ヨハネ伝第2章
分類
2 イエスの活動の初期
2:1 - 4:54
2-1 ガリラヤのカナの婚筵
2:1 - 2:11
2章1節
口語訳 | 三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 |
塚本訳 | それから三日目に、ガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 |
前田訳 | 三日目にガリラヤのカナで婚礼があり、イエスの母がそこにいた。 |
新共同 | 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 |
NIV | On the third day a wedding took place at Cana in Galilee. Jesus' mother was there, |
註解: 「三日目」はヨハ1:43から三日目のこと、ヨルダンの岸よりガリラヤのカナに達するのにほぼ三日を要する。「カナ」はナザレの東北約一時間半にして達す、チベリアスに通ずる途の半途にあり(G1)。ヨセフのことにつき沈黙しているのは既に死んだのであろう。
口語訳 | イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。 |
塚本訳 | イエスも弟子たちと婚礼に招かれた。 |
前田訳 | イエスと弟子たちも婚礼に招かれた。 |
新共同 | イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 |
NIV | and Jesus and his disciples had also been invited to the wedding. |
註解: バプテスマのヨハネはユダヤの荒野にて禁欲的生活をなし、イエスはガリラヤの小邑に婚姻の歓喜の宴に列し給う。人間生活を聖め、これに高き意義を与うべき歓喜と希望に満てる新たなる福音の曙光がここにイエスの周囲に輝いている。「弟子たち」は先の五人であろう。
2章3節
口語訳 | ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。 |
塚本訳 | すると宴会の最中に酒が足りなくなったので、母がイエスに言う、「お酒がなくなりました。」 |
前田訳 | ぶどう酒が切れたのでイエスの母が彼にいう、「ぶどう酒がなくなりました」と。 |
新共同 | ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 |
NIV | When the wine was gone, Jesus' mother said to him, "They have no more wine." |
註解: イエスおよびその数人の弟子が加わったためであろう。葡萄酒尽きて憂うべき状態となったので、母マリヤはこのことをイエスに告げ、心ひそかにイエスがその能力を顕わし奇蹟を行うならんことを期待した(G1)。
辞解
[かれらに葡萄酒なし] 「かれらに葡萄酒なし」と言いし動機について(1)単に心中の憂慮を漏らしたに過ぎずとするもの、(2)イエスに弟子たちと共に宴席より退去せんことを要求せりとするもの(B1)、(3)イエスにその宴席の無聊 を補うべく説教を為すことを要求せるもの解するもの(C1)等があるけれども適当でない。
2章4節 イエス
口語訳 | イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。 |
塚本訳 | イエスが言われる、「女の方、〃放っておいてください。〃わたしの栄光(を示す)時はまだ来ておりません。」 |
前田訳 | イエスはいわれる、「母上、何のご用ですか。まだわたしの時は来ていません」と。 |
新共同 | イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 |
NIV | "Dear woman, why do you involve me?" Jesus replied. "My time has not yet come." |
註解: イエスの母の無言の要求に直ちに応ずることをしなかった。イエスの行動は凡て神の御旨に従って為されたのであって、この点において彼と母との間に何の関係もなかった。マリヤはこのことを知るべきであった。イエスの御業は常に「我が時」すなわち父より示されて彼の為すべき時が来た場合に為されていた。我らも霊の欠乏は勿論、凡ての欠乏をイエスに訴うる時、もし時未だ至らざれば彼は直ちに我らの要求を充たし給わない。この場合において我らはイエスの母マリヤと共に「彼の時」至るまで望んで待たなければならない。
辞解
[をんなよ] 軽蔑の意味ではない。尊敬と愛情を含んでいる。ヨハ19:26も同様である。唯母マリヤはこの時よりその子イエスをもはや己の子として取扱うべきではなく、神の子として取扱うべきであることの苦き経験を味わい始めなければならなかった。
[我と汝と何の関係あらんや] 両者の間の無関係を示し、従って干渉を拒絶する語(マタ8:29辞解および引照参照)。
2章5節
口語訳 | 母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。 |
塚本訳 | 母は召使たちに言う、「〃なんでもこの方の言われるとおりにしてください。〃」 |
前田訳 | 母は召使いたちにいう、「何でも彼のいうとおりにしてください」と。 |
新共同 | しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 |
NIV | His mother said to the servants, "Do whatever he tells you." |
註解: 母マリヤはイエスの拒絶に会いつつもなおイエスがその愛する母の願いを絶対に拒絶することはなきことを直感したのであろう。その僕にイエスの命のままに行動すべきことを言いふくめた。立派な信頼の態度である。我らも我らの祈りが直ちに聴かれずとてもそのために神に背くきではない。かえって益々神の御旨に耳を傾け、その御旨を行いつつ、願いの聴かれる時を待たなければならない。神は愛なれば必ず我らの願いを聴き給う。
2章6節
口語訳 | そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。 |
塚本訳 | そこに、ユダヤ人の清めの(儀式の)ために、石の水瓶が六つ置いてあった。いずれも二、三メトレタ[八十から百二十リットル]入りであった。 |
前田訳 | そこにはユダヤ人の清めの風によって石の瓶が六つ置いてあった。おのおの二、三メトレタ入りであった。 |
新共同 | そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 |
NIV | Nearby stood six stone water jars, the kind used by the Jews for ceremonial washing, each holding from twenty to thirty gallons. |
註解: かく多量の水を葡萄酒に変ずることは不必要にして不合理であるとしてこの奇蹟の真実を疑う学者もあるけれども、キリストはこの奇蹟の質に重きを置き給うたのであって、その量は問題ではない。またキリストはこれによりてその豊なる力を示し祝宴の歓喜を助け給うたのであって、キリストは打算計量によりて行動し給わない。
辞解
[潔めの例] 食事の前後に手を洗うに用う。
2章7節 イエス
口語訳 | イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。 |
塚本訳 | イエスは召使たちに言われる、「水瓶に水をいっぱい入れよ。」口まで入れると、 |
前田訳 | イエスは彼らにいわれる、「瓶を水で満たせ」と。縁まで満たすと、 |
新共同 | イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 |
NIV | Jesus said to the servants, "Fill the jars with water"; so they filled them to the brim. |
2章8節 また
口語訳 | そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。 |
塚本訳 | 彼らに言われる、「さあ汲んで、宴会長に持ってゆきなさい。」彼らが持ってゆくと、 |
前田訳 | 彼らにいわれる、「今汲み出して宴会長に持って行くように」と。彼らはそうした。 |
新共同 | イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 |
NIV | Then he told them, "Now draw some out and take it to the master of the banquet." They did so, |
註解: かくのごとくして全然葡萄酒の元素を含まざる容器および材料をもってイエスは葡萄酒を造り給うた。神は平日は雨を降らせ、これを葡萄の樹の幹を通してその果実に送り、これより葡萄酒を造り給う。イエスはここにこの順序を略して一瞬の間に水を葡萄酒に変化し給うた(A2)。
辞解
[饗宴長 ] 給仕人長のごときもので料理の味を吟味する職。
2章9節
口語訳 | 料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで |
塚本訳 | 宴会長は酒になった水をなめてみて、──彼はその訳を知らなかったが、水を汲んだ召使たちは知っていた。──宴会長は花婿を呼んで |
前田訳 | 宴会長はぶどう酒になった水を味わったが、その由来がわからなかった。しかし、水を汲んだ召使いたちにはわかっていた。宴会長は花むこを呼んでいう、 |
新共同 | 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 |
NIV | and the master of the banquet tasted the water that had been turned into wine. He did not realize where it had come from, though the servants who had drawn the water knew. Then he called the bridegroom aside |
註解:饗宴長 のごとき料理道の達人であっても、イエスに近付き彼の命を守る者に比して無智であった。霊界の事柄につきてはイエスにある嬰児は、彼に従わざる学者より遥かに多くを知っている。
2章10節 『おほよそ
口語訳 | 言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。 |
塚本訳 | 言う、「だでれも初に良い酒を出し、酔がまわったところに悪いのを出すのに、あなたは、よくもいままで良い酒をとっておいたものだ。」 |
前田訳 | 「だれでもまずよいぶどう酒を出して、酔いがまわると悪いのを出すが、あなたは今までよい酒をとっておいてくれた」と。 |
新共同 | 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 |
NIV | and said, "Everyone brings out the choice wine first and then the cheaper wine after the guests have had too much to drink; but you have saved the best till now." |
註解: 宴会における普通の習慣として先によき葡萄酒をもって人を酔わしめ、その感覚の鈍れるのに乗じて悪しき葡萄酒を飲ましめる。これと同様に悪魔はまず人造のよきものをもって人の感覚を鈍らしめて後に人を悪に導いて行くのである。ゆえに人はこれを覚らない。イエスはこれに反して人造の手段の尽くる時、天よりのよきものを彼に与え給う。イエスが「我が時」と言い給いしはこれであった。饗宴長の語は驚愕と不可解とを示している。
2章11節 イエス
口語訳 | イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。 |
塚本訳 | イエスはこの最初の徴[奇蹟]をガリラヤのカナで行って、(神の子たる)その栄光をお現わしになった。弟子たちが彼を信じた。 |
前田訳 | この最初の徴をイエスはガリラヤのカナで行なって彼の栄光を現わされた。そして弟子たちは彼を信じた。 |
新共同 | イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。 |
NIV | This, the first of his miraculous signs, Jesus performed at Cana in Galilee. He thus revealed his glory, and his disciples put their faith in him. |
註解: 当初におけるイエスの二回のガリラヤ訪問は共観福音書に省略せられ、第四福音書にこれを補充している(ヨハ2:1−12。ヨハ4:3−54)。第二回の訪問の時にイエスは「第二の徴」を為し給うた(ヨハ4:54)。イエスの受肉が既に一大奇蹟であり、他の諸 の奇蹟は、この根本的奇蹟より発する光輝であった。ゆえに彼の栄光はかくして顕われたのである。弟子たちはこれを見て益々彼の神の子に在すことの確信を得、彼にその全き信頼を捧げた。(ヨハ1:35−52の信仰は初歩であり彼らここに始めて充分なる信頼に達した。)
要義 [葡萄酒の奇蹟の教訓]この奇蹟はイエスが一つの魔術を行い給えるにはあらずして、事実水を葡萄酒に変化せしめ給うたのであり、また飲酒のごとき不節制を奨励せんがための無用の奇蹟にあらずして、婚姻のごとき人生における最も重大なる祝宴を尊重してこれを共に祝い給う愛心の発露せる貴き御業であった。而してこの奇蹟の物語より学び得る教訓は(1)イエスは決して律法的禁慾主義者にあらず、人生における自然の歓びを喜び給う自由な、自然の子に在し給うと同時に、一方バプテスマのヨハネのごとき禁慾生活者をも尊重し給いて敢て彼の主張を曲げんとし給わず、彼をしてその使命を全うせしめ給いしこと。(2)イエスがその使命を行い、神の御旨に従い給う場合には肉親の母の命をすらもこれを超越し給いしこと。(3)イエスの力により水のごとき無味のものがよき葡萄酒に変化すると同じく、彼の霊によりて更生せる者は全く一変せる新たなる意義ある生涯に入ることができること。(4)サタンはよき物をもって人を誘いつつ遂に悪に陥れんとし、イエスは人をかかる状態より救い出してすべてのよき物をもって充たしめ給うこと、等である。
2章12節 この
口語訳 | そののち、イエスは、その母、兄弟たち、弟子たちと一緒に、カペナウムに下って、幾日かそこにとどまられた。 |
塚本訳 | そののちイエスは、母、兄弟たちおよび弟子たちとカペナウムに下り、数日そこに一しょにおられた。 |
前田訳 | こののちイエスは母と兄弟と弟子たちとカペナウムに下って、そこにしばらくとどまられた。 |
新共同 | この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。 |
NIV | After this he went down to Capernaum with his mother and brothers and his disciples. There they stayed for a few days. |
註解: マタ4:13参照。後にイエスは暫くの間このカペナウムに定住し給うた。カペナウムはガリラヤのユダヤ人の首都であった。
辞解
[兄弟] 古来三種の解釈がある。(1)ヨセフとマリヤとの間に生れしイエスの弟、(2)ヨセフの初婚の子でイエスの異母兄、(3)イエスの従兄弟でヨセフの兄弟クロパ(アルパヨ)の子。この中第一説が正しいであろう。 (参照聖句マタ1:25。ルカ2:7。マタ13:55。マコ6:3。ヨハ19:25。マタ27:56。マコ15:40。ルカ6:14−16等、なおヨハ19:42の附記2参照)
註解: イエスは二回エルサレムの宮を潔め給うた。ヨハネはその第一回目につき録し共観福音書は第二回目につきて録す(マタ21:12−13。マコ11:15−18。ルカ19:45−46)。
2章13節 かくてユダヤ
口語訳 | さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。 |
塚本訳 | ユダヤ人の過越の祭が近くなると、イエスは(弟子たちと)エルサレムに上られた。 |
前田訳 | ユダヤ人の過越の祭りが近かったのでイエスはエルサレムヘ上られた。 |
新共同 | ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 |
NIV | When it was almost time for the Jewish Passover, Jesus went up to Jerusalem. |
註解: 過越の祭においては多くのユダヤ人が各地方よりエルサレムに集った。従って彼の栄光を示し給うべき最も適当の場合であった。今やイエスは神の子メシヤとしての公生涯に入り給える以上は、その父なる神の宮が汚されるのを黙止することができなかった。これが彼をして次に記されるごとき行動を取らしめし所以である。
2章14節
口語訳 | そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、 |
塚本訳 | 宮の庭で牛や羊や鳩を売る者、また両替屋が坐っているのを見られると、 |
前田訳 | 宮で牛や羊や鳩を売るものや両替屋がすわっているのを見て、 |
新共同 | そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 |
NIV | In the temple courts he found men selling cattle, sheep and doves, and others sitting at tables exchanging money. |
註解: エルサレムの神殿は祭司の庭、イスラエル人(男子)の庭、婦人の庭および異邦人の庭に区画されていた。この異邦人の庭は最も外側にあり、ここに犠牲が捧げらるべき牛羊鳩などの諸動物の商人や、ローマの通貨をユダヤの納金(マタ17:24)なる半シケルすなわち2ドラクマと交換する両替商が商売を行っていた。
2章15節
口語訳 | なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、 |
塚本訳 | 縄で鞭をつくって、何もかも、羊も牛も宮から追い出し、両替屋の銭をまき散らし、その台をひっくり返し、 |
前田訳 | 縄で鞭を作って羊も牛もすべてを追い出し、両替屋の貨幣をまき散らし、机を倒し、 |
新共同 | イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 |
NIV | So he made a whip out of cords, and drove all from the temple area, both sheep and cattle; he scattered the coins of the money changers and overturned their tables. |
註解: 祭司長にも祭司にもあらざる一平民なるイエスがこの権威をもって彼らを逐い出し給いしことは、ユダヤ人の教権に対する決定的な挑戦であった。もしユダヤ人にしてイエスの神の子に在し給うことを信じたならば彼のこの権威に服従すべきであった。然るに彼らは彼を信ぜずして十字架に釘けたのである。イエスのこの行為の中にすでに彼の十字架が予示せられていた。
2章16節
口語訳 | はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。 |
塚本訳 | また鳩を売る者に言われた、「それをここから持ってゆけ。わたしの父上の家を商店にするな。」 |
前田訳 | 鳩を売るものにいわれた、「それを持ち去れ、わが父の家を商いの家にするな」と。 |
新共同 | 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 |
NIV | To those who sold doves he said, "Get these out of here! How dare you turn my Father's house into a market!" |
註解: 鳩をば牛羊のごとく逐い出し難いので彼らに口をもってこれを取り去るべく命じ給うた。
わが
註解: 「わが父」と言いてここにイエスは神の子として父なる神の宮を潔むる権威があることを公表し給うた。ルカ2:49参照。蓋し最も神聖清浄なるべき父なる神の宮が利害と掛引きの場所と化せるを見て、イエスはこれに堪え得なかったのである。同様に祭司パリサイ人らがユダヤの宗権を保持してこれによりて自己の利益を謀らんとすることも一の商売であって、これに対してもイエスは憤慨禁ずること能わず、これを逐い出さずにいることができないであろう。イエスは外形に表われし神殿の潔めを行って霊的の宮の潔めを暗示し給うた。▲神との間の霊的関係が基本であるはずの信仰が堕落すると、必ず利益中心の教権の世界と化してしまう。
2章17節
口語訳 | 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。 |
塚本訳 | (これを見て)弟子たちは、〃(神よ、)あなたの家に対する熱心が、わたしを焼きつくします〃と(詩篇に)書いてあるのを思い出した。 |
前田訳 | 弟子たちは、「あなた(神)の家への熱心がわたしを食いつくす」と聖書にあるのを思い出した。 |
新共同 | 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 |
NIV | His disciples remembered that it is written: "Zeal for your house will consume me." |
註解: 本節以下はイエスの宮潔めの御業の結果を示している。第一に弟子は詩篇(引照参照)を思い出し、詩篇にあらわれし義人はメシヤの預言であったことを知った。実に義人は神の家を思う熱心のために自己を食い尽くすに至るのであって、イエスはその父なる神の家を思うことの切なる結果己を十字架に釘け給うたのである。
2章18節 ここにユダヤ
口語訳 | そこで、ユダヤ人はイエスに言った、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せてくれますか」。 |
塚本訳 | するとユダヤ人が口を出した、「あなたはこんなことをするが、(その権威を証明するために、)どんな徴[奇蹟]をして見せることができるのか。」 |
前田訳 | ユダヤ人は彼にいった、「こんなことをして、どんな徴をわれらに示せるのか」と。 |
新共同 | ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 |
NIV | Then the Jews demanded of him, "What miraculous sign can you show us to prove your authority to do all this?" |
註解: ユダヤ人は外的徴(奇蹟)なしにはイエスをメシヤと信じることができなかった。彼らの良心はイエスの御言と御業によって刺されつつも、彼らはその良心の直感を掩い隠して、従来の伝説に従い外的の徴を求めた。然らざればイエスが宮を潔める権威を持ち給うことを彼らは信ずることができなかった。「ユダヤ人」ヨハ1:19辞解参照。
2章19節
口語訳 | イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。 |
塚本訳 | イエスは答えられた、「このお宮をこわせ、三日で造ってみせるから。」 |
前田訳 | イエスは答えられた、「この宮をこわせ、三日でわたしが建てなおそう」と。 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 |
NIV | Jesus answered them, "Destroy this temple, and I will raise it again in three days." |
註解: この不可解にして実行不能に見ゆる答は、いかにユダヤ人らを驚かしたことであろうか。ユダヤ人は勿論、弟子たちすらその当時この御言の意味を解することができなかった。然るに実際はこの御言によりイエスは自らを神の宮と呼び、エルサレムの神殿はイエスの型であることを意味し給うたのであった。ユダヤ人が神の宮を商売の家となし、ユダヤの教権を射利の具に供していた結果、事実この宮は霊的意味において既に壊たれていると同じであった。イエスはその代りに真の神の宮を建てんがために来給うたのである。然のみならずこの事実がやがてイエスの肉体の上にあらわれて来ることをイエスは予知し給い、かかる挑戦的の言を発し給うたのである。ユダヤ人は勿論石にて造れる宮を壊つことをしなかったけれども肉の宮なるイエスを十字架に釘けた。彼らはイエスのこの御言をもって涜神的なりとして彼を訴える理由となしておりながら(マタ26:61。マコ14:58)、彼ら自身イエスを十字架に釘けまつることによりて真の神の宮を壊ち、かえって大なる涜神的行為を犯したのである。しかもイエスは三日目に甦り給うてこの預言を実現し給うた(ヨハ10:18)。この謎のごときイエスの御言の中に神の御経綸の深き奥義が蔵されているのであってユダヤ人は到底これを悟ることができなかった。▲▲本節および20、21節で「宮」を口語訳で「神殿」と訳したことは正しい。マタ23:16の脚注参照。
2章20節 ユダヤ
口語訳 | そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。 |
塚本訳 | ユダヤ人が言った、「このお宮を建てるには四十六年もかかったのに、あなたは三日で造るというのか。」 |
前田訳 | ユダヤ人はいった、「この宮は四十六年かかって建ったのに、あなたは三日で建てなおすのか」と。 |
新共同 | それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 |
NIV | The Jews replied, "It has taken forty-six years to build this temple, and you are going to raise it in three days?" |
註解: 彼らはこの御言を解することができずして嘲弄と非難とをイエスに浴びせた。
辞解
[四十六年] 当時建築中なりしエルサレムの神殿はヘロデ王治世の十八年、すなわち西暦紀元前二十年に建て始めたのであった。従ってこの事件は紀元二十五、六年頃ならん。
2章21節 これはイエス
口語訳 | イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。 |
塚本訳 | しかしイエスは自分の体のことを宮と言われたのであった。 |
前田訳 | 彼がいわれたのはおのが体の宮についてである。 |
新共同 | イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 |
NIV | But the temple he had spoken of was his body. |
註解: 「をさして」は原語「について」であってイエスは己が体を指して語り給うたのではない。己が体の型なるエルサレムの宮を指すことによって己が体の宮を意味し給うたのである。信仰をもって神の言を読みまたは聴く者のみ、それがイエス御自身を示していることを覚ることができるのである。
2章22節
口語訳 | それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。 |
塚本訳 | だから死人の中から復活された時、弟子たちはこう言われたことを思い出して、聖書とイエスの言われた言葉と(が本当であること)を信じた。 |
前田訳 | 彼が死人の中から復活されたとき、弟子たちはかくいわれたことを思い出し、聖書とイエスのいわれたことばとを信じた。 |
新共同 | イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。 |
NIV | After he was raised from the dead, his disciples recalled what he had said. Then they believed the Scripture and the words that Jesus had spoken. |
註解: イエスが事実三日目に甦り給うまでは聖書の預言も(イザ53章、ホセ6:2、預言者ヨナ)イエスのこの御言も弟子たちはこれを真の意味に信ずることができなかった。
要義1 [宮潔めの意義]エルサレムの神殿はイエスにとっては「わが父の家」(ヨハ2:16。ルカ2:49)であった。父なる神の家には父の御心に叶わざるものは一つだに存在を許されないのは当然である。イエスは宮潔めによりてこの当然なる事柄を行い給うたのである。しかしながらイエスがこれにより唯宮を外部的に潔めんとし給うに過ぎないと見るならばこれは誤りである。イエスは神の宮をもって代表せられしユダヤの神政が形式主義、貪慾主義のために汚されているのを見るにたえなかった。それ故にこの外部的行動によって、やがて彼ら祭司、パリサイ人らもみなかかる審判に遭うであろうことを示し給うたのである。今日のキリスト教会といえどももしそれが商売の家となってしまうならば、イエスはかかる審判を行い給うであろう。
要義2 [神の怒り]神は怒り給わないと思うのは誤りである。神の怒りは凡ての不虔不義に対して必ずあらわれるのであって免れることができない(ロマ1:18)。神を怒らざるごとくに考えるのは人間の愛と神の愛との混同である。古よりかかる誤れる思想がキリスト教会の中に常に入っていた。神は怒るべきものに対してはその全憤怒をあらわし給う。ただ神は愛をもってその独り子を十字架につけてまでも我らを救わんとし給う。この怒りと愛との双方に徹底し給うは唯神のみである。而してこの神は怒ること遅く恩恵を施して千代に及ぶ神に在し、恩恵は遂に溢れて怒りに打勝つのである。
2章23節
口語訳 | 過越の祭の間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。 |
塚本訳 | 過越の祭の時エルサレムにおられる間に、多くの人がイエスの行われたかずかずの徴[奇蹟]を見て、その名を信じた。 |
前田訳 | 過越の祭りのときエルサレムにおられる間に、彼のなさった徴を見てその名を信ずる人が多かった。 |
新共同 | イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 |
NIV | Now while he was in Jerusalem at the Passover Feast, many people saw the miraculous signs he was doing and believed in his name. |
註解: 宮においてその権威を示し給える後、イエスはエルサレムの邑に在りて過越の祭の期間、そこに集い来れる各地方の人々に多くの奇蹟を示し(ヨハ3:2。ヨハ4:45)また多くの教訓を与え給うた(ヨハ3:1−21はその中の一例であろう)。その結果多くの人々は彼の行い給える徴を見て信じたとのことである。しかしかかる信仰は真の深き信仰ではない。真の信仰はイエスの中に輝く道徳的栄光を見て彼を信ずる道徳的関係である。従って単に外的の奇蹟を見て信ずる彼らの信仰は地的メシヤを待望む心より生ぜしユダヤ的、地的信仰であって、「彼らの内面生活をイエスにささげんとの決心に達していなかった」(M0)。
口語訳 | しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、 |
塚本訳 | しかしイエスの方では、彼ら(の信仰)を信頼されなかった。彼にはだれでもわかり、 |
前田訳 | しかし、イエス自身は彼らを皆知っておられたので彼らを信頼されなかった。 |
新共同 | しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 |
NIV | But Jesus would not entrust himself to them, for he knew all men. |
註解: イエスは彼らを信用しなかった。もしイエスが己を彼らに任せ給いしならば、彼らはイエスをイスラエルの救い主とし、この世の王として地上の国を建てしめんとしたであろう。
辞解
[任せ] 「信ずる」と同字。
それは
2章25節 また
口語訳 | また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。 |
塚本訳 | また人のことをだれからも教えてもらう必要がなかったのである。自分で人の心の中がわかったからである。 |
前田訳 | 彼は人についての証を要されなかった。彼自身人のうちに何があるかを知っておられたから。 |
新共同 | 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。 |
NIV | He did not need man's testimony about man, for he knew what was in a man. |
註解: イエスはその霊眼をもって万人を知悉 し、かつ人の心の中にいかなるものが潜んでいるかを知り給うた。すなわち今は彼を信ずるがごとくに見ゆる彼らの中にも、やがては彼に叛 き彼を殺さんとするに至る心が存している(ヨハ5:16、ヨハ5:18。ヨハ7:1)ことをイエスは何人の証言をも要せずして知悉 し給うたから、彼を己を人に任せ給わなかったのである。もしイエスが普通の野心家や、普通の宗教家であったならば、彼はこの機会を利用して群衆の指導者となり、宗教改革家としてその名を揚げんと試みたことであろう。
ヨハネ伝第3章
2-2-3 ニコデモとの対話
3:1 - 3:21
2-2-3-イ イエス新生につき語り給う
3:1 - 3:15
註解: ヨハ2:23に記されしエルサレムにおけるイエスの活動の一部としてニコデモとの対話がここに録されている。
3章1節 ここにパリサイ
口語訳 | パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。 |
塚本訳 | ところでパリサイ人の中に名をニコデモという人があった。ユダヤの(最高法院の)役人であった。 |
前田訳 | ひとりのパリサイ人があった。名はニコデモ、ユダヤ人の一指導者であった。 |
新共同 | さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 |
NIV | Now there was a man of the Pharisees named Nicodemus, a member of the Jewish ruling council. |
註解: ニコデモは「宰 」すなわち衆議所(サンヒドリム)の議員の一人であって従って学者であった(ヨハ3:10、ヨハネは学者、教法師らの語を用いない)。彼はパリサイ人であって宗教の事には熱心であった。この点においてヨハ1:19、ヨハ1:24等の人々とは異なった態度を取っていた。彼は後にイエスを弁護し(ヨハ7:50)、最後にイエスの葬りに際し力を尽くしたのを見れば(ヨハ19:39)、彼はイエスを神の子と信ずるに至らなかったにしても充分の尊敬を彼に対して払っていたのがわかる。おそらく彼の高き地位が彼が断然信仰に入るのを、もしくは信仰を告白するのを妨げたことであろう(ヨハ12:42、43)。
口語訳 | この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。 |
塚本訳 | ある夜、イエスの所に来て言った、「先生、わたし達はあなたが神のところから来られた先生であることを知っています。神がご一しょでなければ、あなたのされるあんな徴[奇蹟]はだれもすることは出来ません。」 |
前田訳 | 彼が夜イエスのところへ来ていった、「先生(ラビ)、われらはあなたが神からいらした師にいますことがわかります。神が共にいまさなければ、あなたがなさる、これらの徴はだれもなしえません」と。 |
新共同 | ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 |
NIV | He came to Jesus at night and said, "Rabbi, we know you are a teacher who has come from God. For no one could perform the miraculous signs you are doing if God were not with him." |
註解: 白昼公然にイエスを訪うことは彼の地位とパリサイ人たる身分に対してでき難かったのであろう。同情すべきではあるが卑怯の謗 りを免ることはできない。これが彼の終生公然とイエスの弟子たり得なかった原因である。
『ラビ、
註解: 高き地位と身分を有し学問を持っていたニコデモは、自己の判断力の優れていることの自信を誇っていた。しかも彼の判断は外部的であった。彼はイエスの行い給える外部的徴を見て彼の神より来れる師であると判断し得しに過ぎなかった。ニコデモのイエスの許に来れる目的は彼を試さんがためではなく、彼が果して世評に上れるごときメシヤにあらざるかとの疑いをいだき、これを見届けんがために来たものであろう。
辞解
[我ら] この意見はニコデモ一人のものではなかった。
[師] ニコデモのごとき高位の老人が無位無学の青年イエスに対し「師」または「ラビ」と呼ぶことは、呼掛けとしては充分なる尊敬を払ったものと見なければならない。
[徴] イエスが多くの奇蹟を行い給えることは一々記されていないけれども、これをもって知ることができる(ヨハ2:23)。
3章3節 イエス
口語訳 | イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。 |
塚本訳 | イエスが答えて言われた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、(徴を見て信じたのではいけない。)人は新しく生まれなおさなければ、神の国にはいることは出来ない。」 |
前田訳 | イエスは答えられた、「本当にいう、人は新たに生まれねば神の国を見えない」と。 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 |
NIV | In reply Jesus declared, "I tell you the truth, no one can see the kingdom of God unless he is born again. " |
註解: 神の国は新生せる人々の属する国である。性来 の人(Tコリ2:14)は神の御霊のことを知ることができない。新生は実に神の国に入るの門である。而して新生は聖霊によりて新たに生れることであって、古き肉の生命は死して新たなる霊の生命に復活することである(ロマ6:3−5、Uコリ5:17、ガラ6:15。Tペテ1:3、Tペテ1:23)。イエスはこの御言によりてニコデモの虚を衝き給うたのである。蓋しニコデモは学問、地位、身分、経験を有っていたけれども未だ内的に新たに生れていなかった。彼は自己の判断力に対して自信あるもののごとくに述べていたのに対し(2節)イエスはその自信を粉砕し給うた。
辞解
[あらたに] アノーセン anôthen は所の意味に用うれば「上より」を意味し、時の意味に用うれば「あらたに」を意味する。ここではこの両意味を掛けて「神より新たに」生れることを意味すと解することができる。
3章4節 ニコデモ
口語訳 | ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。 |
塚本訳 | ニコデモがイエスに言う、「(このように)年を取った者が、どうして生まれなおすことが出来ましょう。まさかもう一度母の胎内に入って、生まれなおすわけにゆかないではありませんか。」 |
前田訳 | ニコデモはいう、「人は老いてからどうして生まれえましょう。ふたたび母の胎に入って生まれることはできますまい」と。 |
新共同 | ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 |
NIV | "How can a man be born when he is old?" Nicodemus asked. "Surely he cannot enter a second time into his mother's womb to be born!" |
註解: ニコデモは誠実な人であったけれども霊界の事柄につきて理解なく、唯外的に顕われし徴のみを見ることができたに過ぎなかった(9節参照)。それ故に彼自身は神の国を見得るものと信じていたのに対し、イエスはこれを否定し給い、その理由として新生の必要を説かれしをもって、彼はイエスに対し少しく反感をいだき、むしろ嘲笑的気分をもって(B1)彼のごとき老人の再生の不可能を論じて、イエスの御言の無理であることを主張してさらに立入って説明を与えられんことを乞うた。▲真面目な道徳家でありながら、道徳以上の世界を理解しない人は少なくない。
3章5節 イエス
口語訳 | イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。 |
塚本訳 | イエスは答えられた、「アーメン、アーメン、わたしは言う、人は霊によって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。 |
前田訳 | イエスは答えられた、「本当にいう、水と霊から生まれねばだれも神の国に入れない。 |
新共同 | イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 |
NIV | Jesus answered, "I tell you the truth, no one can enter the kingdom of God unless he is born of water and the Spirit. |
註解: ニコデモの不理解なるを見てイエスはやや詳しく新たに生れることの内容をここに説明し給うた。しかもなおこの説明すら多量の神秘的内容を含んでいる。而してイエスは新生の要素として水と霊とを掲げ給うた。これをもってイエスは水のバプテスマと霊のバプテスマとを表徴し給い(ヨハ1:33)、前者はヨハネのバプテスマをもって代表される悔改めと罪の赦し、すなわち肉につける生命の死滅(ロマ6:3)を意味し、霊のバプテスマはキリストを信ずることにより聖霊を注がれ新たなる生命を獲得することを意味する(使2:38。テト3:5、6参照)(B1。Z0)。
辞解
[水] バプテスマの儀式を言うのではない。また霊と同一物を意味する(C1)のでもない。また勿論救いにこの儀式が必要条件であることを意味したのでもない(C1、G1)。
3章6節
口語訳 | 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。 |
塚本訳 | 肉によって生まれたものは肉であり、霊によって生まれたものだけが霊である(から)。 |
前田訳 | 肉から生まれるものは肉、霊から生まれるものは霊である。 |
新共同 | 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 |
NIV | Flesh gives birth to flesh, but the Spirit gives birth to spirit. |
註解: 肉は単に肉体を意味するのではなく自然人、性来 のままなる人、アダムの堕落による罪性を継承せる人類を指す。ゆえに肉によりて生れるものとはアダムの罪によりて堕落せる人類の凡ての属性を意味しており(G1)、霊とは単に霊魂または精神という意味ではなく神の霊すなわち聖霊を意味する。すなわち聖霊によりて新たに生れしものとは母の胎より生れし肉によれる自然人とは全く別種のもので、キリストを信ずることにより聖霊により新たなる生命を得しものを意味する。ゆえに霊の新生を受くるには母の胎に入ることを要せず。また年齢の如何は別問題である。
辞解
[者] 8節の場合と異なり、ここでは中性であるゆえに「者」にあらず「もの」と訳すべきである。
3章7節 なんぢら
口語訳 | あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。 |
塚本訳 | 『あなた達は新しく生まれなおさねばならない』と言ったからとて、すこしも不思議がることはない。 |
前田訳 | 『あなた方は新たに生まれねばならない』といったからとておどろくことはない。 |
新共同 | 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 |
NIV | You should not be surprised at my saying, `You must be born again.' |
註解: 「生るべし」は「生れざるべからず」と訳すべきであって、イエスにとっては新生は必要ではないけれども人類一般には必要であった。このことは不思議の様であるけれども実は当然でかつ確実なる事実であるゆえにこれを怪しんではならない。イエスはニコデモが怪訝な顔つきをなしているのを見てかく言い給うたのであろう。
3章8節
口語訳 | 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。 |
塚本訳 | 風[プニューマ]は心のままに吹く。その音は聞えるが、どこから来てどこに行くか、あなたは知らない。霊[プニューマ]によって生れる者も皆、そのとおりである。」 |
前田訳 | 霊風は思うままに吹き、あなたはその声を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかはわからない。だれでも霊から生まれるものはそのようである」と。 |
新共同 | 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 |
NIV | The wind blows wherever it pleases. You hear its sound, but you cannot tell where it comes from or where it is going. So it is with everyone born of the Spirit." |
註解: 「風」も「霊」もギリシャ原語は共にプニューマ pneuma で、(ヘブル語のルーアッハも同様二重の意味あり)イエスはおそらくその時エルサレムの街を吹きつつありし風を指して、これを二重の意義に用いて霊の新生を説明し給うたのであろう。すなわち(1)霊は風と同じくその欲するままに吹き、その欲する処に赴く、人間の意思によりてこれを左右することができず、また制度規則をもってこれを束縛することができない。(2)人は風の声を聞くことができると同じく新生せるものは聖霊がその中に働いていることを感ずることができる。(3)しかしながら風がどこより来りどこへ往くかを知ることができないと同じく、霊によりて新たに生れしものもまたその霊がどこより来りどこに彼を導くかを知らない。霊による新生の世界は全く人のこれに参与することを許されない神秘境である。唯確実にして動かさざる事実である(使11:4−6参照)。
3章9節 ニコデモ
口語訳 | ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。 |
塚本訳 | ニコデモが言葉を返した、「(霊によって生まれるなどと、)そんなことがどうして出来ましょうか。」 |
前田訳 | ニコデモは答えた、「どうしてそれがありえましょうか」と。 |
新共同 | するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 |
NIV | "How can this be?" Nicodemus asked. |
註解: 私訳「これらのこといかにして起り得べきか」ニコデモはイエスの言を否定したのではなく、そのことの成り得べき方法を問うたのである(G1)。
3章10節 イエス
口語訳 | イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。 |
塚本訳 | イエスが答えて言われた。──「あなたはイスラエルの(名高い)先生でありながら、それくらいなことがわからないのか。 |
前田訳 | イエスは答えられた、「イスラエルの先生(ラビ)でありながらこれを知らないのか。 |
新共同 | イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 |
NIV | "You are Israel's teacher," said Jesus, "and do you not understand these things? |
註解: イエスの語り給えることは霊界の初歩の真理であって、イスラエルの師ともいうべきニコデモにしてこのことを知らないの見てイエスは驚きの声を発し給うた。肉の博学は霊のことにつきて無智である。
3章11節
口語訳 | よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。 |
塚本訳 | アーメン、アーメン、わたしは言う、わたし達(神の国を説く者)は知っていることを話し、(自分で)見たことを証しするのである。しかしあなた達はその証しを受けいれない。 |
前田訳 | 本当にいう、われらは知ることを語り、見たことを証する。しかしあなた方はわれらの証を受け入れない。 |
新共同 | はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 |
NIV | I tell you the truth, we speak of what we know, and we testify to what we have seen, but still you people do not accept our testimony. |
註解: 本節以下にはイエス唯一人語り給いニコデモは唯これを謹聴していた。イエスはニコデモに対し三度「まことに誠に」を繰返し給うた。彼の熱誠をこめて教訓を垂れ給う有様を想像することができよう。イエスの語り給える新生命の問題はイエスは勿論ヨハネも弟子たちも実見の上熟知していることで、決して想像でも仮定でもない。ゆえにニコデモ始めパリサイ人らは唯単純にこれを信受すべきであった。然るに彼は「爭 で」とか「如何にして」とかいう質問をイエスに向けたのである。
3章12節 われ
口語訳 | わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。 |
塚本訳 | わたしが(いま)地上のことを言うのに、それを信じないなら、天上のことを言うとき、どうして信じることができよう。 |
前田訳 | わたしが地上のことをいったのにあなた方が信じなければ、天上のことをいってもどうして信じよう。 |
新共同 | わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 |
NIV | I have spoken to you of earthly things and you do not believe; how then will you believe if I speak of heavenly things? |
註解: 「地のこと」はイエスがこれまでエルサレムにおいて宣伝え給いし事柄であって、懺悔、罪の赦し、新生の経験とその必要等は凡てこれに属する。「天のこと」はキリストの十字架による贖いと未来における神の国の実現を指し、神の経綸の詳細を包含している。前者すなわち「我が体験し実見したことを言うてさえもこれを信じないならば、まして後者すなわち未だ地上生活においてこれを実見し得ざる天のことを言いてもこれを信ずることができないであろう」。イエスの教えは信じて始めてこれを解することができる。
3章13節
口語訳 | 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。 |
塚本訳 | しかも天から下ってきた者、すなわち人の子(わたし)のほかには、だれ一人天に上った者はない。(また天上のことを知っている者はない。) |
前田訳 | 天から下った人の子のほかだれも天に上ったものはない。 |
新共同 | 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 |
NIV | No one has ever gone into heaven except the one who came from heaven--the Son of Man. |
註解: イエスは肉体を取りて天より降り給いしロゴス(ヨハ1:14)であって、ダニエル書に預言せられし人の子に在し給う。ゆえに彼はその以前に天に住み給い天のことを目撃熟知し給う。彼以外は何人も一人として天に昇った者はない。ゆえにイエスが天のことを言い給う場合にはこれを信じなければならぬ。
辞解
[天に昇りしもの] 文書の表面を見ればイエスはかつて天に昇りしごとくに見えるけれどもこれ聖書全体の主旨に叶わない。この文章は省略せられていると見るべきで「何人も天に昇りしものすなわち天の事を見しものなし、天の事を見しものは、唯天より降り給いし人の子のみ」との意味である。
3章14節 モーセ
口語訳 | そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。 |
塚本訳 | そして、ちょうどモーセが荒野で(銅の)蛇を(竿の先に)挙げたように、人の子(わたしも十字架に)挙げられ(て天に上ら)ねばならない。 |
前田訳 | モーセが荒野で蛇を挙げたように、人の子も挙げられねばならない。 |
新共同 | そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 |
NIV | Just as Moses lifted up the snake in the desert, so the Son of Man must be lifted up, |
3章15節 すべて
口語訳 | それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。 |
塚本訳 | それは、(蛇にかまれた者がその銅の蛇を仰いで命を救われたように、)信ずる者が皆(天に上った人の子を仰いで、)彼にあって永遠の命を持つためである。 |
前田訳 | 彼を信ずるものが皆永遠(とこしえ)のいのちを持つためである。 |
新共同 | それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 |
NIV | that everyone who believes in him may have eternal life. |
註解: 民21:4−9の記事によればイスラエルはエホバに呟きし結果荒野において火の蛇にて咬まれて多く死するに至った。モーセはエホバに祈りその命により銅の蛇を造りこれを杆 の上にのせ、蛇に咬まれしものこれを仰ぎ見て生きることができた。これがイエス・キリストの型であることをイエスはニコデモに語り給い、天のことを示し給うた。すなわち蛇は罪を示し、蛇に咬まれしものは罪人を示し、罪を代表せる銅の蛇は世の罪を負うキリストを示し、仰ぎ見ることは信仰に相当している。すなわちイエスはメシヤとして来り給うた。しかしこの世に王として君臨せんがためではなく、世の罪を負うて十字架に釘き、彼を信ずる者の罪を赦して彼らに永生を得しめんがためである。この苦難のメシヤはニコデモが夢想だにしなかった天のことであった。
辞解
[挙げらるべし] 「挙げられざるべからず」と訳すべき語である。この語は直接には十字架の上に挙げられることを意味するけれども(ヨハ12:32、33)、この中にはなおその昇天して神の右に坐し給うことをも意味すと解すべきである(A1、Z0。ヨハ8:28。使2:33)。
3章16節 それ
口語訳 | 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 |
塚本訳 | そのゆえは、神はその独り子を賜わったほどにこの世を愛されたのである。これはその独り子を信ずる者が一人も滅びず、永遠の命を持つことができるためである。 |
前田訳 | 神はひとり子を賜うほど世を愛された。すべて彼を信ずるものが滅びずに永遠のいのちを持つためである。 |
新共同 | 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 |
NIV | "For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life. |
註解: 前数節を受けて、16−21節においてイエス・キリストの来り給えることの天的意義を詳説している。その冒頭の本節は神の国の福音の要約とも見るべき一節であって、聖書中の最も貴重なる宝石の一つである。すなわち人類救拯の御業の起源は「神」、救い主は「独子」イエス・キリスト、救いの手段はその独子を「賜い」て彼を十字架につけ人類の罪を贖うこと、救いの対象は「世」すなわちユダヤ人のみならず全世界の人類、救いの動機は己に叛ける人類に対する神の無限の「愛」、救わるべき道は神の賜物なるキリストを「信ずる」こと、救いの結果は審判によりて「亡ぼされざること」、救われしものの望みは「永遠の生命」である。(注意)本節以下21節までは従来主イエスの御言の継続として解せられていたけれども、エラスムス以来これを著者ヨハネの解説と解する有力なる学者も少なくなかった(ネアンダー、トールック、オルスハウゼンのごとき)。然るに近来の註解家は概ねこれをイエスの御言の継続と解している(B1、C1、D0、G1、G2、H0、M0、P0、Z0)。日本改訳聖書は「 」を除きこれをヨハネの解説として取扱い、予もこの改訳に同意する。
3章17節
口語訳 | 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 |
塚本訳 | 神は世を罰するためにその子を世に遣わされたのではなく、子によって世を救うためである。 |
前田訳 | 神がその子を世につかわされたのは、世を裁くためでなく、世が彼によって救われるためである。 |
新共同 | 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 |
NIV | For God did not send his Son into the world to condemn the world, but to save the world through him. |
註解: 前節と相対応して神のイエスを世に遣し給える目的を示す。イエスはその再び来り給う場合に最後の審判を行い給う(黙20:12)。けれどもその初臨は世を裁くがためではない。神が愛により世を救わんがために彼を遣わし給うたのである。もしこの愛が顕われなかったならば(Tヨハ4:9)世に救わるべき人はないであろう。
口語訳 | 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。 |
塚本訳 | 彼を信ずる者は罰されない。信じない者は(今)すでに罰されている。彼を神の独り子として信じていないからである。 |
前田訳 | 彼を信ずるものは裁かれない。信じないものはすでに裁かれている、神のひとり子のみ名を信じなかったから。 |
新共同 | 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 |
NIV | Whoever believes in him is not condemned, but whoever does not believe stands condemned already because he has not believed in the name of God's one and only Son. |
註解: パウロが信仰によりて義とされることを述べしと同意義である(ロマ3:28)。神は世を愛してその独子を世に賜うた。世の人は唯彼を信じ、彼をその罪の贖い主として仰ぐをもって足るのである。神はこの信仰を嘉 して彼の罪を赦し、彼を最後の審判より除外し給う(ヨハ5:24。黙20:4−6)。
註解: 信仰の結果たる永遠の生命もすでにこの世において始まると同様、不信仰の結果たる裁き krinein もすでに(19節以下のごとき状態において)ここに始まり、後にキリスト再臨の時この審判によって罪に定められる katakrinein(Tコリ11:32参照)に至るのである。而してその理由は神の愛を拒否し、その独り子イエスを信じないからである。我らの創造主に在し給う神がその独り子を遣わし給う場合に我ら全人類はこれを迎え、彼を仰ぎまつることが当然の態度である。これを為さざることにより人類はその罪のために裁かれるのである。
口語訳 | そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。 |
塚本訳 | すなわち、光が世に来たのに、人々は自分たちの行いが悪いので、光よりも暗さの方を愛したこと、それが罰である。 |
前田訳 | 裁きとはこれである。すなわち、光が世に来たのに、人々が光より闇を愛したというそのことである。人々のわざが悪かったのである。 |
新共同 | 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 |
NIV | This is the verdict: Light has come into the world, but men loved darkness instead of light because their deeds were evil. |
註解: この世において既に始まれる審判とは次のごときものである(21節まで)。
註解: 真の光なるイエス来たり給うて世は二分した。信ずるものは救われ、イエスを信ぜざるものはその罪が神の愛によって赦されていることを信ずることができない。従ってその罪の結果なる悪しき行為がイエスの光によりて益々その醜さを増すことを恐れ、彼らはこれに堪えずして暗黒の中に逃れて光を避けるに至るのであって、これほど憐れむべき状態はない。これ裁かれし状態である。イエスを信ずることによりて新たに生れしもののみ(ヨハ1:12、13。ヨハ3:3)神の国を見ることができ、この罪の赦しを知り、幼児のごとく懼れることなくして光に来ることができる。
3章20節 すべて
口語訳 | 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。 |
塚本訳 | 悪いことをしている者は皆、光を憎んで光に来ない。自分の行いが明るみに出されたくないのである。 |
前田訳 | 偽りをするものはだれでも光を憎んで光に来ない、彼らのわざが現われないために。 |
新共同 | 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 |
NIV | Everyone who does evil hates the light, and will not come into the light for fear that his deeds will be exposed. |
註解: アダムとエバはエホバの命に逆きしため(これがすなわち悪である)、エホバの声を聞いてその身を隠した(創3:7、8)。エホバに責められることを直感したからである。凡て神に反いて為されし行為は悪である。悪が益々重なるに従い遂に光を憎むに至るのであって、古来キリスト者が罪なくして迫害されたのもこれがためである。
辞解
[悪] 第十九節の「悪しき」は「ポネーラ」 ponêra でキリストの目に悪しきことを意味し、本節の「悪」はフアウラ phaula であって、これを行うものの心に悪しきことを意味する。
[行う] プラッソー prassô で単に動作を継続的に行うことを意味している。
3章21節
口語訳 | しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。 |
塚本訳 | これと反対に、真理を行っている者は、光に来る。自分の行いが神にあってなされたことを、現わしたいのである。」 |
前田訳 | 真を行なうものは光に来る。そのわざが神によってなされたことが現われるためである」。 |
新共同 | しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」 |
NIV | But whoever lives by the truth comes into the light, so that it may be seen plainly that what he has done has been done through God." |
註解: 「真 を行う」とは要するに「神によりて」(私訳 ─ 神にありて)行うことであって、取税人の懺悔(ルカ18:13)も、ダビデ王の悔改めも(詩51篇)みな真を行っている点において使徒らの義しき行為に異ならない。神の命に従って行い、神に反ける行為を懺悔することはみな神にありて真を行うことである。かかる人々はその行為のあらわれんためにキリストの光に来る。彼らは光を恐れずまたこれを憎まない。ニコデモがもし真を行っているならば彼は光に来ることを恐れなかったであろうことを暗示している。
辞解
[行う] ポイエオー poieô で個々の行為を意味し、内心より自然に流れ出でて果実を結ぶごとき状態をいう。前節のプラッソーと異なる意味に用いられている。
要義 [新生の意義]キリスト教の中心問題は新生であって、人は信仰によりて新たに生れることなしに神の国のことを知ることができない。新生とは道徳的修養によりて人格が向上することでもなく、見性によりて人間の中にある仏性を発見することでもなく、禅定によりて無我の境に達することでもなく。まったく神の霊によって新たに生れ更 ることである。而してかかる新生は唯信仰によりてのみこれを獲得することができるのであって、学問や知識や地位身分によりてこれを得ることができない。
信仰とは自己を罪のままキリストの光に露出してその罪を懺悔し、キリストの十字架を仰ぎてその罪の赦しの福音としてあらわれし神の言を信じ、復活して神の右に坐し給うキリストにその全信頼をささげることである。この信仰によりて天のことがすべて明らかにせられ、人間の知識をもって解し得ざる神の国の奥義を悟ることができ、暗黒の世界より光明の世界に移され、死の世界より永遠の生命の世界に遷されるのである。これ性来 の人間性の中には存在せざる新たなる生命である。
3章22節 この
口語訳 | こののち、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らと一緒にそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。 |
塚本訳 | そののち、イエスは弟子たちと(エルサレムを去って)ユダヤの地方に行き、一しょにそこに滞在して、洗礼を授けておられた。 |
前田訳 | そののちイエスは弟子たちとユダヤの地に行き、そこに彼らととどまって洗礼をしておられた。 |
新共同 | その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。 |
NIV | After this, Jesus and his disciples went out into the Judean countryside, where he spent some time with them, and baptized. |
註解: エルサレムにおけるメシヤとしての彼の自己掲示が受入れられず、わずかにニコデモの来訪を受け給いしに過ぎなかったので、イエスはここに田舎に退き、光を求めて来るものに対してその教えを垂れてバプテスマを施し給うた。このバプテスマは詳しく言えばイエスの弟子たちがバプテスマを施したのであった(ヨハ4:1、2)。
辞解
[ユダヤの地] ユダヤの田舎の意味でエルサレムの都に対す。
3章23節 ヨハネもサリムに
口語訳 | ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。人々がぞくぞくとやってきてバプテスマを受けていた。 |
塚本訳 | ところがヨハネも、サリムに近いアイノンにいて、洗礼を授けていた。そこには水が沢山あったからである。人々が来て、ヨハネから洗礼を受けた。 |
前田訳 | ヨハネもサリムに近いアイノンで洗礼をしていた。それはそこに水が多かったからである。人々が来て洗礼を受けた。 |
新共同 | 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。 |
NIV | Now John also was baptizing at Aenon near Salim, because there was plenty of water, and people were constantly coming to be baptized. |
註解: あたかもこの間においてイエスとヨハネとは同一のことを為し、同一の教えを垂れ給えるごとくであったけれども、ここにこの両者の分岐点があったのである。そのことは次の数節においてヨハネ自身がこれを証し、後日の歴史がこれを証明している。
辞解
[サリムに近きアイノン] この地名の場所につきては諸説あり確定することができない。唯それがユダヤにあったことと(3:25)ヨルダンの西にあったことと(3:26)ヨルダンの川の岸ではなかったことと(水多くありとの説明を必要とせるより見れば)はこれを知ることができ、またアイノンはアイン(泉の意)イオン(鳩)の意らしく(M0)、一つの泉であったに相違ないことからもこれを知ることができる。
口語訳 | そのとき、ヨハネはまだ獄に入れられてはいなかった。 |
塚本訳 | ヨハネはまだ牢に入れられていなかったのである。 |
前田訳 | ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。 |
新共同 | ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。 |
NIV | (This was before John was put in prison.) |
註解: マタ4:12。マコ1:14によればイエスのバプテスマと荒野の試誘 の後間もなくヨハネが投獄せられしかのごとく見えるけれども、この間にはヨハ1:44のガリラヤ行きが第一、第二福音書に省略せられており、第四福音書記者はここにこれを訂正または注意したものと見るべきである。
3章25節 ここにヨハネの
口語訳 | ところが、ヨハネの弟子たちとひとりのユダヤ人との間に、きよめのことで争論が起った。 |
塚本訳 | すると、ヨハネの弟子たちと一人のユダヤ人とのあいだに、(二人のうち、どちらの洗礼が)清めの(力をもっているかという)ことについて、議論がおこった。 |
前田訳 | さて、ヨハネの弟子たちとユダヤ人との間に清めについて論争があった。 |
新共同 | ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。 |
NIV | An argument developed between some of John's disciples and a certain Jew over the matter of ceremonial washing. |
註解: 「潔」原語 katharismos はバプテスマと同意義であって罪や汚れより潔められること、この争論の内容はおそらくこのユダヤ人がイエスのバプテスマを持ち出し、その益々盛んになり行くを示して、ヨハネのバプテスマよりも優れることを主張し、ヨハネの弟子たちを卑しめたものであろう。
3章26節
口語訳 | そこで彼らはヨハネのところにきて言った、「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」。 |
塚本訳 | 弟子たちがヨハネの所に来て言った、「先生、あなたと一しょにヨルダン川の向こうにいた、そしてあなたが世に紹介されたあの人が、どうでしょう、洗礼を授けております。そして、みんなその方へ行きます。」 |
前田訳 | そこで彼らはヨハネのところに来ていった、「先生(ラビ)、あなたとともにヨルダンの向こう岸にいて、あなたが証をなさったあの人が、あのとおり洗礼をしていて、みんなが彼のところへ行きます」と。 |
新共同 | 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」 |
NIV | They came to John and said to him, "Rabbi, that man who was with you on the other side of the Jordan--the one you testified about--well, he is baptizing, and everyone is going to him." |
註解: ヨハネの弟子たちより見れば、イエスは彼らと同じ相弟子であり、またヨハネの証によりて世に顕われし人でヨハネはいわばイエスの恩人であった。このイエスがヨハネと同一の行為を為して彼を凌ぐに至っていることは弟子たちの堪え難きことであった。疑惑と嫉妬と憤慨の語気が弟子たちの語の中にあらわれている。これに対するヨハネの答がイエスとヨハネの差異を明らかにしている。
辞解
[人みな] 多くの人々を意味す。
3章27節 ヨハネ
口語訳 | ヨハネは答えて言った、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。 |
塚本訳 | ヨハネが答えた、「人は天から与えられないかぎり、何も(自分で)取ることは出来ない。 |
前田訳 | ヨハネは答えた、「天から与えられるのでなければ人は何も受けえない。 |
新共同 | ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。 |
NIV | To this John replied, "A man can receive only what is given him from heaven. |
註解: イエスもヨハネも各一定の賜物を天より与えられているのであって、その力の差異も成功も不成功もみな天より与えられし賜物の結果である。従って羨望や嫉妬は誤った態度である。(注意)或はこの語をイエスのみに関するものと解する人(C1、M0、G1、E0)と、反対にバプテスマのヨハネのみに関するものと解する人(A1、B1、C1)この両者に関するものと解する人(L1、T0等)とがある。最後の説が最も適当であって、この語は万人に関する一般的真理を言っており(Z0)、ヨハネはこの真理を自己とイエスとに当てはめたのである。
3章28節 「
口語訳 | 『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。 |
塚本訳 | 『わたしは救世主ではない。ただあの方の先駆けをするために遣わされた者である』とわたしが言ったことについては、あなた達自身がわたしの証人ではないか。 |
前田訳 | 『わたしはキリストでなく、その前につかわされたものである』とわたしがいったことの証人はあなた方自身である。 |
新共同 | わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。 |
NIV | You yourselves can testify that I said, `I am not the Christ but am sent ahead of him.' |
註解: ヨハ1:20、ヨハ1:23註参照。ヨハネの弟子たちはイエスの栄え行くを見て妬んだけれどもヨハネはこれを以ってかえって彼の預言の証拠であるとしたのである。
3章29節
口語訳 | 花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。 |
塚本訳 | 花嫁を持つのは花婿である。花婿の友達は花婿のそばに立っていて耳を傾け、花婿の(喜ぶ)声を聞いて喜びにあふれるのである。(花婿の友達である)わたしのこの喜びは、いま絶頂に達した。 |
前田訳 | 花よめをもつのは花むこである。花むこの友はそばに立って耳傾け、花むこの声を聞いてよろこぶ。このわがよろこびは今満ちた。 |
新共同 | 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。 |
NIV | The bride belongs to the bridegroom. The friend who attends the bridegroom waits and listens for him, and is full of joy when he hears the bridegroom's voice. That joy is mine, and it is now complete. |
註解: 新婦はメシヤ王国の民、新郎はキリスト、婚宴に加わる新郎の友はヨハネ、新郎の声は婚宴における新郎の喜びの声である。ヨハネは新郎の友たるに過ぎない。ゆえに新婦をもつことができないのは当然であって少しもこれを妬む心がなきのみならず、新郎の喜びの声を聞く時彼自身かえって歓喜に満たされるのである。故にイエスのバプテスマが栄行くことを聞く時ヨハネは却って喜びに満たされた。神とその民との関係は多くの場合婚姻関係をもって譬えられている (イザ54:5以下。ホセ2:21、22。エペ5:32。黙19:7。ヤコ5:1、6) 。
口語訳 | 彼は必ず栄え、わたしは衰える。 |
塚本訳 | あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。(それが神の御心である。) |
前田訳 | 彼は栄え、わたしは衰えねばならない」と。 |
新共同 | あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」 |
NIV | He must become greater; I must become less. |
註解: これがイエスとヨハネが天より与えられし運命であった。而して凡ての聖人、賢人、ならびに諸宗教の開祖の運命を代表している。
註解: 31−36節については16−21節と同様、これをバプテスマのヨハネの語とする説と著者ヨハネの解説と見る説とに分かれている。予は日本改訳聖書と同じく後説による。ただしバプテスマのヨハネ対イエスの問題に関連する説明であること勿論である。
口語訳 | 上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。 |
塚本訳 | 上から来られる方は、すべての者の上におられる。地から出た者は地上の者で、話すことも地上のことである。天から来られる方は、すべての者の上におられ、 |
前田訳 | 上から来るものは万物の上にある。地からのものは地のもので、地のことを語る。天から来るものは万物の上にある。 |
新共同 | 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。 |
NIV | "The one who comes from above is above all; the one who is from the earth belongs to the earth, and speaks as one from the earth. The one who comes from heaven is above all. |
註解: 言、肉となりて上より来り給えるものはイエス・キリストであった。かかる者は万物(万人と訳すべしとの説もある)の上にあり、ヨハネといえども彼に匹敵することはできない。彼はその源を天に持っているのである。勿論ヨハネもその使命を天から受けているけれども(マタ21:25)彼自身の出所は地であって天ではない。
辞解
[上より] 3節の「あらたに」と同文字。
註解: ヨハネは霊によりて上より生れし人ではない。地より出でし人であった。ゆえにイエスとはその源を異にし、従ってその語ることも地のことであった。ママタ11:11のごとく彼は天国における最も小さきものにも劣っていた。いわんやイエスに比してをや。
註解: 「上より」を「天より」と言い換えただけで初句の反復である。イエスの優越を強調している。
3章32節
口語訳 | 彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。 |
塚本訳 | 天で見聞きしたことを証しされる。(だから遣わされた者のだれ一人、こう言うわたし自身も、あの方に及ばない。)ところがだれもその証しを受けいれない。 |
前田訳 | 見聞きしたことを彼は証するが、だれもその証を受けない。 |
新共同 | この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。 |
NIV | He testifies to what he has seen and heard, but no one accepts his testimony. |
註解: 前節はイエスの起源を示し本節はその教訓に関す。あたかもヨハ3:11節の反復であって、ヨハ1:9−11とその意味を同じくしている。ゆえにヨハネの弟子たちが「人みなその許に行く」(ヨハ3:26)として驚いたのはイエスの天より来り給えることとその天的真理を体験より語り給うこととを知らないからである。もしこれを知ったならば全人類が彼の許に来なければならないことを悟るであろう。ゆえにヨハネの弟子たちが多数と思って驚いたのは実は極めて少数である。
3章33節 その
口語訳 | しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。 |
塚本訳 | (しかし)その証しを受けいれる者は、(受けいれることによって、)神が真実であることを承認したのである。 |
前田訳 | その証を受けるものは神が真にいますことを認めたのである。 |
新共同 | その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。 |
NIV | The man who has accepted it has certified that God is truthful. |
註解: この少数者がイエスの証を受けて彼を信じた。かかる人々には神が偽りの神ではなく、真実にその預言を実現し給い約束を実行し給う方なりとの信仰がその心に印刻され(ヨハ1:12)またこれを人にも保証することとなるのである。何となればイエスの御言を信ずることは神の真実を確証することに外ならないからである。その故は神は預言者たちによりてメシヤを遣わすことを預言し給い、また天より声ありて(ヨハ1:33)イエスがそれであることを証し給うたからである。従ってイエスの証を信じない者は神を偽り者とするのである(Tヨハ5:10)。その故は次節がこれを示している。
辞解
[印して] sphragizô 証書に捺印する行為であって、その証書の法律上の効力を認めて公にすることを意味する。
口語訳 | 神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。 |
塚本訳 | 神がお遣わしになった方は神の言葉を話される。神は(その方に)いくらでも霊をお与えになるからである。 |
前田訳 | 神がつかわされたものは神のことばを語る。神が霊を無限にお与えになるからである。 |
新共同 | 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。 |
NIV | For the one whom God has sent speaks the words of God, for God gives the Spirit without limit. |
註解: この語は完全にイエスに当てはまるのであって(ヨハ14:10、ヨハ14:24)彼は凡ての意味において神の遣わし給いし者である。(ヨハネのごときは特別の目的の範囲内においてのみ神に遣わされしものであった ヨハ1:6。)ゆえにイエスの凡ての言は神の言である。
註解: イエスには御霊が無限に与えられた。ゆえに彼の語り給うことは凡て御霊によりて語り給うたのである。キリスト者も預言者もみなこの無限の御霊よりその一部を受けるのである(Tコリ12:8−12、Tコリ12:27。エペ4:7)。
3章35節
口語訳 | 父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。 |
塚本訳 | 父上は御子を愛して、一切のもの(の支配権)をその手におまかせになった。 |
前田訳 | 父は子を愛して万物を彼の手に与えられた。 |
新共同 | 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。 |
NIV | The Father loves the Son and has placed everything in his hands. |
註解: 父は無限に御霊をイエスに賜うのみならず、また無限の権力を賜い、万事万物をその手に与え給う(エペ1:22)。人類の救いと裁きをもその御手に委ね給うた(ヨハ5:27、ヨハ6:39)。これみな父なる神の愛の結果である。
3章36節
口語訳 | 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。 |
塚本訳 | (だから従順に)御子を信ずる者は永遠の命を持つが、御子に不従順な者は命にはいることができないばかりか、神の怒りがその人からはなれない。」 |
前田訳 | 子を信ずるものは永遠のいのちを持つ。子に従わぬものはいのちを見ず、神の怒りがその上にとどまる。 |
新共同 | 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」 |
NIV | Whoever believes in the Son has eternal life, but whoever rejects the Son will not see life, for God's wrath remains on him." |
註解: 詩2:12。イエスは神の言を語り(34節)、また神の権を委ねられ給う以上(35節)彼を信じ彼に従うことは人の当然の態度である。かかる者は現在においてすでに永遠の生命を所有し、キリスト再臨の時これが復活体として実現する。これに反し彼を信ぜず彼に従わない者は未来の世においてこの永遠の生命の実現するのを「見る」ことができない。神の怒りがその上に止まる。神の怒りにつきてはヨハ2:22要義二参照。イエスのこの世に来り給える目的と任務とはこれであった。バプテスマのヨハネについてはかかることがない。この両者の間に天と地との差異があることはこれによりて知ることができる。
要義 [天よりの者と地よりの者]ある意味においてはバプテスマのヨハネも神より遣わされし者であり(ヨハ1:6)また「天より」の者(マタ21:25)であった。同様に凡ての預言者もその一部に天的部分を持っているということができる。釈迦孔子その他の聖賢もまた然りというべきである。しかしながら完全なる意味においては唯イエス・キリストのみ「天よりの者」であり、「万物の上に在し」「万物を支配し給い」人類の救いと裁きとを委ねられ給いし御方であった。この意味において預言者中の最大なる者であったヨハネとイエスとの対比は取りも直さずイエスの万人に超越し給う所以を明らかにしているのであって、イエスの絶対唯一の神に在し給う所以をこれによりて知ることができる。而して凡ての真のキリスト者は天より生まれし者であり、従ってこの意味においてバプテスマのヨハネにも優れたるものなることを思うべきである。