ヘブル書第4章
分類
1 教理の部 1:1 - 10:18
1-2 イスラエルの民との比較により不信仰を戒む 3:1 - 4:13
1-2-ハ 神の安息に入るべきこと 4:1 - 4:11
註解: 前章末尾16−19節を受けて、さらに進んでキリスト者がその安息に入ることの必要を1−11節に力説し、信仰の完成の必要を強調している。
4章1節
口語訳 | それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。 |
塚本訳 | だから、神の休みに入る約束は(今日もまだ)満たされていないのに、あなた達のうちだれかが、(それに)入ることができぬと考えることのないように、わたし達は注意を払おうではないか。 |
前田訳 | それゆえわれらはおそれます、神のいこいに入る約束がまだそのままなのに、あなた方のだれかがそれにおくれをとりはしないか、と。 |
新共同 | だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。 |
NIV | Therefore, since the promise of entering his rest still stands, let us be careful that none of you be found to have fallen short of it. |
註解: 信仰なき空虚なる心をもって、空しき安心を誇っているキリスト者ほど危険なものはない。彼らは苦難や試誘 に遭えば直ちにその不信仰を暴露する。それ故に「我ら懼 るべし」であってイスラエルの実例を見て懼 れ戦 くべきである。その故は神の安息に入るべき約束は未だイスラエルによりては完全に実現せられず(6−9節にこの点が説明せられている)、我らの時に至りてこれに入るべき約束として遺 っているのである。それにもかかわらずキリスト者の中にはこの約束に対する信仰を失って、安息に到達せざる状態に止まるものが有るであろう。ゆえに各 恐懼 すべきである。
辞解
本節の末尾は「・・・・・に達せずと思う者あらん」または「達せざるごとき者あらん」、また「・・・・・に達せずに見い出されるもの(すなわち達せざる状態に止るもの)あらん」(Z0)、また「・・・・・に達せずと審 かれるものあらん」と訳する説(I0)等がある。 dokê の意味の取り方に関連している難解の点である。予は第二説によりてこれを解した。改訳はこの文字を正確に訳出していない。
[▲▲恐らくは・・・あらん] 「万一にも汝らの中に、誰かが欠格者と思われることがないように」との意。
[▲懼 るべし] 「恐惶 謹慎しようではないか」の意。
4章2節 それは
口語訳 | というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。 |
塚本訳 | なぜなら、彼等(イスラエル人がエジプトの虐待から釈放される福音を聞かせられた)と同じように、わたし達も(罪の赦しの)福音を聞かせられたからである。ただ(モーセから)聞いた(神の)言葉が、聞く人たちに信仰で結びつかなかったため、(すこしも)彼らを益しなかった。 |
前田訳 | われらにも彼らにと同じく福音が伝えられています。しかし彼らには聞いたことばが役だちませんでした。そのことばが、聞いた人たちに信仰によって結ばれなかったからです。 |
新共同 | というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。 |
NIV | For we also have had the gospel preached to us, just as they did; but the message they heard was of no value to them, because those who heard did not combine it with faith. |
註解: カナンに入るならばそこには乳と蜜とが流れ(民13:27。出3:8)、また凡ての敵は我らの前に追い払われることの善き音信がイスラエルに与えられていた(民13:30。民14:9)、唯イスラエルは信仰をこれに交えなかったのでこの言は彼らを安息のカナンに入れることができなかった。そしてこのカナンの安息はキリスト者がサタンとこの世との戦いに勝ち聖霊に潤されキリストにありて平安なる霊の安息を得ることの型であって、キリスト者にはこの霊的安息の善き音信(すなわち福音)が伝えられている。この福音は神の言として与えられ、人々これを聞くことができた。もし信仰をもってこれに対するならばこの福音は我らに益を与えるであろう。神の言とこれに対する信仰は車の両輪のごとくにその一つを欠けば無益である。
辞解
[善き音信を傳ふ] 原語「福音を伝う」、この一節は原文難解で異本多く従って種々の読み方と意義とを生じているけれども重要ならざれば略す。
4章3節 われら
口語訳 | ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。 |
塚本訳 | というのは、信ずる者として、(今でも)“わたし達は休みに入(り得)る”からである。神が言われたとおり──“そこで、わたしは怒って誓った、「彼らは絶対にわたしの休みに入るべからず」と。”しかも“御業”は世の始から出来(上がっ)ていたのである。(そして神の休みはその時から始まっていた。) |
前田訳 | 信じるようになったわれらはいこいに入るのです。それは聖書に、「わたしが怒って彼らをわがいこいに入らせない、と誓ったように」とあるとおりです。しかもみわざは世のはじめから成就しました。 |
新共同 | 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。 |
NIV | Now we who have believed enter that rest, just as God has said, "So I declared on oath in my anger, `They shall never enter my rest.'" And yet his work has been finished since the creation of the world. |
註解: 安息に入るの約束は残っているけれども(1節)、信仰をもってこの約束の言に交えざる者はこの安息に入ることができない(2節)。唯我ら信じたる者は凡てこの今なお有効なる約束に与ることができるのである。
『われ
註解: 信じたる者が神の安息に入ることを得る所以は、神が不信なる者に対して怒りをもって安息に入ることを拒み給いし事実よりこれを証明することができる。しかも不信者に安息を拒み給いしは他の理由によるのではないことは神が世の創めよりその御業を完成して安息に入り給い、神の方には何らの手落ちなく唯イスラエルの不信より外に原因が有り得ないことよりこれを知ることができる。すなわちイスラエルを入らしむるべき神の安息がすでにできていたのに不信の故にこれを彼らに拒み給うた。最も恐るべきは不信である。ここでは神の安息、カナンの安息、新約の安息をみな同一のものとして取扱っている。
辞解
「されど」以下をば次節に関連させる説がある。
4章4節
口語訳 | すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、 |
塚本訳 | なぜなら、(聖書の)ある所で、(創造の)第七日について(神は)こう言われたからである、“そして神は第七日にその一切の御業を休まれた”と。 |
前田訳 | 聖書のあるところで七日目について、「神は七日目にすべてのみわざを休まれた」とあり、また |
新共同 | なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。 |
NIV | For somewhere he has spoken about the seventh day in these words: "And on the seventh day God rested from all his work." |
註解: 創2:2よりの引用で、我らに神の安息が残されていることを証明せんとしてまず第一に神が天地の創造を終って、その業を休み安息に入り給いし事実を挙げている。
4章5節 また
口語訳 | またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。 |
塚本訳 | (ところがイスラエル人がその休みをしりぞけたので、神は)またこの場所で、“彼らは絶対にわたしの休みに入るべからず”と(言われたのである)。 |
前田訳 | 上に挙げたところで、「彼らはわがいこいに入らせない」とあります。 |
新共同 | そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。 |
NIV | And again in the passage above he says, "They shall never enter my rest." |
口語訳 | そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、 |
塚本訳 | (神の休みはいたずらに残っているのではない。)だから、だれかここ“に入るべき”人たちが残されているはずであり、前に(この休みに入るべき)福音を聞かせられた人たちは、不従順のゆえに“入ら”なかったので、 |
前田訳 | さて、ある人々がそこに入る余地があり、初めに福音を伝えられた人たちが不従順のゆえに入りませんでしたので、 |
新共同 | そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、 |
NIV | It still remains that some will enter that rest, and those who formerly had the gospel preached to them did not go in, because of their disobedience. |
註解: 神においては安息が成就して人の来るのを待ち給うにもかかわらず「かれらは我が休みに入るべからず」と聖霊が言い給える以上、神に召されしイスラエル以外の者でこれに入る者があるはずである。
註解: ▲改訳「而してさきに善き音信を伝えられし者らは、不従順の故に入ることを得ざりき。」
4章7節
口語訳 | 神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。 |
塚本訳 | 神はまた“今日”という(一つの)日を定められる。(そしてモーセの時から)あんなに長い時がたってから、ダビデをもってこう言われる。前に言われているとおりである。──“今日、あなた達は御声を聞いたら、心を頑固にするな。” |
前田訳 | 神はさらにある日、すなわち「きょう」をお定めです。それは長い時がたってからダビデによっていわれました。すなわち、先に挙げたように、「きょうあなた方がみ声を聞いたなら、心を頑にするな」です。 |
新共同 | 再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、/「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。 |
NIV | Therefore God again set a certain day, calling it Today, when a long time later he spoke through David, as was said before: "Today, if you hear his voice, do not harden your hearts." |
註解: (▲改訳「また若干日の後ダビデによりて『今日』という日を定めて言い給う『今日もし汝ら・・・・・』」)なお神の安息に入るべき者が残っているにしても、それは誰かというに曩 にヘブ3:11に引用せるイスラエルではない。彼らは不従順のために入ることを得なかったからである。然らば果して誰であろうか、これ曩 に引用せる詩95:7の(ヘブ3:7)『今日』なる語がこの問題を解決する。この『今日』なる語は神が一定の日を定めて、数百年の後にダビデをして詩95:7において言わしめ給いし語であった。
註解: ヘブ3:7、8。すなわち詩95:7、8の引用を反復し「今日」という詞 の内容を再び示している。すなわちダビデの時代にその当時の人もなお神の声を聞くことができ、また不信仰に陥らない警戒をなすの必要があった。ゆえに問題はモーセの時に結着したのではなくなお安息が残っている証拠である。
4章8節
口語訳 | もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。 |
塚本訳 | (この今日というのは、もちろんダビデの時を指したものではない。モーセの死後、ヨシュアがイスラエル人をカナンの地に導いて休みを与えたが、神の休みとはこのことではない。)もしもヨシュアが(ほんとうに)彼らを休み(の場所)に導いたのであったら、(数百年たった)その後で、他の日のことを(ダビデをもって「今日云々」と)語られなかったはずである。(これは天にある安息を指すのである。) |
前田訳 | もしヨシュアが彼らを休ませたならば、その後に神は別の日についてお語りではなかったでしょう。 |
新共同 | もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。 |
NIV | For if Joshua had given them rest, God would not have spoken later about another day. |
口語訳 | こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。 |
塚本訳 | それだから、神の民[キリストを信ずる者]には安息が残っているのである。 |
前田訳 | それで、安息はなお神の民に残されています。 |
新共同 | それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。 |
NIV | There remains, then, a Sabbath-rest for the people of God; |
註解: モーセと共に荒野に旅せしイスラエルの丁年 以下の者はヨシュアと共にカナンに入ることができた。しかしながらこれは安息の型であって真の神の安息、霊的安息ではなかった。彼らはなお真の安息を求めて進むべきであった(ヨシ22:3-5)。それ故に神はその後ダビデにより他の日につきて語り給うたのである。それ故に神の民(霊のイスラエルすなわちキリスト者、ガラ6:16)のために安息はなお遺 っている。ユダヤ人もこの安息に入ることが必要であって、その以下の立場、すなわちユダヤ教の程度で満足しているべきではない。
辞解
9節の「安息」は sabbatismos なる文字を用い聖なる安息を意味せしめている。(その他の場合は本書簡においてはみな katapausis なる文字を用いている)この文字を用いし所以は次節によりてこれを知ることができる。
4章10節
口語訳 | なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。 |
塚本訳 | 現に、“神の休みに入った”者は、“神が”(七日目に)御自分の“御業を”休まれたように、その人もその“業を休んだ”からである。 |
前田訳 | 神のいこいに入るものは、神がみわざを休まれたように自らもわざを休んだのです。 |
新共同 | なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。 |
NIV | for anyone who enters God's rest also rests from his own work, just as God did from his. |
註解: 神の休みに入ることは何を意味するやをこの節に示している。すなわち神の安息に入った者は乳と蜜の流れる処、神の霊によりて豊かに潤される処に住んでいるのであって、律法の行為によりて神の前に義とせられんとする己の努力、己の業を休み、己なるものを全く無くして神に凡てをまかせ、神の休みに入り神の御導きに全身を托する。ゆえにこの安息は未来の国において初めて到達する安息ではなく現在においてすでにこれに入ることができる。神の安息は天地創造の労作を休み給うたのであって、霊的活動は永遠に続いている。
4章11節 されば
口語訳 | したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。 |
塚本訳 | だから、わたし達はその(神の)“休みに入るようにと”努めて、一人も同じ不従順の例にならって堕落しないようにしようではないか。 |
前田訳 | それでわれらはかのいこいに入るよう努め、だれもこのような不従順の例にならって堕落しないようにしましょう。 |
新共同 | だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。 |
NIV | Let us, therefore, make every effort to enter that rest, so that no one will fall by following their example of disobedience. |
註解: ヘブ3:6、ヘブ3:12−14等に既に述べし薦めを繰返し、ヘブ3:7以下に示せるイスラエルの不従順の例をもってこれを戒めている。すなわちキリスト者となって後も何時までも自己に捕われ、神に絶対の信頼を置かず、自己の行為によって義とせられんとし神の言に対する確信をもってせず、苦難、迫害、誘惑の来る度毎に動揺恒なきごとき不安の状態より逃れて、神の安息に入ることを努むべきである。この安息は努力なしにこれを得ることができない。肉の誘い、サタンの試み、敵の反対に打勝ちつつ神の言を確信して希望に向って進まなければならぬ。然らざればイスラエルと同じく不従順の罪に陥り荒野に死するより外なき状態となるであろう。
口語訳 | というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。 |
塚本訳 | というのは、神の言葉は生きていて、活動し、あらゆる諸刃の剣よりも鋭く、精神と霊魂と、関節と骨髄との境までも突きいって、心の考えと思いとを裁くからである。 |
前田訳 | 神のことばは生きており、力があっていかなる両刃の剣よりも鋭く、心と霊、関節と髄を分かつところまで貫き、心の考えと思いを見分けます。 |
新共同 | というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。 |
NIV | For the word of God is living and active. Sharper than any double-edged sword, it penetrates even to dividing soul and spirit, joints and marrow; it judges the thoughts and attitudes of the heart. |
註解: 1節の約束も、2節の善き音信もみな神の言として我らに伝えられた。今日の我らには神は聖霊によりて語り給うのみならず聖書として我らに与えられている。この神の言が我らの信仰の対象となりまた我らの信不信を験 す器となる。
註解: 神の言は生命あるが故に人の内に留りて人を活かすことができ、またこの言、その内に留らざるものは審かれる(ヨハ5:38。申32:47。使7:38。Tペテ1:23。ヨハ6:63、ヨハ6:68)。
註解: ゆえに我らの心を感動せしめ眠れる心を覚し、罪人をサタンの捕囚より呼戻し、信ぜざる者の罪を定めて滅亡に至らしむることができる。
註解: あたかも鋭き両刃の短剣が人間の身体を貫きその堅牢なる関節をも切り放し、その深處にある骨髄をも切開してこれを露出するがごとくに、神の言はそれよりも一層鋭き剣であって、人の魂のあらゆる複雑なる関係をもこれを切り離してその善悪を区別し、人の霊のあらゆる隠れたる部分をもこれを露出してその罪を示し、かくして人間の心の全部を暴露してこれを審判 かずば止まない。
辞解
[精神と霊魂] 「魂と霊」とも訳することができ、魂は人間の生命の原動力、霊は神に通ずる神秘的の働き。
註解: 「験 す」は「験査し審判する」意味を持つ kritikos であって、神の言によって我らの心中の企図や思想が審判され、その善悪良否が定められる。要するに神の言によりて人間の心の如何なる奥底も如何なる部分も審 かれ露 わされぬということはないこの両刃の剣は活殺自在の剣であって、罪を示してこれを悔改めしめ、罪に留まる者を審 きてこれを死に至らしめる。
4章13節 また
口語訳 | そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。 |
塚本訳 | かくて創造物は(何一つ)神の前にあらわれないものはない。(然り、)神の目には万物が裸で姿をあらわし、わたし達はこのお方に対して、勘定を払わねばならないのである。 |
前田訳 | ひとつとして、造られたものは神の前に隠れえず、すべて彼の目には裸であらわで、彼に対してわれらは責任があります。 |
新共同 | 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。 |
NIV | Nothing in all creation is hidden from God's sight. Everything is uncovered and laid bare before the eyes of him to whom we must give account. |
註解: 前節に神の言につき述べつつある場合に、著者の眼中に既に神の臨在を感じ、従って問題は自然に神の言より神に移って来たのである。そして神の前には啻 に我らの霊魂の内部まで割たれるのみではなく、凡ての被造物が例外なくその前に立たなければならず、かつ裸であってその如何なる部分も被い隠されず、赤裸々なる無力の姿にて現われる。従ってその被造物の一たる人間も、神に対しては絶対に自己を掩い隠すことができず、あらゆる無力も不信仰も虚偽もそのままに露出されるのである。
辞解
[我らが係 れる神] 「我らと交渉を持っている神」の意味で、我らの凡ての状態は神の前に責任があることを示す。
[露 るる] 原語 trachêlizein は難解の語で、普通相撲等において首を取って仰向けに倒し、顔も胸もみな人の前に露出する意味で、ここでもこれを転用して被造物は力ある神の前に倒され、全身を露わされ、その無力の状態を明らかにされることを意味するであろう(A1)難解の文字で異説多し。
要義 [3:1−4:13の要約]ヘブル書三、四章はその主要の目的は信仰の後退、死滅を警戒したのであって(3:6、12−13。4:1)、警戒を必要とする理由として彼らヘブル人らが神の選民であるにもかかわらずその不信仰の故に(3:15−17。4:2)荒野にて亡ぼされし実例を掲げ(3:7−11)、彼らすらその不信仰の故に(3:17。4:2)神の怒りを惹 き神の安息に入ることを得ないならば、神の家の僕たりしモーセにもまさりて、子として神の家に忠実に在し給いしイエスによりて選ばれしキリスト者も、もし不信仰に陥るならば同様に神の安息を失い荒野に死ぬに至るであろうことを示している(4:1)。そして詩篇の教える処より考えるならば(4:3、10−12)、神の安息は今日もなお(4:7)残っているのであって、我らは努力してこの休みに入らなければならない(4:11)。そしてこの休みは信仰の奥義であって我らの業を休みて神に絶対帰依の信頼をささぐることである(4:10)。神の言は我らの心中をくまなく切開してその中の不信仰を指示し、我らを裸にして彼の前に凡てを暴露し給う(4:12、13)。ゆえに我らの不信仰はついに神の前に隠れることができない。神の審判は我らの不信仰の上に降るであろう。
註解: 4:14−10:18において著者は大祭司としてのキリスト(ヘブ2:17。ヘブ3:1に既に示されし)につきてその諸相を論じており、
就中 ヘブ6:20において人なる大祭司としてのキリストを示し、彼に対する信仰をすすめている。ただしこれは神学的論争や聖書の解釈論を目的としたのではなく、みな信徒の実行をもってその目的としたのである。そしてまず第一に信仰を堅く保たんとする場合に我らの経験する弱さにつきキリストの憐憫と助けとを受けんがために、祈りをもって彼の恵みの御座に来るべきことを薦めている。
4章14節
口語訳 | さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。 |
塚本訳 | (話を本筋にもどしたい。)──それで、わたし達には、(この世の大祭司が聖所を通って至聖所に入るように、)もろもろの天を通(って天の至聖所に入)られた、(この)偉大なる大祭司、神の子イエスがあるのだから、わたし達の告白(する信仰)を固く守っていようではないか。 |
前田訳 | われらにはもろもろの天をお通りの大祭司である神の子イエスがいますので、われらの告白する信仰に堅く立ちましょう。 |
新共同 | さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。 |
NIV | Therefore, since we have a great high priest who has gone through the heavens, Jesus the Son of God, let us hold firmly to the faith we profess. |
註解: 私訳「さて我らは諸天を通り給いし偉大なる大祭司神の子イエスを有てば、我ら〔信仰の〕告白を確保すべし」。ここに「さて」と言いてヘブ3:7以下によりて中断せられし思想を再びヘブ3:1の大祭司の思想と結び付けている。そしてこの大祭司は「偉大なる」大祭司であって、レビ族の中より選ばれる大祭司に優り「諸天を通り」て神の右に坐し給うが故にエルサレムの聖所を通って至聖所に入る大祭司に優り給う。この大祭司は神の子イエスである。それ故に我らは再びユダヤ教的神殿の礼拝や形式的信仰に堕落することなく、我らの信仰の告白がユダヤ教の完成であり、最高の真理であることを知りて堅くこの信仰の(告白)を保持しなければならぬ。
辞解
[さて] (▲ oun が本文にあり訳文の中に欠けているがこれは「さて」、「されば」等と訳される語である。)普通「然れば」と訳される oun でここでは前節を受けるにあらず、また改訳本文およびデリッチの説のごとく本節後半に連関するにあらず、曩 に述べし処を顧みて新たにその思想を再述する場合として用いられたのである。ゆえに「さて」と訳することが適当であろう。
4章15節
口語訳 | この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 |
塚本訳 | なぜなら、わたし達の大祭司は、わたし達の弱さに同感することの出来ない(ような)方でないからである。むしろどの点からしてもわたし達と(全く)同様に誘惑された。ただし罪は犯されなかった。 |
前田訳 | 彼はわれらの弱さを共に悩みえない大祭司ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべてについてわれらと同じく試みられた方です。 |
新共同 | この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 |
NIV | For we do not have a high priest who is unable to sympathize with our weaknesses, but we have one who has been tempted in every way, just as we are--yet was without sin. |
註解: 信仰を確 く保たんとする場合に起る最も大なる障害は種々の試誘 試錬である。もしキリストが我らの弱さ(肉にも霊にも)を知りてこれに同情を垂れ給わないならば、キリストは唯厳格なる審判人として我らを恐れしむるに過ぎないであろう。もし然らば弱きを感ずる者はキリストを嫌い、かえって同じ人間なる大祭司を慕わしく感ずることであろう。然るに事実は然らず、人としてのキリストは凡てのことにおいて(肉的にも霊的にも)我らと全く同様に誘われ給い、完全にこの弱さを有ち給うた。唯我らと同じからざりし唯一の点はこの誘いによりて罪に陥り給わなかったことのみである。ゆえに信仰確保の妨害となるべきあらゆる試誘 試錬に際して、我ら弱きを感ずる時、キリストは我らの凡ての苦痛を知悉 してこれを憐み給う。そして憐みをもってこれに恵みを与え力付け給う。
辞解
[思ひ遣る] sympatheô = sympathize ヘブ5:2の「思い遣る」は他の語を使用している故これと区別するために「同情し」とする方が宜しからん。
[罪を外にして] 試みられても罪を犯すことなしに。
4章16節 この
口語訳 | だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。 |
塚本訳 | だからわたし達は安心して恩恵の御座に近づこう。そして(彼から)憐れみを受け、また時宜を得た助けとなる寵愛を得ようではないか。 |
前田訳 | それゆえわれらははばからず恵みのみ座に近づきましょう。そこであわれみを受け、時にかなった助けにあずかるよう恵みをいただきましょう。 |
新共同 | だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。 |
NIV | Let us then approach the throne of grace with confidence, so that we may receive mercy and find grace to help us in our time of need. |
註解: 信仰の生涯において試誘 のために己の弱きを覚える時、我らは神の憐憫とその助けとを得なければならない。然らざれば我らこの試みに負けて信仰より堕ちるに至るであろう。そしてこの憐憫と助けとを得るがために我らは如何に弱くとも大胆に躊躇せずに神の御座の前に来ることができる。その故は神の御座は審判の御座ではなく、イエス・キリストその右に坐し給い、我らの弱きを思いやって我らのために執成し、父より恩恵と機に合う助けとを受けてこれを我らに与え給うからである。ゆえに信仰を堅く保つことは要するに自己の力によるのではなく、大祭司なるキリストの恵みによること故、何人にとっても可能である。
要義 [誘われて罪を犯し給わざりしキリスト]キリストは凡てにおいて我らと同じく誘われ給うた。彼は性慾においても食慾においても名誉、財宝、権勢等の慾においてもみな我らと同じく誘われ給うた。否彼はこれらの凡てにおいて人類中の何人よりも強き力をもって誘われ給うた。(サタンは力あるものを強く誘うことは不動の事実であるから)このことを思う時我らの心は一層キリストに近きを感ずるのである。彼が罪なき唯一人の人に在し給いしことは、彼が木石のごとくに誘惑に対して無感覚であったからではない、彼は非常に強くこれを感じ給うたにもかかわらず彼が罪を犯し給わざりしことに彼の貴さがあるのである。
そして彼が罪を犯し給わざりしは彼に罪を犯す能わざりし特質の性質があったからではない。彼の意思は完全に神に服従し給いしが故に如何なる強き誘惑も彼の意思を動かすことができなかったのである。我らも信仰を堅く保たんとして努力する時、我らの弱きを覚えて失望せんとする。しかしながら我らは失望するの必要がない、キリスト御自身我らと同じく弱きを覚え給うた。唯我らはキリストを信じ、彼の中に居りキリスト我らの中に居り給う時、彼の意思をもって我が意思とすることによりて罪を犯さざるに至ることができる。かかる状態に至らんがために我ら恵みの御座に憚 らずに進まなければならない。
ヘブル書第5章
1-3-ロ 人としての大祭司 5:1 - 5:3
註解: 4:14以下において人としての大祭司キリストを示した。5:1−10においてさらに進んで詳細に説明を加えている。唯1−3節においてはレビ族より出づる人間としての大祭司につきてのみ述ぶることによりて反面に、大祭司キリストもこの性質を持ち給うことを示している。▲ユダヤ人に取っては大祭司の職責は人を神に執成す最も重大な職務であることを念頭において本章を読むべきである。
5章1節
口語訳 | 大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。 |
塚本訳 | なぜなら、(イエスという大祭司は一方ではアロン、他方ではメルキゼデクと同様で、完全である。元来)人の中から選ばれる(この世の)大祭司は皆、人に代って神に関すること(を司るため)、すなわち罪のために供物や犠牲を捧げるために、任命されるものである。 |
前田訳 | すべて大祭司は人々の間から選ばれて人々のために神へのことをする務めがあります。それは罪のために供え物といけにえをささげるためです。 |
新共同 | 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。 |
NIV | Every high priest is selected from among men and is appointed to represent them in matters related to God, to offer gifts and sacrifices for sins. |
註解: ここに人間としての大祭司の性質を列挙している。すなわち(1)人間以外の天使等をもってこれに任ぜず、人の中より採られること、そしてキリストもこの点において完全に人間に在し給う(ヘブ2:9)、(2)罪のために供物と犠牲とを神殿において神に献ぐる職務を有すること。そしてキリストは己を献げてこの職を全うし給うた(ヘブ7:27。ヘブ9:11−14、ヘブ9:26。ヘブ10:10−14、(3)人に代りて神に仕えること。キリストの為し給うことはみな万民の代理である。彼は万民の罪を負い(マタ20:28)、万民の代りに死に(Uコリ5:14、15。エペ5:25。ヘブ2:9)今また神の右に在して我らに代りて神の前に執成し給う、(4)神に仕うる任務を有すること。キリストは神の右に坐して今もなお神に仕え給う(ヘブ8:1、2。ヘブ10:11、12)。以上をもってキリストの完全なる大祭司に在し給うことを知る。
辞解
[供物 と犧牲 ] 「供物」dôra は主として動物以外の献物、「犠牲」thusia は主として動物性の献物について用いられるという説があるけれども(B1)必ずしもかかる明瞭なる区別はない(Z0、I0、E0)。
5章2節
口語訳 | 彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、 |
塚本訳 | 彼は自分自身も(人間で、彼が代って犠牲を捧げる人々と同様、人としての)弱さを身に帯びているので、無知の人々、また(罪に)迷う人々を思いやることが出来るのである。 |
前田訳 | 彼は自らも弱さに悩むので、無知な迷う人々にやさしくでき、 |
新共同 | 大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。 |
NIV | He is able to deal gently with those who are ignorant and are going astray, since he himself is subject to weakness. |
註解: 大祭司も人間であって、人間の弱さを具有していること故、その代表する人民の無知迷妄による罪に対して徒 に奮激に陥ることなく、また無感覚に止ることなく、優しき心をもってこれを忍び思いやることができる。
辞解
[無知] 「迷妄」の原因であって往々「罪」と同義に用いられ(I0)「ことさらに罪を犯す」(ヘブ10:26)以外の罪すなわち弱さと迷いのために犯せる罪を指すものと見るべきである(M0、Z0その他)。故意に犯せる罪は祭司の執成しの範囲外である(レビ4:2。レビ5:15。民15:22−31)。
[思ひ遣 る] metriopatheô はヘブ4:15のsympatheô と異なる。従って異なる訳を用うるを可とする。sympatheô は積極的の感情で相手方の情と同じ情をもって相手方を思うこと、metriopatheô は消極的の意味であって、相手方に対し適度の感情を有つこと、すなわち無感覚と奮激との中間を意味する。
5章3節
口語訳 | その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである。 |
塚本訳 | そしてこの弱さのゆえに、彼は民のためにするように、自分自身のためにも罪祭を捧げねばならない。 |
前田訳 | その弱さゆえに、民のためと同じく自らのためにも罪についてささげものをせねばなりません。 |
新共同 | また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。 |
NIV | This is why he has to offer sacrifices for his own sins, as well as for the sins of the people. |
註解: このことは当然のことであって律法に明らかに命ぜられている。レビ9:7。レビ16:6。この点が人なる大祭司とイエスの相違点であって、イエス自らには罪なく(ヘブ4:15)従って己のために犠牲を献ぐる必要がなかった(ヘブ7:27)。
5章4節
口語訳 | かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。 |
塚本訳 | また(大祭司は)、アロンもそうであったように、神に召されなければ、だれもこの名誉職を自分で取る者はない。 |
前田訳 | だれも自ら誉れを受けるものはなく、神に召されて受けます。アロンの場合のようにです。 |
新共同 | また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。 |
NIV | No one takes this honor upon himself; he must be called by God, just as Aaron was. |
註解: 大祭司たる第一の要件は1−3節に示されし「人たること」であり、第二の要件は本節以下に示される「神に召されること」である。アロンは神に召されて大祭司となった(召は、出29:4以下。レビ8:1以下。民3:10)。
5章5節
口語訳 | 同様に、キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言われたかたから、お受けになったのである。 |
塚本訳 | (これがこの世の大祭司である。神の大祭司)キリストもそのように、自分で大祭司職の光栄ある地位につかれたのではなく、彼にこう言われた者(、然り、神)が、されたのである。“あなたこそわたしの子、わたしが今日あなたを生んだ。” |
前田訳 | そのように、キリストも自ら大祭司になる誉れを得たのではなく、彼に、「なんじはわが子、きょうわたしはなんじを生んだ」といわれた方がお与えでした。 |
新共同 | 同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。 |
NIV | So Christ also did not take upon himself the glory of becoming a high priest. But God said to him, "You are my Son; today I have become your Father. " |
註解: 神はキリストの謙遜を喜び彼を崇めてこれに栄光を与え給う。ヨハ8:54(引照1)にキリスト自ら宣いし如く、彼は自ら自己の価値に誇りて己に大祭司の位置につくべき栄光を帰し給わず、かえって人として完全に謙遜に在し給うた。それ故に神は彼を崇めて大祭司となし給うたのである。単に「神」と言わずしてヘブ1:5におけるごとく詩2:7を引用せる所以は神はイエスを子と呼び給う時すでに彼を崇め給えることを示し、神が特にキリストを召して大祭司となし給えることの当然であることを明らかにせんがためである。
辞解
[これを立てたり] 原文になし。文法上は「これを崇めて大祭司となし給えり」を補充すべきである。
5章6節 また
口語訳 | また、ほかの箇所でこう言われている、「あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である」。 |
塚本訳 | また(詩篇の)ほかの所で言われるとおりである。──“あなたは永遠にメルキゼデクと同等の祭司である。”(彼はメルキゼデクと同じく永遠の大祭司で、ただ一代かぎりのアロンおよびその後継者とちがっている。) |
前田訳 | また別のところで神はいわれます、「なんじはメルキセデクに等しくとこしえに祭司である」と。 |
新共同 | また、神は他の個所で、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。 |
NIV | And he says in another place, "You are a priest forever, in the order of Melchizedek." |
註解: 詩110篇はメシヤの預言であってその4節をここに引用してエホバの誓いによりキリストは永遠に大祭司に在し給うことを示す。メルキゼデクは創14:18以下に記される神秘的人物で王にして祭司(すなわち大祭司)であった。キリストの大祭司たる資格はこのメルキゼデクの位に相応しているものである。(アロンとメルキゼデクとの対照は第七章に詳述されている)故にキリストは神の御旨によりて大祭司の職に就き給うたのである。▲口語訳のヘブ5:6、ヘブ5:10。ヘブ6:20。ヘブ7:11、ヘブ7:17に「メルキゼデクの位に等しき」を「メルキゼデクに等しい」と訳しているのは遺憾である。「位」 taxis はまた「組」とも訳され「序列」の意味あり。口語訳もルカ1:8では「組」と訳している。
5章7節 キリストは
口語訳 | キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。 |
塚本訳 | 彼はその(地上における)肉の日に、烈しい叫び声と涙とをもって、彼を死から救い得るお方に向かって祈りや嘆願を捧げ、その敬虔のゆえに聞きいれられた(方である)。 |
前田訳 | 彼は肉にいましたころ、大声と涙とで死から救いえたもう方に祈りと願いとをささげ、敬虔によって聞きとどけられました。 |
新共同 | キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 |
NIV | During the days of Jesus' life on earth, he offered up prayers and petitions with loud cries and tears to the one who could save him from death, and he was heard because of his reverent submission. |
註解: 人なるキリストが如何にして大祭司に任じられ給いしやをここに示している(7−10節)。すなわちキリスト肉体となりて我らの中に宿り給いし時、彼は非常なる苦難を嘗め給うた。そのまさに十字架の死を味わなければならなかった時、彼はゲツセマネの園において血の汗を流しつつ、大なる憂いと悲しみとをもて神に祈り求め給うた(マタ26:36以下等)。そしてその態度が神に対する敬虔なる畏れに満ちていたがために神はその祈りを聴きて彼を十字架に釘 け、そして彼を死より甦らしめ給うた。そは神は彼を死より救い得る御方に在し給うが故である。この恭敬の態度が神に召されるための要件であった。
辞解
[恭敬 ] eulabeia は死に対する恐怖(B1)ではなく神に対する畏敬の態度である。
5章8節
口語訳 | 彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、 |
塚本訳 | 彼は御子であるにもかかわらず、苦しみをうけて従順を学び、 |
前田訳 | 彼はみ子にいましながら、苦しみによって従順をお学びでした。 |
新共同 | キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 |
NIV | Although he was a son, he learned obedience from what he suffered |
註解: キリストは御子であって本来父なる神に対して従順に在し給うた(ルカ2:48。ヨハ5:19、ヨハ5:30。ヨハ8:28等)。唯その十字架の苦難はできることならばこれを避けんことを望み給うた。この切なる肉体的要求に逆らいて神の御旨に従い給へることによってキリストは完全なる従順を学び給うたのである。(ピリ2:6−8)、キリストにとりてさえ従順を学ぶに苦難が必要であったとすれば況んや我らにとってはなおさらである。
5章9節 かつ
口語訳 | そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、 |
塚本訳 | 完成されたので、(今度は彼が、)彼に従順であるすべての人に対して“永遠の救の”本源となり、 |
前田訳 | そして全きものにされて、すべて彼に従順なものに永遠のいのちの源とおなりでした。 |
新共同 | そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、 |
NIV | and, once made perfect, he became the source of eternal salvation for all who obey him |
5章10節
口語訳 | 神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである。 |
塚本訳 | 神から“メルキゼデクと同等の”大祭司と呼ばれたのである。 |
前田訳 | 彼は神によってメルキセデクに等しい大祭司と呼ばれたのです。 |
新共同 | 神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。 |
NIV | and was designated by God to be high priest in the order of Melchizedek. |
註解: キリストは8節のごとく苦難によって従順を学び給いその結果(ヘブ2:10)救い主としての完全なる資格を具えて復活昇天し、今神の右に坐し給いて全き救い主たる働きを為し給う。これみな彼の完全なる従順の結果であった。かくて凡てキリストに順 う者(「彼を信ずる者」と同義、ロマ1:5。ロマ10:16。ロマ16:26。Uテサ1:8)のために神の前に執成し給い、救いの出づる原、救いを造り出す原因となり給うた。そしてこの救いはキリストの永遠に在し給うと同じく永遠であり、キリストの「肉体に在ししとき」の短きがごときではない。神が詩110:4に彼をメルキゼデクに比較し給いしはこの故であった(メルキゼデクの性質につきては七章を見よ)。
辞解
[大祭司] 詩110:4およびこれを引用せる本章6節には祭司とありここにこれを大祭司と変更せるはキリストの祭司としての職能を一層適切に言い表さんがためであった。新約聖書の記者は何れも旧約聖書の文字の死せる墨守者ではない。
要義1 [聴かれる祈り]「その恭敬 によりて聴かれ給へり」親が子の願いを聴き容れる場合と同様に、神は唯大声を張上げて強請(せが)むごとき祈りを聴き給わない。また徒 に美辞麗句を羅列せる祈りをも聴き給わない。神の聴き給う祈りは「恭敬 き祈り」「畏敬の念に満てる祈り」である。
要義2 [大祭司たるキリストの完全]完全なる大祭司キリストを有するキリスト者は幸いである。キリストは完全に人に在し、神より任命せられ、そして苦難を経て全うせられ今神の右に坐し給う。キリストのこの謙遜と従順と栄光とが我らの救いの源となったのである。ゆえに我らの救いは確固不動である。
5章11節
口語訳 | このことについては、言いたいことがたくさんあるが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、それを説き明かすことはむずかしい。 |
塚本訳 | (イエスがメルキゼデクと同等の大祭司であるという)このことについては、言うべきことが沢山あるけれども、説明が(非常に)困難である、あなた達の耳が遠くなったので。 |
前田訳 | メルキセデクについてわれらは語るべきこと多く、またそれを解き明かすことは困難です。あなた方の耳が遠くなったからです。 |
新共同 | このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。 |
NIV | We have much to say about this, but it is hard to explain because you are slow to learn. |
註解: 本節より6:20までは重要なる教訓であって読者の信仰的理解力の少なきことを憂いてこれに注意を与え、そして7:1において再び大祭司の問題に立ち還ってその論を進めている。「之に就き」はメルキゼデクのごとき「大祭司たるキリストに就き」の意味。「鈍くなり」なる語の示すがごとく、彼らも始めは信仰に燃えて将来の大なる進歩を予想し得たのであった。
5章12節 なんじら
口語訳 | あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。 |
塚本訳 | というのは、(福音を聞いた)時間からすれば、(もはや当然人の)先生であるはずなのに、あなた達はもう一度だれかに神の言葉のいろはを教えられる必要がある。そして、堅い食べ物ではなく、乳を必要とする者となっている。 |
前田訳 | あなた方はとっくに教師におなりのはずなのに、ふたたびだれかが神のことばの初歩を教える必要があります。あなた方には堅い食物でなくて乳がいる始末です。 |
新共同 | 実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。 |
NIV | In fact, though by this time you ought to be teachers, you need someone to teach you the elementary truths of God's word all over again. You need milk, not solid food! |
註解: もし入信当初のごとき意気込みであったならばその後多年を経過せる今日(本書の認 められし年代より見て少なくとも三十余年は経過している)すでに教師ともなるべきはずであった。今日のキリスト者に対してもこの状況が適切に当てはまっている。
註解: 直訳「今また神の言の初の入門を人、汝に教える必要あり」。多年を経過してもなお神の言の「いろは」を教える必要があり、教師となるべき年輩に達してなお教師を必要とする信者は、悲しむべき状態にある者である。
辞解
[初歩] stoicheia tês archês は「初の小学」「初の要素」等と訳することができる(ガラ4:3、ガラ4:9。コロ2:8、コロ2:20)。
[神の言] この場合特にキリストによって語られし新約の福音を意味するものと見るべきである(ヘブ1:2。ヘブ2:3)。
註解: 何時までも信仰の嬰児の状態を継続するは悲しむべきことである。彼らは堅き食物を要する者となるべきであった。ここに乳とはヘブ6:1、2に示されるごとき信仰の第一原理を意味し(Tコリ3:2註参照)堅き食物とはヘブ7:1以下のごとき深き真理およびその以上の奥義を意味する。
5章13節 おほよそ
口語訳 | すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。 |
塚本訳 | なぜなら、乳を飲む者は皆、幼児であるため、信仰の言葉に慣れていない。 |
前田訳 | すべて乳を飲むものは幼子ですから義のことばがわかりません。 |
新共同 | 乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。 |
NIV | Anyone who lives on milk, being still an infant, is not acquainted with the teaching about righteousness. |
註解: ここに「義」というはキリストの福音を意味するものと解して大差はない(Uコリ3:9。Uコリ11:15。ロマ3:21)。あたかも嬰児が成人の言語を解し難いと同じく霊の嬰児は福音の奥義に習熟しない。
5章14節
口語訳 | しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。 |
塚本訳 | しかし堅い食べ物はただ成人(だけ)のもの、すなわち(自分のために)何が善で、何が悪であるかを見分けるため、長い実践によって鍛えられたかんをもつ人々(だけ)のものである。 |
前田訳 | 堅い食物は、善悪を見分けるよう感覚が習慣によって練られた成人者のものです。 |
新共同 | 固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。 |
NIV | But solid food is for the mature, who by constant use have trained themselves to distinguish good from evil. |
註解: (▲口語訳は適訳である。)私訳「されど堅き食物は善悪を弁別する機能を習熟によりて訓練せる成人の〔用うる〕ものなり」。我らは霊界のことに習熟し、堅き食物すなわち福音の奥義をも理解し得るに至らなければならぬ。霊界の人は自然界の人すなわち肉体とは異なり年月の長短によりて発育せず、官能を使用してこれに習熟し、これによりて訓練されることによりて発育する。それ故に、我らは常に祈り、思索し、実行し、神の言を学ぶことによりてこの智能を訓練しなければならない。「善悪」はこの場合道徳的善悪と見るよりもむしろ信仰の内容の善悪、およびその健全不健全等を指す(C2、A1、M0)。何時までも信仰の初歩に止っている者またはユダヤ教に逆戻りをなして福音を棄つる者はこの善悪を弁別せざる者である。
要義 [信仰のイロハに止るべからず]今日のキリスト教会に於て信徒がいつまでも信仰の乳を与えられるのみであることは、キリストを知らないからである。キリストを知ること深きに従って、ますます信仰の堅き食物を要求する様になり、従って信仰に於てますます発育して信仰の成人となるのである。キリストを単に一の偉人と見んとする今日のキリスト教会が信仰に於て永久に幼児の域を脱し得ないのは当然である。