し審判者に相応しき貌を示す。「之に坐し給ふもの」は 黙4:2−9。黙5:1、黙5:7、黙5:13。黙6:16。黙7:10、黙7:15。黙19:4。黙21:5 等より「神」であると解する学者が多いけれども(A1、B3、S3、H0、E0)、ここでは特に「大なる白き御座」と称して4、5章の御座と区別せる点より見て、これは特別の審判の御座であると解すべく、そして ヨハ5:22。マタ25:31以下。使10:42。Uコリ5:10。Uテモ4:1 等よりこれに坐し給う者をキリストと見るべきである。
註解: Uペテ3:10−13。新天新地の出現の準備として天も地もその存在を失い、唯大審判の御座と復活せる全人類とが見えるだけである。
20章12節
口語訳 | また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。 |
塚本訳 | また私は死人が大なる者も小なる者も(悉く)玉座の前に立っているのを見た。すると(人の業を記した)数多の書が開かれた。また(もう一冊)他の書が開かれた。それは生命の書である。死人達は前の(数多の)書に書いてあることにより、(すなわち)彼らの業に応じて審判された。 |
前田訳 | そしてわたしは見た。大小の死人が王座の前に立っていた。数々の書物が開かれた。もうひとつの書物が開かれた。それはいのちの書である。数々の書物に書かれたことによって、死人たちはそのわざに応じて裁かれた。 |
新共同 | わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。 |
NIV | And I saw the dead, great and small, standing before the throne, and books were opened. Another book was opened, which is the book of life. The dead were judged according to what they had done as recorded in the books. |
註解: これ第二の復活で第一の復活に与らざる全死人の復活である。中には名義のみのキリスト者もあるべく、または福音に接せざる古今東西の死人、または神を信ぜずキリストを拒みたる死人等あらゆる人々がことごとくみな復活してキリストの審判の台前に立つ。これによりて全世界の全人類が神より公平なる審判を受け得るに至る。
註解: キリストの最後の審判は二つの材料による。その一つは全人類がその生時に自己の意思をもって行える凡ての行為を記録せる多くの書であって、人間の凡ての行為は一つも神の前に隠れることができない。他の一つは神の選び給える者の名を録せる生命の書であって、この中に録される者のみ永遠の生命を得るの資格がある。すなわちこれによれば人間は一面自己の行為によりて審 かれ他面神の予定によりて神の国に入るもののごとくに見える。事実は、神が人々の行為によりてこれに相当する報いを与え給い、その中永遠の生命に相応しきものをばこれを生命の書に記入し給うのであろう。行為に随 いて審 かれることにつきてはロマ2:6−16および要義2参照(編者追加:Uコリ5:10の要義2も参照)。
20章13節
口語訳 | 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。 |
塚本訳 | 海はその中にあった死人を出し、死も陰府もその中にあった死人を出し、各々その業に応じて審判された。 |
前田訳 | 海はその中の死人たちを引き渡した。死も黄泉もその中の死人たちを引き渡した。そして彼らはおのおのそのわざに応じて裁かれた。 |
新共同 | 海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。 |
NIV | The sea gave up the dead that were in it, and death and Hades gave up the dead that were in them, and each person was judged according to what he had done. |
註解: 甦りて審判の座に坐るものは墓より出でし人々だけではなく(ヨハ5:28)海中に没して墓なき死人、死と陰府 に捕えられてもはや復活すべくも思われなかった人々も凡て甦って来る。そして彼らはその行為に随 いて審 かれる。その行為は神の目に映れる行為である故その心中の動機をも見貫き給う。ゆえに人間の審 きのごとくに外面的ではない。
20章14節
口語訳 | それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 |
塚本訳 | そして死と陰府とは火の池に放り込まれた。これが第二の死、(最後の)火の池の死である。 |
前田訳 | そして死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池は第二の死である。 |
新共同 | 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 |
NIV | Then death and Hades were thrown into the lake of fire. The lake of fire is the second death. |
註解: 「死」「陰府 」等を人格化し実在物と見てその終焉を形容したのである。死も陰府 も全部その必要が無くなるのでサタンとその使と共に 黙19:20。黙20:10 の火の池に投げ入れられる。火の池に投げ入れられることが第二の死であって、もはや復活の見込みがない。
20章15節 すべて
口語訳 | このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。 |
塚本訳 | 生命の書に(その名を)書かれていない者は(悉くこの)火の池に放り込まれた。 |
前田訳 | いのちの書に書かれていないとなると、だれでも火の池に投げ込まれた。 |
新共同 | その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。 |
NIV | If anyone's name was not found written in the book of life, he was thrown into the lake of fire. |
註解: 如何なる人が生命の書に記されているかは人間がこれを憶測することを許されない。
要義1 [最後の審判について]大なる白き御座における審判は、最後の審判の中の最後の審判であって、これによリ宇宙間に審かれずに残るものは絶無となる。自然界が審かれ、不信者と、大淫婦が審かれ、サタンとその獣らが審かれ、そして最後に死にたる者が墓より出でて審かれるのである。そして復活するこの大群は永遠の生命を得るものと、火の池に投げ入れられるものとの二種に分たれる。マタ25:31以下の審判がこの場合に相当すと見ることも有力なる見方である。そしてこの死者の中には全く福音を知らざりし国民、聞きて信じるに至らざりし人々等が凡て含まれているのであって、神はこれらのものをその行為の如何と、生命の書に録されているや否やによりて審くのである。この審判を殉教者以外のキリスト者の審判と見または悪人のみの審判と見るは不適当である。
要義2 [生命の書と行為の書]審判の基礎として生命の書と行為の書の二種があり、これによりて各人が審かれるとすればこの二者の間に矛盾なきやを疑うことは道理あることである。生命の書に録される者の中には世の創の前より選ばれしもの(エペ1:3、4)もあることならんも、その不信によりてその名をこの書より消されるものもある以上は(黙3:5)またこれに書き加えられるものも有ろう。「すべて生命の書に記されぬ者はみな火の池に投げ入れられ」る以上(15節)この生命の書が結局永生を得るか亡びに至るかの分岐点である。そして神によりてこの生命の書に録される名は、神の自由の選択によるのであって、我らその理由を知ることができないけれども、神は各人の行為を見て善を行う者をばこれを生命の書に記入し給うと考えることは道理に叶える事実である(ロマ2:7参照)。かかる者が第二の死を免れるのであろう。そして同じく生命の書に録される者の中にもまたその以外にもその行為の点より見て種々の差異あり、これらの差異は最後の審判においてそれぞれ適当の報を与えられるのである。Tコリ3:10−17もこの思想に近い。ゆえにこの二種の書の中には矛盾は無い。
要義3 [如何なる人が生命の書に録されるや]これは全く我らの憶測によりて決定することができない。しかしながらもしある想像が許されるならば釈迦、孔子、ソクラテスその他有名無名の聖賢や、また終始真実と正直とをもって立派な生涯を送った多くの無名の士らにして未だ福音に接せざる人々などもこの中に在るのではないかと思う。神は彼らの名を生命の書に、彼の行為を行為の書に録して彼らの霊に適当の導きを与え、彼らをして永生に相応しきものとなし給うのであろう。
要義4 [生命の書について]不思議にも聖書には生命の書があって「死の書」が無い。これ本註解書ロマ9:33附記「予定説について」の(六)(八)等に録せる事実、すなわち神は人を滅亡に予定し給うことなしとの事実を裏書するもののごとくに思われる。永遠の生命は神の与え給う処であり、これに反し永遠の火の池に投入れられることは人間自らその原因を造り出した処である。神は彼らをその行為の書によりて審き、これを永遠の滅亡に入らしめ給う。
要義5 [再び万人救済説について]ロマ11:36要義1参照。黙示録20:11−15の記事は全く万人救済の希望を破壊するがごときも、仔細 にこれを見る時は行為に随 う審判は必ずしも火の池に投げ入れられることを意味しない以上、この審かるべき全人類の中幾何 が火の池に投入れられるかは明かではない。明かに火の池に投入れられるものは死と陰府 とである(14節)。そして生命の書に記される者と他の行為の書に録される者とが如何なる程度に齟齬 しているかはこれらの聖句よりはこれを判断することができない。そして一方に「生命の書」あるに関らず他方に「死の書」なきことは、あくまでも人をしてその救いの希望を放棄せしめざらんとする神の配慮であると見るべきである。
黙示録第21章
分類
6 新天新地
21:1 - 22:5
6-(1) 新天新地
21:1 - 21:8
6-(1)-(イ) 新天新地の幻景
21:1 - 21:2
21章1節
口語訳 | わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。 |
塚本訳 | また私は新しい天と新しい地とを見た。初めの天と初めの地とは消え去ったのである。最早海も無い。 |
前田訳 | そしてわたしは新しい天と新しい地とを見た。先の天と先の地とは消えうせ、もはや海もない。 |
新共同 | わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。 |
NIV | Then I saw a new heaven and a new earth, for the first heaven and the first earth had passed away, and there was no longer any sea. |
註解: これより22:5までヨハネは新天新地(21:1)の光景を叙す。サタンはことごとく亡ぼされ、滅ぶべき罪人は滅び、永遠に生くべき人間は新たなる生命に甦らされし以上、これらのものは詛われし前の(「直訳「第一の」)天地の間にいることは相応しくない。ゆえに神はこの神の民を新しき天地に容れ給う。この天地は神の支配の下にあり、その首府は新しきエルサレムである。「海も亦なきなり」は当時海を恐怖の目的と見し思想の表われしものならん。
辞解
[新天新地] この思想は旧約聖書にも外典にもあり(イザ65:17。イザ66:22。外典エノク45:4以下。72:1。91:16。バルクの黙示録32:6。第四エズラ7:75)すなわちマタ19:28の「世あらたまる」時また使3:21の「万物の革まる時」である。
[過去り] 新天新地の出現が果して全然新たなる神の創造によるかまたは旧世界を全く新たに改造し給うのであるかについては聖書の文字のみより決定することは困難である。人間そのものが全く新たになる時、その眼に映ずる天地もまた全く新たであり得る。
[海も亦なきなり] 前の海も消滅したと解し、新天新地の海は有り得ると解する説あれど、現在動詞を用いている点より見てその然らざるを見る。海は昔より恐るべきものであり、殊に孤島に流されて海により取囲まれていたヨハネにこの感が強かったであろう。また外典にもこの思想を発見することができ、ヨハネはこれを利用したのであろう(B3参照)。
21章2節
口語訳 | また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。 |
塚本訳 | また聖なる都新しいエルサレムが、夫のために飾った新婦のように身支度をして、天から、神(の御許)から降って来るのを私は見た。 |
前田訳 | そして聖なる都、新しいエルサレムが、神のみもとを出て天から下るのを見た。それは夫のために着飾った花よめのように身仕度している。 |
新共同 | 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。 |
NIV | I saw the Holy City, the new Jerusalem, coming down out of heaven from God, prepared as a bride beautifully dressed for her husband. |
註解:羔羊 の新婦は天の教会であり、すでに黙19:7、8においてその準備をしていたものが、準備完成して天より下って来つつある光景である。その幸福に充てる心の状態は3、4節に録され、その美わしさは9−27節に録さる。新婦の飾 につきては黙19:8参照。
辞解
[新しきエルサレム] この思想は旧約聖書にもその預言を見ることができ(イザ54章。イザ60章。エゼ40章。エゼ48章等)新約にも ガラ4:26。ピリ3:20。ヘブ12:22。ヘブ13:14 にこの思想あり、外典にもこれを見出すことができる。地上のエルサレムが蹂躙 せられしユダヤ人は切に天のエルサレムを望むようになつた。
「神の許を出で」は apo 「天より」は ek なる前置詞を用いている。前者には使命の意味を含み後者は起源を示す(S3)。黙3:12。黙21:10も同様。
21章3節 また
口語訳 | また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 |
塚本訳 | そして私は玉座から大きな声が(出てこう)言うのを聞いた、「視よ、人と共に神の幕屋がある! 神が彼らと共に住み、彼らは神の民となり、神自ら彼らと共にいまして、 |
前田訳 | またわたしは王座から大声を聞いた。いわく、「見よ、神の幕屋が人とともにあり、神が彼らとともに住みたもう。彼らは彼の民となり、神自ら彼らとともにいます。 |
新共同 | そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 |
NIV | And I heard a loud voice from the throne saying, "Now the dwelling of God is with men, and he will live with them. They will be his people, and God himself will be with them and be their God. |
註解:御座 より出づる声は黙19:5と同じく天使の声である。神と人との共存は人類の理想でありまた神の目的であった。アダムの堕落以前においてパラダイスはこの神人共生の場所であった。アダムの罪により一時神と人との間が隔てられたのを、ここにキリストの再臨による新天新地の実現によりて再びパラダイスが回復せられ、神と人とが不離密接の関係において生きるに至るのである。
辞解
本節の光景も旧約聖書に預言されている処である(黙7:15。レビ26:11、12。エレ31:33。エゼ37:27。ゼカ2:14、15。ゼカ8:8)。
[神の幕屋] 神と人との相逢う場所は神の幕屋の中の至聖所であつた。
21章4節 かれらの
口語訳 | 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。 |
塚本訳 | 彼らの目から悉く涙を拭い取り給うであろう。最早死もなく、悲嘆も叫喚も疼痛も最早無いであろう。初めの(天と地にあった)ものが(すっかり)消え去ったからである。」 |
前田訳 | 彼はすべての涙を彼らの目からぬぐい、もはや死がなく、もはや悲しみも叫びも痛みもない。先のものが消えうせたからである」と。 |
新共同 | 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」 |
NIV | He will wipe every tear from their eyes. There will be no more death or mourning or crying or pain, for the old order of things has passed away." |
註解: この世界における凡ての不幸なる現象が全く消滅することをいう。18章の光景と全く正反対である。この世は涙の谷であり死は凡ての人を支配し、悲歎と苦痛は絶えることがない。
辞解
この光景も旧約聖書に預言せられている(イザ25:8。イザ35:10。イザ65:19。ホセ13:14)。まさしく万人の渇望する処であるから。
[苦痛] ponos は新約聖書においては主として肉体的苦痛に用いらる(黙16:10、11)。
21章5節
口語訳 | すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。 |
塚本訳 | すると玉座に坐し給う者が言い給うた、「視よ、われ凡てを新しくする」と。また言い給う、「書け、この言は信ずべくまた真実であるから。」 |
前田訳 | 王座に座したもうものがいわれた、「見よ、わたしはすべてを新しくする」と。またいわれる、「書きしるせ。これらのことばは信ずべく、まことである」と。 |
新共同 | すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。 |
NIV | He who was seated on the throne said, "I am making everything new!" Then he said, "Write this down, for these words are trustworthy and true." |
註解: これがおそらく神御自身が直接ヨハネに語り給うことの明かな場合としての最初のものであろう。一切を新にすることは神の第二の創造ともいうべきもので、これによりて全世界の状態が一変する重大なる出来事である。キリスト者の全希望はこれに懸るが故に神は新たにこれを宣言し給う(Uコリ5:17。イザ43:18以下)。
また
註解: 新天新地の出現に関するこれらの言(3−5a)は特にこれを記録し置くべきである。その故はこの言には虚偽なく誤謬が無いからである。
辞解
この命令は天使の言で、その前後の神の言と区別すべきである。その理由としてはこの言は黙19:9、黙22:6と相似ていること、および前後の eipen に対して legei を用いていることを掲げることができる。かく解するならば「言いたまう」を「言う」と訳すべきである。▲ただしかく区別することは絶対的必要もなく、また絶対的でもない。むしろ神の言のつづきと見る方が宜し、訂正する。
21章6節 また
口語訳 | そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。 |
塚本訳 | そして私に言い給うた、「(事は)成った。我はアルパまたオメガ、初また終である。渇く者には無代で生命の水の泉から我は飲ませるであろう。 |
前田訳 | またわたしにいわれた、「事は成った。わたしはアルパまたオメガ、初めまた終わりである。わたしは渇くものにいのちの水の泉から価なしに飲ませよう。 |
新共同 | また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。 |
NIV | He said to me: "It is done. I am the Alpha and the Omega, the Beginning and the End. To him who is thirsty I will give to drink without cost from the spring of the water of life. |
註解: 6−8節において神自らの御口より多くの善美なる約束が繰返される。これらの多くは前にも録されているけれどもここに神の御口より出でてその意味が一層新鮮となる。
辞解
[我はアルパなりオメガなり] 黙1:8註参照。なお黙22:13にはこの語がキリストに関して用いらる。
[始なり終なり] 神は創造者にして完成者に在し給う。
[渇く者には云々] イザ55:1により人間の心の切なる要求と代価なしにこれを満し給う神の恩恵とを示す有名なる聖句、本書の中にも 黙7:17。黙22:17に繰返されている。なお黙22:1。イザ44:3。詩42:1以下。詩63:1参照。
口語訳 | 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。 |
塚本訳 | 勝利者はこの幸福を相続し、我は彼の神となり、彼はわが子となるであろう。 |
前田訳 | 勝利者はこれらを受け継ごう。そしてわたしは彼の神、彼はわが子となろう。 |
新共同 | 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。 |
NIV | He who overcomes will inherit all this, and I will be his God and he will be my son. |
註解: 2、3章において七つの教会の各に勝を得る者に対しての約束が与えられた。本節はその総括と見ることができる。「此等のもの」は新天新地と新しきエルサレムであり、七つの教会への種々の約束はみなこの中に包含される。
辞解
[嗣ぐ] パウロにおいてしばしば用いられる語で(ロマ8:17。ガラ4:7その他)パウロとヨハネの思想の根本的一致を示す一例である。
註解: 3節の説明を神自ら約束し給う、旧約の預言の要点で(創17:7、8。Uサム7:14)、神人合一の極致である。なおこれは未来のこととして記されているのはその実現が未来にあるからである。ただし現在においてその一部の実現を持っていたことは勿論である(Tヨハ3:1)。
註解: 8節は偽の信者および不信者異教徒に対する宣言である。
口語訳 | しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。 |
塚本訳 | しかし臆病者、不信の者、嫌悪むべき者、(また)殺人者、淫行の者、魔術を行う者、(また)偶像礼拝者、凡ての虚偽者──彼らの運命は、火と硫黄の燃えている池に投げ込まれることである。これは第二の死、(すなわち最後の死)である。」 |
前田訳 | 卑怯もの、不信のもの、不潔のもの、人殺し、姦淫のもの、魔術師、偶像礼拝者、すべてのうそつき−−彼らの分け前は火と硫黄の燃える池にある。これが第二の死である」と。 |
新共同 | しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」 |
NIV | But the cowardly, the unbelieving, the vile, the murderers, the sexually immoral, those who practice magic arts, the idolaters and all liars--their place will be in the fiery lake of burning sulfur. This is the second death." |
註解: deiloi 臆病者で迫害に対してその信仰を棄て、または迫害を恐れて信仰に入り得ないもの。
註解: apistoi は不信者の意味の外また忠実ならぬものの意あり、その信仰に対して忠実ならず信仰を裏切る者をも含むことができる。本節はむしろこの後者を意味するならん。
註解: 異教徒の中に存せる偶像崇拝その他の不道徳に陥れるもの。
註解: これらはモーセの十戒の主要なる点の違反者で黙22:15。黙9:20、21等に記される処と同種の人々である。神に対する不信仰は必ずこの種の罪を伴う。
辞解
[偽る者] ヨハネは特に偽を嫌っていた (黙2:2。黙3:9。黙14:5。黙21:27。黙22:15)。
註解: 火と硫黄の燃ゆる池は神の永遠の審判の場所、なお黙19:20辞解参照。第二の死は一度死し甦りてさらにまた死ぬためにかく云う。以上のごときものはこの永遠の刑罰に入る。それ故にキリスト者たるものは如何なる迫害と苦難の下においてもかかる状態に陥ってはならない。第二の死は20章においてすでに完了せるものを再びここに繰返せるにあらず、新天新地に入り得る条件とそこより排斥される理由とを神の口より新に聞いたのである。
要義1 [新天新地に対する憧憬]「すべて造られたるものは今に至るまで共に嘆き共に苦しみ」つつあるけれども、これらのものにも「滅亡 の僕たる状 より解かれて神の子たちの光栄の自由に入る望は存 」っている(ロマ8:21、22)。美わしい自然、悠久なる天地の中にも我らはその奥底に深い呻吟 の声を聞くことができるのは何故であろうか、これサタンがその王座を占めて神に叛 いているからである。神の造り給いし天地の中にこの反逆の心が蔓 っている間は、そこに根本的の歓喜は有り得ない。それ故に人の心の底には全く新しい天地の出現を切望する心が潜んでいるのである。殊に復活完成せる新たなる人類にとりては、現存する不完全なる世界は相応しくない。それ故に完成せられし神の国について考える者は当然にこれに伴える新たなる天地について考えるのである。そして要求の存する処そこに必ずこれが充さるべきものが備えられることを思う時、この新天新地の出現は必ず実現すべきものであることを信ずることができる。
要義2 [神と人との家族的生活]聖書の理想とする神人合一は東洋的神秘思想における神人合一と異なる。後者は忘我的法悦の境地であって人格的対立は存在しない。然るに前者にあっては人格的の対立の中に愛による無我の一致を実現する家族的神人合一である。神の実在を信ずる者にとっては人格的関係を否定する神人合一は無い。しかしながら愛と信仰とによる二人格の一致はすでにその対立を超越している合一の姿である。ここに最も高き神人合一の姿がある。
要義3 [真に救われるもの]黙示録全体に漲 る著しき思想は、救われて神の国に入る者と、審かれて滅亡に入るものとの区別が、各人の表面の信仰如何とは全く関係がなく、唯神の選びと各人の実際の生活如何による点である。「臆病者、不実もの」等が第二の死の報を受けるがごとき事実も、名義上のキリスト者たると否とは問題とならない。問題となる点は唯真のキリスト者なりや否や、すなわち真にキリスト者たる信仰を生きるや否やにある。神の審判の前にはキリスト者たる外的名称は何らの効果も無い。
21章9節
口語訳 | 最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。 |
塚本訳 | すると最後の七つの災厄が盛られた七つの鉢を持つ七人の天使の一人が来て、私に語って言うた、「さあ(此処に来い。)仔羊の妻たる新婦をお前に示そう。」 |
前田訳 | 七つの最後のわざわいで満ちた七つの鉢を持つ七人の天使のひとりが来て、わたしに話しかけた。いわく、「来なさい、小羊の妻である花よめを見せよう」と。 |
新共同 | さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。」 |
NIV | One of the seven angels who had the seven bowls full of the seven last plagues came and said to me, "Come, I will show you the bride, the wife of the Lamb." |
21章10節
口語訳 | この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。 |
塚本訳 | そして霊にて私を大きな高い山の上に連れて行き、聖なる都エルサレムが神の栄光をもって天から、神(の御許)から降って来るのを私に示した。 |
前田訳 | 彼は霊に感じたわたしを大きな高い山に連れ、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て天から下るのを見せた。 |
新共同 | この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。 |
NIV | And he carried me away in the Spirit to a mountain great and high, and showed me the Holy City, Jerusalem, coming down out of heaven from God. |
註解: 2節に簡単に記せる新しきエルサレムの詳細を見せんために御使はヨハネを高き大なる山に連れて行った。この新しきエルサレムは羔羊 の妻なる新婦すなわち教会である。かくして天的教会は地上に実現するのである。この教会は神の栄光をもって輝く。
辞解
[七つの苦難の満ちたる七つの鉢を持てる七人の使の一人] 黙17:2 辞解参照。黙17:1とこことに特にこの御使の同一なることを記せるは、ローマとエルサレム、大淫婦と新婦とを対比せんがためならんと想像する学者が多い。
[御霊に感じたる我を] 「御霊の中に我を」。
[大なる高き山] 表徴的の意味で全都市を瞰下する意味。
[神の許、天より] 2節辞解参照。
[神の栄光をもて] 原文の区分では次節に入る。
註解: 11節以後にこの新エルサレムの説明あり。11−14節はその外形、15−17節はその
広袤 、18−21節はその材料、22−27節はその内部を示す。
21章11節 その
口語訳 | その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。 |
塚本訳 | その光輝は究めて高価な宝石に似て居り、水晶の如く透明な碧玉のようである。 |
前田訳 | それは神の栄光を帯びていた。その輝きは高価な宝石に似、透明な碧玉のようであった。 |
新共同 | 都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。 |
NIV | It shone with the glory of God, and its brilliance was like that of a very precious jewel, like a jasper, clear as crystal. |
註解: 新エルサレムは彼自身に光を発しておりあたかも宝玉のごとき美観を呈している。キリストがまことの光に在し給うごとくその花嫁もまた光り輝く発光体であり、その生活とその姿は尊貴と美と透明さとを具えている。
辞解
[光輝] phôstêr は光 phôs そのものよりも発光体を指す。
[碧玉] 黙4:3辞解参照。
21章12節
口語訳 | それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。 |
塚本訳 | (其処には)大きな高い城壁があり、十二の門があって、門には十二人の天使が居り、イスラエルの子らの十二族の名が書きつけてある。 |
前田訳 | その城壁は大きく高く、十二の門があり、門には十二人の天使がおり、イスラエルの子らの十二の族の名がしるしてあった。 |
新共同 | 都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。 |
NIV | It had a great, high wall with twelve gates, and with twelve angels at the gates. On the gates were written the names of the twelve tribes of Israel. |
21章13節
口語訳 | 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。 |
塚本訳 | (すなわち)東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門(がある)。 |
前田訳 | 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。 |
新共同 | 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。 |
NIV | There were three gates on the east, three on the north, three on the south and three on the west. |
註解: エゼ48:31以下の光景と相似ている。大なる高き石垣は神の保護と、これによる神の民の安全とを示し、十二の門は神の国の数なる十二に因めるもの、十二人の御使はこの都を守る門守であり(イザ62:6)、その各々にイスラエルの十二の族の名が記されているのはエゼ48:31以下のごとく各族に従ってその通用門を区別せんがためではなく、神の都なるエルサレムは真の意味のイスラエルであり、従って十二の族から成ることを示す(黙7:4−8)。黙示録においては神の国と霊のイスラエルとは常に同一として取扱われている。東西南北に各三つの門があるのはエゼ48:31以下と同様で恐らく全地の四方に等しく相通ずることを意味したものであろう。なお民2:3以下とも、またエゼ48:31以下とも東西南北の順序を異にしているのは故意の変更なるべく(S3)、おそらくヨハネは十二の族を特別の意義をもって取扱ったことを示さんがためであろう。
21章14節
口語訳 | また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。 |
塚本訳 | また都の城壁には十二の土台石があり、その上に仔羊の十二人の使徒の十二の名が(書いて)ある。 |
前田訳 | 都の城壁には十二の土台があり、その上に小羊の十二使徒の十二の名があった。 |
新共同 | 都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。 |
NIV | The wall of the city had twelve foundations, and on them were the names of the twelve apostles of the Lamb. |
註解: この神の都の基礎は十二使徒であり、各一人が一つの基礎をなしている。各々自己の個性とその天職とを保持しつつ相共に一致して神の都の石垣を支えている貌を為している。十二使徒と云うは具体的に特定の十二人を指したのではなく、これを一団の職名として用いたものと見るべきであって、パウロがこの十二人中にありや否や等を問題とすべきではない。また神の都、神の国の基礎は事実としては十二人に限るべきではない。 この点においてマタ16:18(ペテロ一人)。エペ2:20(使徒と預言者)。Tコリ3:10(パウロ)参照。 唯十二使徒なる名称の中にイエスの選びとその任命との観念および十二の族と共に神の国を表徴する数に因んでいることを注意すべきである。
21章15節
口語訳 | わたしに語っていた者は、都とその門と城壁とを測るために、金の測りざおを持っていた。 |
塚本訳 | 私に語る者は都とその門と城壁とを測るために金の間棹の尺度を持っていた。 |
前田訳 | わたしと語るものは金の測り竿を持っていた。都とその門と城壁をはかるためである。 |
新共同 | わたしに語りかけた天使は、都とその門と城壁とを測るために、金の物差しを持っていた。 |
NIV | The angel who talked with me had a measuring rod of gold to measure the city, its gates and its walls. |
21章16節
口語訳 | 都は方形であって、その長さと幅とは同じである。彼がその測りざおで都を測ると、一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、いずれも同じである。 |
塚本訳 | 都は真四角で、その長さは幅と同じである。彼は間棹で都を一万二千町と測った。長さと幅と高さとは(皆)同じでる。 |
前田訳 | 都は四角で長さは幅と同じであった。彼は都を竿ではかると一万二千スタデオであった。その長さと幅と高さはひとしい。 |
新共同 | この都は四角い形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。 |
NIV | The city was laid out like a square, as long as it was wide. He measured the city with the rod and found it to be 12,000 stadia in length, and as wide and high as it is long. |
21章17節 また
口語訳 | また城壁を測ると、百四十四キュビトであった。これは人間の、すなわち、御使の尺度によるのである。 |
塚本訳 | またその城壁を人間の尺度、すなわち、(この)天使の尺度で百四十四キュビットと測った。 |
前田訳 | 城壁をはかると百四十四ペキュスであった。これは人間の尺度であるが、天使の尺度でもある。 |
新共同 | また、城壁を測ると、百四十四ペキスであった。これは人間の物差しによって測ったもので、天使が用いたものもこれである。 |
NIV | He measured its wall and it was 144 cubits thick, by man's measurement, which the angel was using. |
註解: この3節は都の広袤 を示す。御使は金の間竿 をもって都と石垣とを測った。この都は正立方形であって、その各辺が1万2千スタデイアである。すなわち2千キロメートル余に当る。この尨大なる広袤 は神の都の大きさが殆んど人間の想像を超越することを示し、その正立方形なることは均整、安定、正義、完全等を示し、神の都の性質を表顕している。石垣は144ペークスで約65メートルに当り、都の高さ2千キロメートルに比して不釣合に低いのは神の都の霊的存在としての高さが非常に高く、また、これを囲んで他の襲撃を防禦しまたは他との区別を明示するの必要なきを示すためであろう。石垣を高くするのは、内部の虚弱を示す。そして神の都においては人の尺度は御使の尺度となるのであって、この世の人間の尺度とは全くその趣を異にしているのである。ゆえに我らはこれらの数字をこの世の観念をもって判断してはならない。
辞解
[門] これを測つたことは録されていないけれども石垣よりこれを想像することができる。
[方形] ソロモンの神殿の形(T列6:20)の正立方形なるに因みしものであろう。これを比喩的に四福音書と解しまたは長さ、幅、高さをそれぞれ信望愛にたとえるごときことはこの場合に適当しない。
[一千二百町] 「一万二千町」の誤訳、1町は原語1スタディオンで183メートル余。従って1万2千スタディアは2千2百キロの尨大なる長さとなる。表徴的意味であることは勿論である。ラビの想像の中で最も突飛なりしものといえどもエルサレムの大さはダマスコまでと考えられ、その石垣の高さは47キロと考えられたに過ぎなかつた。「石垣」の高さがこれに対して不釣合なる点より、これを石垣の厚さと解せんとする説あれど、特にこれを明示せざる故やはり高さと見るを可とすべく、この不釣合なる点に上記註のごとき意味あるものと解してかえって表徴の妙味が存する
[人の度 すなはち御使の度 ] 一般に御使の用いし尺度も普通の人間の尺度と同一であることを示すと解せられているけれども、予は上掲のごとくに解した。なおこの尺度は前二節に関するものと見るを可とす。
21章18節
口語訳 | 城壁は碧玉で築かれ、都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。 |
塚本訳 | 城壁の建築は碧玉、都は潔い玻璃に似た純金である。 |
前田訳 | 城壁の基は碧玉で、都は透明なガラスに似た純金であった。 |
新共同 | 都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。 |
NIV | The wall was made of jasper, and the city of pure gold, as pure as glass. |
註解: 神の都の美わしさ、貴さ、明朗透徹 にして隠れたる何物もなきこと、永遠に不汚不朽不変なること等を形容せるもの(イザ54:11、12)。
21章19節
口語訳 | 都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、 |
塚本訳 | 都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られている──第一の土台石は碧玉、第二は青玉、第三は玉髄、第四は緑玉、 |
前田訳 | 都の城壁の土台はあらゆる宝石で飾られている。第一の土台は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四は緑玉、 |
新共同 | 都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、 |
NIV | The foundations of the city walls were decorated with every kind of precious stone. The first foundation was jasper, the second sapphire, the third chalcedony, the fourth emerald, |
21章20節
口語訳 | 第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。 |
塚本訳 | 第五は赤縞瑪瑙、第六は赤瑪瑙、第七は貴橄欖石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十は緑玉髄、第十一は風信子石、第十二は紫水晶。 |
前田訳 | 第五は赤じまめのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉(おうぎょく)、第十は緑玉髄(りょくぎょくずい)、第十一は風信子(ヒアシンス)石、第十二は紫水晶である。 |
新共同 | 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。 |
NIV | the fifth sardonyx, the sixth carnelian, the seventh chrysolite, the eighth beryl, the ninth topaz, the tenth chrysoprase, the eleventh jacinth, and the twelfth amethyst. |
註解: 新エルサレム市の美観をこれによりて想像することができる。この各の宝石に一々表徴的意味を附けることは不可能でもあり、また著者の意思でもないであろう。唯神の都においてはその構成分子をなす各人は各々その特色を発揮しつつ神の都の市民となり、しかもこれ等が相合して一大美観を呈することを示すものと見ることを得、また神の都の構成分子はその一つ一つが非常に高貴にして宝玉のごとくであることを示していると考えることができる。
辞解
[十二種の宝石] この中、第三、五、十、十一の四種を除きその他の八種は祭司の胸牌(むねあて、出28:15−21)の十二の宝石中の八種に一致しているけれども順序は異なる。これおそらく祭司の胸牌と同一視せられざるようにとの用意であろう。ただしこの十二種の宝石が今日の何石に相当するかは明瞭ならざるものが多いので種々の説がある。(なおイザ54:11。出28:17以下、エゼ28:13参照)。
21章21節
口語訳 | 十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。 |
塚本訳 | また十二の門は十二の真珠で、門の一つ一つはそれぞれ一つの真珠であった。また都の大通りは透き徹る玻璃のような純金であった。 |
前田訳 | 十二の門は十二の真珠であり、それぞれの門はひとつの真珠でできていた。都の広場は透明なガラスのような純金であった。 |
新共同 | また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。 |
NIV | The twelve gates were twelve pearls, each gate made of a single pearl. The great street of the city was of pure gold, like transparent glass. |
註解: 門が一の真珠より成ることは当時のラビの文書にも存している。都の美しさを示し、大路の材料は18節註を見よ、かくして新しきエルサレムは全く純金と純宝石類とをもって造られていることがわかる。
辞解
[真珠] 旧約聖書においては宝石の中に数えられて居ないけれども新約においてはしばしば現われており (マタ7:6。マタ13:46。Tテモ2:9) 当時も貴重なるものと考えられていた。
21章22節 われ
口語訳 | わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。 |
塚本訳 | 都の中には宮を見なかった。全能者たる主なる神と仔羊とがその宮であるからである。 |
前田訳 | わたしは都で宮を見なかった。主なる全能の神と小羊がその宮である。 |
新共同 | わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。 |
NIV | I did not see a temple in the city, because the Lord God Almighty and the Lamb are its temple. |
註解: 宮 naos は聖所にしてその中で神と人とが相逢う場所である。神と羔羊 とが至聖所であるということは人はみな神の中におりまたキリストの中にいることおよび神および羔羊 が我らと共に在し給う処は凡てみな聖所であることを意味す。 ヨハ15:4。ヨハ14:20、ヨハ4:21−23 の思想と一致する。なお神および羔羊 を宮(至聖所)と称するを見ても本書の用語が如何に霊的に抽象的に用いられているかを見ることができる。
21章23節
口語訳 | 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。 |
塚本訳 | また都はそれを照らすのに太陽をも月をも必要としない。神の栄光がそれを照らし、仔羊がその燈火であるからである。 |
前田訳 | 都はそこを照らすために日も月も要しない。神の栄光が都を輝かせた。その明かりは小羊である。 |
新共同 | この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。 |
NIV | The city does not need the sun or the moon to shine on it, for the glory of God gives it light, and the Lamb is its lamp. |
註解: 神は光なり(Tヨハ1:5)キリストは真の光なり(ヨハ1:9)。然るにこの世の神なるサタンはこの光を覆うた(Uコリ4:4)。今やサタンのいなくなった神の都においては、この光が照さぬ隈なく輝くに至った。神の光を受けて凡てが明くなる(イザ60:19。なお黙22:5参照)。なお、日、月を栄光および燈火と変化したのはキリストを月にたとえることの不適当を感じたからであろう(S3)。
21章24節
口語訳 | 諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。 |
塚本訳 | 諸国の民はその光の中を歩むであろう。また地の王達は彼らの(有つ凡ての)光栄をここに持って来る。 |
前田訳 | 諸国民はその光の中を歩み、地の王たちはおのが栄光をそこにもたらす。 |
新共同 | 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。 |
NIV | The nations will walk by its light, and the kings of the earth will bring their splendor into it. |
註解: 新しきエルサレムにおいては、ユダヤ人と異邦人というごとき人種の区別がなく異邦人もみなその光の中を歩み、また各人の地上における栄光はこの都の中においても消失しない。ちなみにすでに18、19章において全世界が審判 かれ死ぬべきものは第二の死に入り、生くべきものは復活せること故、今また新に諸国民や地の王たちがここに入り来ることは不審であるけれども、これはヨハネがイザ60章のごとき旧約の預言の語法を用いたためであり、そしてその意味は現在新しきエルサレム以外にかかる民や王がいるというのではなく、かつて諸国民すなわち異邦人であった者、また地の諸王たちも今はそのまま新エルサレムの都に入りおることを示す。すなわちこの都の普遍性を明かにしたのである。新しきエルサレムはユダヤ人のみの専有でもなくまたその支配の下にあるのでもない。
21章25節
口語訳 | 都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。 |
塚本訳 | その門は一日中決して閉ざされないであろう、其処には夜が無いのである。 |
前田訳 | 都の門は終日閉ざされない。そこには夜がないからである。 |
新共同 | 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。 |
NIV | On no day will its gates ever be shut, for there will be no night there. |
註解: 出入りの自由なることを示す(イザ60:11、20。ヨハ10:9註参照)。もはやこの都に入り得ざるごとき民は無く、また外敵の侵入の憂いもなき故この都の門は終日閉じない、また門を閉じるのは夜であるが夜なき都故閉じる必要はない。夜はサタンの世界である(ロマ13:12。エペ5:11)。
辞解
[此処に夜あることなし] 「そはそこに夜なければなり」。
21章26節
口語訳 | 人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。 |
塚本訳 | 諸国の民はその光栄と栄誉とをここに持って来るであろう。 |
前田訳 | 諸国民の栄光と誉れがそこへもたらされよう。 |
新共同 | 人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。 |
NIV | The glory and honor of the nations will be brought into it. |
註解: 地の王たち(24節)のみならず諸国の民、異邦人もその光栄と尊貴とを携えてこの都に来る。ユダヤ人にも異邦人にもそれぞれ独特の栄光がありまた尊さがある。かくして新しきエルサレムは神の造り給い救い給える全人類の栄光と尊貴とその他のあらゆる美観とをもって充されるであろう。一人としてこの都の飾りに役立たない人間はない。
21章27節
口語訳 | しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。 |
塚本訳 | しかし凡ての穢れたもの、嫌悪むべきことと虚偽とをする者は、決してここに入れない。ただ仔羊の生命の書に(その名を)書かれている者だけがここに入るであろう。 |
前田訳 | およそ汚れたもの、いまわしいことや偽りを行なうものは、決してそこに入れない。入れるのは小羊のいのちの書にしるされているものだけである。 |
新共同 | しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。 |
NIV | Nothing impure will ever enter it, nor will anyone who does what is shameful or deceitful, but only those whose names are written in the Lamb's book of life. |
註解: 黙21:8。黙22:15と同じく新しきエルサレムに入り得ざる者の種類を示して読者を警戒している。この内容は黙20:11−15と同一事であって、これがかくしばしば繰返されることは、ヨハネがこれによりて読者を潔めんとする希望の顕われであり、本書の録されし根本の目的がここにあることが判る(イザ35:8。イザ52:1。エゼ44:9)。なお本節により、凡て悪を行う者は生命の書に録されていない者であることがさらに一層明かとなる。
辞解
[穢れ] 旧約における儀式的意義より新約において道徳的意義に進化した。
[憎むべきこと] 黙17:4辞解参照。
[虚偽] ヨハネの最も嫌える処、信仰の正反対、8節辞解参照。
要義1 [新しきエルサレムの実相]9−27節に録される新しきエルサレムの実相を想像するに、ここに掲げられる形状その大さ、その材料等は何れもみな表徴的であることは明かである。2千2百キロの高さに達する都市、一つの真珠をもって造れる門、透明なる金等何れも表徴的表顕法によることは明かである。それ故にこれを基礎として新しきエルサレムの実際を叙述するならば、その都は神およびキリストの完全なる支配の下にある一家族であり、神とその民との間には完全なる愛と霊の一致があり、その美しさは現在地上の最も美わしきものをことごとく一つに集めたよりもさらに美しく、その基礎は十二使徒によりて伝えられし信仰であり、その全体は霊のイスラエルであり、そして天下の万民にして生命の書に記されるものはみなこの都に入ることを得るごときものであるというのである。要するに人間の考え得る神人合一の至福境であり、回復せられし楽園であり、新天新地である。神と人との関係として人間の思考し得る最善の境地をヨハネはかかる表徴をもって表顕したものである。
要義2 [新エルサレムの実現は可能なりや]上記要義一のごとくに解する場合においては新エルサレムの実現は可能である。ただしこれは人間の努力によって実現するのではなくキリストの再臨により、サタンが征服されることによりて始めて可能である。故にこの凡ては神の御業と羔羊 の御業であり、唯信仰のみによって受納るべき事柄である。