ロマ書第14章
分類
4 実行論
12:1 - 15:13
4-(1)-(4) 信徒相互の関係(信仰の強弱)
14:1 - 15:13
4-(1)-(4)-(イ) 自由問題につき他を審くべからず
14:1 - 14:12
註解: 当時ロマの基督者の中に二つの異れる傾向が起った、その一は「信仰の弱き者」で基督者は宜しく禁慾生活を為すべしとの理由より肉食及び飲酒を禁じ、野菜のみを食し、又安息日、祭日等を特に聖き日としてこれを守る事を必要と考うる人々であり、その反対に立つ者は信仰の自由を主張する強き信者でこれらの規則に束縛せられない事をその特色としていた。この差別の自然の結果、後者は前者を頑迷
固陋 と「軽蔑」し、前者は後者を軽跳浮華 として「審く」に至った(3節)。かかる傾向に対して基督者の正しき態度を示したのが本章である。この点に於てTコリ8-10章に類似している。尚本章の禁肉食禁酒主義の人々は(1)モーセの律法を奉ずるユダヤ人、(2)偶像のささげものを食わざる人、(3)肉食を禁ぜしエビオン派、(4)祭司的生活を理想とせるエツセネ派等の人々の何れにも完全に該当せず、恐らく以上の何れとも別に基督教的信仰に入ると共に厳格にして真面目なる生活を理想とする人々が起り、その結果かかる傾向を生じたものと思われる。而してこれは極めて有り得る事柄である。
口語訳 | 信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。 |
塚本訳 | 信仰の弱い人をも(あなた達の)仲間に入れてやりなさい。(その人の)考えの違いをかれこれ言わずに。 |
前田訳 | 信仰の弱いものをも受け入れなさい。異論をとやかくいわずに。 |
新共同 | 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。 |
NIV | Accept him whose faith is weak, without passing judgment on disputable matters. |
註解: 信仰の弱き者を排斥する事は一見信仰に忠実なるが如くに見えるけれども、実は正しき信仰の態度ではない。
辞解
[弱き者] 原語「弱る者」なる動作を示す、人は信仰のみに立つ事はなかなか容易ではない、常に信仰に於て弱らんとする傾向の下にある。律法主義に陥るのもかかる場合である。
[容れよ] は柔和なる心を以て自分の方に受納れる事。
その
註解: 但し彼らを受納れる目的が、彼らの思想をかれこれと批議するが為であってはならない。
辞解
種々に訳される可能性があるけれども上記解釈の如き意味に解するを可とす(M0、I0、Z0)
14章2節
口語訳 | ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。 |
塚本訳 | (信仰は人それぞれで、たとえば、)ある人は(信仰が強くて肉でも)なんでも食べてよいと信じており、(信仰の)弱い人は野菜(だけ)を食べる。 |
前田訳 | ある人は何でも食べうると信じ、弱い人は野菜だけを食べます。 |
新共同 | 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。 |
NIV | One man's faith allows him to eat everything, but another man, whose faith is weak, eats only vegetables. |
註解: これが意見を異にする第一の点であった。信仰の強き人は肉も野菜も酒も皆神の賜物としてこれを受け信仰によりて神の前に良心の咎なくしてこれを飲食し得ると信じ、信仰の弱き人はこれを以て享楽主義と見倣し、自分は野菜のみを食して禁慾的に生活すべきものと主張する(こうした菜食主義の起原が創1:29によりしか又は仏教の如き動物に対する憐憫 の情よりか、又は普通の反享楽的思想によりしかは不明である)。
14章3節
口語訳 | 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。 |
塚本訳 | (肉)を食べる人は食べない人を軽蔑してはならないし、(肉を)食べない人は食べる人を裁いてはならない。神はその人をも(聖徒の)仲間にお入れになったのだから。 |
前田訳 | (何でも)食べる人は食べない人をあなどらず、食べない人は食べる人を裁かないように。神はそのような人をもお受け入れですから。 |
新共同 | 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。 |
NIV | The man who eats everything must not look down on him who does not, and the man who does not eat everything must not condemn the man who does, for God has accepted him. |
註解: 雙方の陥り易き欠点を適切に指摘している。信仰の自由を味っている者は禁慾的律法的生活を為すものを頑固者流として軽蔑し易く、反対に後者は前者を放縦にして不節制なるものとして審き、その信仰に対してさえも疑を持つに至る。併し乍らこの雙方とも誤っている。殊に他人を不信仰呼ばわりする事は誤っている。「その故は信仰の故に神は彼を(食う者)を受容れ給いたれば」人間がこれに異論を挿むべき筋合いのものではないからである。▲今日の分派のほとんど凡ては此のパウロの教訓の無視より来ている。
辞解
[容れ給へばなり] は「給いたればなり」
14章4節 なんぢ
口語訳 | 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。 |
塚本訳 | いったい何者なれば、あなたは他人[主キリスト]の僕(であるその人)を裁くのか、(あなた自身も僕でありながら。)彼が立っているのも倒れるのも、その主人(の考え)によるのである。しかし彼はしっかり立っていることができるであろう。主人は彼を立てる力をもっているのだから。 |
前田訳 | 他人の僕を裁くとは、あなたは何ものですか。彼が立つも倒れるもその主人次第です。彼は立ちえましょう、主人には彼を立たせる力がありますから。 |
新共同 | 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。 |
NIV | Who are you to judge someone else's servant? To his own master he stands or falls. And he will stand, for the Lord is able to make him stand. |
註解: この例の如く基督者は皆キリストの僕であって相互の僕ではない。故にこの僕の正邪を審くのはその主なるキリストである。キリストの御心にさえ叶うならば他の人々がこれをかれこれ言う必要もなく又その権利も無い。基督者が僕として立つか倒るるか、合格か不合格かはキリストこれを定め給う、他人が口を出す筋合いではない。
註解: (▲「立たせ給ふべし」は正確に訳せば「立たせ得給ふが故なり」)たとい弱き信仰の人が肉を食うものは滅ぶるであろうと信じ、又強き信仰の人が禁肉、禁酒主義の人は信仰の何たるかを知らざる故救われて居ないと主張したとても、この考に反して彼は必ず立てられるであろう。その故はキリストの御旨ならばこれが可能だから。主はその救の中心をかかる飲食問題に置き給わない。
14章5節
口語訳 | また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。 |
塚本訳 | また(たとえば)ある人はある日をほかの日よりも尊いと考え、ある人はどの日も同じと考える。(どちらでよろしい。ただ)ひとりびとりが、自分の心に確信もつことが必要である。 |
前田訳 | ある人はこの日をかの日よりも重んじ、ある人はどの日も同じように見ます。おのおのが自分の心に確信すべきです。 |
新共同 | ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。 |
NIV | One man considers one day more sacred than another; another man considers every day alike. Each one should be fully convinced in his own mind. |
註解: かかる問題は自由問題であって信仰の根本間題でない。それ故にこの二つの意見は全く相反しているけれども、主イエスはこの中の何れかでなければならぬとは言い給わない。大切なのは心の態度であって主に事うる為には、かくあるべしと自分の心に堅くきめて行う事を主は喜び給う。かかる自由の問題は問題そのものよりもこれに対する心の態度が大切である。
辞解
[日] ユダヤ人がその律法に循 って守れるもので基督教会にもその影響を引いたのであろう。
14章6節
口語訳 | 日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。 |
塚本訳 | 一定の日を(特別に尊く)思う人は、主のために(そう)思う。また(肉でもなんでも無頓着に)食べる人は、主のために食べる。(食事のとき)神に感謝をささげるのだから、(肉は)食べない人も、主のために食べない。彼も(食事のとき)神に感謝をささげる。(結局、食べるものも食べないのも、主のためである。) |
前田訳 | 一定の日を気にする人は主のために気にし、(何でも)食べる人は主のために食べます。彼は神に感謝するからです。食べない人も主のために食べないのです。彼も神に感謝するからです。 |
新共同 | 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。 |
NIV | He who regards one day as special, does so to the Lord. He who eats meat, eats to the Lord, for he gives thanks to God; and he who abstains, does so to the Lord and gives thanks to God. |
註解: 基督者としては凡て主の為を考え、主イエスを喜ばせ奉らんとの心より凡ての行動をとる。日も食事もその例に漏れない、その証拠は凡ての物を食いつつ神に対してこの食事の感謝を捧げている事でわかる。主が与え給うと信ずるものを感謝を以て受ける事は即ち主の為にこれを受ける事である。
辞解
[主] キリストを指す。
註解: 主のためと信じて食わない故、これに対して不平は少しも無く、却ってその食する僅のものに対して神に感謝をささげる心となる。
辞解
前半には「感謝すればなり」とありて理由を示し後半は「感謝するなり」とありて結果を示す。主の為を思う時凡ての事は感謝となる。
14章7節
口語訳 | すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。 |
塚本訳 | なぜなら、(キリストを信ずる)わたし達はだれも、自分のためには生きない、また、だれも、自分のためには死なないからである。 |
前田訳 | なぜなら、われらはだれも自分のためには生きず、だれも自分のためには死にませんから。 |
新共同 | わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。 |
NIV | For none of us lives to himself alone and none of us dies to himself alone. |
註解: ▲「生ける」は「生くる」とすべし。
14章8節 われら
口語訳 | わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。 |
塚本訳 | 生きれば、主のために生き、死ねば、主のために死ぬのである。だから、生きるにせよ死ぬにせよ、わたし達は主のものである。 |
前田訳 | われらは生きれば主のために生き、死ねば主のために死ぬのです。生きようが死のうが、われらは主のものです。 |
新共同 | わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 |
NIV | If we live, we live to the Lord; and if we die, we die to the Lord. So, whether we live or die, we belong to the Lord. |
註解: 昔の日本武士とその主君との関係に同じく、基督者の生死は自分の為ではなく全く主の為のみに存在する。基督者は主の有、主に属する奴隷である。故に他人より彼是批判せらるべき筈のものではない。この二節は基督者とキリストとの関係を最も端的に表顕せる簡所である。
14章9節 それキリストの
口語訳 | なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。 |
塚本訳 | キリストが死んで生き返られたのは、死んだ者と生きている者との主になるためであるから。 |
前田訳 | キリストが死んで生きられたのは、死者と生者との主になられるためです。 |
新共同 | キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。 |
NIV | For this very reason, Christ died and returned to life so that he might be the Lord of both the dead and the living. |
註解: 「そは……なればなり」と訳するを可とす。キリスト死にて復活し給えるはこれによりて彼は死に打勝ち死ねる者と生ける者(現に生くる者)との主としてこれを支配し給わんが為であった。彼もし死に給わなかったならば死ねる者と没交渉であり、もし又死して復活し給わなかったならば生ける者と交渉が無い。それ故に生くるも死ぬるも我らはキリストの支配を脱する事が出来ない。されば生くるも死ぬるも唯主のためである。
辞解
[死にて復 生き給ひしは] 死にて復活し給える事を意味する。復活によりて彼は死を滅ぼし生ける者と死ねる者との主となり給う。尚この箇所は異本に「死に又復活し又新に生き給えるは」或は「生き又死に又復活し給えるは」叉は「死にて復活し給えるは」等種々の写本あり、パウロの論旨を解し兼ねて後日加筆せるものである。
14章10節 なんぢ
口語訳 | それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。 |
塚本訳 | それなのに、あなたはなんで自分の兄弟を、(肉を食べるからとて)裁くのか。またあなたも、なんで自分の兄弟を、(野菜ばかり食べるとて)軽蔑するのか。(裁くお方は神、)わたし達は(最後の日に)一人のこらず、神の裁判席の前に出なければならないのである。 |
前田訳 | それなのにあなたはなぜ兄弟を裁くのですか。また、あなたもなぜ兄弟をあなどるのですか。われらは皆、神の裁きの座の前に出ねばなりません。 |
新共同 | それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。 |
NIV | You, then, why do you judge your brother? Or why do you look down on your brother? For we will all stand before God's judgment seat. |
註解: 弱き者は強き者を審くべからず、強き者は弱き者を蔑 すべからず。
註解: 凡ての人は世の終末に於て神の審判の座の前に立ちUコリ5:10、その上に坐するキリストの審判を受けなければならぬ。故に他人がこれを審く必要はない。
辞解
ヨハ3:18。ヨハ5:24に信ずる者は審判に至らずとあり、本節と予盾するが如きも、前者は救われるか滅ぼされるかの審判を指し後者即ち本節は諸 の行為の善悪に関する審判を指す。Uコリ5:10。尚神の審判の座と云いキリス卜の審判の座と云うも同一のものを指す、神に委ねられてキリストが審判を行い給うからである。
14章11節
口語訳 | すなわち、「主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」と書いてある。 |
塚本訳 | こう書いてあるではないか。“主は(御自分を指して誓って)言われる、わたしは生きている!”“すべての膝はわたしの前にかがみ、すべての舌は神を讃美するであろう。” |
前田訳 | 聖書にあります、「主はいわれる、わたしは生きている。すべての膝はわが前にかがみ、すべての舌は神を讃美しよう」と。 |
新共同 | こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」 |
NIV | It is written: "`As surely as I live,' says the Lord, `every knee will bow before me; every tongue will confess to God.'" |
註解: 前節の証明としてイザ45:23の七十人訳を自由に変更して引用せるもの。最後の審判の時は神はその燿く栄光を以て万人に臨み給い、凡ての人はその前に膝を屈めて彼を拝し彼にその罪を告白し彼に讃美を呈するであろう。
辞解
[我は生くるなり] 神の実在、永遠、万能を示す神御自身の語。尚イザ45:23と比較してその差異に注意すべし。ロマ11:36の附記参照。
14章12節
口語訳 | だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。 |
塚本訳 | 従って、わたし達は(人を裁くどころか、裁きの日には)ひとりびとり、神に自分のことを弁明せねばならない。 |
前田訳 | それゆえ、われらはひとりひとり自分について神に弁明せねばなりません。 |
新共同 | それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。 |
NIV | So then, each of us will give an account of himself to God. |
註解: 「陳 ぶべし」は未来形動詞で「陳 べるであろう」との意、最後の審判の時各々が神の前に自己の心や行為につき陳 べなければならない事となる。故に神に対しては全責任を負わなければならぬ故、他人の意見によりて審かれる必要もなく又他人を審くべきでもない。凡ての事を神に対し神の僕として行わなければならない。
要義1 [自由問題に就て] 例えば飲酒、喫煙の如き、その事柄自身が我らの信仰及び救と直接の関係なき事はこれを自由問題として取扱わなければならない。この種の事柄に関しては各人神の前に「自分の取るべき態度はこれである」と信ずる処の事を行うべきである。併し乍らこれは「自分」の取るべき態度で「他人」は叉別にその人の取るべき態度を神より示さるべき筈である。故に自分の態度を唯一の真理として他人を審いてはならず又軽蔑してはならない。但し神の前には少しの胡魔化しもなく潔き良心を保たなければならない。この種の問題に属するものは喫煙、飲酒、観劇、舞踏その他の享楽、その他の形式習慣等の問題、即ち信仰そのもの以外の諸問題である。
要義2 「日曜安息日問題」ロマ14:5にある如くパウロがロマ書を認 めし当時にも一週の七日は皆同一であると考える人がいた事実を見ても日曜日を安息日とする事は未だ一般的では無かった事が判る。これは後日の発達に属する。日曜は主の復活顕現の日であり同信の徒の集合に最も適当せる日である事より自然日曜日集会の習慣が起り後に至りてこれが法律的に強制されるに至った。それ故に日曜日を特別の安息の日としなければならぬと云う規則は、聖書に命ぜられた事でもなく、叉信仰の当然の結果でもない。要するに自由問題である。それ故に日曜安息の制度は人間の霊魂と社会生活に多くの益を与える事は確実であるけれどもこれを律法として他を審いてはならない。土曜安息主義を固守する一派の如きも弱き信仰に属する事故これを容れて蔑 すべきではない。またこの種の信者が他の信者を審く事は誤である。
要義3 [享楽は許さるべきか] 食うも食わぬも凡て主のため、死ぬるも生くるも凡て主のためであるとするならば絵画、音楽、演劇、その他飲食、生活上の娯楽は許さるべきやと云う問題を考えなければならぬ。神は人間に美を見、聞き、昧うの機関を与え、これを享 けて楽しむ心を与え給える以上、これ等は凡てそれ自身として悪事ではない。唯各々が神より享 けたと信じ、神に対して良心の責なき場合にのみそれが正しき享楽である。而してこれは各人の信仰の強弱によりて判断が異って来るのであって、各人はこれを他人の意見によって決定せず、最後の審判の時に神の前に安心して陳 べ得る如き立場に自己を置き自己の判断によりて自由に行動しなければならない。
要義4 [武士道的基督教]ロマ14:7、8は武士道の原則そのままを言い表しているのであって、日本武士がその主君に対する心を神に向ける時、我らは真の基督者としての生活を送る事が出来る。生も死も凡て神のものである事を知って始めて自己の凡ての慾望に死して潔き生活を送る事が出来る。
14章13節 されば
口語訳 | それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。 |
塚本訳 | だから、これからは互に裁き合うことをやめようではないか。(そして、これは信仰が強くてなんでも食べる人に言うのであるが、)あなた達はいっそ兄弟の前に躓きや邪魔物を置かないように、心に決めたらどうだ。 |
前田訳 | それゆえ、もう互いに裁きますまい。むしろあなた方が兄弟に衝撃やつまずきを与えないようお決めなさい。 |
新共同 | 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。 |
NIV | Therefore let us stop passing judgment on one another. Instead, make up your mind not to put any stumbling block or obstacle in your brother's way. |
註解: 前半に於て1-12節を要約し後半に14節以下の中心思想を揚げている。信仰の強き者も弱き者も互に審いてはならない事は前述せる処によりて明かである。併し乍ら唯それだけでは足りない、更に愛を以て行動しなければならない。そのためには自分の信ずる処を遂行する事よりも更に重大なる問題として兄弟のまえに妨碍 または蹟物 を置かぬ様に決心すべきである。殊に信仰の強き者はこの点に注意を要す。
辞解
[審くべからず] 「軽蔑すべからず」をも含めて言う。「妨碍 」と「蹟物 」との間に格別の差異は無く意味を強める為に重複せるものである(M0)。これに種々の区別を付けんとする見方があるけれども(G1、B1、A1、Z0等)精確ではなく又互に一致しない。ロマ9:33。Tペテ2:8参照。
[心を決めよ] 「審く」と同一の krinein を用いている、これ用語の修飾で同一語をやや異る意味に用いたのである。
14章14節 われ
口語訳 | わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。 |
塚本訳 | (わたしが知りまた主イエスにあって確信しているところでは、その物自体、汚れているものは何もなく、ただ汚れていると思うその人にだけ、汚れているのである。(だから何を食べてもよく、人が食べるのを咎めてはならない。)] |
前田訳 | わたしは主イエスにあって知り、また確信しますが、何ものもそれ自体ではけがれてはいません。しかしけがれていると思う人があればそれはその人にけがれています。 |
新共同 | それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。 |
NIV | As one who is in the Lord Jesus, I am fully convinced that no food is unclean in itself. But if anyone regards something as unclean, then for him it is unclean. |
註解: イエスに在る信仰によりて旧約の律法に録される如き食物の潔き物と汚れたるものとの区別は存せざる事をパウロは確信した。即ち理論的信仰的には信仰の強き者の考が正しい。
辞解
[自ら] それ自身の性質としての意。
[主イエスに在りて] キリストによりて旧約の律法は撤廃せられ新しき愛の律法が生れた、故に信仰によりて彼に在る者は凡ての物事の見方が一変する。
ただ
註解: 唯その信仰弱くして、凡ての旧き思想や習慣を脱出する事を得ずしてある種の食物を潔からずと思う人がある場合はその人に取りては汚れたものである。物それ自身の性質としてにはあらず主観の世界の事実としてなり。
14章15節 もし
口語訳 | もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。 |
塚本訳 | なぜなら、食べ物のために兄弟(の良心)を苦しめるならば、あなたはもう愛によって歩いていないのだから。あなたの食べ物などで、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストはその人の(救いの)ためにも死んでくださったのである。 |
前田訳 | 食べ物のゆえに兄弟を悲しませるならば、あなたはもはや愛に歩いてはいません。あなたの食べ物で兄弟を滅ぼさないようになさい。キリストは彼のためにお死にになったのです。 |
新共同 | あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。 |
NIV | If your brother is distressed because of what you eat, you are no longer acting in love. Do not by your eating destroy your brother for whom Christ died. |
註解: Tコリ8:1-13参照。信仰強き汝が自由に飲食するを見て弱き兄弟の良心は憂いに陥り、かかる放逸なる信仰に止まるを肯 ぜず(承諾しない:広辞苑)と云うに至る如き事があるとすれば、汝の態度に少くとも弱き兄弟に対する愛を欠いている事となる。
キリストの
註解: キリストはその人の為に生命をも棄て給うた、汝は汝の好む食物をその人の為に節する事位は物の数ではない。
口語訳 | それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。 |
塚本訳 | だから、あなた達がもっている善いもの[福音の自由]を人にあざけられてはならない。 |
前田訳 | あなた方の善がけがされないようになさい。 |
新共同 | ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。 |
NIV | Do not allow what you consider good to be spoken of as evil. |
註解: 強き信仰によりて霊の自由を有つ事は善き事であるが、これが為に他人を躓かせて世人に非難の機会を与える事は宜しくない。
辞解
[善き事] 信仰、福音、神の国、ロマ人の善しとする処等種種の解あれど上記の如く信仰の自由と解す(B1、G1、I0)。
14章17節 それ
口語訳 | 神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。 |
塚本訳 | 神の国は(なんでも自由に)食べることや飲むことではなく、義と平安と聖霊による喜びとであるから。 |
前田訳 | 神の国は食べ物や飲み物ではなく、聖霊による義と平和とよろこびです。 |
新共同 | 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。 |
NIV | For the kingdom of God is not a matter of eating and drinking, but of righteousness, peace and joy in the Holy Spirit, |
註解: 食う事や飲む事の如何は神の国成立の要件ではない。故に食うべきか否や等正義と無関係な問題に就きて争うべきではない。大切なのは正義が行われるや否や(こうした問題につきて愛を欠く事審く事蔑 する事は不義である)平和が存在するや否や(飲食間題につきて争う事は神の国に相応しない)聖霊によれる歓喜がありや否や(自分の好むものを食う喜び又はかかる問題につき憂いをいだく事等は神の国に適しない)の点にある。
辞解
[神の国] 現在に於て我らの心を神が支配し給う場合その処に神の国がある、これが未来に於て完成せらるべき神の国の初穂である。
[「義」、「平和」等] ここでは道徳的意味に用いられている、「義とされる事」「神との和らぎ」等にあらず。
14章18節
口語訳 | こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。 |
塚本訳 | そしてこれらのことをもってキリストに仕える者は、神のお気に入り、人々にも信用されるであろう。 |
前田訳 | このようにしてキリストに仕える人は神のお気に召し、人々にも信頼されましょう。 |
新共同 | このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。 |
NIV | because anyone who serves Christ in this way is pleasing to God and approved by men. |
註解: 前節の主義に立ちてキリストに事うる者は、神の悦びであるは勿論、一般の人々にも基督者に相応しいと認められ、神の栄光を揚ぐるに至る。
辞解
[斯 して] 即ち「これによりて」異本に「これらによりて」とあり、義、平和、歓喜等を指すと解して解釈上容易なるが故にこれを採る學者が多い(B1、M0、G1)。併し最も信頼すべき写本に「これによりて」とあり、解釈上やや困難であるけれども上記の如くに解してこの方を採った(I0、E0、Z0、改訳)。
[善しとせらる] 試験の結果合格となる事。
14章19節 されば
口語訳 | こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。 |
塚本訳 | だから平安に役立つこと、また互に(信仰を)造りあげることを、努めようではないか。 |
前田訳 | それゆえ、平和のこと、互いに建設的なことを努めましょう。 |
新共同 | だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。 |
NIV | Let us therefore make every effort to do what leads to peace and to mutual edification. |
註解: 紛争と破壊とは神にも人にも善しとせられない。
辞解
[平和のこと] 平和を来すべき事は何事でもこれを追求むべし。
[徳を建つる事] 原語 oikodomeô 基督者の個人及び団体がその信仰及び行為につき完全に向かって進む事を云う、家を建て上げる事に喩えたるもの、キリストはその基礎である。Tコリ3:11。エペ2:20、21。
14章20節 なんぢ
口語訳 | 食物のことで、神のみわざを破壊してはならない。すべての物はきよい。ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となる。 |
塚本訳 | 食べ物のために、神の(尊い)業(である集会)をこわしてはならない。たしかに、すべて(の食べ物)は清い。ただ食べて(兄弟を)躓かせる人には、悪いものである。 |
前田訳 | 食べ物のために神のわざをこわさないようになさい。すべては清いが、食べてつまずかせる人にはそれは悪いものになります。 |
新共同 | 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。 |
NIV | Do not destroy the work of God for the sake of food. All food is clean, but it is wrong for a man to eat anything that causes someone else to stumble. |
註解: 飲食の如き些末 の事で神の御業なる神の家又各人の信仰(Tコリ3:9)を破壊すべきではない。凡ての物は潔い故にこれを食う事は自由であるが他人の心持を無視し他人がこれによりて蹟きて信仰を失う事をも顧みずして、その自由を自分のためにのみ用うる場合は食う事は悪となる。愛なき故である。
辞解
[神の御業] 神は人々の心に信仰を造りこれを神の家として建て上げ給う。
[毀 つ] 前節の「建つる事」の反対。
[食ひて之を躓かする者は] 「蹟きつつ食う者は」とも訳され弱き信者が強き信者に倣いて良心に咎められつつ食う場合に適用する説あれど(M0、G1、Z0)改訳の如くに解する説の方が優っている(B1、B2、I0、E0、A1)。この「蹟 」は13節の「妨碍 」と同文字。
14章21節
口語訳 | 肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである。 |
塚本訳 | (何を食べてもよいと信じながら、)肉を食べず、酒を飲まず、そのほかあなたの(弱い)兄弟を躓かせるようなことをしないのは、非常に良い。 |
前田訳 | 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほかあなたの兄弟をつまずかせないのはよいことです。 |
新共同 | 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。 |
NIV | It is better not to eat meat or drink wine or to do anything else that will cause your brother to fall. |
註解: 凡ての物潔からざるなきを信じ乍ら兄弟を躓かせぬために肉食、飲酒を禁ずる行為は立派な行為である。これ信仰の強きものがその弱き者に対する愛の行為であるから。
辞解
異本に「なんじらの兄弟を妨げず躓かせず弱らする事をせぬは善し」とあり意味一層明瞭である。
14章22節 なんぢの
口語訳 | あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである。 |
塚本訳 | あなたは持っているその(強い)信仰を、そっと自分だけで神の前に持っていなさい。自分で正しいと決断したことを、(神の前で)自分(の良心)に責められない人は幸いである。 |
前田訳 | あなたの持つ信仰を、あなただけで神の前にお持ちなさい。さいわいなのは自ら決めたことで自らを裁かない人です。 |
新共同 | あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。 |
NIV | So whatever you believe about these things keep between yourself and God. Blessed is the man who does not condemn himself by what he approves. |
註解: 「信仰」はここでは「確信」と云う如き意味で、我らの持つ信仰は人の前ではなく神の前に良心に少しの暗き点もなしに持つべきものである。この間に他人の意見の干渉や影響が有ってはならない。
註解: 自ら研究考査の結果善しとする所につき自分の心に疚 しき所なき者、即ち自己を審かざるものは幸福である。
辞解
[自ら咎 めなきもの] 直訳「自己を審かざるもの」krinein 即ち自己を悪しと断定せざるもの。
[善しとする] 試験の結果善しと断定せる事。
口語訳 | しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。 |
塚本訳 | しかし、(食べることの良し悪しの判断がつかず)躊躇する者が食べるならば、信仰から出たのでないから、罰される。信仰からでないものはみな、罪である。 |
前田訳 | しかし疑うものが食べるならば、信仰によらないゆえに、罰せられます。信仰によらないものはすべて罪です。 |
新共同 | 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。 |
NIV | But the man who has doubts is condemned if he eats, because his eating is not from faith; and everything that does not come from faith is sin. |
辞解
[疑ひつつ] diakrinein を用い、心の中に不満不安等がある事。「罪せらる」 katakrineinは断罪を意味し救うべからざる状態に入れられる事、これ等の語義の区別はTコリ11:32辞解参照。
これ
註解: 良心に疑を持ちつつ食う事は神に対する不信実の態度である。不信実は不信仰である。故に不信仰の心不信実の心を以てしては神を喜ばす事が出来ない。凡て信仰によらぬ事即ち神に対する信実の心より出で来らずして、神の前に良心を誤魔化しつつ為す処の行為は罪である。故に最も大切な事は飲食する事の可否ではなく、我らの心が神の前に信実なりや否や、即ち信仰によるや否やである。神の前に自己を偽る事は最大の罪である。
要義1 [愛の不自由] 信仰による自由を制限する唯一のものは愛である。愛によりて自由に制限を与える事は実は束縛ではなく寧ろ真の自由である。食物の問題は軽く霊魂の問題は重い。他人の霊の救のためには食い得る食物をすら摂らずにいる事は愛による自由の制限であって、最も貴き行為である。
要義2 [これは信仰上の誤謬の承認にあらず] 自由に食い得るものを食うべからずとする事は、信仰の自由の否認であり、かかる人の為に信仰の自由を有するものがその自由を束縛する事は誤謬の承認にあらずやと思わる。併し乍らこの種の誤はキリストに対する忠実さより来る場合、即ち神の前に保てる信仰による場合(22節)には神これを許し給うが故に霊魂の救の問題と関係は無い。故にこれを認容する事も何等の差支が無い。
要義3 [疑う者] 凡て信仰によらぬは罪なり、パウロは自由問題の取捨の標準を信仰に置き、信仰によりて行える事、即ち信実なる心より、主に信頼する心を以て行える事はそれ自身神の前に義しき事であり、反対に主に対する信頼の心よりにあらずして、疑いつつ周囲の思惑に引かれて艮心の咎を持ちつつ行える事は、事の何たるを問わず罪ある事を断言している。この標準は凡ての自由問題に関連している立場であって、若し基督者がこの点を明かにする事が出来たならば、徒 に自由問題につきて他を審き分裂と紛争とを来す如き事を免れ得たであろう。
要義4 [愛と信仰] 1-12節は自由間題の信仰的解決であり、13-23節はその愛による解決である。自己一人に関する限り信仰のみによりて行動すべく他人にも関係が及ぶ場合愛を以て信仰の上に立たしめなければならない。
ロマ書第15章
4-(1)-(4)-(ハ) 信徒相互のコイノーニヤ
15:1 - 15:6
註解: 15-16章がロマ書の一部なりや否やの問題につきては巻末附記参照。1節以下に於て前章に述べられし問題を一般化し、一般的の事柄につき教訓を与えている。
15章1節 われら
口語訳 | わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。 |
塚本訳 | しかしわたし達強い(信仰をもつ)者は、強くない(信仰をもつ)者の弱さを負い、決して(勝手なことをして)自分を喜ばせてはならない。 |
前田訳 | われら力あるものは力のないものの弱さを負うべきです。 |
新共同 | わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。 |
NIV | We who are strong ought to bear with the failings of the weak and not to please ourselves. |
註解: 若し信仰の自由に立ちて力強く行動し得るものが、その力に誇りて自らを喜ばせ他の力なき者が種種の弱点に苦しみつつあるのを顧みないならば、それは愛の法則に背ける行動である。
辞解
[強き者] 「力ある者」dunatoi で「力なきもの」 adunatoi の反対、信仰により自由に行動し得る力あるものを指す。パウロは自らをその中に数う。
[弱] asthenêmataで諸々の弱点、即ち律法に捉われる事、その他の肉の弱さ等。
[負ふべし] 「負うの負債あり」でロマ13:7と相対応す。
15章2節 おのおの
口語訳 | わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。 |
塚本訳 | わたし達各自は、(弱い)隣の人を喜ばせるように生きようではないか。彼の最善をはかり、(信仰を)造りあげるために。 |
前田訳 | 自らをよろこばせてはなりません。われらのめいめいが隣びとをよろこばせ、その善になり建設をはかるようにしましょう。 |
新共同 | おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。 |
NIV | Each of us should please his neighbor for his good, to build him up. |
註解: 己を喜ばす事の反対は隣人を喜ばす事、自己の信仰とその力に誇る事の反対は隣人のために善かれかしと思う事、自己の自由を自己の心の儘 に用いて他人を顧みざる事の反対は隣人の信仰を建て上げる事である。
15章3節 キリストだに
口語訳 | キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった。 |
塚本訳 | キリストすら御自分を喜ばせる御生涯ではなかったのであるから。むしろ(聖書に)書いてあるとおりであった、”あなたを罵る者の罵りが、わたしの上に落ちた”と。 |
前田訳 | キリストも自らをよろこばせはなさいませんでしたから。聖書にあるように、「あなたをののしるもののののしりがわが上に落ちた」のです。 |
新共同 | キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。 |
NIV | For even Christ did not please himself but, as it is written: "The insults of those who insult you have fallen on me." |
註解: 前節の薦めの最上の実例はキリストである。神の子として完全に己を喜ばすべき権利と力と価値とを有ち給うキリストすら、罪人の益と救の為に苦難の生涯を送り給うた。況 んや罪深き凡人に於て自己を喜ばせんとする如きは畏 多い事である。引用は詩69:9の七十人訳よりの引用で、義しきイスラエル人が神のために苦しむ事の詩であるが、これがその代表者とも云うべきキリストに於て最も完全に実現したのである。「汝」は神、「我」はキリストに相当す。そしてキリストは、世を救わんとして反って神を信ぜざる者神を謗 る者のために謗 られ給うた、尊き愛と犠牲の生涯である。
15章4節
口語訳 | これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。 |
塚本訳 | なぜなら、(聖書に)前に書かれたほどのことはみな、(後の時代の)わたし達の教訓のために書かれたもので、わたし達が聖書のあたえる忍耐と慰めとをもって、希望を持ちつづけるためである。 |
前田訳 | 前に書かれたことは皆われらの教えのために書かれたのです。それはわれらが聖書からの忍耐と慰めとをもって希望を持ちつづけるためです。 |
新共同 | かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。 |
NIV | For everything that was written in the past was written to teach us, so that through endurance and the encouragement of the Scriptures we might have hope. |
註解: 前半は一般的後半は前節と関連する特殊の場合である。旧約聖書の録されし目的は我らの教訓の為であり、殊に基督者の生涯は隣人の為に苦難を受くる生涯である故その中にありて希望を保つ為には、聖書によりて与えられる忍耐と慰安 とが必要である。
辞解
[聖書の忍耐と云々] 聖書が我らに与うる忍耐云々の意味。
15章5節
口語訳 | どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、 |
塚本訳 | この忍耐と慰めとを賜わる神が、キリスト・イエスの心を体してあなた達が互に思いを同じくするようにさせられんことを。 |
前田訳 | 忍耐と慰めの神が、あなた方を、キリスト・イエスに従って互いに思いを同じくするようお導きのほどを。 |
新共同 | 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、 |
NIV | May the God who gives endurance and encouragement give you a spirit of unity among yourselves as you follow Christ Jesus, |
註解: 神は前節にいう聖書の忍耐と慰安 との源である。信仰の兄弟の弱きを負うが為には神による忍耐と神よりの慰安 とを要し、神よりこの忍耐と慰安 とを受くる者はイエス・キリストに効 いて已を喜ばせず互に思を同じくして教会の霊的一致を来す事が出来る。互に高ぶる者、己を喜ばせんとする者は教会の一致の破壊者である。
辞解
[忍耐と慰安 の神] に就ては「平和の神」(ロマ15:33。ピリ4:9。Tテサ5:23。ヘブ13:20)。「望の神」(ロマ15:13)その他Uコリ1:3。Tペテ5:10参照。
[互に思を同じうし] ロマ12:16と異り相互に対しの意味ではなく相互間にの意味である。
15章6節 これ
口語訳 | こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。 |
塚本訳 | これはあなた達が心を一つにし、一つの口をもって、わたし達の主イエス・キリストの神また父をあがめるためである。 |
前田訳 | これはあなた方がひとつ心で、ひとつ口で、われらの主イエス・キリストの神また父に栄光を帰するためです。 |
新共同 | 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。 |
NIV | so that with one heart and mouth you may glorify the God and Father of our Lord Jesus Christ. |
註解: 同じ気持にて口をそろえて神に栄光を帰する事程美わしき光景はない。これは全教会の愛による一致によりてのみ実現する。力なき者の弱きを負う事は結局に於てこの一致に達するの結果となる。
要義 [基督者のコイノーニヤ] 基督者は互に他の重荷を分担し、苦楽を分担するの生活を為すべきである。これ愛の交り(コイノーニヤ)である(ガラ6:1以下)。殊に力ある者が力なきものの弱きを負う事は最も著しき基督教道徳であって、この苦痛を共にしつつ共に神より慰めを受くる事により、その処に何ものを以ても実現し得ざるが如き立派なる教会の一致が実現し、神に栄光を帰し奉るに至るのである。
15章7節
口語訳 | こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。 |
塚本訳 | このゆえに、キリストが(命をすてて)あなた達(みんな)を(神の聖なる家族の)仲間に入れ、神の栄光をあらわされたように、あなた達も互を仲間に入れなさい。 |
前田訳 | このゆえに、互いに受け入れなさい、キリストがあなた方を受け入れて神の栄光を現わされたように。 |
新共同 | だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。 |
NIV | Accept one another, then, just as Christ accepted you, in order to bring praise to God. |
註解: 如何なる場合に於てもキリストが我らの模範である。キリストさえ罪深き我らを容れ給いし以上、罪人同志なる我らが互に容 れるべきは当然である。自ら高ぶりて他を排斥する如きは有るべきではない。パウロの思想は本節以下に於て主としてユダヤ人と異邦人との関係に向けられている事は明らかである。
辞解
「この故にキリスト汝らを容 れて神の栄光を彰 し給ひし如く汝らも互に相容れよ」(B1、E0、I0、M0)と読むべしとする説が有力である。キリストの思想は神の栄光を彰 す所以となった。親和は神の栄光となり紛争は神を瀆 す。
15章8節 われ
口語訳 | わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、 |
塚本訳 | (キリストが神の栄光をあらわされたと)わたしの言う意味はこうである。──キリストは神の(救いの約束の)真実を証明するために、割礼のある者[ユダヤ人]の世話役になられた。これは、(一方では彼らの)先祖に与えられたその約束を確かにするためであり、 |
前田訳 | わたしはいいます、キリストが神の真実を示すために割礼あるものの奉仕人になられました、と。これは先祖たちの約束を確かにするためであり、 |
新共同 | わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、 |
NIV | For I tell you that Christ has become a servant of the Jews on behalf of God's truth, to confirm the promises made to the patriarchs |
15章9節 また
口語訳 | 異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、「それゆえ、わたしは、異邦人の中であなたにさんびをささげ、また、御名をほめ歌う」と書いてあるとおりである。 |
塚本訳 | 他方では、異教人が(彼によって神の家族の仲間入りができるという大なる)憐れみのゆえに、神をあがめるためである。(異教人の救いについては聖書に)書いてあるとおりである。“このためにわたしは異教人の中であなたを讃美し御名をほめ歌います。” |
前田訳 | 異邦人があわれみのゆえに神に栄光を帰するためです。聖書にあります、「このためにわたしは異邦人の間で神をたたえ、み名を讃めうたいます」と。 |
新共同 | 異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、/あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。 |
NIV | so that the Gentiles may glorify God for his mercy, as it is written: "Therefore I will praise you among the Gentiles; I will sing hymns to your name." |
註解: キリストはユダヤ人(割礼)と異邦人とを共に救い給う。故にこの両者は互に相容れなければならない。併しこの両者の間に或る差別はある。即ちキリストは先づ神の選民としてその約束によりて保たれしユダヤ人の役者として来り給うた(マタ20:28。マタ15:24)。かくしてキリストは一面ユダヤ人の先祖に与えられし約束を堅うしてその実現を確実にし、他面約束に与 与りなき異邦人をば約束によらず憐憫によりて救い、彼らをして神を崇むるに至らしめ給うた。かかるキリストを主と仰ぐ基督者は、ユダヤ人たると異邦人たるとにより相争うべきではない。
註解: 詩18:49の引用(Uサム22:50も同じ)。ダビデが諸方の敵を征服したる後、ヱホバにささげし讃歌である。パウロはダビデをキリストの型と見、キリストが異邦人を霊的に征服して神を讃美し給う事の預言と見た。
15章10節 また
口語訳 | また、こう言っている、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。 |
塚本訳 | さらに言う。“異教人よ、彼の民と共に楽しめ。” |
前田訳 | またいわれています、「異邦人よ、彼の民とともに楽しめ」と。 |
新共同 | また、/「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、 |
NIV | Again, it says, "Rejoice, O Gentiles, with his people." |
註解: 申32:43の七十人訳に近し。「主の民」はイスラエルを指す、異邦人も憐憫 によりて救われる故に約束によりて救われるイスラエルと共に喜ぶは当然である。
15章11節
口語訳 | また、「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。 |
塚本訳 | さらに。”すべての異教人よ、主をたたえよ、すべての民よ、彼を誉めたたえよ。” |
前田訳 | さらに、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民よ、彼を讃めよ」と。 |
新共同 | 更に、/「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。 |
NIV | And again, "Praise the Lord, all you Gentiles, and sing praises to him, all you peoples." |
註解: 詩117:1の七十人訳、エホバの憐憫 をうたえる詩(9節)。
15章12節
口語訳 | またイザヤは言っている、「エッサイの根から芽が出て、異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」。 |
塚本訳 | さらにイザヤは言う。“エッサイの根ははえ、起きあがる者[キリスト]があらわれる、異教人を支配するために。異教人は彼に望みをかけるであろう。” |
前田訳 | またイザヤはいいます、「エッサイの根ははえ、蹶起(けっき)者は異邦人を治めよう、異邦人は彼に望みを置こう」と。 |
新共同 | また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、/異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」 |
NIV | And again, Isaiah says, "The Root of Jesse will spring up, one who will arise to rule over the nations; the Gentiles will hope in him." |
註解: イザ11:10。七十人訳より引用(但し七十人訳はヘブル原典と差異あり)。エツサイはダビデの父。ダビデの子孫よりメシヤの生るべき事の預言。イスラエルのみならず異邦人も亦このメシヤを望み、次節の如き結果を生ずるに至る。
辞解
ヘブル原典は『その日エツサイの根たちてもろもろの民の旗となり』とあり、万民に仰がれるに至る事を意味す。以上三節は何れもメシヤ預言に関する旧約聖書の章節でパウロはこれらを読みつつその異邦人の使徒たる苦難と光栄とを想い回らしロマ15:4の如き言を発したのであろう。
15章13節
口語訳 | どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。 |
塚本訳 | 希望の源である神が、(彼を)信ずることにおいて来る無上の喜びと平安とであなた達を満たし、聖霊の力によって(豊かな)希望に溢れさせられんことを。 |
前田訳 | 希望の神が、信ずるという全きよろこびと平安とであなた方を満たし、聖霊の力であなた方を希望であふれさせたもうように。 |
新共同 | 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。 |
NIV | May the God of hope fill you with all joy and peace as you trust in him, so that you may overflow with hope by the power of the Holy Spirit. |
註解: 本来「望なく神なかりし異邦人」(エペ2:12)に取りて「希望の神」を信ずるに至らしめられし事は偉大なる変化であった。パウロがこの神に祈る処は喜悦と平安と希望とが基督者に豊ならん事である。苦難の中の喜悦と紛争なき平安とはキリストを信じ、彼に在りて他人の苦難を負うより来り、希望は聖霊の能力によりて来る。かくしてパウロは最後にロマの教会の内容をなすユダヤ人と異邦人との間の関係及びその神との関係を述べて教訓の部を終り次節以下に於て書簡の結尾をなす。
辞解
[信仰より出づる] 原語「信ずる事による」。
分類
5 結尾
15:14 - 16:27
5-(1)-(1) 私的通信
15:14 - 15:33
5-(1)-(1)-(イ) パウロの伝道者としての態度
15:14 - 15:21
註解: 本節以下は書簡の結尾で14-33節はこの書簡を
認 めし事情及びパウロの将来の計画を述ぶ。
15章14節 わが
口語訳 | さて、わたしの兄弟たちよ。あなたがた自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互に訓戒し合う力のあることを、わたしは堅く信じている。 |
塚本訳 | しかし、わたしの兄弟たちよ、(こんな訓戒がましいことを言うのは、あなた達のりっぱな信仰を知らないからではない。)このわたしはあなた達自身が善で一ぱいであり、あらゆる知識に満たされており、互を訓戒し合うことも出来る者であることを、確信している。 |
前田訳 | わが兄弟たちよ、わたし自身あなた方が善に満ち、あらゆる知識にあふれて互いに忠告する力もあることを確信しています。 |
新共同 | 兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。 |
NIV | I myself am convinced, my brothers, that you yourselves are full of goodness, complete in knowledge and competent to instruct one another. |
註解: 「この書簡を読まずとも汝らが相当の信仰的高さに達している事を自分は疑わない」との意味でパウロがロマの信徒の価値を充分に認めている事を示す。相手方を尊敬する事なしにこれを教訓する事は不可能である。
辞解
[われは] 原語「われ自らも」で「多くの人の信ずる如く」との意味を含む。
[汝らが自ら] 「汝ら自らも」で「我より教えられずとも」の意を含む。
[「善」と「知識」] 基督者に必要なる二要素で、善なき知識は悪用せられ知識なき善は誤用せらる。
15章15節 されど
口語訳 | しかし、わたしはあなたがたの記憶を新たにするために、ところどころ、かなり思いきって書いた。それは、神からわたしに賜わった恵みによって、書いたのである。 |
塚本訳 | ところが、(この手紙の)あちらこちらでだいぶ思い切って書いたのは、わたしが神から賜わった恩恵によって、(あなた達がすでに知っていることを)いま一度思いおこしてもらうためである。 |
前田訳 | しかしわたしは時として思い切った形でこの手紙を書きました。これは神からわたしに賜わった恩恵によって記憶を新たにしてもらうためです。 |
新共同 | 記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、 |
NIV | I have written you quite boldly on some points, as if to remind you of them again, because of the grace God gave me |
註解: パウロはこの書簡が彼と直接師弟の関係が無いロマの信者達の誇を傷けざらん為に謙遜の態度を示し、この書簡は新なる事を教えんとにあらず既に學びたる事を思出させん為のものなる事、又所々やや大胆無遠慮に書きたる事を告白している。但しかく云いたる後、彼は本節後半及次節に自己の使徒職を思いて自己の権威を主張する事を忘れなかった。
辞解
[ここかしこに] 「幾分」の意味に取り、「思い出させん為」を形容せしむる読方あれど(G1)本訳は通説である。
これ
15章16節
口語訳 | このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物とするためである。 |
塚本訳 | この恩恵とは、わたしが(神に選ばれて)異教人のためにキリスト・イエスにつかえる者になり、神の福音のために祭司の職をすることであって、こうして異教人が聖霊によって聖別され、御心にかなう捧げ物になるようにしているのである。 |
前田訳 | その恩恵とは、わたしが異邦人のためにキリスト・イエスに仕えるものとなり、神の福音のために祭司の役をつとめることでして、異邦人が聖霊によって聖められ、み心にかなうささげものになるためのものです。 |
新共同 | 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。 |
NIV | to be a minister of Christ Jesus to the Gentiles with the priestly duty of proclaiming the gospel of God, so that the Gentiles might become an offering acceptable to God, sanctified by the Holy Spirit. |
註解: 15節前半に於て謙遜なる態度を示せるパウロは、その後半及本節に於て彼の心に在る深き確信を吐露し謙遜の中に彼の偉大なる使命観を閃 かせている。即ち彼が大胆に書き送りし所以は、彼が神の恩恵により異邦人の使徒に任命せられているからであって、この使徒職は恰 も全世界を神の祭壇とせる祭司の働きの如きものである。即ちパウロはキリストの仕人 (祭司、牧師等の如き聖職の意。ロマ13:6参照)として神の福音を宣伝うる為の祭司となり、そのささぐる献物 は異邦人そのものである。而してこのささげものが聖霊によりて潔められて神の喜び給うものとならん事が、パウロの使命であり又念願であった。本書簡の認 められし所以はその処に在ったのである。
辞解
[「仕人 」「献物 」「祭司の職」] 皆比喩的に用いたのであって、パウロの使命の性質を示している。即ち異邦人を神にささぐる祭司であると云うのである。
15章17節 されば、われ
口語訳 | だから、わたしは神への奉仕については、キリスト・イエスにあって誇りうるのである。 |
塚本訳 | だからわたしは誇りをもっているが、それは(ただ)キリスト・イエスにおいて、神(の福音)に関してのことである。 |
前田訳 | それで、わたしはキリスト・イエスによって神に対しての誇りを持っています。 |
新共同 | そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。 |
NIV | Therefore I glory in Christ Jesus in my service to God. |
註解: 前節の如き職務を果せるパウロは、人間として別に誇るべきものが無いにしても、神に関する事柄につきては誇るべき点が充分にあり、誇ることが少しも疚 しい事でない。
辞解
[神の事] 「神に対する事柄」で神に仕え神の御前に神のために働く事、即ちパウロの使徒職を指す(ヘブ2:17。ヘブ5:1)。
[キリスト・イエスに在りて] 信仰によりて次節の如き働きを為しつつと云うに同じ、かかる誇は正しき誇である、肉の誇でないから。
15章18節
口語訳 | わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ、 |
塚本訳 | なぜなら、わたしは(これ以外)何も敢えて語らないからである、キリストがわたしを用いて異教人を(福音に)従順にするために、言葉や業をもって、 |
前田訳 | キリストがわたしを通じてはたらかれたことのほかには、わたしはあえて何もいいません。そのはたらきは、異邦人を従順にさせるためであり、ことばやわざにより、 |
新共同 | キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、 |
NIV | I will not venture to speak of anything except what Christ has accomplished through me in leading the Gentiles to obey God by what I have said and done-- |
15章19節 また
口語訳 | しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さったことの外には、あえて何も語ろうとは思わない。こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルリコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた。 |
塚本訳 | 奇跡や不思議の力によって、聖霊の力によって、働かれたということでなければ。こうしてエルサレムから、各地をまわってイルリコまで、わたしはキリストの福音(の伝道)を達成した。 |
前田訳 | 徴や不思議の力により、聖霊の力によるものでした。そのおかげでエルサレムから、各地をめぐってイルリコまで、わたしはキリストの福音を満たしました。 |
新共同 | また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。 |
NIV | by the power of signs and miracles, through the power of the Spirit. So from Jerusalem all the way around to Illyricum, I have fully proclaimed the gospel of Christ. |
註解: 前節の積極的叙述の消極的理由を示す(原文 gar あり)。パウロの語る所は極めて内輪で且つ信仰的である。自己の力や働きに誇るに非ずキリストにより動かされ、キリストがパウロを通して異邦人に対して働き給える事のみを語るに過ぎなかった、それにも関わらずパウロが偉大なる働きを為したる事は次に述ぶるが如くである。故に彼にはキリストにありて誇るべき充分の理由を持っていた。
辞解
[言葉] 「聖霊の能力」に対応
[業] 「徴と不思議との能力」に対応。「徴」と「不思議」との区別についてはヨハ4:48辞解参照。
エルサレムよりイルリコの[
註解: パウロの活動の両極を示し彼が如何に広汎の範囲に亙 って福音を宜伝せるかにつきて述ぶ。これ皆キリストに動かされて為せる彼の活動であった。
辞解
[イルリコ] マケドニヤの北でピリピ、テサロニケ等の都市の西北に当る地方。パウロがその地に入りしや又はその地の一歩手前迄到りし意味なりやは文字上では決定し得ず、使徒行伝にはこの地方に入りし記事は無い。大体の範囲を示せるものと見るべし。
[徧 く] kuklô は円周を意味し「エルサレム及びその周囲よりイルリコの地方に到るまで」と解する説(G1)と「エルサレムより曲線に進み、即ち迂回してイルリコに到るまで」と解する説とあり後者は旧き読み方なれど優っている(I0)。
[福音を充す] 福音の宣伝を隈 なく行き渡らしめし事。
15章20節
口語訳 | その際、わたしの切に望んだところは、他人の土台の上に建てることをしないで、キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることであった。 |
塚本訳 | ただしこの場合、キリストの御名がまだとなえられえていない所(だけ)で福音を伝えることを名誉とした。他人の(すえた)土台の上に(自分の事業を)建てないためであって、 |
前田訳 | このようにして、わたしはキリストのみ名のとなえられぬところで、福音を伝えることを名誉としました。それは他人の土台の上に建てないためで、 |
新共同 | このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。 |
NIV | It has always been my ambition to preach the gospel where Christ was not known, so that I would not be building on someone else's foundation. |
註解: パウロの独立心と聖き野心とをここに認める事が出来る。他人の伝道せる場所に於て伝道する事は難事ではない、凡て開拓者には最大の困難がある。
辞解
[努めて] philotimeomai 「かくする事を栄誉と思う」の意味即ち聖き野心、Uコリ5:9辞解參照。
[御名の稱 えられぬ処] 精確なる訳語にあらず。次節私訳参照。
尚「基礎を置く事「は使徒の職なる故「他人」は他の使徒を意味すと見るを可とす、パウロの弟子が基礎を置けるコロサイ、ロマ等に伝道する事を彼は実行した。
15章21節
口語訳 | すなわち、「彼のことを宣べ伝えられていなかった人々が見、聞いていなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりである。 |
塚本訳 | むしろ“彼について知らされなかった人たちは彼を見、聞かなかった人たちは悟るであろう。”と書いてあるとおり(に伝道したの)である。 |
前田訳 | むしろ、「彼について知らなかった人々が彼を見、聞かなかった人々が語ろう」と聖書にあるとおりです。 |
新共同 | 「彼のことを告げられていなかった人々が見、/聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。 |
NIV | Rather, as it is written: "Those who were not told about him will see, and those who have not heard will understand." |
註解: イザ52:15の七十人訳。ヱホバの僕メシヤに関する預言で王たち及び諸国民に関する言であるがここではこれを福音を宣伝えられてこれを信ずるに至れる基督者を指す。20、21節は次の如くに私訳して幾分原文の語勢に忠実となる。即ち「斯く我が福音を宣伝うるの野心を有するはキリストの御名の既に称 えられし処にはあらずして――これ他人の基礎の上に建てじとてなり――却って『未だ彼に就きて告げられざりし者は彼を見、いまだ聞かざりし者は悟るに至らん』と録されし如くせんためなり」。
要義1 [パウロの野心] パウロは他人の置 えたる基礎の上に建てず、自ら福音の基礎を世界の各地に置 えんとの野心を持っていた。他人の働きを利用しその収穫を盗み取らんとする如き事は彼には出来なかった。創業は常に困難である。而も彼の独創力とその使徒たる自覚は彼をして他人の労苦の上に安眠するを得ざらしめた。この聖き野心が福音の世界的伝播の原因となったのである。
要義2 [パウロの誇] パウロはキリストに用いられる事を唯一無上の誇としていた。「イエス・キリストの僕」なる語は奴隷たる恥辱が絶大の光栄として輝く彼の信仰の誇であった。換言すれば彼の誇は彼自身の誇ではなく主にあるの誇(Tコリ1:31)であり、キリストを誇る誇であった。かくしてパウロは自ら誇る事によりて神の栄光を顕わしたのである。神の役者たる者はかかる誇を有つべきである。福音を恥とし自己の使命を卑下するものは神を辱かしむる者である。
15章22節 この
口語訳 | こういうわけで、わたしはあなたがたの所に行くことを、たびたび妨げられてきた。 |
塚本訳 | この(ように、福音を伝えねばならない所がアジヤに残っていた)ため、わたしはまたあなた達の所に行くことを今までいつも妨げられていた。 |
前田訳 | このために、わたしはあなた方のところに行くことをたびたび妨げられていました。 |
新共同 | こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。 |
NIV | This is why I have often been hindered from coming to you. |
註解: 「この故に」は19節後半より21節までの事情を意味し、福音が伝わらなかった地方が沢山にあったのでロマ行が妨げられた事を意味する。
15章23節 されど
口語訳 | しかし今では、この地方にはもはや働く余地がなく、かつイスパニヤに赴く場合、あなたがたの所に行くことを、多年、熱望していたので、— |
塚本訳 | しかし今は、もはやこの地方に(働く)場所がなくなり、すでに長年あなた達の所に行く熱望があったので、 |
前田訳 | しかし今は、この地方にはたらき場所がなくなりました。すでに長年あなた方のところに行く熱望がありましたので、 |
新共同 | しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、 |
NIV | But now that there is no more place for me to work in these regions, and since I have been longing for many years to see you, |
15章24節 イスパニヤに
口語訳 | その途中あなたがたに会い、まず幾分でもわたしの願いがあなたがたによって満たされたら、あなたがたに送られてそこへ行くことを、望んでいるのである。 |
塚本訳 | (今度)イスパニヤに行くときに行こうと思う。(その途中ローマを)通過する際あなた達に会い、あなた達によってまず幾分でも(日ごろの願いが)満足させられたのち、あそこまで見送ってもらいたいと望んでいるからである。 |
前田訳 | イスパニアに行くときに行こうと思います。その道すがらあなた方にお会いし、あなた方によってまず幾分なりと心を満たされてから、あなた方にあそこまで送られたいと望んでいます。 |
新共同 | イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。 |
NIV | I plan to do so when I go to Spain. I hope to visit you while passing through and to have you assist me on my journey there, after I have enjoyed your company for a while. |
註解: 地の極とも考えられしイスパニヤ(今のスペイン、ポルトガル地方)に福音を伝うる事はパウロの大野心であり、その途次 、世界の都なるロマを訪う事は彼の年来の宿望であった。今は22節の妨げも除かれたことゆえ彼の計画は先づロマを訪いその多年の宿望を達して、十分とまでは行かずとも略 満足して後にロマの信徒に送られて、イスパニヤに行く事であった。
辞解
本節は原文の構成上種々の論あれどもここにはこれを略す。
[ほぼ意に満つる] ロマの信徒について不満足を覚えるであろうとの意味ではなく、彼らの許に滞在する事は如何に永くともこれで充分と云う時のなき事を意味する。
[汝らに送られ] 案内して貰う事及び旅費の寄増を受くる事等をも含めるものと見るべきである。使徒としてパウロはこれを当然の事と考えていた(他人の給与によりて自己の私生活を営む事を彼は極端に嫌ったけれども)。
15章25節 されど
口語訳 | しかし今の場合、聖徒たちに仕えるために、わたしはエルサレムに行こうとしている。 |
塚本訳 | ──しかし今(その前に、)聖徒たちの世話をするためエルサレムにのぼって行くのだ。 |
前田訳 | しかし今はエルサレムへ行って聖徒たちに仕えます。 |
新共同 | しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。 |
NIV | Now, however, I am on my way to Jerusalem in the service of the saints there. |
辞解
[されど今] 「やがてはロマに行くつもりであるが今は」との意。
[聖徒に事へん為に] 主なる写本には「聖徒に事えて」diakonôn とあり旅行そのものをも彼の奉仕の中に数えている。
[▲聖徒に事へる] 方法はマケドニヤとアカヤで醵金 をしてエルサレムの貧しい信徒に寄付することであった。26-28節、Tコリ16:1-4、Uコリ8:1-9:5参照。
[往かんとす] 現在動詞「往く」と訳すべきである。パウロは既にこの旅に出発しているかの如き心持でこの書簡を認 めている。
[聖徒] ロマ1:7。Tコリ1:2参照。
15章26節 マケドニアとアカヤとの
口語訳 | なぜなら、マケドニヤとアカヤとの人々は、エルサレムにおる聖徒の中の貧しい人々を援助することに賛成したからである。 |
塚本訳 | それは、マケドニヤ(州)とアカヤ(州)と(の兄弟たち)が、エルサレムの貧しい聖徒たちのためにいささか交わりのしるし(の醵金)をすることに決心した(ので、持参せねばならない)からである。 |
前田訳 | マケドニアとアカイアとがエルサレムの貧しい聖徒たちのためにいくらか交わりの徴をすることに同意したからです。 |
新共同 | マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。 |
NIV | For Macedonia and Achaia were pleased to make a contribution for the poor among the saints in Jerusalem. |
註解: 初代基督者の美わしき愛の関係を見る事が出来る。
辞解
[施與 ] 原語 koinônia で「交り」を意味し信徒間の苦楽の共有を指して言う。この語が施與 の意味にも用いられている事は甚だ適切である(ガラ6:6。Uコリ8:3)。
[幾許 かの] 金額及び方法に於て全く自由なる事を暗示している。
15章27節
口語訳 | たしかに、彼らは賛成した。しかし同時に、彼らはかの人々に負債がある。というのは、もし異邦人が彼らの霊の物にあずかったとすれば、肉の物をもって彼らに仕えるのは、当然だからである。 |
塚本訳 | ほんとうにこんな決心をしたのだが、異教人たちは彼ら(エルサレムの兄弟たち)に対して義務もある。なぜなら、異教人が彼らの霊的財産(の分配)にあずかった以上は、(当然)肉的財産をもって彼らにつかえねばならない。 |
前田訳 | 同意したのは異邦人がエルサレムの人々に義務もあるからです。それは、異邦人が彼らの霊のものを共にしたのならば、肉のものをもって彼らに仕える義務があるからです。 |
新共同 | 彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。 |
NIV | They were pleased to do it, and indeed they owe it to them. For if the Gentiles have shared in the Jews' spiritual blessings, they owe it to the Jews to share with them their material blessings. |
註解: マケドニヤ、アカヤの信徒は喜んでその施與 を実行した。又これは彼らの義務であって決して為さずともよい事ではない、異邦人はユダヤ人の基督者にその霊の賜物を負う以上、肉の物質を以てこれに報ゆべきである。この論法はロマ人にも適用し得る事であって、パウロはこの機会に彼らも何時かはかかる挙 に出づる事あらん事を間接にすすめて居り、少くともその教訓を与えていると見るべきである。
辞解
[與 り] koinôneô 前節の koinônia と同語源、前節辞解參照。
[事 ふ] leitourgeô を用い神に仕うる礼拝の意味に用うる場合が多い。卑 き者が高き者に仕うる事を云う。施與 は一種の礼拝であると云う如き心持を以て為さるべきである(Uコリ9:12辞解参照)。
[霊の物] キリストの福音とその教訓「肉の物」は衣食住の必要品。
15章28節 されば
口語訳 | そこでわたしは、この仕事を済ませて彼らにこの実を手渡した後、あなたがたの所をとおって、イスパニヤに行こうと思う。 |
塚本訳 | そこでわたしはこの世話をすませ、彼らにこの実を確かにわたしたのち、あなた達のところを通ってイスパニヤへ行こう。 |
前田訳 | そこでわたしはこれを済ませて、彼らにこの実を確かに渡してから、あなた方のところを経てイスパニアへ行きましょう。 |
新共同 | それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。 |
NIV | So after I have completed this task and have made sure that they have received this fruit, I will go to Spain and visit you on the way. |
15章29節 われ
口語訳 | そしてあなたがたの所に行く時には、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと、信じている。 |
塚本訳 | しかしあなた達の所に行くときは、キリストの満ちみちた祝福をもって行けるだろうと、わたしは信じている。 |
前田訳 | わたしは知っています、あなた方のところに行くときは、キリストの祝福に満ちて行くでしょうことを。 |
新共同 | そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。 |
NIV | I know that when I come to you, I will come in the full measure of the blessing of Christ. |
註解: エルサレムに於て聖徒に施す事はパウロの喜びであった。これを終った時の事を考えてその時には溢るる祝福が彼の上に降る事を思い、この祝福をもてロマに至らんとの熱き希望があった事を述べている。▲▲然るに事実はパウロはエルサレムで捕らわれ、カイザリヤで二年間幽囚の身となり、そこから囚徒としてローマに護送されたのであった。使22章以下参照。彼には既にこの予感があった。30、31節参照。
辞解
[この果を付して] 原語「この果を印して」であって、種種の意味に解せらる。ここでは「確に付して」の意ならん。
15章30節
口語訳 | 兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストにより、かつ御霊の愛によって、あなたがたにお願いする。どうか、共に力をつくして、わたしのために神に祈ってほしい。 |
塚本訳 | 兄弟たちよ、わたし達の主イエス・キリストを指して、また御霊が注いでくださる愛を指して、あなた達に願う。どうかわたしのために神に祈って、わたしを助けてもらいたい。 |
前田訳 | 兄弟たちよ、われらの主イエス・キリストによって、また、霊の愛によって、お願いします。わがために神に祈ってわたしを助けてください。 |
新共同 | 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、 |
NIV | I urge you, brothers, by our Lord Jesus Christ and by the love of the Spirit, to join me in my struggle by praying to God for me. |
15章31節 これユダヤにをる
口語訳 | すなわち、わたしがユダヤにおる不信の徒から救われ、そしてエルサレムに対するわたしの奉仕が聖徒たちに受けいれられるものとなるように、 |
塚本訳 | わたしがユダヤにいる信じようとしない人たちから守られ、エルサレムに対するわたしのこの務めが聖徒たちに喜ばれるように、 |
前田訳 | ユダヤの不信の人々からわたしが守られ、エルサレムのためのわたしのこの務めが、聖徒たちによろこばれますように。 |
新共同 | わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、 |
NIV | Pray that I may be rescued from the unbelievers in Judea and that my service in Jerusalem may be acceptable to the saints there, |
15章32節 かつ
口語訳 | また、神の御旨により、喜びをもってあなたがたの所に行き、共になぐさめ合うことができるように祈ってもらいたい。 |
塚本訳 | 神の御心により喜びに満ちてあなた達の所に行き、一しょに休息することができるように。 |
前田訳 | 神のみ心により、よろこびをもってあなた方のところに行き、ともに休みえますように。 |
新共同 | こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。 |
NIV | so that by God's will I may come to you with joy and together with you be refreshed. |
註解: この三節に於てパウロはロマの信徒がパウロの為に祈らん事を薦めている。而もパウロと共に祈の努力(相撲)をせん事を勧めているのは事の容易ならざる事を示している。即ちユダヤにいるパウロ反対の基督者及びユダヤ人たちの迫害を受くるのおそれがあった事がその一つ、又彼の奉仕がエルサレムの聖徒らの歓迎する処とならざらん事のおそれがその二つであり、パウロは先づこれらの困難を除かれん事を切に神に祈り、又ロマの兄弟たちにも彼と共に祈の戦を為すべき事を勧めた。而して次に神の御意によりてこの企画に成功しその歓喜を心にたたえつつロマに到る事を得ん事の祈を彼らに求めた、併し乍ら事志と違い、パウロは囚人としてロマに護送されるに至ったのである。使21章以下参照。
辞解
[御霊の愛] 御霊によりて心にいだく愛。
[力を尽して] 奮闘努力の貌で相撲をとる事を云う。祈は神との相撲である。
15章33節
口語訳 | どうか、平和の神があなたがた一同と共にいますように、アァメン。 |
塚本訳 | 平和の神があなた達一同と共においでになるように、アーメン。 |
前田訳 | 平和の神が皆さんとともにいましたもうように。アーメン。 |
新共同 | 平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。 |
NIV | The God of peace be with you all. Amen. |
註解: パウロは自己に及ぶべき困雖と争闘とを考えた為に殊に「平和の神」が慕わしくこの平和の神に対してロマ教会と共に在し給わん事を折った。
要義 [代祈又は共同の祈について] 他人の代りに祈り、又は他人と祈を共にする事は必要な事である。聖書によれば自分の為に信者に祈らん事を求めたのはパウロのみであるけれども、他の使徒たちも同様であったろうと思う。但しパウロは多くは自分の友人又は同輩として取扱っている教会に対してこれを求めて居り(エペ6:19、20。コロ4:3。Tテサ5:25。Uテサ3:1)、自分が親の如き心持でいた教会に対してはこれを依頼せず彼らが既にパウロの為に祈っているものとして取扱っている事は注意すべきである(Uコリ1:11。ピリ1:19。ピレ1:22)。パウロはかかる事柄につきても充分の礼儀を辨 え、且つ単なる口先だけの希望としてではなく心からの希望としてこれを述べている事がわかる。