黒崎幸吉著 註解新約聖書 Web版ヤコブ書

ヤコブ書第2章

分類
2 環境に対する義しき態度 1:2 - 2:13
2-6 人を(かたよ)り視るなかれ 2:1 - 2:13

2章1節 わが兄弟(きゃうだい)よ、榮光(えいくわう)(しゅ)なる(われ)らの(しゅ)イエス・キリストに(たい)する信仰(しんかう)(たも)たんには、(ひと)(かたよ)()るな。[引照]

口語訳わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。
塚本訳わが兄弟達よ、我らの栄光の主イエス・キリストの信仰をもつ者には偏頗があってはならぬ。
前田訳兄弟方、われらの栄光の主イエス・キリストへの信仰を人前次第になさらぬように。
新共同わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。
NIVMy brothers, as believers in our glorious Lord Jesus Christ, don't show favoritism.
註解: 私訳「わが兄弟よ、我らの主、栄光のイエス・キリストに対する信仰を持ちつつ人を(かたよ)り視る事勿れ」。人間的、この世的栄誉はキリストの栄光の前に寸毫(すんごう)の価値もない。ゆえに至上の栄光を持ち給う我らの主イエス・キリストに対する信仰と、貴賎貧富によりて人を(かたよ)り視ることとは両立し得ざる心持である。
辞解
「栄光の」なる二字が何れに連絡するかにつき諸説あり、イエス・キリストと同格と解す(私訳)。

2章2節 (きん)指輪(ゆびわ)をはめ華美(はなやか)なる(ころも)()たる(ひと)、なんぢらの會堂(くわいだう)()りきたり、また粗末(そまつ)なる(ころも)()たる(まづ)しき(もの)いり(きた)らんに、[引照]

口語訳たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。
塚本訳すなわち金の指輪をはめ、立派な着物を着た人が君達の会堂に入って来、また貧乏人も汚い着物で入って来た時、
前田訳あなた方の会堂に金の指輪をした立派な着物の人が入って来、粗末な着物の貧しい人も入って来たとします。
新共同あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。
NIVSuppose a man comes into your meeting wearing a gold ring and fine clothes, and a poor man in shabby clothes also comes in.

2章3節 (なんぢ)()その華美(はなやか)なる(ころも)()たる(ひと)(おも)んじ()て『なんぢ()()(ところ)()せよ』と()ひ、また(まづ)しき(もの)に『なんぢ彼處(かしこ)()つか、(また)はわが足下(あしもと)()せよ』と()はば、[引照]

口語訳その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、
塚本訳もし立派な着物を着た人に目をつけて、「貴方は此処のよい席におかけなさい」と言い、貧乏人には、「君はあそこに立つか、(ここで)私の足台の傍にお坐り」と言うならば、
前田訳あなた方が立派な着物を着た人に目をつけて、「あなたはどうぞこちらへおすわりください」といい、貧しい人に、「あなたはそこに立つか、わたしの足もとにすわるかなさい」というならば、
新共同その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、
NIVIf you show special attention to the man wearing fine clothes and say, "Here's a good seat for you," but say to the poor man, "You stand there" or "Sit on the floor by my feet,"
註解: かかる態度は今日のキリスト教会にも存在する。4節以下に明らかなるごとく最も非キリスト者的の心より生れて来る悲しむべき現象である。
辞解
[會堂] synagôgê = synagogue 本来ユダヤ教の会堂を指している文字であるけれども(マタ4:23 引照2)ここではユダヤ人のキリスト者の集会せる場所を指したのである。一般にその後は「教会」 ecclêsia なる名称を用いるに至った。
[華美なる] lampros は光り輝く意、ピカピカの衣。
[重んじ視] epiblepô 驚嘆と尊敬とをもって「見上ぐる」意味であって富者に対する誤れる考えの発露である。
[此の善き處に坐せよ] 原語の意味は「此處にお楽に坐りなさい」。
[足下に] 原語「足台の下に」で非常に軽蔑せる貌。

2章4節 (なんぢ)らの(うち)にて區別(わかち)をなし、また()しき(おもひ)をもてる審判(さばき)(ひと)となるに(あら)ずや。[引照]

口語訳あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。
塚本訳君達は自分勝手に差別待遇をする悪徳裁判人になったのではないか。
前田訳あなた方は自らの中で差別をし、悪い考えの裁き人になったのではありませんか。
新共同あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
NIVhave you not discriminated among yourselves and become judges with evil thoughts?
註解: 私訳「汝ら心中に隔てをなし」。2、3節のごとき態度は差別を立つべからざる人々に対して我らの心中に差別待遇をなし、また自ら「審判人」として人の価格に上下の判断を下し、しかも「悪しき思」をもて判断する審判人となったのである。この悪しき思いとは富者に(へつら)うことによりて利益を得んとする思い、または貧者を軽視して自らを高しとする誇りのごときものを指す。(注意)この一節は多種多様に訳される可能性がある。何となれば ou (diakrithête)は「非ずや」とも「非ず」とも読むことができ、かつ diakrithête は「区別する」「分離する」「矛盾する」「判断する」「疑う」等種々の意味を持っているからである。これらが種々組合わせられて多数の意味を生ずる(M0、A1参照)。

2章5節 わが(あい)する兄弟(きゃうだい)よ、()け、(かみ)()(まづ)しき(もの)(えら)びて信仰(しんかう)()ませ、(かみ)(あい)する(もの)約束(やくそく)(たま)ひし(くに)世繼(よつぎ)たらしめ(たま)ひしに(あら)ずや。[引照]

口語訳愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。
塚本訳聴け、愛するわが兄弟達よ、神はこの世の貧乏人を選んで信仰における金持ちとし、神を愛する者に約束し給うた御国の相続人となし給うたではないか。
前田訳お聞きなさい、愛する兄弟方。神はこの世で貧しいものを選んで信仰に富ませ、彼を愛する人々にお約束になった国の相続人になさったのではありませんか。
新共同わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
NIVListen, my dear brothers: Has not God chosen those who are poor in the eyes of the world to be rich in faith and to inherit the kingdom he promised those who love him?
註解: 神の取り給う態度とキリスト者の取る態度とは同一でなければならない。そして神は特に貧者にその愛を注ぎ、彼らを選び給うた。そして彼らを現在においてすでに信仰による富者となし(M0、C1)、種々の霊の賜物に富ましめ、また未来においては神の国の世嗣(ロマ8:17ガラ3:29ガラ4:7)としてその栄光に与らしめ給う(勿論信ぜざる貧者をもかくなし給うという意味ではない。また信ずる富者を除外し給うというのでもない。唯神は特に貧者にその愛憐を垂れ給うことを示す)。神の目には貧富の差別がなく、悩める者を一層憐み給う愛があるのみである。
辞解
[兄弟よ、聴け] 特に読者の注意を引いている。
[世の貧しき者] 「世の人の目より見て貧しき者」との意(E0、M0)と「世の事物について貧しき者」(A1)との意味あり、前者を採る。
[信仰に富ませ] 信仰そのものに富むとの意味よりも、むしろ信仰によりて霊的富者となることを意味する(C1、M0、A1)。
[神を愛する者] 「神を信ずる者」というに等しく信仰によりて救われ神と親子の関係に入りし者を意味する。

2章6節 (しか)るに(なんぢ)らは(まづ)しき(もの)(かろ)んじたり、[引照]

口語訳しかるに、あなたがたは貧しい人をはずかしめたのである。あなたがたをしいたげ、裁判所に引きずり込むのは、富んでいる者たちではないか。
塚本訳しかるに君達は貧乏人を軽蔑した。(しかし)金持ちどもこそ君達を抑えつけ、また裁判所に曳いて行くのではないか。
前田訳しかるにあなた方は貧しい人をはずかしめました。金持ちこそあなた方をいじめて法廷に引いて行くではありませんか。
新共同だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。
NIVBut you have insulted the poor. Is it not the rich who are exploiting you? Are they not the ones who are dragging you into court?
註解: 5節の神の御心に甚だしく相反する状態である。キリスト者の間にすらかかる事実があったことは悲しむべきことである。我らは常に神の御心のごとくに人に対しなければならない。

(なんぢ)らを(しへた)げ、また裁判所(さいばんしょ)()くものは、()める(もの)にあらずや。

註解: 多くの富者は何れの時代においてもその実力をもって弱者を圧迫することを権利のように考えてこれを実行する。そして神はかかる行為を憎み給う(詩72:4イザ11:4)。ヤコブはかくいいて富者に対する敵慨心を挑発せんとしたのではなく、貧者を軽んじ富者を(とうと)む理由が全く存在せざることを示したのである。

2章7節 (かれ)らは(なんぢ)らの(うへ)(とな)へらるる(たふと)()(けが)すものに(あら)ずや。[引照]

口語訳あなたがたに対して唱えられた尊い御名を汚すのは、実に彼らではないか。
塚本訳彼らこそ(洗礼の際)君達の上に称えられた(イエス・キリストの)高貴な御名を涜すのではないか。
前田訳彼らこそあなた方がそれによって名づけられる(キリストの)よいみ名を汚しているではありませんか。
新共同また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。
NIVAre they not the ones who are slandering the noble name of him to whom you belong?
註解: 信仰なき富者は(ただ)に前節のごとくキリスト者に対して罪深き行為をなすのみならずまたキリストの御名を冒涜する涜神罪を犯している。何れの時代でも富者は新しきものを嫌う保守的傾向を有するので、当時も新しき信仰なるキリスト教を忌みキリストの御名を冒涜せる者の中に富者が多かったのであろう。
辞解
[汝らの上に(とな)へられる] 旧約聖書において用いられる語法で人は何者かの名で呼ばれる場合にその名の所有なることを意味する。イスラエルはエホバの名をもて呼ばれた(申28:10エレ14:9エレ15:16アモ9:12創48:16イザ4:1)。
[尊き名] 原語「善き名」キリスト者は信仰によりて「キリストのもの」となる(Tコリ3:23)。
[汚す] blasphêmein 冒涜すること、言葉をもってする場合に用いられる。

2章8節 (なんぢ)()もし聖書(せいしょ)にある『おのれの(ごと)(なんぢ)(となり)(あい)すべし』との(たふと)律法(おきて)(まった)うせば、その()すところ()し。[引照]

口語訳しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。
塚本訳もちろん君達が聖書に従って、「“己の如く汝の隣人を愛せよ”」という王者律を全うするならば、それはよいことである。(だから君達が金持ちを愛するのは悪いことではない。)
前田訳もしあなた方が、「おのれのように隣びとを愛せよ」という聖書に従って至上の律法をお守りならば、立派な行ないです。
新共同もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。
NIVIf you really keep the royal law found in Scripture, "Love your neighbor as yourself," you are doing right.
註解: 富者は前述のごとく神と人とに対して罪深き者である。さればとてことさらに彼らを憎み、迫害し、放逐せよというのではない。我らが終始一貫して完全に守らなければならぬ最高の律法は聖書によるこの句である。すなわち貧富を問わず凡ての隣人を己のごとく愛することである。もしこれをすら完全に行っているのならば、全く申し分なき状態である。
辞解
[尊き律法] nomos basilikos は「王的律法」で律法中の王者ともいうべきものを指す。なおこれを「王者の律法」と解し、王なる神の定め給える律法の意味に取る説その他あれど採らず。

2章9節 されど()(ひと)(かたよ)()れば、これ(つみ)(おこな)ふなり。律法(おきて)、なんぢらを犯罪者(はんざいしゃ)(さだ)めん。[引照]

口語訳しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。
塚本訳ただもし偏頗なことをすれば、罪を犯すのであって、律法から犯人と定められる。
前田訳しかしもし人前次第になさるなら、あなた方は罪を犯しており、律法によって違反者としてとがめられます。
新共同しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。
NIVBut if you show favoritism, you sin and are convicted by the law as lawbreakers.
註解: 貧者を軽視し富者を重視することは前掲の愛の律法に反する行為であって、罪である。かかることを行う者は律法によってその違反者として判決される。
辞解
[罪を行う] hamartian ergazein は強き言い方で、平気でかかることを行っている者の反省を促す語気がある。
[律法] 全体の律法。

2章10節 (ひと)律法(おきて)全體(ぜんたい)(まも)るとも、その(ひと)つに(つまづ)かば(これ)すべてを(をか)すなり。[引照]

口語訳なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。
塚本訳律法全体を守っても(ただ)一点において失策る者は、全体を犯したことになるからである。
前田訳律法全体を守るものも、そのひとつに欠ければ、全体を犯すことになります。
新共同律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。
NIVFor whoever keeps the whole law and yet stumbles at just one point is guilty of breaking all of it.
註解: 律法は唯一の神の唯一の意思の発表である。ゆえにその一部に従い一部に従わないのは結局自己の利害や都合で神の御旨を取捨するのであって、神に従わずして自己に従い、律法の凡てを犯しているのである。ヤコブはここに無数の律法の逐条的遵守を重視したのではなく、全体としての神に対する態度を示したものと見るべきである(C1)。

2章11節 それ『姦淫(かんいん)する(なか)れ』と(のたま)ひし(もの)、また『(ころ)(なか)れ』と(のたま)ひたれば、なんぢ姦淫(かんいん)せずとも、()(ひと)(ころ)さば律法(おきて)(やぶ)(もの)となるなり、[引照]

口語訳たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。
塚本訳というのは、「“姦通するな”」と言い給うた御方がまた「“殺すな”」と言い給うたのであるから、たとい姦通せずとももし殺せば、律法(全体)の犯人となるのである。
前田訳「姦淫するな」と仰せの方は、「殺すな」とも仰せです。それで、姦淫しなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になります。
新共同「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。
NIVFor he who said, "Do not commit adultery," also said, "Do not murder." If you do not commit adultery but do commit murder, you have become a lawbreaker.
註解: 「凡ての律法を与え給いしものは唯一者である。従って一点において彼の意思に叛く者は全部に叛くものである」(B1)。
辞解
「姦淫」と「殺人」とをここに選べる理由につき種々の憶測あれど、ここでは十誡中対人の義務として揚げられし最初の二つを代表的に取ったのであろう(A1、M0)ルカ18:20ロマ13:9
[破る者] 9節「犯罪者」と同語。

2章12節 なんぢら自由(じいう)律法(おきて)によりて(さば)かれんとする(もの)のごとく(()く)(かた)り、かつ(()く)(おこな)ふべし。[引照]

口語訳だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。
塚本訳(だから死んだ文字でなく、霊の)自由の律法をもって審かるべき者らしく語りまた行動せよ。
前田訳あなた方は語りまた行なうこと、自由の律法によって裁かれるものらしくなさい。
新共同自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。
NIVSpeak and act as those who are going to be judged by the law that gives freedom,
註解: 10、11節において律法の一部の違反は全体の違反なることを示した。しかしながらキリスト者を(さば)く律法はモーセによりて与えられし儀文的律法ではなく、ヤコ1:25のごとくキリストの霊が心に宿ることによりて示される自由の律法、すなわち人を新たなる生命に甦らしめ、愛をもって自由にこれを行うことを得るごとき律法である。この律法によれば愛なき者(例えば人を(かたよ)り視るごとき)は当然(さば)かれる。故にかかる(さば)きに遭うも差支えなきように言語をも行動をも慎まなければならぬ。
辞解
原語「斯く」 houtôs を繰返して意を強めている。

2章13節 憐憫(あはれみ)(おこな)はぬ(もの)憐憫(あはれみ)なき審判(さばき)()けん、憐憫(あはれみ)審判(さばき)にむかひて()(ほこ)るなり。[引照]

口語訳あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。
塚本訳憐憫を行わぬ者には憐憫なき審判があるのである。憐憫は審判に向かって勝ち誇る。
前田訳その裁きは、あわれみをしなかったものにはあわれみなしです。あわれみは裁きに勝ち誇るものです。
新共同人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。
NIVbecause judgment without mercy will be shown to anyone who has not been merciful. Mercy triumphs over judgment!
註解: ヤコ1:27、および本章1節以下の結論で、愛は律法の完成(ロマ13:10)なるが故に憐憫(ここでは愛というに同じ)を行わざるもの、すなわち人を(かたよ)り視る者、または孤児寡婦に対して冷酷なるものはキリストの律法の違反者であり、神の厳格な審判を免れることができない。これに反し憐憫を行う者は神の審判を懼れず、審判に対して喜悦に充てる確信をもってこれに勝ち誇ることができる。「愛には懼れなし」(Tヨハ4:17、18)。
要義 [愛の発露]一見極めて律法的に見ゆる2:1−13の中にヤコブが如何に愛を高調せるかを見るならば、律法と愛との関係につきて未だ充分に神学的論争が行われざりし当時のヤコブの心中に、すでに旧約の律法と新約の律法との重大なる差異が意識せられていたのを見ることができる。そしてヤコブは愛なき場合の一例として人を(かたよ)り視ることの習慣を揚げて信徒の良心を反省せしめ、かくして彼らを愛に立帰らしめんとしたのである。ヤコブ書と聖書の他の部分とが矛盾するごとくに考えるは皮相の見である。

分類
3 義しき心と義しき行為 2:14 - 4:17
3-1 信仰と行為 2:14 - 2:26

註解: 16−26節においてヤコブは行為を伴う信仰と行為を伴わざる信仰(これをも彼は同じく信仰と呼んでいる点はパウロと異なっているけれども、今日といえども、事実上この二者は混同されていると同じく当時もこれが混同されて同一の名称の下に呼ばれていた。この二者を区別する必要がここにある)との区別を論じている。

2章14節 わが兄弟(きゃうだい)よ、(ひと)みづから信仰(しんかう)ありと()ひて、もし行爲(おこなひ)なくば(なに)(えき)かあらん、かかる信仰(しんかう)(かれ)(すく)()んや。[引照]

口語訳わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
塚本訳わが兄弟達よ、信仰を有っていると言う人があっても、もし行為がなければ何の役に立とう。(行為の伴わない)そんな信仰がその人を救い得る(と思う)か。
前田訳兄弟方、だれかが信仰を持つといって行ないを持たないならば何の役に立ちましょう。その信仰が彼を救いえますか。
新共同わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
NIVWhat good is it, my brothers, if a man claims to have faith but has no deeds? Can such faith save him?
註解: ヤコブが脳中に描ける人物は神の唯一なることを確信し(19節)その他の教理をも確保する正統的信仰の持主で、しかも愛なく冷淡残酷なるキリスト者である。かかる人は自ら信仰ありと信じかつこれを公言しているけれども、実は真の信仰にあらず、その証拠として行為がこれに伴わない。ゆえに彼らは結局亡ぶるより外にない。今日もかかる種類のいわゆる正統的信者は少なくない。
辞解
[言ひて] 言うのみにて自ら信仰ありと思わない人を指すのではなく、自ら信仰ありと信じかつ主張する人を指す。
[救ひ] 世の終末の審判の時に救われること。

2章15節 もし兄弟(きゃうだい)(あるひ)姉妹(しまい)裸體(はだか)にて日用(にちよう)食物(しょくもつ)(とぼ)しからんとき、[引照]

口語訳ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、
塚本訳(君達の)兄弟か姉妹が裸でいて、その日の食物に事欠いている時、
前田訳もし兄弟か姉妹が裸でいて、その日の食に事欠くとき、
新共同もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、
NIVSuppose a brother or sister is without clothes and daily food.

2章16節 (なんぢ)()のうち、(ある)(ひと)これに『(やす)らかにして()け、(あたた)かなれ、()くことを()よ』といひて(からだ)()くてならぬ(もの)(あた)へずば、(なに)(えき)かあらん。[引照]

口語訳あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。
塚本訳君達の誰かがこれに、「(では)“お大事に”、温かにして、満腹しなさい」と言って体に必要なものを与らなければ、何の役に立とう。
前田訳あなた方のだれかが彼らに、「安らかにいらっしゃい、暖まって満腹なさい」といって体に必要なものを何も与えないならば、何の役に立ちましょう。
新共同あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
NIVIf one of you says to him, "Go, I wish you well; keep warm and well fed," but does nothing about his physical needs, what good is it?
註解: 信仰を頭脳をもって理解するのみで、信仰が新しき生命の源泉とならない人は、その同信の兄弟姉妹(他人はなおさらのこと)の苦難を見ても愛心が起らず同情が湧かない。唯虚しき理論や説明をもって彼らを満足せしめんとするに過ぎない。かかる信仰は何らの益がない。この例および以下の言葉により明らかなるごとくヤコブのいわゆる行為は律法を逐条的に遵守することではなく、愛の行為または信仰の行為を意味している。

2章17節 ()くのごとく信仰(しんかう)もし行爲(おこなひ)なくば、(夫自身(それじしん))()にたる(もの)なり。[引照]

口語訳信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。
塚本訳同じように信仰にも行為が(伴わ)なければ、それは実質において死んだものである。
前田訳信仰も同様で、行ないを持たねば、それだけでは死んだものです。
新共同信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
NIVIn the same way, faith by itself, if it is not accompanied by action, is dead.
註解: 信仰に活ける信仰と死にたる信仰とがある。活ける信仰はキリストによりて贖われしものの受けし霊の新生命であって、かかる信仰は必ず行為を伴う。反対に頭脳をもってする理解、または承認に過ぎない信仰は行為を生むことができない。すなわちそれ自身に生命なき死にたる信仰である。
辞解
[夫(それ)自身] kath’ heautên は原文にあって日本語にこれを欠くは遺憾である。これ必要なる語であって、行いなき信仰は行為をこれに附加しても生き返ることができない。それ自身において死んでいるものであることを示す。

2章18節 (ひと)もまた()はん『なんぢ信仰(しんかう)あり、われ行爲(おこなひ)あり、(なんぢ)行爲(おこなひ)なき信仰(しんかう)(われ)(しめ)せ、(われ)わが行爲(おこなひ)によりて信仰(しんかう)(なんぢ)(しめ)さん』と。[引照]

口語訳しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。
塚本訳しかし(また、)「この人には信仰があり、かの人には行為がある。(何も信仰に行為が伴う必要はないではないか」)と言う人があるかも知れない。(よろしい)行為の無い君の信仰を私に見せてくれ。そうすれば私も私の行為によって信仰を見せてやろう!
前田訳しかしだれかがいうでしょう、「あなたは信仰を持ち、わたしは行ないを持っています、あなたの行ないなしの信仰をお見せなさい、そうすればわたしは行ないによって信仰をお見せしましょう」と。
新共同しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
NIVBut someone will say, "You have faith; I have deeds." Show me your faith without deeds, and I will show you my faith by what I do.
註解: 14節の「人信仰ありと言ひて」に対照し、他の一人を仮定してこれを反駁(はんばく)せるもの。すなわち汝の信仰は行為なき信仰であり、我が行為は信仰から生れる行為である。ゆえに汝は信仰ありといいて行為なく、我は行為ありといいて同時に信仰がある。何となれば我が行為は信仰から必然に生れるからである。ヤコブはかく言っていわゆる道徳家には必ず信仰があることを主張するのではない。彼の「行為」なる語そのものの中に「信仰より生れる行為」としての意味が含まれているのである。
辞解
[人もまた言はん] 直訳「されど人或は言わん」「されど人は反駁(はんばく)して言わん」等の意(Tコリ15:35)。これを17節に対する反駁(はんばく)と解せんとして種々の困難を生じ多くの異説を生んでいる。14節の「人」に対する反駁(はんばく)と見てこの困難は除かれる(B1)。

2章19節 なんぢ(かみ)唯一(ゆゐいつ)なりと(しん)ずるか、かく(しん)ずるは()し、惡鬼(あくき)(また)(しん)じて(わなな)けり。[引照]

口語訳あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。
塚本訳君は神は唯一であると信ずるか。それはよいことである。(しかしその信仰だけでは足りない。)鬼ですら(それを)信じて慄くのである。
前田訳あなたは神がひとりにいますとお信じですか。それはいいことです。悪霊どももそう信じてふるえています。
新共同あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。
NIVYou believe that there is one God. Good! Even the demons believe that--and shudder.
註解: 「神は唯一なりと信ずる」ことと「唯一の神を信ずる」こととは全く異なる。前者は知識または理解であり後者は活ける信仰である。前者は必ずしも悪くない。ゆえにヤコブは「斯く信ずるは善し」と言っている。しかしかかる知識や理解ならば悪魔すらこれを有ち、従って悪魔はかかる信仰のために戦慄する。何となれば悪魔は唯一の神こそ打勝ち得ざる敵であることをさとるが故である。ゆえにかかる信仰を有つだけではその人が救われることの理由とはならない。悪魔が救われないと同じである。
辞解
[斯く信ずるは善し] 幾分皮肉な語気があると解する学者が多くある(C1、M0)けれどもその必要がない(E0、A1)。
[神は唯一なりと信ず] ユダヤ人の第一の基礎信条であった(申6:4−9すなわちシェマー参照)。
[(わなな)けり] phrissô は頭髪が逆立つほどの恐怖をいう。最も強き語。
「悪鬼も亦信じ」故にこの種の信仰がパウロのいわゆる信ずる者を義とする信仰と異なることは明らかである。

2章20節 ああ(むな)しき(ひと)よ、なんぢ行爲(おこなひ)なき信仰(しんかう)徒然(いたづら)なるを()らんと(ほっ)するか。[引照]

口語訳ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。
塚本訳ああ間の抜けた人よ、君は行為のない信仰の駄目なことが知りたいのか。
前田訳しかし、愚かな人よ、行ないなしの信仰がむなしいことを知りたいのですか。
新共同ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
NIVYou foolish man, do you want evidence that faith without deeds is useless ?
註解: かかる人々は自己の信仰の「徒然(いたずら)なる」こと、すなわち何らの役に立たぬことを知らずにいる「虚しき」内容なき人々である。ヤコブはかかる人に向ってこの質問を発し、彼らの心付かざりし点を知りたくはないか、知りたければ知らせようと挑戦しているのである。
辞解
[虚しき] kenos は内容なく空虚なること、霊的に貧弱なることにも用いられる。
[徒然(いたづら)] argos は「怠惰」「不活動」すなわち働けば役立ち得べきものが役立ち得ざる状態にあること、資本が寝ている等の場合にもこの語を用う。

2章21節 (われ)らの(ちち)アブラハムはその()イサクを祭壇(さいだん)(ささ)げしとき、行爲(おこなひ)によりて()とせられたるに(あら)ずや。[引照]

口語訳わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。
塚本訳(一体)我らの父”アブラハムはその子イサクを祭壇に献げた”時、(献げるという)行為によって義とされたではないか。
前田訳われらの父アブラハムはその子イサクを祭壇にささげて、その行ないによって義とされました。
新共同神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。
NIVWas not our ancestor Abraham considered righteous for what he did when he offered his son Isaac on the altar?
註解: 創22章殊にその12、16節参照。神はアブラハムの信仰の有無を試み給い(創22:1)、彼のイサクを献げし行為を見てこれをアブラハムの信仰の証拠と認めこれを喜び(創26:5)この行為によりて彼を義なる者と宣言し給うた。(注意)ロマ4:1以下にパウロは同じアブラハムの例を示し、彼が行為によりて義とせられしにあらず信仰によれることを論じており、一見この一節(14−26節全体とも)と矛盾するが故に、これを避けんとして種々の解釈が試みられているけれども、その実何らの矛盾もない。何となればヤコブの行為は信仰を前提としこれより出づる行為を意味しており、いわゆる律法の行為ではないことはイサクを殺すことは「殺すなかれ」の律法に反し、25節の例は虚言の例であるのを見ても明らかであり、反対にパウロのいわゆる行為は律法の行為(ロマ2:15ロマ3:20ロマ3:28ガラ2:16ガラ3:2ガラ3:5ガラ3:10)を意味しているからである。そして神はパウロの言えるごとくアブラハムの信仰を見て彼を義と認め給うのみならず(創15:6)(ヤコブもこのことを否定しない。23節)また彼の信仰の結果たる行為を見て一層彼の義たることを確認し、これに約束を与え給うたのである。人はまず信仰によって義と認められて(義を彼に帰せられて imputatio)ついに行為によりて義たるものと確証せられる。活ける信仰は必ずその果を結ぶ。

2章22節 なんぢ()るべし、その信仰(しんかう)行爲(おこなひ)(とも)にはたらき、行爲(おこなひ)によりて(その信仰(しんこう))(まった)うせられたるを。[引照]

口語訳あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、
塚本訳君に判るように、信仰が彼の行為と共に働き、行為によって信仰が全うされたのである。
前田訳ごらんのように信仰が彼の行ないとともに働き、行ないによって信仰が全うされます。
新共同アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。
NIVYou see that his faith and his actions were working together, and his faith was made complete by what he did.
註解: 信仰は神に対して心の(うち)に働き、信仰より出づる行為は心から外に働きかける。真の信仰は必ずこの両者を具備する。ただし未だ行為となって外に表われざる信仰が(これと行為に表われ得ざる死ぬる信仰(17節)とは天地の差あり、この差異に注意することを要す)信仰の本質として不完全であるというのではない。(人はこの信仰のみによりて義を帰さられる。ロマ3:28)しかしながらこの信仰がその働きを示し行為となることによりてその目的 telos を達せることとなり、(すなわち「全うせられ」 teleioô )、本質と活動とを具備せる意味の完全なるものとなっている。かく言いてヤコブは行為となりて表われ得ざる死ぬる信仰を持ちつつ、真の信仰ありと主張せんとする者の誤謬を戒めている。▲聖書の文字を神として崇拝し、活ける神を心に宿さないような信仰(例えばいわゆるfundamentalistの信仰のごとき)は文字を神とする誤った信仰である。

2章23節 またアブラハム(かみ)(しん)じ、その信仰(しんかう)()(みと)められたりと()へる聖書(せいしょ)成就(じゃうじゅ)し、かつ(かれ)(かみ)(とも)(とな)へられたり。[引照]

口語訳こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。
塚本訳そして(その時、)「“アブラハム神を信じ”、(その信仰を彼の)“義と認められたり”」、また「彼は“神の友”と称えられたり」という聖書が成就したのである。
前田訳そして「アブラハムは神を信じ、それによって義と認められた」という聖書は成就し、彼は神の友と呼ばれました。
新共同「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
NIVAnd the scripture was fulfilled that says, "Abraham believed God, and it was credited to him as righteousness," and he was called God's friend.
註解: ヤコブはここに「義と認められること」と「義とされること」との程度を区別し、前者は未だ行為に表われざる信仰を義と認め、これに義を帰すること、後者は実際義なりと宣告せられ審判を免れることであって、前者が成就して後者となることあたかも預言または約束が成就すると同じであると解しているのである(M0)。アブラハムは後に神の友と呼ばれるに至ったのは(イザ41:8)、神に義とせられしが故である。
辞解
[認め] logizomai は「帰する」「何々と数うる」等の意味である。

2章24節 かく(ひと)()とせらるるは、ただ信仰(しんかう)のみに()らずして行爲(おこなひ)()ることは、(なんぢ)らの()(ところ)なり。[引照]

口語訳これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。
塚本訳(だから)人は行為によって義とされるので、信仰だけで(義とされるので)はないことが、君達に解るであろう。
前田訳人が義とされるのは信仰だけによるのでなくて行ないによることがおわかりでしょう。
新共同これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
NIVYou see that a person is justified by what he does and not by faith alone.
註解: 信仰のみにして行為を生み得ざる信仰は信仰ではない。かかる信仰によりては義とせられない。しかしながら人は真の信仰とこれより出でし行為によりて義とせられる。かく言いて「聖書はここにいわゆる福音を担ぎ回る一つ目入道(エラスムスはかく彼らおよびルーテルの堕落せる弟子たちを名付けた)の誤謬を予見してこれを摘出している。彼らはその旗印に信仰のみ(パウロの意味と異なる処の)を持ち、行為はこれを欠いている連中である」(B0)。ここにヤコブは信仰により人が義と認められることを否定したのではない(14節)、また律法の行為によりて義とされることを唱えたのでもない。

2章25節 また遊女(あそびめ)ラハブも使者(つかひ)()け、これを(ほか)(みち)より()らせたるとき、行爲(おこなひ)によりて()とせられたるに(あら)ずや。[引照]

口語訳同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。
塚本訳同様に遊女ラハブも使いの人達を迎え入れて他の道から逃がした時、(その殊勝な)行為によって義とされたではないか。
前田訳遊女ラハブも同様で、使いたちを迎えて別の道へ送り出したという行ないによって義とされたのではありませんか。
新共同同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
NIVIn the same way, was not even Rahab the prostitute considered righteous for what she did when she gave lodging to the spies and sent them off in a different direction?
註解: 最も偉大なるアブラハム(21節)の例に加うるにさらにその反対に最も賎しき異邦人なるこの遊女ラハブの例をもってしている(ヨシ2章乃至(ないし)6章参照)。これ行為なしに義とせられざる真理が如何なる場合にも如何なる人にも真理であることを示さんがためである。ラハブは遊女であり、またこの行為はある意味において同国人を売った行為であった。すなわち凡ての点より見てこれを律法の行為ということができない。然るにこれはエホバの神を信じたる信仰の行為であった(ヘブ11:31)。それ故にこの行為によりて義とせられ、死を免れたのである(ヨシ6:24)。ヤコブのいわゆる「行為」が如何なる行為を意味するかは本節より一層明らかである。▲▲「信仰のみ」の教理が往々行為を無視する偽の信仰に陥る危険がある事実を考えるならばヤコブのこの提言は貴重な提言である。
辞解
[去らせ] ekballein 無理に押し出すこと。

2章26節 (そは)靈魂(たましひ)なき(からだ)()にたる(もの)なるが(ごと)く、行爲(おこなひ)なき信仰(しんかう)()にたるもの(なれば)なり。[引照]

口語訳霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。
塚本訳霊魂の無い体が死んでいるように、行為の無い信仰も死んでいる。
前田訳霊なしの体が死んだものであると同じく、行ないなしの信仰も死んだものです。
新共同魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
NIVAs the body without the spirit is dead, so faith without deeds is dead.
註解: 人体が生きているということはその中に霊魂があって働いているということである。同様に信仰が活きているということは行為がこれに伴うということである。この比較すなわち信仰は体、行為は霊魂に対照せられていることは一見拙なるごとくに見える。しかしヤコブはこの一々を対照したのではなく二者合して始めて生命があり、二者相伴わざれば生命なき点を比較したのである。
要義1 [ヤコブとパウロ]14−26節は一見パウロの説(殊にロマ3:21−4:25)を故意に反駁(はんばく)しているかのごとき語句が多い。すなわちパウロは信仰によって義とされることを強調するのに反し、ヤコブは信仰のみにあらず行為によって義とされることを唱え、またパウロはアブラハムの例をもって彼が信仰によって義とせられ、律法の行為によらざることを唱うるに反し、ヤコブは同じアブラハムの例をもって彼が行為によって義とせられしことを説くがごときこれである。それ故に学者によってはヤコブはパウロの書簡を知りこれを反駁(はんばく)せんために本書を(したた)めしことを唱うるものがあるけれども、これは誤りであるのみならず註にも記せるごとく、注意してヤコブ書を読む者はこの両者の間に何らの矛盾なきことを見出すであろう。すなわち(1)ヤコブの場合においては信仰なる語の中に二種の異なれるものを包含しているのであって(今日も普通かく用いられている)、その一は知識的信仰、信条の承認のごとく、頭脳の問題で心が直接に神との霊交に入らざるもの、即ち行為を生まざる信仰であり(14、19)、その二は聖霊によって新生し神およびキリストとの霊交に在る信仰であってこれは行為を生むのである(23、24)。パウロが信仰という場合は常に後者のみを指している。(2)ヤコブが「行為」という場合には常に信仰より流れ出づる行為を言い(15、16、18、21、22、25)、パウロは同じ語をもって「律法の行為」すなわち信仰なしに唯律法を器械的に遵守する行為を指している。(3)パウロは罪人が「義と認められる」ことに重点を置き、ヤコブはキリスト者が「義と宣言される」こと、すなわち審判を免れることに重きを置いている。かく解してパウロとヤコブの矛盾は消失する。ただしかく言うは二者が矛盾しないという意味であって全く同一であるというのではない。パウロとヤコブとの間に信仰の傾向、色彩の差異があったことは事実であり、またこれは重要なる事柄である。神の器には一致があるが単調ではない。▲信仰の性格は人の顔面の異なるように人によって異なって差支えない。否これが事実である。唯神を信じ神に従う点にのみ一致がある。
要義2 [信仰と行為]信仰は必ず行為と共に働く性質を持っている。行為に顕われ得ざる信仰は死せる信仰であって、神の前に人を義とする力はない。そして人の神の前に義とされるがためにはこの死せる信仰に律法の行為(すなわち信仰と関係なき道徳的行為)を附加するだけでは駄目である。すなわち信仰と行為は二つの別物が並存している関係であってはならない。同一物の本質と作用、本体と活動の差別でなければならない。これを本体の方面より見てパウロは信仰と言い、これを活動の方面より見てヤコブはこれを行為と言った。「信仰によって義とされる」パウロの教えを誤認して人は死せる信仰に陥り、「行為によって義とされる」ヤコブの教えを確信して人は律法主義者となり信仰を失い恩恵より離れる。何れも戒慎しなければならぬ。▲聖書にこの両方面が保存されたことは真に神の御旨であったと思う。ルターがヤコブ書を藁の書簡と呼んだことも、歴史的には意義があったにしても一方への行き過ぎである。

ヤコブ書第3章
3-2 舌を制すべし 3:1 - 3:12

3章1節 わが兄弟(きゃうだい)よ、なんぢら(おほ)教師(けうし)となるな。[教師(けうし)たる](われ)らの(さら)(きび)しき審判(さばき)()くることを、(なんぢ)()ればなり。[引照]

口語訳わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。
塚本訳兄弟達、あまりに多く教師になるな。君達が知っているように、私達教師は(人一倍)厳しい審判を(神から)受けるのに、
前田訳兄弟方、おおぜいが教師におなりでないように。ご存じのように、われら教師はより大きな裁きを受けるでしょう。
新共同わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。
NIVNot many of you should presume to be teachers, my brothers, because you know that we who teach will be judged more strictly.
註解: 1−12節はヤコ1:19ヤコ1:26の敷衍で、「語ることを遅くす」べきことを教えている。愛心の乏しきもの、行為を伴わざる信仰を有つものの中に殊に論議に長ぜるもの多きことは有りがちな事実であって、巧言令色鮮矣仁(こうげんれいしょくすくなしじん)なる言は甚だ適切であること古今東西を論じない。「教師」とは必ずしもこれを職とする有資格の先生またはラビのみをいうのではない。当時のユダヤ人の集会の習慣により誰にても自由にその所感を述ぶることができた(マタ12:8以下、マタ13:54マコ1:39ルカ6:14以下。ヨハ18:20等)。そのようにし当時のキリスト教会には殊に自称先生がむやみに多く輩出したのであろう。ヤコブはかかる態度を取るものの多からざらんことを望んだ。その故は重大なる役目を演ずる者は、神は一層厳格にこれを審判(さば)き給うが故である(マタ23:13マコ12:40ルカ20:47)。ゆえに速やかに為すべきことは愛の行為であって、教師となることは慎重なる注意を要する。
辞解
[我ら] ヤコブは己をも教師の中に入れている。

3章2節 (われ)らは(みな)しばしば(つまづ)(もの)なり、(ひと)もし(ことば)蹉跌(つまづき)なくば、これ(まった)(ひと)にして全身(ぜんしん)(くつわ)()()るなり。[引照]

口語訳わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。
塚本訳皆しばしば失策をするからである。もし言において失策をしない者があるなら、それは全身にも轡をつけることの出来る完全な人である。
前田訳われらは皆多くのまちがいをします。もしことばでまちがわなければ、それは全身を制御しうる完全な人です。
新共同わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。
NIVWe all stumble in many ways. If anyone is never at fault in what he says, he is a perfect man, able to keep his whole body in check.
註解: 前節の理由を示す。すなわち人間は凡て弱く躓き易きものである。殊に最も躓き易きは教師にとって唯一の道具たる口である。もし我ら注意して厳格に自己の言を吟味するならば不慮の中に多くの躓きを為しつつあることを発見するであろう。教師となることの恐るべき所以はここにある。従ってもしこの至難なる点において躓かざる者、すなわち完全に口を制御し得る者は全身を制御し人間の凡ての慾望や感情を制し得る完全なる人というべきである。
辞解
[我ら] 使徒自身もこの中にあり。
[皆] hapantes は pantesより強き意味。
[躓く、蹉跌(つまづき)] 原語同一。
[全身] 種々の慾望や感情の総体として人間の体を指している。

3章3節 われら(うま)(おのれ)(したが)はせんために(くつわ)をその(くち)()くときは、その全身(ぜんしん)(まは)()るなり。[引照]

口語訳馬を御するために、その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる。
塚本訳もし馬を従わせるために口に轡を嵌めれば、その全身を御することが出来る。
前田訳馬を従わせるために口にくつわをつけるならば、われらはその全身をも引き回せます。
新共同馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。
NIVWhen we put bits into the mouths of horses to make them obey us, we can turn the whole animal.
註解: (くつわ)を口に置きて馬の全身を制し得るごとく、人はその舌を制御することによりて全身を支配することができる。この断定は一見過言のごとくであって実は深き真理を含んでいる。

3章4節 また(ふね)()よ、その(かたち)(おほき)く、かつ(はげ)しき(かぜ)()はるるとも、(いと)(ちひさ)(かぢ)にて舵人(かぢとり)(ほっ)するままに(まは)すなり。[引照]

口語訳また船を見るがよい。船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。
塚本訳また船を見よ。あんなに大きくありながら、また激しい風に追われていても、極小さな舵で、舵手の心のはずみでその欲する処に動かされる。
前田訳また、舟をごらんなさい。形が大きく、強い風に押されていても、ごく小さな舵で舵とりの思うところに導かれます。
新共同また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。
NIVOr take ships as an example. Although they are so large and are driven by strong winds, they are steered by a very small rudder wherever the pilot wants to go.

3章5節 ()くのごとく(した)もまた(ちひさ)きものなれど、その(ほこ)るところ(おほい)なり。[引照]

口語訳それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。
塚本訳このように舌も(体の)小さな肢ではあるが、大きなこと(が出来るの)を威張るのである。見よ、あんな小さな火があんな大きな林を燃やすではないか!
前田訳舌も同様で、小さな部分ですが、大きなことをいいます。ごらんなさい、どんなに小さい火がどんなに大きい森を燃やすかを。
新共同同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。
NIVLikewise the tongue is a small part of the body, but it makes great boasts. Consider what a great forest is set on fire by a small spark.
註解: 第二の例として船と舵との関係を掲げ、小なる舵をもってよく大なる船体を舵手の意のごとくに動かすごとく、小なる舌を完全に制し得るものはよく全身を制御し得るのである。それ故に舌は小なりといえども大いに威張っているものである。
辞解
[誇るところ大なり] megalancheô 「大事を為す」「有力である」(C1)「大言を為して大害を起す」(A1)等種々の意味に取られるけれども、日本俗語の「大威張りをする」に相当し、悪しき意味に用いられ言語態度等の倨傲(きょごう)なるを言う。舌もかかるものであって(ぎょ)し難い。

()よ、いかに(ちひさ)()の、いかに(おほい)なる(はやし)(もや)すかを。

註解: 舵の例よりヤコブは舌の小さきにもかかわらず制御し難きこと、およびこれを適当に制御せざれば全身を亡ぼす大害をなすことを示している。火と林の例もこの事実を示す。

3章6節 (した)()なり、不義(ふぎ)世界(せかい)なり、(した)(われ)らの肢體(したい)(うち)に((くらゐ)し)て、全身(ぜんしん)(けが)し、また地獄(じごく)より()()でて一生(いっしゃう)車輪(しゃりん)(もや)すものなり。[引照]

口語訳舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。
塚本訳舌も火である。舌は不義の世界として私達の肢体の中に座を占め、全身を穢し、(自らは)地獄の火に燃やされながら、「輪転の一生」を燃やすのである。
前田訳舌は火です。不義の世のものです。舌はわれらの肢体のうちにあらわれ、全身を汚し、生育の車輪を燃やし、自ら地獄の火で焼かれます。
新共同舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。
NIVThe tongue also is a fire, a world of evil among the parts of the body. It corrupts the whole person, sets the whole course of his life on fire, and is itself set on fire by hell.
註解: ここに舌は火のごとく小さいと同時に(▲(+)大なる林をも燃やし)、不義に充満している意味において偉大なる働き(悪しき)を為すことを示す。そうしてこの二性質中、後者すなわち不義に充ちていること(不義の世界)は舌が我らの肢体中に位して全身を汚すの原因となり、また火のごとき性質はあたかも地獄の火のごとく、一生涯の進路を燃やし尽くす作用を為すものである。すなわち舌は小さいけれども全人を焼き亡ぼしまた汚穢に陥らせる異常なる悪魔的力の所有者である。本節は難解の一節である。
辞解
[不義の世界] 不義の充満し(M0)、大なる力となっていること(B1、C1)を示す(異説多し)。
[地獄より燃出で] (▲▲むしろ「ゲヘナによって焼かれ」と訳すべきで舌が結局においてゲヘナの火に焼かれるに相応しきものなることを示す。本節は難解の一節である。)人の心には地獄が潜んでおり、その火はあたかも焔のごとく舌の先から燃え上がる。
[一生の車輪] 人生は車輪のごとく回転して止まない。舌の火はこの人の一生を焼き尽くす。

3章7節 (けもの)(とり)()ふもの・(うみ)にあるもの(など)、さまざまの[種類(しゅるい)]((せい))みな(せい)せらる、(すで)(ひと)(の(せい))に(せい)せられたり。[引照]

口語訳あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた。
塚本訳というのは、凡ての生物は、獣も鳥も、匍うものも海のものも(悉く)押さえつけられるが、そして(既に)人間の性に押えつけられて来たが、
前田訳あらゆる種類の獣と鳥、地に匍うものと海に泳ぐものは人類に制せられるもので、じじつ制せられました。
新共同あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。
NIVAll kinds of animals, birds, reptiles and creatures of the sea are being tamed and have been tamed by man,

3章8節 されど(たれ)(した)(せい)すること(あた)はず、(した)(うご)きて()まぬ(あく)にして()(どく)滿()つるものなり。[引照]

口語訳ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。
塚本訳舌は如何なる人もこれを押さえつけることが出来ない。舌は休むことなき悪であり、死の毒に満ちている。
前田訳しかし舌は人々のうちだれも制しえません。それは手におえない悪で、死の毒に満ちています。
新共同しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。
NIVbut no man can tame the tongue. It is a restless evil, full of deadly poison.
註解: (▲7節後半私訳「…性はみな人の性に制せられまた既に制せられたり)舌の腐蝕力および破壊力を5、6節に述べ、ここに7、8節にはその馴らし難き性質について述べている。地上天上水中の諸動物の性をほとんど凡て人の性をもって馴致(じゅんち)することを得、また事実これを馴致(じゅんち)した。しかしながら舌は容易に制御せられず、動き廻りて制止し難き悪であるのみならず、人を殺しこれを害する毒が充満しているのでこれに触れることすらできないほどである。
辞解
[獣、鳥云々] この四種は創9:2の列挙に類似し全生物を指す。
[種類] phusis はここでは「性」「性質」の意で(A1、B1、M0)「人」とある所も原語「人の phusis」とあり、訳語にこれを欠くは不当である。動物の性質は人の性質に馴らされたことをいう。
[みな人の性に制せられ、またすでに制せられたり − 私訳] 現在動詞は人の能力を示し、過去動詞は事実、経験を示す。
[動きて止まぬ] akatastatos はよろめき廻りて手のつけようなき容(ヤコ1:8)。

3章9節 われら(これ)をもて(しゅ)たる(ちち)()め、また(これ)をもて(かみ)(かたど)りて(つく)られたる(ひと)(のろ)ふ。[引照]

口語訳わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。
塚本訳私達はこれで父なる主を讃美し、またこれで”神に象って“造られた人間を呪う。
前田訳われらは舌によって父なる主を讃美し、舌によって神にかたどって造られた人間を呪います。
新共同わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。
NIVWith the tongue we praise our Lord and Father, and with it we curse men, who have been made in God's likeness.

3章10節 讃美(さんび)呪詛(のろひ)(おな)(くち)より()づ。わが兄弟(きゃうだい)よ、かかる(こと)はあるべきにあらず。[引照]

口語訳同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。
塚本訳(すなわち)同じ口から讃美と呪詛が出るのである。(しかし、)兄弟達、そんなことがあってはならぬ。
前田訳同じ口から讃美と呪いとが出ます。兄弟方、そうであってはなりません。
新共同同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。
NIVOut of the same mouth come praise and cursing. My brothers, this should not be.
註解: 舌はかくも動きて止まず、不定、不節操なもので、またかくも有毒にして人を害するものである。かかる二心、かかる呪詛(のろい)は有ってはならない。この語はヤコブが自分にも適用しているほど一般的事実であって、今日といえどもこの語を自己に当てはめて、心が咎めない者はないであろう。

3章11節 (いづみ)(おな)(あな)より(あま)(みづ)(にが)(みづ)とを()さんや。[引照]

口語訳泉が、甘い水と苦い水とを、同じ穴からふき出すことがあろうか。
塚本訳(一体)泉が同じ穴から甘い水と苦い水を出すことがあろうか。
前田訳泉が同じ穴から甘い水と苦い水とを吹き出しますか。
新共同泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。
NIVCan both fresh water and salt water flow from the same spring?

3章12節 わが兄弟(きゃうだい)よ、無花果(いちぢく)()オリブの()(むす)び、葡萄(ぶだう)()無花果(いちぢく)()(むす)ぶことを()んや。()くのごとく(しほ)(みづ)(あま)(みづ)(いだ)すこと(あた)はず。[引照]

口語訳わたしの兄弟たちよ。いちじくの木がオリブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。塩水も、甘い水を出すことはできない。
塚本訳(それとも、)兄弟達、無花果が橄欖を、また葡萄が無花果を生らせることが出来ようか。またしおからい泉が甘い水を出すことは出来ない。
前田訳兄弟方、いちじくの木がオリブの実を、ぶどうの木がいちじくの実を結びえますか。同様に、塩水も甘い水を作れません。
新共同わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。
NIVMy brothers, can a fig tree bear olives, or a grapevine bear figs? Neither can a salt spring produce fresh water.
註解: 一つ心から二種の相反する思いや言が流れ出ることができない。ゆえに讃美と呪咀(のろい)とを同じ口より出すことができない。またある性質の心からこれと異なった性質の思想や言語が出て来ることはない。ゆえに根本が悪しき心であればそれから善き言が出るはずがない。人を呪咀(のろ)う心から神を讃美する言が出るはずがない。もしこれが出されるならばそれは全く虚偽か偽善である。
辞解
「泉」は心に比較し、「穴」は口に比較される。
要義 [舌と心]1−12節によれば舌は諸悪の宿る処、大害を惹起す処であり、しかも制御し難きものであって、これを制し得る者は全き人であるというのである。しかしながら舌は舌そのものとして働くのではなく、心が舌によって外に表われるのである。ゆえに舌の諸悪の宿る処であることも、大害を与うることも、制御し難きことも、実はみなその源なる心が汚れているからである。ゆえにまず聖霊の力によって心そのものを潔めなければならない。泉の比喩はこのことを示す。

3-3 真の智慧を求めよ 3:13 - 3:18

3章13節 (なんぢ)()のうち(かしこ)くして(さと)(もの)(たれ)なるか、その(ひと)()行状(ぎゃうじゃう)により柔和(にうわ)なる智慧(ちゑ)をもて行爲(おこなひ)(あらは)すべし。[引照]

口語訳あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい。
塚本訳君達の中で知恵があり、分別があるのは誰か。その人は立派な生活により、(真の)知恵から生まれる柔和を以てその行為を示(し、真の知恵を有っていることを証明)せ(よ。)
前田訳あなた方のうちで知恵があって思慮深いのはだれですか。彼が正しい姿勢によってその行ないを知恵ある慎みのうちに示しますように。
新共同あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。
NIVWho is wise and understanding among you? Let him show it by his good life, by deeds done in the humility that comes from wisdom.
註解: 舌より進んで心の問題に移って行く。舌が種々の害を及ぼすに至る所以は心に真の智慧がないからである。もし真に智慧がある者があるならば、その人はこれを行為に顕わすべきである。そしてこれを顕わす方法は「善き行為」「立派な態度」でありこれを顕わす手段は「智慧より出づる柔和」である。14−16節は本節の反対の有様を示す。
辞解
[「(かしこ)く」「(さと)き」](かしこ)く」 sophia は一般の智慧、「(さと)き」epistêmôn は経験を積んでよく知っていること。
[行状] 日常の行為態度。
[柔和なる智慧] en prautêti sophias は適訳ではない。「智慧に叶う柔和」(M0)「智慧と結付ける柔和」(B1)「智慧に相応しき柔和」(A1)等の意味、(ねたみ)、党派心等の反対の心持。

3章14節 されど(なんぢ)()もし(こころ)のうちに(にが)(ねたみ)黨派心(たうはしん)とを(いだ)かば、(ほこ)るな、眞理(まこと)(もと)りて(いつは)るな。[引照]

口語訳しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。
塚本訳しかし、もし君達の心に苦い嫉妬や争いがあるならば、(知恵があるなどと)誇って(はならぬ。それは虚言である。)真理に反して虚言をいってはならぬ。
前田訳しかし、もしあなた方の心の中に苦い妬みや欲があるならば、誇ってはならず、真理に反して偽ってはなりません。
新共同しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。
NIVBut if you harbor bitter envy and selfish ambition in your hearts, do not boast about it or deny the truth.
註解: 彼らはその心中に智慧より出づる柔和の心を持たず反対に苦き嫉妬心(他より己を優れりとして)とこれに伴う党派心を持っていた。かかる悪しき心を持ちつつも人に誇りまたはその良心に偽ることは真理に反する行為である。
辞解
[(ねたみ)] zêlos は「熱心」「嫉視(しっし)」等の意あり他の優越を(ねた)み、また自己の優越を主張せんとする熱心なる心。
[眞理(まこと)(もと)りて] 「誇るな」にも懸けて読むことを可とす。もし彼らにして真理に従うならば「智慧に叶う柔和」を持つべきで、かかる誇りや偽りを持つはずはない。

3章15節 かかる智慧(ちゑ)(うへ)より(くだ)るにあらず、()(ぞく)し、(じゃう)(よく)(ぞく)し、惡鬼(あくき)(ぞく)するものなり。[引照]

口語訳そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。
塚本訳そんな知恵は上から降ったものではない。地上のもの、血肉のもの、(然り、)悪鬼のものである。(真の知恵は謙遜であり、柔和である。)
前田訳それは上から下った知恵ではなく、地のもの、欲のもの、悪霊のものです。
新共同そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。
NIVSuch "wisdom" does not come down from heaven but is earthly, unspiritual, of the devil.
註解: 嫉視(しっし)や党派心のごとき智慧は「上より」すなわち神より出づる智慧とは正反対のもので、地的、肉的、悪魔的である(Tコリ3:3)。如何に神学上の知識があり処世上の智慧があっても、もし嫉視(しっし)、徒党を(むね)とするならばそれは世の智慧(Tコリ2:6)に過ぎない。
辞解
[地に屬し] epigeia は天の反対、罪に(まと)われ滅ぶべきもの。
[情慾に屬し] psychikos はTコリ2:14には「性来(うまれつき)のままなる」Tコリ15:44には「血気の」と訳せられてし語で、「霊的」に対する「肉的」すなわち人間の自然性に属していることを示す。

3章16節 (ねたみ)黨派心(たうはしん)とある(ところ)には(みだれ)各樣(さまざま)()しき(わざ)とあればなり。[引照]

口語訳ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。
塚本訳何故なら、嫉妬や争いのあるところには無秩序とあらゆる悪事がある。
前田訳妬みと欲のあるところ、混乱とあらゆる悪事があります。
新共同ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。
NIVFor where you have envy and selfish ambition, there you find disorder and every evil practice.
註解: 自己の知識や智慧を誇っている者は(ねたみ)(この中に自己の優越を誇り他を見下す心をも含むことに注意せよ。)と党派心とをもってあたかも神の意に叶う善事を為しまた智慧あるもののごとくに思うけれども、これは大なる誤りである。何となれば神は(みだれ)の神にあらず(Tコリ14:33)、神は悪しき業を為し給わず、また上よりの智慧は17、18節のごとくであるから。

3章17節 されど(うへ)よりの智慧(ちゑ)第一(だいいち)(いさぎ)よく、(つぎ)平和(へいわ)寛容(くわんよう)温順(おんじゅん)また憐憫(あはれみ)()()とに滿()ち、(ひと)(かたよ)()ず、虚僞(いつはり)なきものなり。[引照]

口語訳しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。
塚本訳上からの知恵はまず聖く、次に平和を好み、親切で、温順で、憫れみと善き果実に満ちて居り、党派根性がなく、偽善でない。
前田訳上からの知恵はまず純粋、次に平和、思慮、従順で、あわれみと良い実に満ち、公平で偽りがありません。
新共同上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。
NIVBut the wisdom that comes from heaven is first of all pure; then peace-loving, considerate, submissive, full of mercy and good fruit, impartial and sincere.
註解: 15、16節とは反対に真の智慧の特徴を示す。すなわち「第一」にその本質は「潔く」あることで、地的、肉的、悪魔的なるものに汚れず(15節)、次にその顕われとして「(みだ)れ」の反対なる平和、寛容、温順あり、「悪しき業」の反対なる憐憫と善き果とに満つ。かつ人を分け隔てせずまた虚偽がない。これみな善き心、真の智慧が泉の源をなしているからである。
辞解
[潔く] hagnos は貞潔、純潔等罪の念や行為に汚されざる状態。
[平和] 党争の反対。党派の原因は自己を正しとして他に対する不寛容より起るが故に「寛容」は党派心の反対。
[温順] eupeithês は高慢の心なく他の意見に聴従すること、これらはいずれも党派を除き「(みだ)れ」を免れしむる性質である。
[人を偏り視ず] adiakritos ヤコ2:4註解に記せるごとく諸種の意味にも解せられている。邦訳の外に「分離せず」「平和的」「(さば)かず」「疑わず」等の意味に解せられている。邦訳が適当であろう。私訳「分け隔てせず」。

3章18節 ()()平和(へいわ)をおこなふ(もの)平和(へいわ)をもて()くに()るなり。[引照]

口語訳義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。
塚本訳そして(この)義の果実は平和を作る人(の心)に、(神によって)平和の裡に播かれるのである。
前田訳義の実は平和を行なう人々によって平和のうちにまかれます。
新共同義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
NIVPeacemakers who sow in peace raise a harvest of righteousness.
註解: 私訳「義の果は平和ならしむる者によりて平和の中に播かれるなり」。平和ならしむる者はマタ5:9のごときまた前節のごとく上よりの智慧を持つ者を指す。かかる人々が平和の中に播ける種がやがて義の果となって刈り取られるのである。自らを義として党争を事とする者は悪しき業により悪の果を結ぶに過ぎない。
辞解
「果を播く」ということは、種を播きて果を得ることの思想上の省略。
要義 [天的の智慧と地的の智慧]党争、分離、嫉視(しっし)等は自ら智慧ありと(ほこ)ることより生ずるのであって、一見信仰的態度なるがごとくに見えるけれども、実は然らず、これ地的肉的悪魔的智慧の結果であり、苦き泉より流れ出づる苦き水である。従って種々の悪結果がこれより生ずる。これに反し天的の智慧は潔き泉であり平和によって義の果を結ぶ。そしてこの間の区別は極めて微妙であって、もしこの平和も潔からざる心より生ずる策略上の平和であるならば義の果を結ぶことができず、また争いも潔き心より生ずるものであるならば義の果を結ぶことができる。要するに源泉の如何が問題であることに注意すべきである。▲キリスト教が多くの宗派に分かれているのもこの天的智慧を欠くことから起って来る。