黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版第1ペテロ書

第1ペテロ書第2章

分類
2 キリスト信徒の身分及び信仰 1:3 - 2:10
2-5 信仰に発育せよ 2:1 - 2:8

註解: 前章13節以下において信望愛をすすめしペテロはさらに進んで2:1−18節にこの状態において発育せんことを薦めている。

2章1節 されば(すべ)ての惡意(あくい)、すべての詭計(たばかり)僞善(ぎぜん)嫉妬(ねたみ)および(すべ)ての(そしり)()てて、[引照]

口語訳だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、
塚本訳(君達はかく新しく生まれたの)だから一切の悪意と一切の欺瞞と偽善と嫉妬と一切の誹謗を脱ぎ捨て、
前田訳すべての悪と欺きと偽善と妬みとそしりとを捨て、
新共同だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、
NIVTherefore, rid yourselves of all malice and all deceit, hypocrisy, envy, and slander of every kind.
註解: ▲この五悪は精神的団体には常に発生しがちな悪徳である。

2章2節 いま(うま)れし嬰兒(みどりご)のごとく(れい)(まこと)(ちち)(した)へ、[引照]

口語訳今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。
塚本訳今生まれたばかりの赤ん坊として、まぜ物のない霊の乳を慕え、これで育って救いに入る(ことが出来る)ためである──
前田訳今生まれた赤子のように混りのない霊の乳を求めなさい。それによって救いへと成長するためです。
新共同生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
NIVLike newborn babies, crave pure spiritual milk, so that by it you may grow up in your salvation,
註解: 前章末尾に言えるごとく我らは神の言によりて新たに生れしばかりの嬰児であれば、最も嬰児らしき生活を行うべきである。これには棄つべきものと取るべきものとがある。棄つべきものはTペテ1:22の兄弟愛を害するあらゆる邪念で、ペテロはその中五種をここに掲げている。これらはいずれも教会の一致を(そこな)う悪徳で、最も嬰児らしからざる性質である。而して切に慕い求むべきものは、神の言葉の純粋なる乳である。ペテロは単に新たに信仰に入りしもののみを嬰児と言うにあらず、キリスト者はその永遠の相より見れば終生嬰児であって神の言の乳を慕いて生くるより外にない(Tコリ3:2ヘブ5:12の場合と乳の用い方を異にす)。
辞解
[悪意] 「悪意」以下「(そしり)」に至る五種の罪は内部の意思より外部の行為に達する順序に従って排列されているように見える。
[霊の] logikos はなお「言葉の」「真摯の」「理智的の」等の意あり、多くの学者は「言葉の乳」と訳し、前章末尾の神の言を受けるものと解す(C1、B1)。この説を採る。
[真の] adolos は「詭計(たばかり)」dolos の反対でかかる邪念を交えざる純真なる乳を意味す。

(これ)により(そだ)ちて(すくひ)(いた)らん(ため)なり。

註解: 嬰児は母乳を飲むことのみで成長発育する。これと同じく、悪意、詭計(たばかり)、誹謗等は人を殺すにすぎないのに反し、神の言の純粋なる乳は霊の発育を助け、終りの日に完全に救われるに至るのである。

2章3節 なんぢら(すで)(しゅ)仁慈(なさけ)あることを(あぢは)ひ[()り]たらんには、[(しか)すべきなり]。[引照]

口語訳あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。
塚本訳もし“君達が主の美味しさを(本当に)味わった”のならば !彼に来い。
前田訳あなた方は主が尊いことを味わったはずです。
新共同あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
NIVnow that you have tasted that the Lord is good.
註解: 主の仁慈(なさけ)を味わいし者は、その甘味を忘れず、御言の乳を慕う。主の御言の乳によりて育つ者は益々主の仁慈(なさけ)の中に霊の成育を遂げ、主に似るに至り、悪意詭計(たばかり)等より遠ざかるに至る。

2章4節 (しゅ)(ひと)()てられ(たま)へど、(かみ)(えら)ばれたる(たふと)()ける(いし)なり。[引照]

口語訳主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。
塚本訳彼は人からは(役に立たぬと)棄てられたが、神の前では、“選ばれた尊い”活きた“石”(である。)
前田訳彼のみもとにいらっしゃい。彼は人に捨てられても神に選ばれた尊い生きた石です。
新共同この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
NIVAs you come to him, the living Stone--rejected by men but chosen by God and precious to him--
註解: 本節および次節は主と我らとが有機的に一体として神の家であり神の祭司であることを示している。2、3節が主の言の乳によって養われる個々の信徒の信仰生活を示しているのと対比せよ。本節においてまずキリスト(前節の「主」を受けて)が「活ける石」に在し給うことと、ユダヤ人らは彼を呪いて十字架に()けたけれども、神は彼を選び、彼をして最も貴き贖いの業を成就せしめ給いしこととを記して主イエスの本質を明らかにし次節の説明の前提を与えている。ゆえに本節を充分に吟味して次節を理解する必要がある。
辞解
[活ける石] おそらくペテロの創成にかかる語であって意味深き語、要義を見よ。

2章5節 なんぢら(かれ)にきたり、()ける(いし)のごとく()てられて(れい)(いへ)となれ。これ(きよ)祭司(さいし)となり、イエス・キリストに()りて(かみ)(よろこ)ばるる(れい)犧牲(いけにへ)(ささ)げん(ため)なり。[引照]

口語訳この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
塚本訳そして君達自身も(主と同じく)活きた石として建てられて、霊の家となれ。これは君達が聖い祭司として、イエス・キリストによって神の御意に適う霊の供物を献げるためである。
前田訳あなた方も生きた石として霊の家をお建てなさい。それは聖なる祭司となって、イエス・キリストゆえに神によろこばれる霊のいけにえをささげるためです。
新共同あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
NIVyou also, like living stones, are being built into a spiritual house to be a holy priesthood, offering spiritual sacrifices acceptable to God through Jesus Christ.
註解: 私訳「なんぢらも彼にきたり活ける石として(M0)霊の家に建て上げられ潔き祭司となれ。これイエス・キリストに由りて神に喜ばれる霊の犠牲を捧げん為なり」。キリスト者およびキリスト教会の本質がこの一節に極めて適切に示されている。すなわちキリスト者は信仰によりて「キリストに来り」彼と霊の一致を保つことを要する。かくしてキリストと同じく「活ける石」となり不朽不変の生命に新生する。そしてかかるキリスト者は相互に孤立して関連なき存在ではなく、一つの「家」の各部分を構成し、互いに相寄り相連なりて一つの家屋すなわち完全なる教会を形成する。そしてこの家は「霊の家」であって肉の思いより来る制度、組織、儀式等よりなる家ではない。またこの家の各部分は固定される死物ではなく、同時に活ける潔き祭司として神の前に立っている。すなわちキリスト者はキリストに連なりて彼と同じく活ける石である、相互に相連なりて霊の家を形成し、神に対しては潔き祭司となったものである。かくして彼らは各々その与えられし地位において神に仕え、イエス・キリストによって神に喜ばれる霊の犠牲すなわち信仰の生涯を神に献げることができる(ロマ12:1、2)。
要義1 [活ける石]石としてのキリストは不変(ヘブ13:8)、礎石(Tコリ3:11)隅の首石(マタ21:42その他)躓く石(8節)審判の石(ダニ2:34)等を意味し、キリストの各方面を表徴している。しかしながら石は本来無生物なるがゆえに溌剌たる生命の躍動なく生物の神秘的なるに比することができない。ゆえにペテロはキリストを活ける石と呼び、石のごとくに不変なるキリストは同時に活きて(いま)し給い、そこに生命の溌剌たる躍動があるを示している。もしキリストの教会にこの生命がないならばそれは死ねる石である。もしまた生命があってもそれが霊的不朽な生命でないならばそれは死滅腐朽(ふきゅう)する。「活ける石」とは実にキリストおよびその教会の本質を示して余す処なき巧みなる名称である。
要義2 [霊の家]霊の家はキリストの教会を指す。この構成要素は活ける石(複数)なるキリスト者各人である。そしてこれらのキリスト者は各々その家の部分々々を組織しているのであって、決して材木小屋の木材や石屋の堆石のごとくに相互に無関係なものではない。キリスト者の各々はその賜わりたる霊の量と質とに(したが) い、相関連して神の家の重要なる役目を分担しているのである。ただし霊の家なるがゆえに、その霊の賜物の分担もまた霊的である。人為的制度によって賦与せられし職務の分担のごときはここにいう霊の家の組織ではない。
要義3 [潔き祭司]潔きは聖別されることを意味する。すなわちキリスト者は凡て祭司であって神に仕えるために聖別された者である。そして神に仕える方法は旧教の司祭のごとく神の祭壇の前に立ちて祭事の儀式を行うことではなく、或は官庁に、工場に、街路に、その到る処に神より与えられし職務に信仰をもって従事することである。この犠牲こそ神の喜び給う処のものである。この意味においてキリスト者は凡て祭司であり、従って別に祭司階級を必要としない。「ここに論ぜられる万人祭司主義の観念は(ただ)に特種司祭階級を認むるカトリックの教義に反対であるのみならず、聖言、聖典を(つかさど)る職務を有するものに教会における特権の重要さを帰し(神の委任による)救いを与うるに必要であると主張する者に反対である」(M1)。

2章6節 (此故(このゆゑ)に)聖書(せいしょ)に『()よ、(えら)ばれたる(たふと)(すみ)首石(おやいし)(われ)シオンに()く。(これ)依頼(よりたの)(もの)(はづか)しめられじ』とあるなり。[引照]

口語訳聖書にこう書いてある、「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」。
塚本訳というのは“見よ、”われ“シオンに選びの石、尊き隅石を”置く”これを信ずる者は決して恥をかかされない。”と聖書にある。
前田訳それゆえ聖書にあります、「見よ、わたしはシオンに選ばれた尊い隅の親石を置く。彼を信じる者は恥を受けない」と。
新共同聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」
NIVFor in Scripture it says: "See, I lay a stone in Zion, a chosen and precious cornerstone, and the one who trusts in him will never be put to shame."
註解: 前2節の証拠としてイザ28:16の自由なる引用を行っている。この一節は明らかにメシヤの預言であり、これがキリストにおいて実現した。
辞解
[依り頼む] 普通「信ずる」と訳されている pisteuô で、5節の「彼に来り」と同じ内容を意味する。
[辱しめられじ] キリスト再臨の時に栄光を受けるが故と解する説(M0)と、キリスト者が現在においてキリストに在りて受ける霊の恩恵の豊かさと解する説(B1、Z0)とがある。予は両者を含むと解す。

2章7節 されば(しん)ずる(なんぢ)らには(たふと)きなれど、(しん)ぜぬ(もの)には『造家者(いえつくり)らの()てたる(いし)は、(すみ)首石(おやいし)となれる』にて、[引照]

口語訳この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、
塚本訳だから信ずる君達は光栄に与る(ことが出来る)が、信ぜぬ人達には”建築師が(役に立たぬと)棄てた石で、これが隅の首石、”
前田訳ですから、あなた方信じるものには尊いものですが、不信のものには、「家造りが捨てた石で、隅の親石になったもの、
新共同従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、
NIVNow to you who believe, this stone is precious. But to those who do not believe, "The stone the builders rejected has become the capstone, "

2章8節 『つまづく(いし)(さまた)ぐる(いは)』となるなり。[引照]

口語訳また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。
塚本訳また”蹉跌の石、躓きの岩となった”。彼らは御言(を聴きながらこれ)に従わないので、(遂に)蹉跌するのであって、それはまた(神によって)彼らに定められたことである。
前田訳踏みはずしの石、つまずきの岩」です。彼らがつまずくのはみことばに従わないからで、そのように定められているのです。
新共同また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
NIVand, "A stone that causes men to stumble and a rock that makes them fall." They stumble because they disobey the message--which is also what they were destined for.
註解: キリストを信じる者と彼を信じない者との間にキリストは全く反対の価値を持ち給う。すなわちキリスト者にとってはキリストは「尊貴」そのもの hê timê であり、彼においてあらゆる崇敬と礼拝の対象を見出し、反対に彼を信じない者にとってはキリストは詩118:22およびイザ8:14の言が適応する。不信なる造家者らはキリストなる石を無視してこれを棄てた。然るにこの石は神より選ばれ家の隅の首石(おやいし)となり教会なる霊の家の礎石となり給うた。然のみならずこの石はさらに進んで彼ら不信者の躓きの石となり、その信仰を(さまた)げる岩となった。彼らはキリストに衝突して自ら破滅に帰し、彼に躓いて信仰を失うに至るのである。今日は不信者もなおキリストに敬意を表するがごとくに見ゆるのは一方信者がキリストに対する信仰が足りない結果である。
辞解
[「つまづく」「(さまた)ぐる」] 「つまづく」proskoptô と「(さまた)げる」skandalizô とは日本訳聖書には共に「躓く」と訳さるる場合が多い。然るに前者は強く衝突することを意味し、後者はこれによりて人の心に不信、嫌忌等の心を起させることを意味する。前者によりて人は破滅に帰し、後者によりて人は不信に陥る。なお一見「信ぜぬ者には隅の首石(おやいし)となれり」との意味に解すべきがごとくに見えるけれどもそうではない。

(かれ)らは(したが)はぬに()りて御言(みことば)(つまづ)く。これは()(さだ)められたるなり。

註解: 私訳「彼らは御言に(したが)わぬによりて躓く、彼らもかくあるべく置かれしなり」。「(したが)わぬ」は「信ぜぬ」と殆んど同意義であって(Tペテ1:2ロマ1:5参照)彼らすなわち信じないもの(ここではユダヤ人を主として指す)は上掲のごとき聖書の御言が歴然たるにもかかわらず、これを信ぜざるが故に岩なるキリストに衝突したのである。しかしこれ偶然ではなくパウロがロマ9−11章。殊にロマ9:22にいうごとく(その個所註参照)不従順なる者に対する神の当然の審判であった。

2-6 信徒の身分 2:9 - 2:10

2章9節 されど(なんぢ)らは(えら)ばれたる(やから)(わう)なる祭司(さいし)(きよ)國人(くにびと)(かみ)()ける(たみ)なり、[引照]

口語訳しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
塚本訳しかし君達は“選ばれた種族、王なる祭司、聖き民族、”神の“所有物なる民”(である。そして君達がかく神の所有物となったのは、)君達を暗から驚くべき光へと召し給うたお方の“功業を宣べるためである”。
前田訳しかしあなた方は選ばれた部族、王なる祭司、聖なる国民、神直属の民です。それはあなた方を闇の中からそのすばらしい光へとお招きの方のみわざをのべ伝えるためです。
新共同しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
NIVBut you are a chosen people, a royal priesthood, a holy nation, a people belonging to God, that you may declare the praises of him who called you out of darkness into his wonderful light.
註解: 「汝ら」は7節の「信ぜぬ者」の反対なる信者を指す。「選ばれたる族」以下の四つの資格はイザ43:20、21(七十人訳)および出19:5、6(七十人訳)よりの引用で、本来神がその民イスラエルに対して用い給いし称呼であった。ペテロはこれをキリストによって救われし神の子たちの教会に適用したのである。真のイスラエル(ロマ9:6ガラ6:16)はこれである。すなわち信じる者はこの世より「選び出されし種族」であり(引照1、ヨハ15:16ヨハ15:19)もはや世の思いと慾とに従って歩まない。また彼らは神との関係において「祭司」であって常に神の前に立ちて神に仕え、しかも「王なる」祭司であって、大祭司キリストと共に万有を支配する(ロマ5:17ロマ8:32)資格を持つ。また彼らは「聖き国民」(私訳)で神によりて聖別され、キリストを王として仰ぐ一の民であり、また彼らは神より見ればその「取って置きの民」であって神は特にこの群を自己のものとして愛し給う。
辞解
[神に()ける民] laos eis peripoiêsin の peripoiêsis は「保護し保存する」意味、意訳すれば「取って置きの民」と言うべきであろう。

これ(なんぢ)らを暗黒(くらき)より()して、(おのれ)(たへ)なる(ひかり)()(たま)ひし(もの)(ほまれ)(あらは)させん(ため)なり。

註解: 本節前半の四つの資格はみな神の賜物で、後半は神がかかる資格を賦与し給える目的を示している。すなわちこれ神が信徒をして神御自身の「あらゆる優越を宣揚(=世の中にはっきり示し表す:広辞苑)せしめんが為」(私訳)であった。この神は彼ら信徒をその本来の暗黒より神の「驚異(おどろく)べき光」(私訳)の中に召入れ給うたのである(引照5、コロ1:13)。神は自らの能力をもって人を救い出し、彼らをして自らの優偉さを宣揚せしめ給う。
辞解
[譽] aretê は複数形を用い「善良、栄光、偉大、崇高、智慧、正義、能力」(I0、C1)等人格的精神的道徳的のあらゆる優偉を指示す(B1、A1、I0、M0、Z0)。
[(あらは)す] exangelô は「宣揚する」意。

2章10節 [なんぢら](さき)には(たみ)にあらざりしが、(いま)(かみ)(たみ)なり。(さき)には憐憫(あはれみ)(かうむ)らざりしが、(いま)憐憫(あはれみ)(かうむ)れり。[引照]

口語訳あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。
塚本訳(誠に)君達はかつては、「“非民”」(であったが)今や神の民、(前には神に)“憐れまれぬ者”(であったが)今や憐れまれる者(となった)。
前田訳「かつては神の民でなかったあなた方は今は神の民であり、かつてはあわれみのないものでしたが、今はあわれみをお受けです」。
新共同あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。
NIVOnce you were not a people, but now you are the people of God; once you had not received mercy, but now you have received mercy.
註解: 私訳「(さき)に民ならざりしものは今や神の民となり、(さき)憐憫(あわれ)まれざりし者は今や憐憫(あわれ)まれしものとなれり」。ホセ2:25の応用。ホセ2:25においては神に(そむ)けるユダヤ人を「非民」と呼び給う。本節においては神を知らない異邦人も、神にそむけるユダヤ人もこれを一団として「民ならざりし者」すなわち「非民」と呼び「神の民」と対立せしめている(なおロマ9:25参照)。前者は神の憐憫(あわれみ)を受けざるもの(すなわちその罪咎を審かれる立場におるもの)であり、後者は神の憐憫(あわれみ)によりてその罪を赦され、その憐憫(あわれみ)の中に生きているものである。ここに二つの全く相対立する集団につき叙べていることに注意すべきである。
要義1 [二種の民]5−10節においてペテロはキリストに属する者と然らざるものとの間に明瞭なる区別を置いている。あたかも旧約時代においてイスラエルと異邦人とを区別するがごとくである。そしてこの区別の標準はイスラエルの民が誤って誇りしごとき肉による系統ではなく、また今日のキリスト者の誤認するごとくキリスト教国民と異教国民、または教会員と然らざるものとの区別でもなく、信ずるや否や(7節(したが)うや否や(8節)にある。前者は神国民であり、後者は「非神国民」である。前者はキリストに連なり、後者は彼に躓く、前者は神の憐憫(あわれみ)の中に生き、後者はその審判の下に立つ。我らはそのいずれに属するやを自ら顧みるべきである。
要義2 [キリスト者の身分]9節は遺憾なくキリスト者およびその教会の身分を示している。人は自己の意思や努力修養によりてキリスト者となったのではなく、神に選ばれし族であり、神に対しては絶えずその前に立ちて彼に仕える祭司であり、また人と世とに対してはこれを支配する王である。そして彼らは一つのエクレシヤを成し神によって聖別された一団であり、神より見ればその特愛の所有である。かかる者の生活の目的は自己の快楽成功のためでもなく、またいわゆる自己の安身立命でもない。彼らは唯神の優れたる稜威、徳光を宣揚することがその本務である。神はそのために彼らを選み給うたのである。そして彼らは各々神に仕えその御言に従うことによってこの目的を達することができる。

分類
3 キリスト者のこの世における生活に関する教訓 2:11 - 4:6
3-1 総論 2:11 - 2:12

註解: 前節まででペテロはキリスト者に対する一般的の特徴を示し、神の恩恵による救い(1:3−5)、キリスト者の苦難と希望(1:6−12)、その清潔と新生(1:13−25)、その教会の身分(2:1−10)等につきて述べたる後ここに筆を改めて本節以下にキリスト者の世に対する義務を論じている。この論法は大体においてパウロの書簡に類似しているけれども、この間にパウロの場合のごとき截然たる区別は認め難い。

2章11節 (あい)する(もの)よ、われ(なんぢ)らに(すす)む。(なんぢ)らは旅人(たびびと)また宿(やど)れる(もの)なれば、靈魂(たましひ)(さから)ひて(たたか)(にく)((てき))の(よく)()け、[引照]

口語訳愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。
塚本訳愛する者よ、勧める、(地上で)“旅の者また仮寓者”である君達は、霊魂に逆らって戦う肉の慾を避け、
前田訳親愛な方々よ、お勧めします。旅びとまた宿るものとして、魂と戦う肉の欲を避けなさい。
新共同愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
NIVDear friends, I urge you, as aliens and strangers in the world, to abstain from sinful desires, which war against your soul.
註解: キリスト者のこの世に対する関係は「旅人」 paroikos でこの世の家族の一員ではない。また寄寓者 parepidêmos であってこの世に市民権がない、彼らの国籍は天にあり、彼らは神の家族の一員である。ゆえに霊的慾求に反抗する肉的慾求から遠ざかっていなければならない(ガラ5:19エペ2:3)。ペテロがこの肉の慾求をあたかも外部より来るもののごとくに取扱っていることに注意せよ。
辞解
[愛する者よ] agapêtoi はキリスト者同志の呼びかけで、特に注意を喚起しまたは薦奨をなす場合に多く用いられる。
[避け] apechesthai はある物より自己を遠ざけることを意味する。
[旅人また寄寓者] 詩39:12ヘブ11:13参照。キリスト者の身分を示す好称呼。

2章12節 異邦人(いはうじん)(なか)にありて行状(ぎゃうじゃう)(うるわ)しく()よ、[引照]

口語訳異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。
塚本訳異教人の中における歩き方を立派にせよ。(今)君達を悪いことをする者のように譏っている人達が、(君達の)立派な行動によって悟り、その(譏っていた)ことにおいて(かえって)“訪問の日に”神を(信じ)崇める(に至らん)ためである。
前田訳あなた方のふるまいを異教徒の間で美しく保ちなさい。それは、彼らが悪者とそしっても、あなた方の美しい行ないを見て、顧みの日に神に栄光を帰するためです。
新共同また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。
NIVLive such good lives among the pagans that, though they accuse you of doing wrong, they may see your good deeds and glorify God on the day he visits us.
註解: 未信者異邦人の中にあるキリスト者は、神のみならずこれらの異邦人に対してもその行状を善くする必要がある。もしキリスト者にして君主(13節)、主人(18節以下)、夫(Tペテ3:1以下)、妻(Tペテ3:7)等に対しての行状が不良であるならば不信者なる異邦人はこれを見逃さない。

これ(なんぢ)らを(そし)りて(あく)をおこなふ(もの)()へる人々(ひとびと)の、(なんぢ)らの()行爲(おこなひ)()て、(かへ)つて眷顧(かへりみ)()(かみ)(あが)めん(ため)なり。

註解: たとい異邦人は多くの非難をキリスト者に向けていても、もしキリスト者にして善行を為し続けるならば、やがて神は異邦人を顧みてこれに特別の導きを与え給う日至れば、彼らはキリスト者の行為を熟視するようになり、その結果キリスト者の善行が明らかになって彼らも信仰を与えられて神を讃美するに至るであろう。善行は己の為のみではない。本節を述べる場合、ペテロはマタ5:16の主の御言を脳裡に浮かべていたのかもしてない。
辞解
[眷顧(かへりみ)の日] hêmera episkopês は種々の意味に解釈せらる。イザ10:3参照。episkopês は監督、注視、監視の意味あり、これによりて賞罰を与えることをも意味している。本節の場合は、神異邦人を顧みこれを(おとな)いこれをして主を崇めるに至らしめ給う日を意味す。不信者が信仰に入るはかかる神の眷顧(かへりみ)を必要とする(C1、B1、Z0、M0)。なお「最後の審判の日」(I0、E0)、「神がキリスト者の無辜(むこ)を明らかにし給う日」その他種々の解あり。
[(そし)る] Tペテ3:16Tペテ4:14のごとく。
要義 [キリスト者の行為]キリストが非難さるべき行為を為すことは二重の意味において罪である。その一は神の御心を傷つけ、神の贖いを空しくすること、その二はこれによりて未信者の救わるべき機会を少なくすることである。今日のキリスト者もこの点において戒心しなければならない。

3-2 権力及びその所有者に対する義務 2:13 - 2:17

2章13節 なんぢら(しゅ)のために(すべ)(ひと)()てたる制度(せいど)(したが)へ。[引照]

口語訳あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、
塚本訳主の(立て給うたものであるが)故に、人間の凡ての制度に服従せよ。あるいは主権者として王に、
前田訳主のためにすべての人的秩序に従いなさい。支配者としての王にせよ、
新共同主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、
NIVSubmit yourselves for the Lord's sake to every authority instituted among men: whether to the king, as the supreme authority,
註解: 私訳「凡ての人間的制度に(したが)え」。キリスト者は神にある自由を享有するの結果、人間社会百般の制度を軽視し、これを蹂躙(じゅうりん)しやすい。しかしながら人間的諸制度はこれを尊重しこれに従うことは主イエス・キリストの御旨に叶うことである。その理由はおそらくパウロと同じくこれが神の許しの下に存立するものと考えたであろう(ロマ13:1−7)。▲「(したが)え」の原語 hupotasso は下位の者が上位の者の下に立って秩序を守る意味であるが口語訳では僕や妻は主人や夫に「仕えなさい」と訳している(Tペテ2:18Tペテ3:1Tペテ3:5)。「仕える」と「服従する」とは全く別のことである故にこの訳語は適当ではない。なおエペ5:22コロ3:18テト2:5も同様である。男女平等の思想に影響されたものと見えるが思想は思想、翻訳は翻訳ゆえ混同してはならない。
辞解
[人の立てたる] 原語 anthrôpinos は「人の立てたる」の意味(改訳)の外に「人のための」「人間の社会生活のための」の意味に取る説(C1、M0、Z0、B1)およびこの両者を併せ「人間社会のために人間が立てたる」の意味に取る説(I0)等あり、最後の説を採る。すなわち「人間的の」または「人間の」の意味。このペテロの見方はパウロのロマ13:1以下の所説に反しない。なお「主のために」を「主が命じ給えるゆえ」または「主もかく行い給えるゆえ」等の意に解する説もある。

(あるひ)(うへ)()(わう)

2章14節 (あるひ)(あく)をおこなふ(もの)(ばっ)し、(ぜん)をおこなふ(もの)(しゃう)せんために(わう)より(つかは)されたる(つかさ)(したが)へ。[引照]

口語訳あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。
塚本訳あるいは悪人を罰し善人を褒めるため王から遣わされた者としての総督達に(服従せよ)。
前田訳悪人を罰し善人をほめるために、王につかわされた総督にせよ、従いなさい。
新共同あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。
NIVor to governors, who are sent by him to punish those who do wrong and to commend those who do right.
註解: 「王」はローマのカイザル、「司」は王より派遣せらし地方長官である。当時の王や司は往々キリスト者を迫害し、また彼らの中に暴君も多かった。それにもかかわらずペテロは人間社会の制度を尊重して彼らに服従すべきことを命じている所以は、一はキリスト者は神との関係において生活するものであって、現世に対しては旅人、寄寓者の生活に過ぎざるがためであり、一は人間社会の制度は神によって立てられるものであって、支配者の個人的非行は大局において神の経綸を破壊し去るものに非ず。必要の場合は神自らかかる個人を罰し給うとの信念によったのである。司の職務を悪行者を罰し善行者を賞するに在りと指示せる所以もここにある。そして次節はこの服従の目的を示す。

2章15節 (ぜん)(おこな)ひて(おろか)なる(ひと)無知(むち)(ことば)()むるは、(かみ)御意(みこころ)なればなり。[引照]

口語訳善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。
塚本訳(君達の)善行によって、(君達を危険人物のように考えている)無理解な人達の無知(な非難)を沈黙させることは、神の御旨であるからである。
前田訳善をなして無知な人々のたわごとを封じるのは神のみ心です。
新共同善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。
NIVFor it is God's will that by doing good you should silence the ignorant talk of foolish men.
註解: 神を知らざる者(最大の愚人)は、そのキリスト者に関する無知の故に種々の誹謗を(ほしいまま)にする(12節)。この無知をして沈黙せしめんがために最も有効なる方法は議論や説教ではなく善を行うことである。事実は最大の雄弁である。そしてこれこそ神の御意(みこころ)である。
辞解
[無知の言を止むる] 原語は「無知を黙せしむる」。
[神の御意(みこころ)なればなり] 文首にありて意を強めている。

2章16節 なんぢら自由(じいう)なる(もの)のごとくすとも、その自由(じいう)をもて(あく)(おほひ)となさず、(かみ)(しもべ)のごとくせよ。[引照]

口語訳自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。
塚本訳(しかし君達は自由の人であるから、)自由の人としてこれをせよ。ただその自由を悪の覆いとせず、かえって神の奴隷としてこれをせよ。
前田訳自由人であってください。しかし自由を悪の覆いとせず、神の僕としてです。
新共同自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。
NIVLive as free men, but do not use your freedom as a cover-up for evil; live as servants of God.
註解: 私訳「自由なる者のごとく〔せよ〕。而して自由を悪の(おおい)とする者のごとくならず、神の僕のごとく〔せよ〕。」キリスト者が善を行う場合の態度は罪や慾や権勢に対する気兼ねより全く解放せられし自由人(ガラ5:13)のごとくでなければならない。しかしながら自由は往々にして濫用されやすく、また政権に対する不従順、社会制度に対する軽蔑等も自由と混同されやすい。かかる悪行を自由の名をもって(おお)うものは真の自由人ではない。真の自由人は神の僕(ロマ6:16)であって、神の御意(みこころ)に従って行動する。
辞解
本節には「せよ」なる文字なし。ゆえに(1)13節の「(したが)へ」につくとする説(B1、C2)、(2)15節の「善を行ひ」につくとする説(A1、L1、C1、E0)、(3)17節につくとする説あり。第二説を採る。

2章17節 なんぢら(すべ)ての(ひと)(うやま)ひ、兄弟(きゃうだい)(あい)し、(かみ)(おそ)れ、(わう)(たふと)べ。[引照]

口語訳すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。
塚本訳凡ての者を敬え、すなわち教友を愛し、“神を畏れ、王を”敬え。
前田訳すべての人を敬い、兄弟を愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。
新共同すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。
NIVShow proper respect to everyone: Love the brotherhood of believers, fear God, honor the king.
註解: 凡ての人は(異教徒、未信者、敵人、野蛮人を論ぜず)神の創造(つく)り給えるものである。ゆえにこれを敬わなければならぬ。兄弟 adelphotês は信仰の兄弟たる身分を有する者を指す。キリスト者は勿論敵をも愛さなければならない。しかしながら信仰の兄弟は兄弟として特別なる愛の対象である。神は畏るべきであって、濫りに()れるは神の本質に対する冒涜である。王はこれを敬い王たる地位に対する正しい態度を取らなければならない。これらの四か条はみな「神の僕」たるものの当然の態度である。これらに反する者は自由のごとくであって実は私慾の奴隷となっているのである。▲独裁制、寡頭(かとう)制、貴族制、民主制、共産制、自由制など種々の政治形体があり、いずれも人の立てたものであって長所も欠点もある。ある政体が存立している限りにおいて神の許しの下にあるものと考えなければならない。
要義 [国権に対する服従](いやしく)も神の御旨に従い、正義の上に立つことをもってその生命とするキリスト者が、唯簡単に国権の所有者たる王や司に服従すべしということは一見不可解のごとくに見える。殊に初代キリスト教の時代において国権は多く濫用せられ、不正なる有司(ゆうし)が多かったことは勿論、今日といえども、キリスト教の立場より見て多くの不正が政治上社会上の事実として存在する。それにもかかわらず無条件に彼らに服従すべしというは如何なる意義であろうか。前後の文章および聖書全体の態度より観察するに、その理由は(1)神の経綸に対する絶対の信頼であって、支配者の権力も結局神の与え給える処であり、神の意思に反する悪しき支配者は結局神これを滅ぼし給うが故にキリスト者はこの神を信じて忍従すべきこと、(2)キリスト者は旅人また寄寓者なるが故にこの世とその変遷に対して第三者の立場に立っていること、(3)万一権力者がその権力をもってキリスト者に不正な強要をせんとする時のごときこれに従って不正を行うべしという意味ではなく、神の御旨に従って正義を行うことにより権力者の与うる刑罰を甘受すべしという意味においての服従を我らに教えているのである。一見意気地なしのごとくであるけれども、実は大なる信仰によらざればこれを実行し得ない。そして信仰によりてこれを実行するものは最大の社会改良家である。イエスを見よ。▲今日の共産主義者や労働運動家はかかる態度に極力反対する。しかしもし資本家が真のキリスト者であったならば労働問題は起らなかったであろう。形式的キリスト者は社会問題や国際問題を解決する力が無い。

3-3 僕に対する教訓 2:18 - 2:25

2章18節 (しもべ)たる(もの)よ、(おほい)なる(おそれ)をもて主人(あるじ)(したが)へ、[引照]

口語訳僕たる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい。
塚本訳奴隷達よ、(神に対する)あらん限りの畏れをもって主人に服従せよ、ただ善い、優しい主人だけでなく、気難しい主人にも(快く服従せよ。)
前田訳僕たちは、心からのおそれをもって主人たちに仕えなさい。善良で親切な主人にだけでなく、曲がった主人にもです。
新共同召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。
NIVSlaves, submit yourselves to your masters with all respect, not only to those who are good and considerate, but also to those who are harsh.
註解: (おそれ)」は「尊敬」よりも強き語で「畏敬」に当る。主人の権威を認めてこれを尊びこれに服すること。仮面を(かぶ)れる服従、強いて為す服従、目の前だけの服従(コロ3:22)はこの畏敬に反する。この服従関係は今日権利義務の関係に置換えられつつあれども、権利義務の関係は人間相互の関係としては最も低級なるものである。
辞解
[僕] oiketês は「家僕」の意味で doulos 「奴隷」よりも広くかつ柔かい言表し方である。主人に注意を与えないのは、未信者が多い故であろう。
[(おほい)なる(おそれ)] 原語は「凡ての(おそれ)」。

(ただ)()きもの、寛容(くわんよう)なる(もの)にのみならず、(じゃう)なき(もの)にも(したが)へ、

註解: 東洋道徳そのままであることに注意せよ。僕は主人の非行に対して反抗すべきではない。主人はその行為に対して神に向って責任があり、神これを罰し給う。僕は主人の如何に関らず服従がその最も正しき立場である。
辞解
[善きもの] ho agathos はこの場合僕に対して「親切」である意味が含まれている(M0、G1)。
[寛容なるもの] ho epieikês は柔和にして甚だしく叱責するがごときことなくよく罪咎を赦す人。
[情なき者] ho skolios 意地悪にして根性の曲がっている者。

2章19節 (そは)(ひと)もし()くべからざる苦難(くるしみ)()け、(かみ)(みと)むるに()りて(うれひ)()ふる(こと)をせば、これ()[む](めらる)べき((こと)なれば)なり。[引照]

口語訳もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。
塚本訳もし人が(自分を奴隷としたのは)神(であること)を意識して苦痛を忍び、不当に苦しむならば、これは(神に)喜ばれることであるからである。
前田訳神を思って不当に苦しんで悩みに耐えることは恩恵です。
新共同不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。
NIVFor it is commendable if a man bears up under the pain of unjust suffering because he is conscious of God.
註解: 主人が非道に僕を苦しむる場合に、これに堪うる最良の方法、そして唯一の真の道は神を心に意識することである。神は人を偏り視ず、凡ての人の心の善悪を知り、これをそれぞれ正当に報い給う。そしてかかる態度は神の(よみ)し給い誉め給う処である。奴隷の虐待が普通に行われていた当時にはこの教訓は殊に深き意義があった。一見主人に対してあまりに寛大なるがごときこの一節はかえって神の大なる審判を彼に対して宣告しているのである。
辞解
[神を認むるに因りて] dia suneidêsin theou 種々の解あれど「神を自己の心中に意識することに因りて」の意、「神に対する良心により」または「神的良心により」とも直訳することができる。
[これ誉むべきなり] touto charis は或は「これ感謝すべきなり」(A1、I0)とも、また「これ恩恵なり」等とも解せられるけれども次節の場合と同じく「神の誉れ(行為、寵遇(ちょうぐう)[寵愛して特別に待遇すること:広辞苑])をうべき事」とみるべきであろう(C1、B1、E0)。

2章20節 もし(つみ)(をか)して()たるるとき、(これ)(しの)ぶとも(なに)(こう)かある。されど()(ぜん)(おこな)ひてなほ(くる)しめらるる(とき)これを(しの)ばば、これ(かみ)()めたまふ(ところ)なり。[引照]

口語訳悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。
塚本訳何故なら、もし罪を犯して打たれて忍耐したとて、何の名誉になろう。しかし善行によって苦しめられて忍耐するならば、これこそ神の前に喜ばれることである。
前田訳罪を犯して打たれて忍んでも、何の面目がありましょう。善をなして苦しんで忍べば、それこそ神にあって恩恵です。
新共同罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。
NIVBut how is it to your credit if you receive a beating for doing wrong and endure it? But if you suffer for doing good and you endure it, this is commendable before God.
註解: ルカ6:32以下の主イエスの御言をペテロが祖述(そじゅつ)しているもののごとくに見える。主人より誉れを得ることを目的とする僕は善を行いてもなお苦しめられる時これを忍ぶことができない。されど神に目を注ぎ神の誉れを得ることを目的とする僕は神凡てを知り給うことを確信して主人の凡ての非道の虐待をも祈りをもって静かに耐え忍ぶことができる。
辞解
[(こう)] kleos は「栄誉」の意。大切なのは「多人数よりもむしろ善人よりの賞讃」(B1)である。

2章21節 (なんぢ)らは(これ)がために()されたり、キリストも(なんぢ)らの(ため)苦難(くるしみ)をうけ、(なんぢ)らを()足跡(あしあと)(したが)はしめんとて模範(もはん)(のこ)(たま)へるなり。[引照]

口語訳あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。
塚本訳君達はこのために召されたのであるから。というのはキリストも君達のために苦しみ、君達をその足跡に随わせようとして模範を遺し給うたのである。
前田訳このためにあなた方は召されたのです。キリストもあなた方のために苦しみ、み跡に従うよう模範をお残しでした。
新共同あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
NIVTo this you were called, because Christ suffered for you, leaving you an example, that you should follow in his steps.
註解: 神が僕たる者を召してキリスト者たらしめた目的は虐待の中に忍耐せしめんためであったというのである。神は一人の人をも無目的に召し給わない。また一つの苦痛をも無意義に与え給わない。このことを考える時奴僕の地位にありて召された者の重大なる責任を思わしめられる。唯かかる苦難のために召されし者が意気沮喪(そそう)しないようにペテロはキリストの例をここに示し、キリストは御自身に苦難を受くべき原因が絶無であるのに「汝ら」罪人のために代って十字架につき給うたことを思い、彼を手本としてその足跡に(したが)うべきことを薦めている。この一節は単に僕、奴隷のみならず一般のキリスト者にも適用することができる。
辞解
[模範] hupogrammos 児童の書画の手本。

2章22節 (かれ)(つみ)(をか)さず、その(くち)虚僞(いつはり)なく、[引照]

口語訳キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。
塚本訳彼は(聖書にあるように)罪を”犯さず、その口には欺瞞が無かった”。
前田訳「彼は罪を犯さず、口に偽りがありませんでした」。
新共同「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」
NIV"He committed no sin, and no deceit was found in his mouth."
註解: 以下3節はみな連絡しており共に前節キリストの説明である。本節はイザ53:9よりの引用で主イエスの姿を最もよく描写している。彼に(なら)い行と言とを共に慎むのが奴隷たるものの義務である。

2章23節 また(ののし)られて(ののし)らず、(くる)しめられて(おびや)かさず、(ただ)しく(さば)きたまふ(もの)(おのれ)(ゆだ)ね、[引照]

口語訳ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。
塚本訳彼は悪口されても悪口し返さず、苦しめられても脅かさずして、正しく審き給う者に裁量を任せ給うた。
前田訳彼はそしられてもそしり返さず、苦しんでもおびやかさず、正しくお裁きの方に身をおゆだねでした。
新共同ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
NIVWhen they hurled their insults at him, he did not retaliate; when he suffered, he made no threats. Instead, he entrusted himself to him who judges justly.
註解: イザ53:7を連想させる一節である。本節は前節と異なり他より迫害された場合のキリストの態度を示す。キリストは父より審判を委ねられ給うた(ヨハ5:22)。それにもかかわらず自らその権を行使し給わず、凡てを父に委ねし忍従の生活を送り給うた。いわんや人の僕たるものはなおさらである。「神の義は苦しめられるの者にとっての平安の基礎である」(B1)。

2章24節 ()(うへ)(かか)りて、みづから(われ)らの(つみ)(おの)()()(たま)へり。[引照]

口語訳さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
塚本訳彼は“自ら私達の罪を”自分の身に“負って”木の上に“上り給うた”。私達が罪によっては死に、義によっては生きるためである。彼の“傷によって君達は医された”。
前田訳彼はわれらの罪をその身に負って十字架におつきでした。それはわれらが罪に死んで義に生きるためです。彼の傷によってあなた方はいやされた、とあるとおりです。
新共同そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
NIVHe himself bore our sins in his body on the tree, so that we might die to sins and live for righteousness; by his wounds you have been healed.
註解: 私訳「みづから我らの罪を己が身をもて木の上に献げ給えり」。ここにイエスは祭司と犠牲の動物との二つの資格において表わされいる(ヘブ7:27ヘブ9:28イザ53:6イザ53:11)。すなわちイエスはあたかも犠牲の生物のごとくに人の罪をその身に負いて贖いとなり給い、そして大祭司としてこの自己の身をその負える罪ともろともに祭壇なる十字架に献げ給うた。これがキリストの忍従と愛の絶頂である。
辞解
[懸り] anapherô は「負う」と「運ぶ」との二義あり、祭壇にささげる場合はこの字を用う(創8:20レビ3:6以下。イザ60:7。その他)。本節はこの二つの意義を兼ねしめたものと見るのが最良の解釈であろう(I0、Z0、A1、E0)。
[木] 十字架の意(使5:30使10:39使13:29ガラ3:13)。

これ(われ)らが(つみ)に[()きて]()に、()に[()きて]()きん(ため)なり。

註解: キリストの贖罪の死は、これを信じる者をして罪に死し、義に生ける者たらしめる力がある。ペテロは僕たる者に対し単に忍耐を教えるのみならず、凡ての善行の基礎たる贖罪と聖潔の原理に(さかのぼ)ったのである。

(なんぢ)らは(かれ)(きず)によりて(いや)されたり。

註解: イザ53:5。イエスが十字架上に苦しみ給わなかったならば我らは永遠に罪の痛手より免れ得ないであろう。奴僕たるものが主人より受くる傷ももしキリストのごとくにこれを忍びこれを受けるならば、決して効果なしに終るものではない。
辞解
[傷] 打撲傷を意味する文字。

2章25節 (そは)なんぢら(まへ)には(ひつじ)のごとく(まよ)ひたりしが、(いま)(なんぢ)らの靈魂(たましひ)牧者(ぼくしゃ)たる監督(かんとく)(かへ)りた(ればな)り。[引照]

口語訳あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。
塚本訳何故なら、君達は(かつては)“迷える羊のよう”であったが、今や君達の霊魂の牧者また監督者に戻ったからである。
前田訳あなた方は羊のように迷っていましたが、今は魂の牧者また保護者へと帰ったのです。
新共同あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
NIVFor you were like sheep going astray, but now you have returned to the Shepherd and Overseer of your souls.
註解: 前節にキリスト者としての新生につきて述べ、本節はその理由を示す。すなわちキリストを知らざるものの霊魂は牧者、監督者なき羊のごとく豺狼(おおかみ)なるサタンの跳梁(ちょうりょう)する暗黒の世界に迷っている。然るに今や彼の霊魂はキリストによりて贖われ牧せられまた監督されており、従って彼には霊の草と生命の水とに欠くることがなく(牧者の務め)、彼の霊魂は内外の敵を防ぐことができる(監督の務め)。ゆえに奴僕は主人の虐使(ぎゃくし)により肉体において如何なる苦痛を受くるとも、その霊魂はキリストにありて永遠に完全である。
辞解
[牧者、監督] 「牧者」「監督」は職名にあらず、事実の叙述である(I0)。「牧者たる監督」は適訳にあらず。「牧者又監督」である。「監督者」は信者の霊状を見守り注意してその発育を助ける人をいうので、欠点探しの意味の監督ではない。
要義 [主従の道]古来東洋においても主君に対する従僕の服従が教えられていた。しかしながら神を知らざる支配階級にとっては、この道徳は、単にその専制を保護助長することに利用せられ、神を知らざる奴僕にとっては単に自己の利害打算よりする卑屈なる服従となり、極めて嫌悪すべき社会状況を惹起した。しかしキリスト者たる奴僕にとっては、ペテロがここに論ずるごとくキリストの十字架によりて贖われ新たなる生命に復活せるものたる理由により、主人に対する絶対の服従が極めて高き道徳として輝き出でているのである。この服従には何ら打算や卑屈な心情がなく、かえってこの服従によりて主人の悪に打勝って高らかに凱歌を挙げているのである。神はこの心を誉めずにはおき給わない。

第1ペテロ書第3章
3-4 妻に対する教訓 3:1 - 3:6

3章1節 - 2節 (同様(どうよう)に)(つま)たる(もの)よ、(なんぢ)らもその(をっと)(したが)へ。[引照]

口語訳同じように、妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、[2節]あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。
塚本訳同じく妻達よ、自分の夫に従え、或る夫が(伝道者の宣べる)御言には従わずとも、言葉でなく妻の行いによって、[2節](すなわち)お前達の神を畏れる潔い行いを見て捕えられんためである。
前田訳同様に、女の方たちはおのが夫に従いなさい。もしみことばに従わぬものがあっても、妻の無言の行状によって納得してくれるでしょう。[2節]すなわち、あなた方のつつましやかな清い行状を見てです。
新共同同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。[2節]神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。
NIVWives, in the same way be submissive to your husbands so that, if any of them do not believe the word, they may be won over without words by the behavior of their wives, [2節]when they see the purity and reverence of your lives.
註解: 主従の関係と夫婦の関係が凡てにおいて同一というのではなく、唯服従が妻の夫に対する関係の重点である意味において主従の関係に等しい。この点が今日のキリスト教国においていかに無視、蹂躙(じゅうりん)されているかを見よ。▲Tペテ2:13の脚注参照。口語訳「仕えなさい」の原語 hupotassô は英語の subordinateに相当す。(hupo=sub,tassô=ordinate)「(したが)う」と訳すべきである。

たとひ御言(みことば)(したが)はぬ(をっと)ありとも、

註解: 信仰に反対なる未信者の夫を持てる妻が信仰に入る場合は当時少なくなかった。

(なんぢ)らの(きよ)く、かつ恭敬(うやうや)しき行状(ぎゃうじゃう)()て、(ことば)によらず(つま)行状(ぎゃうじゃう)によりて(すくひ)()らん(ため)なり。

註解: 私訳「汝らの畏敬による潔き行状を見て、無言の裏に妻の行状によりて救入れられん為なり」。貞操や従順は勿論、妻たる身分に伴う凡ての行状を純潔ならしむることを神を畏れ敬いつつ注意し努力する妻は、たといその夫に対して信仰問題につきて説明または論議せずとも─否かえってかかる言を用いないがために─その行状がその夫を動かして夫の心を信仰に導き入れるに至るものである。服従の力の偉大さはここにある。
辞解
[言によらず] 「言なしに」で人を信仰に導くに必ずしも説明が最良の伝道法ではないことを示す。この事実は今日も多く目撃することができ、必ずしもロマ10:17と矛盾しない。
[救入れらる] kerdêthêsontai 損失を免れて利得を得る意味の動詞 kerdainô の未来受動形で、夫が亡びを免れて信仰に入ることはその妻や友人が彼を獲得せるのみならずキリストが彼を獲得せることとなり、彼は彼らに獲得せられしこととなる。

3章3節 (なんぢ)らは(かみ)()み、(きん)をかけ、衣服(ころも)(よそほ)ふごとき表面(うはべ)のものを(かざり)とせず、[引照]

口語訳あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、
塚本訳お前達の飾りは髪を(綺麗に)編んだり、金(の装身具)をつけたり、(美しい)着物を着たりする外部のことでなく、
前田訳あなた方の飾りはうわべの結い髪や金の装いや衣服の着つけでなく、
新共同あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。
NIVYour beauty should not come from outward adornment, such as braided hair and the wearing of gold jewelry and fine clothes.
註解: 婦人がこれらのもののために費やす苦心と時間と費用とは莫大である。この凡てを神の御旨に叶うことに用うべきである。

3章4節 (こころ)のうちの(かく)れたる(ひと)、すなはち柔和(にうわ)恬靜(しずやか)なる(れい)()ちぬ(もの)(かざり)とすべし、(これ)こそは(かみ)(まへ)にて(あたひ)(たか)きものなれ。[引照]

口語訳かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。
塚本訳柔和な、典雅な心ばせを朽ちぬ飾りとする心の中の隠れた人でなければならぬ。これこそ神の前で値打あるものである。
前田訳むしろ隠れた心の底の人柄で、霊の柔和と静けさという朽ちないものです。この霊こそ神の前に尊いものです。
新共同むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
NIVInstead, it should be that of your inner self, the unfading beauty of a gentle and quiet spirit, which is of great worth in God's sight.
註解: 婦人の真の飾りは前節のごとき外面的なものではなく、内面的のものすなわち「隠れたる人」であり、しかも知識や智慧にあらずして「心情の人」である。彼は柔和と恬靜(しずやか)なる霊を特色とする。そしてこの心情こそ、前節の諸々の飾りとは反対に、不朽にして高価なるものである。
辞解
[心のうちの] tês kardias は「心情の」と訳せば誤解を防ぐことができる。
[柔和な] praus は人に対して闘争的、反抗的ならざる心。
[恬靜(しずやか)なる] hêsuchios は静粛にして控え目でありかつ多弁ならず喧騒なる生活を嫌う心。

3章5節 むかし(かみ)(のぞみ)()きたる(きよ)(をんな)たちも、かくの(ごと)くその(をっと)(したが)ひて(おのれ)(かざ)りたり。[引照]

口語訳むかし、神を仰ぎ望んでいた聖なる女たちも、このように身を飾って、その夫に仕えたのである。
塚本訳昔神に望みをかけた妻達も、斯く(柔和と典雅な心をもって)その夫に従い、自らを飾ったではないか。
前田訳このようにかつて神に望んだ聖女たちもおのが夫に従って身を飾りました。
新共同その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。
NIVFor this is the way the holy women of the past who put their hope in God used to make themselves beautiful. They were submissive to their own husbands,
註解: イスラエルの歴史に表われし賢き婦人を引用して彼らの飾りは夫に対する服従であったことを示して当時の婦人の(いましめ)としている。
辞解
[神に望を置きたる潔き女] 真のイスラエルの婦はこの世の栄華を望まず、この世の汚れに染まず、神を望める聖潔の生涯を送る人である。次節の例のサラのごときこれである。

3章6節 (すなは)ちサラがアブラハムを(しゅ)()びて(これ)(したが)ひし(ごと)し。[引照]

口語訳たとえば、サラはアブラハムに仕えて、彼を主と呼んだ。あなたがたも、何事にもおびえ臆することなく善を行えば、サラの娘たちとなるのである。
塚本訳(例えば)サラが“「主」と呼んで”(夫)アブラハムに従順であったように。お前達も善いことをして、どんな“脅迫を”も”恐れなければ”、サラの子となったのである。
前田訳それはサラがアブラハムを主と呼んで従ったようにです。あなた方は善を行なって何もおそれなければ彼女の子におなりです。
新共同たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。
NIVlike Sarah, who obeyed Abraham and called him her master. You are her daughters if you do what is right and do not give way to fear.
註解: 前節の最も代表的の例としてサラを掲げている。創18:12にサラがアブラハムを主と呼べる記事あれど、単にこの一回の事実を指したのではなく彼女の一生涯の間、アブラハムを主として彼に仕えた(不定過去動詞にもこの用法あり。M0、A1、ガラ4:8)。

(なんぢ)らも(ぜん)(おこな)ひて何事(なにごと)にも(おのの)(おそ)れずばサラの()たるなり。

註解: アブラハムの生涯はハランの地を出で、カナンにさまよいてよりその死に至るまで勇敢なる信仰的冒険の生涯であった。サラがもしこれに恐愕したならば彼に(したが)うことができなかったであろう。サラは「いかに恐ろしきことにも懼れずして」(直訳)、善を行いその妻たる務めを全うした。ペテロは当時のキリスト者婦人にもサラのごとくなるべきことを薦め、これによりて男子が信仰によりてアブラハムの子たると同じく(ガラ3:7)、女子は服従によりてサラの子たることを示した。
辞解
この一節は意義上にも文法上にも異説が多い。「汝らはサラの子となりたれば(不定過去)善を行い、如何に恐ろしき事にも懼れざるなり(現在動詞)」(M0、ラゲ訳)と訳することが最も適当なるがごとし。
要義 [キリスト教の婦徳(ふとく)(=夫人の守るべき徳義:広辞苑)]パウロもペテロも共に婦徳(ふとく)要諦(ようてい)(=肝心の点:広辞苑)は夫に対する服従に在りとしていることは注意しなければならない(コロ3:18エペ5:22テト2:5)。今日の多くのキリスト教国においては、婦人尊重の習慣が発達しすぎて婦人の服従の美徳が失われている。その不幸なる結果はやがて彼らの上に報いられるであろう。唯もし彼らがこれをもってキリスト教的態度なりとするならば、これ大なる誤りである。妻の服従は神の定め給える永遠の途であって、単に当時のユダヤ人、または昔の男子尊重の戦乱時代の遺物ではない。唯妻の服従の美徳は往々にして男子の我慾を遂行するための方便として濫用された事実は多く存在した。しかしながらこの弊を矯正する方法は、妻の服従の美徳を廃止することにあらずして、夫婦共に信仰に立ちつつ各々神の定め給える永遠の途に進むことである。

3-5 夫に対する教訓 3:7

3章7節 (をっと)たる(もの)よ、(なんぢ)らその(つま)(おのれ)より(よわ)(うつは)(ごと)くし、知識(ちしき)にしたがひて(とも)()み、[引照]

口語訳夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなたがたの祈が妨げられないためである。
塚本訳夫達も同じく、妻を(自分よりも)弱い器として(いたわり、)理解をもって共に棲み、彼女達もまた恩恵の生命の共同相続人(である)として尊敬を払え。これは君達の祈りが妨げられないようにするためである。
前田訳夫たちも同様です。より弱い器としての妻とともに知識に従って住み、いのちの恵みを共に継ぐものとして(妻を)尊んでください。それはあなた方の祈りが妨げられないためです。
新共同同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。
NIVHusbands, in the same way be considerate as you live with your wives, and treat them with respect as the weaker partner and as heirs with you of the gracious gift of life, so that nothing will hinder your prayers.
註解: キリスト者たる夫の妻に対する務めは、第一にその共棲(きょうせい)に際して妻をば弱き(肉体的にも精神的にも)器としてこれをいたわり、これを圧迫虐待することなく、また女性の天性、妻の特質、夫妻生活の本質の如何を知り、家庭の内外に対する諸般の複雑なる関係の中に在る弱き妻を扱うには如何にすべきかの知識を有ち、これによりて(とも)()むことが必要である。この知識なきもの、また妻を虐待するものは夫たるの務めを尽くしていないものである。
辞解
[器] Tテサ4:4辞解参照。人格を無視し妻を所有物視したる意味ではなく、妻は夫のために創造(つく)られし「助け」(創2:18)であることよりこれを「器」と言ったのである。なお使9:15を見よ。
[の如くし] 「として」と訳する方が可し。
[己より弱き] 肉体的には勿論、精神的にも意志力において女は男より弱い。
[知識にしたがひて] 「節制をもって」の意に解する説あり、これも知識の一部であるが、これに限る必要はない。
[偕に棲み] 単に性的生活を行うの意味に限るべきではない。

生命(いのち)恩惠(めぐみ)(とも)()(もの)として(これ)を貴ベ、

註解: 夫の第二の務めは妻を貴ぶことである。これ女尊男卑の意味ではなく夫妻は共に神の世嗣として永遠の生命の恩恵に与るものなるが故である。妻を奴隷または所有物視することは罪である。神の貴び給うものを人もまた貴ぶべきである。

これ(なんぢ)らの(いのり)妨害(さまたげ)なからん(ため)なり。

註解: もし夫が妻を軽視、虐待しまたは無知の取扱いを為す場合には家庭における夫婦共同の祈祷は妨げられる。共同の祈祷なしに夫婦生活も家庭生活もありえない。
辞解
[汝らの祈] 夫たる者の祈りと解する説もある。
[妨害] enkoptein は中断する、邪魔が入る等の意味。
要義 [キリスト教の夫徳]東洋道徳は妻の義務を強調しつつ夫の義務を教えることが少ない。従って男尊女卑の風を生じ、女子を物品視する弊風(へいふう)を生んだ。キリスト教はこれに反し妻の夫に対する服従を教えると共に夫が妻を貴ぶべきこと、また夫の妻に対する義務を教え、かくして完全なる神中心の家庭生活を実現せしめんとしているのである。

3-6 一般的の教訓 3:8 - 3:12

3章8節 (をはり)()ふ、[引照]

口語訳最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。
塚本訳最後に、皆の者が同じ思いで、同情深く、兄弟仲よく、憐憫深く、謙遜であり、
前田訳終わりに申します。皆が心をひとつにし、同情し、兄弟愛にみち、あわれみをほどこし、へりくだってください。
新共同終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。
NIVFinally, all of you, live in harmony with one another; be sympathetic, love as brothers, be compassionate and humble.
註解: 2:13節以下の教訓の結尾。

(なんぢ)らみな(こころ)(おな)じうし、

註解: ロマ12:16および同節引照1参照。キリストを主と仰ぎ彼につかえることにおいて同心一体となること、自己を高しとし、または聡しとする者(ロマ12:16)または互いに相容れざる者(ロマ15:5ロマ15:7)紛争を事とする者(Tコリ1:10)徒党、虚栄のためにする者(ピリ2:2、3)は心を同じくしている者ではない。

(たがひ)(おも)()り、

註解: sympathein 同情を持つこと。

兄弟(きゃうだい)(あい)し、

註解: 愛なしに信仰の兄弟の関係はない。

(あはれ)み、

註解: 柔和なる心をもって苦難にあるものを憐む。

へりくだり、

註解: 神に対し人に対する謙遜、偽りの謙遜との差に注意せよ(コロ2:18コロ2:23)。

3章9節 (あく)をもて(あく)に、(そしり)をもて(そしり)(むく)ゆることなく、(かへ)つて(これ)祝福(しくふく)せよ。(なんぢ)らの()されたるは祝福(しくふく)()がん(ため)なればなり。[引照]

口語訳悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。
塚本訳悪で悪に、あるいは悪口で悪口に報いず、むしろ反対に、祝福せよ。祝福を相続するために召されたのであるから。
前田訳悪に悪を、そしりにそしりを返さず、むしろ祝福をお返しなさい。あなた方が召されたのは祝福を継ぐためです。
新共同悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
NIVDo not repay evil with evil or insult with insult, but with blessing, because to this you were called so that you may inherit a blessing.
註解: 8節が信徒相互の関係とすれば本節は信徒の敵に対する関係を示す。マタ5:38−48のイエスの教訓を髣髴せしめる。他人の悪(行為)および謗り(言語)に対して復讐心を起さずにいること、さらに進んでその敵を祝福することは、自ら永遠の祝福を嗣ぐの希望を握るにあらざれば不可能である。そして神の我らを召し給える目的がこの永遠の祝福を嗣がさせるためであるとすれば、我らは今よりこの祝福を敵にも分与することができる。

3章10節 ((けだ)し)『生命(いのち)(あい)し、()()(おく)らんとする(もの)は、(した)(おさ)へて(あく)()け、口唇(くちびる)(おさ)へて虚僞(いつはり)(かた)らず、[引照]

口語訳「いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は、舌を制して悪を言わず、くちびるを閉じて偽りを語らず、
塚本訳“何故なら生命を愛し善い日を見ようと思う者は、舌を抑えて悪を、唇を抑えて欺瞞を語らぬようにせよ。
前田訳(聖書にあります、)「いのちを愛し、よい日々を見たい人は、舌の悪をとどめ、唇にいつわりをいわせず、
新共同「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は、/舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、
NIVFor, "Whoever would love life and see good days must keep his tongue from evil and his lips from deceitful speech.
註解: 「生命」は本節の場合は地上における生活を意味し、この生活を愛してこれを有意義ならしめ、また「善き日」すなわち真の意味において幸福なる日を送らんとする者は8、9節のごとき生活を送るべきことを教えているのである。そしてその第一は口舌を慎むことである。悪口や虚偽はたといそれが相手方の悪口虚偽に報いるものであっても人を不幸ならしめその生活を害する。いわんや然らざる場合はなおさらである。
辞解
10−12節は詩34:13−17の七十人訳の引用でペテロはこれを少しく変更している。

3章11節 (あく)より(とほ)ざかりて(ぜん)をおこなひ、平和(へいわ)(もと)めて(これ)()ふべし。[引照]

口語訳悪を避けて善を行い、平和を求めて、これを追え。
塚本訳悪を避け、善を行え、平和を探し、追い求めよ、
前田訳悪を避けて善をなし、平和を求めてそれを追え。
新共同悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。
NIVHe must turn from evil and do good; he must seek peace and pursue it.
註解: 平凡なるがごとくにして実は義しき生活の要領を尽くしている一節である。
辞解
[求める] zêteô は熱求する意。
[追ふ] diôkô はさらに強き意味で追求してこれを得るまでは止まざる(すがた)。かくまでも平和を求める心を神は我らに要求し給う。

3章12節 それ(しゅ)()義人(ぎじん)(うへ)にとどまり、その(みみ)(かれ)らの(いのり)にかたむく。されど(しゅ)御顏(みかほ)(あく)をおこなふ(もの)(むか)ふ』[引照]

口語訳主の目は義人たちに注がれ、主の耳は彼らの祈にかたむく。しかし主の御顔は、悪を行う者に対して向かう」。
塚本訳主の目は義人の上に注がれ耳は彼らの祈りに傾く、しかし主の御顔は悪を行う者にうち向かう”。(と詩篇にある。)
前田訳主の目は義人たちにそそがれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられるが、主の顔は悪をなすものに向けられる」と。
新共同主の目は正しい者に注がれ、/主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
NIVFor the eyes of the Lord are on the righteous and his ears are attentive to their prayer, but the face of the Lord is against those who do evil."
註解: 「怒りは全顔面を動かし愛は目に顕われる」(B1)。御顔は主の審判を表わし目と耳は主の愛を示す。常に主を仰ぎ見る者は主の御旨に叶う生活すなわち義しき祈りの生活を送ることを喜ぶ。
要義 [主を仰ぎ見るの生活]8−12節の生活は愛と義と聖潔と平和とに充てるキリスト者の生活の縮図である。その目は主の御顔に注がれその耳は主の御言を聴き、その望みは永遠の祝福にかかっている。これを世の主義に従って生きる肉の人の生涯と比較するならばその対照を明らかにすることができるであろう。

3-7 主イエス・キリストとその救い 3:13 - 3:22

3章13節 (()つ)(なんぢ)()もし(ぜん)熱心(ねっしん)ならば、(たれ)(なんぢ)らを(そこな)はん。[引照]

口語訳そこで、もしあなたがたが善に熱心であれば、だれが、あなたがたに危害を加えようか。
塚本訳もし君達が善に熱心であるなら、誰が害を加えよう。
前田訳あなた方が善の熱心家ならば、だれが加害者になりましょう。
新共同もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
NIVWho is going to harm you if you are eager to do good?
註解: 直訳「且つ汝らもし善の熱求者たらば汝らを(そこな)はんものは誰なるか」との強き言い表わし方である。善を求めるものは物質的損害によりて益々多くの精神的利益と幸福とを獲得する。

3章14節 たとひ()のために(くる)しめらるる(こと)ありとも、(なんぢ)幸福(さいはひ)なり[引照]

口語訳しかし、万一義のために苦しむようなことがあっても、あなたがたはさいわいである。彼らを恐れたり、心を乱したりしてはならない。
塚本訳しかし仮に正義のため苦しんでも、幸いである。“彼ら(異教人達)の恐ろしさを恐れず、また驚かされず”、
前田訳しかしもし義をなしてお苦しみならば、あなた方はさいわいです。「彼らをおそれず、心を乱さず」、
新共同しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。
NIVBut even if you should suffer for what is right, you are blessed. "Do not fear what they fear ; do not be frightened."
註解: 山上の垂訓(マタ5:10)を思い起す一節である。
辞解
[義] 8−12節のごとき生活を指す。
[苦しめらる] (そこな)う」よりも弱き語。

(かれ)()威嚇(おどし)(おそ)るな、また(こころ)(さわ)がすな』

註解: イザ8:12の引用で迫害に対して泰然自若たるべきことを教えている。不信者の多き実社会において権力者、上官、上役等よりの威嚇(おどし)もキリスト者を恐れしめその心を騒がしめてはならない。マタ10:28

3章15節 (こころ)(うち)にキリストを(しゅ)(あが)めよ、[引照]

口語訳ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。
塚本訳ただ心に“主”キリスト“を(畏れこれを)聖とせよ”。君達にある希望について説明を求むる者には誰にでも、何時でも弁明の用意をして居れ。
前田訳主キリストを心の中であがめてください。あなたの中にある希望について説明を求める人には、だれでもつねに答えうる用意をなさい。
新共同心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
NIVBut in your hearts set apart Christ as Lord. Always be prepared to give an answer to everyone who asks you to give the reason for the hope that you have. But do this with gentleness and respect,
註解: 迫害誹謗に対して心を動かさない方法はキリストを主と崇め、彼に依り頼むことにより何者をも恐れざるにある。「心の中に」を附加したる所以は主キリストを単に形式や口頭をもって崇むることが迫害に打勝つ力なきことを示す。
辞解
[崇め] hagiazô はマタ6:9の「崇め」と同文字、「聖め」を意味するその個所の註を参照。本節はむしろ「心の中に主キリストを崇めよ」と訳す方が優っている(M0、B1、Z0、I0、E0等)。その故は本節はイザ8:13を念頭に置きて録したることは明らかなる故。日本改訳は英改正訳によりたるものならん(A1)。

また(なんぢ)らの(うち)にある(のぞみ)理由(りいう)()(ひと)には、柔和(にうわ)畏懼(おそれ)とをもて(つね)辯明(べんめい)すべき準備(そなへ)をなし、

辞解
[辯明] apologia 弁証。当時キリスト教に対し種々の反対論や誤解がありしため弁明を必要とした。

3章16節 かつ()良心(りゃうしん)(たも)て。[引照]

口語訳しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。
塚本訳しかし柔和と、(主に対する)恐れとをもってせよ。また(恥ずることのない)善い良心をもて。君達のキリストにおける善い行いを罵っている者達が、その譏っている事柄について恥をかかせられるためである。
前田訳それを柔和と謙遜でなし、明らかな良心をもってなさい。あなた方がそしられるときに、あなた方のキリストにあるよい行ないを悪くいう人々が恥じるでしょう。
新共同それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。
NIVkeeping a clear conscience, so that those who speak maliciously against your good behavior in Christ may be ashamed of their slander.
註解: 私訳「汝らの(うち)にある希望の理由を問う凡ての人に弁明すべく常に準備をなせ、されど柔和と懼れをもって善き良心を持ちつつ〔これを為すべし〕」。迫害非難を懼れて往々自己の信仰を秘し、またはこれを証することを躊躇することに対しペテロはここに大切なる教訓を与えている。ただしそれは「汝らの(うち)にある希望」たることを必要とし、単に形式的表面的の信仰であるならば弁明も役に立たない。また「凡ての人」に弁明することを必要とするけれども問いもせぬ人に押売りがましくすることは真理の尊厳を害し、豚に真珠を投与える類である。また信仰につき弁明するには第一に「柔和」を必要とし、高慢や熱狂はかえって害がある。また神に対する「畏れ」なしに空論を(もてあそ)ぶことは百害あって一利ない。また「善き良心を持たずして」換言すれば自ら信仰に反する行為を為し良心に責を感じつつ信仰の証を為すともそれは何らの効果を持来すことができない。ここにペテロは信徒が信仰の証をするに極めて重要なる諸条件を示したのである。
辞解
[かつ善き良心を保て] 前文との関係が消滅してしまう故に適訳ではない。

これ(なんぢ)()のキリストに()りて(おこな)()行状(ぎゃうじゃう)(ののし)(もの)の、その(そし)ることに()きて(みづか)()ぢん(ため)なり。

註解: 前節のごとき立派なる態度をもって応答する時はその答弁の内容よりも、その答弁者の態度そのものが敵を恥ぢしむるに充分である。いわんやその弁明が真理ならばなおさらのことである。これらの敵はキリスト者の信仰によりて行う善行をも種々に曲解してこれを罵ったので、今その正しき弁明をきき自己の偽りが明らかになり自己のこの誹謗的行為について()ぢしめられるであろう。熱狂や高慢なる態度は敵を恥ぢしめずに、かえって敵をしてキリスト教を益々軽蔑せしめ反感を助長する。
辞解
[自ら()ぢん爲] 直訳「()ぢしめられん為」。

3章17節 もし(ぜん)をおこなひて苦難(くるしみ)()くること(かみ)御意(みこころ)ならば、(あく)(おこな)ひて[苦難(くるしみ)()くるに](まさ)るなり。[引照]

口語訳善をおこなって苦しむことは—それが神の御旨であれば—悪をおこなって苦しむよりも、まさっている。
塚本訳何故ならもし神の御意が欲するのであるならば、善いことをして苦しむ方が、悪いことをして苦しむよりはよいからである。
前田訳もし神のみ心ならば、善をなして苦しむことは悪をなすにまさります。
新共同神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
NIVIt is better, if it is God's will, to suffer for doing good than for doing evil.
註解: 悪を行いて苦難を受くることは当然のことでありかつ人を懲戒するに益がある。しかしながらもし神の御旨である場合には善を為しつつ苦難を受くることは一層勝っている。殉教者の血は宣教の源になったと同じくキリストにある義しき者の苦難は信仰の証のよき機会を与える。ただしこれは神の御旨であることが必要であって、自己の性癖や無智のために受くる苦難は決して褒むべきではない。

3章18節 (そは)キリストも(なんぢ)らを(かみ)(ちか)づかせんとて、(ただ)しきもの(ただ)しからぬ(もの)((とも))に(かわ)りて、(ひと)たび(つみ)のために()(たま)[へ](ひたればな)り、[引照]

口語訳キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。
塚本訳というのはキリスト(御自身)すら罪の(贖いの)ために、義しい人でありながら義しからぬ人々のために、ただ一度死に給うたのである。これは君達を神に連れ行くためで、彼は肉では殺され給うたが、霊では活かされ、
前田訳キリストも罪のために、すなわち義にいましながら不義者のために、ひとたびお死にでした。それはわれらを神に導くためにです。彼は肉にあって殺され、霊にあって生かされたのです。
新共同キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
NIVFor Christ died for sins once for all, the righteous for the unrighteous, to bring you to God. He was put to death in the body but made alive by the Spirit,
註解: キリストの十字架の苦難と正しきキリスト者の受くる苦難とはその程度においてもその効果においても全然同一なりとは言い得ないけれども、この両者の間に非常に類似せる点があることは、苦難に遭えるキリスト者を慰める処の事実である。その類似点は(1)正しき者が正しからぬ者共のために苦しむこと、(2)罪のために苦しむこと、(3)一度(この世において)苦難に遭うのみでやがて永遠の幸福に復活すること、(4)目的が罪人を神に近付かしむるにあることである。善を行うキリスト者が罪人の罪のために迫害に遭うのも要するに彼らを神に近付かせんがための神の御旨であることを思うべきである。
辞解
「キリストも」の前に「そは・・・・・・なればなり」とあって前節の「勝るなり」の理由を説明する。
[神に近づく] 神との親しき霊交に入ること。「救」よりもさらに一歩進んだ状態。
[代りて] huper Tペテ2:21のごとくその主なる意義により「の為に」と訳する方がかえって適当している(キリストの苦難との比較上)。
[死に給へり] 異本に「苦しみ給へり」とあり。

(かれ)(にく)[(たい)]にて(ころ)され、(れい)にて()かされ(たま)へるなり。

註解: 十字架上に殺され給えるはキリストの肉、すなわち人間的、地的、一時的の体であり、甦り給えるは霊の体すなわち神的、天的、永遠的の体であった。
辞解
この一段は文法上「神に近づかせんとて」に関連しており(M0)、復活して神の右に坐し人々を執成(とりな)し給うことによりて凡ての人を神に近付かしめ給う。ヨハ12:32

3章19節 また(れい)にて()き、(ひとや)にある(れい)宣傅(のべつた)へたまへり。[引照]

口語訳こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。
塚本訳且つ霊で行って、(陰府の)獄に閉じ込められていた(悪)霊達に(救いの福音を)宣べ給うた。
前田訳そして霊にあって、(死の)獄(ひとや)の中の諸霊をも訪れて宣教をなさいました。
新共同そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
NIVthrough whom also he went and preached to the spirits in prison
註解: ▲問題の多い一節である。信仰なしに死んだ人も死後に福音が伝えられるということは大きな恩恵である。しかしこれは不信仰を奨励する意味でないことは勿論である。

3章20節 これらの(れい)は、(むかし)ノアの時代(じだい)方舟(はこぶね)(そな)へらるるあひだ寛容(くわんよう)をもて(かみ)()(たま)へるとき、(したが)はざりし(もの)どもなり、[引照]

口語訳これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。
塚本訳彼らはかつてノアの日に、箱船が造られる間神が寛容をもって(悔い改めを)待ち給うた時不従順で、(ただ)小数の者、すなわち(ノアとその家族)八人(だけ)がこの箱船に入り水を通って救われた。
前田訳彼らはかつてノアのころ箱舟が備えられたときに、神が寛容でお待ちにもかかわらず不従順でした。箱舟では少数、すなわち八人だけが水から救われました。
新共同この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。
NIVwho disobeyed long ago when God waited patiently in the days of Noah while the ark was being built. In it only a few people, eight in all, were saved through water,
註解: 復活し給えるキリストは、その霊の体をもって進み行き、不信仰のために死後に幽囚の苦を()めつつある霊に向って罪の赦しの福音を宣伝え給うた。これ彼らもまた新たに悔改めて救われること有らんかとの愛の御心からである。この獄の中に幽囚せられし死人の霊の代表的のものは創6−8章のノアの洪水が来らんとしつつありし際の不従順の人類であった。ノアが方舟を準備しつつあるその期間に、あたかもキリストの御在世の期間と同じく神の教えと審判が近付きつつあることが人類に向って公示せられた。かくして神は寛容をもって人類の悔改めを期待し給うた。

その方舟(はこぶね)()(みづ)()(すく)はれし(もの)は、(わづか)にしてただ八人(はちにん)なりき。

註解: しかるに方舟に入りて救われるものはわずかに八人に過ぎず、他は凡て洪水のために滅ぼされ、その霊は獄の中に投込まれたのである。キリストの贖罪の死はこれらの不信の霊をも救わんがために復活のキリストにより彼らにも福音が宣伝えられたのである。その後といえども不信のままに死ぬるもの、未だ福音を聞かずして死ねる者らにもキリストは霊にて宣伝え給うであろう。(注意)本節は最も難解なる一節で重要なる問題を含み異説多し。章末附記参照。

3章21節 その(みづ)(かたど)れるバプテスマは(にく)汚穢(けがれ)(のぞ)くにあらず、()良心(りゃうしん)(かみ)(たい)する要求(もとめ)にして、イエス・キリストの復活(よみがへり)によりて(いま)なんぢらを(すく)ふ。[引照]

口語訳この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。
塚本訳今やこの水の対型たる洗礼は、肉の穢れを除くことでなく、善い良心を神に祈願することであって、イエス・キリストの復活により君達をも救うのである。
前田訳この水が今あなた方をも救う洗礼の典型です。洗礼は肉の汚れを除去することではなく、明らかな良心を神に願い求めることで、イエス・キリストの復活によるものです。
新共同この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。
NIVand this water symbolizes baptism that now saves you also--not the removal of dirt from the body but the pledge of a good conscience toward God. It saves you by the resurrection of Jesus Christ,
註解: ノアの洪水は一つの型である。方舟は水に浮び上り、ノアの一家は洪水の中を通過してこれから救い出された。これと同様にノアの洪水に(かたど)られるパブテスマの水はロマ6:3−11の示すごとく我らの肉の死を示し、浮び上れる方舟に似たるキリストの復活は我らの新生すなわち救いを意味する。そして復活せるキリストは次節のごとく天に在し権力を持ちて我らを救い給う。キリストが肉にて殺され霊にて生かされ給えるはこのためであった(18節)。そしてこのバプテスマは単に肉の外部の汚穢を除くというごとき消極的の問題ではなく「神に対する善き良心を要求」すること、すなわち神との間に罪による離隔がなく、罪は赦されて神との間に義しき関係に立つこと(使24:16ヘブ10:19ヘブ10:22)である。
辞解
本節は前節と同じく難解の一節で、文法上、意義上に種々の説に分かれている。多くの点において改訳本文のごとくに訳する説が最も優っている故これによった。ただしその中「善き良心の神に対する要求」の原文には「善き良心が神に対して何物かを求めること」(B1、E0、改訳)、または「善き良心を神に対して求めること」(W2、ホフマン)、「神に対して善き良心が契約をすること」(M0、L1、G2)、「善き良心が神を求めること」(A1)。その他の解があるけれども、むしろ「神に対する善き良心を求めること」(セーヤー辞典)と訳することが最も優っているように思う故解釈はこれによった。▲パウロはロマ6:3−14に水のバプテスマを肉の死と霊の新生命への復活の型として説明している。これを参照すれば難解な本節を理解することができるであろう。

3章22節 (かれ)(てん)(のぼ)りて(かみ)(みぎ)(いま)す。御使(みつかひ)たち(およ)びもろもろの權威(けんゐ)能力(ちから)とは(かれ)(したが)ふなり。[引照]

口語訳キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである。
塚本訳彼は天に行き神の右に居給うて、使い、権威、権力(等の天使達)がこれに服従している。
前田訳彼は天に上って神の右に座し、天使と権威と権力をお従えです。
新共同キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。
NIVwho has gone into heaven and is at God's right hand--with angels, authorities and powers in submission to him.
註解: キリストの復活によりて救われる理由を明らかにせんがために活けるキリストの現在の稜威を示す。すなわち彼の地的肉的存在は今や栄光に充てる天的存在と化し、彼は神の右に坐して神の権を代理し、あらゆる種類の天使は彼の支配の下に服従し宇宙における絶対の権を握り給う。
辞解
[昇り] 19節の「往き」と同語。
[権威・能力(ちから)] 天使の別名。引照3およびエペ1:21コロ1:16参照。
要義1 [主イエス・キリストの苦難とその栄光を憶え]キリストの生涯において、殊にその苦難の場合において、キリストの苦難とその栄光を仰ぎ見るべきである。18−22節にキリストの受難の意義、その復活、その霊による福音の宣伝、その昇天、権威、支配等につきて記され、これによりて我らの救いの確実さを示し、もって現世における苦難に耐えるべきことを教えているのはそのためである。善を行いつつ苦難に遭うことは堪え難き苦痛である。しかしながら復活して神の右に坐し給う主イエス・キリストの栄光を仰ぎ()るとき、この苦難は彼によって救われる者に最も相応しき状態であることをさとるであろう。
要義2 [不信者、未信者、幼児等の救いについて]人は信仰によって罪を赦され、義とせられ、救われる。従って不信仰なる者は審判に遭い、永遠の滅亡に入ることは当然のこととして聖書の示す真理である。唯聖書は未だ福音を知らずして死せる我らの祖先、または福音を誤り伝えられしが故に信じ得ざりし人々、または伝道者の不徳に対する反感より信仰に入り得ざりし人々、または信仰の何たるかを解せざる幼児についてはほとんど何らの記載がない。もし彼らもアダムの裔として罪人であるが故に当然に亡ぶべきであるとするならば、理論としては徹底しているけれども、神の愛と公平を思うとき、かかる結論に我らは承服しがたきを感ずる。この点につきて聖書が沈黙を守っている所以は、これらの不信または未信の人々の将来如何は神と彼らとの間のみの問題であって、我らがこれに立入ることもできず、またこれに対して好奇心を持つべきにあらざるが故であろう。聖書によりて神は直接に我らに向って信仰を要求し給う。我らはこれに対し直接に諾否(だくひ)の応答をすれば足るのであって、他人の問題について詮議(せんぎ)立てすべきではない。これは神の領分に属する。唯聖書中二三この点につき暗示を与える個所があるのであって、Tペテ3:19節のごときもその一であり、またTペテ4:6Uペテ3:9ヨハ5:28のごときも何らか這般(しゃはん)の消息を伝うるがごとくに思われる。万人救済説を聖書の文字によりて断定することはできないにしても神が万人の救済を望み給うことは聖書全体に充満する真理である。而して神において能わざるなし。神はやがて聖書に示されざる方法によりて万人の救済を実現し給うことがないとは何人も断言しえない処であろう。
附記 Tペテ3:19節について]この一節は虚心坦懐(きょしんたんかい)にこれを読む場合には何人も上掲の註解に示すがごとき意義に解せざるを得ないであろう。かく解する時、不信のままに死にたる霊にもまた改めて福音が復活のキリストによりて宣伝えられることとなる。然るに聖書の教うる根本的真理の一つは、不信仰のままに死せる者は永遠の滅亡に入るより外なきことである。本節はこの明瞭なる教理と矛盾するがために、古来本節に関し多くの異なれる解釈が試みられた。
(1) 「霊にて往き」を先在のキリスト(Tコリ10:4)と解し、受肉以前のキリストの霊がノアをして神の審判を宣伝せししことと解す。「獄にある霊」は「肉と無智の暗黒の中にある霊」と解す(A1その他)。この節は後半がTペテ3:20に反す。
(2) 「霊にて往き」は使徒たちがキリストの霊を受けて伝道すること、「獄にある霊」は不信のユダヤ人および異邦人と解す(グロチウス等)。この節の後半もTペテ3:20に反す。
(3) 「宣傅へ」を審判を宣伝えしことと解し前提の矛盾を避けんとする説(カロヴイウス等)。しかし、「宣傅へ」はかかる意味には用いられない。
(4) 「獄にある霊」を旧約の聖徒と解し、キリストの救いを待ちつつあった人々に福音が宣伝えられしことと見る。「獄」を「観望槽(ものみやぐら)」と解す(C1、テルトウリアヌスその他)、この節前半はTペテ3:20に反し、後半は極めて稀なる用法である。
(5) この節はノアの時の凡ての不信の徒を意味せず、その中で最後の瞬間に信仰に入りしものを意味するであろうとする説(B1、L1(1545年)その他)。聖書本文よりかかることを想像することができない。
(6) 「獄にある霊」は堕落せる天使であると解する説(スピツタその他)。Tペテ3:20に反す。
 なおキリストが「獄にある霊」に宣伝せる時期については十字架の死後復活以前の時期と解する説が多い。しかしながら上掲の註解のごとく復活の後と解することは差支えがない。要するに以上のごとく解することは本来の意義ではなく、聖書中に存する矛盾を除かんとする企てに過ぎない。聖書の真理は一つの系統に詰込むべくあまりに大であることを思うべきである。