黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ロマ書

ロマ書第10章

分類
3 救拯論 3:21 - 11:36
3-(2) 全人類の救い 9:1 - 11:36
3-(2)-(2) イスラエルの不信と救 9:27 - 11:12
3-(2)-(2)-(ロ) 信仰の義によることを要す 10:1 - 10:10

10章1節 兄弟(きゃうだい)よ、[引照]

口語訳兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。
塚本訳兄弟たちよ、彼ら[イスラエル人]が救われること、これがわたしの切なる望み、また彼らのための神への願いである。
前田訳兄弟たちよ、わが心からの望みと彼らのための神への願いは彼らの救いです。
新共同兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。
NIVBrothers, my heart's desire and prayer to God for the Israelites is that they may be saved.
註解: 前章に於てイスラエルの不信とその審判とを述べつつもパウロの心は彼らに対する愛に充ちていた。

わが(こころ)のねがひ、(かみ)(たい)する(いのり)は、(かれ)らの(すく)はれんことなり。

註解: パウロは彼を迫害し、彼の福音を拒む者の為に祈った。「若し彼らが全く滅ぶべきものならばパウロはかかる祈を為さなかったであろう」(B1)。神がある人を滅亡に予定せりと云う如き考はパウロには全く無かった。

10章2節 われ(かれ)らが(かみ)のために熱心(ねっしん)なることを(あかし)す、[引照]

口語訳わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。
塚本訳彼らは神に対して(ほんとうに)熱心だからである。そのことを彼らのために証明する。ただ、(残念なことに、その熱心が正しい)認識を欠いている。
前田訳わたしは彼らのために証しますが、彼らは神に対して熱心です。しかし認識がありません。
新共同わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。
NIVFor I can testify about them that they are zealous for God, but their zeal is not based on knowledge.
註解: 彼らが形式と儀式と律法とに熱心であり、殊に先祖の言伝(いいつたえ)(こまか)き規則を遵守する事に浮身(うきみ)をやつし(広辞苑:身のやせるほど物事に熱中する)ているのは、実は神に対する熱心からである事は疑う事が出来ない。
辞解
[神のために熟心なること] 直訳「神の熱心を持つこと」で神に対する熱心を意味す。

されど()熱心(ねっしん)知識(ちしき)によらざるなり。

註解: イスラエルに与えられし律法は彼らを信仰に至らしめん為の守役(もりやく)であった(ガラ3:24)。然るに彼らはこれを悟らず、(いたずら)に律法の形骸を死守する事に熱心であった。 
辞解
[知識] epignôsis は単なる「知識」gnôsis にあらず、事物の真相に触れる洞察力を意味す。

10章3節 それは(かみ)()()らず、(おのれ)()()てんとして、(かみ)()(したが)はざればなり。[引照]

口語訳なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。
塚本訳すなわち、彼らは(キリストを信ずることによって義とされる)神の義(の道が開けているの)がわからず、(自分の力で律法を守って)自分の義を立てようとしたため、神の義に服従しなかったのである。
前田訳すなわち、神の義を知らず、おのが義を立てようとして、神の義に従いませんでした。
新共同なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。
NIVSince they did not know the righteousness that comes from God and sought to establish their own, they did not submit to God's righteousness.
註解: 神はその独子を十字架に()けることにより愛を以て我らの罪を赦し、信ずる者を義とし給う、これが神の義である(ロマ3:21-26)。ユダヤ人はこの福音を知らなかった。「己の義」は律法を実行する事により自己の力を以てかち得る義である。この己の義を建てんとする者は已に誇らんとする、従って神の義を信じこれに従わない、これは自己の義を空しくする事であるから。
辞解
[(したが)う] 信ずると同じ意義に用いらる(ロマ1:5ロマ6:17)。

10章4節 キリストは(すべ)(しん)ずる(もの)()とせられん(ため)律法(おきて)(をはり)となり(たま)へり。[引照]

口語訳キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。
塚本訳(では律法を守ることが、なぜいけないか。律法はキリストによって目的を達し、もうなくなってしまったからである。)すなわち、キリストは(御自分を)信ずる者が一人のこらず義とされるために、律法の終りとなられたのである。
前田訳キリストは信ずるものすべてが義とされるため、律法の終わりとなられました。
新共同キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。
NIVChrist is the end of the law so that there may be righteousness for everyone who believes.
註解: 直訳「そは律法の終はキリストにして信ずる凡ての者を義に至らしむればなり」律法はその期限も能力も有限である。即ち期限としてはイスラエルが成年期に達するまでの事であり、能力としては人々を義として生命に至らせる事が出来なかった(ガラ3:19ロマ8:3)。故にこの律法には終が無ければならない。それはキリスであった。キリストによりて律法は完全に成就せられしが故に律法は終となったのである。即ちキリストの贖により、信ずる者は(5-10節)凡て(11-21節)義とせられて生命に至る事が出来る。これを知らずに律法に熱心なるは愚な事である。
辞解
[終] telos は又「目的」「成就」等と訳する學者もあるけれども「終」が最も適当である。但し「成就」の意味を含む事は註に言えるが如し(B1)。

10章5節 モーセは、律法(おきて)による()をおこなふ(ひと)(これ)によりて()くべしと(しる)したり。[引照]

口語訳モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。
塚本訳その証拠には、モーセは律法による義について(こう)書いている、“これを行う人(だけ)がそれによって生きる”と。(しかしだれ一人律法を完全に行うことは出来ない。)
前田訳モーセが律法による義について書いています、「それを行なう人がそれによって生きる」と。
新共同モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
NIVMoses describes in this way the righteousness that is by the law: "The man who does these things will live by them."
註解: レビ18:5。律法による義はこれを「行ふ」ことが絶対の要件である。即ちその外部に対する表顕がその要素を為している。従ってその弊害としてパリサイ主義の如き知識によらざる熱心によりて「生きん」とするに至った。併しこれは不可能である。何となれば何人も完全に律法を「行ひ」得ないからである。
辞解
異本に『モーセは律法による義につきて「これを行う者はこれによりて生くべし」と録したり』とあり、次節との関係その他よりこの方が優れる様に思う。

10章6節 されど信仰(しんかう)による()()くいふ『なんぢ(こころ)に「(たれ)(てん)(のぼ)らん」と()ふなかれ』と。[引照]

口語訳しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。
塚本訳ところが信仰による義はこう言う(と書いてある、)「“あなたは心の中で言ってはならない、”『“だれが天に上ってくれるか”』と。すなわち、キリストを(天から)つれ下ってくるために。
前田訳しかし信仰による義はこういいます、「心の中で、だれが天に上るか、というな。これはキリストを引きおろすこと。
新共同しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
NIVBut the righteousness that is by faith says: "Do not say in your heart, `Who will ascend into heaven?' " (that is, to bring Christ down)

10章7節 これキリストを引下(ひきおろ)さんとするなり『また「たれか(そこ)なき(ところ)(くだ)らん」と()ふなかれ』と。(これ)キリストを死人(しにん)(うち)より引上(ひきあ)げんとするなり。[引照]

口語訳また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。
塚本訳あるいは、『”だれが地の底に下ってくれるか”』と。すなわち、キリストを死人の中からつれ上るために」と。
前田訳また、だれが地の底に下るか、ともいうな。これはキリストを死人から連れのぼること」と。
新共同また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
NIV"or `Who will descend into the deep?' " (that is, to bring Christ up from the dead).
註解: 信仰による義は神がキリストをこの世に降しこれを十字架につけ、死人の中より甦えらしめ給いし事を信ずる事によりて与えられる義に他ならない。神既にキリストを降し給いたれば我ら自己の力を以て天に昇り、彼を引下さんとしない、又神既に彼を底なき所より引上げ給いたれば我ら自ら陰府(よみ)に降るに及ばない。救は凡て神によりて完全に成就せられ、我らは唯これを信ずるを以て足るのである。
辞解
パウロはここに申30:11-14 を応用しその処にモーセが律法の性質を説明してそれが決して理解し難きものにあらず、又彼らより遠きものにもあらざる事を説明せる形式に(なら)い、(用語すらも一部を応用して)信仰による義の性質を説明し、その律法と異る点を強調したのである。故に申30:11-14 と6-8節との関係は型とその対型、預言とその実現、又は自己の思想をモーセの言を以て(くつが)えるもの等と見るよりも、上述の如く類似の語法を以て全く別の思想を述べたものと見るべきである。尚意味の取り方も上記は欧米の学者の所説と全く異るけれども、予は研究と思索の結果かく解する事とした。6-8節は或は(1)既に天に上り、既に甦り給えるキリストに対する不信仰を戒めしものと解し(M0)、或は(2)こうした質問を発するはキリストの成就せる事を無効ならしむるもの故唯これを信ずべしとなし(G1)、或は(3)自ら天に上り又は陰府(よみ)に下るの労苦を取るの必要なく、信仰の極めて容易なるものなる事を示すものと解し(I0)、或は(4)キリストを天より引下し又は陰府(よみ)より引上ぐる事能わざる如く人は救を天上より又は地下より持来し能わずと解し(B1)、或は(5)イエスを信ぜずして尚来るべきメシヤを期待するユダヤ人らは、既に黙示せられし事実を無視する不信仰の(ともがら)である事を示すものと解す(Z0)る等尚多くの解釈がある。
[底なき所] 申30:13には「海の彼方」を用う、「底なき所」は聖書に屡々(しばしば)「天」と相対して用いられる(ヨブ11:8詩139:8アモ9:2

10章8節 さらば(なに)()ふか『[()](ことば)はなんぢに(ちか)し、なんぢの(くち)にあり、(なんぢ)(こころ)にあり』と。これ(われ)らが()ぶる信仰(しんかう)(ことば)なり。[引照]

口語訳では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。
塚本訳しかしこれはいったい何を言っているのか。(キリストはすでに天から下り、また死人の中から復活されたので、もうそんな努力の必要はない、これも聖書にあるように、)“言葉はあなたに近い。あなたの口に、あなたの心にある”(というのである。)すなわちこの言葉こそ、わたし達が説いている信仰の言葉[福音]である。
前田訳これは何をいうのでしょう。「ことばはあなたに近い。あなたの口に、あなたの心にある」という、これこそわれらの説く信仰のことばです。
新共同では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
NIVBut what does it say? "The word is near you; it is in your mouth and in your heart," that is, the word of faith we are proclaiming:
註解: 信仰による義は前2節の如くにして神これを与え給うが故に申30:14の律法の場合と同じく、信仰の言――パウロ等によりて宣伝されている福音――は外部より我らを規律すべきではなく、我らに近く我らの身の内に在りて我らを内より支配し動かすべきものである。この事を知らずして律法に熱心なるは彼らの知識なきが為である。申30:14の場合は律法が自己に遠く離れていない事を教えパウロはここに信仰は心の内部にその本拠がある事を云わんとしているのである。故に律法の場合の例を以て返って律法との対立を教えている事となる。
辞解
[御言] 本節後半の説明により単に「言」と訳すべきである。
[信仰の言] 信仰による義を示す福音の言。

10章9節 (すなは)ち、なんぢ(くち)にてイエスを(しゅ)()ひあらはし、(こころ)にて(かみ)(これ)死人(しにん)(うち)より(よみが)へらせ(たま)ひしことを(しん)ぜば、(すく)はるべし。[引照]

口語訳すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
塚本訳つまり、あなたは“口で”イエスを主と告白して、“心で”神がイエスを死人の中から復活させられたことを信ずれば、救われる。
前田訳口で主イエスを告白し、心で神が彼を死人たちから復活させられたと信ずるなら、あなたは救われます。
新共同口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
NIVThat if you confess with your mouth, "Jesus is Lord," and believe in your heart that God raised him from the dead, you will be saved.
註解: イエスの主たる事とその復活とは6、7節によりて示される如く信仰の対象であり、心と口とは前節に示される如くこの信仰の所在とその告白である。この二者は本体とその活動で互に離れる事が出莱ない。
辞解
本節は「何となれば若し汝口にてイエスを…………を信ぜば救わるべければなり」とありて信仰による救の単純なる事を示して前節の理由を為している。尚「口」即ち信仰の表白を「心」即ち信仰そのものよりも前に置けるは申30:14と対応せしめんが為で次節にこれが自然の順序となる。

10章10節 それ(ひと)(こころ)(しん)じて()とせられ、(くち)()ひあらはして(すく)はるるなり。[引照]

口語訳なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
塚本訳心で信じて義とされ、口で告白して救われるからである。──(こうわたし達は説いているのである。)
前田訳心で信じて義に至り、口で告白して救いに至るのです。
新共同実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
NIVFor it is with your heart that you believe and are justified, and it is with your mouth that you confess and are saved.
註解: 内面の信仰は必ず外面の告白を伴い、これによりて救は完成する。告白なき信仰は死せる信仰であり(マタ10:32Uコリ4:13)信仰なき告白は虚偽の告白である(マタ7:21)。

3-(2)-(2)-(ハ) 信仰の義は万人を救う 10:11 - 10:15

10章11節 聖書(せいしょ)にいふ『すべて(かれ)(しん)ずる(もの)(はづか)しめられじ』と。[引照]

口語訳聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。
塚本訳(なぜ信仰だけで救われるか。)“これ[キリスト]を信ずる者は”すべて、(最後の裁きの日に)“恥をかかないであろう”と聖書が言っているからである。
前田訳聖書はいいます、「すべて神を信ずるものははずかしめられまい」と。
新共同聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
NIVAs the Scripture says, "Anyone who trusts in him will never be put to shame."
註解: (▲ロマ5:5と同じく、期待がはづれて恥をかく様な事は無い事。)原文「聖書に・・・・・言えばなり」とあり、前節の理由を示す(イザ28:16)。又原文には(七十人訳にも)「凡て」なる文字なし。パウロがこれを挿入せる所以はこれによりて原文の意味を強くし且つ次の諸節の説明の根拠とせんが為である。信仰のみによりて人は辱しめを免れる。即ち神はその人の罪を審き給わない。この点は旧約の預書者も既に認めていた点である。

10章12節 ユダヤ(びと)とギリシヤ(びと)との區別(わかち)なし、[引照]

口語訳ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。
塚本訳(「すべて」と言う以上、)ユダヤ人も異教人も、その間になんの差別もないのである。なぜなら、同じ一人の方がすべての人の主であって、御自分を呼ぶすべての人に、あり余る恩恵をお与えになるからである。
前田訳ユダヤ人も異邦人も区別なしです。同じ主が万民の主で、彼を呼ぶものすべてを豊かに恵みたまいます。
新共同ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
NIVFor there is no difference between Jew and Gentile--the same Lord is Lord of all and richly blesses all who call on him,
註解: ユダヤ人に取りては革命的宣言であった。この両者の区画はその律法にあった故キリストこの障壁を撤廃し給いしが故に、この両者は信仰によりて神の恩恵を受けその救に与る意味に於て全く差別なきものとなったのである。

同一(どういつ)(しゅ)萬民(ばんみん)(しゅ)にましまして、(すべ)()(もと)むる(もの)(たい)して(ゆたか)なり。

註解: 同一の主キリストはユダヤ人の主たるのみならず異邦人の主である。ユダヤ人の独占を許さず。又ユダヤ人のみを偏り見給う事はない。何人たるを問わず主の御名を呼び、その執成(とりなし)(M0)と恩恵と救助(Z0)とを求むる者に対し、主はその無尽蔵の富(ヨハ1:16)よりその恩恵を豊かに与う事を得給う。何人もこれを汲み尽す事が出来ない(B1)。
辞解
[万民] 原語「万人」。
[呼び求む] epikaleô 呼びかける事。
[主] 旧約聖書に於てこの語をエホバに対して用う。神たる事を示す。

10章13節 『すべて(しゅ)御名(みな)()(もと)むる(もの)(すく)はるべし』とあればなり。[引照]

口語訳なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。
塚本訳ほんとうに(預言者ヨエルが言うように、)“主[キリスト]の名を呼ぶ者はすべて救われる。”
前田訳「主を呼ぶものはすべて救われる」からです。
新共同「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
NIVfor, "Everyone who calls on the name of the Lord will be saved."
註解: ヨエ3:5、パウロは聖書を引用してユダヤ人の偏見を打破せんと(つと)めている。但し「主」は旧約聖書に於ては「エホバ」を意味するけれども、パウロはこれを転じてキリストに就て応用している。キリストが神の子に在し給う以上これは当然である。旧約時代に於ても神の恩恵に対する信仰があった事はかかる聖句に示されている。

10章14節 ()れど(いま)(しん)ぜぬ(もの)(いか)()(もと)むることをせん、(いま)()かぬ(もの)(いか)(しん)ずることをせん、宣傳(のべつた)ふる(もの)なくば(いか)()くことをせん。[引照]

口語訳しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
塚本訳ところで、(呼ぶだけで救われると言うが、)信じたことのない者を、どうして呼ぶことができようか。聞いたことのない者を、どうして信ずることができようか。説く者がなくて、どうして聞くことができようか。
前田訳さて、信じたことのないものを、どうして呼びえましょう。聞いたことのないものを、どうして信じえましょう。伝えるものがなくて、どうして聞きえましょう。
新共同ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
NIVHow, then, can they call on the one they have not believed in? And how can they believe in the one of whom they have not heard? And how can they hear without someone preaching to them?

10章15節 (つかは)されずば(いか)宣傳(のべつた)ふることをせん[引照]

口語訳つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
塚本訳(神に)遣わされなければ、どうして説くことができようか。(しかし説く者はある。それはわたし達である。)“善いこと[福音]を伝える人たちの足の、なんと美しいことよ!”と書いてあるとおりである。
前田訳つかわされないで、どうして伝ええましょう。聖書に、「よいことを伝える人の足の美しさよ」とあるとおりです。
新共同遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
NIVAnd how can they preach unless they are sent? As it is written, "How beautiful are the feet of those who bring good news!"
註解: 併し主の名を呼び求むるには信ずる事、信ずるには福音を聴く事、聴くにはこれを宜伝うる事、宣伝うるには使徒として派遣される事を必要とする。この五段階は信仰を以て主を呼ぶ者に必要なる順序であり、而してパウロその他の使徒の伝道もこの呼び求むる者を造らんが為の働きである。故に13節に引用せる聖句を実現せんが為の活動であって、ユダヤ人の反対を受くべき筈は無い。聖書にも次の如くに録されている事を思うべきである。

『ああ(うるわ)しきかな、()(こと)()ぐる(もの)(あし)よ』と(しる)されたる(ごと)し。

註解: この聖句(イザ52:7)はイスラエルの捕囚よりの帰還と神政の回復を告ぐる預言であって、メシヤ王国に関連する聖句故パウロはこれをキリストに応用し、使徒職の美わしさをたたえた。パウロその他の使徒は決してユダヤ人を非難し又は攪乱せん為に働いているのではなく、却て彼らを救わんが為にこの聖句の如くに美しき働きを為しているのである。
辞解
[告ぐる] の原語は「福音を宣伝うる」。
要義1 [知識によらざる信仰の熱心は無益にして危険なり] 知識によらざる信仰の熱心は、自己満足と自己陶酔とに陥り、且つ高慢がこれに伴い、この熱心によりて救わるるが如くに誤信するに至る。これ寧ろ律法主義、パリサイ主義の一変形で、純福音の正反対である。人は自己の絶対に無力なる事の知識を得て神の為し給う救を静かに信受する事が必要である。この知識即ちこの真理の深き理解無き場合の熱心は無益有害である。
要義2 [熱心の必要] 知識即ち深き理解を欠ける熱心は無益であるけれども、真理を求むる熱心は救に必要である。熱心なしに、少しの緊張味もなしに、信仰を求めんとする事は無意味である。神は求めざる者に信仰を強て押付け給わない。但し我らは自已の熱心によりて信仰を獲得し得ると考えてはならない。熱心は唯我らをして自己の無力を徹底的に明かならしめ信仰より外に救わるべき道なき事を知らしむるに過ぎない。これが熱心の到達し得る帰結である。但しこの帰結は非常に重要なる点であって、これなくしては人は信仰のみによりて義とされる事の真理を知る事が出来ない。自己の全く無なる事を知り神の前に打ち砕かれし魂の上に神は御手を加えこれに信仰の霊を与え給う。人は熱心を以て信仰を掴む事が出来ない。併し熱心なしに人は信仰を与えられる事が出来ない。
要義3 [信仰と告白] 口にイエスを主と言いあらわす事は、単にこれを口先のみの問題と解すべきではなく、人間の全活動を以て主の支配を証明する事を要するとの意味である。即ち信仰は内面的に心の中に信ずるだけで人の前にこれを示し得ないものであるならば、それは真の信仰ではない、唯「主よ主よ」と言う者のみ天国に入らないと共に「人の前に」イエスを「否む者」は又父の前にて否まれなければならぬ(マタ7:21マタ10:32、33)。
併し乍ら信仰なき告白は虚為である。説教に於て又は祈りに於て、心に無き事を告白する如き態度は大なる偽善である。かかる信仰告白は真の告白ではない。

要義4 [単純なる信仰] イエスの主たる事とその復活とを信じ且つ告白する事は極めて簡単であって、律法遵守の如き複雑困難なる事は無い。何人にも可能であり従って一般的である。併し乍らこれと同時に(にせ)の信仰と告白とが生じ易い事の危険がある。それ故に信仰は単に単純であるのみではいけない。その処に真実さが充ちている事を必要とする。信仰そのものが真実を離れて存在し得ない以上、これは当然の事である。

3-(2)-(2)-(ニ) イスラエルの不信は聖書に預言せらる 10:16 - 10:21

10章16節 されど、みな福音(ふくいん)(したが)ひしにはあらず、イザヤいふ『(しゅ)よ、われらに()きたる[(ことば)]を(たれ)(しん)ぜし』[引照]

口語訳しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
塚本訳ところが、だれもが(このように伝えられた)福音を、従順に受け入れたわけではない。イザヤも(こう)言っているから。“主よ、だれがわたし達に聞いたことを信じましたか”と。(実際イスラエル人は信じなかったのである。)
前田訳しかし皆が福音に従ったのではありません。イザヤはいいます、「主よ、だれがわれらに聞いたことを信じましたか」と。
新共同しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。
NIVBut not all the Israelites accepted the good news. For Isaiah says, "Lord, who has believed our message?"
註解: 万民が主を呼び求めんが為に福音は宣伝えられたけれども、これに従わずこれを信じなかったものが多いではないか。併しこれは怪しむに足りない、イザ53:1に預言せられしが如くである。故に福音が宣伝えられたからとて必ずしも万人残らず信仰に入り得ると云う事は出来ない。

10章17節 ()信仰(しんかう)()くにより、()くはキリストの(ことば)による。[引照]

口語訳したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
塚本訳[だから、(いま言ったように、)信仰は(福音を)聞くことから、聞くことはキリストの(伝道の)命令から生まれる。]
前田訳信仰は聞くことから、聞くことはキリストのことばからです。
新共同実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
NIVConsequently, faith comes from hearing the message, and the message is heard through the word of Christ.
註解: 14節の繰返し。「キリストの言」(異本「神の言」)はキリストの福音と云うに同じ(I0、G1)。即ち信仰の前提として必要なるものは福音とこれを聞く事である。これらは凡て欠くる処が無かった。
辞解
[キリストの言] をその「命令」と解し使徒たちに伝道を命じ給える故と解する説(M0)あれど適当ではない。

10章18節 されど(われ)いふ、(かれ)(きこ)えざりしか、[引照]

口語訳しかしわたしは言う、彼らには聞えなかったのであろうか。否、むしろ「その声は全地にひびきわたり、その言葉は世界のはてにまで及んだ」。
塚本訳しかし、わたしは考える、彼らは(福音を)聞かなかったのではあるまいかと。そんなことはない。“その声は全地に、その言葉は世界の果てにまで出ていった。”(と書いてある。)
前田訳しかしわたしはいいます、彼らは聞かなかったのでしょうか、と。そうではなくて、「その声は全地に、そのことばは世界の果てにまで及んだ」のです。
新共同それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。
NIVBut I ask: Did they not hear? Of course they did: "Their voice has gone out into all the earth, their words to the ends of the world."
註解: 彼らイスラエルが信じないのは、福音が宣伝えられたのにかかわらずそれを聞かなかったのであるか、まさか左様ではあるまい。
辞解
[聞こえざりしか] 適訳ではない。「彼らはまさか聞かざりしにはあらじ、如何」と云う如き意。

(しか)らず『その(こゑ)全地(ぜんち)にゆきわたり、()(ことば)世界(せかい)(きはみ)にまで(およ)べり』

註解: パウロは彼及び他の使徒たちの伝道により福音が全世界(当時の概念による)に伝っている事を詩19:4の言を以て叙述している。故にイスラエルは福音を聞かざりしとの口実を以てその不信の弁解とする事は出来ない。
辞解
引用の詩篇の語は天地の自然が無言の中に大なる声を以て神の栄光を讃美している事を歌っていて福音の宣伝とは関係が無い。唯福音の宣伝も声は小なるが如くにして、実は高く全世界に饗き渡る有様がこれに類似しているので、パウロは彼の思想を詩篇の詞を以って表したのである。

10章19節 (われ)また()ふ、イスラエルは()らざりしか、[引照]

口語訳なお、わたしは言う、イスラエルは知らなかったのであろうか。まずモーセは言っている、「わたしはあなたがたに、国民でない者に対してねたみを起させ、無知な国民に対して、怒りをいだかせるであろう」。
塚本訳しかし、わたしは(なお)考える、イスラエル人は(聞くには聞いたが、むずかしくて)わからなかったのではあるまいかと。(そんなことはない。)第一にモーセは言っている。(“神は言われる、)「わたしはわたしの民でない者(を救うこと)によって”あなた達に“妬みをおこさせ、愚かな民によって”あなた達を“怒らせる」(と。)”(愚かな異教の民さえ信じたのである。)
前田訳なお、わたしはいいます、イスラエルは知らなかったのでしょうか、と。まずモーセがいいます、「わたしは民でないものによってあなた方を妬ませ、愚かな民によってあなた方を怒らせる」と。
新共同それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、/「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。
NIVAgain I ask: Did Israel not understand? First, Moses says, "I will make you envious by those who are not a nation; I will make you angry by a nation that has no understanding."
註解: 前節同様「イスラエルはよも知らざりしにはあらじ、如何」の意。イスラエルも救に漏れる事がある事又異邦人が救に与る事がある事を彼らも知っている筈である。
辞解
[知る] の目的は(1)「その声が全地に聴えし事」(M0)。(2)「福音の宣伝が全世界に及ぶ事」(G1)。(3)「キリストの言」(I0)等種種に解せらる。

()づモーセ()ふ『われ(たみ)ならぬ(もの)をもて(なんぢ)らに(ねたみ)(おこ)させ、(おろか)なる(たみ)をもて(なんぢ)らを(いか)らせん』

註解: (▲「もて」は口語訳の「対して」が正しい。)申32:21の引用でイスラエルが神を神とせずして偶像を拝するが故に神はその罰として神の「民ならぬもの」を恵み、「愚なる」神を知らざる民に神を知らしむる事によりてイスラエルに(ねたみ)の心、怒の情を起さん事を預言し給うた。これが今日実現しているに過ぎない。
辞解
[民ならぬ者] 神の民以外の者の意、異邦人に同じ。
[愚かなる民] 偶像崇拝の民、神を知らざる民で同じく異邦人を指す。
[先づ] を「先づ知らざりしか」と読む説あり(Z0)

10章20節 またイザヤ(はばか)らずして()ふ『(われ)(もと)めざる(もの)に、われ見出(みいだ)され、(われ)(たづ)ねざる(もの)(われ)あらはれたり』、[引照]

口語訳イザヤも大胆に言っている、「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、わたしを尋ねない者に、自分を現した」。
塚本訳(次に)イザヤも勇敢に言っている。“(神は言われる、)「わたしをさがさなかった者にわたしは姿を見せ、わたしを尋ねなかった者に現われた」(と。)”
前田訳イザヤもあえていいます、「わたしを求めなかったものに姿を見せ、わたしをたずねなかったものに現われた」と。
新共同イザヤも大胆に、/「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。
NIVAnd Isaiah boldly says, "I was found by those who did not seek me; I revealed myself to those who did not ask for me."
註解: イザ65:1。ヱホバは彼に背き彼を顧みざるその民イスラエルを愛する熱情を吐露せんとして反対に本来彼を求めず、(たず)ねざる異邦人が思いがけなくもヱホバを見出し彼を知るに至った事を示して、その心の淋しさを訴え給うた。この聖句を見てもイスラエルの背反と異邦人の救とは明かである。
辞解
本節イザ65:1の七十人訳により(前後転倒)たるものである。イザ65:1は異邦人に関する言にあらず、イスラエルの中のある者に関する言であると解する学者が多い(M0、I0、E0)、批評学の定説に近い、併しパウロと同じくこれを異邦人に関するものと見る学者も無くはない(G1、A1、Z0)。パウロは次節より見るも明かにこれを異邦人に関する語と見たので、これは恐らくその当時の一般の解釈によったものであろう(Z0)。

10章21節 (さら)にイスラエルに()きては『われ(したが)はずして()ひさからふ(たみ)に、終日(ひねもす)()()べたり』と()へり。[引照]

口語訳そして、イスラエルについては、「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」と言っている。
塚本訳彼はまたイスラエル人について言っている、”(神は言われる、)「一日中、この不従順な反抗ばかりしている民に、わたしは手を伸べていた」(と。)”(だから彼らが信じないのは、頑なで自分の義を立てようとしたからであって、弁解の言葉はない。)
前田訳彼はまたイスラエルについていいます、「ひねもすわたしは手をのべた、不従順で反抗的な民に」と。
新共同しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。
NIVBut concerning Israel he says, "All day long I have held out my hands to a disobedient and obstinate people."
註解: イスラエルの不信とこれに対するヱホバの愛とを示す。この聖句(イザ65:2)を見てもイスラエルがヱホバに叛いている事を知らずとは云う事が出来ない。
辞解
本節引用は前節引用の次の句でこの方はイスラエルに関する事に何人も異議は無い。本節も亦神がある者の亡ぶる事を欲して亡びに予定せりとの説を破壊する。
要義1 [ユダヤ人とギリシャ人との区別なし] この思想はパウロによりて屡々(しばしば)強調される処であって(ロマ3:29-30。ロマ15:9ガラ3:28Tコリ12:13エペ2:13-18。コロ3:11)宗教上の特選の民と自任していた当時のユダヤ人に取りては、危険なる破壊思想であった。併し神の大愛を信ずる者に取りてはかかる区別は存在する筈が無い事は明かである。唯神は凡ての人をその信仰によりて見分け給う。従って外形上の基督者、非基督者の区別も神の前には存在せざるに等し。
要義2 [イスラエルの選びの意義] 聖書に神がイスラエルを選び、特にこれを愛撫し給う事が録されているのは「同一の主は万民の主にましまして、凡て呼び求むる者に対して豊なり」との聖語に相反するが如くに見えるけれども然らず、神がイスラエルを選び給いしはえこひいきによるにあらず、神がイスラエルに大なる使命を授け給わんが為である。故に選ばれしイスラエルはこの重荷を負い、この使命に耐うる者となるべき訓練の下に立たなければならぬ。而して神が特にイスラエルを愛し給うは、この重任と烈しき訓練とを思い給うからである。選ばれる事は光栄であると共に苦痛である。
要義3 [福音宣伝の幸福] (ロマ10:15)福音を宜べ伝うる事は神を父と呼ぶべき人々を招く事である。神がキリストによりて人類の罪を赦し給い神の御心が既に和らぎ給える事を告ぐる使の叫びである。かかる光栄ある働きは他に有り得ない。これに遣される者は幸である。
要義4 [神の恩恵は公平なり] 神は不従順にして言いさからう民にも終日御手を伸べ給う(ロマ10:21)。故に極端なる預定論者の唱うる如く、救に預定せる者に対してのみ神は特別の好意を示し給い、その他の者には普通の好意を示し給うに過ぎずとする説(カルヴィン)は誤である(B1)。

ロマ書第11章
3-(2)-(2)-(ホ) イスラエルもやがては救われん 11:1 - 11:12

註解: イスラエルは不信に陥っているけれどもこれはその一部に過ぎない。全く神に棄てられた訳ではない、神は尚その愛を以て彼らを保ち給う。

11章1節 されば(われ)いふ、(かみ)はその(たみ)()(たま)ひしか。(けっ)して(しか)らず。(われ)もイスラエル(ひと)にしてアブラハムの(すゑ)ベニヤミンの(やから)(もの)なり。[引照]

口語訳そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。
塚本訳それで、わたしは考える、”神は御自分の民をお捨てになった”のではあるまいかと。もちろん、そうではない。その証拠には、こう言うわたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫の出、ベニヤミン族の者であるの(に、キリストを信じているの)だから。
前田訳そこでわたしは考えます、神はその民をお捨てなのか、と。断じて否です。わたしもイスラエル人で、アブラハムの末、ベニヤミンの族(やから)です。
新共同では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。
NIVI ask then: Did God reject his people? By no means! I am an Israelite myself, a descendant of Abraham, from the tribe of Benjamin.
註解: 神が全くイスラエルの民を捨て給いしに非ざる証拠は純粋なるイスラエル人パウロが救われし事を以て証明が出来る。
辞解
[我もイスラエル人にして] 云々はイスラエル人たるパウロはその民族的自覚に対しても神がその民を棄てたとは云う事が出来ないとの意味に解する説(M0)あれど不適当である。
[べニヤミンの族] 十二の支族の一。

11章2節 (かみ)はその(あらか)じめ()(たま)ひし(たみ)()(たま)ひしにあらず。[引照]

口語訳神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかった。聖書がエリヤについてなんと言っているか、あなたがたは知らないのか。すなわち、彼はイスラエルを神に訴えてこう言った。
塚本訳“神は”あらかじめ選んだ”御自分の民をお捨てにならなかった”(と書いてある。)それともあなた達は、聖書がエリヤの(ことを記した)所で何と言っているか、知らないのか。エリヤはイスラエル人をこのように神に訴えているではないか。──
前田訳神はあらかじめお認めのご自身の民をお捨てではありません。それとも、あなた方は聖書がエリヤのところで何というか、ご存じないのですか。彼はイスラエルをこう神に訴えています、
新共同神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。
NIVGod did not reject his people, whom he foreknew. Don't you know what the Scripture says in the passage about Elijah--how he appealed to God against Israel:
註解: 神はイスラエルをその民として特に始めよりこれを選び(いと)しみ給うたので、決して今更これを棄て給う様な事はない。棄て給う如くに見ゆる中にも神の深き愛ははたらきつつある。
辞解
[予め知る] につきてはロマ8:29辞解参照。

(なんぢ)らエリヤに()きて聖書(せいしょ)()へることを()らぬか、(かれ)イスラエルを(かみ)(うった)へて()ふ、

11章3節 (しゅ)よ、(かれ)らは(なんぢ)預言者(よげんしゃ)たちを(ころ)し、なんぢの祭壇(さいだん)(こは)ち、(われ)ひとり(のこ)りたるに、(また)わが生命(いのち)をも(もと)めんとするなり』と。[引照]

口語訳「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこぼち、そして、わたしひとりが取り残されたのに、彼らはわたしのいのちをも求めています」。
塚本訳「主よ、“彼らはあなたの預言者たちを殺しました。あなたの祭壇を破壊しました。そしてわたしだけが残っているのに、そのわたしの命をねらっています。”」
前田訳「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、そしてわたしひとりが残され、そのわたしのいのちをねらっています」と。
新共同「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」
NIV"Lord, they have killed your prophets and torn down your altars; I am the only one left, and they are trying to kill me" ?
註解: T列19:10T列19:14、エリヤがイゼベルの前を逃れし事の記事を七十人訳より自由に引用したのである。エリヤに取りても真にエホバを信ずる忠実なる者は唯将に殺されんとする彼一人であり(あたか)もエホバが全イスラエルを棄て給いしが如くに見えた。
辞解
[エリヤに就きて] 原語「エリヤに於て」で「エリヤに就き録せる箇所に於て」の意。
[祭壇] 複数を用いているのはエルサレム以外にも祭壇ありし為。
[我ひとり] 預言者の中我一人の意味ではなく忠実なるイスラエル人は我一人の意味。

11章4節 (しか)るに御答(みこたへ)(なに)()へるか『われバアルに(ひざ)(かが)めぬ(もの)(しち)(せん)(にん)()がために(のこ)()けり』と。[引照]

口語訳しかし、彼に対する御告げはなんであったか、「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」。
塚本訳ところが彼に対する神のお告げはどうであるか。──「“わたしは(異教の神)バアルに膝をかがめなかった男子七千人を”自分のために“残しておいた。”」
前田訳しかし、彼へのお告げは何でしょう、「わたしはバアルに膝をかがめなかった男七千人をわがために残しておいた」と。
新共同しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。
NIVAnd what was God's answer to him? "I have reserved for myself seven thousand who have not bowed the knee to Baal."
註解: エリヤの目には全イスラエルが神に背いていると思われたけれども、神の御告(おつげ)は尚七千人の遺残者を神の為に遺し置き給うたとの事であった。神の御旨は如何なる場合と雖も完全に蹂躙(じゅうりん)される事はない。
辞解
[御答] chrêmatismos 「神託」の意。
[バアル] 本来「主」を意味する語で固有名詞ではない。異邦の神々(主として自然神、農業の神)を呼ぶ場合に用い、これがイスラエルの人々の信仰にも悪影響を与えた。或時代にはエホバの神をもバアルと呼んだ事がある形跡あり(ホセ2:18。その他人名にもあらわる)後に異邦の偶像神とヱホバとを混同する事を恐れてこの名称を排斥した(ホセ2:18)。本節に女性名詞として用いている理由につき種々の説明あれど、七十人訳には男性名詞としても女性名詞としても用いられて一定しない。太陽神にあらず、フェニキヤ又はカナン特有の神でもない。

11章5節 (されば)()くのごとく(いま)もなほ恩惠(めぐみ)(えらび)によりて(のこ)れる(もの)あり。[引照]

口語訳それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。
塚本訳だから、同じように今の世にも、恩恵の選びによる残りの者がある。
前田訳同じように、今の時にも、恩恵の選びによる残りのものがあります。
新共同同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。
NIVSo too, at the present time there is a remnant chosen by grace.
註解: エリヤの時と同様今日パウロの時代にもユダヤ人は神の(えら)び給える使徒や基督者を迫害する事によりてその不信を顕わしているけれどもその中に小数の者は遺残者(remnant) として神の恩恵(めぐみ)により信仰を持っている者がある(ユダヤ人中の基督者はパウロの意味に於ける「(のこ)れる者」である)。前節に「神が(のこ)し給える」事を言える故これを受けて「恩恵(めぐみ)(えらび)による」と云ったのである。

11章6節 もし恩惠(めぐみ)によるとせば、もはや行爲(おこなひ)によるにあらず。(しか)らずば恩惠(めぐみ)はもはや恩惠(めぐみ)たらざるベし。[引照]

口語訳しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。
塚本訳しかし恩恵による以上は、もはや行いのゆえではない。そうでなければ、恩恵がもはや恩恵でなくなるからである。
前田訳恩恵による以上、もはや行ないにはよりません。さもないと、恩恵がもはや恩恵でなくなりますから。
新共同もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。
NIVAnd if by grace, then it is no longer by works; if it were, grace would no longer be grace.
註解: 前節に「恩恵(めぐみ)(えらび)による」と云いし故これを受けてユダヤ人は如何に律法の行為に熱心となりてもこれによりて神の(えらび)に与る事能わざる事を示す。信仰による義を主張するパウロの持論である。恩恵(めぐみ)恩恵(めぐみ)たるが為にはそれが純粋なる事を要す、然らざれば真の恩恵(めぐみ)に非ず。

11章7節 さらば如何(いか)に、イスラエルはその(もと)むる(ところ)()ず、(えら)ばれたる(もの)(これ)()たり、その(ほか)(もの)(にぶ)くせられたり。[引照]

口語訳では、どうなるのか。イスラエルはその追い求めているものを得ないで、ただ選ばれた者が、それを得た。そして、他の者たちはかたくなになった。
塚本訳それでは、どうだろうか。(結局)イスラエル人は(全体として)自分のほしがっているものを得ることはできず、(ただ小数の)選ばれた者がこれを得たのである。ほかの者は(みな)頑なにされてしまった。
前田訳それならどうでしょう。イスラエルは求めるものを得ず、選ばれたものが得ました。そしてほかのものたちは頑にされました。
新共同では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。
NIVWhat then? What Israel sought so earnestly it did not obtain, but the elect did. The others were hardened,
註解: 然らば結局如何なる次第であるかと云うに、上述せる所を要約すれば、イスラエル全体としてはその求むる処の救を得ず唯その中の(えら)ばれしもののみこれを得た。(えら)ばれない者は心が無感覚となり、神の御旨を覚り得ざるに至ったと云う事となる。これ全く知識によらずして求めたからである。
辞解
[鈍くせらる] 固くなり善悪正邪を感ぜざるに至る事即ち無感覚となる事。

11章8節 (かみ)今日(けふ)(いた)るまで、(かれ)らに(ねむ)れる(こころ)()えぬ()(きこ)えぬ(みみ)(あた)(たま)へり』と(しる)されたるが(ごと)し。[引照]

口語訳「神は、彼らに鈍い心と、見えない目と、聞えない耳とを与えて、きょう、この日に及んでいる」と書いてあるとおりである。
塚本訳“神は彼らに”“麻酔の霊を”“与えて、目を見えなくし、耳を聞こえなくされた、今日に至るまで。”と書いてあるとおりである。
前田訳聖書にあるとおり、神は彼らにしびれた心と、見えぬ目と、聞こえぬ耳とを与えて、こんにちに至っています。
新共同「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。
NIVas it is written: "God gave them a spirit of stupor, eyes so that they could not see and ears so that they could not hear, to this very day."
註解: イスラエルの不信仰を示せる申29:3イザ29:10とより取捨してつぎ合せし引用句。前節の状態を旧約聖書を以て証明している。パウロの心には当時のイスラエルの不信は(あたか)もモーセの時に於けるイスラエル、又イザヤの時に於けるイスラエルの如き事を感じたのである。
辞解
[眠れる心] 原語は「麻痺せる霊」で非常なる悲しみ、恐怖、その他の打撃によりて無感覚となり、茫然自失せる如き場合を云う、イスラエルは、如何なる大事件が起っても何も感じない民となった。

11章9節 ダビデも(また)いふ『かれらの食卓(しょくたく)(わな)となれ、(あみ)となれ、蹟物(つまづき)となれ、(むくい)となれ、[引照]

口語訳ダビデもまた言っている、「彼らの食卓は、彼らのわなとなれ、網となれ、つまずきとなれ、報復となれ。
塚本訳またダビデは(彼らに臨む呪いを次のように)言っている。”“彼らの(喜びの)食卓は(たちまち)その罠となり”落し穴となり“邪魔物となり罰となるように。
前田訳ダビデもいいます、「彼らの食卓はそのわな、落し穴、つまずき、報いとなるように。
新共同ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、/自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。
NIVAnd David says: "May their table become a snare and a trap, a stumbling block and a retribution for them.

11章10節 その()(くら)みて()えずなれ、(つね)にその()(かが)めしめ(たま)へ』[引照]

口語訳彼らの目は、くらんで見えなくなれ、彼らの背は、いつまでも曲っておれ」。
塚本訳その目はくらんで見えなくなり、その背は常に(重荷の下に)かがむように。”
前田訳その目はくらんで見えなくなり、その背はつねにかがむように」と。
新共同彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」
NIVMay their eyes be darkened so they cannot see, and their backs be bent forever."
註解: 詩69:22、23 の引用で七十人訳とも少しく異る。神を信ずる一人の魂が不信仰なるその同族に迫害される心持を歌った詩で、引用の2節はその神の敵の上に神の(のろい)の下らん事を祈った処である。その大意は彼らが得意と歓楽とを以て食卓についているその場に忽然として神の審判の網が下り、彼らはこれに捕えられて逃れる事が出来ず、その宴楽が却て彼らの「(わな)となり」又「(あみ)となり」又「蹟物(つまづき)となり」て遂にこれによりて彼らは当然の「(むくい)を受けし事となり」而して、その捕網(とあみ)の中に捕えられて彼らの「眼はくらみ」その「背は(かが)められ」て如何にその網の中に藻掻(もが)いても彼らは逃れる事能わざる有様を示す。パウロの時代のユダヤ人はその律法の行為とユダヤ人たる事(ロマ9:4)とを誇り楽しんでいた。この宴楽が却て彼らをして神の(のろい)の下に立たしむる所以となるのである。以上2節によりイスラエルが如何に無感覚であるか、又如何に彼らの誇が彼らの(わな)となるの処があるかを示している。
辞解
[網] thêra は猟の獲物を指すと解する学者が多い(M0、G1)がこの場合詩35:8と同様網を意味す(Z0)。
[背を(かが)める] 網の中に捕われて藻掻(もが)く形。
[(むくい)] 彼らが自己の享楽に(ふけ)りキリストを(こば)みし事の「報」は必ず来なければならない。
[(つまづき)] 本来(わな)の中の滑り易き木片でこれが動いて(わな)に捕われる仕掛となっている部分を云う、従って落とし穴の意味にも用う。
[背を(かが)める] 非常な恐怖に俯伏(ふふく)する形又は網の中に捕われて頭を揚げ得ぬ形。

11章11節 されば(われ)いふ、(かれ)らの(つまづ)きしは(たふ)れんが(ため)なりや。(けっ)して(しか)らず、[引照]

口語訳そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。
塚本訳それで、わたしは考える、彼らが躓いたのは、倒れて滅びるためではあるまいかと。もちろん、そうではない。むしろ反対に、(キリストを信じなかった)彼らの過ちによって救いが異教人に来た。(そのことが刺激になって)彼らに“妬みをおこさせ、”(彼らも信仰を求めて、ついに救われ)るためである。
前田訳それでわたしは考えます、彼ら(イスラエル人)がつまずいたのは倒れてしまうためでしょうか、と。断じて否です。彼らの過ちによって救いが異邦人に及び、それによって彼らに妬みをおこさせるためです。
新共同では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。
NIVAgain I ask: Did they stumble so as to fall beyond recovery? Not at all! Rather, because of their transgression, salvation has come to the Gentiles to make Israel envious.
註解: イスラエルがイエスを信ぜずして蹟いた結果、彼ら全体が倒れ(墜落し)て再び立ち上る事が出来ず、永遠の亡に入るには(あら)ざるかとの疑問が起り得るけれどもそれは決して左に(あら)ず。イスラエルの不信仰は4、5節の如く部分的であるのみならず、又神の経綸の中にある一現象であり従って又一時的である。
辞解
[為なりや] 直訳「為ならずや」でその語意はロマ10:18、19の辞解と同一。但し「為」は軽い意味で(I0)倒れてしまう様になるのではないかとの意味に取る方可ならん。「為」を目的と見、神の目的と考える解釈あれど(M0、G1その他)疑わし。

(かへ)つて()落度(おちど)によりて(すくひ)異邦人(いはうじん)(およ)べり、

註解: これはイスラエルに取りても異邦人に取りても、全く思いがけない結果であって、神の経綸の御旨に帰するより外にない。
辞解
[落度] paraptôma は「罪」「咎」「律法違反」等の意味あり、要するに神より離れ落ちし不信の状態を云う。

これイスラエルを(はげ)まさん(ため)なり。

註解: イスラエルに対する神の愛は(あなど)らない、神はイスラエルの不信を利用して異邦人を救い給うのみならず、この異邦人の救を利用して又イスラエルに嫉みの心を起させ再び彼らを救わんと欲し給う。
辞解
[(はげ)ます] parazêloô は刺激を与えて熱心なる心、嫉みの心を起させる事。

11章12節 もし(かれ)らの落度(おちど)()(とみ)となり、その衰微(おとろへ)異邦人(いはうじん)(とみ)となりたらんには、まして(かれ)らの(かず)滿()つるに(おい)てをや。[引照]

口語訳しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。
塚本訳しかしもし、彼らの過ちが、(福音を外に溢れさせて異教人の)世界を富ませ、また彼らの失敗が異教人を富ませることになったとすれば、まして彼らが(一人のこらず信仰に入って神の御心を)満たす時(の幸福と喜びと)は、どんなであろう。
前田訳彼らの過ちが世の富となり、彼らの落度が異邦人の富となるならば、まして彼らの完成のときはどんなでしょう。
新共同彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。
NIVBut if their transgression means riches for the world, and their loss means riches for the Gentiles, how much greater riches will their fullness bring!
註解: パウロはイスラエルが罪に堕ちてさえ異邦人が恵まれる位であれば、ましてイスラエルが信仰を回復してイスラエル全体の数に満つるようになりたる場合を想像して、その時の全人類の被る祝福の絶大なるべき事を暗示している。▲本節及び25節に於て口語訳は plêroma を「全部救われる」と訳しているけれども、此の語は「一杯」 fulness を意味していて、「全部」 totality を意味していない。此の口語訳の訳し方は新約聖書の終末観を確かめる上に重大関係があり注意を要す。
辞解
[世] 神を離れし世界を指し、異邦人は神を離れし人類を指す、見方を異にせる同一物である。
[富] 神とキリストとを所有する者は何人よりも優れる富者である。
[衰微(おとろえ)] hêttêma 数に於て少くなった事、即ちイスラエルの中神を信ずる者、キリストの贖に与る者は極めて少数である。尚「衰微(おとろえ)」を「敗北」の意味に取る学者もある(I0)。又質の意味にも用い、Tコリ6:7の如く「失態」の意味もあり充つべきものが充ちず欠ける事。
[数満つる] plêrô 「満盈(まんえい)」の意味で数にも質にも用いられる。ここでは数について言っていると解すべきである(G1、M0、B1、I0等多数説)。
要義1 [信仰の本流と遺れる者(レムナント)] 信仰の本流は常に小数の遺れる者(レムナント)である。旧約時代に於て、それは祭司やレビ族になくして預言者にあった。キリストの時それはエルサレムの學者、教法師、祭司になくしてガリラヤの漁夫にあった。使徒時代に於てそれはユダヤ人に無くして異邦人にあった。人類の大勢は常に神を離れんとする傾向にある。基督教会もこの点に於て警戒する事を要する。
要義2 [人類の不信と神の経綸] 人類の不信は神に対する罪である。併し神はこの不信を利用して却てその経綸を発展し給う。イスラエルの不信もかかる結果となった。それ故にかかる結果を生ぜし事は不信の効果ではなく神の智慧の結果てある。
要義3 [イスラエルの救] パウロの希望に反して今日もユダヤ人はキリストを信ぜず、キリストの福音に対して反対の態度を取っている。従って祝福は異邦人に豊に及ばない状態にある。これ全人類の不幸である。その原因は異邦人がユダヤ人に対して誇り、ユダヤ人を迫害せし為と、未だ異邦人の数満つるに至らない為である(25節)。

3-(2)-(3) 異邦人の救とイスラエルの救の関係 11:13 - 11:31
3-(2)-(3)-(イ) 異邦人は救われし事を誇るべからず 11:13 - 11:24

11章13節 われ異邦人(いはうじん)なる(なんぢ)()にいふ、(われ)異邦人(いはうじん)使徒(しと)たるによりて(おの)(つとめ)(おも)んず。[引照]

口語訳そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務を光栄とし、
塚本訳しかしわたしはあなた達(ローマ集会の)異教人諸君に言いたいことがある。──わたしは異教人の使徒として、この自分の職務を重く考えて(全力尽して)いる。
前田訳あなた方異邦人にいいます。わたしは異邦人の使徒であるものとして、わが務めを名誉とします。
新共同では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。
NIVI am talking to you Gentiles. Inasmuch as I am the apostle to the Gentiles, I make much of my ministry

11章14節 これ(あるひ)()骨肉(こつにく)(もの)(はげ)まし、その(うち)幾許(いくばく)かを(すく)はん(ため)なり。[引照]

口語訳どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。
塚本訳それは、これによって同胞(イスラエル人)に妬みをおこさせ、そのうちの幾人かでも救うことができはしないかと思うからである。
前田訳それはいかにもしてわが同胞を妬ませ、その何人かでも救おうと願うからです。
新共同何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
NIVin the hope that I may somehow arouse my own people to envy and save some of them.
註解: パウロが異邦人の使徒として熱心に伝道している事は一見イスラエルを顧みざる非愛国的態度の如きも然らず、彼がその使徒職を重んずる所以は却てこれによりイスラエル人の若干を救わんが為である。ここにもパウロの偉大なる愛国心が現われている。
辞解
[異邦人なる汝ら] と云うより見てロマの信徒が大部分異邦人であった事が判明る。
[重んず] doxazô 「(たか)める」でパウロの熱心なる伝道によりてその使徒職に栄光あらしめた。

11章15節 もし(かれ)らの()てらるること()平和(へいわ)となりたらんには、()()()れらるるは、死人(しにん)(うち)より()くると(ひと)しからずや。[引照]

口語訳もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、死人の中から生き返ることではないか。
塚本訳なぜなら(前に言ったように、)もしイスラエル人の捨てられたことが(異教人へ福音の来る結果になり、)世界(と神と)の和睦(をもたらす機縁)になったとすれば、彼らが(悔改めて神に)受け入れられることは、それこそ死人の中からの命(への復活、すなわち神の国来臨の徴)でなくてなんであろう。
前田訳もし彼らの捨てられることがこの世の和解になるならば、彼らが受け入れられることは死人からいのちへでなくて何でしょう。
新共同もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
NIVFor if their rejection is the reconciliation of the world, what will their acceptance be but life from the dead?
註解: 神の敵たりし異邦人が福音を信じて神と(やわら)ぐに至る事(ロマ5:10Uコリ5:18、19。コロ1:20)は勿論大事件であるが、神の目に死んでしまったイスラエルが生き返る事は一層大なる事件である、イスラエルが信仰を得て受け納れられる事ありとするならば、それは取りも直さず死人の中より生れ出でし生命に外ならない。神の前には一層大なる喜びである。
辞解
[死人の中より活くると等しからずや] 直訳「死人の中より出でたる生命に非ずして何ぞや」となる。この「死人の中より出でたる生命」の意義につき種種の解あり、(1)最後の日の復活(M0)。(2)イスラエルの回心によりて起される異邦人の世界に於ける大なる霊的革命(G1)その他等種種の意味に用いられている。

11章16節 もし初穗(はつほ)(こな)(きよ)くば、パンの團塊(かたまり)(きよ)く、()()(きよ)くば、()(えだ)(きよ)からん。[引照]

口語訳もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、その枝もきよい。
塚本訳(こんな希望をもつことに不思議はない。神に供えた)初穂のパンが聖ければ、(残りの)捏粉も聖く、根が聖ければ、枝も聖い(ではないか。初穂であり根であるアブラハムその他の先祖が聖いのだから、その子孫のイスラエル人が聖いのは当然である。)
前田訳もし初穂のパンが聖ければ粉も聖く、根が聖ければ枝も聖いのです。
新共同麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。
NIVIf the part of the dough offered as firstfruits is holy, then the whole batch is holy; if the root is holy, so are the branches.
註解: 初穂の粉(辞解を見よ)及根に譬えられたのはユダヤ人の祖先であり、パンの團塊(かたまり)及枝に譬えられたのはユダヤ人の全体である。前者が神によりて聖め分たれた人々故従ってユダヤ人全体は神に聖別せられし民である事は当然である。
辞解
[初穂の粉] 原語 aparchê は「最初のもの」を意味し「御初」と云うに同じ、民15:17-21にパンを()ねる場合パン粉の團塊(かたまり)の中より最初に一塊をとりこれを焼きてはん祭としてエホバに奉納した。この御初が聖められて全團塊(かたまり)が聖きものと考えられた。これを穀物の初穂と解する事はこの場合に不適当である。
根と枝との関係は自ら明かである。

11章17節 ()しオリブの幾許(いくばく)(えだ)きり(おと)されて()のオリブなる(なんぢ)、その(うち)()がれ、(とも)にその()液汁(うるほひ)ある()(あづか)らば、[引照]

口語訳しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、
塚本訳しかし、(イスラエル人という栽培されたオリブの木の)いくらかの枝が切り取られ、それに野生のオリブの木から出た(異教人の)あなたが接木されて、オリブの脂肪豊かな根(の恩恵)を共有するものとなったのであるから、
前田訳しかしもし枝のいくつかが折り取られ、野生のオリブであるあなたがそれにつぎ木されて油の豊かな根をともにするならば、
新共同しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、
NIVIf some of the branches have been broken off, and you, though a wild olive shoot, have been grafted in among the others and now share in the nourishing sap from the olive root,

11章18節 かの(えだ)(むか)ひて(ほこ)るな、[引照]

口語訳あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。
塚本訳あなたはその(切り取られた)枝に対して自慢することはない。自慢したところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのである。
前田訳あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ってもあなたが根を支えるのでなく、根があなたを支えているのです。
新共同折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
NIVdo not boast over those branches. If you do, consider this: You do not support the root, but the root supports you.
註解: 17-24節に於てパウロはオリブの樹の譬を以てユダヤ人と異邦人基督者との関係を叙述している。不信のユダヤ人はきり落されしオリブの枝、信仰に入りし異邦人は野のオリブで真のオリブに接がれしものである、かくして異邦人は信仰あるユダヤ人の間に()して彼らと共に同じ根より同じ液汁を吸上げているのである、この共同の根は信仰によるアブラハムその他の父祖である。かく異邦人はユダヤ人の根より養分を採ることゆえ、彼に(むか)って誇ってはならない。
辞解
接木は普通の場合台木が野生木で接樹は培養木であるが、パウロはかかる些事(さじ)拘泥(こうでい)せず大体の比較を行った。尚野生の枝を接木して台木を若返らしむる方法もあるとの事。

たとひ(ほこ)るとも(なんぢ)()(ささ)へず、()(かへ)つて(なんぢ)(ささ)ふるなり。

註解: 異邦人の救はユダヤ人の父祖の信仰の流である。故にユダヤ人に対して誇ってはならない。基督教国はユダヤ人を迫害して、その恩恵を忘れている。
辞解
[たとい誇るとも] 「若し誇らば〔誇れ〕」

11章19節 (されば)なんぢ(あるひ)()はん『(えだ)()られしは()()がれん(ため)なり』と。[引照]

口語訳すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。
塚本訳するとあなたは言うだろう、「でも、枝が切り取られたのは、このわたしが接木されるためだ」と。
前田訳するとあなたはいうでしょう、枝が折り取られたのはわたしがつがれるためです、と。
新共同すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。
NIVYou will say then, "Branches were broken off so that I could be grafted in."
註解: 16-18節の理由よりは誇る事が出来ないので(されば)汝或は次の如くに言いてその優越を主張するかも知れない。曰く、イスラエルの枝の折られたのは異邦人が接がれん為で、神はそれだけ異邦人を重視し給う事になる訳である。

11章20節 ()(しか)り、(かれ)らは()(しん)によりて()られ、(なんぢ)信仰(しんかう)によりて()てるなり、(たか)ぶりたる(おもひ)をもたず、(かへ)つて(おそ)れよ。[引照]

口語訳まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。
塚本訳いかにもそのとおり。彼らは不信仰のゆえに切り取られ、あなたは信仰のゆえに(接木されて)りっぱに立っているのである。(だから)高ぶった考えをもってはならない、(神を)恐れよ。
前田訳よろしい。彼らは不信仰によって折り取られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶって考えず、おそれなさい。
新共同そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。
NIVGranted. But they were broken off because of unbelief, and you stand by faith. Do not be arrogant, but be afraid.
註解: パウロは一応この主張を容認している。併し神が異邦人を救い、イスラエルを棄て給いしは理由があるのであって、それはイスラエルの不信と異邦人の信仰である。而して信仰は何等自己の功績にあらず、神の賜物なるが故に(エペ2:8)高ぶるべきではない(Tコリ4:7)。信仰は(へりくだ)りたる心に非ざれば与えられない。又信仰を与えられし者は懼れ(おのの)いてその救いを全うしなければならぬ(ピリ2:12)。

11章21節 もし(かみ)(もと)()(えだ)(をし)(たま)はざりしならば、(なんぢ)をも(をし)(たま)はじ。[引照]

口語訳もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。
塚本訳本来の枝ですら容赦されなかった神である、(接木の)あなたに容赦されるはずがない。
前田訳神は本来の枝さえ容赦されなかったなら、あなたをも容赦されますまい。
新共同神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。
NIVFor if God did not spare the natural branches, he will not spare you either.
註解: 直訳「そはもし……給わざるべければなり」異邦人にして救われし者の高ぶらずして懼れなければならない理由は、接がれし枝は原木の技よりも一層神に棄てられる危険があるからである。

11章22節 (されば)(かみ)仁慈(なさけ)と、その嚴肅(きびしき)とを()よ。嚴肅(きびしき)(たふ)れし(もの)にあり、仁慈(なさけ)はその仁慈(なさけ)(とどま)(なんぢ)にあり、[引照]

口語訳神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。
塚本訳神の慈愛と厳しさとを見よ。(不信仰のゆえに)倒れた者には厳しさ、あなたには神の慈愛!(もちろん、)もしあなたがその慈愛を信じ続けているならば、である。そうでなければ、あなたも切り落される。
前田訳神のいつくしみときびしさをごらんなさい。倒れたものにはきびしさ、あなたには神のいつくしみがあります、もしあなたがいつくしみにとどまるならば。さもないと、あなたも切り落とされましょう。
新共同だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。
NIVConsider therefore the kindness and sternness of God: sternness to those who fell, but kindness to you, provided that you continue in his kindness. Otherwise, you also will be cut off.
註解: 神には仁慈(なさけ)厳粛(きびしき)との二つの性質があり、各々その場合に従って働く、不信の故に倒れし(落ちし)イスラエルには厳粛(きびしき)なる審判が臨み、信仰によりて仁慈(なさけ)に止りその中に在りて動かない異邦人には仁慈(なさけ)が臨んだ。
辞解
[仁慈(なさけ)] chrêstotês は親切なる行為、

()しその仁慈(なさけ)(とどま)らずば、(なんぢ)()()らるベし。

註解: 信仰はこれに永住する事を要する。一度信仰に入りたる者は永遠に亡ぶる事なしと云う事は出来ない。

11章23節 (かれ)らも()()(しん)(とどま)らずば、()がるることあらん、(かみ)(ふたた)(かれ)らを()得給(えたま)ふなり。[引照]

口語訳しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。
塚本訳また彼ら(切り落された者)も不信仰を続けていないならば、(もとのオリブの木に)接木される。神はもう一度彼らを接木する力をお持ちになっている。
前田訳彼らも、不信仰にとどまらないならば、つがれましょう。神にはふたたび彼らをつぐ力がおありです。
新共同彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。
NIVAnd if they do not persist in unbelief, they will be grafted in, for God is able to graft them in again.
註解: 切り去られし枝なる不信のイスラエルも悔改めて神に立ち帰るならば、神は再びこれを接ぐ事を得給う、ここにイスラエルの希望がある。

11章24節 なんぢ生來(せいらい)()のオリブより()()られ、その生來(うせいらい)(もと)りて()きオリブに()がれたらんには、まして(もと)()のままなる(えだ)(おの)がオリブに()がれざらんや。[引照]

口語訳なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。
塚本訳本来野性のオリブの木から切り落されたあなたが、本性に反して、栽培されたオリブの木に接木されるくらいであるから、ましてこれらの本来の枝が、自分のオリブの木に接木されない訳がないではないか。
前田訳あなたは本来野生のオリブから切り取られ、本性に反して栽培されたオリブにつがれたのなら、ましてこれら本来の枝は自分のオリブにつがれましょう。
新共同もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。
NIVAfter all, if you were cut out of an olive tree that is wild by nature, and contrary to nature were grafted into a cultivated olive tree, how much more readily will these, the natural branches, be grafted into their own olive tree!
註解: (▲口語訳の「良き」「もっとたやすく」は意訳の敷衍。)かく言いてパウロは異邦人基督者にその(みだり)に誇るべからざる事を示すと同時に、不信のユダヤ人に対しても絶望すべからざる事を教えている。
辞解
[原樹(もとき)のままなる] 、「生来のままなる」。 
要義1 [ユダヤ教と基督教との関係] パウロは他の使徒たちと異り基督教を全くユダヤ教と絶縁せるものとして教えし事を主張する學者があるけれども11:17より見てその然らざる事を知る事が出来る。パウロによれば基督教はユダヤ教の形式と律法とよりは絶縁しているけれども、その信仰は父祖の信仰の上に築かれし共通の建物であり、同一の根より養分を吸取る枝であって、他の使徒との間に相違が無かった。神との関係に於てユダヤ人は飽くまで本流である。
要義2 [信仰に止る事の必要] 神との関係は活ける生命の関係であって、従って常に活動し決して固定せる不動の関係ではない。神の愛とその救は不動の事実であるが、これに対する人間の心は常に動揺する。故に常に自己の弱きを知りて常に神の仁慈(なさけ)の中に止まらなければならない。一度信仰に入りたるものは決してその信仰を失う事なしとする説、叉神の(えらび)は永遠不動なるが故に一度救われし者は最早や安心なりとする説は生命の語を機械的に解するの誤に陥っている(パウロは一面に神の(えらび)の御旨の不変なる事を述ぶると共に(ロマ9:11)人の信仰の可動を唱えてこの矛盾を調和せんとしない。この雙方とも事実なるが故である)
要義3 [誇る勿れ] 基督者がユダヤ人に対して誇ったのは非常なる誤であった。その過誤は今日までに至っている、同様に新教々会はカトリックに誇ってはならない。旧き信仰団体の不信仰のために新に目覚めて信仰に入りたる者は凡てその本家先輩に対して誇ってはならない。

3-(2)-(3)-(ロ) イスラエルの救と異邦人の救とは相互関係あり 11:25 - 11:31

11章25節 兄弟(きゃうだい)よ、われ(なんぢ)らが自己(みづから)(さと)しとする(こと)なからん(ため)に、この奧義(おくぎ)()らざるを(ほっ)せず、(すなは)幾許(いくばく)のイスラエルの(にぶ)くなれるは、異邦人(いはうじん)()(きた)りて(かず)滿()つるに(およ)(とき)までなり。[引照]

口語訳兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、
塚本訳兄弟たちよ、この秘密を知らずにいてもらいたくない、あなた達(異教人諸君)が、自分は賢い(からこの特権を得た)などとうぬぼれることのないために。一部のイスラエル人が頑なになって(キリストを信ぜずに)いるのは、異教人が(信仰に)入って定数に満ちるまでであり、
前田訳兄弟たちよ、この奥義を知らずにいないでください。それはあなた方が自分を賢いと思いあがらないためです。奥義とは、一部のイスラエルが頑になったのは異邦人の完成が訪れるときまでで、
新共同兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、
NIVI do not want you to be ignorant of this mystery, brothers, so that you may not be conceited: Israel has experienced a hardening in part until the full number of the Gentiles has come in.
註解: パウロはここにイスラエルが不信に陥れる事の意義を明かにせんとしているのであって、イスラエルの一部が不信に陥ったのは異邦人の間に福音が伝えられて充分に多数の異邦人が信仰の入り来る時までの事であって、決して永遠に然るのではない。その時に至って全イスラエルは救われるに至るであろう。これが神の経綸でありパウロに示されし奥義である。この事を知らずして(みだり)なる解釈をして自己を聡しと思ってはならない。
辞解
[奥義] mystêrion「神秘」を意味し人間の知識を以て知る事が出来ず、神の黙示によりて示されし真理を指す。故に場合によりキリスト教の真理の全体を指す事もあり(ロマ16:25Tコリ2:1エペ1:9コロ2:2)又その一方面を指す事もあり(エペ3:2コロ1:26以下。Tコリ15:51)。
[幾許(いくばく)の] 原語「部分的に」即ちイスラエル人の一部にの意。
[鈍くなれる] 7節辞解参照。
[数満つる ] plêrôma (1)全異邦人(M0、G1、I0、E0)、(2)あらゆる種類の国民(A1)、(3)異邦人の大部分(B1)等種々に解せらる。全イスラエルが救われし後にも救わるべき異邦人が残っているのを見れば(11、121531節)(3)の如くに解する事が適当である。即ちこの「数」は神の御旨の中にある数である。
▲口語訳「全部救われる」については辞解及び12節脚注参照。

11章26節 かくしてイスラエルは(ことご)とく(すく)はれん。(しる)して『(すく)(もの)シオンより()(きた)りて、ヤコブより不虔(ふけん)()(のぞ)かん、[引照]

口語訳こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。
塚本訳こうして(イスラエル人は異教人が妬ましくなり、悔改めて信仰に入り、)イスラエル人全部が救われる、ということである。(聖書に)書いてあるとおりである。“シオンから救済者が来て、ヤコブ(の子孫)から不信心を遠ざけるであろう。
前田訳こうして全イスラエルが救われよう、ということです。聖書に、「救い手がシオンから出、ヤコブから不信を遠ざけよう。
新共同こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、/ヤコブから不信心を遠ざける。
NIVAnd so all Israel will be saved, as it is written: "The deliverer will come from Zion; he will turn godlessness away from Jacob.

11章27節 われその(つみ)(のぞ)くときに(かれ)らに()つる()契約(けいやく)(これ)なり』とあるが(ごと)し。[引照]

口語訳そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。
塚本訳──これが彼らと立てる私の契約である、”“彼らの罪をわたしが取り除くその時に。”
前田訳これこそ彼らとのわが契約、彼らの罪をわたしが除くそのときに」とあるとおりです。
新共同これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、/彼らと結ぶわたしの契約である。」
NIVAnd this is my covenant with them when I take away their sins."
註解: パウロは全イスラエルの救われる事を信じて疑わなかった。現在の不信は唯その処に達する迄の段階に過ぎないと云うのがパウロの信念であった。引用聖句はイザ59:20、21及びイザ27:9(七十人訳)で先づヤコブ即ち全イスラエルよりその不虔(ふけん)と罪とを除きて然る後に彼らに祝福を与えん事を約束し給える箇所である。故に全イスラエルの救わるべき時は必ず来るに相違ない。
辞解
[イスラエルは(ことご)とく] 即ち全イスラエルで霊のイスラエルの意味ではなく、国民としてのイスラエルを意味する。
[救う者] メシヤ。
[シオンより] シオンはエルサレムの神殿のある山、イスラエルの信仰の中心をなす、「神より」と云うに同じ。

11章28節 福音(ふくいん)につきて()へば、(なんぢ)()のために(かれ)らは(てき)とせられ、(えらび)につきて()へば、先祖(せんぞ)たちの(ため)(かれ)らは(あい)せらるるなり。[引照]

口語訳福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。
塚本訳(思えば不思議な神の計画である。)彼らは、福音の点から言えば、あなた達(の救い)のために(福音をしりぞけて神の)敵になっており、(神の)選びの点から言えば、先祖たち(に対する契約)のお蔭で(今もなお神に)愛される者である。
前田訳福音によれば、彼らはあなた方ゆえに(神の)敵となり、選びによれば父祖たちのゆえに(神に)愛されるものです。
新共同福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
NIVAs far as the gospel is concerned, they are enemies on your account; but as far as election is concerned, they are loved on account of the patriarchs,
註解: 本節以下にパウロは全人類に対する神の救の経綸を要約する。先ずイスラエルは神に敵とせられ同時に愛せられると云う二つの関係に立っている。彼らは選民たると同時に福音を拒んで居るからである。
辞解
[福音につきて云えば] 福音を受けざりし故
[(えらび)につきて云えば] 彼らは選民なる故である。尚「選び」を「(えらび)によりて(のこ)れるもの」の意味に解する説(M0)あれどこの場合不適当である。
[汝らのために] 汝らの救われん為、
[先祖たちの為] アブラハム、イサク、ヤコブ等を神は愛し給いこれ等に約束を与え給いし故、
[敵] 神を敵とする事(B1)にあらず神に敵とされる事(M0、G1、I0)

11章29節 [それ](そは)(かみ)賜物(たまもの)(めし)とは(かは)ることな[し](ければなり)。[引照]

口語訳神の賜物と召しとは、変えられることがない。
塚本訳神の賜物も招待も、(一旦与えられた以上は永遠に)取り消されないからである。
前田訳神の賜物も招きも取り消されないからです。
新共同神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
NIVfor God's gifts and his call are irrevocable.
註解: 前節後半の理由の説明、一且召し給い一且賜物を与え給える後に神がこれを後悔して引込め給う事は絶対にないから。
辞解
[賜物] 召命に相応しき種々の能力を賜う。
[変ることなし] ametamelêtos は「後悔して取消す事はない」との事。

11章30節 (なんぢ)(まへ)には(かみ)(したが)はざりしが、(いま)(かれ)らの不順(ふじゅん)によりて(あはれ)まれたる(ごと)く、[引照]

口語訳あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、
塚本訳すなわち、かつては神に不従順であったあなた達が、今はこの人たちの不従順によって(神に)憐れみを施されたと同じに、
前田訳かつてはあなた方が神に不従順であって、今はこれらの人の不従順によってあわれまれたように、
新共同あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。
NIVJust as you who were at one time disobedient to God have now received mercy as a result of their disobedience,

11章31節 (かれ)らも(なんぢ)らの()くる憐憫(あはれみ)によりて(あはれ)まれん(ため)に、(いま)(したが)はざるなり。[引照]

口語訳彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。
塚本訳この人たちも今はあなた達の受ける憐れみに対して不従順になっているが、これは今(すぐにも)憐れみを施されるためである。
前田訳これらの人も今はあなた方のためのあわれみに不従順ですが、それは彼らも、今あわれまれるためです。
新共同それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。
NIVso they too have now become disobedient in order that they too may now receive mercy as a result of God's mercy to you.
註解: 彼ら即ちイスラエルの不信仰(不順)も異邦人の信仰(憐憫(あわれみ)によりて救われて信仰に入りし事)も、神が全人類を救わんが為の階段であって、神の愛は人間の不信仰をも信仰をも皆その経綸の為に用いずに置き給わない。故にイスラエルが不信仰であっても決して絶望的ではなく、異邦人の信仰によりて激励せられてやがて信仰を得るに至るであろう。
辞解
[▲憐憫(あわれみ)によりて憐まれん] 口語訳の如く、此の前に「今」がある原本が多い。「後に」とある少数の原本もあるが改訂と思われる。意味の上から「今」は無い方が良い。本来無かったのがアレキサンドリヤ系統の写本に入って来たのであろう(Z0)。

3-(2)-(4) 全人類の救と神の知識 11:32 - 11:36

11章32節 (かみ)(すべ)ての(ひと)(あはれ)まんために、(すべ)ての(ひと)不順(ふじゅん)(うち)取籠(とりこ)(たま)ひたり。[引照]

口語訳すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。
塚本訳つまり神はすべての人を不従順の中に閉じこめられたが、これはすべての人に憐れみを施すためであった。
前田訳神はすべての人を不従順へとお閉じ込めでしたが、それはすべての人をおあわれみになるためでした。
新共同神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
NIVFor God has bound all men over to disobedience so that he may have mercy on them all.
註解: 救は神の憐みにより、決して人の功績によらない。故に不順(不信仰)の何たるかを知れるものにして始めて神の憐みによる救の何たるかを知る。これが為に神は異邦人のみならず、神の律法を遵守する事を誇っているユダヤ人をも不信の中に閉籠め給うた。これ全人類を神が憐まんが為である。神は全人類をあわれみの中に取人れ給うまでは満足し給わない。尚「万人救済説」については要義を見よ。
辞解
[凡ての人] (1)凡ての選ばれし者(オルスハウゼン)、(2)凡ての不信のユダヤ人(Z0)、(3)凡ての種族、即ちユダヤ人も異邦人も(I0)、(4)全人類(M0、G1、B1)、第4節を採る。但し凡ての人が信仰に入るや否やは別問題なり。
[取籠め] (かこい)の中に入りて錠を卸す事、又は転じて「渡す」「付す」「委付す」の意味にも用いらる。

11章33節 ああ(かみ)智慧(ちゑ)知識(ちしき)との(とみ)(ふか)いかな、その審判(さばき)(はか)(がた)く、その(みち)(たづ)(がた)し。[引照]

口語訳ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。
塚本訳ああ、神の富と知恵と知識との深さよ!なんとその裁きの探りがたく、(なんと)その(お歩きになる)道の不可解なことよ!
前田訳ああ、神の富と知恵と知識の深さよ、なんとその裁きのきわめがたく、その道のはかりがたいことでしょう。
新共同ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
NIVOh, the depth of the riches of the wisdom and knowledge of God! How unsearchable his judgments, and his paths beyond tracing out!
註解: パウロに取りて最も悲しき事実であったイスラエルの不信も結局に於て神が万人を救わんとし給う経綸の一階段に過ぎない事を見てパウロの心は驚異と讃美とに充されざるを得ず、ここに大なる叫びとなってあらわれた。9章以下の思索の頂点としてパウロはここに達したのである。
辞解
前半を「ああ神の富と智慧と知識は深いかな」と読む説多し(M0、B1、I0、C2、Z0)、改訳の如く読む説(G1、C1、L1)よりもこの方可なり。(▲日本語の口語訳及び文語訳は共に tou を含まない少数写本に由ったものであろう。RSV は之に由らない。)「智慧」と「知識」は本節後半、及び34節「富」は35節に対す、
[富] 一般に神の栄光(ロマ9:23エペ1:18エペ3:16)・恩恵(エペ1:7エペ2:7)等に豊なる事。
[智慧] sophia は神がその経綸を行い給う計画手段方法の巧さに関し、
[知識] これに関係するあらゆる事実に対する認識に関する。
[審判] と「途」は神の智慧に関する事で
[測り難し] 底まで測量する事が出来ない事。
[尋ね難く] 終局まで途をたどり得ざる事。

11章34節 『たれか(しゅ)(こころ)()りし、(たれ)かその議士(はかりびと)となりし。[引照]

口語訳「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。
塚本訳“だれが主の御心を知ったか。だれがその顧問になったのであるか。
前田訳だれが主のみ心を知りましたか。だれが彼の相談役になりましたか。
新共同「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。
NIV"Who has known the mind of the Lord? Or who has been his counselor?"
註解: 前半は神の知識に関する事で如何なる人間も神の心を知る事が出来ず、神の知識を量る事が出来ない。神は唯独りその大なる知識に従い凡ての事を行い給う、イスラエルの救も亦その一つの例である。後半は神の智慧に関する事で、神は事を行い給う時何人にも相談する必要の無き事を示す、イザ40:13(七十人訳)の引用である。
辞解
[議士(はかりびと)] sumboulos 一処に考慮してくれる人、相談役。

11章35節 たれか()(しゅ)(あた)へて()(むくい)()けんや』、[引照]

口語訳また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。
塚本訳だれがまず主に差し上げてそのお返しをいただくことができるか。”
前田訳だれがまず主に差しあげて、そのお返しを受けえましょう。
新共同だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」
NIV"Who has ever given to God, that God should repay him?"
註解: ヨブ41:3のヘブル原典よりの引用。神の富の満盈(まんえい)を示す、何人も先づ彼に与えて彼より謝礼を受くる事が出来ない。神には不足は無い。
辞解
[報を受く] 対價を受くる事。

11章36節 これ(すべ)ての(もの)(かみ)より()で、(かみ)によりて()り、(かみ)()すればなり、[引照]

口語訳万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。
塚本訳すべては、彼から出て、彼によって保たれ、彼に帰する。栄光は永遠に彼のものである、アーメン。
前田訳すべては彼から出、彼にたより、彼に帰します。栄光がとこしえに彼にありますように。アーメン。
新共同すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
NIVFor from him and through him and to him are all things. To him be the glory forever! Amen.
註解: 神は創造者に在し給うが故に万物の起源は神にあり、神は万物を支配し給うが故に万物は神によりて進展し、神は万物を自己の栄光の為に働かしめ給うが故に万物は神に帰す、富と知恵と知識との深さを持ち給う神は実に万物の主に在し給う。不可解なるが如き人類の歴史も神はその御手の中に適当に導き給う。人間は唯神の御名を讃美し奉るより外に無い。
辞解
[より出で] ek 、
[によりて成り] dia 、
[に帰す] eis なる前置詞によりて簡明に記されている(コロ1:16)。
[神の中より出で神を通過し神の中に入る] 神の絶対の支配の下にある事。

榮光(えいくわう)とこしへに(かみ)にあれ。アァメン。

註解: 恩恵と真理に充ち給う神、智慧と知識と富とに溢れ給う神、これらこそ神の栄光であって永遠に彼を離れる事はない。アーメン、パウロは第8章の終に於て(あたか)も富嶽の頂上に達せる如き歓声を揚げ、ここに又9-11章に於て世界人類の歴史を視て、神の驚くべき経綸を知り心よりそのおどろきと讃美の声を発したのである。
要義1 [万人救済説に就て] 世の終に於て神は古今東西の全人類を必ず救い給うと云う事は聖書よりこれを断言する事が出来ない。唯聖書に明かなる事は神は一人の亡ぶるをも望み給わず(Tテモ2:4)、悔改に至らん事を望みて永く耐忍し給う(Uペテ3:9)事である。故に神はキリスト以前に死せる凡ての人、福音を聴かざる凡ての人、聴きてもこれを信ぜざりし凡ての人にも尚その救の御手を伸べ給いつつあるにはあらざるかと想像される(但しこれは我らとは関係なき奥義故神はこれを我らに啓示し給わない)。但し如何なる場合に於ても信仰なしに、即ち神に対する従順無しに神の救に与る事を得ず、又神は人の自由意思を強制的に圧迫し給わない故、万人が必ず救われると云う事は断言する事が出来ない。但し神は万能に在し給うが故に遂には何らかの途によりて凡ての人をその憐みの中に取入れ給うと云う事は決して考え得ない事ではない。唯我らは(みだ)りにこれを断定し得ないだけである。
要義2 [イスラエルの救] パウロは全イスラエルが救われる事を確信しているのであるが(26節)、このイスラヱルの救は旧約聖書の預言の中に示される如き意味の救、即ちイスラエルの地上に於ける国の建設、パレスチナの回復等を意味するやと云うに、パウロは決してかく考えなかった。新約時代に至りては旧約時代の約束は凡てキリストによりて霊的に完成するに至ったのであって、旧約時代の預言をそのまま文字的に成就すべしとは考えず、又かく考うる事はキリストの御業を空しくする事であった。故に全イスラエルの救とはパウロに取りては当然全イスラエルがキリストを信ずるに至る事を意味するものと見なければならない。
附記 [パウロの旧約聖書引用法] 主として七十人訳より引用し(84箇所の引用の中約70は七十人訳と(ほぼ)近接し、12は可なり異り、2箇所のみヘブル原典に一致している――カウチ)、且つ記憶よりの引用であるらしく逐語的に一致しているものは極めて少い。而して当時のラビの行いし如く時には異れる箇所を結合して引用した場合も有る。而して引用の中には旧約聖書の原節の有する意味をそのまま活用せる場合が多い事勿論であるが、中にはロマ10:6-8、ロマ10:18等の如く単に旧約聖書の文字のみを用いてパウロ自身の思想を発表せる場合もある、但し時には原節の有せざる意味を持たしめている場合、即ち原節が証明せんとせざりし思想を証明する為に引用されし場合も多い。歴史的研究の発達せる今日、及び論理的証明力の明瞭となりし今日パウロの時代と同様の引用法を以て旧約聖書より引用してある信條又は思想を証明する事は為すべきではない。併し乍らパウロの引用法が今日より見て正しくないからとてパウロの根本思想が正しくないと云う事は出来ない。その証拠に今日の人々に取りてはこれらの引用無しにも充分に信奉し得る思想であるより見てもこれを知る事が出来る。この種の証明法は当時のユダヤ人に取って有効であった。故にパウロがこれを用いた事は賢明な態度であった。