第2コリント第4章
分類
3 パウロの自己弁明(其の一)
1:12 - 7:16
3-5 使徒職の光栄と神の使者としてのパウロ
3:1 - 6:10
3-5-ニ 福音の役者としてのパウロの態度
4:1 - 4:6
4章1節 この
口語訳 | このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、 |
塚本訳 | わたし達は(神の)憐れみをうけて、この(モーセにまさる)役目を託されているのであるから、(どんな場合にも)気を落さない。 |
前田訳 | それゆえ、われらは(神に)あわれまれてこの務めを持つので、心を落とさず、 |
新共同 | こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。 |
NIV | Therefore, since through God's mercy we have this ministry, we do not lose heart. |
註解: 「この故にすなわちUコリ3:12以下殊にその17、18に示すが如く福音の役者として、光栄と自由とを得ている故に、我らは神の憐憫 によりてこの職を受けた以上次の如くに振舞うのは当然である」。パウロはその光栄ある職に与 る原因を神の憐憫 に帰する事により、自己に誇るべきものの絶無なる事と、他人の批評に左右せられない事と、神の恩恵に対する感謝の念を以って、己を忘れて真面目にその職に従う事とを示して居る
註解: 若しパウロの職が、かかる光栄と自由とに充ち、神の憐憫 によりて与えられしものでないならば、彼はその蒙 りし迫害と反対との為に落胆してしまったであろう
4章2節
口語訳 | 恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。 |
塚本訳 | いや、(一切の)恥かしい隠し事を絶った、計略を用いて歩かず、神の言葉をごまかしもせず、ただ(福音の)真理を明らかにすることによって、神の前ですべての人間の良心に自分を推薦しているのである。 |
前田訳 | 恥ずべき隠しごとを捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理の明らかさによって、神のみ前に自らをすべての人の良心に対して推薦しています。 |
新共同 | かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。 |
NIV | Rather, we have renounced secret and shameful ways; we do not use deception, nor do we distort the word of God. On the contrary, by setting forth the truth plainly we commend ourselves to every man's conscience in the sight of God. |
註解: パウロはここに「隠」と「顕」とを対立せしめ、面帕 を棄て兼ねているユダヤ的偽教師とパウロ等の如き面帕 なき真の福音の使徒とを比較している。而して面帕 を取り除き兼ねている人々の特徴は、自然恥ずべき隠れたる事を行う事であって、悪巧を用い、策略を弄 し、陰謀を企てて自己の勢力を拡張せんとし、また神の言に不純物を混じてこれを混濁せしめ、律法と福音との区別を乱す事である。パウロ等は凡てこれらの恥ずべき隠れたる事を遠ざけ、臆する事無く恐れる事なくキリストの福音の真理を表白し、公然に神の前において(其処では虚偽隠蔽は役に立たず、事の真偽は皆暴露される)凡ての人の良心に向って自己を薦めている。隠れたる処において神の言を乱し、悪巧を以って自己を薦めているのとは全く正反対の態度である。神の前において恥ずべき事の悪事である事は勿論、凡ての人の良心に照らして恥ずべき事もまたこれを避けなければならぬ。基督者が往々常人の良心に照らしても恥ずべき事を為す事は非常なる悪事である。
辞解
[悪巧] 誠実の反対
[みださず] Uコリ2:17の「曲げず」と略 同意義で混合物を入れない事
4章3節 もし
口語訳 | もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。 |
塚本訳 | しかしそれでもなおわたし達の説く福音が(ベールで)覆われている(からわからないのだと言う)なら、それは滅びゆく者にとって(だけ)覆われているのである。 |
前田訳 | それでもなおわれらの福音がおおわれているならば、それは滅びるものたちにおおわれているのです。 |
新共同 | わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。 |
NIV | And even if our gospel is veiled, it is veiled to those who are perishing. |
註解: 福音の真理をパウロ等は前節の如くに公けに表白しているにも関わらず、なおこれを信じ得ないものがあるのは、彼の述べる真理の偽なることを証明するものではないかとの疑問を起こす者も有ったであろう。パウロは之に対しかかる人があるならばそれは救いに与ることができない人、すなわち真理に対して盲目なる人に向って覆い隠されているのであると答えている。パウロはその福音の絶対的真理であることを確信していたからである。
辞解
[われらの福音] 偽教師等の述べる処にあらざるパウロらの宣べるイエス・キリストの福音
[おおわれ] 「面帕 を以て覆われ」との意味で、パウロはなおUコリ2:12以下の論法を継続している。
[亡ぶる者] Tコリ1:18
4章4節 (
口語訳 | 彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。 |
塚本訳 | 彼らの場合、この不信者たちの考えをこの世の神(である悪魔)が盲にして、神の影像である救世主の栄光をつげる福音の光を見ることができないようにしたのである。 |
前田訳 | 彼らにあっては、この世の神が不信者の考えをくらまして、神の像(すがた)にいますキリストの栄光についての福音の輝きを見えなくしています。 |
新共同 | この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。 |
NIV | The god of this age has blinded the minds of unbelievers, so that they cannot see the light of the gospel of the glory of Christ, who is the image of God. |
註解: 前節の理由の説明である。すなわち明白に示されしキリストの福音の真理を信じ得ない人があるのは、悪魔がその心を肉の慾、魂の誇等を以って覆いてこれを盲目ならしめ(マタ6:23)悪魔の最も忌み嫌う神を彼らより蔽い隠し、神と同一の姿に在すキリストの栄光に充てる福音の光明を遮ってしまったからである。他にいかなる知識をもっていても、この唯一の光を認めないものは真の盲目である。
辞解
[この世の神] キリスト再臨までの時代の支配者すなわちサタン(エペ2:2。エペ6:12。コロ1:13)、再臨後はキリスト支配し給う。黙20:11
[神の像なるキリスト] ヨハ14:9。
[光] フオーテイスモスphôtismos「光線」の意味で悟りを表している
4章5節 (そは)
口語訳 | しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。 |
塚本訳 | なぜならわたし達が説いているのは自分のことでなく、ただキリスト・イエスは主であること、自分たちはイエスの(奴隷、いや彼の)ためにあなた達の奴隷であるということである。 |
前田訳 | われらは自らをでなく、主キリスト・イエスをのべ伝えています。われら自らはイエスゆえにあなた方の僕なのです。 |
新共同 | わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。 |
NIV | For we do not preach ourselves, but Jesus Christ as Lord, and ourselves as your servants for Jesus' sake. |
註解: 「若しサタンが彼らの心を暗ますのでなかったならば、彼らは我らの福音を受納れるであろう、何となれば我らは己を薦め、己の主たる事を宣べるにあらずイエス・キリストを主と仰ぐべき事を宣伝へ、己はイエスのために汝らの僕となっていることを宣べるからである」。福音の伝道とはかかるものであって、決して自己を誇る事ではない、故にこれを受納れ得ない筈はない
4章6節
口語訳 | 「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。 |
塚本訳 | というのは、(世界創造の時、)「光、暗闇から輝き出でよ」と言われたその神は、キリストの顔に現れている神の栄光を知る知識が明らかになるため、わたし達の心の中に光を輝かせてくださったからである。 |
前田訳 | 「光が闇から輝き出よ」といいたもうた神は、われらの心の中に輝いて、キリストのみ顔にある神の栄光の知識をきらめかせたまいました。 |
新共同 | 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。 |
NIV | For God, who said, "Let light shine out of darkness," made his light shine in our hearts to give us the light of the knowledge of the glory of God in the face of Christ. |
註解: 原文には「何となれば」とあり5節の理由の説明である。すなわちパウロ等が福音の役者となっている理由は唯神の御働きであって、甞 て天地創造の際に「光あれと云い給いければ光ありし」と同じく、神は暗黒の中に在った我らの心を照して、キリストの顔にある神の栄光を知るの知識を与え給い、モーセの如くに面帕 をあてて神に見ゆるにあらずして、キリストによりて直接に神を見る事ができる様にせられ、この知識をばこれを更に他の人々に輝かすべき任務を我らに授け給うた。故に己の事について宣べるにあらず、唯この知識を輝かす為に却って汝らの僕となっているのである。
要義 [使徒としてのパウロの態度]前章において使徒職の性質とその栄光とを述べしパウロは、ここにその職に対する自己の態度を鮮明にしている。而してパウロの態度はこれを要約すれば(1)使徒職は全然万能の神の憐憫 により、神の独自の働きによりて彼に与えられたものであって(Uコリ4:1、6)人間の推薦や紹介によれるものにあらざる事(2)福音は光であって、この光によりキリストの栄光、換言すればキリストの顔にある神の栄光を知るものなる事(Uコリ4:4、6)。(3)従って光の性質に叶う様に、使徒等は公然を重んじて隠密をさけ、その行動においても伝道においても、神の前に万人の良心に自己を呈出して恥じざる事である。故に面帕 を存して光を受け得ざるもの隠密悪巧 を行うものは福音の使徒ではない。偽の教師等はこの後者の態度を取っておった。我らもかかる態度に出ない様に注意すべきである。
口語訳 | しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 |
塚本訳 | しかしこの宝が、(貧弱な)土の器の中にある。それはその素晴らしい力が神のものであって、わたし達(土の器)から出るのではないことがわかるためである。 |
前田訳 | われらはこの宝を土の器に持っています。それはあふれる力が神のもので、われらからでないためです。 |
新共同 | ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 |
NIV | But we have this treasure in jars of clay to show that this all-surpassing power is from God and not from us. |
註解: (▲7−18節はパウロ反対の人々がパウロに多くの苦難が臨んで来るのは彼が真の使徒ではない証拠であるとして彼を非難したのに対して、パウロは苦難の意義と使徒としての苦難の重要さを示したのであった。)「この宝」は福音の使徒たる職を意味し「土の器」はパウロ等の肉を意味する。一方に福音の使徒たる職の光栄が、モーセの光栄にも優る事を知りながら、他方これを授けられし使徒自身の肉の弱さと醜さとを見る時、この光栄ある職を盛る器としては全く不適当であり、これにつきて誇る事は如何にも狂か愚かの如くに人には見える事をパウロは知っていた。しかしパウロはこれを恥とせず、容器の卑しきを見て内容そのものを賤 むは誤っているのみならず、却って其処に深き神の御旨があることを確信していた
これ
註解: これ福音の偉大なる力が、その使徒たる人より出づるが如くに思われる事を避けんが為である。すなわちこの力は神より出づるのであって神のみ崇められ給わんが為に、かかる卑しき土の器にこの至宝が盛られたのである。故に自らを高しとしその宝の貴さを顕さない使徒は真の使徒ではない。偽の使徒はパウロの肉の弱さを嘲けり、自己の肉に誇る事によりてパウロの使徒たる事を否定していたのであろう(Uコリ11:18−23。Uコリ11:30。Uコリ12:5−10)。
口語訳 | わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 |
塚本訳 | わたし達はあらゆることで悩まされる、しかし行き詰まらない。当惑する、しかし絶望しない。 |
前田訳 | われらはあらゆることに苦しめられながら押しつぶされず、途方に暮れながら行きづまらず、 |
新共同 | わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 |
NIV | We are hard pressed on every side, but not crushed; perplexed, but not in despair; |
註解: パウロは自己の肉の弱さ醜さは、却て神の光栄を揚ぐる所以である事をその経験を以って証明している。すなわちパウロの弱き肉はあらゆる時、所、事件において患難に圧迫せられておりながら、窮地に陥って進退窮まる事が無いのは土の器の如き自己に、その力があるからでは無く神の力に支えられるからである。
辞解
[四方より] 直訳「凡てにおいて」
[窮せず] 袋小路に入って出道を失う様な事は無いとの意を示す語
註解: 神に依り頼む者には絶望は無い、アブラハムは望むべくもあらぬ時になお望んでいた、ロマ4:18。我らの肉は容易に絶望の状態に陥るけれども、神を信じてその場合にも絶望しないその姿こそ福音の力のよき証拠である
口語訳 | 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。 |
塚本訳 | 迫害される、しかし(神に)見捨てられない。打ち倒される、しかし死にはしない。 |
前田訳 | 迫害されながら見捨てられず、倒されながら滅びません。 |
新共同 | 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。 |
NIV | persecuted, but not abandoned; struck down, but not destroyed. |
註解: 如何に迫害せられても窮地に置き去りにされる如きことなく、必ず立ち上がってその道に進んでいく
註解: この語は一層激しき程度の迫害を意味し、蹴倒 し踏倒 して我らを亡ぼさんとしても、神これを支え給うが故に亡びない
4章10節
口語訳 | いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。 |
塚本訳 | わたし達はいつもイエスの死の苦しみを体に受けて持ち回っている。それはわたし達の体にイエスの命も現れるためである。 |
前田訳 | たえずわれらはイエスの死を体に帯びていますが、それはイエスのいのちがわれらの体に現われるためです。 |
新共同 | わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 |
NIV | We always carry around in our body the death of Jesus, so that the life of Jesus may also be revealed in our body. |
註解: パウロその他の使徒弟子等の受けるあらゆる迫害と困難は、取りもなおさずイエスの死をその身体に帯びているのである。この世においてイエスが殺され給いし如く弟子たちも苦難を味わなければならない。ヨハ15:20。コロ1:24。しかしイエスは死より甦り今もなお生きて神の右にい給うのであって、パウロ等がその迫害の中に支えられる力そのものはイエスの復活の生命の発露であって、これにより彼らはイエスの生命をその土塊 の如き身に顕わしているのである。ここにパウロは信仰によりて、キリストとの一致の生涯を送っていた事を見る事ができる。
辞解
[イエスの死] 原語においてこの場合「死」は死ぬる動作を意味している。
[「日々に死す」る事] すなわち十字架を負うの生涯を指す、ロマ8:36引照参照。イエスの贖罪の死を指すのでは無い。日々己を犠牲にして他を愛するの行為である。
[負う] 到る処に持ち廻るの意、パウロ等はその伝道の行く先々にイエスの死を持ち廻った
4章11節 それ
口語訳 | わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。 |
塚本訳 | 言い換えれば、わたし達が生きながらイエスの故に絶えず死の手にゆだねられているのは、イエスの(復活の)命もわたし達の死ぬべき肉体に(すでにこの世で)現れるためである。 |
前田訳 | それは、われら生きているものが、イエスのゆえにつねに死に渡されるのは、イエスのいのちもわれらの死すべき肉体に現われるためだからです。 |
新共同 | わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。 |
NIV | For we who are alive are always being given over to death for Jesus' sake, so that his life may be revealed in our mortal body. |
註解: 貴いものはイエスの生命であって、我らの肉体は死ぬべき取るに足らぬものである。而してこの土塊 に等しき肉体がイエスの為に迫害せられ死の苦痛に付される事は、敵人の考うる如く我らの真の使徒にあらざる証拠ではなく、却てこれによりてイエスの今もなお活きて働き給う事を、我らの死ぬべき肉体によりて顕わしているのである
4章12節 さらば
口語訳 | こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。 |
塚本訳 | 従って死はわたし達に働くけれども、(そのことによってわたし達に溢れる)命があなた達に働くことになるのである。 |
前田訳 | かくて死がわれらのうちに、いのちがあなた方のうちに働くのです。 |
新共同 | こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。 |
NIV | So then, death is at work in us, but life is at work in you. |
註解: 使徒等が常に迫害を受けて死の苦難を甞 めている結果として、復活のキリストの生命が使徒等の肉体に顕われ、これがコリントの人々に作用してやがてコリントの人々がキリストの生命に与り得るに至るのである。パウロ等はコリントの信徒に対する愛より凡ての苦難を己に引受ける事によって、彼等に生命を与えんとしているのであって、これが使徒職の任務であり、また証拠である
4章13節
口語訳 | 「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。 |
塚本訳 | しかしわたし達は聖書に“わたしは信じた、それゆえに語った”と書いてあるのと同じ信仰の霊を持っているので、わたし達も信じており、それゆえにまた(福音を)語っているのである。 |
前田訳 | 聖書に、「わたしは信じ、それゆえに語った」とあり、われらも同じ信仰の霊をもっていますので、われらも信じ、それゆえに語っているのです。 |
新共同 | 「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。 |
NIV | It is written: "I believed; therefore I have spoken." With that same spirit of faith we also believe and therefore speak, |
註解: 私訳「蓋し我らにも同じ信仰の霊あれば、『われ信ぜし故に語れるなり』と録されし処に従い、我らもまた信ずるが故に語るなり」。以上の如く大胆に断言する所以は信仰を有 っているからである。すなわちダビデの持てると同じ信仰の霊を我らも有っている故、ダビデが詩116:10(七十人訳)に言える言に依り、我らもまた我らの信ずるがままを大胆に言うのである
4章14節 これ
口語訳 | それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。 |
塚本訳 | というのは、主イエスを生きかえらせたお方は、イエスと一体としてわたし達をも生きかえらせ、あなた達と一所にその(御座の)前に立たせてくださることを知っているからである。 |
前田訳 | われらは知っています、主イエスをよみがえらせた方がわれらをイエスとともによみがえらせ、あなた方とともにみ前に立たせたもうことを。 |
新共同 | 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。 |
NIV | because we know that the one who raised the Lord Jesus from the dead will also raise us with Jesus and present us with you in his presence. |
註解: 「信仰の内容は主イエスを甦えらせ給いし神が終の日に(キリスト再臨の時に)我らをもイエスと共に甦らせ、汝らすなわち愛するコリントの信者と共にキリストの臺前 に立たしめ給うと云う事である」すなわちパウロは体の復活を明かに信じていたが為に、甦ってキリスト及びコリントの信者たちと永遠に活くる事を望みつつ、現在日々にイエスのために死に付される事を少しも恐れず、反って凱歌を揚げる事ができたのである
口語訳 | すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。 |
塚本訳 | 何もかもあなた達のためにするのである。これは恩恵が増すにつれていよいよ多くの(信ずる)人たちが感謝にあふれ、神の栄光が揚がるためである。 |
前田訳 | すべてはあなた方のためです。それは、恩恵があふれ、ますます多くの人によって感謝を増して、神の栄光を現わすからです。 |
新共同 | すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。 |
NIV | All this is for your benefit, so that the grace that is reaching more and more people may cause thanksgiving to overflow to the glory of God. |
註解: パウロ等が為す凡ての活動も、その受くる凡ての苦難も皆コリントの信者の益となる事であった。これを知らずにパウロ等を軽蔑し、その使徒職につき疑いを挿 む如きは非常なる過誤である
これ
註解: パウロ等が苦難の生涯を送る事が、コリント人の益となる事は意味深き事であって、すなわち神の御恵を受ける人々がパウロ等の伝道によりて益々増加し、これによりて神の御恵が増し加わり、これに伴って感謝の心もまた益々加わりて、多くの人が共に御恵を受け感謝を共にする事によりて神の栄光が顕われんが為である。
要義 [伝道者の苦難]基督者には苦難は当然であると共に(ヨハ15:19、20。マタ5:11)、また必要である(ヘブ12:5-13)。しかしながら福音の伝道者のためにはそれが一層必要であって、肉体の苦難と死との中にありて益々キリストの生命の光を輝かし、多くの人々にイエスの生命を分ち与うる事ができるのである。而して己の受ける困難とその味わう死が結局益々多くの人々の上に、神の御恵が下り益々多くの人が感謝し得るに至り、神の栄光の顕われる原因となるを思う時、肉の弱さ、醜さ、その苦難、迫害等凡てこの世の目より見て神の使者に相応しからぬものが、却って伝道者に欠くべからざるものであって、これによって却って神の栄光を揚ぐる事ができる事を知るであろう。
口語訳 | だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。 |
塚本訳 | このゆえに、わたし達は気を落さない。いや、わたし達の(生れながらの)外の人はどんなにこわれていっても、(キリストによって生れた)内の人は一日一日と新しくされてゆく。 |
前田訳 | それゆえわれらは気を落としません。たとえわれらの外の人は滅びても、われらの内の人は日々新しくされています。 |
新共同 | だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。 |
NIV | Therefore we do not lose heart. Though outwardly we are wasting away, yet inwardly we are being renewed day by day. |
註解: Uコリ4:1にはたとい使徒職が偽の教師その他の目に卑しきものに見えても、神の憐憫 によりてこの職を受けしが故にパウロは落胆しない事を述べ、ここには前節まで論じ来たれる如く如何に多くの苦難を受くるとも復活の希望を握り、且つこの苦難が神の栄光となる事を思って落胆しない事を繰返している。
註解: 私訳「たとい我らの外なる人は腐朽すとも、内なる人は日々に新にされるなり」「外なる人」は肉体であって迫害、老衰、死によりて腐朽すべき運命にあり、殊にパウロ等は常にこの運命を身に受けていた。「内なる人」はキリストの霊によりて新生せる人であって、肉体の弱さと反比例して日々に新なる力を得て益々その新鮮さを増して来るのである。若しキリストの霊によりて新生せしめられないならば、この内なる人は外なる人と共に腐朽するの運命にある
4章17節 それ[
口語訳 | なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。 |
塚本訳 | なぜなら、現在の軽い苦難は、この上もなく素晴らしい、永遠に豊富な(神の)栄光をわたし達にもたらす(保証だ)からである。 |
前田訳 | それは、現在の軽い苦しみは、はかり知れない重さの永遠の栄光をわれらにそなえるからです。 |
新共同 | わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。 |
NIV | For our light and momentary troubles are achieving for us an eternal glory that far outweighs them all. |
註解: 私訳「そは暫時の軽き患難は永遠の重き光栄を溢れるばかり我らに得しむればなり」この世に生存する年限は短い、その間に如何に大なる患難が我らに臨もうとも、それは束の間に過ぎず且つ未来の栄光に比して鴻毛 の如くに軽い、この僅かの患難がやがて永遠に亡びざる生命の重大なる光栄を、極めて豊かに我らに与うる原因をなしているのである、この希望を握る場合においては内なる人は日々に新にせられるのである。
辞解
[極めて大なる] 「光栄」を形容する事もでき、また「得しむる」を形容する事もできる、いずれにしても意味に大なる変化はない、この一節殊に「極めて大なる」の原語は日本語に訳しにくい熟語であって、程度の非常に大なる事を示す
4章18節
口語訳 | わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。 |
塚本訳 | このわたし達は見えるものに目を向けているのではなく、見えないものに目を向けているのである。見えるものは一時的、見えないものが永遠だからである。 |
前田訳 | われらが目ざすのは見えるものでなく、見えぬものです。見えるものはしばし、見えぬものは永遠だからです。 |
新共同 | わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 |
NIV | So we fix our eyes not on what is seen, but on what is unseen. For what is seen is temporary, but what is unseen is eternal. |
註解: 私訳「蓋し我ら見ゆるものを顧みずして見えざるものを顧みる。そは見ゆるものは一時的にして見えぬものは永遠なればなり」。見ゆるものは栄誉、幸福、名声、健康、安佚 等凡てこの世に属するものを指し、見えぬものは未だ実現せざる未来永遠の光栄を指す(有形物と無形物、または見得べきものと見得べからざるものの区別ではない。何となればキリストの再臨の後は今見えぬものをも見るに至るからである)。パウロの如き苦難の生涯は前者を失った生涯であるけれども彼はこれを意としない、そはかかるものは一時的のものであるからである。反対にパウロ等の顧みるものは永遠の光栄の希望である。この希望を有 つ故に凡ての現在の患難を無視する事ができたのである。ロマ8:18参照。
要義 [苦難と希望]苦難をして耐え易からしむるものは、苦難が我らをして益々明かに永遠の世界を望むに至らしむる事である。キリストの再臨により我らは復活して栄光の世界に入り、キリストと共にまた他の聖徒と共に宇宙を支配する事の絶大永遠なる希望は、これを確実に握るに従ってますます現在の一時的苦難の軽き事を知る事ができる様になるのであって、これただに使徒たちのみの問題ではなく、凡ての基督者の問題である。この永遠の希望を懐いて現在の苦難に耐うるものはその腐朽せんとする外なる人、土の器よりキリストの光が輝き出るのである。反対にこの希望なしに苦難を耐えんとしてもそれは不可能事である。基督者が多くの苦難に耐うることを得る所以は彼らの忍耐力によるのでは無く、またあきらめによるのでもなく彼らがより大なる希望を握っているからである。
第2コリント第5章
3-5-ヘ 地上の幕屋と神の建物
5:1 - 5:10
註解: 5:1−10はなお前章の思想の継続であって、肉体は腐朽すべきも復活の希望を持って信仰の歩みを為すべき事に就いて語っている。この事は使徒職にある者において殊に重要であるけれども、また一般の人にも適用されるべき事柄である
5章1節
口語訳 | わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。 |
塚本訳 | なぜ(こんな希望に生きることができるの)であろうか。もし地上の家であるわたし達のこのテント、(この肉体)がこわれるならば、天に、神の建てられた建物、(人間の)手で造らない永遠の家をいただいていることを、わたし達は知っているからである。 |
前田訳 | われらは知っています、われらの地上の家である幕屋が壊れても、神からの建物、すなわち手で造らぬ永遠の家が天にあることを。 |
新共同 | わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。 |
NIV | Now we know that if the earthly tent we live in is destroyed, we have a building from God, an eternal house in heaven, not built by human hands. |
註解: 我らの肉体は唯一時の間地上に存在するのみで、やがて滅びてしまう。この意味においては天幕づくりの家の如きものである、「この世は仮りの宿」なる語がこれに適応している。この肉体が死により、または化体(Tコリ15:52。Tテサ4:17)によりて壊滅に帰する時、我らは復活体を与えられる。而してこの復活体は人手によらず神より与えられるものであって、天にありて永遠に生くべき体である。仮の宿に過ぎざる幕屋と永続的住居なる建築物とを対比して肉体と復活体との性質の差を示し、「地上」と「天上」、「壊滅」と「永遠」とによりてその場所と時との差を示す。我らもしこの事を明かにする事ができるならば、最早見ゆるものを求めずして見えぬものを求めるであろう。
辞解
原文は「何となれば」garとあり、前節の理由の説明である。
[家あり] 原語「家を有 つ」は現在動詞にして、肉体の崩壊と共に直ちに現在復活体を所有する如く記されている。しかし聖書の他の部分において明かなるが如く、復活体はキリストの再臨の時に与えられるのであって現在の所有ではない。茲に現在動詞を用いたのは、時を超越して事柄の本質のみを示したのであって、日本語の「持つのである」に当る
5章2節
口語訳 | そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。 |
塚本訳 | どうしてであろうか。わたし達はこのテントにいて、天の住いを上に着たくてたまらずに呻いているからである。(この憧れと呻きこそ、永遠の住いのある証拠ではないか。) |
前田訳 | われらはこの身で天からの住まいを着るよう、あこがれてうめいているのです。 |
新共同 | わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。 |
NIV | Meanwhile we groan, longing to be clothed with our heavenly dwelling, |
註解: 「我」が本体であってこの肉体は幕屋であり、恰 も衣服のごとくにこれを着ている。かかる衣服を着ている我らはその不完全と患難のために嘆息 呻吟 せざるを得ない。故にできるならば主イエス再び速やかに来たり給いて、この不完全なる肉体の幕屋の上を完全なる天の住所なる霊体を以って掩い、かくして患難を除き給わんことを切望する。その故はキリスト来たり給う時、生き残れる信徒は化せられて朽ちぬ身体を着せられるからである(Tコリ15:52、53。Tテサ4:17)。パウロは切にこの時の来たらん事を望んでいた
5章3節
口語訳 | それを着たなら、裸のままではいないことになろう。 |
塚本訳 | ほんとうにもしこれを着たならば、裸(の恥しい姿)であることはないであろう! |
前田訳 | もし着たならば、裸では見られますまい。 |
新共同 | それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。 |
NIV | because when we are clothed, we will not be found naked. |
註解: 天より与えられる住所なる霊体を着ていれば、これを以て神の前に立つ事ができる。すなわち栄光の体(ピリ3:21、Tコリ15:40)であって、キリストの栄光の体に肖 ったものである。この体を有 つならば裸の恥を晒す事が無い(黙3:18。黙16:15)。すなわち罪のままの醜き状態ではないキリストを衣 た義 しきものとして神の国に迎えられる
5章4節
口語訳 | この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。 |
塚本訳 | それで、わたし達のこのテントにいる者は、重荷に呻いている。これを脱ぎたい(つまり死にたい)のではなく、(天の住いを)上に着たいからである。これは死ぬべきものが命に飲み込まれるためである。 |
前田訳 | われらは幕屋にいるあいだ重荷にうめいています。それを脱ぎたいからではなく、上に着たいからです。それは死すべきものがいのちに呑み込まれるためです。 |
新共同 | この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。 |
NIV | For while we are in this tent, we groan and are burdened, because we do not wish to be unclothed but to be clothed with our heavenly dwelling, so that what is mortal may be swallowed up by life. |
註解: 我らこの肉体の幕屋の中に生きている結果、その不完全さとまたこれに臨む多くの迫害、患難の為に重荷を負える如くに苦しみ呻吟 く、蓋しこの肉体を脱ぎて死んでしまいたいから嘆くのではない、寧 ろこの肉体が、栄光の体を以って掩 われん事を欲するからである。死ぬべきものが死滅する前に生命に呑まれる事、すなわち我らが死して裸なる状態に陥る事なしに、その前に主イエス来たり給いて我等を化し永世の体を与え給わん事が我らの願である
5章5節
口語訳 | わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。 |
塚本訳 | このことがわたし達に出来るようにされたお方は神であり、このお方がその手付けとして御霊を下さったのである。 |
前田訳 | われらをほかならぬこのことへと仕上げてくださったのは神です。神がわれらに霊の保証をお与えでした。 |
新共同 | わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。 |
NIV | Now it is God who has made us for this very purpose and has given us the Spirit as a deposit, guaranteeing what is to come. |
註解: 私訳「我らをこの事に適 うものとなししものは神にして、彼は御霊の保証を我らに賜えり」。「この事」は不死の体を着ること、神は我らの心に働きて我らをして栄光の体に永遠に生くる事を得るに至らしめ給う、我らの努力や修養によれるものにあらず、而して我らに聖霊が与えられているのは、この栄光の体を与えられることの保証である(エペ1:13、14)。この御霊が与えられて、これに相応しい栄光の体を与えられない筈はない
5章6節 この
口語訳 | だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。 |
塚本訳 | だから、わたし達はいつも心強くあり、また、この体に同居しているあいだは主から離れて別居していることを知っている、 |
前田訳 | それでわれらは、この体に住んでいる間、主から離れ住んでいることを知りながらも、つねに心強いのです。 |
新共同 | それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。 |
NIV | Therefore we are always confident and know that as long as we are at home in the body we are away from the Lord. |
5章7節
口語訳 | わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。 |
塚本訳 | ──というのも(いま)わたし達は(主を)見ることによってではなく、信仰によって歩いているからである。── |
前田訳 | われらは見えるものによらず信仰によって歩んでいるのです。 |
新共同 | 目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。 |
NIV | We live by faith, not by sight. |
5章8節
口語訳 | それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。 |
塚本訳 | それで、わたし達は心強くはあるけれども、むしろこの体を離れて別居し、主の所に同居したいと望んでいる。 |
前田訳 | われらは心強くあり、むしろ体を離れ住んで、主のもとに住みたいと思っています。 |
新共同 | わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。 |
NIV | We are confident, I say, and would prefer to be away from the body and at home with the Lord. |
註解: この三節は連絡している一文章であって、次の如くに訳す事ができる。「だから我ら常に心勇み、かつ体と同居しているうちは主と別居しているを知って―なぜなら見る処によらず信仰によりて歩んでいるから―心勇み、かつむしろ体と別居して主と同居することを願う」以上の如く我らは天よりの住所なる霊の体を着る事を得るものとせられし以上、我らは如何なる困難の中にありても心勇み、何等失望落胆する事が無い、然のみならず、我らさきにこの幕屋を脱がん事を欲しないと云ったけれども、考えて見れば、我らこの肉の体の中に住んでいる間は(同居)、目のあたり主イエスを見まつっているのではなく(別居)、彼に対する信仰の中に行動しているので、事実主イエスから離れているのである。これを思い、且つ永生の希望を以って心勇んでいるので我らは最早この幕屋の中に恋々としている事を必要としない。寧ろ死してこの幕屋を脱ぎすて身を離れてキリストと共にいる事こそ望ましい処である。これによりてこの世における迫害と罪の苦痛を逃れ、やがてキリスト再臨の日には先ず第一に復活し(Tテサ4:16)栄光の体を与えられる望みが残るからである▲すなわち「どちらかと云えば死んだ方が一層結構である」と云う意味である。その故は主と共にいる事ができるからである。
5章9節
口語訳 | そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。 |
塚本訳 | この故にまた、(この体と)同居していようが、別居していようが、(ただ)主のお気に入ることだけを名誉とするのである。 |
前田訳 | それゆえ、この体に住もうと、離れ住もうと、主によろこばれることをわれらの名誉とします。 |
新共同 | だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。 |
NIV | So we make it our goal to please him, whether we are at home in the body or away from it. |
註解: 以上1−8節に示されし如く身に居るも身を離れるも(身と同居するもこれと別居するも)我らの希望を達せんが為に、唯専心にキリストの御心に適 わん事のみを目掛けている。パウロの心は如何なる患難の中にも唯主の御心に適 う事より外には無かった、この点においてイエスの御心を心としていた。
辞解
[力む] 「それを栄誉とする」意味、「かかる野心は唯一の正しき野心である」(B1)
5章10節
口語訳 | なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。 |
塚本訳 | なぜなら、わたし達は(最後の日に)一人のこらずキリストの裁判席の前に自分を現し、ひとりびとりがその体によってしたことに従い、善いことにせよ悪いことにせよ報いを受けねばならないからである。 |
前田訳 | われらは皆キリストの裁きの座の前に現われねばなりません。それはよきにつけ、あしきにつけ、おのおのがその体によってなしたことに対して報われるためです。 |
新共同 | なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。 |
NIV | For we must all appear before the judgment seat of Christ, that each one may receive what is due him for the things done while in the body, whether good or bad. |
註解: 我らは栄光の体を受ける事を望んでいる。しかしながらこの身において行った事はキリストの審判の座において皆忘れられてしまうのでは無く、信者と雖 も皆その行為の善悪によりてそれぞれの報いを受けなければならない。それ故に我らの努力すべき点は常に主の御意に適う事を行うにある。
要義1 [パウロの死生観]パウロ程その生涯において患難苦痛の数々を味わった人は少ない(Uコリ11:22−33)。しかも彼はこの苦痛を逃れん為に死を欲する如き事は無かった、彼は寧ろこの死の体、苦痛の肉体が不死の栄光体に呑まれ、この生命のまま永遠の生命を嗣 ぐべき霊体に化せられる事を望んでいた。しかしながらこの確実なる希望を握った以上、彼はすこしも死を懼れなかった。否むしろイエスとともにいるが為には却って死をさえ希望していた。彼の死に対する憧憬は、現世の苦痛に耐えかねたからではなく、イエスとともにいる喜びを味わんが為であった。故に彼は完全に死生を超越し、絶大なる患難の中にあって一向に主の御意 に適 う事を努める事ができた。
要義2 [行為に対する報償]基督者の凡ての罪は神の前に赦されている。しかしながら天国においてこれが凡て忘却されているのではない、否却って如何に小なる罪でも神の前に記憶せられているのである。唯これが人を地獄に滅ぼすべきか、天国において神の子とすべきかを定むる材料となるのではない。基督者は皆神の子とせられ、天国の世嗣として神の嗣業を受くべき事はすでに定められし運命である。唯同じく神の子たる者もその「身にある中」に為せる凡ての善行悪行の如何により、各 がそれに適 う賞罰を受くるのである。故にアダムの罪も、ダビデの行為も、ペテロのキリストを否みし事も、パウロの基督者を迫害した事も皆神の前に記憶せられるであろう。而してこれ等は凡て赦され、唯神より適当の罰を課される事を思うべきである。これが為に心の平安を失う必要は無く、また赦されし罪を何時までも恥づる必要が無い。大胆にこれを告白すべきである(使19:18)。ベンゲル著グノモン参照(本サイト提供:グノーモン新約聖書註解(ベンゲル))
5章11節
口語訳 | このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえには明らかになっている。さらに、あなたがたの良心にも明らかになるようにと望む。 |
塚本訳 | このようにわたし達は主の(裁判の)恐ろしさを知っているので、(非難者の言葉を借りれば、)人々を「説得している」のであるが、わたし達(に私心)の(ない)ことは神には知られている(筈である)。しかしあなた達の良心にも知られることを望むのである。 |
前田訳 | このように神への恐れを知って、われらは人々を説得しています。神にはわれらのことは明らかです。そしてあなた方の良心にも明らかであるよう、わたしは望んでいます。 |
新共同 | 主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。 |
NIV | Since, then, we know what it is to fear the Lord, we try to persuade men. What we are is plain to God, and I hope it is also plain to your conscience. |
註解: キリストの審判の座に凡ての人が立たなければならない事すなわち主の畏るべき事を知る故に、パウロは人々に向って彼らがパウロ等を誤解する事によりて神の審判を受くるに至ることなき様に説得しているのである。しかしこれは一般の人に対する問題で、神に対しては我らの心は皆明かに顕わされており、また庶幾(こいねがわくば)汝らの良心にも明かにせられている事であろう。
辞解
[知られ] 5:10の「あらわれ」と同文字、「明かに示されている事」
[説き勧む] 「説得する」事。何について説得するかについては多くの異説あり
[思う] エルピゾーはelpizô「望む」と訳される文字、ここには「庶幾 う」の意味に用いらる。未来の希望ではなくすでに現在かくある事を庶幾 う事
5章12節
口語訳 | わたしたちは、あなたがたに対して、またもや自己推薦をしようとするのではない。ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ、心を誇るのではなくうわべだけを誇る人々に答えうるようにさせたいのである。 |
塚本訳 | (前にも言ったが、)わたし達はまたあなた達に「自分を推薦する」のではない。ただわたし達のことを誇る手掛りを与えて、内面でなく外面を誇るあの連中に受け答えできるようにするまでである。 |
前田訳 | われらはふたたび自らを推薦するのではありません。むしろわれらのことを誇る機会をあなた方に与えるのです。それは心でなく、うわべで誇る人々にあなた方が対応しうるためです。 |
新共同 | わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。 |
NIV | We are not trying to commend ourselves to you again, but are giving you an opportunity to take pride in us, so that you can answer those who take pride in what is seen rather than in what is in the heart. |
註解: コリントの信者はパウロ等を以て誇りとすべき筈であったのに、(Uコリ1:13-14)これをなさず、却って外貌 (ユダヤ人たる事、使徒たちより教を受けし事等)によりて誇る偽教師等が、愛心もなくして誇るのにまかせていた。この有様を見てパウロはこれを歎き、自己の弁明を行う事によりてコリントの信者にパウロに就いて誇るの機会を与えんとしたのである。かくする事によりて彼らは偽使徒らの誇りに答うる事ができるであろう。
5章13節
口語訳 | もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。 |
塚本訳 | なぜなら、もし(非難されているように)わたし達が「気が狂った」のなら、神に対して(熱心だから)である。もし正気なら、あなた達に対して(そのためを考えるから)である。 |
前田訳 | もしわれらが狂っているならば、神のためであり、正気ならば、あなた方のためです。 |
新共同 | わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。 |
NIV | If we are out of our mind, it is for the sake of God; if we are in our right mind, it is for you. |
註解: パウロの反対者はパウロの極端なる律法無視の信仰や、その熱狂的伝道(使26:24)を見て彼を狂的なりと非難していたのであろう。また中にはこれに反対してパウロは心慥 かであると云う人々もあったのであろう。パウロのこの非難や批評の当否如何を論ぜず、コリントの信徒はパウロの伝道につき誇る事ができる。何となればもしパウロが心狂える如くであるならば、それは神に対する関係において神の愛に酔うたからであって、神の救いにつきまたパウロの聖職に関するものであり、もしパウロの心健全なるが如くであるならばそれはコリントの信者に伝道して彼らを躓かせない為である。「この第一の点をば15-21節にこれを述べ、第二の点は6:1−10にこれを述べている。」(B1)
辞解
[心狂う] エクステーナイekstênai(ekstasisの状態に入る事)は常軌を逸する事、熱狂する事、心が常態を逸して法悦の状態に陥る事等に用う、ここでは主としてパウロの信仰と伝道に関する意味である。
口語訳 | なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 |
塚本訳 | なぜというか。キリストの愛がわたし達を駆り立てるからである。わたし達はこう考える、──ただの一人の人(キリスト)がすべての人の身代りに死なれた、従ってすべての人は(キリストと一緒に一度)死んだのである、 |
前田訳 | それはキリストの愛がわれらに迫っているからです。われらはひとりの人がすべての人に代わって死んだと考えます。それで、すべての人が死んだのです。 |
新共同 | なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 |
NIV | For Christ's love compels us, because we are convinced that one died for all, and therefore all died. |
註解: 我らを引締めて統御する処のものは我らに対するキリストの愛である。我らの行動は凡てにおいてキリストの愛によりて制御せられている。
辞解
[迫れり] スンエカインsunecheinは「ある範囲の中に制限する」(M0)、「包括する」「強制する」「決定掣肘 する」(Z0)等種々の意味を有 つ語
註解: 「我ら思うに」直訳「次の事を思いて(我らキリストの愛に統御せらる)」であって次節と共に前文の理由の説明である。すなわちキリストは己を罪人なる全人類と合一し、キリスト一人が万人の身代りとなりて十字架上に死に給うた以上、全人類は、その罪の審判を受けて神の前に死んだものと認められるのである。(唯信者は信仰によりて、キリストと共に十字架に釘 けられし事を知りて自己の肉の生涯の死を経験し、ガラ2:19。コロ2:12。コロ3:3。ロマ6:4。不信者はこのキリストの愛を知らずして、相変わらず肉の生涯を送る事により更に反逆の罪を犯している)
5章15節 その
口語訳 | そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。 |
塚本訳 | そして彼がすべての人の身代りに死なれたのは、(彼と一緒に死んで新しい命にいま)生きている者たちが、もはや自分のために生きず、身代りに死んで復活された方のために生きるようにというのである。 |
前田訳 | そして彼がすべての人に代わって死にたもうたのは、生きるものが、自らのためでなく、彼らに代わって死んでよみがえりたもうたもののために生きるためです。 |
新共同 | その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。 |
NIV | And he died for all, that those who live should no longer live for themselves but for him who died for them and was raised again. |
註解: (▲贖罪の真理を簡単明瞭に表顕した場合の一つであって、キリストの代贖の死の意義を明かにしている。)キリスト万人に代りて死に給いし事によりて全人類は死んだものである。而してこの死に給えるキリストは不死の神的生命に更生 り給うた。而して死せる全人類が再びキリストの復活の生命に連なりて新なる生命を得、キリストに在りて活きん事を望み給う。かかる者は己のために活きず己に代りて死にて復活し給いし、キリストのために生きる者である(ガラ2:20。ロマ6:4。ロマ8:3)パウロはかかる人であった
5章16節 されば
口語訳 | それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。 |
塚本訳 | だからこのわたし達は、今からのちだれをも人間的に知ろうとはしない。たとい(以前は)キリストをも人間的に知っていたにせよ、今はもはや(そのように)知りはしない。 |
前田訳 | それゆえわれらは今後だれをも肉にあって知りますまい。かつてキリストを肉にあって知っていたにせよ、今はもはや知りません。 |
新共同 | それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。 |
NIV | So from now on we regard no one from a worldly point of view. Though we once regarded Christ in this way, we do so no longer. |
註解: キリスト凡ての人に代りて肉において死に給いし以上、今後は人をその肉の方面から観察する事をやめよう、すなわち人の身分、財産、知識、学問は勿論その人の罪、弱点等の古き人の状態をも無視し、これ等は皆キリストと共に死して無きものであると考えよう、かく云いてパウロは暗にパウロをその肉的関係において審判く者を非難している
註解: 私訳「かつて肉によりてキリストを知りしが今は最早斯く彼を知るにあらず」。かつてパウロの回心せざりし頃はキリストを普通の人間と考え、彼をその肉の方面より見ていた、故に彼をユダヤ教の敵と考え有限なる一人間として取扱いその弟子を迫害したのである。然るにキリスト我ら凡ての為に死に給い、また我らのために甦り給いし事を知れる今は最早肉によりて彼を知る事をせず、霊によりて彼を知り、彼は全く新しき人として我らの前に立ち給う
5章17節 (それ
口語訳 | だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 |
塚本訳 | だから、キリストと結びついている者は、新しい創造物である。古いものは消え失せて、いまここに、新しくなってしまっている! |
前田訳 | それゆえ、キリストにあるものは新しい創造です。古いものは過ぎ去り、今や新しいものができたのです。 |
新共同 | だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 |
NIV | Therefore, if anyone is in Christ, he is a new creation; the old has gone, the new has come! |
註解: キリストを肉によりて知らず、霊によりて彼を知り彼との霊交の中に生くる人は全く新たなる生命を有 っているのあって、新に神に創造せられし人である(引照及び、テト3:5。ヤコ1:18)故にその生活の目的も、その態度も、その思想もその観察点もこれ迄の自己中心にして肉的であったのが、一変してキリスト中心で霊的となり古きは失せて全く新しくなってしまっている。パウロ自身は殊にこの事を身を以って証明し、古きを全く除く事ができない反対者の非難を一蹴している▲基督者は神により新に創造された人間である。旧き人間の進歩、発達、改良されたものではなく、新しい生命がその中に創造されたのである。パウロはこの事実に対して驚きの目を見張っているのである。
5章18節 これらの
口語訳 | しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。 |
塚本訳 | しかしこれらすべてのことは神から(の恩恵)である。神はキリストによってわたし達(人類)を御自分と和睦させ、わたし達(使徒)にこの和睦の(福音を伝える)役目をお与えになった。 |
前田訳 | すべては神からで、神はキリストによってわれらを自らと和解させ、われに和解のつとめをお与えです。 |
新共同 | これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 |
NIV | All this is from God, who reconciled us to himself through Christ and gave us the ministry of reconciliation: |
註解: 凡てが新しくなったのは神の力、神の賜物であり神より出でしものであるエペ2:8−10。この神は、罪のために神に背き神に敵対していた我らをキリストの贖いによりて己と平和の状態に入らしめ、我らと神との間にキリストを立て給いて我らの罪をキリストの上に罰し給いし事によりて、我ら神の前に平和の心を以って立つ事ができる様になし給うた。これ全く新なる福音である。
辞解
[和らぎ] 罪のために不和、分離の状態に陥った神人の関係を、キリストの死による神の愛の為に、人の罪を赦して平和の状態に入る事を云う。ロマ3:25−28
かつ
註解: この福音を宣伝うる事によりて、神に反ける古き人を新しき人として神と和らがしむる使徒の職を我らに授け給うた。故にその言う処もまた自ら全く新であって人の目には心狂えるものの如くに見ゆるのである
5章19節
口語訳 | すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。 |
塚本訳 | すなわち神はキリスト(の死)において、この世を御自分と和睦させて、(世の)人々の過ちを彼らの勘定につけず、わたし達に和睦を告げる御言葉を賜わったのである。 |
前田訳 | キリストにあって世を自らと和解させた方は神です。神は人間たちの過ちを彼らに負わせず、和解のことばをわれらにおゆだねです。 |
新共同 | つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 |
NIV | that God was reconciling the world to himself in Christ, not counting men's sins against them. And he has committed to us the message of reconciliation. |
註解: キリストすでに世の罪を負いて十字架に釘 き給える以上、神はキリストの贖の故にただに我らのみならず、凡ての人との間の離反の関係を除き、凡ての罪を赦して世と神との間に平和を来し給うた(エペ2:14−17)。而して世の罪をばこれを世の罪として数えず、これをキリストに負わしめ給い、而してこのキリストによる神と人との平和の大事実をばそのまま隠し置き給わずに、その言を我らに委ねて我らをしてこれを宣伝えしめ給うた。職と言とを我らに与うる事によりて、資格と実力とを具備せしめ給うたのである
5章20節 されば
口語訳 | 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。 |
塚本訳 | だから、キリストの(この御業の)ためにわたし達は使者として働いている、神(御自身)がわたし達(の口)をもってお勧めになるのである。キリストの名によって願う、神と和睦せよ。 |
前田訳 | それで、キリストのためわれらは使者をつとめています。神がわれらによってお勧めのとおりにしているのです。キリストのためお願いしますが、神と和解してください。 |
新共同 | ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。 |
NIV | We are therefore Christ's ambassadors, as though God were making his appeal through us. We implore you on Christ's behalf: Be reconciled to God. |
註解: 「我らは和らがしむる言を委ねられしキリストの代理大使の如きものである。これ恰 も神がキリストの代りに我らによりて汝らを勧め給う如きものである」(Uコリ5:11参照)。その勧めの内容は次に述ぶる願である。
辞解
[キリストの使者] 原語「キリストに代る大使」
註解: キリストの完成し給える和らぎの御業を信仰によりて己のものとなし、これによりて神と和らがん事をパウロは使徒的謙遜と責任感とを以って、コリントの信徒に嘆願している。蓋し神がその愛を以って切に望み給う事柄は、人々が神と和らぐ事に外ならぬ、この神の切望を虚しくするものは人々の不信である、この不信を神は深く悲しみ給う、神と人との平和、これが神に取っても人に取っても最大の問題であり最も根本的の事柄である。これがキリストをこの世に送り給える御目的であった。神と和らがずして人類の企つる凡ての文化、科学、道徳、宗教は無意味である
5章21節 [
口語訳 | 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。 |
塚本訳 | 神は罪を知らなかった方をわたし達の身代りに(十字架につけて)罪に定められた。わたし達がこの方において神の義(をいただく者)となるためである。 |
前田訳 | 神は罪を知らない方をわれらのために罪になさいました。それはわれらが彼にあって神の義となるためです。 |
新共同 | 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。 |
NIV | God made him who had no sin to be sin for us, so that in him we might become the righteousness of God. |
註解: キリストの中には全く罪が無かったがために、自己の経験としては全く罪を知り給わなかった。これキリストの神の子に在し給う証拠の一つであり、且つ万人に代りて罪の贖を成就するに必要な条件であった。このイエスを神は我ら罪人の代りに「罪となし」、罪そのものとして取扱い十字架上に彼を罰し給うた。その目的は我ら罪人が信仰によりて「キリストに在る」時(ロマ8:1)、神は我らの凡ての罪を赦し給いて、我らに神の義を賜い(ロマ3:22)、かくして神との間の隔ての中垣が取り去られ、神との間に平和が成就せんが為であった(エペ2:14、15)。すなわち前節において神と和がん事をコリントの信徒に願った理由は、神がイエス・キリストを我らに賜い、彼を十字架上に釘 けたまいし目的が其処にあったからである。斯くの如く21節は20節の説明として挿入せられしものであって、この簡単なる一節の中にロマ3-4章の中心真理が包まれている故、その註解を参照する事が必要である。
要義 [新生命とその住むべき世界]パウロは見ゆる者を顧みずして見えざるものを顧み、幕屋なる地上の家すなわちその体は不死に呑まれん事を望み、また死して主と共に在らん事を望んでいた。それ故に彼の住んでいる世界は最早この世における肉の世界ではなく、キリストの十字架により、神と人との間の平和が恢復せられし霊の国であった。彼は凡ての人々をこの国より眺め、凡ての人をその立場より判断した。故に肉につける凡ての誇りはこの国においては無価値であり、肉につける凡ての恥はこの国において榮の中に呑まれていた。故に彼は肉によりてキリストをも人をも知るの必要なき事を力説し、凡ての人をこの神との和らぎの世界に引入れんとしたのである。これが凡ての実際問題の困難に打勝つ唯一の途であり、またこれによりてパウロを非難せる偽使徒らの凡ての誇りを一蹴する事ができた。