ロマ書第13章
分類
4 実行論
12:1 - 15:13
4-(1)-(3) 対社会関係
13:1 - 13:14
4-(1)-(3)-(イ) 権を執る者に対する服従
13:1 - 13:7
註解: 1-7節に於てパウロは社会国家の権力に対する基督者の義務を示す。
口語訳 | すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。 |
塚本訳 | 人は皆上に立つ(国家の)官憲に服従せねばならない。神からではない官憲はなく、現存の官憲は(ことごとく)神から任命されたものであるから。 |
前田訳 | 人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらぬ権威はなく、今ある諸権力は神によって立てられたものです。 |
新共同 | 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。 |
NIV | Everyone must submit himself to the governing authorities, for there is no authority except that which God has established. The authorities that exist have been established by God. |
註解: 在上者が神を信ずると否とを問わずこの服従の義務は普遍的である。基督者には殊に善悪に対する鋭敏なる感覚があり又神を諸王の王としていただくとの自信を持っているので権力階級に対し批判又は反抗し易い傾向を持っていたのでこの注意を与える必要があった。
辞解
[凡ての人] 原語 psuchê を用い「凡ての生命」「凡ての魂」を意味する。特にこの語を用いし所以は権威に対する服従が凡ての人間の生れながらの義務たる事を示さんが為であろう。
そは
註解: 前半の命題の理由を示す、即ち(1)権威の出所が神にある事、(2)権威者を職に任ずる事も神の為し給う処であるからである。かくの如くパウロは国権そのもの及びその保持者を神の御手の中にあるものと解した。そして国権保持者が信仰を有するや否や、善人なりや否やを問題としなかった。彼の社会観叉国家観として重要なる事実である。
辞解
二つの「権威」なる語の中前者は単数で権威又は職権そのものを指し後者は複数でこの権威を把る個々の人々を指す。
13章2節 この
口語訳 | したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。 |
塚本訳 | 従って官憲に反抗する者は、神の命令に違反する者である。違反する者は、自分で自分に(神の)裁きを招くであろう。(この世で罰を受けるばかりでなく、最後の日にも。) |
前田訳 | それで、権力にさからうものは神の命にそむくものです。そむくものは自らに裁きを招くでしょう。 |
新共同 | 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。 |
NIV | Consequently, he who rebels against the authority is rebelling against what God has instituted, and those who do so will bring judgment on themselves. |
註解: 神を信ぜず基督教を迫害するロマの政府ですら、これにさからうは神の定に悖 るのであるとするパウロの態度を見よ、権威に対する服従は基督者の社会生活の最も重要なる一面である。夫故に基督者は暴力により革命運動をなすべきではない。これに反するものは神の審判を免れないのは当然である。尚服従の限度、方法等につきては要義を見よ。
辞解
[審判 ] 何人の審判 なりやは録されて居ないけれども多くの場合と同じく「神の審判 」と解する事が適切である。但し最後の審判の意味ではなく、一時的審判 の意味で事実上権威保持者によりて課せられる場合が多い。
13章3節
口語訳 | いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。 |
塚本訳 | 役人が恐ろしいのは、善いことをする者でなく、悪いことをする者である。(だから)あなたは官憲を恐れたくなければ、善いことをせよ。そうすれば官憲から誉められる。 |
前田訳 | 支配者は、善をするものにではなく、悪をするものにおそれられます。あなたが権力をおそれたくなければ、善をなさい。そうすれば権力からほめられましょう。 |
新共同 | 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。 |
NIV | For rulers hold no terror for those who do right, but for those who do wrong. Do you want to be free from fear of the one in authority? Then do what is right and he will commend you. |
13章4節 かれは
口語訳 | 彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである。 |
塚本訳 | 官憲はあなたの最善のためにつくす神の召使であるから。しかしもし悪事をすれば、恐れねばならない。見えのために剣をささげているのではないのだから。官憲は神の召使で、悪事を行う者に対して(神の)怒りをあらわす復讐者である。 |
前田訳 | 権力はあなたに善をそなえる神の召使いですから。しかしあなたが悪をすれば、おそれねばなりません。むなしく剣を帯びてはいませんから。権力は神の召使いで、悪をするものに怒りをおこす復讐者です。 |
新共同 | 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 |
NIV | For he is God's servant to do you good. But if you do wrong, be afraid, for he does not bear the sword for nothing. He is God's servant, an agent of wrath to bring punishment on the wrongdoer. |
註解: 権威はその本質として勧善懲悪を目的としている事は古今東西に亙 る普遍的事実である。故に善を行う者に対しては権威は何等恐れるに足らない。
辞解
[善き業、悪しき業] 擬人法で、これらを行う「人」を指す。
註解: 基督者は濫りに上司を恐れてはならない。併し乍ら悪を行いつつも尚恐れないのは上司を軽蔑する所以である。悪の報は必ず来るべければ恐れなければならぬ。
辞解
[剣をおびる] 剣を帯る事は有司(役人のこと:広辞苑)のしるしである。
13章5節
口語訳 | だから、ただ怒りをのがれるためだけではなく、良心のためにも従うべきである。 |
塚本訳 | だからかならず服従せねばならない。ただ怒りの(恐ろしさの)ためだけでなく、(それが信ずる者の義務であることを知っているあなた達は、自分の)良心のためにも。 |
前田訳 | だから服従が必要です、怒りのためだけでなく、良心のためにも。 |
新共同 | だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。 |
NIV | Therefore, it is necessary to submit to the authorities, not only because of possible punishment but also because of conscience. |
註解: 上司に対する服従はただにその怒を恐れると云う利害問題にあらず良心問題なり、その故は上司に従う事が神の御旨なるが故である。パウロは国家存立の原理を功利主義的に見ず、それ以上のものと見ていた事が判る。
13章6節 また
口語訳 | あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者として、もっぱらこの務に携わっているのである。 |
塚本訳 | それゆえに(同じ理由で、)あなた達は貢をも納めねばならない。官憲は神につかえる者であり、いま言った職務に全力をそそいでいるからである。 |
前田訳 | それゆえ貢も納めるべきです。権力は神の奉仕人で、このことに力をつくしているのですから。 |
新共同 | あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。 |
NIV | This is also why you pay taxes, for the authorities are God's servants, who give their full time to governing. |
註解: 租税を納むる事は信仰的にも良心問題であって決して権力に対する恐怖よりする止むを得ざる行為ではない、その故は権威保持者は神の役者でその職に熱心に従事するものなるが為であって、租税は神に対する信仰より払わるべきものである。たとい異教の支配者の下にある場合でも同じことである。
辞解
[仕人 ] leitourgos 牧師、伝道者、祭司等にも適用される文字で(ロマ15:16)、国家の支配者はこの意味に於て宗教的である。
[此の職に] 「此の事の為に」で「仕人 」にかかると解する説もあるけれども(G1、I0、E0)、改訳の方が優っている(M0、Z0)。
口語訳 | あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果しなさい。すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい。 |
塚本訳 | (彼らに対して、信ずる者には普通の人以上の、言わば借りがある。)すべての役人にこの借りを返しなさい。貢取りには貢を、官税取りには官税を、恐るべき者には恐れを、尊敬すべき者には尊敬を。 |
前田訳 | すべての人に債務を返しなさい、貢取りには貢を、税取りには税を、おそるべきものにはおそれを、尊敬すべきものには尊敬を。 |
新共同 | すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。 |
NIV | Give everyone what you owe him: If you owe taxes, pay taxes; if revenue, then revenue; if respect, then respect; if honor, then honor. |
註解: 支配される者は凡ての支配者に対して償うべき負債を持つ、支配者は神の役者としてその務を励むが故なり、故にこの負債はこれを償わなければならぬ。
註解: 基督者なりとてこれ等の義務を粗略 にしてはならない。
辞解
[貢 ] phoros は人に課せられる租税、
[税] telos 物に課せられる関税その他の租税を云う。
註解: 畏敬と尊敬は支配者に対して払わるべき負債である。
辞解
[畏 れ] 一層大なる「尊敬」。
要義1 [国家の権力の基督教的解釈] 神を知らざる国家及び国民の場合に於てその支配者は神の敵、サタンの僕にあらずやとの観念はユダヤ人及び基督者には起り易き観念である。殊に彼らは多くの場合国家の権力に迫害される故一層かく考え易い。而して歴史上ユダヤ人の場合に於てかかる例が多く起った。これに対し聖書は全く異りたる立場を取っている事は注意しなければならない。即ち上にある権威は全く神を知らざる人の場合でも神の御旨によりて立てられたものである。換言すれば全世界は直接間接に神の支配の下にあると云う歴史観である。それ故に神を知り神を信ずる基督者の場合に於ても、神を知らざる支配者を軽視叉は無視することなく、況 やこれに反対する事なく、これに服従し、これに対して果すべき義務を償うべきである。而してこれは神に対する義務として良心の命に循 い為さるべきものである。この歴史哲学は国権の原因を人間の生得権、社会の契約等に置く見方よりも遥に貴きものである。基督者なるが故に国権に対してこれを軽視するは大なる誤である。
要義2 [権威に従う程度如何] パウロは絶対的服従を無條件に示している故、一見支配者の命であれば神の御旨に反する事をも行うべきものの如くに思われる。併しながらこれは勿論パウロの意志ではない。上にある権威の尊ぶべき所以はそれが神より出づるが故であって、従て神が最後の権威である。また上にある権威は社会の秩序と平和を維持するが為に存する権威であって、我らの行為の動機を左右するが為に存する権威ではない。我らの行為は飽く迄も神の御旨に従う事をその動機としなければならない。故に我らの神に対する信仰と全然反対の行動を取るべき命令が下る場合に於ては我らはこれに従う事が出来ない。併し乍らこれが為に我らに果せられる刑罰には絶対に服従するが故に、服従の原則を破壊せず社会の秩序はこれによりて保たれる。若しかかる処罰が神の御旨に反する事が明かであっても我らはこれを受けなければならない。神は別にかかる処罰を課せる権威者そのものを処置し給う故、我らは唯黙して従うべきである。
要義3 [基督者と暴力革命] 基督者は以上の如く権威に服従すべきものなるが故に、基督者には暴力による革命は有り得ない。唯現在の為政者又は権力者の罪悪非政に対してこれを非として指摘する事は基督者として為すべき当然の事である。かくして基督者が当時の権力に迫害され、殺戮される事があっても、それは却て真に革命を成就する所以となるのである。故に基督者は暴力による革命を行ってはならない。
要義4 [政権所有者変更の場合如何] 諸外国に多く行われる革命又は征服等の場合、基督者は何れの政府を以て神の立て給える政府と目すべきかの実際問題に出遭う事がある。パウロはかかる場合について何も諭じて居ない。併しパウロの根本思想より判断するならば事実権力を保持し秩序を維持する者を神の立て給えるものと見るべきであろう。但し感情上新政府に服従する事を欲しない者はその国を離れる事によりてその義務を免除せられるものと見るべきは当然である。政権保持者の変更はよしそれが神の立て給えるものと見るべきであるにしても、旧政権に対する自己の愛着や、又は正義観までもこれを捨つべしと云う意昧ではない。そこに基督者の自由がある。
要義5 [パウロがこの点を強調せる所以] パウロのみならずペテロまでが極めて類似の語を以て、同一の問題を極諭しているのは何の為であるか(Tペテ2:13、14)。当時のローマ政府は善く世界を統治して居り、基督教の迫害は未だ始まらない時であった。唯ユダヤ人は神の国を地的に見た結果、時のローマ政府に反対する者が多かった為に、この事が基督者にも及ぶ事あらん事を憂いたのであろう。而して後日ローマ政府の迫害が起るに及んで基督者はこのパウロの教に従い信仰を固持しつつ従順にローマ政府の迫害に晒 されていた。而してこれが福音の勝利に帰した事は驚くべき事実である。
13章8節
口語訳 | 互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。 |
塚本訳 | (官憲ばかりでなく、)だれにも何も、借りがあってはならない。ただし、互に愛することだけは例外である。(この借りは、いつまでも返してしまわないように。)人を愛する者は(モーセ)律法を完全に果たしたのである。 |
前田訳 | 互いに愛することのほか、だれにも何も借りなさるな。人を愛するものは律法を全うしたのです。 |
新共同 | 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。 |
NIV | Let no debt remain outstanding, except the continuing debt to love one another, for he who loves his fellowman has fulfilled the law. |
註解: 本節以下は支配者のみならず一般に対して言われている。義務は凡てこれを果たしてしまい、他人に対して負債を残してはならない。但し愛するの義務は無限であってこれを果し尽す事が出来ない事は勿論である。人に負う事の不可なる所以は果すべき義務を果さざる事はそれ自身不正の行為であり、非難の口実を未信者に与えるからである。基督者は信仰による自由の結果、その義務を果するに於て怠り易い。
辞解
[愛を負う] 「愛する事の義務を負う」意味で他人の愛を受ける意味ではない。
註解: (私訳-- そは他人を愛する者は律法を全うしたればなり)愛する義務だけは例外的であってこれを負わない訳には行かないけれどもこれは結局真の意味に於て律法を全うする所以であって、愛があれば、あらゆる負債は自然皆果される。
辞解
[全うするなり] 「全うしたるなり」で現在完了形である。
13章9節 それ『
口語訳 | 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。 |
塚本訳 | なぜなら、“姦淫をしてはならない、殺してはならない、盗んではならない、(人のものを)欲しがってはならない”など、このほかにどんな掟があっても、“隣の人を自分のように愛せよ”というこの一言に帰するからである。 |
前田訳 | 姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、そのほかどんな掟があっても、隣びとを自分のように愛せよ、のひとことにまとまるからです。 |
新共同 | 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。 |
NIV | The commandments, "Do not commit adultery," "Do not murder," "Do not steal," "Do not covet," and whatever other commandment there may be, are summed up in this one rule: "Love your neighbor as yourself." |
註解: 愛する者は姦淫する事なく殺す事も盗む事も貪 る事も無い、あらゆる消極的誡命 は、「愛せよ」なる積極的誡命 の中に包含される。
辞解
モーセの十戒の第二部のみを掲げたのは対人関係について論じているからである。順序はマコ10:19。ルカ18:20。ヤコ2:11と同じく七十人訳の順序と同じ。
13章10節
口語訳 | 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。 |
塚本訳 | 愛は隣の人に悪事を働かない。だから愛は律法の完成である。 |
前田訳 | 愛は隣びとに悪をはたらきません。それゆえ愛は律法の完成です。 |
新共同 | 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。 |
NIV | Love does no harm to its neighbor. Therefore love is the fulfillment of the law. |
註解: 愛を有ちつつ隣人に対し悪を行う事は出来ない。即ち愛は諸々の律法の成就せられし状態である。
辞解
[完全] plêrôma 満ち溢れる状態。
要義 [律法と愛] 律法は愛を生む事は出来ないけれども、愛は自ら律法を完成せしめる。而して人間の生れ乍らに有する自然の愛は、同様に自然に有する慾望の為に無カとされる事があるけれども信仰によりキリストに在りて上より受くる愛は人の自然性に打ち勝ちて律法を完全に行い得る力となる。信仰によりて律法を撤廃して却て律法を成就する事となるのはその為である。
13章11節 なんぢら
口語訳 | なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。 |
塚本訳 | しかも、あなた達は今の時代を、すなわちもはや眠りからさめるべき時であることを、よく知っている(のだから、なおさらのことである。)今は、信仰に入った時よりも、わたし達の救いが近づいているのである。 |
前田訳 | ご存じのようにこの時代はすでにあなた方が眠りから覚めるべきときです。今は信仰に入ったときよりも、われらの救いは近いのです。 |
新共同 | 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。 |
NIV | And do this, understanding the present time. The hour has come for you to wake up from your slumber, because our salvation is nearer now than when we first believed. |
註解: 以上ロマ12:1以下の事、殊にロマ13:8の薦めは、キリストの再臨の時が次第に近付きたる故に尚更の事である。基督者の心は往々にして眠り易い、主を見ず主の御声を聴かずに生きているならば、それは主に対して眠っている状態である。主来り給う事近き故この眠りから覚むべきである。
辞解
私訳「以上に述べし処は汝ら既に眠より覚むべき時なりとの時勢を知るが故に尚更の事なり」。「眠」は霊的の眠、無知覚の状態でこの世の事に心を奪われる時霊的には眠った状態となる。基督者は一度は覚醒して信仰に入ったのであるが往々にして眠気を催す故絶えず警鐘を以てこれを覚 す事が必要である。
註解: この場合「救」はキリストの再臨による身体の復活、万物の復興等を基礎とする完全なる救を意味する。この救はキリストの再臨が近づくと共に近づくのであって、パウロは他の使徒たちと共にその時の近き事を確信していた。
辞解
[始めて] 原文になけれども「信ぜし」は不定過去形でこの意味を含む。
13章12節
口語訳 | 夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。 |
塚本訳 | 夜がふけて、(最後の)日が近づいた。だから闇の業をぬぎすて、光りの武具をつけようではないか。 |
前田訳 | 夜がふけて、日が近づきました。闇のわざを脱ぎ捨てて、光の武具を身につけましょう。 |
新共同 | 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。 |
NIV | The night is nearly over; the day is almost here. So let us put aside the deeds of darkness and put on the armor of light. |
註解: (▲口語訳の「・・・着けようではないか」が正しい。)神の光を受納れざる夜の世界も既に更けてキリスト義の太陽として再臨し給うべき昼が既に近づいている。故に我らは暗黒の中に於て行われる、人目に恥づる諸種の行為をば、夜の衣服を脱ぐが如くに脱ぎ棄てて戦陣に赴く武士の如く光明の中に於て行う正しき行為を甲 として着用すべきである。
辞解
[夜、日] キリストの再臨は旭日の昇天に譬えられる。マラ3:20。その接近と共に我らは益々これに相応しく準備しなければならない。キリスト再臨前と雖も基督者は昼に属する光の子である(Tテサ5:1、2、Tヨハ1:5-7。Tヨハ2:8-11)
[すて] 脱ぎ棄つる如き意。
[甲 ] 「器」の意味もあるけれども(ロマ6:13。G1)この場合パウロは基督者を武士にたとえたものと見るを可とす(Tテサ5:8。Uコリ6:7。エペ6:13以下)
13章13節
口語訳 | そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。 |
塚本訳 | 昼間にふさわしく、きちんとして生活しようではないか、酒宴と酩酊でなく、淫楽と放蕩でなく、喧嘩と嫉妬でなく。 |
前田訳 | 日のあるとき、折目正しく歩みましょう、宴会と酩酊でなく、淫乱と放蕩でなく、争いと妬みでなく。 |
新共同 | 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、 |
NIV | Let us behave decently, as in the daytime, not in orgies and drunkenness, not in sexual immorality and debauchery, not in dissension and jealousy. |
註解: (▲口語訳の「・・・歩こうではないか」が正しい。)多くの醜き行為は夜間に行われ、基督者はその反対に昼間に於ける行動として立派な態度を取る。
辞解
[昼のごとく] 「昼に於ける如く」の意。
[正しく] 、不正に対する「正」ではなく「立派に」と云う如き意味で醜悪の反対を云う、醜行は暗黒の中に行われる。
[宴樂 醉酒 ] 肉の慾、
[淫樂 好色 ] 色慾、
[爭鬪 嫉妬 ] 激情の爆発である。かかるものに支配されてはならぬ。
口語訳 | あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。 |
塚本訳 | 主イエス・キリストを着なさい。肉をいたわるのはよいが、情欲に陥らないように。 |
前田訳 | 主イエス・キリストを着なさい。肉の思いを欲望にしないように。 |
新共同 | 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。 |
NIV | Rather, clothe yourselves with the Lord Jesus Christ, and do not think about how to gratify the desires of the sinful nature. |
註解: キリストは我らの智慧、義、聖、贖である(Tコリ1:30)。キリストの中に没入して、我らは始めて神の前に立つ事が出来、叉聖きものと認められる。
辞解
何某 を「衣る」とは古代ギリシヤ語にて何某 の如くに思惟し、感受し、行動する事を云う、キリストを衣るとはキリストらしく生活する事。
註解: 私訳「慾を充さんとて肉の備を為す事なかれ」肉は罪の住所であり、霊の働きの妨害者である。故に肉はこれを十字架につけなければならぬ(ガラ5:24)。従ってこの肉につき予め思い煩う事はキリストらしからざる事であり、我らを情慾、貪慾の奴隷とするに至る。故にこれをいましめなければならぬ、13、14節はアウグスチヌスを回心せしめし有名なる節である。
辞解
[備 す] pronoiaは予めかれこれ思い煩う事。
[慾] epithumia あるものを得んとする欲情、故に主として色慾、貪慾等に用う。
[慾のため] 「慾を起さしむるに至る如き」(M0)と解すべきで結局慾を充すがためにと云うに同じ。
要義1 [キリストの再臨の接近] 初代の信徒がキリストの再臨の近き事を信じ、これを以て自己の道徳的生活の激励とした事は著しい事実である。學者はこれを以て初代基督者の誤認としているけれども然らず。彼らの信仰はその時間の観念をも変更せしめ(Uペテ3:8)、時間を超越して主の再臨の近き事を信じ、空間を超越して主と共に居る事を信じた。これが今日の我らの信仰でなければならない。
要義2 [肉の慾のために備すな] 肉の慾は我らを罪に陥れんとて常に我らを誘う、我ら肉の為に預じめ思い煩う時、遂にこれが我らを罪に陥 れる機会となるのである。主イエス・キリストを衣たるものは又彼の如くにその肉を十字架に釘くべきであって慾を充さんが為に肉の備をしてはならない。
ロマ書第14章
4-(1)-(4) 信徒相互の関係(信仰の強弱)
14:1 - 15:13
4-(1)-(4)-(イ) 自由問題につき他を審くべからず
14:1 - 14:12
註解: 当時ロマの基督者の中に二つの異れる傾向が起った、その一は「信仰の弱き者」で基督者は宜しく禁慾生活を為すべしとの理由より肉食及び飲酒を禁じ、野菜のみを食し、又安息日、祭日等を特に聖き日としてこれを守る事を必要と考うる人々であり、その反対に立つ者は信仰の自由を主張する強き信者でこれらの規則に束縛せられない事をその特色としていた。この差別の自然の結果、後者は前者を頑迷
固陋 と「軽蔑」し、前者は後者を軽跳浮華 として「審く」に至った(3節)。かかる傾向に対して基督者の正しき態度を示したのが本章である。この点に於てTコリ8-10章に類似している。尚本章の禁肉食禁酒主義の人々は(1)モーセの律法を奉ずるユダヤ人、(2)偶像のささげものを食わざる人、(3)肉食を禁ぜしエビオン派、(4)祭司的生活を理想とせるエツセネ派等の人々の何れにも完全に該当せず、恐らく以上の何れとも別に基督教的信仰に入ると共に厳格にして真面目なる生活を理想とする人々が起り、その結果かかる傾向を生じたものと思われる。而してこれは極めて有り得る事柄である。
口語訳 | 信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。 |
塚本訳 | 信仰の弱い人をも(あなた達の)仲間に入れてやりなさい。(その人の)考えの違いをかれこれ言わずに。 |
前田訳 | 信仰の弱いものをも受け入れなさい。異論をとやかくいわずに。 |
新共同 | 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。 |
NIV | Accept him whose faith is weak, without passing judgment on disputable matters. |
註解: 信仰の弱き者を排斥する事は一見信仰に忠実なるが如くに見えるけれども、実は正しき信仰の態度ではない。
辞解
[弱き者] 原語「弱る者」なる動作を示す、人は信仰のみに立つ事はなかなか容易ではない、常に信仰に於て弱らんとする傾向の下にある。律法主義に陥るのもかかる場合である。
[容れよ] は柔和なる心を以て自分の方に受納れる事。
その
註解: 但し彼らを受納れる目的が、彼らの思想をかれこれと批議するが為であってはならない。
辞解
種々に訳される可能性があるけれども上記解釈の如き意味に解するを可とす(M0、I0、Z0)
14章2節
口語訳 | ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。 |
塚本訳 | (信仰は人それぞれで、たとえば、)ある人は(信仰が強くて肉でも)なんでも食べてよいと信じており、(信仰の)弱い人は野菜(だけ)を食べる。 |
前田訳 | ある人は何でも食べうると信じ、弱い人は野菜だけを食べます。 |
新共同 | 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。 |
NIV | One man's faith allows him to eat everything, but another man, whose faith is weak, eats only vegetables. |
註解: これが意見を異にする第一の点であった。信仰の強き人は肉も野菜も酒も皆神の賜物としてこれを受け信仰によりて神の前に良心の咎なくしてこれを飲食し得ると信じ、信仰の弱き人はこれを以て享楽主義と見倣し、自分は野菜のみを食して禁慾的に生活すべきものと主張する(こうした菜食主義の起原が創1:29によりしか又は仏教の如き動物に対する憐憫 の情よりか、又は普通の反享楽的思想によりしかは不明である)。
14章3節
口語訳 | 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。 |
塚本訳 | (肉)を食べる人は食べない人を軽蔑してはならないし、(肉を)食べない人は食べる人を裁いてはならない。神はその人をも(聖徒の)仲間にお入れになったのだから。 |
前田訳 | (何でも)食べる人は食べない人をあなどらず、食べない人は食べる人を裁かないように。神はそのような人をもお受け入れですから。 |
新共同 | 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。 |
NIV | The man who eats everything must not look down on him who does not, and the man who does not eat everything must not condemn the man who does, for God has accepted him. |
註解: 雙方の陥り易き欠点を適切に指摘している。信仰の自由を味っている者は禁慾的律法的生活を為すものを頑固者流として軽蔑し易く、反対に後者は前者を放縦にして不節制なるものとして審き、その信仰に対してさえも疑を持つに至る。併し乍らこの雙方とも誤っている。殊に他人を不信仰呼ばわりする事は誤っている。「その故は信仰の故に神は彼を(食う者)を受容れ給いたれば」人間がこれに異論を挿むべき筋合いのものではないからである。▲今日の分派のほとんど凡ては此のパウロの教訓の無視より来ている。
辞解
[容れ給へばなり] は「給いたればなり」
14章4節 なんぢ
口語訳 | 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。 |
塚本訳 | いったい何者なれば、あなたは他人[主キリスト]の僕(であるその人)を裁くのか、(あなた自身も僕でありながら。)彼が立っているのも倒れるのも、その主人(の考え)によるのである。しかし彼はしっかり立っていることができるであろう。主人は彼を立てる力をもっているのだから。 |
前田訳 | 他人の僕を裁くとは、あなたは何ものですか。彼が立つも倒れるもその主人次第です。彼は立ちえましょう、主人には彼を立たせる力がありますから。 |
新共同 | 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。 |
NIV | Who are you to judge someone else's servant? To his own master he stands or falls. And he will stand, for the Lord is able to make him stand. |
註解: この例の如く基督者は皆キリストの僕であって相互の僕ではない。故にこの僕の正邪を審くのはその主なるキリストである。キリストの御心にさえ叶うならば他の人々がこれをかれこれ言う必要もなく又その権利も無い。基督者が僕として立つか倒るるか、合格か不合格かはキリストこれを定め給う、他人が口を出す筋合いではない。
註解: (▲「立たせ給ふべし」は正確に訳せば「立たせ得給ふが故なり」)たとい弱き信仰の人が肉を食うものは滅ぶるであろうと信じ、又強き信仰の人が禁肉、禁酒主義の人は信仰の何たるかを知らざる故救われて居ないと主張したとても、この考に反して彼は必ず立てられるであろう。その故はキリストの御旨ならばこれが可能だから。主はその救の中心をかかる飲食問題に置き給わない。
14章5節
口語訳 | また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。 |
塚本訳 | また(たとえば)ある人はある日をほかの日よりも尊いと考え、ある人はどの日も同じと考える。(どちらでよろしい。ただ)ひとりびとりが、自分の心に確信もつことが必要である。 |
前田訳 | ある人はこの日をかの日よりも重んじ、ある人はどの日も同じように見ます。おのおのが自分の心に確信すべきです。 |
新共同 | ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。 |
NIV | One man considers one day more sacred than another; another man considers every day alike. Each one should be fully convinced in his own mind. |
註解: かかる問題は自由問題であって信仰の根本間題でない。それ故にこの二つの意見は全く相反しているけれども、主イエスはこの中の何れかでなければならぬとは言い給わない。大切なのは心の態度であって主に事うる為には、かくあるべしと自分の心に堅くきめて行う事を主は喜び給う。かかる自由の問題は問題そのものよりもこれに対する心の態度が大切である。
辞解
[日] ユダヤ人がその律法に循 って守れるもので基督教会にもその影響を引いたのであろう。
14章6節
口語訳 | 日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。 |
塚本訳 | 一定の日を(特別に尊く)思う人は、主のために(そう)思う。また(肉でもなんでも無頓着に)食べる人は、主のために食べる。(食事のとき)神に感謝をささげるのだから、(肉は)食べない人も、主のために食べない。彼も(食事のとき)神に感謝をささげる。(結局、食べるものも食べないのも、主のためである。) |
前田訳 | 一定の日を気にする人は主のために気にし、(何でも)食べる人は主のために食べます。彼は神に感謝するからです。食べない人も主のために食べないのです。彼も神に感謝するからです。 |
新共同 | 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。 |
NIV | He who regards one day as special, does so to the Lord. He who eats meat, eats to the Lord, for he gives thanks to God; and he who abstains, does so to the Lord and gives thanks to God. |
註解: 基督者としては凡て主の為を考え、主イエスを喜ばせ奉らんとの心より凡ての行動をとる。日も食事もその例に漏れない、その証拠は凡ての物を食いつつ神に対してこの食事の感謝を捧げている事でわかる。主が与え給うと信ずるものを感謝を以て受ける事は即ち主の為にこれを受ける事である。
辞解
[主] キリストを指す。
註解: 主のためと信じて食わない故、これに対して不平は少しも無く、却ってその食する僅のものに対して神に感謝をささげる心となる。
辞解
前半には「感謝すればなり」とありて理由を示し後半は「感謝するなり」とありて結果を示す。主の為を思う時凡ての事は感謝となる。
14章7節
口語訳 | すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。 |
塚本訳 | なぜなら、(キリストを信ずる)わたし達はだれも、自分のためには生きない、また、だれも、自分のためには死なないからである。 |
前田訳 | なぜなら、われらはだれも自分のためには生きず、だれも自分のためには死にませんから。 |
新共同 | わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。 |
NIV | For none of us lives to himself alone and none of us dies to himself alone. |
註解: ▲「生ける」は「生くる」とすべし。
14章8節 われら
口語訳 | わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。 |
塚本訳 | 生きれば、主のために生き、死ねば、主のために死ぬのである。だから、生きるにせよ死ぬにせよ、わたし達は主のものである。 |
前田訳 | われらは生きれば主のために生き、死ねば主のために死ぬのです。生きようが死のうが、われらは主のものです。 |
新共同 | わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 |
NIV | If we live, we live to the Lord; and if we die, we die to the Lord. So, whether we live or die, we belong to the Lord. |
註解: 昔の日本武士とその主君との関係に同じく、基督者の生死は自分の為ではなく全く主の為のみに存在する。基督者は主の有、主に属する奴隷である。故に他人より彼是批判せらるべき筈のものではない。この二節は基督者とキリストとの関係を最も端的に表顕せる簡所である。
14章9節 それキリストの
口語訳 | なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。 |
塚本訳 | キリストが死んで生き返られたのは、死んだ者と生きている者との主になるためであるから。 |
前田訳 | キリストが死んで生きられたのは、死者と生者との主になられるためです。 |
新共同 | キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。 |
NIV | For this very reason, Christ died and returned to life so that he might be the Lord of both the dead and the living. |
註解: 「そは……なればなり」と訳するを可とす。キリスト死にて復活し給えるはこれによりて彼は死に打勝ち死ねる者と生ける者(現に生くる者)との主としてこれを支配し給わんが為であった。彼もし死に給わなかったならば死ねる者と没交渉であり、もし又死して復活し給わなかったならば生ける者と交渉が無い。それ故に生くるも死ぬるも我らはキリストの支配を脱する事が出来ない。されば生くるも死ぬるも唯主のためである。
辞解
[死にて復 生き給ひしは] 死にて復活し給える事を意味する。復活によりて彼は死を滅ぼし生ける者と死ねる者との主となり給う。尚この箇所は異本に「死に又復活し又新に生き給えるは」或は「生き又死に又復活し給えるは」叉は「死にて復活し給えるは」等種々の写本あり、パウロの論旨を解し兼ねて後日加筆せるものである。
14章10節 なんぢ
口語訳 | それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。 |
塚本訳 | それなのに、あなたはなんで自分の兄弟を、(肉を食べるからとて)裁くのか。またあなたも、なんで自分の兄弟を、(野菜ばかり食べるとて)軽蔑するのか。(裁くお方は神、)わたし達は(最後の日に)一人のこらず、神の裁判席の前に出なければならないのである。 |
前田訳 | それなのにあなたはなぜ兄弟を裁くのですか。また、あなたもなぜ兄弟をあなどるのですか。われらは皆、神の裁きの座の前に出ねばなりません。 |
新共同 | それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。 |
NIV | You, then, why do you judge your brother? Or why do you look down on your brother? For we will all stand before God's judgment seat. |
註解: 弱き者は強き者を審くべからず、強き者は弱き者を蔑 すべからず。
註解: 凡ての人は世の終末に於て神の審判の座の前に立ちUコリ5:10、その上に坐するキリストの審判を受けなければならぬ。故に他人がこれを審く必要はない。
辞解
ヨハ3:18。ヨハ5:24に信ずる者は審判に至らずとあり、本節と予盾するが如きも、前者は救われるか滅ぼされるかの審判を指し後者即ち本節は諸 の行為の善悪に関する審判を指す。Uコリ5:10。尚神の審判の座と云いキリス卜の審判の座と云うも同一のものを指す、神に委ねられてキリストが審判を行い給うからである。
14章11節
口語訳 | すなわち、「主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」と書いてある。 |
塚本訳 | こう書いてあるではないか。“主は(御自分を指して誓って)言われる、わたしは生きている!”“すべての膝はわたしの前にかがみ、すべての舌は神を讃美するであろう。” |
前田訳 | 聖書にあります、「主はいわれる、わたしは生きている。すべての膝はわが前にかがみ、すべての舌は神を讃美しよう」と。 |
新共同 | こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」 |
NIV | It is written: "`As surely as I live,' says the Lord, `every knee will bow before me; every tongue will confess to God.'" |
註解: 前節の証明としてイザ45:23の七十人訳を自由に変更して引用せるもの。最後の審判の時は神はその燿く栄光を以て万人に臨み給い、凡ての人はその前に膝を屈めて彼を拝し彼にその罪を告白し彼に讃美を呈するであろう。
辞解
[我は生くるなり] 神の実在、永遠、万能を示す神御自身の語。尚イザ45:23と比較してその差異に注意すべし。ロマ11:36の附記参照。
14章12節
口語訳 | だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。 |
塚本訳 | 従って、わたし達は(人を裁くどころか、裁きの日には)ひとりびとり、神に自分のことを弁明せねばならない。 |
前田訳 | それゆえ、われらはひとりひとり自分について神に弁明せねばなりません。 |
新共同 | それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。 |
NIV | So then, each of us will give an account of himself to God. |
註解: 「陳 ぶべし」は未来形動詞で「陳 べるであろう」との意、最後の審判の時各々が神の前に自己の心や行為につき陳 べなければならない事となる。故に神に対しては全責任を負わなければならぬ故、他人の意見によりて審かれる必要もなく又他人を審くべきでもない。凡ての事を神に対し神の僕として行わなければならない。
要義1 [自由問題に就て] 例えば飲酒、喫煙の如き、その事柄自身が我らの信仰及び救と直接の関係なき事はこれを自由問題として取扱わなければならない。この種の事柄に関しては各人神の前に「自分の取るべき態度はこれである」と信ずる処の事を行うべきである。併し乍らこれは「自分」の取るべき態度で「他人」は叉別にその人の取るべき態度を神より示さるべき筈である。故に自分の態度を唯一の真理として他人を審いてはならず又軽蔑してはならない。但し神の前には少しの胡魔化しもなく潔き良心を保たなければならない。この種の問題に属するものは喫煙、飲酒、観劇、舞踏その他の享楽、その他の形式習慣等の問題、即ち信仰そのもの以外の諸問題である。
要義2 「日曜安息日問題」ロマ14:5にある如くパウロがロマ書を認 めし当時にも一週の七日は皆同一であると考える人がいた事実を見ても日曜日を安息日とする事は未だ一般的では無かった事が判る。これは後日の発達に属する。日曜は主の復活顕現の日であり同信の徒の集合に最も適当せる日である事より自然日曜日集会の習慣が起り後に至りてこれが法律的に強制されるに至った。それ故に日曜日を特別の安息の日としなければならぬと云う規則は、聖書に命ぜられた事でもなく、叉信仰の当然の結果でもない。要するに自由問題である。それ故に日曜安息の制度は人間の霊魂と社会生活に多くの益を与える事は確実であるけれどもこれを律法として他を審いてはならない。土曜安息主義を固守する一派の如きも弱き信仰に属する事故これを容れて蔑 すべきではない。またこの種の信者が他の信者を審く事は誤である。
要義3 [享楽は許さるべきか] 食うも食わぬも凡て主のため、死ぬるも生くるも凡て主のためであるとするならば絵画、音楽、演劇、その他飲食、生活上の娯楽は許さるべきやと云う問題を考えなければならぬ。神は人間に美を見、聞き、昧うの機関を与え、これを享 けて楽しむ心を与え給える以上、これ等は凡てそれ自身として悪事ではない。唯各々が神より享 けたと信じ、神に対して良心の責なき場合にのみそれが正しき享楽である。而してこれは各人の信仰の強弱によりて判断が異って来るのであって、各人はこれを他人の意見によって決定せず、最後の審判の時に神の前に安心して陳 べ得る如き立場に自己を置き自己の判断によりて自由に行動しなければならない。
要義4 [武士道的基督教] ロマ14:7、8は武士道の原則そのままを言い表しているのであって、日本武士がその主君に対する心を神に向ける時、我らは真の基督者としての生活を送る事が出来る。生も死も凡て神のものである事を知って始めて自己の凡ての慾望に死して潔き生活を送る事が出来る。
14章13節 されば
口語訳 | それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。 |
塚本訳 | だから、これからは互に裁き合うことをやめようではないか。(そして、これは信仰が強くてなんでも食べる人に言うのであるが、)あなた達はいっそ兄弟の前に躓きや邪魔物を置かないように、心に決めたらどうだ。 |
前田訳 | それゆえ、もう互いに裁きますまい。むしろあなた方が兄弟に衝撃やつまずきを与えないようお決めなさい。 |
新共同 | 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。 |
NIV | Therefore let us stop passing judgment on one another. Instead, make up your mind not to put any stumbling block or obstacle in your brother's way. |
註解: 前半に於て1-12節を要約し後半に14節以下の中心思想を揚げている。信仰の強き者も弱き者も互に審いてはならない事は前述せる処によりて明かである。併し乍ら唯それだけでは足りない、更に愛を以て行動しなければならない。そのためには自分の信ずる処を遂行する事よりも更に重大なる問題として兄弟のまえに妨碍 または蹟物 を置かぬ様に決心すべきである。殊に信仰の強き者はこの点に注意を要す。
辞解
[審くべからず] 「軽蔑すべからず」をも含めて言う。「妨碍 」と「蹟物 」との間に格別の差異は無く意味を強める為に重複せるものである(M0)。これに種々の区別を付けんとする見方があるけれども(G1、B1、A1、Z0等)精確ではなく又互に一致しない。ロマ9:33。Tペテ2:8参照。
[心を決めよ] 「審く」と同一の krinein を用いている、これ用語の修飾で同一語をやや異る意味に用いたのである。
14章14節 われ
口語訳 | わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。 |
塚本訳 | (わたしが知りまた主イエスにあって確信しているところでは、その物自体、汚れているものは何もなく、ただ汚れていると思うその人にだけ、汚れているのである。(だから何を食べてもよく、人が食べるのを咎めてはならない。)] |
前田訳 | わたしは主イエスにあって知り、また確信しますが、何ものもそれ自体ではけがれてはいません。しかしけがれていると思う人があればそれはその人にけがれています。 |
新共同 | それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。 |
NIV | As one who is in the Lord Jesus, I am fully convinced that no food is unclean in itself. But if anyone regards something as unclean, then for him it is unclean. |
註解: イエスに在る信仰によりて旧約の律法に録される如き食物の潔き物と汚れたるものとの区別は存せざる事をパウロは確信した。即ち理論的信仰的には信仰の強き者の考が正しい。
辞解
[自ら] それ自身の性質としての意。
[主イエスに在りて] キリストによりて旧約の律法は撤廃せられ新しき愛の律法が生れた、故に信仰によりて彼に在る者は凡ての物事の見方が一変する。
ただ
註解: 唯その信仰弱くして、凡ての旧き思想や習慣を脱出する事を得ずしてある種の食物を潔からずと思う人がある場合はその人に取りては汚れたものである。物それ自身の性質としてにはあらず主観の世界の事実としてなり。
14章15節 もし
口語訳 | もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。 |
塚本訳 | なぜなら、食べ物のために兄弟(の良心)を苦しめるならば、あなたはもう愛によって歩いていないのだから。あなたの食べ物などで、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストはその人の(救いの)ためにも死んでくださったのである。 |
前田訳 | 食べ物のゆえに兄弟を悲しませるならば、あなたはもはや愛に歩いてはいません。あなたの食べ物で兄弟を滅ぼさないようになさい。キリストは彼のためにお死にになったのです。 |
新共同 | あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。 |
NIV | If your brother is distressed because of what you eat, you are no longer acting in love. Do not by your eating destroy your brother for whom Christ died. |
註解: Tコリ8:1-13参照。信仰強き汝が自由に飲食するを見て弱き兄弟の良心は憂いに陥り、かかる放逸なる信仰に止まるを肯 ぜず(承諾しない:広辞苑)と云うに至る如き事があるとすれば、汝の態度に少くとも弱き兄弟に対する愛を欠いている事となる。
キリストの
註解: キリストはその人の為に生命をも棄て給うた、汝は汝の好む食物をその人の為に節する事位は物の数ではない。
口語訳 | それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。 |
塚本訳 | だから、あなた達がもっている善いもの[福音の自由]を人にあざけられてはならない。 |
前田訳 | あなた方の善がけがされないようになさい。 |
新共同 | ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。 |
NIV | Do not allow what you consider good to be spoken of as evil. |
註解: 強き信仰によりて霊の自由を有つ事は善き事であるが、これが為に他人を躓かせて世人に非難の機会を与える事は宜しくない。
辞解
[善き事] 信仰、福音、神の国、ロマ人の善しとする処等種種の解あれど上記の如く信仰の自由と解す(B1、G1、I0)。
14章17節 それ
口語訳 | 神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。 |
塚本訳 | 神の国は(なんでも自由に)食べることや飲むことではなく、義と平安と聖霊による喜びとであるから。 |
前田訳 | 神の国は食べ物や飲み物ではなく、聖霊による義と平和とよろこびです。 |
新共同 | 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。 |
NIV | For the kingdom of God is not a matter of eating and drinking, but of righteousness, peace and joy in the Holy Spirit, |
註解: 食う事や飲む事の如何は神の国成立の要件ではない。故に食うべきか否や等正義と無関係な問題に就きて争うべきではない。大切なのは正義が行われるや否や(こうした問題につきて愛を欠く事審く事蔑 する事は不義である)平和が存在するや否や(飲食間題につきて争う事は神の国に相応しない)聖霊によれる歓喜がありや否や(自分の好むものを食う喜び又はかかる問題につき憂いをいだく事等は神の国に適しない)の点にある。
辞解
[神の国] 現在に於て我らの心を神が支配し給う場合その処に神の国がある、これが未来に於て完成せらるべき神の国の初穂である。
[「義」、「平和」等] ここでは道徳的意味に用いられている、「義とされる事」「神との和らぎ」等にあらず。
14章18節
口語訳 | こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。 |
塚本訳 | そしてこれらのことをもってキリストに仕える者は、神のお気に入り、人々にも信用されるであろう。 |
前田訳 | このようにしてキリストに仕える人は神のお気に召し、人々にも信頼されましょう。 |
新共同 | このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。 |
NIV | because anyone who serves Christ in this way is pleasing to God and approved by men. |
註解: 前節の主義に立ちてキリストに事うる者は、神の悦びであるは勿論、一般の人々にも基督者に相応しいと認められ、神の栄光を揚ぐるに至る。
辞解
[斯 して] 即ち「これによりて」異本に「これらによりて」とあり、義、平和、歓喜等を指すと解して解釈上容易なるが故にこれを採る學者が多い(B1、M0、G1)。併し最も信頼すべき写本に「これによりて」とあり、解釈上やや困難であるけれども上記の如くに解してこの方を採った(I0、E0、Z0、改訳)。
[善しとせらる] 試験の結果合格となる事。
14章19節 されば
口語訳 | こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。 |
塚本訳 | だから平安に役立つこと、また互に(信仰を)造りあげることを、努めようではないか。 |
前田訳 | それゆえ、平和のこと、互いに建設的なことを努めましょう。 |
新共同 | だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。 |
NIV | Let us therefore make every effort to do what leads to peace and to mutual edification. |
註解: 紛争と破壊とは神にも人にも善しとせられない。
辞解
[平和のこと] 平和を来すべき事は何事でもこれを追求むべし。
[徳を建つる事] 原語 oikodomeô 基督者の個人及び団体がその信仰及び行為につき完全に向かって進む事を云う、家を建て上げる事に喩えたるもの、キリストはその基礎である。Tコリ3:11。エペ2:20、21。
14章20節 なんぢ
口語訳 | 食物のことで、神のみわざを破壊してはならない。すべての物はきよい。ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となる。 |
塚本訳 | 食べ物のために、神の(尊い)業(である集会)をこわしてはならない。たしかに、すべて(の食べ物)は清い。ただ食べて(兄弟を)躓かせる人には、悪いものである。 |
前田訳 | 食べ物のために神のわざをこわさないようになさい。すべては清いが、食べてつまずかせる人にはそれは悪いものになります。 |
新共同 | 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。 |
NIV | Do not destroy the work of God for the sake of food. All food is clean, but it is wrong for a man to eat anything that causes someone else to stumble. |
註解: 飲食の如き些末 の事で神の御業なる神の家又各人の信仰(Tコリ3:9)を破壊すべきではない。凡ての物は潔い故にこれを食う事は自由であるが他人の心持を無視し他人がこれによりて蹟きて信仰を失う事をも顧みずして、その自由を自分のためにのみ用うる場合は食う事は悪となる。愛なき故である。
辞解
[神の御業] 神は人々の心に信仰を造りこれを神の家として建て上げ給う。
[毀 つ] 前節の「建つる事」の反対。
[食ひて之を躓かする者は] 「蹟きつつ食う者は」とも訳され弱き信者が強き信者に倣いて良心に咎められつつ食う場合に適用する説あれど(M0、G1、Z0)改訳の如くに解する説の方が優っている(B1、B2、I0、E0、A1)。この「蹟 」は13節の「妨碍 」と同文字。
14章21節
口語訳 | 肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである。 |
塚本訳 | (何を食べてもよいと信じながら、)肉を食べず、酒を飲まず、そのほかあなたの(弱い)兄弟を躓かせるようなことをしないのは、非常に良い。 |
前田訳 | 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほかあなたの兄弟をつまずかせないのはよいことです。 |
新共同 | 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。 |
NIV | It is better not to eat meat or drink wine or to do anything else that will cause your brother to fall. |
註解: 凡ての物潔からざるなきを信じ乍ら兄弟を躓かせぬために肉食、飲酒を禁ずる行為は立派な行為である。これ信仰の強きものがその弱き者に対する愛の行為であるから。
辞解
異本に「なんじらの兄弟を妨げず躓かせず弱らする事をせぬは善し」とあり意味一層明瞭である。
14章22節 なんぢの
口語訳 | あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである。 |
塚本訳 | あなたは持っているその(強い)信仰を、そっと自分だけで神の前に持っていなさい。自分で正しいと決断したことを、(神の前で)自分(の良心)に責められない人は幸いである。 |
前田訳 | あなたの持つ信仰を、あなただけで神の前にお持ちなさい。さいわいなのは自ら決めたことで自らを裁かない人です。 |
新共同 | あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。 |
NIV | So whatever you believe about these things keep between yourself and God. Blessed is the man who does not condemn himself by what he approves. |
註解: 「信仰」はここでは「確信」と云う如き意味で、我らの持つ信仰は人の前ではなく神の前に良心に少しの暗き点もなしに持つべきものである。この間に他人の意見の干渉や影響が有ってはならない。
註解: 自ら研究考査の結果善しとする所につき自分の心に疚 しき所なき者、即ち自己を審かざるものは幸福である。
辞解
[自ら咎 めなきもの] 直訳「自己を審かざるもの」krinein 即ち自己を悪しと断定せざるもの。
[善しとする] 試験の結果善しと断定せる事。
口語訳 | しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。 |
塚本訳 | しかし、(食べることの良し悪しの判断がつかず)躊躇する者が食べるならば、信仰から出たのでないから、罰される。信仰からでないものはみな、罪である。 |
前田訳 | しかし疑うものが食べるならば、信仰によらないゆえに、罰せられます。信仰によらないものはすべて罪です。 |
新共同 | 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。 |
NIV | But the man who has doubts is condemned if he eats, because his eating is not from faith; and everything that does not come from faith is sin. |
辞解
[疑ひつつ] diakrinein を用い、心の中に不満不安等がある事。「罪せらる」 katakrineinは断罪を意味し救うべからざる状態に入れられる事、これ等の語義の区別はTコリ11:32辞解参照。
これ
註解: 良心に疑を持ちつつ食う事は神に対する不信実の態度である。不信実は不信仰である。故に不信仰の心不信実の心を以てしては神を喜ばす事が出来ない。凡て信仰によらぬ事即ち神に対する信実の心より出で来らずして、神の前に良心を誤魔化しつつ為す処の行為は罪である。故に最も大切な事は飲食する事の可否ではなく、我らの心が神の前に信実なりや否や、即ち信仰によるや否やである。神の前に自己を偽る事は最大の罪である。
要義1 [愛の不自由] 信仰による自由を制限する唯一のものは愛である。愛によりて自由に制限を与える事は実は束縛ではなく寧ろ真の自由である。食物の問題は軽く霊魂の問題は重い。他人の霊の救のためには食い得る食物をすら摂らずにいる事は愛による自由の制限であって、最も貴き行為である。
要義2 [これは信仰上の誤謬の承認にあらず] 自由に食い得るものを食うべからずとする事は、信仰の自由の否認であり、かかる人の為に信仰の自由を有するものがその自由を束縛する事は誤謬の承認にあらずやと思わる。併し乍らこの種の誤はキリストに対する忠実さより来る場合、即ち神の前に保てる信仰による場合(22節)には神これを許し給うが故に霊魂の救の問題と関係は無い。故にこれを認容する事も何等の差支が無い。
要義3 [疑う者] 凡て信仰によらぬは罪なり、パウロは自由問題の取捨の標準を信仰に置き、信仰によりて行える事、即ち信実なる心より、主に信頼する心を以て行える事はそれ自身神の前に義しき事であり、反対に主に対する信頼の心よりにあらずして、疑いつつ周囲の思惑に引かれて艮心の咎を持ちつつ行える事は、事の何たるを問わず罪ある事を断言している。この標準は凡ての自由問題に関連している立場であって、若し基督者がこの点を明かにする事が出来たならば、徒 に自由問題につきて他を審き分裂と紛争とを来す如き事を免れ得たであろう。
要義4 [愛と信仰] 1-12節は自由間題の信仰的解決であり、13-23節はその愛による解決である。自己一人に関する限り信仰のみによりて行動すべく他人にも関係が及ぶ場合愛を以て信仰の上に立たしめなければならない。