黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版マルコ伝

マルコ伝第11章

分類
6 イエスの受難週間 11:1 - 15:47
6-1 エルサレムにおけるイエス 11:1 - 12:44
6-1-イ イエスのエルサレム入城 11:1 - 11:11
(マタ22:1-11) (ルカ19:28-40)  

註解: 本章よりイエスの受難週の記事である(マタ21章序註参照)。他の福音書も同様であるがマルコは一層この一週間の記事のために力を尽し全記事の五分の二弱の紙数を費やしている。この一週間の出来事が如何に重要なる地位を弟子たちの心に占めていたかを知ることができる。共観福音書によれば〔第一日─日曜日ニサンの月の十日〕11:1−11。〔第二日─月曜日十一日〕11:12−14(15−19)。〔第三日─火曜日十二日〕11:20−13:37。〔第四日─水曜日十三日〕14:1−11。〔第五日─木曜日十四日〕14:12−16。〔第六日─金曜日十五日〕14:17−15:47。〔第七日─土曜日十六日〕。〔第八日─日曜日十七日〕16:1−8となる。ヨハネとの差異につきてはヨハ19:42附記を見よ。

11章1節 (かれ)らエルサレムに(ちか)づき、オリブ(やま)(ふもと)なるベテパゲ(およ)びベタニヤに(いた)りし(とき)[引照]

口語訳さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、
塚本訳一同がエルサレムの近く、(すなわち)オリブ山の中腹にあるベテパゲとベタニヤとに来ると、イエスはこう言って弟子を二人使にやられる、
前田訳彼らがエルサレムに近づいて、オリブ山のベテパゲとベタニアに来ると、彼は弟子をふたりつかわされる。そのときいわれるには、
新共同一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
NIVAs they approached Jerusalem and came to Bethphage and Bethany at the Mount of Olives, Jesus sent two of his disciples,
註解: 受難週第一日、日曜日、ニサンの月の十日に当る。これよりイエスのエルサレム入城の記事である。イエスはこの入城をゼカ9:9のメシヤ預言の成就なることを意識しことさらにその預言のごとく驢馬に乗って入城し給うた。
辞解
[オリブ山] すなわち橄欖山はエルサレムの東二キロすなわち安息日の行程にあり、海抜九百メートルの高さを有す。その山頂および山腹よりはエルサレムを眼下に一望することを得。
ベテパゲはオリブ山の西側面、ベタニヤは東南の麓にあり、道順よりいえばベタニヤが先であるが弟子たちはこの二つを一括してかく言いならしたのであろう。ベタニヤを後よりの挿入と想像する学者もある。またベテパゲを欠く異本もあり。

イエス二人(ふたり)弟子(でし)(つかは)さんとして()(たま)ふ、

11章2節 『むかひの(むら)にゆけ、其處(そこ)()らば、(やが)(ひと)(いま)()りたることなき驢馬(ろば)()(つな)ぎあるを()ん、それを()きて()(きた)れ。[引照]

口語訳「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。
塚本訳「あの向いの村まで行ってきなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗らない一匹の子驢馬がつないであるのが見える。それを解いて、引いてきてもらいたい。
前田訳「あの向かいの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗らない子ろばがつないであるのが見えよう。それを解いて連れて来なさい。
新共同言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
NIVsaying to them, "Go to the village ahead of you, and just as you enter it, you will find a colt tied there, which no one has ever ridden. Untie it and bring it here.
註解: イエスが如何にしてこの事実を洞見し給いしやにつきては何等の記事がない。驢馬の所有者がイエスの弟子の独りであったと想像する学者(Z0)もあるけれども、福音書の記者がこれにつきて沈黙しているのは、むしろイエスの霊的洞見によれるものと解したのであろう。人の未だ乗りたることなき驢馬の子は民19:2申21:3Tサム6:7などのごとく聖なる用途に用いられるためなり。
辞解
[むかいの村] マタ21:1によればベテパゲを指す。
「驢馬の子」と訳されし pôlon は他の動物の子にも用うる語であるけれども、普通の用い方は驢馬の子を指す。マタ21:2にその母なる驢馬につきても記す。ゼカ9:9に一致せしめんため(L2)であるとしても、事実にあらざるものを附会したのではなく仔馬が母馬と共にいることの事実を詳述したのである。

11章3節 (たれ)かもし(なんぢ)らに「なにゆゑ(しか)するか」と()はば「(しゅ)(よう)なり、(かれ)ただちに(かへ)さん」といへ』[引照]

口語訳もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」。
塚本訳もし『何をするのか』と言う者があったら、『主がお入用です。すぐここにお返しになります』と言えばよろしい。」
前田訳もし、『なぜそうするのか』という人があれば、『主のご用です、すぐまたここにお返しになります』といいなさい」と。
新共同もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
NIVIf anyone asks you, `Why are you doing this?' tell him, `The Lord needs it and will send it back here shortly.'"
註解: この事実もイエスの不思議なる力が未知の驢馬を所有者を動かすものと見なければならない。緊張し透徹し給える当時のイエスにはおそらく一種の遠視的または遠方より他を動かす力が働いていたのであろう。驢馬の主がイエスの弟子団の一人であるとする見方はこの記事を解し易からしめるけれども同時にこの記事よりその魅力を失わしめる。
辞解
[彼ただちに返さん] 異本により原文より「再びここに」 palin hode を除けば「彼ただちに遣さん」となり主の用なりと言えばその人直ちに遣さんとの意味となる(L2)。
[主] 冠詞あり直ちに誰と明示し得る人と指す。この場合弟子たちの言が先方に理解されるや否やは問題にあらざるごとき態度である。

11章4節 弟子(でし)たち()きて、(かど)(そと)(みち)驢馬(ろば)()(つな)ぎあるを()()きたれば、[引照]

口語訳そこで、彼らは出かけて行き、そして表通りの戸口に、ろばの子がつないであるのを見たので、それを解いた。
塚本訳二人が行って見ると、はたして(ある家の)外の通りに向いた戸に、子驢馬がつないであったので、それを解いた。
前田訳ふたりが行くと、外の通りに、戸につながれた子ろばがあったので、それを解いた。
新共同二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
NIVThey went and found a colt outside in the street, tied at a doorway. As they untied it,

11章5節 其處(そこ)()人々(ひとびと)のうちの(ある)(もの)『なんぢら驢馬(ろば)()()きて(なに)とするか』と()ふ。[引照]

口語訳すると、そこに立っていた人々が言った、「そのろばの子を解いて、どうするのか」。
塚本訳するとそこに立っていた人たちが「子驢馬を解いて、何をするのか」と言ったので、
前田訳そこに立っていた人たちがいった、「子ろばを解いて何をするのか」と。
新共同すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
NIVsome people standing there asked, "What are you doing, untying that colt?"

11章6節 弟子(でし)たちイエスの()(たま)ひし(ごと)()ひしに、(かれ)(ゆる)せり。[引照]

口語訳弟子たちは、イエスが言われたとおり彼らに話したので、ゆるしてくれた。
塚本訳イエスに言われたとおりにこたえると、許してくれた。
前田訳ふたりがイエスがいわれたとおりに答えると、そのままにしてくれた。
新共同二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
NIVThey answered as Jesus had told them to, and the people let them go.
註解: 凡てがイエスの告げ給いし通りに実現したことは驚くべき事実であった。人生の行路において我らも我らの行先につき、全く予知し得ずして、唯盲目的にイエスの御言に服従して事を行う時、不思議にもイエスの示す給えるごとき結果となることが多い。弟子たちがイエスに従いし結果そのごとくになった。この事実は将来イエスの弟子として行動する場合、唯一筋にイエスの御言に従って他を顧みずに行くことができた一原因であろう。人は結果を無視して唯主の御言に従って行動すべきである。なおマタイはここにゼカ9:9の預言を引用して、イエスが驢馬に乗りてエルサレムに入城し給うことがゼカ9:9の預言が実現したのであることを附加しているのは、この事実を反省してこの預言の成就と見るべきものとして録されたからである。

11章7節 (かく)弟子(でし)たち驢馬(ろば)()をイエスの(もと)()ききたり、(おの)(ころも)をその(うへ)()きたれば、イエス(これ)()(たま)ふ。[引照]

口語訳そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。
塚本訳二人が子驢馬をイエスの所に引いてきて、自分たちの着物をその上にかけると、イエスはそれに乗られた。
前田訳ふたりが子ろばをイエスのところに連れて来て、自分らの着物を上にかけると、イエスはそれに乗られた。
新共同二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
NIVWhen they brought the colt to Jesus and threw their cloaks over it, he sat on it.
註解: 衣を驢馬の上に置くはイエスに対する尊敬の意思表示であり、軍馬を用いずして驢馬を用いたのは、平和の君の入場として最も相応しき光景であった。ゼカ9:9の預言の意味はこのイエスの入城によりて始めて知られたのである。蓋しイスラエルを救うべき王は軍馬に跨り征服者として入城する大将軍ではなく、柔和にして軛を負う驢馬の子に乗り、王らしからざる姿において来給う王であることを示す。単にイスラエルのみならず、世界を救い世界を征服する王はこのイエスである。

11章8節 (おほ)くの(ひと)(おの)(ころも)を、(ある)(ひと)()より()()りたる()(えだ)(みち)()く。[引照]

口語訳すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。
塚本訳大勢の者は着物を道に敷いた。野原から小枝を切ってき(て敷い)た者もあった。
前田訳多くの人が自分らの着物を道に敷いた。あるものは野原から切ってきた小枝を敷いた。
新共同多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
NIVMany people spread their cloaks on the road, while others spread branches they had cut in the fields.
註解: エルサレムの群衆はナザレのイエス来ると聞きあらゆる熱心をもって彼を歓迎した。王の入来に際してかくすることが習慣であったのを見れば(U列9:13)、エルサレムの民衆は王を迎うるごとき熱心をもって彼を迎えたのであった。イエスの評判は当時かくもエルサレムに鳴り響いていた。ただしこの群衆は数日の後イエスを十字架に()けよと叫べる群衆であった。

11章9節 かつ(まへ)()(あと)(したが)(もの)ども(よば)はりて()ふ『「ホサナ、()むべきかな、(しゅ)御名(みな)によりて(きた)(もの)[引照]

口語訳そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、「ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。
塚本訳(イエスの)前に行く者もあとについて行く者も、叫んだ。──“ホサナ!、主の御名にて来られる方に祝福あれ。”
前田訳そして先に行くものも、うしろにつくものも叫んだ、「ホサナ。祝福あれ、主のみ名によっておいでの方。
新共同そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。
NIVThose who went ahead and those who followed shouted, "Hosanna! " "Blessed is he who comes in the name of the Lord!"
註解: マタ21:9註参照。ホサナは原音ホーシアーナーで「救い給えかし」の意味なれど、歓呼の声として常用されるに至って必ずしもその原意に従って用いられず、単に「万歳」のごとき意味に用う。本来はハレル歌集の一部をなす詩118:25の語であって、過越の祭、仮廬の祭等にこの歓呼を為す。「主の名によりて」は「主の名において」でメシヤとして来る者の意。かくして群衆はイエスを主の名において来る者すなわちメシヤとして歓迎したのである。

11章10節 ()むべきかな、(いま)(きた)(われ)らの(ちち)ダビデの(くに)。「いと(たか)(ところ)にてホサナ」』[引照]

口語訳今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
塚本訳来たるわれらの父ダビデの国に祝福あれ。いと高き所に“ホサナ!”
前田訳祝福あれ、来たるべきわれらの父ダビデの国。いと高き所にホサナ」と。
新共同我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
NIV"Blessed is the coming kingdom of our father David!" "Hosanna in the highest!"
註解: 群衆はダビデの国すなわちメシヤによりて回復せらるべきダビデ王国の再建がこのイエスによりて為されることを信じてこの叫びを掲げ、いと高き処に在す神に向いて「救いたまえかし」(ホサナ)の祈りをあげたのであった。イエスはこの群衆の歓呼の中を驢馬に跨り静々として入城し給うたのであった。
辞解
[父ダビデの国] ダビデはイスラエル王国の理想の王であり、その国の永続はエホバの約束し給える処であった。而してイスラエルの民はその再建はこれをメシヤに期待して熱心に待ち望んでいたのを、今その実現を見ることができるとして歓呼しているのである。しかしながらイエスの建て給う国は彼らの期待せるがごとき国ではなかった。

11章11節 (つい)にエルサレムに(いた)りて(みや)()り、(すべ)ての(もの)見囘(みまは)し、(とき)はや(くれ)(およ)びたれば、十二(じふに)弟子(でし)(とも)にベタニヤに()()きたまふ。[引照]

口語訳こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。
塚本訳やがてエルサレムについって宮に入られた。隅なく見てまわれたのち、時間もはやおそくなったので、十二人を連れてベタニヤに出てゆかれた。
前田訳彼はエルサレムに来て宮に入った。イエスはすべてを見まわってから、はや時もおそくなったので、十二人とベタニアへと出て行かれた。
新共同こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
NIVJesus entered Jerusalem and went to the temple. He looked around at everything, but since it was already late, he went out to Bethany with the Twelve.
註解: 宮に入りて凡ての物を見廻し給える時イエスの心中すでに悲憤に充ちていたものと思われる。蓋しこの宮は紀元前二十年頃にヘロデ大王によりて起工せられし大工事であって、イエスの伝道の当初すでに四十六年を経過していた(ヨハ2:20)けれども未だ竣工しなかった。その輪奐(りんかん)の美なるにもかかわらずユダヤ人の心の中にはエホバを信ずる信仰の一片だになく、唯パリサイ的形式主義と異邦的利慾主義とが支配していた。これを見廻してイエスの御心は耐え切れない悲憤に充されたのであった。その翌日無花果の樹を枯らし給えるも、また宮を潔め給えるもみなこの悲憤の結果であったと見るべきである。マタイ伝は宮潔めをこの第一日にありしごとくに録しているけれども、おそらくマルコ伝の方が事実であろう。
辞解
[宮] hieron は神殿地域の全部を指す。
要義1 [イエスの御言に対する信従]イエスの御言のままを実行することが果して最善の結果を来すや否や、また如何なる結果を生ずるやも不明である場合がある。否、多くの場合イエスの御言のままを実行することがかえって不結果を来すごとくに思われる。しかしながらイエスを信じその御言のままに(したが)う者には、不思議にも思わざる良結果が与えられるのである。驢馬を()きに行ける弟子たちの態度もこれであった。雲を掴むごときイエスの御言も、これを実行することによりて最も確実なる事実となった。
要義2 [人民の声は神の声なりや]Vox populi vox Dei なる格言は有名であり、かつそれが事実である場合も存在することは確実である。しかしながら神の国の事柄に関しては人民の声は必ずしも神の声ではない。性来(うまれつき)の人は神の御霊のことを知らず、従って彼らの声は神の声ではない。それ故に神の国のことにつき群衆の向背(こうはい)を意に介することは誤っている。イエスのエルサレム入城に際して心より歓呼の叫びをあげし群集はやがてまた彼を十字架につけた群集であった。群集は欺かれやすい、神の国の民は神の声を聴くべきで群集の声を聴くべきではない。 
要義3 [何故イエスはエルサレムに入り給いしや]真理を宣伝うるに必ずしもエルサレムにおいてするを要せずと考うることも不可能ではない。真理は到る処において真理だからである。然りとすれば何故イエスはわざわざ危険を冒してエルサレムに入り給うたのであるか。これイエスの唱うる真理に対し、その最後の敵はエルサレムに巣喰う処の教権主義であったからである。この教権主義と正面より衝突することによりて始めてイエスの教えの何であるかが明かにせられたのであって、もしこのことが無かったならばイエスの教えは単に一種の主張として一地方に無事に唱えられたに過ぎず、ついにその真面目(しんめんぼく)を発揮することを得ずに終ったであろう。ユダヤの教権主義をその本拠において衝き、これと戦うことによりて始めてイエスの教えの真相が明かにされたのである。イエスが王者の態度をもってエルサレムに入り給いしことの意義はこれによりても知ることができる。

6-1-ロ 無花果の樹を詛い給う 11:12 - 11:14
(マタ21:18-20)   

註解: 無花果の樹を枯らし給える奇蹟は、イエスがエルサレムにおいて行い給いし唯一の奇蹟である点において特に注意を要するのみならず、それが刑罰を意味する奇蹟である点において一層の興味がある。

11章12節 あくる([引照]

口語訳翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。
塚本訳あくる日、弟子たちとベタニヤから出てくるとき、イエスは空腹であった。
前田訳あくる日、彼らがベタニアから出てくると、イエスは空腹であった。
新共同翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
NIVThe next day as they were leaving Bethany, Jesus was hungry.
註解: 受難週の第二日(月曜日ニサンの月の十一日)であった。

)かれらベタニヤより()(きた)りし(とき)、イエス()(たま)ふ。

註解: イエスの自然性には我らと異なる処のものが無かった。

11章13節 (はるか)()ある無花果(いちぢく)()()て、()[をや()んと](もや()らんと)()のもとに(いた)(たま)ひしに、()のほかに(なに)をも見出(みいだ)(たま)はず、(これ)無花果(いちぢく)(とき)ならぬに()る。[引照]

口語訳そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。
塚本訳それで葉のしげった無花果の木を遠くから見て、何か(実が)ありはしないかとそこに行かれた。が行って見ると、葉ばかりで何もなかった。(まだ)無花果の季節でなかったのである。
前田訳葉のあるいちじくの木を遠くから見て、何かあろうとそこに行かれた。しかしそこへ行かれると、葉のほかに何もなかった。いちじくの季節でなかったのである。
新共同そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
NIVSeeing in the distance a fig tree in leaf, he went to find out if it had any fruit. When he reached it, he found nothing but leaves, because it was not the season for figs.
註解: 四月頃は無花果の季節ではない。従って多くの無花果の樹には、果も葉も共に無いのが普通である。然るに偶然遙かに葉のある無花果をイエスは見出し給うた。葉が存する以上果実もあるやも知れずと期待することは無理ではない。しかし季節にあらざる故果実が存しないこともまた当然であった。

11章14節 イエスその()(むか)ひて()ひたまふ『(いま)より(のち)いつまでも、(ひと)なんぢの()(くら)はざれ』弟子(でし)たち(これ)()けり。[引照]

口語訳そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
塚本訳イエスはその木に言われた、「もはやいつまでも、だれもお前の実を食べることのないように!」弟子たちは(この呪いの言葉を)聞いていた。
前田訳そこで木にいわれた、「これから永遠にだれもおまえの実を食べないように」と。弟子たちはそれを聞いていた。
新共同イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
NIVThen he said to the tree, "May no one ever eat fruit from you again." And his disciples heard him say it.
註解: イエスは葉のみ繁りて果のなき無花果を見て、直ちにイスラエルの信仰的堕落を連想し給うた、昨夕宮を見廻して悲しみにたえざりし思いが勃然として彼の心に浮び出でた。無花果は葡萄と共にイスラエルの最も重要な産物であり、イスラエルと密接なる関係を持てるものであった。イエスはこの無花果をあたかもイスラエルの状態を示すもののごとくに思い給うた。蓋しイスラエルは宗教的形式を豊富に所有しながらその中に真の信仰を見出し得なかったからである。
附記 マタイ伝には(マタ21:18−19)この記事を簡略にし無花果の季節にあらざることを省略し、また無花果は立ちどころに枯れたるごとくに録している。おそらくマルコ伝の記事が事実を示しているのであろう。なお当然果の有るべからざる無花果を、果なき故をもって詛い給えることはイエスらしからざるをもって13節を種々に曲解してこの困難を除かんとし(M0参照)、またはこの記事全体を後世の作話とする説等あれど(L2参照)、かくする必要もなく、またかくすべき確実なる証拠もない。イエスはこの特種の無花果を見てイスラエルの信仰を連想し、この無花果を詛い給える処に、彼の激しき性格と、道学先生以上の自由さを認めることができる。

6-1-ハ 宮を潔め給う 11:15 - 11:19
(マタ21:12-17) (ルカ19:45-48)  

註解: 宮潔めの記事はマタイ伝には第一日の中に行われしものとして録され、ヨハネ伝にはイエスの伝道の始めに(ヨハ2:13−17)行われしものとして録さる。ただしヨハネ伝の記事は他の事実と見るべきであって(多くの学者はこれに反対す)イエスの名声が未だ充分に顕れざりし当時の出来事として祭司長、学者らの注意に止らなかったのであろう。マタイとマルコとの相違はマルコ伝の方が正確なるもののごとし。なおこの事件をその行われし時日が不明なる一事件であったのを後に福音書の記者が己の適当と思惟する場所に入れたと見る説もあれど、確定的ではない。

11章15節 (かれ)らエルサレムに(いた)る。イエス(みや)()り、その(うち)にて賣買(うりかひ)する(もの)どもを()(いだ)し、兩替(りゃうがへ)する(もの)(だい)鴿(はと)()るものの腰掛(こしかけ)(たふ)し、[引照]

口語訳それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、
塚本訳エルサレムに来た。イエスは宮に入り、宮(の庭)で物を売る者や買う者を追い出し始め、両替屋の台や、鳩を売る者の腰掛を倒された。
前田訳彼らはエルサレムに来た。彼は宮に入り、宮で物を売るものや買うものを追い出しはじめ、両替屋の台や、鳩を売るものの椅子を倒された。
新共同それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。
NIVOn reaching Jerusalem, Jesus entered the temple area and began driving out those who were buying and selling there. He overturned the tables of the money changers and the benches of those selling doves,
註解: 当時は過越の祭の前であったので世界の各地よりユダヤ人は勿論、異邦人も多数集り、これらに犠牲の動物、香油その他犠牲をささぐるために必要なるものを売買し、また各地の通貨をヘブル人の通貨(またはツロの通貨)と交換して宮に納金を為すことを得しめるための両替商もいた。「鴿(はと)」は貧者の供物として必要であった。イエスはこれらの人々の中に利慾より外の何ものも無きを見て、神の宮に相応しからざることの甚しきを思い、これらを逐い払い給うた。神の宮なるイエスはかかる不潔に耐え得ざることを示したのである。

11章16節 また器物(うつは)()ちて(みや)(うち)()ぐることを(ゆる)(たま)はず。[引照]

口語訳また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。
塚本訳(また近道をするために)器物を持って宮(の庭)を通り抜けることを許されなかった。
前田訳そして器を持って宮を通り抜けるのをおゆるしにならなかった。
新共同また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
NIVand would not allow anyone to carry merchandise through the temple courts.
註解: マルコ伝特有の一句。宮を潔く保つための規則として古くより定められている規則であった。後にユダヤ人の会堂においてもこの規則が行われた。イエスがかかる形式を重んじ給うたことは不思議のようであるけれども、宮を潔むべきことを教うるがためには当時の人々にとりてかくすることが最善の方法であった。

11章17節 かつ(をし)へて()(たま)ふ『「わが(いへ)は、もろもろの國人(くにびと)(いのり)(いへ)(とな)へらるべし」と(しる)されたるにあらずや、(しか)るに(なんぢ)らは(これ)を「強盜(がうたう)()」となせり』[引照]

口語訳そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。
塚本訳それからこう言って教えられた、「“わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである”と(聖書に)書いてあるではないか。ところがあなた達はそれを“強盗の巣”にしてしまっている。」
前田訳そして彼らを教えていわれた、「『わが家はすべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである』と書いてあるではないか。しかるにあなた方はそれを強盗の巣にしてしまった」と。
新共同そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」
NIVAnd as he taught them, he said, "Is it not written: "`My house will be called a house of prayer for all nations' ? But you have made it `a den of robbers.' "
註解: イエスは旧約聖書の二箇所を引用して、その宮潔めの意義を示し給うた。前者はイザ56:7より後者はエレ7:11よりの引用で、神の宮の本質が万国民の祈りの家たるべきにもかかわらずあたかも強盗の巣のごとく、利慾のみを追うものの集合所となっていることを嘆き給うた。
辞解
マタイ伝およびルカ伝に「もろもろの国人の」を省略せる所以は不明である。この二書をエルサレム陥落以後の作と見る学者は、神殿の存在せざるためこれを省略せりとなす。かく見るよりもむしろこの際異邦人なる思想をここに混入せしむる必要なき故にこれを省けるものと見るを可とす。

11章18節 祭司長(さいしちゃう)學者(がくしゃ)(これ)()き、如何(いか)にしてかイエスを(ほろぼ)さんと(はか)る、それは群衆(ぐんじゅう)みなその(をしへ)(をどろ)きたれば、(かれ)(おそ)れしなり。[引照]

口語訳祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群衆がみなその教に感動していたので、イエスを恐れていたからである。
塚本訳大祭司連と聖書学者たちはこれを聞いて、どうしてイエスを殺そうかと(その手段を)考えていた。民衆が皆その教えに感心しきっていたので、イエス(の勢力)を恐れたのである。
前田訳大祭司と学者はそれを聞いて、どうして彼を殺そうかと考えていた。群衆が皆その教えに魅せられていたので、彼をおそれたのである。
新共同祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。
NIVThe chief priests and the teachers of the law heard this and began looking for a way to kill him, for they feared him, because the whole crowd was amazed at his teaching.
註解: 宮が不潔に保たれることによりて利益を得るものは祭司長、学者らであり、彼らにはこれを恥ずるだけの良心が無かった。彼らの恐れる処は民衆が正義に目覚めて彼らの行動を批判するに至らんことであった。而してイエスは権威をもって民衆を教え、民衆は強く彼に引付けられるを見て彼らは甚しくイエスを懼れ、これを殺さんと図るに至った。
要義 [宮潔めの目的]宮潔めの行為は柔和をもって一貫し給えるイエスには相応しからぬごとくに見えるけれども、イエスは(さば)き主として凡ての悪の上にその怒りを注ぎ給う時が必ず来るのである。これが羔羊の怒り(黙6:16)であって、イエスは最後にその大なる怒りをもってその宮なる全世界を潔め給う。而してその予表的意味においてエルサレムの宮を潔め給うたのは、ユダヤ人の良心が麻痺して宮の神聖さを感じないようになったからであった。最も聖なるべきものに対して聖なる感覚を失うことは、人間としての堕落の最も大なるものである。なおイエスはこの宮潔めによりて、イスラエルの祭司、長老、学者らのごとき不潔なる存在が如何に真の神の宮を汚しつつあるかを示し給うた。なおマタ21:17要義参照。

11章19節 (ゆふべ)になる(ごと)に、イエス弟子(でし)たちと(とも)(みやこ)()でゆき(たま)ふ。[引照]

口語訳夕方になると、イエスと弟子たちとは、いつものように都の外に出て行った。
塚本訳夕方になると、イエス達はいつも都を出て(ベタニヤに)いった。
前田訳夕方になると、イエスらは町を出て行った。
新共同夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。
NIVWhen evening came, they went out of the city.
註解: 祭のために上京せる巡礼者の群も同様であった。この際イエスの宿所はベタニヤ(マタ21:17)であった。ルカ21:37にはオリブ山とあるのも同一の場所を指したのであろう。ベタニヤはイエスにとりては沙漠中のオアシスであった。

6-1-ニ 無花果の枯れし事及信仰の力 11:20 - 11:25
(マタ21:20-22)   

11章20節 (かれ)(あさ)(はや)(みち)をすぎしに、無花果(いちぢく)()()より()れたるを()る。[引照]

口語訳朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た。
塚本訳(次の)朝早く、通るときに見ると、(きのうの)無花果の木は根元から枯れていた。
前田訳翌朝早く、彼らは通りがかりにいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
新共同翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
NIVIn the morning, as they went along, they saw the fig tree withered from the roots.
註解: 受難週第三日の朝火曜日である(ニサンの月の十二日)。昨日まで葉が繁っていた無花果がイエスに詛われて急に枯れたのであった。イエスの能力が自然界の物質的現象に及べることは聖書にしばしば録されるとおりである。イエスにこの独特の力が備わっていたこと、而してこれが父なる神に対する信仰より出でたことは争い得ない事実である。奇蹟を否定せんとする者はイエスにかかる能力が備わっていた事実の存在を否定し、またその可能なることをも否定しなければならない。
辞解
マタイ伝には無花果が直ちに枯れたとして録されている。イエスの奇蹟力を強調せんとしたのであろう。

11章21節 ペテロ(おも)()して、イエスに()ふ『ラビ()(たま)へ、(のろひ)(たま)ひし無花果(いちぢく)()()れたり』[引照]

口語訳そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」。
塚本訳ペテロは思い出してイエスに言う、「先生、御覧なさい、お呪いになった無花果は枯れています。」
前田訳ペテロは思い出して彼にいう、「先生、ごらんください、お呪いになったいちじくの木が枯れています」と。
新共同そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
NIVPeter remembered and said to Jesus, "Rabbi, look! The fig tree you cursed has withered!"
註解: マタ21:20には全弟子たちの質問の形においてこのことが記されている。例によりてペテロが全弟子の代言者の役をつとめたのであった。

11章22節 イエス(こた)へて()(たま)ふ『(かみ)(しん)ぜよ。[引照]

口語訳イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。
塚本訳イエスが彼らに答えられる、「神(の力)を信ぜよ。
前田訳イエスは答えられた、「神を信ぜよ。
新共同そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
NIV"Have faith in God," Jesus answered.

11章23節 (まこと)(なんぢ)らに()ぐ、(ひと)もし()(やま)に「(うつ)りて(うみ)()れ」と()ふとも、()()ふところ(かなら)()るべしと(しん)じて、(こころ)(うたが)はずば、その(ごと)()るべし。[引照]

口語訳よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
塚本訳アーメン、わたしは言う、だれでもこの山に向かい、『立ち上がって海に飛び込め』と言って心に疑わず、自分の言うことは成ると信ずるならば、そのとおりになる。
前田訳本当にいう、だれでも、この山に向かって、立って海に飛び込め、といって、心に疑わず、いうことが成ると信ずるものは、そのとおりかなえられよう。
新共同はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
NIV"I tell you the truth, if anyone says to this mountain, `Go, throw yourself into the sea,' and does not doubt in his heart but believes that what he says will happen, it will be done for him.
註解: 神を信じ、神必ずこれを成し給うべしと信じて疑わずにいる時は偉大なる力がそこから生じて来る。力の秘訣はこの信仰である。而してこの信仰は一見不可能に見ゆることをも可能ならしむるものであり、イエスはこの大なる真理を「山を移す」ことの譬をもって弟子たちに教え給うた。
辞解
[此の山] オリブ山を指して語り給うたのであろう。山を移すことは文字通りに解すべきでないことはマタ5:29、30。マタ6:3等におけると同様なり。イエスの示さんとし給える処は、不可能を可能ならしむる信仰の力の偉大さであった。
[疑ふ] diakrinomai は心が二つに分れて統一せざること。

11章24節 この(ゆゑ)(なんぢ)らに()ぐ、(すべ)(いの)りて(ねが)(こと)は、すでに()たりと(しん)ぜよ、()らば()べし。[引照]

口語訳そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。
塚本訳だからわたしは言う、(神に)祈り求めるものはなんでも、すでに戴いたと信ぜよ。そうすればそのとおりになる。
前田訳それゆえわたしはいう、祈り求めるものは皆得たと信ぜよ、そうすればそのとおりかなえられよう。
新共同だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
NIVTherefore I tell you, whatever you ask for in prayer, believe that you have received it, and it will be yours.
註解: 信仰と信頼の極致である。イエスは父なる神に対して常にこの態度を取り給うたものと思われる。主の御名によりて求むることは神必ずこれを成し給うと信じ切っている場合神はこれを無視することができない。祈祷の秘訣はここにある。疑いつつ神に求むるものはついに与えられない。

11章25節 また()ちて(いの)るとき、(ひと)(うら)(こと)あらば(ゆる)せ、これは(てん)(いま)(なんぢ)らの(ちち)の、(なんぢ)らの過失(あやまち)(ゆる)(たま)はん(ため)なり』[引照]

口語訳また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。〔
塚本訳なお立って祈っている時に、だれかに恨みがあったら赦してやれ。これは天の父上からも、あなた達の過ちを赦していただくためである。」
前田訳立って祈っているとき、だれかにうらみがあればゆるせ。天にいますあなた方の父があなた方の過ちをおゆるしになるためである」と。
新共同また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
NIVAnd when you stand praying, if you hold anything against anyone, forgive him, so that your Father in heaven may forgive you your sins. "
註解: 〔26なし〕神に信頼することは自己の罪を認むるの結果であり、このことは同時に人の罪を赦しこれに対する怨みを忘れしめる。而して神の愛をもってこれを(ゆる)さんとの心が生ずるに至るものである。かく神に信頼して凡ての人に愛をもって対する時、天の父は我らの罪をも赦し給うに相違ない。信仰の力は他を動かし自己を動かし、ついに自己の救いに至らしむるものである。
辞解
本節は前との連絡が甚だ拙である。おそらく「祈」に関することが顕われし序をもって著者がここに編入したものであろう。イエスはこれを他の機会に語り給うたものなるべく、マタ6:5は適当なる場合である。
要義 [審判の奇蹟]無花果を枯し給える奇蹟は、罪無き植物に向って怒りを発し給える点、およびイエスの奇蹟は多く愛の心より出でしものなるにもかかわらず、この奇蹟は怒りより出でし点、および求むべからざる時期に果実を求めつつ、その果実なきを怒れる点においてイエスらしからざるものとして非難される処の奇蹟である。この意味においては宮潔めの行為もまた同様の批判の下に立たしめられる。しかしながらイエスは救い主であると共にまた審判主に在し給う。また形式のみ完備していながら善行の果実を結ばざるイスラエルの不信は必ず(さば)かれなければならない。イエスはこの心持を無花果の上に示して、来るべき審判を予告し、もってイエスに詛われる者の運命を示し給うた。マタ21:22要義参照。

11章26節 [なし][引照]

口語訳もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださらないであろう〕」。
塚本訳(無し)
前田訳〔もしあなた方がゆるさねば、天にいますあなた方の父もおゆるしになるまい〕。
新共同(†底本に節が欠落 異本訳)もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。
NIV

6-1-ホ 権威問答 11:27 - 11:33
(マタ21:23-27) (ルカ20:1-8)  

註解: 本節より12章の終りに至るまで、数箇の重要なる論議を掲げ、当時のユダヤ教の重大関心を有する諸点に関しイエスの思想を表明している。

11章27節 かれら(また)エルサレムに(いた)る。[引照]

口語訳彼らはまたエルサレムにきた。そして、イエスが宮の内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、みもとにきて言った、
塚本訳またエルサレムに来る。イエスが宮の中をぶらついておられると、大祭司連、聖書学者、長老たちがよって来て
前田訳彼らはまたエルサレムに来た。彼が宮の中をお歩きのとき、大祭司、学者、長老らがおそばへ来て、
新共同一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、
NIVThey arrived again in Jerusalem, and while Jesus was walking in the temple courts, the chief priests, the teachers of the law and the elders came to him.
註解: エルサレムの民に神の国の福音を伝えんがためであった。

イエス(みや)(うち)(あゆ)(たま)ふとき、祭司長(さいしちゃう)學者(がくしゃ)長老(ちゃうらう)たち御許(みもと)(きた)りて、

註解: 「長老」は祭司長、学者と共に衆議所の役員である。すなわち衆議所の役員たちが打揃ってイエスを攻撃せんとして来たのであった。

11章28節 (なに)權威(けんゐ)をもて(これ)()(こと)をなすか、()(これ)()(こと)()すべき權威(けんゐ)(さづ)けしか』と()ふ。[引照]

口語訳「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。
塚本訳言った、「なんの権威で(きのうのような)あんなことを(宮で)するのか。だれがそれをする権威を授けたのか。」
前田訳彼にいった、「何の権威であのようなことをするのか。だれがああする権威を与えたのか」と。
新共同言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
NIV"By what authority are you doing these things?" they asked. "And who gave you authority to do this?"
註解: 職業的宗教家や、宗教政治家は人間より出づる権威または制度によりて与えられる権威を絶対視し、神より出づる権威に対して盲目でありかつこれを迫害する。彼らは自ら人より出づる権威を所有することを誇り、イエスがこれを所有せざるの故をもってイエスの行動の違法を指摘し、これを理由としてイエスを亡ぼさんとした。職業宗教家は常にかくのごとくにして真の信仰を迫害する。
辞解
[此等のこと] 主として宮潔めの行為を指すけれども、なおイエスが人々を教え給うこと、また王者のごとくエルサレムに入城し給えること等をも含むものと見ることを得。

11章29節 イエス()(たま)ふ『われ一言(ひとこと)なんぢらに()はん、(こた)へよ、()らば(われ)(なに)權威(けんゐ)をもて、(これ)()(こと)()すかを()げん。[引照]

口語訳そこで、イエスは彼らに言われた、「一つだけ尋ねよう。それに答えてほしい。そうしたら、何の権威によって、わたしがこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。
塚本訳イエスは言われた、「では一つ尋ねる。それに答えよ。その上で、なんの権威でそれをするかを言おう。
前田訳イエスはいわれた、「ではひとつたずねよう。それに答えれば、何の権威でわたしがああするかをいおう。
新共同イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
NIVJesus replied, "I will ask you one question. Answer me, and I will tell you by what authority I am doing these things.

11章30節 ヨハネのバプテスマは、(てん)よりか(ひと)よりか、(われ)(こた)へよ』[引照]

口語訳ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」。
塚本訳──ヨハネの洗礼は天(の神)から(授かったの)であったか、それとも人間からか、それに答えよ。」
前田訳ヨハネの洗礼は天からであったか、人からか。答えよ」と。
新共同ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
NIVJohn's baptism--was it from heaven, or from men? Tell me!"
註解: イエスは巧みに敵の弱点を捉えて反問しこれをもって自己の答えとなし給うた。すなわち祭司長、学者、長老たちの関心は唯宗教政治的の方面であって、何が真理なりやを知らんとはせず、唯如何にして自己の勢力を維持せんかに在ったのをイエスは熟知し給うが故に、バプテスマのヨハネの権威如何の問題を提出して彼らに反問し給うた。かくしてイエスは彼らをヂレンマに追いつめ、ヨハネのバプテスマの天よりなることを肯定も為し得ず否定も為し得ざる立場に立たしめ給うた。その理由は次節以下に録されるごとくであって、彼らは正にイエスの術中に陥りイエスに翻弄せられたのであった。真理に立つ者は如何なる場合にも自由あり、虚偽の上に立つ者は常に行詰る。

11章31節 (かれ)(たがひ)(ろん)じて()ふ『もし(てん)よりと()はば「(なに)(ゆゑ)かれを(しん)ぜざりし」と()はん。[引照]

口語訳すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。
塚本訳彼らはひそかに考えた、「もし『天から』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったか』と言うであろうし、
前田訳彼らは内輪で論じあった、「もし天からといえば、『なぜ彼を信じなかったか』といおうし、
新共同彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
NIVThey discussed it among themselves and said, "If we say, `From heaven,' he will ask, `Then why didn't you believe him?'

11章32節 ()れど(ひと)よりと()はんか……』(かれ)群衆(ぐんじゅう)(おそ)れたり、(ひと)みなヨハネを(じつ)預言者(よげんしゃ)(みと)めたればなり。[引照]

口語訳しかし、人からだと言えば……」。彼らは群衆を恐れていた。人々が皆、ヨハネを預言者だとほんとうに思っていたからである。
塚本訳それとも『人間から』と言おうか。」──(だが)民衆(の反対)がこわかった。みんながヨハネをほんとうに預言者だと思っていたからである。
前田訳人から、といおうか」と。しかし彼らは群衆をおそれた。皆がヨハネを本当に預言者と思っていたからである。
新共同しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。
NIVBut if we say, `From men'...." (They feared the people, for everyone held that John really was a prophet.)
註解: 彼らの態度は果してヨハネのバプテスマは天よりの権威によるものなりや否やを究めんとせずして唯如何にして自己の立場を有利に導くべきかにあった。功利主義の立場に立つ宗教団体ほど醜悪なるものはない、彼らは正義の仮面の下に自己の利益を擁護することに汲々たるものである。彼らといえども心中(ひそ)かにヨハネの天的存在たるを認めぬではなかったろう。しかもこれを告白することは、自己の特権の放棄である。さればと言って反対にヨハネを否定する勇気をも有たなかった。人を恐れたからである。天を恐れずして人を恐れる処に職業的教団の特徴がある。

11章33節 (つい)にイエスに(こた)へて『()らず』と()ふ。イエス()(たま)ふ『われも(なに)權威(けんゐ)をもて(これ)()(こと)()すか、(なんぢ)らに()げじ』[引照]

口語訳それで彼らは「わたしたちにはわかりません」と答えた。するとイエスは言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい」。
塚本訳そこで「知らない」とイエスに答える。彼らに言われる、「ではなんの権威であんなことをするか、わたしも言わない。」
前田訳そこで彼らはイエスに答えた、「知らない」と。イエスはいわれる、「それなら何の権威でああするか、わたしもいわない」と。
新共同そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
NIVSo they answered Jesus, "We don't know." Jesus said, "Neither will I tell you by what authority I am doing these things."
註解: 彼らは窮して恥ずべき返答をなし、イエスは何らの返答をも与えずに勝ち給うた。かくしてイエスを追窮せんとして来れるものは自ら窮地に追込められた。
要義 [職業的宗教団体の立場]人間の作成せる団体や組織はこれを維持するために人間より出づる権威とこれに対する服従とを必要とする。これに反し神より出づる権威はかかる人造の団体とその規則とによりて与えられず、神の自由の御旨によりて与えられる。それ故に人間的団体およびその組織を維持せんとすることと、神よりの権威を認めんとすることとは両立しない。人間的のものに神的の仮面を被せてこれを糊塗(こと)するに過ぎない。

マルコ伝第12章
6-1-ヘ 葡萄園の比喩 12:1 - 12:12
(マタ21:33-46) (ルカ20:9-19)  

12章1節 イエス(たとへ)をもて(かれ)らに(かた)()(たま)[引照]

口語訳そこでイエスは譬で彼らに語り出された、「ある人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
塚本訳それから譬をもって彼らに話し出された、「ある人が“葡萄畑をつくって、垣根をめぐらし、(その中に)搾り場をもうけ、(見張りの)櫓を建てた”上、小作人たちに貸して旅行に出かけた。
前田訳イエスは譬えで彼らに話しだされた、「ある人がぶどう園を作って、垣をめぐらし、搾り場をしつらえ、物見やぐらを建て、ぶどう作りに貸して旅立った。
新共同イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
NIVHe then began to speak to them in parables: "A man planted a vineyard. He put a wall around it, dug a pit for the winepress and built a watchtower. Then he rented the vineyard to some farmers and went away on a journey.
註解: イエスは極めて婉曲に次のごとき譬喩をこれらの祭司、学者、長老たちに対して語り給うた。これらは直接にして露骨なる攻撃よりも一層深く彼らの心に打込む力を有つ。

『ある(ひと)葡萄園(ぶだうぞの)(つく)り、(まがき)(めぐ)らし、酒槽(さかぶね)(あな)()り、(ものみ)をたて、農夫(のうふ)どもに()して、(とほ)旅立(たびだち)せり。

註解: イスラエルはしばしば葡萄園に譬えられている。イザ5:1、2。エレ2:21詩80:8−15。イエスはこの譬えをもって神が如何に完全に入念にイスラエルのために備え給いしかを示す。なおB1は「(まがき)」は律法またはイスラエルを他の国民と区別すること。「酒槽(さかぶね)」はエルサレムまたは祭司階級、「(やぐら)」は神の宮または神政政治等と解しているけれども(またその他にも種々の解釈があるけれども)、イエスは果してかく考え給えるや否や不明である故あまりに微細なる比喩的解釈は危険である。「農夫どもに貸して遠く旅立せる」は、イスラエルの民に神の葡萄畑を耕す権を託し給うたことを示す。この神より受けし権を正しく用うる者のみこの葡萄園の特権に与ることができる。

12章2節 (とき)いたりて農夫(のうふ)より葡萄園(ぶだうぞの)所得(しょとく)受取(うけと)らんとて、(しもべ)をその(もと)(つかは)ししに、[引照]

口語訳季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を取り立てさせようとした。
塚本訳(収穫の)時が来たので、小作人から葡萄畑の収穫の分け前を取り立てるために、一人の使用人を小作人の所に使にやった。
前田訳収穫の時に、ぶどう作りからぶどう畑の実の分け前を受け取るために、ひとりの僕をつかわした。
新共同収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
NIVAt harvest time he sent a servant to the tenants to collect from them some of the fruit of the vineyard.

12章3節 (かれ)(これ)(とら)へて()ちたたき、空手(むなで)にて(かへ)らしめたり。[引照]

口語訳すると、彼らはその僕をつかまえて、袋だたきにし、から手で帰らせた。
塚本訳すると、それをつかまえてなぐりつけ、手ぶらでかえした。
前田訳すると僕をつかまえてなぐり、無一文で帰した。
新共同だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
NIVBut they seized him, beat him and sent him away empty-handed.
註解: 僕は預言者を意味す。モーセ、ヨシュア、ダビデ、その他の預言者はみなエホバの僕と呼ばれていた(アモ3:7ゼカ1:6エレ7:25エレ25:4使4:25その他)。彼らはイスラエルをして、その霊的収穫を挙げてこれを神に献げしめんがために遣されたのであった。然るにイスラエルには神に献ぐべき霊的果実は全く無く、否、これを神に献ぐべきものたることすら忘れていた。それ故に彼らは預言者の声を聴くにたえずしてこれを迫害し殺戮した。神に献ぐべきものを私用するものは神より遣されし人の顔を見るに耐えない。ユダヤの歴史は預言者の迫害史であることにつきてはマタ21:35註参照。

12章4節 (また)ほかの(しもべ)(つかは)ししに、その(かうべ)(きず)つけ、かつ(はづか)しめたり。[引照]

口語訳また他の僕を送ったが、その頭をなぐって侮辱した。
塚本訳またほかの使用人を一人やると、それをも頭をなぐり、かつ侮辱した。
前田訳もうひとりの僕をつかわすと、それをも頭をなぐって侮辱した。
新共同そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
NIVThen he sent another servant to them; they struck this man on the head and treated him shamefully.

12章5節 また(ほか)(もの)(つかは)ししに、(これ)(ころ)したり。(また)ほかの(おほ)くの(しもべ)をも、(あるひ)()(あるひ)(ころ)したり。[引照]

口語訳そこでまた他の者を送ったが、今度はそれを殺してしまった。そのほか、なお大ぜいの者を送ったが、彼らを打ったり、殺したりした。
塚本訳そこで(また)ほかの一人をやっると、それも殺してしまった。ほかの大勢(の使用人)を(やったが、)なぐったり、殺したりしてしまった。
前田訳もうひとりをつかわすと、それをも殺した。ほかの大勢の僕をも、あるいはなぐり、あるいは殺した。
新共同更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
NIVHe sent still another, and that one they killed. He sent many others; some of them they beat, others they killed.
註解: 次第に迫害の程度が高まり来ることを示す。マルコ伝がこの点特に力強くかつ詳細である。イスラエルの罪をできるだけ明かに示さんがためであった。背ける民を引戻さんとする神の熱心も、この葡萄園の主のごとくであるに相違ない。

12章6節 なほ一人(ひとり)あり、(すなは)()(いつく)しむ()なり「わが()(うやま)ふならん」と()ひて、最後(いやはて)(これ)(つかは)ししに、[引照]

口語訳ここに、もうひとりの者がいた。それは彼の愛子であった。自分の子は敬ってくれるだろうと思って、最後に彼をつかわした。
塚本訳(最後に)まだ一人、最愛の(独り)息子があった。『わたしの息子なら恐れ入るにちがいない』と言って、最後にこれを使にやった。
前田訳まだひとりいた。おのがいとし子であった。『わが子なら敬おう』といってその最後のものをつかわした。
新共同まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
NIV"He had one left to send, a son, whom he loved. He sent him last of all, saying, `They will respect my son.'

12章7節 かの農夫(のうふ)ども(たがひ)()ふ「これは世嗣(よつぎ)なり、いざ(これ)(ころ)さん、()らばその嗣業(しげふ)は、(われ)らのものとなるべし」[引照]

口語訳すると、農夫たちは『あれはあと取りだ。さあ、これを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』と話し合い、
塚本訳するとその小作人たちは、『これは相続人だ。さあ、殺してしまおう。そうすればその財産はおれ達のものになるのだ』と互に言いながら、
前田訳ぶどう作りは互いにいった、『これは相続人だ。さあ、殺そう。そうすれば相続財産はわれらのものだ』と。
新共同農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
NIV"But the tenants said to one another, `This is the heir. Come, let's kill him, and the inheritance will be ours.'
註解: 子はイエス・キリストを指せるものであることは明かである。神はその民イスラエルを自己に贖い取らんがために最後にその独り子を賜うほどにこれを愛し給うた。この愛を全く感受せず、かえって逆にこれを殺したのがイスラエルであった。これ彼らが神のことを思わずして自己の利益のみに没頭したからであった。
辞解
[然らばその嗣業は、我らのものとなるべし] 律法的には成立たない(L2)という学者があるけれども、事実的には主人が遠国にいる以上かく考うることはあり得る。

12章8節 (すなは)(とら)へて(これ)(ころ)し、葡萄園(ぶだうぞの)(そと)()()てたり。[引照]

口語訳彼をつかまえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。
塚本訳つかまえて殺した上、葡萄畑の外に放り出してしまった(という話)。
前田訳そして捕えて殺し、ぶどう園の外に投げ出した。
新共同そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
NIVSo they took him and killed him, and threw him out of the vineyard.
註解: 屍体を外に投げ棄ててこれをその腐爛(ふらん)するに委せた。これより大なる侮辱はない。
辞解
[投げ棄て] 普通「逐い出す」と訳される文字であるけれどもこの場合はかく訳し得ない(マタ21:39ルカ20:15)。マタイ伝、ルカ伝の方がイエスの受難の事実に適合しているけれどもマルコ伝の方が力強き表顕である。

12章9節 ()らば葡萄園(ぶだうぞの)(ぬし)、なにを()さんか、(きた)りて農夫(のうふ)どもを(ほろぼ)し、葡萄園(ぶだうぞの)(ほか)(もの)どもに(あた)ふべし。[引照]

口語訳このぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は出てきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。
塚本訳(それで尋ねるが、)葡萄畑の持ち主はどうするだろうか。(もちろん)来て小作人たちを殺し、葡萄畑をほかの人に貸すにちがいない。
前田訳ぶどう園の主人はどうするであろうか。来てぶどう作りを殺し、ぶどう園をほかの人々にまかせよう。
新共同さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
NIV"What then will the owner of the vineyard do? He will come and kill those tenants and give the vineyard to others.
註解: イエスを殺したユダヤ人らは紀元七十年にエルサレムの滅亡によりてついに全くその祖国を失うに至った、神が彼らを(さば)き給うたのである。而して神の国はイエスを信ずる真のイスラエルに与えられるに至った。なおこの比喩を精確に解すれば農夫はイスラエルの民の指導者となる故、葡萄園なるイスラエルは他の指導者に与えられることとなる、かくすれば使徒たちがこの人々に相当する。

12章10節 (なんぢ)聖書(せいしょ)に「造家者(いえつくり)らの()てたる(いし)は、これぞ(すみ)首石(おやいし)となれる。[引照]

口語訳あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか。『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。
塚本訳あなた達はこの聖書の句をすら読んだことがないのか。──“大工たちが(役に立たぬと)捨てた石、それが隅の土台石になった。
前田訳あなた方は聖書にこうあるのを読まなかったか−−『家造りが捨てた石、それが隅の土台石になった。
新共同聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。
NIVHaven't you read this scripture: "`The stone the builders rejected has become the capstone ;

12章11節 これ(しゅ)によりて()れるにて、(われ)らの()には(くす)しきなり」とある()をすら()まぬか』[引照]

口語訳これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』」。
塚本訳これは主のなされたことで、われわれの目には不思議である。”」
前田訳これは主のなさったこと、われらの目には不思議である』と」。
新共同これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」
NIVthe Lord has done this, and it is marvelous in our eyes' ?"
註解: 新約聖書に最も多く引用せられている句で詩118:22、23より取る。原詩の意味は諸国民に棄てられしイスラエルは神の家の隅の首石(おやいし)となれることを意味し、ここではユダヤ人らに棄てられるイエスが神の家の首石(おやいし)たるべきことを意味す。他の二福音書の外、使4:11エペ2:20Tペテ2:4Tペテ2:7等にも引用せらる。イエスはこの句をもってイエスの使命とその意義とを明かにし、たとい彼はユダヤの祭司、学者らに棄てられるとも、神は彼をもってイスラエルの家の首石(おやいし)となし給うことを示し、彼を亡ぼさんとする祭司長・学者・パリサイ人らに対して警告を与えている。
辞解
[隅の首石] 家の隅の重要なる基礎石かまたは入口のアーチ形の上部の石をいう。この句は使徒たちによりてしばしば用いられし故、ここでもイエスが用い給いしにあらずとする説(L2)あれど、かく解する必要はない。

12章12節 ここに(かれ)()イエスを(とら)へんと(おも)ひたれど、群衆(ぐんじゅう)(おそ)れたり、この(たとへ)(おのれ)らを()して()(たま)へるを(さと)りしに()る。(つい)にイエスを(はな)れて()()けり。[引照]

口語訳彼らはいまの譬が、自分たちに当てて語られたことを悟ったので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。そしてイエスをそこに残して立ち去った。
塚本訳彼らはイエスが自分たちに当て付けてこの譬を言われたことを知ったので、(怒って)イエスを捕えようと思ったが、民衆(が騒ぎ出すの)を恐れた。それで、イエスをそのままにして立ち去った。
前田訳彼らは自分らにあてつけて譬えを話されたことを知って、彼を捕えようとしたが、群衆をおそれた。それで、彼をそのままにして立ち去った。
新共同彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。
NIVThen they looked for a way to arrest him because they knew he had spoken the parable against them. But they were afraid of the crowd; so they left him and went away.
註解: 祭司長、学者、長老らはイエスの比喩の意味をさとり、心中に甚く憤激した。彼らは固陋(ころう)にして己の罪を悔改むることを知らず、イエスをもってしてもなお彼らを悔改めしむることができなかった。神を無視して自己を高しとする者は永遠の亡びより外に行くべき処がない。然かのみならず彼らはかえってイエスを(とら)えんとした。正にイエスの彼らに告げ給いしごとくである。しかも彼らは群衆がイエスを預言者とするを見て(マタ21:46)、これを恐れて手を下さなかった。不義、貪慾、卑怯、偽善、あらゆる不徳が彼らのものであった。而して彼らはユダヤ人中の最高の地位を占めていたのである。イエスと彼らとの間に如何にしても一致を見出し得ざりしは当然である。
要義 [イエスの敵]イエスを迫害しこれを殺さんとしたのはユダヤの民衆ではなくその祭司長、学者、パリサイ人、長老等の有力者であった。民衆は唯彼らに扇動せられたに過ぎない。これらの有力者がイエスを拒んだ理由は、イエスが唯ひたすらに神の御旨に従わんとしたのに反し、これらの人々はまずその地位、特権、組織を擁護せんとしたからであった。人間的制度や人間的特権を神よりも上に置かんとする者はイエスに反する者である。今日の組織せられし教会もこの幣に陥っている以上、彼らもまたイエスを十字架に()けるであろう。

6-1-ト 納貢問題 12:13 - 12:17
(マタ22:15-22) (ルカ20:20-26)  

12章13節 かくて(かれ)らイエスの言尾(ことばじり)をとらへて陷入(おとしい)れん(ため)に、パリサイ(びと)とヘロデ(たう)との(うち)より、數人(すにん)御許(みもと)(つかは)す。[引照]

口語訳さて、人々はパリサイ人やヘロデ党の者を数人、イエスのもとにつかわして、その言葉じりを捕えようとした。
塚本訳それから彼らは数人のパリサイ人とヘロデ党の者とを、イエスの所にやった。その言葉尻をとらえ(て訴え出)ようとするのである。
前田訳数人のパリサイ人とヘロデ党の人々がことばじりをとらえるよう彼のところにつかわされた。
新共同さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。
NIVLater they sent some of the Pharisees and Herodians to Jesus to catch him in his words.
註解: 「彼ら」は祭司長、学者、長老たち(マコ11:27)である。彼らはなおも執拗にイエスを捕えんと企て、彼をカイザルに対する納貢問題をもって陥れんとした。地上の国の問題を神の国の問題と混合することにより言尾を捕えることは今日我が国においても多く行われるところである。紀元六年アケラオ(マタ2:22)、ユダヤの王位を失いし以来、人頭税としてカイザルに納むべき税金が徴集せられ、この税金は人民一般に屈辱的の感じを与えるので非常に不評判であった。殊にその納金貨幣にはカイザルの像が附いていたため一層嫌われ、熱心党のごときは納税を拒んだ。パリサイ人は大体においてこの納税に反対であり、ヘロデ党はカイザル党としてこの納税を支持していた。イエスはこの二者の何れかに躓きを与えるに相違なかった。この二者を遣した企図はこの点に在った。

12章14節 その(もの)ども(きた)りて()ふ『()よ、(われ)らは()る、(なんぢ)(まこと)にして、(たれ)をも(はばか)りたまふ(こと)なし、(ひと)外貌(うはべ)()ず、(まこと)をもて(かみ)(みち)(をし)(たま)へばなり[引照]

口語訳彼らはきてイエスに言った、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたで、だれをも、はばかられないことを知っています。あなたは人に分け隔てをなさらないで、真理に基いて神の道を教えてくださいます。ところで、カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。
塚本訳その人たちは来てイエスに言う、「先生、あなたは正直な方で、だれにも遠慮されないことをよく承知しております。人の顔色を見ず、本当のことを言って神の道を教えられるからです。(それでお尋ねしますが、わたし達は異教人である)皇帝に、税を納めてよろしいでしょうか、よろしくないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。」
前田訳彼らは来ていう、「先生、あなたは真実で、だれであろうと気がねなさらぬことをわれらは知っています。あなたは人の顔色をうかがわず、真実に神の道をお教えです。皇帝(カイサル)に税を納めてよいですか、よくないですか。納めるべきでしょうか、否(いな)でしょうか」と。
新共同彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
NIVThey came to him and said, "Teacher, we know you are a man of integrity. You aren't swayed by men, because you pay no attention to who they are; but you teach the way of God in accordance with the truth. Is it right to pay taxes to Caesar or not?
註解: 彼らはイエスの従来の態度を知っており、人の顔を恐れざる真実さを見ていた。彼らはイエスのこの態度を利用して彼を陥れんと企てているのである。それ故にイエスをして飽くまでもこの態度をもって彼らの問いに答えしめんとしてこの前提を持出しイエスをして逃れる能わざらしめんとした。

(われ)(みつぎ)をカイザルに(をさ)むるは、()きか、()しきか、(をさ)めんか、(をさ)めざらんか』

註解: この質問はイエスをして進退(きわ)まらしめんとの意図をもって為されたのであった。()しと言えばユダヤの民衆の凡てより憎まれなければならず、()しと言えばカイザルに対する反逆者とならなければならない。彼らは心(ひそ)かにその適切なる質問を発せしことを誇っていたのであろう。

12章15節 イエス()詐僞(いつはり)なるを()りて『なんぞ(われ)(こころ)むるか、デナリを()(きた)りて(われ)()せよ』と()(たま)へば、[引照]

口語訳イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、「なぜわたしをためそうとするのか。デナリを持ってきて見せなさい」。
塚本訳イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、「なぜわたしを試すか。デナリ銀貨を持ってきて見せなさい。」
前田訳彼らの偽善を見ていわれた、「なぜわたしを試すのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい」と。
新共同イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」
NIVShould we pay or shouldn't we?" But Jesus knew their hypocrisy. "Why are you trying to trap me?" he asked. "Bring me a denarius and let me look at it."

12章16節 (かれ)()(きた)る。[引照]

口語訳彼らはそれを持ってきた。そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「カイザルのです」と答えた。
塚本訳持ってくると、言われる、「これはだれの肖像か、まただれの銘か。」「皇帝のです」と彼らが言った。
前田訳彼らが持って来るといわれる、「この像はだれのか、そしてこの銘は」と。彼らはいった、「皇帝のです」と。
新共同彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、
NIVThey brought the coin, and he asked them, "Whose portrait is this? And whose inscription?" "Caesar's," they replied.
註解: 彼らの質問は真に納貢の可否につきイエスの教えを乞わんとしたのではなく、イエスを陥れんための質問であることをイエスは見抜き給うた。
辞解
[デナリ] 納貢に用うる貨幣。

イエス()(たま)ふ『これは(たれ)(かたち)、たれの(しるし)なるか』『カイザルのなり』と(こた)ふ。

12章17節 イエス()(たま)ふ『カイザルの(もの)はカイザルに、(かみ)(もの)(かみ)(をさ)めよ』(かれ)らイエスに()きて(はなは)(あや)しめり。[引照]

口語訳するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。
塚本訳イエスは言われた、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ。」彼らはイエスに驚いてしまった。
前田訳イエスはいわれた、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」と。彼らはイエスにおどろきいった。
新共同イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。
NIVThen Jesus said to them, "Give to Caesar what is Caesar's and to God what is God's." And they were amazed at him.
註解: イエスの答えの素晴らしさを見よ、彼の驚くべき智慧と、神に対する明確なる態度とはこの難問を見事に解決して、しかも相手に重大なる非難を浴せ掛けたのであった。すなわち、この世の義務はこの世の支配者(彼らの場合はカイザル)に対して果さなければならざることを教えて彼らの躊躇の(いわ)れ無きことを示すと同時に、神の物たる彼らの心は、これを神にささげ、神に対する信仰をもって生きなければならないことを教え、彼らが神に対して納むべきものを納めず、しかも一面カイザルに対して納むべきものを納むることを躊躇することを非難し給うた。かくして彼らが大問題と思惟せし納貢問題は極めて小問題であって、彼らが気付かざりし処にかえって大なる問題が存することを知らしめられたのであった。彼らの驚きし所以はイエスの捕捉端倪(たんげい)すべからざる態度であった。
要義 [神のものとカイザルのもの]絶対的の意味においては、全宇宙の凡てのものが神のものである。しかしながら神はカイザルにその一部分を委任し給うた。すなわち地上における人間の国民的社会的生活を支配し、その安寧秩序を保ち、その福祉文化を増進することである。而して人間が神を信じ永遠の生命を獲得する霊的生活と神に対する良心の平安の問題は、神自らこれをその御手の中に保留し給うた(その他人間の肉体的生命の生長維持、人間社会の歴史的経綸等もまた神の直接の支配の下にある)。この意味において神のものとカイザルのものとの間に区別が成立つのである。而してこの前者に関しては我らは凡てのことカイザルに服従すべきであり(ロマ13:1、2)、後者に関しては凡て神に従うべきである。而してカイザルの命令が神の御旨に反するごとくに見ゆる場合でも、社会の安寧秩序に関する事柄においては我らはカイザルに従わなければならず、カイザルは直接に神に対して責任を負うのである。これに反しもしカイザルが我らの信仰を棄てしめんとするごとき場合があるならば、我らは我らの心を神に納め、我らの肉体をカイザルに納むべきである。

6-1-チ 復活問題 12:18 - 12:27
(マタ22:23-33) (ルカ20:27-40)  

註解: パリサイ人らの反対に次いでサドカイ人らの反対が起った。イエスは到る処に反対を克服しなければならなかった。

12章18節 また復活(よみがへり)なしと()ふサドカイ(びと)ら、イエスに(きた)()ひて()ふ、[引照]

口語訳復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した、
塚本訳そこに、復活なしと主張するサドカイ人たちが来て、イエスにこう言って質問した、
前田訳サドカイ人がおそばに来た。復活はない、という人々である。彼らは問うた、
新共同復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
NIVThen the Sadducees, who say there is no resurrection, came to him with a question.
辞解
[サドカイ人] ソロモン時代より宮に(つか)えし主なる族であったザドクの子孫なる貴族的祭司階級とこれに加担する一派を指す(エゼ40:46)。文化的であり理智的でありかつ現世的政治的であるのがその特徴であった。従って彼らはメシヤを望まず、復活を信ぜず、天使や霊魂の存在を否定した。

12章19節 ()よ、モーセは、(ひと)兄弟(きゃうだい)もし()なく(つま)(のこ)して()なば、その兄弟(きゃうだい)、かれの(つま)(めと)りて、兄弟(きゃうだい)のために嗣子(よつぎ)()ぐべしと、(われ)らに()(のこ)したり。[引照]

口語訳「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。
塚本訳「先生、モーセは(その律法に、)“もし死んだ兄が、”妻を残して“子をのこさない場合には、弟はその女をめとり、兄の家をつぐべき子をもうけよ”とわたし達のために書いています。
前田訳「先生、モーセはわれらのために書きました、『兄が死んで妻を残して子がない場合、弟がその妻をめとって兄の子孫を生かすように』と。
新共同「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
NIV"Teacher," they said, "Moses wrote for us that if a man's brother dies and leaves a wife but no children, the man must marry the widow and have children for his brother.
註解: 申25:5、6の規定で家系を重んずるより起った制度である。サドカイ人らはおそらくこれをもってモーセが死人の復活を認めざりし証拠としたのであろう。

12章20節 (ここ)七人(しちにん)兄弟(きゃうだい)ありて、(あに)(つま)(めと)り、嗣子(よつぎ)なくして()に、[引照]

口語訳ここに、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、
塚本訳(ところでここに)七人の兄弟があって、長男が妻をめとったが、子をのこさずに死に、
前田訳七人の兄弟があって、長男が妻をめとり、子を残さずに死に、
新共同ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。
NIVNow there were seven brothers. The first one married and died without leaving any children.

12章21節 第二(だいに)(もの)その(をんな)(めと)り、また嗣子(よつぎ)なくして()に、第三(だいさん)(もの)もまた(しか)なし、[引照]

口語訳次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。
塚本訳次男が(この律法に従って)その女をめとったが、また子を残さずに死に、三男も同様で、
前田訳次男がそれをめとって子を残さずに死に、三男もそうで、
新共同次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。
NIVThe second one married the widow, but he also died, leaving no child. It was the same with the third.

12章22節 七人(しちにん)とも嗣子(よつぎ)なくして()に、(つひ)には()(をんな)()にたり。[引照]

口語訳こうして、七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女も死にました。
塚本訳ついに七人とも子をのこさず、一番最後にその女も死んでしまいました。
前田訳七人とも子を残さず、最後に妻も死にました。
新共同こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。
NIVIn fact, none of the seven left any children. Last of all, the woman died too.

12章23節 復活(よみがへり)のとき(かれ)らみな(よみが)へらんに、この(をんな)(たれ)(つま)たるべきか、七人(しちにん)これを(つま)としたればなり』[引照]

口語訳復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。
塚本訳(もし復活があるなら、)人が復活する復活の折には、この女はその(七人の)うちのだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしましたから。」
前田訳復活に際して、彼らが復活すると、妻はだれのになるでしょうか、七人とも彼女をめとりましたが」と。
新共同復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
NIVAt the resurrection whose wife will she be, since the seven were married to her?"
註解: 旧約聖書には復活の思想は必ずしも明瞭に記されていない。これがサドカイ人が復活を否定する理由であった。従って復活を信ずる者といえども、復活後の状態等につき明確なる観念を有っていなかった。それ故に上掲のごとき場合においては復活を信ずる者も困難に陥ったことが想像される。

12章24節 イエス()(たま)ふ『なんぢらの(あやま)れるは、聖書(せいしょ)をも、(かみ)能力(ちから)をも、()らぬ(ゆゑ)ならずや。[引照]

口語訳イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。
塚本訳イエスは言われた、「あなた達は聖書も神の力も知らないから、そんな間違いをしているのではないか。
前田訳イエスはいわれた、「あなた方がそんなまちがいをしているのは聖書も神の力も知らないからではないか。
新共同イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。
NIVJesus replied, "Are you not in error because you do not know the Scriptures or the power of God?
註解: (▲サドカイ人は復活なしと唱えた。かかることは有り得ないと考えたからである。これは神の力を知らないからである。)聖書につきては26節に、神の能力につきては25節に録さる。サドカイ人は聖書はこれを信じていると自認し神の能力はこれを知っていると考えた。彼らの誇りはその根底において覆されたのであった。▲▲聖書を知る知り方に二種あり、一は聖書の字句をそのまま知ること、二は聖書の言の精神を知ること、そしてイエスは第一の知り方は聖書を知らないのであることを示し給うた。

12章25節 (ひと)死人(しにん)(うち)より(よみが)へる(とき)は、(めと)らず、(とつ)がず、(てん)()御使(みつかひ)たちの(ごと)くなるなり。[引照]

口語訳彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。
塚本訳死人の中から復活する時には、めとることもなく嫁ぐこともなく、ちょうど天の使のようである。
前田訳死人の中から復活するときは、めとりもとつぎもせず、天にあるみ使いのようである。
新共同死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
NIVWhen the dead rise, they will neither marry nor be given in marriage; they will be like the angels in heaven.
註解: 復活後の状態は天使のごとき存在となるのであって、食慾も色慾も無く、唯神を愛して互に相愛する霊体の存在するのみ、夫と妻とは互に相認識することを得れども、これを己のものとして所有し他を排斥せんとするごとき心持はもはや存在せず、(ことごと)く聖き愛のみの一団となる。神はその能力をもってかかる状態に人を甦えらしめ給う。

12章26節 ()にたる(もの)(よみが)へる(こと)()きては、モーセの(ふみ)(なか)なる(しば)(くだり)に、(かみ)モーセに「われはアブラハムの(かみ)、イサクの(かみ)、ヤコブの(かみ)なり」と()(たま)ひし(こと)あるを、(いま)()まぬか。[引照]

口語訳死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
塚本訳死人が復活することについては、(聖書にはっきり書いてある。)モーセの書の茨の薮の(燃える話の)ところで、神がモーセにこう言われたのを読んだことがないのか、──“わたしはアブラハムの神、またイサクの神、またヤコブの神(である)”と。
前田訳死人が復活するについては、モーセの書の柴のくだりで、神が彼にいわれたのを読まなかったか、『われはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と。
新共同死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
NIVNow about the dead rising--have you not read in the book of Moses, in the account of the bush, how God said to him, `I am the God of Abraham, the God of Isaac, and the God of Jacob' ?

12章27節 (かみ)()にたる(もの)(かみ)にあらず、()ける(もの)(かみ)なり。なんぢら(おほい)(あやま)れり』[引照]

口語訳神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。
塚本訳(ところで)神は死人の神ではなく、生きている者の神である。(だからアブラハム、イサクなども皆復活して、今生きているわけではないか。)あなた達は大間違いをしている。」
前田訳神は死者の神でなく生者の神である。あなた方のまちがいははなはだしい」と。
新共同神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
NIVHe is not the God of the dead, but of the living. You are badly mistaken!"
註解: 出3:6の神の言を捉え来って復活の根拠とすることはイエスの卓越せる烱眼(けいがん)による。すなわち「アブラハム・・・・・の神なりき」と言わずして「なり」と言い給える点に問題の中心があるのであって、「アブラハムの神なり」とは現在において然りとの意味であり、現在も彼らが死滅していないことを意味す。従ってアブラハム、イサク、ヤコブが肉体において死去して(しま)った以上この「なり」はやがて彼らの復活を期待する意味となる、イエスは神の永遠性を見、その神の確言の現在形なるを把握して人間の永遠性を認め、これを復活の基礎となし給うた。而して事実、人間の復活はこの神の永遠性に基く。
辞解
[柴の(くだり)] 出3:1以下ホレブの山にてエホバが柴の焔の中にモーセに現れ給える場面。
[生けるもの] むしろ霊魂不死の証拠と見るべきも直ちに復活の証拠となし得るや否やには、相当に問題はあり得るけれども、イエスは死者を生ける者と見る理由を復活の思想をもって証明せんとしたのである。
[神なり] 「神なりき」の意味で必ずしもアブラハム等の不死を示すものに非ずとする見方あり(L2)この見方は教義的には正しい見方であるとすることができるけれども、またこれを「神なり」と見て上述のごとく解することも不可能ではない。これはイエスの為し給える独特の鋭い聖書観である。
要義 [復活信仰の基礎]復活の信仰を得しむる基礎は、聖書と神の能力とに対する信仰である。殊に新約聖書においては明瞭に復活につき記しているけれどももし神の能力を信ぜざれば、復活は一つの荒唐無稽の物語と化し、これに反し神の能力を信じても聖書を信ぜざれば、神の能力が如何に働くかにつきて知ることができない。文字には生命がなく、生命には文字がない。この二者を正しく知ることが信仰の要諦でありまた復活信仰の基礎である。

6-1-リ 誡律問題 12:28 - 12:34
(マタ22:34-40) (ルカ10:25-28)  

12章28節 學者(がくしゃ)一人(ひとり)、かれらの(ろん)じをるを()き、イエスの()(こた)(たま)へるを()り、(すす)()でて()ふ。[引照]

口語訳ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。
塚本訳一人の聖書学者がこの議論を聞いていたが、イエスがあざやかに答えられたのを見ると、進み出て尋ねた、「どの掟がすべてのうちで第一ですか。」
前田訳学者のひとりが彼らの議論を聞き、イエスの立派なお答えぶりを見て、おそばに来てたずねた、「すべての掟のうちでどれが第一ですか」と。
新共同彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
NIVOne of the teachers of the law came and heard them debating. Noticing that Jesus had given them a good answer, he asked him, "Of all the commandments, which is the most important?"
註解: マタ22:35ルカ10:25によればこの質問の目的はイエスを試みんがためとあり、13、18節等の場合と同一に取扱っているけれどもマルコはこれを善意なる質問として取扱い、最後にイエスがこの学者の理解を賞揚し給えることを示している。マルコ伝の記事が最も事実に即しているもののごとくである。▲イエスには学者やパリサイ人に対して始めより偏見をいだくようなことはなかった。

『すべての誡命(いましめ)のうち、(なに)第一(だいいち)なる』

註解: 律法の中には三百六十五條の禁止と二百四十八條の命令とがあるとされており、この中に軽重ありや否や、また(いず)れが最も重要なりやは多くの人の問題とする処であった。ゆえにこの質問は真面目なる質問と見ることを得るのであって必ずしもイエスを試みんがための質問と見る必要はない。

12章29節 イエス(こた)へたまふ『第一(だいいち)(これ)なり「イスラエルよ()け、(しゅ)なる(われ)らの(かみ)唯一(ゆゐいつ)(しゅ)なり。[引照]

口語訳イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
塚本訳イエスは答えられた、「第一はこれである。──“聞け、イスラエルよ、われわれの神なる主はただ一人の主である。
前田訳イエスは答えられた、「第一はこれである。『聞け、イスラエル、われらの神なる主はただひとりの主にいます。
新共同イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
NIV"The most important one," answered Jesus, "is this: `Hear, O Israel, the Lord our God, the Lord is one.

12章30節 なんぢ(こころ)(つく)し、精神(せいしん)(つく)し、(おもひ)(つく)し、(ちから)(つく)して、(しゅ)なる(なんぢ)(かみ)(あい)すべし」[引照]

口語訳心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
塚本訳心のかぎり、精神のかぎり、”思いのかぎり、“力のかぎり、あなたの神なる主を愛せよ。”
前田訳あなたの神なる主を愛するに、心をつくし、魂をつくし、思いをつくし、力をつくせ』。
新共同心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
NIVLove the Lord your God with all your heart and with all your soul and with all your mind and with all your strength.'
註解: 申6:4の所謂シエマー・イスラエル(イスラエルよ聴け)で普通シエマーと称し、イスラエル人は毎朝毎夕これを()すべきものとせられ、また羊皮紙の祈祷文巻物にも記されていた処である。すなわち第一に大切なる誡命は唯一の神なるエホバを全心全霊をもって愛すベしとすることである。
辞解
「心」kardia.「精神」psychê.「思」dianoia 等の意義の差別につきてはマタ22:38辞解参照。なおこれらの語につきては申6:4と七十人訳およびその他の訳とも皆幾分ずつの差異あり、本節と33節とも異なる。種々の訳語が行われたものであろう。▲あるいは一語一句の細目に拘泥しなかったためであろう。

12章31節 第二(だいに)(これ)なり「おのれの(ごと)(なんぢ)(となり)(あい)すべし」()(ふた)つより(おほい)なる誡命(いましめ)はなし』[引照]

口語訳第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
塚本訳第二はこれ。──“隣の人を自分のように愛せよ。”これら(二つ)よりも大事な掟はほかにはない。」
前田訳第二はこれである、『隣びとを自らのように愛せよ』。これらにまさる掟はほかにはない」と。
新共同第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
NIVThe second is this: `Love your neighbor as yourself.' There is no commandment greater than these."
註解: レビ19:18の引用で対人関係の道徳の精髄である。第一は対神関係であって、モーセの十誡の第一の石版に録されし部分に相当し、第二は対人関係であってその第二の石版に録されし部分に相当する。旧約聖書中のこの二箇所を組合せて律法の要約たらしめし点においてイエスの活眼があるのであって、イエス以前の何人もかく為すことを知らなかった。信仰と道徳、対神関係と対人関係の両者は二つにして一つである。

12章32節 學者(がくしゃ)いふ『()きかな()よ「(かみ)唯一(ゆゐいつ)にして(ほか)(かみ)なし」と()(たま)へるは(まこと)なり。[引照]

口語訳そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。
塚本訳聖書学者が言った、「先生、ごりっぱです。“神はただ一人である、彼のほかに神はない”とは、本当のことを言われました。
前田訳学者はいった、「ご立派です、先生。『神はただひとりにいまし、彼のほかに神はない』とおっしゃるのは真理です。
新共同律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
NIV"Well said, teacher," the man replied. "You are right in saying that God is one and there is no other but him.

12章33節 「こころを(つく)し、知慧(ちゑ)(つく)し、(ちから)(つく)して(かみ)(あい)し、また(おのれ)のごとく(となり)(あい)する」は、もろもろの燔祭(はんさい)および犧牲(いけにへ)(まさ)るなり』[引照]

口語訳また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。
塚本訳また“心のかぎり、知恵のかぎり、力のかぎり神を愛する”ことと、“隣の人を自分のように愛する”こととは、どんな“燔祭や犠牲”にも勝っております。」
前田訳『神を愛するに、心をつくし、知性をつくし、力をつくし、憐びとを自らのように愛せよ』とはどの燔祭(はんさい)やいけにえにもまさっています」と。
新共同そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
NIVTo love him with all your heart, with all your understanding and with all your strength, and to love your neighbor as yourself is more important than all burnt offerings and sacrifices."
註解: 学者の中にもかかる理解のあるものが絶無ではなかった。彼はイエスの御言に感激し、燔祭よりも犠牲よりも勝るものがこの二線の黄金律であることを覚った。形式を事質より重んじ易く、根本よりも枝葉を重んじ易き学者としては珍しき達識者であった。
辞解
「精神」および「思」の代りに「智慧」sunesis を用う。マルコがあまりに文字的に重複することを嫌いしがためであろう。

12章34節 イエスその(さと)(こた)へしを()()(たま)ふ『なんぢ(かみ)(くに)(とほ)からず』()(のち)たれも()へてイエスに()(もの)なかりき。[引照]

口語訳イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。
塚本訳イエスは彼がかしこく答えたのを見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われた。もうだれ一人、問おうとする者はなかった。
前田訳イエスは思慮深く答えたのを見て、彼にいわれた、「あなたは神の国から遠くない」と。もはやだれもあえて問うものはなかった。
新共同イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
NIVWhen Jesus saw that he had answered wisely, he said to him, "You are not far from the kingdom of God." And from then on no one dared ask him any more questions.
註解: 沙漠の中にオアシスがあるごとく、学者パリサイ人の中にもまたイエスの友があった。イエスはパリサイ人たるが故にまたは学者たるが故にこれに対して反感や偏見を有し給うことは全く無く、その心は常に光風霽月(こうふうせいげつ)であって、事実そのものが有りの(まま)にうつる明鏡のごときものであった。全然宗派心や党派心に捉われ給わなかったことを我らは注意しなければならない。
辞解
[此の後誰も敢てイエスに問う者なかりき] マタ22:46ルカ20:40にあり場所を異にす。マルコ伝が最も適当なる位置にあり。
要義 [二條の金線]ユダヤのラビの一人も「汝の欲せざる処を隣人に施すなかれ、これ全律法なり、他のものはその註解に過ぎず」と言いまた孔子も「忠恕道ヲ違ルコト遠カラズ己に施シテ願ハズンバ人ニ施ス勿レ」と教えている。しかしながらこの黄金律も、神に対する絶対的の愛無しにはその力を失い、その根本を失う。それ故にイエスのここに示し給える二つの誡律は、車の両輪のごとく、鳥の両翼のごとく、もっとも根本的なる至上の誡律である。

6-1-ヌ キリストはダビデの子か 12:35 - 12:37a
(マタ22:41-46) (ルカ20:41-44)  

12章35節 イエス(みや)にて(をし)ふるとき、(こた)へて()(たま)[引照]

口語訳イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。
塚本訳イエスは宮で教えておられたとき、言い出された、「聖書学者はどういう訳で『救世主はダビデの子である』と言うのであろうか。
前田訳答え終えて宮で教えておられるとき、イエスはいわれた、「学者が『キリストはダビデの子』というのはどういうわけか。
新共同イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
NIVWhile Jesus was teaching in the temple courts, he asked, "How is it that the teachers of the law say that the Christ is the son of David?
註解: イエスはマタ22:41には「パリサイ人の集り居る時」とあり、イエスとの論戦の継続を想像せしめるけれども、マルコ伝においては沈黙せる学者らと、それらと共に在る群集の前に一般的に教えられしものとして録されている(37b)。「宮にて」はマコ11:27の継続故必要なし。「答えて」は学者の沈黙と群衆の期待に応ぜし発言なること、イエスのダビデの子以上たることを示す好き機会であった。単にこれをイエスがダビデの子孫たることを、否定する者ありしに対する反駁と見るのは当らない。

『なにゆゑ學者(がくしゃ)らはキリストをダビデの()()ふか。

12章36節 ダビデ(せい)(れい)(かん)じて(みづか)らいへり「(しゅ)わが(しゅ)()(たま)ふ、(われ)なんぢの(てき)(なんぢ)(あし)(した)()くまでは、()(みぎ)()せよ」と。[引照]

口語訳ダビデ自身が聖霊に感じて言った、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。
塚本訳ダビデ自身が聖霊に感じてこう言った。──、“(神なる)主はわが主(救世主)に仰せられた、『わたしの右に坐りなさい、わたしがあなたの敵を(征服して)あなたの足の下に置くまで』と。”
前田訳ダビデ自身聖霊によっていった、『主がわが主にいわれた、わが右にすわれ、あなたの敵をあなたの足の下に置くまで』と。
新共同ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
NIVDavid himself, speaking by the Holy Spirit, declared: "`The Lord said to my Lord: "Sit at my right hand until I put your enemies under your feet."'
註解: 詩110:1のイエス独特の解釈である。第一の「主」は原語エホバ(ヤーヴエー)であり第二の「主」はアドナイである。この詩の作者をダビデとすればダビデは神の他に「主」と呼ぶべきものを有っていたことが判明(わか)る。而してこの詩は一般にメシヤ預言の詩と解せられているので、この主がメシヤであり従ってメシヤはダビデの主であってその子ではないこととなる。イエスはこの詩をかくのごとくに解し給うた。今日この詩は一詩人がダビデ王または他の一王者につきて歌えるものと見られている。もし然りとすればイエスはこの詩の意義の解釈を誤られたこととなる。ただしイエスは当時の解釈に従われたのであって、当時の人にキリストのダビデの子以上たることを示すにはこれで充分であった。もしイエスが今日生れ給うたならば他の証拠法を取り給うたであろう。

12章37節 ダビデ(みづか)(かれ)(しゅ)()ふ、されば(いか)でその()ならんや』[引照]

口語訳このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。
塚本訳(このように)ダビデ自身が救世主を主と言っているのに、どうして(その救世主が)ダビデの子であろうか。」大勢の群衆は喜んでイエスの話を聞いていた。
前田訳ダビデ自身がキリストを主というのに、それをダビデの子とはどうしてか」と。大勢の群衆がよろこんで彼に耳傾けていた。
新共同このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。
NIVDavid himself calls him `Lord.' How then can he be his son?" The large crowd listened to him with delight.
註解: キリストは一般にダビデの裔より出づと考えられているけれども、神の子イエスは実はダビデ以上であり、勿論ダビデの子孫以上である。それ故にイエスが「肉によればダビデの裔より生れ」給えること(ロマ1:3)は、今日の学者の多くが唱うるごとく、後日に至って発生せる思想であるにしても少しも差支えがない。いわんやそれが事実であるとすればなおさら意義深きこととなる。何れにしてもイエスはキリストとしてダビデの子以上に在し給う。
要義 [イエスのメシヤ意識]イエスのメシヤとしての意識は当時のユダヤ人一般の期待する処とは非常に異なっていた。ユダヤ人らは地上の王者たるメシヤを期待し、イスラエルをしてローマ帝国の政治的支配を脱せしむるがごときメシヤを望んでいた。それ故にそのメシヤがダビデ以上であることを考える必要がなかった。然るにイエスの場合、そのメシヤ意識はこの世の政治的支配よりイスラエルを独立せしむることではなく、神の国に入らしむるためにサタンの束縛を脱せしめ、この世の国にあらざる永遠の国に入らしむべきメシヤとしての意識を有ち給うた。ゆえにイエスにとりてはダビデの子たる地位だけでは充分にこの意識を表示し得なかったのであった。

6-1-ル 学者等に対する警戒 12:37b - 12:40
(ルカ20:45-47)   
註解: 37b−40節はマタイ伝23章の摘要とも見ることができ、学者らの虚栄心、貪慾、偽善等を要約して彼らに対する警戒を与え、これをもって学者らとの論戦の結尾となし、さらにこれに41−44節の貧しき寡婦の物語を加えて対照をなさしめている。マタイ伝はユダヤ人のために書かれしをもって特にパリサイ人に対する強き攻撃を掲ぐることが必要であったけれども、マルコ伝はローマ人のために書かれたのでその必要がなかった。

(おほい)なる群衆(ぐんじゅう)(よろこ)びてイエスに()きたり。

註解: 群衆は常に単純であり偏見なしにイエスの教えを受けた。

12章38節 イエスその(をしへ)のうちに()ひたまふ[引照]

口語訳イエスはその教の中で言われた、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、
塚本訳またその教えの中で(こんなことを)言われた、「聖書学者に気をつけよ。あの人たちは(人の目につくように)長い衣を着て歩くことや、市場で挨拶されることや、
前田訳教えのなかでこういわれた、「学者に心せよ、彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、
新共同イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
NIVAs he taught, Jesus said, "Watch out for the teachers of the law. They like to walk around in flowing robes and be greeted in the marketplaces,
註解: 次は多くの教えの中より学者らに対するものを摘要したのである。

學者(がくしゃ)らに(こころ)せよ、(かれ)らは(なが)(ころも)()(あゆ)むこと、

註解: 学者らしき風采をすることが当時の人一般の尊敬を()ち得る所以であった。堂々たる体裁をもって己が価値を誇示せんとするのは一種の偽善である。

市場(いちば)にての敬禮(けいれい)

註解: 市場は市邑の中心地で政治機関や商取引の行われる処、従って多くの有力者の集合所である。そこにて敬礼を受くることは一般の人より尊敬されることを意味す。かかることを好む心は一種の虚栄心である。

12章39節 會堂(くわいだう)上座(じゃうざ)饗宴(ふるまひ)上席(じゃうせき)(この)み、[引照]

口語訳また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。
塚本訳礼拝堂の上席、宴会の上座が好きである。
前田訳会堂での上席や食事での上座を好む。
新共同会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
NIVand have the most important seats in the synagogues and the places of honor at banquets.
註解: 東洋地方においては特に席次に対し敏感である。

12章40節 また寡婦(やもめ)らの(いへ)()み、[引照]

口語訳また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。
塚本訳また寡婦の家を食いつぶし、長く、見かけばかりの祈りをする。あの人たちは人一倍きびしい裁きを受けるであろう。」
前田訳やもめの家を食いつぶし、長い見せかけの祈りをする。あの人たちは人一倍きびしい裁きを受けよう」と。
新共同また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
NIVThey devour widows' houses and for a show make lengthy prayers. Such men will be punished most severely."
註解: 出22:22に反する行為は、殊に人の信用を受け易き学者らに多かった。人の信用を利用する者の罪はさらに重い。

外見(みえ)をつくりて(なが)(いのり)をなす。

註解: 敬虔の姿を装い、心にもあらざる長き祈りを為すことが学者、信仰家の通弊である。この虚栄と貪慾と偽善とに欺かれざらんことを人々に教え給う。

その()くる審判(さばき)(さら)(きび)しからん』

註解: 善人を装い、殊に信仰の深さを装いつつ悪を行う者は、露骨に悪を行って隠すことなきものに比してその罪さらに重く、その罰は一層厳しい。
要義 [偽善の罪]偽善は人の前には立派に見えるけれども、神の前には最も醜い。神は人の外辺を見ず心の中を見給うが故に偽善は神の前には何の役にも立たず、その心の中の醜さを覆うことができざるのみならず、これを覆わんとする心の醜さがさらにこれに加わってその醜さを増す。人はむしろ正直に自己の正体を神の前、人の前に露出すべきである。これによって人の前に自己を修飾するの必要もなく、神の前に罪を重ぬるの(おそれ)もない。

6-1-ヲ 寡婦のレプタ 12:41 - 12:44
(ルカ21:1-4)   

註解: 41−44節の記事は40節の寡婦との連想と賽銭函が宮の中にあることよりここに記されしものか。マタイ伝にはこれを欠く。

12章41節 イエス賽錢函(さいせんばこ)(むか)ひて()し、群衆(ぐんじゅう)(ぜに)賽錢函(さいせんばこ)()()るるを()(たま)ふ。[引照]

口語訳イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。
塚本訳それから賽銭箱の真向いに坐って、群衆が賽銭箱に金を入れるのを見ておられた。大勢の金持が沢山入れているとき、
前田訳イエスは賽銭箱の向かいにすわって、群衆が賽銭箱に金を入れる様を見ておられた。大勢の金持がたくさん入れていた。
新共同イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
NIVJesus sat down opposite the place where the offerings were put and watched the crowd putting their money into the temple treasury. Many rich people threw in large amounts.
註解: 些細な事実からも観察者の眼識によりて真理の鑛脉(こうみゃく)が発見される。
辞解
[賽銭函(さいせんばこ)] 真鍮製のラッパ形の投入口十三を有する函で参詣者の賽銭を受けるために備えられている。

()める(おほ)くの(もの)は、(おほ)()()れしが、

註解: 富める者にても多く投げ入れることは相当の克己と信仰とを要するのであって、この点ですでに彼らの心中が神の前に評価されている訳である。
辞解
[投げ入る] 未完了過去形で次から次と投げ入れる形。

12章42節 一人(ひとり)(まづ)しき寡婦(やもめ)きたりて、レプタ(ふた)つを()()れたり、(すなは)()(りん)ほどなり。[引照]

口語訳ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。
塚本訳ひとりの貧乏な寡婦が来て、レプタ銅貨[五円]二つ、すなわち(ローマの金で)一コドラントを入れた。
前田訳そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨ふたつ、すなわち一コドラント入れた。
新共同ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
NIVBut a poor widow came and put in two very small copper coins, worth only a fraction of a penny.
註解: 人々はこの貧しき寡婦を軽蔑の目をもって見、富める者はこれを見ておのれの献物の多きによって誇っていたことであろう。
辞解
[レプタ] ヘブルのペルーター貨で、二レプタがローマ貨幣一クアドランス(ギリシャ語名コドランテース)に相当す、「五厘」と訳されし原語はこの一コドランテースなり。

12章43節 イエス弟子(でし)たちを()()せて()(たま)ふ『まことに(なんぢ)らに()ぐ、この(まづ)しき寡婦(やもめ)は、賽錢函(さいせんばこ)()()るる(すべ)ての(ひと)よりも(おほ)()()れたり。[引照]

口語訳そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。
塚本訳イエスは弟子たちを呼びよせて言われた、「アーメン、わたしは言う、あの貧乏な寡婦は、賽銭箱に入れただれよりも多く入れた。
前田訳彼は弟子たちを呼んでいわれた、「本当にいう、あの貧しいやもめは賽銭箱に入れただれよりも多く入れた。
新共同イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
NIVCalling his disciples to him, Jesus said, "I tell you the truth, this poor widow has put more into the treasury than all the others.

12章44節 (すべ)ての(もの)は、その(ゆたか)なる(うち)よりなげ()れ、この寡婦(やもめ)()(とぼ)しき(なか)より、(すべ)ての所有(もちもの)(すなは)(おの)生命(いのち)(しろ)をことごとく()()れたればなり』[引照]

口語訳みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。
塚本訳皆はあり余る中から入れたのに、あの婦人は乏しい中から、持っていたものを皆、生活費全部を入れたのだから。」
前田訳皆はあり余る中から入れたのに、彼女は乏しい中から持っていたすべて、生活費全部を入れたから」と。
新共同皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
NIVThey all gave out of their wealth; but she, out of her poverty, put in everything--all she had to live on."
註解: 神に対する献物の多少は、その物質の分量の多少ではなく、献ぐる人の信仰とその信仰によりて喜びて払う犠牲の量の如何による。この寡婦はその生活に必要なる資料をその乏しき中より(ことごと)くささげた。イエスはこれをこの上もなく喜び、これを賞揚し給うたのである。この二レプタは数万の金にも優れる多額の献金であった。
要義 [凡てを神に献げよ]人間の能力に多少あり、その富にもまた貧富がある。我らは自己の能力の少なきことや貧しきことを悲しむ必要もなく、また自己の能力の大なることやまた富めることを誇ってはならない。我らは能力や富の大小如何にかかわらず、凡てこれを神にささげ、神より委託せられしものとして神の御旨に従ってこれを用いなければならない。かくして始めて富める者もこの寡婦の二レプタに劣らざる多くの献げ物をなすことができ、彼らも辛うじて天国に入ることができる。